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先月だったか‥最近色々と気になるのでみてもらえないかと、数年前に鑑定した人が依頼してきたので、資料を持って久しぶりに会った。今年はさほど問題の有る年回りではないのだが、何が気になるのだろうか?と思いながら再会した。色々伺って‥それなりにアドバイスしたのだが‥。気になるのが1年半後の運勢である。夫の運勢をみると色々なことが起こってくる年で、妻の運勢がそれに翻弄される運勢と出ているのだ。いやいやこれは、今年色々気になるのは1年半後の前触れか?でもこうやって早めに何か問題が浮上してくるのは、実は有難い話しなのである。問題の年に起こってくるとしたら、事が大きくなり過ぎてしまい、場合によっては取り返しのつかない状態になるかもしれない。 人間の感情のもつれも、急にひどい状態になるわけでない。病気だっていきなり病気になるわけでなく、日々の積み重ねである。 さらに言えば、悪い年に悪いことが急に起こるわけでない。日々の積み重ねが、問題の年に浮上するだけである。良い年だって、その前までに良い種を蒔いていなければ良いことが起こるだろう年に、さほど大きな喜びもなく終わってしまうことにもなりかねないのだ。だから前触れに気づくことは重要である。そして気づくことが出来るのは、天に愛されている証拠だと思う。「とにかく1年半後までに、気になることは清算しておくこと」そう言って別れた。1ヶ月たってお礼のメールがきた。どうやら旦那様が、簡単な手術をするらしい。痛くないからと医者で検査をするのを渋っていた旦那様を、奥様が説き伏せて検査をさせたところ、気になるところに問題が‥。医者曰く、今は問題がないが数年後に問題になるから、今の内に取り除いたほうが良いということらしい。手術も簡単で、2、3日の入院で済むということだった。こういうお礼のメールをいただくと、占い師をやっていて良かったなぁ~と、つくづく思う。「しっかり休養をとるよう、旦那様にお伝えくださいね」そうメールを返して、私は幸せな気持ちで一杯になった。
2013年08月31日
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私のレイキの生徒さんで、最近整体を勉強し始めた人が居る。整体の先生と良い縁が有ったようで、楽しく勉強しているようだ。新しいことを覚えるのは、大変な面もあるけれど、好奇心のほうが勝つのでワクワクする。彼女のブログを読むと、私と同じ気持ちのようだ。そうこうしていたら面白いもので、私にも整体をやっている人と縁が出来た。こういう繋がりが、目に見えない世界での繋がりだと思う。しかも経営者で、多分私より歳が上かなぁ~と思った。こういう縁も出来るようで出来ない。特に私は整体に行かないので、中々縁が生まれない。お話しを伺っていると、整体教室もされているようで、生徒さんもいらっしゃるようである。その生徒さんの話しになって、またまた面白い繋がりが有り、見えない世界が仕組むことの凄さというか巧妙さを、感じざるを得なかった。「こうやって人と人とは、出会っていくんだなぁ‥」ほんに「縁は異なもの味なもの」である。‥って、男女の縁じゃないけどね。これもホームページを立ち上げていたり、ブログを続けているお陰だ。パソコンやインターネットが無ければ出会わない?今だからこそ生まれる繋がりである。まぁでも、見えない世界がすることなので、出会いが必要だと思えばあの手この手で、様々な手段を使って、出会いを演出することだろうと思う。とにもかくにも、出会いに感謝である。
2013年08月29日
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私の会社が入っているビルの1階に公衆電話が有ったのだが、それが撤去されてしまった。元々は2台有って、その内の1台が撤去された時は、いつのまに?という感じだったのだが、今回は目の前で撤去していったので、ついじっと見てしまった。2台有った場所だから、なんとも間が抜けた空間が残ってしまった。それでも時間がたてばその空間も、きっと普通に感じるのだろう。随分お世話になったのだが、携帯電話がこれだけ普及した昨今、この公衆電話を使っている人は、さっぱり見かけなくなった。昔は随分便利だと思ったものだが、今では誰も必要としなくなった。これも時代の流れなのだろうが、寂しいことである。撤去した壁に、業者が張り紙をしていった。「撤去した日にちでも書いていってるのだろうか?」と思いながら、その張り紙を読んでみた。するとそこには親切に、ここから近い所にある公衆電話の場所が、2ヶ所明記してあった。「全部無くなってしまうんじゃないよ」その張り紙が、まるで私に語りかけているように感じた。災害が有った時、公衆電話はその威力を発揮する。だから全部が全部無くなるわけではないだろうけれど、身近に有ったものが減っていくのは寂しいものである。そうだね、自分と重ね合わせてしまっているのかもしれない。今の自分が、世の中に必要でないと思われているような‥。でも、全部無くなるんじゃないもんね。私の一部分は、まだまだこの世で必要とされていると思っていたい。
