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帰ってきました。FM入間から。 いや~、生放送って大変ですね。 私のインタビューコーナーは15分程度だったんですけど、しゃべりたいことの100分の1もしゃべれませんでした(悲)。 でも、あたりまえですよね。番組構成は決まってるし、パーソナリティーの方の質問に簡潔に答えるのが、私に求められていたことですから・・・ 今回のラジオ出演で「短い時間で的確に話す」ことの重要性にあらためて気づかされました。 それにしても、生放送ってすごいですよね。今は、ほとんど「コンピュータ制御」になっているみたいなんですが、機械がやることなので、「血も涙もない」(笑)。私のコーナー終わり部分で、パーソナリティーの方に「佐々木さん、それではブログの紹介をお願いします」ってフラれたので、「よっしゃー、より多くの人にウチのブログを見てもらうぞ~」って気持ちで話し始めたら、 コンピュータ制御により、 強制終了・・・・・・悲しい、悲しすぎる。 もちろん、その10分ぐらい後に、パーソナリティーの方が「お詫びのコメント」と共に紹介してくれたようですが、私の口から言いたかった・・・ まぁ、モニターに映ってる時間を意識しなければいけなかったのは私なんですが・・・話し出したら止まらず・・・ 授業のノリと一緒の「え~い、区切り悪いから延長だぁ~」はダメなんですよね。 『決まった時間の中で完璧に』の難しさ、ホント思い知らされました・・・
2008.05.31
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昨日で愛夢舎に通う中学生の定期テストが全て終了しました。 お疲れ様~~~~~~~~! で、僕は専ら社会を担当していますが(もちろん他教科もOK) 今回の定期テスト時事問題の的中率は・・・・・・・・・・・・ 100% でした。次も当てますよ~~~! え?久しぶりの更新でこれだけかって? すみませ~~ん(汗)
2008.05.31
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ブログを開設し、1年がたちました。 はじめた頃の、謙虚な気持ちを忘れてはならぬ。 そんな教務部長の箴言にのっとり、はじめたころのデザインにしてみました。 ゆえに、季節を追うごとに、ページはデザインを変えるでしょう。 しかし、必ず、このデザインには戻るでしょう。 初心忘るべからず。
2008.05.31
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麺類が好きである。先日、細くて長くて透明なツルツルしたものが苦手であると書いたが、透明でない麺類は大好きなのだ。 ラーメンは言うに及ばず、そば、うどん、スパゲッティ…。この類でダメなのは、冷麺と冷やし中華くらいだろうか。 「そば」なんて、たとえば長野・戸隠なんかは「そば屋」が何十軒もあって、ある時期、オチョコをもらってひたすら「そば屋」のハシゴができるイベントがあるそうだが、いつかは行ってみたいと思っている。まさに、「そば天国」だ。 そして、そろそろ食べたくなるのが…。ソーメンだ。職人芸を極めた細いツルツルの麺。僕は、さすがにダシからとったりはせず、市販のツユを使ってしまうのだが、それでも、氷を投入し、味の素で丸みを帯びさせ、わけぎを浮かべたキンキンに冷えたツユ。そこに純白の極細のソーメンをつけて、食す。極細の束に、キンキンのツユがよくからみ、目を閉じれば、縁側、風鈴、団扇・・・そんなものが浮かんでくる。 おいしい。 そして、ソーメンは、品質にこだわるべきだ。僕は、だからと言って超高級品を食べるような甲斐性もないので、もっぱら「揖保の糸」を愛食している。引っ越したので、キッチンも広くなり、昔のように自炊をしようと思っている。昔は、鶏肉のトマトベース、赤ワイン煮込みだとか、そういうオリジナルの料理を時間をかけて作っていた。仕事を始めてからは、なかなか時間もとれず、また、何より、キッチンが激セマだったので、料理する気にもなかなかならなかった。これからは、また、自炊をしようと思っている。 昨日のオフ、スーパーに行ってとりあえず、パスタとソーメンを買ってきた。本格的な料理は、調理道具も十分でないので、今後やっていこう。 昨日は、パスタを食べた。 今日は、ソーメンだ。 塾から帰って、ツユを準備、ソーメンの茹で時間は、表示してある最短時間より15秒ほど短くするとよい。 冷麦はソーメンとはまた違う。いったい、ソーメンと、ひやむぎと、うどんと、きしめんと何が違うかといったとき、実は、麺の太さだけであることは、ご存じだろうか。 ソーメンの茹で時間は、極端に短い。 揖保の糸で、1分半から2分程度。 これを僕は、ストップウォッチをにらみ、1分15秒で上げる。すかさず、ザルにうつし、水でしめる。ぬるくなる前に、ナベもほったらかしで、すでに用意してあるツユに十分ひたし、一気に食べる。 …。 …。 …寒かった。(只今の入間市の気温、13度。yahoo天気発表…)Kama
2008.05.31
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また、愛夢舎がラジオに出ます。明日、5月31日(土)17:00~19:00「くらし経済塾」(FM茶笛(チャッピー) 77.7Mhz)という番組の中で、「この人に聞け!」というコーナーがあるそうで、そこで、当塾 塾長佐々木がゲストとして出演することになりました。 今回は、バンドではありません。地元の経営者に、これまでの人生経験やら経営理念やら、今後のビジョンなどをインタビューするというコーナーのようです。 佐々木の出演は17:10頃から20分程度になる模様。お近くの方は、もしよろしければぜひ聴いてください。 僕はラジオを聴かないのでよく分かりませんが、入間を中心に、狭山市、所沢市、飯能市、川越市ほか埼玉西部エリアと東村山、武蔵村山、青梅、立川など東京西多摩エリアでも聴けるそうです。 …ところで、今回は、完全生放送です。 …生です。 …やり直しはききません。 どんなことを質問されて、どんな風に答えるつもりなのか、僕らも聞かされていません。いや、佐々木も聞かされていません。 …生です。塾長、念のため、発言にお気をつけを…。特に、「下」の方に…。Kama
2008.05.30
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自分のことを「ミュージシャン」だと評されると、うれしい。僕は音楽が大好きで、これまで何回か書いてきたが、「音楽至上主義」であってそれはどういうことかというと音楽において、音の美しさを何より優先し言いかえれば、そういう聴き方をする時には歌詞の内容には全く頓着しておらず声すらひとつの楽器として感じており、しかし、声には「声という楽器」の特性があってそれはたとえば、12音階のそれぞれの音の中間音を出すことができたりそもそも平均律に従わない、逆に、平均律を支配しうる唯一の楽器であると思っている。その限りで言えばだから、モー娘だろうが、アクエリオンだろうが、良いものは良い。その結果、クラシックからブラックメタル、民謡、ダンスミュージックまでまあおよそあらゆるジャンルの音楽を好むことができるようになった。僕の携帯電話は、目覚ましのときには、ワーグナーのマイスタージンガーを鳴らし、電話の着信のときには、ジャーマンメタルバンド、HELLOWEENのEAGLE FLY FREEを鳴らす。だから、自分が「音楽家」であると評されるのは大変光栄で、うれしい。が、「アーティスト」だといわれると、かなりガッカリする。いや、してきた。なぜかというと、これまでに技術の伴わない「アーティスト」を散々見てきたからだと思う。大学卒論の一部で、音楽とそうでないものの境界線を論じたのだが、要するに、「これは音楽である」という誰かの確認作業があればおよそすべてのことは音楽になる。ジョン・ケージなどは、音のない音楽すら作ったのであるから。そうすると、音楽が手段となる場合がある。自分の思想、内面を表現するための、手段として音楽。図らずも手段として用いられた例として、ナチス・ヒトラーによる、ワーグナーがあるが、現代では、自らの意志により、音楽を手段とする芸術家も多い。僕は、だから、音至上であって、例えば、学生の頃にピアノのオリジナル曲集を作り、内々に発表したのだが、その際ライナーに、「自分は、何か自分の心とか感情を音に込めるつもりはない。例えば、天上があったとして、そこで流れているであろう、絶対的な美しい音の連続、音の差異を実体化させたいだけ」みたいなことを書いた。思想を音に込める音楽を否定しているのではない。だいたい、好んで聴くブラックメタルは、まさに手段の音楽であるから。しかし、それは結果として、音だけをとっても、音楽として良いからであって、思想にひかれるわけではない。だから、技術の伴わない「アーティスト」は好きではない。そこで、ある時期「アルチザンを目指している」と公言していた。アルチザンは、アーティストに比し、技術をより重視する作家とされる。この場合、技術が超絶的であるかどうかは、また別の問題。が、結果として超絶技巧を披露する作家こそ、アルチザンと呼ばれる場合が多い。ならば、パガニーニ、リストなども、アルチザンということになるし、マライア・キャリーも、アルチザン的歌手ということになるか。僕にとって、要するに、自分のやりたいことが自然とできる技術があればよくて、でもそうなると、やはり超絶技巧を目指す方向に向く。動画などで愛夢舎バンドの様子をご覧になればわかるが、ギターを弾くときの僕が、イングヴェイ・マルムスティーンの影響を受けていることは自他ともに認めるところである。だが、ギターに関しては、自分がやりたいと感じることの半分程度のことしかできないので、だから僕は、あまり人前で「ギターを弾ける」とは言わない。ピアノについては、相対的な技術レベルはかなり低いが、自分がやりたいと感じることはおよそできるので、だから「弾ける」と言う。ベースも、やはり「弾ける」楽器である。そこで、大学ではいくつもある音楽系サークルのうちで、よりアルチザン的な人の集まるサークルに身をおいた。マリエハワイアンズ。ふざけた名前のサークルだが、中身はバリバリのメタルサークル。そこで、技術の限界を感じ、プロを目指すことをやめた。とにかく高い技術を有する人がわんさかいるサークルで、某ギター雑誌で何度も表彰されてる人なんかもいた。プロも多く輩出している。ザ・コブラツイスターズとか、ボカスカジャンとか、イカ天世代の人はご存じかもしれないが、スイマーズとか・・・。1回だけ、ドラムを叩いてもらった先輩はこんなんになっている。大学でベースを始めたという先輩は、僕のフェイバリットベーシストである諸田コウ氏唯一の弟子となって、残念ながら他界してしまったが、その追悼のために諸田氏がアルバムまで作ったという。とにかく、すごい技術集団だったのだ。そんな中で僕は、ギターもドラムも、へたっぴの部類だった。しかし、そんな超絶技巧集団、CDを出すのなんかは当たり前であったが、結局食べていけるだけの収入にならず、ガソリンスタンドで働いたり、公務員試験を受け直したりするのをみて、音楽・技術至上主義であった僕は、音楽を職業とする道を断ち切った。高校時代の仲間は、立派にメジャーデビューしている。JERRY LEE PHANTOM。このバンドのボーカルは、高校で、同じバンドを組んでた時期もあった。キーボードは、同好会の後輩。ベースは、ボーカルの友人で、何回か対バンした。彼らは、高校を卒業して、僕の高校ではただ一人、進学せずに、愛知に出て行った。数年、アパートの一部屋に4人で暮して、道路工事をしていたのだが、数年たって、ようやくメジャーデビューできた。彼らは、大した技術は持っていなかった。 さて、ここにきて、アルチザンへの疑問がわいてくる。彼らは、びっくりするような技術はなかったが、では、やりたいことができないくらいヘタだったかというと、そうではない。彼らはイングヴェイをやりたいわけではなく、自分たちの音楽をやるのに十分な技術はあった。大学のサークルの面々は、技術的には、その辺のプロをはるかに上回るものを持っていた。が、プロとして大成した人は少ない。 …おそらく、やりたいもの、自分たちの音楽がなかったのだろう。 ジェリー・リーの面々は、高校で色々な経験をし(ボーカルの彼は、軽音楽同好会で一緒だっただけでなく、陸上部でも同じ釜のメシを食った仲だった)また、キーボードの彼女は大学で経験を積み、何か、表現するべきものをつかんだのだろう。大学サークルの面々は、とにかくギターを弾いてばっかりだったから、視野は自然とせまくなり、経験という意味では少なかったのかもしれない。 そして思う。僕は、音に思想を込めるつもりはないが、その、音そのものを重視するということ、それ自体も思想である。ゆえに、肝心なのは音に何を込めるか、どのような思想であるかということでなく、経験の中から、音に込めたい何かをつかむことであるか。 アルチザンの極致を見つけた。これだ。…小田切先生が言った。「コレ、音楽やってんの?」同感だ。 また、この人は有名だ。マイケル・アンジェロ先生。ギター講師でもあるこの人は、日本でもアルバムを発表したが、もう、色モノ扱いしかされなかった。確かに、技術はモノスゴイんですが。では、アンジェロ先生3連発。1.アンジェロラッシュ2.ギターソロ3.NITROでのXギター高校の頃から知ってて、当時は、これをスゲーって思ってたんだけどなぁ・・・。今は、これをやりたいとは、あんまり思いません。 「アーティスト」もいいかもしれない。 芸術論になってしまいました。Kama
2008.05.30
