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”かぐや姫”に興味を持たない日本人は皆無と言っても過言でないほど、わたし達が幼い時から聞かされてきた日本最古の物語。現代では、月着陸を事実として認めながらも、傷ついたわたし達の心を癒してくれる月への憧憬の思いは消えないことでしょう。 繁田信一著の「かぐや姫の結婚」を手にした時、実在の女性である藤原千古(チフル)を「かぐや姫」として紹介なさっているのは素晴らしいと感じました。「枕草紙」や「紫式部日記」のほか、「栄花物語」などを通じて知る藤原彰子や藤原定子らの人間像は、彼女たちが一条天皇の妃となって以降のことに限られますが、当時”かぐや姫”とも称された藤原千古は裕福な父・藤原実資の「小右(ショウユウ)記」という日記によって、その幼い時から綴られているから凄いと思うのです。 彼女は約千年前の長和2年の生まれ。それは一条天皇のご退位・崩御のあった年だから、彼女にとって、清少納言や紫式部ら才媛の活躍の時代は昔語りとなってしまっていたのは残念なことと思われます。この書物の魅力は、主な王朝貴族の誕生年表や系図、藤原実資家の荘園所在地図、小野宮と称された邸の推定復元図、また所在地図、千古に縁のある寺院の地図、兄弟姉妹との関係、その他幾通りもの人脈図など資料が豊富で、千年前の王朝生活や婚姻に関わる風習を赤裸々に、懇切丁寧に解明しておられる名著と言えるのです。
2010.08.31
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暑さ続きの所為なのか、雑用に追われた為なのか、8月はなかなか図書館に足を運び得ませんでした。従前は随分涼しく保たれていた室内温度が、クーラーの効いたような、そうでないような中途半端な温度に設定されていました。おそらく利用者にとって絶好の昼寝場所としての公的機関になってしまい、図書を借りる、図書を読むという本来の在り方から逸脱する風潮への対策だったのでは無かろうかと思う次第でした。1)繁田信一著「かぐや姫の結婚」(PHP研究所) 平安朝を映す日記「小右記」を綴った藤原実資。道長のライバルと言われた実資には”千古”と名付けた姫がいました。王朝貴族として幾多の縁談に翻弄された姫君の運命とは・・・。2)岩井志麻子著「ぼっけえ、きょうてえ」(角川書店) 第6回日本ホラー小説大賞に輝いた作品。個性的な作品。3)森野宗明著「鎌倉・室町ことば百話」(東京美術) 日本の歴史と当時使われていた言葉とを並列しながら知識を深める書物。4)斎藤美奈子著「男性誌探訪」(朝日新聞社) 世の男性諸氏が愛読したであろう懐かしい雑誌など31誌を網羅しています。5)上前淳一郎著「読むクスリNo30巻」(文芸春秋) いつも引き合いに出す豆知識の宝庫本です。 私的には俳句関係の仕事、月刊俳誌の編集、俳句界各協会の幹事、結社の大祭にからむ役、ガイドの会一員としての役割など多忙にギアーを上げつつあります。その気分転換としての書物です。
2010.08.30
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他の方々も条件は同じでしょうから気候のことを言っても詮無いことですが、寝室兼書斎は瓦屋根ではないので殊更、酷暑の影響を受け、少ない脳味噌が融けてしまいそう。句の出来もさっぱりです。 天の川山頂なれば溺れさう 銀漢や望む洛南平らけき○牧牛の寝入りの深き天の川 御破算にできぬ片恋鳳仙花<鳳仙花は種が弾け飛ぶと言いますが、算盤の玉を弾けさせる連想が狙いでしたが、失敗> 死に場所を選べぬ蝉の仰向ける 机上にはでえんと原書今朝の秋<これは夜の秋にすべきでした> 白粉の乗りの宜しき今朝の秋○お抹茶の色に惹かれし葭簀茶屋 ウシトラ○艮に物置古りて蚊の砦○鳴神を立てて四号上陸す<鳴神=雷> 迅雷や近頃とみに師筆恋ふ 蚊柱やうせつ翁墓のへばり苔<うせつ=俳句結社:京鹿子の大正・昭和の俳人> 蚊柱は今し墓地なる四辻に○細やかな京しつらへの夏座敷○月見草あまたの麗句探るかに ともすれば寝そべるばかり秋暑し○諸々の貌浮き彫らせ大花火 オトコ◎巌打つ漢ごころの夏濤なる 終焉の線香花火の玉膨る 櫛笄商ふ嵯峨の涼新た 花魁の指す長キセルさるすべり 朝霧や愛宕の全容整はず△片恋やそれも幸せ酔芙蓉 命断つ恋のかたちも酔芙蓉△白抜きの卍ちやうちん地蔵盆
2010.08.29
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今から22年前の月刊誌「京都」通巻110号の特集は”通りを歩いてみたい”で、物語のある通り、川のある通り、商いの通りなどから紹介しています。 物語の通りとして写真では六角通りの六角堂の赤提灯を載せています。正式名は紫雲山頂法寺。本堂の右手には京の中心といわれる「へそ石」があります。 寺町通りは平安京の東の端つまり東京極通りでしたが、後年、秀吉公によってこの通りの東側に市中の寺院を寄せ集められました。写真は革堂。賀茂川~堀川間の御池通りは並木の映える広い通りです。それは戦時中の立ち退きと家屋取り壊しがその背景にありました。御池通りを堀川通りより西に行くと職司町など古い町並みがあって、北側には古き池、神泉苑があります。祇園祭の発祥にも関わってきます。 商いの通りとして薬屋の多い二条通り、家具の街である夷川通りは古来の冷泉小路。江戸末期は古道具・建具の街だったようです。武具・具足そして錦を商う通りだった錦小路通りは、高倉~寺町間、鮮魚・川魚・乾物・野菜・菓子・漬物など食の宝庫として人気を博しています。表千家、裏千家などの由緒ある通りが小川通り。幕末の志士が闊歩したであろう木屋町通り、お茶屋にからむ新橋通り界隈も京の魅力の一端ですね。
