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今日も娘のアパートにいたりする。そろそろ家に帰るつもりだけど、あまりの寒さにコタツ虫。どうせ家に帰ってもコタツ虫なんだろうしなぁという開き直り! やっと慣れたと思った仕事場から離れて、また1から仕事や人間関係を築くストレス娘が、明るい部屋へと帰れば、暖かなご飯をはいどうぞっ!って感じの今週だった。それにしても一昨日、昨日と寒かった。雪に慣れている北海道ですら大停電で町は大混乱。ブログでも北海道の方とかいらっしゃるけど皆様、大丈夫でしたか?娘のところも雪が降りました。車もガチガチに凍っていたし。洗濯物も凍るくらい。雪は少ないといえども寒さは負けないですからフー!と部屋の中で息を吹いても白くなり、防寒具は手放せず。こんな寒い日は温泉!といきたいところだそんな訳で旦那と出かけた、11月中旬の若狭の旅はまだ初日の午後。小浜から舞台は舞鶴へと移ったけど2泊3日の旅だったし、今年のうちに旅を紹介しきれるかなぁ~ さて、この舞鶴市内のお寺は、関西花の寺第三番霊場「鹿原山慈恩寺金剛院」で、細川幽斎(藤孝)が植樹をしたという境内の楓が有名で、「丹後のもみじ寺」とも言われる真言宗東寺派の名刹である平城天皇の第三皇子である高岳親王が、嵯峨天皇の皇太子となりながら、薬子の変に連座し皇太子位を廃されてしまった後弘法大師空海の弟子となって修業し「真如法親王」と名乗り弘法大師の十大弟子の一人ともなった「入唐求法」を朝廷を申し出て、親王の一行は大宰府を出帆し貞観6(864)年に長安に到着したそうだが、当時は武宗の仏教弾圧政策で、仏教は衰退をしていたそうだ 親王は天竺行きを決め、翌年に唐の皇帝の勅許を得て、従者の3名と広州より海路で、天竺を目指して出発したが、その後の消息は絶たれた。一説によれば、羅越国(マレー半島の南端)で虎の害に遭って亡くなったそうで、マレーシアの日本人墓地に親王の供養塔があるそうだそのような高岳親王(真如法親王)が、白鹿の導きでこの地を訪ねられて、天長6(829)年に高野山から弁才天を勧請し創建したのが、「金剛院」であり、高岳親王お手植えと伝えられる千年榧もあるそうだが、まさかの写真撮り忘れ!?「波切不動明王」とは、唐からの帰国時に嵐に遭遇をした空海が祈念すると舳先には不動明王が現れて嵐を沈めたという逸話からであるそうだが、白河天皇(大河では伊藤四朗が妖演)のご病気平癒の祈願で、若狭から勧請された波切不動明王の霊験で平癒をしたそうである 喜ばれた白河天皇は、永保2(1082)年に、荒廃をしていた金剛院を復興し、天皇・上皇の発願により、国家鎮護や皇室繁栄などを祈願する「勅願寺」とし慈恩寺の寺号を下賜し、三重塔の建立の勅命を下し、真如法親王を追善供養したのだとか三重塔には真如法親王の木造が安置されていた鳥羽上皇の皇后で近衛天皇の生母である藤原得子、後の美福門院(大河では松雪泰子)の帰依もあり、平忠盛(清盛の父親。大河は中井貴一)を造営奉行に任じ、阿弥陀堂を建てさせたそうであるその後の武家社会においても藩主など信頼も厚かったそうで、室町時代に再興された三重塔など、国の重要文化財に指定された寺宝も幾つか残されているそして時代も下って・・・・ 話は飛ぶが、京都の世界遺産にも登録された「鹿苑寺(金閣寺)」が昭和25(1950)年7月2日未明に放火され炎上。昭和30年(1955年)に再建をされたものであると、知らない日本人も多いのかもしれないこのショッキングな事件は、福井県大飯町で生まれた水上勉が舞鶴市で教員をしていた頃に、実際に犯人と会っていると著書の「金閣炎上」で述べ、代表作の「五番町夕霧楼」においても題材にしているそして近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされ、海外においても評価が高い三島由紀夫の「金閣寺」も、金閣寺放火事件が題材とされて金閣寺の美にとりつかれた主人公が放火に至る経過が、観念的に描かれているそうだこの犯人の林養賢であるが、舞鶴の寒村の禅宗寺院の子として生まれて金閣寺の見習い僧侶となり、大谷大学の学生でもあったフィクション部分も大いに取り入れられた三島由紀夫の「金閣寺」ではここ金剛院も小説の舞台に登場をしている。