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<中国の大衆娯楽・雑技団を観る(1)> 昨年行った「台湾一周旅行」でもそうだが、ツアー中のオプションは極力と言うか、必ず観ることにしている。お金はかかるが次にまた行ける保証がないからだ、今回の「大連・旅順ツアーでも大小5回ほどのオプションがあったが、オプションらしいオプションはこの「雑技団観覧」だったのではないだろうか。当初は団員が春節の興行に行ったため中止とのことだったが、幸いにして復活した・最初に現れたのがこのマジック。素人に毛が生えた感じで、「な~んだ。中国雑技団はこんなもんか」とガックリ。 場所は観客が100人も入らないような小ホール。観客は全て日本人で、3つほどのツアーの寄せ集めと言った感じ。遅れて行った私たちは列の後方に並ばざるを得なかった。「良いところでは立って写真を撮りますので」と後ろの席の人に挨拶。「ああ良いですよ。私たちもそうしますから」と明るい返事が返って来た。中年の女性と青年のコンビだが、何とも「間」の取り方が今一テンポが悪い。 両手首と体をロープで厳重に縛られた青年が、小さなテントの中に入って行く。まあほぼ推定出来る「脱出劇のシナリオ」だが、日本じゃないのでブーイングは飛ばさない。 「約束通り」無事青年はテントの外へ脱出して来た。「万雷の拍手」とまでは行かないが、ホール内にごくささやかな拍手が響いた。すると舞台の前には、早くも次の「出し物」。上半身裸の青年が金属製のロープを首に巻き付けられている。「もっと強く巻いて」と観客に要求する青年。これも「約束事」か。 左右からロープを引っ張られながら、首の圧迫と痛みに耐えた筋肉青年が、観衆に対して、「これご覧の通り大丈夫」と猛アピール。 私は舞台の袖まで進んで青年の首を観た。確かに強い力で引っ張られ、しっかりと紫色の締め痕が付いていた。金属のロープも確認したが、こちらは金属の上から樹脂のようなものでコーティングしてあった。金属だけなら、きっと首に食い込んでしまったはず。インチキとは言えない、本物の力技だった。 次にキン肉マンは頭部に金属の道具を打ち付けた。単純だが、よほど頭を鍛えてなければ出血は免れないだろう。生ぬるいマジックよりはよほど「芸」らしい。 キン肉マンはさらに荒業に耐え、机の上で椅子を使った倒立までやってのけた。この青年、腕力、筋力だけでなく、関節の柔軟性も大したものだった。 この痩せた男が全力で見せた「芸」に、観客から万雷の拍手が送られた。 汗臭い男の後には、良い香りのする美少女の登場。ブラボー、待ってました~!!年齢はまだ10代だろうが、ピンクの衣装がなんとも艶めかしい、良いねえ。つい前へ行って写真を撮りたいのだが、椅子が邪魔でどうにもならないんだよなあ。やっぱり前の席が良かったかと悔やんでももう遅い。 この少女が操っているのは独楽。だけども目が追っていたのは別の方。(;^_^A こんな美少女が目の前で独楽を操ったら、地方の春節では人気者だろうなあ。今が一年で最も稼ぎ時なのかもしれないねえ。 ところがこの少女の特技は独楽回しだけじゃなかったんだよねえ。 床に倒れて苦悶の表情を浮かべ・・・ こんな風に体を反り返らせて・・。 最後にはこんなポーズを取るのでごじゃる。軟体動物ですなあ。 このポーズを決め、良い香りを残して少女は静かに舞台から去って行った。これで250元は果たして高かったのか、安かったのか。次は別な出し物だけど、また見てね。<続く>
2020.03.31
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<現地で見た中国のテレビ放送> 大連のホテルでは極力テレビの画面も撮影しました。中国の市民生活が実感出来るからであり、ブログで紹介したら有益と考えたためです。以下私の簡単な説明付きで掲載します。 毎回放送は国旗の画面から始まります。それは日本でも一緒ですね。(NHKは) 例の場所です。これが2番目も変わりません。 前進 前進 また前進とあります。中国共産党のスローガンかな。 どこかの駅が写っていましたが、どこかは不明です。 真面目なアナウンサーの表情。経済政策のスローガンでしょうか。 女性アナウンサーは美人の上、メイクもバッチリです。 家族でしょうか。きっと裕福な一家なのでしょう。 背景は万里の長城っぽいですね。観光に来たのかも。 渋い表情なのはどうして? 胸にはネームプレートが。 大都会の風景はCGによる合成でしょうか。 国際ニュースみたいですが、どこまで国民に知らせるのか。オーストラリアと中国の関係は良好でしたが、政権が交代したオーストラリアでは以前より警戒する雰囲気になっています。 何かを国民にアピールしているみたいですが。 国家発展改革委員会の経済成長目標に関するニュースみたい。 各地方は国の経済発展目標に寄与することが求められます。 大気汚染が国家的な課題となり、排気ガス規制が厳しくなりました。 60歳以上の老人がいる家庭では、早めに春節の休暇に入れるのかな。 若者の相相傘姿も良いものですね。 国が企画するイベントのレポートのような。 これも上のイベントの続報。撮影日は1月12日ですが、この時は既に武漢では「新コロナウイルス感染症」が発症していたのです。それを中国政府は1か月以上隠していたんですね。私が訪れた大連では全くそんな気配はありませんでした。テレビを通じて国情や国民性が伝わりますね。やはり撮影して良かったです。他の映像はいずれ紹介します。<続く>
2020.03.30
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3月20日(金)の春分の日。墓参りに行こうとして止めた。あまりにも風が強かったためだ。それで翌日の21日(土)にしたのだが、その日の午前中もまだ時折強い風が吹いた。バスで地下鉄の最寄り駅まで行き、「国際センター駅」で下車。そこから市営墓地まで歩くのだが、先ず駅付近にある「モニュメント」を撮影に行った。 あれは去年の何月だったか、仙台出身の羽生結弦選手の冬季五輪連続優勝を祝って、記念碑が建てられたニュースを思い出したのだ。先ずは先に建っていたトリノ冬季五輪(イタリア)で金メダルを獲った荒川静香選手のモニュメント。お馴染みの「イナバウアー」でしたね、このポーズは。彼女も仙台市出身なのよ。 左はソチ冬季五輪(ロシア)で金メダル獲得時。右は平昌冬季五輪(韓国)で金メダル獲得時の羽生選手。この時に使った曲が陰陽師安倍晴明をテーマにした「SEIMEI」。雅楽調だったね。 さて仙台駅東口では、ギリシャで採火された「東京五輪」の聖火が「復興の火」として展示されていたことは知ってたけど、私は行かなかった。新コロナウイルス感染症が全世界に蔓延して多数の死者が出ているのに、オリンピックで浮かれているのはどうなのかと思ったのだ。ところが1日で5万人以上の観客があった由。その後東京五輪が延期されたのは、ご存知の通り。いつになったら騒ぎは収まるのか。 広瀬川に架かる澱橋を渡る。こちらは上流方面で、左の山上に東北大学の工学部、理学部、薬学部、農学部と宮城教育大学のキャンパスがある。もう柳が芽吹き始め、東北にも緑が戻った。 強い風に吹かれた川面。波が立ってキラキラ光っていた。 こちらは下流側。芝生も柳も青々して、春の到来を告げている。 仙台市営北山霊園から遠望する泉ヶ岳(左)と船形山(右)にはまだ白い雪が。 父母と姉が眠る墓に生花と線香、おはぎ、お茶を供え、墓の周囲に生えた「はこべ」を抜いて帰途に就いた。帰路も再び歩いて国際センター駅へ。往復5kmのウォーキング。終点からさらに自宅まで歩き、この日の合計は7km。結構良い運動になった。 帰途、あるお寺の門前の小さなお地蔵さま3体。北山周辺には仙台藩祖伊達政宗公が各宗派の寺院20ほどを集約させて城下の守りを固めた。市内には「元寺小路」、「新寺小路」の名が付く寺町が他にもある。 帰宅して下駄箱の上を見てビックリ。そこにはかなり前に剪定した「藪椿」の枝を飾った一輪挿しがあるのだが、落ちていた花弁が八重の山茶花だったこと。私が植えた覚えはないので、前妻が挿し木したのが成長したのだろう。24日には強風の中自転車で兄宅へ行き、線香を上げた。<明日は中国大連・旅順旅行記に戻ります。>
2020.03.29
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<大連で出会った美と形(1)> 中国の一大イベントである「春節」(旧正月)が近いせいか、それとも中国人が元々好きなのか、街中で「福」の字を良く見かけた。 こんな派手な意匠も中国らしい。 「唐草模様」はシルクロードを渡ってヨーロッパから中国へ、そして日本へやって来たんだよね。 偶然撮ったこの像はひょっとしてブタかもと思った。今年は亥年だが、中国ではブタ年。ブ野生のイノシシを家畜化したのがブタだが、中国のブタには長い歴史がある。古代秋田城の「水洗トイレ」でブタの寄生虫の卵が見つかったことから、同城の中に渤海國使の接待所があったことが確認された。当時渤海国使は海流の関係で、越前、能登、秋田などに漂着したことが知られ、それぞれに接待所が置かれた。 街中で愛嬌を振りまいてるブタ。あんまり見つめないでねブヒーン 当然「春節」のお祭りにも登場する。国によっては、ウサギ年に代えて「ネコ年」にしたり、辰年に代えて「クジラ年」にしてる国もある由。十二支も国によって違うんだねえ。 昼だったため、ランタンは灯されてなかったが。 ロシア人街にもランタンが飾られ お店もこんな風に春節モードに あらま、こちらはいつも通りなのかな。 夜のレストランは、こんな風にしてお客様を迎えます さすがに中国は漢字を発明した国だけあって、書や篆刻(てんこく)にも歴史の古さと様式美が感じられます。洗練された美が街に溢れているのですから、奥が深いですねえ。<続く>
2020.03.28
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<大連の朝と光> 大連は中国東部、遼東半島の付け根にある中国有数の大都会だ。私が行ったのは今年の1月11日からの3泊4日のお手軽ツアー。渤海(ぼっかい)に面してるため、思ったより気温は低くなく、重装備でなくとも寒くは感じなかった。日本との時差は1時間遅れ。台湾と同じだった。オーストラリアは日本より1時間早く季節が逆のこともあって疲れたが、大連の朝は少しのんびり出来たかも。 大連ではスモッグもなくて快適。そのせいできれいな夜明けだった。足掛け4日大連に居続けたため、似たような写真が多い。そしてそのことが、後日PCの不調を招くことになるのだから皮肉なものだ。 ツアーは現地時間の8時スタートが多かった。日本なら9時だからさほど辛くもない。朝食は日本時間なら7時半からで、いつもと変わらない。現地時間緒の8時、ホテルの前に観光バスがやってくる。私は現地ガイドの価さんに、昨夜は部屋のバスのお湯が温くて困ったと言い、点検してもらうことにした。 ツアー仲間は22名。全員が揃うとバスは発車。第2日目はまず旧ロシア人街へと向かった。大連の旧ロシア人街は有名で、聞いたことがあるはず。明治初期、ロシア帝国が清朝から遼東半島の大連と旅順を租借しており、当時の中国では珍しいロシア建築様式を持ち込んだ。当然ロシア正教の教会も建造され、今でも幾つか残っていた。 広い道路の両側に大きなロシア様式の住宅が集中している。ここは近代建築が立ち並ぶ別世界で、中国人(満州族)の住宅は別の地区にあった。 整然とした街並みも街路樹の葉が全て落ち、寒々とした光景が続く。 ここからは翌日の1月12日。この日も観光緒バスは、まずロシア人街へと向かった。車窓から見える逆光の街並み。私はそのシンプルな美しさに惹かれ、夢中になってシャッターを切った。逆光に映えるすっかり葉を落とした街路樹。似たような写真ばかりだが、冬の中国・東北地方の雰囲気がとても良く出ている。 洋館の黒々としたシルエットと裸の街路樹の美しさ。私は逆光大好き。 この後に付録としてわが家の庭の花を載せます。<続く> わが家の花(3月20日撮影) チオノドクサ ハナニラ ボケ ヒヤシンス ミニスイセン 豊後梅(ブンゴプメ)
2020.03.27
