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<わが無言の写真集> 4月も今日が最後になった。新型コロナ騒動で心楽しめない日常である。そんな折に極めて心象的な写真展を催すことにした。しかも説明なしの無言で無機質な写真ばかり。これは一体何なんだ。まるで心霊写真じゃないか。まあ受け止め方はそろぞれで結構。どうぞお許しあれ。 ちっとも楽しくなくて、ますます気持ちが暗くなるとお小言を食いそうだが、たまにはこんな無言、こんなシンプルさ、こんな薄暗い世界と向き合うのも良いもの。新型コロナとは多分まだ当分は付き合わざるを得ないはず。この圧迫感に耐えるのも人生修行のうちと考えたり、黒沢明監督作品を鑑賞したと思ったらどうだろうね。(;^_^A<続く>
2020.04.30
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~マックス爺の失敗人生~ ツタの若葉 目下手持ちのマスクは全部で8枚。材料はパルプみたいで、箱には「サージカルマスク」とあり、鼻の形に合わせて曲げられる。これでいつまで持つか心配だが、「ワークマン」にもHCにも入荷はないみたいだ。先日新聞の折り込み広告。通信販売で50枚入り2組で8千円ほど。これが高いか安いかは判断できないでいる。薬局はダメだろうと思って、行きもしない。こうなると「あべのマスク」が頼りだ。 ハナズオウ 散歩がてらM公園の八重桜を撮影し、その足でいつもの床屋へ寄った。シニア料金の予約券を買おうとしたら、マスクをしてない人の入店をお断りしていると店員。店に待ち人は2人。一応タオルハンカチで口元を覆っていたのだが、それでも規則だからダメと。止む無く再び歩いて帰宅。家を出る時に、マスクをしてないとまずいとは思ったのだが、郊外と思って油断した自分の判断ミスだった。 シャラの若葉 今年の大河ドラマ「麒麟が来る」が意外に面白い。織田信長役はソフトバンクのCMの浦島太郎役のあの人。そして明智光秀役は、朝ドラ「まんぷく」の夫役だったあの人。岐阜稲葉山城の主斎藤道三と、その婿である信長の息詰まるような歴史の展開。その結果を現代の私たちは既に知ってるが、それでもなお面白い戦国時代の人間模様。 黄色いチューリップ 一方朝ドラ「エール」の展開がまどろっこしい。今は主人公古関裕而とその妻金子(音)との若き日のラブロマンスの場面だが、コロナ騒動で思うように撮影が進まず、そのため間延びした感を拭えないのだろう。福島、豊橋から舞台はロンドンへ。そして5月初旬には、先日亡くなったばかりの志村けんさんが山田耕筰役で登場する。それが彼の遺作となるだけに、何だか複雑な心境だ。それにしても恋は良い。 まだ緑色のオオテマリ 週に1度の買い出しで得た素材で自分が食べたい料理を作る。カレーライス、野菜炒め、ポテトサラダ、肉じゃが、ピクルス、お浸し、焼肉に焼き魚。それに出来合いのコロッケ、アジフライ、シュウマイ、ベーコン、塩辛、刺身などを交えたら飽きることもなく、3、4日は持つ。先日はまるまる1本沢庵を買った。これが麹が効いてるのか甘みがあり、なかなか美味しかった。かくて1週間は生きられる。 ツリガネスイセン お天気を確かめながら布団を干し、洗濯をする。先日は久しぶりに掃除機をかけた。面倒になるとつい忘れがちだが、運動と気分転換を兼ね、しかも換気も出来る。昨日の夜は東京の次男と電話で話せた。通勤の山手線はかなり空いていて、週末はさらに空くらしい。元気そうで何より。仕事柄職場へ出勤しているが、彼の業界はコロナ騒動の中でも好調とのこと。それを聞いて少し安心。親の心配は尽きないのだ。 冷害が心配だが、思い切って野菜の苗を買った。帰宅後レシートを見てビックリ。何と1本350円以上の高級品。誰かが間違え安い苗の方に戻したのだろう。まあ高い苗は良い実が生るがら良いが、一体どうしたのだろう。別な店では歯ブラシが値札と異なり高い値段になっていた。だが面倒くさくて店員に文句が言えないのが男の特性。「全力応援品」88円が250円以上だもんなあ。それも5本。 トマト こちらは1本68円のトマト。わが家はこんな安物で十分なのだ。これを10本畝に植えたのは良いが、穴を掘ったら豆が出て来た。そこは先日モロッコインゲンを植えた畝だったのを忘れていたのだ。慌てて別の畝に植え替えて水やり。後は遅霜にやられないことを祈るのみ。雑草がまた伸びて来た。これからは雑草との戦いが始まる。コロナにも雑草にも負けるな自分。何とか元気で頑張りたいね。
2020.04.29
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~新型コロナウイルス騒動の行方~ ここ何回か、日本の近代化と戦争の話について書いた。日本の近現代史をまったく知らない素人がそれを書くのだから正直言って辛いものがあった。でも私は自分を右翼などとは思っておらず、ただただ本当のところはどうだったのだろうと思っているだけに過ぎない。歴史を変えることは誰にも出来ない。だが中国や韓国、北朝鮮では違う。全ては現政権に都合よく書き換える。嘘つきは民族の特徴なのだろう。 恐らく読んでいる読者の方も辛かったと思う。こんな堅苦しく重々しい内容が連日続いたのだから。でも私はとても嬉しかった。それにも関わらずアクセス数がさほど減らなかったためだ。こんなコロナ禍の折り、それでなくとも憂鬱なのに、重苦しい話題のわがブログを良く訪ねてくれたと感謝し、正直言って驚いた。「3蜜」どころか私は少ないブログ友がさらに少なくなっていたのだが。 この人が怒り狂っている。とうとうWHO(世界保健機関)への拠出金を停止した。それは一人大統領だけの思いではなく、議会の強い意向でもあった。世界一の感染者数、そして死者も5万人の大台を超えて世界一になった。だが、一番に中国からの渡航を禁止したが、感染したのは中国から転移したヨーロッパからで、ヨーロッパからの渡航禁止をもっと早くすべきだったと言うのが最近の観方だ。 武漢のウイルス研究所設立には、フランスも一役買っていたことを最近になって知った。シラク大統領時代のことで、建物が完成したらフランス人研究者40人が運営に参加することになっていたらしい。ところが中国は約束を守らず、完成後は全て中国人研究者で運営を占めた由。そのこともあってか、米国が唱えるWHO改革に、フランスも歩調を合わせるらしい。ともかく中国の強権発動と秘密主義は厄介だ。 IPS細胞の発見と治療への活用でノーベル医学生理学賞を受賞した京都大学の山中教授が、「人類は新型コロナウイルスと共存しなければならない」と話した時。私はええっと思った。あんな凶暴なウイルスとの共存とは、おかしいのではないかと言うのが正直な感想。ところが教授の真意は、このウイルスの撲滅は無理と言うことのようだ。そしてアメリカ辺りから「集団免疫」と言う考えも出て来た。 極論だが、ウイルスを撲滅するには人間が全て死ぬことが必要らしい。つまり宿主である人間がいなくなればウイルスは全滅せざるを得ない。最近は動物園の虎や犬などにも感染したと聞くが、真相は知らない。日本で開発したインフルエンザの治療薬「アビガン」が、今回の新型コロナ感染者の治療に用いられ、一定の効果を上げたとの話は聞いた。やはり最終的には有効なワクチンの開発が必要なのだろう。 東北では目下疫病退散に効き目がある「アマビエ」信仰がホットな話題になっている。言って見れば現代版「安倍晴明」だろうか。楽天が新型コロナの検査キットを発売し始めたが、これは医薬部外品で医学的な保証はないと言うのが厚生労働省の立場。だが楽天は、事前チェックの意味で有用と主張。一方ヨーロッパ諸国に中国が送ったマスクと検査キットは不良品として返品された。 福島県田村市の「お人形様」 これも地元に伝わる疫病退散の神「お人形様」。医薬がまだ発達してなかった頃は、このような信心が人々の心を救ったのだ。笑うことではなく、庶民はひたすら信じる以外はなかったのだ。ところで中国製マスクなどが不良品だった原因は、急遽参入した異業種が製造したため知識と技術がなく、粗悪品になった由。また「安倍のマスク」の不良品は東南アジアでの製造で、中国と同じ理由のようだ。 大阪などで通達を守らなかったパチンコ店の店名発表だが、私は「逆効果」になると踏んでいた。ギャンブル依存症の人にとって、店名が分かれば必ず押し掛けるはず。そう思っていたのだが、やはりそうなった。都道府県に許認可の権限があるのだから、「守らないと許可を取り消す」と言えばよかったのではないか。いかに「三蜜」を守り、いかにして感染と死者を減らすかの真骨頂が問われる。 国連旗 WHOなど国連の下にある14の専門機関のうち6つを中国または親中国派の国が牛耳っている。先日は「知的財産権」機関の委員長を日米が協力し、選挙で奪い返した。何せ中国は「一つの中国」を叫んでアジア選出の常任理事国の座を台湾から奪った張本人。全体主義国家が牛耳る国連は、決して公平でも公正でもなく極めて恣意的。あの国がどれだけ自国の民族を虐殺して来たかを見れば分かるはずだ。
2020.04.28
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<戦争と歴史観> 今回の大連・旅順ツアーで中国人に対して不愉快な思いをしたことはほとんどなかったし、現地案内人の価(か)さんの対応も私たち日本人旅行客に対して至極友好的だと感じた。まあ日本のツーリストに雇われているのだから、私たちに不愉快な思いをさせることは万が一にもないだろうが、まあ終始公平で親切だったことに、正直驚いたほどだ。彼は漢族で大連の住人。彼の先祖がどこから来たかは聞かなかったが、日本語は独自で習得したそうだ。 22名のツアー仲間は全て仙台空港から一緒に来た。老若男女様々で、中には中国を何度か訪れた人もいた。また中国の西安を快経由してウズベキスタンまで旅したと言う剛の者もいた。かつて仙台から西安迄の直行便があった時で、その先の航路は自分で調べたそうだ。そんな旅慣れた人が、入国審査で手間取ったのが意外だった。私は愛嬌を振りまき、簡単に大連空港の入国審査を終えたのだが。 若い人の中に、日露戦争当時の日本軍(連合艦隊)がロシアの軍艦を旅順湾内に閉じ込めたことを知ってる人が驚いた。彼は何度か中国を旅し、今回も色々調べて来たのかも知れない。その彼が旧満鉄本社だった列品館で、満鉄が所蔵していた白檀の工芸品を30万円で購入したことに驚いた。もちろんカードでの支払いだったが、私は水師営会見所の資料館で1万円でトルコ石を買うのがせいぜいだった。それも旧満鉄の所蔵品。財政難の大連市の方針で、老朽化した旧日本関係施設の修繕費に充てるため、売却を始めた由。 伯父さんが満州に居たと言う人が私に「反省しなくちゃいけないよ」と言った。私が南京大虐殺はインチキだと言った時だ。私も叔父から満蒙開拓団で働くため、茨城県の内原町にあった訓練所で訓練を受けたと聞いたことがあった。日本の近代史、現代史は学校でほとんど学んでいないが、幕末の歴史小説を読み始めてから関心を持つようになった。 しかし明治以降の日本は、本当に間違っていたのだろうか。日本が置かれている位置、そして当時の世界情勢と東アジアへ迫り来る列強侵略の足音。その脅威から逃れるためには大急ぎで近代化を図り、富国強兵で列強に立ち向かうしかなかったのではないか。それが日露戦争を描いた司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」になった。当時中国(清国)はロシアに満州を侵略され、末期の李氏朝鮮も危うかった。 これは日本に併合される前の朝鮮。これが首都京城(現在のソウル)の姿。国民の2割は奴婢で、識字率は50%以下。産業は農業のみで、便所がないため大便を道路に捨てるなど衛生状態が悪く(大便を野犬が食べ、その犬を人が食べた)平均寿命が低かった。