あまりに昔に読んだのでその小説の内容も忘れてしまったのだが、ネット検索によれば主人公が思春期の頃に出会った有為子のエピソードに出てくるお寺であるそうだ彼女は海軍の脱走兵と海軍病院で親しくなって、子供が出来て病院を追われてしまった。彼女は脱走兵をこの金剛院のお堂に匿っていたが憲兵に捕まって囮にされてしまった 憲兵に誘い出された脱走兵は、自分を裏切った有為子に拳銃を発射し自らにも発射し最後を遂げたそうだ。そんな壮絶な舞台であったのか(三島のフィクションですが) >有為子一人が、石灰石の百五段の石段を昇って行った。 >狂人のように誇らしく。・・金閣寺の主人公は友人からから金を借りて、金閣寺から家出をし舞鶴に向かい、日本海の荒れる海を眺めながら「金閣を焼かねばならぬ」という想念を抱き、由良の宿で不審に思われて警官に連れられ金閣寺に戻されたとされる この写真のみ翌日撮影。由良の浜でなんて歴史と文化の薫る舞鶴の美寺院を後にして、まっ舞鶴といったらここは外せないなんて観光場所(次回、まとめて紹介)もまわってからラストに立ち寄ったのは、観光客にも人気のグルメな「道の駅」である「舞鶴港とれとれセンター海鮮市場」だぁこの時期、なんといっても日本海はズワイガニ!! 取れた漁港によりカニの名前も違ってブランド化し、舞鶴の底曳網漁船によって獲れたここのは、特許庁の地域団体商標を取得し「舞鶴かに」で売っておりその姿と味の良さ、高級感から冬の味覚の王者とされているそうだPRキャラクターの「チョキまる」や、PRソング「舞鶴かにカニ♪」なども誕生しているのだとか無論、そんな高級なブランド蟹はとても食べれないという、庶民の為なんでも、海外産ずわいがにの舞鶴かに仕立てってものまでも・・・・良く聞く「松葉ガニ」というものは、山陰(島根、鳥取、兵庫、京都)で水揚げをされた「ずわいがに」の総称だそうで、この舞鶴蟹の他にも間人蟹や、津居山蟹とか個別ブランドがいろいろとある まっ、カニよりもお酒が私はいいや~! って感じでご当地日本酒のパッケージを見ていて・・・、酒呑童子! 京都を荒らしまわった酒呑童子も丹後の出身なんだと、旦那が驚くどうやら京都の嵐山奥あたりに、大江山があると思っていたいたようだ大江山の鬼退治の歴史も古く、酒呑童子以前にも・・・古事記には崇神天皇の弟である日子坐王(彦坐王)が、土蜘蛛の陸耳御笠を退治したとか。また後に聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)が英胡、軽足、土熊を討ったといい、最後に源頼光と頼光四天王が酒呑童子らを討ったという鬼退治ここ丹後地方は日本海に面しており、古くより大陸との交流があり金属精錬技術を持つ渡来人らの技術や富を収奪し、支配下に置こうとした中央政権が、自分たちの行為を正当化する為に、土蜘蛛や鬼を退治したという伝説を作ったと思われる 平成24年11月15日に舞鶴市内で撮影
2012年11月29日
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週末を中心にプロ野球の各チームは、優勝パレードをしたり、ファン感謝デーをして今シーズンの締めくくりとしたが、中日ドラゴンズの土曜日にナゴヤドームでのファン感謝デー。地元スーパーの懸賞でペア招待券を貰って楽しみにしていたのだが、そうとは知らぬ娘が 金曜日から月曜日までウサギ旦那は連休なので、娘の車のタイヤを冬用に替える為、日曜&月曜と出かけるつもりでいたのだが「今日の休日を半日出勤した代り出勤日の土曜日の午後を、両親が来るからって休みにして貰ったから、土曜日から来てもいいよ」と嬉しそうに電話をしてきたちょい待て~、土曜日は中日のファン感謝デーに行くつもりでいたのに。