2013年08月27日
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意識していないものは認識していない。NLPで簡単な問題を出してそのことを実証する。まぁそうだ、人間は見ているようで見ていないし、聞いているようで聞いていない。必要か不要かを、無意識の内に判断しているのだ。名古屋駅前でコインパーキング式駐輪場が拡大している。駅前は取引銀行に行ったり、業者に書類を届けたりしているから、頻繁に通る道である。だから、「また駐輪場を作るんだなぁ~」という感じで見ている。コインパーキング式なら、大掛かりな工事にならないし、歩道の一角を使うだけだから、場所もそんなに必要無い。あちらこちらで、ちょこちょこ工事しているから、知らないうちに駐輪場が増えているという感じである。なので「多いなぁ~」という認識にならないのだ。よくよく考えてみれば、駅前から離れたところまで有るのだから、駐輪場が拡大されているのは一目瞭然である。でも、増やしているのが少しずつであることが、拡大しているという私の認識能力を衰えさせている。先日、久しぶりに駅裏を通った。そして驚いたのが、コインパーキング式の駐輪場が、ずらりと並んでいたことである。「いつのまに!‥しかもこんなに広範囲に出来ているの?」突然目の前に現れて、それが奥のほうまで並んでいる駐輪場を見て、私はびっくりしてしまったのだ。記憶している風景と現実の風景の差が、私に驚きを与えた。あまりの差に、意識せざるを得ない状況になったのだ。駅前と駅裏とで、同じことが繰り広げられているのに、私が受けた驚きには、大きな差が有った。何気ない毎日の風景を、もっと気持ちを込めて眺めたのなら、毎日がもっと煌めいてこの目に映るのではないだろうか?感動の毎日にするか否かは、私たちの気持ちにかかっている。毎日しっかりと周りを認識しながら、見つめて歩きたいものである。
2013年08月25日
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夢の解釈で必要な一つに、「私はどういう理由で夢を見なければならないか?」を考えることだと言う。夢を見るということには、それなりの意味が存在する。見ることで、見た本人に知らせたいことがあるわけである。何故知らせたいのか?生きている私たちが、より良い人生を歩むためだったり、そこには警告が含まれていたり、或いは成長を促したりと、夢にも色々な意味が含まれているのだ。間違いの無いところで、夢は私たちの味方であること。夢を通して何らかの方向性を指し示してくれている。ならば、こちらからお願いすれば良いではないか。アドバイスをください‥と。寝る前に、自分が教えて欲しいことを考えながら寝る。具体的に「こういう問題が有るのだが、アドバイスが欲しい」と願いつつ眠りに入ることである。そうすれば見た夢には、どんな意味があるかが分かるはずである。だって、自分の欲しいアドバイスの答えなのだから‥。向こうの世界には時間も空間も無い。共有している集合無意識の世界である。そこは私の考えるちっぽけな世界でなく、無限に広がる世界だ。知識も知恵も、無限に蓄積されて広がる世界。 だからきっとそこで、的確で必要な情報が得られることだろう。夢を通して知らされることには、私たちには考えも及ばない解答が有るだろうと思う。貪欲にアドバイスを求めて、気楽に生きることができ、楽しいものにしてしまいたい。
2013年08月23日
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ケイシーの勉強会は東山動物園の近くでするのだが、この暑さで動物園へ行く人の数は減っていた。そうだよねぇ、炎天下で遊ぶことになるのだから‥。「水族館のほうが賑わっているんじゃない?」仲間が言った一言だったが、確かにこの暑さを考えると、親の選択としては水族館になることだろう。季節が良いと動物の鳴き声も聞こえてくるが、流石にこの暑さでは、動物もうんざりして声すら出さないようだ。今回聖書講座は、旧約聖書の創世記第5章~13章を勉強した。その中で、ノアの箱舟とバベルの塔の話しが載っているのだが、皆さんも名前位は聞いたことがあるのではないだろうか?とりわけノアの箱舟は有名だからご存じだろうが、これは地球上に残される生き物を選別して残す話しである。神(宇宙)はそれをノアに託したのだが、何故ノアだったのか?それはノアがとても従順だったからである。神(宇宙)の指示は随分細かいところまで有って、しかも突拍子もない指示だった。誰がこんな面倒臭くて奇奇怪怪な指示を、不平不満一つ言わないで引き受けるだろうか?時間を費やし周りには笑われながらも、指示通りやり続けるという素直さ、従順さ‥、それを神(宇宙)は評価したのである。 そして地球上に残るのは、ノアの如く素直な人たちだった。動物も植物もありとあらゆるものが、対で残された。 繁殖していくようにと、対で選ばれていったのだ。そして150日間の洪水。私たちが霊の存在であるということを忘れ去ってしまった時、神(宇宙)は地球の浄化をするのである。私たちは魂を忘れていないだろうか?体が朽ちれば全ては無だなどと思ってはいないよね?私たちは決してノアの箱舟の時のような過ちを犯してはいけない。未来を背負うこれからの子供たちのためにも‥決して。
