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なんで『タイタンの戦い』なんだ? アメリカ版特撮の神様レイ・ハリーハウゼンの代表作といえば、『シンドバッド7回目の航海(1958)』でしょう。『アルゴ探検隊の大冒険(1963)』でしょう。 2本とも、驚異的なクリーチャーがつぎつぎに登場し、主人公たちと大バトルを繰り広げる。特に『アルゴ探検隊の大冒険』は、我が心の重要な映画だ。青銅の魔人タロス、怪鳥ハービー、七首竜ヒドラ、そしてガイコツ戦士との集団剣劇と、それらは子供心を激しくシェイクし、心の内に秘めた特撮魂を大噴火させる誘因となった一本だからだ。 『シンドバッド7回目の航海』は、一つ目巨人や双頭のロック鳥などのクリーチャーを雑誌の写真で知り、見たくてたまらなかったが、実際に映画を見ることができたのは大人になってから。『恐竜の島(1975)』と二本立てのリバイバルだった。 そんなこんなで思い入れたっぷりに旧作の『タイタンの戦い』を見た。 ハリーハウゼンの特撮は、クリーチャーやモンスターなどの人形を少しずつ動かして映像化するストップモーション・アニメーションの技法を使っている。 旧作『タイタンの戦い』が公開された当時は、新たな特殊撮影技術を駆使した『スター・ウォーズ(1977)』が映画界を席巻していた。それに対して、ハリーハウゼンは、自らの信じるテクニックで果敢に新勢力に挑んでいった。確かインタビューで「まだまだ『スター・ウォーズ』には負けはせん」と語り、意気軒昂だったことを覚えている。 これはプロレスにおいて、必殺技の連発、ハイスパート・レスリングの全盛時代に、ボディスラム一発でフォールを取りにいくレスリングを展開するようなもの。 できあがった『タイタンの戦い』を見てどうだったかというと、確かに天馬ペガサス、双頭の狼ディオスキュロス、頭髪が蛇の妖女メデューサ、メデューサの血から生まれる大サソリ、大海獣クラーケンなど、いつもながらのクリーチャーの楽しさはあった。しかし、こちらとしては『7回目の航海』や『アルゴ』のような興奮を期待していたが、夢よもう一度というわけにはいかなかった。 悲しいかな旧作『タイタンの戦い』は、レイ・ハリーハウゼンのラスト・ムービーとなってしまっている、今のところ。まだご存命であられるから。だから、なんで『タイタンの戦い』なんだ? そうした旧作に対する思いを抱きながら見た新作『タイタンの戦い』だが、これは思ったよりよかった。 まず、主人公ペルセウスを徹底的にヒーローとして描いたところが小気味よい。神と人間のハーフとして生まれたペルセウスだが、「神の力は使わない」と意地を張る。なかなか根性があるじゃないか。 さらに、蛇女メデューサの首を刈りに行くときに、同行してくれた仲間に対して発する言葉が泣かせる。「今まで尊敬する男は父一人だった」何を言い出すのだペルセウスは。こんなときに父の思い出話か?そして続く一言は「でも、今は4人増えた」だった。これはじつに重みがある。泣かせる。言われた男たちは、意気に感じるぞ。 そして、クラーケンがアルゴスの街で大暴れする中、メデューサの首を掲げて駆け付けるペルセウス。ピンチに登場して人々を救う、これぞヒーローだ。 そのクラーケンの雄姿は、下から煽るようなカメラワークでモンスターの巨大感を表現して、じつに心地よかった。 けど、クラーケンの造型は、旧作の方がまだよかった。欧米人が忌み嫌うイカタコをベースとし、頭部は嘴のある猿みたいで独特なクリーチャーだった。今回のクラーケンは、『バイオハザード(2002)』に出てきたリッカーみたいで最近ありがちな顔立ちだった。もうちょっと個性を主張するデザインにできなかったのか。 それにしても気の毒なのは妖女メデューサだ。魔物にはちがいないのだろうが、今回のストーリーでは、別に誰かに危害を及ぼすようなことはしていない。むしろペルセウスたちの方が、クラーケン退治にメデューサを利用するために一方的に攻めてきたのだ。クラーケンが暴れ回るようなことがなければ、悪しき存在でもとりあえずは放置されたまま生きながらえただろうに。 しかしながら、新作『タイタンの戦い』を監督したルイ・レテリエも、旧作『タイタンの戦い』を見て衝撃を受け、レイ・ハリーハウゼンを尊敬しているという。リメイクをきっかけに、映画史のメインストリームではなく、CG技術に凌駕されたストップモーションアニメが、伝説として語り継がれるのはいいことだ。
May 3, 2010
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『カルティキ』はイタリア製のモンスター映画。 ゴジラとかガメラなどという迫力、重量感のある怪獣の名前に慣らされているから「カルティキ」から強大なモンスターを想像するのはちょっと難がある。文字を読まずに音だけ聞いたら「え?サルキチ(猿吉)」と聞き直してしまいそう。 確かに、カルティキはゴジラやガメラのように目を光らせ牙を剥く怪獣ではない。ぶよぶよした不定形モンスターだ。日本の似たようなモンスターでは、例えばバルンガってのがいるけど、このネーミングだって迫力と重量感があるよね。 イタリア人にとってカルティキは、モンスターらしい響きを感じるのかもしれない。 名前もさることながら、モンスターも目を光らせ牙を剥くタイプが好みである。カルティキのようなアメーバ状不定形モンスターは、造形的に手抜きに見えてしまう。ただの塊だから。 それでも『マックイーンの絶対の危機(ピンチ)(1958)』は、子供心に圧倒された。ブロブと呼ばれる液体状モンスターがドアの隙間を通り抜けて迫りくるその動きや、なんでもかんでも飲み込んで巨大化する姿にモンスター映画の醍醐味を感じた。 モンスターはあり得ないほど強くなくてはならない。当然ブロブに銃弾などは通用しない。ブロブをいかに撃退するか、その方法も奇抜で十分納得した。 で、カルティキだ。カルティキは、不定形モンスターとして、布袋状のものを膨らませて動かしているのだろうか、巨大化する以前の初期段階のカルティキはボロ雑巾に見える。 映画の雰囲気からは、モンスター映画らしい謎と期待感をもたせた展開でいい感じなのだが、ボロ雑巾が出てきてはいささか気分が削がれる。 しかし、ボロ雑巾が次第に大きくなって人を襲い、包み込んだ後は白骨化させてしまうあたりからなかなか凄味が出てきた。さらに屋敷を包み込むまでに成長し、軍隊の攻撃を受けるあたりは堂々とした巨大モンスターだ。目を光らせ、牙を剥くことはなくても。 そして、カルティキはいかにして倒されるのか。 怪獣映画のパターンとしては、怪獣の弱点を突く新兵器を登場させることがよくある。無敵の怪獣をやっつけるのだから、通常の兵器ではなく新兵器を用いるのは説得力を感じる。常識的にはありえない生物に対して、特別製の新兵器で攻撃する展開にはわくわくする。 でも、カルティキ退治に新兵器は出てこない。人間は、通常の兵器で闘う。では、通常の兵器でどうやって説得力をもたせたのか。 ここではネタバレをしません。通常兵器は何で、どう闘ったのか。それは、映画を見てのお楽しみ。 ヒントは、藤波辰巳対エル・ソリタリオ戦(1981年9月23日 田園コロシアム)だ。 この試合、藤波のフィニッシュ・ホールドはブレーン・バスターだった。ブレーン・バスターは、アントニオ猪木が一撃必殺の決め技としていた。ブレーン・バスターは動きが大きくて見栄えがいい技なので、その後続々と使い手が増え、誰でもがブレーン・バスターを持ち技のひとつとし、そうこうするうちに決め技としての輝きや威力を失い、つなぎの見せ技に墜ちてしまった、残念。 しかし、この試合で藤波は、ブレーン・バスターの連発により勝負を決めた。つまり、一発では見せ技にしかならないが、何発も続けてブレーン・バスターをお見舞いすることによりみごと決め技として復活させたのだ。何回も使える手ではないが。 これと同じで、対カルティキ戦も、通常の兵器を使いながらも、これでもかこれでもかと波状攻撃を続けることで、カルティエの強さを損なうことなく立派に撃退してみせたのだ。 カルティエはフランスの宝石、高級時計のブランド。カルティキはイタリアの不定形モンスター。もとはマヤ文明の破壊神との設定。
April 25, 2010
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スーパーナチュラルな映画のアングルは、見るものを白けさせてはいけない。 荒唐無稽な話であるほど、見る者が納得するアングルが必要だ。 原因不明の怪事件発生、その元凶は、驚くべきことに、巨大アリだった。なぜ巨大アリが出現したのか、襲い来る巨大アリをいかに撃退するか。 そこまでの流れが、じつに堅実に語られていく。 とりわけ、忽然と現れた小さな女の子が、印象深い。彼女は、茫然自失、無表情、失語症の様相を呈している。一体何があったのか、どんな恐ろしいものを見たのかと期待を煽る。(この少女は、後に姿を変えて『空の大怪獣ラドン(1956)』に引き継がれる) そうして、雰囲気が盛り上がってきたところで、いよいよ巨大アリの登場となる。 アリは自分の体重の何倍もの重さを動かすことができ、さらに強靱な顎をもつているとのこと。ごく微細な存在だからいいようなものの、そんな生物が体長数メートルに巨大化したらとてつもなく脅威となるとの想定のモンスター。 さて、このギミック、特撮は、着ぐるみでもストップモーションの人形アニメでもない。機械仕掛けの巨大アリを何体も作って撮影している。これは迫力がある。いわゆるトリック撮影という概念ではなく、実物大モデルをセットに据えて、人と同じフレームにおさめるのだから。 まああえて難を言えば、動きが限定的でシンプルなことと固定的で全身を駆使しないことか。かつて特撮少年だった頃にこの映画を見たときに、モンスターの大きさに迫力を味わいつつも、もちっと自然な動作ができるといいな、と思ったものだ、生意気にも。 けれど、大人になった今、見直してみると、この映画が巨大モンスター映画の基礎基本を形成していることが分かった。安定したストーリー展開であるのだが、何よりも荒唐無稽な内容について自信をもって語っているところがすばらしい。 スーパーナチュラルな映画は、弱気にならずに堂々と見せてくれ。多少アングルがぶれても。 『怪力アント(1965)』は小さなままで大きなパワーを発揮したスーパーヒーローだった。
March 27, 2010
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『世界終末の序曲』のギミック、登場するモンスターは「巨大イナゴ」である。 DVDのパッケージには、牙を剥き出しにした怪物のイラストが描かれている。もちろん、本物のイナゴはそんな形相はしていない。いたってのんきな顔立ちだ。 のんきな顔立ちのイナゴ。この映画の特徴は、着ぐるみでもなく、ストップモーションでもなく、もちろん当時CGなんてものはない。目が離れたのんき顔した本物のイナゴちゃんを映画の中で巨大に映して合成し、モンスターに仕立てたのだ。 監督はミスターBIGと呼ばれたバート・I・ゴードン(Bert.I.Gordon)。イナゴだけでなく、ヒト、クモ、ネズミ、アリ等が巨大化する映画を作りまくったヒト。 アングルは、放射能を使って巨大化した野菜を食べたイナゴが自らも巨大化してシカゴを襲う、というもの。 冒頭、車の中で愛の営みに忙しいアベック(カップル)。女の方がふと目を開けたとき、そこには信じられないものが。女の視線に気づいた男も、そちらを見て驚愕の表情になる。 なんという素敵な出だしだこと。 さらに、警官が捜索に向かうと、そこには大破した自動車が。一体何があったのか。 じつにモンスターへの期待が膨らむ段取りだ。 しかしながら、問題はモンスターとしての巨大イナゴだ。 イナゴって、実物は3~4cmくらいのものでしょ。それを映画の中ではビルの1フロアの天井を突き抜けるようなサイズに拡大してあるのだ。拡大率が大きいので、画像がクリアではない。ぼやけていたり、合成が透けて見えたりする。 さらに、イナゴは演技ができない。ただそこにいて蠢くだけ。 同じような技法に、トカゲ特撮がある。これは、本物のトカゲやワニにツノや背びれなどを装飾して恐竜に見立てて撮影し、画面上では人間との合成で恐竜のように大きく見せるのである。 『紀元前100万年(1940)』はトカゲ特撮が用いられている。トカゲ同士でお互いに争ったり、あるいは自分の頭上より岩石が落下してくれば痛がったりするから(動物虐待?)、それなりに演出がほどこせる。 でも、本物のイナゴは、まったく喜怒哀楽が表出されません。人間を襲う場面では、「ギャー」と叫ぶ人間と淡々と歩みを進める拡大イナゴちゃんとに落差があるから、想像力を駆使して見ることになる。「うわっ、巨大化したイナゴの襲撃だ、恐いぞ」と。もちろん、とかげやワニだって、ヒトとからむ演技はできない。 そもそもどうしてイナゴをモンスターにしようと思ったのだろうか。カマキリやクモなら、そのまんまでも不気味な容貌だから、でかくすればモンスターらしく見える。だから、カマキリ怪獣、クモ怪獣というのはけっこう映画に登場する。しかし、イナゴ怪獣は本作だけ。 実際のイナゴは、蝗害と呼ばれるように、ときとして大量発生して、移動しながらすべての植物を短時間に根こそぎ食いつしてしまう。そこには、確かにイナゴは恐い虫だというイメージがある。だからモンスターにしようと考えたのだろう。 『世界終末の序曲』では、巨大イナゴが複数姿を見せる(大群ではない)。しかし、画面には、1匹ずつ映ることが多い。巨大化させてしまえば、群れに埋没させるよりも個のイナゴを見せたくなるのが人情。技術的にも、巨大イナゴを大群で活躍させることなどできなかった―映画の中では「(巨大イナゴが)数百より多い」とのセリフがあるけど。 大群として見れば怖いが、個々にみればのんき顔。そこに、誤算があったようだね。 今の技術なら、巨大イナゴの大群をスクリーンに映し出せるでしょう。だれかでつくってみるかなぁ、リメイク版『世界終末の序曲』。おもしろいかどうか知らないけど。 イナゴの佃煮って、食べたことある?
March 21, 2010
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ジャンク映画を扱き下ろすのであれば、A級映画を見ればいいじゃないか。 プロレスを八百長とけなすのであれば、ほかのルールに則ったスポーツを見ればいいのと同じように。 ジャンク映画は、金もない、時間もない、才能もない、のないないづくしでつくっている。あるものといえば、どっかのA級映画からの流用だ。 もちろんA級映画にもあたりはずれはある。A級映画が必ずおもしろくて感動的なわけではない。 では、ジャンク映画はどうかというと、はずれの方が圧倒的に多いのだ。 はずれが多いジャンク映画で、A級映画にはない味を楽しむというのは、物好きにすぎない、のは分かっている。 「ジュラシック・プラネット」は、テンポがゆるいし、セリフはピント外れだし、最後まで見るのが辛い映画の一本だった。 肝心の恐竜が、しょぼい。周囲の情景から完全に浮き上がっている。 我が心の恐竜映画は「SF最後の海底巨獣(1960)」だが、そこに登場したストップ・モーションの恐竜より、「ジュラシック・プラネット」の恐竜はチープな感じがしちゃうよ。 他の映画の流用としては、「エイリアン2(1986)」だ。ある惑星からのSOS信号をキャッチして、特殊精鋭部隊が救出に向かうという設定がそもそも「エイリアン2」を想起させる。また、迫りくるエイリアンの群れをセンサー(レーダー)でキャッチするが、「ジュラシック・プラネット」でも、襲ってくる恐竜たちをセンサーで確認していた。それと、地下に恐竜の広大な巣があるところも。 しかし、ここでまたほかの映画ではお目にかかれないもの、おそらく「ジュラシック・プラネット」でなければ成し遂げられない偉業を発見した。 登場する恐竜はヴェロキラプトルの軍団のみだったが、途中恐竜界のスーパースター、ティラノサウルスがようやく顔を見せる。強靭巨大な顎で、特殊精鋭部隊の兵士を噛み砕いてしまう。 おお、これでこそ恐竜の惑星。ヴェロキラプトルは前座の露払いで、いよいよメインイベンター=ティラノサウルスが大暴れか、と期待したら、次のカットで他の精鋭部隊からの銃撃を受ける恐竜がヴェロキラプトル!? さっきまでいたティラノサウルスはどこへ消えちゃったの。今いるヴェロキラプトルはどこから現れたの。 言いてみれば、一頭のライオンがシマウマを襲い、つぎのカットでハンターに撃たれたのはチータというようなものだ。 なんと臆面もない構成だこと。ほかではできません。 この場面だけで、「ジュラシック・プラネット」は、僕の脳裏に深く刻まれた。 こういったジャンク映画にハマったのは、愚かな子供ほどかわいいという親心に似ているかもしれない。 あるいは、B級映画から稀にジョン・カーペンターやトビー・フーパーのような才能が出現するから、ギャンブル依存症みたいに、たまの大当たり取りつかれているともいえる。
March 13, 2010
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ホラー、アクション、SFなどは、プロレスに似ていると思う。 プロレスは、ギミックやアングルが刺激となって働き、見るものをその世界に引き込む。ホラー、アクション、SFなどもギミックとアングルがとっても大切だ。 『巨大毒蟲の館』のギミックは、タイトルにもあるように巨大な虫だ。 日本的な特撮怪獣センスからすれば、巨大な虫とは、モスラを代表をとしてクモンガ、カマキラスなどが即座に思い浮かぶ。ヤツラはいずれも身長50mのゴジラと闘うことができる大きさだ。 『ウルトラQ(1966)』にも「クモ男爵」に大タランチュラが登場した。コイツは、大きいといっても体長2.5m。特撮怪獣的にはかなり物足りない。子供心に、この回はガッカリしたのを覚えている。 で、『巨大毒蟲の館』に登場する巨大蟲は、蜘蛛とかクワガタ虫などは、ほぼ中型犬からせいぜい大型犬くらいの大きさなのだ。もちろん、犬みたいに大きな虫が現実に動き回っていたら、それは震え上がるほどにおぞましいだろう。確かに巨大と形容してもいい。しかし、スクリーンの中では、ギミックとしてのモンスター度は低い。東宝特撮怪獣に慣らされた感性から見た場合は。 「巨大毒蟲の館」の中で、唯一カマキリだけは、人間を見下ろすでかさだった。もちろん東宝特撮のカマキラスとは比べるべくもない。せいぜい3mくらいだろう。それでも、他の巨大虫よりモンスター度は高くなった。 これらの巨大虫は、大きさもさることながら、CGがしょぼい。高性能なCGであれば虫の質感などリアルに表現できるのだろうが、塗りが足りない絵といった感じだった。これはギミックとして、感情移入を妨げる そして、アングルとしては、以下のよう。 主人公、女子大学生のカミによると、太古の昔、昆虫は巨大で知能も発達していたそうだ。彼女は、大学の女子寮の自室でたくさんの虫を飼って、その遺伝子を蘇らせる研究をしていた。外見上はふつうの虫と変わりはない。しかし、「知能も戻りつつあったわ」とのこと。 その虫が逃げ出し、パーティ真っ盛りの女子寮をうろつき回る。怒った他の女子大生が、カミの飼っている虫たちに殺虫剤を吹きかけた。実験中の虫たちは、一旦死んだかに見えたが、殺虫剤が反応して巨大化してしまったのだ。 こういう理屈のつけかたは、説得力を与えようと工夫している様子を感じる。巨大虫という常識はずれを、見る人にとって不自然に感じないようにしなければならない。なおかつその仕掛けで、興味をひくようにする必要がある。そこがいい加減だと、その後の展開が非常につまらなくなる。その意味でプロレスのアングルと似ていると思う。 さらに、主人公カミの設定がいい。 カミは虫にしか興味がなく、ブキミちゃんと呼ばれている。他の女子大生が寮の中で男子学生とヨロシクやっていても、彼女は男の誘いに乗らない。 カミの飼っていた虫が巨大化して動き回り始めるのだが、カミしか気付かない。彼女が警告を発しても、他の女子大生は「巨大虫はいないの」と退ける。虫狂のカミの幻影だと決めつけるのだ。しかし、徐々に徐々に巨大虫が忍び寄り、一人また一人と犠牲者が出る。常識的に判断すれば巨大虫など信じられない。まず前提として普通の世界があって、そこに驚異の存在が侵入する。その段取りが、非現実的な世界への橋渡しをしてくれるのだ。 そして、ついに巨大虫が全員の目にふれると、そこから女子大生対巨大虫の一大バトルが展開される。加えて、カミに意地悪した女子大生が、巨大虫の寄生虫によりモンスター化するエピソードもある。この展開は、料理に塩コショウを効かせた感じだね。 クライマックスは、あの虫腐女子カミが女戦士となって奮闘する。虫のことなら任せとけってか。自信満々、勇猛果敢で、男子学生にも自分から働きかけるほどの変貌ぶりだった。 プロレスのギミックやアングルは、やりすぎると観客の目には不自然に映る。逆に地味だとプロレスらしさのアピールが不足する。その判断基準はリアリティでしょう。 同じように、ホラー、SF、アクションなどの映画も、ギミックとアングルの練り具合が、見る側のエモーションに大きく影響する。魅力的なギミックとアングルは、現実から気持ちよく飛ばしてくれる。 もちろん、どんなギミックやアングルを用意しても、それらの非現実的な世界に入り込めない人はいる。モンスターなんてばかばかしいと思ってしまえばそこで終わりだ。ギミックやアングルを楽しむには、見る側もそれなりの想像力を必要とします。 それにしてもこの映画、出演している女子大生が揃ってなかなかカワイ子ちゃんだった。お陰で最後まで楽しく見ることができました。
February 28, 2010
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僕の原体験は、ゴジラ、ガメラ、ウルトラQだ。だから、僕の脳みそや精神世界、感性などは怪獣及び特撮映画に敏感に反応する。 「メガ・シャークVSジャイアント・オクトパス」(長いタイトルだから、以後「メガジャイ」)はじつに特撮怪獣テイストにあふれた映画である。 アラスカの氷山地帯で、アメリカ空軍が違法であるはずの低周波探知機を海に沈める。その影響で氷山が割れ、150万年前のメガロドンと巨大タコが蘇ってしまった。 いいねえ、「キングコング対ゴジラ(1963)」で、ゴジラがやっぱり氷山から復活した場面を彷彿とさせるじゃないか。ゴジラが氷山に閉じ込められていたのはわずか7年間だったけど。 さらに名場面は続く。 旅客機が空を行く。ハネムーン真っ最中の新婚さんなど楽しい空の旅。海の話なのに、なんで飛行機なの?とか思っていると、メガ・シャーク(長いから以後メガちゃん)が海面からジャンプ一番、ジャンボジェットに急接近して噛み砕いてしまう。 続いてメガちゃんはサンフランシスコを襲う。やっぱりジャンプ一番金門橋をも噛み砕いてしまう。 ジャイアント・オクトパス(長いからジャイタコだ)、ジャイダコだって負けてはいない。石油採掘基地を長大な触手で包み込み、破壊してしまった。 いずれも一瞬のできごと。 怪獣映画には、怪獣映画の常套手段がある。いつも科学者が奇抜な攻略法を提案する。今回は、「フェロモンでおびき出して、封じ込めよう」しかし、メガロドンとジャイダコのフェロモンってどうなんだろう。とりあえず両者とも一体ずつしかいないわけだ。それに、もし現在普通にいる鮫とかタコのフェロモンを使ったとしたら、メガちゃんとジャイダコだけじゃなくて、ほかにも鮫やタコまでもがうじゃうじゃと集まってくるんじゃないだろうか。 そして、怪獣映画の常套句は「やつらを通常の兵器で倒すことはできない」「核兵器を使うというのか!?」というやりとりだ。 ちょっと待て。メガちゃんもジャイダコも、怪獣ぽいけど怪獣ではないだろう。単なる巨大生物だ。それに対して核まで持ち出すか。 核攻撃を決行するかどうかの究極の選択を迫られたとき、女科学者が輝く笑顔で叫ぶ。「お互いに対決させるのよ!」 この展開は『キングコング対ゴジラ(1963)』で「もう一度キングコングとゴジラをぶつけてみたらどうです」「英雄並び立たず。双方共倒れ、そこが付け目です」と大貫博士が提案するのに似ている。 言わせてもらえば「キングコングをゴジラにぶつける」の方が文章として通りがいいし、また、中国の史記から出たことわざは、「英雄」ではなく「両雄」だ。「両雄並び立たず」が正解。 それらの怪獣特撮影がテイストの嬉しい場面も数々あったのだが、基本的に不満なのはメガちゃんとジャイダコの登場場面が少ないことだ。登場人物たちは、メガちゃんのことを「大きい」「でかい」とさかんに言うのだが、姿を見せないし、どれくらい大きいか他のものと比較するような場面もないし、でよくわからなかった。 メガちゃんもジャイダコも、海の生物だからね。怪獣映画ではお馴染みの地上で建物を壊して回るようなシーンはできないことは確かだ。で、あれば、それなりの工夫はできたのでは。 そして、僕は思うのだけれども、メガちゃんとジャイダコの登場シーンが少ないのは、CGだからじゃないだろうか。 日本の怪獣映画のように着ぐるみだったら、ひとつ着ぐるみを作れば、映画の中で何度も使わないともったいないじゃないか。 対してCGは、実体がない。登場場面を多くすれば、それだけ手間と金がかかるのだ。その点を節約しちゃったのではないかな。 どんなに設定がいいかげんでも、脚本がゆるくても、とにかく怪獣(巨大生物)の姿を画面でしっかりと見たい。 いずれにしも、怪獣映画テイストはたっぷりでも、メガちゃんもジャイダコも怪獣ではないからね。カニカマが「風味かまぼこ(かに風味)」と記されるように、『メガジャイ』は「風味特撮怪獣映画(特撮怪獣風味)」だ。怪獣映画的な雰囲気をあじわっただけでもよしとするべきでしょう。 主演女優のデボラ・ギブソンは、かつてのアイドル歌手デビー・ギブソンなんだけど、B級キャメロン・ディアスに見えた。
