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~「日本丸」のかじ取り~ 安倍総理が先月検査のためK大学の病院で診察を受けたところ、「国会で健康状態を説明すべき」と主張した御仁がおった。さる野党の党首だ。その1か月後総理が再度K大学病院での診察後に病状と辞意を表明した際、「危機管理が出来ない人物が総理になるべきではない」とツイッターで言い放った国会議員がいたそうだ。直ちに大勢の方の反撃にあったが、先ごろの党首と同じ党所属の人だった。 最初の首相就任後辞職をしたのと同じ「潰瘍性大腸炎」。国指定の難病だ。その持病を抱えながら未知の「新型コロナ感染症」への対策やら、経済活動との調整を重ね3か月近く休みも取らずに働いて来た一国の総理に対して、全く礼を失した態度。党首が党首なら党員も党員。それが野党の実態だ。 しかしここ数年、総理は政治や政策の本質から外れた事項で「難癖」をつけられっぱなしだった。いわく「モリカケ問題」いわく「さくらを観る会」。マスコミが大騒ぎすることで国民も与党への批判を強めたが、私は全く問題にしてなかった。事柄の本質を考えれば、総理自身がそれを命じ、指揮する事案でないことが分かるはずだ。ただ私が残念に思うのは、「丁寧に説明します」と言いながら、真っ向勝負を避けた感があったことだ。 その背後には昭恵夫人が曲がりなりにも「関与」した後ろめたさがあったのかも知れない。それはあくまでも私の推量だが。加えて選挙違反容疑で取り調べを受けている元法相夫妻や、IRに関する買収疑惑で逮捕された議員など、与党の国会議員の不行跡や、中央官庁の行政マンの不行跡が目立ったのも、総理の心胆を寒からしめ、辞任を速めたようにも思う。 今回の総理の辞任表明に関して、沖縄県の若い女性が「沖縄の希望を何も叶えてくれなかった」と話したのが気になった。「イージスアショア」に代わるミサイル追撃システムの導入に関して、ある新聞記者が中国や韓国の了解を取る必要がないかを河野防衛相に質問した。防衛相は直ちに答えた。「我が国の防衛についてなぜ他国の了解を得る必要があるのか」と。沖縄の女性と同じレベルの認識しかないのだろう。 両人とも日本が置かれている立場や、東アジアの政治情勢を全く理解していないのだ。中国の公艦が100日間以上もの長期に亘って尖閣の接続領域に侵入した。尖閣の奪取は中国共産党の準機関紙で明確に表明している。そして8月中旬には300隻を越える中国漁船の尖閣海域への潜入が懸念もされていた。それは数年前にも起きたことで、世界から非難されている中国が、自国民へ見せる強気のポーズでもあった。 沖縄独立を標榜し、米軍基地の撤廃を叫ぶ沖縄の2大新聞社。その主張しか信じない沖縄県民は、普天間基地の辺野古移転と言う、旧民主党政権時代に決まった事柄すら認めようとしない。今中国艦船は沖縄どころか、小笠原諸島の南鳥島付近にまで出没し、日本の了解なしにレアメタルなどの鉱物資源の調査活動と言う非常識極まりない無法者なのだ。 安倍総理が唱えていた「憲法改正」や拉致被害者の奪還がならなかったのが残念だ。米国のトランプ大統領とは極めて親しい関係にあり、今後も同じ価値観と世界観で行動を共に出来た可能性が強かったのだが、総理辞任の決断でそれが不可能になったのが悲しい。日本の一部マスコミや「進歩的知識人」の思想の何と貧弱なことか。私は一介の老人だが、それでも世界の動向に注目している積り。 新型コロナの収束、経済活動の向上、東京オリンピックの今後、東アジア情勢の変化への対応等々、「日本丸」のかじ取りが心配される今後。次期後継者選出と、その後の総選挙など喫緊の課題は多い。今後の我が国の健やかな発展を祈り、これまで長期に亘って貢献された安倍総理に対し、深甚なる謝意を申し述べたい。<続く>
2020.08.31
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~中国のことなど~ *写真と文章は無関係です* ネパール王室内の内紛で殺人事件があったのはもう10年前にもなるだろうか。あの騒動以来ネパールは王政から議会制民主主義国家となり、国会は中国共産党系の議員が過半数を占めるようになったと聞いた。そしてつい最近、「幸せの国」ブータンの東端にある自然保護区に中国軍が侵攻した。そこは中国の領土だと主張して。とんでもない、そこはブータン領で境界線に関する争いは全くなかったのだ。 中国が侵攻し急遽主権を主張したのは、アッサムでインドと国境争いをしていたため。インドの抵抗で膠着状態が続き、領土を拡張出来ないと見た中国は矛先を変えたのかも。カシミールでもインドと国境を巡って争っている中国は、停戦協定を破ってインド領に侵攻しインド兵20名が死亡したと聞いた。中国の領土に対する野心は並たいていのものではない。 チベットを手中にした中国は、ダライ・ラマ14世を拘束しようとして失敗。彼はインドに逃れ亡命政府を樹立した。だが最近中国人男性がインド人女性と結婚してインドのパスポートを入手し、ダライ・ラマ14世に接近した由。幸い14世の側近がそれに気づき、ダライ・ラマに危害はなかった。チベット仏教の指導者・生き仏であるダライ・ラマ14世は、未だにチベット人の心の灯なのだ。 新疆ウイグル自治区で、中国がウイグル人を迫害してることは何年も前から耳にし、キャンプに連行されたウイグル人が思想教育を受けていることも知っていた。それが最近、ウイグル人女性への不妊手術の強行や男性に対しては集団で迫害している事実が明らかになった。中国がそれらの地域で主権を主張するのは「国境」だから。「サラミソーセージ作戦」と言い、少しずつ領土を侵食すれば、相手にばれないと言う論理で、これまでどこの地域でも成功していた。またチベットには鉱物資源があり、ウイグル自治区は原爆の実験地として欠かせない。 スイス銀行は預金者の秘密を守ることで有名だった。だが、近くその考えを変えることになりそうだ。アメリカが中国共産党や香港行政府幹部の隠し財産を凍結する意志を示し、それに違反した銀行とは取引しないことを明言したためだ。ドルとの交換が不可能となれば国際金融界では生きて行けない。アメリカの中国に対する制裁は本物で楽観は出来ない。今後包囲網はさらに厳しくなるはずだ。 北朝鮮の様子がおかしい。エリンギ君はなりを潜め、妹の与正へ権限を割譲したみたい。130kgを超える体が異常を来したのか、長引く経済封制裁と忍び寄る「新型コロナ」でガタが来たのか。それに水害が追い打ちし、国土の疲弊と国民の飢餓が極限まで来てるような雰囲気だ。そんな状態で拉致被害者を拘束し、軍事力の拡張に明け暮れるこの国に未来はないだろう。 その北にすり寄り、中国と「コウモリ外交」を続ける南の文大統領も裸の王様だ。こちらも経済は大減速し失業率はアップ、加えて大雨と台風による大きな被害が出ている。そんな中で、慰安婦や徴用工問題に関する欺瞞が噴出し、国論は真っ二つに分かれた。若者の就職難が続き、希望を失った国民。それでも反日まっしぐらで、「レッドグループ」入りを目指す文さん。WTO対策もままならず、GSOMIA破棄も決め手に欠く有様。こんな為政者に導かれる国民の何と気の毒なことか。<続く>
2020.08.30
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~彷徨える巨人・中国(1)~ 古代出雲への旅の話を書きながらも、脳裏には常に中国の動向が意識されていた。「新型コロナ感染症」の蔓延による、世界的な大恐慌。その原発国として責任を果たすべき中国の動向が、ここ数年おかしいことに危惧の念があった。新型コロナ以降、あるいはそれ以前から中国は破滅の道に向かって突き進んでいるのではないか。そう思わせるほど中国には不安要因が目立っていた。久しぶりにニュースを取り上げるが、やはりその中国から書き始めるのが妥当だろう。 コロナを模した中国国旗 中国が世界から信用を失った第一は「新型コロナ」だろう。発生の時期、場所、初期対応、WHOへの通告など、そのすべてにおいて中国の対応は適切さを欠き、秘密裏に隠ぺい工作を行った。その初動対応のミスが、世界にこの凶悪で未知のウイルスを物凄い勢いで蔓延させ、各国における治療手段を奪い、結果的に多くの死者を出す要因になったと言っても過言ではない。中国に忖度したWHOの責任も大きい。 今年、中国では実にさまざまなことが起きた。新型コロナの収束を待たず、黄河、揚子江など国内の主要河川で度重なる水害の発生。なかんずく長江(揚子江)中流域の「三峡ダム」が決壊するほどの大雨が長引き、その後も幾つかの台風来襲による被害が重なった。元来地盤が脆弱な地への巨大ダムの建設に対しては、計画段階から専門家の反対があった。だが、当時の指導者が強引に工事を強行した由。 6月中旬から降り出した大雨は三峡ダムの安全水位を遥かに超えた。このためダム上流部では何か所もで土砂崩れが発生してダム湖の水位を押し上げ、そのことが洪水と土砂崩れの連鎖を起こした。中・下流域でも大雨による洪水が発生して穀倉の半分が被害に遭い、約6千万人が被災した。党は「三峡ダム」の決壊を防ぐため連日大量の水を放水し、都市の大洪水を防ぐため、遊水地である湖の土手を軍が複数個所爆破し農村部に濁流を誘引した。大都市の水害を防ぐためだが、農民は踏んだり蹴ったりだ。 それでも武漢、南京の大都会が浸水し、河口の上海ですら50cm以上冠水したと聞く。この地区は中国のGDPの50%が集中し、軍の兵站部や外国の企業も数多く進出しているのだが、停電の発生などでかなりの被害が出た模様。ダム上流の漢口や成都などの被害も甚大。だが、習近平が被害地への視察に行ったのは状況が落ち着いてからで平服のまま。一方首相の李克強は長くつ姿で泥水の中を視察した。 毎年避暑地の北戴河では政府首脳と共産党OBの会合が持たれるが、今年は習近平の失政に対する追及が厳しかったと言う。鄧小平以来中国は不利な時はじっと身を潜めてやり過ごすという方針で成功した。ところが近年はトランプ大統領ともろに殴り合いを始め、経済的な損失が一気に増えた。また「一帯一路」への疑念が世界で起き始めた。それらを方向変換せよとの忠告だ。だが習近平は批判をそらすため強気に出、一気に国際緊張を高める手段を取った。 台湾の奪取、尖閣や南シナ海領域の死守、香港への干渉、アメリカへの対抗意識などを中国共産党の名において宣言したのには驚いた。だがその後も長老達から叱責されたようで、過激な言動を一旦控えた。この間に李克強首相との間で壮絶なバトルがあったようで、習近平は軍における力を誇示し、逆に首相に迫ったようだ。だが、今年の中国は上層部同士でバトルをしてる暇はないのだ。 6月中旬からの長雨で、黄河や長江(揚子江)など、国内の広範囲で大きな水害が発生していた。中でも長江の上流、中、下流の被害は著しく、6千万人の被害者が出たと言う。これに加えてバッタやイナゴの害も加わって、国民の食糧確保すら危うくなった。加えて、新型コロナ、香港への弾圧、ウイグル族への人権侵害を理由に、中国に対する世界の圧力が一気に高まった。中国の本質に世界が気づいたのだ。 中国が推進してきた「一帯一路」への風当たりが強くなった。スリランカ、モルジブ、パキスタン、マレーシア、ケニアでは「債務のわな」による港湾や鉄道、道路などの建設施設が中国の手に渡った。不正な契約内容を知らされなかった国民が、契約は無効として最高裁に訴え、ケニアでは逆転有罪。一旦は中国の手に渡った港湾や鉄道を取り戻し、コロナ対策に要した経費と相殺させる措置に出た。 トランプさんは一切妥協せず、中国のIT企業を追放し、中国のプロパガンダ組織である「孔子学院」を解体させ、中国共産党と香港政府幹部の資産を凍結し、香港における香港ドルと、米ドルとの交換を廃止する措置に出た。その上中国が居座る南シナ海で、空母などによる訓練を行った。東シナ海、南シナ海における中国の覇権を決して許さないとの強硬な姿勢だ。 これに対して、中国は自国が訓練中の海域へ中距離弾道ミサイルを4発発射した。中国も不退の姿勢を示したのだろう。また米国債の大量売却に出ようとしてるようだが、これは自国の首を絞めることにもつながる。ドルでの決済が出来なければ貿易は成り立たず、弱い人民元の価値がさらに下がるだけだからだ。香港抑圧の影響は、今後一層中国に強い反作用となって表れるはずだ。 4人の預言者が今年中に崩壊すると宣言した中国だが、確かにその雰囲気が出て来た。いち早く「新型コロナ」のワクチンを開発したかに見える中国だが、国民の生活は実に悲惨。自己中心的な上層部の実態があぶり出され、全体主義国家の裏面が世界へ知れ渡った。これまでのような独裁を貫くことは困難だろう。日々大きく変化する世界情勢。新型コロナに負けず、厳しい目を世界に向けたいと思う。<続く>
2020.08.29