2010.08.28
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日本人でありながら学校で学んでいない可能性のある漢字については、わたし達には弱点がありそうですね。50音のアから順に難読の字を並べますので、それをヒントに読み方を考えて下さいな。1)愛魚女 2)呷る 3)贖う 4)鳳蝶5)木通 6)阿漕 7)海豹 8)海驢9)強ち 10)水馬 11)望湖魚(イで初)12)金線魚 13)鸚哥 14)嘯く(ウで初)15)蹲る 16)独活 17)雲丹 18)末枯れ本日は此処まで。
2010.08.27
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日本人でありながら学校で学んでいない可能性のある漢字については、わたし達には弱点がありそうですね。50音のアから順に難読の字を並べますので、それをヒントに読み方を考えて下さいな。1)愛魚女 2)呷る 3)贖う 4)鳳蝶5)木通 6)阿漕 7)海豹 8)海驢9)強ち 10)水馬 11)望湖魚(イで初)12)金線魚 13)鸚哥 14)嘯く(ウで初)15)蹲る 16)独活 17)雲丹 18)末枯れ本日は此処まで。
2010.08.27
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従姉妹から貰った古手紙。それは昭和19年8月17日付の、父から戦局に居る叔父(母の弟)宛に送られたもので、やや小さめの便箋3枚に、丁寧な文字を並べたものです。これに先立つ5月21日付のハガキは、茨城県土浦海軍航空隊予備学生隊 第二分隊第二班所属宛でしたが、3カ月後のこの封書は、鹿児島県出水海軍航空隊 第五分隊第五班宛に変っています。この叔父はいわゆる”神風特攻隊”として後年、正に出撃を明日に控えた時、玉音放送による敗戦宣告がなされて助かったのでした。 さて、手紙ですが、名前以外は原文まま載せることに致します。 <大へん御無沙汰しました。元気に御勤務のことと存じます。戦局の苛烈化に伴い愈、お忙しいことと拝察してゐます。小生 今夏はどういふものか健康にめぐまれず、微熱を出したり腹をこはしたり痔に悩んだりしてゐます。子供達はお蔭で三人揃って元気です。○○(母)、□□(次姉)、おりく(私・仮名)の三人は先月末十日ほど住吉へ行ってゐまして、昨日、お母さん(母方の祖母)に送られて帰って来ましたので家の中急に賑やかになりました(この手紙は京都市高辻烏丸西の木綿問屋兼居宅から発信)。△△(長姉)は今度お留守番に廻りましたが、けんくわ相手の□□が居らぬと とても大人しくて一寸したお手伝ひもします。先日 おばあさん(父方の祖祖母)のお使ひで、五十銭札を持って煙草屋へ”響”を買ひに行きましたところどう聞きたがへたか、ヒカウキを下さいと云って五十銭札を出したらしく、煙草屋のをばさんにヒカウキは五十銭ではつくれませんと云はれたと云って帰って来たので大笑ひでした。 いつの間に覚えたか、折紙でカブトを折ります。お父ちゃんカブトおしへてあげようといふものですから うんうんといひかげんに一緒に折ってゐたのですが、だんだん折ってゐるうちにカブトらしくなってくるので コレハコレハと驚いた次第です。それで今度は△△にオルガンを教へてやりました。それでこの二つの△△の作品をここに同封でお目にかけます。□□が帰って来た当座はやはりなつかしいものか、二人で頭をくっつけあって仲よくしてゐましたが、しばらくするともうお互ひの所有権を主張しあって一つのものをひったくりなどして わんわんさはいでゐます。△△はおりくをとても可愛がります。□□はまだ甘えたい気持ちあるのでおりくを抱いてゐると抱けと云って やきもちをやきます。残暑きびしい折柄 健康にご注意下さい。 八月十七日 父の名叔父の名 同封折紙中 わけのわからぬ一つは□□の作品です。>この手紙を読むと母乳不足で成長が遅れがちな赤ん坊の私は結構可愛がられていたようです。同じ時、4冊のネガ入れに入っていた古写真のネガ(印画紙)が61枚ありました。これを焼付けて貰う積りです。
2010.08.26
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絹こし豆腐は100g当り56Kcal、木綿豆腐は72Kcal、そして焼き豆腐なら88Kcal。栄養素には銅・ビタミンK、マグネシウム、たんぱく質、ビタミンB1などが含まれています。かのユリゲラーが「自分の超能力の源は、豆腐とジョギング」というコメントを発した所為で、当時のアメリカの豆腐ブームが日本に逆輸入されたこともあります。豆乳が赤ちゃんの離乳食に使われるところを見ると、栄養源として好ましい食べ物と言えますね。 夏場は冷奴という調理法で簡単に1品増やせるし、味噌汁、おすましの具としても重宝します。先日の「試してガッテン」では、冷たい豆腐よりも、一旦温めたものを適温に冷ませたものが一番、豆の香りがして美味しいと唱えていました。拘りものの豆腐は少々家計を圧迫しますが、スーパーで売っている通常のものなら、庶民的で経済的ですね。まだまだ厳しい残暑が続きますが、拙作の曲で涼んで戴こうかな?本日の付録はせせらぎです。透明で指先が切れそうなほど冷たい清水の流れる信州のとある小川。そこには小さな淡水魚が泳ぐ都度、砂が噴出し、すぐ元通りに収まる、そんな出没の光景。地上には涼風が白樺の枝葉を過ぎてゆく・・・そういったイメージの曲です。
2010.08.25
