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~マックス爺庭と畑で遊ぶ~ 落葉が目立つ梢と紅葉が進むヒイラギ南天 チャイムが鳴って玄関の扉を開けると向かいのKさんの奥様。庭の敷石が濡れている。「雨ですね」と勢い込んで言うと「そうなの急に」と遠慮深げに。朝から天気が良かったため、ベランダに布団を干していた。それに気づいて慌てて教えに来てくれたのだ。お礼を言って2階に駆け上がり、室内に取り込んだ。布団も枕も「どてら」も濡れている。これはしまった。失敗失敗。だが後悔の理由は他にあった。 雨が降ることが分かっていたら、前もって化学肥料を野菜の根元に撒いておくべきだったとの後悔。肥料は水に溶けてこそ吸収される。お天気が続くのは良いのだが、雨もまた野菜の成長にとってはまたとないチャンスなのだ。左は結球しはじめたキャベツで9月初めに買った苗を植えた。右は白菜で同じころに種を蒔いた。まだ早過ぎて全然結球はしていない。そのため追肥をと考えていたのだが。 庭の小菊。まだ咲き始めたばかりで、咲く種類や花の勢いが増えるのはこれからだ。 時雨が通り過ぎたみたいなので、取り込んだ布団などを再び干して昼食の準備に取り掛かっていた。キャベツ、ニンジン、トマト、キュウリを刻んでボウルに入れ、マヨネーズ、コショウ、ごま油を少々。次いでハムエッグを作り終えて異常に気付いた。またもや雨の音。何とまあ折角乾いたのにまた濡らしてしまったとガックリ。取り込み終えると合羽を着て外へ出た。化学肥料の追肥には何とか成功。 ブロッコリーはキャベツと同じころ同じ店で苗を買って植えたもので、まだ全く結球はしていない。そのためにも化学肥料の追肥は欠かせなかったのだ。大根は白菜と同じころに種を蒔いた。2年ほど前に買った残り物。それでも多分発芽すると判断したが、見立ては間違ってなかった。かなり疎らに蒔いたため、間引きも簡単だった。全部で20本ほどか。それでもこの冬と来春の分には十分だ。 今年収穫したタマネギは残り17個になった。それでも来年の1月一杯は持つだろう。右の雲南百薬は最後の収穫。支柱を外し、蔓を切って堆肥の集積場へ。女性の香りを感じたのは錯覚で雲南百薬の花。とても上品で好きな匂い。12月初旬には地上部の蔓をさらに切り、盛り土して冬越しさせる。根っこは多分来年で10年にもなる長命な健康野菜だ。最後の収穫に感謝し、いつもお浸しにして食べている。 苗 タマネギ畑 トマト、ミニトマト、万願寺唐辛子を処分した後の苗を耕し、堆肥を撒いて休ませていたが、先日タマネギの苗を購入し早速植えた。昨年とは種類が異なり早生の中型種。病気には強いとの説明があり迷わず買った。細い苗や切れたのを除いて、移植に耐えたのは約80本。その日から朝夕2回、如雨露(じょうろ)で水やりしている。根付くまでの仕事だが、それが家庭菜園の楽しみでもある。 ミニバラ、サフラン、椿のつぼみ。わが家の小さな庭にも季節ごとの楽しみと発見がある。 コムラサキの小さな実が秋の深まりと共に濃い紫色に染まって行く。秋口に剪定したバラに、若い芽が萌え出す。そんな小さなことが無性に嬉しい。ここに家を建てて早や23年。年々庭と畑の草取り作業が大変に感じるが、暑さや痒い蚊の攻撃に耐えながらまだまだ頑張ってみようかと。 シソもかれこれ10年近くなるだろうか。毎年秋になって種が出来ると、畑のあちこちにばら撒く。翌年になるとそれが芽吹き、うち3,4本を生かして大葉として使い、種は漬物などに入れている。折角のいのちを有効に活用するのが私流。お世話した生命を無駄にせず、共生する暮らしに感謝だ。いよいよ明日からは11月。今年もカレンダーの枚数が少なくなった。読者の皆様もどうぞお元気で。<続く>
2020.10.31
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~マックス爺の食事情~ 女房が家を出てから3年半。男の独り暮らしが続いている。その間に2度入院。1度は一晩入院し、翌日は帰宅出来たが、別れた直後の転倒時には手術のため1週間入院。まあそんなハプニングもあったが、食事は全て手作り。外食はほとんどしない。これも人生の良い修行で、料理で苦痛を感じたことはない。揚げ物は無理と断念し、揚げ物用の鍋などは全て捨てた。 買い物は近所のスーパーへ自転車で。原則週に1回なので結構荷物が重く、ほとんどが食料品だ。まあ食べ物への拘りはないので、「見切り品」は見逃さない。すっかり主夫業が板に付き、買い物の金額は手帳にメモしている。それは極力無駄遣いをしないための工夫のつもり。 倹約した分で旅行を楽しんでいる。伊勢神宮高野山と紀伊半島一周、壱岐対馬五島・長崎の離島めぐり、冬の山形蔵王と秋田のお祭り、岩手の小岩井牧場ハイキング、山陰と姫路城など、台湾一周と中国の大連への旅。コロナ後の「ゴーツー」では島根の歴史を訪ねる一人旅。そして12月には3泊4日で沖縄フリープラン。かつて住んでいた那覇市内を久しぶりに歩いてみようと思っている。 最近挑戦したのがきんぴらゴボウ。冷凍食品を利用し油揚げを加えて胡麻油で香りづけ。結構量が多かったため、炊き立てのご飯に混ぜて、炊き込みご飯にした。これがなかなかの出来で、久しぶりに家庭料理を味わった気になった。 缶詰や魚肉ソーセージは安売りの時に買っておく。日持ちがする上、そのままで食材になる。魚肉ソーセージは咀嚼のための筋肉を使い、誤嚥防止の訓練にも良いと聞いた。まさに一石二鳥。自分で揚げ物をしない代わり、昔風のコロッケや鰺フライを買う。値段が安い上に家庭料理の雰囲気が嬉しい。 その時々の安い魚を買って一夜干しにしたり、カツオを半身で買い自分で刺身に造る。そのため鋭利な出刃包丁を買った。刺身包丁もあるが、出刃で十分だ。魚の切り身を買い、味噌と味醂に漬けて焼き魚にしても美味しい。 野菜炒めは塩コショウで、ケチャップ味で、ソース味で、カレー粉でと変化をつける。カボチャはわが家の庭で獲れたのが2個。これも醤油で煮たり、牛乳で煮たりする。カボチャを切るにも大きめの出刃包丁が必要だった。 おでん(左)の材料は廉価な「おでんセット」。それに予め圧力釜で煮た大根とニンジン。そしてその茹で汁を使って「白モツ」を圧力釜で煮て脂分を抜いたものとシイタケ、厚揚げが入っている。味付けは適当に。右はキュウリとカブの浅漬け。それに庭のシソの実を入れ、塩昆布で味付け。キュウリとカブは見切り品。とても美味しく出来上がった。 先日、調味料をまとめて買った。どれも普通のもの。食酢は良く使う。ピクルスや酢の物、そして佃煮の隠し味として。右は今年私が作った梅干し。売り物と比べても遜色ない。焼きそばの粉末、納豆の「たれ」や「からし」も取っておいて調味料として使用している。納豆には梅干しが「一かけ」あれば十分。 昼食はパンや麺類のことが多い。なるべく野菜や果物を食べるようにしているため、食物繊維は不足してないが、逆に糖質と塩分の過剰摂取気味なので超注意。アルコールは焼酎の薄い水割り1杯で十分。それが夕食時の楽しみでもある。目下一番欠けてるのは運動量。それで時々パソコンの手を止めて、居間~和室2部屋~廊下~キッチン~居間のコースを手を振りグルグル歩き回っている。 近所の友達ヘバちゃん そんな訳で「負け犬の遠吠え」はあくまでもジョークで付けたタイトル。もちろん「負け犬」とも思ってなければ「遠吠え」のつもりもない。たまに外に出ると、雑種ヘバ(♀年齢不詳)が足音を聞きつけて呼んでくれる。「動物管理センター」からもらわれて来た子。私の一番の友だ。裏のモモちゃん(ビーグル♀)も私を見かけると吠えて甘える。人間には無理でも雌犬には好かれるみたいだ。<続く>
2020.10.30
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<余計なお世話?> 新型コロナウイルス感染症の陽性者数が毎日新聞やテレビに出る。死者ならまだしも、これまでの感染者の累計。当然のことだがその中には完全に治癒して社会に復帰した人数も含まれている。そんなに連日報道する意味があるのだろうかなどとも考えてしまう。日本人は生真面目過ぎるんじゃないの。手抜きが出来ないのか、それとも報道上の約束事でもあるのか。 世論調査もそうだ。内閣支持率など、結構な頻度で行う。それがTV局や新聞社ごとだから丁寧なんてもんじゃない。だが疑い深い私は数字をそのまんまは信じない。設問項目や尋ね方によっては相反する結果が出ることもある。つまり結構恣意的と言うか、回答を一定の方向に導くことも可能じゃないのか。そう考える私が天邪鬼なんだろうか。米国の報道大手はバイデン氏の支持率を10%上乗せしてるとか。 ある方のブログを見たら「男がほしい」とあった。ご主人を亡くされて1年。不自由はされてても何だかなあ。でもこれは多分一字違い。「男が」ではなく「欲しいのは「男手」。つまり手が抜けてることに気づかないうっかりミス。別のブログには「便を催した」と。あれまあ。パンツにウ〇チがついたか。だが、こちらも一字不足。催したのは便ではなく「便意」。きっと正しい日本語の表現を知らなかったのだろう。 ある朝郵便受けに怪文書。丁寧に封筒付きだ。文章を読んでピンと来た。内容は以下の新興宗教に注意とあって、4つ団体がある。誰の仕業かは直ぐに分かった。高尚な文章を書けるのは元町内会の役員で校長先生だった人。でもねえ、それは余計なお節介だよ。何年か前も町内会でひと悶着があった。例示された宗教団体の方が役員だった時。折角やる気のある若手のメンバーが揃っていたんだが。 電力会社から文書が届いた。今後電気の検針はリモートで行い、電力料金体系も見直し、「紙」での料金請求はしない由。大震災時の被害もあった。市のガス局の民営化も近い。加えて菅総理の「温室ガス0宣言」もあったし、原発の安全規制も厳しくなる。そのことでの経営方針の見直しの一環か。メカに弱い爺さんは面倒くさくて仕方がない。それにソーラーの売電単価が大きく下がるのが痛いなあ。 犯罪の片棒を担ぐ若者が増えている。ネットの裏情報を見、アルバイト感覚で飛びつく。ネットバンクの不正操作などより暴力的な事件も増えた。ネットの便宜性が高まる一方、犯罪の手段にもつながる。だから不審な電話や文書が届くだけで、気持ちがざわつく。そして薬物がらみの犯罪も増えた。今は誘惑が多い時代。コロナ不況がさらに追い打ちをかける。 朝ドラ「エール」が、戦争をどう描くかに注目していた。戦後75年で戦争を知らない世代が増えた。演じる若い俳優たちとは異次元の時代。あのころは芸術家までもが国家に奉仕し、戦争への協力を迫られた。赤ん坊だった私も同じだが、戦後の貧しさと苦しさはいやと言うほど味わった。「浮浪児」や「闇屋」の意味も実感している。そして「鐘の鳴る丘」のあの明るい曲と歌詞は、今なお脳裏に鮮烈だ。 散歩がてらあるお宅の庭を覗いたら、女性が2人草取りをしていた。「これは」と思って声を掛けるとやはりそう。以前ちらしが入った「便利屋」の女性グループ。さらに歳を取り「終活」への備えが必要と実感。庭の草取り、家の掃除、引っ越し。その他よろず相談などの対象として、頭の中に入れて置こう。「その時」に向けての具体的なイメージ作り。さて健康での一人暮らしがいつまで可能か。<続く>
2020.10.29
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、<マックス爺の俳句論ほか> 立葵 俳句教室の講師の誤解に気づいたが指摘はしなかった。受講生がいるし、お友達の面前でもある。ここは武士の情け。6年ほど前には彼と大喧嘩の末に教室を辞めた男がいたようだが、私はつまらぬ争いはしない。その代わりに「来月の兼題」を確認した。最近は話があちこち飛んで、時間の調整が下手になった講師。その挙句に翌月の宿題を忘れる。ここ3回ほど立て続けに私が尋ねて事なきを得た。 バラの実 翌朝私は考えた。講師の友人と言う文芸評論家だが、ひょっとして講師が自分の後釜にする積りで招いたのではないかと。だから教室の雰囲気に慣れさせるため一番前に座らせたと。推理の当否はともかく、私は翌月の兼題「冬」の季語を、歳時記から4つほど選んで句を詠んだ。この後習作から候補を選び、さらに推敲を重ねる。最後に清書しながらも表現に悩むのが常だ。教室の当日、会場へ向かう車の中で詠む曲芸は私には無理。それに私の愛車は自転車。先日はランニングだったが。 植木鉢を取り込み、2か月ぶりの俳句教室を終え、連載を完結させた私は少し安心し、出来るだけ散歩や体操をすることにした。長期間終日パソコンに向かったのが首、肩、肘、腰の痛みの原因になっていた。それに指の動きや目の疲れ。公園に散歩に出かけ、またある時は9kmコースをゆっくり走った。秋晴れの日には布団干しと洗濯。そして作り置きのおかずが減れば、男の手料理を。 フウセンカズラ 電話が鳴る。お安い電力料金に切り替えませんかと。最初は北海道の会社。2度目は地元の電力会社。かけて来た女性に答える。「以前はカカアデンカでしたが、今はオール電化なので」。大抵はそれで済む。東日本大震災の翌年、長い停電とガスの停止に難儀した私は、ソーラー発電を含むオール電化に切り替えた。売電分もあって、今はそれが一番安いことを先方も承知しているはず。 ハイビスカスの黄葉 別の日に今度は無言電話。午前中と再び夕方にも。「もしもし」と言っても返事がない。相手の番号がディスプレイに表示される。別れた前妻か、東京の息子たちに何か起きたか。それとも長女の夫君が私を案じての確認か。手帳の電話番号をチェックするが該当なし。ひょっとして老人を騙す悪徳商法か。そう判断して、以後無言電話は切ることにした。コロナは不気味だが詐欺はもっと嫌。 ハイビスカスの花 数日後、植木鉢のハイビスカスが咲いてるのを発見。部屋が暖かいせいだろう。シャコバサボテンにも小さな花芽。庭では小菊がかなり膨らみ始めた。サフランとミニバラが咲いた。季節は確実に動いている。ハイビスカスの葉が黄葉し始めた一方、また膨らんで来た蕾も。こんな風に、生命の営みを身近で観られるのは嬉しい。自分もコロナやインフルエンザに負けず、元気で暮らしたいものだ。<続く>