February 20, 2010
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パッケージには超巨大なクワガタ虫が都市を襲っているふうに見える。しかし、この手のイラストをそのまま信じることはできない。実際に映画を見てみると、モンスターがショボかったりするものだ。単純に考えても、このクワガタ虫はでかすぎである。胡散臭さがいや増す。さて、巨大クワガタは登場するのか。そして、都市を大混乱に陥れるような展開があるのか。 STAGとはクワガタ虫のこと。 虫のモンスターであっても怪虫とはいわない。モスラもカマキラスもクモンガも怪獣だ。これは回虫とまちがえるからかもしれない。 クワガタ虫型の怪獣といえばウルトラマンに登場した“蟻地獄怪獣”アントラーだ。サッカーのチームではない。造形は角のないカブトムシの頭にカニの目とクワガタのりっぱなハサミをくっつけたもので、人型のフォルムで二足歩行だ。6足で動き回ると、ウルトラマンとの対決で絵にならない。 STAGにも、アントラー級の怪獣が出てきてくれれば嬉しい、のだが。 スイスの閉鎖された岩塩鉱山。山岳ガイドのジョン・パルマーは、鉱山調査の案内を依頼された。ジョンは家族を地表に残し、坑道をたどって暗黒の地底に下りていった。そのとき、彼らの前に人間大のクワガタ虫=STAGの軍団が現れたのだ。 STAは、巨大というほどではない。そりゃあ人間くらいの大きさのクワガタ虫は確実に気持ちが悪い。だが、ぼくが見たいのはそんなモンスターではなく、圧倒される大きさのモンスターだ。だから、ちょっとガッカリ。 そして、このSTAG、ハサミで人間の首を切り落とす。ちょっと待て。クワガタ虫のハサミは構造的に見ても、つかむ機能でしょう。ものを切断することはできない。また、パッケージのイラストにあるハサミとは形がちがう。オスの堂々たるハサミではなく、どちらかといえばメスの小振りなハサミだ。確かに首を切り落とせばSTAGはますます脅威となるが無理がある。 ストーリー的には、エメラルド探し、坑道でのSTAGとの攻防、ジョンの息子が坑道に迷い込む、そして残された妻と娘に襲いかかる悪党と地表に出現したSTAG、と単調な展開にならないようにとの配慮がうかがえた。 この手の映画は、どうがんばっても最後まで見続けるのに耐えないものがあるけど、STAGはきっと良質の方だと思う。 STAGに話を戻す。ラスト近くジョンたちがSTAGの巣を通過しようとすると、なんと巨大クイーンSTAGが姿を現す。おお、こいつが街に暴れ出すのか。ここに来てパッケージに覚えた巨大STAGへの期待がかなえられるとしたらこれは儲けもの。と思ったのだが、そこまでのサービスはしてくれなかった。 やっぱりSTAGが都市を襲うは場面はない。「何がクイーンSTAGだ。アリやハチじゃああるまいし」とののしっちゃったぞ。 クイーンSTAGを出したりすると、この映画が「エイリアン」の影響下にでっちあげたことが明らかだね。 それでも救いがあった。この手の映画は、一旦終わったと見せかけて、最後に夥しい卵が並んでいる場面を見せたりする。そのことが脳裏をかすめたが、幸いなことに卵は一個も出てこなかったのだ。よかった。
October 22, 2009
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モンスターとクリーチャーは似たような意味だけど、やっぱりちがうと思います。クリーチャーは、「生物」という意味です。これは、実在するものであるか想像上のものであるかは問わない。つまり、モンスター(怪物)は、クリーチャーに含まれると考えていいでしょう。 「クラーケンフィールド」の題名にあるクラーケンは、もともとは北欧伝承の巨大な怪物で、タコやイカのような頭足類の姿をしています。モデルアニメーションの巨匠レイ・ハリーハウゼンの「タイタンの戦い(1981)」では、海の魔物クラーケンとして、クライマックスでギリシャ神話の勇者ペルセウスと闘いました。 このクラーケンは、タコかイカみたいなグニャグニャした触手をもちながら頭部が大巨獣ガッパ似の嘴を備えた猿みたいでした。造形からしてまさにモンスター。しかし、「クラーケンフィールド」のクラーケンは、ただの巨大なイカです。これはモンスターとはいえない。クリーチャーでしょう。 ところで「タイタンの戦い」がリメイクされるとか。朗報にはちがいないけれど、なぜ「タイタン」なのか?ハリーハウゼンの作品としては「シンドバッド七回目の航海(1958)」や「アルゴ探検隊の大冒険(1963)」の方が、作品的にも興行的にもずっとビッグネームだと思うのですが。 西洋人にとってはタコやイカはデビル・フィッシュなわけで、ただでさえ気持ちが悪いようです。友人のオーストラリア人も、居酒屋でイカの刺身を目の前にしたときには「Oh,squid!No」とか言って顔をしかめていましたから。 しかし、いくらでかくても、ただのイカじゃあつまらないわけです。日本人のモンスター好きとしては。 日本の映画でイカ怪獣といえば「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣(1970)」のゲゾラがいます。ゲゾラは宇宙生物が地球のモンゴウイカに憑依して怪獣化したもの。 これも実在のイカにちょっと手を加えて怪獣にしただけですから造形はイカそのものとそんなに変わりはありません。それでも、クラーケンよりはいい。なぜなら、ゲゾラはイカなのに地上を歩くのです。東宝怪獣ですから着ぐるみなのですが、足部がわさわさしているように見せかけながら、イカが直立歩行して襲ってくる様は一見の価値があります。 そして、もうひとつのイカ怪獣は「ガメラ対宇宙怪獣バイラス(1968)」に登場したバイラスです。この映画は、ガメラシリーズの過去3作のフィルムをつなぎ合わせたような映画でした。当時、怪獣少年としては、新しいガメラと怪獣のバトルや特撮シーンをもっと期待していたのに、古い映像を見せられてがっかりしました。せっかく前作までで盛り上がったガメラ支持の気分が一気に冷めました。やっぱ怪獣映画は東宝ゴジラの方がいいな、と思ったものです。 で、バイラス自体はどうかというと、造形はいたってシンプル。足が6本あります。頭部はバナナの先端を3つに割って剥いた感じです。割れた一つ一つは厚みのある西洋短剣のように尖っていて、それらがひとつにまとまってガメラを腹部に深く突き刺さるという子供向けの映画にあるまじきハードコアな活躍が印象的でした。 さて、巨大なイカというのは怪獣のように架空の存在じゃなくて、実在するの生物なのです。深海に住むダイオウイカは、体長が3mから20mに及ぶものまで発見例があるとのことです。「海底2万マイル(1954)」でノーチラス号を襲うのはダイオウイカではないか。「ザ・ビースト/巨大イカの逆襲(1996)」はまさにダイオウイカの映画。いずれもモンスターっぽくしてあるけど、モンスターではありません。 で、「クラーケンフィールド」のクラーケンですが、どうやら海中に没した宝石などを守っている様子です。人間が宝石などを持ち去ろうとすると攻撃してきました。その点では、ちょっと不思議な存在だ。モンスター的と解釈できないこともない。でも、魔法がかった理由なのか、あるいはイカが宝石に含まれる物質を好んでいるのか、そのへんの説明はありません。 怪獣映画好きは、モンスターが登場しなくてクリーチャーでもいい、少しでもその匂いのある映画に反応します。本当は摩訶不思議な空想のモンスターを見たい。そうでなくても、巨大なだけのただのイカやワニでも、それらしい特撮場面があれば見てしまいます。そしてこの映画のように、巨大イカのCGがかなりお粗末だったりすると、天を仰いだりします。 それでも、なおかつお楽しみはあります。東宝特撮の大蛸出現場面では、実物大の触手が襲撃してきて役者と絡みます。それに対して「クラーケンフィールド」では、CGの触手が這い回って役者と絡むのです。前者は具体物があるわけですが、後者は何もないところでやっているのか。それともロープを使って感じを掴みその上から触手を描き込んでいるのか、などと両方を比較検討してみたりして。ささやかな楽しみですが。 「クラーケンフィールド」をストーリー的に見たときには、「観客をなめるなよ」と言いたくなること請け合いです。
June 14, 2009
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この映画を見たのは、監督としてジャック・ショルダーの名前があったからでした。 ジャック・ショルダーは、「ヒドゥン(1987)」を撮った監督です。「ヒドゥン」は、1988年に第16回アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭のグランプリを獲っています。この年は「ロボコップ(1987)」がありましたが、見事に競り勝ったのです。 評判を聞いて「ヒドゥン」を見ることを楽しみにしていました。いざ見に行こうとしたその日、人とのトラブルがあって、最悪のところまで気分が落ち込んでしまいました。それでも見に行ったら、ホラー、SF、ノンストップアクションの展開に、一発で生きているのが楽しくなりました(じつに単純)。期待に違わぬ、充実した映画でした。 注目すべき監督が登場したな、と思ったのですが、大変残念なことに、それ以後ジャック・ショルダーはどこに行ってしまったか分からないような状態でした。 そのジャック・ショルダーが2001年に撮影したモンスターパニック映画が「アラクニッド」です。この映画は、アメリカ、ハリウッドの産ではなく、なんとスペイン製なのです。ジャックはスペインに活路を見出していたのか……。 スペイン映画といえば、小さい頃「汚れなき悪戯(1955)」を見て、とても感動しました。また、大人になってからは、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき(1973)」や「エル・スール(1982)」が好きでした。 そうした映画も見たのです、かつては。 今はジャンル映画ばかり見ているぼくにとってのスペイン映画とは、ポール・ナッシー監督、脚本、主演の「狼男とサムライ(1983)」をあたりです。夜中まで起きていて、深夜映画で見ました。 さて、「アラクニッド」です。これは、日本風な表現をすれば、蜘蛛の怪獣が登場します。蜘蛛は虫なので怪獣とはおかしな表現ですが、かといって怪虫としたら、蛔虫とまちがえられそうですね。 映画の中では、蜘蛛オタクの科学者により、以下のような説明があります。たとえ蜘蛛が突然変異したとしても、巨大化することはありえない。つまりこの蜘蛛の怪獣は、宇宙からの侵入者が合体することによって、とてつもない大きさに変身してしまったのです。また、蜘蛛オタクは、蜘蛛が巨大化したら、人間は勝てないとも語ります。通常は、小さい形状をしていてよかったね。 このあたりは、リアリティを出しているのでしょうか。突拍子もない怪生物をスクリーンで見せるより、日常生活でも馴染みのある蜘蛛の方がウソ臭くないとの考えで。 それと、蜘蛛の怪獣をCGではなく、操演にしてくれたところが、個人的には好みでした。 とはいっても、内容的には「エイリアン(1979)」+「プレデター(1987)」の印象が強いです。蜘蛛怪獣は、形こそ蜘蛛ですが、その行動パターンはエイリアンそっくり。人間の体内に異生物が入り込み、食い破って出てきたり、巣の中に人間を取り込んだりしますから。「エイリアン」でお馴染みの展開ですね。そして、調査隊がジャングルで蜘蛛怪獣闘うところは「プレデター」を想起します。 さらにつっこむと、ジャングルで蜘蛛怪獣と闘い、つぎつぎに味方が殺され形勢が圧倒的に不利になりながらも、なんで援軍を呼んでこなかったのかなぁ。あるいは、ラスト、確かに一頭の蜘蛛怪獣は倒すのですが、まだ生き残りがいましたし、夥しい卵も放置したまま終わりにしたなのはなぜかなぁ、などとの疑問がひっかかります。 でも、テンポは悪くなかったよ!。軽快な流れで、見続けることができました!。その点は、さすが「ヒドゥン」のジャック・ショルダー。才能のかけらもない他のZ級監督とはちがう、と思いたい。 これは勝手な推測ですが、スペインでハリウッド風の映画をつくり、一発あてようとしたのではないか。アメリカから監督を呼んでくれば、見る人はハリウッド製とまちがえると計算していたかもしれません。 そこで白羽の矢が当たったのが、ジャック・ショルダーだった。 スペインの映画会社としては、スピルバーグ級は無理としても、マイケル・ベイなどのヒットメイカーを依頼したかったのでしょう。けれど、予算上の都合があります。そうしたときに、過去に「ヒドゥン(1987)」で評判をとったジャック・ショルダーなら、安く、それなりに話題性もあると考えたのではないでしょうか。 ただ、メイキングを見ると、ジャック自身は控えめな印象を受けます。役者の演技に対して、「OK,Very Good」を連発します。それに対して役者の方は「え?これでよかったの」という感じなのです。ジャックはもしかしたら、自分のやりたいことを押し通すというタイプではないのでは。 いずれにしても、ジャック・ショルダーは、依然「ヒドゥン」1本だけという印象です。ということは、「ヒドゥン」はまぐれだったと解釈されちゃいますね。 次の作品に期待しています。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
April 26, 2009
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「D-WARS」は「スター・ウォーズ」のタイトル名を流用しているだけかと思ったら、内容的にも帝国軍のトルーパーがクリーチャーに乗って韓国やロサンゼルスを攻撃してくるのと見紛う場面がありました。この映画の監督さんは、自分の手で「スター・ウォーズ」をやってみたかったのでしょうね。 この映画は怪獣映画です。怪獣とは、そもそも摩訶不思議な存在です。現実には存在せず、映画やテレビの中だけに登場するものです。生き物なのに、通常の兵器では仕留められなくて、火を吐いたり光線を発射したりします。だから、ともすると、陳腐なもの、お子様向きのものとなってしまいます。 けれど、工夫して怪獣映画をつくれば、現実には味わえないグレートな虚構の世界を楽しむことができます。 例えば、「ガメラ大怪獣空中決戦(1995)」は、現実の日本に現れた場合を想定して、そんな場合に、自衛隊やマスコミ等はどう動くかを描いたのでリアリティが感じられました。その上、怪獣バトルは大迫力だったのです。アメリカ映画の「クローバーフィールド/HAKAISHA(2008)」も見応えがありました。突如ニューヨークに正体不明の怪獣が現れて、街中が大混乱に陥る様子が、これまたとってもリアルでした。 さて、「D-WARS」です。 何ものかによって破壊されたロサンゼルスの街、テレビレポーターは瓦礫の中に大きな鱗のようなものを発見します。おお、これは「モスラ対ゴジラ(1964)」で、台風一過の海岸にやってきた新聞記者がゴジラの鱗を発見した場面とそっくりではないですか。この映画の監督さんは、自分の手で「モスラ対ゴジラ」をやってみたかったのでしょうね。 それにしても「D-WARS」は、いかにも脇が甘い。怪獣映画のもろさを露呈し、つっこまれたら、簡単に相手の有利な組み手を許してしまいます。 例えば、夜の動物園に悪の大蛇が出現し、像を丸飲みします。居合わせた警備員はびっくり。しかし、この手の展開にはよくある話で、警察などに話しても信じてもらえません。像を飲み込むような巨大な蛇が動物園を這いずり回ったら、当然そのあたりをなぎ倒したりして痕跡が残るだろうに、それはありません。警備員は病院に連れて行かれ、そこでもまた大蛇の話を信じてもらえません。と、その病院の建物上を大蛇が這いずり回っているのです。あら、不思議、その場面では大蛇が通った後は、建物がバラバラ崩れるではありませんか。ハラホロハレヒレ……。 ここに登場する怪獣は、最初から生物ではないのです。はるか昔から、地球上では光と闇の戦いがあり、その代表選手が正義の大蛇と悪の大蛇というわけ。いわば神と悪魔の決戦で、勝った方が龍=doragonになって地球を支配するというお話です。 冒頭で紹介したスター・ウォーズの帝国軍もどきは、悪の軍団です。そこにショッカーでいえば、総統の下にいる地獄大使とか死神博士みたいな男がいて、司令を出しています。そいつが魔法使いみたいに消えたり現れたりします。悪魔ですから、人智を超越しています。 つまり、これは魔法の世界の怪獣戦争なのですよ。いくら怪獣が超生物であっても、魔法の世界ってのはいけません。怪獣の原則は、生物なのです。それに対して、魔法は何でもありですから、無から有を作り出してしまいます。人間の物理学の常識からは、完全に外れている。そうでありながら、帝国軍もどきがロサンゼルスを襲うと、警察や軍隊とバトルを繰り広げるのです。ここのところが、絵的には怪獣映画の虚構性を感じさせてくれますものの、どうもしっくりこない。 魔法の世界の住人で、人間の力ではなしえないようなこと、例えば壁をすり抜けたりすることができるのなら、銃弾や砲弾、ミサイルをものともしないはずでしょう。それなのに、悪の軍団の翼竜などが撃ち落とされたりするんです。怪獣という荒唐無稽な存在が、ますますご都合主義の塊になっていきます。 人間と魔界の戦いであれば、例えば銃弾は効かないが、高圧電流を試したら敵がひるんだ。魔法で実体化したものは、電気には弱く霧散するとかなんとかそれなりの対抗手段があればいいと思うのです。あるいは、テレビでアナウンサーが「突如出現した正体不明の大軍団、彼らは宇宙人なのか。いや、魔界からの侵略という情報もあります。彼らには近代兵器が通用しません。人類が初めて遭遇する、科学の常識が通用しない難敵です。アメリカは一体どうなるのか」などと煽ってほしかった。 日本には「大魔神(1966)」があります。大魔神は、一旦怒るともう手が付けられません。戦国時代の話とはいえ、大砲も火を使った攻撃もものともしません。おそらく破壊的な近代兵器も通用しないでしょう。なぜならば、魔神だからです。大魔神を止められるのは、乙女の涙だけでした。これは話に一貫性があります。 ロサンゼルスのバトル場面では、帝国軍もどきの後ろから、親玉の大蛇が参上します。大蛇がめんどくせえやとばかりに猛威をふるうと、車も建物も吹っ飛んでいきます。ここの場面は、「インディペンデンス・デイ(1996)」にそっくり。この映画の監督さんは、自分の手で「インディペンデンス・デイ」をやってみたかったのでしょうね。 さて、クライマックスは、いよいよ大蛇対大蛇の怪獣大バトルです。悪の大蛇が散々ロサンゼルスを破壊し尽くして、ついに地球を支配しようかというときに、ようやく正義の大蛇が出てきました。やらせるだけやらせて、こんなところで出てくるなんて、遅いよ!そして、バババっと光の衝撃を放つと悪の軍団は全滅。だったらもっと早くやってよぉ。 ファンタジー映画「スターダスト(2007)」では、流れ星の精イヴェインと主人公トリスタンが、魔女に襲われて絶体絶命の危機に陥ります。そのときイヴェリンは自ら輝きを放って、魔女を撃退します。トリスタンが「なんでもっと早くその力を使わなかったのか」と聞くと「本当に恋をしていないと、この力は出てこないの」。それなりに理由があればいいのです。 そして、この怪獣バトル、絵的に見て、蛇と蛇の絡み合いがおもしろいか。そんなもの現実世界でも見ることができるでしょう。 怪獣映画は、現実ではありえない絵を見られるところが楽しい。この監督は、巨獣による破壊スペクタクルなど、見せ場をつくりたかったのでしょう。そうであれば、嘘を本当らしく見せるために、いい加減な設定ではいけません。監督シム・ヒョンレは、以前「 怪獣大決戦ヤンガリー2000)」をつくっています。怪獣映画大好きみたいです。怪獣映画好きには悪い人はいません。ですから、次回作は頑張ってください。こちらのブログもどうぞヨロシク。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
December 7, 2008