日本併合後は人口が倍増し、識字率も上昇する。ハングルを復活し、大学を建て教育制度を確立したためだ。日本は国家予算の数年分を朝鮮に注ぎ込んだ。 マッカーサーと李承晩 反日活動をしてアメリカに亡命した李承晩は、アメリカの支持により初代大統領に任命された。彼が反日活動をしたのは、身分制度の撤廃で旧貴族である両班(ヤンパン)の権利が奪われたため。併合前の朝鮮で、奴婢には戸籍も職業も自由もなく、貴族階級が富を独占していた。大統領になった李承晩は、まだ日本が国連に加盟出来ない隙に李承晩ラインを引き、竹島を勝手に韓国領に組み入れた。 <魯迅(左)と孫文(右)> 中国の民主化と独立を目指して戦った魯迅と孫文は、共に日本へ留学している。医学者を目指した魯迅は東北医専(現在の東北大学医学部)で恩師藤野先生の影響を受けるが、後にはより多くの民衆に訴えるため文学者へと転身した。「亜Q正伝」や「狂人日記」」などを著して、病んだ自国民を啓蒙し、革命を訴えた。 孫文は中国でも台湾でも「国父」と呼ばれて敬慕されている政治家で革命家。植民地化された中国の現状を憂い、革命に命を捧げる。彼を援助した日本人の一人が長崎の写真家梅屋平吉。彼は莫大な資金援助のみならず、時には大量の武器を日本から中国に送っている。明治初期の日本は西洋の技術と知識を率先して受け入れ、その専門用語を漢訳した。中国の近代化もそれによるところが大きい。 <キャンベラ戦争博物館> 今から30年以上も前だが、私はオーストラリアの美術館、博物館、大学を20近く見たことがあった。キャンベラの戦争博物館では日本コーナーもあった。第2に世界大戦で日本は敗戦国で、オーストラリア本土へも爆撃しているが、第一次世界大戦では連合国側として戦い、中国青島のドイツ軍を下している。そのことも含め、極めて正確かつ公平な展示な内容であることに驚いた。 メルボルン国立博物館 また国立メルボルン博物館で驚いたのは、展示品の半分ほどが国民からの寄付だったこと。古代エジプトやオリエントの見事な美術工芸品が目白押しなのだ。もちろん大英帝国時代占領地から略奪したものだ。その子孫が悪びれることなく、自分の家に先祖から伝わった美術品を新天地オーストラリア建国の際に寄付したのだろう。ここではかかつて植民地を支配したことなどを反省するそぶりはない。 これは「南京虐殺」をテーマにした中国の博物館。でかでかと30万人の数字が掲げられている。だが南京市の閉当時の人口は25万人で、30万人も殺せる訳はない。これは中国共産党が日本軍の残虐性をアピールするため、外国の新聞記者に依頼して書かせたもの。実態は共産軍が市民に紛れてゲリラ活動をしたために止む無く攻撃したもので、死者数はずっと少ない。それに共産軍と国民党の内乱が激しく、日本軍は中国からシンガポール方面に転戦する。 これは30年前の「天安門事件」。行き過ぎた文化大革命に抗議する国民に対して戦車が突っ込んだ。死者は300名程度と言う発表だが、実際は2万人以上の犠牲者が出ていると言われる。中国では古代より政変による国家の興亡が常で、勝者が歴史を書き換えた。中華人民共和国になってもそれは変わらず、未だに権力闘争が続いている。一党支配の全体主義ほど怖いものはない。 新型コロナウイルスを模した五星紅旗。 韓国の師李承晩も大統領の地位を守るため、徹底的な反日教育を行った。従って日本の併合時代のことは全て間違ったことにした。それが今も続き、反日ならどんなことでも許されている。北朝鮮も含めてこんな国が近隣にあると、とても正常な外交は不能になる。コロナ騒動の今も、中国の艦船は尖閣の周辺に押し掛け、示威行為を繰り返している。<続く>
2020.04.27
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<五族共和~満州国の夢と興亡~> 右の少年が清国最後の第12代清国宣統帝となった愛新覚羅溥儀(満州名1906-1967)で即位したのは2歳の時で、在位はわずか4年間だった。彼は後に日本の後押しで満州国皇帝となる。腕に抱かれているのは弟の溥傑で彼は日本の陸軍士官学校を卒業後、日本の華族で天皇家の親戚筋に当たる嵯峨浩と結婚した。長女慧生は戦後天城山で日本青年と心中する。 <満州国執政官着任式> <満州国皇帝即位式> 1922年満州族の婉容を皇后にして紫禁城内で結婚。1924年クーデターの北京政変により紫禁城より追放処分。1932年満州国執政となる。1934年まで。1934ー1945年満州国皇帝。1945終戦により廃位。1960-中華人民共和国政協専門委員。1964-1967同全国委員兼任。1967年波乱に富んだ生涯を閉じる。享年61歳。中国及び満州のラストエンペラーだった。 1927年蒋介石率いる国民党右派が毛沢東率いる中国共産党を弾圧して南京政府を樹立。いわゆる「上海クーデター」だ。 柳条湖事件 孫文の後継者と目される張作霖が満州でも破壊工作を展開する。それ以前に満州には匪賊(ひぞく)馬賊と呼ばれる野盗が2万6千人ほどいたが、これに対して日本の警察官は2千人しかいなかった。乱れた治安を安定させるために関東軍が置かれたが、関東軍の若手将校が陸軍の制止を振り切って、張作霖が乗った列車の爆破を図って爆死させる。これが別名「満州事変」と呼ばれる柳条湖事件で、列強が調査団を現地に送った。 満蒙開拓団 1932年。満州国の誕生後、日本は満州に開拓団を送った。広大な荒れ野を開拓して畑にし、大量の肥料を散布して大豆を作らせた。茨城県の旧内原町には、青年開拓団の講習所があり、長野県のある村では、村民の全てが満州に渡って開拓した。満州は貧しい日本の農民にとっては夢の国で、日本政府は満州を立憲民主制の国家と吹聴し、五族共和を唱えた。 <日本併合以前の朝鮮の農村> 五族とは、日本、満州、漢民族、朝鮮族、ロシアだろう。日清戦争の結果清国から独立した大韓帝国は日本との併合を議会で決議し、日本は朝鮮の民主化と近代化を推進した。身分制度の撤廃、教育制度の確立と識字率の向上、衛生状態の改善、鉄道敷設と産業育成などだ。満州、朝鮮、台湾経営はすべて日本の持ち出しで、搾取するものがとんどなかった。それを植民地支配と言うだろうか。<続く>
2020.04.26
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<日露戦争の激戦地を訪ねて> 大連市内旅順郊外の旧203高地(現在) 大連、旅順ツアーの目玉の一つが「日露戦争」の激戦地だった通称「203高地」の探訪だった。地名の由来はこの山の標高が203mあったことからの命名で、ロシア軍は自軍の軍港である旅順港を死守するため、その背後を取り囲む山々に堅固な要塞を築いた。それは当時としては最先端の技術である、「コンクリート」を用いたもの。そのため日本軍の「榴弾砲」(りゅうだんほう)では破壊出来ず、肉弾戦で突撃するしか王法がなかった。203高地は日本軍の攻撃で山の形が変わり、標高が数m低くなった由。 これが今も残っているロシア軍のトーチカ(要塞)。トンネルは200mほどもあり、ロシア軍はここに隠れ、近づく日本兵に窓から銃撃した。中がきれいだったので、ここを訪れる観光客の安全のため、新たに補強したのかも知れない。 203高地を目がけて榴弾砲を撃つ日本軍。 累々と横たわる日本兵の死体。写真は日露戦争当時のものだが、説明文は現代中国の簡体字による。(「水師営会見所」=後述に掲示されていたものを、私が撮影した) 要塞に残る爆破の痕。銃撃をかいくぐって突撃した日本兵がトーチカに仕掛けた爆薬で入口を爆破し、そこから突入してロシア軍を破った。 203高地中腹にある虎の彫刻(右)とそこまで私たちを乗せて送ったマイクロバス(左)。背後の山が203高地。 203高地の頂上に立つ記念碑は、砲弾の薬莢(やっきょう)を収集して、日本側が建造した。 203高地から見た旅順港。日露戦争当時、日本の海軍は真正面に見える狭い水路に廃船を沈めて閉鎖し、ロシア側の艦船を閉じ込めようとしたが、水深が深くて失敗した。ここから日本軍の榴砲弾はロシアの軍艦には届かず、港外の海上と背後の海岸から同時にロシア軍を攻めた。旅順」の名は、清の将軍が対岸の山東半島から船で遼東半島まで渡った時、「旅」を「順」調に終えたことを記念しての命名。旅順は現在大連市の一部となり、ビルが建ち並ぶ近代的な市街地が広がっている。 203高地およびその周辺での戦いに勝った日本の乃木大将は、ロシア軍のステッセル将軍と旅順郊外水師営の農家で会見する。これが名高い「水師営の会見。 馬(サラブレッド)の傍に立っているのがステッセル将軍。会見終了後、同将軍はこの愛馬を乃木大将に贈った、 日露両軍の記念写真。乃木大将は武士道精神を以て、敗れたロシア軍にも軍刀の帯刀を許し、人数も6人ずつの同数とし、同じように椅子も与えた。また日本海海戦も合わせたロシア軍の捕虜7千名近くを、四国松山の捕虜収容所では手厚く遇し、ロシア兵は道後温泉にも入った由。 だが第二次世界大戦で敗れた日本が降伏した後も、ソ連軍は南樺太や満州に侵攻して、殺戮と金品を奪い、大勢の兵士を連行してシベリア鉄道の敷設工事などに使役し、このため多数の旧兵士、と日本人が死んだ。満州の日本人が命からがら本土へと引き上げたのは終戦の1年後で、大連港からだった。旧ソ連で死んだ日本人の遺骨取り違いや残留孤児の問題など、戦争にまつわる悲劇は尽きない。<続く>
2020.04.25
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<マックス爺の日常> アメリカ海軍太平洋艦隊の原子力空母の乗組員千人以上が新型コロナウイルスに感染して、かなりの人数が任務から離れて下船した。グアム島に配備されていた大型爆撃機が中国の中距離ミサイルの射程距離内にあると言う理由で米国本土へ移動した。インド洋を巡航していたフランス海軍の原子力空母でも千人を超える乗組員が新型コロナに感染して、急遽フランスへ戻った。 その間隙を突いて中国は南シナ海の岩礁に築いた軍事基地を、この度行政区に組み入れた由。水没するサンゴ礁を埋め立てて軍事基地にしたのも、米軍がフィリピンから撤退した直後だったし、今回も米軍の動向を察しての措置だったようだ。デモで混乱した香港には、中国寄りの5人の委員を新たに任命する由。だがコロナ騒動で国民総生産は確実に落ち、ひと頃の勢いは消えたようだ。 韓国の国会議員総選挙で与党は圧勝した。新型コロナ感染症への素早い対応と、日本への対抗心を煽ったのが功を奏したようで、300議席のうち180議席を獲得し、文大統領の支持勢力は盤石なようだ。ただし韓国経済は相変わらず青息吐息で、通貨のウォン安は止まりそうもない。 北朝鮮の若き指導者金正恩の健康問題が取り沙汰されていた。心臓手術の術後が悪く重篤のため妹の金与正第一副部長を後継に指名したとの見方もあったが、相変わらず軍を統治してると言うのが米国情報筋の最新の判断のようだ。 先日眼科で眼圧測定と「視野検査」を受けた。視野検査を予約していたためだが、緑内障の目薬が切れる頃でもあった。検査結果は相変わらずで、次回は眼底検査をするとドクター。受付のお嬢さんが「素敵ですね」とのたまう。白髪染めをしたせいで、若く見えるのだろう。帰り道HCに寄って野菜の種を購入。ところが雲行きが怪しくなり、急いで帰宅。ベランダに布団を干したままだったのだ。 買ったのはモロッコインゲンとキュウリの種。袋に印刷されている種まきの時期を確認したら、まだ少し早そうだ。朝方は6度ほどの時があり、多分蒔いたとしても低温でなかなか発芽しないはず。そんなに慌てることはない。前の日は歯科の予約日だったのにすっかり忘れており、改めて予約を取った。先日の暴風雨で散った落ち葉の掃き掃除がようやく出来た。最近は何かを忘れることが増えた。 