嬉しそうな娘の声を聴くと・・・・あぁドアラを取るべきか、娘を取るか。ウサギ旦那も日&月よりも、土&日に行けば最終日にのんびり家で出来るので、それを希望し娘と意気投合そんな訳で中日の感謝デーには行かず、娘のところに出かけ、旦那の運転で土曜午後の近場ドライブでは娘と二人でワイナリーで試飲三昧。娘が手頃な一升瓶ワインを購入。味より量で勝負のようだ・・・そんな娘が悔しがったのが、娘が引越しする前に応募をした懸賞で、宅配とか郵便物などは新しい住所に転送をして貰っているが、私が応募してたのでスーパーに直接取りに行くボジョレーヌーボー。それを取りに行くために富士山麓に出かける事も出来ず、引換券は紙屑になった奇しくもどちらもがアピタ系の懸賞。あぁ~残念なんて傷心でいたら、またもアピタとメーカーでの懸賞が当たりグルメなギフトカタログが届くそれにしても、夏あたりからネット懸賞を始めた娘には「変なサイトでは応募するなよ。知ってるメーカーにしておけよ~」なんてくぎを刺しているのだが、毎月のように化粧品などが当選している話は戻る。娘の車のタイヤを替えた旦那だか娘かわいさに「残ってもいいぞ」とか言うので、遠慮なく残る事にして旦那は夕刻に車で帰宅。私は後3日位滞在してから電車で帰ろうかなぁ~なんて思っているそんな今までは高速で4時間位かかっていたのが、国道で2時間弱と、娘のところが近くなって一安心の旦那との若狭の旅日記3回目 見どころ一杯の海のある奈良、小浜(おばま)の寺巡りは既に4寺院目。それぞれが観覧料400円×2名(1つは境内自由無料)なので金はかかるし、どこもしぶい寺院や仏像なのでウサギ旦那があき始めて、もう小浜のお寺は最後だぞ~とか言い出して。くそっ、まだ行きたいお寺は幾つもあったのに小浜の最後を飾るお寺は、高野山真言宗の妙楽寺で、本尊は行基が彫ったと伝わる千手観音菩薩で、檜の一木造、頭上に24面のお顔と千本の手を持つとされるが、実際にはどうかわからない。長らく秘仏であったので、仏を覆う金箔なども綺麗に残されゴージャスなお姿だゴージャスな平安仏ともども、国の重要文化財に指定されている本堂だが、鎌倉時代初期の建立で、お厨子には永仁4年(1296年)と銘が残り、若狭地方で最古の建造物であるこのお寺でも車を降りた時には雨が降っていたのに、本堂で仏様を拝見していて、外に出たら雨もやんで日差しが・・・なんか、単なる偶然とは思えないようなタイミングだ他にも重要文化財の仏様のいらっしゃる小浜ではあるけどもまだ旅の先は長い。また来る日まで! 会える時まで~!と後にする↑小浜駅と、この駅前の商店街はお昼頃に、ランチを食べに行った頃、あられも降るようなその日の一番の悪天候の写真だこの日本海に面した歴史豊かな港町では、儒学者の梅田雲浜医学者の杉田玄白(江戸で生まれる)、歌人の山川登美子が生まれ育ったそうだそんな小浜の交通安全をマモルンジャーに見送られて、車は西へこっこれは・・・今話題の関電の大飯原発!!(更にいうならばその近くには高浜原発もある) 大飯1&2号機と3&4号機の間には活断層である可能性があるそうで、原子力安全・保安院の指示で11月から専門家による現地調査が開始されているそうだなんかしらんけど、道沿いには車両なども。なんだろう?そんなこんなで福井県を離れ、初日のもう一つの目的地であった舞鶴市に入る。国立舞鶴工業高等専門学校(略称は舞鶴高専)の紅葉もきれいだ。高専で思い出すというと、ロボットコンテストだな山深い土地柄でもあるが、その風土を愛し、先祖からの田畑を守り連綿と暮らしている人たち。最近、ブログのお友達の方も便利な都会暮らしから離れ、不便であっても山々を眺められ自然豊かな田舎暮らしを始められる方がおられるが1年ほどの富士山麓での地方都市暮らし。電車で横浜とか東京も日帰りで行けるし、歩く距離に大型スーパーや、ファミレスもレンタル店などもあるような便利な暮らしでも、何か落ち着く事はなかった。