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それは幽霊の行列。
一瞬にして着物は燃え落ち、手や顔や胸はふくれ、むらさき色の水ぶくれはやがて破れて、皮膚はぼろのようにたれさがった。
手をなかばあげてそれは幽霊の行列。
破れた皮を引きながら力つきて人々は倒れ、重なりあってうめき、死んでいったのでありました。
爆心地帯の地上の温度は六千度、爆心近くの石段に人の影が焼きついています。だが、その瞬間にその人のからだは、蒸発したのでしょうか。
飛んでしまったのでしょうか。爆心近くのことを語り伝える人はだれもいないのです。
死んで、こげただれた顔は見分けようもなく、声もひどくしわがれました。お互いに名乗りあってもじることはできないのです。
赤ん坊がたった一人で美しい膚のあどけない顔でねむっていました。母の胸に守られて生き残ったのでしょうか。せめてこの赤ん坊だけでも、むっくり起きて生きていってほしいのです。」






「火-第二部
ピカッ。青白く強い光。爆発、圧迫感、熱風ー天にも地にも人類がいまだかって味わったことのない衝撃。次の瞬間に火がついた。めらめらと燃えあがり、広漠たる廃墟の静寂を破って、ごうごうと燃えていったのでありました。
うつぶせて家の下敷きになったまま失心した人、気がついて抜け出ようとして、紅蔵の炎につつまれていった人。ガラスの破片がざっくりと腹につきささり、腕がとび、足がころがり、人々は倒れ、焼け死んでいきました。
倒れた柱の下敷きになり、子どもを抱いたまま、母親は逃れ出ようとあせりました。
「早く早く」
「もうだめです」
「子どもだけでも」
「いいえ、あなたこそ逃げてください。わたしはこの子と死にます。路頭にまよわすだけですから」
母と子は助け出そうとする人の手をふりきって、炎にのまれていきました。」



「水—第三部
足の方を外側にして、頭を中心にして、死体の山がありました。眼や口や昇がなるべく見えないように積み重ねてあったのです。
焼き忘れられた山の中から、まだ目玉を動かして、じっと見ている人がいました。本当にまだ生きていたのでしょうか。それともうじが入っていてそれで動いたのでしょうか。
水、水。
人々は水を求めてさまよいました。
燃える炎をのがれて、末期の水を求めてー傷ついた母と子は、川をつたって逃げました。水の深みに落ち込んだり、あわてて浅瀬へのぼり、走り、炎が川をつつんであれ狂う中を水に頭を冷やしながら、のがれのがれて、ようやくここまできたのです。乳をのませようとしてはじめて、わが子のこときれているのを知ったのです。
二十世紀の母子像。傷ついた母が子を抱いている。絶望の母子像ではないでしょうか。母子像というのは、希望の母と子でなければならないはずです。」

「乳をのませようとしてはじめて、わが子のこときれているのを知ったのです。
二十世紀の母子像。傷ついた母が子を抱いている。絶望の母子像ではないでしょうか。母子像というのは、希望の母と子でなければならないはずです。」

「足の方を外側にして、頭を中心にして、死体の山がありました。眼や口や昇がなるべく見えないように積み重ねてあったのです。
焼き忘れられた山の中から、まだ目玉を動かして、じっと見ている人がいました。本当にまだ生きていたのでしょうか。それともうじが入っていてそれで動いたのでしょうか。」


全裸のからだに軍靴と剣だけをつけた兵隊。手を折り、足をつぶした若い兵隊。病兵は、破れた皮膚に毛布をかぶって逃げまどいました。
音ひとつない、シーンと水を打ったような時間・・・気の狂った兵隊が天をさして、「飛行機だ、B29だ」と叫びつづける。どこにも飛行機の影はないのです。
傷ついた馬が、狂った馬たちがあばれまわるのでした。
日本を爆撃にきたアメリカの兵士が捕虜になって広島の兵舎に入れられていました。原爆は敵も味方もなく殺してしまいます。
二人の兵士は、手錠をはめられたまま、ドームわきの路上に倒れておりました。
上空高くまで吹きあげられた煙とほこりが、雲をよび、やがて大粒の雨となって、晴天のまっただなかに降りそそいだのでありました。
そして暗黒の空に虹が出ました。
七彩の虹がさんさんとかがやいたのでありました。」



「日本を爆撃にきたアメリカの兵士が捕虜になって広島の兵舎に入れられていました。原爆は敵も味方もなく殺してしまいます。
二人の兵士は、手錠をはめられたまま、ドームわきの路上に倒れておりました。」