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~さよなら出雲~ ひょんなことから実現した今回のgoto出雲への旅だったが、収穫は十分にあった。2つの博物館を訪れて、本物の発掘物を観たこと。膨大な勾玉、銅剣、銅矛、銅鐸、古代の装飾太刀などだ。出雲大社の境内から発掘された巨大な宇豆柱と心御柱の「残骸」。小さな古墳へも行ったし、長年心の奥底でくすぶっていた北島国造家にも訪れて、古代出雲の謎を解くヒントを得た気にもなった。 旅先で関裕二著「出雲大社の暗号」(講談社文庫)と、偶然出会ったことも嬉しい出来事だった。博物館の売店で手にし、パラパラと目次をめくって、これは是非買って読まなくちゃと直感。出雲から松江への車中で読み始め、あまりの面白さに松江で降りるのを忘れたほどだった。私が古代出雲に対して抱いていた疑問の大半が、この本を手掛かりにして解け始めたように思うのだ。 <唐古・鍵遺跡復元楼閣> <纏向遺跡> 著者は著書の中で、奈良県の唐古・鍵遺跡や纏向遺跡についても触れている。当然邪馬台国とヤマト王権との関係や古代出雲との関係に関する考察もあるが、ここでは触れない。いずれにせよ古代出雲王国がいかにしてヤマト政権に組み込まれて行くのかが、キーだ。私はyoutubeで、古代出雲王国が「越」の植民地だったという説や、日本海など当時の海運を巡る覇権争いがあったことも知った。 古代出雲の兵士 しかしと私は思う。それでも古代出雲において「倭国大乱」のような争いは起きなかったのではないかと。理由は簡単だ。それだけ大きな戦闘があれば、大量の人骨が発掘されてもおかしくないからだ。それとも、大勢の兵士の死体が全て土に埋もれて融けたとでも言うのか。縄文から弥生への移行に際しても、大きな争いで大量の死者が出たことの証明はまだされていないと思う。 それにしても疑問なのは、「古代出雲歴史博物館」において、なぜ「四隅突出型墳丘墓」の見本や説明をしないのか。あれは古代出雲の特徴の一つなのに。なぜ出雲大社を司祭した二つの国造家に対する説明がないのか。ひょっとして遠慮なのか、それともタブーなのか。やはりその疑問へも応える必要があるように思う。博物館は大社のすぐ傍に位置しているのだから、そして荒神谷と加茂岩倉両遺跡から出土した大量の青銅器の謎の解明は、今後の研究の進捗を待ちたい。 もう一つの謎が出雲人気質。昨年のツアーで出雲大社の境内を案内してくれた現地ガイドの女性の何と気難しいこと。私の8番目と11番目の職場の上司も出雲の人だったが、とても気難しくて付き合いにくかった。恐らくは出雲の風土に根差したもののように思う。そしてこれは私の直感なのだが、出雲国府が置かれた松江付近の人はおっとりした性格なのに、出雲市付近の気質がセカセカしてるのは、出雲大社を有する優越感と同時に、古代から疎外されたための陰鬱さが交錯しているせいかも知れないと。 宍道湖に浮かぶ嫁島 旅の最終日、松江から空港へ向かうバスの車窓から「嫁島」が見えた。宍道湖に浮かぶとても小さな島だ。実は40年ほど前に島根へ出張した際に玉造温泉に一泊し、冬の早朝松江まで走って往復したことがあった。2月の湖は凍り付き、白鳥が片足で立って眠っていた。その白鳥と夜明け前の嫁島の姿が忘れられない。再び島を観たが、もう一度出雲へ来ることはないはず。合計21回プラス3回書いた古代出雲シリーズを、感謝して終えたい。ありがとう、遥かなるわが出雲よ。<完>
2020.08.28
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~大橋川界隈を歩く~ 旅の最終日。私は松江市駅前のシティーホテルで、朝早く目覚めた。食事は7時からと決めていた。「出雲縁結び空港」発の仙台行きに搭乗するためには、8時35分の松江駅発の空港行き連絡バスに乗る必要があった。その前に朝食を摂ろうと、少々緊張気味だったのだろう。だが朝食には早過ぎた。そうだ散歩に行こう。松江に来たら川か湖は見たい。ホテルの裏側が川であることは前もって確認済み。 川の名前は大橋川。中国山地から流れ出た斐伊川が宍道湖に注ぎ、大橋川を流れ下って中の海に到り、河口の境港港からは海水が遡っている。つまり中の海も宍道湖も真水と海水が混じり合う汽水湖なのだ。だから宍道湖はシジミの名産地。朝一番でシジミ漁の小舟が宍道湖に向かっている。それを「くにびき大橋」の上から暫し眺めた。舟の行き先は西の方角だ。 左の写真は中州を経て宍道湖方面を見ている。右はくにびき大橋の東側で、中の海方向に当たる。間もなく朝日が昇る頃だ。 これは大橋川の対岸から、JR松江駅の北口方面を見ている。松江城付近の濠はもっと繊細だが、この辺りは大河の趣がある。この川の中でもシジミが獲れるはずだ。冬の寒いさ中も、湖に入って専門の「籠」のような道具を使って、シジミを獲る風景を何度も見た。今回の旅では、玉造温泉で朝夕2回、松江の朝食で1回、シジミの味噌汁を食べた。ごく小ぶりの上品な貝だった。 大橋川の北岸に係留された舟は、すべてシジミを獲るためのものだろう。まだ誰もいないが、出漁時間になると、三々五々漁民が集まって来るはずだ。 「新大橋」の標識(左)と新大橋からの風景。宍道湖方面(西側)を見ている。 新大橋から中の海方面(東)を見ている。中国地方はこの日、梅雨が明けたはずだ。 また一艘、シジミ漁の小舟が宍道湖方面に向かう。内海には波も立たない。 今回の旅では、「松江市立玉作資料館」と「島根県立古代出雲歴史博物館」を観ただけだったが、全く不満はない。松江は40年前に仕事で訪れたついでに松江城と堀端界隈を歩き、ラフカディオハーン(小泉八雲)が愛した「城山稲荷」や堀端の柳を愛でながら散策し、明治期の松江の雰囲気を味わった。もうあれで十分ではないかハーンと夫人の節が一時期を過ごした松江。再びここに来れて嬉しい。 大橋川に梅雨明けの太陽が映える。きっと古代の出雲族たちも、こんな風景を眺めて来たのだろう。全部で3度訪れた出雲の地。特に今回は古代出雲の謎に幾分迫ることが出来たのではないか。いつも思うのだが、疑問を抱き続けていると、何かの拍子にその謎が解けることがある。だからこそ、探求心を失ってはいけない。さて、次に歴史の旅が出来るのは一体どの地だろうか。楽しみだ。<続く> 小公園越しに臨む大橋川と朝日
2020.08.27
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~神の戦い人の戦い~ 記紀には倭建(日本武尊=左)が出雲建(大国主命=右)をだまし討ちにしたことが記されている。九州の熊襲を倒して大和に帰る途中出雲に立ち寄った日本武尊は親睦の証として互いの剣を交換しようと提案。大国主命は了解して自分の鉄剣を差し出した。ところが武尊が差し出したのは木剣。簡単に大国主命を倒した武尊は意気揚々と大和へ引き上げた。神話だが、日本武尊は天皇の皇子であり、彼の子もまた天皇とされている。 朝廷の使いが、出雲の神宝を検分に来たことが記されている。この時も騙されて神宝を奪われてしまった。出雲国造家の祝詞には、密かにこの時の恨み言が込められていると言う。三種の神器は太刀(鉄剣)、鏡、そして勾玉だ。出雲は北部九州を通じて朝鮮半島とも交流があり、鉄も容易に入手出来た。鏡は三角縁神獣鏡が出土したくらいだし、勾玉は玉造製造の適地があった。 第24代継体天皇は越前国敦賀の出身。第15代応神天皇の5代孫とされ、朝廷の血が途絶えそうになり急遽都に招かれた。后は琵琶湖一帯を制する息長(おきなが)氏の出で、古代豪族の尾張氏とも縁があった。越前も琵琶湖も尾張も水運で栄えた地。古代出雲は越前を含む「越」の国の支配下にあったとの説がある。古代の越前は日本海の海運により、各地の豪族と協力関係にあり、出雲はやがてその植民地となったとの説がある。 大国主命には温和な和御霊(にぎみたま)と破壊につながる荒御霊(あらみたま)の両面があった。明日香、藤原宮、纏向王朝期は大神(おおみわ)神社の祭神として都を守り、平城京に遷都してからは現奈良市に摂社を移して都を守った。だが荒御霊が垂仁天皇の皇子に祟り、皇子は成人しても口が利けなかった。出雲大社に使いを出して、大国主命を祀った結果、口が利けるようになった由。 貴族政治代表格の藤原氏は中臣鎌足が祖。「乙巳の変」(大化の改新)の功で藤原姓を賜り、急速に力をつけた。その子不比等には4人の男子があり。それぞれ「藤原四家」の祖となった。ところが天平4年(737年)の疫病(疱瘡)で、4人全員が病死した。藤原氏は慌てて出雲大社参じ、出雲に大神殿の建設を約束したのか。なお、平安中期の道長は北家の末裔。「この世をばわが世とぞ思う望月の」の作者だ。 天平の疫病は疱瘡(ほうそう)で、朝鮮半島から対馬を経由し、北九州から上陸して全国へ流行した由。天平7年から9年までの3年間で、当時の人口の25%から30%に当たる100万人から150万人が死亡したようだ。医学も十分になかった時代の恐怖は現代の「新型コロナ」にも匹敵したことだろう。疫病を畏れた人々が神仏の加護を祈った気持ちが良く分かる。「呪い」は安倍晴明の出番を作った。 出雲大社の奥に鎮座しているのが素鵞(そが)社。かつて中臣鎌足が絶滅させた蘇我氏を祀るもの。そして出雲大社司祭の北島国造家の境内に鎮座するのが天神社(右)。これも藤原氏の讒言により太宰府で死んだ菅原道真公の鎮魂のための社だ。道真の怨念が紫宸殿への落雷となり死者を出したことに慄(おのの)き、北野天満宮の造営と官位の復位などによって、天変地異が治まったのだった。 京都府亀岡市の出雲大神宮(左)とその磐座(いわくら=右)は丹波国一之宮だが、明治に入るとご祭神の大国主命を出雲に移される。明治新政府は廃仏毀釈を進めるだけでなく、架空の天皇である神武のために橿原神宮を創建した。また神社の格式や名称を整理、それまで原始神道だった沖縄の社にも鳥居を建てさせた。全ての神社が神祇省の下に管理される、いわゆる国家神道の始まりだった。 <出雲大社の摂社 日御碕神社の鳥居> この沖合に海中遺跡がある。 大急ぎで古代出雲の謎を追及して来たが、まだまだ意は尽くしていない。昨年の山陰旅行で「島根県立古代出雲歴史博物館」の存在を知った。今年はそこを訪ね念願の常設展示を見た。また、謎解きのヒントとなる1冊の本と出会った。いずれも偶然だが必然でもある。不思議なことに古代史や考古学の疑問を長年抱き続けていると、突然それが解けることがあるのだ。だから面白い。きっと人生も同じなのだろう。 「神が戦い人も戦った古代出雲への旅」。そんな大仰なタイトルを付けたこのシリーズも、とうとうゴールが見えて来たようだ。いつも退屈な文章に付き合ってくれた読者に心から感謝している。<続く>
2020.08.26
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~2つの遺跡からの出土物~ 加茂岩倉遺跡における銅鐸の埋納状況再現レプリカ。こんな風に銅鐸は同じ方向に向かって並べられ、横たわっていました。青銅の銅鐸も新たに鋳造すると、こんな風に金色に輝いて見えるのです。神秘性が増しますね。 これは実際に埋められていた際の映像。土にまみれて汚れ、銅鐸の神秘性はほとんど感じられません。 発掘され、ある程度汚れを落として並べられた銅鐸群。最下列の2基は「入れ子」状態で発見されました。 「入れ子」状態が分かるよう、半透明のプラスチック(外側)の銅鐸を通じて中の銅鐸(土色をした一回り小さなもの)が見えますね。 どちらの銅鐸にも上部に小さな穴が2つずつ開けられています。ひょっとしたら細長いひものようなものを通して、銅鐸を持ち運んだのでしょうか。田植えや稲刈りなどの行事の際に田んぼの傍まで運んで銅鐸を鳴らし、神に感謝したのかも知れません。銅鐸には動物や舟、建物などの絵が描かれているものもあります。 荒神谷遺跡の直ぐ傍からは、銅鐸と一緒に数本の銅矛や銅剣も出土しました。 加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸(全て国宝)の背後に、荒神谷遺跡から出土した銅剣、銅矛(全て国宝)が見えます。 同一の遺跡から358本もの銅矛と銅剣が出土したのは日本最多です。全て国宝に指定されています。左上段の光り輝いて見える銅剣は、展示用に新たに鋳造したレプリカです。 青銅器の一部でしょうか。破壊されたのか、それとも本体から偶然外れたのかは分かりません。なんだか分からないまま、心惹かれるものがあってシャッターを切りました。これで「島根県立古代出雲歴史博物館」で撮影した写真は全て紹介したことになります。地味な内容に良くお付き合いいただいたことに深く感謝します。<続く>
2020.08.25