飲み薬が切れかけたためかかりつけの内科に行くと、玄関に2枚の張り紙。1枚は体温が高い人は院内感染を防ぐため、予め電話でそのことを告げドクターの指示を受けてから来院すること。もう1枚は同じく感染防止のためスリッパは履かず、そのまま土足で上がって良いとのこと。待合室に人影はまばらで、受付には感染防止のため透明なビニールシートが下がり、総毒液が置かれていた。 50日ぶりにドクターと話すと、新型コロナは厄介で、感染してるかどうか全く見分けがつかない由。仙台市内でも陽性患者のチェック体制は揃っておらず、東京のようなクラスターが発生したらお手上げらしい。防御策は、やはり出歩かないことに尽きる由。一般の内科医がそう言うのだから、老人が感染したらどうしようもない。それに私のような一人暮らしの者は、特に用心しないといけないだろう。 厳重さは薬局も同様で、熱がある人は車の中で待つよう指示されていた。私は睡眠導入剤の処方を断っていた。案外睡眠は良く取れている方。食欲も便通も正常。時々軽い頭痛と、冷水で洗い物をした時などに若干血圧が上昇する程度で済んでいる。途中コンビニに寄って、安い野菜とご褒美用の大福などを購入。この日も雨がぱらつき出し、慌てて帰宅し干していた布団を取り込む。春は天候が一定しない時期でもある。 長崎のドックで修理中のイタリア船で新型コロナのクラスター発生。前回横浜に接岸した大型船と言い、外国船には困ったものだ。この騒動は世界中で続き、人類の一大危機と言えるのでないか。商品の流通もそうだが観光業には相当の打撃で、オーストラリア第二の航空会社が倒産したようだ。こんな状態での旅行は不可能で、人混みに出かけるのでさえ無謀。まだまだ辛抱して目に見えぬウイルスと戦う必要がありそうだ。果たしてどれだけ我慢強いか。これからはそれが問われる。やはり趣味は大切だ。 女優の岡江久美子さんが新型コロナウイルス感染症のために亡くなった。俳優大和田獏さんの奥様で、まだ63歳の若さ。そんな若い人が入院して4日後には亡くなるのだから、いかに急激に体調が悪化するか分かるだろう。この新型ウイルス凶暴だ。しかも感染力が半端じゃない。自分がまさか感染してるなどと意識してなくとも、他の人に感染してるのだ。新型コロナを舐めるな。だから出来るだけ家に居よう。心からご冥福をお祈りします。合掌。
2020.04.24
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<日露戦争の実態> アイグン条約と北京条約によってロシア帝国が南満州(上の地図の赤い部分)に権益を得る(ピンクの部分もロシア領として確保)と、困るのは日本政府。ロシアは南満州だけでなくその隣の朝鮮(当時は李氏朝鮮)にまで触手を動かし、朝鮮の山林を買収し、鉱山採掘の権利を手に入れる。朝鮮半島にロシアが勢力を伸ばされると朝鮮海峡を隔てて日本列島は目の前だからだ。李氏朝鮮最後の王妃閔妃 それでなくともロシアは、江戸時代末期に対馬を軍艦で占拠するなどの実力行使をしている。そして朝鮮の内情が混乱に拍車をかけていた。李氏朝鮮最後の王である高宗の妃である閔妃が舅である大院君と壮絶な権力闘争を繰り返し、賄賂と内乱が横行していた。ロシアの南進を止めるためにも、近代国家日本は富国強兵策を推進して、列強に立ち向かう必要があったのだ。 これは「満鉄」の路線図。日露戦争に勝った日本は、その権益を引き継ぐが、最初はロシアが自国の権益のために敷設したもの。この鉄道網を通じて、ロシアは大連や旅順近辺に着々と物資や兵員を送った。もちろんその目的は、来るべき日本との戦争に備えるためだ。 これが天然の良港旅順近辺の地図。旅順は清国の軍港だが、後にロシアが租借して、旅順艦隊を置いた。ロシア海軍の本隊であるバルチック艦隊はヨーロッパのバルト海沿岸にあり、アジアには旅順の他にウラジオストック艦隊があった。ロシアは旅順を死守するため、港周辺の山々に強固な要塞を築いた。これがいわゆる203高地や東鶏冠山で、当時としては画期的なコンクリート造りだった。 <乃木大将> <東郷元帥> 旅順を攻撃した指揮官がこの2人。左が陸軍の大将乃木希典。2年がかりで203高地などでロシアの要塞を総攻撃し、最後は陥落させた。その戦いで、長男と次男が戦死している。右は元帥の東郷平八郎。旅順港の封鎖に失敗した海軍は、バルチック艦隊が極東に向かったことを知り、対馬沖で待ち構える。この時バルチック艦隊は二手に別れ、先発隊は喜望峰を回り、後発隊はスエズ運河経由で遅れて来たことで、余裕をもって迎え撃つ作戦を立てることが出来た。 日本海海戦 日本の聯合艦隊は機敏に航路を変え、バルチック艦隊をほとんど撃破し。辛うじてウラジオストック港に逃げ込んだ軍艦4隻にも大きな損害を与えた。この結果に世界は驚いた。極東の小国である日本が、有数の軍艦を有するロシア海軍を破ったことが信じられなかったのだろう。 203高地の激戦 一方陸軍の損害は大きく、歩兵の大部分を失う結果となった。この戦争による戦死者は日本軍は11万5千余。一方ロシア軍の戦死者は陸海合わせて4万2千余に留まった。この責任を取って、乃木大将は明治天皇が崩御した際、その墓前において夫人と共に自決した。 奉天会戦 旅順での戦いに敗れたロシア軍は1905年(明治38年)、再び奉天(後の瀋陽)において日本軍と対峙する、ロシア軍36万人の指揮官はエカテリーナ女帝の事実上の夫とされたクロポトキン将軍。一方日本軍24万人の指揮官は陸軍総参謀長の大山巌だった。数では劣る日本軍は隊を4つに分けて攻める戦法を取ったため、挟み撃ちにされることを恐れたクロポトキンが退却を命じたことで、日本軍が優勢となった。だがこれでは決着がつかず、最後は「日本海海戦」での日本軍勝利が決まった。 ポーツマス条約の締結 辛うじて勝利した日本は、アメリカの仲介でロシアとポーツマスにおいて講和条約を結んだ。この時ロシアは負けたのはごく小範囲だと主張して賠償金の支払いを拒んだ。だが、日本は南満州の権益と満鉄の経営権、朝鮮からのロシアの撤退、南樺太の分割を果たした。こうして「満州国」経営と朝鮮併合の下地が出来た。<続く>
2020.04.23
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<近代史への迷い道 日清戦争まで> ここ何回か東アジアの歴史について記している。学校で何も学ばなかった身で、これを書くのは実に辛い。だが私が旅した大連と旅順は「旧満州国」に属した地域。それならどうしても満州に触れない訳には行かず、それを書くためにも東アジア史に触れざるを得ない。そんなことから迷い道にはまり込んだ次第。何か知ってることがあれば、それを手掛かりにしてネットで調べられる。そして固有名詞や歴史の事実が明らかになれば、それなりに画像を得ることも可能。今はとても便利な時代なのだ。 これは北海道の古地図。松浦武四郎が「北海道」と名付ける前は蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、その本州に近い部分を奈良時代には渡島(わたりしま)と呼んでいた。先住民はアイヌではなく、縄文人だろう。アイヌの人がこの島へ来たのは、ずっと後になってからだ。江戸時代後半になると、伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四郎らが探検や測量にやって来た。それは彼らの趣味のためではなく、幕府の命令によるもの。 それだけロシアの南進政策による脅威が迫っていたのだ。彼らは不凍港を求めて東へ、より南へ目指した。そして江戸幕府に開国と開港を迫った。そこで幕府は松前藩、津軽藩、仙台藩に蝦夷地の警備を命じた。それが明治以降の北海道開拓につながった。また仙台藩では藩内の何か所かに蛮船監視所を設けて、黒船の動向を探った。それだけ、飲料水や燃料を求めて来航する黒船が多かったのだ。 嘉永6年(1853年)ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の黒船4隻が浦賀水道沖に現れた。日本の開国と燃料補給などを求めてのこと。幕府の禁止を振り切って品川沖に現れた黒船を、千葉道場を抜け出して竜馬が見物に行ったことが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に記されている。幕府はこれ以降各国の強い要求により開国し、箱館、横浜、下田、長崎などの開港に踏み切る。鎖国体制の終焉だった。 文久元年(1861年)ロシア海軍の軍艦が、対馬を占拠する事件が起きた。この時は幕府と対馬藩の説得では退去せず、イギリス海軍の仲介で箱館に駐在していたロシア領事を対馬に連行して説得させた。ロシア帝国の不凍港確保のための南下政策が、深刻だったための事件だ。それがその後の日露戦争の前哨戦となった。 <清国北洋艦隊> <日清講和条約=下関条約> 明治27年(1894年)朝鮮半島の江華島で測量中の日本兵に対して、清国軍が発砲したことを引き金に日清戦争が勃発した。その数年前には漂着した沖縄の島民70名を台湾の蛮族が殺害し、日本兵が鎮圧したことも背景にあった。清国政府は台湾は化外の民(統治外の蛮族)として責任は取らなかった。清国海軍北洋艦隊は山東半島の基地威衛海から、遼東半島の旅順に向かわせた。 それを監視していた日本の連合艦隊発見して対戦した。これが黄海海戦で、兵力と兵備は清国が優っていたが、作戦と統率力が優った連合艦隊が圧勝して多大な損害を与えた。この結果、下関で締結された「日清講和条約」で、清国は台湾と遼東半島の永久割与、朝鮮国の独立、賠償金2億テールを支払日本に支払うこととなった。こうして約2千年間中国の支配下にあった朝鮮は独立し、後に日本への併合を自ら議決した。<続く>
2020.04.22
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<何枚かの地図から その3> これが清国(1644-1912)の地図と言ったらきっと驚くことだろう。だがこれには当時の柵封国(形式上臣下となって朝貢する国)も含まれ、琉球王国もあった。琉球は1600年代の初頭、薩摩藩の支配下に置かれ、日本と清への両属と言う不自然な形を取っていた。当時は東南アジア諸国との貿易を行っていたため、その方がどちらにも好都合だったせいもある。琉球王国が琉球藩、そして沖縄県となったのは明治時代の後半だった。 清国を起こした太宗は元々ヌルハチと称する満州人。満州は後に日本が興した傀儡(かいらい)国家とのイメージが強いだろうが、本来の満州は民族の名で、「マンジュ」と言ったようだ。この満州族が不思議な民族で、古代日本では靺鞨(まっかつ)とか粛慎(しゅくしん、みしはせ)などと呼ばれ、奈良時代後期には知られていた。また、女真、女直、韃靼(だったん)などの異名を持つツングース系の民族。 満州族の肖像(左)と独特の髪型=弁髪(右) 満州族は古くは「金」と言う国家(1115-1234)を樹立している。中国が異民族に支配されたのは「元」とこの金だけだった。金は北宋と西夏を滅ぼしたものの、元によって滅ぼされた。民族的には古代朝鮮の高句麗及びその末裔が建国した渤海の民族と同じく、牧畜と農業を生業とし、優れた騎馬術を有していた。「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀も満州族の皇帝の子孫で、後に日本の皇女を娶る。 近代化が遅れた上、内乱が続いた清はやがて先進諸国の侵略を受ける。イギリスはアヘン戦争(1840-42)によって莫大な富を得た。当初は銀を支払って茶葉を購入していたが、銀が底を尽いたため東南アジアで安価で仕入れたアヘン(ケシの実が原料の麻薬)を代価とした。これによって中国の庶民はアヘン中毒になって働かなくなり、イギリスはさらに販路を広めて中国奥地へ進出する。中国にとっては「言いがかり」以外の何物でもない、侮辱的な戦争だった。 <アヘン戦争の図> 帝政ロシアは清との間で締結したアイグン条約(1858安政5年)、北京条約(1880万延元年)によって外満州を自国領とし、後に遼東半島を租借する。フランスはかつては清の柵封国だったインドシナの国々に進出して、フランス領インドシナとしてベトナムラオス、支配、カンボジア、タイ、ビルマを支配下に置く。ドイツは1898年の「膠州港租借条約」によって山東半島に進出し、青島市街を建設した。 1900年(明治33年)西欧列強の中国進出と不平等条約の締結に怒った秘密結社の義和団がキリスト教排斥を掲げて蜂起し、20万人が西太后がいた北京城を襲った。これに危機感を抱いた西欧8か国は連合軍を派遣し、日本もイギリス政府の要請に応じて軍隊を派遣した。これが後に「北京の55日」として映画化され、清国の衰退を一層早める結果となった。<続く>