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<大連空港で見たポスター> 旅に行くと私は色んなものにカメラを向ける。もちろん関心があるからだが、そのため撮影枚数が膨大となりバッテリー切れを起こすのもしばしば。初めての中国への旅となった1月の大連ツアーでも同様、大量の撮影がPC不調の原因となり、止む無く1500枚近くを捨てる結果となった。だが、残った写真が、今シリーズ助けてくれた。 最初は中国国際航空に敬意を表して、同社のアジア路線の紹介から始めよう。北京から各国へとたくさんの便が飛んでることが分かる。 中国国際航空の洒落たポスター。欧米風なポスターが意外だった。 「ダズ石窟の彫刻」とあるが、どこの国かは不明。チベット仏教みたいだが。 両方とも「春節のお祭り」か。中国では旧正月を祝って、長い休暇に入る風習がある。人々は一斉に移動して故郷に帰ったり、世界各地へ旅行する。それも新コロナウイルスを広めた原因となった。 いずれも大連空港の入国審査室前の柱に張られていたポスター。中国の国情が分かって面白いと考え、夢中になって撮影していたら警備の係官に怪しまれ、パスポートの提示を求められた原因となった。入国審査の前にこんなものを撮影する人はあまりいないのだろう。でも摂って良かったと思う。 ここからは同空港で見た大連市内の観光用ポスター。これは旧ロシア人街。 大連市の海岸の航空写真。なかなかのリゾート地だ。 大連の中心街で、中央に円形の公園が見える。ここは国父孫文の号を取り「中山広場」と呼ばれている。 大連郊外海岸部の公園。前方に見えるのが渤海(ぼっかい)で、黄海よりも大陸に近い。 旧満州国当時に日本が建てたものか。日露戦争で敗れたロシア人が去った後も日本人がロシア風の建築物を建てて街並みを維持した。今で全て中国人が使用している。 旧ロシア人街は目下、大連市の重要な観光スポットになっている。 海岸部の円形公園。大連は高層ビルが林立する中国有数の大都会。今回掲載したポスターのような写真を旅行客が撮るのは到底無理。懸命にポスターを撮影したお陰で、中国の国力や市民生活の実情が理解出来よう。その意味でも写真は貴重な資料だと思う。<続く>
2020.03.26
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<中国での注意点と民間外交> 人民元 中国人民元への両替は、仙台空港にある地元銀行の支店で済ませていた。旅行会社から届いた注意点の中に、中国では1)偽札が横行していること。2)偽物を土産として売るケースがあること。3)お釣りを誤魔化すケースがあると記されていたためだ。そしてポシェットの中では日本円は財布の中に、中国元は「封筒」の中と区分けしていた。その方が何かと便利なためだ。 機内食にビールが出たことに先ず驚いた。日本ではもうお目にかかれれない機内食。それが中華航空の機内で出るとはねえ。しかもビール付きで。 ささやかだが、「おつまみ」も付いていた。ないよりはマシ程度だが。 これが機内食。結構ボリュームがあったが、ほんのり暖かい程度。 おかずのアップ。内容は「私の手料理程度」だが。 あまり 美味しいとは言えないが、製造は仙台の弁当屋製だった。 注意されるかと思ったが、バレずに撮れた。あの国では何気なく撮って拘束され、裁判にかけられた日本人も実際にいた。まあ座席に機密はないと思うので、大丈夫だろうが。 仙台空港で見た航路図。こんなシンプルなら無いも同然だが。 機内のスクリーンの画像。日本海を突っ切ると朝鮮半島の地図が映り、半島を斜めに通過して黄海へ向かう航路が。韓国領空で中国機が危険な目に遭うことはないはず。そう考え安心していた。点線の先にあるのが中国の遼東半島。その突端に大連と旅順がある。やがて機窓から韓国の地上が見えた。まるで砂漠のように荒涼とした風景。ここは北朝鮮かと、一瞬間違えた。 斜め下に川が見えた。首都ソウルを流れる漢江(ハンガン)か。その遥か東方に雪を被った山々が見えた。韓国の雪山で思い出すのは冬季オリンピックが開催された平昌(ピョンチャン)。距離は相当あるが、方角的にも間違いないはず。するとその左(北西)は北朝鮮か。上空から見る朝鮮半島と南北両国(?)に興奮。 青い海が下に見えた。黄海から渤海へ入ったようだ。もう遼東半島は近いはず。注意されることなく写真が撮れたが油断は禁物。建物がある大連空港付近ではどうか。 ついに中国の地上が見えた。大連港上空は良いが、旅順港は軍港のため撮影禁止と聞いた。中華航空機は旅順港を避けて着陸態勢に入った。後日知るが、大連は真珠養殖の中心地。ただ日本と違いアコヤ貝ではなく、アワビを母貝として用いる。そのため真珠にはアワビの内側みたいな光沢があり、実にきれいで高級感があった。 大連空港に着き、入国審査室前でポスターを撮りまくっていると警備の係官が私にパスポート提示を求めた。你好(ニーハオ)と言って提示すると無事解放され入国審査係官の前へ、ここでも「你好」と「謝謝」を連発し無事入国許可。何度も中国への渡航歴がある仲間より早く、一番乗りで待ち合わせ場所へ着いた。そこに現地案内人の価(か)さんがいた。それ以降、私は知ってる中国語を全て駆使して「民間外交」に徹した。<続く>
2020.03.25
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<プロローグ その1> 今日は私の75歳の誕生日。それを記念したわけでもないが、1月に行った中国大連と旅順への旅の話を始めたいと思う。大層なタイトルを付けた割には中身がないと思う。何せその後に始めた「断捨離」が思いのほか厳しい作業となり、疲労が極限に達していた。その後徐々に回復したものの、今度はPCの不調。画像入力と編集作業が出来ないため、お手上げになっていた。中国発の「新コロナウイルス感染症」騒動も、その気にならなかった原因の一つにはなったかも。 そこで折角撮った大連の写真1日半ほどの分量を思い切って捨てた。そしたら何とか動き出し、編集が可能となった。それで大慌てで深夜まで編集作業に勤しみ、何とかシリーズを開始する目途がついた。ただカメラメーカーの編集ソフトは、マイクロソフト社のプログラム更新の影響を受けやすいことを前から警告されているため、無事にシリーズを終えることが出来るかは不確定。それでも始めた次第。 なぜ大連かと問われたら、仙台から直行便が新たに開設されたからだし、なぜ1月かと問われたら、安かったからと答えるしかない。それに海べりの大連は、寒さもさほど厳しくないと聞いたことも関係しようか。それでも持っている衣装の中で、1月の中国の寒さに耐えられそうなものを、キャリーバッグに詰め込み、3泊4日のツアーに出かけた。が、さほど期待はしてなかったのが正直なところ。 だが本当のところ、大連に惹かれた理由に2つのテレビドラマが関係していたことは確か。1つ目は司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」。わが国が明治維新を経て近代国家として世界に打って出た端緒となった「日露戦争」での勝利を扱った歴史小説をドラマ化したもの。司馬遼太郎がなぜあの戦争を取り上げ、主人公に軍人の秋山兄弟(好古、真之)と俳人の正岡子規を選んだのか。 あの戦いの舞台がまさに大連近郊の203高地であり、旅順港だった。兄の秋山好古は陸軍の騎兵隊長として、弟の真之は後にバルチック艦隊を破る殊勲を立てた海軍の将校として、そして子規は病を押して従軍記者として彼の地に渡った。それは大国ロシアを国家的な脅威として捉えていたわが国が、必然的に戦う運命となる端緒であり、後の「満州国建国」につながる重要な手掛かりだった。 「坂の上の雲」がわが国の隆盛の証であれば、山崎豊子原作の「大地の子」は、日本の帝国主義没落の象徴とも言えよう。こちらもNHKのテレビドラマとしてお茶の間に登場し、感動しながら観ていた記憶が新しい。かつての敵地に取り残された残留孤児を扱った意欲作。孤児をわが子同然に育てた中国人教師の人間愛に涙した。一つは当時の大国を相手にした開戦と勝利、そしてもう一つはその結末としての敗戦と戦争の悲惨さを描いた力作だった。 清岡卓行(詩人・小説家)の「アカシヤの大連」、五味川純平の「人間の条件」も旧満州国に因む小説だが、名前しか知らない。静かな出だしの紀行文となったが、明日からはあまり気負わずに書ければと思う。気力と体力には限界がある。読者各位にはあまり期待しないで見て欲しい。その方が意外性があって面白いかも。出来ればアッと驚く「仕掛け」を、毎日作れたら楽しいのだが。<続く>
2020.03.24
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<自学自習> 3月の俳句教室も自信作を3本揃えて、手ぐすねひいて待っていた。そして来年度の俳句教室への受講申し込みも済ませた。自分では万全の準備をした。Kさんには、「これから毎月トリを取ると宣言し、それなりの自信もあった。講師の説く俳句の神髄が、何となく理解出来ていた。季語や切れ字の重要性、韻文、古語、「一句仕立て」でなく、「取り合わせ」、文学性などなどについての認識が深まった。 だが、好事魔多しとはこのことか。3月に入ったある日、俳句教室の会場である老人センターから電話が来た、何と例のコロナウイルス感染症騒動で3月の俳句教室は休止し、4月の開催も市当局からの通知次第で、開催開始日が決定するまでは不明とのこと。ガ~ンだ。 山鳩の番の聲や春障子 *つがい *こえ 障子は冬の季語だが、「春」を付ければ春に変わる。わが家の庭には良く山鳩が遊びに来る。それも夫婦の番2羽の姿をガラス窓越しに確認していた。だが障子越しでも、鳴き声でやって来たのが分かる。彼らは庭や畑で食べ物を探すために来る。障子越しに山鳩の気配を感じられるとは、何と贅沢な環境だろう。そして張り替えた障子のなんと清々しいことか。 だが憎たらしい野鳥がヒヨドリ。鳥へんに卑しいと書くヒヨドリは何でも食べる。特に冬の食べ物が乏しい期間は、畑のブロッコリーなどの葉っぱなどは彼らに食いちぎられて無残な姿になる。先日、花壇のチューリップの葉が変な形だと良く見たら、食われた痕が。やはりヒヨドリの仕業。コンチクショーと叫びたくなるほど悔しい。 3月の兼題は「初桜」(はつざくら)だった。その年に咲く最初の桜と言う意味で、春に先駆けて咲く桜。暖冬だった今年はかなり早めで、季語としても実感としても違和感はなかった。それをどう「取り合わせ」るかが問題と私は考え、次の一句を得た。 妻に似し老女をりけり初桜 認知症になった前妻が、あっちへフラフラ、こっちへフラフラして花見をするイメージだった。 二句目は 独り身の夜の長さや猫の恋 季語は猫の恋で「春」。独り者の男がなかなか寝付かれないでいるのに、今が恋の季節真っ最中のネコだけが夜もすがら一晩中、ニャーゴニャーゴとかまびすしいと言った滑稽な状況を詠んだ。 ほかに 声ばかりにて夜は更けぬ猫の恋 精も根も尽きたる頃や弥生尽(やよいじん) 年度末で草臥れ果てた男の姿が浮かび上がる。 筑波山 遠白き筑波嶺(つくばね)何処(いず)や春霞 遠白き(とおじろき)は遥かに雄大であると言う意味の古語で、上皇后さまが好んで和歌に用いる言葉と聞いたため、これを用いて句を詠んだ次第。 なお筑波嶺を詠んだ万葉の歌に次のものがある。 つくばねの嶺より落つる男女の川(みなのかわ)恋ぞ積りて淵となりぬる 筑波山は古来より年に一度だけ自由恋愛が許される日があったことで有名。上記の和歌は、その様を詠ったもの。男女の川は、江戸時代の有名な力士のしこ名にもなった。 俳句はそれなりに詠め、数もまあまあ作れて楽しい。だが清書してノートに書き写す暇がない。断捨離のためでも、ブログのせいでもある。何かを取れば何かが落ちこぼれ、すべてが上手く行くとは限らない。私の自由になる時間にも限度がある。(完) 明日からいよいよ「大連紀行」が始まる。準備は十分ではないが、既に何回分を予約した。満足出来る紀行文を書きたいのだが、構想を練る暇がない。だが、何でもありのスタイルも良いかもと思い直した。あまり構えず、その時の「ひらめき」に任せよう。とも角システムがスイスイ「動く」うちに、1枚でも多く写真を載せるのを優先させたい。
2020.03.23
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<俳句教室にもコロナの騒動の影響が> 2月の俳句教室はKちゃんが集金に来る日だったので慌てた。 彼女がギリギリで来たこともあって、眼鏡を家に忘れて困った。手元は見えるが黒板に書かれた字が見えない。それで隣のKさんに聞いて、何とか最後まで頑張った。 次の試練は句友の作品の講評を講師に指名されたこと。 太古よりウイルスが降り春の雪 この句友は講師が嫌いな「現代俳句」を詠み、講師が嫌いなカタカナも平気で使う。こんな時は力量が試されていると考えて、思ったことを言った方が良いのだ。「この句は時間軸と空間軸が雄大で、到底凡人には評価不可能な表現能力を有しています」。それで逃げ切った。 次は自分の句の自評。私の提出句がこの日の「トリ」になった。 春風を拒みて立つや屏風岳 春が近づいて海からの春風(しゅんぷう)が吹いて来る季節だが、南蔵王に聳え立つ屏風岳は、文字通りその南風・春風を拒むかのように屹立している。今蔵王連峰では、春と冬がせめぎ合ってる真っ最中。春風は「はるかぜ」ではなく虚子が詠んだ「春風や闘志抱きて丘に立つ」のとおり、ここは「しゅんぷう」と読ませたい。それで講師はグーの音も出なかったようだ。 次は兼題(宿題)の「立春」を詠んだ句の出番。 私は 春立ちて吾妹の声も若やぎぬ を出した。 吾妹は「わぎも」と読み、妻を意味する古語。古代の皇族や貴族の場合、腹違いの妹を妻とすることが公式に許されていた。それで「わがいもうと」が短絡して「わぎも」となった。古語の使用も講師の心証を良くしたようだが、彼は兼題の「立春」を用いず 菜の花や吾妹の声の若やぎて とした方がより文学的と言いたかったのだろう。それ以上抗う必要はなく、「ああそうですか」と引き下がった。だが本心は立春が兼題なのになあと。 私がこの日提出した3番目の句は 愛憎を八つ裂きにして風光る 「風光る」が春の季語。長らく生活を共にした夫婦の愛憎劇をテーマにした。どんなに夫婦の仲が悪かろうが、季節はお構いなしに訪れる。そんな心境だ。<続く>