2020.10.28
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<忙しい日 その2> 萎んだハイビスカス 講師は時々受講生に句の感想を求める。たとえ間違っていても、自分の意見を言うのが一番勉強になるとの理由からだ。それである時彼女の句を率直に評したら、「あなたには言われたくない」と。講師が言うなら納得するが、同じ受講生からの指摘は自尊心が許さないのだろう。それにしてもなぜ前もって宿題を準備しないのだろう。歳時記で季語を確かめ、辞書で字を調べるのは最低の準備と思うのだが。 クンシランの実 とに角弁解が多い。俳句教室の日を忘れ、その当日車を運転しながら俳句を作るくらいだから、準備などほとんどしないのだろう。皆は「短冊」に印刷したり、自筆で清書したりして参加者全員に配る。だが彼女は準備してないため板書するのだが、誤字や脱字はおろか俳句の形にもなってない。それが常で、意見をされようものなら反発と弁解に終始。一体この2年半何を聞いて来たのだろう。 雑草の種 「今日は大人しいね」と講師が私に言う。「こんなものですよ」と私。彼が病み上がりと言うこともある。友人を教室に呼んだこともある。そして8月の教室で私の句を「盗作」と言った彼への反発心もあった。句の背景を丁寧に説明した積りだが、虫の居所が悪かったのか、入院前で体調が悪かったのか。だがその日遅れて来た彼女へは、「出席したから合格」と。作品ははちゃめちゃなのに。 自分の番が来て、私はその日提出した3つの作品の背景と自分の考えを述べた。だが、講師は最初の句の固有名詞が分からなかったようだ。元ジャーナリストの彼なら知ってるはずの場所。2句目と3句目の評価も今一歯切れが良くない。講師の友人の文芸評論家が自分の解釈を話した。小声だったが、私には納得が出来、少しだけ心が晴れた。皆も元気がなかったのは、講師の病気の話のせいかも知れない。 カボチャの種 時間が来て、仲間は帰った。私はベンチでランニングスタイルに着替えし、会場を後にした。来た時は太陽が出て暖かかったが、夕暮れが近く風が出るとさすがに寒く感じる。半袖シャツの方が無難だが、そのまま走った。元ランナーの痩せ我慢。何とか帰宅して直ぐに着替え。パンは台所にあった。リュックに入れた積りが、よほど慌てていたのだろう。久しぶりのランで気持ちが高ぶっていたのだ。 垣根の紅葉 外へ出て、朝の続きの作業。主だった植木鉢は全て居間に取り込んだ。それから遅い昼食。もう夕食に近い時間だが、不思議に空腹感はなかった。そして血圧が朝に比べてかなり下がっていた。やはり往復8kmほど走ったお陰だ。体重も少し減った。やはり適度の運動は必要。その夜は必死になって「歴史への旅」の連載を書いた。疲労と緊張で血圧が上がったのか、頭痛と戦いながらも何とか翌日分を予約。<続く>
2020.10.27
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<忙しい日 その1> その日は朝から気合が入っていた。先ずは大掃除。特に居間は丁寧に掃除機をかけた。それが終わると外へ。植木鉢の外側の汚れを落とし、必要な数の「受け皿」も全部洗った。ゴムの木、ハイビスカス、シコンノボタン、クンシラン、シンビジウム、シャコバサボテン、ミニトマトなど15鉢。中には相当重たいものがあって結構手こずった。 大掃除は植木鉢を居間に取り込むため。一旦置いたら、なかなか掃除がし難くなる。なぜ取り込んだかと言うのは、翌朝の最低気温が10度を下回ると天気予報で聞いたから。観葉植物の多くは寒さに弱く、枯れることもあるので用心したのだ。わが家の居間は日当たりが良く、温室状態。フローリングのため荷重がかかっても平気だが、これでも今年何鉢かは処分した。 それが終わるとランパン、ランシャツ姿に。その日は「俳句教室」がある日。最近は体調が良くなかった。多分運動不足で心肺機能が低下したのだろう。そう判断して俳句教室の会場まで走って行くことにしたのだ。自分としてはかなりの冒険。それでも行けると判断したのは40年間のランニングの経験上。リュックを背負い、ペットボトル片手にゆっくりと出す。風が気持ち良い。 国道の信号で誰かが私に声をかけた。Eさんだった。どこに行くのと聞くので、「老人センターの俳句教室へ」と答えると彼女が笑った。きっと「老人センター」に反応したのだろう。まだ60代の彼女には無関係の施設と。笑わば笑え。私は国道を渡って横道へ入った。下り坂ではより慎重に。膝への負担が増えるためだ。でも大丈夫。地下鉄への大通りを一路東に向かう。 何年か前彼女に言われた。「お嫁さん探してるんだって、気持ち悪い」。それもある行事で行った電車の中。私が離婚してることは知っていたろうが、心のうちまでは知らないだろう。人生の晩年の一人暮らしは淋しい。心許せる伴侶を求めて何が悪い。それに彼女の夫は私と同じ高校の同学年。それに彼女は後妻なのだ。それなのにあんな言葉を発するとは無邪気なのだろう。そのうち歳を取ったら分かるさ。 アケビ センターに着くと女の職員が私に聞く。「お風呂ですか」。この格好でまさか風呂に入りには来ないだろう。「俳句教室ですよ」と言うとビックリ。「寒くないですか」とセンター長。走ってると全然寒くないんです」と私。アルコール消毒、体温の検査、そして必要事項を記入して教室のある2階へ。奥のベンチで着替えを終え、リュックを開けてパンを食べようとしたが、入れたはずのパンがない。 久しぶりの俳句教室。先月は講師の入院で休止だった。3か月ぶりのSさんは病気だった由。親友のK氏は17日間入院していた由。まだ元気が出ない感じ。そして講師が友人の文芸評論家を一番前の席に座らせた。講師の机にはS萩さんが持参した退院祝いの花束。講師が自分の病気を15分も話すのを暗い気持ちで聞いていた。そして教室が始まって20分も過ぎた頃、1人の仲間が遅れて教室へやって来た。 皆が次々と兼題(宿題)の句を披露するのに、遅れた彼女はホワイトボードに板書。今日が俳句教室だと気づいて、句は車を運転しながら作ったと言う。その句の酷さ。私と同期入会で3年目。何を学びにここに来たのか理解不能。「どんな作品でも直してくれるのが先生の勤め」が彼女の主張。「下手な人がいてちょうど良い」とも。出だしからすっかり気分を害し、その日は大人しく座っていた。<続く>
2020.10.26
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<日本学術会議とは一体何ぞや?> 「あらまあ」俺は思った。一体どう決着させる気だよと。例の「日本学術会議問題」だよ。菅総理が大上段に振り被って、一刀のもとに切り捨てたのは良いんだけど。果たしてそれがどう治まるのか。これは厄介なことに首を突っ込んだもの。ひょっとして「虎の尾」を踏んだかも知れないぞとね。案の定左寄りのマスコミと野党の幾つかが猛然と食いついた。ほら、言わんこっちゃない。 それに勢いづいたのでもあるまいが、学術会議側は真っ向勝負に出た。「推薦した6名の会員を任命しないのは研究に対する侵害だ」とね。大新聞も野党もまるで鬼の首を取ったような大騒ぎ。前にも書いたけど、俺は思ったね。「任命しないのと研究の侵害は無関係と」。会員だろうが会員でなかろうが、研究者自身の研究の自由が侵された訳ではない。問題はその先だ。 だが任命しなかった理由を聞かれた総理の返答に首をひねった。「それは総合的かつ俯瞰的に観て判断した」と。これは「言語明瞭、意味不明」の類だね。何となく「雰囲気」は伝わっても、真意が分からない。高僧同士の禅問答なら「そうか」、「なるほど」で分かり合えるのだろうが、こちらは生憎全くの凡人、雲をつかむような禅問答では「学術会議」の実態と問題点が全然理解出来ないではないか。 そこで色々と調べ始めた。TVのニュース解説番組。ネットでの検索。youtubeの視聴。それで少しずつ疑問の霧が晴れて来た次第。さらに菅総理と梶田会長が直接会って話し合い、「この問題については未来志向で検討することになった」と。何とまあ。これまた高僧同士の禅問答のような「中締め」。以前はあれほど険しかった会長の顏が、かなり綻んだと見えたのはおいらの錯覚か。 学術会議の発足から今日までの歴史、戦後から75年を経た世情の変化。学術会議が果たすべき役割の変化と関係法規の改正。学術会議の活動の実態と政治性への疑問。会員推薦ルールの曖昧性。各省の審議会、日本学術振興会、日本学士院などと「日本学術会議」との関連性、そして政府が採るべき政策への反映方法など、幾つかの誤解と齟齬があることも、私自身は少し見えて来たように思う。 色んな意見の中で、一番すんなり聞けたのが有馬朗人先生の意見。先生は物理学の大家でかつホトトギス派の俳人。東大総長を務め、学術会議会長の経験もある。そして純粋な研究者には珍しく、文部科学大臣にも就かれた。行政の何たるかを知る学者。だから本質的な理解とバランス感覚が優れているのだ。私も東大総長時代の先生の講話を聴いたことがあるが決して偉ぶらず、暖かい人間味を感じたものた。 生真面目な総理に加えて、行政改革に燃える河野大臣の姿勢。このまますんなりとゴールに向かえるかは不明。何せ自分たちこそが正義の味方と信じるマスコミや先鋭的な野党。そしてさらに厄介なのは、「研究者の意見は正しく、それを無視するのは学問や研究の自由の侵害」ととんちんかんな専門馬鹿の諸先生。今後問題をどう整理し、研究と政策の共存を図るか。それこそが国益への第一歩と思うが。 今回の件で菅総理を「教養のない人」とツイッターで発信した知事がいた。オックスフォードの大学院を修了し、大学の教授、国立機関の副所長、大学の学長や理事長を歴任し、現在は県知事。リニアを通すためのトンネル工事で大井川が水不足になると中止させた御仁。これで開通計画が約7年遅延し、世界初のリニア実用化の栄誉は中国に奪われそうな気配だ。 私はあるネット情報の愛読者。だがこれはその社の論調と違うと感じて著者を確認すると、ああやっぱり某大学の某教授。専門は現代中国史とか中国経済なのだろう。不可解なのは必要以上に中国に寄り添った解説をすること。思うに、きっと彼の研究に必要な情報やデータを某国からもらっているのだろう。そんなことが学者の世界では良くあるみたい。情報源を絶たれたら研究は不可能。まるで学者への賄賂だ。 自分の研究妨害には騒いでも、他の研究者へ自分が妨害してることには無神経なのが研究者。今回任命されたかった6名の中には論文の引用数が極端に少ない(あるいは皆無)の人がいたとも聞く。研究論文の価値は、他の研究者の引用数で決まる。また学術会議の会員は日本学士院会員に推薦され易いそうだ。そうなればそれまでの年金支給資格に加えて、高額の年金が死ぬまで支給される仕組みだってさ。 あれまあ。今日もまた負け犬が吠えている。お前がどんなに吠えても、なかなか既得権益を放さないのが人の常。さて政府も学術会議もあれだけ高く振り上げた拳を、一体どう下ろすのかねえ。マスコミや野党がどう追及し、政府がどう反撃するかが見もの。モリカケ花見に学術会議。決してひがむわけじゃないけど、俺は「教養がない方」を応援したいな。ワオ~ン!! ではまた。<続く>
2020.10.25
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<今アメリカで起きていること> 新しいシリーズのタイトルを「負け犬の遠吠え」とした。老いぼれた自分への卑下と取るのも自由。老いてなお一匹で生き抜く姿と見るも良し。字を忘れ、言葉を忘れ、キーの誤操作が増え、目が霞んで文字変換の確認もあやしくなった。それでも日々の想いを吐露することが出来たら、コロナ自粛の日々も少しは心が晴れるに違いない。前置きはこれくらいで、早速書き始めよう。 長いシリーズものを書きながらも。毎日、ニュースのチェックだけは欠かさなかった。全国紙、地方紙(ネットで主項目だけ)、TVのニュース解説など。そしてyoutubeはこれまでの視聴で自分が信用出来ると確信した個人と組織発信のものだけ。目下の関心事は2つ。そのうちの1つがアメリカの大統領選挙の行方。今日はそれに関する私の情報収集と、目下の情勢分析のつもり。 驚きの第一は、大統領選挙に関する世論調査の数値を操作していたことを、バイデン陣営が認めたことだ。そんなことが一体あり得るのかは不明だが、もしそれが本当だとしたら、バイデン氏側は情報操作をしていたわけだ。重大な犯罪行為で、民主党の信用はがた落ちになるはずだ。 疑惑の第2は4年前の大統領選。トランプは勝ったがまだ引継ぎ前で、ホワイトハウスにいたのは、オバマ、バイデン副大統領、ヒラリー国務長官。3人がトランプの特別補佐官候補フリン氏の疑惑をでっち上げる密談の証拠が見つかった由。補佐官就任後フリン氏は辞職するが、違反とされた法律そのものが無効で、違法行為もなかったことが確実となった由。結果的にフリン氏の疑惑は全て「白」だったわけ。 疑惑その3はバイデン氏の次男。アルコール中毒で薬物中毒。死んだ兄の妻を愛人とし、幼女愛嗜好の性癖。その次男が関係するウクライナ企業の買収容疑を、バイデン氏が捜査を中止するようウクライナの検察に要請した事実。また次男がウクライナ企業とバイデン氏を仲介し、多額の資金がバイデン氏側に渡った事実。次男の故障したPCのデータから証拠が見つかり、FBIもその事実を認めている。 疑惑その4。次男は中国の企業とも関りがあり多額の報酬を得ていた。その次男がバイデン氏に中国企業を仲介し。中国企業からバイデン陣営に多額の資金が流れた事実。これもFBIは確認済みみたいだ。4年前にトランプ氏の「ロシア疑惑」を追求(結果は容疑なし)したバイデン側が、今回これだけの違法行為を行っていたということに驚く。事実ならもちろん大統領候補者となる資格はない。 またフェイスブックもツイッターも、この件に関するアップに制限をかけている由。それもトランプ氏の不満の理由だ。3回目の大統領候補のテレビ討論会の模様が昨日明らかになったが、TV局の方針で両者の発言は厳しく抑圧され、トランプ氏の追及もやや大人しい感じを受けた。、果たしてアメリカ国民はどう受け取ったのか。そして今後投票日までに新たな展開はあるのか。 今回の大統領選挙に対して、ロシアと中国がサイバー攻撃で妨害した形跡があるとフランスが公表。ささて、「郵便投票」が正常に機能し、迅速で正確な投票結果は出るのだろうか。既に郵便投票用のポストが放火され、数百票の投票用紙が燃えたとの報道が過日あった。しかしアメリカの政治情勢も社会体制も日本人には不可思議なことだらけ。その混沌こそアメリカの実像なのだろう。 選挙結果を固唾を飲んで見守っている国は多い。中国、ロシア、イラン、北朝鮮、韓国と日本に台湾など。大統領選のドサクサに紛れ、中国が台湾に侵攻するとの噂もある。習近平が追い込まれている証拠。バイデン次男のハードディスクがもたらした疑惑は中国にも飛び火し、近く大問題に発展しそうな気配。世界はカオス状態。不確実な情報に溢れている。早くスッキリさせろよ。ワオ~ッ。 <続く>