うち(実家・山の上)程ではなくても、程よい田舎暮らしが落ち着くなぁ~という娘車の助手席でガイドブックを見ていて、このお寺は見逃せないという寺をみつけて、おそるおそるウサギ旦那にお伺いをたてると寄ってもOK~♪とのお許しを得たので、立ち寄った先は丹後のもみじ寺。寺の近くには・・・・ 鳥羽天皇の皇后である美福門院の帰依を受け、平忠盛(清盛の父)が造営奉行として諸堂の造営、修復をした記念にお手植えしたという奉行杉があった。今年は源頼朝関連の寺社仏閣ばかりを拝観してきたけど、ここにきて平氏~。そんな忠盛ゆかりのお寺の紅葉はまた次に・・・・それにしてもミキプルーンな中井さんの忠盛ってかっこよかったなぁ・・・・ 平成24年11月15日に小浜市内で撮影
2012年11月25日
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まぁ、これは次の日? いえいえアラレも降れば、風雨もキツイ日であったのだが天気がころころ変わって、編集上前後したけど、あの雨が止んだ熊川宿を出て15分後位後最初の観光地に着いた時、青空すらも・・・ 日頃の行いのが良いのか、単なる偶然なのかは判らないが福井県内で唯一の国宝(建造物)のある小浜市の明通寺に着いた途端の出来事であった。天気の変わらぬうちに国宝寺院を拝観させていただこう!アメリカの大統領と同じ名前で、知名度が上がった小浜ではあるが、私がここに来たいと思ったのは30年は昔。当時はまだ10代であった。子どもの頃から城だ、古墳だ、お寺だなんて歴少女だったので、「海のある奈良」とも言われてた小浜市は、京都市内や奈良に負けぬ文化財の宝庫であると本などで知っていた 古くより大和王権の日本海側からの出入口として、繁栄を誇り海産物を奈良や京都まで送った「御食国(みつけくに)」の一つでもあった。奈良の東大寺で行われる「お水取り」の水は小浜の遠敷川の鵜の瀬から送られたものである(この寺の近く)その為に中央集権とのつながりも深く、奈良時代の頃からの古い寺社なども多く、特に重要文化財に指定された仏像などが魅力でそれらの仏像巡りをするのが、小浜観光の目玉でもある福井県内には6つの国宝があり、永平寺の道元筆「普勧座禅図」瀧谷寺の「金銅宝相華文磬」、常宮神社の「朝鮮鐘」、劔神社の「梵鐘」、そして建造物として明通寺の「本堂」と「三重塔」だやはり小浜観光の最初には、ここ明通寺に訪れようと思っていた 流石に国宝寺院だけあって建物の風格なども違う。拝観受付けを済ませると、毛糸の帽子を被ったご僧侶が一緒に本堂まで上がられ本堂に鎮座する御本尊の前で、お寺やお堂、仏像などについてを簡単に説明をして下さった話によれば三重塔に続き、2010年からは本堂の屋根葺替工事が続き、昨年12月に工事が完了したそうで、三重塔の方から見れば確かに屋根がピッカピカ。それにしても今年の拝観で良かった!工事中で拝観出来なかった熊本城。工事中の青ビニールが悲しい寺社仏閣数多し!屋根の葺替工事には、境内の檜から採取した檜皮も使われており参道の樹木が真っ赤っかだったのはそのせいか 明通寺(みょうつうじ)であるが、真言宗御室派の寺院で、山号は棡山(ゆずりさん)という。この山中には棡樹(ゆずり木)があってその樹下に不思議な老居士が住んでいたそうだ。征夷大将軍として蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂が霊夢を見たそうで・・・この老居士の命ずるまま、天下泰平、諸人安穏を祈願して、大同元(806)年に堂塔を創建し、老居士は棡の木を切って、本尊である薬師如来や、降三世明王、深沙大将の三体を彫って寺に安置をした 平安時代末期(既に時代が↑の話とは合わないけど)に造られたと思われる御本尊の「木造薬師如来坐像」、「木造降三世明王立像」「木造深沙大将立像」、「木造不動明王立像(元・松林寺のもの)はどれもが国の重要文化財に指定をされている中でも砂漠の毒蛇を神格化したインドの神様で、西遊記に登場するする流砂河の主でる沙和尚(沙悟浄)のモデルとなった深沙大将の立像は、頭部に髑髏、腹に幼女の首を付けた異形の護法善神として表され重要文化財に指定されているのは、岐阜県の横蔵寺と丹後の金剛院のと3体の仏像のみだそうだ 明通寺、木造深沙大将立像 更には国宝の「本堂」であるが、文永2(1265)年に落成をした入母屋造、檜皮葺きの建物で、屋根や隅軒などが鎌倉時代の特色をよく示し、堂内は中世仏堂特有で内陣と外陣(礼堂)に別れている国宝の「三重塔」は、文永7(1270)年に上棟。