2020.03.22
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<東日本大震災からまる9年を迎えて> 「東日本大震災」から3月11日でまる9年を迎えた。今年は「新コロナウイルス感染症問題」で、政府主催の慰霊式などは持たれなかったが、私ども被災地の人間は9年目を迎える前後や被災の当日に、様々なTV番組を観、特集記事を読んだ。水産業の不振など、まだまだ復興には程遠い面もあるが、それでも様々な復興補助金を得て、復興が進んだのも事実だ。宮城県内で起きた震災関連訴訟は、全て結審した。 中でも被災地に明るい話題を提供したのが、「三陸道」のほぼ開通。「常磐線」の9年ぶりの全腺開通。そして一昨日の「三陸鉄道」の全線開通だろうか。やはり基幹となる交通網が遮断していたのでは、復興も本物ではない。沿線住民の喜びはいかばかりか。それでもまだ震災前とは大きく異なる現状。一日も早い住民の生活安定を祈りたい。 強制的に被災地から避難させられた福島原発周辺の町民のご苦労は今もまだ続いているし、未だに汚染度の高い地区もあって、同じ町民でも悲喜こもごもなのが実態だ。また災害公営住宅入居者への便宜措置も10年目までとされており、他の生活困窮者への配慮も必要なことから、優遇にも限界があるのだ。幸いなのは、若年層の中にも「震災の語り部」となる方が増えて来たこと。津波の怖さと、いち早い避難の重要性を、若い人たちが訴える姿に、頭が下がる想いだ。震災を風化させてはいけない。 新コロナウイルス感染症の流行には、恐るべきものがある。ついにWHO(世界保健機関」が「パンデミック(世界的な波及事情事態宣言」を出した。これまでは発生国中国に対して忖度する姿勢を感じたが、主な感染地がヨーロッパやその他の地域に移ったことで、国際的な疾病となった。今やどの国も、自国での発症と死者の増加を食い止めるのに必死だ。 当初は情報操作疑惑が疑われた中国。早くから重篤な現状を警告した医師を拘束するなどして、情報の遺漏を警戒した中国共産党。アメリカは中国軍による「生物兵器の実験疑惑」を口にし、中国は米軍による武漢市へのウイルス持ち込み疑惑を吹聴するなど、「情報戦争」の状況を呈している。それほど発症者数と死者数が右肩上がりに増加して世界的な危機にり、経済問題へも大きな影響を与えている。 これほどの事態に至れば、スポーツや文化行事への制約、教育現場への影響、不要不急の外出の制限なども致し方あるまい。今やオリンピックの延期までが心配されるほど。私は当分旅行はせず、むやみに人ごみで出かけず、ひたすら安静を守り、体力の維持に努めている。だが軽い運動をして出来るだけ健康を心掛け免疫力を高めたい。楽しみだった「俳句教室」も当分休止状態。苦難はまだ続く。 好記録でゴールした一山選手 そんな中での「名古屋ウイメンズ」での一山選手(ワコール)が2時間20分29秒での初優勝は立派。見事に東京五輪代表となった。その夜、TVのスポーツニュースにゲストとして出た同選手はメイクさんの手で、昼とはまったく違ったお嬢さんに変身、実に可愛いかった。それにしても厳しい練習で走り込んだ彼女の体は、実に強靭かつしなやか。久しぶりに期待出来る有望選手が出て来たものだ。 一昨日。お天気が良かった日。これは走れるかもしれない。そんな気がして半袖Tシャツとランニングパンツ姿になる。若干腰に痛みはあるものの、かなり疲れが取れたので大丈夫と判断。40年も走っていると、走れるかどうかは自分で判断出来る。水を入れたペットボトルを手に外へ。約4か月ぶりの9kmコースだが、ちゃんと走れた。やはり走れるのは嬉しい。5月の3時間走に向けて、もっと練習したい気分。
2020.03.21
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<身辺の些事> ツルニチニチソウ3・13 1月下旬から約40日かかった断捨離作業、引き続き取り組んだ本格的な大掃除、その後の大規模な模様替え、それが済んでから家中に美術品や民芸品などの再配置。それで疲労の限界に達し、1週間ほど作業を休んで体力の回復に努めた。その間住宅メーカーの「23年点検」を受けたが次の「25年点検」までに修理、リフォームすべきか所の指摘はなかった。それで引き続き庭の改造を再開した。 畑から玄関までの通路 前回は花壇の整理と南通路の整理。これは主として敷石などを一旦退けて、芝生とドクダミの根を極力抜いた。両方ともかなりしぶとい植物で、根が地中深くを延びて、新たな勢力圏を形成する生命力旺盛な植物だ。南通路の基礎部分(家の横)には「玉砂利」を敷き、花壇には万年青(オモト)を集中して、渋い感じに改造。今回はその延長で、畑の横の芝生を全部剥ぎ取り、芝とドクダミの根を撲滅 クリスマス・ローズ それだけだと畑作業した後の靴が汚れ、玄関先から玄関までも汚れる原因になるため、畑から玄関前までの間に、マットレスやレンガの踏み石を適当に置いて、そこを歩く間に靴の泥や土が自然に落ちるよう工夫した。ここが最大の芝生繁茂地だったため、かなりの激務となり。大型ビニール袋3個分の根っこを退治した。少しでも根が残っていれば、その内には繁茂するだろうが、根気良く戦いぬく決意。 チオノドクサ その後、主に東通路の小石を拾い集め、「ミョウガ帝国」の擁壁周辺に集積地を作った。かつては地中から出て来た小石を東通路に敷き詰めて、極力雑草の繁茂を抑えようとしたのだが、これらの石の間から雑草が生えると、却って草刈がし難いことに気づいた。そこで今回は再び埋めた小石を拾い集めて、1か所にまとめた次第。これなら草刈も、除草剤を撒いて枯死させるのも楽になるだろう。いずれにしても雑草とのバトルが終わることはない。 玄関の一輪挿しは、剪定した椿の枝を活けたもので、切ったばかりのころはまだ蕾だったのが、ようやく咲いて来た。床の間の大甕のも咲き出した。嬉しかったのは写真の入力と編集機能がまた使えるようになったこと。自分なりに障害の原因を考え、画素数の大きな写真を大量に保存したままの1月の「大連旅行」の写真1500枚ほどを思い切って捨てたら、作業スペースが出来て動くようになった。 豊後梅の開花3・13 それで深夜までかかって1枚ずつ整理し、整理が終わり次第原画を捨てたら順次編集機能も復帰した。これは嬉しい。大量に捨てる際は悩んだが、私が必死で撮影した「旅順博物館の「美術品」だけは何とか守った。これも100枚以上を整理したので、旧満鉄博物館時に収蔵した貴重な美術品、工芸品を紹介出来そうで嬉しい。今月早ければ下旬には新シリーズを開始する予定。珍品なのでお見逃しなきよう。 西洋シャクナゲ蕾 3・13 そうなると今度はまだ未発表の写真がたくさん残る「断捨離シリーズ」と「大連紀行シリーズ」のバッティングとなり、またまた筆者の新たな苦しみが始まることにもなるが、何とか大連及び旅順を始め、中国の珍しい写真を鑑賞して欲しいと願っているのだが。さて上手くゆくかどうか。 裏庭に出たフキノトウを刻んで味噌汁に放った。ほろ苦い春の香りがした。でも刻む前にちゃんと洗わないと、土が混じっていることを知っていた。今年は大成功。でもたった1個だけのフキノトウは姿を消した。<続く>
2020.03.20
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<58年ぶりに思い出して> nobody know the trouble I' ve scene nobody know but Jesus nobody know the trouble I've scene glory halelija! sometime I'm up sometime I' m down oh yes laud sometime I'm almost to the ground oh yes laud この歌を始めて聞いたのはまだ高校生の時 今から58年も前の頃だ 聞いたのは仙台の中心街にあった小さな教会 歌ったのは、高校生の指導者であったバーヤ その教会では、教会の信者をニックネームで呼び合うのがルールだった バーヤは当時20歳ほど 東北大学法学部の2年生だった なぜバーヤは私たちの前で突然そんな歌を歌ったのだろう 思うにバーヤは失恋したのだ 相手はこれも高校生の指導者だったサユ ある洋服屋さんのお嬢さんで当時短大の2年生 優しくて美しい人だった 指導者になるほどだから2人とも熱心なクリスチャン バーヤはサユに愛を告白し サユはそれを受け入れなかった だがそれで2人の信仰心には何ら変わることはなかった バーヤの声は哀愁に満ちていた 心が張り裂けそうな悲痛な声 その歌を今もこうして覚えているのは きっと感銘を受けたためだろう 高校生当時は英語の意味すら分からなかった この歌は讃美歌ではない ゴスペルかソウルなのかも知らない ~ 歌詞の和訳 ~ 私が味わった苦しみを誰も知らない 私が味わった苦しみを誰も知らない ただ一人イエスを除いては 神に栄光あれ ハレルヤ 時に私は立ち上がり 時に私は倒れた ああわが主よ 時に私はほとんど地に臥した ああわが主よ <マックス爺 訳> 今回の断捨離作業中の深夜に、私は突然この歌を思い出して歌った。 曲はたった1回聞いただけで歌詞もあやふやだったがそれにも拘わらず 最後までちゃんと歌えた。そして、英語の歌詞も何とか思い出せた 58年前にたった1回だけ聞いた歌を思い出して歌う。 こんな奇跡があるだろうか だがその奇跡が本当に起きた 高校3年のクリスマスの日 私は洗礼を受けた まだ17歳9か月の多感な少年だった その歌を深夜に泣きながら歌った75歳になる俺 だが声は出なかった。長い独り暮らしで声帯の筋肉が衰え 喉が引きつり息が詰まった それでも俺は何とか喉をを振り絞り 声の限りに歌った この歌の通り俺は連日の厳しい断捨離で ほとんど地に臥すほど疲れていた それでも翌朝は立ち上がって再び断捨離に立ち向かった ほとんど眠ってなかったのに 状況はまさしく 歌詞の通りだったのだ あれはきっと俺1人が働いたのではなく 神様が背後で守ってくれていたのだろう もしそうでなければ、俺はとっくに倒れて死んでいたはずだ それほどの激務だった 40日間もの長い長い戦いの日々 俺はほとんど死にかけていたが こうして未だに生き 奇跡の話を詩に書いている 死の代わりに詩 かつて沖縄で起きた奇跡がまたもや俺の身に起きた 洗礼を受けたあと俺は就職し 職場を変わり 夜学に通い 妻と知り合って結婚し 転勤し 3人の子供に恵まれ 故郷に家を建て 認知症になった妻にお金を持ち逃げされた そして 今では独り暮らしの身となった 離婚後3年間 全く手を付けられなかった断捨離を今回 俺はたった1人で始めた 痛む腰 痛む肩 痛む肘 痛む膝 そして痛む手で そして不要品を全て捨て 次は庭の改造に取り掛かろうと決めたその夜 俺はかつてバーヤが歌ったこの歌を58年ぶりに思い出し 歌ってみたんだよ そしたらシワガレタ声でもなんとか歌えた 歌いながら泣いた 歌いながらなんでこの俺が今 こんな夜中に1人で苦しんでいるのかと思った時に そうではない あの歌の男も同じだと気づいた 起きては倒れ 倒れては起きして 神の偉大さにおののく男 男は倒れながらも神の栄光を讃えたじゃないか 思い出せ 今の俺があの男そのものだということを 栄光あれ ハレルヤ <高校3年以来変わらない私の聖書(右)と讃美歌(左)> 成人になって、俺は煙草を覚え、酒を覚え、麻雀に溺れるようになり、教会からも遠ざかり聖書を読まなくなった。それでも神社や寺院を巡った時、俺は必ず「アーメン」と心の中で唱えていた。それだけがかつての信仰の薄汚い残骸だった。 この俺にお墓も戒名も不要。ただ普通の人間として、出来たら心だけもキリスト教徒としての死を望む。体調が戻り次第、また庭を改造する予定。どうか最後まで持ってくれ俺の腰よ。俺の肩よ。俺の肘よ。俺の膝よ。俺の手よ。そしてわずかに残った俺の信仰よ。<完>