2020.10.24
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~野望と変貌そして~ ユリアス・カイザル ユリアス・カイザル(紀元前100-紀元前44)は共和制ローマ期の軍人で政治家。英語読みのジュリアスシーザーの方が良く分かるかも知れない。「賽は投げられた」。「ルビコン川を渡れ」。「ブルータスお前もか」彼が放ったセリフを知る人も多いはず。若い時から戦い続け、「終身独裁官」に上り詰め、エジプトをあのクレオパトラと共同支配し、彼女との間に息子カイサリオンを設けた。 ガリア戦記 相次ぐ戦いの中で、彼は「ガリア戦記」などを著す。ガリアは現在のフランス。戦った相手はゲルマン民族だった。紀元前45年から「ユリアス暦」を使用し、1582年にグレゴリア暦に変わるまで1600円以上ヨーロッパで採用された。July(7月)は彼の名ユリアスから採り、「ブルータスお前もか」は暗殺された際の言葉。聖書には「神のものは神に、カイサルのものはカイサルに返しなさい」の聖句がある。 キャンベラの街で、黒い帽子を被った一団に出会った。「あっ、これはユダヤ教の人」私は直感した。イスラム教祖のムハンマド(右)も元はユダヤ教徒。それがある時砂漠の中で神の啓示を受け、アラーを信じた。砂漠を旅する商人の彼を救い妻となったのが女の隊商だった。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教が一神教であるのは、砂漠のような過酷な環境で生き抜くためには、唯一無二の神が不可欠だった。 フランシスコピサロはスペインの人。スペイン王と神聖ローマ帝国の許可を得て、ペルーのインカ帝国を攻略。インカの財宝をことごとく奪い、金銀製の美術品は鋳つぶし延べ棒にして本国に持ち帰った。メキシコのマヤ文明も然り。征服後やって来たカトリックの神父によってキリスト教に改宗させられた。先住民の宗教施設を破壊し、その上にカトリックの教会を建てたのだ。 ロヒンギャはミャンマー(ビルマ)国内の異民族でイスラム教徒。ミャンマー国内に100万人ほどいた少数民族だが、差別を受けて隣国バングラデッシュに難民として脱出。現在ミャンマー内にはは60万人ほどしかいなくなった由。軍事政権と結託するアウンサンスーチー派も援助せずに見殺し状態。それがかつてのノーベル平和賞受賞者の現状。コロナ禍の今、彼ら難民はどんな暮らしをしているのだろう。 ストーパ(後ろの仏教に因む円形の建造物)を守るヒンズー教風の門(左)と日本の鳥居(厳島神社) コブラを背後にしたヒンズー教の神(左)と日本の竜神様(右) 太陽(日輪)を背にしたガンダーラ仏(左)と船形光背を持つ日本の仏像(右)。 チベットの歓喜仏(左)と男女の道祖伸(日本) 左からヒンズー教のリンガ(シヴァ神の象徴) 中央は巨大な道祖伸 右は縄文時代の石棒 長命と子孫繁栄の祈りは、時代や国の相違を超えた人類共通の願いなのだろう。自然豊かなアジアでは多神教が普通で、複数の宗教や民間信仰が混合してるのが特徴。そして日本古来のものと思われたものにも、古い時代に海外から伝わった事例もある。古来人類は移動し、文化や言語を伝えて来たのだろう。歴史と文化の遥かなる旅。それをなしうる唯一の存在が人類だ。 <祖父と孫 その2> 阿倍比羅夫(あべのひらふ)は飛鳥時代の武将。斉明天皇4年(658年)、秋田県沿岸部の蝦夷(えみし)を征伐し、翌年は渡島(北海道南部)に来ていた粛慎(みしはせ)を征伐。それらは天智天皇元年(664)の白村江の戦(右)のための訓練だった。百済からの援軍の求めに応じ船200艘で参戦したが、唐と新羅の聯合軍に敗れた。大宰帥(だざいのそち=大宰府の長官)に任じられ、国防に努めた。 比羅夫の孫が阿倍仲麻呂(698-770)。奈良時代の遣唐留学生として遣唐使に同行し長安で学んだ。後に玄宗皇帝に仕えて文学畑の役職に就き、李白などの文人と親交を結んだ。遣唐使と共に3度帰国を試みるがいずれも船が遭難。長安に戻り、衛尉卿や秘書監などの要職に重用された。右は近年西安に建立された記念碑。故国日本を偲んで詠んだとされる 天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも が百人一首に採択された。 青ユズ たまたま観たテレビ番組から始まったこのシリーズが20回近くなった。大好きな歴史について語るのは何よりの喜びだが、いざ公開するとなればあまり不正確なことは書けない。そのため下調べをして構想を練り、載せる写真と文章の内容や順番にかなり神経を使った。そのため思い切って「お気に入り」を整理して執筆に没頭し、ようやく新聞も落ち着いて読めるようになった。 ハーブ わずかながら知ってることはある。それを足掛かりに、知らないことをネットで調べて補足した。またネットから借りた画像を参考資料としたことも多い。そんな作業の末にようやく本日最終回を迎えた。だがまだ書き残したような気がする。未使用の写真はいずれ特集を組むとして、明日から新たなシリーズに入る。最後までお付き合いいただいた読者各位には深甚の謝意を表したい。最後まで頑張れたのは、物言わぬ読者のアクセスがパワーの源だった。 ホトトギス草 不思議なのは知っていたわずかな知識に、調査で得た知識が加わったこと。「なるほどそういうことか」。新旧の知見が重なってより深まる理解。今まで見えなかった部分が見えて、長年の謎が解ける。「知らざるを知らずと為す。これ知るなり」。論語の一節だがまさに真理。疑問の持続と知に対する謙虚さが発見への近道だ。これからも大いに恥をかこう。人生も、そしてブログも。 <完>
2020.10.23
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<信仰・侵攻・祖父と孫> <玄奘三蔵(三蔵法師)> 玄奘(602-664)は唐代の訳経僧。629年陸路でインドへ向かい、途中各地で巡礼や仏教研究に励む。645年657部の経典と仏像を携えて帰国。以後持ち帰った経典の翻訳に励み、それまでの過ちを正す。法相宗(ほっそうしゅう=薬師寺や興福寺の宗派)の開祖となる。インド往復の旅を「大唐西域記」に著す。三蔵法師は尊称。 これが彼が辿ったルート。インドやネパールでは仏教の聖地を巡った。高峻なパミール越えや摂氏50度を超える猛暑の火焔山などルートは厳しく、盗賊に遭ったりもした。シルクロードのオアシスには仏教を信奉する小さな王国が点在していた。著書は「西遊記」のモデルとされ、映画化もされた。釈迦が生まれた地を訪れ、真の仏教を学びたいとの一念が実現させた大旅行だった。 1) 2) 3) 1)は三蔵法師が建立に関わったと伝わる長安大慈恩寺の大雁塔。その傍に立つ石塔が2)。その最上段に刻まれた文字を拡大したのが3)である。ここには「大秦国景教流行中国碑」とある。「大秦国」とは当時の東ローマ帝国のこと。「景教」は「ネストリウス派キリスト教」のこと。それが唐に伝わったことを記念して建てた石碑と言う意味だ。 431年同派の教えは皇帝によって異教となされ、信者は止む無く隣のペルシャに逃れた。7世紀ごろにはそれが中央アジアを経由して中国に伝わり、長安に「大秦寺」と称するキリスト教寺院が建てられたようだ。石碑はそれを証明するもの。なおマニ教、ゾロアスター教(拝火教)、とこの景教が「唐代三異教」とされているそうだ。<戦争と民族の移動> アレキサンダー大王 古代ギリシャ、マケドニア王国の若い王がヘラクレスの子孫と伝わるアレキサンダー(紀元前356-紀元前323)。哲学者アリストテレスを師として学び、20歳で王位継承後、アケメネス朝ペルシャに侵入して征服し、その10年後にはインドに到達、彼の地にヘレニズム文化を伝播した。帰路バビロニアで熱病により33歳で病死。 左はアレキサンダー大王の遠征経路。アフガニスタンにはギリシャ系住民がわずかながら暮らしている。恐らくは2300年前の遠征時、現地に残った兵士の子孫だろうとのこと。右はガンダーラ遺跡の石仏。容姿や衣装にはヘレニズムの影響が色濃く残る。まさに東西文化の融合の象徴。人の移動は文化や宗教にも大きな影響を与える何よりの証拠だろう。私は中学の教科書で学んだと思うのだが。 「ゲルマン民族の大移動」も懐かしい言葉だが、深い意味は知らなかった。先ず中央アジアの「フン族」遊牧民で「匈奴」との説がある。4世紀彼らが西に向かって攻め入ったのがこの大移動の始まりだった。原始ゲルマンには、デンマーク人、スェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロサクソン人、オランダ人、そしてドイツ人の祖先が含まれる。 <戦うフン族の兵士> 彼らはフン族の侵入により、トコロテン式に移動を余儀なくされた。その結果ローマ帝国は東西に分割。一方民族移動の原因となったフン族だが、5世紀半ばにアッティラ王が王国を統一したものの、王の死後王国は瓦解した。 モンゴル族の最大版図(左)と元の皇帝フビライハン(右) 蒼き狼ことモンゴル族の英雄チンギスハン(成吉思汗ジンギスカン)は勇猛なモンゴル族の傍系として生まれたが、持ち前の実力をいかんなく発揮して、最後にはモンゴル族を率いるハン(汗=王)となった。モンゴルの草原から遥かに遠いヨーロッパに侵攻し、孫のフビライハンの時代には、最大の版図が左上にまで拡大。領土は当時の世界の4分の1、人口は世界の半分を占めたと言う。 チンギスハン(左)と発掘された彼の陵墓(右) 馬に乗って移動するモンゴルの兵は強い。気性も粗く、抵抗する者は皆殺しにし、敵の女を自由にした。そのため中央アジア各地の民族には、かなりの率でモンゴルの血が混じっているようだ。また大国ロシアは、今でもなおモンゴルを脅威と感じていると聞いた。きっと祖先たちが味わった恐怖の記憶が強く残っているのだろう。 季節外れのタカサゴユリ さて困った。今日で終わると思っていた「付録編」だが、思ったより文章が長くなり書けなかった分が少し残った。そんな訳で明日もまた雑談になるが、ご辛抱願いしたい。ではまたね。<続く>
2020.10.22
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~それぞれの旅~ NHKのドキュメント番組「シルクロード」と「海のシルクロード」の話は終わった。ここからは私版の「付録」。いわば歴史に思いを致す余りの「妄想」みたいなもの。15回のシリーズを書きながら、番組では出なかった歴史と旅に関する逸話をもう少しプラス出来ないかと迷っていた。今回は何人かの人物に光を当ててみたい。ただ私にそんな力があるかが問題だが。<2人の色目人> <タタール族の服装で> <東方見聞録> 男の名はマルコポーロ(1254-1324)。ヴェネツィア共和国の商人で冒険家。若くして父に連れられてヨーロッパ各地を巡り、17歳の時に叔父とアジアに向かった。1266年元の都大都(現在の北京)で皇帝フビライハンに謁見、政治官を任命され、楊州、蘇州などで徴税の実務に就いた。彼がイタリア語の他フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語に精通していたことが大きな理由だろう。 当時の楊州(後の揚州)は貿易港で、イスラム教徒も住んでいた。西域からの使者を送ると言う名目で彼は帰国を許され、17年間滞在した中国を去り福建省の泉州から船で帰途に就いた。ペルシャ(現在のイラン)からカスピ海沿岸を経由して1295年故国に帰った。24年間の大旅行について記したのが「東方見聞録」。日本も黄金の国ジパングとして登場し、南蛮船来航の引き金になったとか。 マルコポーロが辿った旅程。赤が往路で、緑が復路。文字通りユーラシア大陸を横断し、海路も2年を要するほど難儀、帰国後も逮捕されるなどで結婚したのは老年になってからと言う。 2人目の人物は鄭和(ていわ 1371-1434)。明代の武将で12歳の時に永楽帝の宦官(かんがん=後宮に入るため睾丸を抜かれる)として仕え、軍功を上げて重用され1405年から1433年まで7度の大航海の指揮を執った。最後の航海を終えたのは死の1年前と言う苛烈さで、到達した最遠の地は現在のケニア。本姓は馬だが「三保大監」の通称で知られる。大監は当時の役職名。 鄭和の祖先はチンギスハンの大遠征時に服属したイスラム教徒。祖先は雲南省の開発に従事。鄭和はその6世で、昆明で生まれた。大航海の指揮を命じられたのはイスラム教徒としての知識と語学力を買われたのだろう。当然だがマルコポーロの帰路と共通するところが多い。 マルコポーロも鄭和も当時は「色目人」(しきもくじん)と扱われていた。現在のようにイタリア人とかイラン人とかではなく、「異国から来た人」ほどの意味か。ただし当人に力量があれば要職に取り立てられることもあり、この2人が良い手本。国際色豊かで世界の富を集めた元の栄華が偲ばれる。