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期待値が高すぎるのでしょうか。特撮ヒーロー映画は、なかなか期待に応えてくれません。なるべく期待しないようにして、とりあえず特撮場面やヒーローやモンスターが登場すればいいや、と思うこともあります。 「インクレディブル・ハルク」も、期待はしていませんでした。前の「ハルク(2003)」があんなのだったしね。まあ、おつきあいのつもりで行ったのだけれども、意外に、これはよかったです。【徐々に姿を見せる妙】1.ハルク誕生 物語の始まりとすれば、ここはまずブルース・バナーがハルクになるエピソードがまず語られるだろうと思いますよね。そこにある程度ウエイトを置かれるだろうと。ところが、その部分を、タイトルバックでちゃちゃとすませてしまったのです。これはとてもスピーディ。あとで、ところどころ言葉による説明を加えていましたが、それで十分でした。ここを短時間にすませたからには、その分、この後の見せ場が多くなります。 ただ、ちょっと遅れてきたり、タイトルバックだからと油断したりしていると、科学者ブルース・バナーが、超人ハルクに変身する体になるという件を見過ごすことになりかねませんが。 そして、この出だしの部分では、ハルクの姿が登場しません。ハルクの視点で描かれているために、ハルクの二の腕から手にかけては画面に映りますが、全体像は見ることができないのです。ハルクは、凄まじいパワーを発揮して研究所を破壊すると逃走してしまいました。2.ブラジルの闘い ブラジルまで逃れ、ジュース工場で働きながら自分の体を元に戻す方法を研究し、ハルクに変身しないよう心を制御しようとするブルース・バナー。しかし、ハルクを材料に最強兵士を作り出そうと企むロス将軍は、ブルースの居所をつきとめ、軍隊を率いてやってきました。よその国で勝手に軍事活動をしていいのかと心配する間もなく、ハルクとアメリカ陸軍との派手なバトルが展開。 ここでも、ハルクは、観客の前に姿を現しません。ハルクと軍隊は、薄暗い工場の中で闘います。だから、ハルクが、重い工場機械を持ち上げたりぶん投げたりして、そのパワーはわかります。しかし、実体が見えないのです。3.決戦!カルバー大学 治療のためには、実験のデータが必要だ。ブルース・バナーは、研究が行われていたカルバー大学に戻ってきます。それを予想していたのが、ロス将軍。ブルースを見つけ、追いつめます。行く手と戻り道を塞がれて絶体絶命のブルース。催涙弾を投げ込まれ、もうもうとした白煙の中から、いよいよ、ついにハルクが日の目を見るのです。 ハルクの主観映像、暗闇でのパワー顕示、そして満を持していよいよ登場、と、この三段スライド方式が見る者のエモーションを煽ります。4126じゃないけれど。スーパーヒーロー、あるいはモンスターの存在感が、心に響くかどうかは、演出にかかっていますね。たとえチープな映像でも、見せ方によって感動を生み出すことができるのです。そのへんをおろそかにしてはいけません。 しかし、ハルクと陸軍の対決で破壊されたキャンパスは、どうなるのでしょう。たまたま学生等の犠牲者はいなかったようですが。ロス将軍は責任を問われて様子もありません。【迫力のモンスターバトル】 テレビ版の「超人ハルク(1977~1982)」は、あの時代を反映するアナログ映像の世界で、テレビならではのハルクを作り上げました。けれど、もっとド派手なアクションやモンスターバトルをやってくれたらなあという気持ちも抱いていました。 映画を見るときには、先入観をもって映画そのものを損なわないように、できるだけ予備知識をもたないことにしています。だから、今回も、ハルクの映画がどんな内容かは知りませんでした。アメコミのハルクのように、モンスターと闘ってほしいなと思いつつ、裏切られるのがいやだから、期待しませんでした。 ブラジルのジュース工場で働いているとき、ブルース・バナーはあやまって怪我をしてしまいます。大慌てで血を拭うブルースでしたが、気付かないところでジュースに混入して出荷されてしまいました。 これは、もしかしたら、その血を飲んだ人がモンスター化するのか、と思いました。しかし、ストーリーはそんなに単純ではありませんでした。やっぱりモンスターは出てこないのか、と諦め気分だったのですが、スーパーソルジャー計画なるものが浮上し、実験台となったエミル・ブロンスキーは常人を超える跳躍力や筋力を発揮しました。姿形は人間のままなのが惜しい。変身してくれないかなあと願いながら見ていましたら、こちらも三段スライド方式でモンスターへ。やったね!しかも、変身場面を見せながらも、ここでもその実態を明らかにしない演出です。早くみたい!観客の気持ちを引っ張っておいて、一気にドーンと怪物アボネーションを登場させてくれました。 アボネーションに変身する際、エミルはハルクの血液を注入されたのですが、もう一人、その作業をした科学者サミュエル・スターンズも、大騒動に巻き込まれ怪我をし、ハルクの血が傷口から流れ込みます。 これはもしやしたら、三大怪物地上最大の決戦になるかと思ったのですが、サミュエル・スターンズの変身はなし。今回は……。 街を破壊しながら激闘を繰り広げるハルク対アボネーション。これは、21世紀の、CGによる「フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ(1966)」の再現だ!【愛はオンリー・ワン】 ブルース・バナーがハルクとなってしまい逃走、恋人ベティとは離ればなれになってしまった。ベティにとっては、ブルースの生死さえ知れずに数年間もすごすことに。しかし、再会すれば、お互いがお互いにとってオンリー・ワン。 ベティは、ブルースがモンスターに変身する体となっても、決して愛情が薄れない。ブルースは、自分と彼女の安全のために遠く離れた異国にいても、絶対にベティのことを忘れない。ハルクになって凶暴化しても、ベティの言葉だけは聞き分けることができるのです。 愛はうつろいやすいというけれど、相手がどうなっても、二人が離ればなれになったとしても、本当のオンリー・ワンは動じない。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
August 24, 2008
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新装された映画館で「ギララの逆襲」を見ました。この映画館は、二年前に一旦取り壊されました。その直前に見た映画が「小さき勇者たち~ガメラ~(2006)」。そして建て直されて、新しくオープンしてから見たのが「ギララ」なのです。新旧の映画館を特撮怪獣映画でつなぐなんて、なんという因縁でしょう。あるいは、己が怪獣映画好きであることの業の深さをあらためて知ってしまいました。 この新しい建物は、シネマコンプレックスとして10の映画館が、とても高いビルの中にまとめられています。そのことに気を回さず、うっかり上映開始ぎりぎりに行ってしまいました。そうしたら、チケットを買ってから、エスカレーターに乗って上っても上っても、目的とする映画館にたどりつきません。チケット売り場は3階なのに、上映館は最上階の11階です。8階分も上らねばならず、「映画が始まってしまう」と焦ってしまいました。 松竹が怪獣ブームの1967年に放ったのが「宇宙大怪獣ギララ」です。長く“松竹唯一の怪獣映画”といわれてきたギララですが、今回は41年のときを経ての逆襲、まさに伝説の怪獣が復活したといえます。要するに、一作目を知らないのが当たり前。知っているのは、怪獣映画好きだけ。 第一作が公開された当時は、小学生でした。リアルタイムでギララを見ているのです。これは、自慢したい気分ですね。だれも羨ましがらないでしょうが。 そのころ、友達の兄ちゃんなんかが『大怪獣バラン(1958)』の映画について話をしてくれると、尊敬の念を禁じ得ませんでした。ビデオなどない時代だから、過去の怪獣映画を見たくても見られません。各種の資料も出回っていない。だから、人づてに話を聞くしかなかったのに加え、怪獣映画について語ってくれる人だってほとんどいません。欲しい情報が手に入らない飢餓感が、怪獣映画に対する価値を高めていったといえるでしょう。 それと、公開時に、映画館で見ている体験が貴重だと思います。ビデオ等では、あとでいくらでも見られますが、映画の封切りは一度しかありません。だから「ギララを封切りで見た」といえるのは、「ビートルズの日本公演を生で見た」ことに匹敵すると感じています。とはいっても、マイナーな怪獣映画についての体験など、世間一般から見れば、価値の低いことでしょう。 41年を経てギララの第二作がつくられたのは、まさに快挙です、怪獣映画好きにしてみれば。東宝のゴジラ、大映のガメラに続いて、松竹もギララをシリーズ化してくれたらいいな、そんな豊かな怪獣映画状況を望んでいたのは、怪獣映画好きだけでしょう。夢はきっと叶う、そんな甘言をこれまで切り捨ててきましたが、今回は信じてみてもいいような気持ちになりました(って大袈裟な)。 この映画を監督した河崎実氏は、同年配であり、同じように怪獣に強いカルチャーショックを受けたのだと思います。だからギララのことを覚えていのでしょう。そして「ギララの逆襲」には、特撮怪獣映画についての思い入れをたっぷり込めてあることがとても嬉しい。普通の人は、年齢とともに怪獣やプロレスなどといったものから自然と離れていきます。しかし、一部には、年齢を重ねても卒業できない人もいるのです。 映画に込めた思い入れで、まず凄いのは、特撮関係の役者さんを次々と登場させているところです。「宇宙大怪獣ドゴラ(1964)」「三大怪獣地球最大の決戦(1964)」等東宝特撮映画で主役を演じた夏木陽介、「ウルトラマン(1966~1967)」のハヤタ隊員、東宝特撮映画にも出演作の多い黒部進、このお二方は分かりやすい配役といえます。このほかに、「ウルトラマン」のスーツアクター(中に入っていた人)で、ウルトラセブンのアマギ隊員だった古谷敏、「ウルトラセブン(1967~1968)」「帰ってきたウルトラマン(1971~1972)」でセブンや帰マンのスーツアクターだったきくち英一、「キャプテン・ウルトラ(1967)」のタイトルロールを演じた中田博久といったマニアックな配役には、特撮好きが驚喜しました。さらに「宇宙大怪獣ギララ」に主演した和崎俊哉も顔を見せていました。まさに特撮ファンの心をくすぐる豪華ラインナップといえるでしょう。皆さん、とても楽しそうに演じていらっしゃいました。それぞれの特撮体験を思い出していたのでしょうか。 このほかにも、特撮ファンを喜ばせる仕掛けが数々ありました。例えば、ギララを倒すためにミサイル「はげわし」が発射されます。この名前を聞いたとたんに、観客席の一部は大いに受けて笑いと拍手が起きました。なんとなれば、「ウルトラマン」でバルタン星人を攻撃したのが核ミサイル「はげたか」だったからです。 個人的には、「宇宙大怪獣ギララ」に登場した宇宙船アストロボートを今回も見ることができてよかったです。ギララとアストロボートはセットになっているもの。映画公開時には、アストロボートのプラモデルをもっていました。残念ながら、「宇宙大怪獣ギララ」のようにアストロボートの活躍を見ることはできませんでした。しかし、アストロボートの設定が中国の宇宙船に変わっていても、ドックに停泊しているだけでも、結構。さすが河崎監督は、はずしませんね。 さて、特撮ファンが映画をつくっているという印象の河崎監督ですが、その持ち味はコメディタッチ、パロディにも発揮されます。 じつのところ、怪獣映画はまじめにつくってもらいたい。だから、金子修介監督のリアルなガメラ・シリーズが好きです。 かつて「キングコング対ゴジラ(1962)」で、有島一郎演じるところの多胡部長が笑わせる役を演じていましたが、子供心にいやでした。怪獣映画は、きわものと見られるので、笑いの場面を入れることで、よけい軽く扱われてしまうのではないかと危惧しました。大人になってからは、有島一郎の演技力の素晴らしさがわかり、エンターテインメントとして笑いも含めた楽しい怪獣映画について理解することができました、頭では。しかし、心情的に、好みはハード怪獣路線です。 よくプロレスをネタにしたマンガやドラマでは、あからさまに八百長を強調したギャグを展開します。それらは、プロレスをおちょくっていると感じます。プロレスは、必殺技や凶器、覆面などのギミックで、確かに一般社会ではありえない設定や試合展開をします。ある意味、それを前提としなくては、プロレスは楽しめません。怪獣も、光線を出したり、兵器が通用しなかったりして、生き物なのかロボットなのか判然としない場合があります。物理学や生物学を超えた存在が怪獣なのですが、そこを笑いでごまかさないで、どこまでもシリアスに迫って欲しいという望みがあります。 「ギララの逆襲」を見る前に、一番危ないと思っていたのがタケ魔人です。もしかして「オレたちひょうきん族」のタケちゃんマンみたいにはなっちゃたら、ギララは笑いものだ、と。そして、クライマックス、タケ魔人が出てきてギララに挑みます。タケ魔人は、大魔神のパロディです。登場までにも、村人がネチコマ踊りを踊ってとても危ない雰囲気がありました。しかし、ビートたけしのスーパーヒーロー、タケ魔人は、ギャグをいいながらも、ギララとの対決を盛り上げ、最後は大魔神というよりウルトラマンのパロディながらも、ビシッと技を決めてくれました。この映画は、ナンセンスな笑いをふりまきながらも、怪獣映画、ヒーロー映画の基本をしっかり押さえてあると思いました。 河崎実監督は、日本のメル・ブルックスといってもいいでしょう。ぜひ、今度は「大巨獣ガッパ(1967)」を復活させていただきたい。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
August 10, 2008
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登場するのは“意思を持つ炎”なんですが、わかりやすくいうと炎の怪獣です。実体は、ピンポン玉くらいの炎で、飛んできて人間の襟の中に隠れることもできます。けれど、巨大化するとビルより大きい燃えるドラゴンの形態になるのです。 東宝特撮にもファイヤー・ドラゴンが登場します。「怪獣総進撃(1968)」では、地球怪獣連合軍が宇宙怪獣キング・ギドラを倒します。そうしたら、宇宙より“燃える怪獣”が飛来し、迎え撃つラドンと衝突するやラドンの体が火を噴きました。 「燃える怪獣……聞いたことがありませんわ」小笠原怪獣ランドの職員真鍋杏子は叫びます。確かにその通りなんですが、もともと怪獣とは得体の知れない巨大生物であり、突然に人間社会を襲うことを考えると、「聞いたことがない」との言葉は的確でないような。 このファイヤー・ドラゴン、じつは悪の宇宙人キラアクが最後に放った兵器でした。キラアクの円盤が発火しながら高熱で飛び回り、地球上を焼き尽くそうという魂胆でした。怪獣などではなかったのです。 では、ファントム・ファイアーの“意思を持つ炎”は怪獣といえるのか。獣なのか、生物かどうかも定かではありません。燃え盛る炎が、意思なり思考力なりをもっているとしかいいようがない 。“意思を持つ炎”は、宇宙からやってきました。地球の常識では測れないものです。 けれど、巨大蛾モスラも怪獣ですね。蛾は昆虫です。本来なら怪虫なのでしょうが、カイチュウと聞いたときには蛔虫をイメージしますからね。そんなこんなで、巨大な姿をして動き回るものはみな怪獣と理解してよいでしょう。 実体はピンポン玉大だとしても、巨大化すると燃えるドラゴンの姿になる“意志を持つ炎”は、見た目は怪獣です。だから、目もあれば口もあります。口の中には、鋭い歯が生えそろっている、って何のために? 作品の中に“意思を持つ炎”の視点からの赤い映像がありましたので、目は機能しているのでしょう。けれど、“意思を持つ炎”はガソリンを吸収するなどして燃え盛ります。つまり、食物を噛まなければ、歯はいらないのではないか。 これは、ゴジラやガメラについてもいえます。ゴジラは原子炉から放射能を吸収してエネルギーとしています(ゴジラ1984)。ガメラも、炎のエネルギーや電気エネルギーを常食としています。だから、ゴジラもガメラも、食物を摂取するために歯は必要ないのです。多分、敵と闘うときに、噛みついたり威嚇したりするために、歯や牙がついているのでしょう。 と、まあ怪獣は得体の知れない巨大生物ですから、科学的な常識が通用する存在ではありません。そして、怪獣映画がSFっぽい装いをもっていても、SF映画とはまではいえません。やっぱり特撮映画、怪獣映画というジャンルです。そのご都合主義的な設定が楽しくもあるのですが、プロレスが構築していた世界とよく似ていて。 ところが、山本弘著「MM9」は、怪獣をSFとして描いた小説です。この小説では、怪獣を「神話宇宙」の物理法則の世界に存在するものと設定して、我々が現実に生きる「ビッグバン宇宙」の物理法則には従っていないなどと説明しています。とても納得できる仮説でした。さらに、怪獣ファン向けの隠し味も多々ありました。著者自身が怪獣好きであることが、ここまでの充実した作品を書かせたのでしょう。同じ怪獣好きとしては、じつに嬉しい。大変読み応えがありました。 「ファントム・ファイアー」も、怪獣映画のスタイルを踏襲していて、ファンとしては見応えがありましたよ。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
June 15, 2008
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こちとら「モスラ対ゴジラ(1964)」で怪獣映画の産湯につかった身だぁ、昨日や今日、怪獣映画ファンになったひよっことは年季が違わい(ゴジラの新作も作られない現在、新しい怪獣映画ファンなんてものがいるのかどうか)。「クローバーフィールド」は。この怪獣映画オヤジを唸らせたんだから、てぇしたものじゃねえか。なあ、おい。 子供だろうが、大人だろうが、怪獣映画はおもしれえんだよ。 この映画は、家庭用ハンディビデオカメラで撮影されたとされる映像で構成されています。まあこれは、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト(1999)」の手法を怪獣映画に取り入れたわけだね。全編ハンディカメラの映像なので、視線がしっかりとひとつに固定されてしまっています。通常の映画にはまずあり得ないような、フレームが外れたり、ぶれたりする映像ばかりです (「ボーン・アルティメイタム(2007)」の手ぶれ画面なんてまだおとなしいものよ) 。それによって、とてもリアルな怪獣映画になりました。 怪獣映画は、とっても荒唐無稽なものです。完全な非日常ですね。まず、ゴジラのような身長50mもの巨大生物がいるわけがない。それから、大砲でもミサイルでも退治できない生き物というのもじつに不可思議。しかも、たった1頭しかいない生物って何?なんで人間社会(大都市、しかも日本ばかり……)を襲って、建物をぶっこわさなくてはいけないのでしょうか。行動に全然目的がない。 ヤボなつっこみはあえてせず、巨大生物の破壊スペクタクルを楽しめばいいのですが、ともすると(しなくても)怪獣映画は子供のものになってしまいます。コートームケーだから。 そんな中で「ガメラ大怪獣空中決戦(1995)」は、単なる怪獣バトルではなく、現実の社会に怪獣が現れた場合を考えた内容で、大人の観賞に耐える、いや大人とか子供とかの区別のない充実した怪獣映画でした。しかし、友人に見ることを進めてビデオテープを貸したら、その男はガメラを見た後で「家族からバカにされた。オレの時間を返せ」と言われてしまいました。なんでこの映画のよさがわからないかねぇ。 怪獣だから幼稚などという見方をせず、中味を見なければいけないですよぉ。 まあ、分からんものには、見せてもしょうがない。 分かる人は、想像力とインテリジェンスを備えた方です。 「クローバーフィールド」の舞台は、アメリカ一番の大都市ニューヨーク、摩天楼が建ち並ぶマンハッタン。ある高層マンションでは、日本へ海外赴任する友達の送別会が行われています。その様子が、まずビデオに記録されているのです。平和な日常。にぎやかなパーティが行われています。 このどうでもいいようなパーティ・シーンがけっこう長い。客からのお祝いメッセージが続き、笑い、トラブルなどの人間模様が脈絡もなくダラダラと映し出されます。そこでの退屈さは、観客が普段送っている自分自身の生活となんら変わらない平凡な人間の営みが行われているのを印象づけるためのものなのです。 突然、地響きと大きな揺れが襲ってきます。そして停電。何が起こったか分からない。そう、災害は予告なしにやってくる。大地震だって、それが起こる前までは、人々は何も知らずにいつもの生活を送っています。ところがある一瞬を境に、淡々と続くと思われた日常の営みが一変してしまうのです。 窓の外を見ると、あれはなんだ、高層ビルの谷間に何やら見たことのない、得体の知れない物体が蠢いています。パーティの面々は、急いで避難しようと外に出ます。そこはパニックに陥った人々が群れをなしていました。大騒ぎの渦中、何かどでかいものが降ってきた。見ると、それは自由の女神の頭部なのです。 巨大生物は、まったくの正体不明。名前や出現理由どころか、夜の暗闇に紛れて姿さえ定かではありません。逃げまどうマンハッタンの住人たち。その様子をひたすらハンディビデオカメラがとらえます。 もし、本当に大都市に巨大生物が現れたとしたら、それを一市民の視点、体験から見ていったとしたら、きっとこんな感じにちがいありません。災害の渦中にある人間には何がどうなっているのか、正確な情報は伝わってこないのです。大地震に見舞われた被災地など は、こんな様子なのでしょう。 ときどき、ハンディビデオカメラが、電気屋でテレビのニュース映像を写したり、あるいはカメラをもっている人間がヘリコプターで救出されて、空から怪獣の姿を見ることができます。そんな断片的な情報しかない。 これまでの怪獣映画は、積極的に怪獣を映し出してきました。しかし、この映画はあくまでも襲われた一市民の立場を優先しています。だから、怪獣の全貌はよくわかりません。が、確かに巨大怪獣はいるのです。このあたりの描写が、じつにリアルですね。例えて言うと、雨の中歩いて、靴下が少し濡れちゃったみたいな感じ(脱いで確かめたわけじゃないけど、靴の中に不快さを感じる)。 さらに、逃げ惑う一団は、軍隊の攻撃場面に出くわしてしまいます。怪獣と軍隊の一大攻防戦の渦中に飛び込んでしまったがために、自分の体のすぐ脇を砲弾が飛んでいく。瓦礫が落ちてくる。下から撮ったり、横から撮ったり、正面から見たり、カメラは動きまくり、ぶれまくります。これは臨場感たっぷりだ。 普通の怪獣映画ならば、たいてい科学者や防衛隊、新聞記者などの関係者が登場します。そして彼らの視点を通して状況が描かれます。そこでは、なぜ怪獣が現れたのか、名前は何なのか、どうやって退治したらいいのかなどのやりとりされ、観客への説明が果たされます。 しかし、「クローバーフィールド」は、一市民のビデオ映像なのですから、当然広い視野はありません。俯瞰的な見方はまったくされていません。納得できる解説は何もなく、ただ部分的、個人的な視点から見た現象があるのみです。この効果を得るためには、ハンディビデオカメラというアイデアが生きています。視点はたった一つに固定されているのですから、説明的に動きようがありません。 映画を見た後、ノベライズを買って読みました。「ガメラ大怪獣空中決戦」はノベライズでも、映画で味わったのと同じような興奮がありました。しかし、「クローバーフィールド」は、文章でカバーしている部分はありますが、やっぱりハンディビデオカメラの映像には及びません。この映画は、言葉では現せない、映像でなければできない作品です。 突如現実の生活を破壊する非日常性、それこそ怪獣映画の醍醐味ってもんだ。長年、怪獣映画を見続け、追い続け、ときには冷たい視線を浴びながら、苦節ン年……(おい、泣くなよ)。継続は力なり(ってほどのことはない)、いやぁ、またひとつ感動的な怪獣映画に出会えたんだぜ、こんちくしょうめ。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
April 13, 2008