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生徒にはよくする話なのですが、確かブログには書いたことがなかったと思うので、あまりに有名なハナシかも知れませんし、「今さら…」という感もありますが、書いてみたいと思います。「オレ、バカだからさぁ~」「アタシ、バカだし・・・」こう言う子、少なくありませんね。こういうとき、僕は逃さず、語ります。「どういうのを『バカ』って言うか、知ってる?」と。実際問題、愛夢舎では結構荒っぽい言葉が飛び交っています。(…と思います)先生が生徒に向かって「バカものっ!」って言うのは、よくあること。が、その際僕らは、おそらく次の基準で発しているはず。バカとは、知識のないことではない。「やってはいけない」と知っているのに「やってしまう」こと、「やらねばならない」と知っているのに「やらない」こと。これが、愛夢舎での『バカ』である。これが全てです。勉強をしなければならないと思っていて、でもしないのがバカ。先生を馬鹿にするような発言をしてはいけないと知っていて、でもしてしまうのが、バカ。勉強しなければならないと思っていなくて、それで勉強しないのは、バカではない。先生の名前を呼び捨てにしてはいけないと知らなくて、つい呼んでしまったのは、バカではない。知らないだけ。だから、そういう場面においてはまず彼らに「教えてあげる」ことが必要だ。つまり、「バカものっ!」って叱るときにはまず、彼らがやらねばならぬと思ってしなかったのか、やってはならぬと思ってやったのか、その確認が絶対に必要だ。 そして言うまでもなく、テストの点数が悪いこと。これ自体は、バカではない。たとえば、よい点数を取りたいと思っていない子が勉強せず、結果、よろしくない点数をとってくるのは、当たり前の結果だ。よい点数を取りたいとは思っているが、そのために何をすべきかを知らず、よろしくない点数をとってくるのも、バカではない。しかし、よい点数を取りたいと思っていて、そのために何をすべきかも知っていて、それをしない。これが、愛夢舎的、バカ。もちろん、大人になれば「知らない」こと自体がダメで、「知らない」=「バカ」になるときがやがてやってくるので、知らない、わからない子には「やらねばならないこと」、「やってはならないこと」を教えてあげねばならない。彼らが知ることを必要だと感じていなくても、つまり、一時、おせっかいだとしても、それをしっかり教えること。これが大人の役割でだと思う。 こんな話がある。市議だか県議だかの選挙運動の際、所定の手続きをとらず、ウグイス嬢をアルバイトとして雇った人が公職選挙法違反で逮捕された。そして、そのウグイス嬢たちも逮捕された。同罪である。が、彼女たちはそれが違法だとは知らなかった。ともすると、雇い主が所定の手続きをとっていないことも知らなかったかもしれない。しかし、それは通用しない。大人の社会では、知らないこと自体が罪である。 が、これが子どもの社会であったならばそれは罪にもならず、愛夢舎的にいえば、バカでもない。でも、そのまま育っていってしまって、「知らないウグイス嬢」になってしまえば、これは社会的に、バカである。だから、こういう結論になる。 大人は子どもたちに「やってはいけないこと」、「やらねばならないこと」を教えねばならない。それをしない大人、「教えねばならない」ことを「知っていて」、「教えなかった」大人。 バカである。 若干、言葉のあやもありますし、極論に聞こえるかも知れませんが、この「愛夢舎的バカ」に共感いただいた大人のみなさん。あなたは、「教えなければならぬ」ことを知ってしまいました。自らがバカにならぬよう、ともに教えましょう。Kama
2008.05.29
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気づいたら、「366日」になってました。 ブログ開設、1周年でございます。 これまでご愛読いただいた皆様、本当にありがとうございます。多くのアクセスをいただき、私たちの小さな塾を少しずつですが、皆様に知っていただくことができました。心より、感謝申し上げます。 そして、私たちにブログの開設をおすすめいただいた、will-since2000先生。 先生のおかげで、新たな場所に踏み出すことができました。本当に、ありがとうございます。この世界では、まだまだ遠く及びませんが、今後とも、よろしくお願いいたします。 相変わらず、節操のない記事を書き連ねていくと思いますが、私たちのブログは、4人でひとつ。 それぞれの個性が集まって、やっと一つの塾、それが愛夢舎です。 どうぞ、今後ともお付き合いいただけますよう、よろしくお願いいたします。
2008.05.29
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いよいよ中間テストです。いや、もうとっくに始まっており、いくつかの中学校・高校ではすでに終了しておりますが、ウチに通う生徒のほとんどが通う近所の中学校ではいよいよ、明日、明後日と1学期中間テストが実施されます。テスト対策の勉強のため、今日は多くの生徒が塾にやってきました。主に、僕と小田切先生とで教室間を走りまわって、生徒を帰すことになっている22時を少しすぎるまでコピー機フル稼働で、テストやらプリントやらを印刷して、配って、採点して、生徒の間違いにツっこんで、口頭試問して…。今日一日で印刷したプリント類は900枚近くになりました。実際、ウチの定期テスト対策では、各生徒が100枚程度のプリントをもらう。さすがに、疲れた…。 …が、このプリント類を十二分に活かすことのできる生徒とあまり役に立たない生徒とがいる。当たり前のハナシだけれども、結局は、生徒たちが「覚えよう」、「できるようにしよう」と思っているかどうかがすべてで、正直、中には「早く帰りたいなぁ~」というオーラをばんばん発する子もいる。「もうこんな時間?」っていう子もいる。「もっと早くから勉強すればよかった~」という子も多い。でも、そういうことを一切言わない子もいる。十分に準備できているからではない。勉強が終わったという、開放感にひたっているだけ。ここが一番難しいところですね。端的にいえば、「いい点数をとりたい」と強く思う子とそうでない子がいる。いや、これは正確ではないな。誰だって、悪い点数を取りたいはずがなく、実際みんな、「いい点数をとりたい」と言う。「いい点をとりたい」という子があまり身にならない勉強をする。どうしてそういう違うが出てくるかといえば、それは「点をとりたい気持ちの強さ」ともいえるかもしれないけれども、つまり、未来の自分を予測することができるか否かであるように思う。よい点数をとりたいのは、みんな一緒であるが、今の自分が、この道をたどっていったとき、どのような結果に向き合うことになるのか、その予測がリアルである子と、ほとんど予測できない子と。その違いである気がする。だから、経験値のない中学1年生は濃度の濃い勉強になりにくい。 …しかし、まあ、やれるだけのことは、やった。 決して満足はできない。それどころか、生徒たちの出来に、不安も多い。が、それは今さらどうにもならない。生徒たちが帰ったあと、「彼」が「いよいよ始まりましたね」と言ったが、僕は即座に「いや、終わったんだよ」と答えた。明日のテストに向けて、僕らができることは今日、終わった。深い反省がある。僕らこそ、もっとこうすればよかったという思いが一気にわいてくる。あとは、生徒たちのがんばり・・・違う、「取りたい!」という思いの強さを信じ、願うだけだ。 どうか、落ち着いて、できる問題をひとつひとつ、確実に、丁寧に解いてくれ。どうか、問題文を最後まで慎重に読んでくれ。どうか、落ち着いた心で、見直しをしてくれ。どうか、試験の時間中に、あきらめないでくれ。 今日のキミたちは、よく頑張った。だから、「ガンバレ!」は言いません。よくやったぞ!楽しんで、受けてこい!Kama
2008.05.29
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先ほどの記事に、書き忘れました子どもたちから「先生、国語できんの?」とか「分数できんの?」とか聞かれた場合・・・。相手が小学生だった場合には、僕は「そうだな、少し、できるかな・・・」程度に答えています。小学生が勉強のことで僕らに「できるの?」って聞いてきた場合、それは多くの場合、自分ができるようになって、それがうれしくて、そして、どちらかと言えば「アタマが良さそう」に見える(…らしいんです)僕なんかに聞いてきているわけで、そこでムゲな返事をして彼らの喜びをつぶしたくない。だから、僕ら愛夢舎の先生は、勉強については小学生と競わない。(当たり前だが・・・)中高生は、また別です。彼らは、僕らの教務力を信じてほしい。そのためには、絶対的な知識量、経験知、指導力を感じてほしい。小学生相手に本気で、ムキになって競争するのは小学生と同じ土俵に上がれること。ケン玉とか、食べモノの好き嫌いとか、アニメの知識とか・・・。こんなの、どうでしょう?Kama
2008.05.28
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昨日、小学生にこんなことを言われた。「先生、国語、ムリでしょ?」 … その子は、僕の「算数」の授業を受けていたのです。で、授業が終わって、でも、田中先生が担当する国語の方で(これは別の曜日)漢字テストのやり直しが課題で出ていて、まあ、やったわけですよ。でも、田中先生は次の授業に入ってしまっているから採点する先生が見当たらない。で、他の子が「鎌田先生は?」と振ると・・・。出てきたセリフがこれでした。はい、ワタシ、高校3年生に国語を指導しております。 また、別の日には、他の小学生からこんなことを言われた。 「先生、分数できんの?」 … はい、ワタシ、高校受験生に数学を指導しております。 まあしかし、これが現実なんでしょうね。ありがたいことに、小学生たちは僕らによくなついてくれる。が、それは「この先生に習うと得だから」とかそういうことではないのでしょう、だから、その先生が何の教科を担当していてもあんまり関係ない。それが、中学・高校生となるにつれて、どの先生が、どの教科を、どの程度できるかということを把握してきて、ある意味「使う先生」を分け始める。が、愛夢舎においてはすべての先生が複数教科を指導するので自分で言うのもなんですが、僕なんかは「便利屋」的に使ってもらえる。だから、小学生がこういうことを僕に言うのを見ている高校生はゲラゲラ笑う。 でも、僕らは僕らで、どの先生が、どの教科を、どの程度できるかを、生徒は把握しているだろうと勝手に思っていて、そういえば、ちゃんと教えたことはなかったなあ。「分かってるでしょ」という前提があったかもなあ。他の塾さんでも、一人の先生が複数教科を教えることは珍しいことではないと思いますが、でも、特に新しく塾生となった子にはちゃんと教えてあげるべきでしたね。ちょいと反省…。もっとも、僕が国語ができない、分数ができないと思った子たちは結構な年数、愛夢舎に通っているんですけどね。 改めて、また、自分で書くのもなんですが、僕と小田切先生は5教科指導が可能な先生ということになっています。(僕は、音楽、技術家庭、体育なんかもみるので、『9教科可能』と言っちゃってますが)もちろん、高校生相手にはムリですよ。中学3年生までは、基本的に5教科とも可。しいていうなら、僕は理科、小田切先生は国語に若干の不安がある感じかな?田中先生も、結構近いものがある。「理科はちょっと…」と自分では言ってますが、たぶん、できるでしょ。塾長佐々木は、基本的に英語専門。しかし、それはおそらく英語のスペシャリストたるべしという思いもあって、実際には国語も教えるし、社会も、数学もある程度までは教える。これが、いいことなのかどうかは分かりません。たとえば、器用貧乏と言われてもしょうがない。 でもですね、色々やると、一つ一つの専門性が下がるかというと、必ずしもそうは言えないとも思う。逆に、5教科指導が可能であるゆえ、トータルバランスを考えた指導も可能になるともいえる。 …まあ、とにかく、愛夢舎はどの先生に何を聞いても、たいてい大丈夫なんですよ、生徒諸君。(高校生は除きますが)なんで僕らが5教科指導可能であるかというと、それは、愛夢舎の前進となる塾の入社基準がそれだったからです。詳しくは、「愛夢舎ヒストリー」をご覧ください。Kama
2008.05.28
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あたりまえですが、中1生にとっては「人生で初めての定期テスト」です。 「このテストに対する取り組み方」は、周りにいる大人(親、先生、先輩など)に大きく影響されると思います。 そりゃ、「あのなぁ、中間テストってのはな、・・・で、・・・で、それでもって・・・で、・・・だから大切なんだぞ。」などと話してくれる人がいなければ、小学生に毛が生えた程度の(失礼)中1生が、中間テストというものを重くとらえ、何日も前から準備するなんてことはないでしょう。 愛夢舎に通っている中1生だって、今「中学生に改造中」なんです。「中1準備講座」から通っている子に関しては、「定期テストの大切さ」「なぜ定期テストが大切か」「どのように定期テストの準備をするか」などを3月から話してきました。 そして、試験直前の今、それらのことを実感し始めているようです。 もちろん、彼らはまだまだ甘い。そりゃそうですよね。どこまで頑張るかの基準だって自分ではわからないんですから・・・ だから、私たちが「おせっかい」をします。家に電話して「勉強状況を確認」します。勉強が不十分であれば「呼出し」ます。自習室で必要なものをやらせます。終わるまで帰しません(笑)。「確認テスト」をやらせます。できます。「おめでとう、よくがんばったね。今日は帰っていいよ」となります。できませんでした。「ここをもうちょっとやってみよう」もしくは「じゃあ、明日も来てここやってみよう」・・・となります。 このように、「定期テストにはちゃんとした準備が要ること」を体感させていきます。きっと、まだ彼らの中には「やらされ感」が強いと思いますが、テストが返却され、「よい結果」を実際に手にすると次の定期テスト前の準備は放っておいてもやるようになります。 「やらされ感」を脱却し「自主的」に定期テストの準備をするようになります。 この時期、中1生は「小学生を中学生に改造する」期間です。お父様、お母様、暖かく見守っていただきありがとうございます。 ジュクチョウ
2008.05.27
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私事ですが、昨日5月25日に私40歳になりました。 生徒や卒業生たちが祝ってくれました! 5月25日になった瞬間(0時ピッタリ)にメールでお祝いメールをくれた卒業生のEさん。 採点用の赤ペンを買ってきてくれた中3のK君。 コーヒー好きの私にコーヒーを差し入れてくれた卒業生のT君。 タイ焼きを買ってきてくれた中1コンビK君とM君。 などなど・・・ 大半の子(卒業生も含め)がテスト前or中なのに・・・ ホントありがとね!