2020.03.19
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<散歩中に出会った花 その3> ツバキの蕾です。まだ硬いままで、花の色すらまだ見えていません。それでも春の訪れを感じさせる丸い形が愛しいです。このシリーズは今日が最終回です。 スイセンは前回の続きです。とてもシンプルでかつ清楚。冬のうちから既に咲くための準備をして来たのでしょうね。そして日増しに暖かくなると、他の花々に先駆けて咲く白い花。これはバス停前の花壇で、同じ班のKさんが育てている花の一つです。町内会からの補助だけでなく、彼は肥料や花の種、球根などをご自分で買われているのです。 上の写真を一部ズームして見ました。スイセンの可愛らしさが良く表れています。葉っぱの勢いと花の配色、そして形。すべてが初々しく感じます。この辺では春の花の一番乗り。それだけにわたしは一層惹かれるものがあるのです。 ここからは最終ランナー、蝋梅(ロウバイ)の特集です。これは散歩と言うよりも、花の撮影を目的とした「取材活動」と言った方が適切かも知れません。U川の畔にあるお宅Hさんの庭に咲いています。毎年この時期になると、咲き出すこの花が対岸からも見えるのです。そこで近道して狭い土手から庭に接近します。 蝋梅の木は、彼が垣根代わりに植えたもので、もう10年ほどになるそうです。実はこの木が植えられている目の前の川岸が、昨年の豪雨で土砂崩れを起こしました。幸いH氏邸の庭に影響はなかったものの、土手を補修するための工事車両が入って、土手の道もギリギリまで削られたのです。 幸いにして蝋梅の木の枝や根の部分への影響がなかったみたいで、今年も蝋細工のような美しい花と、馥郁たる香りを楽しむことが出来ました。 植物は正直です。丹精して長年育てたお陰で、木は大きく育ち、空に枝を広げ、私たちを楽しませてくれています。素敵なブログネタが出来て私も嬉しく、つい自慢したくもなりますね。 ほら、なんだか良い匂いがして来ませんか。気品に満ちた香りです。 薄曇りの空に、透き通るような蝋梅の花びらがまるで融け込んで行くような。 花ですから「鈴なり」でも「たわわ」でもないのですが、でもそう言いたくなりますよね。 このシリーズに登場した花々を撮影したのは2月29日。今年はうるう年で、4年に1度のオリンピック開催の年ですね。今、世界では新型コロナウイルスによる肺炎が大流行。既にたくさんの方々がり患し、各国で死者も出ています。 蝋梅や孤愁とけゆく夕餉どき 真楠 その影響で3月の「俳句教室」は中止が決まりました。仙台市の方針です。来年度第1回の4月の開催も、今の段階では不明です。1日も早い収束を祈ります。併せてあれからまる9年が過ぎた「東日本大震災」の犠牲者の冥福を祈り、被災者の方々のご多幸を心から祈っています。皆様もご機嫌よう。<完>
2020.03.18
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<ある推理> 早朝のため、どの家にどんな新聞が配られるのか分かる。配達人の顔も見知って間違いないが、それを誰かに漏らすことはない。注意して見ると、物陰から見ていたのはあの新聞の家。それが朝から晩まで私の家をじっと見ている。こ何で私のことを見張る必要があるのだろう。私個人への関心か、財産か。それとも宗教的な理由か。 老婆とその娘が交代で見ている。全く気味が悪い。独り暮らしになって3年近いが、母娘は私が離婚したことを知っている。妻の友人にも彼女らの仲間がいた。知らず知らずのうちに、私は「淋しいな信号」を発信していたのだろうか。母娘の見張りは半月続き、今でも時々こっちを見ている。それ以上の行動は当然出来ないが。 ある時某宗教団体の人が新聞の集金に来て、ハッと気づいた。ひょっとしてKちゃんは別団体か。そしてシェアハウスの人やあの母娘もその仲間だとすれば符合が一致し、全ての疑問が解ける。さてKちゃんが来る2月の集金日は俳句教室でとても忙しい。家を出るギリギリになって来たKちゃんの顔を見て、私はギョッとした。 美人か不美人かは問題外。私が驚いたのは彼女の眼。まるで弱った魚のような濁った眼だった。1月の強風の中で根気よく私の話を聞いてくれた彼女が、まさかこんな眼をしていたとは。あの時私が聞いた声のトーンとはまるきり異なる印象。とても若い人の眼とは思えない、生気のない眸。 私が俳句教室に行くと言うと、「俳句を楽しんで来てください」と彼女。その時初めて私が長期間断捨離していたことを話した。それ以前には知らないし、ブログのことは初めから知らない。もし彼女、母娘、シェアハウスの人が同じ団体に所属しているとしたら、彼女が私に急接近したと感じた理由が分かる。あくまでも推定に過ぎないが、あの組織の情報収集と仲間意識は大変なもの。用心に越したことはない。<完>
2020.03.17
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<妻の狂気> やがて妻が所属する写生会や職場の仲間とトラブルを起こしたことが聞こえて来た。その方は近所で私も良く知っており、妻と旅行した際、「私が妻の金を盗んだ」とバスの車中で、一日繰り返していたと言う。もちろん事実無根だし、「私の彼女が沖縄にいて、毎年私が沖縄に行くのはその彼女に会いに行くため」と言う事実もない。それを子供たちや友人に話したようだ。妄想の世界の住人だった。 彼女は40過ぎから家計をごまかし、自分名義で預金していたようだ。そして離婚すれば「私の年金の半分をもらえる」ことや、「彼女名義のお金は自分のもの」と勘違いしていた。私が「市の税務相談」で聞いたことを教えても信じず、急速にお金と「食べ物の亡者」に変身して行った。 3人の子供はお金で手なづけ、自分の味方にした。子供は全員親元から離れて暮らしているため両親の暮らしの「実像」が見えず、お金をくれる妻の言い分を信じ、私は家の金を盗み、他に彼女を作る「悪者」となった。家計は結婚以来彼女が管理していたため彼女の「取り放題」状態。彼女の嘘は巧妙化し、「彼女のお金」が雪だるまのように増えて、ますます楽しくなったのだろう。 そして通帳の隠し場所を変えたのを忘れる度、私が盗んだと疑う繰り返し。彼女は私名義のお金がどれくらいあるかを知ってるが、逆に私は彼女名義のお金の額を知らない。私の退職金も妻が差配した。一部は2人の息子の年金型保険や私の「個人年金」にも割かれたが、満期に達した私の生命保険を勝手に解約して、自分名義の通帳に入れたようだ。 家裁の離婚調停では弁護士をつけた彼女が全面的に有利となり、私は「手切れ金」まで渡して貧乏に。彼女が去った後、家電の相次ぐ故障。自宅のリフォームもお金を使った。それでも暮らして行けるのは、「節約暮らし」のお陰。彼女名義のお金は、彼女の死後、3人の子供に均等に行き渡るはず。私は私名義の残金をしっかり管理して、生き抜こう。 断捨離に励んでいたある時、何となく人の視線を感じて外の様子を伺った。すると、ある家の物陰から、じっと見ている姿に気付いた。これは変。何か様子がおかしい。なぜそんなことをするのが解せない。山形勤務の頃は朝4時に起きて愛犬との散歩後に長距離通勤していた。その時気づいたことがある。<続く>
2020.03.16
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<デジャブー・既視感> 2月のある日、新聞の集金人が訪ねて来た。いつの間にか宗教の話になった。真面目なのは分かったが、私の信条には合わない。ネットで調べると、どうやら同じ区内に、彼らの団体の施設があるようだ。そうか、それで分かった。これまでに何度も訪ねて来たことがあった。パンフレットを置いて行ったが、読まずに捨てた。ハッとするような美人だったが、その団体に関心はなかった。 しかし、待てよ。この既視感(デジャブー)は、以前にも感じたことがあるぞ。さて、何だったか。記憶を探っているうちに「アッ」と思った。毎月集金に来る人は他にもいる。Kちゃんだ。その彼女がわが家担当になって1年近くなるのに、話し込んだのは雪が降った1月下旬。雪は止んだが、強い風が吹いた日だった。その寒空の下で、彼女は私の話を2時間近く聞いてくれ、そのことに感激した私だった。 だが、どうも腑に落ちない。会話中に彼女が大きく動揺してると感じたことが2度あったからだ。1回目は私が別れた妻に、「お父さんは女に騙される」と言われたと話した時。そして2番目は、「次男が時々帰省する」と言った時。なぜ無関係の彼女がそんなことに大きく反応したのかが不思議。 彼女はある団地で、誰かとホームシェアリングしてると言っていた。昨年初めて仙台に来て、ようやく暮らしに慣れたとも。前に住んでいた市では、何か大変な目に遭ったようだ。それが何なのかは不明だが、私は大体想像がついた。9年前の大震災の話になった時、「実家は大丈夫だったんですが」と彼女が言った。実家は被害に遭わなかったが、じゃあ「婚家」か。私はそう受け取った。 私は彼女が気の毒で、何とか助けられないかと考えた。それが断捨離を始めるきっかけになったのは確か。そしてそれが自分の命を削る大作業になることを、全く予想してなかった。自分の年齢と体力を思えば、今回が断捨離を行う最後のチャンスであろうことは認識していた。前妻との離婚後3年近く経つが、子供たちの古い写真などの処分は手つかずのままだった。 断捨離を決心した日から、連日15時間ほど作業に熱中。あんまり頑張り過ぎて夜も眠れないほど。そこまで私は没頭していた。私にとって断捨離イコール「終活」。この機会を逃してはいけない。その一念で、辛い作業にも耐えることが出来た。だが、いざ子供たちの幼かったころの写真を捨てる段になると、心が怯んだ。何を捨て、彼らのために何を残すべきか、その判断に苦しんだ。 しかし、不幸の典型とも言うべきわが家にも、幸福感に包まれていた時があった。若い時の妻はそれなりにきれいだったし、3人の子供たちも無邪気な笑顔を見せていた。その何十年か後に、まさかこんな事態が待ち受けていたとは。3人の子供達それぞれに相応しい思い出の品と、是非とも送ってやりたいアルバム類。それを必死でより分けた。結婚式の写真を捨てるのは逡巡したが、二度と見たくなくて捨てた。 幸い、松山勤務時代に写真館で撮った家族の記念写真が人数分あり、私の分も別に残した。妻の顔が齢を取るにつれて変貌して行くのが良く分かった。当然の現象だが、60歳近くから彼女の容貌にある特徴が表れ出した。驚いたのは「大人の休日倶楽部」の証明用。 それは認知症特有の顔。なぜ彼女が平気でそんな写真を証明書用に使ったのかが疑問だった。今にして思えば、その当時の彼女が、それすら気づかないほど症状が進んでいたのだろう。実父の死、実兄の死、実姉の認知症発症。それらが、彼女の症状を加速したのかも知れない。 彼女の職場の責任者や、当時彼女が通っていた精神内科のドクターにも相談したが、職場のケアマネはその心配はないと断言し、ドクターは本人を診ないと診断は難しいと言った。だが、彼女は自分は正常で、何とか実姉を精神病院から退院させようとし、「聞く耳」はなかった。夫婦喧嘩の際に包丁を持ち出し、実父が亡くなった当夜は私の首を締めようと、階段を上って来たのが分かった。それでも私はそれをかわす「自信」があった。<続く>
2020.03.15