その力が日本への攻撃=元寇となって現れた訳ではあるが。 守礼門 鄭和の本姓「馬」で思い出した。かつての琉球王国にも「馬姓」があった。ただしそれを名乗るのは中国に行く人だけ。琉球王国は当時中国の冊封体制下にあり、進貢していた。その使いが中国で名乗るために必要な姓で、貴族や有力な武士(さむれー)が名乗った。一族がその「姓」で集結し、「馬姓○○」と各自の苗字がその後に続く。一族の共同墓地である「門中墓」(むんちゅうばか)がその名残だ。 進貢船 琉球の進貢船は中国が建造して与えた。また東南アジアとの貿易には必ず中国人が乗り込んだ。通訳のためで、中国には各国語に通じた人材がいたのだ。船も人も借りた。その中国人の幾人かが琉球国に帰化した。その子孫が中国の旧姓を名乗るケースもあった。琉球の貿易はバーター貿易で、A国にはB国の品をB国にはC国の品をと取っ換え引っ換えして利益を増やした。 ただし中国に無くて琉球にある唯一のものが「硫黄」。硫黄は火薬の原料の一つだが、火山がない中国では産しない。奄美諸島の西に「硫黄鳥島」と言う島があり、ここで硫黄が採れた。17世紀初頭から琉球王国は島津藩の管理下となり、徳川幕府も島津に琉球の貿易を許していた。琉球からの進貢品に対して、中国の歴代王朝はその数倍もの品を与えた。船も通訳もその礼と言えようか。島津が硫黄鳥島をそのまま琉球領とした理由はそこにある。今なおポツンと離れた奄美の中の「沖縄県」だ。 サツマイモもサトウキビも琉球が中国から密かに持ち帰ったもの。薩摩藩は金になるサトウキビを琉球に作らせて税として納めさせた。そのため琉球は痩せた土地にサツマイモを植えて飢えを凌いだ。飢饉の際はソテツの実を灰汁抜きしないで食べ、多くの死者を出した歴史。それがサツマイモで救われたのだ。やがて薩摩から全国にサツマイモとして広まり、日本全体が飢えから救われた。 19世紀半ばまで続いた琉球の貿易の富は、そのほとんどを薩摩に奪われた。奪われた琉球側は、離島の農民に過酷な税を課した。いわゆる「人頭税」だ。ある背の高さまで育った子は一人前と見なして課税。中国と島津への二重帰属の長い労苦を思えば、幕末の維新活動は琉球の犠牲の下に為し得た成果とも言えよう。あくまでも個人的な見解だが、一抹の理はあると思う。<続く>
2020.10.21
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~長安へ還る~ 再放送「海のシルクロード」最終回のサブタイトルが~長安に還る~だった。この前の「シルクロード」の取材班のスタート地点が隋や唐の都だった長安(現在の西安市)で、そこからシルクロードの幾つかのルート上の風物を紹介し、ローマがゴール、今回の「海のシルクロード」は逆にローマをスタート地点として、海路で中国に戻り、大運河経由で長安(西安)に還った由。最初の取材から40年以上も経過した。その壮大な企画に驚く。 大慈恩寺境内に立つ「大雁(だいがん)塔」が画面に映った。西安のランドマークで、西域に向かう旅人は何度もこの塔を振り返りつつ長安に別れを告げたのだろう。玄奘三蔵(三蔵法師)が造営に関わったとされるこの塔は、既に700年代には傾いていた由。地下水の汲み上げでさらに傾きが増したが、その後の改善で少し戻ったそうだ。 長安は前漢、北周、隋などの都。唐代、近隣の諸国は都城建設の手本とした。シルクロードの起点であり、西都、大興、西京などとも呼ばれた。宋代以降は大運河と黄河が交わる開封に首都の座を奪われ、政治経済の中心から外れた。現在の西安市は市区の人口が987万人。西安碑林などを有する歴史の都として観光客の人気が高い。なお開封の地下には7つの時代の城跡が層をなしている由。度重なる黄河の洪水の大量の土砂に埋まったのだ。恐るべし黄河。 城門脇で発掘する作業者たち。発掘調査終了後、長安当時の城門を復元再建する予定とTVの解説。30年前の取材なので現在は見事な城門が見られるはずだ。 画面に寺院と仏像の修復作業が映ったが、場所がどこかは不明。 画面には中央アジアの人々や、シルクロードの石窟と仏像が映った。恐らくは以前の映像から抜粋したのだろう。 「シルクロード」第1部(12集)は1980年(昭和55年)の放送。そして第2部(18集)は1983年(昭和58年)からの放送。そして今回再放送された「海のシルクロード」は1988年から2年かけて放送された。もう昭和の最後だ。かつてのテーマ曲、喜多郎のシンセサイザーが懐かしい。 最初の取材からだと45年は経っているはず。一体そのうち何回番組を観たのか。中央アジアの男の精悍な顔や、パミール高原の峻険な山並みを思う。そして遥かに遠いわが家の歴史を思う。まだ幼かった子供たちが40歳を過ぎ、一番上は50に手が届くころ。しかし素晴らしい番組に出会えて良かった。まだ見ぬシルクロードの光景を、脳裏に思い浮かべることが出来るのだから。 今年も始まった「正倉院展」。私もこれまで2度観た。奈良の正倉院こそ、シルクロードの本当のゴール地点かも知れない。中には既に現地では失われたものもあると聞く。遥かヨーロッパやアジアから、陸路や海路を渡った宝物が、大切に保管されて来た古都奈良。だが隣の大仏殿ですら、何度か焼けている。正倉院も一度出火したが、扉を壊して中に入り、何とか消火したようだ。 多賀城南門復原図 最北の政庁。陸奥国府多賀城。現地では目下南門の復元工事が進んでいる。政庁付近の建物跡から、つい最近白磁の破片が発掘された。当時の役人が使用した物だが、多賀城が平安末期まで政庁として機能し証だ。奥州藤原氏三代の居館である「柳之御所」跡からは大量の青磁や白磁の破片が出土している。日本海を通じた交易ルートの存在を思う。そしてシルクロードが北の大地まで延びていたと信じたい。<続く>
2020.10.20
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~大運河の風景~ 「京杭大運河」を行き来する船の列。南の杭州から北の北京まで約1800kmにも及ぶ大運河の開削が始まったのは紀元前5世紀。そして隋の煬帝(ようだい・ようてい)が完成させたのが6世紀。つまり千年近くをかけての一大土木事業だった。日本の遣隋使や遣唐使もきっとこの運河を利用したのだろう。そして今もまだ現役の運河として生活に欠かせない存在だ。 運河の畔に建つ「古運河」の石標(左)と運河の所々にある閘門(右) 大運河は途中で長江(揚子江)と黄河を横切る。かなり水位が異なり、それを調整するための施設が閘門(こうもん)。パナマ運河にもこれの大掛かりなものが複数あり、大型船の航行が可能。もちろん古代にはこんな施設はなく。舟人の苦労が偲ばれる。長江の三峡ダムの直ぐ傍にも、大型船を通行させるための航路と閘門がセットであるそうだ。さすがは大河だけあるねえ。 「大運河」を完成させた煬帝の陵墓は水田の中にあり、他の皇帝の陵墓に比べれば、規模も体裁も実に貧弱。その理由は朝鮮の高句麗征伐にも失敗した挙句、大運河の土木作業に多くの民を使役し、その恨みを買ったためと言う。そのせいで隋は滅び、新たに唐が興った。 煬帝の霊を慰めるセレモニーのようだが、画面からはどこか冷めた感じを受けた。 既に通過した揚州には幾つかのイスラム教の寺院がある。ここもその一つ。杭州にはひと頃500人ほどのイスラム教徒が住み、海のシルクロードを介した貿易で巨万の富を築いたと言う。ところがそれを妬んだ賊に襲われて滅亡、以後貿易の拠点は福建省の泉州や広東省の広州に移った由。確かに広州にはイスラム教の香りがプンプン匂っていた。なるほどそういうことだったのかとようやく納得。 重厚な石の門の奥に一風変わった墓が見える。そして画面には右のテロップ。死者の名には漢字の当て字も。やはり異民族で、便宜上漢字の名を当てたのだろう。 写真はきっと死者の名だと思われる。アラブ系ならアラビア語、イラン系ならペルシャ語。墓碑銘に見る古く長い東西交易の歴史。だが広州のイスラム教徒はブタを食べた形跡があった。ひょっとして彼らは漢民族だったのか。 取材班は大運河を離れ、最終目的地である西安(かつての長安)へと向かう。このレポートも終わりに近づくころだが、話をどう展開させるかと頭の中でストーリーを組み建てる日々。書き手だけが知る苦しみで、かつ喜びでもある。翌朝前日のアクセス数を確認しながら、名も知らない誰かが日本のどこかで読んでいると感じて嬉しい。間もなくゴール。ガンバレ自分。<続く>
2020.10.19
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~「京杭大運河」で西安へ向かう~ たまたま観た「海のシルクロード」の再放送。もう31年も前の放送だが、取材には1年くらいかかったみたい。前回は最終回の画面のうち陶磁器の名産地、景徳鎮を紹介した。引き続いて「中国の陶磁器」を特集で3回組んだのは中国の陶磁器の素晴らしさを実感してもらうため、私が今年の1月旅順博物館で撮影したものを参考として載せたのだった。 <ネットから借用した揚州の風景> 今回は「京杭大運河」の入口にほど近い都市、揚州の紹介から始めたい。かつては木偏で「楊州」と書かれ、隋の時代から存在した都市。その後手偏の「揚」の字に変わった。広域(中国の県、特別市、それよりも広い地域と、日本の行政区とは大きく概念が異なる)での人口は460万人。そして市域だけに限った人口は118万人とウィキペディアにある。 「人生ただまさに揚州に死すべし 神智山光は墓田によし」。「もしも願いが叶うなら揚州で死にたい。神が作った風光の明媚さは墓所とするにも良い地だ」とでも言うべき古代の文人の漢詩。古来揚州には人を魅了する要素を数多く秘めていたのだろう。テレビの画面に多くの寺院の姿が映ったが、その全てが揚州に在るかは確かめようがないが。 運河の畔に建つ仏塔。高僧鑑真もここ杭州の生まれ。若くして仏教を学び、遣唐使として仏法を学びに来た日本の僧侶から、日本で仏法を説いて欲しいと熱心に乞われる。熱意に打たれた鑑真は日本へ向かう。だが船は嵐に遭って難破。6度目で渡海に成功した時、鑑真は盲目になっていた。度重なる艱難辛苦が視力を奪ったのだ。聖武天皇に乞われて唐招提寺住職となり、死の直前まで戒律を授け仏法を説き75歳にて入寂。 若くして律宗と天台宗を学び20歳で長安の都に上る。後に揚州大明寺住職となるが、前記のとおり日本僧に乞われ6度目で種子島に漂着。以後平城京にて日本の仏教の発展に寄与する。 若葉して御目の雫ぬぐはばや 芭蕉 日本への渡海に何度も失敗した挙句失明した和上。その尊い木像を拝した芭蕉は和上の頬に伝わる涙を、柔らかい若葉で拭ってあげたいと感じた。和上の信念と寛容と畏敬を感じた俳人が、思わず詠んだ一句。文学を極めた者にしか詠めない慈愛に満ちた句だ。 東林寺の山門と扁額(左)。奥には「大雄宝殿」の扁額を戴く建物が見える。「大雄」は釈尊の意で「宝殿」は「金堂」の意。取材班は静寂な境内に入って行き、僧侶が勤行をしているお堂を訪ねる。 スリランカの寺院の境内の巨大な涅槃仏(ねはんぶつ)。下はスリランカの寺で修行中の揚州東林寺出身の僧侶。たまたまスリランカで彼を取材したNHKは彼の画像を見せに、わざわざ彼を派遣した東林寺を訪れたのだ。東林寺には彼の弟がおり、仲間と共に兄の姿に見入った。遠く離れて仏教を学ぶ同志。30年前の画像なのに、中国全土で荒れ狂った「文化大革命」の影響は無さそうだ。旅は続く。<続く> <お断り> 写真の順序や説明は筆者の見解に過ぎないことをお断りします。また読者の理解のため、放送にはなかった画像も参考資料として挿入しています。
2020.10.18
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~旅順博物館の展示~(3) 旧満鉄本社(現列品館)にて 今日は~!!マックス爺です。1月の大連ツアーで行った旧満鉄本社です。今は一部を「列品館」として旧満鉄関係の資料を展示しています。ここにも美術品がありましたが、旧満鉄が収集した美術品の大半は「旅順博物館」で展示し、私も観て来ました。ここではそのうち「中国の陶磁器」に焦点を絞って紹介しています。「海のシルクロード」で出た景徳鎮の陶磁器、を私なりに補足しようとの考えからです。 赤地に金の椀。金色のは単なる意匠か、それとも芋のある文章だろうか。それにしても豪華だ。 緑の釉薬が素晴らしい酒器(左)と鳳凰が描かれた壺(右)も宮廷内のものだろうか。 珍しい文様が多彩な色で一面に施された深鉢。 文様を確認するために上下を逆転させました。やはり赤い龍で、宮廷用ですね。 花を中心に、内と外にびっしり描かれた図柄。手が込んで高価な深鉢。 大胆に魚が描かれた深鉢。内側が汚れているのを見ると、屋外で水蓮でも育てていたのか。 大胆な色遣いとデザインの大皿。 現代的な形と色だけど、きっと古い時代の作品なのでしょうね。 色遣いは唐三彩そのものですが、デザインの斬新さに驚かされますね。 一見稚拙に見える素朴な花柄の浅鉢。 陶製の枕です。こんなのをして寝たら首や肩が凝りそうですが。 左は青磁の壺でしょうか。右の壺は比較的新しい時代のデザインに見えますが。 青磁に金の縁取りとは意外な組み合わせ。相当な高級品でしょう。 青磁の祭器(中に酒などを入れて神に捧げるもの)でしょうか。蓋には取っ手がついています。右の祭器は、日本の古墳時代の「子持ち壺」にとても感じが良く似ています。ただし蓋はありませんが。 白磁の置物の聖人だけ向きを変えました。これで3回に亘った<特別企画・中国の陶磁器>(大連市旅順博物館所蔵)の紹介を終わります。楽しめましたか。同博物館の陶磁器以外の美術品は、後日紹介する予定です。明日からは再び「歴史と旅」~海のシルクロード~に戻りますので、ご愛読願います。<この項完>
2020.10.17