2013年08月21日
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体は何かしらの信号を出して、常に私たちに注意を促している。ちょっとした違和感を覚えたら、体に目や耳を傾けてみる。私はどうも左足に重心を置くクセが治らない。信号が青になるまで立っている時、バス停でバスを待っている時、いつの間にか左足に重心を置いて立っている。カバンは右に掛けたり左に掛けたりと、ある程度時間がたつと移し替えているのだが、足だけはすぐ忘れてしまい、左に体重を掛けてしまうのだ。だからスポーツセンターで自転車をこいでいても、左右の足への当たりが違うので、違和感が有り変に疲れてしまう。こういうクセは、自分がしっかり意識しないと治らない。ぼーっとしていると、クセに支配されてしまう。ふと左の手足を見ると、皮膚が荒れているのが目に留まる。右のほうは手も足も問題無いのに、左側の皮膚だけが荒れているのだ。目を閉じて、体全体にレイキを送ってみた。案の定、レイキは左側に多く送られていく。本当にレイキは良く知っているよ。体の何処がエネルギーを必要としているかをさぁ~。暫くレイキを流していると、荒れている皮膚の赤味が薄くなっていく。とはいえこの現象も、体が私に気づいてほしいことがあって、訴えていることを忘れてはいけない。バランスは大切である。歩いていてバランスを失えば倒れざるをえない。同じように、左右のバランスが崩れているとしたら、何らかの異常が起こってくるだろう。教えてくれる体に感謝して、少しでも矯正していく努力をしていきたい。
2013年08月19日
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それは身障者に関する夢だった。身障者が私ではなかったのだが、二人の身障者が夢に出てきたと思う。かなり長い時間見ていた夢で、場面も二転三転していった。起きて、大半は忘れてしまったのだが、それでも記憶に残っていた部分も有った。でも、それを書き留めようという気持ちにならなかったのだ。どういうことだろう‥、どうして書き留めようとしなかったのか‥。もやもやとした想いが有って、書くのを嫌がっていた。考えたのだが‥私の過去世で身障者に対して嫌な記憶が残っていて、それを同時に思い出すことを避けていたのかもしれない。こんなに書き残すことに抵抗があるなんて、自分でもびっくりである。だって、夢を覚えていることができただけで嬉しいはずだというのに、それを拒否するのだから‥。 自分の反応に自分で驚くわけだから、心は未知数である。こういうマイナスの反応をする自分を取り除けば、私にはもっと可能性が広がるのではないだろうか? そうはいっても、このもやもや感。まるで晴れない霧が、ずーっと周りに横たわっているようだ。もっともっと自分の無意識の領域に踏み込んで、自分という人間を良く知る必要があると思った。良く知ることで、可能性を秘めたまだ見ぬ自分の存在に、出会っていけるだろうと思う。
2013年08月17日
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毎度ながらお盆に会社へ行くと、通勤だけで疲れてしまう。というのもお盆が休みという会社が多いからだが、バスは日曜(休日)扱いとなって、極端に本数が減ってしまうからである。特に市バスはその差が歴然で、平日と日曜(休日)では、運用台数が天と地ほどの差になる。平日の7時台は11本有るのに対して、日曜(休日)は2本なのだから、その差に驚くのは私だけではないだろう。まぁ有難いことに、名鉄バスの本数はそんなに極端に減らない。だからまだ安心できるが、車内は混雑していて息をするのもままならない。私たちはまだ通勤で慣れているが、いつも乗り慣れていない乗客は戸惑ってしまうことだろう。小学校に入る少し前位の男の子とお母さんが乗ってきたのだが、見るからに子供が可哀想だった。男の子の視線は大人に遮られて、周りが全く見えなかったに違いない。 大きな壁に周りを取り囲まれてしまったみたいで、不安な気持ちだったのではないだろうか。途中、乗客が地下鉄に乗り換えるために降りていかなければ、きっと最後には泣き出していたに違いない。でもまぁ乗れるだけでも有難い話しである。満員のために通過されるバス停も有り、乗れない人も何人か出てくる。そういう人たちを考えたら、乗れるだけで感謝である。さて、それも13日~15日のお盆の間だけである。16日はまだお盆休みの会社が有るだろうから、通常より空いているはずである。せめて一日だけでも、楽しい通勤にしたいところである。