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<散歩中に出会った花たち その2> 散歩中に、八重咲の山茶花に出会いました。写真の花がそれ。山茶花といえば薄い花びらで儚い印象の花と言うイメージが強かったのですが、これはそれとは正反対で厚ぼったい感じ。とうてい山茶花とは思えず。牡丹みたいじゃないですか。皆さんはこんな山茶花観たことありますか。 あるお宅の入口に、こんな植木鉢が置かれていました。門扉の横のとても狭い空間。そこにいつも花が絶えないのですよ。っぽど花が好きなんだろうなあ。ここの奥さんは。前を通るたびに、そんな思いがするお宅。まるで前を通る人を楽しませ、喜ばせるためとしか思えない一角。素敵な花の「おもてなし」ありがとうございます。 門扉の向こう側にもある三角形の小さなスペース。そこにもやはり寄せ植えの花が輝いています。しかし石段の両側の花を見ながらお家に入るのって、楽しいだろうなあ。いつ通っても、花が絶えないお家の前の小さなスペース。家人の心遣いがとても良く分かる、美しい花の寄せ植え。季節季節の花のおもてなし。誰にでも真似が出来るものではないよと。空の上でも神様が、そんなことを呟いていました。 あそこならもう咲いてるだろう。そう思って立ち寄った川の傍の小さな花壇。そこはきっと県の所有地なのでしょう。元は石ころだらけの河原だったはず。それを近所の人が、丹念に耕して次第に土が肥えて行き、花を植え始めたんだろうね。 今ではどこかへ引っ越して、更地になったその家。だからもう誰も面倒見てくれる人がいないのに、その時期になると、その季節の花がちゃんと咲くんだよねえ。よほど長年の手入れが良かったのだろう。人は去っても花は咲く。ここを覚えていた私も試しに観に来たけど、やっぱり花も季節はも正直だね。 紫のだけじゃないよ、ここのクロッカスは。その証拠に見せようか。黄色いクロッカスも。良いねえこの時期の黄色い花。元気が出るねえ黄色いクロッカス。今年も忘れずに咲いてくれて、ありがとうね。 おっと、1個飛ばしてしまったようだなあ。紫の代わり映えしないクロッカス。折角撮ったんだから、お前だってちゃんと俺のブログに載らないと不公平だよな。ゴメン。m(__)m 良いのかなあ、順番はこれで。良いさ良いさ。ちゃんと紫と黄色の両方があるから、たとえ順番が狂っていても構わないさ。それに読者なんて、そんなことなど気にしてないよと春の風。ははあ。 次は何の色、マックス爺さん?黄色だよ黄色。そしてこれでクロッカスはお終いだよ。確かに全部載せたはずだからね。じゃあ次は何の花、マックス爺さん。おいおい、そんなに俺をせかすなよ。ちょっと見てみるね。あっ、スイセンだよスイセン。でスイセンは何枚かな。明日の分と全体で同じ枚数にするには、載せる枚数は4枚だなあ。へえ細かいなあ、マックス爺さん。そんなことまで気にしてるの? 当然だよ、そんなこと。枚数だけじゃなく、その日の色彩の偏りもちょっとは気にしてるし。シリーズ全体の構成にも神経を使うね俺は。 淋しそうな花もあれば、賑やかで華やかな花もある。だから同じ印象の花だけにしないようにとか。たまには名前を知らないのや、野草なんかも混ぜるんだよ。さり気なくな。ははは。その方が自然に見えるだろう。な。 スイセンは良いねえ。春先に咲く花の代表格だよ、仙台ではな。清楚な姿に好感が持てるし、冬が長かった分、春の雰囲気を真っ先に味わえる花なんだよなあ。 ところでこれで何枚だね。1枚、2枚、3枚。4枚。うんここまでが今日の分で、残りは明日の分。ちょうど良いところだったなあ。マックス。どうしてですか、ご主人様。犬のお前えにゃ分からないと思うけど、4枚はしまいとも発音する人間はな。だから4枚はちょうどお終いでもあるのさ。なるほどねえ良く出来た話だ。じゃあご主人様に座布団1枚。ありがとうなマックス。今俺は腰が痛いんで、2枚は欲しいなあ。腰だけに、もすこし、洒落が上手になったらね、ご主人様。ではマックス、明日また会おう。そして何の花かは明日のお楽しみって、寸法さ。ふぉっふぉっふぉ。 <続く>
2020.03.14
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<最近起きたことがら b> 断捨離中に起きた怪現象については明後日から始まる「光る眼・濁った眼」に書いた。あの激務で体調不良の折に、「応援要請」を受けて嫌になるなどして、「お気に入り」を幾つか削除した。ネット界には結構自分勝手な人が多い。私がインターネットを知って23年。それだけ早くネットに親しんだのは、当時の仕事と関連していたからだが、ただしメカ音痴のままだ。 23年の間に幾つかのトラブルを体験した。脅迫のような犯罪に近いものから、中傷や非難など「ネチケットクラス」まで5,6回。そのほとんどに女性が関係していた。社会的な立場にあり、常に自制を求められる男はそんなことはしない。現実の仕事上も人事権を握っていた女ボスや、職場の女性上司からパワハラや不快な対応を受け、定年1年前に辞職した。 ただ私の辞任を承認したアッコちゃんは、文部事務次官→駐トルコ大使→文部科学大臣を歴任し、いずれも「女性初」の冠がついた。つまり「本物」は、性を問わず権力を振りかざしたりはしない。中途半端なヤツだけが偉ぶるのを、私は何度も見て来た。死ぬほどの「修羅場」にありながら異動で全国を巡ったのを、大臣発令管理職の「勲章」としたい。 退職の挨拶状に、わたしは以下の一句を載せた。 職辞して 春風われのものとなる *しゅんぷう それが私が初めて詠んだ俳句らしい俳句。だが定年1年前に辞めて自宅へ戻った私への妻の攻撃は激しく、頭髪はたった一週間で「真っ白」になった。妻は「年金が減る」と誤解していたが、勤続35年以上だと全く無関係。それに後進に道を譲ったため、「退職金は割増」となったのだが、幾ら説明しても理解出来ない妻。 新たな悩みの始まりであった。「女は怖い」それが私の実感だが、こけしちゃんやYさんは全く違った。気持ちが通じ合わない夫婦の悲哀は続き、その日から「家庭内別居」が始まった、全て実話だ。 ネット界にも「峰倶楽部」の会員や、Yさんのように素晴らしい女性もおられた。Yさんは「ありがとう、私の大事な人たち」と挨拶してブログを閉じられ、その後ネット界で見かけたことはない。名前の通り百合の精のような気高い女性だった。さて、1か月ほど前に脅迫めいた書き込みをした女性がいたが、無視した。ただの爺の私は何も失うものはないが、相手の社会的地位と信用はどうなるか。 これまで現実に出会った女性の中で、一番素晴らしかったのがこけしちゃんだった。だから一般市民である彼女に絶対迷惑が及ばないよう、私は「おとぎ話」を作り、こけしちゃんと呼んで実像を隠した。だがその写真に、「こけしの顔が傾いている」と書き込まれた方がいた。 前述の背景を知らなかったのだろうが、かなりナーバスになっていた私がそれに反応した。当時の私は心身ともに極限状態で生きていたのだ。 それらと全く無関係の方が、最近コメント欄を閉じられた。きっと何らかの気配を察知されたのだろう。この場を借りて、ご迷惑をかけたことを深くお詫びしたい。 さて、マイクロソフト社の方針により、これまでの私の写真入力と編集機能が使えなくなるみたいで、その兆候が現れ出した。最初のように文字だけのブログに戻すか。PC内の画像を繰り返し使うか。PC内の画像を大幅に減らせば使える可能性もあるが、アナログ人間の私は、そんなことでも悩んでいる。<完>
2020.03.13
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<気がつけば a> 3月初旬のある朝、薬を飲もうとしてビックリ。あると思っていた薬の種類と数が不足してることに気づいたのだ。あれっと思い何が原因かを考えた。そして思い出した。断捨離中に体調不良で血圧が上った時、つい少し強めの降圧剤を使ってしまった。それで最短の外来診療日をいつにすべきか考えた。病院は山の上、電動アシスト付き自転車が一番便利なのだが、生憎雨の日には使えない。 それで予報で次に「晴れる日」にと決めていた。その日までは、何とか残った薬で間に合わせようと。薬の数に無理やり体調を合わせるのだから無理は承知。だがもしもの時にこれじゃ困ると考え、慌てて出発。幸い雨が降るのは午後から、今なら行けそう。病院がガラガラなのにビックリ。風邪などを移されたくなくて、用心して来ないのだとドクターから後で聞いた。なるほど市民の感覚は、そんなとこか。 私はてっきり「コロナウイルス騒動」で病院はごった返していると思っていたが、逆だった。診察室でドクターが言う。「あれ、頭が若返りましたね」。「本当は金髪にしようと思ったんですがね」と私。この日の血糖値は低めだった。それで1月下旬から40日間、断捨離を続けていたことなどを話した。ドクターも自宅の片付けを業者に依頼し、不用品がトラック3台分あったと。 「間もなく後期高齢者になるので、コロナのり患が心配だ」と言う私へ、ドクター。「70代はまだ大丈夫で、本当に危ないのは80代以上」。「それに自ら断捨離」をしようとする意欲のある人は大丈夫」とも。へえ~っ、それは意外で予期せぬ言葉。今は静養中と言うと、それも「正解」とドクター。とも角今は疲労を溜め込まないのが肝要だと。薬局で50日間の薬を受け取り、安心して家路に就いた。 途中、コンビニで見切り品のホウレン草や甘納豆などを購入。甘い物は頑張った自分へのご褒美。ホウレン草は簡単にお浸しに出来る。前夜、ある走友からメールが届いていた。5月17日の練習会の案内だ。そうか宮城UMCの新年会の際、F田さんが話していたのがこれかと納得。台原森林公園はアップダウンの激しいコースだが、「3時間走」の部に申し込んだ。ただし全部歩く予定。 つい最近、ネット上でちょっとした「トラブル」があった。それをリセットするため、既に予約していた幾つかのブログの日付をやりくりし、急遽これを入れた。当然先に予約したブログは後へ後へと押し出されたが、不自然さを感じない程度に納まった。やれやれだ。<続く>
2020.03.12
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あれから あれから9年の月日が経ちました そちらはいかがですか 私はまだ生きいます でも色んなことがありました 不整脈の手術を3度受け 最後の手術は6時間かかりました 執刀医によれば不整脈の震源地が5か所もあり それをレーザー光線で一個ずつ焼き切るため 手こずったと笑っていました そうそう 硬膜下血腫の手術も受けました 頭蓋骨に穴を開け 管を入れて溜まった血を吸い出したのです 毛細管現象の応用と言ったら分かるでしょうか 硬膜下に溜まっていた血液は約200cc そのせいで その夏はなんだかとても気分が悪かったのですよ その年の3月末 妻と別れました 家庭裁判所で1年間にわたる調停を受けた結果でした 4月末に妻が長女の元に去った その直後に 初めて乗った電動アシスト付き自転車 細い道の前方から突然現れた宅急便の軽トラ それを割けようと左にハンドルを切ったら そこに段差があったのです わずか3cmほどでしたが そこは以前平らな三和土(たたき) あれからその土地に家が建ち駐車場が出来ていました そのコンクリートの段差が3cm 偶然が幾つか重なったのです いえね電動アシスト付き自転車に乗ったのはその日が初めて それまでのマウンテンバイクとは 重さもタイヤの厚さも全然違っていました そしてハンドルの操作性がまるきり違うのです。 マウンテンバイクは軽くて咄嗟に切り替えられますが 買ったばかりの電動の方はいかにも鈍重でした いえね 転んでも全く痛くなかったのですよ 頭をコツンと打ったくらいでね ただしついてなかったのは そのころちょうど血液サラサラの 薬を飲んでいたのです 不整脈のため血栓が出来るのを避けるために その意味でも6つぐらいの偶然が重なっていましたね かかりつけのドクターは後になって それも「運」だと言ってました 行きつけの循環器内科のドクターに話したらこれから至急脳神経外科へ行き 頭部のCTスキャンを撮れと言うので 山越えで街の病院へ行きました もちろん自転車で その結果硬膜下血腫が判明し その日のうちに総合病院への入院と 翌日の手術が決まりました 今でも嘘みたいです 保証人は義姉 今わたしが頼れるのは彼女だけ 何せ兄貴はもう45年も寝たきりなので そうそう昨年の春先 夜間に救急車を呼びました 風呂に入ってる途中 手が痺れる感覚がし 次第に後頭部までが痺れて来たように感じたので 119番に電話したんですよ そしたらね姉貴 救急車が迎えに行くまで布団で寝てろと言われたんですが わたしは着替えや洗面用具をリュックに詰め ポシェットに「お薬手帳」や「健康保険証」も入れました そして向かいのKさんだけには事情を話し 救急車に乗り込んだのです 結局入院したのは1晩だけで翌日にはバスに乗って帰って来ましたよ そうそう昨年の夏ごろは耳鳴りとめまいが酷くなり 耳鼻科で検査した結果 脳内の血液循環が良くないらしく 半年近く通って薬を飲んだら症状は治まりました それで先だって40日間ほど断捨離作業をしたばかりです 「断捨離」はね姉貴 最近の流行語で不用品の始末のことですよ 終活って言葉もあります いえトンカツとは違います 50年近い結婚生活で溜まりに溜まった不要品をこの際 思い切って捨てました全部で4.5トンほど お陰で家の中がスッキリ すっからかんになりました その代わり体はクタクタ 4kg以上痩せてこちらもスッキリ 今は静養中の身の上 いつも元気が取り柄のわたしがですよ姉上 長くなりましたので今日はこの辺で止めます ああ、そちらにおられるお父さんやお母さんにもよろしく それから黒犬のマックスを見かけたら 頭の1つも 撫ででやってくださいな 少々臭い黒犬ですがね あれから今日で9年 わたしもいろいろありましたが まあまあ元気で時々は恋もしています ただし 目下19連敗中と言うザマ お恥ずかしい限りです そしてあれから丸9年目になる今日ですが 今年は政府主催の慰霊式も挙行されません 例の新型コロナウイルスによる肺炎の大流行で 今はどこも連日「お通夜」のように静まり返っています ただ安倍総理がテレビで挨拶はされると聞きました。 相変わらず政府の対応を非難する政党と新聞ばかりですが 原因は密かに中国軍が行っていた「生物兵器」の実験材料の 実験動物の死体を密かに外部に持ち出した者がいたみたい そしてウイルスの形を分析すると人工的に手を加えた痕跡があると アメリカで研究中の台湾の医学者が言っています だから中国政府は武漢を閉鎖し、医者ではなく生物兵器 担当の部隊を派遣して厳しく情報と住民を封じ込めたとも では姉上もお元気で それからしばらくの間地球には近づかないように 何せ中国で発生した新型のコロナウイルスがずいぶん 暴れ回っていましてね そちらの世界にもたくさんの人が 逝きました ですから姉上もそちらで感染しないようご注意を 元看護婦の姉上も油断は禁物です なにせ伝染のスピードが速いんです そしてこんな大騒動にも関わら相変わらず船や飛行機で 世界を動き回る連中がいますのでね 姉上 あれから今日でちょうど9年 毎年この日には泣きながら祈っています 嘘じゃありません その証拠に目が腫れぼたいでしょ 墓前に花を供えました 姉上が好きだった白百合です どうぞ安らかにお休みくださいね わたしもそろそろ風呂に入って寝ますから わたしのブログは3人の子が見ない代わり 宮崎の弟が毎日見てくれています 兄弟のありがたさをつくづく感じます 妻に逃げられ子供に見放された父としては 最後はいつもの愚痴になってしまいました では本当にこれでペンを置きます 姉上もお元気で わたしもそのうちきっとそちらに行きますよ 少しは粘って地球にいるつもりですが 最近地球も住みにくくなりましてね せ北極や南極の氷が猛烈なスピードで 解け始めたので あの小説みたいになるかもね ああ「日本沈没」ですよ あれは傑作でした では失礼 いつもの乱筆乱文をお許しを 仙台の可愛い次男より 天国lの姉上さま玉案下