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~旅順博物館の展示から~(2) どうやら唐三彩みたいだ。昨日は見落としていたため、今日の冒頭に載せた。旅順博物館の中で、私はかなり焦っていた。実は明治期日本の「大谷探検隊」が発見したシルクロードの遺跡での人骨があるのだが、それは撮影禁止。でも観るだけは観たいし、その他の写真を出来るだけ撮りたい。だが館内の展示巡回ルートが分からず、何度も同じ場所を撮影したりもしていたのだ。今回それを発見し、何枚か捨てた。 昨日掲載した作品に景徳鎮関係のものがたくさん混じっているように思う。ただし私は陶磁器に詳しくはない上、景徳鎮以外にも中国には陶磁器の名産地が複数あることも知ってる。ただ台北の「故宮博物館」はじめ国内外の博物館をいくつか観た経験から、旅順博物館収蔵品のレベルの高さは直感的に分かった。関心の分野は違っていても、美術品、芸術作品の価値は何となく分かる。しばらく白磁が続く。 その後諸外国との貿易が始まるにつれ、相手国の求めに応じて、巧みに形や図柄を変化させてゆく。そこにも景徳鎮をはじめとする中国名鎮の技術の高さが認められよう。 同じ碗(わん)の内側と外側。私は尿意と戦いながら、どう撮れば美術品がより映えるかを意識していた。それもブロガーの根性。その努力が生きたのは、9か月後のことだった。 蓋つきの深鉢。「取っ手」が一見華奢(きゃしゃ)に見えるが、水車小屋の杵(きね)で搗いた長石は大きさに適度のばらつきがあるため、薄さに比べて焼成後も堅牢と番組で話していた。まさに芸術品だ。 陶磁器でありながら殷の青銅製祭器を思わせる形体。やはり祭祀用に作られたように思うのだが。 <上>花の赤と葉の青の見事な対比。朱の刻印は生産者に対して皇帝から許された証明だろうか。 <下>「五本爪」(通常は3本まで)の龍は皇帝だけが許された権力の証。宮廷に納められたものに相違ないだろう。それにしても旧満鉄はどのような経緯で入手出来たのか。旧満州王族愛新覚羅(あいしんかくら)氏(=清国皇帝の一族で後に満州国皇帝)との関係が考えられそうだが。 シンプルだが気品溢れる作品。白磁と染付のハーモニーが見事。 金の縁取り。柿渋色の地に金で書かれた文字。豪華な造りからも宮廷への献辞だと思われるが。 上と同じデザインの浅鉢。やはり中央に金色の献辞が記されている。極上の超レアものだ。 日本の皆さん你好!(ニーハオ)。中華航空のマスコットガールの麗娘(レイニャン)です。中国の陶磁器について紹介してくださり、マックスさまどうもありがとうございます。謝々(シェイシェイ)。マックスさまは仙台から大連への直行便で来られましたが、皆様は「ただ」でこれだけのお宝を拝見出来たなんてラッキーですね。ではまた明日。再見(サイツェン)!! <この項続く>
2020.10.16
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<旅順博物館の展示から> 入口の扁額 ここは今年(令和2年)の1月初旬に私がツアーで訪れた「旅順博物館」。場所は中国東北地方遼東半島の突端にある大連市です。昨日「海のシルクロード」シリーズで放送された景徳鎮の磁器を紹介しました。だが実際の作品はほとんど出て来ませんでしたね。あれではきっと読者は物足らないのではと考えたものの、良い考えが浮かびません。ネットから借用する手もあるのですが、臨場感が今一ねえ。 博物館に向かうツアー仲間 それでまだ紹介してなかった「旅順博物館」の美術品のうち陶磁器をブログで見せたらどうだろう。本当は本シリーズが終了し、少し落ち着いたころにと考えていたのですが。いや、景徳鎮を紹介した直後の今の方がむしろ適切かも知れないと、そう思い直したのです。 ただし、私が写真は景徳鎮の磁器だけではないはず。それでも中国の工芸品の素晴らしさを知る一助になるだろうと決心。ただし順序はアトランダム。私は専門家ではないので説明もありません。片っ端から並べるだけ。いつもここに来てくださる読者の方へのサービスです。現地へ行かないと、他の方法では観られません。そして載せたらPC内の画像も消します。それが私のやり方です。ではごゆっくり。 唐三彩の貴人像のように思えます。恐らくは国宝級の美術品でしょう。 恐らくは古代の皇帝の使用品でしょう。左の容器の蓋には龍が鉾されています。龍は権威の象徴で昔は皇帝しか使用が許されなかった霊獣。しかも後代その格式が定まって行きますが、ここでは割愛します。 景徳鎮の特徴が良く出ていると思われるこれらの作品は、超高級品です。 白磁に施された単純で美しい文様。多分景徳鎮だと思います。 赤の染付の美しさ。ひびの入った白磁の光沢と崇高さ。絶品ですね。 これにも龍の紋が入ってますね。撮影時には限られた時間の中で何を被写体にするかと必死です。光とガラスの反射、裏側に陳列された美術品との重なり、撮影の邪魔になるガラスの棚板。どれを撮って、どれがまだかも判然としない中での必死の作業。帰国後の写真の整理に手間取る理由です。 下部に膨らみのある壺の優雅な釉薬(左)と、やや平べったい偏壺(へんこ=右)を飾るつる草。西洋と東洋の文化の交流を思わせます。 大壺を飾る珍しい動物や植物。上部の蓋(ふた)に到るまで精緻な細工とシンプルな青の美しさ。 屈んで撮影しています。もっと一つ一つが離れて置かれ、しかも適正な照明なら、もっとこの作品も光り輝いて見えることでしょう。この「旅順博物館」は日本の「旧満鉄」が建てたもの。きっとこれらの美術館も満鉄の学芸員が苦労して中国全土から収集したものでしょう。今の大連市は財政難に追われ、日本人観光客が落とすお金で、古くなった施設を補修してるのが実態なのです。 「肩」の張り具合、「頚」の部分の装飾、全面に描かれた唐草模様などから、オリエント風のイメージを受けるのですが、どうでしょうね。 おそらく旧満鉄に勤務した学芸員たちは、戦前に東洋史、東洋美術史、宗教史、美学(哲学)などを学んで来たのでしょう。あの混乱期の旧満州で命の危険と戦いながら、中国の貴重な美術品を収集し、整理し、保存し、守って来たからこそ、これらの中国の宝が今日も観ることが出来るのです。 唐草模様の壺は明るい空色 何も奪わず、わが国の予算で現地に病院や図書館、博物館を建て、鉄道を整備し、街を整備したりと現地に尽くした日本を、未だに貶(おとし)める中国や朝鮮半島の国家。台湾や大連を訪れ現地の雰囲気を自分の目で確認した私は、改めて自分が日本人であることを今誇りに思っています。軽々しく「平和」を叫ぶのは簡単。平和はそして国土は命がけで守るもの。 簡単に紹介をと思っていたのに、思いのほか時間がかかってしまいました。こんな「特別編」ですが良かったらまた来てください。紹介したい作品は多いのです。後の問題は私の時間配分だけ。最近私は幾つかのブログを「お気に入り」から削除し、本当に必要と感じるものだけを残しました。人生も残りわずか。出来るだけ自分が納得出来る生き方をしたいので。今日もご来場ありがとうございます。ではまたね。<続く>
2020.10.15
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~景徳鎮の窯場にて~ 景徳鎮の川港 ここは景徳鎮(けいとくちん)。昔から有名な焼物の産地。あの「お宝鑑定団」でも時々耳にする名前だ。江西省東北部にある地方都市で人口は101万人。昨日載せた煙突の煙は焼物を焼くときの煙。高温を持続させるため、燃料として赤松の丸太を燃やすそうだ。ここの歴史は古く、前漢(紀元前206~8)には既に陶器の生産を始めていたと言う古さ。 陶器製造の工場街 元の名は「原平」。それが北宋時代の年号「景徳」を町の名とする。宋代(960~1279)には青白磁の梅瓶が宮廷で用られる一方、遥々ヨーロッパやイスラム圏へも輸出されたことで「china」が陶磁器を意味する元となった。その後明代から清代にかけては大量生産体制が確立した。中国陶磁器名産地である「四大名鎮」の一つ。日本へは江戸前期に舶来し、「南京焼」と呼ばれていた。 生産工場の窯場へ続く道 そんな栄光の歴史を持つ景徳鎮が、これほど寂れてしまったのは、中国全土で荒れ狂った「文化大革命」の際、高級な陶磁器は「旧文化」として迫害され、紅衛兵による破壊活動を受けたためだ。それでも何十かの窯場は残り、今では庶民の生活に欠かせない商品を中心に生産している。また高級品の製作と焼成は企業秘密として、取材班の撮影は許されなかった。 焼く前に天日で干される作品群。変形を防ぐために必要な措置らしい。そして均等に風に当てるため、作品は斜めに並べている。 店先に並べられた商品は、生活必需品としての陶磁器だろうか。 捨てられた陶磁器の破片 川の向こう側の山は陶土を採る山だが、取材班が近づくことは許されなかった。景徳鎮の陶土はガラス質「長石」を多く含むため、薄くても強く堅い磁器が作れるようだ。「ろくろ」は日本と逆で「反時計廻り」に回転させ、陶器の破片で土を削りながら成形して行く。 窯では赤松を長時間燃やす。窯の中の作品に直接炎が当たらないよう、「特別な容器」に入れる由。焼き上がった際に、作品の表面に「むら」が出来ないための独自の工夫。 陶磁器を満載したジャンク船が長江を下って行く。行き先は一体どこなのだろう。 テレビの画面に一瞬だけ映った磁器は「上海博物館蔵」のタイトルがついていた。 次に写ったのはオランダの博物館の内部。インドのゴアにあった「東インド会社」を通じての貿易品なのだろう。恐らく景徳鎮をはじめとする中国の高級陶磁器の収集としては、世界でも有数のコレクションと思われる。 エジプトのカイロから出土した磁器の破片の写真と、ゴミ捨て場で拾った破片の絵柄を比較してみる取材班。すると、オランダやエジプトへも取材に行ったのだ。そしてシャム湾(タイとカンボジアの南側にある)には、中国の陶磁器がきれいなままで残された沈没船が沈んでいる由。なるほど、景徳鎮の陶磁器が船に積まれてエジプトやヨーロッパに運ばれたルートつまり「海のシルクロード」が目に浮かぶ。 明日からは「俳句教室」の準備のため、一旦このシリーズから離れます。ただし「特別企画」を2,3回分臨時に挿入します。あっと驚く美しい写真。しかも今日は見られなかった超豪華なお宝です。「鑑定団」に出るような物とは別格。観るだけでも10万円の価値はあるでしょう。何せ私が現地で必死に撮った珍品で一見の価値あり。これほんとのことアルヨ。ではまた。 <不定期に続く>
2020.10.14
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<遥かなる旅と謎の道草> 外は雨。まだ青いユズの実が雨に濡れている。私は窓際の机から外を見ながら、思案を繰り返していた。さて、どんな風に今日のブログを書き進めるか。写真の整理は済んだが、話の展開が問題。何年か前から良く「字」を忘れる。パソコンで変換する場合は問題ないが、自筆の場合はそうも行かない。そんな時は先ず横線を一本引く。それをきっかけに「字の形」を思い出そうとの寸法だ。文章もそれと同じ。何でも良いから取り敢えず入力する。その先は気分次第。ケセラセラ。 前回分の翌日は、新聞のTV欄を確認した。夕方の6時から放送があると分かった。その時刻が来てリモコンのボタンを押して映ったのがこの画面。ほほう。今日がいよいよ最終回か。しかしなぜ「長安に還る」なのか。しかも長安(現在の西安)に行くのに、なぜ長江(揚子江)なのだろう。番組が進むにつれてその謎が次第に明らかになるのだが、それは全部観終わってからの話で、途中は。 現在地は長江河口に近い上海付近。どうやら西安へは黄色い文字の「京杭大運河」経由で行くみたいだ。何のためかはまだ分からない。中国の南北を貫くこの大運河は北の北京と南の杭州を結ぶもの。それで「京杭」なのだ総延長約2500km。日本列島がすっぽり収まる。そして完成後1300年ほどになるだろうか。「南船北馬」の言葉を思い出す。中国の南部は河が多いから移動は船が便利。しかし広大な北部は馬での移動が一般的だった時代の話だ。 長江ですれ違う船は巨大だ。そのデッキに大勢の人が見える。確かにこれだけの大河だと、大型船の航行が可能なのだろう。しかし取材チームが乗った船は揚州から運河へは入らずに、ひたすら西へと向かう。まだまだ謎は解けない。 上を車が通り、下を列車が通る二重方式の「南京大橋」。しかし川の濁りが半端じゃない。黄河なら分かるが、ここは揚子江(長江)のはずなのに。そして南京と聞いて思い浮かべるのは例の「南京大虐殺」。日本軍が南京市民30万人を虐殺したと主張して歴史遺産にも登録され、残虐な人形を陳列した博物館も建っている。すべては中国のプロパガンダの嘘。偽りが今では真実の歴史と認められてしまった悔しさ。 突然画面に映ったこの湖の名前は、今年知った。長江の中流から下流にかけては大小20以上もの湖沼がある。いずれもかつて長江が氾濫した河跡湖なのだろう。中には琵琶湖の20倍も大きいのまである。今夏長江の大洪水の際、「三峡ダム」の崩壊を防ぐためダムの水を放水したため増水。大都市を洪水から守るため土手を爆破して、農村部を「遊水池」代わりにした一つがこの湖だったと記憶している。 しかしなぜこの湖へ入ったのだろう。これじゃ西安へ行くには遠回り。と言うか、まるきり方向が違うではないか。取材クルーが乗った船は湖からさらに一本の川に入り、やがてとある川岸で停まった。目の前にはたくさんの工場らしき建物と、煙突から立ち上る黒い煙。おいおい。これは中国の大気汚染を伝える番組じゃないんだよ。「海のシルクロード」なんだけどなあ。心の中で叫ぶが、謎は深まるばかりだった。<続く
2020.10.13