2008.05.26
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先日、あるクリーニング屋さんに行った。これまでは決まったお店があって、そこのおかみさんは気さくな方で、だから、ついつい世間話をしてしまう、そんなお店だった。しかし、引っ越しして、目の前にクリーニング屋があって、さすがに、それでも遠くなった前のお店に行くのもどうかと思って衣替えのこの時期、行ってみたわけです、その目の前のお店に。入ったところ、店員さんはいない。「ごめんくださーい」何回声をかけたろう。誰も出てこない。営業中であることはわかっている。なぜなら、奥の方から、おばちゃんの話声が聞こえるから。どうやら、誰かお友だちと話しているらしい。何度も声をかけた。この職業だから、僕はそんなに声の小さい方ではないと思うけど・・・。何分待っても、奥からはゲラゲラ笑う声しか聞こえてこない。やめました。クリーニング屋に服を持って行って、預けずに帰ってきたのは初めてでした。 話は変わりますが、僕は木曜日にオフをいただいており、そして、オフ日に遠出していない場合、たいてい、あるラーメン屋で「遅めの昼食」をとります。3時とか4時とかだから「早めの夕食」でしょうか。この時間帯に行くと、たいてい店には誰もいない。店員もいない。食券制のお店だから、気にせず食券を買ってると奥からのそのそ、一人の店員さんが現れる。カウンターにつき、券を出すと、ものすごく小さな声で、ぼそぼそと何か言って、調理に入る。出来上がると、僕の前にラーメンを置き、何かぼそぼそと言っているようなのだが、やっぱり何を言っているのかわからない。 さて、何のハナシかと思われるでしょうか。 結論を先に書きます。 サービス業たるもの、四六時中、神経をはりめぐらし、針の落ちる音にも反応するべし、そして、できる限り、不便であるべし。 そう思いました。 先のクリーニング屋さんですが、住まいの目の前にありながら、僕は二度と行くことはないでしょう。少々遠回りしても、他のお店に行く。だって、客が来たことに気がつかないなんて、言語道断で、これから何度、そういう待ちぼうけ状態を喰らうかわからないし、そんなお店なら、出来がありを取りに行ってもどんなトラブルが起こるか、わかったもんじゃない。少なくとも、毎回毎回待たされるのは、1秒がもったいない僕にとっては、勘弁だ。普通の対応さえしてくれれば、次に引っ越すまで、僕は常連となったであろうに。 そして、後述のラーメン屋ですが、おそらく、今週も行くでしょう。なぜなら、おいしいことを知っているから。店員の対応は最悪ですよ、ココ。実際、僕が店内にいて、新しく入ってきたお客さんが、誰もいないのを見て、そのまま出て行ったのを目撃したことがある。ただ、僕は待たされるのがイヤなので、対応が悪かったとしてもあえてそういう時間帯を狙って行っている。(ちなみに、夜は駐車場は満車なんです、この店)毎回毎回、この対応はもう少しなんとかならんか、と思うけど、最近はだんだん慣れてきてしまった。 塾は、言うまでもなく、サービス業です。そこで、自分たちにこの事例を置き換えてみた。 まず、来客に気がつかないクリーニング屋、塾。 ダメでしょう、そりゃあ。 と言いつつ、僕らの塾は来客を正面から迎えるような造りになっていないので、ドアの開く音、人の気配、そういうものに注意を払っていなければならない。幸いなことに、僕はコレが得意なのですが。 後述のラーメン屋さんは、僕がお店に入った時点では確かに誰もいないので、それはそれでダメだと思うのですが、しかし、奥から出てくるところをみると、一応、来客には気づいている。その分だけ、クリーニング屋より、マシだ。が、「味」がダメだったら、僕もとっくに通わなくなっているでしょう。言ってみれば、来客対応のまずい塾であったとして、「品質」がそこそこだから、まあなんとか勘弁してあげよう、そんなところか。僕らは、自分たちの指導・授業を過信しているのかも知れません。その過信が、いらっしゃる方への不躾な対応につながりかねない。その「危険」に改めて気づかされたのです。「対応」は、決して小手先の「テクニック」ではないと思う。いらっしゃっていただけること自体への感謝。それがあれば、どなたかがいらっしゃったことに気付かぬわけはない。気付かぬクリーニング屋さんはもはや、感謝の気持ちすら薄れているのかもしれない。(店内には、息子さんだか娘さんだかの結婚式の写真が飾ってあったから、趣味程度に商売されているのかも知れません、このお店) 「神経をはりめぐらし」は、これで説明できたかと思います。が、「不便であるべし」は? 簡単です。食券制には、人の温かみが感じられない、ということです。 お店としては、そりゃあ便利でしょう。計算間違いもないし、ともすれば、客としてもなかなか店員さんに声が伝わらない不便さを解消するものとして考えられているかも。たとえば、客がいっぱいいる中で大きな声で注文するのは少し恥ずかしいという人もいるでしょう。でもですね、この「便利」さ、やっぱり、なんか、冷たい。カウンターに座って、「●●、お願いします」って客が言って「はいよっ!」っていう明るい店員の返事があって、それが評判店だったとすれば、何重にも重なる注文をすべて覚えているという職人芸が炸裂し、店員さんとの心のつながりが実現する。 携帯電話でのメールもそうですよね。便利になればなるほど、人と人との、「生」のコミュニケーション、温かみが薄れていく、そんな気がします。不便であれば不便であるほど、人は「生身の人」のことを思う気がする。たとえば、ウチでは生徒の在塾時間をタイムカードで管理していますが、そして、それをもとに、彼らをほめたり、指導したりもしているのですが、タイムカード形式がなく、しかし僕らが彼らの在塾時間を気にするとすれば、それは四六時中、彼らの動向を見続けることになる。結果、より多くの愛情が注がれるような気がする。 便利が悪いとは思いません。実際、僕らもタイムカード制をやめるのはマイナスが大きすぎる。しかし、便利になればなるほど、気持ちが通じにくくなっていく。 その危険性は常に持っていなければならない。 そんな風に思いました。 もちろん、僕らが志すのは、客に気づかないクリーニング屋でも、なにをしゃべってるかわからない、暗いラーメン屋でもなくて、お越しいただいたことに全力の感謝を思い、さわやかな気持ちでいていただける明るい塾です。Kama
2008.05.26
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気を取り直して、いつものような記事を…。 こんばんは、鎌田です。先日、散髪しました。行きつけの床屋があります。僕は美容院には行ったことがありません。中学生の頃から、ひたすら床屋。床屋さんとか、美容院とか、あんまり換えないですよね。今、通っている入間の床屋さんは、もう5年にもなりますか、そうです、僕の髪の毛を「いいんですか?ホントにいいんですか?」って言いながらド金髪にし、その数年後、「いいんですか?ホントにいいんですか?」って言いながら腰までのブロンド・ロング・ヘアをバッサリ切ったその床屋さんです。男性で、ご自身でお店を持っていらっしゃる。お歳は、僕より3つ4つ、上でいらっしゃるだろうか。金髪にしたとき、「会社とか、大丈夫なんですか?」って聞かれて、「イヤ、会社で『そうしよう』って話たことなんで…」っていうやりとりから、向こうは僕が塾のセンセイだということを知っている。どこの塾だかはお知らせしていませんが。 世代が近いせいか、あるいは、ご主人に5~6歳のお子さんがいらっしゃるせいか、色々、お話が盛り上がる。また、近隣の中学生もココに通っているようで、ヘタすると、僕よりもよほど中学校の現状を知っていらっしゃる。だから、僕にとってはご主人のお話を聞くのが楽しみだ。それもあって、通っている。 一昨日行ったとき、やっぱり、話が盛り上がった。どうやら、お子さんは今年小学生になられたようだ。ご主人が入学式に臨まれた時のお話をおうかがいした。その小学校の入学式で、ある事件があったらしい。式の直前にある先生が6年生の子に対して、講堂に響き渡る大音量で「何をダラダラやってるんだ!早く並べぇっ!」と、ド叱ったのだそうだ。おお、そんな先生がまだいたか。僕は少し感心したのですが、その先生は、その生徒のそばに立ちすくみ、式の間中、はったと生徒をにらみ続けたそうで・・・。ご主人は言いました。「まったく、どっちがKYなんだか・・・ってハナシですよ」。 このご主人、聞けば聞くほど、しっかりした教育理念をお持ちでいらっしゃる。たとえば、縮毛なんかに憧れる中学生たちが来るらしいのですが、彼らに対して、「つるむな、学校をさぼってくるな、待ってるだけのヤツは来るな、あいさつはしっかりしろ」などなど、色々と指導されるようなんです。すると、子供たちは「わかりました~」と素直に言うことを聞く。だからご主人は「いやぁ、彼らもちゃんと話をするとわかる、いい子たちなんですよ」という。 また、先日お話した内容はご主人の教育に対する考え、「先生」というものに対する考え、そういったものでした。非常に的を射ていて、同感でき、なるほど、子どもたちは真剣に話を聞くだろうなという語り。時に自らの体験を交え、彼らの立場にたちながら、しかし、誰でもわかるように道徳・礼儀というものを説く。どうやら、サッカーチームのコーチなんかもされているようだ。そして、なんとびっくり、ご自身が「それは違うだろう・・・」と思われる子には説教までするという。先日なんかは、大学に進学したはいいが留年してしまった子に散々お説教したという。床屋さんだというのに・・・。この人は、素晴らしい教育者だ。毎回行くたびに、そう思っています。 えらそうにしゃべるのでなく、むしろ「自分なんかは、勉強、苦手だったからアレですけどね・・・」と語りはじめるその内容はきっと誰もが共感をもつものにちがいない。実際、この床屋さんに通う子どもたちは「お願いします」、「ありがとうございました」としっかり言い、待っている間も非常に礼儀正しいという。それは、ご主人あってのことだと確信する。 たとえば、僕ら愛夢舎の講師は勉強を教えるのであるがある意味、勉強を道具として人としての礼儀とか、そういうのを指導したいと思っている。同時に、自分に礼儀を教える価値があるかと自問し、生徒たちから学んでいる。その意味では媒介となるものが「勉強」と「散髪」と異なっていても、考える方向は同一だと思う。これが、教育だと思う。 僕らは「塾」という看板をあげているから誰もが「教える人」というレッテルを貼る。でも、本当の教育は「教育者」と呼ばれる人のみが携わるものでなくすべての「先人」が「後輩」に何かを伝えるものだと思う。オシャレしようと思って通ってくる子どもたち。彼らの髪を切りながら、彼らに「伝える」ご主人。尊敬します。 ありがたいことに、ご主人の方も、僕のことを普通の塾とはちがう、ちょっと変わった、勉強だけを教えるのではない塾の人と思っていただいているようだ。塾屋とか、床屋とか、そういうのは関係なくすべての大人が、将来をになう子供たちに「人」を教える。そんな教育環境でありたい。 先日、ご主人が「このあと、何かご予定は…」と聞いてきた。僕は、「いや、明日のテスト対策の準備を…」と言ってしまったのだが、もしかすると、「どうです、一緒に一杯やりながら、お話でも。」と言っていただけたのかもしれないな。そんなご主人は僕のことを「先生」と呼ぶ。名乗っていないし、でも僕が「塾」の人間と知ってしまっているので「先生」としか呼びようがないのでしょうが、こちらはご主人を「先生」と思っているので「先生」と呼ばれるのは、非常に恥ずかしい。だから、今度行くときは「愛夢舎の鎌田と申します」と名乗ろうと思います。こうして、職種を問わずいい年したオトナが子どもたちのことを真剣に話せる環境。ホント、居心地がいいです。Kama …ところで、ご主人、僕よりも入間市の塾の事情を詳しくご存じ・・・。どこそこの塾でこんなことでモメてる、とか、どこそこの塾が、来年出店しようとしてる、とか・・・。いくら教育業界のお客さんがいるといっても、知りすぎです。ナニモノですか、アナタは・・・。
2008.05.25
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塾業界の「巨星」が亡くなりました。あえて「巨星」と呼ばせていただきます。今現在の僕は、この方を目指しているわけではなく、失礼かも知れませんが、憧れの存在でもなく、また、愛夢舎自体も、この方のやり方とは違う方向を向いていると思います。親しい仲であったわけでもありませんし、すごく影響を受けたわけでもない。が、しかし、一時の僕ら、もう10年も前になりますが、確かにこの方を目指したことがあった。それで、少人数を対象にご講義いただいたこともあった。また、その後、人材関係の社に身を置いていた時期には個人対個人という直接の形ではないにしろ、色々とお世話になったこともあった。何人、いや、何十人、この方の下に講師を送りこんだことか。さらに、愛夢舎に来る前の職場においてはライバル関係ですらあった。そして、そういう僕個人の思い出とは関係なく、「塾」というものの存在価値をここまで引き上げていたその一端を確実に担っていらっしゃった方であった。僕らは、小さな個人塾を運営するもので、最大手の塾のやり方とは違うところに存在意義を見出すものであり、最大手を見つめることに意味を感じない方も多いと思いますが、が、個人塾であれ、大手塾であれ、いや、個人塾こそ、その存在価値が認められ、多くの方々のご理解、ご支援をいただけるように至ったのには、塾が市民権を得る必要があった。それゆえ、「大手」は無縁でなく、まして、対抗すべきものでもない。すべて塾人としての同志であるはずだから。僕は、すべての塾人を尊敬したいと思っているし、また、そのように努めている。だから、やはり「巨星」と呼ばせていただきたい。その方がお亡くなりになった。おそらく、会社はそこまでのダメージを受けることなく、動き続けるのでしょう。現に、すでに新社長が就任されていらっしゃる。しかし、僕らのような民間教育が市民権を持つこの時代を築いた、そのご事績はあまりに大きい。さまざまな思い出を胸に、心からご冥福をお祈りいたします。そして、その時代の中で、かの人とは違うやり方で、しかし、同じ志で、僕らは教育に挑み続けたいと思います。…実は、個人的にかなりショックでして、気持ちの整理のために書かせていただきました。あまり愛夢舎らしくない記事なので、もしかすると削除するかも知れません。失礼しました。鎌田
2008.05.24
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生徒のみなさんへお知らせです。(特に、KF中学生) 中間テスト間近です。 明日24日(土)と、25日(日)は、午前10時より自習室を開放し、『大勉強大会』を実施いたします。 最後の追い込みです。全員、10時に勉強道具を持って、塾に集合!です。 保護者の皆様、「授業は午後からだから・・・」と本人が言っても、「先生が待ってるから、塾に行ったら?」と、家を追い出してください(笑 プリント、テストをガンガン刷って待ってます。面倒、みさせてくださぁ~~い!! 高校生諸君も、先生を「使える」だけ「使って」ください。 ちなみに、明日24日の午前中は、佐々木、鎌田がおりますので、英語・国語・数学・社会を中心に、 25日(日)午前中は、小田切、田中が待機、理科・数学・英語・社会を中心に勉強すると良いと思います。 両日とも、午後は全教科対応いたします。待ってます!