2020.03.11
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<わが家の23年点検記> 2月27日、自宅を建築した住宅メーカーの点検を受けた。建築後23年目と言う中後半端なものだが、これにもちゃんと理由がある由。まあ、住宅メーカーは家を建てるだけでなく、その後も「点検」の名を借りて数々の「リフォーム」を提案して来るし、家主が高齢ともなると、「売却のための査定」を熱心に勧めるなど、油断ならない存在。今回もその攻防だったが、現在家がどんな状態かは、やはりプロが行った点検結果を聞く必要があるのは確か。さて、どんな結果になるか。 図面はわが家のものだが、右の室内風景はメーカーのパンフから借用した。また以下のプロによる点検風景も同様で、彼らに付いて回ったわけではない。点検の様子が良く分かるよう、参考資料として拝借した次第。 屋根(左)スレート材は、現在建築法で禁止されているアスベストを用いていた由。当時は許可されていたのだ。専用のカメラでの確認によれば、東側の屋根の一部のスレートに、「ひび」が入った箇所と、部材が欠けた箇所が、各1かしょずつあった由。でもスレートは2枚から3枚重ねてあり。かつその下に防水シートがあるため、後数年間はあえて取り換える必要はない由。やれやれ。右は屋根裏の点検。 外壁の壁面や目地に亀裂はなかった由。目地(めじ=つなぎ目)は20年点検時にメーカーに補修工事を依頼し、屋根と壁面は知り合いの業者に依頼して、3年前最高級の塗料で塗装しており、まだ良好な状態を保っている。前妻との離婚で何かと出費が多かったが、その後も長く住むために最善を尽くす道を選びリフォームを重ねた。私はそれで良かったと信じている。 バルコニー(ベランダ)の床に水が溜まるのは、素材の継ぎ目の段差のせいで、漏水の恐れはまだない由。漏水が生じる前兆としては、今後コーナー付近に現れる「ひび割れ」に注意すれば良い由。断捨離時、私が丁寧に掃除したせいで、排水状態も良好。手すり部分からの漏水の兆候もないとのこと。先ずはやれやれだ。 庭の山茶花 床下根太(ねだ)部分に白アリの被害は観られなかった由。今回床下へは、洗面所床下収蔵部分から入ったが、私は予めそのことを想定してここの収容物を全て移動し、清掃していたためスムースに作業に入れた。これも「大断捨離」と「大清掃」のお陰と言えようか。 浴室の排水関係(左)と、キッチン部分の排水関係(右)に、漏水はなかった由。やったね。 トイレ(1階および2階)の排水関係での漏水はなかった由。洗面所の排水に関しては、以前結露による床面腐食があったが、20年点検後に行った給湯工事の際に実施業者が発見し、排水管に断熱材を巻いて保全。今回漏水はなかった由。「20年点検時の点検ミスじゃないの」と言いたかったが、給湯による結露の可能性もあり、強くは言わなかった。 ユズの木の奥に見える汚水管の最終出口(右の小さい方)。この地下から市の下水管につながる。左の大きなマンホールが雨水管の最終出口で地下で道路の側溝につながっている。今回木の根が少し詰まっていたようだが、多分ユズだろう。外水道からの排水路は別にあり、東の擁壁をぶちぬいて側溝へ。雨水と外水道の水は側溝→近所の後田川→ザル川→名取川を経由し、やがて太平洋へと注ぐ。 2月の点検時に家の傍に木材を置いたままにすると白アリが来ると言われていたので、古い丸太(左)を慌ててゴミに出した。点検の最終報告で再びそれを言われたため、以前物置小屋の床下に入れて置いたままの数枚の板を思い出した。慌てて探すとやはりあり、白アリに食われてボロボロに。(右)これはヤバイ。間一髪で間に合った。機械油を噴射し、袋に詰めてゴミに出した。うひゃ~。 やもめ男一人のわび住まいだが、何とかこの家を守りたい。「売っても良いけど、それで新しい家は買えないもんなあ」。私が言うと、あっさり「そうですね」と業者。もちろん新築の一戸建てを他に買う気はなく、中古のワンルームマンションくらいが関の山。要支援でも、要介護でもない私は出来るだけ元気でしぶとく生き抜くのだ。そろそろ庭の改造作業でも再開するか。
2020.03.10
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<散歩中に観た花を中心に その1> スイセンの葉 コロナウイルス旋風に揺れる日本列島にも、春は密かに近づいているのである。弥生三月は私の誕生月。3月に入ってからも東北は暴風が吹き荒んだり、一変して抜けるような青空が戻ったりと、大忙しなのである。暖冬と言われた今年。桜の開花も早そうで、ここ仙台でも3月下旬にはソメイヨシノが咲くとの予報。どうやら仙台管区気象台の予報が始まって以来の、新記録になるらしいのだ。レッドロビン(ベニカナメモチ) 私の心にも暴風が吹き荒れていた「断捨離活動期」。今は暫しの休養に入って、鋭意体力を回復中の身。そこで久しぶりに散歩するか。そうなればブログネタを探すのがブロガーの性。何か「絵」になるものはないか。もしかしてお金など落ちてはいないかと、キョロキョロと周囲を見渡す筆者なのであった。ふむふむ。結構あるわ。絵になるものが。散歩に出た甲斐があったぞ。しめしめ。 かなり草臥れて来ましたのう、葉牡丹ちゃん。いえいえ、とんでもありません。まだまだ美貌を保っておりますの、わたし。 あら、おばさまもかなりお疲れのようで。なんですと、失礼な。わたしゃねえ、昔から資〇堂の白椿会の会員でね。ずっと愛用して来たんだけど、やっぱり最近お肌の衰え方が早いはねえ。悔しい。 その点、わたしはまだピチピチ。ほら葉っぱだってこんなにツヤツヤざますわ・ホホホ。 あら、あなたはどなた。この辺じゃあまり見かけない顔ねえ。なに、私のこと呼んだ? わたしゃねえ、梅は梅でも黄色い梅と書いて、オウバイと読むのよ。知らないの、いやねえ。オバサマたちは情報不足よ、そんなじゃ。 何言ってるんだか、この娘っ子は。私たちだって負けてないわよ。桜は桜でも芝桜。間違っても「姥桜」なんて言わないでよ絶対。一字違いで大違い。たく~っ、気にしてんのにさあ。 良いわねえ、皆さん方は。ちゃんとな名前を呼んでもらえて。わたしなんか珍しいらしくて、なかなか名前を覚えてもらえないのよ。ちょっとハーブの仲間のようにも見えるわよね。ハーブとハーフじゃ、一字違いで大違い。何マネしてんのよ、この新入り娘のくせして、図々しいわよ、あんた。きゃ~怖。 わたしはアシビ。漢字で書くと「馬酔木」ね。明治時代の有名な文芸誌の名前にもなったのよ。オッホン。まあ、地方によっては「アセビ」と呼ぶところもあるわね。一見地味だけど、この真珠のような色が素敵でしょ。おほほ。 良いですわねみなさん方。お上品な名前を付けていただいて。わたしなんか雑草の上に、つけてもらった名前が「オオイヌノフグリ」。直訳すればワンちゃんのオチ〇チンですってよ。まあ恥ずかしい。でも最近は気の毒がって、星の眸(ホシノヒトミ)なんて素敵な呼び名を付けてくれたのよ。まあ嬉しい。 良いじゃないの、広い場所で悠々と咲いててさ。こっちなんか、狭いプランターにギュウギュウ詰めの身分よ。でもあんたと違って、みんなに注目してもらえるけどね。それに肥料もたっぷりとね。 まあ遅い。わたしが最後ってどういうこと。小さいけど、香りが抜群のわたしなのにさあ。それに歌にもなったよね。知らないの。「春よ、来い」よ。松任谷由美 作詞作曲 淡き光立つ俄雨 いとし面影の沈丁花 (略) 春よ遠き春よ 瞼閉じればそこに 愛をくれし君の 懐かしき声がする かなり昔なんで、わたしも忘れてしまったわねえ。でも良い歌よね、哀愁があって。今でも歌うとじ~んと来るわ、心に。<続く>
2020.03.09
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<食事・いのちをつなぐ行為 その2> 1月下旬から3月上旬にかけての、家中の物品の9割(総重量は4.5トンほどか)を捨てた断捨離に続く、家と物置小屋の大掃除、家全体の模様替えと、美術品・工芸品などの再配置、庭の改造を連続して行えた陰には、1日3回の食事を疎かにせず低カロリーながら、自ら料理しかつ美味しくいただけたからだと思う。重労働と睡眠不足で体重はかなり落ちたが、幸いにして食欲は落ちなかった。 動物性たんぱく質は決して多くはなかったが、野菜と果物などの食物繊維は十分摂取したせいで、快食快便の日々。良くぞ最後まで体が持ってくれたと思う。長年ウルトラマラソンで鍛えた精神と身体、そして忍耐力のお陰だろう。普通の人なら半月も持たないだろう。ところが私は「行」だと自分に言い聞かせて何とか持ちこたえた。まさに奇跡的。それらの日々の中で食べた物を、記念に残していた。 動物性たんぱく質の大部分は魚や練り物や卵で、肉は安物のブタの細切れ、若鶏のレバー、冷凍のラム肉程度。牛乳は低脂肪乳で補足。そして納豆や豆腐、油揚げなどの植物性たんぱく質、ワカメ、昆布などの海藻類、キノコも良く食べた。それらの大部分は「見切り品」で、買った時からどう料理するかのイメージが湧いていた。冷蔵庫の中の食品の賞味期限にも注意し、ほとんど無駄にはしなかった。 買い物に行けなくて食品が乏しくなると、残った味噌汁に冷や飯や卵、残り物のおかずや野菜、魚の小片など何でも入れて「おじや」にした。これは増量が効き、かつ腹ごなしも良い優れもの。男一人だから出来ることで、女性が見たら多分「ゴミ」としか見えないはず。だが、永平寺の修行僧を思えば、どんな食べ物でも美味しく、いただいた。これは戦後数年間の飢餓を体験した者ならではの強みだろう。 私の食事の写真を見たこけしちゃんが、激務の後の「ドカ食い」の危険性を心配してくれたが、私はランナーとしての長い経験から、心が満たされている場合は「食」もコントロール出来ることを知っており、何の心配もしてなかった。むしろ「痩せ過ぎ」てないかの方が心配で、長い激務を休止して静養に入ってから、睡眠時間と体重がわずかずつでも戻って来たのが嬉しかったほどだ。 でんぷん質はご飯がメインで、麺類やパンで補い変化をつけた。パンは2割引き、3割引きのものを買い、食パンを焼いてコロッケやアジフライ、手作りの野菜サラダなどを挟んだ。自分で作ったユズのマーマレードも酸味が美味しく、食欲をそそった。ヒジキの炊き込みご飯など、「創作料理」も工夫した。まさに「必要は発明の母」を地で行ったのだ。創意工夫は脳の活性化にもつながる。ボケ防止だ。 圧力鍋、電子レンジ、トースターを効率良く利用することも覚えた。米は前夜のうちに研いでおき、最低でも30分間はうるかし(仙台弁で水に漬けること)、圧力の強弱、IHレンジの強弱と時間の加減を失敗しながら学習して行った。そして次第に粘り気がある美味しいご飯が炊けるようになった。左は自家製のジャガイモなどを使ったポテトサラダと、野菜サラダをミックスした。増量と栄養のバランスだ。 そして夕食には、安物の焼酎のごくごく薄い水割りを1杯。それがささやかなる慰労と言う、超安上がりな爺の楽しみなのであった。長期間にわたる作業の激務を支えてくれたたくさんの食事。それを作った自分、食べた自分、片付けた自分、工夫した自分に感謝。そして生かされてあることへの心からの感謝を、食事の度に感じた私だった。<不定期に続く>