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NHKしか映らなかった昭和30年代初期から大阪にもOTVが開局され、やがて朝日、毎日、読売、関西の各局が筍状態で増えていった頃、TBS局に「日真名氏飛び出す」という探偵番組がありました。その主役を演じたのが久松保夫氏で、パイプを燻らせているポーズが洒落た探偵のイメージに一役買っていたように思います。 さて、その久松保夫氏は熱心なこけし愛好家で、父の口からそういうことを聞いていました。「こけし手帖」の63号には「思い出のこけし」と題して、久松氏の一文が掲載されています。 <盛岡の町は雨だった。少年啄木が教室を抜けてただ一人、寝ころびに来たというお城の草も、今は蕭状とぬれていた。 昭和十五年秋のある暮れ方。私はその霖雨けぶる不来方(コズカタ)の城跡に立って、暮れなずむ町並みを見下しながら<どうすれば東京まで帰れるか・・・>と思案していた。>という書き出しで始まっている抒情的な文章には、貧乏役者の頃の不安を救ってくれたこけしとの出会いが綴られています。それからは愛好者らしい専門めいた内容が続き、最後には、<ただ願う。この美しいものを破壊させる暗黒の世の再び来たらざらんことを・・・>で結ばれています。幸いなるかな、彼の没後二十八年経た現在、日本は彼の言う暗黒の世界には至っていませんが、索漠とした気分にさせられる人命軽視の事件が後を絶たない日が続いています。此処は一つ、三日月眉の愛らしいこけしを鑑賞して、こけしのような心に戻りたいものですね。(参照サイト)久松保夫東北こけし
2010.08.24
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先日採り上げた梶本きくよ氏の句集「北浦和」から菊の句を拾ってみました。 夕日もろとも大輪の菊剪りにけり 豪快豪放な句ではないか。黄菊か白菊か大輪の菊の切り時を数日前から見計らっていた。明日にしようかなと思いつつ庭に出て、橙色の夕日を背にした大輪の菊を見、この瞬間だと迷わず切った。今が潮時と思ったのだ。夕日もろともが良く、剪りにけりの”剪り”の語法が適切。鋭敏な鋏でないと、この大輪の菊の茎の太さを切り落すことができない。もう1句、 脇役の視線に主役菊人形 歌舞伎の演出はいろいろ工夫が施されている。その一つが脇役の重要性なのである。主役を引き立たせる為、脇役を上手に使っている。悪役もその一つであるが、悪役だけでなく、舞台を彩る登場人物すべてが、主役に観客の目が行くように演じさせている。歌舞伎に限らず、舞台芸術・ドラマなどもそうである。不幸なのはテレビドラマで脇役に大物俳優を揃えた場合、主役一人が浮き出てしまい、ちぐはぐなドラマになってしまうことである。経験の浅い人が主役に抜擢され、本人は一生懸命努力する。しかし努力のポイントがズレている為、そして付け焼刃の状態で演技するから、こういう結果になる。初主役でも、脇役と呼吸を揃えたり、場を見て演技する力があれば、その人は将来的にも大物役者になれること請け合いである。演技とはこうしたもの。前置きが長くなって仕舞ったが、この句の言わんとするところ、菊活け職人の演出も、其処にあると思うのだ。
2010.08.23
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随分前に城南宮さんで買った、理学博士:廣江美之助さんの「源氏物語の庭」という冊子は手頃な大きさで、城南宮さんのお庭にある植物を源氏物語(谷崎潤一郎訳)の一文を添えて解説しておられる書で、雅な思いに捉われます。 橡(クヌギ)の項では「藤裏葉の巻」から抽出、<・・・いづれもやんごとない家々の子達である童べが、青い白橡(シロツルツバミ)、赤い白橡、蘇芳(スオウ)、葡萄(エビ)染などの衣裳をいつものやうに着まして・・・>写真は上の段に青々とした橡とその実(団栗)が、左下には赤白橡(アカシロツルバミ)色見本が添えてあって、団栗の実を煮て染料としていたと報じられ、<万葉時代の染色が、すでに草摺り、花摺りという原始的なものでなく、少なくとも飛鳥時代には、灰汁、灰と酢、鉄媒染めなどが用いられ、非常に発達していたことが知られている。平安時代の染色はさらにすぐれた技法による高度なものであった。その上、植物の色どりを、人工的に織糸や襲(カサネ)によって平安独自の色目を調製するなど、平安時代は色彩の黄金時代であった。> 一方今朝のテレビでは、独自の薄地の生地に染める技術が紹介されていて、大きな垂れ幕、ジーパンや衣服の柄を、個性的に表現したい顧客のニーズに応えるものを報じていました。PCを駆使したこの製法がきっと主流になることでしょう。
2010.08.22
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金田一春彦さんの「ことばの歳時記」を参考に書かせていただくと、<一般に日本人は、季節の盛りよりも、冬から春へとか、夏から秋に移るその変わり目に着目する傾向がある>ようで、秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる藤原敏行朝臣の歌を例に挙げられ、和歌には<知らないうちに忍びこんだ秋をうたったものが多い>とされています。 芭蕉の 逝く春を近江の人と惜しみけりなども、その例でしょうね。 歳時記には、秋(素秋、金秋、三秋、九秋)、初秋(新秋、孟秋、秋口)もあれば、微妙な意味合いの今朝の秋(立秋、今日の秋)なども。これだけでは足りなくて、残暑(秋暑し、秋暑)や秋めく、新涼(初涼、秋涼し)等も秋の初めの頃を指す季語があります。私は季語を先に於いて、中身を後からつける詠み方を主体にしていますが、先に、気に入ったフレーズを考え、それに相応しい季語をくっつけるという方法で詠まれるグループの多いようです。いずれにせよ、季語と内容の醸し出す世界に、永遠的な、摂理的なものを求めたいものですね。