2008.05.23
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結局1ヶ月ぶりの書き込みです。先日、小学3年生の授業のとき、黒板に何か書きたいというので、少しならいいよ。(チョーク横にして太く書くのは禁止)と許可をしたら、なんでも夏休みに塾に入る予定の子がいて、塾に来たら歓迎の言葉を黒板に書いて見せる練習だとか・・・(かわいい考えにだが)授業後、迎えに来ていただいた保護者の方とお話をしながら何気なく黒板を見ると、『人塾おめでとう!』と大きな字で書いてある。ん? なんかおかしいぞ。と、お母さんが突っ込む。『入塾』と『人塾』を間違えたのだ。漢字の苦手な子にはありがちな間違いで笑ってしまった。 うちの嫁が、旦那の勤め先を記入する機会があって、『埼玉県人間市・・・・・・・』ん? なんか違うぞ『にんげんし』 じゃない 『い る ま し!』と突っ込んだことがあるが。こういう間違いは、ときどき起こることだが、僕はこの間違いになぜ気づいたか?と考えたら、ひとつの見解として『形』ではないかと思った。絵、空間イメージ、芸術的なことは『右脳』が働く。とよく言われるが、この間違えた字に気づくかどうかも右脳の働きが活発なら気づきやすいのではないか?ということである。英語でも、dog を bog と書いてしまう子がたまにいる。もっともベタなミスなので、普通の大人はすぐに気づくが、その気づきは形で見ているのではないかと。字の左端が丸いか まっすぐか そんな感じで。(dog のまわりを線で囲んだら犬の姿に見えなくもない) まあ、何が言いたい てわけでもないが単語や漢字を覚えるということが苦手な子に対して何か良い教え方がないかと考えている年頃でした。ota
2008.05.23
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僕は、部活少年であった。諸々の事情(…?)により、中学時代の思い出はあまり語らず、ある意味「封印」しているのであるが、とにかく、部活動にいそしんでいた。バスケ部で部長・キャプテンだったのだが、朝の練習は6時台から。用務員さんより早く登校し、しまいには学校のカギのナンバーまで教えてもらい、僕らが学校を開けていた。夜は夜で、8時くらいまでやっていた。(それでも大して強くはなかったのだが・・・)腰骨に生まれつきの特徴があって、ヘルニアになりやすいことが判明したので高校では陸上に転向した。毎日10キロ、15キロと、走っていた。 そんなのは、当たり前の時代だった。 最近でも、そういう部活動はあるのかも知れないが、どうも近隣の中学校では部活動はオマケ程度になっている感がある。なんか、練習もテキトーっぽいし、強くなることへの執着も、あるんだかないんだか、シゴキに近い練習は、ごくごく一部にしかなさそうだ。もちろん、僕が学校に通っているわけではないのでその実態はわからないが、生徒たちの話を聞く限り、そんな気がする。僕はそんな中学生だったから、教育実習のときには、母校の中学でバスケ部をみたいと思った。しかし結局、高校での実習となったので軽音楽同好会の子をちょろっとみて、陸上部に顔を出すだけで終わった。つまりですね、「先生」を志す人には、部活動の顧問へのあこがれというのは少なからずあるものだと思っていたのです。 近隣の中学校で、おかしなことが起こっている。これには、あまりのバカバカしさに大笑いしたのだが。 その中学校には、茶道部がある。まあ、中学で茶道だから、正直、部員は少ない。 その茶道部が、現在やっている活動を聞いた。 ペン習字。 … 全然、茶道部じゃな~~~~い! 生徒が希望したわけでもなく、もちろん「ペン習字部」になったわけでもない。「茶道部」が「ペン習字」をやってる。 ワケが分からないので、どうしてそんなことになってしまったのか、聞いてみた。すると、顧問の先生がそのようにしたらしい。 理由もあった。 「茶道をやっても、高校には役に立たないから。」だそうだ。 このニュアンスは、直接聞いたわけでないから「高校に入ってから役に立たない」なのか「高校受験の際に役に立たない」なのかはよく分かりませんが・・・ それにしても・・・ ペン習字、役に立たねぇ~~~~!もう、バカバカしすぎて腹立たしいを通り越して笑うしかありませんでした。部員の子たちも、なんか文句を言えばいいのに。 にしても、僕は中高生の頃の思い出といってまず部活動を思うわけですが、そういう人は少なくないと思うんですね。勉強のことなんかは、ほとんど思わない。それほどまでに、部活動経験は僕という人間に、大きく刻み込まれたわけです。彼らが大人になったとき、どう思うのだろうかと考えると、とてもかわいそうに思うし、脱力感というか、むなしさというか、そういうのを覚えます。悪口を言いたくはないが、顧問の先生、茶道部でペン習字はいくらなんでも、ないでしょう。こうした横暴が、すぐに是正されることを切に願います。と同時に、そうした横暴がまかり通るような部活動への価値観。元・部活少年としては大変残念に思います。Kama
2008.05.22
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「21万円あったら、どう使いますか?」…心理テスト的に始めてみましたがそして、確かに僕は、心理学をちょいとかじっておりますが、何か分析するとか、そういうことではございません。 では、何のハナシかというと・・・。 牛肉のハナシです。 …えーとですねぇ僕は東海林さだお氏のエッセイを好んで読むのですが、そして、どういうわけか、最近、料理に関するネタが多いのですが、そのネタは同氏のエッセイの影響もあってのことで、僕個人をご存じの方ならお分かりだと思いますが、僕はどちらかと言えば、「食」と縁遠い人間であって、まあ、でも牛肉のハナシなんです。東海林氏がエッセイの中で「和田金」というのを紹介されていました。松阪牛の名店、「和田金」。ビルが丸ごと牛肉レストランときたもんだ。もちろん、僕は行ったことはありません。ただ、氏のエッセイにおいてまあ、えらく高級だという印象だけがあった。すき焼きが有名だということですが、サーロイン・ステーキを食べると、15,000円(200g)。すげぇな・・・。 ところが、それをはるかに超える高級な牛肉がある。 大田原牛。最近はテレビなんかでもよく扱われ、かなり有名になって参りましたが、コレはとんでもない。 もちろん、僕は口にしたことがありませんが、その直営店がある。東京は麻布十番「大田原 牛超」。 さて、ここから本題です。 「21万円あったら、どうしますか?」「なんのこっちゃ」という方はお店のHPを見てください。 ←こちら たとえば、ステーキを食べようと思う。最も安い「もも肉」のステーキでも「極上ラウンドステーキ」という名前で、160gで4,400円。まあでもこのくらいなら、自分へのご褒美として食べてもよいかも。 しかし、これは「最も安いメニュー」です。レベルが上がっていくにつれ、金額も上がっていく。5つめで金額は10,000円を超える。 ここからがものすごい。6段階目の「吟撰ステーキ」で20,000円。7段階目で30,000円。8段階目で50,000円。9段階目で75,000円。…。 11段階目「別格大田原牛超吟撰BMS12」というステーキでお値段157,500円。 そして、最高ランクの「貴腐」っていうヤツ。お値段なんと210,000円。 ケタを間違えないでくださいね。21万円です。牛丸ごとの値段ではありません。ステーキです。ステーキの値段です。すごすぎます。 おまけに「このランクの牛肉は脂肪分が大変高いので体調が悪いときにはご遠慮ください」との注意書きがある。体調万全のときのみに食べることを許される21万円のステーキって、どんなんだ?その辺のファミレスでステーキを食べたら、どんなにがんばったって、2000円くらいだろう。 ややこしくなるので、ファミレスはおいておいて、さて、手元に21万円あるとします。そして、このお店に行くとします。さあ、何を頼みましょう。最高級品を頼めば、至極の体験はできるだろうが、1回こっきり。最も低いランクの4,400円のを頼めば、50回近く通えることになる。(すげーな、この店)要するに、そこそこのレベルを何度も楽しむか、1回だけだとしても、これ以上はないというレベルを体験するか。究極の選択です。だいたい、15万円のヤツと21万円のヤツ、レベル的には1段階しか違わないのだが、6万円もの差がそこにあるのだろうか。もう、僕にはわかりません。 でも、きっと僕はその6万円分の差はわからないだろうから、おそらく「最高レベル」は頼まないでしょう。かと言って、最低ランクでもどうかと思うので、そうだなぁ・・・。たぶん、1万円のヤツを20回か、2万円のヤツ、10回でしょうね。 この観点はたとえば、ギターを買うについて、「19,800円のギターを10本買うのと20万円のを1本買うのと、どっちがいい」、というのとは、少しワケが違う。ギターなら、少なくとも数年間の間はその差を感じることになるからだ。 でも、ステーキだ。 せいぜい数十分だ。 ・・・コレ、いったいなんの記事だ? ただ、本当に驚くべきは、この21万円ステーキが存在するということは確実に、それを食べる人がいるということだ。そして、そういう人は、たとえば僕のような大衆が手を出さないことを考えれば、おそらく何度も注文する、リピーターであると推理できる。21万円ステーキを何度も食べている階層。実際、いるんです。なんだかわからないけど、とんでもない資産というか、よくわからないレベルのお金をお持ちの方々。不思議なことに、自分が「そうなりたい」とは思わない。なんか、住む世界が完全に異なっていて、目指す対象にすらならない。その世界をのぞいてみたいとも思わない。結論。たぶん僕は、一生21万円ステーキを食べない。 ・・・コレ、結局は貧乏人のひがみなのかしらん?Kama
2008.05.21
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先日、「イキ」について書いたところ、がっきー塾長さんから、酒の肴に関するコメントをいただきました。肴(さかな)。これについては、こんなハナシがある。元々は「酒菜」で「さかな」であった。酒を呑むときの、おつまみとしての食べ物、それを「酒菜」と呼んだ。したがって、「酒菜」は「魚」でなくてもよく、それこそ、そばつゆだって、立派な酒菜になりえる。また、「酒菜」としてよく用いられることから「魚」(さかな)と呼ばれるようになったとの説もある。これに対して、ちゃんとした食事の料理、いわゆる「おかず」を「真菜」(まな)と呼んだ。そこで、食事のおかずを料理するための板が「真菜板」(まないた)となった。・・・まあ、僕は専門の料理研究家ではありませんので若干の誤りが混ざっている可能性はありますが、ご勘弁を。ただ、ウィキペディアでも似たようなことが書かれていたのでおそらく有力な説であると思います。いや、この漢字の当て方、やっぱり粋ですね。と思っていたら、今度はよろどう先生から「山車」というネタをいただいた。どうも、漢字との関わりの多い数日です。「山車」は、お祭りなどのときにお囃子なんかを乗せて練り歩く、大きな台車のようなもんで人が引っ張る。「だし」と読みます。「山車」はどう転んだって「だし」と読みっこなく、山が「だ」で、車が「し」で、ということもなく、全体として「だし」と読むのですが、こういうのを「熟字訓」といいますね。たとえば、「足袋」とか「雪崩」とかもそうです。ほかには、「案山子」とか「土筆」、「梅雨」、「流石」、「欠伸」、「浴衣」、「団扇」、「心太」・・・突 然暴 走甘いもの以外に、苦手な食べ物がある。甘いものは、大人になってから苦手になったが、こっちは子どもの頃から、もうまったくダメで、筋金入りの苦手である。細くて、長くて、ツルツルした、透明の食べ物。ダメである。春雨、ダメ。糸こん、ダメ。白滝、ダメ。マロニー、ダメ。不思議なことに、どれか一つの要素が落ちれば、むしろ好きな食べ物に転じる。「透明」を除くと、ラーメン、そば、そうめんなど、むしろ好物になる。「細い」と「透明」をのぞいたおでんなんかの普通のコンニャクは、それはそれで、食べる。「長い」をのぞいたゼリーもまあ、食べられる。細くて、長くて、ツルツルした、透明の食べ物4つ揃うと、いきなり苦手になる。5人そろってゴレンジャーじゃないけど、4人そろうと、僕にとってはアクエリオンかバトルフィーバー並みの手ごわさになる。しかし、たとえばウチの夏期勉強合宿では「食事は残さず全部食べる」というルールを設けてあって、生徒にそれを強要する手前、自分がそれをしないわけにはいかないから、まあ、えらく高い確率でマロニー・アクエリオンが登場するのだが、がんばって、食べる。だが、仮に合宿で出たら、塾長に頭を下げて、泣いてでも勘弁してもらいたい最強の敵がいる。 ところてん、だ。細くて長くてツルツルしてて透明で・・・そして、すっぱい。 だいたい、「細くて長くて~」の食べ物は何がしたいのかわからない。噛んだところで、歯ざわりは面白くもなんともないし、味もないし、また、しみこまないし、鍋の中にこっそり隠れてると、透明だから気付かずに不意打ちするし、のどごしも悪く、うっかり飲み込むと吐きそうになるし。迷惑千万だ。じゃあ、彼らがいなかったら困るのかといえば、僕は、まったく困らないわけで、たとえば、カロリーゼロとかいって、さも、健康食品のように言われているが、ゼロカロリーだったら食べるこたぁ、ない。だいたい、姿が透明の時点で、もう存在しなくていいようなもんだし、ズルイのだ。なんだ、春雨、白滝って。カッコつけた名前を名乗ったって、しょせんコンニャクとかデンプンとかじゃないか。デンプンなんて、理科で頑張ってればいいんだ。田舎出身の日本人バンドマンがキースとかジョーとか、かっこつけて名乗ってるのと同じだ。 そして、ところてん。 アレ、デザートなんですよね? なんで、デザートのくせして、強烈な酢の匂いを発するのだ。 そう、僕は、酢の物もあんまり得意ではないのだ。だから、最悪だ。 ところてんをお店で見るだけでゾッとする。ガラスの器に入っている写真を見ると、ゾッとする。「ところさんの目がてん」を見ると、ゾッとする。(↑ウソです) さらに、西の方に行くと、ところてんは、必殺技を繰り出しやがる。西の方では黒蜜をかけて食べる。 地獄だ。もう、地獄絵図だ。細くて長くてツルツルして透明なヤツが和風に甘いときたもんだ。書いてるだけで、泣きそうになってきた。助けてくれ。 「細くて長くて透明ツルツル」が苦手な理由は自分でも分かりません。とにかく、飲み込めない。が、ひょっとしたら・・・と思い当たることもある。 アレに似てるんです。ヒキガエルのタマゴ。小学生のころ、同じクラスの子がドブ川をあさって、ヒキガエルのタマゴをごっそりとってきた。細くて長くて透明でツルツルしたその物体の中にやがておたまじゃくしになるであろう黒いぶつぶつが入ってる。孵化まで見届けたわけではないが、そのタマゴは、「卵」というにはあまりに「卵」らしくなく、そこからうじゃうじゃ生まれてくるであろうオタマはやがてうじゃうじゃのヒキガエルたちになるわけで、もう、不気味で気持ち悪くてしょうがなかった。 それは、春雨やところてんと、同質の物体に見えたのである。なんなら、ここにヒキガエルのタマゴの写真をのっけようかとも思いましたが、もうすでに「なんてことを書いてくれた! おかげで春雨が食えなくなったじゃないか!」という方もいらっしゃるかもしれなくて、そこにさらに追い討ちをかけるように写真を出したら、僕の命が危ない。だから、出さない。けど、どうしても見たい人のために、一応、リンクを貼っておきます。 それが理由かどうか分かりませんが、とにかく、細くて長くて透明なツルツルは、いらんだろう。 ところてんつきだけは、やってみたいけど。 でも、実際にやるとなると、おしりの方から「うにゅうにゅうにゅ」って出てくる、カエルのタマゴ的なところてんを見て、余計、げーってなるんだろうな。Kama