2020.03.08
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<食事・いのちをつなぐ行為 その1> 「行」で先ず思い出すのが比叡山延暦寺の「千日回峰行」。これはほぼ不眠不休で経を唱え、1日40kmから80kmまでの山道を、神仏を拝みながらひたすら歩き続けるもので、それが約千日間続くことから「千日回峰行」と呼ばれ、これを達成した者は確か「大阿闍梨」(だいあじゃり)と言う称号を受ける。大変名誉ある称号で、これまでこれを授けられた僧はほんの数人と言う荒行なのである。 また思い出すのは、曹洞宗の大本山である永平寺の修行。ここで修行する僧は、早朝から深夜まで厳しい鍛錬の場を与えられる。寒さ厳しい山中でも素足で、腰を屈めながら掃除をし、乏しい灯の下で経を読み、読経しながら僧堂を巡る。食事は一汁一菜。これを作るのもまた僧で、命を粗末にしないため、野菜は葉のみならず根も全て刻んで食す。そして最後は茶碗に入れてもらった白湯で茶碗を濯ぎ、それも残さずに飲み干す。グルメに慣れた青年など多分一日も持たないであろう質素さ。それが一年間続く。 私は今回約40日ほどの断捨離、清掃、模様替え、美化、庭の改造に取り組んだ。睡眠時間は4時間足らず、断捨離中は1日15時間ほど家中の不要物品を処分する重労働に耐えた。家の中の物品の9割を捨て、その総重量は恐らく4.5トンに及んだであろう。それをゴミ収集日の前夜、自転車の前後に載せて、収集所まで運んだ。腰、肩、肘、膝、手、指は痛み、その苦痛と重度の疲労に耐え続けた。 その「荒行」に耐えられたのは、長年の趣味であったウルトラマラソンによって培われた「忍耐力」であろう。そしてそのエネルギー源は、自らが作る「貧乏料理」。「見切り品」多用の男料理は、見栄えも悪く、カロリーも成人男子に必要なカロリーの6割程度と思われる。野菜が中心で動物性たんぱく質は不足気味。だが、私は毎回感謝して食べ、食べ終われば直ちに食器を洗う。独り暮らしの私にとっては、まさに「行」そのものの日々であった。 私はほとんど既製品を買わない。今回は時間の節約と体力消耗を避けるため、珍しくインスタントラーメンを買った。恐らく食べたのは20年ぶりくらいだろうか。1日3食全てが手作り。しかも素材は自らが育てた野菜か、スーパーで購入した見切り品中心のもの。調味料も限られているが、そこは知恵を使う。男は「想像力豊か。在庫品の何を使って、どんな味にするか。買った時からほぼ決めている。 おでん(左)は自家製の大根とジャガイモを予め圧力鍋で煮て時間を節約し、2割引きで買ったはんぺんと「手羽先」を入れた。味は適当だが出汁が効いて実に旨かった。右のシチューには「粉茶」の残りを入れた。それで全体が緑色に見える。捨てればゴミだが、使えばカテキンとビタミンC豊富な食材と化す。何せ他に家人がいないので、見た目は無関係。何でも美味しく感謝して食べる男なのであった。 茹でる順番も熟慮する。左は昆布の芯。海水で煮てるため塩辛い。これを刻んで最初に茹で、その茹で汁で右の若鶏のレバーを茹でる。するとレバーの臭みが取れる。実はもう1段階あって、レバーの前にモヤシと絹サヤを茹でた。そして茹で汁はそのままシンクに流さず、裏庭の野菜の残骸や剪定枝の堆積所に捨てる。シンクのぬめりと汚れを防ぎ、かつ堆肥の促進を助け、一石二鳥なのである。男は手間と知恵を惜しまず、「24年点検」時も汚水管はとてもきれいだったと点検員の弁。よっしゃ~。<続く>
2020.03.07
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<氷雨のち晴れ その2> 翌3月3日(火)は、朝から抜けるような青空。前日あれほど降り続いた氷雨が、まるで嘘のように空はからりと晴れ上がっていた。もう春の空そのもの。また生命溢れる春が今年も近づきつつあることを、意識させる暖かい光に溢れていた。 そして3月3日と言えば、ひな祭り。桃の節句でもある。長女が生まれた年、妻の母がはるばる仙台から送ってくれた8段飾りの雛人形セット。あの重たいセットは、娘が弾いていたピアノと共に、筑波、鳴門、沖縄、松山、大阪と転勤に伴って私たちと共に移動し、仙台に自宅を建ててようやく落ち着いたかに見えた。だが妻が家を出たことで、あの大量の飾りもピアノも処分した苦い記憶が蘇る。 ベランダの手すりに布団を干したのも、実に久しぶりの出来事。2階まで布団を運ぶ、階段の途中で腰が悲鳴を上げた。まだ断捨離時の疲労が体の奥底に潜み、こんな時にひょっこり顔を出すのだ。この日は出来るだけ体を休めよう、そう決意し早速2日分の新聞に目を通す。新聞すら読めなかった日々。そして全国版の「俳句欄」は3週間分溜まって、手つかずのままだ。 庭に出て、作業後の様子を観察。確かに今年は春の到来が早そうだ。先日整備したばかりと言うのに、もう雑草が生えて来ている。生物は実に正直で、季節の変化に敏感に反応する。裏庭に回ってアオキの下に何やら青い葉の苗。おお、これは紛れもなく「鳥の落とし物」。鳥の糞に混じっていた種が発芽した、何かの植物だった。これだから面白い。アオキの実を食べに来た野鳥が、枝に止まって糞をしたのだ。 左がその正体不明の子。明らかにアオキの葉とは異なり、裏がエンジ色。そして右はフキノトウ。近所の畑にもまだ生えてなく、近所ではうちの子が、どうやら今年の一番乗りみたい。午後から窓辺に横たわり、丹前を被って昼寝。わずか15分ほどだが、本当に久しぶりの午睡。心が少しずつ「休養モード」に入ってくれたようで嬉しい。目覚めて直ぐ、干していた布団を入れ、夕方から台所に立つ。 立て続けにヒジキの煮物(上)、野菜炒め(中)、玉子焼き(下)を作り、大根おろしとサバの水煮を和えた。これで4品完成。「断捨離行」の最後は食材が乏しくなり、何でも入れて煮込んだ「闇汁」ならぬ「おじや」で凌いだ。あの頃に比べたら立派なご馳走。そしてさらに思い付き、ヒジキをさらに濃い味で煮直し、炊き立てのご飯と混ぜて、「ヒジキの炊き込みご飯」にした。 ひょっとして俺は料理の天才かも知れない。そのうち、本でも出して印税を稼ぐか。それは冗談だが、別途「男の家政学シリーズ」を書こうとも思う。実はある時、俳句も、掃除も料理も、全く一緒だと気づいた。それは最初に「本質に迫ること」。それが見極められたら、後はその応用に過ぎない。本質の理解こそが、全ての物事の始まりだ。それも今回の「断捨離行」で悟った。 その夜の就寝は1時過ぎ。それでも4時間半ほどの睡眠時間が取れた。この分では徐々に体力を回復出来るだろう。夕刻には自己流のストレッチ体操もやった。整骨院での治療に頼ってばかりではいけない。先ず自らケアする気持ちがないと、体は治らないと気づいたのだ。地味でも良いからコツコツと。そしていつかまた、ゆっくりと走れる日が来るのを待とう。壮大な夢を土産にして、眠りに就いた。<続く>
2020.03.06
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<氷雨のち晴れ その1> 3月2日(月)は氷雨が降る寒い朝。天気予報だと雨は午後からのはずだったのに、ガッカリ。この日は幾つかの用件をこなす必要があった。自転車が唯一の足である私の場合、雨は禁物。だがそうも言ってはいられない。覚悟を決めてジャンパーの上から青いウインドブレーカーを羽織って、雨空へペダルを踏み出した。たちまち眼鏡のレンズが曇る。これは危険。立ち止まってレンズを拭く。 最初の行き先は最寄りのJA。火災保険の更新なのだが、建物が閉まっていた。どうやら工事中みたい。張り紙を読もうとすると、自動扉が閉まって字が読めない。そのうち近所の人がお金を下ろしに来た。その人に聞くと開店は9時30分とのこと。手は寒さでかじかみ、氷雨に濡れたせいでトイレに行きたくなった。おお大丈夫か自分。時間が来てようやく扉が開き、中に飛び込む。 担当者に用件を伝え、トイレに飛び込む。辛うじてセーフ。良かった間に合った。カウンターで書類に記入し、保険料を支払い関係資料を受理。いずれ保険証は郵送されるはず。1件目終了。次は来年度の「俳句教室」の申し込み。JAから東に向かう途中、ある建物を窺う。「おおやってるみたい」。「帰りに寄ってみようか。勇気をもって」。 いつもの建物に入ろうとして異常に気付く。どうも閉館みたい。あらら、困った。どうしようか。するとたまたま内側にいた人が扉を開けてくれた。「月曜日は閉館日なんですよ。で用件は」。私が来年度の俳句教室の申し込みだと言うと、申請用紙をくれた。抽選後の許可のための「返送用ハガキを渡す。彼は館運営のための「民間人」で、過去の受講者と講師の諍いについて話してくれた。そうだったのか。 私がこの地区と郡山官衙(かんが)の関係や、古墳発掘調査の結果、ここが古代東北では当時最先端の文化地帯だったことを教えると、いつか受講者に話してくれないかと真剣に言う。あらまあ。私は単なる考古学ファンですからと断ったが、案外本気みたい。ともあれ2つ目の用件も偶然に助けられて無事完了し帰途に就く。さて、気を良くしたところで寄ってみようと決心。覚悟は決まった。 とある建物の中庭にある薬局へ。薬剤師さんが「処方箋は?」と聞くが、ないんです。こけしちゃんに用があってと言うと、奥の部屋にいるこけしちゃんを呼んでくれた。ビックリした表情の彼女に、「2月はお世話になりました。あの時お話を聞いていただきありがとうございました」と言うと、「「何の話でしたっけ」と彼女「断捨離です」。「ああ、あの時のねえ」で、教えてもらったブログを見たら。 ある方の名前を出した。確かに走友。ただし私が入会したのはその人の退会後、再び入会した時は私はほぼ活動を停止した頃で、その人は私のブログを知らない。一緒に走ったのは唯一「A内陸」。その90km地点であっさり抜かれた。私はランナーとしてはもう晩年期で、その人は現役バリバリ。年齢は13ほど下か。明るく美しいこけしちゃんは、相変わらず素晴らしい笑顔。来て良かった。「また出直します」と退散し。再び雨の中でペダルを踏み出した私だった。 うわ~っ、大感激。再びこけしちゃんに会えるとは。帰宅後、郵便局でお金を下ろした後、急いで昼食。そして覚悟を決めてあるものを書いた。それは私が2月に断捨離の話をした時、彼女が「改装なったわが家を見たい」と申し出てくれたことへの返事。あの時はよもやの展開に、頭が付いて行けず、とっさに返事が出来なかった。まだ彼女がそのことを覚えている保証はないが、ここは勝負時。 そこで手作りの「招待状」を作成。氷雨はますます強くなり、自転車で行くのは無理。ここは公共交通機関の乗り継ぐしかない。バスの時刻を確認し、服装を整えた。シャツ、ズボン、コート、マフラー、そして傘と帽子、革靴。全部茶系統でコーディネート。よれよれの親父が、一見紳士に見えなくもない。そして案内状をポシェットに詰め、バスに飛び乗った。後は彼女の勤務時間に間に合うかどうか。 朝とはすっかり違った姿の私を薬局の方もこけしちゃんも私と気づかなかったみたい。「いつもは行き倒れの爺さんもお洒落をすればこうなります」。するとこけしちゃん。「女も口紅一つで変わるのよ」。私が「招待状」をおずおず手渡すと、「あらラブレター」と無邪気。おお、アン王女。あなたはやっぱりノーブルな女性。「頑張って~」と手を振ると、「マックスさんもね」と手を振る彼女。 帰りは雨の中を濡れながら歩いて帰った。もうズボンはびしょ濡れ。それでも私は嬉しかった。まさか再びこけしちゃんの笑顔に会えたとは。それも1日に午前と午後の2回も。もうこれは奇跡そのもの。やはりこけしちゃんは「ローマの休日」のアン王女そのもの。私は「雨に歩けば」を歌っていた。just walking in the rain。ジニー・レイの歌を歌った日本人歌手は確か小坂一也。もう遥かなる懐メロだ。 家に着いてヒーターを点け、ズボンなど一式を脱いで、普段着に着替え。またヨボヨボの爺に戻った。これが紛れのない俺。床の間のこけしに挨拶。会えて嬉しかったです。勇気を出せて良かった。だが、その後電話が鳴ることも、Eメールが届くこともなかった。元々私に勝算はない。賢明な彼女が私に合わせて演技してくれただけだろう。それでも勇気を奮った価値はあった。ありがとうこけしちゃん。その夜は久しぶりに穏やかに眠れた男だった。<続く>
2020.03.05
