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さて、まさか善通寺が?の続編です。来年、四国霊場は「四国遍路開創1200年」で騒いでいます。ちなみに弘仁6年(815年)弘法大師42歳の開創説については以前に検証しました。弘法大師の弘仁6年は以下の通り。1、正月10日、陸奥守として赴任する小野岑守へ選別の詩を贈る2、春から夏にかけて、密教経典流伝のため、甲斐、武蔵、上野、下野、日立などの東国へ弟子を派遣。3、西国筑紫へも経典書写の勧進4、10月15日、式部省の丞、笠仲守の先父の周忌の願文を撰す。5、この頃『弁顕密二教論』を撰述。結構忙しいのです(*^_^*)四国へ渡るとしたらいつなんだろう?この記述が正しいとしたら、夏から秋ぐらいですかね?仮に開創されたとして、実際にお大師さんが歩いて廻られたらどれくらい掛ったか?江戸時代の東海道が500キロ弱で13日から15日。平安時代の四国へんろ道ならば、東海道よりはるかに整備されていないので倍くらいはかかりそう。四国遍路は1400キロぐらいですから、70日~90日ぐらいかかりそう。(*^_^*)京都ー大阪間は2日、四国へ渡るのに1日四国霊場をどこに決めるか揉めた伝説もあることを考えたら京都から出かけたら、少なくとも100日~120日ぐらいは掛りそうですね(*^_^*)大々的に宣伝はしているものの、このあたりを突っ込まれたらどう返答するんでしょう?ちなみに、先日の出雲旅行でも添乗員さんからこんなことを聞かれました。「よく、四国霊場ってお大師さんが本当に作ったんですか?って 聞かれるんですが、私は違うと思うんですよね」「それはそうでしょう」「大体、『四国開創1200年』って宣伝していますけど そんなに簡単にお寺出来るんですか?」「いえ、お大師さんが作ったわけではないでしょう」「でも、弘法大師が開基のお寺結構ないですか?」「そういえばそうですね・・・」実際、四国霊場の縁起には大きな矛盾がある。現在の四国霊場の縁起と350年ぐらい前の「霊場記」(最初の四国遍路のガイドブック)を比較したら一目瞭然(*^_^*)それどころか、現在の札所が確定したのは、なんと昭和4年なのだ!それは極端な例としても、明治初期につぶれていたお寺は少なくない。『四国霊場開創1200年』(ただし一部寺院、中には開創84年のお寺もある)という宣伝ならば嘘では無い。でもインパクトが小さい(*^_^*)さて、それはさておき開創1200年の記念法要を善通寺でするのはどうなんですかね?今回の事件ではトカゲの尻尾切りみたいに、問題になった途端責任者を解雇していますがそれでいいのでしょうか?僧侶養成道場で暴力事件を起こした善通寺で『四国開創1200年記念法要』資金運用問題で多額の損失を出した高野山で『高野山開創1200年記念事業』どちらも記念事業で浮かれていて足元を救われたと言えなくもない気がします。さて、善通寺・高野山は置いといて、実は5年後に1200年を迎える事業があるんですね。それこそ『般若心経写経1200年』現在でも広く行われている般若心経の写経は嵯峨天皇が始められたんですが、それから1200年経ったということです。平成30年にその嵯峨天皇の写経が60年ぶりに開封されます。主催はもちろん大覚寺(*^^)v浮かれるなということですね!