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~「海のシルクロード」・途切れた地図~ インドのコショウ村(左)とインド洋を行くダウ船(右) 30年も前にNHKが取材・制作した「海のシルクロード」の再放送を4回分観て書き始めたこのシリーズだが、激しい疲労感のため一時休止していた。私が今回観たのはペルシャ湾のバーレーン半島から、インドの突端コモリン岬まで。それでは中途半端なので旅はまだ続くはずだが、確信が持てないでいた。それにしても初めて観る画面の風景をもとに文章を書くのは並大抵の苦労ではなかった。 同番組を観なくなってから12日目の夕方。何気なくTVを点けたら、なんとまだ放送が続いていた。「第10集・中国の門」とあるが、それは最後に分かったもの。その日観たのは30分過ぎた後半からで、慌ててデジカメを持ってTVの前に陣取った。ところが何が何だかも場所がどこだかも分からない。ただ気になった場面を思いつくままシャッターを切っただけ。撮った写真の整理にも手間取った。 この船を観て多分中国だろうと思った。しかし、コモリン岬からだと、ミャンマー(当時はビルマ)、タイ、マラッカ海峡、インドネシア、カンボジア、マレーシア、シンガポール、ベトナムは観なかったことになる。フィリピンもその可能性が高い。途中が飛んで五里霧中だが、それでも再度番組を観られて良かった。ただ疲労した心身で写真を理解するのが一苦労。中国の一体どこなのかと。 その答えが「食は広州に在り」のネオンサイン。広東省の省都広州だ。中国の南部に当たり、香港にも近い港町。宋朝や明朝時代、冊封体制下にあった東南アジア諸国からの進貢(貿易)船が入港したのがここ広州。ただし琉球王国と日本の貿易船は、北隣の福建省の省都である福州に入港するのが約束事で。中国との貿易には厳しいルールを守る必要があった。密貿易を防ぐための措置だと思う。 参考までに華南地方の地図を載せておく。華南は「中華」の南部の意味。福建省(若草色)も広東省(青い色)も共に沿岸部にあり、良港に恵まれて昔から海運が盛んだった。このため「海のシルクロード」としての機能を有していたのだろう。そしてその訳が次第に分かるようになる。 漁船に張り付けられた「所属港」の証明票。直感だが、港の名はいずれもイスラム教に関係するように思う。 <スラム教徒が住む地区(左)とアラビア語の掛け軸(右)> 新疆ウイグル自治区から来たこの人はウイグル族で、やはりイスラム教徒だ。 「南海神廟」。聞き慣れない名前だが、恐らくはイスラム教の寺院だと思われる。ただし中国の寺院は色んな宗教の「ごった煮」で儒教、道教、民間信仰なども併せて祀られていることが多い。中国南部にこれだけイスラム関係の文化、習俗が根付いている訳は何か。私はすぐ答えを見つけたと感じた。やはり「海のシルクロード」の影響で、それも長い歴史があったはず。そのことについては改めて記そう。 <市場の風景> <広州の祭りと、祭りの市> 名高い広東料理は上品な海鮮料理が中心かと思いきや。 物足らない方には、広州の珍味を紹介しましょう。左からサルの頭。生きたサンショウウオ。ブタの顏の皮。これは沖縄では「チラガー」と呼んで、市場でも売っています。チラは面(つら)カーは皮が訛ったもので。直訳するとブタの顏の皮。コリコリしてコラーゲンたっぷり。沖縄には「ブタは鳴き声以外は全部食べられる」の言葉があります。名言ですなあ。でもこんなのを嫌いな方がいたらゴメン。 テレビにこんなのが映りました。面白いと思って急いで撮ったのですが、「食べ物」なのか「置物」なのかは謎です。まあ旅に謎はつきもの。ではまた明日。<続く>
2020.10.12
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~気分転換第2弾~ 体調はかなり良くなりましたが、今日も本来のテーマから外れます。と言っても読者の皆様の気分転換になるかは保証しかねます。さて、ホワイトハウスのクラスター発生には開いた口が塞がらなかった。米国政府の首脳総勢40名以上が新型コロナウイルスに感染して陽性反応を示したと言うのだから、その映像を観ただけでも、いかに油断し危険性を無視してるかが分かる。 おまけにペンタゴン(国防総省)の幹部10数名も感染している由。驚くことに、大統領の「核のボタン」が入ったボックスを運ぶ武官もり患とはお粗末。危機管理意識の低さには呆然だ。これが今中国と激しく戦っているアメリカ首脳の実態とは。これで今世界で何か起きたらどうするのだろう。まあ副大統領がいるけどね。 第1回目の大統領候補者の公開討論会の中身の無さにも驚嘆した。あれでは単なる老人同士の罵り合いではないか。 第2回目の討論会は、両党の副大統領候補者同士のデイベイト。老人同士の罵り合いよりは、ずいぶん落ち着きもあり、討論の内容も筋が通っていた。「しかし」と思う。もし当選したバイデンさんにもしものことがあったら、州の検事を務めたと言うあの女性副大統領が中国を相手にするんだよ。頭の良さや理屈だけでは理不尽な相手をやりこめることは不可能と、いささか不安を覚えた次第。 3日ほど入院して治療に努めたトランプさん。3日間で退院したが、まだ顔は真っ赤で熱がありそうだし、息苦しそうにも見受けられた。幾らなんでもあれは強引。選挙に勝ちたい気持ちは分かるけど、あんまり無理すると再発やさらなる感染拡大が心配されるね。案の定第3回目、つまり大統領候補者同士による公開討論会は中止が決定した。そして郵便による投票は既に始まっているようだ。 トランプさんがコロナ感染と聞いて、菅総理がお見舞いとして打ったツイッターの英語が「まるでなってない」とかの評判だったが、識者によれば「特に問題なし」とのこと。それより驚いたのは、プーチンさんや、習近平氏までもが慌てて「お見舞い文」を送ったようだが、果たして本心なんだろうか。もしトランプ氏が負けたら、大統領の交代直前に中国が台湾に攻め入るとの噂も聞くが、さてどうなる。 日本学術会議の新会員候補のうち6名を総理が任命しなかったとのニュースが報道された直後、著名な映画監督が「それは研究の自由を侵すことになると」抗議したと聞いて驚いた。どうしてそんな風に考えるのか私には理解不能。別に会員でなくても研究は出来るのは自明の理。なぜ会議と研究が全く別物と気づかないのだろう。だって会員のそれぞれが大学や研究機関に属している人なのだから。 任命しない理由の総理の説明も、抽象的で理解不能だった。疑問を抱いてネットで調べたら、6名中5名は共産党支持者の由。どの政党を支持するのも個人の自由だが、政府諮問機関で、特定の政党色が強く出たらまずいように思う。学術会議の重要な任務である「勧告」がこの10年間出されてないのも疑問。当初は立候補制だった会員選出が、交代する会員が後任を推薦するのは「役得」の独占にならないか。 学術会議は「軍事や安全保障」に関する研究はしないとの決議を何度かしたようだが、中国の科学技術研究機関とは協力関係に関する協定を結んだ由。中国の研究機関が中国共産党や人民解放軍の軍事研究につながるのは当然。なぜ国内が悪くて中国の軍事研究には協力出来るのかが不可解だ。論理が大事な研究世界での二律背反は矛盾そのもの。 さて防衛庁の受託研究に応募して合格した北海道大学の教授の研究テーマを、決議に反するとして学術会議会員数名が北海道大学学長に申し入れた事実。その結果当該教授は研究が不可能になった由。これじゃまさに脅迫そのもの。どこに研究の自由があるんだよ。妨害された研究は、船舶の船底に水の抵抗を少なくする装置を取り付け、船の速度を上げると言う優れた発想だった由。 もし研究が採用されたら自衛艦のみならず一般船舶にも適用出来て、多大なる利益と利便性を果たせた可能性があったのにと惜しまれる。「研究の自由を侵すな」と言いながら、自分らの理念と異なる研究は脅迫して中止させると言う矛盾と暴力性こそが問題。「安全保障」に通じる軍事に関する研究は欧米の大学や研究所では、ごく当然のこと。「カーナビ」も元は軍事研究の応用技術なのだが。 そして欧米のアカデミー(学術団体組織)は自らの会費や協賛する団体や個人からの基金によって運営されている。「金は出せ。会員は自由に選ばせろ。しかし政府は口を出すな」。そんな勝手気ままなアカデミーは日本くらい。科学者は科学的で自由な発想が勝負。政府機関が必要とする一定の「決まり事」が嫌なら、自ら働きかけて自由なアカデミーを作れば良いだけの話だ。 私は国立大学と国立の研究博物館に40年以上勤務し、非常識な研究者が多いことを知っている。いわゆる「専門馬鹿」だ。そしてパワハラ、セクハラ、アカハラ(アカデミック・ハラスメント)天国でもある。この際徹底的に問題点を論議し、真に国益に沿う組織の在り方を検討して欲しいと願う次第だ。彼らは既に高額所得者。その上無駄な国費を費やす価値があるのか否か。 もちろん世界的なレベルの研究をしている方もたくさんおられる。実はそういう研究者ほど頭が低く、威張らないものなのだ。若くして学士院賞を受賞された教授、文化勲章を受賞された教授、そんな素晴らしい研究者と出会えたことを喜びとしたい。それらの先生方の温顔を、今懐かしく思い出している。
2020.10.11
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~庭仕事を楽しむ~ 疲労困憊につき、急遽テーマを身近なものに代えました。疲れの原因は10日間ほどぶっ通しで働いた庭仕事です。草取り、庭木の剪定、畑の整備を連日3、4時間ほどやってました。もう一つの原因は、ブログです。シリーズの執筆に熱中し、事前調査を含めてこれも1日4時間くらいかかっていました。その結果疲労から血圧が上がっての頭痛もあり、まあ苦しみの連続でした。その戦いの跡です。 南の畑 頑張った甲斐があって、庭も畑も見違えるようにきれいになってスッキリ。右端の雲南百薬を始末したら、後はタマネギの苗を植えるだけです。ここではキャベツ、ブロッコリー、白菜、大根が順調に育っています。白菜は間引きしたのを移植したところ、それも立派に育っているのが嬉しいです。夏以来4~500本くらいを収穫した「万願寺唐辛子」の苗を抜きました。冷蔵庫にあるので、昨日も料理しました。 東の畑 こちらも順調に育っています。東の通路は小石だらけで雑草を抜くのが大変。それで除草剤を撒きました。その後に雨が降ったため効果が落ちるかも知れません。野菜が育つにつれて、蝶々が飛来します。油断すると卵を産み付けるので、時々虫よけのスプレーを噴霧しています。今回は50リットル用2個分の雑草をごみとして捨てました。それは種があるもの。種のないものは抜いて裏庭に積んであります。 頬から血を流している疲れた顔の私です。剪定鋏でユズの枝を伐ってる時に、落ちて来た枝が顔を直撃。ユズの棘はとても鋭くて、長さは7cmほどもあります。間違えば大けがをします。目に刺さらなかったのが不幸中の幸い。瞼も貫くし、間違って踏めばシューズの底から貫通します。そんな危険な枝を30本ほど伐りました。右は伐った枝に付いてたユズの実。これも有効に活用しました。 庭仕事にも遊びが入ります。左は夏に落ちたミニトマトの種が発芽して成長したのを、植木鉢に移植してみました。寒くなるのでどこまで育つか分かりませんが、部屋で冬越しさせてみようかと。右はヴィオラ。これは冬用です。秋用にはケイトウの花を植え、共に郵便受けの下に置いています。 左のガクアジサイは梅雨の頃に切って挿し木しておいたものです。右は山椒(サンショウ)の木です。こちらはきっと鳥の糞に混じっていたのでしょう。今回の作業中に見つけたので、それぞれ別の場所に定植しました。これも遊び心からです。怪我をしたり、蚊に刺されたりと、辛いだけの仕事じゃつまらないですからね。 庭仕事の期間中にキンモクセイが満開になりました。近づくととても良い香りがします。これも激務を慰めてくれます。雑草退治の邪魔になるため、シュウメイギクは全部伐りました。梅、椿、木槿、モッコウバラも思い切って剪定。お陰でスッキリしたのは良いのですが、右手中指の第2関節がかなり腫れあがりました。鎌だとそこに力がかかるのです。氷嚢、エアサロンパス、バンテリンなどで治療。 雲南百薬の花 作業中は指2本をまとめてテーピングして補強していました、でもそのままだとパソコンのキーは打てないため、テープを外します。腫れて痛む指を庇いながらのブログ準備にも苦しみました。学術的な内容のため論理構成が気になります。疲れ切った体と、注意散漫な頭での連載物は激務でした。動かない指。回らない頭。肩や首の凝り。緊張から来るストレスと血圧の上昇。そして不眠の連鎖。 見納めのシュウメイギク そん体調でよくも9回分を書けたと思います。今日は力尽きて、書きやすいテーマに切り替えました。明日もさてどうなりますか。でもとても満足な私です。どんなに辛くても私にとってブログは命そのもの。だって生きている証ですから。ブログも人生も一日一日の積み重ね。わがブログを訪れて下さる読者の皆さん、どうもありがとうございます。そんなあなたが、大きな支えです。ではまた明日。
2020.10.10