2020.04.21
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<何枚かの地図から その2> ロシア帝国の版図 こんな地図を観たことがあるだろうか。これはロシア帝国がもっとも広大な領土を持った時代のもので、現在のアラスカも当時はロシア領だった。それを1867年(明治3年)にアメリカにわずか720万ドルで売却したのは、露土戦争(帝政ロシアとオスマントルコ帝国)との間で繰り返された戦争により、アラスカへの補給と航路が絶たれたことによる。ロシアがアラスカまで来たのは、ラッコの毛皮を獲るためで、アラスカのラッコはほとんど絶滅したと言われる。その後アラスカからは金鉱山と石油が発見され、当初は氷しかないと苦情が多かったアメリカは、安い買い物をしたことになる。 ロシア帝国の領土が拡張したのは、女帝エカテリーナ2世の時。ドイツ帝国の一小国の娘だった彼女はロシアのピョートル大帝に嫁ぐと、夫を亡きものにし自ら女帝となった。10人もの愛人がおり「王冠を被った娼婦」と呼ばれた由。オスマントルコとの露土戦争でバルカン半島諸国を独立させ、クリミア半島を領土とし、東は中央アジアからオホーツク沿岸に進出。西はリトアニアやポーランド、北はフィンランドを征服してバルト海沿岸にバルチック艦隊を置き、脅威は幕末の日本にも及んだ。 恐らくエカテリーナ女帝と直接会った唯一の日本人が大黒屋光太夫(左図の左の人物)。彼は伊勢国の人で神昌丸(右)の船頭として白子浜から紀州国の藩米を積んで江戸に向かったが、嵐に遭って漂流し、当時はロシア領だったアリューシャン列島の小島に漂着。日本に帰国するためサンクトペテルブルクの夏宮に居た女帝に会って懇願し、女帝の配慮で根室へ帰国。1782年から92年にかけてのことだ。 仙台藩士を兄に持つ林子平(上)は、天明5年(1785年)出版の「三国通覧図説」で朝鮮、琉球、蝦夷地の地理や実状を紹介し。天明7年(1787年)「開国兵談」で西洋列強の脅威と、海防の必要性を説いた。ロシアは領土拡張の野望があり、ヨーロッパとアメリカは日本の開国と通商を求めた。またアメリカは鯨油を織機の機械油とするため、日本近海で捕鯨をし、小笠原諸島に基地があった。 だが自ら版木を彫って出版した「海国兵談」は幕府から発禁処分を受けて蟄居し、六無斎と号する。「親も無し妻無し子無し版木無し金も無ければ死にたくも無し」の6つの無からの号で、失意のうちに死する。世人に先駆けて世界情勢に通じていたがための悲劇だった。 伊能忠敬は上総(かずさ=現在の千葉県)の人で隠居後に測量術を学び、日本全土を自分の足で歩いて海岸線を測量し、歩けない場所は船に乗って測量。蝦夷地(北海道)から九州の島々に及ぶ日本全図を作成した。その精密さは幕末から明治期にかけて測量した英仏などの海軍が驚くほどの精密さだったと言う。シーボルトは禁制のその地図を持ち出そうとして咎めを受け、帰国処分となった。 間宮林蔵(左)は常陸国(現在の茨城県)の百姓の子だが、測量を学んで幕府の御庭番となり、蝦夷地に赴き、択捉(えとろふ)で伊能忠敬と会っている。後に樺太に渡り、樺太が島であることを発見。これにより大陸との海峡が「間宮海峡」と命名されることとなる。松浦武四郎(中)は伊勢国出身の探検家兼浮世絵師で、蝦夷地を初めて「北海道」と名付けた。伊能、間宮、松浦がいずれも町人や農民の出でありながら、最先端の学問と技術を身に着けていたことに驚く。それが支那や朝鮮と異なる点だ。<続く>
2020.04.20
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~「コロナ禍」にもめげず~ ある日の朝食 連日「韻型コロナウイルス感染症」のニュースでもちきりの日本です。いや日本だけでなく世界中がこの騒動におののいていることでしょう。鬱陶しく重苦しい雰囲気の中でも、私はしぶとく生きています。食欲も落ちずひと頃は激しい「断捨離作業」で落ちていた体重が、今ではすっかり元に戻っています。睡眠も結構とれていて、睡眠導入剤のお世話にもなっていません。 皿うどん 新聞にはしっかり目を通し、かつ全国紙と地方紙のニュースをネットで確認。スポーツ紙2紙のニュース欄もネットで見、YouTubeの最新版も見るように心がけています。だからあんまり退屈はしていないのです。ブログを毎日更新すると言う課題に加えて、独り暮らしのため3食全てを自分で準備するため、頭も体も時間も使います。 <チューリップと西洋シャクナゲ> 買い物は週1回で済んでいます。魚や肉は冷凍したのを解凍して使えば済むのですが、野菜はそうは行きませんね。それを持たせながら、冷蔵庫にある材料で適当に料理を作ります。最悪の場合は物置小屋に保管してあるジャガイモとタマネギを使います。人との接触もスーパーで買い物をする時だけなので、「3密」は自ずから守られます。運動はたまの散歩とジョギングで、健康を維持しています。 先日四国の長女が送ってくれたのが上の品鳴門金時(上左)はサツマイモを材料神した和菓子。黄金タマネギのポタージュ(上右)はタマネギの有名産地である淡路島のもの。鳴門糸ワカメ(下)は潮流が激しい鳴門海峡で育てている高級品です。 でも普段の私は超安い味噌で作った味噌汁、1個100円程度の袋菓子、ワカメは地元気仙沼で養殖した「塩蔵ワカメ」を愛用しています。まあこんな時でもなければ食べない高級品を、この際じっくり味わいましょう。 例年よりも高い気温と適度の雨で、畑の野菜も順調に育っています。タマネギ(左)も少しだけ結球して来ましたし、2月に植えたジャガイモ(右)も発芽して来ました。種芋が小さかったのと、このところ朝の最低気温が低かったために遅霜の恐れがあったのですが、大丈夫だったみたいです。月末には夏野菜の苗が売り出されるので、そろそろ畑に堆肥や石灰を撒いて準備する時期ですね。 ハナズオウ(左)もハナワサビ(右)も共に白い花です。どちらも植えた覚えはなく、いつの間にか勝手にわが家の庭に生えて来たのです。ハナワサビは穂先を摘んで刻み、焼うどんに入れて見ました。 垣根のモッコウバラ(左)の花芽が大きくなって来ました。植えてからまだ3年目の若い柿の木(右)の枝先に、緑色の芽が見え出しました。何とか無事に冬を乗り越えたようです。中にはすっかり枯れたような枝もあるので、どこまで生き返るかが心配です。 左はタチツボスミレ。右は白花のスミレです。どちらも自然種の山野草です。スミレは花が咲いた後に種を付けるのですが、丸くて小さな種がたくさん出来、それが散らばって勝手に庭で増えて行きます。 ツリガネズイセン(釣り鐘水仙)の若い花穂です。まだ蕾状態で、これから茎がドンドン伸びたくさんの花を咲かせると、結構見事なものです。先日マイクロソフトのプログラムが更新されたので、もしやと思って画像を入力して見たところ、上手く取り込むことが出来ました。以前とは少し手順が違っていましたが、少しずつなら何とか行けそうで嬉しい限り。明日は再び中国大連・旅順の紀行に戻ります。 mami_riko@yahoo co.jp
2020.04.19
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<何枚かの地図から その1> 逆さ地図 こんな地図を観たことがあるだろうか。これは日本から大陸を見るのではなく、大陸から日本列島を見るとこんな風に見えると言うもの。つまり人間時には視点を変える必要があると言うことだ。真ん中にある日本海を突っ切れば、大陸は割と近いし、樺太や朝鮮半島を経由したら楽に大陸に接近出来ることも理解出来よう。逆に中国から見ると広い太平洋に進出するには、日本列島及び南西諸島が邪魔になるのだ。 これは4世紀から7世紀にかけての朝鮮半島。高句麗は後の満州に跨る騎馬民族の国。百済と新羅は専ら農業中心の国。伽耶(かや)は倭人が住み、任那日本府が置かれていた。新羅は高句麗を討とうとしたが百済が邪魔で、唐と共同で先ず百済を討った。これに驚いた百済は日本に援軍を求めた。このため将軍亜阿倍比羅夫が2万7千人の兵を率いて朝鮮半島へ渡った。だが、白村江の戦いで敗れた。661年のことだ。 阿倍比羅夫(ねぶた絵) 阿倍比羅夫(あべのひらふ)は元は蝦夷(えみし)だが武勇に優れて越国守に任ぜられ、能代(秋田)、津軽(青森)、渡島(北海道)の蝦夷及び粛慎(みしはせ)を討つ。船団を組んで現在の北海道まで征伐に行ったのは、朝鮮半島での海戦の訓練だったようだ。飛鳥時代から緊迫した国際情勢があったのだ。 左は1880年(明治13年)集安(高句麗の都=現在は中国領)で発見された好太王(広開土王)碑文。中はその碑文で、ここに倭人が朝鮮半島に襲来したことが記され、倭が18回登場する。右は多賀城(陸奥国府=宮城県)の碑で、ここに靺鞨の国界を去ること2千里の文字が刻まれている。靺鞨(まっかつ)はアムール川河口(ロシア)付近のツングーズ系の民族で、満州族などにも通じる。 渤海国版図 渤海(ぼっかい)国は新羅に滅ぼされた高句麗の末裔が建国した国家で、日本へ庇護を求め20度以上朝貢した。大陸、朝鮮半島に沿って南流するリマン海流、そこから北流する対馬海流に任せての航行で航路は不安定。このため敦賀(福井)、能登(石川)、秋田に使節の接待所があった。日本の使節は敦賀付近から日本海を突っ切って、現在のウラジオストック(ロシア)に直行した。後に契丹(遼)によって滅亡する。 唐の版図 白村江の戦で敗れた日本は唐の侵略を怖れ、阿倍比羅夫を太宰府帥(だざいふのそち)に任命し、防御を固める。太宰府近辺に水城と山城を築き、対馬及び瀬戸内海から近畿にかけて逃げ城としての朝鮮式山城を築き、都を難波宮から近江宮に遷都した。かつ十分に先進文化は学んだとして、遣唐使を廃止した。唐はシルクロードを経て西方の文化を迎え入れ、その一部が正倉院にも伝わった。モンゴルの版図 チンギスハン及びその子孫は圧倒的な騎馬軍団によりヨーロッパまで遠征し、各地にモンゴル系国家(ハン国)を樹立した。男は全て虐殺、女をほしいままにして恐れられた。孫のフビライハンが中国にモンゴル系国歌の元をを樹立。鎌倉時代には高麗軍と合流してわが国を襲来した。いわゆる元寇だが、2回目は高麗の野望によるもの。ただし集合場所が2か所に別れたため、鎌倉武士の反撃に遭って敗退する。 2度の元寇により、対馬と壱岐の島民はほとんどが虐殺され、この時に船で逃亡した対馬島民の一部が津軽に到達し、その後も対馬氏や津島氏を名乗った。太宰治の本名は津島で、元寇の際に対馬から逃れた末裔とのこと。逆に戦国時代、豊臣秀吉は2度の朝鮮征伐を行った。このように東アジアでは古代から朝鮮海峡を渡っての戦いが繰り返されて来た。それもすべては地政学的な理由による。<続く>
2020.04.18