2008.05.20
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さて、変わらず中間テスト対策で国語指導をしております。同じ教科書をお使いの方はわかると思うのですが、今、3年生がやっている小説の中にプレーン・オムレツが登場する。さすがにオムレツを知らない子はほとんどいないが、それでも、オムライスとの違いがわからない子は、いる。だから僕は面白がって(←タチが悪い…)生徒に聞くのです。 「オムライスは、どこの国の料理だ?」 まあ、色々出てきます。イギリス、アメリカ、ポルトガル・・・オムレツ発祥のフランスと答える子はあまりいない。 「オム」はフランス語で卵の意だし、「ライス」は英語。そのあたりを考えれば、どこの国のものかは、おのずと分かってくる。また、そういう質問を発する僕のことを分かっている生徒は「どうせ『鎌田』だから・・・」と答えを読んでくる。 オムライス。もちろん、日本の料理です。 せっかく銀座で働いていたのだから一度くらいは「タンポポ・オムライス」を食べておけばよかった。「彼」なんかは「今から行けばいいじゃないですか」というが、さすがにそこまでして食べたいとは思わない。 さて、プレーン・オムレツだが、これもアヤシイので「どんなオムレツだ?」と聞いてみる。 すると、そこそこの人数の子が(・・・それと、若干1名の「彼」が・・・)答えた。「アレでしょ、紫のブドウみたいのが入ってるんでしょ」 ・・・それは、プルーンだ。考えてもみろ、そんなものが卵に混ざってて、おいしいと思うかね? プレーン・オムレツは、特に具材を加えず卵のみを焼き上げたものだが、たとえば、プレーン・ヨーグルトなんてのもあるから割とイメージがつきやすいものだと思っていた。もう、彼らにプレーンという言葉は通じないようだ。 同じ小説に「十戒」という言葉が登場する。そこで、モーゼの十戒の話をしてみると・・・。もちろん、知らない。 「ドラえもん」かなんかの漫画に出てきたから僕は小学生のころには、すでになんとなくの話は知っていて、その後、筒井康隆氏が「乱調文学大辞典」の中で「海開き」という言葉を「モーゼが開いた日」としているのを読んでおもしろおかしく思ったものだが、当然、今の子たちには、何が面白いのかさっぱりわからない。 さらに、その小説の前の詩において「りんご」が登場するのであるが、そして、いろいろな問題集において、この「りんご」を原始的なもの、根源的なものと解釈する考え方があるのだが、アダムとイブの話をしてもやはり、知らない。エヴァンゲリオンの「エヴァ」が「イブ」のことであると言うとようやく「へぇ~」って、言う。 なんていいましょう、大変ハナシが通じにくくなってきました。 十戒だの、エデンの園だの、プレーンオムレツだの、そんなのを知ってる小中学生はオマエくらいだ、と思われるのでしょうか。ただ、おそらく、僕のそういう知識は、マンガから得たものだと思うのです。で、マンガからの知識というのは今の子たちも、やはり多く有している。歴史の教科書にも登場しない前田慶次という名前を知っている子が多いのもマンガとかゲームとかの影響であろう。とすると、ここからひとつの可能性が導かれる。 最近のマンガ、あまり、教養的でない?マンガが教養的であるということ自体に矛盾というかジレンマを含んでいるのかも知れませんが、僕は、自分の経験から、マンガは教養の教科書であると思っている。 あるいは・・・。最近の子は、マンガすら読まない?・・・そうですね、おそらくこちらの方が実態に近い気がします。実は僕は、今も数冊のマンガ雑誌を読むのですが、そこにおける教養度はそれほど低くない。うーん、コレが「本離れ」の本質だなぁ。つまり、国語が苦手、言葉を知らないという子に対して「本を読めばいい」とは、多くの大人が言うことであるが、それが苦手な子に対しては「はじめはマンガでもいい」とも言う。しかし、そもそも彼らにとっては活字のみの本であろうが絵が中心のマンガであろうが、大差ないのかもしれない。本という形式自体が拒否される対象なのか。となると、「字ばっかりの本がキライな子は、マンガを読めばいい」という言説もナンセンスであるということになる。う~ん、どうすりゃいいんだ?Kama
2008.05.20
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さて、定期テスト対策である。愛夢舎は通常時、13:30から。だが、テスト2週間前ともなると、そんな悠長なことは言っていられない、午前10時から夜10時まで生徒指導にあたれる時間をつくっている。もっとも、部活動がある生徒もいるので、必ずしも全員が午前中から勉強しにこれるわけではないが、しかし、中には文字通り午前10時から午後10時まで塾にいっぱなしの子もいて、こうして月間100時間超の在塾時間は作られる。 さて、僕は普段、英語、数学、国語、社会を教えているが、テスト対策に関しては、もっぱら国語を担当する。で、今日の授業に先んじて、課題を出しておいた。学校教科書準拠のワークである。数学の採点は、生徒本人にやらせることもあるが、国語については、極力、僕自身がすることにしている。そうでないと、正解・不正解の基準がよくわかっていない生徒は模範解答とちょっとでも違うと、バツをつけてしまうからだ。それに、漢字の書き取りなんかも自分で採点すると、実は違っているのに正しいと思いこんでいるもんだから線や点が一本多かったり少なかったりしても彼らはマルをつけてしまう。思い込みの誤りを修正するには第三者の力が必要だ。 中学3年生は、そろそろ「敬語」を学習する。ある中学校では、この中間テストの範囲に「敬語」が含まれた。もっとも、テスト5日前だというのに学校ではまだ殆ど教わっていないらしくだから今日、僕が考え方を教えた。 で、練習ということでいくつかの言葉を敬語に直す問題をやってみた。 こんな問題があった。 「『品物』を謙譲語に直しなさい。」 その生徒は、だから、学校ではほとんど習っていないわけで、日常で聞いたことのある言葉をあてはめてみては「それでいいんだよ」とか「それはこっちだね」とかそういうやりとりを僕としていたのであるが、たとえば「弊社」とか「愚息」とか、そういう名詞自体が謙譲語になっている例は中学生になじみがないので実はその10分ほど前に「粗品」と黒板に書いて布石を打っておいた。 生徒が書いた答え。 『景品』。さあ、これをどう評価します? 別の例ですが、同じく、新しい範囲のプリントをやっている生徒がいて、新出漢字の読みの問題があった。 「『果汁』の読み方を答えなさい。」 解答。 「かじる」。 どうでしょう? ひょとすると、これをおもしろおかしい誤答の例として笑っていらっしゃるかも知れませんね。 しかし、僕がこれを記事にしたのは、まったく別の意図でございまして・・・。つまり、僕は、この誤答を大変高く評価しています。 「敬語」の生徒は、ろくすっぽ、敬語のなんたるかを教わっていなかったわけです。「かじる」の生徒も、自信はないけど、こうかも知れないと思って書いたはず。この姿勢が、とっても尊いと思うのです。 間違いを極端に恐れる子は100%正しいと自信のあること以外、「ひょっとしたらこうかも・・・」という問いには答えようとしない。「わかりません」と言ってしまう。 そりゃ、わからないものはわからないのだから、それも正しい姿勢のひとつかも知れませんが、でも、これまでの経験知から「ひょっとして・・・」と思って、答えてみる。 結果として間違っていたとしてもそのことによって、正しい知識は深く彼らにインプットされるはず。 だから、僕が国語の指導をするときに必ず言うのはむしろ、正解ばっかりの方がこわい。たまたま正解だったかも知れないから。だったら、どんどん間違った方がいい。考え方の確認、修正ができるから。ということ。 まあしかし、小中学生にとっては、バツがつくのは、やっぱりイヤなもんですよね。 そこで、大人の登場となる。 バツは素晴らしいことだと教えなければならない。こと国語の読解問題においてはそもそも絶対的な正解など、存在しないわけですよ。通例的な答えがあるというだけ。模範解答と違う答えを書いたとき彼らが真剣に考えた結果であるならばそれは僕ら大人の考えの及ばなかった大変オリジナリティーあふれる思考の結果かもしれない。もっとも、テストでは通例的な答えを書かないとマルはもらえないのでその答え方も覚えてほしい。だからこそ、キミの意見は、問題上はバツだけど、素晴らしい。その上で、よい点をとるために、こっちの答えも覚えておこう、という姿勢を、僕はとるのです。 いや、実際問題、作文を「自信がないから書かなかった」と白紙で出されてしまうと、これは添削のしようがないわけです。そういう子には、結局入試直前で、マニュアル的な書き方を教えることになる。それである程度の点数はとれますがでも、それは彼・彼女自身の考えではない。ゆえに、そういう指導せざるをえないとき、正直僕は、むなしさを感じる。 だから僕は「景品」も「かじる」も高く評価したいのです。十数年間の日常から彼らがひっぱりだした、彼らなりの一生懸命の答えだから。無論、今となっては「景品」の子は「粗品」という正解を、「かじる」の子は「かじゅう」という正解を知った。 はたして「分かりません」と言ったとしたら、先生が一方的に正解を教えたとしたら、その正解は彼らの身になったであろうか。 そこで、肝心なのは彼らが一所懸命考えて、考えた結果をきちんと表現できるそんな環境を作ることだと思う。「間違ったら怒られるかも・・・」という恐怖心の中ではなかなか言えませんよね。 だから僕はこれからも「間違い」をどんどん評価していきたいと思います。・・・思いつきで言ったいい加減な答えは、ぶっつぶしますが。Kama
2008.05.19
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定期テスト対策が本格化してきた今日・・・ 英語で「只管朗読」をやらせているせいか、教科書の内容、重要表現などはバッチリ! あらためて「只管朗読」のすごさに驚いています。しかし・・・・・ 学校の教科書内容は余裕になってくれましたが、同時に見えないところでマイナスも・・・レギュラーテキストの「文法」で手を抜いている奴らが若干出てきたかも・・・バランスよくやって欲しいんだけど・・・(選抜クラスの文法レベルは学校の教科書では出てきません。サンシャインの「只管朗読」では対応できませんので、塾のレギュラーテキストで手を抜いてしまったら、難関校の合格はありえません) 特に中3は「現在完了」「不定詞・動名詞」の理解度確認テスト1回目が不合格だったものは、早く再試を受けて合格してください! ジュクチョウ
2008.05.18
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中間テストまで、F中とMS中はあと6日、K中はあと12日! 先ほど鎌田先生がこのブログでも書いたように、 今日・明日の土日と、来週の土日は午前10時から自習室オープン!もちろん、土日以外も午後1時半から自習室は使い放題だ。(こんな幸せなことないよね)学校帰りに寄って勉強していくことも大歓迎! ここで自習室を利用せずしてどこで利用する!?(もちろん受験生は定期テスト前だからどうだということでもないが・・・) 家庭学習できてる生徒はいいよ。でも、「課題」が出てこないぞ!課題をやっていない生徒には、田中大先生が呼出をかけさせていただきます。先生の前で課題をやっていただきましょう! M中の生徒は中間テストがないからといって、のんびりしてちゃダメだぞ!いくらでもやることはあるんだからね。(ゼミの宿題、理解度確認テストの再テスト、レギュラーテキストの宿題、暗唱テスト~只管朗読を進める、数学ワーク、国盗国語・・・)期末で泣かないようにね! ジュクチョウ
2008.05.17
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本日、愛夢舎は午前10時より、自習室を開放しております。 中間テストが近いためです。 講師陣は、みんなの質問に答えるべく、準備万端、待機中でございます いい天気だ。 寝ているそこのキミ、とっとと起きて、とっとと勉強しに来なさーい。夜10時までやってます。 明日も10時オープンです。 来週末、24日(土)、25日(日)も10時オープンです。 中間テストのないM中学の生徒も、高校生も、「流れ」にのっかって、勉強しなさーい。 ・・・寝てる子には、聞こえんか・・・
2008.05.17
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木曜日は、僕はオフをいただいている。この仕事は、夜中まで職場にいるもんで、大変そうだと思われがちだが、実際には出勤時刻が遅く、午前中の大半は寝ていられるから、よほど「9to5」の会社勤めの人の方が大変だと思う。僕自身、以前は銀座まで1時間半かけて、ラッシュの電車で通っていたが、結局帰る時刻は夜中だったので、あの頃の方が時間的拘束は大きかった。で、オフ日は、なおさら起きる時間が遅くなるのだが、今日は結構早く起きた。というのも、↓コイツが届くことになっていたからだ。電子ピアノ。一人暮らしをはじめて苦節15年。ようやく自分の部屋にピアノを置くことができました。キーボードを置いていた時期もあるけれど、キーボードとピアノは、僕にとってはまったく別の楽器。まあそれを言ったら、生ピアノとデジタルピアノも別モノですが「生」が置けない以上、電子で妥協するしかない。しかし、電子といえども、技術の進化はすごいもんで、生に結構近い。楽器屋で2時間近く試奏して選んだのですが、僕は液晶画面とかいろいろな機能は一切必要なく、そのかわり、タッチができるだけ生に近いものを店員さんに紹介してもらったので、見た目はご覧のとおり、すっきり。一人暮らしなので、結局大音量は出せないから、ヘッドホンをつけて弾くことになる。でも、その音ときたら、生よりいいのではないかってくらい。これで、毎日毎日、ピアノにむかうことになるなぁ。うれしー。 ところで、ピアノについて、昔からフシギに思っていたことがある。 どうして鍵盤の数は88なのだろう。 正確に言うと、どうしてもっと鍵盤の数を増やしたモデルがないのだろう。 「また鎌田がバカなことを言い出した」とお思いかも知れません。でもですね、ピアノなんてものすごく長い歴史をもつ楽器なわけですよ。その歴史の中で、たとえば100鍵モデルとか、どどーんと豪華に「ダブル・ピアノ」とか言って88×2の176鍵モデルとか、あったっていいじゃないか。いや、むしろ、どうしてそういうのを作った人がいないのだろう。まあ、厳密には「作った人」はいたかも知れませんね。ただ「市民権」を得ていないだけで。でも僕は、88より多い鍵盤数のピアノは見たことがない。 ああ、先に断っておきますと別にそういうオバケピアノがほしいわけじゃないですよ88あれば、まあ大抵十分だから。ただ、フシギだな、と。だって、他の楽器はいろいろと改良されてきたわけですよ。たとえばですね・・・。これは僕が所有しているギターとベースですが、右のヤマハのベースは6弦、左のアイバニーズのギターは7弦。普通はギター6弦、ベース4弦だから、それぞれ数本多いことになる。でも、昔は珍しがられましたが、最近では5弦ベースを使うミュージシャンが多く、7弦ギターもそんなに特殊ではない。でも、176鍵ピアノは、相当めずらしい。っていうか、ない。なんか技術的にできない理由でもあるのかしらん。 ところで、なんで僕が6弦ベースとか7弦ギターとか、あんまり普通の人が持たない楽器を使うかというと、それはこう考えているからです。大は小をかねる。…そんなに改まって書くほどのことでもないですね実際、4弦の普通のベースを使うと、「ここで、あとちょいと低い音がほしいのに・・・」ってことが多い。6弦ベースを使ったからといって、どんな曲でも多い弦を使うわけではないけれども、弦が多くて困ることはない。