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~銅鐸三昧 その1~ さて、古代出雲への回帰旅もそろそろ終わりに近づいて来た。今日と明日の2回で、「島根県立古代出雲博物館」常設展のメインであった、加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から発掘された膨大な青銅器を載せたいと思う。写真が中心なので詳細な説明は出来ないため、ご面倒でも過去の掲載分を参照されたい。 館内にこんな説明文があったので載せておく。古代中国で発祥し、朝鮮半島経由でわが国に伝えられた青銅文化。しかし私たちの先祖である弥生人が選んだ青銅器は、銅剣、銅矛、銅鐸、銅鏡などに限られている。しかも鉄器の渡来に伴って銅剣や銅矛はやがて姿を消して行く。本来は大型の楽器だった銅鐸も、わが国では小型化し水稲栽培における祭器と化して行った。 俗に言う、銅矛、銅剣、銅鐸の文化圏を図示したもの。だが上の図を良く見ると、そのいずれもの文化を有した唯一の地が古代出雲だったことが分かる。それだけも出雲の特殊性が理解出来るが、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から出土した銅剣、銅矛、銅鐸の数量が半端ではなかった。さらにそれらの大量の祭器が人里離れた山奥にひっそりと埋納されていた。そしてその理由は未だ解明されていない。謎のままなのだ。 これは銅鐸が出土した出雲地方の遺跡。1が日本で最大数の銅鐸が発掘された、加茂岩倉遺跡。2が大量の銅剣、銅矛と共に銅鐸が出土した荒神谷遺跡。いずれも出雲大社にほど近く、かつ吉備(現在の岡山県)王国に通じる古道の途中に位置している。 常設展示の一角に加茂岩倉遺跡出土の「国宝銅鐸」のコーナーがあった。以下に私が撮った写真を載せるが、他の遺跡出土の銅鐸が間違って載ってないことを祈る。なお、ここには理解を助けるため、銅鐸のレプリカや埋蔵状態を再現するセットも混じっていることをお断りする。 これほど身近に銅鐸を見たのは初めてだった。ただし文様の細部が明確に分からないのが残念だが。 はっきりとは分からないが、何かの絵が描かれているのは確かだ。 銅鐸の内側。中につり下がって銅鐸に触れて音を出すための「舌」(ぜつ)は見えない。古代中国の銅鐸は巨大な楽器だが、日本ではいわば「風鈴」のように、稲作に関わる神事の際に鳴らしたようだ。 わざわざ破壊したように見える銅鐸。銅鐸の祭器としての用い方が変わったのか。それとも他の豪族に渡したくなかったのか。人為的な破壊の理由が謎だ。 その一方で、美しく整ったままの銅鐸も多い。やはり神聖な銅鐸を破壊した理由が謎だ。<続く>
2020.08.24
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~2泊3日の旅の中で~ 宿の間接照明 出雲の古代史や考古学の話を一旦置いて、今日は旅の逸話を紹介しよう。トップバッターは松江市玉湯町の高台にあった「松江市立玉作資料館」に陳列されていた布志名(ふしな)焼を楽しんでいただこうと思う。 関ヶ原の戦いの後、西国の知行地がなかなか落ち着かずにいた。松江藩は何度か藩主の入れ替えがあった後、越前福井藩から松平公が入府した。松江領18万6千石、隠岐領1万4千石。併せて20万石の大藩である。第7代藩主である松平治郷公は、疲弊した藩の改革を成し遂げた後、趣味の茶道にまい進し、玉湯町に藩の御用窯雲善窯を造らせた、後に民間の船木窯も開かれて陶芸が盛んとなったようだ。今回はそれらの作品の紹介だ。 蓋つきの椀 魚のデザインの絵皿はとても現代風だ。 渋色の釉薬をかけた蓮の蕾を模した容器。 唐三彩にも似た雰囲気の花瓶(左)と花柄を全面に配した大ぶりの花瓶(右) シンプルで清楚な花瓶(左)と極めて現代的なデザインの壺(右)。 一見キウイの輪切りと見紛うような大ぶりの浅鉢(?) 自由さに溢れた作品群は、ひょっとして船木窯のものだろうか。でも渋いねえ<続く>
2020.08.23
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~あの日出雲で何が起きていたのか~ 私は今、この本を読みながらこのシリーズを書いている。関裕二著「出雲大社の暗号」講談社文庫。その帯には「あの日、出雲に何が起きていたのか」とある。一体「あの日」とは何を指すのだろう。ヤマト王権の使いに「出雲の神宝」を騙し取られた日か、それとも出雲がヤマトに国を譲った日か、いやそうではなくヤマトタケルに代表されるヤマトの精鋭に大国主命が暗殺された日だろうか。 一見穏やかに国譲りした代償としての杵築大社(後の出雲大社)。だが境内から出土した鎌倉時代の超巨大な宇豆柱と心御柱。そんな時代になってもなお、朝廷が出雲の神を畏れた理由はなんだったのだろう。そして出雲の神は一体何が悔しくて後世まで朝廷を苦しめたのだろう。原因はやはり出雲の神宝を盗み取られた怒りだろう。それがヤマト朝廷の「三種の神器」になったとすればなおさらだ。 同書で著者は出雲神の祟りの第一は疫病だと言う。使いを遣わした隋や唐、そして半島に渡って戦った新羅からなど、何度か疱瘡(ほうそう)がわが国に入って蔓延し、多くの死者を出した。出雲が古来「根の国」(あの世)とされたが理由もそこにあったのかも知れない。もう一つは第10代垂仁天皇の皇子が成人しても口がきけなかったこと。それらを朝廷では出雲神の祟りと考えて使者を遣わして許しを乞うた。 思い起こしてほしい。大黒天は元々ヒンズー教の暗黒神。破壊の神だった。自分を裏切ったヤマトを恨み、神意を示したのだ。その猛威にヤマトは驚き、他に類例がない巨大な神殿を出雲に建立した。それも数度に渡ってだ。そして朝廷から勅使が遣わされる有数の大社となった。それでようやく大国主命の「荒御霊」(あらみたま)が鎮まったのだろう。 上右図は有名な京都祇園祭の山鉾である。これは平安時代の貞観年間に京都で疫病が蔓延し、多くの死者が出たため犠牲者の霊を祀るために始まったとされる。祭りを主催する八坂神社(祇園社)の祭神が牛頭天王。山鉾もこの牛頭天王もヒンズー教縁のもの。そして牛頭天王は神仏混交でスサノオノミコトとの関係が取り沙汰されている。 ここでも疫病、出雲の祟りが登場する。出雲は神が集まり、先進地区との交流で疫病も入って来た。また凄まじい出雲神のパワーは、怖い疫病すら鎮めると信じられた。そしてヤマト政権が出雲に大きな神殿を建てて敬うと、疫病はようやく退散したのだ。こうして大国主命そして出雲神の持つ温和さと凶暴性の両面が国全体に再認識されて行ったのだろう。 因幡の白兎 話の続きはまだあるのだが、先を急ごう。「島根県立古代出雲歴史博物館」を去るに際して、売店で一冊の本を買った。冒頭のものだ。その後北島国造家を訪ね、出雲市駅から第2日目の宿泊地である松江にJRで向かった。ところがこの本が面白過ぎて、何と気づいた時は「東松江」だった。てっきりその次が松江駅だと思っていたのだが、いつになっても松江駅のコールはなく慌てて途中駅で降り松江に帰って来た。 ヤマタノオロチ この本は旅から帰宅後の今も読み続けている。出雲王国とヤマト王権との関係など、著者の長年の研究に基づく知見が方々に散りばめられ、実に読み応えがあって面白い。古代史や考古学の学者ではない市井の市民が、よくもこれだけ丹念に「証拠集め」をしたものだ。必要があれば、この続きを改めて書くことにしたい。それにしても古代出雲は謎だらけで面白い。しかし真実の日本史とは何なのだろう。<続く>
2020.08.22
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~出雲神話を考える~ 出雲国風土記 元明天皇によって編纂を命じられた記紀(古事記と日本書紀)だが、その一環として各国に対して「風土記」の提出が命じられた。出雲国においては出雲国造広島が監修に携わり、和銅6年(713年)~天平5年(733年)の20年間をかけて上下2冊にまとめられて提出された。他国の風土記に対して数倍の詳細さであり、記紀にはない出雲独自の神話が豊富に収載されている。以下に私見などを述べたい。 根堅洲国(あの世)に須佐之男命(スサノオノミコト)を訪ねた大国主命はスサノオから色んな試練を受ける。その苦難を救ったのがスサノオの娘であるスセリビメ(上)。姫が大国主の正妻となる。さてスサオノオは天津神の代表格で、一方の大国主命は在来の国津神の代表。ところが記紀ではオオクニヌシをスサオノの6世の孫としたり、7世の孫とする説がある。日本書紀では息子との説もある。 国津神が天津神の子である訳がない。また6世や7世の孫が、6世代前7世代も前の女性と結婚出来るわけがない。天皇家と在来の出雲族を無理に関係づけた矛盾が出たのだろう。 次に大国主命の2人の妃を紹介しよう。左はヤガミヒメ。出雲の隣国因幡国(鳥取県)八上郡の豪族の娘で美女の誉れが高かった。因幡の白兎伝説では、6人もの兄がウサギに悪いことを教えて通り過ぎた。大国主命は怪我をした白兎に治療法を教えたため、白兎が知恵を授けてたためにヤガミヒメを得ることが出来た。 右はヌナカワヒメで、越後国(新潟県)糸魚川市の豪族の娘のようだ。糸魚川を流れる姫川は古代から翡翠の産地として有名。当然この地の豪族は勢力を誇っていたことだろう。ここの翡翠は三内丸山遺跡(青森県)や遠く沖縄本島にまで届いていた。彼女も大国主命の妃となる。つまりどちらも出雲との交流の証であり、日本海を通じて協力関係があった証と私は考えている。 「国引き伝説」の解釈 出雲神話の代表格が「国引き伝説」。高い山から眺めて出雲の国土の狭さを嘆いた神が、朝鮮半島、能登半島、隠岐の島などから余った土地を出雲に引っ張って来たと言うとんでもない内容。それを博物館では出雲とそれらの地との交流があった証と考える。まあ先の妃を娶(めと)る話とも通じて妥当な線だ。朝鮮半島はやはり製鉄の先進地だったため。当然九州北部との宗像氏(海部族)との交流も欠かせない。 島根半島 さて上の地図は島根半島を含む出雲地方。こうして見ると島根半島が元々「島」だったことが分かる。半島右手下の薄い緑色は砂州が伸びて弓ヶ浜になった証拠。半島左手下の薄い緑色の部分は斐伊川と神戸川の土砂の堆積で平野になったことが良く分かる。地図の薄い緑色はそうした土砂の堆積によって「拡張」された部分。古代の人々が国土が広がったと感じたことが頷ける事実だ。 出雲大社がある半島左端の付け根は、沖積平野で地盤は軟弱だったはず。出雲大社の古称は杵築大社。これは神社を建てるために先ず境内を杵(きね)で搗き固めた証とも言える。 次に紹介するのが神話三人男。左端の素戔嗚尊(須佐之男命=すさのおのみこと)は、天照大神と月読大神の弟。天孫族だが地上の国への派遣を前に高天原の姉天照大神に挨拶に行くが、馬の皮を剥いで家に投げ込んだり、大事な田に糞をしたりと大暴れ。根の国に母イザナミノミコトを訪ねた後、出雲の斐伊川上流の八岐大蛇を征伐して、その尾から草薙剣を得た・ 中央は日本武尊。第12代景行天皇の皇子とされるが兄弟の中で一番の暴れ者だったため、九州の熊襲征伐や東国の蝦夷征伐を父から命じられる。熱田神宮にいた叔母から預かった草薙剣で東国の賊を討ち果たした。別名倭建(ヤマトタケル)が出雲建(イズモタケル)を倒したとの説もある。東国からの帰路、伊吹山付近で倒れ、魂が白鳥になって大和に帰ったとの神話が残る。 右端が大国主命。温和な彼は剣を持たない。しかし天孫族に葦原中国(あしはらなかつきに)を国譲りする。やはり出雲一国を譲ったのではなく、古代日本日本全体を譲り、その代わりに出雲に立派な神殿を建てることを所望する。幾つもの別名があり、和御霊(にぎみたま)と荒御霊(あらみたま)の両面を持つ。ヤマト朝廷にとっては「出雲の祟る神」としてとても厄介な存在だった。それについては次回に述べたい。<続く>
2020.08.21
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~マックス爺の小さな失敗~ ヘチマの花 「俺はバイデン派だ」。男が言った。「アメリカの大統領選ですか」。黒犬が聞いた。いやそうじゃないよマックス。わが家は屋根の上でソーラー発電をしてる。その電気を電力会社に売ってるってわけさ。「ああ。その売電」ですか。ああ、今年の夏は太陽がギラギラ。だから売電量が凄いぞ。で大統領選は、ご主人様。ああ今後のカード次第だねえ。戦う相手がトランプだけに。あちゃ~。 シュウメイギクのつぼみ ある日のことだマックス。今度は何の話です、ご主人様。うん台所の隅のコーナーで、俺はある袋を手にした。ところが透明な袋の中が鮮やかなグリーンに変わっていた。んんん。元々何が入ってたんですかその袋には。ああパンだよマックス。ところがそれが鮮やかな緑一色。どうしたんでしょうね。ご主人様。ああ暫く俺が放置してるうちに、すっかりカビだらけになったんだなあ。あちゃ~。 別の日のお昼ごろ。俺はラーメンを食おうとして台所で準備していた。それで? まあ焦るなマックス。一方の鍋ではラーメンを茹で、もう一方の小鍋ではスープを煮立てていた。ところが、そのスープを丼に移す時に気づいた。何にですご主人様。ああ、甘酸っぱい匂いがしたんだよなあ。ラーメンのスープがですか。ああ。良く見たらそれは冷やし中華のスープだったんだよ。あちゃ~。またやりましたね。 ツルムラサキ 今度は飛び切りの話だぞマックス。また失敗談ですか、ご主人様の。ある日兄嫁が訪ねて来て俺に言った。なぜ先日は来なかったのかとな。それで俺は何のことかと義姉に尋ねた。そしたら死んだ兄貴の四十九日だったのさ。お坊さんに来てもらってお経を上げ、墓に遺骨を納骨したんだなあ。それでご主人様はなぜ?うん。通夜の席でもらった「メモ」には「七七忌」と書かれていた。 クチナシ 49と77じゃ違いますよねえ、ご主人様。ああ俺もそう考えていたんだが。何か違ったんですか。うむ7と7を掛けるとどうなるかな。七七シジュウク。あっ、49日ってこと?そうなんだなあ。それに気づかなかった。ちゃんと49日と書いてあれば分かったのになあ。経験不足でしたねご主人様。まあそう言うこった。転勤族の俺はずっと仙台を留守にし、法事は全部兄嫁任せだったからなあ。あちゃ~。 おはぎ それでも俺はちゃんと済ませた。何をですご主人様。ああ墓参りと新盆の兄宅へお線香を上げにな。良かったですねえ。で今度は何か失敗は。そんなことないさマックス。仏壇に供えるクッキーと、和菓子屋でおはぎを買ってね。おはぎって?ああ餡子と、「ずんだ」と胡麻の3種類あってね。それを兄嫁と一緒に食べ、暑い中自転車に乗って家に帰って来たさ。 ヤブラン 毎日暑いなあマックス。ボクは墓の中ですから涼しいですが。ああお前は良いけど、生きてる俺はとても辛い。それにコロナ自粛もあるしなあ。あんまり暑いため庭の雑草は伸び放題。せめて水やりしようと、朝夕ホースで庭と畑に水を撒いてるぞ。そして熱中症にならないよう、ちゃんと扇風機もクーラーも点けている。ところがある朝カーテンを開けたら様子がおかしい。 万願寺唐辛子の花 何がです、ご主人様。ああ。窓が開いて網戸になっていた。と言うことは? ああ。網戸のままでクーラーをかけていたと言う訳さ。何と勿体ない。うん。たまにはそんなこともあるが、まだ俺は立派に生きているぞマックス。心配ですねえご主人様は。その齢で独り暮らし、それに失敗ばかりじゃねえ。ああ。俺も嫁さんが欲しいんだがなあ。誰が良い人いないかなあ、ご主人様と一緒に暮らしてくれる。死んでから9年になるお前にそんな心配をさせてスマンなあマックス。しっかりしてくださいよご主人様。