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<大連のロシア人街 その2> 今日も大連の旧ロシア人街の紹介です。明治期には実際にロシア人が住んでいましたが、その後日露戦争の勝利によって、日本人の居住区となりました。でも日本人の建築家は極力ロシア風の西洋建築を維持したのです。それが独特の景観となって、現在では大連観光の目玉になっています。 町並みは整備され、瀟洒な建物がずっと続いています。 そのためかこの美しい地区には各国の大使館や領事館が置かれ、大使館ナンバーを付けた高級外車が路上に駐車していました。 台2次世界大戦の終戦から75年。今でもこうして維持されているのは、きちんと補修もされていると言うことなのでしょうね。 でも中には、立派な扉の前にゴミが置かれている家もありました。観光地には相応しくない風景ですが、これは一体どうしたのでしょう。観光の目玉の地区がこんな風景なのはとても信じられないですね。 ロシア風建築に不似合いな漢字の横断幕が掲げられています。ちょっと違和感がありますねえ。でも、背後の高層建築とは実に面白い対比をなしていますね。 これなどはとても見事な風景。現代中国ではなかなか見られないエキゾチックな風景です。 瀟洒なロシア人街の広場に、近代的な彫刻が立っていました。その足元を見ると、見事な揮毫が。 近寄って見ると、国家主席だった江沢民さんの書でした。さすがは漢字の発祥地、見事な書体でした。 西洋風の彫刻と東洋風の彫刻。中国もなかなかのセンスですね。 旧日本人の居住地区に、博多人形風の塑像が置かれていましたが、何だか「取って付けた」ようで、私は違和感を感じたのですが。 ロシア人街の外れに、貧しそうなテント小屋が建っていた。そこに行くと、ずらりと帽子が並んでいた。小屋の奥から出て来たのは白人の美人。私に向かってしきりに帽子を買ってと言うような感じ。きっとロシア系の人だろうと思い、「スパシーバ」(ロシア語でありがとうの意)と言ったが、何の反応もなかった。そのことを中国人ガイドの価さんに言うと、直ちに否定。今はロシア系の人は大連にはいないとでもでも言いたげだ。因みに価さんは漢族。元々ここは満州族の土地だ。<続く>
2020.04.17
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<大連のロシア人街 その1> 大連観光の目玉は何と言っても旧ロシア人街だろう。なぜ大連にロシア人街があるかと言えば、それはかつてロシア人が住んでいたためと言うしかない。なぜ住んでいたかと言うと、歴史の話が避けられない。乏しい知識しかない私が説明するのは難儀以外の何物でもないが、いずれはそのことに触れるとして、今回は旧ロシア人街の写真を何枚か載せることでお茶を濁しておく。 この建物は現在中国が使っているのか、漢字のスローガンが掲げられていた。だがその下にロシア語(キリル文字)が見えた。それで思わずシャッターを切った次第。ロシア人がいた当時のものか、それともロシア人観光客のためかは不明だった。 バスの車窓からトンガリ帽子のある建物が遠望出来た。きっとあれもかつてロシア人が建てたビルなのではないか。私にはそう思えてシャッターを切ったのだが、帰国して写真を整理し、ズームしてみたらビルに漢字が見える。だが、真偽は不明のままだ。 これもバスの車窓からの遠望。特徴ある三角屋根はロシア正教会の建物に間違いない。私はそう確信した。中国人がわざわざこのような建物を建てる訳がないからだ。しかし、ロシア人が去った後、この建物は一体何に使われているのだろう。ご丁寧に教会が3つも並んでいる理由が分からない。 手前も、そして奥の建物もロシア正教の教会堂のはず。海の傍にある大連はさほど雪は降らないはず。だから屋根をこんな急角度にしなくても良いと思うのだが、ロシア人たちは中国に来ても、自国の建築様式を頑なに守ったようだ。 ロシア人街にある住宅群。いずれも堂々たるアパートメント。ロシア人たちがいた時代、現地の満州族たちが住む一角は別の場所にあり、ここに近づくことは出来なかった。今では全て中国人が居住している。芝生のある閑静な住宅街だ。 公園の一角に彫刻が立っていた。車窓からちらっと見たが、中国人の風貌ではなく、ロシア人のように見受けられた。かつてここにロシア人たちが住んでいたことを記念するものなのだろうか。 バスの車窓から見えたロシア人が住んだ住居跡。コンクリート建ての近代的な建築物で、今でも十分居住に耐えられる。この一角は現在大連観光の目玉になっている。訪れるのは日本人観光客が一番多いようだが、中国各地からも訪れるみたいだ。中国もそれだけ豊かな国家になったのだろう。 ロシア式の建物は全てがロシア人が建てた訳ではない。日清戦争、日露戦争で日本が勝利すると、ロシアが有していた満州の権益は代わって日本が得ることになる。大連のロシア人街の景観を守るため、日本人の建築家は当時はまだ珍しかった西洋建築の技法を学んで、引き続きロシア風の建物を整備して行ったのだ。もちろん住むのは日本人。だから大連には旧ロシア人街と旧日本人街が隣り合っているのだ。<続く>
2020.04.16
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<新型コロナウイルス感染症問題の行方> 重苦しい日が続いている。世界中で流行している「新型コロナウイルス感染症」問題のせいで、気持ちが晴れることはない。連日TVで報道され、今世界で一番の関心事。初めは声高らかに撲滅を叫んでいたトランプさんだが、とうとう国内の死者が2万人を超えて、世界一の被害国となった。中でもニューヨーク州での被害が大きく、知事が必死に外出禁止を叫んでいる。 新型コロナウイルス それにしても新型コロナウイルスの感染力は凄まじく、ひと頃問題になった「新型インフルエンザ」の感染力の約10倍と言う。そしてその破壊力も測り知れない。このウイルスに冒されると、肺は壊死(えし)状態に破壊されて出血し、機能を失って溺死状態になると言われている。脾臓は縮小し、心筋細胞は壊死し、肝臓は肥大する由。腎機能は冒され、脳には出血や水腫が見られると言う。まさに劇症だ。 武漢ウイルス学研究所 世界中を恐怖のどん底に叩き込んだ新型コロナウイルスは、武漢のウイルス学研究所から漏れたと言うのが西側諸国の観方だ。この研究所からは以前にも2度強烈な病原菌が周囲に漏れて問題を起こしたことがあった。今回も中国政府は問題の発生を1か月以上隠ぺいし、その間に「病院」と称する隔離施設を大急ぎで建設した。もちろん治療のためではなく、情報操作のため。これが各国での対策が遅れた原因だ。 閑散としたパリの街 フランス、ドイツ、イギリスでは国民の行動を拘束し、ウイルスの拡散を防いで効果を上げた。これに対して、中国との関係が深いイタリア、スペインでは対策が遅れて大量の死者発生。中国が春節で観光に向かう武漢市民に脱出する猶予を与えたことも世界にウイルスをまき散らす原因になった。だが、WHOの事務局長はそれを否定し、ウイルスの拡散を助長した。出身国エチオピアへの中国の経済援助に対する忖度だ。 防護服の看護師 ところが、中国発のウイルスが地球を一周して再び中国に戻った由。ロシアに出稼ぎに行っていた中国人労働者が帰国した黒竜江省で、100名以上の陽性者が発生している模様。また検査キットを駆使して初期に患者の集団発生を抑え込んだ感があった韓国でも、陰性から再び陽性に転じた患者が100名以上出ている。また中国がベルギーやスペインに送ったマスクや検査キットは不良品として、そのまま返品された。 警告ポスター 日本でも一進一退の状況が続く。中でも腹立たしいのが慶応大学病院や永寿総合病院、中野江古田病院(全て東京都)での院内感染。慶応大学では数十名の医局員が研修会の慰労会を居酒屋で行ったのが原因。永寿総合病院ではウイルスに対する認識が浅かったことで、20名もの死者を出した。また神戸西警察署では、署長の歓迎会を居酒屋で行った結果、署長と副署長が共に感染し、70名もの署員が自宅待機となった。 テレビ朝日の報道番組のメインキャスターのアナウンサーが2日間の高熱後に感染が判明し、スタッフが総入れ替えとなった。また「自宅での待機」を呼びかける安倍総理の投稿動画が、「生温くて全く役に立ってない」との批判も出た。私もその動画を見たが、この厳しい情勢にそぐわないもので、ナンセンスと言われても仕方ない内容。妻も妻なら夫も夫。全く危機感が感じられない上流階級の感覚だった。 私が住む宮城県でも陽性の感染者が60名を超えた。だがその内容は、英国風パブで飲食した外国人講師などの4次感染から5次感染者が中心。しかしこれだけ問題になってるのに、盛り場で飲食する神経が解せない。そして困ったことが起きた。PCへの写真の取り込みが出来なくなったのだ。さて、どうしたものか。とりあえずネットからの借用は出来るので、それを「カット」として使うしかないのだが。
2020.04.15
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<M公園の桜その2> 4月3日に近所のM公園に散歩に行った時のこと。まだ6分咲きのソメイヨシノと違って満開の桜があるのに気付きました。ソメイヨシノよりも少しピンク色が強そうです。近くに行って見ると・・。 木の枝に「江戸彼岸(エドヒガン)」の標識がかかっていました。昨年はなかったので、今年になってから新しく作られたのでしょう。実は日本を代表する桜の品種である「染井吉野」(ソメイヨシノ)は江戸時代の植木職人が、この江戸彼岸と大島桜を接ぎ木して作った新しい品種。染井は確か植木職人たちが住んでいた村の名前だったと記憶しているのですが。 江戸彼岸(エドヒガン)は一見したら枝垂れ桜のように見えますね。いやきっと本来は枝垂れ桜の仲間なのでしょうね。 でもこれは白っぽい花ですけどねえ。 おお。この枝はピンク色が優ってるね。さて今から15年ほど前、山形県の置賜(おきたま)地方=米沢市周辺の桜を見るツアーに参加したことがありました。その時見た古い桜の木は全てがこの「江戸彼岸」でした。そして樹齢は1300年ほど。それが神社や仏閣の境内に植えられていたのです。 時代はまだ奈良朝のころ。都人から見た東北は野蛮な蝦夷(エミシ)が住む地。その山形県南部に位置する置賜地方に既に古い神社仏閣があり、境内には桜の木が植えられていた。そのことを知って私は、決して古代の東北はさほど遅れた地ではなかったと確信したものでした。野蛮人がそんなことをするわけがないからです。 カタクリが咲くクヌギ林の手前に冬桜の樹が1本だけ植えられていることを私は知っていました。近寄って見ると、遥か梢の先に頼りなげな花が幾つか見えます。 この木にも真新しい標識が掛けられていました。どうやら近所の中学校の生徒たちが作って樹に取りつけたみたいです。まだ若い世代の生徒たちがこんな自然保護活動に力を入れていたことに、意を強くした私でした。最初に立ち寄ったA沼公園でも、ホタルの保護活動をしてるみたい。嬉しいですね。 中学生たちの保護活動は、まだこの冬桜のように頼りないものだけど、いずれは地域の発展のために大いなる力になることでしょう。最初に寄ったA沼公園でも、ホタルの保護活動をしてるとも聞きました。是非とも頑張って活動を続けてほしいものです。 遠目にも立派な枝垂れ桜。これも江戸彼岸かどうかは確認しておりませんが、大きな枝垂れ桜が4本並んで、まるで滝のように見える場所もありますよ。 いや、ここは上と同じ場所でしたね。 この3枚は標識がないために、種類が分かりません。でも次第に衰えて行く公園内のソメイヨシノを補うために、10年ほど前に植えられた若木なのは確かです。 では最後にソメイヨシノを2枚載せて、M公園でのお花見散歩を終わりますね。この公園では、八重桜などはこれからが本番。機会があったらまた紹介することにしましょう。でまたまた。<完>