6本あるからといって、いつでも6本使わなければいけないわけではない。でも、使いたいときになければ、どうにもならない。だから、こと楽器については、カバーできる音域は広ければ広いほど、よいと思っている。以前、有名なベーシストであるK.Y氏が、4本の弦のうちでも特に低音側の2本だけでボンボンと、渋く一定の音だけを鳴らす美学を語る中で、「5弦とか、6弦ベースを使ってがちゃがちゃやるヤツは大っキライ」って言ってたけど、じゃあしょうがない、僕は嫌われてもいいや、としか思わない。昨日の「わび・さび」にも通じるが「できる」のと「やる」のはイコールではない。「できる」けど「やらない」こともあるし、「できない」けど「やる」のは不可能。僕は「できる」状態であった方がいいと思うのだけど、どうですか?ドラムでもそうだ。「どうせ使わないんだから」と最小限のセットを組むより、ここぞという時に使えるように、例えば、バスドラ4つ、タム10個、シンバル20枚くらいあってほしい。当然、スネアも3つくらいあってほしい。背面にはシモンズの電子パッドが一面広がっていてほしい。バカかと思われるかも知れませんが、一時期のビル・ブラッフォードは、それに近いセットでやっていた。(彼は、無理やりにでも、全部使ってたけど) 正直、6弦ベースでも、足りないくらいだ。だから、いつか手に入れようと思っている楽器がこれだ。チャップマンスティック。これは12弦ある。これ一本で、ギターとベースの音域をカバーできる。すごいじゃないですか。でも、コレ、今となっては完全受注生産のようで、日本の取引業者は1つ、本国アメリカに注文して、手に入るのが何年先になるかわからないという。当然、値段も高い。だから、もうどうでもいいや、と思っていたら、これを上回るステキな楽器があった。コヤブボード。これは日本のメーカーが作っている。だから、値段もそんなに張らない。そして、チャップマンスティックを上回る演奏性だとその会社の人は言っている。これも、12弦。いやー、これには飛びつきそうです。でも、こんなのを持って愛夢舎バンドライブに出たら、バンド、クビになるかも・・・。 思うんですけどね、こういう、次から次に新しいものを開発しようという姿勢、僕は大好きなんですが、その一方で先のK.Y氏のように「これはこうあるべきだ!」とかたくなにそれを守る姿勢もある。保守と革新とでもいいましょうか。で、それはどちらも必要であるな、と思う。たとえば、明治維新の頃の日本はどちらかといえば、革新ブームで次から次へと「西洋」を取り入れていったわけだがそれでも「旧き良き日本」は残すべきで残ってよかったと本当に思うし福沢諭吉なんかは「和魂洋才」という言葉で、それを訴えたわけだけど、正直、もう少し「和魂」が強くてもいいと思う。ピアノの鍵盤数が増えないのは保守的な考えが強い世界であるからで、これについては、もう少し革新の部分があってもいいのかな、と思う。僕らは授業でチョークを用いるのだが、日々の授業の中で僕は常に新しい技術を考えようとしている。チョークテクニックだ。チョークでココココココッと点線を書くと、初めて見る生徒は「おおっ!」と感心する。そんな大したワザではないが、僕が左手で3色のチョークを持って、なおかつ右手でもう1本持ってると、「プロみたい・・・」って感心される。いや、プロです。もっと若い頃はくるくるチョークを回したりもしていた。でも、未だにマネができないのはウチの塾長のカカカカカッていう、一点集中高速連打。アレはすごい。日々革新を求めて、努力しております。 …未だチョークの時点でいつまでたってもホワイトボードに移行しないあたり、保守だっていうハナシもありますが。オチを読まれてしまったようで・・・。Kama
2008.05.15
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「彼」の国語を指導している。指導といっても、好き勝手をしゃべっているだけだが、「彼」は色々と吸収してくれようとしてくれるし、僕の思わなかったような切り口で意見を述べたり、なんとか僕を論破しようとつっかかってくるので、面白い。基本的に古文をみることが多いのだが、今日は現代文について、彼と話した。 彼の解いた評論文に「侘び・さび」について書かれていた。そしたら彼は聞いてくる。 「わび、さび、ってなんですかね?」 そんなこと、答えられるわけがない。「わび」とは、「粗末、質素」の意であって、「さび」は、長い時間を経過して、古びたものであるが、そういうことでなく、なぜそれが「良い」のか。そんなことは、日本人の遺伝子というか細胞というか、そういうものが反応しているわけで、なぜそれを良いと感じるかを研究するだけで、あらゆる領域の学問に手を出すはめになる。また、同じ評論文に「香木」という語が出てきて、彼は香道を知らなかったもんだから、「道」(どう)についても僕の意見を述べた。「道」といって、真っ先に思いつくのは「剣道」であろう。僕は剣道の経験はないが、理解が間違っていなければ、剣道は、相手を剣で斬ることを目的としない。あらゆる「道」はそうだ。「柔道」は、人を投げることを目的としない。「空手道」も、人を殴らない。のどがかわいて、お茶を飲みたいなら、「茶道」の作法はまったくムダだ。 これは極論かもしれないが、日本人にとっての「道」(どう)は、いかに実利に直結せず、ムダを楽しむかという点がキモであるように感じる。そこが、西洋の合理(功利)主義と異なるところだ。 香道にしたってそうだ。彼ははじめ、アロマテラピーを想起したようだが少し違うと思う。リラックスを実利的に求めるのであれば、香木があれほど高価であるのは理屈にあわない。実利を超えたところの美的感覚が、日本人にとっての「道」であると言ったら言いすぎだろうか。 大体において、日本人の美的感覚は、少々ひねくれている。 たとえば、お月見の十五夜。アレ、満月ではないわけですよ。「完璧は美しくない」ので、微妙に完全な円ではない月を愛でる。短歌や俳句などをみればわかるが、月なんかは雲で隠れているのがより美しいとされる。隠されることで、実際をはるかに超えた美を想起できる。「せぬがよし」の思想だ。 そして、話題は「粋」に至った。江戸っ子が「おっ!イキだねぇ~」という、アレである。 じゃあ、イキってなんだって彼が言うもんだから、僕は待ってましたとばかりに答えた。 「天抜き」こそ、イキである、と。当然、彼は「天抜き」を知らなかった。これをお読みの方も、知らない方が多いかも知れない。たとえば、真っ昼間に「そば屋」に行く。そして、酒を飲む。そば屋だから、そばに使う食材、かまぼことか海苔とか、そういうものがおつまみになる。こういうのをツマミに、ひとりでチビチビ、やる。これが、「粋」だ。いや、僕の価値基準ではないですよそう言われてるんです。 で、さらにそれをつきつめていくと「天抜き」に行き着く。 「天抜き」。 それは、「天ぷらそばの『そば抜き』」である。お酒のツマミとして、ドンブリにつがれた「そばつゆ」と、そこに半身をひたす天ぷら。で、その天ぷらをいじり、はむはむし、たまにはずずっと「つゆ」を口にし、酒を飲む。そば屋に行って、そばを食わない。 実にイキじゃないですかぁ~。このムダさ加減、わび・さびに通じるものがあると思うんですが、どうですか? しかし彼は、どうも納得いかないらしい。そんなのおかしい、と。じゃあ、うなぎ屋に行って、「うなぎ抜きのうな重」を頼んだら、イキか、と。うーん、ちょっと違う気がするなぁ。 ただ、このムダさ加減、僕は、わかる気がするわけです。ムダと言っちゃあいかんですね。「心の余裕」とでも言いましょうか。そういうのが「イキ」かと。僕にとって、そば屋で、そばを頼まない一杯、天抜きで一杯は、イキなんですけどねー。 でも、確かにどういうのがイキで、どういうのがイキでないのか、難しい。 「ラーメン屋で、ラーメン頼まず、餃子を食う」…イキじゃない。 「寿司屋で、ネタなしのシャリを食う」…イキじゃない。 「カレーなしのカレーライス」…イキじゃない。 「味噌なしの味噌汁」…イキだっ!(↑スイマセン、ウソです) アレ、そう考えると、イキって、結構難しいなまあしかし、このムダさ加減、日本人ならではだと思うのです。こういうことに面白さ、美しさ、楽しさを味わえる文化って、素晴らしいなと思う。「巨大であればそれでよいピザ」を食ってるアメリカ人にはわからんだろうな。 が、日本にも・・・いや、入間にも、某大型スーパーができて、巨大ピザが席巻しつつある。 もっと「イキ」に行きましょう!・・・ってハナシでした。Kama
2008.05.14
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「天井までの本棚」に嬉々としている鎌田です、こんばんは。…と書くと、さぞかし「本の虫」であるのだろうと思われるかもしれませんね。 まあ、それなりには読んでいるのかも知れませんが、実際のところ、僕はそれほどの読書家ではない。いわゆる「乱読」はしません。いや、できません。つまりですねぇ、読む本の範囲が結構せまい。小説は、気に入った作家に限られるし、専門書などのカタい本も、ある範囲に限られる。まあ、文系・理系問わず、たとえば今読んでるのは、相対性理論についての本だったりするので、必ずしも哲学系に限られるのではないのですが、それでも「本当の読書家」の方に比べれば、到底「読書が好き」と言えないほど、狭いと思う。そして、国語の先生としてどうかと思われかねないのが・・・。僕は、純文学がキライ。純文学は、読めない。 一昨日、そんな話を「彼」としていた。「小説だったら、僕は大衆小説しか読めないんだよね~」と。すると「彼」は言った。「なんすか、純文学って。」おお、そうか、この世代だと通じないんだな。僕はその場で、文学史の即興授業を始めたのであった。たとえばウィキペディアでみると、純文学とは「商業性よりも芸術性、形式に重きを置いているとされる小説の総称」とある。もっとも、その境目はかなりあいまいで、僕の理解としては芥川賞の対象となるのが純文学、直木賞の対象が大衆小説。これ、間違ってますかね?で、文学史について坪内逍遥からはじまって、島崎藤村、田山花袋、芥川、太宰、志賀直哉など、いろいろと紹介したわけです。 僕が純文学を読めない理由は「メリハリ」というか「盛り上がり」というか、そういうのがあまりないからだと思う。わかりやすく言うと、ドキドキハラハラがないからだと思う。 「純文学なんだから、ドキハラがあるわけはない。」お好きな方はそうおっしゃるでしょう。でも、僕は小説に、そういうものを求めてしまう。 高校1年生は、たいていどこの学校でも「羅生門」を読む。アレ、僕、やっぱりダメなんです。これ、結局、オチはなんなんだ、って思ってしまう。どこがクライマックスなんだ、って思ってしまう。・・・だから、純文学なので、オチとかクライマックスとか、そういうのはないのです。でも、よくわからない、淡々とした文章がすーっと終ってしまうと、「ええっ~~~~?!それで終わりぃ~~~?!」って思ってしまう。 しょうがないじゃないですか、面白く思えないなんだから。思いもしないのに、「いやぁ、素晴らしいですね~」とは僕は言えない。だから、オマエは文学のなんたるかを分かっていないって言われれば、「ハイ、スイマセン、わかっておりませーん」と謝るしかない。実際、おもしろ楽しく、純文学を読める人はスゴイと思います。かつて、教え子に「鴎外が好き」と言う中学生がいた。・・・とんでもねぇ。 だから、僕はそんなに大した読書家ではないわけです。最近読んでる本の大半は、あまりアタマを使わずに読めるエッセイが大半だし。でも、この職業柄、キライだからといって知識がないのはどうかと思うので、有名な作品は純文学だろうがなんだろうが、一応読んでおこうと、トライはしてきたんですよ。・・・で毎回、がっかりする・・・。 ただ、この点では「彼」も「分かる」と言ってくれたのですが、「伊豆の踊り子」。このがっかりさ加減は、みなさんもお分かりいただきたい。あれほどのシチュエーションで、結局何もなしかよっ!って、さまぁーず三村並のつっこみをしたい。「名作」って、僕にはよくわからない。 そんな話をして、その一方、さくらももこのエッセイが好きだと言うと、結構驚かれる。僕はどちらかというと、「さくらももこなんて、くだらない、川端、三島は素晴らしい」とか言いそうにみられるようです。そんなことはないんですけどねー。Kama
2008.05.13
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ようやく引っ越しが完了しました。前の部屋を完全に引き払い、転居手続も済んだ。(市内から市内への移動なので、簡単です♪)で、自分のことながら、少しかわいらしいと思ってしまうのですが、引っ越しの過程で、僕の昔からの小さな夢が叶いました。 本棚。本棚を持つことに、幼い頃から憧れていた。…いや、本棚を持っていなかったわけではないですよ。僕もそれなりに読書をするので、どんどん本が増えるもんで、今まで何回か部屋を移りましたが必ず本棚はあった。 じゃあ、夢の本棚って何かというと・・・。 天井までびっしりの本棚です。幅1.5メートル、高さは、だから床から天井までびっしりのそんな本棚。そういう本棚がほしかった。 いや、買おうと思えば、いつでも買えたと思うけど、今までのような狭い部屋でそんなものを置いたら、僕は立って寝なければならなかった。 今回は、「清水ダイブ引っ越し」で、本棚についても「えいっ!」って「夢」を買った。新居のリビングには、幅こそそんなにないけど、図書館ばりの本棚が鎮座している。 本棚に憧れるって、やっぱり変ですよね。きっかけはなんだろう。むかーし、テレビでやってた世界名作劇場的な番組で「クオレ」ってのがあって、その中で、主人公クオレの知り合いだか友達だかが自分の部屋を図書館的にしていて、本が大好きだった僕と姉は、なんだか「自分の部屋が図書館」に憧れて、図書館ごっこをしたりした。(意味もなく、自分たちの本に貸出カードをつけたりして)たぶん、そのあたりです。 床から天井まで本棚。見るだけで、壮観です。今までのかわいらしい本棚の、そうだな、2倍くらいの収容力はあるかな。 ところが、その本棚の3分の2以上は、もう埋まってしまった。そりゃ、いままでのじゃ収納しきれないわな。だから、前の部屋は、部屋中本だらけだったわけだ。 実は、一昨日設置したときには天井がやけに高くて、本棚が届かなかった。それで今日、材木を買ってきて、下に敷いて、晴れて「床から天井までびっしり」になったのです。そんな大した夢ではないけど、子どもの頃から「そんな本棚、あったらいいな・・・」と思っていたことに今さら気づきました。どうせしばらくしたら、この本棚もあふれてしまうのだろうけど、結構、うれしい。 あふれたらどうしようかな。 そうだな・・・。 残るは「壁一面、全部本棚」でしょうね、やっぱり。Kama
2008.05.11
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先日、ラジオの音楽番組に出演しました。 また、出演依頼がありました。 今度は「くらし経済塾」という番組です。(ちなみに、今度は生放送です) 私は経営者として番組に出ます。 前回は「ミュージシャン(?)」として・・・ 今度は「経営者」として・・・ いつになったら「教育者」として紹介されるの だろう・・・ ジュクチョウ
2008.05.11