高さは22メートル初層内部には四天柱が立ち、釈迦三尊像と阿弥陀三尊像が安置され柱や壁には十二天などが描かれているそうだ 境内には樹齢500年の萱(かや)の樹も。車に戻ると俄かに天気も崩れて、数分もしないうちに雨も降ってきた雨の中、市内の次のお寺に到着。今回は仏像が目的だからと雨の中を本堂へと。羽賀寺(はがじ)は高野山真言宗の寺院で、山号は本浄山霊亀2(716)年に、奈良の女帝元正天皇の勅願によって、行基が創建したとされている 守護細川氏などの庇護を受けていたが元弘の乱で焼失し、細川氏清が再興。更に後応永5(1398)年にも焼失するが、永享8(1436)年後花園天皇からの勅命を受け、奥州安倍氏の安倍康季が再興をした本堂は文安4(1447)年の建立で桧皮葺の入母屋造り。北山文化の特徴があり堂内は内陣と外陣が明確に区別されている。重要文化財に指定をされている御本尊の元正天皇の御影との説がある「木造十一面観音菩薩立像」は10世紀初期の作で、檜の一木造、翻波(ほんぱ)式。衣文、膝に届く程に長い腕など、平安前期の古様をとどめているその他に木造千手観音菩薩立像、木造毘沙門天立像、紙本墨書羽賀寺縁起などが重要文化財に指定をされているそうだ。雨でも仏像拝観であれば苦にもならない ゆっくりと堂内の仏像を拝見させて戴いていると、雨にぬれるからとお寺の方が、本堂軒下の靴を堂上に新聞紙を敷いてそこに移動をしてくれていた。そんな心配りがまた嬉しいむかしむかし若狭のある漁村の庄屋の館で、海辺で拾ってきたからと食べれば永遠の命と若さが手に入る人魚の肉が、村人らに振舞われたそうだ。しかし不気味なので皆で話し合って、食べた振りをして懐に入れ、帰り道に捨てる事にしたところが、一人だけ話を聞いていなかった者がおり、自宅に持ち帰って隠して置いた人魚の肉を、その家の娘が盗み食いをしてしまった。娘は食べた時そのままに、いつまでも十代の美しさを保ち、何百年もの間を生きたそうであるその美しさゆえに結婚をしても夫に先立たれてしまい、父も年老いて亡くなり、村の人々にも疎まれて尼となり、国中を周って貧しい人々を助けたそうだが、最後には世を儚んでこの岩窟に消えたそうであるそんな哀れな八百比丘尼が入定した岩窟が小浜市の「空印寺」にあった生没年として最も有力な説は、白雉5(654)年に生まれ、宝徳3年(1451年)に京都を訪れて、その後に小浜へ戻り800歳で入定をしたものであるという 平成24年11月15日に小浜で撮影(最後の写真は16日、宮津で)
2012年11月21日
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高卒で入社し今の会社での勤続が○○周年となった旦那がその記念でプチ休暇とプチ軍資金を貰ったので、これじゃあ下呂温泉くらいか?なんてプチ希望を言うので、この機会をのがしたら娘の住んではいない西日本に行く事は出来ないと週末の通常のお休みにプチ休暇を続けて、日程を伸ばして自腹の軍資金も投入して旦那とドライブ旅行に行く先は・・・高野山と白浜のパンダ見たさに、紀伊半島は?と切り出すが遠いから・・・とまたもや却下されて、近場の富山&石川でいいんじゃないという旦那。なんとかお互いに妥協をして行き先を決めたのはいいけど、冬場は雪が心配だし、紅葉の時期には混むし料金も高くなりがちだからと、10月下旬に行くつもりでいたのが、あらら娘の転勤による引っ越し決定娘の新しい住居の下見だとか、引っ越しの準備も引っ張り出されるだろうと旅行の日程を11月中旬に延期をする事にしたら、まさかの悪天候。