2020.04.14
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<春の妖精カタクリの花を探しに> 折角なので、いつもの場所に行きました。ブナ林の一角にロープが張られています。それは野生のカタクリを保護するためのもの。近づくと紫色の小さな花が見えました。おおっ、今年は1か月ほど早くから、カタクリが咲き始めたようです。周囲には小さなドングリの実。葉が落ちた林の中は奥まで日光が射し込んで、カタクリの開花を助けているのです。 カタクリの花は小さい上に下を向いて咲くため、とても撮影し難いのです。それにロープの中には入れないので、ロープの傍の花しか撮れません。それでどうしても似たような写真になってしまいます。 花が咲くと種が出来ます。それをアリが自分の巣に運び、そこでカタクリが芽吹いて、少しずつ大きくなります。そして花が咲くまで7年かかります。だからこんな小さな花でも、種から咲くまでに7年もかかるのですから、自然の営みの不思議さと植物の辛抱強さを思わずにはいられませんね。 私が仙台に自宅を建ててから今年で23年。その間毎年「春には、ずっとこのカタクリの花を見続けて来ました。最初の頃に比べたらカタクリの自生地はずっと広がりました。それはこの場所を保護して来られた愛好者の活動のお陰です。住宅地に近いこんな場所に何種類もの貴重な野生の植物が自生しているのです。これはまさに奇跡的な出来事でしょうね。本当なら盗掘されてもおかしくないのです。 「春のエフェメラル」(妖精)と呼ばれる植物は何種類かありますが、その中でもカタクリの花はひと際可憐です。俯き加減に咲くその姿が、一層人々の心を引き付けるのでしょうね。だからこそこの自生地を大事に保護する活動が続いているのでしょう。 ここの他にも、私は何か所かカタクリの自生地を知っています。人口100万人を超える大都会の直ぐ傍にある豊かな自然を、私たちは大事にしたいですね。 私は単純なこの花が大好きで、見飽きることがありません。 堅香子やクヌギ林に日の光 *かたかごはカタクリの古称 物部の八十娘らが汲みまごふ寺井の上の堅香子の花 大伴家持(万葉集) もののふのやそおとめらがくみまごうてらいのうえのかたかごのはな 下向きなので分かりませんが、花の内側には独特の「模様」があるのです。 これが花の内側にある「模様」ネットから借用しました。 昔はカタクリの球根から「片栗粉」を作っていました。今はジャガイモを原料にしています。 「片栗」と名付けた理由は、球根の形が栗の実の一片によく似た形をしているためです。 これがカタクリの球根。ネットから借用しました。<続く>
2020.04.13
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<M公園にレッツ・ゴー> 4月3日。近所のM公園に行って見ました。ひょっとしたらソメイヨシノが少しは咲いているかと思ったのです。ダメもとで良いんです。もし咲いてなくても散歩すれば少しは運動になりますからね。新型コロナウイルス感染症騒動で気持ちがくさくさしています。散歩は気分転換になって、家にいるよりはよっぽどマシ。 そしたらまあまあ咲いていましたね。まあ五分咲きくらいでしょうか。お花見の人も少しいました。きっと学校が臨時休校なので、お母さんが子供を連れてやって来たみたいな感じです。広い公園に比べたら人はわずか。これなら感染の心配もないでしょう。それにこの時はまだ仙台市の感染者は10数名。その人がここに来るとは考えられませんしね。 この公園の桜は30種類以上あるんですが、今咲いているのは3、4種類でしょうか。その中でも目立つのは何と言っても本数が多いソメイヨシノですね。 いつもなら花見客でにぎわっているこの公園も、今年はほとんど人影が見えないし、近所の商店街主催の出店も全くありません。まあ異常事態ですものね。 桜もまだ全開じゃないし、人もまばらじゃ絵になりませんけどね。 それでも今年はまだお花見できなかった人のために、ブログでのお花見を企画した訳です。 まあそんなわけで少し淋しいお花見ですが、せいぜい楽しんでくださいな。 桜は今一でも、空が晴れていて良かったかも。桜が引き立ちますからね。 ここに載せたソメイヨシノはほとんどが老木です。と言ってもソメイヨシノの寿命は約60年と言われています。この公園のは古いので80年は経つでしょうか。中には枯れ出したのがあって、所々に若い木が植樹されています。 最後は幻想的な逆光のソメイヨシノでお別れ。明日は違った花を紹介しますね。<続く>
2020.04.12
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<わが家の花> 第2回目の花は、すべてわが家のもの。しょぼいと言われても仕方がないが、「ないよりはマシ」と言ったところか。トップバッターのボケの花は山形勤務当時、職場の小さな庭に生えていたのを一枝もらって挿し木したもの。私は日本独特の朱鷺色(ときいろ)が好きで、とても気に入っている。春先までは堅い蕾のままだったが、このところの陽気で一気に咲き出した。嬉しきかな。楽しきかな。 ホソバスイセン(細葉水仙)の名の通り葉が極めて細いのが特徴だが、花は意外に堂々としていて立派。 角地のレンギョウ(連翹)は、春先にかなり刈り込んだが目出度く満開を迎えた。丈は小さいのだが、黄色い花は遠目にも良く目立つ。 ユキヤナギ(雪柳)は愛犬マックスの墓の直ぐ傍に植えられている。とても小さな木で育つかどうか心配だったが、まあまあの多き様にまで育ってくれた。 小さな体だが、意外にエレガントなのがハナニラ。いつの間にか庭のあちこちに広がって、淋しい庭を賑わしている。 ツルニチニチソウ(蔓日日草)は、名前の通り蔓性。これが案外丈夫で、あちこちに蔓を伸ばす生命力旺盛な植物だ。これは家の西側通路の擁壁沿いに咲いているが、先日庭の中央部でも、小さな蕾を見つけた。だが移植した覚えは全くないのだ。 白花のイカリソウ(錨草)。花の形が船を留める錨(いかり)に似てるところからの命名。本来は山野草だが、これは園芸種に改良したもの。私は近所の山で野生種を見たことがあるが、花の色は薄いクリーム色だった。春先にアプローチの横から花壇に移植したことをすっかり忘れていたのだが、先日花壇に何か白い花が咲いてるなと思い写真を撮った後に気づいた。 近所のお宅の花壇に咲いてる姿を見て、急に欲しくなったのがクリスマスローズ。それから安物の苗を3種類ほど買って植えたのが16年ほど前のこと。それが徐々に株が大きくなって、今では庭のあちこちで勝手に咲いている。3種類それぞれに表情が違い、それぞれに愛しい。 山茶花(上)も藪椿(下)も暖冬の今シーズンは花期が長く、何度も私のブログに登場した。山茶花は安物の苗を、藪椿はお寺の土手に生えていた実生の小さな苗を自宅を建てた23年前に移植したものだが、今ではすっかりわが家の庭に馴染んでくれた。愛すべき、そして貴重な冬の花だ。 春先にはまだ小さかったムスカリの苗が気温の上昇と共に次第に大きくなり、花の数が増えて茎が伸びて来る。そんな様子を眺めるのも花好きにはたまらなく嬉しいものだ。 庭のスイセンは3,4種類はあるようだ。花の色と形がそれぞれ違って楽しめる。上のはウメモドキの根元の純白のもの。これ一本しか見えないが、庭の改造をした際に花壇からこの球根だけ移植したのかも知れない。独りっきりにしてゴメン。 花壇の改造のため、一旦掘り上げたヒイラギ南天にもようやく花が咲き出した。もうこれで枯れる心配は無さそうだ。隣同士のツツジの苗木の方はどうかな。そちらもきっと大丈夫なはず。 植木鉢のヴィオラが無事越冬した。こちらは冬の間も郵便受けの下に置かれて、じっと寒さに耐えていたのだ。冬の間はみすぼらしい姿だったが、春ともなればそれこの通り。お前はやっぱり寒さには強いんだねえ。 一方こちらは冬の間は居間に移動してぬくぬく育ったクンシラン(君子蘭)。暖房はあるし、土が乾けば水も肥料ももらえて何不自由なく(?)育ったせいか、この度ようやく開花しました。花を咲かせるため結構手がかかっただけに、とても嬉しい気分です。<続く>
2020.04.11
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<南蔵王の山並みと近所の花> 南蔵王連峰の屏風岳は、まるで屏風のような白い壁がそそり立つ威容です。東北の山々はまだ深い雪に覆われていますが、里では春の花々が咲き始めました。山茱萸(サンシュユ)やマンサク、蝋梅(ロウバイ)のように、木に咲く花から始まって、今では園芸種の花々も一斉に咲き始めています。 ここ数か月、日本列島は重苦しい雰囲気に包まれています。例の「新型コロナウイルスによる感染症」騒動です。いや中国の武漢で発生したこの未知のウイルスが世界中に蔓延して脅威を振るい、たくさんの感染者と死者を出すまでに至っています。 わが国でも過日、安倍総理が7都府県に対して「非常事態宣言」を発するまでに至りました。今夏の「東京オリンピック」は来年に延期となり、すっかり予定が狂ってしまいました。いや、この騒動がもたらした影響はとても大きく、世界の経済もすっかり停滞した感があります。 そこで思い切って中国大連への旅シリーズを中断し、散歩中に撮った春の花、目下わが家で咲いている花、近所の公園で咲いている桜の花や、春の妖精と言われているカタクリの花などを、5回のシリーズで掲載したいと思います。この春お花見が出来なかった方が大勢おられると思いますが、この拙いブログで花を愛で、暫しの間和やかな気分に浸っていただけたら望外の喜びです。 最初はスイセンです。「な~んだ」などと言うなかれ。春が襲い東北では、この花が咲くと、「ああ今年も春がやって来た」と言う実感を持つのがこの花。美しくも凛々しいこの花の姿にどれほど勇気づけられるか分かりません。新型コロナ禍にともすれば暗くなりがちな心を、清々しいこの花が癒してくれることを願っています。 スノードロップと間違いやすいですが、確かこちらはスノーフレークのはず。スズランのような可愛らしい姿に癒されますね。 こちらも何度か登場したトサミズキ(土佐水木)。ヒュウガミズキと似ていますが、花の房の形が違いますね。 ユキヤナギ(雪柳)は一つ一つの花はか弱くて小さな花なのですが、こんな風にまとまると結構存在感がありますね。生け花にも使われる春の花の定番。 A公園のコブシ(辛夷)です。これは花びらが丸い種類ですが、長いのや、分裂してるのなど、幾つかの種類があります。重厚なハクモクレン(白木蓮)に比べれば、コブシの花はより自然種に近くて野性味があるようにも感じます。 バス停前の花壇で咲いていたアネモネ。白くて淋しい花が続いた後だと、この花も豪華に感じるから不思議です。暖冬の今年は開花がやけに早いですねえ。きれいに咲いていたのを見つけた時は、ビックリでしたよ。 最後は花ではなくA公園の沼に居付いているカルガモです。数えたら30羽くらいはいましたね。今年は沼の畔の柳が、もう青々と芽吹いています。やはり暖冬の影響でしょうね。新型コロナウイルスも怖いのですが、地球温暖化の猛烈なスピードも怖いですよ。何せ北極海の氷が融けて、シロクマが困っているくらいですから。<続く>
2020.04.10