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愛夢舎では、明日もイベントがあります。中学生を対象とした「勉強法セミナー」。そろそろ1学期中間テストです。愛夢舎では、レギュラー授業のほかに定期テスト前には対策授業を行います。(5教科×2時間=10時間)それに先んじて、1~2年生を対象に、「勉強の仕方」を教えるのです。特に1年生は、初めてのテストですから何点くらいとれるのか、どう準備すればよいのか、まったくわからない状態。しかし、初回のテストは、そこでとった得点が、次回以降の自分の目安となってしまうので、かなり重要。だから、僕らも万全の態勢を整えて、テストに挑むのです。もうひとつ。高校生対象の「進路選択セミナー」。これは僕が担当する。 高校1~2年生で、卒業後にどういう道に進むかを明確に決めている子はそんなにいない。中学生のときは、何も考えずとも「まあ、高校に行くんだろうな」という思いがあったけれどもその延長で高校生になっているから「まあ、何かするんだろうな」程度に考えている子が多いのだ。しかし、たとえば、いざ大学に進学しようと思ったとしてそれが高校3年生のこの時期に決まったとすればこれは到底、時間がたりない。だいたい、自発的に決まればよいが放っておくと、それこそ、自分が選んだのではない進路が、なんとなく決まっていたりする。そこで、明日のセミナーでは卒業後に考えられる進路をいろいろ紹介し、生徒たちに「考えるきっかけ」をつくりたいと思っている。 大学進学、専門学校進学、就職、留学ほか、高校卒業後の道としては、いろいろある。が、僕は、可能であるならば、絶対大学に進学すべきだと考える。それは、就職とか給料とか、そういう点でのメリットを考えた上でのことではない。 理由は大きく2つ。 1つは、大学でこそ、ようやく本当の勉強ができるから。勉強というのは、本来自分の興味のあることについて自らの好奇心・研究心を満足させるために自発的に行うものでそれは中学・高校ではなかなかできない。よく生徒たちに言うのですが、中高での学習は「勉強」ではなく「おべんきょう」だと思っています。大学で自分の知りたいことを存分に知るための準備。中高で学習するのはその内容が将来社会で役にたつからではなく、(役に立たないとは言いませんが)「脳ミソ」の使い方を練習するため。「脳ミソ」の使い方がなってない人は、大学で高度な研究をしようとしても到底ムリ。中高で練習するからこそ、大学での高等学問に対応できる脳ミソになる。だから、教科は関係ない。将来、英語を学ぶ気がないから、中高の英語をおろそかにするというのは違う。そもそも、中高の英語は「英語を学ぶための英語」ではない。理系志望の子も社会は勉強すべき。そうでなければ、広く深い教養は身に付かない。で、小中高12年間、「勉強」をする準備としての「おべんきょう」をしてきて、いよいよ楽しい楽しい「勉強」ができるというのにそれをしないのはもったいない。まるで、野球とかサッカーとかの選手が試合で活躍するためにひたすら筋トレをしてきて十分に筋肉をつけたところで満足しちゃって試合に出ないようなもんだ。ちなみに、この「脳ミソ」の使い方は、大学にいかずとも必要で、「脳ミソ」が使えない人は、社会に出てもうまくいかないと思ってる。いますよね、有名大学を卒業したわりに今一つ、という人。そういう人は、「知識」と「問題解答能力」は高いのかもしれないけれど、「脳ミソ」の使い方を知らない人だと僕は思っている。 大学進学をおすすめするもうひとつの理由。それは、大学生にだけ許されるヒマな時間があるから。中学生は、卒業した後の進路がある程度決定づけられている。高校進学率が97%なのだから、いくら「高校に行かなくともよい」と口で言っても、実際には高校は「行くもの」である。 が、大学生に、それは、ない。まあ、大半の学生が就職を志望するのだろうが、実は、大学を卒業する男子の3人の1人は就職を希望しない。 そういう選択肢もある。 大学生には、法的なしばりも大幅減る。(20歳をこえるから)およそのことに「大人」として加われる。海外にひと月くらい行こうと思って実際にそれができるのは大学生くらいだ。また、大学には全国から人が集まる。僕は東京の私立大出身だが、関西からやってきた連中の考え方によってだいぶん人格改造されたと思っている。車の免許をとったり、思いつきでふらりと貧乏旅行に出たりできるのも大学生ならでは。働き始めたら、なかなかそうはいかない。そして、その上で勉強については自分の興味あることをやるわけだから、大変面白い。 こんな素晴らしい環境がほかにあろうか。 まあ、大学に入ったはいいが、ロクに勉強せず、「遊ぶために大学に行った」と公言する輩もいて、僕はそういう人は、あまり好きではないがそれでも、そういう選択の仕方もあるわけだ。 つまり、およそのことについて自分自身が決定権を持つ。そんな環境はほかにない。なぜその環境がもてるのかといえば、それは、大学生が基本的に「ヒマ」だからだ。 ここでいう「ヒマ」は物理的、身体的なヒマでもある。僕なんかは、大学3年のときにはそんなにバンド活動も忙しくなかったから家にいることも多くて、時間にものを言わせて、5時間かけてカレーをつくったり、オリジナル料理を作ったりしたもんだ。そりゃ、スパイスにも詳しくなるわな。 ただ、そういう物理的ヒマ以上に重要なのは、精神的なヒマだ。つまり、精神的な余裕だ。 僕は、哲学科出身であるが、そもそも哲学なんざぁ、よほどのヒマ人でなければやらない。それは僕が言ったのではなくアリストテレスがそう言ってる。そして、哲学なんざぁ、世の中で生きてく上で、最も実利につながらない分野のひとつだ。だいたいにおいて、大学で勉強することが直接実利につながるケースは少ない。医歯薬系とか法学部くらいではなかろうか。だから、繰り返すが、大学のメリットは、学ぶことが就職で有利になるからでも将来役に立つからでもない。(理系は少々異なるが) そういう実利目的ならば、専門学校に行った方がいい。でも、専門学校に行ってしまうと、物理的、精神的ヒマは、極端に減ってしまう。 実に、この精神的ヒマをもてることに大学進学の意味がある。僕はそう思っている。だって、勤め始めてしまったら、「ヒマ」には制限がつくわけで、また、高校生にはその他の制限があるからやっぱり「ヒマ」ではないし。 その「ヒマ」を享受できるのは大学生だけだ。僕なんか、一生困らないお金があればずーっと大学生でいたいくらいだ。 ところが、高校生の多くは、「大学に行ってまで勉強したくない」と考えるようだ。だから、そうじゃないんだって!あるいは、「大学で勉強をしても仕事の役に立たないのなら行っても意味がない」とも考えるようだ。だから、そうでもないんだって! 実際に進学できるかどうかは、いろいろな(学力以外の)事情によってかなわないこともあるだろう。でも、もし行ってもよい環境であるのなら行くべきだよね~。だから、あまり大学のレベルにはこだわっておりません。自分のやりたいことができるのであれば何の問題もないから。ただ、たとえば僕の母校と東京大学を比べた場合、教授の質、施設の充実度がはっきり大きく異なるので、(以前、姉が東大で働いていたので、色々聞いてる)そりゃ、東大の方がより自分の好きなことができるだろうから、その意味ではレベルの高いところがいいと思うけど。そんなことを明日は話すつもりです。道を選ぶのは、結局本人たちだし、それを援助するのはご家庭であって、僕は無責任にしゃべるだけで、だから、彼らを洗脳しようとか「進学すると言え!」とか脅すつもりは毛頭ありません。でも、こと、このテーマについては熱が入ってしまうから、あくまで冷静に、客観的に、と思いつつ…。なんか、うまくまとまりませんでした。そのうち、補足するかもしれません。Kama
2008.05.10
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先日「発音の悪いエンジェル」 ★★★というのを書いた。佐々木塾長から「アレは面白かった」とお褒めの言葉をもらった。卒業生や在塾生が「爆笑した」、「笑った」とコメントを書いてくれた。さらには塾に子どもを送ってきた保護者の方がわざわざ「面白かった」と感想をおっしゃった。いやー、ありがたいことです。 が、しかし実は僕自身としてはまあ失敗作とまでは言わないけどそれほどうまくできたものとは思っていなかった。わからんもんです。 のマークで注意書きを加えた記事を僕は勝手に「暴走」と呼んできた。塾のブログだからさぞかし真面目な記事であろうと期待された方がアホな文章と不謹慎な内容にお怒りになるのは本意ではないからだ。 念のため書いておきますが、「暴走シリーズ」は、もちろん、狙って書いています。普段から仮面ライダーだのムーミンだのそんなことばっか考えていたらそれはそれでどうかと思う。 何人か、愛読するエッセイストがいるのです。何しろ、僕の人生のベクトルを決定づけた小説家・筒井康隆氏。この人の影響は、あまりに大きい。ほかに、東海林さだお氏、さくらももこ氏、原田宗典氏などなど。いずれも、ことばの使い回しで文字だけでエンターテインメントを展開していらっしゃる。僕個人がこういう方々のエッセイが大好きなので僕も日本語で人を笑わせたい、とそれがきっかけでございます。ただ、こういうのを書くには日本語がどうこう以前に「ネタ」となる「気づき」が重要で、要するに、何も思いつかなければ書きようがない。このシリーズは日記ではないから、僕自身が「あっ、コレは面白い!」と思わないとどうにもならない。だから、町を歩くときも、塾にいるときもテレビを見てるときもどっかに面白いことが落ちていないかどうかギンギンにアンテナを張り巡らせて、あちこちを観察しております。それでも、最近はなかなか思いつかなくて、ダメですね、もっとあっちこっちに行かないと。 「発音の悪いエンジェル」は、だから僕の中では、いま一つの「作品」であって、それを楽しんでいただけるのは大変光栄なのですが、だったら、こっちも読んでくださいな、ということでこれまでの同シリーズの文章をご紹介いたします。お読みになられたことのない方はもしよろしければ、どうぞ。(★の数は、僕自身の自信の度合と、周囲の方の反響から、5つ星満点で、テキトーにつけてみました。すべて、タイトルにリンクを貼ってあります。) 「西武線五段活用」 ★★★★「サウンド・オブ・ミュージック」 ★★★「メリー・ポピンズ」 ★「仮面ライダー」 ★★★★★「ムーミンとバーバ一家」 ★★★★「キャプテン翼」と「ハイジ」と「ラスカル」と「エースをねらえ」と・・・ ★「メガと日本」 ★★「バトル・コサック」 ★★★「メロンパン」 ★★「スーパー戦隊シリーズの新作」 ★★★「アメコミと変身願望」 ★「うっかり八兵衛」 ★「一卵性双生児」 ★★★「日本語の間違いに気付く」 ★★ご意見、ご感想、お待ちしております。シリーズファンの皆さん、これからもよろしくお願いいたします。作者 Kama
2008.05.08
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『ツイン・ピークス』をご存じだろうか。最近では、HEROESをはじめ、アメリカのテレビドラマシリーズを日本でも楽しめるようになった。おそらく、その文化の先駆けとなったのがデビッド・リンチ監督の『ツイン・ピークス』である。僕が中学生の頃、はやりにはやった。もう15年以上も前のことだ。以来、「X-ファイル」をはじめ、向こうのドラマが日本のテレビで放映されるようになった。長野に住んでいた僕は、リアルタイムで放映をみていたのではなく、レンタルビデオを借りてきて観た。何しろすごいブームだった。特集番組も多く作られ、日本の旅行社は「ツイン・ピークス・ツアー」を企画し、劇中に登場する「ローラの日記」をそれっぽく作って、書店で販売もした。テレビシリーズの直前までを描いた映画もできた。とにかく、猫も杓子も「ツイン・ピークス」だった。ヒットの要因はいろいろあろう。美しい音楽、美しい自然、「世界で最も美しい死体」と評されたローラ・パーマーの亡骸の描写・・・。しかし、なにより、デビッド・リンチ監督の描く美しいが、どこかおかしい世界観。それがハマったに違いない。デビッド・リンチ監督は個人的に、好きである。もっとも、全作品を観たわけではなくたとえば、ツインピークス以外では「エレファントマン」、「ブルー・ベルベット」あたりを観た程度。到底、リンチ・ファンとは言えないレベルである。が、「DUNE/砂の惑星」には、とにかくハマった。後に大学生になって、ニーチェやらなんやらを学ぶようになって「DUNE」における、カモメのジョナサン的な超人思想を読み取るに至ったのだがとにかく、大好きな作品のひとつである。「ツイン・ピークス」は、そういうわけで中学生のころに観た。森に囲まれ、滝の美しい田舎町、ツイン・ピークス。町にある海岸に、ビニールにくるまれた女の死体が転がっている。それは、ミス・ツインピークスに選ばれた、ローラ・パーマーであった。田舎町には縁遠い殺人事件の発生にカイル・マクラクラン演じる、FBI捜査官が出動する。当時、ローラ殺しの真相解明までは非常に楽しく、快適に観ることができた。しかし、ストーリーが後半に入ると、なんだかワケのわからない、精神世界めいた描写が増え、中学生の僕には、その真意を読み取ることは不可能だった。つまり、ワケがわからないまま、終わってしまったのだ。で、なぜ今更「ツイン・ピークス」なのかというと、DVDボックスが発売されたのです。僕は、当時の謎を解明すべく予約注文し、先週、ようやく全編を観終わったというわけです。後半部の、精神世界的な部分、その意味も、十分理解できた。謎は解けた。が、新たな謎が生まれた。 デビッド・リンチの頭の中は、どうなっているのか。 ツイン・ピークスの世界が「変」であるのは当時から言われていたことで、たとえば、丸太をかかえた「丸太おばさん」が出てきたり、警察のオフィスにはドーナツが山積みだったり、でも、その「変」な部分がどうこうではなく、ストーリーの核となる発想について、疑問が生じた。「DUNE」の発想と真逆なのだ。 「DUNE」の主人公は、自分の父を殺され、領地も占領された、うら若き青年。言うなれば王子である彼は、なんとかその場を逃げおおせ、やがて、普通の人間にはたどりつくことのできない超人の境地に達する。それを可能にするのは「意志」であって、つまり、人は意志の力で人間を超えることができる。だから彼には武器は必要ない。声、言葉で、相手を殺すことすらできる。武器に頼らず、自らの意志と言霊だけで相手を倒すあたりが超人の超人たる所以である。すなわち、DUNEにおいては人はその意志によって力を得ることも、それを放棄することもできる、そういう価値観が描かれている。が、ツイン・ピークスにおいては人は自らの意志でないものに動かされるものとなる。先のローラを殺した犯人は、なんとも意外な人物なのだが、その行為は、本人の意志によるものではない。ブラック・ロッジとよばれる不思議な世界にやどる邪悪な魂が現世の人間に宿ることで、数々の悲劇を生んでいくのである。最後には、主人公であるFBI捜査官もがこの邪悪な魂を自らの中に取り込んでしまう。さらなる悲劇を予感させ、シリーズは終わる。邪悪な魂を宿すFBI捜査官を演じるカイル・マクラクランはDUNEにおいて、強靭な意志で超人となるポール・アトレイデスを演じていた。 さて、デビッド・リンチの本意はどちらであろう。あるいは、年月の中で、その思想が大きくベクトルを変えたとでもいうのか。DUNEにおいて彼は意志が人の肉体を凌駕する、自力本願的な人間像を描いてみせた。ツイン・ピークスにおける「人間」は結局、他の魂に肉体をゆだねる他力本願的な存在である。ツイン・ピークスのみであればなるほど、アメリカ的であると思えたかもしれない。キリスト教世界は、基本的に、やがて訪れる「最後の審判の日」に「救われる」ことを願う他力本願なものであるからだ。対する自力本願的な思想というのはあまり、ない。それこそ、ニーチェが「神の死」を高らかに謳ったのがあまりに大きな事件であり、ただ、わが日本においては鎌倉時代から自力本願的思想である「禅」があったのはだから、あまりに奇跡的であるわけだ。が、アメリカ的なものがすべて他力本願であるかというと、そうでもない。ヒッピー文化に強く影響を与えたのは「カモメのジョナサン」であるというがこれはやはり、自力本願、超人思想の具体である。僕は、実存主義者である。ゆえに、自力本願的な思想を好む。ツインピークスの真価を感じたときそこに大きな虚無感を覚えた。簡単にいえば、「この一連の悲劇は、自分でない誰かのせいで起こったものである」、その結論に、違和感というか、脱力感を感じたのである。当時の僕には理解できなかったが、それが理解できるようになった今、なぜこの作品が大きな支持を得たのかという点にひっかかる。アメリカでなら、よい。なぜなら、キリスト教的思想が根付いた文化であるから。しかし、日本での大ヒットはいかがなものであろう。それはつまり、日本人が他力本願的なものに強い憧れを抱くようになった、その現れではなかろうか。無論、日本においても「他力本願」の歴史は長い。平安時代の浄土信仰に端を発し、「他の誰か」に救われることを願い、我々日本人は南無阿弥陀仏を唱えてきたのだ。が、その一方で侍の意志に代表される、「強い意志」も持ってきたはずである。ただ単に、そこまで深読みして観る人がいなかったという話もあるが、サブリミナルではないがツインピークスのもつ、隠れたメッセージに日本人が共感したともいえる。最もわかりやすい解釈は、人にとってプラスの、善き結果については人の意志によるもの。悪しき結果は、他人のせいにする。もし、そんな単純な結論であったとするなら、非常に残念であるが。みなさんも、改めて「ツインピークス」をご覧になり、あのブームの意味を考えてみてはいかがでしょう。 たまには、こういうテイストの記事もどうかと思って書きました。少々、難しくなってしまいましたかね?Kama