激しい雨の降る中を名神を西に向かうと、大垣付近で北陸道の木の本→敦賀はチェーン規制なんて表示が出てきてあらら~、敦賀で高速を降りて、そこから一般道を西へと向かうつもりだったのにノーマルタイヤなので木の本インターで降りて、そこから直接目的地に向かう事にしてカーナビがおススメする 別ルートでGO! 間もなく到着と言う所でガイドブックに紹介をされてた「熊川宿」の看板を発見。これは素通りをする訳にもいかないあいにくの天気が続いていたので、下車見学は諦めて車でそのまま宿場を流して、助手席から見学をするか~。でもフロントガラスの雨粒がすんごく邪魔だなぁ(オーブではない)ここは、若狭(わかさ)と京都を結んだ若狭街道、別名を鯖街道の宿場町で、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定をされている室町時代には沼田氏が山城を築いたという地にあるそうで、戦国期に小浜城主となった浅野長政が、宿場町として整備したそうである熊川番所なんぞもあり、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まっていたところである。なんて言ってたら、みるみると雨もやんできてこれなら傘なしで外でも写真が撮れそうだと下車。かといって歩きたいなんて思わないので、私だけポイント、ポイントで下車する事にした観光化がまったくされていない田舎の静かさがいいなぁ~この商家は「旧逸見勘兵衛家住宅」といい、江戸時代には高嶋屋を名乗り、宿場の中で荷物の継立てをする問屋をされていたとか。明治にこの家で生まれた竹之助は、大阪の伊藤本店(伊藤忠商事の前身)に就職をし、初代社長の伊藤忠兵衛に認められて、娘と結婚し伊藤忠商事二代目社長となったそうである奥の建物はかつての熊川村役場で、今では若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館となっている 宿場の中を前川という水路が流れ、平成の名水百選に選定されているどこにあったか判らないが、得法寺は姉川の戦いで徳川家康が滞在をした寺で、家康腰かけの松が残っているそうだそんな訳で、今日の第一の目的地にたどり着いたが、あらら~~すんごい風で傘が吹き飛ばされそ~~~!! この風の強さは海風?旦那は神社の施設から出てこず、仕方が無いから一人で登城を試みるしかないようだ。ここは小浜城で、雲浜(うんぴん)城との雅号をもつ↓詳しくは下記看板でもお読みください関ヶ原の戦いで功績があった京極高次が若狭国を拝領し、戦時の防御性よりは行政などの利便性に良い平坦な平野の中央部に築いた城である彼の姉は豊臣秀吉の側室の松の丸(京極)殿であり、淀殿の妹の初が正室であった事から、その七光りで出世したとされ、「蛍大名」とささやかれたが軍功もたてていたのだ お初と言えば、前の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」で、いつも饅頭を食べてたお姫様。イケメンの高次様に一目ぼれしちゃうのもかわいかったです。放映中は荒唐無稽だの色々と酷評もあったけれどかっこいい信長様、ひと癖ある太閤秀吉、貫禄のある大御所家康と三英傑もキマまってたし、茶々様も気迫あった~~。結構、全編を通して楽しめる大河だったかもなんか変な天気の一日だった。晴れたと思ったら、またしぐれてそれが若狭では普通なのかな。とにかくこの時期は月の半分はどんよりしているらしい。やっぱ10月が良かったかなぁ~その日のランチは折角、日本海に来たのだから海産物をって事でガイドブックのグルメ特集に載っていた市役所の近くのお店へ流石に平日だけあって背広や作業服の方ばかり。私は850円の刺身定食で、色んな種類の刺身がてんこ盛り。お~カニ足もあるよ旦那の方は900円の海鮮丼! お昼御飯を食べて外に出たら、アラレ降ってるし!! 平成24年11月15日に若狭で撮影
2012年11月19日