2013年10月31日
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ちょっと忙しかったので知らなかったのですがこんなニュースがありました。総本山善通寺で指導役僧侶が修行僧に暴行、2週間のけが~~~~~以下引用~~~~香川県善通寺市の真言宗善通寺派の総本山善通寺で、20代の男性修行僧が、指導役の40代の男性僧侶から修行中に暴行を受けて2週間のけがを負ったとして、香川県警に被害届を出した。僧侶は謹慎中という。同寺によると、被害者の男性は10月中旬の数日間、寺の道場で修行中、僧侶から殴られたり蹴られたりして2週間のけがをしたという。僧侶は「修行中の態度が悪かった」と説明したという。男性は9月上旬に奈良県から寺を訪れ、3カ月の予定で修行中だった。2013年10月29日10時48分 朝日新聞~~~~~以上引用~~~~別の新聞ではこんな感じです。脇腹蹴り後頭部たたく…修行僧に指導役が暴行 空海生誕の善通寺 ~~~~~以下引用~~~~真言宗開祖の空海の生誕地とされる香川県善通寺市の善通寺で、修行中だった僧侶の男性(23)が約20日間にわたり、指導役の僧侶から一方的に暴力を受けてけがをしたとして、善通寺署へ被害届を提出した寮の責任者も務める指導役の僧侶は10月に入ると、男性が自ら修行中断を申し出て寺を離れるまでのほぼ毎日、行動が遅いなどの理由で脇腹を蹴ったほか木札で後頭部を何度もたたくなどして、あばら骨が折れたり、打撲したりするけがをさせた。指導役の僧侶は以前、別の修行僧を暴行していたが、この修行僧が寺を出た後、男性が被害を受けるようになった。善通寺のより年長の僧侶は、指導役の僧侶に「それ以上したら捕まるぞ」などと注意。一緒に寮生活した複数の僧侶も状況を認識していたが、止めなかったという。善通寺側は男性に謝罪し、指導役の僧侶はすでに解雇したとしている。2013年10月29日 09:14 スポニチ~~~~~以上引用~~~~はっきり言って『まさか善通寺が』というのが本音です。以前に禅宗の修行専門道場でも暴行事件が起きています。ですから今回の事件で真言宗道場でも同じか?と思われた方も多いかもしれません。ただ、カリキュラム上では真言宗寺院では禅宗寺院より暴行事件は起きにくい土壌があるんですね。禅宗寺院では長い方は専門道場で複数年修行することも珍しく無く、そういう意味では体育会系みたいな感じです。日本軍の規律自体が禅宗の僧堂(修行道場)をモデルにしたとも言われています。一方、真言宗の修行道場では一年間の横並び。私の記憶では指導教官による暴力も無かったとは言わないですが、教育的体罰の範囲???怪我をする様なレベルでは無いし、通算して一部の人間に1~2回あったという程度。ちなみに、物凄くえらそうな寮監がいたんですが、たまたま卒業後に町であいました。相手がどんな反応を示すかと思ったんですが、私と眼があった途端いきなり近づいてきて「お疲れ様です」と恐ろしく低姿勢で挨拶されたのには驚いた(@_@;)80人の修行僧がいて真言宗では最も厳しいと言われる高野山専修学院でもそんな感じでした。とはいえ、それは十数年前の話です。最近は修行道場の入堂にも親がついてくるのが当たり前厳しくするとみんなやめてしまうのではないかと言われ情けない話ですが段々緩くなっているのが現状。まして、メジャーな真言宗の修行道場の中でも、観光寺院の中にあるため比較的修行がしやすいと言われ、規律も緩いと考えられていたのが問題が起きた善通寺の道場。何しろ、他の道場では厳しいので『善通寺で修行を』というイメージが四国ではあっただけに『まさか善通寺が』という驚きは隠せないですね。>ほぼ毎日、行動が遅いなどの理由で脇腹を蹴ったほか>木札で後頭部を何度もたたくなどして、あばら骨が折れたり、>打撲したりするけがをさせた。体罰で問題になった高校でもそうですが、ここまで来るともはやただの暴力です。>善通寺のより年長の僧侶は、指導役の僧侶に>「それ以上したら捕まるぞ」などと注意。こういう言い訳を聞いていると、善通寺は「四国遍路開創1200年」という幻に踊らされて呆けていたのではないか?と疑いたくなります。皆さんいかがでしょう?
2013年10月31日
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さて、出雲大社の参拝が終わった後、隣の島根県立古代出雲歴史博物館を見学に行ってきました。目玉は10分の1スケールの出雲の空中神殿。実際、模型を目の前にすると、10分の1とはいえ迫力に圧倒されます。延々と続く階段の先に高さ16丈(48メートル)の宮中神殿。実物が存在したら、高さ200メートルを超える超高層建造物が存在する現代日本にあってもとんでもない迫力でしょう。まして古代人ならどれだけ驚いたか?伝説ではさらに高く、当初は32丈(96メートル)あったとも言いますが、さすがに木造で100メートル近い建物は無理。一方、高さ48メートルの建物が実在したかどうかについては結構諸説があるようで、建築家の間でももっと低かったという説があるようです。ここの博物館には、その建築家たちの模型も合わせて50分の一スケールで展示してあります。ちょっと館内の学芸員さんに聞いてみた。「こんな巨大な建物をなんのために建てたんですかね?」「いや~・・・」「それにこの建物の工事は本当にできたんですかね?」「その辺りはなんとも・・・」ピラミッドや満濃池、仁徳天皇陵などのシュミレーションで有名な大林組が出雲大社の空中宮殿についても検討しています。季刊大林 古代出雲大社本殿の復元柱の太さがなんと3メートル、長さが39メートル。真ん中の柱に至っては3.6メートルの太さで45メートル(@_@;)何本かまとめたとはいえ、こんな巨大な柱を建てるだけでも大変。真ん中の柱の自重は235トン、周りの柱でも195トン(@_@;)博物館で柱をこうやって建てるみたいなCGがあったんですがこの柱建てるのに何人で引っ張ったんだ???どちらかというと、東大寺大仏殿のほうが大きいのですが下から順番に作るので建てやすいような気が・・・この柱の上に宮殿を建てるだと?また、この宮殿のたどり着くまでの階段が170段で109メートル登って行くだけで怖いですね。それに最上部の神殿の一辺は12メートル。なんか見るからに物凄くバランスが悪くないか?風でも地震でもすぐに倒れそう。実際、大林組の試算でもそう書かれています。さすがに7度倒れたそうですね。(*^_^*)しかし、何故、何度も倒れた建物を再建したのか?それも日本最高の建造物にこだわっている。ここに出雲大社最大の謎が隠されているような気がしますが残念ながらその答えはありません。むしろ、その答えが長い年月で失われたからこそ、空中神殿が作られなくなり、地に足のついた?現実的な建物に替えられてしまったように思えてなりません。皆さんいかがですか?