2010.08.21
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他所から大山崎に引越してまで大山崎の歴史を研究された吉川一郎さんの「大山崎史叢考」は氏の真面目な探究心がひしひしと読者に伝わってくる名著で、数年ぶりに読み、感動を新たにしました。宝積寺蔵として掲載されている「山崎架橋図」はこれまで心に留めていませんでしたが、本尊の十一面観音像が「橋架け観音」と称された伝説を意識して天安3(859)年に描かれたもの。 一方「観音寺日譜」によれば娯楽と興行物として、元旦、節句、端午、七夕、盂蘭盆会、八朔、重陽、玄猪、節分はもとより、春の土筆摘みには狐浜や外島へ、蕨取りには天王山に登ったことなどが記されています。盂蘭盆の経木流しには淀の本流に流すのですが、その帰途には必ず西観音寺(現サントリー蒸留所)の閻魔堂に参詣していたようです。盆の放生会の頃には、離宮八幡では相撲が神事として行われていたことが記されています。観音寺山主と聞法寺住職が仲良く観ていたようです。
2010.08.20
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川柳と俳句はどちらも5・7・5文字で詠み上げるものながら、季語の有り無し、テーマの違いで内容的に異なってはいます。サラリーマン川柳などは世相を巧みに詠み込んでいて、感心すること頻りですが、どうやら、川柳にもいろんな主義があるようで、深みを基調とするグループもあるようです。 さて、1、2度ご紹介した中山淳太朗氏の「川柳わたしの100句」から、再度拾ってみました。 恩師からあなたと呼ばれるクラス会別人の作、 同窓会先生敬語つかうようになりをヒントに詠まれたそうな。これですっきりと纏まりましたね。 新装をしたとも見えぬパチンコ店私は酔った時の酔い覚ましにしかパチンコをしませんが、店じまいと銘打っていつまでも開いている洋装店にも似た世界ですね。 社内募集演歌のような社歌が出来亡父は大手の生命保険会社に勤めていましたが、その社歌募集に応募、僅差で第2席だったようです。 ジャンケンのこぶし背中へまず隠しちょっとした仕草を捉えた作品ですね。 神主も帰りに泳ぐ海開きこの作品が出来るまで、4つの過程を経られたそうな。 神主も泳ぐつもりの海開き 神主も泳ぐ気でくる海開き 神主も泳いで帰る海開き 海開き終わり神主一泳ぎ川柳の世界に於かれても、われら俳句同様にいろいろ推敲しておられるようです。この例ではこれで良いのですが、ただ経験から言いますと、何度も推敲を重ねた作品よりも突発的に言葉の帯が閃いた作品の方が燦然と輝く秀作であることが多いような・・・。
2010.08.19
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父の遺品として貴重なものが多々ありますが、これなども「開運なんでも鑑定団」に出せそうです。昭和15年7月28日発行の非売品、和綴じ小冊子「鴻」という本、1号から14号(17年5月28日)。発行人は茶室「鴻」の主、渡辺 鴻という方で、こけしを中心とした郷土玩具の収集家です。記念すべき第1号の内容は、齋藤松治(高湯温泉)のこけし紹介。また遠苅田の長老:佐藤茂吉の手紙を披露。続いて木ぼこの鑑別というコーナーでは、本田鶴松、本田亀寿、本田久男、四亀健康らを紹介。今回の頒布こけしの作者我妻市助の紹介並びに頒布品(1尺、8寸、6寸、4寸、1寸の5本で昭和15年当時、それぞれ1円30銭、80銭、50銭、30銭、20銭の値がついています)。更に佐藤茂吉に関わる詳しい家系図に1頁を割いて居たり、こけしの交換情報欄、鴻氏の訪問者の名前も列挙しています。父の貰っている第1号の限定品Noは159号、表紙はこけしの筆画。2号は秀一の筆(限123番)で2号から編集後記があります。4号は佐藤広喜の筆でNo61番と言った具合で、表紙絵の見事さ、内容の濃さ、どの号をとっても、こけしの収集家には垂涎の出そうな贅沢品と思えます。これはわが家の家宝の1つとして代々残して行かねば・・・。なお、甥の許に箱詰めで送っている”こけし”は生前の母の希望していた額を遥かに超えていますし、ネット販売の購入者は現にこけしを製作しているプロの方々も含まれ、中には製作者本来の仏壇に里帰りしているものも。
2010.08.18
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鎌倉時代になると豆腐は貴族から庶民に至るまで広く行き渡り、毎日食するものになったので、保存食である必要性が無くなり、塩分を入れることを取り止め、 ニガリ”苦汁”だけで固めた現在の豆腐が登場したようです。 ところで、木綿豆腐は製造工程で木綿を使用するのですが、絹漉し豆腐は名ばかりで絹を通す訳ではありません。水に浸してふやけた大豆を小さく砕き、煮込み、おからと豆乳に分け、豆乳に苦汁を加えて固めます。ここまでは木綿豆腐も絹漉しも同じですが、木綿豆腐は、ある程度固まった豆腐を、穴を空けた”型箱”に入れ、重石(オモシ)を乗せて余分な水分を抜くのですが、豆腐が穴から洩れるのを防ぐ為に木綿の布を敷いてあり、その文様が木綿豆腐の特徴です。 一方絹漉し豆腐の場合は、布など敷かず、ささ箱と呼ばれる木箱(又はステンレス製)に豆乳と凝固剤を入れて固めます。従って口当りが柔らかく、均一な豆腐に仕上がっています。ネーミングが宜しいね。
2010.08.17