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<米中の戦いはどこへ向かうのか> 今や戦争さながらの様相を示している。新型コロナウイルス感染症は地球的な規模で拡散し、世界の各国が感染者と死者の縮小に血眼になっている。当初は楽観視していたトランプさんが、今では大統領の権限で人工心肺の製造を命令するまでに至った。国民皆保険でないため、貧困層の死者数が膨大なのだ。ブラジルでも短期間で患者数が急増している。その大半は貧民層の由。 EU加盟の大国も大量の発症者を出しているが、アフリカなどの発展途上国に波及した際の被害がどれほどになるのかが心配だ。中国は病原菌は米軍がもたらしたと喧伝し、米国は感染源は中国なので「チャイナウイルス」と名付ける始末。今では「情報戦争」に突入した感がある。そしてこのウイルスには人工的に手を加えた痕跡があるとされ、それがエイズウイルスが有力と言われる。まさしく「生物兵器」なのだ。 思い出してみよう。中国はここ数年で「宇宙での優位」を確立した感がある。人工衛星に対する人工衛星からの攻撃を可能にし、これに危機感を抱いた米国は、宇宙軍を創設するに至った。宇宙からの攻撃が現実のものになったのだ。また中国のIT企業ファーウエイ副社長の身柄を拘束した。5G対応技術を利用して収集した最新技術や機密が、中国共産党に提供されることを恐れてのことだ。 中国共産党は、自国の企業に対して情報戦略への協力を義務付けている。「孔子学院」などを各国の大学に設立して中国への関心を抱かせるのみならず、徹底した経済援助で中国への従属を図り、台湾との関係解消を迫った。「アジアインフラ銀行」創設や「一帯一路政策」の実行などで、実質的な中国支配を図り、国連内での支持基盤を固めた。WHO事務局長人事もその一つ。 エチオピア出身のテドロス氏は自国が中国から多大の経済援助を受けていることから、新型コロナウイルス問題に関して中国に不利になる言動を控え、それが地球的な感染に繋がったとの批判もある。多大な死者を出した北部イタリアはファッション産業の中心地で中国人労働者の移民が多く、ドイツでは中国からの輸送のターミナルであるドレスデンが、感染の中心になったと聞く。 武漢に「生物兵器研究所」があるのは確かなようだ。昨年秋の発症の際、中国政府は武漢に医者ではなく生物兵器の専門家を先ず派遣した由。また事態の深刻さをネットで訴えた医者を拘束し、彼の名誉が挽回されたのは死後だった。米国ハーバード大学化学生物学部の研究者を武漢に招待して最先端技術について講演させ、中国人大学院生の指導を依頼した。全ては巨額の資金を提供した見返りだった。 帰国後教授は重要な情報を漏らした容疑で逮捕された。他にカナダの研究者もいた由。さて太平洋の安全確保に当たるのが米国海軍第7艦隊の任務。その兵士27名が今回ウイルスに感染し、隔離された。その隙をついて中国艦隊が宮古海峡から太平洋へ進出してハワイ沖まで遊弋。空軍機も尖閣方面から侵入して東シナ海へ通過。一方第7艦隊も東、南シナ海に艦を集結し、日本周辺で事態が緊迫化している。 イランでも感染症が広がり、米国に対して経済制裁の解除を訴えているが、感染は支援の中国人が原因とか。中国、ロシア、イランの3か国はフェイクニュースで米国に対抗している模様。今や米中両国は貿易・関税戦争のみならず激しい「情報戦争」の最中なのだ。北朝鮮は食糧難に加えて、新型コロナウイルス感染症による被害が出、国民に対する締め付けを強化しているようだ。 ネットで得たこれらのニュースも、どこまでがフェイクか分からない。今や世界は「不確実性の時代」。情報戦争になっているのは確かなようだ。そして日本ではこの7日、7都府県に緊急事態宣言を発令した。これから日本は、そして世界は一体どこへ向かうのだろう。前代未聞のことだけに、ちょっと不気味だ。 昨日は風もなく気温が高かったため、今年初めてランニングシャツで走ってみました。さすがにランニングシャツは走りやすいですね。ただしスピードは出ないのですが。
2020.04.09
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<大連での食事> 旅行先での一番の楽しみは何かと聞かれても、人によって答えはまちまちだろう。景色。それも分かるよね。行った先が外国ならば、確実に日本とは違った景色が見られるもの。食べ物。それも当然の答えか。普段なら食べられない料理が、外国だと食べられる。それに飲み物も日本とは違うしね。私の場合は「見るもの全て」。つまりその国の実情が、見たり聞いたりすることで理解出来ると言う訳だ。 1月の大連の旅での食事の「外れ」は全くなかった。私は特段グルメ志向ではなく、どんなものでも美味しく食べることが出来る方。だから外国旅行だからと言って、ご馳走が出なければつまらないなどとは考えない方だ。今回の旅も特に旅先での「料理」を売り物にした訳ではなかった。だが、そこは中国。不味いものが出る訳がない。何せ中国は美味しい物を食べるのが楽しみと言うお国柄。食の歴史が違うのだ。 今回の旅は大連の同じホテルに3泊するものだった。移動距離が短い分体が楽で良いが、食べ物はどうだろう。そんな心配をする人がいるかも知らないが、そこは料理には人一倍うるさい国。ちゃんとその辺を考慮し、日程表にはちゃんと「「餃子料理」、「旅順料理」、「春餅料理」、「飲茶料理」、「四川料理」と準備万端のおもてなしぶりだった。ただし朝食は3日間ともホテルでのバイキング方式だった。 私などは中国各地の料理の違いすら分からない。別に「何でなければ困る」なんてこともないし、目の前に出されたものを、ただただ黙っていただくだけ。その全てが美味しく、不味いとか貧弱などと感じたこともない。家では3食ともすべては自分が作った手料理。それらに比べたら、どんなものでもが美味しい。何せ中国のプロが作った料理。不味い物が出るわけがないのだ。 ただ困ったことが一つだけあった。それは毎朝のバイキング方式。それぞれの料理が置かれる場所が、日本と違って良く分からないのだ。それから日本の場合は「食事中」の「札」を置いておけば、トレーを片付けられることもなくその場所に再び座れるのだが、大連ではその方式がなく、おかずなどを探しているうちに、残ったものを全部片づけられてしまう。それが不便で何度も取りに行く羽目になったのだ。 料理の写真は順不同で、何料理かもメモしていない。だから勝手に想像してもらうしかないが、お許しあれ。そして自分が食べた料理とも限らない。 ああこれは分かる。餃子ですね。餃子にも色んな種類があったけど、今はもう思い出せない。 ふう~っ。これも餃子だ。餃子って結構お腹が膨れるんだよね。 夜なら「紹興酒」も飲みますよ。さほど値段も高くなく、丸ごと1本お金を支払って飲みます。だから残ったのは、そのまま蓋をしてビンごとホテルへ持ち帰ることが出来ました。アルコールの度数もそんなに高くはありません。何せ下戸の私が飲めるくらいですから。 豚肉のソーセージに野菜を巻いたもの。これは朝食のメニューみたい。 これも朝食のバイキングで、私が皿に取り分けたもの。 これはお粥ですが、ほとんどご飯がなくて薄いもの。それでもおかずを食べているので、お昼までは持ちますよ。これは白いお粥ですが、きれいな薄い「クリーム色」のお粥もありました。残念ながら味は確かめませんでしたが。 台湾でもそうでしたが、昼食や夕食はホテルと違ったレストランで摂るのが一般的みたいですね。 これは旅順で食べた昼食の卵スープだったと思います。 これはある日の朝食。私にしては珍しく、小さなパンが載っています。こんな調子なので、太ることもなく中国から帰国しました。料理に期待していた方にはスミマセン。何分小食なもので。 こちらは餅でも皿でもなく、昨夜の仙台上空に出たスーパームーンです。<不定期に続く>
2020.04.08
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<5年ぶりのコースへ> 3月31日。お天気が良いので走ろうと思っているうちに夕方になってしまった。日が翳って風が出て来たが、まあ何とかなるだろうと、赤の半袖Tシャツと白のランパン姿で走り出した。もう桜が咲いてるはず。そう思ってポシェットにはデジカメを入れた。手にはお茶が入ったペットボトル。思い切って11kmのコースに行って見よう。Z川の土手のソメイヨシノが撮れたら良いなとの軽い気持ち。 でもそのコースを走らなくなってから5年くらいになる。どこをどう走るのかも忘れたが、必死になって思い出す。果たしてすっかりスピードが落ちた今の私に走れるかどうかは不明。でも何とかなるだろう。最初の公園で桜が咲いているのが見えた。白い花のこの桜は恐らく「オオシマザクラ」(大島桜)系だと思う。伊豆七島の大島が原産地と聞いた。 大島桜 ソメイヨシノは江戸の植木職人が、白い「大島桜」と、ピンク色の「江戸彼岸」を掛け合わせて作った新品種と聞いた。遺伝子の関係で接ぎ木でしか出来ず、日本中のソメイヨシノは全部同じDNAになり、寿命は約60年と短いのが特徴だ。それが日本を象徴する品種になるとはねえ。 ザル川は一級河川の名取川に注ぎ込む小川。水源は標高321mの目立つ山、太白山付近。支流が3つほどあり、そのうちの1つは近所を流れている。この近辺の水田はほとんど埋め立てられて、広大な住宅地に生まれ変わっていた。黄金色の田んぼが山の傍まで続いていた風景がとても懐かしい。特に「東日本大震災」後の建築ラッシュで、様相がすっかり一変してしまった。仙台が東北で唯一の人口増加地だ。 ザル川の堤防のソメイヨシノが、想像通り咲いていたのは良かったのだが、困ったことがあった。夕方の冷たい風に吹かれたせいで体が冷え、トイレに行きたくなったのだ。誰もいないのを確認して河原に下り、そっと立ちション。危ない危ない。あやうくセーフ。お茶も飲んでいたこともあり、地下鉄の駅まで持たなかった。 20年以上かかった発掘調査が終わって、今ではすっかり住宅地に整備されたこの周辺。ほとんどの畑が消えて個人の住宅やマンションに姿を変えた。お洒落なパン屋さんや喫茶店も出来た。私の俳句教室が開かれる老人センターもこの周辺。大雨が降った昨年は、浸水騒ぎもあって大変だったようだ。 例年なら桜の木の下で近所の町内会のお花見が開かれるのだが、今年は例の新型コロナウイルス感染症騒動で人影もまばら。学校が休みの子供たちがわずかに遊んでいるだけだった。 橋の上から雪を被る南蔵王の山並みを撮ろうと思ったのに、もう蔵王連峰は春霞に隠れて見えず、夕方の風がますます寒く感じられるようになって来た。後ろから追いかけて来たランナーに抜かれたが、抜き返すのは無理。今はゆっくりと走れるだけでもありがたい。愛犬マックスを泳がせたこの場所まで再び走って来れたことに感謝だ。 その後もずっと川に沿って走り、国道286号線を信号のところから横切って近所の神社へと寄った。そこに咲いているのが冬桜の仲間の「コフクザクラ」(子福桜)。年に3回ほど咲く小さな花びらの品種。 氏子の方が寄付して植えたもののようだが、花の色も形も儚げで頼りない感じ。春の夕暮れの空にその儚げな花の色が融け込んで行く。 神社横の急な坂を走って登る。それがこの齢でまだ出来るのが信じられない。ひと頃は不整脈で体が酷く疲れ、手術を3度受けたのが夢のよう。その間に妻も去り、独り暮らしになった。それでもこうして生き、まだヨレヨレで走っている。 坂を登り切ったところにあるのがこの桜。この辺一帯の地主である農家の庭の隅に咲いている枝垂れ桜。まだ青い空にピンク色の花が美しく映えている。 帰宅してPCに取り込んだ写真を整理して見ると、案外良い感じに撮れていた。これなら「中国の旅紀行」を1回休んでこれを入れても良いかも。5年ぶりにあのコースを走れたのが嬉しく、5月の仙台鉄人会の練習会の「3時間走」にも少しは自信が出来たと思う。その夜は疲れてグッスリと眠れた。
2020.04.07