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どうもどうも皆様お久しぶりでございます。別に体調を崩したわけでもなく、旅行に出かけていた訳でもなくってここ10日程はネットの出来ない環境におりまして、ここもご無沙汰でしたと、言いますのも・・・昨年秋に一人暮らしの娘が転勤で富士山の麓に引っ越して、まだ1年ちょっと。あと1~2年はいれると思った温暖で鎌倉とか、箱根伊豆にも近い静岡県東部ですが・・・富士山も初冠雪を迎えた頃に娘からの電話!!会社の休憩時間に「お母さん、また転勤だって~!?」「え~~、まだ横須賀に行って無かったのに!!」ってやり取りが10月の上旬にありまして、新しいアパートの下見に娘と出かけたりと、ドタバタとした10月もあっという間に過ぎ去って・・・ 構成上、この二枚は時刻的には一番最初にあたります引っ越し間際まで会社勤務や、送迎会など忙しい娘の代わりに今回(も)、私が引っ越しの荷造りなどやネットとかガスの解約取り外しの立会など・・・駆り出された訳で、もうこの電車ともお別れねと乗ったJRの普通電車で 名古屋、豊橋、浜松・・・と何度も乗り継いで、娘の住む街。いや今となっては住んでいた街へ 構成上、この二枚は時刻的には一番最初にあたりますお気に入りだった身延線の駅のホームに降りると、そこからの富士山は夕暮れ時の西日を浴びて、いつになく美しく見え、もうこの姿も見る事も出来なくなるなぁ・・・それにしても横須賀に行きたかったし。でも鎌倉は嫌な予感がして全部回っておいて良かったなどと、しばしの間感傷に浸るのであったなんて言っている間にも、見る間に富士山の白き頂きの色が濃くなって輝きを増していった。こうなったら日が陰るその時まで見ていようとホームに一人残って・・・いつしか赤みの盛りも過ぎて、色も薄れてゆき、周囲も夜の帳を感じさせるようになって・・・・ あぁ、箱根にももう1度位は行きたかったし最後に海鮮丼位は食べておこっと!!岐阜県に生まれ、京都府(海に遠い京都市)、長野県、岐阜県と海には縁無く暮らした私に対し、娘の方は長野県、岐阜県、長野県。そしていよいよ静岡県と!! 親子二代の憧れの海辺の街デビューだったし生シラスや生桜エビと、山国に存在しないモノまで食べる事が出来たこうして無情にも日が暮れてゆき、富士も薄暗い影の姿となって静かな時を迎え、私は足早に娘の住んでいるアパートへと向かったそれから、慌ただしい中で引っ越しの準備も着々とすすみ旦那も合流し荷物も引っ越し便に引き渡し、後は転居届を出すのみとなった、この街を去る朝に、再び富士山が美しい姿を見せていたので、最後に記念写真を撮ろうと思いつきここから桜の頃に富士を見たら綺麗だろうなぁという土手に寄り道をして、家族で向かってお互いに家族写真などを撮る娘・・・それはないだろう・・・って構図。なんで私の頭の上に富士なんだ。プライベート写真なのでお見せ出来ませんそして、いよいよ1年ちょっとになったが娘が住んでいたこの街とも富士山ともお別れする時。不動産屋立ち合いでの退去も気合を入れて入居時の写真なども用意していたのに、綺麗に住んでらっしゃったのでと、またもや数分で終了し今回もクリーニング代だけを請求されて鍵を渡す娘が新しく住む町へと。途中、朝霧高原の道の駅から富士を見る何度か利用したここだけど、薄い雪が良かったのだろうか。これだけくっきりと富士が見れた試しはないいよいよ最後に富士山が見えるスポットが近付いてきた。娘の運転する車の助手席(旦那は貴重品や布団等荷物を載せてもう一台)からの精進湖からの富士山!まるでススキがバイバイと手を振っているようだったそして、これが最後の見納めの富士! 次にその雄姿を眺められるのは1年後? 2年後? はたまた・・・・こうして車は一路、娘が新しく住む街へと向かうのであった 平成24年10月末から11月2日に富士山麓で撮影
2012年11月13日
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