2020.08.20
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~伝承と記録~ 常設展示の中に興味深いものがあった。三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)だ。青銅製で島根県雲南市の神原神社古墳出土で3世紀のものとある。そして、説明板の冒頭には「卑弥呼の鏡」かとかなり思い切った言葉がある。「三角縁」とは鏡のへりの断面が三角形に見えることから。また「神獣」とは鏡の裏面に怪獣や中国の仙人と見える文様が刻まれていることからの命名だ。 卑弥呼の名が唯一文献に現れるのがご存知「三国志」の中の「魏志倭人伝」だ。これによれば倭の邪馬台国の女王である卑弥呼が景初3年(239年)に魏の皇帝に使いを送ったことが記されている。それに対して魏の皇帝は「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚を贈ったと書かれている。さらには倭国までの行程と方向が細かく記されている。それに基づいて「邪馬台国」が果たしてどこか、古くから論じられて来た。 解決策の第一は「親魏倭王の金印の発見場所だが、次の鍵が「三角縁神獣鏡」の存在場所。鏡に制作年が刻まれていたら別だが、青銅の合金の比率や文様が魏のものであることの証とされている。最近では日本国内で製造されたと思われる鏡の存在や、三角縁神獣鏡が100枚以上国内で発見されているとの説もある。そして「景初」の年号入りの銅鏡も発見されたと言われるが、邪馬台国論争は今なお続いている。 次に島根県奥出雲町常楽寺古墳から出土した埴輪を紹介したい。3体の埴輪は「個性豊かな出雲の埴輪」とある。6世紀のものなので、古墳時代の後期に入る頃か。 その埴輪を初めて作ったのが出雲族の野見宿祢(のみのすくね)と言われている。彼は垂仁天皇の命によって大和国葛城の豪族であった当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲を取って勝ち、葛城の土地を与えられた。かつて貴人が崩じた際は、部下が殉死するのが通例だった.天皇から陵墓の管理を任された野見宿祢がそれを悼み、殉死者の代わりとして埴輪を古墳に立てた。 そのことがあってか、彼は土器を制作する土師(はじ)氏の祖とされる。また出身の出雲にあっては、国造に任じられたとも伝わる。そんな経緯があるためか、出雲大社の境内に「野見宿祢神社」(上)と言う小さな神社があり、付近には土俵が設けられている。今も神事として神前で相撲を取っているのだろう。 日本最古の歴史書である「古事記」を編纂したのが太安万侶(おおのやすまろ=左)であることは誰でも知っておろう。彼は第43代元明天皇(女帝)に命じられて古事記の編纂に取り掛かった。神代(神話の時代)から推古天皇の御代までを上中下の3巻にまとめ、和銅5年(712年)に完成し、元明天皇に献上した。右は彼の墓。私は偶然にもこの墓に詣でている。 太安万侶の名が刻まれた銅板(墓誌銘) 通常天皇は別として貴族の墓が明らかになることはない。ところが奈良市郊外にある彼の墓が発見されたのは偶然のこと。農家の人が茶畑を開墾中に横穴に遭遇。発掘調査の結果、大量の炭に覆われた墓と、その中から銅製の「墓誌名」が出たことによる。私は全国47都道府県を走破したが、最後の県が奈良。近鉄奈良駅のロッカーに荷物を入れ、リュックを背負い奈良市の周囲をぐるりと一周。その50kmの旅の途中で太安万侶の墓の標識を見つけて立ち寄った次第。考古学ファンには思わぬプレゼントだった。 稗田野神社(京都府亀岡市) 太安万侶が古事記を編纂するに当たって重要な役割を果たした人物が稗田阿礼(ひえだのあれ)。彼は記憶力抜群の男として有名だったようだ。元明天皇が太安万侶に編纂を命じるに際して、「稗田のあれ」を呼べと命じた。全国から届いた「風土記」を彼に暗記させ、それを太安万侶の前で暗唱させた由。稗田出身の男には名前がなかった。それで「稗田のあれ」が「稗田阿礼」になった由。まるで笑い話ではないか。 古事記伝 私はこの稗田阿礼にも、ちょっとした因縁話がある。大阪勤務当時私が住んでいたのが大阪府高槻市。そこからマラソン会場の兵庫県篠山市まで自転車で何度か行った。往復100kmだが、私にはちょうど良いトレーニング。高槻市から峠を越えると京都府の亀岡市に出る。そこから「湯の花温泉」を経由して篠山市に向かう途中にあるのが「稗田野神社」(上)。 名前からひょっとして稗田阿礼と関係あるかもと思っていたのだが、この文章を書くためネットで検索し、ここが彼の生誕地だと知った。古事記の編纂者である太安万侶と、その彼に日本各地の神話や歴史を読み聞かせた稗田阿礼。その2人に関係する場所をこの目で確認した私は、物凄い幸運の持ち主なのかも知れない。これもランニングや自転車で遊んでいたお陰。偶然にしても恐ろしいものだ。<続く>
2020.08.19
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~王から地方の豪族へ~ こんな絵があった。「領地」を見回る王のようだ。昨日の騎馬像とはかなり様子が異なるのが馬の体格。ずっと低くて小型だったことが分かる。なぜあんな大きな騎馬像を作ったのかが疑問だ。 そしてこちらは王とその馬を飾る装飾品と馬具の名称。照明と影が映り込んで見難いが、お許しあれ。 上は轡(くつわ)などの馬具。下は鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)で座位を固定するもの。その下は鉄剣。 騎馬像の王とは異なる冠と装身具 王冠の形もそうだが、太刀の形も出雲の東部と西部とではかなり異なっていたようだ。それはそれぞれが同盟を結んでいたヤマト王権の中央豪族が違っていたことの証とある。騎馬像の王は出雲西部の出雲市上塩冶築山古墳の主だったから、上の王冠を被った王は出雲東部の王と言うことになろう。展示されていた太刀を以下に載せる。大部分は西部の出雲市上塩冶築山古墳出土品だと思われるが、詳細は不明。 これは確か古墳の持ち主が明治時代に石室を開けて取り出したとあったので、西部出雲市の上塩冶築山古墳出土品だろう。それにしても見事な造りだ。 遠目にはいわゆる「環頭太刀」のように見えたのだが。 これも環頭太刀の仲間なのかも知れない。それにしても素晴らしい装飾性だ。古墳の持ち主が明治期に石室を開けて取り出し、剣を破壊したり研磨したりしているのが残念。西の出雲市西塩冶築山古墳出土品。 この太刀も破壊されている。 この太刀も鉄剣だが、他のものとは束頭(つかがしら)の形と装飾が異なる。 装飾付太刀各種 <参考>東北の蝦夷や東国の豪族が使用していた蕨手刀(わらびてとう)。剛直で装飾性は極めて低い。 さて、7世紀中ごろに律令国家の政権が誕生すると、権威の象徴でもあった装飾付太刀は不要になって行った由。 奈良県明日香村高松塚古墳東壁に描かれた男子群像のイメージ。彼らはもう王冠を被らず、規則に従って位に応じた帽子を被り、ベルトも簡素で太刀も佩(お)びていない。平和な時代の貴人に太刀は不要になったのだろう。こうして天皇制が定まって安定した律令国家になると、国は武力ではなく法で動くようになる。<続く>
2020.08.18
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~米作と権力者の出現 ムラからクニへ~ インディカ(長粒米=左)とジャポニカ(短粒米) かつて縄文時代に米作はないとされたが、いまでは陸稲の栽培が認められている。また水稲の朝鮮半島経由説も消えた。1973年揚子江下流の河姆渡遺跡からジャポニカ種の米が発掘され、我が国の種とDNAが一致することが判明。これで北部九州か山口周辺に大陸から直接渡ったと考えられたのだ。 吉野ケ里遺跡 私が小学生のころに習った弥生時代の遺跡の代表格が静岡の登呂遺跡。これは水田遺跡だった。ところが佐賀県の吉野ケ里遺跡の発見が弥生時代のイメージを大きく変えることになった。2重の環濠で囲まれた集落には、楼閣を思わせる高い建物が複数あったし、環濠に沿って丸太の柵が張り巡らされていた。水田による稲作が強大な権力者を誕生させ、ムラがやがてクニへと発展する基礎ともなった。 <小さな名札を手掛かりに=古代出雲歴史博物館の展示物から> とてもみすぼらしい出土品が常設展示にあった。撮影したのは全くの偶然。たまたま説明板を撮影していたことが役立った。出雲市青木遺跡からの出土で奈良~平安時代(8~9世紀)とあった。このブログを書くに際してネットで同遺跡を検索した。その結果古墳時代から江戸時代にかけての複合遺跡であることが分かった。古墳は出雲特有の四隅突出墓。道路工事中の発見のようだ。 改めて出土品を見直すと、円面硯(えんめんけん)、下駄、刀子などがある。円面硯は字を書くため、墨を擦るための道具。下駄は履物。刀子(とうす)は木を削るための道具。当時は紙が貴重なため、木簡(もっかん=木製の名札)に字を書いた。その字を間違えた際は木を削って、その上に書いた。今ならさしずめ「消しゴム」のような役目だ。 硯やベルトの金具が出土してるのを見ると郡衙(郡の建物)が置かれ役人が勤務したのだろう。出雲国府や出雲国分寺、国分尼寺は松江市付近にあるため、郡の建物ではないかと考えたのだ。土の表面は現代の物。下に行くに従って古い時代の遺跡となる。古墳時代から江戸時代までこの地に人が住んでいた。だが道路工事のため簡単な埋蔵文化財調査で終わってしまう。古墳も破壊されたはずだ。もっと掘り下げたら縄文時代の遺跡すら出る可能性があるのだが。 出雲市上塩冶築山古墳から出た遺物から復元した6世紀後半の大首長とのこと。王冠、装飾太刀、馬具などの華美さからヤマト王権から与えられたものだとのこと。西出雲地方で最も権威があった豪族のようだ。この古墳は個人の所有で、明治20年に所有者が石室を開けて中の遺物を取り出した由。幸いにも215点のほとんどが公的機関で保管され、国の重要文化財に指定。遺跡も国の史跡となった。 だが、あまりにも立派な騎馬像に私は驚いた。違和感を抱いたのは馬があまりにも大き過ぎるためだ。古代の馬は体高110cmから120cmしかないのだが、これじゃまるで競馬用のサラブレッド。きっと復元する際にそこまで考えが及ばなかったのだろう。私は日本馬の古来種を3種ほど知っていた。沖縄与那国島の与那国馬。長崎県対馬の対州(たいしゅう)馬。そして愛媛県今治市の野間(のま)馬。 小さな野間馬 私が住む仙台市の動物園には対州馬が飼われていて、実際に見た。与那国島へは行ったことがないが、沖縄には3年間勤務し名前だけは知っていた。愛媛県にも3年間勤務し、その野生馬の飼育牧場の傍を通り、名前を知っていた。わが国に大型馬がもたらされたのは平安末期。多分十三湊(青森)の安東氏が大陸と交易した結果だろう。奥州の馬産地としての評判が上がるのはそれ以降だ。<続く>
2020.08.17