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「出来の悪い方のキング・コング」、1976年版「キングコング」はマニアからそう呼ばれているらしい。 “悪い方”という表現は、一方と他方を比べたとき、その片方という意味ですね。では、1976年版は、何と比べているのでしょう。この映画が公開された当時であれば、オリジナルである1933年版との比較で「できの悪い方」といわれたのでしょう。その後、2005年には、2回目のリメイク、ピーター・ジャクゾン版「キング・コング」が公開されました。この2005年版とくらべても、1976年版はやはり 「できの悪い方」といわれるでしょう。「評論家からは酷評された」1976年版に対して、2005年版は「評論家や観客からの評価は高かった」そうですから。 ところが、2005年版は「日本では予想外の不入り」であったのに対して、1976年版は「日本では1977年の配給収入第1位(30億円)を記録している」のです。「空前の大ヒット」を記録したオリジナルの1933年版を別格と考えれば、興味深い現象が起きています。これはなぜか。 1933年版、1976年版、2005年版は、ともに南海の島に生息する巨大なゴリラ“コング”が、見世物としてニューヨーク連れて来られ、大暴れする話です。3本とも、コングは美女を追いかけます。時代設定、上映時間など、ちがうところもある。何より不満なのは、他の2本が、コングの島には太古の恐竜が生息していて、コングと死闘を演じるのに、1976年版にはコングと大錦蛇しか出てこない。そして、コングと大錦蛇の絡みは、コングの一人芝居みたい。こらコング、自分で蛇を体に巻き付けて、何遊んでるんだ!と言いたくなる。 特撮的に見たときには3本とも手法がちがいます。1933年版は、コングなどの人形を一コマずつ動かして撮影する“ストップモーション・アニメ”、1976年版は人間がコングのスーツの中に入って動く“着ぐるみ”、そして2005年版のコングや恐竜は“コンピュータ・グラフィック”です。1976年版だけ、人間の役者が演じています。 実際は“着ぐるみ”で撮影された1976年版ですが、公開前には、なんと“等身大(巨大な)コングのロボット” を使用したと宣伝されたことを覚えています。そんなことが可能だろうか、新作コングを紹介する映画雑誌の記事を読みながら思いました。だって、等身大のコングということは、鉄人28号やマジンガーZのような大きなロボットを動かすのでしょう。そのような技術が世の中にあるとは、聞いたことがありませんでした。21世紀の現在においてもまだできないでしょう。 でも、純情な高校生は、それを確かめるために映画館に足を運びました。そこで見たコングは、ロボットなどではとうていできない自然な動きをしていました。ストップモーション・アニメでもない。コングの中に人間が入っているのでなければできない全体の動き、表情の変化、まぎれもなく着ぐるみでした。なんだ、やっぱりロボットなんかじゃない(部分的には、ほんの短いカットで、等身大の木偶の坊のようなコングがスクリーンに現れました)。 1976年版で一番印象に残っているのは、特撮の合成画面が自然なことでした。例えばキングコングが逃げる美女役のジェシカ・ラングを追っかける場面があります。画面手前に小さなジェシカが正面から映り、その背後からコングが迫る。そうした場面では、従来の画面合成ならジェシカの輪郭部分が残ったものです。ところがそうした輪郭部分がない。古い特撮映画では、実際には見えている輪郭部分を、見えないこととして、私たちは映画を見ていましたが、この映画ではその脳内での作業が必要ありませんでした。輪郭部分がでない。これは画期的なことに思えました。もしかしたら、本当に等身大のロボットを使って撮影しているのかと見まごうほどに。 輪郭が出ないことで、特撮技術の進歩を見せてくれました。けれど、特撮は技術だけではありません。見せ方がとても大事です。いくら技術があっても、見せ方に失敗すればせっかくの画面が台無しになります。コングが初登場する場面で、コングの目のあたりが映ります。全身を見せないで部分から入って、観客の期待を煽る演出ですね。しかし、これでは、コングの巨大感が味わえません。森の木をなぎ倒して進んではいますが、目だけ映すという手法は、ドラキュラや狼男など、人間大のモンスターでもいいわけです。ある部分を見せるだけで、何か巨大なものが迫ってきていると感じさせてほしかった。それと、コングが姿を現した後、生け贄にされたジェシカを掴もうとする場面。ここでは、コングたちをコングの背丈よりもずっと高い防壁の上から俯瞰で撮影している。確かに、ジェシカとの比較でははるかに大きいゴリラとわかりますが、防壁と見比べるとコングが小さく見えてしまうのです。観客はコングが巨大だということをすでに知っています。けれど、その前提にあまえてはいけない。徹底して巨大感を醸し出す、それができるのは特撮映画だけなのだから。 着ぐるみを使った1976年版ですが、コングの実物大の手(前足)は何度も登場しました(もしかして、これが巨大ロボット?)。機械仕掛けでできているのでしょうが、ジェシカを掴んだり、掌に乗せたりして、とても活躍します。ジェシカと巨大な手がスクリーンで共演すると、その動きのスムーズさがわかります。また、コングが巨大な手でジェシカを掴んで顔の前に持ってくるところは、実物大の手と着ぐるみコングとの合成です。着ぐるみが人形のジェシカを掴むのではなく、生身のジェシカの全身と大写しになったコングの組み合わせが可能です。その状態での両者の掛け合いを見ることができます(人形は、演技ができません)。実物大の手が果たした役割は大きいといえます。 この映画の中で着ぐるみ巨大ゴリラの迫力がたんまりと出ている場面、それはニューヨークでコングが列車を襲う場面です。コングは深長6mほどですから、50メートルのゴジラとは縮尺が違います。ゴジラと比べると電車はちゃちなおもちゃに見えることがありますが、コングとの比較では電車も大きく作られます。だから、重量感があります。走ってくる列車をキャッチして持ち上げ、投げ飛ばす。屋根をベリベリと剥ぎ取ってジェシカを捜す。着ぐるみと電車や線路のセットの組み合わせでなければ見られない心躍る風景です。 着ぐるみを使ったコングについて見てきました。かつてアメリカの怪獣映画は、ストップモーション・アニメが主流でした。それは1933年版「キング・コング」からの伝統です。そして、「ジュラシック・パーク(1993)」以後はCGになり、2005年「キング・コング」に引き継がれます。アメリカでは、着ぐるみ怪獣映画は、メインストリームではありません。ところが日本では、伝統的に着ぐるみで怪獣映画がつくられてきました。着ぐるみ怪獣映画は日本のお家芸であると同時に、日本映画界を象徴するジャンルでもあります。ここに、1976年版が、アメリカでは受けなかったのに、日本では大ヒットした理由があるのではないでしょうか。私たち日本人は、ゴジラを始めとするたくさんの特撮怪獣映画で何種類もの着ぐるみ怪獣を見てきました。キングコングだって、東宝特撮の「キングコング対ゴジラ(1962)」や「キングコングの逆襲(1967)」では、着ぐるみで登場したのですから。アメリカ人は着ぐるみコングに違和感を味わったかもしれませんが、日本人はすでに見慣れていたのです。 「出来の悪い子ほどかわいい」といいます。公開当時は、「出来の悪い方のキング・コング」1976年版を見て、期待はずれでがっかりしました。けれど、時を経てみると、着ぐるみコングということで、不思議と愛着を感じる映画です。引用・参照 Wikipedia人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
February 3, 2008
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あの子もこの子も「ガメラ対ギャオス」を見に行った。口コミで評判が広がり、クラスの中で、入場者サービスの下敷きをもっている友達がどんどんふえていった。教室が、ガメラとギャオスの話題でもちきりだった。ゴジラのシリーズでも、東映まんがまつりでも、あんな盛り上がりを見せたことはなかった。「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス(1967)」監督:湯浅憲明出演:堤 志郎:本郷功次郎金丸すみ子:笠原玲子 富士山の噴火によって出現した怪獣ギャオス。ガメラが東宝のゴジラに対抗した怪獣であるならば、ギャオスはラドンを意識したであろう空飛ぶ怪獣です。ギャオス対策会議の席上で「ギャオスは動物学的に見て、鳥類ですか、爬虫類ですか」との質問が出る。青木博士の答えは「あんな怪獣は、有史以来現れたことがありません。強いて分類すれば、怪獣類でしょう。」これは、じつに明快で心地よい答えです。なぜギャオスはガメラに足を食いちぎられて、即座に生えてくるのか。生き物なのに、なぜ苦手な火が燃え盛ると腹から消火液を噴霧できるのか、すべてが「怪獣類だから」ということです。 この作品のリメイク「ガメラ大怪獣空中決戦(1995)」で、鳥類学者長峰真弓はギャオスについてこう言います。「鳥じゃありません。羽毛がなく、牙がある。あんな鳥はいません」青木博士の答えが、言葉を変えて引き継がれていたのですね。 では、“怪獣類”ギャオスについて見ていきましょう。ギャオスは口から300万サイクルの超音波メスを発射し、なんでも切断してしまいます(さすがにガメラの甲羅を通すことはできなかった)。この超音波メス、別名超音波光線とも呼ばれる。子供の頃、ここに引っかかった。音波とは音でしょ。なのになぜギャオスは光線を出すのか?今回この疑問を解くために超音波メスについて調べてみました。超音波メスは、刃先に縦の超音波振動を伝え、組織の凝固(止血)と切離を 同時に行うということ。やっぱり光線は出ないようだ。 ギャオスとは、簡単にいうと、コウモリのような怪獣です。コウモリは暗い中で、超音波を出して、周囲の反響を聞き分けながら行動します。そこから“超音波メス”という発想が出たのでしょう。 形状的に見ると、コウモリもギャオスも前足が翼になっています。コウモリは親指が鉤爪に飛び出ており、あとの指が長くのびて、それらの指の間に膜ついて翼になっています。ギャオスは、コウモリの鉤爪にあたる部分が手のようなっていて、何本も指があります(さすが怪獣類)。翼についた手で、人間を掴みます。そして、食べてしまうのです。 しかし、不思議なのは、手に見られるところから前足(翼)の付け根までに、人間にあるような肘部分の関節はありません。まっすぐのびたままです。それなのにギャオスは掴んだ人間をどうやって口まで運んだのでしょうか。これについては、子供ながらに考えました。多分、一旦足元などの地面に置いて、それから食らいついたのでしょう。そのシーンは、スピーディな展開を考えて、省略されたのだと思われます。 前足については、ガメラも驚くべき能力をもっています。岩を掴んで、ギャオスに投げつけ、口にすっぽりはめこんで超音波メスを封じます。ナイスコントロール!そういった器用さだけに止まりません。ガメラは、ギャオスに襲われた英一少年を危機一髪のところで助けます。そして、英一少年を甲羅に乗せて運びます。このとき、ます英一くんを前足でやさしく掴みます。つぎに、画面に甲羅の部分が映り、ガメラの前足がかぶります。指を広げて少年を置きます。さて、あたかも人間が自分の背中をかくかのように、亀がどうやって甲羅の上まで前足をもってくることができたのでしょうか。この映画で最大の謎でした。それ以後、亀を見かけると、前足部分をじっと観察して、甲羅の上までもってくることができるかどうか何度も確かめました。 さて、凶悪ギャオスの前に立ちふさがったぼくらのガメラも、超音波メスにより大けがをしてしまいます。ガメラに頼らず、人間がギャオスを倒さなければなりません。夜行性のギャオスは紫外線に当たると組織が何分の一にも収縮するのです。なんとか日にあてたい。夜が明けるまで屋外にとどめておく方法はないか。そこで考えついたのが“回転ラウンジ作戦”。ホテルの回転展望ラウンジにギャオスを乗せ、高速回転させると目が回ってしまう。ギャオスがクラクラ、フラフラしているうちに、日の出を迎えれば成功というもの。回転ラウンジにギャオスをおびき寄せるため、屋上にはギャオスの好きな人間の血液と同じ臭いと味のする人工血液の噴水が備え付けられた。ギャオスがラウンジに乗り、噴水の血液を飲み始め、回転が始まった。 ギャオスがいくら夢中で人工血液を飲んでいるからといって、グルグル回されてもその場から逃げないのが不思議だった。そこで、実験。公園の回転遊具にパンくずを撒き、鳩や雀を待った。鳥がパンくずをつつきに来たら、回転遊具を回す。なんのことはない、鳥たちは、ちょっとでも遊具が動くとすぐに飛び立ってしまった。結果から、餌より、身の安全が優先するとの考察を得たのでした。 “怪獣類”の数々のはてなマーク。当時はそれらを感じながらも、映画の展開に引き込まれました。子供の味方ガメラが、人食い凶悪怪獣ギャオスをいかに倒すかを、子供も、そして大人も、固唾を飲んで見守っていました。だから、学校の友達がたくさんこの映画を見に行ったのです。 これは、プロレスに似ています。レスラーがコーナートップによじ登り、ニードロップを落とす。対戦相手はよけもせずリングの上に寝ているのはなぜか。四の字固めやコブラツイストはレスラーがやるときれいに決まるのに、友達にかけようとすると相手が防御してしまって全然決まらない。それでも、日本中が力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木が、得意技で凶悪外国人レスラーを倒すのに興奮しました。 怪獣類とは、そしてプロレスのわざも大いなる“はったり”です。あの時代は、些末な部分の整合性よりも、そういった観客を楽しませるための“はったり”を受け入れていました。甲羅の上に前足が届くとガメラが言うのならば、そうなんだと容認する。レスラーが、グロッキー状態だから動けないとするのだったら、許容する。そして、見せてくれるものや全体の流れに浸ることができました。 最近のCGによるリアルな画面、そしてK-1やプライドなどのリアルファイトよりも、荒唐無稽な“はったり”を見せる怪獣映画やプロレスがおもしろかった。その全盛期を体験できたのは、人生の財産です。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
January 13, 2008
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映画の題名は「ナイトメア ミュージアム」。「ナイト ミュージアム(2006)」ではありません。この手のまぎらわしい映画、けっこうありますよね。例えば「トランスモーファー(2007)」、え!?スピルバーグ制作総指揮の「トランスフォーマー(2007)」じゃないんです。「スターレック皇帝の侵略(2005)」、いつの間に「スタートレック」シリーズの新作ができたかと思いますが、トレックじゃなくて“レック”なのです。これらのDVDをうっかりまちがえて借りる人もいるでしょう。でも、意図的に借りて、楽しむのも一興です。「ナイトメア ミュージアム(2006)」監督: ルーイー・マイマン出演:マッコール教授:ジェレミー・ロンドンルーディ:グリフ・ファーストレイチェル・ドネガン:ウェンディ・カーター 「ナイト ミュージアム」と題名が似ていることから、「ナイトメア ミュージアム」もオリジナルと同じように博物館で大騒ぎする映画かなあと思いました。それはそれで、メジャー(本家)とB級(パクリ版)を比較してみると面白い。けれど、「ナイトメア」の方には、博物館は前半にちらっと登場しただけ。ほとんど映画の舞台にはなっていません。それもそのはず、原題は“BASILISK: THE SERPENT KING”日本語にすると「蛇王バシリスク」。なんと怪獣映画だったのです。 怪獣は、普通の生物では考えられない特殊な存在です。火を噴いたり光線を発射したりします。人間の使う武器が通用しません。たいていの場合、地球上に一頭しかいない、などなど。生物学的、物理学的にはありえない特性を備えています。それらは、映画を面白くするための設定なのですが、それらについてあまり明快な説明はありません。なんでかよくわからないけど、怪獣は市街地を襲い、建物を破壊します。ふつう、進行方向に邪魔物があれば、猫だって犬だって歩きやすいようによけて通ると思いますが、怪獣はなんでも真正面からぶつかり、踏んづけて進みます。 怪獣は、通常の生物が放射能等で突然変異を起こしたり、宇宙からやってきたりします。この映画では、伝説のバシリスク(またはバジリスク)を扱っています。バシリスクは、ドラゴンやカッパなどと同じ想像上の怪物です。そのバシリスクが実在したというお話。その中で、可能な限り怪獣バシリスクについて、科学的に説明を試み、ていねいに怪獣映画をつくろうという姿勢に好感がもてました。怪獣映画だからといって、「この程度につくっときゃあいいんだよ」という投げやり、やっつけの仕事ぶりは、許せません。 マッコール教授は、リビアの遺跡から巨大なバジリスクの石像とメデューサの瞳と呼ばれる宝石が飾られた黄金の杖を発掘します。コロラド州にある自然史博物館に展示されることになり、日食の日に除幕式が行われる。ところが、日食の光がメデューサの瞳を通しての石像に照射されたとき、バシリスクが2000年の眠りから復活し、人々を襲い始める。 なおバシリスクは、全長15mほどの蛇型怪獣です。都市破壊はしません。 マッコール教授とレイチェル博士のやりとりの中で、科学と超自然現象の対比というテーマが語られます。マッコールは、「神話と歴史は相反する」と言い、科学的、合理的な立場を取ります。一方の、レイチェルは「私は、(学問的に)超自然を探求することで、世界の平凡さを補いたい」と考えています。ここは、怪獣の存在意義に触れる議論だと思います。 科学とは、常識的、現実的な世界観です。そして、怪獣は、超自然、空想、荒唐無稽の存在です。科学的に怪獣なんてありえないとしてしまえば、怪獣映画は成り立たなくなってしまいます。 反対に、怪獣だから何でもあり、にしてしまうと、怪獣映画の質を低下させます。映画の中で怪獣を登場させるとき、なんだかわからないけど巨大で、特殊な能力をもち、不死身の存在として描いてしまうと、アクションとバトルだけに依存してしまいがちです。それをやりすぎると、怪獣を受け入れるのは、幼い子どもに限られてしまいます。科学的なシミュレーションとして怪獣を設定すれば、そこに大人の観賞にも耐えうる怪獣映画の可能性があります、と考えるのは怪獣好きだけか。 バシリスク迎撃に、軍隊が出動します。しかし、機関銃もバズーカも、バシリスクには通用しません。マッコールの助手であるルーディがバシリスクの鱗を発見、分析すると、石綿状の切れない、熱にも強い断熱材、絶縁体でできていることがわかる。だから、銃弾、ロケット弾でも殺せないというわけです。ゴジラが砲弾をはね返すのは、皮膚がやたらと硬くて分厚いから、という説明に比べると、より具体的な説明です。通常の武器が通用しないバシリスク、しかし、マッコール教授は叫びます「生き物なら殺せるはずだ」。マッコールは、バシリスクを人知が及ばない超自然的なものとは考えず、あくまでも科学の範疇で解決を図ろうとするのです。 バシリスクは、日食の光がメデューサの瞳を通して照射されたときに石像と化し、同じくその石像にメデューサの瞳を通して日食の光をあてたときに蘇る。そのへんの理由付けはされていません。いずれにしても、バシリスクを倒すため方法は、日食の光が必要なのです。けれど、つぎの日食は、この後40年も待たなければなりません。 ルーディは、日食と同じ効果をもつ光があることに気付きます。それは、原子力発電所の核融合の光でした。光を宝石(メデューサの瞳)に通すことについては、つぎのような説明をします。頑丈なバシリスクの鱗に対しては、強烈なエックス線やガンマ線などを照射すれば破壊できるかもしれない。その際には焦点を絞るために、メデューサの瞳のような屈折率の高い宝石を通過させる必要がある、というものです。もっともらしい説明です。納得して映画を見ていきましょう。 マッコール教授は、射能スーツを装着し、メデューサの瞳が装飾された黄金の杖をもって原子力発電所へ入ります。バシリスクをおびき出し、メデューサの瞳を通して核融合の光を照射。しかし、バシリスクを完全に石化することができない。マッコールは一計を案じ、使用済み燃料棒の冷却タンク(ー45℃の溶液)に突き落として、バシリスクを凍らせることに成功、ついにバシリスクを倒したのです。 自然現象である日食の光を、科学的に再現することはできなかった。しかし、科学的な方法で、自然的存在であるバシリスクを退治することができた、という結末です。 かつてゴジラが出現した時代には、怪獣が都市を襲撃、破壊することも、人間のもつ兵器が通じないことも許容されていました。それは、怪獣が目新しかったためもあるでしょうし、兵器がショボかったせいでもあるでしょう。しかし、夥しい数の怪獣を見てくると、都市を破壊するのは、怪獣にとって何の目的、利益があるのかと訝しく感じます。また、近代兵器の破壊力の前には、巨大怪獣といえども耐えられることにまったく説得力がありません。時代は進み、人々はすっかり情報通になってしまいました。情報化社会の中では、非現実的な存在である怪獣は、とても生きづらいといえるでしょう。けれど、怪獣は、まだまだ魅力を引き出せます。そのためには、ある程度理に叶った説明を備えた怪獣が必要です。なんで一頭しかいないか、なんで街を襲うか、などの説明が。 さて、不死身のバシリスクは、本当に葬り去られたのか。驚異の生命力をもつバシリスクは、氷が溶けたら復活しそうです。続編があればの話だけれども。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
January 3, 2008
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恐竜と人類が共棲する?原始時代、ツマクは山の部族を追い出され、放浪の旅に出る。恐竜に襲われ、猿人と遭遇し、海岸に辿り着いた。海辺に住む部族に助けられたツマクは、美しいロアナに見初められる。部落を襲撃してきたアロサウルスを撃退し、一躍ヒーローとなったツマク、しかし、孤高のツマクはそこでも人付き合いがうまくできず、またもや追放。ツマクを追ってロアナも旅に出る・・・。「恐竜100万年(1966)」監督:ドン・チャフィ出演:ロアナ:ラクエル・ウェルチ ツマク:ジョン・リチャードソン この映画の原題は「One Million Years B.C.(紀元前100万年)」。公開された当時は、 “原始時代”というくくりが非常にアバウトだったと思うのです。有史以前は、みんな“原始時代”。進化の過程に関係なく“原始時代”。恐竜に追われる人類の絵柄が、何の不思議もなく人々に受けて止められていたのです。 ハンナ・バーベラプロのアニメ「原始家族フリントストーン(1960)」にも、人類と恐竜が一緒に登場するしね。 実在した恐竜と架空の存在である怪獣も、区別が明確ではありませんでした。あの「ゴジラ(1954)」でも、古生物学者の山根博士が、ゴジラについて「今からおよそ200万年前のジュラ紀から白亜紀にかけて、海棲爬虫類から陸上獣類に進化する過程にあった、中間型の生物」と説明しています。白亜紀は、1億4000万年前から 6500万年前、ジュラ紀にいたっては1億9500万年前から1億3500万年前にかけてのこと。恐竜絶滅したのは、白亜紀の末期です。 このゴジラの誤りについては、竹内博氏の説によると、意図的に約200万年前としたのではないかとのこと。アウストラロピテクスの生存年代と重ね合わせた、ゴジラとはつまり、人類の暗喩なんだそうです。 いずれにしても、私も、タイムマシンに乗って原始時代に行き、恐竜や原始人を見たい、などと夢想していました。(と書いていて、そういう時代錯誤をしていたのは、もしかして私だけかもしれないという不安が沸き上がってきましたが) まあ、時代考証をちゃんとやって原始人だけ、あるいは恐竜だけを描いたとしても、おもしろくありません。やっぱり人と恐竜のからみがあるから、観客は映画館に足を運ぶのです。6000万年以上の時を無視する強引さですが。 とはいっても、200万年も1億万年も、せいぜい生きて100年の寿命しかない人間にとって見れば、その差はイメージしにくいものです。今は、恐竜時代と人類の発生は、おおきくずれていることが常識となっただけのこと。 「ジュラシック・パーク(1993)」を見たとき、確かにCGによる恐竜はとてもリアルだけど、「恐竜100万年」の方がワクワク、ドキドキしたなあ、と思ったものです。今、「恐竜100万年」を見直すと、ジュラシック・パークシリーズの恐竜オンパレードを見慣れた目には、登場する恐竜がとても少ないと感じます。当時は、技術的な面から、恐竜をたくさん出せない。だから、演出によって希少価値を出すようにしていたのでしょう。 この作品に最初に登場する巨大生物、その正体はなんとイグアナなのです。私は、子供の頃に、この映画を家族と一緒にテレビ放映で見ました。その巨大生物の造型、動きから、着ぐるみや人形アニメではないとわかりました。「ホンモノのトカゲを大写しにして、恐竜に見せてるんだ」思わず、つぶやきました。父親は、言ってることが理解できません「なんだって?」。母親がそれに答えて「トカゲを使っているんだって、この子の説によるとね」 母親は、自分の息子の言うことに納得していません。たかが田舎のガキの言うことです。映画評論家でもなんでもない。説じゃないよ、どう考えたってそれしかないじゃないか。そこのところが、なぜわからないのだろうともどかしい。まあ、原始時代に恐竜が生息していることを何の疑問ももたずに見ているわけですから。 人形アニメで動く恐竜は、確かにぎこちないところがあります。特にしっぽの動きなどは、なめらかではなくて、生き物としては不自然さを感じます。けれど、恐竜同士のバトルに敗れて、息も絶え絶えになる様子(呼吸で腹が膨らんだりしぼんだりする)は芸が細かいなあと思います。即死にすれば動かす必要はないのだけど、そうした部分を工夫して描くことで、リアルさを出していこうとしたのですね。 この映画を語る上で、主演女優のラクエル・ウエルチをはずすわけにはいきませんね。エキゾチックというのかフェロモン過剰な顔立ちとダイナマイトボディで、ワイルドな原始美女という役どころにはまりすぎ。セールスポイントであるはずの凶暴、強大な恐竜がかすんでしまうほど。 じつは、ラクエル・ウエルチ、この時点ですでに二児の母というからぶっとびます。一方、美しさにさらに磨きをかけるために、美容整形にも余念がなかったとか。 しかし、私としては、この動物なめし皮製のビキニよりも、「ミクロの決死圏(1966)」の潜水服姿の方が魅力的です。これはウエルチではなくてフェチなのでしょうか。 娘のターニー・ウェルチは、「コクーン(1985)」に出演し、若き日のラクエルにそっくりと話題となりましたが、その後はあまり名前を聞きません。やはりお母さんのセクシー・パワーには勝てなかったのでしょう。 「恐竜100万年」のリメイクというか続編というのか、同じ映画会社が「恐竜時代(1969)」をつくっています。日本公開は1971年、中学生だった私は、友達と劇場へ見に行きました。この映画、私の知る限りでは、一般映画で最初におっぱいをポロリと露出してくれました。「そんなもの見せていいのか」と中学生は大興奮。私の友人は、その場面見たさに、他の友達を誘って、別の日にまた映画館に行ったのでした。 特撮専科の当方としては、女優さんの話だけで終わるわけにはいきません。 このセクシー原始美女ラクエル・ウエルチ、翼竜プテラノドンの爪につかまれてさらわれます。プテラノドンは、元祖「キングコング(1933)」でも、主役の美女アン(フェイ・レイ)、ラクエル・ウエルチと同じような衣装、を空から襲い連れ去ろうとします。 なんだか映画に出てくるプテラノドンには、感情が見られなくて、その上好色、サディスティックな印象をもってしまいます。 お話としては、山の部族に戻ったツマクが後継者争いに巻き込まれ、海辺の部族が応援に駆け付けて、といった人間方面の展開で終わるのかと思っていると、突然火山の大噴火が起こり、スペクタクルな見せ場となる。やっぱり特撮映画ですからね、それらしくしめてもらってよかったです。巨大イグアナも、足もとの地割れによって、“生きたまま”地中深く落下していきました。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