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私どもの墓は五条通河原町西にありますが、年に数回御参りやご挨拶に参ります。正月は松の内にお寺さん宛の菓子折を提げて新年のご挨拶、そして維持費のお支払い。2月の下旬から3月2日にかけて父の祥月命日の墓参、お彼岸には”お為”をお渡し。母の命日が4月中旬だから再び御参りし、盆前にはお墓の掃除を兼ねお寺さんにご挨拶、そしてお為。 わが家では毎年8月15日に洛西にある末寺の住職さんが盆の読経に来て下さっていました。 噺家のやうな語りの盆の僧拙句に詠んだように、戦争の話やいろんな話を面白可笑しく早口に喋られるので、追っかけ追っかけしながら理解していました。そのご住職が今年は病気がちで2度も入院、手術加療されている為、五条のお寺さんから息子の坊さんが初めて来られました。まだ初々しい、三十路を超えられた僧で、たどたどしいお経にも返って親近感を覚えました。 浄土宗の盆行事はお迎えからお見送りまで、いろんなもてなしの取り決めがあって、お膳をお出しする主婦は大変だろうなと思います。母が生前、あれこれ大騒ぎして盆用意をしていたことを思い出します。部屋の片付けをしていると父と母の写真が何枚か出て来ました。母の70歳代のスナップ写真をみると母は綺麗な人だったなと改めて思うのでした。 さて今年は、夏休みの長女が一緒に買い物に出かけたり、一人で盆用の餅なども買ってくれましたので、安堵しています。しかしながら、息子が所帯を持ち、しっかりした家庭を築いてくれないことには、仏となった我等夫婦は帰って来どころがありません。一念発起して我等を安心させてくれないことにはお釈迦様の許には行けないという事情も・・・。
2010.08.16
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昭和24年の父の日記によれば、8月9日は”新涼の気 天地に漲ってゐ”たそうな。昨夜の3時頃から母の陣痛が始まっていて、9日の午前10時20分に妹を出産しています。私なんぞ早朝に生まれたとしか聞いていないので、このように日記にはっきり記されているのを羨ましく思います。名前は”新涼”の2字から賛成の多い”涼”に決めたとあります。早々に出生届も済ませています。男の子を願っていたものの、自宅での陣痛の声を聞いて居るうち、どちらでも良いという気になったとあります。母の母も見守っておられたので、誘って南座前の「菊水」にてビールを飲みにいったことも書かれています。 なお、この日記帳は市販のもので、各頁の欄外に歴史的なことが書かれています。昭和3年8月8日→第9回万国オリンピック大会にて、鶴田義行選手が200メートル平泳ぎに世界新記録、2分48秒8を樹立。明治4年8月9日→散髪廃刀令が発布。いわるゆざんぎり頭ですね。大正14年8月12日→富士山上でラジオの受信実験。慶長3年8月13日→凡そ400年ほど前に当りますが、朝鮮征伐の最中に、病が重くなってもそのことが頭から離れず、いよいよ死ぬ寸前にパッと目を開いた秀吉公は、「わが10万の兵を海外の鬼にするな」と言ったそうな。なお、妹が生まれたこの時代も、父は同僚たちとの演劇活動を盛んにしていたようです。8月14日桜橋ガーデンに於いて「結婚の申込」を上演。翌日も演じたようです。16日にはかつらを返還。途上にて「蕪村句集遺稿講義」の縮刷版を100円で購入。夜は大文字、同僚の女性客2人、家族、叔母夫婦らと望遠鏡を持出しながら見物。 消えがけの火に大の字を辿りけり 大文字消えて町の灯のこりけり 大文字なほ一と火むらさかんなる高校野球では平安が柳井に敗れるとあり、20日に湘南が優勝した模様。
2010.08.15
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豆腐って何故腐るという文字を使うのかなと思っていたら、樋口清之著「雑学おもしろ歳時記」に載っていました。 豆腐は元来発酵食品で古くは六条豆腐なるものがあったようで、固くチーズ状にした豆腐に食塩を加え、これを薄く切って乾燥させたり、灰をまぶして保存していたようです。また豆腐の歴史は古く、平安時代に中国から伝わり、貴族たちは”御壁(オカベ)”と言って珍重していました。貴族から寺院に広がり、鎌倉期には一般庶民にまで浸透したそうな。豆腐は高野山で発明されたという説があるようですが、正しくは高野聖と呼ばれる布教僧たちが、地方にまで製法を広めたと言われています。つまり高野聖は、この時代、知識や情報の伝達者、メディアの役目を担っていたようです。
2010.08.14
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両親に因むものはかなり整理処分して来ましたが、まだまだ沢山残って居て、母の預金などを記録した書類の山をシュレッダーにかけようと物置小屋を探した折、大きな段ボール箱があったので開けてみると、そこには夥しいトランプなど、父が集めたカードゲームが80個以上ありました。重いのでこの机の傍まで運んでいませんから詳しくは述べられませんが、面白いものが多々あります。上等のタロットカードも幾種類かありますし、ついでに江戸いろは歌留多も。トランプでは、原色を使っているので品位の落ちる浮世絵トランプや、グラマラスな米国女性のヌードもの、マリリン・モンローなど米映画界の俳優さんの似顔絵が絵札になっているトランプ、赤地の細かい模様の背に、スペードの4が少しめくれたデザイン、しかもKや8などの表示が殊更に大きなトランプ、大富豪ゲームに似た、カラフルなピラミッド・カード・ゲームは封を切らないまま残されています。「武井武雄西洋歌留多」(小学館)は二重の紙製のケースに、豪華なケース入りの2タ組のトランプがセットされていて、”西洋歌留多手引”きなるトランプの歴史を綴った小冊子も丁寧に収められています。トランプのデザインも斬新、解説書の内容も興味をそそるものが満載です。これについては後日載せましょう。