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<出雲の歴史概観> 余計なお世話だが日本の歴史は 〇旧石器時代(人類が日本列島に移住して以来約16500年前まで)〇縄文時代(概ね16000年前~3000年前まで) 〇弥生時代(紀元前4世紀~紀元3世紀中ごろまで) 〇古墳時代(3世紀半ば~7世紀ころまで) 〇飛鳥時代(592~710年) 〇奈良時代(710~794年) 〇平安時代(794~1185年)のように区分され、以下鎌倉、南北朝、室町、安土桃山、江戸と続く。これに従って出雲地方の遺跡を見ようと思う。 砂原遺跡出土の旧石器 出雲市の砂原遺跡で発掘された旧石器。同志社大学が発掘調査し、国内最古の旧石器関係遺跡で12万年前のものとされるが、年代には異論もあるようだ。この博物館での展示はなく、たまたまネット検索中に遺跡の存在を知り、写真もネットから借りた。 同館には縄文時代の資料もなかった。たまたま開催中の企画展の中に縄文時代の土偶と思われるものを発見したが撮影禁止。そこで覚えていたイメージに合う画像をネットで探したのが上の写真。正座する土偶とは珍しい。年代は縄文に違いないと考えて載せたが、もし撮影が許可されていたらどれだけ反響が大きかったかと思う。 弥生時代の資料はこのブログでもたくさん載せた。あの圧倒的な量の銅剣銅矛が埋納されていた荒神谷遺跡は弥生前期の遺跡。そして国内で最大数の銅鐸が埋納されていた加茂岩倉遺跡は弥生中期から後期にかけての遺跡だった。直線距離で3.4kmほど離れた2つの遺跡から出土した銅鐸の上部にはなぜか×印が刻まれていた。(上の写真の円内)。これも新たな謎。2つの遺跡の謎はまだほとんどが解明されていない。今後の研究が待たれる所以だ。 鳥取県米子市穐吉角田遺跡出土の高楼と船が描かれた弥生式土器。制作年代は1世紀。 肩の部分に壺や動物が飾られた壺。松江市増福寺20号墳の「出雲型子持壺」と言うらしい。古墳時代の5世紀のもののよう。「子持勾玉」もあったが壺までが「子持」とは出雲は別格だ。こんな風に説明板を撮らないと後で調べる手立てがなくなり、説明不足のブログとなる。これはたまたま撮っていたが、探すのが大変だった。これからもきっと試行錯誤が続くことだろう。<続く>
2020.08.16
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~舞台裏の話~ この博物館は異例づくめだった。観覧の順路はちゃんと表示されていたのか。歴史に関する博物館であれば年代順に展示するのが普通。それがいきなり大量の銅剣、銅矛、銅鐸が目の前にどど~んと現れた。私が古代出雲に対して抱いていた謎を解く糸口は見つからず、これまでの話は私が知ってることを中心に書き、写真もネットから借用するなどして組み立てた。今日は苦労しっ放しの舞台裏を見せよう。 銅ゆう鐘(左)と銅鏃(右) これらがあるコーナーへ来て、違和感がさらに募った。一見してそれらが古代中国の青銅器であることが分かった。台北の故宮博物館(台湾)や旅順博物館(中国)で、数多くの青銅器を見ていたからだ。小さな説明板を撮影していたお陰で、時代と名前が分かった。だが一般の入館者は疑問すら抱かないだろう。後でようやく展示の意図は分かったが、それにしても不可解だ。 有蓋鼎(真ん中)など 時代区分を明確にし、展示物が何であるかを客観的に示す必要があるはず。それが公立博物館の最低の仕事だ。まして「古代出雲歴史博物館」を標榜するなら、「古代出雲王国」の謎が解けるものでなければ。私はかつて素人ながらも考古学、古代史、人類学、文化人類学、神話学、民俗学、言語学などの専門書を読んだ「貯え」があったから何とか少しずつ謎解きが出来たが、もしそうでなかったらどうだったか。 以下は青銅製の鏡です。 それにしても不親切な展示だ。展示物の「名札」が小さく、説明も少ない。これでは自分の「霊感」に頼るしかないではないか。故宮博物館や旅順博物館はもっと分かりやすい展示だった。国内でも国立や県立博物館をかなり見たが、こんな「不思議な国のアリス」のように迷ったのは初めて。交通の便も悪いし、昨年ツアーで訪ねた出雲大社でも不愉快な思いをした。今年もその思いは同じだった。 撮影した写真を整理しながら私は戸惑い、「仮A」、「仮B」とかと便宜的な名前をつけながら前進した。形を見ればそれが何かは大体分かる。だが考古学資料に「大体」はない。だから「仮」なのだ。また展示全体の構成が不明のためそれらの明確な位置づけが出来ず、直感に頼ったのも事実。 ようやくこの写真を見つけた。「東アジアの青銅器文化と日本の青銅器」。つまりこの図では、古代中国の青銅器文化が、その後朝鮮半島と日本ではどう変化したかを示したかったのだろう。それにしても不親切。誰にでも理解出来る説明をもっと目立つよう、もっと以前に行うのは不可能だったのか。最初の古代中国の青銅器も小さな「説明板」を、たまたま私は撮影していたため、帰宅後こうして名前、用途、時代が分かった。普通の人はそこまではしないし、何が何だか分からないままに帰ってしまうだろう。 名前が不明だが、これも古代中国特有の意匠で貴重な資料だと感じた。他の青銅器もそうだが、古代中国の青銅器がなぜこの館にあるのか。島根県内の遺跡から出土した訳がない。そして購入も出来ない物のはずで、それをわざわざ展示する理由と経緯が不明だ。 最後に偶然見つけたのが、この小さな説明文。私は4時間かかって展示物を観、丁寧に写真を撮った。だから自分なりに理解し、ブログも書けた。この説明文によれば、結局古代出雲の、銅剣、銅矛、銅鐸は祭器としての位置づけが強い由。もっと早い段階でこの「説明」を入館者に出来なかったのか。博物館では分かりやすい展示と説明が何より大切。「驚かす」のは邪道。それが私の結論だ。勝手な感想だが、舞台裏の苦労が少しでもご理解いただけたら嬉しい。<続く>
2020.08.15
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~出雲の旅で食べたのは~ 古代出雲への旅のシリーズは学術的な内容で、どうしても堅い文章になりがちです。そのため、5回に1回の頻度で休憩を取り、少しリラックスしていただこうと考えました。今回は出雲への旅でわたしが食べた(飲んだ)ものの話です。なお上の写真は、初日に泊った玉造温泉の川べりにあった造形を挿絵代わりに入れたものです。どちらも大国主命にまつわるお話のようです。 初日の宿の夕食です。見かけは悪くないのですが、内容はさっぱりでした。焼き魚として「ハタハタ」が出ました。仲居さんに「ここで獲れたの」と聞くと返事がありません。ハタハタは同じ日本海でも北の山形や秋田で獲れる魚。しかも漁期は冬です。雷が鳴る頃に産卵のために海岸に近づいて来るのを獲るのです。長期間冷凍してたのか、脂が酸化して味が変でした。その代わり日本酒は出雲大社のお神酒で、とても美味しかったです。 旅の2日目。玉造温泉のホテルの朝食は最低。ほとんどが佃煮で、写真を撮る気も起きませんでした。昼食は4時間も観覧した「島根県立古代出雲歴史博物館」のレストランで。あまりにも空腹だったため美味しそうに見えたポスターの「火山オムライス」を注文。野菜サラダはほんのちょっぴり。オムライスの中身は梅干し味の「ゆかり」のふりかけご飯。美味しそうに見えたポスターとは全くの別物でした。 2泊目は松江市のシティホテル。夕食がなかったため、駅付近の海鮮居酒屋へ。お通し、モズクの酢の物、脂が乗ったしめサバ、島根牛を軽く炙った握り寿司、地元のさつま揚げである「赤揚げ」。どれも美味しくいただきました。それに地元の吟醸酒を冷で2杯。ご飯を頼んだらどんぶり1杯の大盛りで満腹でしたよ。 旅の最終日。ホテルの朝食はとても心が籠ったもので、バランスの良い内容でした。私は旅行をしても、さほど食事内容には拘らない方ですがこのホテルの朝食が一番安心出来るもので、感謝でした。 最終日の朝の散歩。松江市の大橋川河畔の可愛い造形です。<続く>
2020.08.14
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<出雲の神などについて> 館内の一角に神社の模型が置かれていた。「大社造り」の形から、出雲大社の本殿(国宝)のように見えるが本殿は撮影禁止とされている。が、ネットで画像検索すればちゃんと出て来る。誰かが撮影して投稿したに違いない。この模型の傍にも「撮影禁止」と書かれていたような気もするが、定かではない。それに私は「人間が作ったものに原則忌否はない」と考える。祟りも恐れない方。1) 2) 3) 出雲大社の祭神が大国主命(おおくにぬしのみこと)であることや大黒様と同一視されていることは誰でも知っている。だが大己貴命(おおなむちのみこと)の別名があり、和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)の両面があることや、大黒天が元々ヒンズー教のシヴァ神の一面としてのマハーカーラ(暗黒神・大黒神・破壊の神(3)だったことを知る人は少ないだろう。 大和国一之宮である大神神社の祭神が大己貴命で大国主命の荒御霊として、藤原京の守護神だった由。だが平城京遷都に伴う移動はなかった。恐らく「祟る」ことへの忌避があたのかも知れない。それにしても本来は出雲の神がなぜ大和国の守り神となったのか。 大国主命の名から思えば、彼が元々この国全体の主だったのではないのか。それがヤマト朝廷に国を譲る羽目になった。そのことへの怨念が残ったとは考えられないか。上の2)は笑顔でない大国主命。彼の知られざる側面だが「だいこく」とも読める大国が「大黒」へと変わり、次第に福の神へと変質して行った。息子の事代主神も同様に「恵比寿様」として福の神に変身して行く。 1) 2) 次に島根県に多い古墳を紹介しよう。1)の四隅突出墓(よすみとっしゅつぼ)はヒトデのように、4つの隅が飛び出して石が葺(ふ)かれ、墳丘上に祭祀のための施設が設けられている。朝鮮半島に起源を持つとされるが、遠くは新潟県までの日本海沿いに分布が見られる。2)は前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)。方墳を2つ重ねた形だ。 写真は岡山市の造山(つくりやま)古墳。墳丘長が360mもある前方後円墳で、全国で第4位の大きさ。旧吉備国(岡山県)ではほかに作山古墳もある。前方後円墳はヤマト朝廷との関係が深い豪族が築いたとされ、その点出雲は特異だ。日本海側では元伊勢と呼ばれる籠神社がある丹後国宮津、継体天皇の出身地である若狭国の敦賀、越後国の最初の開拓者が入った弥彦がヤマト朝廷との関係が深いと考えられる。 気多大社 写真は石川県能登半島の付け根にある気多大社。祭神は出雲大社と同じ大国主命。能登半島には大国主命が町や村を訪ね歩くと言う祭りが今も伝わっている。また海中に鳥居が立つ神社が多く、祭神が海を渡ってこの地に来たことを思い起こさせる。 1) 2) 1)は龍蛇神と呼ばれ、出雲では神々の先導役とされる。捕らえた後出雲大社に奉納される。その実態はエラブウミヘビ。産卵のためインド洋から、黒潮や対馬海流に乗って出雲に到る。沖縄の久高島では古来神の使いとして、久高祝女(のろ)と西銘祝女しか捕らえることが出来なかった。今では燻製にして強壮剤となる。コブラ科で猛毒だが性質は温和。口も小さいため危害は少ない。 2)は「加賀の潜戸」(かがのくけど)と呼ばれる奇勝。石川県から遠く離れた島根に「加賀」の名称があるのは、海を通じての交流があった証拠だろうか。神々が出雲に集まったことも、交流の証ともいえよう。 島根県出雲地方の主要神社。1が出雲大社。 7が北島国造家が祀っていた熊野大社。13が海蛇を捕らえる美保神社。4が日御碕神社。伊勢神宮同様に太陽神である天照大神を祀るが、伊勢は朝日、日御碕神社は夕日が主役だ。 また出雲は「根の国」(黄泉よみ=あの世)とされ、亡くなった妻のイザナミを追って夫のイザナギが訪れた地でもあった。黄泉の入り口のよもつ比良坂(ひらさか)に揖屋(いや)神社があるとされる。<続く>
2020.08.13