October 21, 2007
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スクリーンの中には、まぎれもなくモンスターやクリーチャー(二つとも“怪物”という意味。微妙に語感が異なる)がいる。そのことを教えてくれたのは、東の円谷英二、西のレイ・ハリーハウゼン、特撮映画の巨匠たちだ。 ハリーハウゼンの「アルゴ探検隊の大冒険(1963)」、円谷の「モスラ対ゴジラ(1964)」を立て続けに見ることにより、ボクは幼くして人生における転換点を迎えたのでした。以来、卒業することなく特撮映画を追い続けているのは、その衝撃の大きさを物語ると同時に、精神発達の問題も感じさせますが。 円谷とハリーハウゼン、両者の特撮手法には違いがあります。円谷の怪獣特撮は、俳優が着ぐるみを装着する方法です。一方のハリーハウゼンは、怪物などの人形を一こまずつ動かして撮影するモデル・アニメーションです。 円谷がつくった日本の代表的な怪獣モスラ、ゴジラにしても、「アルゴ探検隊~」に登場する青銅の巨人タロスにしても、現実の世界とはまったく無縁な存在、映画の世界の生き物(クリーチャー)です。しかし、虚構であるはずのスクリーンに映るそれらは、生命観にあふれています。 そればかりではありません。彼らの作品に“怪物が存在する”のいえるのは、ゴジラにしろタロスにしろ、「実物」がいるんです。メイキング写真等を見ると、円谷と着ぐるみゴジラとのツーショットがある。あるいはハリーハウゼンは、映画に登場したクリーチャーの人形を手に捧げ持っています。 円谷もハリーハウゼンも、共にアナログ特撮の可能性に挑戦しました。着ぐるみでも、人形アニメでも、“怪物たち”がいないと映画はできません。 2005年に「キング・コング」がリメイクされました。そのコングは、コンピュータ・グラフィックによって動いています。だから、フィルムやコンピュータの中にはいますが、具体的な存在(造形物)はどこにもありません。 映画に登場した怪獣、怪物については、“フィギア”なるものが商品として売られます。ファンは、映画に登場したのと同じ“フィギア”をほしがります。ことのき、円谷やハリーハウゼンの怪物については、スクリーンに映る怪物、いいかえると着ぐるみや人形を細部まで再現した造型が好まれます。 人間が、粘土やゴムなどの素材で作った造形物の怪物は、完璧ではありません。生物としてみたとき、でこぼこがあってなめらかでなかったり、着ぐるみなどは人間が着るのですから、そのプロポーションがモロに感じられたりします。 「シンドバッド7回目の航海」では、魔法使いによって、侍女が、頭は人間で胴体は蛇の怪物に変身させられます。蛇女が踊り狂う全身映像を人形アニメーションで見せ、ときどき顔のクローズアップが入って、生身の人間が蛇に変えられた雰囲気を出そうとしています。これがCGであれば、生々しい蛇の胴体に、首だけ実写の人間にすげ替えることが簡単にできます。 けれど、人間には想像力がありますからね。リアルさよりも、人形アニメと顔のクローズアップを頭の中でつなげるのが、楽しいのです。 CGは、おそらく“ホンモノそっくりのゴリラ”を表現することが可能なのでしょう。けれど、スクリーンの怪物は、例えリアルさに欠けても、そこに味が出てくるものです。 ホンモノのゴリラがリアルなのではなくて、スクリーンの怪物こそがリアルなのだ。 「シンドバッド7回目の航海」は、ハリーハウゼン初のカラー作品としてつくられました。 ボクがこの作品を見たのは、映画がつくられてから20年ほどたってからです。映画の存在は早くから知っていましたので、見るまでの間、期待は高まり続けました。それは、なんといっても一つ目の大巨人“サイクロプス”の存在感です。サイクロプスは、少年雑誌のモンスター特集や藤子不二雄の「怪物くん」で見て、かねてからその勇姿に惚れ惚れしていました。 念願叶って実際にスクリーンで動く一つ目大巨人を見ると、凶暴凶悪なだけでなく、なんかマヌケな雰囲気も漂わせていました。その意外性が、また嬉しかったね。 本来サイクロプスは、ギリシャ神話に登場する巨人です。だから、アラビアンナイト(千夜一夜物語)のシンドバッドとは無関係。さらに、ドラゴンまでお出ましになり、サイクロプスと大決闘を演じます。なんという大サービス。涙がちょちょぎれますね(誰のギャグだったっけ?) このシリーズ(「シンドバッド黄金の航海(1973)」「シンドバッド虎の目大冒険(1977)」)には、同じくギリシャ神話のケンタウロスやインド神話のカーリー像などが活躍する。そのへんは、ご愛嬌。それぞれが、特撮画面で持ち味を発揮してくれるのでOK!。もちろん「七回目の航海」には、オリジナルのシンドバッド・ストーリーに登場するロック鳥も出てきますよ。 特撮的には、シンドバッドとガイコツ戦士の剣戟は必見です。これはちょっと信じられない映像で、ただ単にスクリーン上に巨大怪物を合成するのとは訳が違います。なんと、実写の俳優が演じるシンドバッドと、人形アニメーションのガイコツ戦士がチャンバラをするんですよ! この俳優とアニメーションの複雑な動きの組み合わせをハリーハウゼンは“ダイナメーション”と呼びました。 この作品では一対一の闘いですが、「アルゴ探検隊の大冒険(1963)」では、グンとグレードアップして、アルゴ戦士とガイコツ軍団の集団大乱闘が繰り広げられます。やってくれますよね。 人間とガイコツ戦士の白熱バトル、これをCG、つまりデジタル合成でやったとしても、「コンピュータでつくったのさ」で話は終わります。それだけでは、驚異を感じません。 ですが、アナログの特撮映画は、具体物を使っているがために、どうやって撮影したのだろうと興味が尽きません。やはり、怪物が棲んでいるのです。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
September 24, 2007
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東宝特撮初の宇宙怪獣登場! 「宇宙大怪獣ドゴラ(1964)」監督:本多猪四郎特技監督:円谷英二出演:夏木陽介 藤山陽子 ちょうど物心がつき始めた頃だったのです。「海底軍艦(1963)」「モスラ対ゴジラ(1964)」のハードパンチ2連発を浴びたのは。大スクリーンに展開する巨大メカ、そして大怪獣の激突。大迫力の東宝特撮映画によって完全にノックアウトされ、今に至るまで、夢遊状態に陥ってしまいました。(大、大って、大きいものにコンプレックスでもあるのかしら?) それ以前にも東宝特撮の「日本誕生(1959)」「宇宙大戦争(1959)」を見ているのですが、こちらはうろ覚え(「宇宙大戦争」の宇宙ステーションシーンや宇宙人によって陸橋が浮遊させられ、特急列車が転落するシーンは記憶に残っている)。さすがに幼なすぎて、魂を奪われるまでの衝撃は感じませんでした。がしかし、何かしらの基礎にはなっているのでしょうー三つ子の魂百までってね。 そして1964年夏休み、「宇宙大怪獣ドゴラ」が公開されました。 映画「ドゴラ」のチラシを手に入った。何度も何度もなめ回すように見た。スチール写真には、何体ものドゴラが上空より地球を襲撃している。さらにキャッチコピーは「モスラ、ゴジラよりおもしろい」 あいまいな文章でよくはわからんのだが、なんと、あの大傑作特撮怪獣映画(重々しい肩書きじゃあ)「モスラ対ゴジラ」よりおもしろい映画だというのか、それともモスラ、ゴジラの二大怪獣よりもドゴラは凄い怪獣だというのか、 街角の映画ポスターには、二体以上のドゴラが、上空から大都市を破壊したり、大型客船を持ち上げたりしているぞ!実際の映画では、どんなド迫力場面が展開するのか。 とにかくこれは見に行かないではいられません。 両親に「見たい見たい見たい見たい・・・」とまとわりつき、ようやく見に連れて行って貰いました。 夏休み、おばあちゃんちにお泊まりした翌朝映画館へ。ばあちゃんが「ゆっくりしていけばいいのに」とひきとめても、普段ならたっぷり遊んでいくのだが、この日ばかりは、小遣いを貰えようが、マンガやプラモデルを買って貰えようが、それを振り切っておやじの自転車の後ろにまたがり、勇躍映画館へと向かいました。 そんなにも楽しみにしていたに、見終わって呆然。我が映画人生(まだ始まったばかりじゃ)で、初めて味わう虚脱感。この映画は一体何だったんだ?「モスラ、ゴジラよりもおもいろい」ってどこがぁ? 視線を宙に漂わせ、口を半開きにしている私を見て、おやじが口走った。 「だから、最初からつまんねぇって言っただろ」 言ってないよ。今初めて聞いたぞ。まあ、落胆している愚息、豚児をなぐさめるつもりだったのか。 とにかくだねえ、ドゴラらしいドゴラは、一体しか出てこなかったんだよぉ。 子供はね、怪獣がお目当てなの。人間が出てくるドラマのシーンはひたすら我慢して、スクリーンに怪獣が登場すれば、一気にスパークするんじゃい。 確かに、そのドゴラらしいドゴラ(でも、ポスターなどに見られた不気味で宇宙的なドゴラとは造型が異なる)が出現し、大暴れ(?)する場面などは、期待感に応えるものでした。ドゴラは、烏賊のような、蛸のような、クラゲのような怪獣だ。宇宙や空中に浮遊して、長い触手で街を襲撃してくる。若戸大橋は、ドゴラの触手に絡め取られ、釣り上げられ、破壊された。 そして、いよいよドゴラ対防衛隊の一大攻防戦が繰り広げられるというときに、ドゴラ本体は姿を消してしまったのだ。 「ドゴラは細胞分裂したぞ!」 させるなよぉ!そのあとは電球の入った光る透明なビニール袋(これがドゴラの細胞やね)が無数に空中を漂い、防衛隊が攻撃を仕掛けるだけ。やめてよ、ビニール袋。ここはやっぱり、触手のある幾体もの大ドゴラと防衛隊のバトルを描いてほしい。戦車やジェット機に絡みつくドゴラ、苦戦しながらもドゴラ殲滅に奮闘する防衛隊。そんな映像が見たかったな。 今、大人の目でDVDを見ると、ダイヤ強盗団の話と宇宙細胞(ドゴラ)の話が同時進行し、両方がクロスする様子など、脚本に創意工夫が感じられます。また、SF的な展開、謎解きも、シリアス志向です。 この頃は、大人とか子供とか観客をはっきり分けるのではなく、一般映画として、大人にウエイトを置いた映画作りがされていたと思います。子供がお客さんになってくるのはもうちょっと後ですね(世の中豊かになり、子供が商売のターゲットになってゆくわけ)。 私たちは子供の頃は、大人目線の映画ばかりだったから、そこから学んだことがたくさんあったぞ、Hなことも含めて(そればっかりとか)。 そういった大人を意識した筋立て-ただ怪獣が出てくればいいてもんじゃない-は、子供のときには十分理解できなかったけれど、特撮系映画を見る上での価値観を養ってもらったように思います(ドツボにはまる手助けをしたとも言える)。 今、CGを駆使して「ドゴラ」を作れば、私が夢想した都市破壊、ドゴラ対防衛隊の一大決戦などが、スクリーン上に展開するかな。だれも作らんだろうけど。 それにしても、この映画でも伊福部サウンドは、魂を揺さぶられます。伊福部なくして、驚天動地のドラマを堪能できません。そういえば、ドゴラのソフビフィギアってないよな、と思っていたら、DVDの中で商品が紹介されていました。買いに行かなくちゃ。しかし、「ドゴラ」ってネーミング、かっこいいよな。“ドラゴン”のアナグラムなんだろうけど。 “ドゴラ”じゃなくて“ドラゴン”なんだけど、昨日、テレビ局から、ブルース・リーについての問い合わせがありました。協力させていただきましたが、番組に名前がクレジットされるかな? 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
August 22, 2007
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東宝が、ゴジラ、ラドンに次いで、巨大怪獣をタイトルロールに据えた特撮映画。「大怪獣バラン (1958)」監督:本多猪四郎特技監督:円谷英二出演:野村浩三 園田あゆみ バランは、かつて幻の怪獣でした。 ゴジラ、アンギラス、ラドン、モスラのほかに、“バラン”という怪獣がいるらしいとわかったのは、吉田君の高校生になったお兄ちゃんの話から。 お兄ちゃんは、昔話をするじいさんのように優越感をもった口ぶりで言いました。 「バランはなぁ、ツノがすっごくきれいな怪獣だったぞ」 それだけ。 DVDもなければ、怪獣図鑑さえなかった頃のこと。 ツノがきれいな怪獣って、どんなんだ。想像だけがふくらみます。 しばらくして、少年雑誌の口絵に怪獣特集が組まれた。そこにバランを発見!正面を向いて二足立ちした全身が描かれていました。しかし、マイナー怪獣の悲しさか、扱いが小さくて、特徴的なものがつかめません。もちろん、ツノの美しさもわからない。 さらに、そこに付いた説明が「バランは、ゴジラとラドンの中間怪獣」 はあ? 幻の怪獣として、神秘のベールに包まれていたバランが、ゴジラとラドンの中間などという明らかな借り物的な、格下扱いの記述に憤慨した。バランの実体も知らなかったのに。 さらに、何がゴジラとラドンの中間なのかさっぱりわからない。絵からすれば、ゴジラ型の怪獣のようだが、ラドンとの類似点は見あたらないのです。 バランは、そんないい加減な怪獣なのか!? バランについてはほとんどわからなかったけれど、頭の中では、東宝特撮怪獣映画のフィルモグラフィーにしっかり加えていました。 「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」「ゴジラ対アンギラス」「空の大怪獣ラドン」「大怪獣バラン」「モスラ」・・・。 そう、情報不足から、1本の映画を2本に分けて捉えていた。「ゴジラの逆襲」と「ゴジラ対アンギラス」は同じ映画だ。また「ゴジラ対アンギラス」などという映画はない。「ゴジラの逆襲」は、題名だけ知っていて、もう一度ゴジラだけが出てくる映画が作られたと思っていた。さらに、ゴジラがアンギラスと闘ったことについても知識があったので、「ゴジラ対アンギラス」なる映画があると考えてしまったのです。 だからいつも、東宝特撮怪獣映画の本数と、タイトルの数が合わない。不思議だった。 どうしてまちがったか。「キングコング対ゴジラ」「モスラ対ゴジラ」のように怪獣映画は、必ず登場する怪獣の名前が題名に付けられると勘違いしていたからなのだ。子供の頃の話だからね。 そして、ついに幻の映画「大怪獣バラン」とご対面の日が到来。いやあ、人間長生きはするもんじゃ(嬉しさを表現しただけ。大げさ。ホントはまだ若かったのは言うまでもない。言うな!)。 それは、1980年代、池袋文芸地下の「日本特撮スーパーSF映画大会」だった。 ちなみに、私はここで30問だか50問の特撮映画クイズ大会で、最高得点をマークし、初代ゴジラのポスター(複製品)をもらいました。全問正解者はいなかったとのこと。 雨が降る画面(フィルムに傷がついているわけ)の中に見た映画「大怪獣バラン」は、地味でした。でも、ツノは確かに美しかった。全体の造型もじつに怪獣らしい。そして、しなやかな動きが見られます。 さて、なんでバランが、ゴジラとラドンの中間なのか。それは、バランが普段はゴジラのように歩きながら(ついでにいうと、アンギラスのように四つ足歩行もする)、突如としてムササビのように前足と後足との間に飛膜を広げ、ラドンのように空を飛ぶからなのでありました。おもしろいんだけどね。怪獣だから許されるんだよ。 最近、DVDで「大怪獣バラン」を見た。 この怪獣映画が地味な印象なのは、 ・カラー作品ではない。 ・スター俳優が出ていない。 ・バランが火を吹いたり、光線を出したりしない。 ・怪獣の都市破壊場面がない。 と、再確認。 この映画は、当初アメリカでのテレビ番組用に制作に入ったがキャンセルされたため、劇場公開版に切り替えたとか。 だから、ほかの怪獣映画とは異なったテイストをもっています。 アメリカのテレビ用ということで、 ・俳優の知名度は関係ないからギャラの高いスターはいらない。 ・アメリカ人は怪獣に、生物としてのリアリティを求めます。 だから、バランは、火を吹いたり、光線を出したりはしない。 不死身の怪獣ではなく、飲み込まされた強力爆弾(通常兵器の部類。超兵器ではない)が体内で破裂して、確実に死にます。 映画会社は、スターを売り出します。東宝であれば、三船敏郎、加山雄三など。人気が出れば、みんながスターを見に映画館に集まる。 怪獣も、ゴジラ、キングギドラなどスターがいて、その後何本も映画が作られます。 中には売り出しに失敗した俳優がいるように、バランも、素質をもちながら、運悪くスター怪獣の仲間入りはできませんでした。この後、バランは、「怪獣総進撃(1968)」にちらっと顔を見せるだけ。またもや幻の怪獣になってしまいました。 けれど、怪獣史の中には、忘れられない存在です。 私も、本当のじいさんになったら、「ゴジラやモスラのほかにも、“バラン”という怪獣がいてな、ツノが美しく、全身がじつに怪獣らしい姿をしておった」などと遠くを見ながら語ってみたい。けれど、聞いた人間は、興味がわけば、すぐソフトで見るんだろうな。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
August 21, 2007
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精神的に強いダメージを受けて疲れたので、「ゴジラVSキングギドラ(以下「GVSKG」)」を見たんだよ。何も考えずに映像を眺められるだろうと思ったからなんだけど。 この映画ができてから、早15年がたつのです。昭和ゴジラからすると、特撮場面に格段の進歩が見られ、スマートな映像になっていたことに感動しました。また、ゴジラを扱いながらちびっ子映画ではなく、一般映画を志向したところも嬉しかった。 (でも、昭和ゴジラの特撮は、職人芸です。映像(合成)技術ではなく、ホンモノに見える撮り方がすばらしいのです。ちびっ子ゴジラも、今はきらいではない。当時は悲しかったけど) 本作は、新しいシリーズの3本目。「ゴジラ(1984)」で、9年ぶりの復活を果たしたけれど、内容的にはガックリ。続く「ゴジラVSビオランテ(1989)」は、ビオランテが植物怪獣なので、怪獣対決としては物足りなかったのです。そんな中で、さすがゴジラとキングギドラの激突は、久々に怪獣バトルを堪能しました。さらに、音楽に巨匠伊福部昭が復帰した。これは大きい。ゴジラといえばやっぱり伊福部昭。映画の迫力が桁違いだ。 そんなことで、公開当時、二日続けて「GVSKG」を見に行ったんですよ、恥ずかしながら。 1回目は、日劇東宝(有楽町マリオン)。2回目は、蒲田東宝でした。 日劇では、おとな一人の客だったのですが、ちゃんと入場者プレゼント“ゴジラ怪獣軍団”を1個くれました。けれど、蒲田は子供達には配って、私にはくれなかった!ひどいでしょ。ケチったのか、おとなだからいらないと思ったのか。多分ケチったのだ。それで、もぎりにいたおっさんの手からひったくってきた。いいおとなが。 日劇でもらったのは、アンギラス、蒲田はバラゴンだった。バラゴンは大好きな怪獣なので、ひったくってきてよかった。今ももってるよ。 このたびの鑑賞は、心をからっぽにして見ることがテーマです。だからゴジラ誕生に関わる太平洋戦争、ラゴス島玉砕寸前のエピソードのような感傷的な場面はふっとばしてしまった。 この映画、大ヒットした「バック・トゥ・ザ・フューチャー(BTTF)」シリーズ(1985~2000) や「ターミネーター(1984)」「ターミネーター2(1991)」の影響が強くでています。あと「ダーティーハリー(1971)」のセリフも出てくるのです。 「BTTF」と「ターミネーター」の共通点は、タイムトラベルを扱っているところ。このタイムトラベルものには、タイムパラドックスがつきもの。「ダーティーハリー」との共通点はない。いや、あった。「BTTF3」で西部劇の時代に行った、マイケル・J・フォックスが“クリント・イーストウッド”と名乗ります。(できれば私も過去に戻りたい) タイムトラベル及びタイムパラドックスのお話。 「GVSKG」では、水爆実験の影響によるゴジラの誕生を防ぐために、タイムマシンで第二次大戦時にさかのぼる。そして、この時代までラゴス島に生息していた恐竜ゴジラザウルスをベーリング海に移動させてしまう。ゴジラザウルスが核によってゴジラになったのだから、核実験のない場所に移せば、ゴジラは生まれなかったことになります。 そして、タイムトマシンが過去から帰ってくると、現代で待っていた人が言う。 「確かにゴジラは姿を消した」 ふんなバカな。ゴジラザウルスが核爆弾の影響を受けず、ゴジラが生まれなかったら、歴史上にゴジラは存在しない。つまり、現代人は、ゴジラなんぞというものをまったく知らないはずではないのか。 さらに、続く。「ゴジラはいなくなったが、かわりにキングギドラが福岡に出現した」このキングギドラは、タイムマシンがラゴス島に置き去りしたドラッドという生物が核の影響で怪獣化したものだ。放射能の影響によって、簡単に怪獣が生まれてしまうのかという問題はこの際置いておく。 もし、ゴジラのかわりにキングギドラが登場するとしたら、それは核実験のあった直後、つまりゴジラが襲ってきた1954年でしょう。なんで、タイムトラベルから帰ってきたタイミングで、キングギドラが出てくるわけ? (ゴジラはゴジラで、ベーリング海の核廃棄物や原子力潜水艦の影響で、やっぱり出現する。そうでなければ、「ゴジラVSキングギドラ」にはならない) 映画を見た数日後、このつっこみをゴジラファンの女性に話した。そうしたら、「そんなこといいじゃない。おもしろかったのだから」 そう、この映画は、地球怪獣のエース、ゴジラと宇宙怪獣のエース、キングギドラ(この映画では宇宙怪獣ではなかったが)の大物同士の激突がセールスポイント。キングギドラ出現と大都市大破壊やゴジラとキングギドラのバトルが大迫力です。だから、私は二日続けて見に行ったのです。ただ、ラストのゴジラとメカキングギドラの新(当時)都庁を舞台にしたリターンマッチは、もうちょっと時間をかけてたっぷり見せてほしかったな。意外にあっけなかった。 何にしても、すばらしいのは、ゴジラの成長ぶりです。かつて昭和ゴジラは、1対1でギドラと闘うことができなかった。モスラやラドン、あるいはその他大勢の怪獣達と組まなければ、ギドラに対抗できなかったんですよ。かつてギドラは、それほど強大な怪獣だった。しかし、この作品でゴジラは、初のシングルマッチを飾った。それだけゴジラのステータスが高まったのです。 この映画を見ると、1981年9月23日、伝説の田園コロシアムでの「スタン・ハンセンVSアンドレ・ザ・ジャイアント」を思い出す(私はこの試合を生で見てるんですよぉ)。195cm、140kgの不沈艦ハンセンがゴジラ、223cm、236kgの大巨人アンドレがギドラです。難攻不落のアンドレにハンセンが果敢に挑み、スーパーファイトを繰り広げました。(映画の設定は、ゴジラ:100m、6万トン キングギドラ:140m、7万トン。体格の組み合わせが似てるでしょ) さらに、「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃(2001)」では、ついにゴジラは1頭で、三頭の怪獣(モスラ、キングギドラ、バラゴン(なぜかタイトルに出てこない))を相手にする。まるでアントニオ猪木対国際はぐれ軍団三人組のハンディキャップマッチみたいだ。 キングギドラは、一頭で地球怪獣を二頭から多いときには九頭もを相手にしていたのに、ついに、ゴジラと闘う三頭のうちの一頭になってしまいました。 どう、「GVSKG」、見てみたくなったかな? 頭と心を空っぽにしようと思ったのですが、やっぱりできませんでしたよ。 何も考えないためには、昭和ガメラの方がよかったかな。 毎週日曜日の朝には必ず更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