「少年少女-第五部
流れに沿い、頭を並べて水をしたい、そうして累々とつらなり死んでおりました。末期の水は、川辺までたどりついてもまだずっと下の方でしたから、水ものまずに息を引きとったのです。
おとなたちの建物疎開の手伝いに子どもたちが動員されたのです。
ークラス全滅、というクラスがたくさんあります。
かわり果てた姿で抱きあっている姉と妹。
からだにかすり傷一つないのに死んでいった少女もあります。
この絵をみて、「わたしの娘はクラスでたった一人生き残ったのです。けれど手はひっついて内側へまがり、顔ものどもひっついてしまい、歩くことも出来ませんでした。からだは十三才のそのときのまま成長しないのです」と被爆した大工さんは話してくれました。」

「かわり果てた姿で抱きあっている姉と妹。
からだにかすり傷一つないのに死んでいった少女もあります。」

「流れに沿い、頭を並べて水をしたい、そうして累々とつらなり死んでおりました。末期の水は、川辺までたどりついてもまだずっと下の方でしたから、水ものまずに息を引きとったのです。
おとなたちの建物疎開の手伝いに子どもたちが動員されたのです。
ークラス全滅、というクラスがたくさんあります。」




「原子野 ー第六部
食べ物はなく、薬はなく、家は焼け、雨にたたかれ、電灯はなく、新聞はなく、ラジオはなく、医者もなく、
足や、傷ついた人にうじかわき、はえが群生してむらがり、音をたてて
飛びかっておりました。
死のにおいが風にのって流れました。人々のからだが傷つくだけでなく、心も深く傷つきました。
破れた皮膚をおおうことも忘れた人が、わが子を捜して歩いていました。
来る日も来る日もさまよっておりました。
広島は、今でも人の骨が地の中から出ることがあるのです。」



「竹やぶ -第七郎
人々は竹やぶへのがれました。
地震ではない、だが何でしょう。焼夷弾のかたまりでしょうか。爆弾にはちがいない、いや、殺人光線だ。なにしろ、ピカッとしてドーンとひびいたのです。いいえ、広島ではドーンは聞こえませんでした。あまりの大ききでしたから、ピカです。「ピカの時にゃ」と話します。
広島の郊外は竹やぶがたくさんありました。竹も片側が原爆でやけどをしていました。
家を先った人びとは、竹やぶへのがれていったのです。そうして次々と息を引きとっていました。
「助けてくれ」と叫ばれても、助ける勇気はなかったのです。もうこれ以上、わたしたちの家に収容しきれなかったのです。
三滝の橋の下は屍でいっぱいでした。その中に、年もわからず、男か女か。生きているらしいと思われる人がうずくまっていました。
八月二十六日の間、頭をおとして死んでいました。原爆が落ちたのは八月六日でしたから、二十日間、じっと耐えていたのです。屍の片づけをする人もなく、九月に入って台風となり、たくさんの屍たちは海へ流れ ていきました。」





「救出ー第八部
いつまでも火は燃えつづけておりました。
ようやく身よりの人を捜しては連れて帰りました。けれど、途中でこときれていきました。
配給があるというので行列がつづきました。乾パンを抱いたまま、娘は
死んでいきました。
わたくしたちの妹のむこの両親は、二人ともガラスの破片が全身にささっていました。足首もももも、同じ太さにはれていました。わたしたちのところに避難していましたが、長男のところへ連れて行くことになりました。荷車にのせて引いて行きました。爆心地を通って海田市まで行 きました。
しとしと、雨の降る日でした。原爆のあと、広島ではよく雨が降りました。八月というのに寒いような日が続きました。
本当は、「かあさんごめんなさい」といって逃げてきたんですと、泣いている人がいます。妻は夫を、夫は妻を、親は子を捨てて逃げまどわねばなりませんでした。
救出がはじまったのはしばらくしてからのことです。」















「この母子像も、 紙芝居「ちっちゃなこえ」
私は説明文だけ撮らせてもらいました。
「母子像-第11部
家の下敷きとなり、燃えさかる中を、親は子を捨て、子は親を捨て、夫は妻を、妻は夫を捨てて逃げまどわねばなりませんでした。
それがほんとうの原爆の時の姿なのです。
だが、そうした中で不思議な事に母親が子どもをしっかりと抱いて、母は死んでいるのに子どもが生きているという、そんな姿をたくさん見ま した。」































































































































































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