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~「北島国造館」を訪ねて~ <北島国造館境内図> しばらく「島根県立古代出雲歴史博物館」の展示物が続いたので、今回は一旦博物館を飛び出して「北島国造館」を訪ねてみたいと思います。博物館は右下方向へ500mほどの箇所に、また出雲大社は左手紫の旗が立っている箇所からが境内になります。つまり北島国造館は出雲大社の直ぐ東側にあり、目の前の道路は「社家通り」と呼ばれています。 北島国造館の正門と門前の表札です。千家国造館と比しても全くそん色がありません。 出雲教本殿と由緒。明治初期、神祇省によってそれまでの「国造」を廃されたことを契機に、出雲大社の本来の教えに立ち帰って「出雲教」を興したとあります。千家家はこれまで通り出雲大社の神事を司り、「出雲大社教」を名乗って共に神社庁から独立した宗教法人となりました。 境内の要所には摂社に通じる威厳ある門が設置されています。 境内の奥まった一角に鎮座する摂社 思いがけず境内の一角から滝の音が聞こえて来ました。名称は「亀の尾の瀧」。水源は熊野(よしの)川です。北島国造家が当初祀った神社が出雲東部の熊野大社。当時は杵築大社(後の出雲大社)よりも社格は上だった由。また神武天皇を案内したとされる紀伊半島の熊野本宮大社との関連をも、なぜか考えさせられるのです。 滝の名に因む親子の亀の石像。 天神社 天神社の左手に亀の尾の瀧が見えます。 北島国造館の境内に天神社があることに奇異な感を受けますが、菅原道真公が太宰府に左遷されて非業の最後を遂げたことを思うと納得が行きます。かつての北島国造家には、古代出雲の神宝をヤマト朝廷の遣いに騙し取られ、納得の行かない「国譲り」をしたことに対する恨み言が子々孫々口伝えにされて来たと言われます。 また高さ48mにもなる巨大な神殿は、大国主命が国譲りをした代償として造営を要求したとされています。そしてその巨大な本殿の造営が少なくとも鎌倉時代まで続いた(その柱材が地中に埋まっていたことで証明出来る)理由は、出雲に対して朝廷が何か「疚(やま)しさ」を感じ、出雲を怖いと感じていたことの証でしょう。あの大量の銅剣、銅矛、銅鐸の埋納とも関係しているのか、謎が謎を生みます。 出雲大社及び北島国造家所領地古図 千家家のみならず、北島国造家にまでこれほど手厚い処遇があった背景に何があったのでしょう。古代出雲の謎は尽きません。<続く>
2020.08.12
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~2つの遺跡・銅剣、銅矛、銅鐸大量埋納の謎~ 正座する土偶 今回も古代史や考古学に関心がない方にとっては退屈な話になるはず。だがに関心があるに方には、「よだれ」が垂れそうな話なのである。ただ必死で撮った私の写真は、話を書くために都合良く並んでいない。展示品が多いために片っ端からシャッターを切ることになり、写真の前後関係が分からなくなったり、何の写真か不明なのもままある。だから文を書くためには、そのジグゾーパズルを解くことから始まる。 昭和59年(1984年)島根県斐川町(当時)の山中で農道工事中の工夫が地中に文化財があることに気づき、急いで発掘調査が行われた。山の斜面にはおびただしい数の銅剣が埋蔵されていた、こんなことはこれまで国内にはなかった。整然と4列に並べられた青銅の剣。発掘に携わった職員は、一本ずつ丁寧に取り上げ、ガーゼに包んで運び出した。後に荒神谷遺跡と名付けられ国の史跡ともなった。 実際の埋蔵状態。385本の青銅製の剣が4列になって、整然と並んで埋納されていた。出雲地区の式内社(延喜式に記された古社)は385と言われるがこれは偶然か、それともたまたまなのか。 1年後遺跡の7m傍から16振りの銅矛(どうほこ)と6個の銅鐸が発掘されている。一か所から16振りの銅矛の出土は日本一。これらの鉾は全てが国宝に指定された。それほど貴重な存在だったのだ。 整備の上同博物館に陳列された銅剣と銅矛。下部の陳列品は出土した本物。上段4列の光る銅剣類は銅、錫(すず)、鉛の合金である青銅を新たに鋳造して製作した模造品。これでもまだ全体ではない。 神に祈って大量の銅剣を地中に埋納する古代の出雲族。(想像図) 驚くのは早かった。平成5年(1996年)加茂町(当時)の山中で農道を工事中の業者が地中に何かが埋まっているのに気付いた。それで慌てて工事を止めて町役場に連絡。驚くべきことに地中には39個の銅鐸が埋納されていた。一か所の数としてはこれまた国内最高で、中には「入れ子」(銅鐸の中に小型の銅鐸が重なって入ってる状態=上の写真にもある。これらの銅鐸も国宝となり、ここ加茂岩倉遺跡も国の史跡に指定された。 荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の位置関係は上図のとおり。2つの遺跡は山の隣り合わせにあり、この間の直線距離は3.4から3.8km程度。古代豪族の吉備氏が支配した吉備国(現在の岡山県)は地図の下方(南方)にあり、古代出雲は天皇の命を受けた吉備氏などによって神宝を奪われ、権力と権威の失墜につながったとの見方がある。しかし神器でも祭器でもあった銅剣、銅矛、銅鐸が人知れぬ山中になぜ大量に埋められ、長い間発見出来なかったのかが不明。古代出雲最大の謎であろうか。<続く>
2020.08.11
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<常設展2 出雲大社のことなど> 境内から発掘された巨大な柱根などを根拠にして、5人の建築史研究者が推定した古代から中世にかけての出雲大社本殿として考えられる建築物の模型。 上の模型の裏側を、小窓越しに撮影したもの。物好きではあるが、裏面の理解には持って来いだ。 現在の出雲大社本殿(国宝指定)で、高さは鎌倉時代の建造に比べて約半分の24m。建築されたのは江戸中期の延享元年(1744年)ですが、「大社造り」と呼ばれるわが国最古の神社建築様式を保っています。 現在の本殿の一代前の本殿にあった千木と鰹木。千木の手前の物と鰹木は実際に使われた物で、千木の奥の分は模造物です。 左図は本物の部材(赤)と模造部分(茶)の識別。右図は千木と鰹木の位置関係を示した図です。 出雲大社神紋 出雲大社の神紋は「亀甲花剣菱紋」です。一説によれば、剣は草なぎの剣、花は勾玉を、そして中心の「円」は鏡を表すと言われています。天皇家の三種の神器に似ています。出雲の大事な神器を天皇家の遣いに奪われたと言う言い伝えが密かに残されていると言います。元々「草なぎの剣」はヤマタノオロチの尾から出たもの。出雲の有名な神話の一つです。 <千家国造館> <北島国造館> 出雲には2人の国造(こくぞう、くにのみやつこ)がいました。現在の県知事に相当します。2人になったのは南北朝時代と言われますが、第10代天皇が、東出雲で熊野大社を祀っていた出雲氏(出雲臣)に出雲大社の神職となることを命じたのが最初との説があります。それまでの出雲大社の名称は「杵築(きずき)大社」でした。2人の国造が交互に神職を務めていたのが、明治初期に神祇省に「国造」の名称を廃され、千家家のみが神職に就いて今日に至りました。 <千家國麿氏と高円宮典子さまの結婚式> 平成26年=2014年 それ以降、千家国造家は「出雲大社教」を、そして北島国造家は「出雲教」を別々に主宰しています。さて千家家の当主國麿氏と高円宮家の王女典子さまが平成26年に結婚されました。古代の国譲り伝説、「神宝強奪事件」、神紋の謎、祝詞(のりと)に秘められた古代の怨念など出雲と王朝にまつわる逸話には事欠かない状況下での婚姻は驚きとも言えます。 なお、北島国造館で結婚式を挙げた組は離婚が少ないとか。何だかビックリものの話ですね。<続く>
2020.08.10
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「島根県立古代歴史博物館常設展」(1)~出雲大社関係その1~ <出雲大社境内図>この地図の左欄外上方に千家国造家が、右欄外上方に北島国造家があります。 さて今回から「島根県立古代出雲歴史博物館」の常設展示を紹介します。第1回目の今日はやはり出雲大社ですね。出雲大社は上図のようにかなり広大な境内を有しており、ここに納まり切れません。神さびた背後の山が本来の社。そして左側(西側)には神々が到来する稲佐(いなさ)の浜があり、本来はその浜辺から長く高い階段を上って本殿に詣でたようです。 これが稲佐の浜から続く出雲大社の階段の模型。右側には階段を上り下りする神職の姿が豆粒のように見えます。「口遊」(くちずさみ)には「雲太和二京三」の伝承がありました。日本の建物では出雲大社の本殿が一番大きくて、二番目が大和の東大寺大仏殿、三番目が京の大極殿と言う意味。1位が坂東太郎(利根川)、2位筑紫次郎(筑後川)そして3位が四国三郎(吉野川)と似たような発想です。 長らくこの伝承への疑念が続きました。ところがそれが真実だったことが分かるのです。平成12~13年(2001~2002年)境内での工事中に地中から太い柱3本が銅の輪で括られた状態で出土したのです。直系1.35mもあり、巫女さんと比較すれば分かります。測定の結果素材は杉の丸太で建築年代は鎌倉時代1248年と判明。以下の図のような形に組まれていたことが分かります。 中心にあるのが心御柱(しんのみはしら)で、周囲を取り囲んでいるのが宇豆柱(うずばしら)と呼ばれています。祭神である大国主神は心御柱の右上に西を向いて鎮座していると言われています。西すなわち稲佐の浜の方向、全国から神々が集い上陸した地点です。 柱が発掘された境内の位置(右図の赤く囲まれた部分) 地中の柱の状態です。周囲は石で固めて地盤を強化してありました。多分柱の下の基盤は砂と土を突き固める版築(はんちく)と言う古来の土木工法が用いられているはず。縄文時代の三内丸山遺跡(青森)の楼観の基礎も、古墳時代の巨大な古墳も、古代の官衙(かんが=公的な建物)の基礎もみな同じ工法で強度を保ちました。朝鮮半島渡来の高度な技術ですが、縄文時代には既に使用されていたのが不思議です。 柱の下に埋納されていた宝剣(左)勾玉(右)。いずれも大社鎮護のために祈りを込めて捧げたものです。古代、建物を建立する際の習わしでもありました。 宇豆柱(うずばしら) 心御柱も宇豆柱も3本で1セットになるよう銅の金輪(かなわ)で括られ、柱の下部には材木を運ぶための「ほぞ穴」が穿たれていました。恐らくは太い綱で縛って曳いたのでしょう。地下に残存した柱の長さと太さから柱は途中で接がれたと思われます。本殿の高さは16丈(約48m=15階建てビルに相当)とされ、千家家に絵図が伝わっていますが、「口遊」が真実だったことがこれで証明されました。現代科学と考古学の成果です。<続く>
2020.08.09
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<梅雨明け宣言> わが家の紫陽花 旅から帰った途端の梅雨明け宣言となった南東北地方。ついこの間まで梅雨寒で震えていたのがウソのようだ。これはいけない、体が持たないだろう。そう思って掛布団を冬用からタオルケットに変えた。押入れの一番下にあったタオルケットを出すと湿っていて重たい。先ずはこれを干そう。そして布団カバー、シーツ、パジャマ、そして旅行中に溜まった洗濯物を洗濯機に放り込んだ。 キュウリの佃煮 つい先だってまで長雨で腐りかけたわが家の野菜たちが一転して乾燥に苦しむこととなった。キュウリは枯れて葉が黄色くなった。そろそろ第一弾を始末する時だ。ヘボキュウリも全部もぎ、捨てずに料理した。曲がったものは刻んで佃煮に。竹輪やベーコンを刻んで一緒に甘辛く煮た。これが意外に美味しい。もちろん味付けは適当。ゴーヤの収穫が見込めない今年はキュウリが主役だ。 冷やし中華 太くて立派なキュウリは酢の物にし、ほど良い長さの物は、わが家の長ナスと一緒に梅酢に漬けた。トマトは長雨で不作だったが立派な実は食べ尽くし、今は病気になり損ねた残り物を大事に食べている。もちろん麺類はラーメンから冷やし中華に。それも長雨で売れ残っていた値引き品を2袋買った。旅から帰宅して野菜をたくさん食べたせいか、ようやく増えていた体重が落ちて来た。 わが家のカボチャ1号 受粉が成功したのか、カボチャの実が太り出した。続いて2号にも受粉。こちらも成功したみたいで、今はビニールひもで蔓をモミジの樹に縛り付けてある。重さで枝が折れはしないか。そんな心配はないだろうが、カボチャも買えば高いのだ。これはわが家で食べたカボチャの種の3代目。良くもこうしてDNAを残したものだ。 キンシバイ(金枝梅) 帰宅したある朝ランパンランシャツ姿で走りに行った。もう1か月半ほどほとんど運動をせずに家で「コロナ自粛」の日々。おまけに旅先では美味しい日本酒を連日いただき、太って帰って来たのだ。だがゆっくりとでも9kmを走り、たっぷり汗をかいたせいで、たちまち体重は落ちた。家だと野菜類をたくさん食べるせいもある。やはり規則正しい生活と適度な運動が必要だと痛感。 わが家の白いムクゲ 旅から戻った数日後、病院へ行った。いつもの内科で診察を受け薬をもらう日。それに市の健康診断を合わせてもらった。閑散とした院内。ドクターは患者が来なくて、これでは借金が返せないと嘆く。これは個人病院も大学病院も変わらないようだ。コロナ自粛の今は完全に行動が規制され、経済活動までが停まった感がある。出雲に出かけた私などはまだマシな方なのかも知れない。 シコンノボタン(紫紺野牡丹) 続いて翌日は眼科へ。こちらも市の健康診断の一環で、目の動脈硬化を確認するもの。こちらもいつもの半分しか患者がいない。いつもは神経質そうなドクターが、この日はいたって穏やか。内科医からのメモを見て、血圧、血糖値も異常なし。動脈硬化も異常なしとのこと。それは良かったと一安心。この分ならこれからも当分「コロナ」と共存出来そうに思うのだが。 名前不詳の花 旅から帰って一週間後のある日、重たい腰を動かして大掃除をした。化学モップでの拭き掃除と、居間だけは掃除機での清掃。玄関と外階段の掃き掃除。そして自家製梅干しの3度目の天日干し。洗濯物の取り込みと片付け。夕方日が翳ってからは外水道にホースをつないで、庭と畑に散水。これでげんなりした野菜や庭木が生き返ることだろう。 カボチャの雄花 将棋の藤井聡太七段が凄い。「棋聖戦」に勝利してタイトル最年少記録を塗り替えたばかりなのに、「王位」戦にも3連勝してタイトル奪取に王手をかけた。さてわが東北楽天の活躍も嬉しい。首位福岡ソフトバンクホークスを本拠地に迎えての6連戦で2連勝し、とうとう首位に並んだ。打者浅村、投手涌井両ベテランの頑張りに頭が下がる。今日は「出雲旅日記」を一休みさせていただいた。ではまたね。