2010.08.13
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世は歌に連れ、歌は世につれと申しますが、歌ばかりでなく、小説やテレビのCM、そしてポスターも時代を反映しているように思います。今、ここに一冊のカタログがあって、「ベルエポックの巴里展」と題して19世紀末のフランスにおけるポスター作品を集めたもので、1982年京都は高島屋の6階ホールにて、読売新聞大阪発刊30周年(今なら58周年)を記念した催し物で、カタログ製作者は株式会社アート・ライフでした。 亡父が残した京都新聞の切り抜きでは、<パリに集まっていた芸術家たちが、産業や興業界の要請に呼応してC・M分野に独自の美を築いたものだ。・・・いかにも爛熟した甘美の情緒と装飾性を備え、ベル・エポック(最も良き時代)の雰囲気を今に伝える。ミューシャ、グラッセ、ティリらアール・ヌーボーの画家、ポスターの父とされるシェレ、ロートレック、ドニー、ボナールらナビ派の画家、ウイレットらモンマルトルに生きた画家らの作品約90点である。> 日本にも竹久夢二を初めポスターなどに秀逸な作品を残した作家が多く居て、人気番組「開運なんでも鑑定団」では、大正ロマン漂う麦酒のポスターやその他の作品が一点當り数万円の値がついていました。田圃のど真ん中や村の板づくり壁・電信柱などに張り付けてあった「白元」や「髪の素」など白と紺色の組合せの・・・いろんな金属板が戦前・戦後の風物詩であったことも併せて、懐かしく想い起こされます。
2010.08.12
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最善の健康法は”笑って暮らすこと”と信じていますので、ボランティア・ガイドに際しても、句会の集いに際しても、場を和やかにするように努めています。 例によって文春文庫の秋田実編「ユーモア辞典2」から3題拾いました。<No470 どちらを選ぶ?> 或る一人の黒人が物を盗んだ疑いで訴えられた。黒人は裁判所の証人台に立たされた。裁判官は黒人が”宣誓”ということを知っているかどうか試そうと思い、訊ねた。「もし今、お前がこの裁判所で嘘をついたとしたら、どうなるか知っているかい?」「はい、裁判官さま、私は地獄へ追いやられ、火炙りになります」「宜しい。じゃ~、もし、本当のことを言ったら?」「はい、多分、私は刑務所に行かねばなりません」<No471 嘘の効用> 二階の窓から男が道路へ飛び降りたのを見つけ、通りがかりの男が近づいて声をかけた。「君、どういう事情かは知らないが、早まったことをするんじゃないよ」と言うと、無事だった男は腰をさすりながら、「女の奴が嘘をついたんでね」「女が君に嘘を言った位で、窓から飛び降りなくても良かろうに・・・」「ところが、それがね、女の奴が嘘つきやがったんで、亭主は洋行していると・・・」<No682 酒の威力> 一匹の鼠が偶然、酒樽の傍に来た。これまで、その液体を全然知らなかったが、喉が渇いていたので、一舐めした。自分の穴に帰って考えてから、また酒樽に戻って来た。二回目を舐めて、また穴に戻って考えた。三度目に勢い良く飛び出して沢山酒を飲んだ。もう穴へは戻らなかった。それどころか、酒樽の上に攀じ上って、後ろ足で立って叫んだ。「さぁ~ この家の猫ども、出て来いやぁ~」(注)文章は若干変えて掲載しています。本日の拙作のコンピュータ・ミュージックは、ボリュームが小さくて、また歌唱力が無くてご免候らえ。
2010.08.11
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今から4半世紀前の月刊美術誌「芸術新潮」の特集は南伸坊の”美人画考現学”。その1章が”美人を描けば美人画か”というテーマで、歌麿の浮世絵とそれに扮した京マチ子の写真を並べています。右の頁にはピカソの”肘つくマリー・テレーズの画とモデルの写真が添えてあります。キュビスム独特の顔が半分ズレた構成ながらなかなかの美人を匂わせています。数頁めくった処には、夢二の黒猫を抱く「黒船屋」やセミヌードの寺島紫明「夕月」、伊藤小坡の「母と子」の上品な母娘図、池田輝方の「幕間」は明治初期の女性群、そして左頁には<写実を重んじながら、理想の女性像を筆に託して描く>3大美人画家の上村松園の「長夜」。北村恒富のぽっちゃり系「浴後」や手鏡がモダンな「化粧の女」(樋口五葉)、妖艶な「ゆあがり」(島成園)、3大美人画家の伊藤深水「湯気」、更に、中村貞以の「爽涼」、梶原緋佐子の「花」、菊池契月の「少女」、3大美人画もう一人の鏑木清方の「築地明石町」が掲載され、次の頁には美人画の眉・目と鼻・口元をアップした写真が10組並べてあります。 また面白いのは古今東西、15人の女優のセーラー服姿のブロマイド集。田中絹代、岸恵子、南田洋子、河内桃子、朝丘ルリ子、高田美和、大原麗子、岡田奈々、山口百恵など、いずれもあどけない顔。もう一つの特集は、穢い画と評された甲斐庄楠音(カイノショウタダオト)のぽっちゃりした女性像。女体にみる女性のしぶとさなどが衣服や表情を通して表現されています。実に印象に残る画家なのです。
2010.08.10