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<夜の大連を撮る> 今回の旅の初日。大連空港からホテルへと向かうバスの車中で、私は早速バシャバシャとシャッターを切り出した。旅に来たらどれだけ写真を撮るのかが勝負。私はそんな感覚でいるのが普通。それはブロガーとしての本能だ。いかに珍しい場面を、数多く撮る。それが後々充実したブログにするための必要条件。それがPCに過重な負担をかけ、結局は大量に捨てることになるのだから皮肉な話だ。 止むを得ず捨てた千枚を超える中に、果たしてどんな写真があったのかは不明で、今となっては知る由もない。今回は残った写真の中から、「大連の夜」を紹介しようと思う。だがそれだけでは足らなかったため、ツアー仲間がくれた小さなポラロイド写真や、別途購入した「絵葉書」からも適当と思える物を選んで加えたことを付記したい。 だが「出来上がり」を見ると、一旦撮った写真を再びカメラで撮り直した物は、色彩の点でも写り方の点でもやはり今一感は免れない。いくら下手でも、直接デジカメで撮った写真には敵わないように思うのは、あながち独りよがりでもないように思うのだ。 確認したら、安い料金ながらオプションで観た、山上からの夜景の写真がどこにも見当たらない。どうやら捨てた中にあったようだ。そしてあまり面白くないのが残ったかも知れない。今となっては仕方ないことだが、まあ大連の夜の雰囲気だけでも味わっていただきたい。 ここは初日の夜遅くに行ったレストランでした。 上の2枚はツアー仲間が撮った小さなポラロイド写真を、再度撮り直したものです。 これ以降は絵葉書をデジカメで撮り直したものです。(4枚) 絵葉書の雰囲気が残っていますね。第一、こんな角度で中山広場は撮れません。 まあ絵葉書も役に立って良かったかな。いずれまた観光地のが出て来ますよ。<不定期に続く>
2020.04.06
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<中国の大衆娯楽・雑技団を観て(2)> 雑技団の「実演」がある建物に入ると、ホールの外に古めかしい写真が飾ってありました。すっかりセピア色になっていましたが、一見してこれは「京劇」だろうと思いました。日本の歌舞伎に当たる国民的な芸術で、今でも伝統文化として大切にされています。だがこんな小さなホールで実際にやるんだろうか。それが私の素朴な疑問でした。 説明文によれば、かなり人気のある役者のようです。きっとこのホールが満員になったのでしょう。 これだけは鮮やかなカラー写真になっていて、京劇の役者さんがどんなメイクをしてるのかが分かりました。歌舞伎の「隈取り」とはかなり違った化粧でした。 やがて大きな拍手に迎えられて、1人の役者が入場して来ました。長い付け髭を蓄えた堂々たる姿。頭には立派な被り物をつけ、歴史的な英雄みたいです。 マイクを持って、なにやらうなり出しました。きっと出し物に関連した曲なのでしょうね。私には日本の浪曲のように感じられたのですが。 暫くして「ああこれは変面だな」と気づきました。何かの演目を演じると言うよりも、一瞬のうちに顔の表情を変えるのを売り物にした大衆芸能。それがどんな仕組みで顔の表情が変わるのかは分かりません。賑やかな曲に乗って踊りながら、時々あっと言う間に表情が変化します。きっと幾つかの「仮面」を「何かの装置」で切り替えるのでしょうが、あまりにも早過ぎて、上手くシャッターが切れません。以下にどうにか「見られる」ものを掲載しますね。表情の変化(仮面?)をお楽しみください。 実際はこれ以上表情が変わったと思うのですが、これが私のカメラの限界でした。<続く>
2020.04.05
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<春の雪、新型コロナウイルスなど> 過日、東京などで雪が降った。3月末の関東の雪は珍しいだろう。仙台では3月28日にソメイヨシノの開花宣言が出た。例年より14日も早く、仙台気象台で観測を始めて以来の新記録だったとか。その夜から急激に冷え込み、翌日は朝から霙(みぞれ)になった。この日は走友会から、札幌に転勤する方を送別するための練習会があるとメールがあったが、もちろん行くのも走るのも私には到底無理だ。 立春後に降る雪のことを俳句の世界では、「春の雪」、「淡雪」、「雪の果」(ゆきのはて)などと表現し、いすれも季語になっている。走るのは無理でも、俳句なら詠める。そこで、 訪ね来る人の無きまま雪の果 訪ね来る人なきままに春の雪 転勤の友を惜しむか春の雪 淡雪や尾灯遠のく終電車 朝ドラ「スカーレット」が終わった。滋賀県の信楽で陶芸に生涯を捧げた女性の話。丸きりの創作ではなく、モデルになった陶芸家がいたと聞いた。信楽の地名も陶芸の里であることも知っていた。かつてあった「信楽鉄道事故」も記憶に残っている。ヒロインの息子「武志」が白血病にかかる中、彼を愛した女性の心情に涙したのだが、26歳であの世に旅立つところで終わった。だが不快ではなかった。 その2日後には、新たな朝ドラ「エール」が始まった。作曲家古関裕而夫妻の物語。夫は「甲子園の行進曲」や「六甲おろし」、「長崎の鐘」など6千曲あまりを作曲。妻は当時珍しい声楽家だったようだ。珍しく第1回から観たが、冒頭に園山とおるの漫画「ギャートルズ」もどきの原始人が、音楽を楽しんでいたのには驚いた。あれはやり過ぎ。物静かな古関裕而に似つかわしくないと私は感じたがどうだろう。 その「エール」に作曲家山田耕筰役として出るはずだったのが志村けんが、新型コロナウイルス肺炎で亡くなった。まだ70歳の若さ。彼の感染を知ってから、あんな有名人が死ぬことはないと信じていた。「人工心肺」を付けるなど、最新医学による治療も受けていたが、それでも帰らぬ人となった。気の毒だが彼の死が多くの日本人にとって、警告になったのは確かだ。 だが彼が1日60本も吸うヘビースモーカーだったことや、夕方から翌日の朝まで飲み、その足でTV局へ行く繰り返しだったことを知り、感染後間もなくの死の理由が分かった気がした。そんな不摂生を長年続けていたら免疫力が落ち、いずれ重篤な成人病になるはず。病気を舐めてはいけない。特に今回は未知のウイルスが相手。かなりの長期戦を強いられよう。 中国起源の疾病があっという間に世界に拡散し、今では177国(地域)で63万人がり患し、3万人が死亡するに至った(3月25日現在)。イタリアやスペインでの大量死、イギリス、ドイツ、カナダの政府首脳の感染。ニューヨークやパリなどで外出禁止令や市民の移動制限、さらには国家間の移動禁止措置にまで至った。東京オリンピックの延期も当然で、結論を出すのが遅過ぎたくらいだ。 国内でもほとんどの府県で陽性患者が発生し、死者も急増中。最近では院内感染や、施設内、コンサート会場、ナイトクラブなどでの集団感染が出始めた、り患しても比較的症状は軽いとされる若年層が、外出禁止などを守らない「ジェネレーションギャップ」が問題化している。この調子だと都市全体を閉鎖する「ロックダウン」の実施も心配だ。 今回の騒動で注目していたのが阪神の藤浪投手ら3選手の感染。これが阪神だけでなく中日の2選手へ、さらに一般市民の女性3人などにもと次々に広がった。阪神球団の危機管理体制が本当に機能していたのかが疑問。健康に人一番気を遣う立場のプロ選手がこうでは、制限の少ない一般市民のルール無視など当然か。「自分は大丈夫」との甘えが、医療崩壊につながることを恐れる。 わが走友会のお花見は中止と、5日前にメールがあった。当然だろう。自分の身を自分で守るのもそうだが、他人に迷惑をかけないことも大切。今はじっと辛抱だ。目下パリで許されているのは、自宅の周辺1kmを1時間ほど散歩やジョギングする程度とか。それでも十分免疫力の向上につながるはずだ。不要不急の外出は控えよう。そんな簡単なことが、少しでも感染を防ぐ一助になるのだから。
2020.04.04
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<仙台のソメイヨシノの開花は新記録> 南蔵王の山々はまだまだ冬景色なのですが。 元気者のスイセンは誰よりも早く咲き出すのですが、今年はいつもより早かったねえ。 あまり見かけない「ハナノキ」が近所に街路樹として植えられています。 葉っぱは1枚もないのに、咢(がく)と蕊(しべ)だけの花が。 花の付き方は山茱萸(サンシュユ)に似てるかもね。 こちらの3枚が山茱萸(サンシュユ)です。ハナノキに似てるでしょ? こちらの2枚はミツマタ(三椏)。皮が和紙の原料になります。 こちらの2枚はトサミズキ(土佐水木)。ヒュウガミズキと似ていますが、花穂の形が違います。 それにしても春先の樹に咲く花は、黄色が多いですねえ。 コブシ’(辛夷)はまだ蕾状態でした。 3月26日撮影の桜で、既に満開状態です。ソメイヨシノかも知れません。 この2枚は別の場所で撮影。恐らくはエドヒガン(江戸彼岸)系の桜だと思われます。 この2枚は別の場所の別の種類。最後のは恐らくオオシマザクラ(大島桜)系と思われます。仙台気象台のソメイヨシノ標本木の開花宣言は3月28日で、観測以来の新記録だった由。やはり暖冬の影響でしょうね。
2020.04.03
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<春先の花を探しに(1)> 仙台気象台のソメイヨシノの開花宣言が出る前に、私は桜を探しに出かけました。と言うよりも、買い物に行く途中で、咲いている桜を見かけていたのです。これはカメラを持って写しに行かなくちゃ。ブログでは「中国の大連・旅順への旅シリーズ」を連載中でしたが、やはり春の花が咲き出せば撮りたくなるのが人情だし、撮影したらしたでブログに載せたくなるのがブロガーの常なんですよね。そんな訳で今日も花を。 ここからは4月26日の撮影です。あるお宅の庭に、ヤシオツツジが咲いているのを発見。今年はかなり早いですねえ。やはり暖冬の影響でしょうね。ピンク色でも名前は「アカヤシオ」でしょうか。 ハクモクレンも今年は1か月ほど早くから咲き出していますね。 ええ~っ。まさかもうレンギョウが咲き出したとはねえ。これも例年より1月早いね。 俯き加減に咲くクリスマスローズは、貴婦人のような雰囲気で大好きです。 キンギョソウももう咲き出しています。まだ寒い日があるけど大丈夫かなあ。 治療を受けている近所の歯医者さんで、カランコエをパチリと1枚。<続く>
2020.04.02
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<誕生日の我が家は?> 3月24日は私の誕生日。この日で私は75歳になりました。自分ではまだまだ若いつもりでも、年齢的には後期高齢者の仲間入り。独り暮らしの私はこれからもますます元気で行き抜こうと、決意を新たのしたのでした。結構冷え込んだこの朝は、自転車で兄宅へ行く予定にしていました。その前に庭を一周して、誕生日の記念撮影です。 裏の畑の三つ葉が、結構大きくなっていました。この暖かさだと、後半月ほどで収穫出来そうです。若い三つ葉は柔らかくて香りも強く、とても美味しいご馳走です。 こちらはニラ。今年は早くも2月末頃から新芽が出ていました。これぐらいの大きさになれば、もう収穫が可能です。ニラの卵とじスープなんかが良いかも。今年の野菜の収穫第1号ですね。 ニラはニラでもこちらはハナニラ。花を観賞し、食べられません。花も葉もニラにそっくりです。 ヒヤシンスも、結構茎が伸びて来ましたね。クルクル巻いた花の形がとても可愛いです。 チオノドクサはピンクの花と、ブルーの花の2種類あります。 粒状のムスカリが咲き出すと、春の到来を感じますね。 今年の豊後梅(ブンゴウメ)はかなり早くから咲き出しました。青空を背にした美しい枝ぶり。 こちらは家を背にして。昨年かなり強めの剪定をしたのですが、それにしては頑張って、かなりの花を咲かせてくれました。この分だときっと今年も豊作でしょうね。<続く>
2020.04.01
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