2020.08.08
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<いざ「古代出雲歴史博物館」へ> 川べりの源泉 7月30日旅の第2日目。4時半には目覚め、5時になるのを待って朝風呂へ。昨夜は露天風呂も結構高い温度だったのが、今朝は内風呂も温くなっていた。部屋に戻って着替えし、玉湯川に沿って散歩した。さすがは出雲の温泉場だけあって、出雲神話にまつわる造形が幾つかあり、カメラの撮影台まで設けられていた、川の傍に源泉らしき装置。バスの時刻表を確認して宿に戻った。 稲わらで編んだ鶴と亀 朝食は実に粗末な内容だった。温泉場のホテルにしては驚くべきメニュー。わが家の朝食の方がよほど充実している。呆れ果てて写真も撮らなかった。フロントで清算し、バス停へ。そこで待っていると老夫婦が道の向こう側で呼び寄せた。一方通行のため乗り場が逆らしい。バスの運転手に尋ねると出雲大社に行くには再び松江に戻る必要がある由。そして直行便はないと言う。 ドライフラワー そんな訳はない。時刻表には8時15分発のが載っていた。ただし「コロナ」で観光客が減ったため、運休中なのだろう。面倒になって「JR玉造温泉駅」に停まるか聞くと近くには寄るらしい。老夫婦はそのまま松江に行く由。バスと電車に乗り放題の券を4500円で買ったと言うが、多分電車は「一畑電鉄」のはず。私には遠回りだ。一方通行のコースは昨日訪ねた資料館の脇を通った。 大黒様 JRの駅には15分ほどで着いた。駅員に尋ねて出雲市までの切符を買い、そこから大社までの交通を聞いた。40年前の2月の早朝、玉造温泉に泊まっていた私は宿を抜け出し松江市まで国道9号線を走って往復した。ところが当時の9号線は狭い上に歩道がなく、タイヤで寄せられた雪が凍って走るには危険過ぎた。だが30代半ばの私は怖れを知らなかった。凍った宍道湖では白鳥が片足で立って眠っていた。 クシナダヒメとヤマタノオロチに飲ませる酒 出雲市駅から出雲大社へのバスはたくさん出ていた。私が乗ったのは博物館前で停まるコースだったのに止まらず、出雲大社正門前まで行った。だが博物館までは歩いてもわずか。こうして歩けば地理と道路を覚える。間もなく博物館が見え出した。だが入口がどこか全く分からない。有名な観光地なのに、どうしてこうもはっきりした道案内がないのだろう。何とも不思議な出雲気質だ。 「島根県立古代出雲歴史博物館」の遠望 こんな感じで正面の入口が分からない。間違って遠回りをしたお陰で次に行く「北島国造家」の方向が分かった。個人で旅をすれば迷うこともある。それもまた良い勉強なのだ。敷地内でも迷って遠回り。ようやく入口を探し当てて入館。ここでも両手の消毒と検温。そして氏名と連絡先を記入。「GoTo」前だが何と厳しいチェックであることよ。常設展と企画展のセットを1050円だったかで購入。 これが入場チケット。企画展は「大地に生きる」で島根県の災害史が主な内容。私は「東日本大震災」で大きな被害を受けた宮城県に住んでいるし、東北歴史博物館でもその手の企画。つまり文化財の震災による被害と修復作業の様子は何度も見ただけに、さほどの感銘は受けなかった。 チケットの細部(円空仏) ただ、なた彫りで有名な「円空仏」の本物を見られたことが良かったことの第一。そして第二は縄文時代の正座した土偶を見られたこと。企画展は残念ながら撮影禁止で写真が撮れなかったが、実に写実的な土偶だった。私は青森県八戸市是川遺跡の「合掌土偶」(国宝)を始め、遮光器型土偶を三内丸山遺跡や青森県郷土館で、また勇壮な火焔式土器を新潟県立博物館で観ている。本物に接することが最大の勉強だ。 「古代出雲歴史博物館」のパンフレット リュックはロッカーに入れていた。そして幸いにも常設展は自由に写真を撮ることが出来た。私は無我夢中でシャッターを押し続けた。全体の構成が頭に入る前に、順路に沿い一個一個足を止めて展示物を眺め、「絵」になりそうな物を中心に撮り、後で思い残すことがないように注意し続けた。こうして館内に4時間ほど滞在し、ここで撮った写真は多分250枚以上に上ったものと思われる。 <同館展示物の一部 古代の出雲大社模型など> 実は予め同館の主な展示物はネットで確認済みだった。だからこそその本物を今回自分の目で確認しようと思ったのだ。でなければ昨年出雲大社に来たばかりなのに、こうして直ぐに来はしなかったはず。たくさん撮った写真の整理にかなり手間取った。撮った写真の1枚1枚を覚えてはいない。それをブログでどう紹介すべきかを考えながら分類し、名前を付けるのは実に根気がいる作業なのだ。苦もまた楽しみの一部なのではあるが。 そしてこの本に出会えたことも幸せだった。これは4時間もの間展示物を観覧し、疲れ果ててレストランで遅い昼食を済ませ、退館する寸前にお土産の勾玉とブレスレットを売店で買い、ついでに本のコーナーに立ち寄り、書名に惹かれて目次を見て購入を決めた。そこに私が長年抱いて来た疑問を解く「鍵」があると直感してのことだった。この本が元でこの後失敗するのだが、そのことについては改めて記すことにしたい。<続く>
2020.08.07
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<2冊の本のことなど> 玉作資料館のパンフレット。入館料は個人の大人で300円だった。万葉美人のような女性が描かれていたが、何を想定したものかは分からない。 玉作資料館所蔵の石器 玉作資料館にあった唯一の石器がこれだった。時代も用途も書かれていない。下の字を拡大すると辛うじて「松江市玉湯町 花仙山産」と判明したが( )内の2文字は潰れて読めなかった。石器と分かるのは石を打ち欠いて形を作ってるため。恐らく左端は槍の穂先のような武器と思われる。右の2点は肉を切るナイフか皮を剥ぐためのものだと思う。もしも用途がそうだとしたら、全て縄文時代のもののはず。弥生時代は稲作が中心になった。思い出すのは稲穂の先だけ切り取る「鎌」の用途を果たした石器だが。 資料館には2体の埴輪が陳列してあった。どこのものか、そして彼らが何者であるかの説明はなかった。いやあったかも知れないが、私が見逃したのかも知れない。左は机の上に巻物を広げて何かを記録しているように「見える」。右は武人だろうか。右腰に太刀を差しているように見える。そして左肩に鳥が止まっている。 私はその後丘の上の古墳を観た。円墳の「徳連場古墳」だが、あそこに埴輪が捧げられたようには思えない。玉造温泉近辺には後期の横穴式を含めて4つの古墳があるようだが。私は右上の「記加羅志神社跡古墳」のように思われた。理由の1)はパンフレットに写真が掲載されていること、理由の2)は「きからし」と言う万葉仮名を思わせる地名。そして大事な古墳の上か傍には神社が置かれることが多い。文字がない時代から、「あそこにはこの地の祖先が眠っている」との口伝えがあったのだろう。祖先の霊を祀るための神社を、全国各地の古墳近くで数多く観たことに基づく私の直感だ。 「各国風土記」編纂に係る詔 日本の国情が落ち着き、律令制度が安定して来ると大和政権は各国造に詔(みことのり)を発して、各国に伝わる風土記をまとめて朝廷に差し出すよう命じる。実際は実権を握った藤原氏に都合の良い歴史を記すための材料だがそれはここでは擱(お)く。ともあれ出雲国では他に類例のない詳細な「出雲国風土記」を5年をかけてまとめて提出した。そのため出雲国の豊富な神話が、今に伝わっている。 <玉作湯神社の扁額(左)と同社(右)> 館内に玉作湯神社の写真とその扁額の写真があり、後日の参考になるかと思って撮影した。かつては「玉造湯神社」と称したようだ。式内社かどうかは調べていない。この名称が明治に入ってから「玉作」と変えられた。それまでの神仏混交を排した頃だ。そして社格も国家(神祇省)が決めた。恐らく国造にもつながる「造」から「作」に変え、社格も「村社」にしたのではないか。そこまでして「富国強兵」と「神国日本」に突き進んだのだろう。 この神社の背後の丘の上に「玉造要害城」があったことをネットで知った。別名は湯ノ城、玉造城、湯ケ城、など。古くは出雲国守護の居城だったそうだが、戦国時代は中国地方の英雄尼子氏の武将である湯(ゆ)氏の居城だった由。尼子氏は山陽の雄大内氏の攻撃には耐えたものの、大内氏に取って代わった毛利氏の攻撃と策略の前に敗れた。一時は石見銀山の銀を独占して繁栄した尼子氏が敗れ、湯ノ城を守った湯氏は九州へと逃れたようだ。 さて「玉造」の地名のうち、出雲(島根)と摂津(大阪)の玉造では、実際に玉を造る工房があったと思われる。陸奥国の玉造郡(宮城)は常陸国(茨城)の玉造から移民が来たことによる地名の移動だろう。常陸の行方郡から陸奥の行方郡(福島)も同様。蝦夷を服属させて大和朝廷の支配圏が拡大すると、人を移動させて開拓を図った。当然収められる税は増える。神社も地名も人の移動によって移動した。人はそれまでに信仰していた神社を移動先にも分祀する。そのようにして神社は「増え」て行くのだ。 以上、この地の歴史を縄文時代から戦国時代までを駆け足で観て来た。松江藩の御用窯であった布志名(ふしな)焼の作品については改めて紹介したい。 さて、資料館を去る前に私は1冊の本を買った。「島根の考古学アラカルト」。著者は確か高校の教師を務めた方のようで、多分トンデモナイ内容ではないと思ったからだ。学芸員の女性に明日は「古代出雲歴史博物館」に行くと告げると、あそこの展示物は凄いですよと一言。そしてかつて出雲大社の神事を司った「北島国造家」の話を切り出すと、北島国造家がかつて東出雲の熊野大社を祀り、朝廷の命により出雲大社へ移って司祭するようになったことを教えてくれた。 「古代出雲歴史博物館」で購入した2冊目の本 「出雲大社の暗号」の謎めいたタイトル。ああ、確かそんなことがあったなあ。本を読み人づてに聞いた古い記憶が、断片的に蘇った。「神が戦い人も戦った古代出雲への旅」おどろおどろしい今回のタイトルはそんなことから付けた。謎の古代出雲に、一体何があったのか。明日はいよいよ、「古代出雲歴史博物館」と「北島国造家」を訪ねる。<続く>
2020.08.06
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<玉作資料館にて> 左手の丘へ登る石段道を往くと、建物の前にこの看板。「常設展古代出雲の玉作 その歴史と技術」とある。玉造温泉への宿泊を決めてからネットで温泉周辺の地図を検索中に見つけたのが「玉作資料館」。これは是非とも訪ねてみたい。そう思っていた。40年前は確か玉造町と言っていたように記憶しているこの町が、今では松江市玉美町玉造温泉に変わった。だからここも松江市立なのだろう。 碧玉の原石 受付でコロナのチェックを受ける。先ずは両手の消毒と体温測定。次に用紙に氏名と連絡先などを記入。まさに厳戒態勢だ。島根県全体の感染者数は20数名で、かなり神経質になってる感じ。それも良く分かる。係の女性に学芸員かどうかを尋ねたらその由。で専門はと聞いたら弥生時代の石器とのこと。磨製の鍬のようなものかと聞いたら違う由。丸木舟を削った「丸のみ」のようなものかと聞いたらそれでもない由。 <各種の原石> 打製石器と分かった。弥生時代にも石器を使っていたことに驚いた。当時はまだ日本に鉄が将来されてなかったのだろう。玉造のメノウ製品の分布を尋ねたら結構広い由。それで「糸魚川のヒスイ製品」の分布と交流関係について私が話すと、全くの素人ではないと判断した模様。その後館内を2時間ほどじっくりと見た。この周辺ではメノウの他に碧玉なども産出したようだ。 <勾玉の粗型(左上)と完成品(その他)> <子持ち勾玉の複製品> <勾玉の謂れ> 勾玉の形は朝鮮半島と日本にしかなく、わが国では縄文時代には既に勾玉が作成された。勾玉の語源としては「曲がった玉」説が有力。また独特の形は、1)魚の形説 2)胎児説 3)獣の牙説 4)釣り針説などがある。 さて韓国国旗の太極旗も2つの巴型が重なり合っている。(下図参照)ただ朝鮮半島には縄文文化より古い文化は存在せず、日本の縄文土器が半島の南部から出土している(=倭人がかなり古くから朝鮮半島にまで出向いたことの証)ことを思えば、勾玉は日本発祥のものだろう。ただし、朝鮮半島の人がこの形に神聖なものを感じたことも間違いはないのだろうが。 <参考>韓国国旗の中央部に勾玉様の形象 左は獣の牙を模した装身具。紐を穴に通したネックレスか。右は「けつ」(王偏に決のツクリだが環境依存文字)と呼ばれるイヤリング。 各種の装身具 <砥石などの工具各種> <研磨の痕跡が残る研磨台> 回転式の錐(きり=上)とそれを使用して穴を開けた石など(下) 玉造工房遺跡は宍道湖の南岸に集中しており、ここ玉造温泉周辺はその中心地だった。良質なメノウや碧玉を産出した玉作山(現在は花仙山)が資料館の背後にあったのだ。縄文時代から神聖な石として貴ばれたメノウや碧玉などで作られた装身具は、神威や権力の象徴として貴重で、水路や海路を通じて日本の各地に伝えられたのだろう。 またそのことが古代の東出雲地方に強大な力を持った豪族を誕生させたとも考えられる。後に出雲国造の一つとなる出雲氏(出雲臣)だろう。西出雲地方の豪族集団や大和朝廷との対峙にもつながったと私は見ているのだが実際はどうか。 花仙山(古代の玉作山)に今も残るメノウ採掘用の坑道(上)と出雲石の特徴など。(下) 古代の作業小屋における作業風景の復元です。<続く>