2013年10月20日
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さて、台風が関東を直撃する頃、徳島では既に雨が上がっており出雲へ向けて出発しました。中国山地を超える頃までは、曇りが続いていましたが超えた途端、いきなりの雨模様(;一_一)しかし、これが幸いしました。台風と悪天候により、出雲大社は想像以上に空いています。とはいえ、境内は人であふれていますが、参拝に時間待ちということはありません。また、参拝者のマナーも伏見稲荷ほどひどくはありません。病、弘法、欲、稲荷旗を持った案内人があちこちにいますから、その人たちの指導の賜物でしょうか?(*^_^*)さて、出雲大社には日本最古の銅の鳥居があります。案内人さんが「毛利元就の孫が寄進した」と説明されました。毛利元就の孫???毛利輝元???案内人さんに聞くと、毛利輝元だそうです。なんで、そういわないのだろう?「毛利輝元は馬鹿殿で有名だからですか?」「いえ、そういう訳ではないですが、毛利元就のほうが有名なので・・・」何しろ毛利輝元は、関ヶ原戦いの西軍の総大将。関ヶ原で西軍は負けたとはいえ、毛利本隊は無傷で残った。さらに、毛利の当主である輝元は大阪城で秀頼の守をしています。豊臣秀頼を擁して大坂城にあった以上、毛利秀元や立花宗茂は大坂城に籠城しての徹底抗戦を主張したのは当然。篭城戦が行われた場合は秀頼に対して矢をつがえることを躊躇する諸将が離反し、家康が一転窮地に陥る可能性もある。何しろ、先の石山合戦では毛利の補給で10年落ちず、後の大阪冬の陣では籠っているのが「浪人」だけでも落とせず和議。そこに籠っているのは秀頼擁する毛利本隊。当然、制海権も補給路も確保。責める側は豊臣恩顧の大名。日本史上最も有利な状況での籠城戦。負けるはずのない戦い。むしろ危険なのは領国から遠く離れ、味方側の敵との内通を心配しなが攻めなければならない徳川家康。実際の戦闘など行われるはずも無く、放っておけば有利な条件で和議が成立する。その立場をみすみす捨てて、のこのこ開城したために120万石から37万石に減らされたのが毛利輝元。ちょっと言いにくいですかね?(*^_^*)本題と外れましたが、出雲大社本殿の前で参拝しますが・・・パワースポットというイメージは無いですね(*^_^*)人が多過ぎるからでしょうか?さて、今回「平成の大遷宮」ということで、神様に拝殿に移っていただき、再び本殿に帰っていただいたということですが・・・えっ?神様に拝殿に移っていただいた? だと???それはイカンザキ。折角封じている大国主を外へ出してどうする?もうひとつ、本殿前で「朱印」を受けられるんですが・・・書き手が一人しかいない(@_@;)15人ぐらい並んでいますよ。「朱印」が欲しいんですか、引率している立場上貰えない(;一_一)せめて書き手を二人にして欲しい。
2013年10月19日
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一昨日、出雲へ向かいました。目指すは出雲大社。冗談で「出雲へ行ってみたい」と恒例の地蔵講で切りだしたところ参拝団のメンバーから「行きたい」という希望がありましたので企画しました。いつものバス会社に打診したところ・・・「えっ、出雲へ行くんですか?」「ええ」「今年は出雲大社は平成の大遷宮で大変です。 参拝に1時間半待ちとかあります」「そうですか、ではやめます」「いえ、平日なら30分待ちぐらいかも」「いや~年配の人が多いですからね、来年にします」「そんなに掛らないかもしれません」なんとか勧めようとするバス会社(*^_^*)「では一応待ち時間があるということで企画しますが 集まらなかったらキャンセルでいいですか?」「結構です」ということで出雲行きを計画。逆説のおっさん井沢元彦の説によると1、出雲はなぜ「いづも」と読むのか?元は「雲が出る」という意味の「出雲」に「いづも」という当て字をした。「いつ」は「厳」であり「も」-「もの」-「もののけ」つまりは「いづも」-「厳かな霊」という意味になる。それになぜ「雲」という当て時をしたのか?「雲」はすなわち「霊魂の象徴」であり一方で「アマテラス(太陽)を隠すもの」が「雲」であり「死の象徴」でもある。その昔は高貴な人が亡くなることを「雲隠れ」といった。