August 18, 2007
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身近な人の中に、仲のよい兄弟姉妹を知っています。お互いの家庭を訪れて食事会を開いたり、一緒に旅行にしたり。かと思えば、兄弟姉妹の壮絶な悪口を聞くこともあります。啀み合い、憎み合っているのです。二つのパターンとも、よく理解できません。なぜ、兄弟姉妹でそこまで仲がよいのか、あるいは悪いのか。私にも弟がいますが、会っても、特に話すことはありません。双方の近況を話したいとも聞きたいとも思わないし。もしかしたら、無言でずっと顔をつきあわせているかもしれません。それぞれみんな、どんな子ども時代をすごしたのでしょう。 ウォルターが、パパとキャッチボールに興じている。25球投げたところで弟のダニーと交替を告げられると、ウォルターは不満を残す。パパがダニーに、優しくボールを投げてやったりするとますます不満だ。親にしてみれば、小さい子にはていねいに接しているだけなのに、大きい方の子どもには不公平に映ります。けれど、やっぱり下の子どもは、小さいだけに親からかわいがられる面はあるのです。上の子のひがみもあるのでしょうが、客観的に見ても、親は下の子をかわいがる傾向が確かにあります。 ウォルターとダニーは、まだまだパパと遊んでほしいのだが、パパには仕事がある。「パパの体は一つしかないんだ!」ついにパパが怒った。パパも忙しいのだろうけど、子どもの気持ちを考えてほしいよ。同じことを言うにしても、違う言い方があると思いますよ。この後、兄弟はママのところへ行かなければならない。二人の両親は、別居か離婚か、週のうち3日はママで4日はパパと一緒に過ごすことになっているらしい(3日もしくは4日は週によって入れ替わる)。大人の都合だね。 パパが出かけた後で、ダニーはウォルターに遊び相手になってもらいたい。けれど兄は、父から優しくしてもらっていた弟とは遊びたくない。そんなときダニーが投げたボールがウォルターの顔に当たり兄は大激怒、ダニーを地下室に閉じこめてしまう。そこでダニーは古ぼけたボードゲーム“ザスーラ”を見つける。ダニーがゲームを始めると、なんと家ごと宇宙に飛び出してしまったのだ。ゲームの進行に合わせてカードを引き当てると、そこに書かれている通りに、隕石が降ってくるわ、ロボットやエイリアンの襲撃を受けるわ大騒ぎ。ゴールのザスーラに辿り着くまでゲームは終わらない。 前作「ジュマンジ(1995)」のゲームはジャングルを舞台とし、ゲームに合わせて動物が出現するなどしました。今回は、宇宙ゲームです。宇宙の方が、夢は広がる(好みの問題ですが)。また一枚カードが出てくる「宇宙飛行士、漂流。ただちに救出せよ!」。兄弟は、長い間と宇宙を漂っていた一人の宇宙飛行士を助ける。宇宙飛行士は、子どもの頃に弟と一緒にザスーラのゲームをやったという。願いを叶えるカードをひいたときいつもケンカばかりしていたから「弟を消してほしい」と願ってしまった、そのことを後悔していると語るのです。 私自身、幼稚園に入る前から、いつも弟ばかりがかわいがられていると思っていました。そういうことを口に出したり態度で示したりすると、親は余計にかわいくなくなるのでしょう。小学校の高学年になって、私は、何か苛立つ毎日をすごしていました。弟に当たり散らしていたように思います。あるとき、カッとなって弟にお椀を投げつけたことがありました。弟の頭にあたって、血が流れました。 「流れ星、飛来!願い事を祈れ」願い事のカードが出た。ウォルターは、「宇宙飛行士の弟を返して」と祈ります。すると現れたのはダニーなのです。つまり、宇宙飛行士は、ある種のパラレルワールドにおけるウォルターの成長した姿だったと考えられます。 ケンカばかりしているウォルターとダニー。現在子どもである方のウォルターだって、「ゲームでズルばかりする!」と腹を立てていました。だから、危うくダニーが消えることを念じかけていたわけです。しかし、大人になったウォルター自身が子どものウォルターを諫めたといえるでしょう。 宇宙での冒険や誤った選択をした場合の自分自身を見ることなどを通して、ウォルターも逞しくなりました。「おれは兄貴だ。兄貴は弟を守るためにいるんだ」。ダニーも答えます「ズルしてごめん」 やはり子どもは、葛藤に出合い、自分で問題解決することで成長するのです。それを子ども任せにしてしまうのではなく、大人が見守らなくてはいけません。今、大人になった私自身は、子どもの頃の自分に戻って、弟にけがをさせたことを謝りたいと思います。時間はたってしまいましたが。毎週日曜日の朝には必ず更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングに参加中。クリックしてください。ご協力、よろしくお願いします。みんなブルース・リーになりたかった
February 25, 2007
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2006年のお正月映画として公開された「キング・コング」。上映時間は188分。大作にはちがいないが、長い。映画館に入るのに躊躇してしまった。映画が始まる前のCMや予告編も入れると3時間半をこえる。まずトイレ、途中で席を立ちたくない。寒い日に、うっかり利尿作用のあるコーヒーなどを飲むと、2時間の映画で後半は我慢できなくて「早く終われ」と思ってしまうことがある。そして、間がもてるか。つまらない作品に長時間つき合わされたら、泣きたくなってしまう。 楽しいはずの映画が、場合によっては拷問になる。けれど、不安は杞憂に終わった。もちましたよ、4時間近くも。水分を控えましたから。ストーリー的にも、時間を感じさせない流れだった。 内容的には、ほぼ1933年のオリジナル版をなぞる形だった。33年版は100分。差し引き88分。B級映画1本分だ。長くなった分は、ヒロイン、アン・ダロウの大恐慌下での生活などを描いて人物描写を濃くしたから。そして、髑髏島での冒険なども、グレードアップしている。コングが丸太橋を激しく揺すって人間たちを谷底に振り落とす場面、ティラノザウルスとの激しいバトル場面など、オリジナル版にあるシーンが、CGを使ってダイナミックに再現されているところが嬉しい。ただ、CGは画面がスムーズである分印象が軽い。オリジナル版はスクリーンプロセスを使って、実際に大写しした恐竜やコングの前で人間が演技をしているので迫力があり、見た目に合成がわかるのだが、工夫している様子が伝わってきて楽しい。 長時間飽きずに見ることはできたが、オリジナル版で味わった興奮はなかった。それは、キング・コングのモンスター度が低かったからだ。 モンスター度とは、通常の生物では考えられない驚異的な能力などをもっている度合いである。例えば、フランケンシュタインの怪物は、死体を接ぎ合わせて電気ショックで命を吹き込まれ、大人の男を軽々と頭上高く持ち上げる怪力をもち、死んだと思われてもまた蘇るところなど、モンスター度は軽く合格点を上回る。日本が世界に誇るゴジラは、身長50m、口から放射能火炎を吐き、砲弾もミサイルもものともしないなどなど、モンスター度はレッドゾーンを振り切りそうだ。 では、キング・コングはというと、でかいだけのただのゴリラか?髑髏島は、有史以前の恐竜たちが歩き回るロスと・ワールドなのだけれど、地球上にかつて身長8mのゴリラがいたという話はない。巨体は、この固体特有のものか(05年版では、巨大なゴリラの白骨みたいなものが映っていたが)。クロム鋼の鎖を引きちぎるほどの腕力はもっている(通常の4倍の体だからできたのか)。それらを総合したとき、りっぱなモンスターとして度数を計上できるような気もするが・・・。 キング・コングは2度ばかり、東宝の映画に出演したことがある。「キング・コング対ゴジラ(1962)」と「キング・コングの逆襲(1967)」である。 前者は通称ファロ島コングと区別される。なんと身長は45mだ。しかし、ゴジラが放射能火炎を吐きまくって、およそ通常の生物にはない能力ですごむと、コングは目をパチクリさせ、勝ち誇るゴジラを尻目に、すごすごと引き上げてしまう。1回戦はコングの負け。ゴジラと対抗するためには、放射能火炎に対抗する必殺技を身に着けなければならない。コングは、雷に打たれて帯電体質となる。2回戦では、ゴジラに電気クロー攻撃をしかけるコング。かくして日米を代表するスーパーバトルの決着はつかず、引き分けに終わった。いかに身長が45mあろうとも、やはりゴリラである。モンスター度においてはゴジラに比べ、劣勢だったといえる。 逆襲コングは、モンド島出身、身長20mの設定だ。モンド島でのゴロザウルスや海蛇とのバトルは、33年版コングを再現している。催眠術で悪の科学者ドクター・フーに操られ、エレメントXを掘るあたりは、やっぱりでかいゴリラだ(ゴリラに催眠術が効くかどうかはしらないが)。逆襲コングは、ドクター・フーが差し向けたメカニコング(デザインが秀逸)と闘う。コングと気持ちを通じ合わせるスーザンが叫ぶ「逃げてコング。闘っちゃだめ。あれは、生き物じゃないわ。機械なの。勝てないわ」。しかし、決然とメカニと対戦し、これを打ち破る。さらに、ラストではスーザンを置き去りにする。元祖アメリカン・コングは、ヒロイン、アンのために命を落とすというのに、逆襲コングは南の島へ去っていくあたりがかっこいい。逆襲コングのモンスター度は、かなり加点された!?。 番外編のコングを見てきたが、オリジナル(33年版)のコングは、明らかにモンスター度が高かった。それは、“恐怖点”が大きく評価されるからだ(私がしているんだけどね)。33年版アン・ダロウは、33年版コングに対して、恐怖の悲鳴を上げ続ける。コングの方は、アンを愛おしむような渋さを見せるが、アンは最後まで絶叫するのみである。つまりコングはあくまでもモンスターとして扱われている。 これが05年版コングになると、大きく違う。コングが登場し、体を鷲づかみされて、最初は仰天動転し、恐怖心で声の限りに叫ぶ05年版アンだが、次第に心を通わせ、髑髏島で一緒に夕日を眺める。さらにニューヨークで暴れまわる05年版コングのもとへ05年版アンが駆けつけたりする。確かにアン以外には敵意むき出しで凶暴性を発揮するコングだがたとえアン1人に対してだけでも、人と理解しあう様子を見せれば、モンスター度は低く感じられる。 1933年当時は、まだまだ自然は脅威でした。だから、でかいだけのただのゴリラでもモンスターになった。現代は自然、動物保護の時代ですからね。いたずらに野生動物をモンスターにしてはいけません。ゴリラの立場や心情も尊重しないとね。毎週日曜日の朝に更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングへクリックしてね。みんなブルース・リーになりたかった
December 31, 2006
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年末だ。学校は冬休みである。1965年、暮れの29日か30日の朝。“冬休みの計画”では、そろそろ勉強タイムを開始する予定なのだが、やぐらコタツに暖まりながらテレビを見ていた。突然、「ウルトラQ」の前宣伝予告番組が始まった(「ウルトラQ」は年明けの1966年1月2日から放送開始)。1時間番組だったと思う。ゴメスやペギラなど、「ウルトラQ」に登場する怪獣が次から次へと紹介された。 「モスラ対ゴジラ(1964)」で脳天直撃真っ向幹竹割りを食らい、特撮映画小僧の道を歩み始めて早2年。パゴス、ガラモンなど「ウルトラQ」の怪獣オンパレードに魂が吸い取られ、ただならぬ雰囲気を漂わせてテレビを凝視していたのだろう、いつもなら「勉強しなさい」と言う母親も、恐れをなして見て見ぬふりをしていた。 時間はとんで、高校生になっても、そのまま特撮怪獣映画を見続けた。ちょうど東宝がチャンピオン祭り(夏休みや冬休みに、東宝が特撮映画とテレビのアニメ番組の劇場版数本を組み合わせて公開していた。そのイベント名)を開催していた時期である。対象は“ちびっ子”に絞られてしまった。いかに特撮小僧といえども、青年前期の自意識がある。客席で幼児から小学校低学年の子どもたちに混じるのは、ちょっと恥ずかしい。そこであきらめず、解決策を見つけるところが素晴らしい(自画自賛)。親戚や近所の子を映画に連れて行ってあげるという名目を思いついた。自分が怪獣映画を見たいために子供をダシにしたんだね。それでもって、子供は喜ぶし、やさしいお兄さんという評判も得られたし。 しかし、この後、東宝特撮も大映のガメラも、新作が登場しない不遇の時期がしばらく続く。まだ家庭用のビデオは一般化していない。ところが、嬉しいことに、“オールナイト特撮映画特集上映”という企画があったのです。特撮怪獣映画なら同じ作品を何度でも見たいし、お陰をもちまして見逃していた作品にも出会えました。人のことは言えないのだが、ほぼ満員の客席に、いい歳をしてソフトビニール製の怪獣をもってきている奴がいた。フィギアが商品として流通するずっと以前。オタクという言葉が出現するのも未来のこと。ちょっと怪獣映画にはまりすぎの印象、不気味なものも感じたね。ソフビ怪獣は、ほしいと思ったけど・・・ さらに、オールナイト特撮特集では、映画の上映が始まり、配役「佐原健二」「水野久美」、あるいは音楽「伊福部昭」、監督「本多猪四郎」などのタイトルがスクリーンに映し出されると、客席から拍手が起こるのだよ。特技監督「円谷英二」の文字が出てこようものなら、映画館がウォーンと反響するほど拍手喝采だった。世の中には、異常に怪獣映画が好き、という奴らがいるのだとよくわかった。 ファン、マニアというものは、観客として見るだけでなく、チャンスがあれば映画にかかわりたい気持ちをもっている。「ゴジラ(1984)」 の続編ストーリー公募を知り(1985)、特撮魂全開で原稿用紙に向かった。過去の特撮映画へのオマージュを散りばめ、なおかつ新味を出すようにした。書きながら自分で感動し、これ以上のゴジラ映画はないと思った。 結果はあっさり落選。けれど、公開された映画「ゴジラVS.ビオランテ(1989)」を見て、思わず叫んだ「オレの作品のパクリじゃねえか!」。前作でバトルシーンとなった新宿でのゴジラ細胞採取、ゴジラのクローン、超能力少女など、応募した作品に登場させたものだった。間をおいて冷静になれば、そんなのはだれでも考えることであるとわかる。映画化されたストーリーは、植物怪獣ビオランテなど、やっぱり素人とは一線を画する卓越したアイデアがあるから採用されたのである。性懲りもなく『大魔神』新作映画ストーリー公募(1992)にもまたまたチャレンジしたが、あえなく落選(がっくり)。 「ヤンガリー」は韓国版ゴジラともいえる怪獣で、過去に何度も映画化されているという(見たことはない)。また、監督のシム・ヒョンレは、子供の頃からの怪獣好き。念願かなって特撮大作映画「怪獣大決戦ヤンガリー」を制作した。他人事とは思えない話だ。なお同作品は、韓米合作で、キャストはアメリカ人である。 シム監督、「怪獣映画とはこういうもんだ」というこだわりや、彼なりの怪獣映画に対するイメージ当然もっている。それはよくわかる。けれど、自己の怪獣映画への想いを高く評価しすぎではないか。怪獣映画を見まくって、感動しまくって、自分の視点に凝り固まっちゃって、プラス面しか評価できなかったのでしょう。自分ほど怪獣映画に造詣が深い人間はいないから、例え致命的なマイナス面があっても、素晴らしいプラス面の前には取るに足らないと考えたとしたら、アブないぞ。 その場面を見てみよう。ヤンガリーが宇宙人に操られて、市街地で暴れる。アメリカ空軍の戦闘機が出撃。ミサイルを発射。怪獣映画の定番場面だ。しかし、ヤンガリーは首を振ってヒョイヒョイとミサイルをかわす。ミサイルは、相次いで、何発も何発も背後のビルを誤爆、街中を破壊していく。シム監督、迫力ある怪獣と戦闘機のバトル場面を演出したかったのでしょう。しかしヤンガリーのかわす動作が単調すぎ。そこへ失敗を省みずミサイル攻撃をしかけるってのってなんなのだ。ヤンガリーによる被害より、ミサイルやヤンガリーに撃墜された戦闘機による被害の方がはるかに大きいぞ。「F-16戦闘機、9機を失いました」と防衛本部に報告が入るけど、市民の財産の損失より戦闘機の方が大事なのか?それでもなお攻撃の手を緩めないジェット戦闘機!多少見せ場優先の派手 (荒唐無稽)なシーンがあっても許されるが、あんまり常識的判断からかけ離れちゃうと、まともにみられないよ。「作戦変更」を要請します。 戦闘機でヤンガリーを倒せないと見るや、防衛本部は急ぎ次の作戦を模索する。「何か倒す手は」「君らのTフォースは?」「まだ組織中だし、ジェット推進器も・・・」「出動させるんだ」こんなやりとりも、怪獣映画ではお馴染みだ。勿体をつけておいて、怪獣に対抗する強力な新兵器や画期的な攻撃方法を登場させようという寸法だ。東宝特撮のメーサー殺獣光線、首都防衛移動要塞スーパーXなどのような超兵器を期待して身を乗り出した。そうしたら、ジェット推進機を背負った兵士軍団が登場。空中を浮遊しながら、マシンガンをぶっぱなす!?これが最強怪獣に対抗する人類の切り札なのか。ミサイルをもはねかえすヤンガリーをなぜマシンガンで攻撃するのか。生身の人間が怪獣に向かっていくって、危険極まりないのではないか。人間ジェット部隊は、つぎつぎとヤンガリーの火炎攻撃を受けて、丸焼けになって落下していく。見ている方は、乗り出した体が前のめりに脱力。きっとシム監督は、人間がパーソナル・ジェット推進機(そんな言葉があるか知らんが)で飛び回って怪獣と闘うシーンを頭に思い浮かべ、限りない興奮を覚えたのでしょうね。彼の脳裏には、人間ジェットのカッコよさしか残らず、間尺に合わないことは全然意識できていなかった。 この作品、だれが主役なのかわからない。その中で、ホリーなる歴史学者の女性が作戦本部に出入りするが、これは名作「ガメラ大怪獣空中決戦(1995)」の鳥類学者長峰真弓のイメージをいただいているね。さらに、Tフォースの生き残りソルジャーによりコントロール装置を破壊されたヤンガリーは、宇宙人の攻撃によって崩れ去ろうとするビルを支えて人々を救う。宇宙人の支配から逃れるやいきなり人類に役立つ怪獣に変身だ。この場面もガメラが身を挺して、ギャオスの殺人超音波メスから人間を救う場面の影響下にある。平成ガメラの場合は、生物兵器であるギャオスを倒すために創造された怪獣という設定なのだが、ヤンガリーについては人類側に立つ説明はない。ゴジラも、昭和ガメラも、最初は人類文明の敵として登場し、人気を集めるに従って、ヒーローに変わっていった。 シム監督も、このパターンをなぞりたかったのだろう。最初はヤンガリーを悪役として登場させ、徹底的に大怪獣の破壊力を示す。しかし、シム監督のかわいい息子ともいえるヤンガリーを最終的には正義のヒーローにしたかったのだ。クライマックスは、ヤンガリー対サソリゲス(宇宙人が送り込んだ宇宙怪獣)の怪獣バトルだ。ヤンガリーはぼくらの地球怪獣として、死力を尽くしてサソリゲスを撃退する。けど、ゴジラやガメラが、人類側について敵怪獣と闘うようになるまでにはそれなりの道のりがあった。人類に敵対する存在からニュートラルになり、徐々にぼくらのヒーロー怪獣になっていったのだ。だから観客も、その転向に納得したわけだ。一本の映画で簡単に設定を変えては、深みがありません。(ゴジラやガメラなど、ヒーロー怪獣が、宇宙人に操られるという話はあります。けれど、それは地球怪獣という前提があり、そこにコントロール装置をつけられるのです。だから、宇宙人のコントロールが切れれば“もとに戻る”わけ。ヤンガリーは「もと」の状態がないでしょ) こんな「怪獣大決戦ヤンガリー」を“おやじギャク映画”と呼びたい。おやじギャクっていうのは、言ってる本人は気の利いた笑い (自己評価が高い)を披露しているつもりだけど、自分で自分のギャグに笑いが止まらない様子などから、往々にして余計に周囲の顰蹙をかってしまう(客観的評価は低い)。身につまされるね。 ただ、おやじギャグもはずし方がことのほか強烈だったりすると、話題にはなる。オーエル同士の会話に「この前の課長のギャグったら、チョーひどかったわねぇ」なんて登場するのだ。「怪獣大決戦ヤンガリー」も、見る者を煽っておいて、人間生体ジェットを出してきた驚くべき特撮センスによって、脳みそからのデリートが不能となった。毎週日曜日の朝に更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングへクリックしてね。みんなブルース・リーになりたかった
December 24, 2006