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<総括編その2> 私が断捨離を始めたことを知った徳島のブログ友じゅんじゅん姉が、次のようなコメントを寄せてくれた。「断捨離をすると、心が清められるよ」と。多分1月下旬の頃だ。断捨離は緒に就いたばかりでその実感はなかったが、私は本当に純粋な気持ちで断捨離に取り組んでいた。独り暮らしの私がやるとすればまだ体力がある今しかない。妻は去り、子供は帰らない。だから責任者は、私以外にないのだ。 <ぼやけて撮れたわが家のクリスマスローズ> 「だが」とじゅんじゅん姉。それがなかなか思うようには行かないの。ちょっと片付けたくらいじゃ、すっきりしないの」と。そんなものか。ともかく私は捨てに捨てた。前妻はほとんど捨てられないまま去り、3人の子は大量の不要品を置いたまま。特に長男の遺留品に絶望。無限の「ゴミ」に向かう私は、風車に向かって突進する「ドン・キホーテ。しかも家来のサンチョ・パンザもおらず、槍もない。 じゅんじゅん姉がご自分のブログに書かれていた。「今度は本気になって断捨離に取り組む」と。そのため当分ブログを休む由。その志や良し。「頑張ってねじゅんじゅん姉さん。でも優しいご主人様がおられるので大丈夫。いつもご夫妻で社会奉仕や社会活動に取り組まれて来たお二人ならきっと立派に目的を達成されるはず。そしていつも優しいメッセージをありがとう。 彼女はブログを休まれるが、私はあの大作業中も、1日も欠かさずにブログを更新した。だからこそ二重の苦しみだった。でもそれを選んだのは自分。断捨離もブログも止めようと思えば止められ、休もうと思えばいつでも休むことが出来た。だが私はその道を選ばなかった。それが私に与えられた「試練」。その試練に耐えられずして何のための人生か。今でも「男は黙ってサッポロビール」なのじゃ。 しかし、あれだけの重労働を睡眠不足の中で続けて来て、良くも死ななかったものと。ただ限りある時間を有効利用するため私は考えた。今の私に不要と思われるブログを削除し、心から信じ合える友のブログだけにした。たとえ訪問出来なくとも、気持ちはつながっているはず、そう信じて。ブログの断捨離は心の断捨離そのもの。生半可な整理では済まない。後は開き直って生きるだけだ。 数日前から大事を取って、庭仕事を一旦休止した。それと同時に潜んでいた疲れが、どこからともなく湧き出した。安心したせいか目が落ち窪み、冴えない表情の自分が鏡に写っている。睡眠時間が少しだけ長く、体重がほんの少しだけ戻り、人間らしい気持ちが戻った。だが油断は禁物。 藪椿の芯 このシリーズも後30回は続くはず、だが、たまに休憩を取ろうと思う。また時々は異なるタイトルでも書く。時々ドキッとさせるのは、読者が飽きないための工夫。時系列の無視や、一見無関係のテーマの混入もある。何せ私のブログは実験的な要素が大。まるで私の人生そのものだ。では、今日はこれにてバイチャ。<不定期に続く>
2020.03.04
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<総括編その1> 1月20日の夜から初めた断捨離をこのたびひとまず終えた。その長い行程の細部と、その過程において私が考え、悩んだこと、今後の展望などを記すのがこのシリーズの狙いだ。第1回目の今日は、私が断捨離をどう捉え、どう実践して行ったかについて述べたい。 日程の概略は以下のようなものだろうか。 1月20日~2月18日 断捨離実行 家の中、及び物置小屋の物品の9割、約4.5トン分を廃棄。 2月19日~2月24日 家の中の清掃作業。ほとんどの部分を私自身が清掃した。 2月25日 3人の子供へ、彼らの関係品として選別した物品を宅急便で発送。 2月25日~2月26日 家中の模様替え実行。 2月26日夜~2月27日午前 家の中の美化作戦。美術品や工芸品、写真、陶器類などを配置。 2月27日午前 住宅メーカーによる「24年点検」を受ける。 2月27日午後~2月29日 庭の改造計画実行。2月29日で一時休止中。 この間、作業を休んだことはなかった。作業時間は平均1日15時間前後。 睡眠時間は長くて4時間程度か。腰、肩、肘、膝、手などの痛みが半端じゃなく、この間早朝整骨院で10回程度施術を受けた。 激しい疲労の影響で、曜日の感覚はなく、新聞を読めない日も多かった。そんな中でも苦戦しながらブログの更新を続けていた。今にして思えば奇跡以外の何物でもない。そのことによって、少ない睡眠時間がさらに減った。また脳内の酸素不足、エネルギー不足による影響か、物忘れが激しく「部分入れ歯」を忘失した。このため頻繁に「メモ」を記し、良く目につく場所に置いて、自分への喚起を促した。 食欲と便通はあったが、カロリーの摂取量が不足の上に連日激しい作業を続けたため、体重がかなり減った。かつてウルトラマラソンランナーの減益だった頃は、良く食べても66.6kg。体脂肪率は17%が通常だった。今回は常に体重は63kg台で体脂肪率は13~14%台。運動を止めた数年前に比べたら、体重は5kg減。体脂肪率も4%ほど減った。私にとっては「行」そのものだった。 体重、体脂肪率計測のほか、毎日定期的に血圧を測定した。おおよそ午前中に2回、午後に2回測定し、その結果を「血圧手帳」に転記。また頭痛などがある場合は特記し、健康に留意した積り。ただ疲労が蓄積すると、風呂の中で眠り、お湯が冷めて気づくようなことが後半増えた。整骨院にジャンパーを忘れ、俳句教室へ眼鏡をかけずに行ったこともあった。 限りなく体力の限界が近づいているのが分かった。断捨離を始めてから1週間ほどで口の周辺に異変が生じ、5年か7年ぶりに「口唇ヘルペス」が発症したことを知った。慌ててネットで区内の皮膚科を調べ、苦労の末に診察と内服薬の処方を受けた。こうしてこけしちゃんとの奇跡的な遭遇が生まれた。だが、天真爛漫なこけしちゃんの真心に直ぐ応えられなかったのが悔しい。そのうち必ずリベンジしたいと思っているのだが、果たしてこけしちゃんが許してくれるかどうか。でも勇気を奮いたい。<続く>
2020.03.03
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<石と遊ぶ> シャラと冬空 庭で一番大きな鮫川石(福島県産の青石)はアプローチの傍にあります。遊び心で石の上に、白いホタテ貝の貝殻を載せて見ました。庭に来る小鳥の水飲み場になればなどと思ったのですが、水飲み場にしては少し「皿」が浅かったかもなあ。 2つ目の鮫川石は居間の前庭にあり、山茶花とウメモドキの木の下に鎮まっています。今は山茶花が散り時となり、石の上にも零れ落ちた山茶花の花びらが幾つか折り重なっていました。 3つ目の鮫川石が今回整備を終えた花壇の中央に、どっしりと落ち着いています。石の前側(東側)には庭に散らばっていた万年青(オモト)を集め、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。また岩の裏側には、今回一旦掘り上げたツツジとヒイラギナンテンから、邪魔者のドクダミと芝生の根を除去し、元の位置に改めて植え直しました。不要な枝を切ったため、とてもスッキリしましたね。 義父が生前楽しんでいた盆石を、幾つかわが家に持って来てくれました。本来は石の形に合わせた置台に載せて石だけを鑑賞するのですが、私はこれを庭石にしました。これは居間の前庭の鮫川石の隣に鎮座しています。石の大きさはさほどでもないのに、この石の形と石の性質が小さな庭に独特の哲学的な雰囲気をもたらしているように感じます。 2つめの盆石があるのは花壇。この石のすぐ下には雨水のマンホールの白い蓋があり、とても興覚めでした。そこで底が平らなこの石を目隠し代わりに置いたのです。遊び心で水を撒いたら泥が落ち、小さな2つの窪みに入った水が、新たな表情を見せてくれました。穴の一つに「小さなヤブコウジ」(藪柑子)が根付いています。穴に溜まった土が、ヤブコウジの生育を助けたのでしょう。面白いのでそのまま放置しています。雨が当たる場所にあり、雨水が天の恵みをもたらしているみたいです。 三つ目の盆石は、アプローチの少し奥まった位置にあり、どっしりとした風格を有しています。持つととても重く、まるで「隕鉄」で持ったような錯覚を覚えるほどです。周囲にはスイセンやクリスマスローズなどがあり。間もなく賑やかなスイセンの林に取り囲まれることでしょう。家の中で「鑑賞する盆栽も良いのですが、こうして庭に置かれ、新たな使命を与えられたのも、この石にとっては良かったようにも思うのですが、いかがでしょうか。 これはかつて、河原にでもあったのでしょう。それが何かの悪戯でわが家の庭に埋もれ、花や樹木を植えた時か、畑を開墾した時に私が地中から掘り上げたものです。先日紹介した愛犬マックスの墓標代わりのの石もそうでした。こちらは花壇の鮫川石や盆石の傍に置いて、三位一体で花壇を守る鎮護石となりました。そんな遊び心も妻や子が去って独り暮らしとなった私にとっては、大いなる喜びなのです。 今回全て除去した南通路の居間よりの空きスペースに、これまで花壇の奥に重ねていた川原石を転用してここに敷きました。HCで売ってるきれいな「玉石」のようには行きませんが、きれいに角が取れて丸くなったものよりもどこか「無骨な表情」が色濃く残されて「いるのもまた一興でしょう。庭は植木や草花を楽しむだけでなく、物言わぬ石を愛でる場でもあるのです。こうして庭は色んな表情を見せるようになります。 後1か月もしないうちに、庭は一面の春の花で溢れかえることでしょう。その姿が目に浮かびます。わが家の狭い庭と畑ですが、花や木、そして野菜たちが成長して花を咲かせ、たわわな実を結ぶ姿を楽しみにしつつ、残されたわが人生を豊かに過ごしたいと心から願っているところです。今日の睡眠時間は4時間足らずですが、体調が良ければ通路の小石を広い集め、「ミョウガ帝国」を石で埋めたいと思っています。<不定期に続く>
2020.03.02
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<当分作業を「中断します> 例のコロナウイルスの感染者がついに仙台市内でも発生しました。断捨離から続く、大掃除、模様替え、家中の美化、庭の改造と1日も休まずにかなりの重労働とブログ更新を続けて来ましたが、もう既に体力の限界を超えています。悪質な病気にり患しないためにもここ当分は作業を中断し、体力の回復に専念する所存です。ブログも手持ちの写真が中心になりますが、なにとぞご了承願います。 2月27日、住宅メーカーの「24年点検」が終了した午後から、庭の改造に取り掛かりました。最初に手掛けたのは、花壇のツツジとヒイラギナンテンを掘り上げた後、芝生、ドクダミの根っこを一掃。次いで小菊も全部抜いて整理し、改めて植え直し。その後は庭の万年青(オモト)を、花壇の鮫川石の周辺に集めました。その方が見栄えが良いためです。 この日使用した道具類です。大型と中型のスコップが必要でした。主に長くつを履き、箇所によってはランニングシューズでしたが、メッシュの隙間から土が入って来ました。玄関を汚さないために、連絡用の「サンダル」を使用。小菊も抜いたのでスッキリ。球根類は植え直しました。元気に芽が出てくれると嬉しいのですが。 鮫川石の近くに移植した万年青です。玄人好みするのが万年青の魅力でしょうか。やはり独特の風格がありますね。 花壇が一段落した後は、アプローチの敷石を外して芝生とドクダミなどの根を除去する大仕事です。作業の手順を考え、玄関に近い場所の敷石を外しました。西側に広いスペースがあるため、芝生の根から土だけ振るい落とし、かクダミの根を除去するなど結構面倒な作業です。 ところが予想外の出来事が。何と玄関脇のシャラの根が、花壇方面にまで伸びていたのです。人の目に見えない地中で、色んな植物が戦っていたのです。みな生き延びるのに必死。雨水管や汚水管の中にも、植木の根が侵入していたと、午前中に点検した業者の人が話していました。 敷石を退けるとこんな具合。芝生の根っこが地中に侵入する様子が分かります。その深さが半端じゃありません。従って、かなり慎重に土を掘り取る必要があります。 これは敷石と敷石のわずかな隙間に潜り込み、その後成長した芝生の様子です。これだけ盛り上がるのですから、芝の生命力がいかに強いかが分かります。 玄関前の一列分の処理が終わると、今度は逆に西の芝生の方向に向かって、芝生を切り裂いて行きます。これもその後の作業手順を考え、広い作業スペースを確保するためです。芝生を除去するとむき出しの土が現れるので、玄関前が土や泥で汚れないよう、その分に見合った大きさのプラスチック製のマットを敷きます。 和室2の鍵を開け、窓辺に飲み物と各種のキャンディーを載せたお盆を用意しました。喉が渇いたり、疲れを感じた時にいつでも休むための「臨時休憩所」を設けたのです。これは我ながらグッドアイデアでした。風が出て寒くなった夕刻には作業の道具類を全部片づけ、家に入って今度は料理の時間です。この日は「おでん」と「シチュー」を両方とも大きな鍋で作りました。とても美味しかったですよ。<続く>
2020.03.01
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