2013年08月15日
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私は結構気配りができているほうだと思っているのだけど、バスの中でもっと気配りができる人を見て、私なんかまだまだだなぁ~と思った。その人は自分の降りるバス停に気がつかずにいたようである。バスがそのバス停をほんの少し離れて、前方の信号によって止まった。その時その人は、ようやく自分が降りる停留場を過ぎてしまったことに気がついたようである。慌てて運転手さんに、「すみません、降りられますか?」と駆け寄った。運転手さんは右に切ったハンドルを左に切り直し、バスを歩道へと寄せた。信号が変わらなかったことと、バス停を離れた距離が短かったことで、この人の願いは叶ったことになる。私も長い人生の中にはこういう状況になったこともあり、ほとんどは言い出すことなく、次のバス停まで乗っていくのだが、稀に同じ立場になって運転手さんにお願いしたことがある。その時「すみません、ありがとうございました」と、運転手さんにお礼を言って降りていく。この人も勿論お礼を言って降りていったのだが、違ったのは、運転手さんにむかってお礼を言った後、私たちのほうに向きなおり、しっかり頭を下げて、私たちにもお詫びとお礼を言ったことだった。そう、確かに迷惑をかけたのは運転手さんに対してだけではない。その人の為に他の乗客も足止めされたわけだから、他の乗客にも迷惑はかかっている。だから迷惑をかけた私たちにも、お詫びとお礼を言うべきなのだ。だがこんな当たり前のことなのに、私は気がついていなかった。この人がとった行動を見て、以前の自分がとった行動が不完全だと気がついたのだ。しかもこの人は私たちにむかって、深々と頭を下げたのだ。できることではないと思うし、素晴らしいと思った。私は久々に感動を覚えたし、自分の配慮の足りなさも感じた。見習うべきことは世の中にまだまだあると、改めて思うのだった。
2013年08月13日
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人間は無意識(集合無意識)の世界で繋がっている。物質世界でない見えない世界で、魂同士が繋がっているのである。でも物質世界では、魂の繋がりを感じないでいることが殆どである。だからこそ余計に寂しさを感じてしまうと思うのだ。例えば隣りに友達が居ても、話す内容があまりに掛け離れていた場合、話しが弾まずに黙ってしまった経験は無いだろうか?肌は触れそうに近いというのに、その友が遠くに居るような錯覚に陥らないだろうか?集団であればあるほど、寂しさが増してしまう‥。何故? それは魂の深いところで繋がっているからである。魂レベルでは繋がっているのに、目の前の人と繋がっていない。それが寂しさを倍増させるのである。一人でいる時の孤独と、集団で居る時の孤独とでは全く違う。一人でいる時は、一人でいる楽しさも手伝って良い空間になる事もあるが、集団でいて一人を感じる時は、その空間が苦しいものになってしまう。私は一人で居るのが好きである。その背景に有る感情は、集団の寂しさを感じる事を恐れている、というのも一理有るかもしれない。周りとかみ合わない部分が、一人を好んでしまう。自分の好きなことをしていたいわけで、まぁ基本、私は私が大好きだということなのだが‥。じゃぁ何故、人と関わる仕事をしているのかというと‥。さぁねぇ~、どうしてだろうねぇ~。やっぱり何だかんだと言っても、自分同様人も大好きなんだろうなぁ‥私。自分を思いっきり好きなのと同様に、人も大好きなんだと思う。私がもう少し世間並みであることが、私と人とを繋げることなのだと思う。「早く人間になりた~ぃ!」って、妖怪人間かぁ~私は! (~_~;)
2013年08月10日
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何と戦ったかというと、自分の中にある二つの心と戦ったのである。体調が悪い体を前にして、労働を要求する心と、体の望みを叶えさせたい心が戦ったのである。全く可笑しな話しで、体調が悪ければ横になれば良いだけなのだが、それに対して心が葛藤しているのである。気になることって存在する。その一方で全く気にならないこともある。無視できることと、無視できないことがあるのだ。例えば、私は掃除を手抜きしても問題視しない。ほこりで人間死にはしないと思っているからだ。でも、庭の草が生茂っていると気になって仕方がない。そのままにしておくことが出来ないのである。だけどよくよく考えたら、庭の草が生茂っていたとしても、それで人間が死ぬはずがないわけで、掃除同様に無視すれば良いはずである。しかしこれを説き伏せるのが大変だった。まぁ思うに、対外的にはきちんとしておきたいという心が働いているのだと思う。それに家の外観がきちんとしていないと、泥棒や放火犯の標的にもなる。そういう可能性も避けたいと思っているのだ。体を無視した心の声を説き伏せるのに、一杯自分の心に話しかけた。体調が悪い体での作業は、もっと大きな体調不良を呼ぶかもしれない‥とか。もう少ししたら休みなのだから、その時やろうよ‥とか。一生懸命自分を説き伏せて、生茂った草を放っておくことにした。全く面倒くさい私である。もっとスムーズにいかないものかと、溜め息をついている。