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幼年期の思い出は尽きないもので、佐賀に2年居た頃、家から徒歩一分以内のところに藪に囲まれた大きな野原がありました。法師蝉の鳴く頃から深秋にかけて其処はトンボの楽園。鬼やんまは無理としても、やんまは次なる方法で捕まえます。用意するものは細糸二十センチ、セロハン紙、小粒の石ころ二個。小さな石ころを各々セロハンに包み、その二個分の両端を糸で結んだもの、たったこれだけでトンボを捕まえることができるのです。この道具を大空めがけて投げますと、複眼のトンボは糸の存在に気づかず、石の部分を餌と見間違え追いかけて来ます。その時、羽が糸に引っかかることがあって、地面まで落ちてきます。ここで大事なことは捕えたトンボの性別です。旨の辺りが青色ならがっかり。それは雄なので囮にできないからです。胸が白っぽかった時は大当り。釣竿のような棒の先端に、糸で結わえた雌トンボを遊ばせていると雄トンボが目ざとく近寄ってきます。雌雄が縺れこんだ隙に網で捕獲するという段取りなのです。少年にとって、こういう遊びは二つ三つ年上の餓鬼大将から教えて貰うのでした。田舎の秋は時間がゆっくり移り、晴れ渡った青空と耳たぶに吹き込む風の音ばかり・・。
2010.08.09
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ほおずきには2タ通りあって、植物のほおづきと巻貝の卵嚢からできた海ほおずき。後者は何の加工の必要もなく、クリーム色または赤紫色のもので、確かに鳴らせ易かったように思います。盂蘭盆が近づいて来ると大型スーパーでも盆用品が大々的に積み上げられますが、そのグッズの1つに茎ごと売り出される”ほおずき”が挙げられます。父が勤めていた職場の社宅は20坪ほどの敷地に客間、居間、台所、洋間、和室がありましたが、子供部屋の濡れ縁から正面に見る黒塀の前に、この時期ならダリアやカンナが咲いていて、そばに鬼灯も毎年彩りを見せていました。緑色と赤、オレンジ色の織り成す鬼灯は視覚的にも黒塀によくマッチしていました。赤く色づいたものをちぎり、萼を除いた実の部分を掌に包み、辛抱強く袋が破けない程度に優しく揉みます。実の皮越しに幾つかの種が泳ぎだす頃合を見て、楊枝を使い、実の中から種を取り出します。種は甘酸っぱい味がしました。揉むことによって浮遊した種は容易に取り出せますが、全ての種を取り払っても、最後の軸になる部分を小さな穴から抜き取るときが大変なのです。荒っぽくやると穴が壊れてしまい、これまでの労力はすべて水の泡に帰してしまいます。穴の状態を警戒しながら、軸の部分を取り出すのです。見事取り出せたら、これで鬼灯の完成です。口の中に含み、穴の部分を唇に押し当てながら、舌を巧みに使いながら、ほおづきの中にある空気を押し出し、鳴らせるのです。やはり姉たちは殆ど失敗もなく上手に取り出し、私より30分も早くから鬼灯を鳴らしていました。夜店などで買った鬼灯は1周りも2周りも大きく、種を巧く引き出せた後は、音色も大きく、喜びも一入(ヒトシオ)でした。
2010.08.08
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あれは私が現役として勤めていた時分だから17年ほど前になります。家族が昼間から大津までやってきて花火大会の場所取りを済ませた後、私の職場にやって来ました。何でも日中に夕立に遭い、ずぶ濡れになったとか。家内らが陣取りしてくれた場所は、JR大津駅から真っ直ぐ湖へ向かった、湖岸の好条件の場所でした。長女が中学生、長男が小学高学年の時で、豪華極まる花火の絵巻物に家族揃って歓声を上げながら楽しみました。 あれから20年ほど経た昨夜、家内と二人、大津駅に着いたのが6時半頃で、群集は既に湖辺りに蟻のごとし。それでも不思議なもので、幾つもの通を過ぎ、京阪の線路を越えて行くと、人工密度はまだまだ余裕がありました。私たちが陣取った場所は、湖岸からおそらく20メートルほど手前の辺り。生憎松の木が邪魔をしていますが、家から携えたパイプ式の布椅子に座り、夜空が黒ずむのを待っていました。7時20分頃、プロローグが始まり、いよいよ打ち上げの火蓋が切られました。夜空を焦がせる花火師の芸術。大玉は大音響が下腹辺りに感じられ、破裂の振動が微妙に着衣に伝わるのでした。10分置きに、花火の模様重ねの見せ場が行われ、その都度、見物客の顔が瞬時浮き彫りにされ、大歓声をあげるにこやかな表情が見えるのでした。
2010.08.07
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この頃は、朝雨戸を開けるとわんさと襲い来る蝉の合唱。子供の頃、あれだけ遠かった王者”熊蝉”との距離が縮まり、玄関石段横にある小柄な蘇芳の小枝に、腹を激しく振幅させて鳴く熊蝉の形態が手に取るように解ります。少年時代には、にいにい蝉に始まり、蝉捕りと言えば専ら”油蝉”。熊蝉は王様でしたから、めったにお眼にかかれませんでした。それがこの変り様。油蝉の方が数が少なくなってしまい、一番ボリュームのある熊蝉が一統支配の世に変わってしまったのです。 蝉と言えば九州佐賀では、蛤の片面にくっつけて売っていた”とりもち”を使って捕まえていました。でも、これは羽などに粘着質が付着するので決してお勧めできる捕獲法ではありませんでした。大阪住吉に移ってきた時、針金とハギレを使って自分で捕虫網を拵えていました。長い竿竹の先っちょに網を固定させるのですから大きなものは不必要、蝉は割りと鈍感な虫なので、小振りの網でも簡単に捕まえることが出来ました。地中に長く成育し、漸く地上の世界に羽ばたく蝉の一生を思えば、そおっとしておいてやれば良いのに、子供ごころは一切お構いなし。にいにい蝉の穴は小さく、王者熊蝉の穴は大きくて立派でした。僅か1週間足らずで天命を全うした蝉の遺骸、或るものはうつ伏せに、或るものは腹を見せ死んでいました。それを綺麗に掃除するのが一群の蟻。蝉の亡骸は幾つもの部品に解体されて蟻の巣へと運ばれるのでした。
2010.08.06