2、大国主の国譲り天照大御神ら高天原にいた神々は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし、何人かの神を出雲に使わした。最初に使わそうとした「あめのほしおみみ」は葦原中国は大変騒がしく、手に負えないと断念。次に使わした「あめのほひ」は大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻らなかった。と取り込まれるその次に使わした「あめのわかひこ」に至っては、大国主の娘と結婚し、自分が葦原中国の王になろうとして八年たっても高天原に戻らなかった。ついには「たけみかずち」を使わした。「たけみかずち」は出雲国伊那佐に降り至って、とつかのつるぎを抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。伊那佐というのは否(いな)然(さ)つまりはイエスかノーかを問うたのである。大国主神は、自分の前に息子の事代主神に訊ねるよう言った。事代主神は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って(呪う)その中に隠れた。建御名方神は力競べをして負け、州羽の海(諏訪湖)まで逃げ出した。「たけみかずち」は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねた。大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。」と国を譲った。3、国譲りの謎大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。武力抵抗せず降伏したことになっている。でもそんなことがあるんだろうか?実際は滅ぼした話を、国譲りの話として美化したのではないか?4、大国主は冥界の神出雲大社の公式ページによると「だいこくさま」、すなわち大国主大神さまは、幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)とも称されます。幽冥(かくりよ)とは、神の世界のことで、人々の亡くなった後の霊魂が帰る世界でもあります。この幽冥は我々の世界からは見ることのできない世界でありますが、大国主大神は、幽冥主宰大神として、この幽冥をおさめられ、人々の霊魂をもおさめられる神さまです。5、雲太、和二、京三出雲太郎(出雲大社)大和次郎(東大寺大仏殿)京都三郎(京都大極殿)出雲大社はかつては十六丈(48m)あり、日本最大の建築物であった。これは奇怪なことである。為政者の宮殿よりも、国教の大聖堂よりも、天皇家に負けた大国主の神殿のほうが大きい。常識ではありえない。6、出雲大社の配地本殿は南向き、大国主は東側に配置され「何故か」西を向いている。一方、南向きに配置されているのは御客座五神である。これはいったい何を意味するのか?つまり、参拝者がお参りしているのは大国主ではなく、脇神なのである。一方で出雲大社の神主である出雲国造は「なんと」アマテラスの子孫つまり、天皇家の親類である。つまり、為政者の弟を代々「滅ぼした王を祀るために」置いたのである。7、出雲大社の特異性しめ縄が普通の神社とは逆柏手は4回打つー死に通じる。これは死の世界を意味しているのではないか?8、結論大国主は国譲りなどではなく、大和朝廷に激しい恨みを持ちながら国を奪われた。その大国主を封じて、鎮魂のために造られた建物が出雲大社である。長々と逆説のおっさんの説を書いたんですが、これは是非、出雲に行って見ねばなるまい。
2013年10月18日
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今日は暑かったですね。徳島でも29.7度を記録しました。しかし、全国的にはもっとすごいです。静岡県 天竜 34.1 を最高に岐阜県 金山 32.3 まで9位までが10月の一位を更新(@_@;)暑い、絶対に暑い!しかし、徳島の記録を見てビックリ。過去の10月の最高気温は 33.4 10位の記録が 30.2結構暑いやないか!でも・・・温暖化したと言われる2000年以降の記録は一つもありません(*^_^*)昔の徳島の10月は暑かった?皆さんどう思いますか?
2013年10月02日
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