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~「激動の日本と世界」~ シリーズで掲載して来た「海のシルクロード」だが今日は一旦休んで、NHKの特別番組「大戦国史」~激動の日本と世界~を紹介することにする。ちょうどフランシスコ・ザビエルが来日した時期の話であり、当時の日本を知る良い手掛かりになるとの判断だ。この番組が過去の作品の再放送かは知らないが、偶然にしても良く出来た話。私にとってはお誂え向きの内容で、奇跡のように付合したのだった。 天文12年(1543年)12月8日、種子島に一艘の難破船が漂着した。乗っていたのは100人余りだが、誰とも言葉が通じない。そこで薩摩の武将が明の儒者と思しき者と筆談した。乗組員の中に2人の異人がおり、2丁の銃を持参していた。これが日本へ鉄砲が伝来した初めての記録。種子島の島主は異人が撃って見せた銃を購入する。島主は刀鍛冶に命じて20丁の銃を複製させた。「種子島式火縄銃」の誕生だった。残りの1丁は噂を聞きつけてやって来た紀伊藩に譲った。この「種子島銃」が以後の日本の戦いを大きく変えることになる。 その6年後に日本へやって来たフランシスコ・ザビエルもその後の日本史に大きな影響を与えることとなる。藩主島津公に願い出て、薩摩での布教を皮切りに、豊後(大分)、京、周防(山口)でキリスト教(カトリック)の教えを説き、後に多くのキリシタン大名が誕生することになる。相反する銃とキリストの教えは、戦国時代の日本を大きく変える。ヨーロッパ人によってもたらされたこの2つによって、日本は大激動の世へと変わって行くのであった。 天下統一を果たしたこの3人の武将の対応も様々だった。古い体制を打破し、新しいもの好きな信長は日本人がキリシタンとなることを許し、安土城下にセミナリオ(上右)を造らせた。英語のゼミナールだが、ここでは神学校の意。自らも赤いマントを羽織り、ワインを飲み、黒人の奴隷をもらい受けて自分の家来にした。そして何よりも鉄砲の武器としての価値を真っ先に認識して整備を進めた。 「桶狭間の戦い」では奇襲攻撃で今川義元を破り、「長篠の戦い」では200丁もの銃で武田勝頼を破った。武田軍の銃弾は銅製で加熱して暴発するのに対して、信長軍では外国から取り寄せた鉛の銃弾を使用した。銃の精度と併せて殺傷力が高く、以後天下統一に向けての動きが一気に加速する。 秀吉はキリシタンへの改宗と銃による日本の支配をねらうポルトガル(後にスペイン)の野望の恐れを信長に進言するが受け入れられなかった。信長の後継者となった秀吉は天下統一を果たした後、武将へ功労の代わりに与える土地が国内になかったため明への侵攻を企図。その前哨戦として朝鮮へ2度出兵させたが秀吉の死でその夢は潰え、全軍引き上げた。 日本の銃の精度と強い武士の力を借りて明を占拠しようとしたポルトガルとスペインの野望は秀吉の死で潰えた。関ヶ原の戦いで勝利した家康は近江国友の鉄砲鍛冶に命じて、鉄砲製造の秘密を漏らさず、徳川氏以外からの製造依頼を断らせた。そして国友鉄砲鍛冶に、大筒(おおづつ=種子島よりも大きめの火縄銃)200丁の製造を命じ、オランダ商人にはカノン砲(大砲)20門の調達を命じた。 カノン砲(復元品) 家康はそれらの最新式の兵器を大坂の陣で使用した。カノン砲は550mも飛び、大坂城の城壁を撃ち抜いた。また大筒は2km以上飛び、大坂城に立て籠った大勢の浪人を殺傷した。こうして天下は家康のものとなり、江戸に開府した幕府は明治を迎えるまで260年も続いた。 オランダ人は家康に訴えた。私たちはキリスト教の布教はしません。貿易だけが目的です。家康は彼らを信じて日本との貿易を許した。オランダ人の真の狙いは「銀」。当時世界の銀の大部分はスペインが握っていた。それはメキシコや南アメリカ大陸の鉱山開発で得られたもの。そこでオランダは日本の銀に目を付けた。佐渡や石見など有力な銀山があることを知っていたのだ。 またオランダ人はこうも言った。日本の侍を貸してくださいと。東南アジアでスペインに勝つためには、強い日本の武士を利用するしかないと考えたのだ。関が原や大坂の陣以降、国内には主を失った浪人がたくさんいた。彼らを野放しにしておくのは危険。それに異国と貿易すれば富も得られる。 朱印船(左)と当時の貿易相手(右) そこで家康は外国との貿易を許可する朱印状を希望する藩に発行した。もちろんオランダ人と一緒なのだが、やがてそれを禁止する。そして取った政策が「鎖国」。外国との貿易で得られるものも多いが、失うものが多いことに気づいたのだ。それは国内の銀の消費が早いこと。国際情勢を知らない日本は、銀の価値に気づいてなかったのだ。それで世界との窓口を2つに絞った。 出島風景 その一つが長崎の出島。埋立地にオランダ商館を建て、オランダ人を住まわせた。もう一つの窓口は同じ長崎の平戸。こちらは専ら中国(明)との貿易に限り、後に長崎に移動した。 シーボルトと日本地図 出島で有名なのは何と言ってもこのシーボルトだろう。彼はドイツ出身の医者で、博物学者でもあった。東洋のしかも日本に来たくてオランダ政府の要望に応えて来日。極めて優秀な医者であったため特別に許され、長崎市内の「鳴滝塾」で日本人に西洋医学を伝授した。その評判を聞きつけて全国から若者が医学やオランダ語を学びに来た。 解剖学の専門書である「ターフェル・アナトミア」を訳したのもそんな彼らの影響。杉田玄白らが苦労して翻訳し「解体新書」として世に出、ヨーロッパの最新情報も入手したのだ。だがあることでシーボルトは国外追放となる。間宮林蔵が探検して発見した「間宮海峡」などが載った精緻な日本地図を国外に持ち出そうとして発覚。だがそれまでの功績により罪を軽減された。世に言う「シーボルト事件」だ。 黒船 鎖国の夢は4隻の黒船によって破られた。列強による開国と通商の要求が一気に高まった。維新期の激動は既に知る通りだ。だがその苦難を日本人は乗り切った。あの種子島銃をわずかな期間で再現したように、製鉄のための反射炉を製造したり、なんと蒸気機関まで再現した藩や、近代的な軍隊を整備した藩もあった。アジアでいち早く近代化に成功し、欧米に伍して戦えたのも、日本人の誠実で研究熱心な気質が生んだ「奇跡」だったのだと思う。さて明日からは再び「海のシルクロード」に戻る。<続く>
2020.10.09
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~「海のシルクロード」その4~ ゴアの教会 ヤシの木が立つインドらしい風景の奥に、カトリックの聖堂が見える。ここゴアはかつてポルトガルのイエズス会がアジアへのキリスト教布教の拠点とした地。日本へやって来たフランシスコ・ザビエルもここゴアから船出し、中国経由で鹿児島県の坊津に上陸した。それにはヤジロウと言う名の日本人青年が深く関わっている。 フランシスコ・ザビエル(1506-1552)はスペインのバスク出身。カトリックの布教を目指してローマに赴き司祭の資格を得、ポルトガル王の依頼により1541年リスボンを出航し、翌年インドのゴアへ到着。1549年ヤジロウを伴ってゴアを出航し、鹿児島到着。藩主の許しを得て鹿児島、大分、京、山口などで布教活動に励み、1552年布教先の中国広東省にて熱病で病死した。 遺体は石灰を敷き詰めた棺に入れられ、マラッカ、ゴア、ポルトガル経由でローマへ運ばれ、聖人とされた。法王の命により切断した右腕はゴアのポン・ジェズ教会(右上)に移送され、現在も教会内に安置されている。戦後間もなくの頃、東京へもその「聖なる右腕」が来た由。 コショウの積出 取材班はコショウの積出港を目指してさらにインド洋を南下する。目的地のアレッビ港には着いたものの、その周辺では現在コショウの栽培はしておらず、そこから300kmも離れた山奥へトラックで撮影に向かう。プロの執念を感じたものだ。 山奥のコショウ畑とコショウの収穫作業 コショウの運搬作業(左)と古い時代の金貨(右) インドのコショウや香辛料は、昔からヨーロッパの人々の暮らしに欠かせない必需品。肉の鮮度を保ち、豊かな食事と味をもたらしたからだ。ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路が発見される以前からペルシャ湾や紅海経由で各地に運ばれたのだろう。ローマやギリシャなどの金貨(右上)が積出港の富豪の邸宅に今も残されている。「1グラムのコショウは1グラムの金に相当する」と言われた所以だ。 コショウの実 私は31年前に沖縄に転勤し、これとよく似た実を那覇市首里金城町の屋敷の石門で見たことがあった。地元の人から「ヒハツの実」と聞いた瞬間に、きっとヒハツは「ペッパー」から変化したのだろうと直感した。だが昨日ネットで調べたところ、「ヒハツ」は元々サンスクリット語で英語の「ペッパー」の語源だったことが分かった。何と逆だったのだ。こんな風にして、時たま直観力が役立つことがある。 梵字(参考) 因みにサンスクリット語はラテン語同様「話し言葉」ではなく「書き言葉」。中国に渡って「梵字」(ぼんじ=上図参照)となり、「卒塔婆」(そとば=サンスクリット語のストーパが変化)に書かれた文字などがそうだ。中国へ渡った空海は、わずか1年でこのサンスクリット語を習得し、インド伝来の経典を梵字から漢字に翻訳して日本に持ち帰った。寺の高僧が空海の智力を見抜き、中国人の弟子にではなく一私渡僧に過ぎない日本の若者に密教の奥義を託したのだ。 コモリン岬の夕日(左)と海に向かって祈るヒンズー教徒(右) インド亜大陸最南端のコモリン岬は、朝日が昇り夕日が沈む地。その両方を見ることが出来る岬は、ヒンズー教の聖地の一つ。熱心な信徒が毎日のように海に向かって祈る姿は厳かだ。岬から東はベンガル湾。そして西はインド洋とアラビア海。古来この岬を目印にして多くの民族がアジアとヨーロッパを行き来したのだろう。私の拙い歴史談議につき合ってくださる読者各位に、心から感謝したい。<続く>
2020.10.08
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~「海のシルクロード」その3~ ダウ船はゴアの港に着いた。ゴアはインド西海岸にある州だが、マンドウイー川の河口の島の町で天然の良港でもある。11世紀初めから貿易港として栄え、14世紀頃はイスラム系の王朝があり王の庇護のもとに、馬や香料の貿易で繁栄した。馬は恐らくアラブ系のサラブレッドだろう。香料は料理には欠かせない貴重品だが、この周囲は古くからの生産地だった。 ゴアの貿易商の室内。棚に飾られているのは中国の陶器やアフリカの彫刻だろうか。貿易港として重要だったゴアは、16世紀から20世紀までポルトガル領インドの一部だった。1510年ポルトガルのインド提督は千名の兵士を率いてこの島を占拠する。地元の王も一度は奪い返すが、最新式の銃をもつポルトガルには歯が立たなかった。 ポルトガルのリスボンにある「発見者の記念碑」 エンリケ王、コロンブス、マゼラン、ヴァスコ・ダ・ガマなどが刻まれている。「大航海時代」の激動の歴史を振り返ってみよう。 1492年 スペイン王の支援を受けたコロンブスが西インド諸島など新大陸を発見。 1499年 ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を経由したインド航路を発見し、インドへ上陸。 1510年 ポルトガルがゴアを占拠。 1580年 スペイン王フェリペ2世がポルトガル王位も継承し、両国を併合する。 1588年 イギリスがアルマダの海戦でスペインの「無敵艦隊」を破る。 1648年 1568年から続いた「80年戦争」でオランダがスペインを破って独立。 東インド航路 オランダ「東インド会社」社章 <各国の東インド会社経営史> <イギリス> 1600-1874 <オランダ> 1602-1800 <デンマーク> 1616-1729 *途中休止時期あり ジェノア(イタリア) 1664 <フランス> 1664-1769 <ポルトガル>1628-1633 <スェーデン>1731-1813 <オーストリア>1775-1813 ヴァスコ・ダ・ガマのインド上陸図(左)とザビエル(右) ヨーロッパ列強によるアジアや新大陸進出の目的は貿易や富の略奪だったが、その一方でイエズス会神父によるキリスト教の布教と改宗の狙いもあった。こうして戦国時代に向かいつつあった日本へも、ヨーロッパ文化の波がひたひたと近づいていたのだ。今回は放送内容をかなり逸脱し、「大航海時代」当時のアジアへの影響を参考までに記した。<続く> ゴアの市場にて
2020.10.07
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~「海のシルクロード」その2~ 半月ほど前に観た番組なので、記憶が定かでない部分がある。放送を見ながら後で使えそうと感じた場面を何枚か撮った。今それを見、思い出しながら書いている。また補足のためネットで検索した画像も交えた。取材と異なる部分があるのはそういうわけで、お許しいただきたい。 バーレーン周辺からダウ船に乗り込み、緊張感溢れるホルムズ海峡を通過し、オマーンのマスカットに寄港し、そこからパキスタンのカラチへ向けてアラビア海を突っ切ったことは記した。そこから先はインドの西海岸を南下し、最南端のコモリン岬へゴールするまで3度ほど船を乗り換えた。乗ったのは相変わらずのダウ船。小型の帆船で各地で商品を仕入れ、それを他の港で売ると言う商売だ。 海は穏やかな時ばかりではない、モンスーンが荒れ狂う時などは身近な港に逃げ込んで嵐をやり過ごす。船にレーダーなどはなく、彼らは太陽と星の位置で現在地を推測し、インド洋やアラビア海に乗り出して行く。先祖代々、2千年近くもそんな暮らしを続けて来た海洋民族。東西を結ぶ航路。「海のシルクロード」は確かに今も存在していた。 ダウ船はとある港町に立ち寄る。川辺に係留された小型船。そして岸辺のバザールには地元の人々が集まっている。町の名は「トマ」。ある聖人の名前から付けられたらしい。 木々の間に白亜の建物が見える。TVの画面に「聖トマス教会」の文字が写る。インドでは珍しいカトリックの聖堂。船を降りた取材クルーは、町で不思議な話を聞くことになる。 トマスはキリストの12弟子の一人。最後の晩餐ではイエスの向かって直ぐ右側に座り、手を空中に浮かした人物(右)。左は巨匠ベラスケスが描いた「使徒聖トマス」。しかしなぜ彼はエルサレムから遥かに離れた東洋の地までやって来たのだろう。 イエスの死と復活を見届けた弟子は、キリストの信仰と奇跡を伝えるため、各地へ向かった。レバノンの海岸沿いに北に向かえばアナトリア半島(トルコ)、そこからさらに西へ向かえばギリシャやローマ。だがそれらとは異なって、一人だけ東に向かった使徒がいた。男の名はトマス。ようやくたどり着き彼が布教を始めた土地を、インドの民は「トマ」と名づけた。 聖トマスが時々1人瞑想にふけったと言う岩山は、現在カトリック教徒たちの聖地となり、ことあるたびに各地から巡礼にやって来ると言う。撮影スタッフもその後を追って、山の頂に登った。 聖トマス教会の内部。十字架の前に佇んでいるのは聖トマスと聖母マリアだろうか。マリアの腕には幼子が抱かれているように見える。極暑の地南インドの教会でも、日曜や聖日ごとに敬虔なミサが開かれているのだろう。 民族衣装での結婚式。インドではヒンズー教、仏教、ジャイナ教、イスラム教などが信仰され、それらが複雑に混じった土着の宗教もある。聖トマス由来のキリスト教も、その後の貿易やヨーロッパの植民地となった関係から、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントと様々なのであろう。<続く>