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もう暑いだけの毎日ですから、面倒なクイズはご免蒙りますと思われる御仁が大半でしょう。で、至って平易にして余韻の残るものを問題にさせていただきました。このパズルは誰しも一度は読んだことのある日本の名作の一部分の漢字だけを並べたものです。先ず作品名は↓のいずれか。a)「暗夜行路」b)「雪国」c)「夜明け前」d)「羅生門」では漢字だけの部分、1)国境長抜雪国・・・2)木曽路山中所・・・3)日暮方下人羅・・・4)大山淋駅汽車・・・1,2,3,4の漢字群は上のどの作品なのでしょう。ついでに作者名もお答下さい。もう1つの教養問題がおまけです。1)米寿 2)不惑 3)古希4)耳順 5)弱 6)知命7)皇寿 8)華甲 9)茶寿ジャク=20歳、フワク=40歳、チメイ=50歳ジジュン=60歳、カコウ=61歳、コキ=70歳ベイジュ=88歳、コウジュ=111歳、チャジュ=108解説)米を分解→八 十 八で88華を分解→6個の十、1個の一で61白を分解→百マイナス一で99皇を分解→白と十と2個の一で111覚えやすいですね。
2010.08.04
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父の日記を度々紹介していますが、日記というものは世相を反映しているので、興味深いものがあります。<昭和10(1925)年8月1日>の日記はこの一文で始まります。 <午前六時半起床、折からのラヂオは1940年オリンピック開催地として東京が選ばれた旨を報ずる。永い争奪戦の後なので殊更うれ。しさが込み上がってくる(日本36票、ヘルシンキ27票)。・・・(略)・・・水野(男爵・白川のこと)から電話があり、今日逢ふ場所を打合わせる。> この年の7月30日に京都の高辻通烏丸西入の木綿問屋店兼自宅から東京へ。家族や丁稚のほか、野風呂先生も京都駅まで見送りに来て下さっている。丁度8時間後に東京駅に到着。 蓮咲いて尾州となりし車窓かな すばる中央公論初代社長であった遠縁の麻田駒之助宅に宿泊しています。従姉妹が大勢いるので父は毎年大磯で過す夏休みが大好きでした。さて話を1日に戻して、麻田駒之助と一緒に丸ビルへ行き、ほととぎす発行所で虚子と会っています。その後、駒形橋・厩橋・柳橋・両国橋・永代橋など都内の橋を巡回見物した様子。<8月2日の日記> <朝6時半に起床、11時駒之助に連れられ”武蔵野探勝句会会場:渋沢氏旧邸”へ。既に水野白川氏あり。炎天の広い庭を歩く。参加者40名、投句選句各10句である。 庭守は夾竹桃の下に住む 一風に噴水の虹ふいと消え虚子先生の選には洩れたが、互選には6点入った。>とあります。日記には当日のオリンピックにおける日本選手の水泳に触れ、2次予選で吉岡・鈴木・佐々木の3選手総退却>と。3日は叔父宅で10通ほど暑中見舞いを書き、4日は西洋料理に舌鼓を打ち、観劇も。5日もご馳走。<8月6日の日記> <小林氏からの書状を開封すると帝人は大卒を採らぬ旨、就職に際して話たきことある旨書かれてあり、自分にとっては一身上の一大事であるのであるから叔父(麻田)も相談の上、午後1時半の汽車で帰ることにした。>翌日の俳句会を断念、また水野男爵ご好意による東京見物も断念して、急遽、京都に戻っています。
2010.08.03
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7月に入って豪雨が続き、山鉾の巡行の日が京都では梅雨明けの日。それから猛暑が続き、熱中症のニュースが当たり前のように報道される毎日ですが、例によって、備忘録として7月中の拙句を残します。 二階に厠ある村柿の花 弁慶の剛の踏み脚兜虫◎兜虫陣触れ太鼓鳴らさうか 舗装路の浮き上り来し青夜なる 再会の舞台と決めし青夜かな ヨベ○きぬぎぬや昨夜の蛍のかすれ文◎橋一つ渡りきったる蛍かな 黴の香に聡き探知機持つ妻よ シロハエ○白南風や今日サンダルの軽きこと シロハエ 白南風や果実整ふ吉備あたり ノウゼン 凌霄花や乱心お七半鐘打つ 白南風や京都タワー灯台説 ほととぎす分水嶺経て坊泊り 翠嵐の粟生ふかぶか時鳥◎夕焼けの涯へ歩めば会ふことも○減反の村を横ぎる時鳥○遊龍の松の守役ほととぎす 皿に盛る枇杷の明るき命かな 鄙に棲み籠いつぱいの枇杷長者 かたつむり家系を問へば伊賀甲賀○炎昼や陰翳の濃き戻橋 ご生母の菩提の寺や蔦茂る 而して京は西陣吊り忍 キチカウ○星形は桔梗然り晴明社◎猪熊の検非違使庁址大暑なる 香水や淑女の仮面剥ぐ真昼大祭などに出す句もあって、それらは後日。
2010.08.02
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大昔から日本人の暮しの中には籠がありました。子供の頃、母に代わって市場への買い物には買物籠を提げて行った記憶があります。山仕事に携わる人々には背負い籠が無くては方便(タツキ)が成り立たないでしょう。蔦などの植物の蔓で編んだ籠は雨に濡れても重くはならないし、乾きも早い。その上、籠に弾力があるので身体に馴染み易く、入れたものも傷みません。或る写真集にはアケビの実が詰めてあるものや蕨などが入った籠が写っています。海浜に於いては魚を、畑にあってはピーマンや南瓜など・・・。整然と並んだ編み目の美しさ。ぎっしり編まれた籠にはいろんな模様さえ組み込まれています。子供の頃には、竹を編んだ大きな籠に鶏を入れて育てていた光景もありました。最近は灯火を包む編み目の織り成す絶妙の影が放射状に壁に映り、インテリアとして重宝されています。籠は古き日本への郷愁の門口のような存在ではないでしょうか。
2010.08.01
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