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親友の吉田君とは、映画とマンガの話ばかりしていた。東宝特撮映画や007、「8マン」から「鋼鉄シグマ」という鉄腕アトム類似品マニアック作品まで。吉田君は、豪邸に住む社長の息子。こちらはしがない借家住まい。マンガは、よく吉田君に貸してもらった。 冬休みに、「SF最後の海底巨獣」「マックイーンの絶対の危機(1958)」の超絶モンスター映画二本立てを見た。これは吉田君も見ていないだろう。こんな凄い映画を見たんだぞ、借家住まいでも映画だけは負けていないぞ、と自慢げに話をした。絶対に吉田君は羨ましがるはずだった。ところが、なんと吉田君もしっかり見ていた。さすがわが親友。 そして、特撮映画小僧二人は、見てきた二本立てのド迫力場面などについて、熱く語り合った。勝ち負けよりも、羨ましがらせることよりも、共通の話題で盛り上がることが楽しかった。 まだ、「ウルトラマン」どころか、ウルトラ・シリーズ第1弾の「ウルトラQ」が始まる1年前の話である。その時代に、10歳にも満たない子供が、こんなコーフン映画二本立ての洗礼を受けたら、もう生涯は、特撮モンスター映画漬けになること間違いない。 吉田君も、まだ特撮モンスター映画を見ているだろうか・・・・。人間には二種類ある。卒業できる奴とできない奴だ。 1987年に、レンタルビデオ屋で奇異なタイトルを見つけた。「ダサイナザウルス」!ダイナザウルスではありません。手にとって写真や説明を見ると、なんと「SF最後の海底巨獣」のことなのだ。この作品は断じてダサくないぞぉ。 今見ると、恐竜の造形や動きなど、確かに難がある。この作品の難は、「チープ」ということだ。けれど、資金不足は、必ずしも制作者の責任ではない。制作費が少なくたって、映画で客を楽しませようという心意気が大事だぜ。安っぽさが、必ずしも手抜きとは限らない。それどころか、この作品は、とっても「リアル」な恐竜映画といえるのだ。 南海の小島で開発工事の真っ只中、船が入れるようにしようと入江に発破をかけたところ、海底に埋没する凍結状態の恐竜を発見、しかも2頭(2種類=肉食恐竜ティラノサウルス、草食恐竜ブロントサウルス)。ついでに原始人まで。恐竜が砂浜に引き上げられるシーン。ティラノサウルスが、ぐいっぐいっと綱で引っ張られると、それに合わせて砂がずずずっ、ずずずっという感じで一緒に動くのだ。なんて芸が細かい。 その夜、激しい嵐が島を通過。雷が荒れ狂い恐竜及び原始人を直撃、2頭と一人は、死にも等しい長き眠りから蘇る。 ジュラシック・パークでは、化石中の琥珀に入っていた古代の蚊から恐竜の血液を抽出し、そこにあるDNAを使いクローンとして恐竜を甦らせた。バイオテクノロジーにのっとり、説得力のある方法かもしれない。しかし、フランケンシュタインの怪物は、雷による電気ショックで生命活動を開始した。さらに、Fの怪物は、何度も死んだと思われながら、そのじつ、氷漬けになって生きながらえていった。「13日の金曜日シリーズ(1980~)」ジェイソンだって、落雷で復活した。最後の海底巨獣たちは、モンスター映画の正しい伝統を踏まえる、中興の祖とも言うべき天晴れな存在だ。 え、どこか「リアル恐竜映画」なのかって?原始人が一緒に出てくるのはおかしい?確かに、恐竜の生息していた時代から何億年も経過して人類が発生している。恐竜と原始人が同じ時代に生きていないことはみんな知っています。長~い地球の歴史を考えれば、恐竜が2頭揃って氷詰めになることも、それからずぅっと後に同じ場所で人類が氷詰めになることだって、あったら楽しいでしょ。 そういったツッコミどころよりも、恐竜のプロポーションを見てみよう。日本の特撮怪獣映画は、着ぐるみ式だから、シルエットや動きに人間臭さが出てしまう。特に、東宝特撮のアンギラス、バランの4足歩行怪獣は、人が四つ這いになって動作していることがよくわかる。ところが、人形アニメ方式(後になって知った)で作られた「海底巨獣」の2頭は、図鑑やプラモデルで見た恐竜と同じ形をしていた。4足歩行のブロントサウルスなど、日本の着ぐるみ方式では、見ることができない本物志向のスタイルを感じました。 「海底巨獣」公開当時は、時代(社会)的にも年齢(個人)的にも、怪獣も恐竜もあんまりきっちりと区別されないで、あいまいさが許容されていた。「ゴジラ(1954)」では、「海底に潜んでいたジュラ紀の生物」(山根博士談)と説明がある。ところが、身長は50mもあるし、ミサイルがあたっても平気だし、放射能火炎は吐くし。ゴジラは、恐竜が被爆して、突然変異を起こしたという設定だから地球上の生き物の範疇を超えた存在なんだけど、同作品では山根博士が先の言葉に続けて「度重なる水爆実験で住みかを追われて」というだけだ。 当時の特撮映画小僧は、「海底巨獣」を見て、恐竜と超自然的な怪獣はちがうものだと初めて気づいた。動物としての恐竜の雰囲気がわかったのだった。「海底巨獣」に登場するのは、ピュアな、清純派の恐竜だ。放射能は浴びたりして、怪獣にはなっていない。身長は並で、もちろん特殊な能力はない。 正直言って、映画を見ているときには、恐竜が火を吐いたり、光線を発したりことを期待していた。途中、ティラノサウルスが人間の攻撃を受けて、口に火炎瓶を放り込まれる。それを吐き出すときに、火を吹いているように見えた。それが嬉しかった。(吉田君も、「(ティラが)火を吐いたように見えたよな!」とエキサイトしながら語った。同意見だったのだ。さすが親友)ティラノサウルスとブロントサウルスは、お約束通りにバトルを見せるのだが、心優しい草食恐竜であるブロちゃんが人間の味方となって、悪の肉食ティラ野郎を倒す話しではない。これは捕食者と被食者の関係で、現在で言えばライオンとシマウマに置き換えて考えられる。 さらに、東宝特撮映画では、強すぎる怪獣に対抗するために、新兵器や超兵器が登場する。しかし、「海底巨獣」には、戦車もレーザー光線砲も姿を現さない。無線機さえ破壊されて孤立無援となった小島で、人間が凶獣ティラノサウルスと渡り合う。武器は、なんとショベルカーだ。主人公の現場監督バートが乗り込み、島民の避難場所に襲い来たティラノザウルスにアームをぶちかまし、崖から海へと突き落とした。 子供の頃の印象では、もっとパワフルにガンガンと、何度も何度もアームを叩きつけて、ド迫力場面が演じられたように思ったが、今見ると、意外に早く勝負がつく。いずれにしても、身近にある重機で恐竜に立ち向かうという展開に、現実世界の中に超自然現象が交わる手応えを味わった。リアルに感じたわけさ。 注:日本の特撮怪獣映画より「海底巨獣」が作品的に優れているという話ではありません。双方 に異なる風味がありますので。 この作品の内容は、恐竜パニックだけではない。原始人が食べ物を探しに民家の様子を窺っていると、おばさん登場。なんと顔面パック中。窓をはさんで原始人とおばさんパックが遭遇。ギャーと双方叫び声を上げる。この場面など、原始人だけを異端者扱いせず、原始人から見れば、現代人も大変おかしく見えるという対比がおもしろい。(他にも、シリアスな展開の中に、フッと笑えるシーンが挿入される) また、怪獣映画などではおなじみの人々が避難するシーンがやはり見られる。カメラが固定してあるので、右往左往する人々がスクリーンを出たり入ったりする。この場面、日本の映画監督加藤泰が、殺陣シーンにおいて、カメラを動かしてアクションを追うことをせず、あえてフレームを固定して、人々が画面に飛び込んだり飛び出たりする様子で、ダイナミックさを表現した手法を思い出させた。 ね、たとえチープでも、観客を楽しませようとがんばっているでしょ。毎週日曜日の朝に更新しています。つぎも読んでくれたら嬉しいです。 人気blogランキングへクリックしてね。みんなブルース・リーになりたかった
December 17, 2006
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一番の楽しみは、映画を見ることだ。だから体調に関係なく映画館に行くし、ビデオを見る。しかし、疲れているときや睡眠不足のときなどは、眠気に打ち勝つことができない。観賞中に眠ってしまうことがある。痛恨の極みだ。映画がつまらなくて眠ることはない、はず。 映画館は暗いから、眠りに誘われやすい。さすがに、上映時間のほとんどを眠ってすごすことはない(いばって言うことではない)。前半ぐっすり眠ると、すっきりして後半はバッチリ見ることができる(「あー、よく寝た」ってか)。けれど、当然盛り上がりには欠ける。疲れを取るため、睡眠不足を補うために入場料を払ったのではないのに。 うちでビデオを見ていて、眠ってしまうと、見たところまでテープを巻き戻したり、DVDならチャプターを探したりする。けれども、また眠ってしまう。慌ててまた巻き戻す、チャプターを探す。そんなことを何度も繰り返しながら、どこまで見たのか見ていないのか、わからなくなる(情けない)。そうこうするうちにまた眠ってしまい、気がつくとエンドタイトルが流れていたり、テープが最初まで巻き戻っていたりすることもよくあります。もうあきらめて、布団に入るしかありません。 「ステルス」を劇場で見たときは、スクリーンに引き込まれるとか退屈だとか感じる以前に、眠っておりました。上映中、目覚めたり、また眠ったりの繰り返しだったが、映画が終わったときには「なんか知らんが面白かったみたいだぞ」って興奮した。そして今回、期待をもってDVDで全編きちんと見直してみると・・・・。 映画館で見たときは、なぜ面白いと感じたのか。それは、たまたまドッグファイト(戦闘機の空中戦)の場面やロブ・コーエン監督お得意の爆裂場面では目覚めて、スクリーンを見ていたからだった。名場面集、あるいはちょっと長めの予告編を見たようなものだったのかもしれない。予告編では、すげぇ、面白そう、見るしかない、と煽られて、いざ本編を見たら、なんだこれ、つまんねぇ、ってことがよくあるでしょ。予告編に、いい場面を出し尽くしちゃったわけですね。 子供というのは、自分の見たいものだけを見るというわがままな習性がある。幼い頃、怪獣映画を見に行くと、人間だけでドラマが進行していく場面が、とてもまどろっこしかった。見たいのは、ビル街を破壊する巨大で強力なゴジラやモスラの雄姿であり、怪獣同士の激しいバトルである。最初から最後まで、ずぅっと怪獣が出っ放しっていう映画が作られないかなあ、などと極論したものだ(それが子供だ)。人間は、怪獣を攻撃するための自衛隊だけでいいよぉ、なんて。ところが、年齢が上がるにつれて、怪獣の登場場面だけでは映画にはならず、ドラマ部分の役目や味もわかってきます。 映画がストーリーとして面白さを発揮するためには、主人公の問題解決過程が重要だ。例えば「フライト・オブ・フェニックス(2004)」は、閉鎖された石油採掘所のスタッフが乗った飛行機が、砂嵐に遭遇しゴビ砂漠のど真ん中に不時着する。砂漠から脱出しなければ、早晩全員が死んでしまう。主人公に課せられた問題は、なんとか生き延びて文明社会にたどり着くこと。しかし、過酷な環境、人間関係のトラブル、少量や水の不足、盗賊の襲撃など様々な困難がつぎつぎに訪れ問題解決を阻む・・・。とってもわかりやすいでしょ。 でも、「ステルス」は、主人公ベンが解決すべき問題の説明がややこしい。この映画は、新兵器、無人ステルス戦闘機、通称エディ(E.D.I.=Stealth Extreme Deep Invader)をめぐるお話だ。エディには、人工知能が搭載されている。さしずめ「2001年宇宙の旅(1968)」の人口知能HAL900ばりに、エディも人間に反乱をおこし、人間が操るステルス機と人工知能のステルス機のバトルが描かれるのか。つまり問題は、反乱人工知能を倒すこと、であり、それが達成されれば解決するのかと思うとそうではない。 エディが画面に登場し、いかに高性能かが説明される。その際にコックピットがあることについて、「人工知能搭載機になぜコックピットがあるのだ」「テストとメンテナンスのためだ」などというやりとりがある。わざわざここでコックピットを印象的に紹介するあたりは、後で人間が乗るのだなとの推測が起きる。そうなると、単純に人間と人工知能の闘いではないとの見方が出てくる。 あるとき、落雷が人工知能に衝撃を与え、エディは暴走する。某国の核兵器破壊に向かった先で作戦を無視して攻撃し、国民に放射能汚染の被害を与えてしまう。さらに戦闘シミュレーションを実際の作戦と理解し、某国2に狙いを定める。いよいよ怪物化したエディとベンのチームの壮絶バトルに突入か、と思うとそうではない。 ロシア軍ジェット戦闘機とのドッグファイトで、相手を撃ち落したものの(こんなことして、よく国際問題、ひいては戦争にならないものだ)機体を損傷したエディをベンが助ける。その行為に感謝したエディが改心しちゃうんだよな。あれあれ、人間対人工知能の話じゃなくなってしまったぞ。ベンの戦闘機はトラブルによって大破し、結局ベンはエディに乗り込むことになる。(このためにコックピットを見せたのです)。すっかり仲直りの共闘さ。 例えば、007では、スペクターのブロフェルドとか、ゴールドフィンガーとか、敵役がはっきりしているじゃないですか。だから、敵の作戦を阻止して、悪漢を倒すことが問題解決なのです。そこに何の問題もない。 ところが「ステルス」では、エディが悪役かと思えば、改心する。最初は某国1のテロリストをつぎに某国2の核爆弾を攻撃したが、いずれも敵役本体ではない。テロリストたちを叩き潰す話しではない。さらに、海軍の上官や黒幕も私利私欲の固まりで、その手先がアラスカでベンとエディを襲ってくる。けれど、上官、黒幕をやっつける話でもない(自殺しちゃいますけど)。その上、ベンのチームのメンバー(ベンの恋人でもある)の一人が北朝鮮に不時着し、救助に向かうのだ。いったい誰が敵なのか、はっきりしてくれぇ、と泣きながら訴えたい気分だ。劇場では、眠ったり目覚めたりして、入れ替わり立ち替わり敵が出てくるあたりをすっとばして見ていたのですね。 「~と思えば、そうでない」という展開は体に悪い。乗り物酔いしそうだ。そうでなくても、マッハで空中を移動する戦闘機を見ているのだから(CGですが)。 とにかく、映画の途中で寝ちゃあいかんのだ。子供の頃は、どんな映画でも、全身全霊で見ていたものだ。寝るなんて考えられなかった。疲れを知らない子供に戻りたい・・・。人気blogランキングへクリックしてね。みんなブルース・リーになりたかった
November 26, 2006
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「インナーウォーズ(2002)」、原題はANTIBODY、「抗毒素、抗体」という意味です。極微小な核爆弾の起爆装置が、テロリストの体の中に埋め込まれている。テロリストは、銃撃戦の中で瀕死の重傷を負ってしまった。そいつが死ぬと起爆装置が作動してしまうのだ!核爆発を阻止するため、ミクロ化された爆発物処理のエキスパートらが、テロリストの体内に送り込まれた。といったストーリー。 ミクロ化して体内に入り込むお話は、鉄腕アトムにもウルトラセブンにもある。目に見えぬほど小さくなったウルトラセブンが鼻の穴から飛び込んでいったのは、当時若手女優の松阪慶子だった(第31話「悪魔の住む花」1968)。 しかし、微小化体内進入の代表作といえば「ミクロの決死圏(1966)」である(原題は「FANTASTIC VOYAGE=幻想的航海」。くらべると、邦題の「ミクロの決死圏」の方がワクワクさせる)。これぞSF映画だ!宇宙や海底を舞台にしたSF映画の場合、ある程度テキトーな場面設定でも許される、誰も行ったことがないわけだから(すばらしい想像力が発揮されることもありうる)。けれど、人体においては、もちろん体内巡りをした人はいないけれど、医学に基づいたリアルな場面設定をしなければいけないじゃないか。じつにサイエンス・フィクションじゃないかと思ったわけですね (公開当時の小学生は、ハードSFを感じたわけです)。 日本初公開のときには、残念ながら見ていない。住んでいた地方での上映があったかどうかも、記憶にない。少年漫画雑誌の特集記事で、「ミクロの決死圏」について知ったのだった(マンガばかり見ていたのさ)。 実際に見たのは、中学生になってから。確か「素晴らしきヒコーキ野郎(1965 石原裕次郎が出演していた!)」との黄金のリバイバル2本立てだった。実際に人体内のセットが丹念に作られ、驚異の人体旅行の売り文句が十分に納得できた。さらに、展開も、近道をするために潜水艇に心臓を逆行させる。そのために、60秒間だけ鼓動を止めて血液が流れないようにする(生き返るのか!?)、内耳を通るときには患者の周囲で音を立てないよう医療チームは微動だにしないのだが、看護婦がはさみを落としてしまい、それが潜水艇には大音響の衝撃になったり、はたまた潜水艇のチームに敵側の人間がいたりと、一難去ってまた一難で目が離せなかった。しかも、タイムリミットの1時間を過ぎると、ミクロ化した人間が元の大きさに戻ってしまう。人間の体をぶち破って人間が出てくるなんて想像しただけで、頭がクラクラした。 なお、ミクロ化体内進入については、鉄腕アトムの方が早く映像化している(1963年)。手塚治虫にとっては、「ジャングル大帝(1965=テレビ版)」によく似た「ライオンキング(1994)」の件もあったしね。 1987年には、ジョー・ダンテが「インナースペース」で、ミクロ化体内侵入映画を作っている。これは、人体の中で、敵味方に分かれてバトルが繰り広げられる(ややコメディ・タッチ)。「ミクロの決死圏」は体内場面が大変多かったが、「インナースペース」は中だけでなく外でも大騒ぎが起こる。 さて、「インナーウォーズ」だ。FBI捜査官で爆発物処理のプロ、ゲインズは、爆発物の処理で被害を出し、責任をとってFBIを辞める。犯人の体内には1マイクロメートルの起爆装置があって、生体活動の停止とともに爆弾が破裂する仕組みになっていた。ゲインズは、それを知らず射殺を命じてしまったのだ。この爆発が、つぎの爆発物処理につながり、屈辱を晴らすという展開が生まれたなら、もっとゲインズの行動に感情移入ができたのではないかと思うんだが。 つぎに、ノーベル賞を受賞した科学者がいるわけだが、テロリストが重体になったとたんに「私の開発した研究がある。分子を圧縮するだけだ。方法さえ分かれば、実現は簡単だ。動物実験もした」。おいおい、日本の特撮怪獣映画並みに、都合のいいときに新発明が出てくるんだな。こんな発明は、超ノーベル賞級だ。片手間の研究でできるものじゃないぞぉ。 さらに、体内をCGで描いたところが、なんとも軽~い印象を与える。「ミクロの決死圏」の時代には、CGがなかった。実際にセットを組むしかなかったのだが、いかに本物らしくみせるかで、時間と手間をかけたのだ。そんなメジャー大作とくらべてはいけないのかもしれない。また、マイナー系が人体進入映画を作ることができるのも、CGのおかげだろう。 CGは、例えば過去の町並みを再現するときなどは、じつに効果的だ。CGとは思えないからだ。けれど、モロにCGとわかるのはね、気に入らないね。 白血球とバトルを行うなどして、苦難の末に起爆装置にたどり着く。解除するためには、いくつかの番号のついたピン(端子?)をはずさなければならない。しかし、並び方に規則性がない。どう解除すればいいんだ。息詰まる場面だ。ここでふと思う。どうやってそんなミクロサイズに番号を書いたのだぁ?米に筆で字を書く人はいるけれど、起爆装置は1マイクロメートルですよ。試験管の中に液体とともに入っていても目で確認できるものではない。電子顕微鏡で見て、ようやくわかるのです。もう一発行きます。誰に読ませるために、ごていねいにミクロサイズの番号を書いたのですかぁ? 今回も楽しませていただきました。 別に映画に文句を言うのが好きなんじゃない。作る側が面白さを追求していくとき、ともすると視点は偏ってしまいます。偏りを意識せず、あるいは知りながら無視して作られた映画は、一か八かの魅力があふれています。人気blogランキングへクリックしてね。
October 15, 2006
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ときどき、初代ウルトラマン、ハヤタ隊員役の黒部進さんを、渋谷駅でお見かけする。渋谷まで、山手線の同じ車両に乗り合わせたこともある。そんなとき、年甲斐もなくドキドキする。話しかけたくなるし、サインしてもらいたいし、一緒に写真だって撮らせてもらいたい。周囲の人は気がついていないので、大声で「ここにハヤタ隊員がいますよ!」と教えてあげたかった。 失礼ながら黒部さんは大スターというわけではない。しかし、子供の頃にリアルタイムで見た「ウルトラマン(1966~67)」は、衝撃的だった。スーパーヒーローとは、ウルトラマンとハヤタ隊員が分かちがたいだけでなく、演じる役者さんにまでイメージを重ねてしまう。同じ時期に、黒部さんは、東宝映画「キングコングの逆襲(1967)」や「怪獣総進撃(1968)」に出演している。違う作品でお姿を拝見しても「あ、ハヤタ隊員だ!」と興奮した。 「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟(2006)」には、ハヤタ隊員はもとより、ウルトラセブン=モロボシダン(森次晃嗣)、帰ってきたウルトラマン=郷秀樹(団時郎)、ウルトラマンエース(高峰圭二)と、当時の配役が勢ぞろいする。そして、当時のままの変身ポーズを披露してくれる。ウルトラファンの感涙を狙ってるね。 敵役にも、ザラブ星人、ガッツ星人、ナックル星人、テンペラー星人、異次元超人やプールなどが復活する。彼らは、当時よりもスタイルがいい。四十年間の着ぐるみ技術の進歩が感じられる。 ところが、ウルトラマンの顔は昔に戻っていたのだ。初代ウルトラマンは、マニアなどの間では、Aタイプ、Bタイプ、Cタイプと呼ばれる3つのマスクがある。Aタイプは、技術的なものやウルトラマンの設定などから、表面がゴテゴテしている(Bタイプからはツルツルになるのだが)。今回は、ゴテゴテ顔をウルトラマンの個性とし、意図的にそのAタイプをつくったわけだ。 さらに、当時の演出を思い出させてくれたのは、ザラブ星人だ。登場シーンには懐かしい音楽が流れるだけではない。ザラブ星人といえば、ニセウルトラマンに化けて街を破壊し、正義のヒーローに汚名を着せようとした。今回も、性懲りもなくザラブ星人は、ニセウルトラマンメビウスになって神戸を襲う。「なぜメビウスが・・・!?」驚愕する神戸の人々を尻目に、その様子を見た防衛隊の隊長は「あいつはニセモノだ。よく見ろ、目つきが違う」と言う。たしかにニセモノは陰険な顔つきをしているのだ。 かつてニセウルトラマンが登場したとき、こいつも目が吊り上っており、視聴者にはすぐにニセモノとわかった(そのようにつくってあるのだが)。ところが、テレビの中では、「ウルトラマンの乱心だ!」などといって、だれもニセモノと気づかない。子供心に「なんでニセモノとわかんないんだよぉ」と悔しい思いをしたものだ。今回は、四十年を経て、隊長が仇を討ってくれたようなものだね。 四人の先輩ウルトラマンたちは、20年前にヤプールを封印して、ほとんど力を使い果たしていた。だが、孤軍奮闘するメビウスのピンチに、残り少ないエネルギーで命を賭けて、ウルトラ戦士として立ち向かっていく。この場面は、実際に俳優さんたちが、何十年も年齢を重ねておられるので、じつにリアルな悲壮感が漂っていた。 新旧のウルトラマンが向かっていっても、蘇り、パワーアップしたUキラーザウルスには敵わない。そこへお約束のように助けに駆けつけるゾフィーとタロウ。「エネルギーをもってきたぞ」って、おいおい、そんなに簡単にチャージされたら、さっきまでの悲壮感がぶっ飛ぶじゃないか。 ゾフィーは、かつてウルトラマンがゼットンに敗れたとき、「M78星雲に帰ろう」と迎えに来た(それがゾフィーの初登場)。ウルトラマンは、「自分はハヤタから命を借りているので、もし帰ってしまったら、ハヤタが死んでしまうことになる」と拒む。すると、ゾフィーは「大丈夫、命を二つもってきた!」だって。ひえーッ。当時から、ゾフィー兄さんは、そういう達観したお方なのです。 ゾフィーは、ウルトラ六兄弟の中で、唯一地球人としての顔がない人です(地球に住み着いた経験がない)。けれど、タロウは、東光太郎の顔がある。だから、タロウについては、声だけでも、オリジナルにしてほしかったな。タロウが話したときに、篠田三郎の声が流れたなら、こんな行き届いた演出はなかっただろうに。 ラストの怪獣とのバトルについて。それぞれのウルトラマンが連続して得意技を見せるなどして、わくわくさせられたが、CGシーンは、テレビゲームをやっているみたいな映像で、ちょっと残念だった。元祖円谷英二のあくまでも実写を使った特撮を愛好した世代にとっては、VFX(デジタルによる映像効果)は、絵空事に見えてしまうのです。もちろん、ウルトラマンたちが空中で静止して浮かんでいるような体勢は、昔のウルトラマン人形をピアノ線で吊った映像より、違和感なく受け止められるけれど(その違和感だって、手作りの一生懸命さが伝わってきて好きだった)。 この映画は、単なるオールドウルトラマンファンの回顧的な趣味を満足させるだけのものではない。静かな場面の締めくくりを必ず異変につないだり、子供の挫折から立ち直りを無理なく描いてたりして、飽きさせない展開だった。子供の観客へのサービスはあるが、おもねっている様子が感じられないのはすがすがしい。少年の成長とか、愛と勇気とか、監督の見栄を押しつけてくる様子もなく、安心して見ることができた。 ウルトラ兄弟は、エネルギーを使い果たしたことから、「最後のバトル」を強調していた。そういいながらも、往々にしてまた復活してくるのは、プロレスラーの引退とカムバックのパターンに似ている。けれども、今回のような充実感のある作品だったら、許す!