2020.10.06
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~「海のシルクロード」その2~ 昭和63年から64年にかけて放送されたNHKの「海のシルクロード」。もう30年も前の番組の再放送だが、新聞の番組欄を見てなかったため、何が何だか分からないうちに突然放送が始まった感じ。でも私にとっては興味あるテーマなので、TVの前に座って食い入るように画面を見つめていた。 当時NHKが取材した地域の地図。正確に言えばアラビア半島の東南部からインド亜大陸の西岸部までだったが、周囲との位置関係が分かりやすいと思い、ネットで検索したこの地図を載せた。英語だし字がぼけて見難いが、想像を働かせて欲しい。出航したのはペルシャ湾に突き出たバーレーン半島のアブダビ周辺。そこから角のように尖がって、イランの軍艦が警戒しているホルムズ海峡を通過し、オマーンの首都マスカットに寄港。そこから一気にアラビア海を横切ってパキスタンのカラチへ。 そこから船を乗り継いでインドのボンベイ(現在のムンバイ)へ向かい、さらにオランダの東インド会社があったゴア、キリストの十二使徒の1人である聖トマスが布教に訪れたとの言い伝えがあるトマ。さらにかつてコショウの積出港だったと言う小さな港から、300km奥地に入ったコショウ栽培地を訪ね、最後にインド最南端のコモリン岬を訪ねて終わった。そこは海から朝日が昇り、海に夕日が沈むヒンズー教の聖地だった。今日は駆け足で旅の概要を紹介した。 これが取材スタッフが便乗したダウ船。木造の小型帆船でアラビア海やインド洋の貿易風を利用して帆走する。昔ながらの手作りで、釘1本使っていない。昔からこの船で南アジアと中近東を往復して来たが、無風時に備えて最近では小型のエンジンを積載していいる。 乗組員は船長以下5人。イラン人、アラビア人、アフリカ人、インド人と多彩だ。船長は乗組員にはそれぞれの母国語で指示する。イラン人へはペルシャ語、アラビア人にはアラビア語、アフリカ人にはスワヒリ語、そしてインド人にはヒンディー語で。船長には4人の妻がいると言う。イランに1人、アラビアに1人、そしてインドに2人。インドは広いために航路が長く、時間がかかるからだそうだ。 欧米諸国と緊張関係にあるイラン。今でも厳しい経済的な制裁でイランは殺気立っている。だから狭いホルムズ海峡を通過するのは危険が付きまとう。遠くから艦船が近づいて来て緊張したが、イタリアの軍艦で一安心。極力オマーンの海岸に近寄って走り、無事オマーンのマスカットに入港した。 雑然としたマスカットの港。小型の漁船や貿易船でごった返している。取材班の乗ったダウ船は休む間もなく出航する。次はアラビア海を突っ切ってパキスタンのカラチ港へ向かうようだ。カラチからは綿布を積む予定とのこと。カラチの手前で風が止んだがエンジンがからない。機関士は必死に動かそうとするが何せ古い装備。何とか作動し、1日遅れで目的地に着いた。 さて、アラビア半島南端のオマーンとイエメンはかつてシバの女王の国と言われた。女王が直接支配したのはエジプトやエチオピアだったが、紅海を挟んだこの地へも強い影響を保持していたようだ。金を算出し、薫り高い乳香の産地だったこの地は、古代からヨーロッパとアジアをつなぐ中継地。文字通り「海のシルクロード」だったのだ。<続く>
2020.10.05
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~「海のシルクロード」その1~ NHKがかつて放送した「シルクロード~絲〇之路~」の再放送を観たことについては既に書いた。シルクロード」第1部12集は昭和55年(1980年)の放送だった。もう30年前のことだ。第2部18集は1983年からの放送。テーマ音楽、ナレーションともに懐かしく、明治以降各国の学術調査隊が中国奥地などにこぞって向かった記録などもあって貴重だった。 「海のシルクロード」は昭和63年から翌年にかけて放送されたようだが、全く観てなかった。私は新しい図書館づくりを1人で手掛けていて、人生で最も忙しい時期だった。このたび再放送は、全くの偶然だったがそれだけに嬉しかった。名前だけは知ってる「海のシルクロード」だが、その実態は知らない。「一帯一路」で今注目を浴びているこの地域と歴史、人々の暮らしを知ることが出来て本望だった。 イタリアベネチアの商人の息子マルコポーロ(1254~1324)は17歳の時叔父に連れられて、極東の地に向かった。好奇心からのことだが、結局彼はその後24年間にもわたってアジア各国を旅し、訪ねている。帰国後に書いた本が有名な「東方見聞録」だ。さて地図の海中に緑の線が見える。実はこれが彼の帰路。アラビア海のイランの港で下船し、そこからは陸路でローマに向かった。 中央アジアを通る陸路のシルクロードもほとんど自分で足を踏み入れる地ではないが、マラッカ海峡、インド洋、そしてペルシャ湾もおいそれと行ける場所ではない。私たちが知ってる中近東と言えばアラビアンナイト(千一夜物語)が関の山だろう。だが、アルコールもガーゼもアラビア語と知れば、少しは親しみが増すかも知れない。さて次回からはいよいよ船での旅を続けようと思う。<続く>
2020.10.04
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~「コウラン伝」を観て(2)~ タイトルは「コウラン伝」なので、確かにコウランと言う女性を中心にドラマは進展するのだろうが、私の興味は奴隷となった彼女を買った邯鄲の商人呂不韋(りょふい)の今後の行動。それにしても古代中国の小国家「趙」の貴族や王侯の暮らしぶりからスタートしたこの話は、韓国の「時代ドラマ」とはちょっと様相が異なる。韓国のは到底「歴史ドラマ」とは言えない。なぜなら全くの創作だからだ。 写真左は宮城谷昌光著の「奇貨居くべし」。上下2冊だったか。私はこれを読んだ。右はそれを漫画化した作品で、今はこんなのが出てることに驚いた。小説でも胸がワクワクするほど面白いのだから、若い人が漫画に惹かれる気持ちが分からないでもない。それにこの呂不韋。ヒロインのコウランに負けぬほど春秋に富んだ人生を送るのだ。まさに一世一代の出世話。しかもその内容が奇想天外だ。 左は秦の始皇帝。中国で初めての統一国家「秦」を興した男。だが世の中の評判はすこぶる悪い。残虐な暴君として有名だ。例えば「焚書坑儒」。(ふんしゅこうじゅ)。医学、農学、占術などの一般書を除く書籍を悉く燃やし、自分を説教した儒者を穴に埋めて皆殺しにしたとされる。だがそれは中国の歴史家司馬遷が「史記」(右)に記したことで、後世の人がそれをそのまま信じたのが原因と言われる。 始皇帝の陵墓(左)と地下の「兵馬俑」(右) 始皇帝の陵墓は多くの国民や兵士を使役して造らせたとされるが、実際に造営工事に当たったのは他国の捕虜だけで約70万人のようだ。また兵士として駆り出された秦の国民は、20歳から50歳までの男子で、しかも徴兵期間は4年間のみだった。さらに始皇帝は1人の部下も殺してない由。中国の正史は前王朝を倒した次の王朝が書くのが通例のため、自分に有利な記述を王が歴史家に求めたのだ。 中国の歴史は古い。目下考古学的に存在が確認されているのが夏(か)。次が殷(いん)で、最近では商(しょう)とも呼ばれている。次が西周で春秋戦国時代と続き、全国を最初に統一した国家が「秦」なのだが「コウラン伝」はスタートしたばかりでそこに至るにはまだまだ遠い。さて、コウランと呂不韋の運命がどう転び、秦がどう変遷するか、引き続きドラマを楽しむ予定だが、この話は一旦筆を擱(お)く。<続く>
2020.10.03
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~中国古代史への旅その1「コウラン伝」を通じて~ このシリーズを書こうと思ったのは、最近立て続けに歴史に関する特集やドラマを観たのがきっかけ。4つか5つは観たと思うが、今日は一つ一つそのタイトルを上げないで置く。最初に舞台裏が見えると詰まらなくなる。見えないくらいでちょうど良いのだ。それにその話の回になれば当然タイトルも分かる。今日は第1回だから、つい最近観たタイトルを上げてこう。「コウラン伝~始皇帝の母~」だ。 日曜日の夜に観ていた韓国の「時代ドラマ」が終わって少し気が抜けていた。新聞のテレビ欄で最初に番組名を観た時は、コウランが何者かを知らなかった。韓国っぽいがどうやら人名が難しいためカタカナにしたようだ。始皇帝との関係も知らずに、いきなりドラマが始まった。でも古い時代の上流階級の邸宅であることは舞台背景で分かった。中国制作になる歴史ドラマを観るのは初めて。いきなりトンデモナイ場面から話は始まった。 中国「春秋戦国時代」の地図。同時代は紀元前770年から紀元前221年まで。10以上もの小国が覇を競って戦いに明け暮れていた。話のヒロインであるコウランは趙(ちょう=図では上の方の黄色の国)の都である邯鄲(かんたん)の名家に生まれた美女。だが同家には複雑な事情があり、いきなり彼女の生母が後添えの妃に殺害され、それを機に義理の妹は、コウランの許嫁に近寄る。 カンタン 邯鄲と聞いて直ぐに思い出すのがこの虫。漢字は一緒なのだが紛らしいためカタカナにした。とても良い声で鳴くらしいが、聞いたことはない。次に思い出すのが「邯鄲の夢」。仙人から借りた枕をして寝た青年が大金持ちになる夢を見る。だが目が覚めたら元の場所。コウリャンが煮える間もなかったほどの短時間。はかない夢物語の有名な故事だ。 私が初めて知った中国の不思議な話は「杜子春」だった。これも貧しい青年が道士の魔法の力を借りて3度も大金持ちになったと言うような粗筋。芥川龍之介が中国の奇談から採った短編小説だ。わが国にも「日本霊異記」(にほんりょういき)と言う不思議な数百篇のお話があるが、こちらは仏教の説話集だ。 話が進んで奴隷市場に売りに出されたコウラン(左)を呂不韋(りょふい=右)と言う男が買うことになる。この男の名にはどこかで聞き覚えがあった。さてどこだったか。宮城谷正光の中国歴史小説の一冊だ。翌日ネットで調べて「奇貨居くべし」(きかおくべし)の主人公だと思い出した。「奇貨」とは価値があるもの。「おくべし」は自分の手元において大事にすること。因みに呂不韋は邯鄲の一商人。 私はこのドラマが今後どう展開するかは知らないが、彼がその後どうなったかは本を読んでいるので知っている。全くトンデモナイとでもいうべき結末だ。中国と言う大国のまるで大河のような歴史の流れ。その流れに飲み込まれてもがき苦しむ王侯、軍人、そして民衆。男と女。歴史は歴史としての面白さがあるが、それが映像化された歴史ドラマは、さらに面白さが加わるようだ。<続く>
2020.10.02
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~旅への序章~ 今日から10月に入ったので、新しいテーマでブログを書こうと思う。テーマは歴史だ。「またか」と思う読者がいるかも知れないが、書き手にとっては書きたいことを書くだけのこと。歴史は好きだし、文章を書くのも好き。そしてブログに載せて誰だか知らない読者に読んでもらえるのも好き。問題は何を取り上げ、どんな順序でどう描くかだ。ただ、さしたる準備もせずにいきなり書き出すのもどうかとは思うが。 「日本の歴史」に興味を持ち始めてから40年近くになる。関連する分野の専門書を自分で選び、通勤時などに読んだ。いや、それより面白かったのは漫画の歴史シリーズか。確か図書館で借りたはず。年代順にざっと理解するのに役立った。いわゆる「通史」だ。 一方専門書は、その道の専門家が研究成果に基づいて書いてあるため、難しいし文章も堅苦しくて詰まらない。見開きの2ページを読むのに1週間以上かかり、1冊を読み上げるのに1年かかったりもする。その悪戦苦闘が良い修行になるのだ。それを重ねるうち、要点が微かに見えて来る。 読書の対象も広がる。歴史には関連分野があるからだ。考古学、人類学、言語学、民俗学、文化人類学、地理学等々。そして朝鮮半島や中国の歴史は、歴史小説や通俗書だったが役に立った。そして現地に立つ重要性。神社、古墳、遺跡、貝塚、博物館や美術館。 たった1回だけど、発掘調査の真似ごともし、現地説明会にも2度立ち会った。転勤も、その地の歴史や文化、言語、暮らしぶりなどを知るのに有益だった。 6つ目の転勤先の沖縄では、仕事上沖縄関係の本を読んだ。歴史、文化、言語、宗教、文学、音楽、芸術、生態など300冊は読んだ。そして城(ぐすく)、拝所(うがんじゅ)、御嶽(うたき)などの聖地も50か所近く訪ね、20近くの離島へも行った。それが「体感」と言う読書では得られない生きた勉強になった。そして「日本」との比較も出来た。 旅行も趣味のランニングも役立った。歴史に関わる場所を訪れることが出来たからだ。辞職後は遺跡巡り歴史巡りの旅もした。ブログに紀行文を書く際、ネットで調べた情報が勉強になった。オーストラリア、中国、台湾でも幾つかの博物館や美術館を観、比較出来た。最近はyoutubeに結構役立つ情報がある。ただし「本物」を見分ける目が必要だが。 「源氏物語」など私にとっては何の役にも立たない。たかが女好きの王侯貴族の話。その時代の暮らしも、民衆の苦しみも全く出てこない。歴史性のない絵空事。それより役立ったのが歴史小説。日本と中国とで200冊ほど読んだか。特に幕末関係の話は、それまでの古代史から近代史や現代史へと近づく端緒になったような気がする。初回はこんな退屈な話でゴメン。<続く>
2020.10.01
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