2020.08.05
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<古代玉造遺跡を訪ねて> ここは玉造温泉の中心地。かなり大きな温泉地であることが分かる。兵庫県の有馬温泉、愛媛県の道後温泉と共に日本の三大古湯とのこと。古代から皇族が訪れて入湯した由。私が宿へ行かずに向かった先は上の写真の赤い矢印の山。手前の小高い丘に玉造工房の遺跡と「玉作資料館」がある。そして背後の花仙山は古代からメノウの原石が産出した旧称玉作山(標高199m)だ。 私は地元の方に2度「玉作資料館」への道を尋ねた。その都度「本当に行くのか」と言うような顔をされた。確かにきつい上り坂が続く。ほとんど運動をしてなかったここ数か月。だが考古学好きの強い想いには勝てず、ドンドン坂道を登って行った。 先ずは道の右手の谷あいにある史跡公園を訪れた。上の写真が公園の全景。下の遺跡の標識は堂々たる大石に刻まれていた。説明板によれば大正12年(1922年)に付近の2遺跡と共に国の史跡に指定され、昭和44年と46年に発掘調査が行われた由。 写真はいずれもこの地区の発掘調査風景。(昭和44、46年) 発掘調査結果に基づいて復元された古代の玉造工房 <古代の玉作り作業風景想定図>このような作業をした工房の遺跡は、この周辺の宍道湖南岸に数十か所も点在している。(地図は次回に掲載予定)この後、私は丘の上の「玉作資料館」で展示物を時間をかけて観覧した。そして付近を調査しながら宿へと向かった。その途中で観たのが以下のものです。 この古墳は玉作資料館のある丘の隣の丘にありました。小さな円墳で、頂上部にはむき出しになって横たわった石棺。古墳に眠っているのはここ一円でメノウなどの玉製品を作らせた古代の地方豪族だったのでしょう。 今もこのようなかつての採掘穴が残っているようで、つい数年前も巨大なメノウ原石が発見されたと聞きました。「玉作資料館」については次回紹介する予定です。 これは翌日出雲市にある「島根県立古代出雲歴史博物館」の売店で自分用に買ったお土産の「勾玉」です。島根県産のメノウなら良かったのですが、インド原産の翡翠(ひすい)でした。でも古代の魂に触れる思いがして嬉しいのです。こんな内容の紀行文ですが、これが私の旅なんですよね。<続く>
2020.08.04
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<計画の狂いは旅の初日から> 準備は簡単だった。リュックサックに入れたのは、着替え、洗面具、折り畳み傘、新聞、俳句の本、そして毎日の服薬数種。バスは比較的スムーズにJRの最寄り駅に到着。駅のコンビニでお握りとお茶を買ってリュックへ。空港行きの電車もスムーズ。ここまでは何の問題もなかった。 少し早めに搭乗手続きをして待合室へ。そこでお握り3個をぺろりと平らげた。何と貧しい食事だ。それでもこれから贅沢な旅をするのだからと、自分に言い聞かせた。もちろんご馳走をたらふく食べようとする旅ではない。自分が好きな日本の古代史と考古学を十分に堪能するのが今回の目的。趣味にお金をかけるのが贅沢と言う訳。時間になっていよいよ機内へと向かう。機体はこんなピンク色。 航空会社は「フジドリームエアライン」と言う名前。静岡に本社があり、JALの系列会社みたい。仙台ーいずも縁結び空港への直行便は2年前の就航らしいが、初めて聞く名前。横4席の小さな機体だった。機内でのサービスは小さな飴と、これまた特別に小さめの飲み物パック、そしてミニチョコレート。飛び立った機は直ぐに雨雲の中に突っ込んだ。読書灯を点けて新聞を読んだ。 会社のパンフを開いて航路を確かめた。仙台空港から新潟上空へ出、ほぼ日本海の海岸に沿って南西方向に飛ぶ。私には初めてのコースだが、窓の外に見えるのは分厚い雨雲だけ。高度は1万1千メートルほどで、時速は800kmと機長のアナウンス。偏西風に逆らうため若干時間がかかる。でも1時間半ほどのフライトなら楽なもの。退屈もせず、無事出雲空港に着陸。直ぐ横は宍道湖(しんじこ)だ。 ところがバスに乗ろうとしてビックリ。なんと空港からは松江方面に向かう便しかないのだ。出雲大社への便や、その夜泊まる予定の玉造温泉行の連絡バスはコロナ騒動で運休中のようだ。仕方なくバスの運転手さんに尋ねた。玉造温泉へはどうやって行くのか。途中玉造温泉駅で下車出来ないかと聞いたら無理とのこと。一旦JR松江駅まで行き、そこから玉造温泉行きのバスに乗るのが一番と。あれまあ。 当初この日は出雲大社周辺をうろつこうと考えていたのだ。だがそれだと宿泊地に着くのが遅くなる恐れがある。それに出雲大社付近は翌日の第2日目の「島根県立古代出雲歴史博物館」の見学と合わせたら良いと考え直したのだ。松江から今度は路線バスに乗って玉造温泉へ向かった。ここは40年前にも一度泊まったことがあった。だがバスから降りた私はホテルへは向かわずに、山の上へ上って行った。またチェックインまでは時間があるため、急遽ある場所を訪ねる気になったのだ。<続く>
2020.08.03
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<相変わらずの自粛生活> 7月31日金曜日に出雲から戻ったが、景気の良いことはまだ書けない。旅先ではどこでも厳重なチェックを受けたが、それも感染者が少ない島根県では当然だろう。雨に降られなくて良かった。その一方空港~松江の直行バスは大丈夫だったが、コロナの影響で空港~玉造温泉、玉造温泉~出雲大社、大社から松江の連絡便が運休していて困った。 ツルムラサキ(食用) 旅の準備と言えば、JR最寄り駅と仙台空港駅の電車の発着時間などを調べたこと。だが前述のように連絡用のバスは運休中だった。それでも遠回りをし、無駄なお金を使いながら旅を楽しんだ私だった。 万願寺唐辛子(シシトウ) 旅先で撮った写真は318枚だった。最大の心配がPCに取り込めるかどうかだったが結果はOK。ただし1枚ずつチェックしての入力。以前のシステムがマイクロソフトの更新で使用できないのだ。それも頭を使って切り抜け、せっせと整理中。不要なものは捨て、分類して後で使いやすくし、画像をかなり小さめにして保存した。 鯖の水煮 出発の前夜、冷蔵庫の中を整理。何と大量のトマトやキュウリが腐っていた。それらを袋詰めして捨て、まだ使えそうなものだけを残した。梅干しをすべて漬物樽から取り上げ、残った梅酢の中にキュウリを入れた。こうしておけば腐らずに済むし、帰宅後はキュウリの漬物が食べられるはず。そんな風に考えていたのだ。結果は良好。少々塩辛かったが。そしてカレーが悪くなっていたのが想定外だった。 帰宅した夜は遅くまで起きていた。大相撲の方は白鵬の思わぬ連敗と休場で、元大関と新大関の一敗対決。元大関の照ノ富士が先輩力士としての意地を見せた。怪我で序二段まで落ち、本来なら引退してもおかしくない立場。そのどん底からよくも立ち直って再起したものだ。モンゴルの先輩の2人の横綱に痛めつけられた彼が、よく地獄から這い上がったものだ。 ノボタンのつぼみ 8月の最初の朝。トマト苗のビニール傘は外した。ミニトマトに続いて、残念ながらトマトも腐り始めた。長雨による病気発生だ。キュウリとナス、シシトウ、モロッコインゲン、トマト3個を収穫。大量に溜まった洗濯ものを選択し、ベランダに布団を運び上げて干す。曇りの予報だったのが外れて、薄日が差した。これは嬉しい変化だ。部屋に取り込んでいた2箱のタマネギをガレージに出し、郵便受け周辺を掃き掃除。旅行出発前に濡れていたウォーキング用のシューズが乾いたのも嬉しい。 前日に続いてカボチャの受粉作業。前日は雨で濡れていためしべが少し乾いていた。咲いている雄花の花びらをが切り取り。むき出しの花粉を結球のある雌花にこすりつける。全部で3個ほどやったが、果たして首尾良く受粉するかどうか。そんな楽しみ方が久しぶりに出来た。カボチャとヘチマの蔓が急に延び、ゴーヤの苗に勢いが戻った。やはり太陽が出ると温度と日照度が増すのだろう。自然の摂理だ。 野菜がべらぼうに高い今、どんな不細工なわが家の野菜でも、大事にして食べようと思う。さて臨時の県高校野球大会の決勝で、わが母校は敗れた。昨日は準決勝の結果を見誤ったようだ。かつてのブログ友から暑中見舞いの「ハガキが今年も届いた。もう25年にもなる走友。早速メールで返事を書いた。夕方網戸を通じて爽やかな風が入る。もうあと数日で東北の梅雨も開けそうだ。そして明日から「出雲の旅日記」が書けるかも知れない。さあ、写真の整理を頑張ろうね、自分。
2020.08.02
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<今日から8月> ゴムの木 今日から8月だが、東北地方はまだ梅雨の真っ最中。昨日出雲の旅から帰宅したが、中国地方は既に梅雨明けで、旅で雨にはほとんど遭わずに済んだ。九州では大きな被害が出た今年の梅雨。でも被害は日本だけでなく、中国大陸の被害はもっと甚大。天気図をずっと見ているが、ここ2か月近く梅雨前線が長江(揚子江)流域に停滞し続けて大雨を降らせた。三峡ダムは崩壊こそしてないが、中・下流の水害の程度が半端じゃない。その中国の梅雨前線が消えたのを旅先で確認。きっと梅雨が明けたのだろう。 紫蘭の種 今年は色んなことがあった。1月に中国大連と旅順の旅から戻って困ったのが、写真の整理が出来なかったこと。大量の写真を画素数が大きいままに入力したため、PCの容量が限界を超えたのだと思う。そこで慌てて見境もなく千枚を超える写真を捨ててしまった。一旦画素数を極端に落として保存して置いたら、多分捨てずに済んだと思うのだが今さらもう後の祭り。貴重な写真だったのになあ。 のボタンのつぼみ 1月下旬から猛烈な勢いで「断捨離」を始めた。まだ体力があるうちに「終活」を始めようと考えたのだ。1日15時間程度、ほとんど休まずに働いた。大量のゴミは週2回のゴミの日に出した。2か月半かけて捨てた不要品は家の中の90%にも及んだろうか。4トントラックで1台分以上。それを全て1人で片付けた。不眠不休の作業で4kg近く痩せ、疲労が抜けなかったあの頃。そして腰と肩の痛みがまだ少し残っている。 ナス それから苦難が始まった。思わぬ「新型コロナウイルス感染症」の勃発で、ステイホームと「自粛」の日々。第一波はどうにか切り抜けたものの、今さらに強烈な第二波が到来した感がある。世界的な感染の広がりで、東京オリンピックは来年に延期。その後6月には梅雨前線の停滞と「線状降水帯」の影響で、九州に大水害が発生した。私が住む仙台では連日の雨と、日照不足とで畑の野菜が病気になった。 梅干しの天日干し それでも梅雨の晴れ間にせっせと洗濯し、布団を干し、漬けていた梅干しを2回天日干しした。気温の乱高下で体調は今一。長雨の間に庭と畑の雑草が凄い勢いで生い茂った。晴れ間を見ながら「蚊取り線香」を2個つけて草取り開始。これまでに2時間の作業を2回したが、それでもまだ半分。こんな時期なので無理はせず、植木の剪定を含め長期戦で臨もうと思っている。 こぼれ種からの花 感染度が激しい東京の息子たちが心配だ。長男は新宿、次男は池袋が勤務地でどちらもクラスター発生地に近い。次男は山手線での通勤なのでなおさらだ。一人暮らしの父は、週1回の食料品買い出し以外はほとんど家に閉じ籠っており、感染のリスクは低いはず。こんな暮らしが後どれくらい続くのだろう。日本はそして世界は今後どうなるのだろう。今はじっと我慢の子。なるようにしかならない。 高校野球の代替試合。母校は22年ぶりに決勝まで進み甲子園の常連である強豪仙台育英に1-7で敗れたことを旅から帰宅後に知った。わが母校が甲子園に行ったのは22年前が最初で最後。残念だが、公立校で良くも決勝まで勝ち進んだ後輩たちの頑張りに拍手を送りたい。 と、昨夜書いたのだが、どこで何が起きたのか。実は県の決勝は今日で、今TVで実況放送中。なぜ、どこで上の情報が入ったのか、あるいはどこかで勘違いしていたのだろう。多分旅の疲れのせいだろうが、不思議なことが起きるものだ。さて昨夜の勘違いは、正夢かそれとも逆夢になるか。
2020.08.01
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