2008.05.08
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最近、僕の書いた記事にいただいたコメントを読んでいて、どうも、僕が「塾長」であると誤解を招いている感がございまして、まあそりゃ、僕ばっか書いてるようなブログになってきており、誤解も招くな、と。そこで、改めて、このブログに参加しているスタッフを簡単にご紹介します。 お分かりだと思いますが、このブログは「特定個人」が運営するものではありません。「愛夢舎」という「法人」が運営しており、複数の人間が書き込みをしております。その意味では、ブログの本来の位置づけを無視しちゃってるとも言える。 佐々木 圭 こっちが、ホンモノの「塾長」です。 「ジュクチョー」の名前で書き込むことが多いようです。 トレードマークはです。 塾長のお仕事は「塾長であること」。 絶対的なボスでございます。 小田切 直之 教務部長です。 経理担当でもあります。 忙しいのです。 教務部長ですから、愛夢舎の生徒指導についての責任者でございます。 また、スタッフ中、唯一の「お父さん」でもあります。 「Ota」の名前で出ることが多いようです。 がトレードマーク。 田中 健一 若大将です。 でも、実はそんなに若くない。 愛夢舎歴は、この5月で丸1年。 ようやく一回りしました。 ウチに来るまでも講師職についておりましたが、 そこでは事務作業をすることがほとんどなかったようで、 パソコンはド素人だった。 最近、大分扱いに慣れてきたみたいだから、 彼の記事も増えることでしょう。 鎌田 昌典 はい、僕です。 猫が好きで、ネコ型人間なので「Kama」の名前で出ておりますが、 他の人の記事にちゃちゃをいれたり、 気分によって、いくつかのHNを使い分けております。 ・・・で、塾長でもない僕が、 なんでエラそうに、ひょいひょい記事を書いているのか、というと・・・。 僕が広報・企画開発担当だからでーす。 というわけで、このメンバーで今後もお送りいたしますが、最近は生徒たちのコメント書き込みなんかもあって、なかなか賑やかになって参りました。内外の生徒・保護者の皆様、ひやかし大歓迎のブログでございますので、じゃんじゃん書き込んじゃってください。どうぞ今後ともよろしくお願いいたしまーす。Kama
2008.05.07
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ゴールデンウィークもおしまいですね。もっとも、子どもたちにとってはそこまでの大型連休であったわけでもなく、カレンダーの赤い日だけが休みだったろうから、4連休。10連休とかとってる大人ほど、ゴールデンな気分ではなかったでしょう。おまけに、ウチの中3生たちは今現在、5科目の模擬テストを受験中です。がんばれ~!(僕は自宅におりますが・・・ 遊んでるわけではないですよー。) さて、連休中、僕は実家の長野に帰っておりまして、まあ、BBQやら引っ越しやらがあったので丸2日しか居られませんでしたが、この年齢になって、親も70近くなってくるととにかく時間があったら帰ってあげないと、と思う。中高生諸君、「親と一緒にいるのはウザい」とか言っていられるのは今のうちだけだよ。もっと色々とお話しなさい。今回は姉も戻っており、家族4人がそろって食事したり出かけたりするのは実に数年ぶりのことでした。で、実家の近所にあるある施設に行ってみたのです。こういうのがあるのです。JAXAが運用している臼田宇宙空間観測所。ここには直径64メートル、東洋最大のパラボラアンテナがあって、各種の宇宙探査機をコントロールしている。妨害電波のない、広大な土地としてここが選ばれたので、山奥に突然、ポツンと巨大アンテナが建っている。それだけ。だから、小さい子なんかは面白くもなんともないと思うのだけれどもそこは「僕」の一家でございますから、姉なんかも「かっこいい~」とか言って喜んでる。どーでもいいけど、ウチの姉、昔は「歌」しか能がなかったクセにあちこちの大学で教授の秘書として働き始めてから理科系については、僕なんかよりもよほど詳しくなってしまった。もっとも、それは先端技術の領域で中高生の理科という意味ではないけど、まあ、JAXAの活動なんかも僕より知ってる。だから、こういう場では僕はいろいろ「教えてもらう側」になる。ひととおり展示館なんかも見学して帰ろうかというとき、それが目に入った。多目的トイレ・・・。 ・・・。 多目的。 ・・・。 トイレっていうのは「する」ための場所だと思っていたがどうやら、ほかにも色々する場所のようだ。 だが、いったいどんな「目的」があるというのだろう。 ちょいと面白かったので姉に「どう思う?」と聞いてみた。 そしたら「歌ったり、踊ったりできるんだよ、きっと」だそうだ。 さすがは僕の姉である。っていうか、さすがO型家族である。こういうバカな写真を撮ってる僕を見てもあきれもせず、「そりゃ、撮るよね」くらいの感覚だ。O型家族の皆様、変人の集まりになっている可能性があります。お気をつけください。Kama
2008.05.06
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はい、度々スイマセン鎌田です。5月2日の夕方、実家の長野に車で向かい、昨夜遅くに戻って参りました。入間から長野・佐久までは車でたがたか2時間ちょっと。ですが、ひとりで運転しているもんで、その間、僕はなにがしかの音楽をかけています。まあ大抵、それは洋楽なのですが、今回は、80~90年代のJ-POPを集めたオムニバスの企画ものCDをかけていた。よく深夜のTVショッピングなんかで売ってますよね、そういうヤツです。--------------------------------------------唐突ですが、このマークです。 マジメに書くつもりですが、人によっては 大変ブラック、不謹慎にとられる内容となるやも知れません。 念のため・・・。--------------------------------------------オムニバスCDだから、僕もいちいち曲目は覚えていない。とにかく、その年代にヒットしたいろいろな歌手の曲が次から次に登場する。大変、ぜいたくなCDとも言える。85年に大ヒットした、中村●●●という歌手の「△△△の××たエンジェル」って歌がありますね。コレが流れてきた。この人、独特のハスキーボイスで人気を博したわけですが、なんだか「ロック」を謳って、そういうファッション、そういうファンに囲まれていた。今聴くと、歌唱もそういう方向を目指している。まあ最近もそうだけど、この年代の曲は、やたらと英語の歌詞が出てくる。 ときに、僕は英語について、塾長ほど「ペラペラ」ではないけど、自分で言うのもなんだが、まあ「ぺ」ってことはないだろう、そうだな、「ペラ」か「ペラぺ」くらいのスキルはあると思ってる。たとえば、英語圏の人がしゃべっているのを聞いて、何を言っているのかまるでわからないということはあんまりない。 で、この「~エンジェル」を何気なく聴いてたわけです。 途中の歌詞にこんなのがあります。「Thirteen(13) ふたりは出会い Fourteen(14) 幼い心かたむけて あいつにあずけたFifteen(15) Sixteen(16) 初めてのKiss Seventeen(17) 初めての朝 少しずつ ため息おぼえた Eighteen(18)」まあ、「ホットロード」あたりにハマった当時の「不良」さんにはウケそうな歌詞ですわな。 ところで、上の歌詞は今、歌詞カードを見て書いたものです。 残念ながら、こうは聴こえない。歌い方が独特であるということを考慮しても、たとえば「サーティーン」は、はっきりと「サーティー」って聴こえる、いや、そう歌ってる。 さあたいへんだ。 「サーティ ふたりは出会い」30歳で出会いか。まあ僕はとっくに30を過ぎてて、でも出会ってないからなぁ、僕よりかなりマシだ、おめでとう。 「フォーティ 幼い心かたむけて」40歳で「幼い」って・・・。そっか、これ、どっちかの子どものことか。じゃ、再婚どうしかも知れないね。でも、10年も何をしてたんだろ。 「あいつにあずけた フィフティ」…どうやら、その子どもがジャマになったらしい。誰かにおしつけたようだ。でも、30歳のときから考えるとその子も立派に成人している年齢だ。今さら「あずける」といっても、子ども本人にしてみれば、余計な心配かもしれない。 「シックスティ 初めてのKISS」 … 60歳…。 めでたいけど、まあ、こういうことは言わない方がいいね。 「セブンティ 初めての朝」なんだろう。ゲートボールデビューだろうか。 「少しずつ ため息おぼえた エイティ」どっちかわからんけど、たとえば女性の方だとして、「じいさんや、私もそろそろだよ、ハーッ」って、も、もしや・・・! …だからというわけではありませんが、僕は中学生にも、ちゃんと発音を教えます。発音記号まで教えます。なぜなら、僕自身が中学生の頃、発音記号で理屈を習ったから。むろん、すべての人にとって発音記号がわかりやすいとは限らないけど、それが理解の助けになる人もいるはずで。だから僕は、中学生のころ、外国人に話しかけられても、あまり困らなかった。ということで、愛夢舎では塾長佐々木を筆頭に、只管朗読を導入しております。「~エンジェル」はネタではありませんよ。ホントにそう聞こえるんだから。ウソだと思ったら聴いてごらんなさい。英語の歌詞を歌うときには要注意ということで。Kama
2008.05.05
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こんばんは、鎌田です。昨日の深夜、実家から戻ってきました。で、今日はお片付け&ちょいとお仕事・・・。自宅に高速回線(ひかり)開通でございます♪おまけに、VISTAが起動しております♪清水から飛び降りるつもりでEVOLUTION完成です。…完全に私事で、恐縮でございますが、これでブログも更新もより快適になるってもんで・・・。自宅でかなり複雑な仕事もこなせるようになった。ますます、ひきこもりがちになるような予感・・・。(汗Kama
2008.05.05
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鎌田も書いておりましたが、我が塾周辺は例のアウトレットの影響でひどい渋滞です。 とか言いながら、私、5月1日の日の夕方(塾の仕事が早く終わったので)チャレンジしてみました。 全然、混んでなかった(道も現地も)・・・笑 何かを買いたいとかいった欲求なしで行ったもので、ただのお散歩になってしまいましたが・・・ アウトレットパークは確かにドデカかった。アジア最大級って言ってたっけ・・・ただただ広さに感心しました。この歳になると「ブランド物」とかにはほとんど興味がないので、お金も遣いませんでした。 どちらかというと、お隣のコストコのほうがやっぱり面白かったかな・・・ 入るなり、「アメリカの匂い」がしたな。アメリカでもコストコ(カストコウ)に行ったことあるけど、おんなじ匂いだった・・・雑なレイアウトもアメリカっぽかった。 でも、値段は日本でした(当たり前か)。 ジャンクフードにはかなり惹かれたけど、購入はせず。なつかしい、アメリカの匂いだけを嗅ぎに行ったという感じです。 地元のみなさんは平日の夕方5時くらいに「お買い物」するのがいいかもしれません。
2008.05.03
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「またか…」と言われても、懲りずに書いてます♪4月13日に開催いたしました第7回 愛夢舎バンドライブ。(正式名称:卒業生親睦会)その様子が、塾長・佐々木へのインタビューつきでラジオ放送されまーす。5月3日(祝・土)PM10:00~『GO GO Jumble Channel』(FM茶笛(チャッピー) 77.7Mhz) あとで聞いたら、インタビューというよりゲスト・コメンテーターみたいな扱いだったそうです。前半は、なんとかというミュージシャンの紹介コーナーのようですが、後半はばっちり、愛夢舎のコーナーだそうで。僕はラジオを聴かないのでよく分かりませんが、入間を中心に、狭山市、所沢市、飯能市、川越市ほか埼玉西部エリアと東村山、武蔵村山、青梅、立川など東京西多摩エリアでも聴けるそうです。 で、ラジオ放送直前を記念して(?)「第7回 愛夢舎バンドライブ」の演奏曲目を一部、動画つきで公開いたします。以前ご覧になられた方も初めての方も、よろしければ、どうぞ・・・。【第7回 愛夢舎バンドライブ 演奏曲目】1.雨上がりの夜空に (RCサクセション) ←動画2.A Hard Day's Night (The Beatles) ←動画3.キスしてほしい(トゥー・トゥー・トゥー・) (THE BLUEHEARTS) ←動画4.夢 (THE BLUEHEARTS) ←動画5.ラ・セゾン (アン・ルイス) ←動画6.My Happy Ending (Avril Lavigne) ←動画7.ああ無情 (アン・ルイス) ←動画8.宙船 (TOKIO) ←動画~アコースティック・タイム~ 桜 (コブクロ) ※ 風になる (つじあやの) ※ ←動画 銃爪~ひきがね (世良公則&ツイスト) あずさ2号 (狩人) TO BE WITH YOU (Mr.Big)9.リライト (ASIAN KUNG-FU GENERATION) ※10.一期一会 (3B LAB.☆) ←動画 ※11.リルラ リルハ (木村カエラ) ←動画 ※12.こいのうた (GO!GO!7188) ←動画 ※13.夢見る少女じゃいられない (相川七瀬) ←動画 ※14.残酷な天使のテーゼ (高橋洋子) ←動画 ※15.創聖のアクエリオン (AKINO) ←動画1 ←動画2・・・で合ってたと思うけど。ちなみに、※マークの曲は生徒・卒業生参加曲です。パート編成を書くと、それだけでえらいごちゃごちゃするので、今回は割愛いたします。それでは最後にもう1回。5月3日(祝・土)PM10:00~『GO GO Jumble Channel』(FM茶笛(チャッピー) 77.7Mhz)です。塾のクセに、音楽番組に出ちゃいます。ぜひ聴いてください!Kama…っていうか、僕は実家に帰るので、聴けません・・・。誰か録音してください・・・。
2008.05.01
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