October 1, 2006
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「巨大怪物マンシング」は、ゴルフウエアを着た怪物でなければ、巨大化したペンギンが出てくるわけでもない。原題は「MAN-THING」、直訳すれば「人なり物」だそうだ。ペンギンの方はMunsingwearです。カタカナで表記すると「マンシング」でも、英単語の綴りが違います。 今をさかのぼる15,6年前に「怪人スワンプシングThe Return of Swamp Thing(1988)」を見た。マッドサイエンティストによって改造人間にされてしまった主人公が復讐を挑み、悪の科学者が生み出す怪人と戦うという仮面ライダー系統の作品だった。面白かったのだよ、これが。 で、ビデオ屋さんで「巨大怪物マンシング」を手に取ったときは、スワンプシングの続編か、関連作品かと思って期待した。 「シング」が共通しているでしょ。それから、マンシングも、スワンプシングも、沼地を舞台としていて、怪人と怪物(とされるもの=パッケージの絵柄から)の形状も似ているのです。さらに、「人気コミックの映画化」というフレーズがあった。 だから、「ウルトラマン(1,966~1967)」と「ウルトラセブン(1967~1968)」みたいな関係かな、あるいは「怪人」だったタイトルが、「巨大怪物」と変わっているところから「シルバー仮面(1971~1972)」が「シルバー仮面ジャイアント」になったようなものか、などと思いを巡らせた。 けれど、両者はいくつかの共通点に見えるものがありながら、直接の関連はありませんでした。調べてみると、「怪人スワンプシング」はDCコミック(スーパーマンやバットマンのマンガ出版社)の所属、「巨大生物マンシング」の方はマーベル・コミック(スパイダーマン、X-メンなどの出版社)の専属だった。 してみると、東宝「ゴジラ」と大映「ガメラ」(「ラ」が共通、巨大怪獣映画)、または任天堂「ポケモン」とバンダイ「デジモン」(「モン」が共通、ゲーム、アニメキャラクター) の関係と考えれば一番近いのかな。 さてさて、「マンシング」だが、冒頭沼地にキャンプしにきたヤング(って今は言わないか?)の中から、例によって1組のバカップルが抜け出して、例のごとく二人の世界に浸る。お楽しみのところへ太い蔦か枝か、東宝植物怪獣(植獣)ビオランテの触手のようなものが伸びてきて、男の背中から胸へ貫通、血の固まりが飛び散る。ここにタイトルが被る「MAN-THING」! これは、「13日の金曜日シリーズ(1980~)」、ジェイソンのスプラッター無差別殺戮パターンだ。そういう映画なのか、と思うとそうではない。 石油会社が製油などのために、沼地の自然環境を破壊している。それに反対する住民たち。このような設定で悪玉は、たいてい企業である。ヤツらは、私利私欲のために自然環境を省みない。無力な一般市民は、いつも犠牲者だ。そして、マンシングはといえば、古の部族の聖地に宿る精霊が、沼地を守るために実体化したなどとの説明がある。なんだ、マンシングは、悪いモンスターではないのか。 この筋立ては、どっかで見たことがないか。そう、あの日本が誇る特撮時代劇「大魔神(1966)」だ。悪家老が諜反を起こして、城主は討たれてしまう。領民は、重税をかけられ苦しむ。怒った大魔神復活し、大暴れ、家老一味を成敗する。 「大魔神」が公開されたのは、今から40年前のゴールデンウィークだった。なんと、「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」との2本立てだったのだ。狂喜乱舞、こんな最強2本立てを、それ以後もほかには知らない! 実際田舎町の映画館は超満員立ち見だ。スクリーンの横側に、観客席から地下トイレに続く階段があったが、そこの仕切りに登って映画を見た(わかりにいくかね。とにかく席には座れず、人が多すぎて子どもにとっては、立ち見ではスクリーンが見えなかったのです)。 新聞の宣伝広告には、右側にガメラとバルゴンの対決シーン、左側に逃げ惑う人々の背後から迫りくる大魔神という構図があった (事前の情報は、ほとんどそれだけ) 。 新聞広告の大魔神は、(ネーミングからも)邪悪なモンスターという感じだった。近代兵器をもたない時代の人間たちが、どうやって大魔神を倒すのか、そこが興味の焦点となった。ところが、悪家老の傍若無人ぶり、迫害される城主の残党や領民、山の神として畏れられている魔神像、などの展開を見ているうちに、違うと思った。 「大魔神は、善い者なんだ」トイレの階段との仕切りの上で、映画小僧は突然叫んでしまった。 「え、大魔神は善い者?・・・」ザワザワザワ、静かな映画館に波紋が拡がった。観客はみんな、大魔神は人と敵対する怪物だと思っていたのだ。 一人の小学生が聞いてきた。「大魔神は本当に善い者なの?」 「だって、善い人たちがこれだけ悪いやつに苦しめられたら、もう大魔神が助けに現れるしかないじゃないか」などと、あたかも天才探偵少年が事件の謎解きをするように解説をしてみせた。大人たちまでもが「ほぉー」とかいって聞いてくれた(田舎だったし、そういうのんびりした時代だった)。 案の定大魔神は、亡き城主の娘小笹の祈りに応え、悪家老たちのあまりの暴虐ぶりに激怒して、大暴れする。 大魔神については、わかった。じゃあなんでマンシングは、バカップルを襲ったのだ。バカップルは、悪企業の人間じゃないぞ。あの場面を見たら、観客は、ジェイソンみたいな無差別殺人鬼の話かと思うじゃないか。さあどうする、田舎の天才探偵少年の成れの果て。「うーん」と頭を抱えている場合じゃない。 もう一度「大魔神」を見てみよう。怒り心頭に発した魔神様は、悪家老を倒したあとも荒れ狂っている。「里へ暴れ出たら、大変なことになるぞ」「なんとしても里へ出すな」。人々は食い止めようとするが、魔神のパワーには敵うはずがない。(結果的には、小笹が静まってくれるよう涙を落とすと、魔神の怒りは静まり、姿を消した。) マンシングも、聖地を破壊されて、怒り狂ってしまったのだね。沼に侵入する人間は、みんな敵だったわけだ(ちょっと単純?)。だから、バカップルに限らず、人々が殺されてしまったのだよ。制作サイドが、ちょっとジェイソンの真似っこをして雰囲気を盛り上げてみよう、と考えたかどうかは知らないけれど。 ラスト、怒りのあまりに判断力と選択能力に狂いが生じているマンシングが、ヒーロー、ヒロインをも含めた人々に迫り来る(ヒーローは、怪我をして動けない!)。その場面は、古いモンスター映画を見ているような懐かしさを感じました。悪の社長を成敗し、石油採掘機が破壊されたことで、マンシングは消え去る(やっぱり大魔神みたい)。 山の守り神「大魔神」は、悪を滅ぼすと山へ帰っていったのだろうか。しかし、「大魔神怒る(1966)」においては湖の神、「大魔神逆襲(1966)」では雪の神として祀られ、悪がはびこるたびに憤怒の復活を果たした(近々また新作が作られるそうです)。 「マンシング」も、驕り高ぶる人間を戒めるために、怒りの再登場があるのか。それはひたすら映画が売れたかどうかにかかっています。
September 18, 2006
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劇場版超星艦隊セイザーX 戦え!星の戦士たち(2005 東宝)たとえ子供向きの映画でも 脳天気な若者3人が、地球をデザインしたボールで、バスケットボールに興じている。 「うるさいわよ。ここは静かに星を観測するところ。体育館じゃないわよ」と天堂澪に注意される。天体観測所なのだ。なぜそこにバスケットゴールがあるのかはわからない。 「なんだよ、そっちこそうるさいよ。ここは俺たちの遊び場!」 外見は青年ぽいが、行動、話し方や話す内容は、小学生。やれやれ、最近の若者は、と思ったら、なにぃ、こいつが主役のヒーロー、ライオセイザーだって? 突如、宇宙海賊が地球を攻撃してきた。小学15年生(推定)、安藤拓人(ライオセイザー)は、敵の実態を見極めず、後先を考えないで攻撃をしかける。ところが相手は、攻撃のエネルギーを吸収し、巨大化するのだった。さすが大きな小学生。正義感にはあふれるが、一本気な性格だ。力任せにガンガン攻撃し、襲ってきた敵を叩きのめせば事は解決すると単純に考えたわけだ。 「相手のことを知らないで攻撃するなんて、まったく拓人のやつ、なんてことをしてくれたんだ」拓人の祖父、天才エンジニアといわれる宗二郎が嘆く。ところがこのおじいさん、落ち込む拓人を見ると、「失敗を恐れるな」って、ちょっと待て。この程度の判断力、精神的発達段階の人間に、ライオキャリアー(戦闘鑑)、グレートライオ(巨大ロボ)などを扱わせて、セイザー砲などの破壊兵器をバンバン撃たせていいのか。そのうち市街地を吹っ飛ばされるかもしれないぞ。 子供になめられてはいけない アメリカのスーパーヒーロー、「スパイダーマン(2002)」を見てみよう。スパイダーマン=ピーター・パーカーの素顔は、さえない青年である。勉強はできるが、オタク的でドジ。ピザ屋のバイトも満足に勤められないで、クビになってしまう。 ピーター・パーカーは、スーパーマン=クラーク・ケントやバットマン=ブルース・ウェインのように、完成された人格者ではなく、コンプレックスをもつ若者として設定された。また、強盗犯を見逃したことが遠因となり、同じ犯人にベン叔父さんを殺されてしまう。 人間的に未熟な部分があり、過失もある。安藤拓人とピーター・パーカーは、一見共通しているように見える。ピーターは、弱点をもつことで、スーパーヒーローとして単なるマッチョではなく、人物像に深みや陰影が加わった。それによって観客は、大人も子供も、スパイダーマン=ピーター・パーカーを四十年間支持し続けてきた。 「セイザーX」は、子供(幼児~小学校低学年)を対象とした映画だ。拓人の人物設定は、感情移入をしやすいようにと大人が考えて、安易に子供の姿を投影したものだ。確かに、拓人が優等生の堅物では、おもしろくないだろう。だからといって、元々は純粋で、危険を顧みずに闘い、地球を救うという条件を満たしていれば、どんなアホな人物設定でもいいってもんじゃない。 人々は、ピーター・パーカーに共感を抱く。しかし、安藤拓人は、子供からなめられますよ。予期せぬ轟天号の登場! 昭和のスーパーヒーローの素顔といえば、仮面ライダー=本郷猛の藤岡弘が代表格だ。質実剛健、男らしいイメージをもっている。最近のスーパーヒーローものは、本来の視聴者である子供たちよりも、その母親をターゲットにしたイケメン路線だそうだ。そんな風潮を反映して、お母さんたちへのサービスなのだろうか、この映画で素顔のヒーローを演じる俳優たちは、ホストクラブからスカウトしてきたように見える。元祖イケメン路線の平成仮面ライダーの方は、学生モデルクラブの面々といった感じですが。 それはさておき、テレビ番組の劇場版は、パワーアップが楽しい。この作品は、超星艦隊シリーズのオールスター戦といった趣で、「超星神グランセイザー」「幻星神ジャスティライザー」も登場する。キャラクターを出せばいいってもんじゃないけれど、子供たちは大喜びだ(ったのだろう。劇場では見ていないので、推測です)。 そんな中で、「海底軍艦(1963)」轟天号のゲスト出演は、嬉しかった。まったく予備知識なしで見ていたので、「神宮司司令」とのセリフには特撮的記憶を刺激された(「海底軍艦」轟天号の艦長は、神宮司大佐である)が、轟天号がその雄姿をスクリーンに現すとは思わなかった。 「ゴジラ・ファイナルウォーズ(2004)」に続いて、3回目の映画出演だ。今回は、伊福部昭作曲のオリジナル・テーマも勇ましく、出陣場面と戦闘場面を見せてくれた。ゴジラにも劣らないVIP待遇である。この作品では、(おそらく)初めて、艦砲射撃を行った。クサっても東宝特撮(失礼)。過去の財産が生きていますね。「海底軍艦」の思い出 「海底軍艦」は、東宝特撮映画史上、最強の存在である。まず、たった一鑑で、一国を滅ぼしている(単独でムー帝国に攻め入り、短時間で全滅させた)。さらに、あのゴジラと闘い、南極の地に生き埋めにした。怪獣王にも勝っているのだ。 今回は、艦砲射撃のほかにも、敵戦闘ロボと闘いを繰り広げる。こういう活躍場面を見たかったよ。最後は必殺冷戦砲で、キングギドラもどきの超巨大怪獣(マンモス・ボスキート)を凍らせて、地球軍の勝利に貢献している。(ちゃんとキングギドラとして登場させれば、また一つ夢の対決が実現したのに) ただ、今回は、海の場面はまったくなし。だから「海底軍艦」ではない。劇中では、轟天号としか呼ばれていない。もっぱら空中戦を挑んでいる。 さて、オリジナルの「海底軍艦」だが、未だに解けない謎がある。ムー帝国は、深海に築かれている。当時最新鋭のアメリカの原子力潜水艦が、ムーの潜水艦を追跡していったが、あまりの深さに、途中で水圧に潰されてしまった。地上人類に残された手段は、万能潜水艦、轟天号の出撃しかない。 轟天号は、全世界の期待を背負い、地上人類未踏の深海に位置するムー帝国に勇躍到達する。しかし、ムー帝国には、神宮司大佐の娘たちが捕虜になっている。迂闊には攻め込めない。そこへ、捕虜になった人間たちが逃げ出してきて、轟天号に救助された。彼らは、ムー帝国人の潜水服を着て、泳いできた。 アメリカの原艦はグニャグニャに潰されたのに、どうして人間が泳ぐことができたのか!考えられる理由は、ただ一つ。ムー帝国の潜水服は、アメリカの原艦より水圧に強い。(正解か?) 映画「海底軍艦」は、一過性の商品では終わっていない。辻褄の合わない場面も見られるが、轟天号のデザインやキャラクター設定などに魅力があり、今に伝わっているのだ。轟天号の出撃シーンは、当時の子供にとって、衝撃的だった。ミニチュアワークを駆使し、伊福部節に乗って海底から空へと飛び立つ轟天号には、40年以上経過した今でも、鳥肌が立つほどの感動を覚える。幸福な映画体験だった。オリジナルの「海底軍艦」への思い入れがあるからこそ、今回の轟天号の活躍を賛美できたのだと思う。子供達に、印象深い映画を この作品の監督は大森一樹、特技監督は川北紘一である。平成ゴジラ(VSシリーズ)を作ったコンビだ。力量のある二人によって、映画のテンポや特撮場面など、快調ではあった。けれど、観客の心に深く刻み込まれたものは、あっただろうか。 子供たちは、これから先も大切なお客さんです。そう考えれば、子供向けお正月番組として、そのときだけ客を集めればいいというものではないですね。子供にこそ、充実した映画体験をさせてあげましょう。
July 23, 2006
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東宝特撮映画テイスト 見終わって、あれこれブツブツ文句を言いたくなる映画があれば、ご都合主義の展開や台本のあまさにツッコミを入れながらも、堪能できる作品もある。 「緯度0大作戦(1969)」は、東宝特撮映画テイストあふれる、とっても楽しめる映画だよ。 冒頭、「航空機がジェット気流を利用しているように、海流が潜水艦の加速に役立つのではと考えたからだ」と説明がある。この海流調査の理由、何気なく聞き逃してしまいそうだが、ちょっと待て。航空機とは、戦闘機もあれば旅客機もある。ジェット気流の研究が、広く人類の役に立つのは分かる。しかし、潜水艦なんぞは、軍事利用しかないではないか。そのスピードアップが、それほど重要な研究なのだろうか。もちろん研究はあってもいい。だが、調査団は、どう見ても民間人のご一行様で、軍関係者は見あたらないではないか。 宝田明たちメインキャストは、潜水球に乗って海流調査を始める。その途端、突然の海底火山噴火に遭遇し、海底深く沈んでしまう。負傷し、気を失った宝田明たちは、ジョセフコットンら緯度0のメンバーに救出される。つまり海流の調査とは、両者が出会うための大仰な舞台設定なのだ。もう、のっけから東宝特撮テイスト全開である。 アンのファッション、ウフフ・・・ 宝田明たちは、ジョセフコットン扮するマッケンジーの潜水艦α号に収容される。乗組員の一人、アンのファッションがすばらしい。水着のようでもあり、なさそうでもある。背中と胸が大きく開いている。その姿を見て、宝田明たちは驚く。見知らぬ場所で意識が回復したら、目の前に肌もあらわな女性が登場した。これでは、酔っぱらってフーゾクに迷い込んだかと錯覚を起こしかねません。 それはさておき、アンは女医さんなのです。この後宝田明たちは、科学のユートピア「緯度0基地」に案内される。そこで女性は、リゾート感覚で、水着風の装いをしていらっしゃいます。涼しげで、自由なファッションというわけなのかもしれませんが、潜水艦に乗り組んでいる女医さんの仕事着にはふさわしくないんじゃないの。宝田明に同行する新聞記者ロートンの視線は、明らかにアンの胸元に向けられている。セクハラを助長する露出過多の女医さんの衣装は、観客へのサービス以外の何ものでもありません。「海底軍艦」から「万能潜水艦α号」へ 東宝特撮は、ゴジラなどの怪獣映画がよく知られている。「緯度0大作戦」は、モンスターの出番もあるが、怪獣映画とはちがう。特撮が描くのは、万能潜水艦α号を筆頭にしたメカニック群であり、「空想科学映画」の名称が使われている。東宝特撮の空想科学映画には「宇宙大戦争(1959)」や「妖星ゴラス(1962)」などの宇宙を舞台にしたものがある。いずれも熱く語りたい作品だ。 それ以上に「海底軍艦(1963)」については、機会があれば、たっぷりと思いの丈を打ち明けてみたい。特撮場面としては、海底軍艦の造型、機能、基地やドックなどをミニチュアで細かく作り上げ、迫力ある映像を実現している。 「緯度0大作戦」は、「海底軍艦」の実績を引き継ぎ、ミニチュアを駆使して、α号の航行や敵潜水艦黒鮫号との海底戦や、海底2万メートルの緯度0基地への帰還場面などを丁寧に描いている(途中何カ所かミニチュア・モデルを吊っているピアノ線が見えるのはご愛敬)。円谷英二の撮影するミニチュアは、じつに重量感がある。CGがともすると軽い絵空事になってしまうのとは対照的である。ミニチュアといえども実物だ。CGより自由度が低い。けれど、その不自由さが存在感につながる。ストーリーなどは添え物で、この映画の存在意義は、ミニチュア・ワークを見せるためにあると思うほどだ。空想科学映画は実写版ドラえもんか? 東宝の空想科学映画は、SF映画とはちょっと異なる趣をもっていると思う。科学の名の下で、なんでもありといってもいいかもしれない。 α号は、武器を装備していない。そのため、黒鮫号から攻撃を受けても、反撃はできない。黒鮫号にレーザー砲で追い詰められたα号、マッケンジー監督は、「投影法」を用いる。これは、α号とそっくりの映像を映し、敵の目をあざむく忍者戦法だ。「いつの間にこんなものを発明していたのだ」と悔しがる悪の帝王マーリック。じつに都合よく新兵器が出てくるよね。「投影法」なんて、潜水艦にとってはほかに使い道もないようだけれど、便利な道具をつくるのはマッケーンジーの趣味なのか。 マッケンジーと宝田明たち(役名と俳優名が混在)は、宿敵マーリックとの最終決戦を行うためにマーリックの待ち構えるブラッドロック島に乗り込む。そのための装備は、免疫体質(免疫風呂に入ると弾丸を跳ね返すなど24時間不死身になる)、金色に輝くスーパースーツとスーパーグローブ(指先からは火やレーザーを噴射)、背中には空飛ぶジェットパック。ここでもおあつらえ向きに便利な道具が。まさにドラえもんの四次元ポケットから出てきたようである。戦闘においては素人の宝田明たちも、映画ののび太たちと同様に、お手軽にスーパーヒーローになれる。地道なトレーニングも、ハードな訓練もいりません。(ドラえもんも東宝映画だ!)インスタント・モンスター、インスタント・メカニック 悪の帝王マーリックも負けていない。緯度0軍団の攻撃に備えて、怪物グリホンをつくる。ライオンにコンドルの羽と人間の頭脳を移植し、拡大血清で3倍の大きさにして、所要時間2時間ほど。ギコギコと羽を切り落としていたかと思ったら(切り口はギザギザじゃないのか)、縫合して、すぐに飛ばせさせちゃった。抜糸まで1週間は安静、とかないのかね。 CGなんぞはない時代だから、グリホンは当然縫いぐるみ(着ぐるみ)を使って撮影している。もとになったライオンやコンドルも縫いぐるみである。だから、なんかかわいいんだよね。それと、四つ足歩行の動物を人間が演じると、どうしても後足が不自然になる。四つ足怪獣もそれが難点だ。怪獣は、撮影の仕方でうまく隠したり、怪獣という非現実的な存在だからという理由で納得したり(できないって?)する。けれど、ライオンなどはね、見慣れているだけに難しい。さすがに、グリホンになってからは、ちょっとカッコよくなる。 インスタントぶりでは、マッケンジーも凄い。前の晩にα号になんか手を加えてるなと思ったら、非行機能を備えさせていたのだ!マーリックのレーザー砲攻撃を逃れて、雄々しく飛翔するα号。(空飛ぶ潜水艦では、先輩格の海底軍艦があります。) こういったお手軽さがいいね。子供って面倒な段取りを踏むとか、先々まで見通しをもって行動するとかが苦手でしょう。ドラえもんが子供たちに人気があるのは、パッパッとタイムリーな道具が出てくるからですね。だから、こだわりにない、開放された心で、東宝特撮テイストのスピーディーな展開を、ご覧くださいませ。
May 28, 2006
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偉大なる「ガメラ 大怪獣空中決戦」 金子修介監督の「ガメラ 大怪獣空中決戦(1995)」は、My favorite movie である。それから11年目、ガメラの新作がつくられた。しかし、「小さき勇者たち~ガメラ~(2006)」のタイトルを見たとき、早くもダメかもしれないと悪い予感がした。「小さき勇者たち」? 怪獣映画と子供の危険な関係 「ガメラ 大怪獣空中決戦」のタイトルは、「ガメラ」を見ても、「大怪獣空中決戦」見ても、おお、これは大怪獣ガメラを中心に据えた映画だと、みんながわかる。一方の「小さき勇者たち~ガメラ~」は、「小さき勇者たち」と「ガメラ」と、どちらがメインタイトルなのか悩む。 もし、これが「たち」ぬきの「小さき勇者」であったのならば、当然メイン・キャラクターであるガメラのことを指すでしょう。どでかい敵怪獣に立ち向かう、怪獣としては小ぶりのガメラという設定が浮かぶ(「ゴジラ モスラ キング・ギドラ 大怪獣総攻撃(2001)」のゴジラ対バラゴンのイメージだね)。それならば、特撮怪獣映画として期待がもてたかもしれない。 しかし、「たち」である。ガメラとほかのだれか(何か)の組み合わせで「たち」と呼ぶのか、もしくガメラ以外の複数の「だれかたち」であるかもしれない。いすれにしても、ガメラをもちだしながら、そのほかの何かを足している印象だった。 さらに「小さき」が気になっちゃいました。この映画で「小さき」と言ったら、子供を示す確立が高い。怪獣映画と子供の組み合わせは、あまりうれしくない。なぜなら、かつて、日本には、怪獣映画をお子様向け映画として、安易に子供を登場させることで作品の質を落とし、当の子供からも「チャチい」といわれた歴史があるからだ。 不幸なことに、タイトルから得た予感は、裏切られることがなかった。 怪獣映画を、子どもの成長物語にしないでほしかった。成長物語があってもいいのだけれど、メインは怪獣にしてくださいよ。もしかして、愛とか友情とか勇気とか、そういう子供の姿を前面に押し出せば、感動的で高尚な「いいお話」になると考えているのではないですかぁ。言ってみれば、まずいラーメンを「栄養価が高い、ヘルシー」などのポイントで売るようなものだ。ラーメンは、例え脂ギトギトでも、本来の濃厚なうまさで勝負してください。怪獣映画のスペクタクルとか、ドラマ性を否定されたような気がしてしまいます。 子供の成長物語といえば「スタンド・バイ・ミー」がある。登場人物は、自分の中にどうしようもない弱さを抱えて、それと対峙するために死体探しの旅に出る。映画の中には切実感があった。 子どもを主役にした映画といえば「小さな恋のメロディ」がある。11歳の男の子と女の子が真剣に恋に陥ったらどうなるかというお話。大人に媚びない子どもの世界がありました。 インタビューに答えて「子どもって大人よりも、もっと高潔な生き物なんで」と田崎監督は発言してます。そこに異論はございません。でも、高潔な生き物であることに頼りすぎてはいなかったか。なんで子どもたちが、次々とリレーしてガメラのもとに石を運ぶのか、全然わからない。子どもは高潔、純粋なので、みんなガメラの危機とガメラには石が必要なことをテレパシーかなんかで察したのでしょうか。また、ガメラを運び去ろうとする大人の前に大勢の子どもたちが立ちふさがるだが、いつの間にそんなネットワークができたのだろうか。 子どもたちの健気さは、見る者の涙腺を刺激する。だけれども、そういう場面をつなげればいい映画になるというわけではないでしょう。何か、納得できるものを見せなければ、感動はない。 田崎監督は、ピーター・ジャクソン版「キング・コング」(2005)がお好きなようで、「主人公とキング・コングの関係性が非常に深い。愛の物語だったりするんで、ああいう形でしか今の時代はあり得ないんじゃないか」と言っておられる。今回のコングは、長時間ながら飽きずに見られた。しかし、コングと人間の女性が心を通わせるところは嫌いだった。ありえないなどと現実的な判断を下しているわけではない。オリジナルのモンスターとしての存在感を漂わせるコングが好きなのだ。子供の視点より、観客の視点を もうひとつ、田崎監督は「子供たちの目から見た怪獣騒動」との設定にこだわったとのこと。彼らが知り得ない情報は、そぎおとしたと述べておられる。そう伺って、映画での説明不足が意図的だったとわかった。監督としてのオリジナリティが感じられる。ですが、遠くない過去にガメラやギャオスが存在していて、そこへ当たり前のように新怪獣ジータスまで出てきちゃったら(誰がなんでジータスって名付けたんだ!)、観客としては、この世界観はどうなってるのと戸惑いますよ。少なくとも、ガメラやギャオスが20年前にいたなら、背景についてわかることがあってもいいでしょう。 突発的なできごとがおこり、わけがわからん状況で行動する子供を描きたいのであれば、ギャオスなど過去のできごとはない方がいい。正体不明のジータス出現、トトの正体は子供の味方ガメラだった、ガメラは子供のために小さな体で果敢にも怪獣と闘う、でお話になるじゃないですか。 細かい設定を考えるのがメンドーだったのでしょうか、どんなに考えてもリアリティーに欠けると思ったのでしょうか。 手抜きに見えますよ。特撮場面の迫力とは 怪獣映画は、特撮場面が命です。 「怪獣が横に動くのは、やり尽くされたし、飽きた。縦に動かしてみたい」との発言に見られように、田崎監督は意欲的に画面作りに取り組んだようだ。 例えば、ジータスが橋から海(河口)に落下する場面がある。ここで巨大な水柱が立つ。しかし、それでいいだろうか。水泳の高飛び込みをしてるんじゃないんだから、ジータスのような重量だったら、大波が起こって川の両岸を襲うはずだ。民家を飲み込む水の勢いまで描く芸の細かさがあれば、監督の意図した縦の動きが、もっと生かされた考えますが。 「ガメラ 大怪獣空中決戦」は、もし、怪獣が本当に出現したらとの設定によるリアル指向のシミュレーション映画だった。あくまでも中心はガメラ、ギャオスの怪獣たちである。多分、金子監督は、子供の頃にゴジラの新作を見て、特撮映画を通して、映画の凄味を味わった世代だろうと思う。その体験が、平成ガメラシリーズの原動力だと想像する。 いい特撮怪獣映画は、この退屈な日常を破壊する夢を見せてくれる。引用・参考文献 「映画秘宝 2006年6月号 VIP INTERVIEW 田崎竜太監督」
May 22, 2006
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