2013年08月08日
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久しぶり‥3年ぶりだった。連絡いただいた時に近況を少しだけ伺ったのだが、短時間で聞いただけでも、びっくりするほど色々な事があったようである。ふと自分も、3年という期間で振り返ってみると、人のことは言えないほど、色々なことが起こっていることに気がつく。仕事のこと、健康のこと、家族のこと‥。3年前と今とでは、確実に違っている。私一人とってみても、様々なことが起こってきたのだから、人間の数ほど人は悩み、苦しみ、選択してきているのだろう。「現状を上手く話せない」という彼女も、心の整理がつかないことが、きっと言葉の混乱を生んでしまっているのだと思う。人は、経験したことが無いことが次々に降りかかってくるとパニックを起こしてしまって現状を受け入れられなくなる。どうしよう‥と立ち尽くしてしまうのだ。事実を事実だけ受け入れるのではなく、不安や恐怖が手伝って、事実とは違う思考に走ってしまう。有りもしないマイナスの考え方が、頭一杯に支配してしまうのだ。不安や恐怖はプラスで増えていかない、倍数の増え方になる。頭の中が、不安や恐怖で埋め尽くされてしまうのだ。元々はそんなに莫大な悩みでもないのに、倍々で増えていってしまっているから、収拾がつかなくなって、元の大きさが分からなくなってしまうのだと思う。それらを元々有った一つ一つに分けていき、分けた一つ一つを解きほぐしていく。そして、それぞれに必要な解釈や解答をしていけば、不安や恐怖は無くなっていく。私たちはついつい起こってきた出来事に尾ひれをつけてしまう。尾ひれをつけて、結局は自分の首を絞めてしまうのだ。難しいことかもしれないが、悩みが起こってきたら、できるだけシンプルに捉えて対処していこう。それが解決への近道のように思う。
2013年08月06日
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じっと寝たままでいると、前の記憶が蘇ってくる。へぇ~、面白いものだなぁ~。見た夢は、友人との約束事だった。私は仕事をしていて、友人との約束の場所に中々行かないでいる。友人から電話がかかってきて「いつ来るのか?」と言われ、「今行く」と答えている。「差し入れを持ってきて欲しい」と言われ、何処で買おうか考える。私は待ち合わせ場所を聞いたのだが、友人に怒られてしまった。というのも、前に聞いていたはずだからである。私はあまり気が無くて、場所をメモしていなかったのだ。そして出かけるのだが、案の定待ち合わせ場所がわからずウロウロする。その時の私はカバンでなく大小の紙袋を持っていった。それをなぜかその辺りにおいて、その場を離れてしまったのだ。ちらっと見て紙袋が有ることを確認するが、次の瞬間、大小の紙袋は無くなっていた。慌ててその辺りを探すが、もう戻ってはこなかった。携帯や占いで使うもの等々、大切なものを全て無くしてしまった。‥ここで目が覚めた。横に置いてあるノートに、今の夢を走り書きして、そのまま寝た姿勢で夢を振り返ってみる。友人はNLPで今一緒に勉強している人である。彼女とは良い関係で、決して会うことを拒んでいない。友達として修正しなければならない関係では、決してないのだ。だから彼女は夢の話しの内容とは別で登場したと思う。きっと私のためのメッセンジャーだったのだと思う。ではこの夢のメッセージは?多分‥私の行動へのお叱りではないだろうかと思う。私の場合外への興味が、学ぶことに偏っている。学びに関係が無いことへの行動は、億劫になってしまうのだ。家にいて、家のことをしたり本を読んだりテレビを見たりしていたい。わざわざ出かけていくのが面倒くさい、と思ってしまうのである。多分、それに対しての警告。そんなことばかりしていたら、大切なものを失うよ!という警告。そうなんだよねぇ‥、私の考え方は偏っているんだよねぇ‥。もっと広い視野を持って、気楽に行動を起こさないと。(-_-)/~~~ピシー!ピシー! ‥‥頑張ります。
2013年08月02日
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