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久しぶりに東京タワーに行った。昔は東京タワーといえばお上りさんの観光スポットで、それっぽい東京土産が売っていたものなのだが、今やすっかり外国人の観光スポットになっている。見てわかる外国人が半分くらい、残りの半分の多くは外国語を話す人々なので、日本人の方が少ないのではないか。そしてその外国人観光客相手になにやらぼっている?タクシーの運転手がいたが、その運転手ももしかすると日本人でないようにみえる。日本にいながら外国気分を味わえるスポットとしてはなかなかよいかもしれない。半分ジョークで外国人に道を聞かれたときのために英会話を勉強しているなんて言うのを聞くが、困った様子の外国人を探せば実地に勉強できる可能性も大である。売店にいくと、そこの土産も東京土産ではなく、日本土産になっている。簪を模したアクセサリーとか扇子などだが、実際、外国の方が日本にくるとどんなものを土産に買うのだろうか。漆とか陶器などは結構高いし、かといって、日本趣味のアクセサリーはさほど高くない代わりに壊れやすいようにもみえる。こけしはあまり実用性がないし、日本人形は持ち帰りが大変だろう。検索してみると、扇子、箸、箸置きなどのさほど高くなく荷物にもならないようなものが人気らしい。そういえば最近は東京たわーだけでなく、あちこちの観光地でそうしたものを売っているように思う。
2025年11月14日
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国も自治体も「多文化共生」という掛け声でいっせいに移民政策にかけだしている。移民政策というと議論になっても、同じものを多文化共生といってしまえば、なにやら素晴らしいものに聞こえて反論しにくい。しかし、多文化共生というのは、移民政策が進んで異なる文化の人々が国内に併存するようになった段階での議論であり、多文化共生だから当然に移民政策はすすめますよ…というのはおかしいだろう。米国のような移民国家では異なる文化の化学反応で豊かな文化が生まれるという例もないわけではないが、その一方では異人種間、異民族間の軋轢が起きている。ましてやもともとが移民国家でない西欧では、多文化共生に成功しているところなどないようにみえる。こうした移民政策については、グローバル資本主義政党の自民党だけでなく、立憲民主党や共産党なども差別反対や排他主義批判ということで移民政策に反対していない。結局のところ、はっきりと移民政策に反対しているのはSNSで支持を拡大している参政党とれいわだけのようにみえる。おそらく今の与党からみて、消える直前の政党やさっぱり支持が伸びそうにない政党は脅威ではない。そうではなく、移民政策に反対し、SNSで支持を伸ばしている政党こそが脅威なのではないか。それを考えると、最近浮上している比例区削減の議論、そしてSNSによるデマを問題視し、究極的にはSNSを規制しようという議論は、そうした政党つぶしが目的なのかもしれない。それにしても、よく政党や政治的立場をいうのに右だの左だの、あるいは権力よりか反権力よりかという。しかし、極右なんていっても合法的に滞在している外国人を攻撃しようなどという勢力はないし、極左といっても暴力革命を主導しようという勢力もない。歴史認識や憲法についての考え、ジェンダーやLGBTについても、正直、現実の問題にすぐに直結するものではない。やはり現在進行中の大問題、例えば移民政策についてどう考えるかというあたりが一つの大きな軸のように思う。
2025年11月13日
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名古屋主婦殺人事件はどうもよくわからない。犯人が非常に不幸な境遇であれば、この事件は通り魔殺人の変種のようなものとして説明できるのかもしれない。聞いた話では、どこの国でも自殺と他殺を合わせた発生率は似たり寄ったりであるという。この説の真偽は不明だが、通り魔殺人などは自殺の変種なのかもしれない。殺意の矛先が消えてしまいたい自分ではなく、幸福そうな誰かあるいは襲いやすい誰かに向かうわけである。通り魔殺人以外にも嫉妬による殺人というものもある。すぐに思い浮かぶのはお受験殺人であるが、犯人には嫉妬には十分な理由があったが、その一方で守るべき家族が犯人にもいた。ただママ友という形で被害者の幼児の親と犯人とは常に接する関係にあり、その中で感情が増幅していったことが考えられる。名古屋主婦殺人では、犯人には守るべき家族もあったし、継続的な仕事もあった。そしてまた、被害者との接点はいまのところない。職場では事務をしていたということであるが、こうした仕事を長く続けるためには、それなりの人間関係を築き、信用も得ていなければできるものではない。若いころに被害者の夫に告白をしたということがあるというが、普通の感覚ではこうした青春の思い出が殺意に結びつくとは思わない。たとえ被害者の夫が告白のことを警察に言っていたにしても、彼女については怪しい人物から外すのではないのだろうか。この事件については、未解決事件としてテレビなどにもときどきとりあげられていた。現場から徒歩で逃げ、血を洗う姿まで目撃されているのならどうみても犯罪の素人であろう。B型の女性ということまでわかっているのになぜわからないのだろうか。ただそれでもいきなり刃物を向けるという計画的で強い殺意は、被害者の生活圏内にいる人物に違いないと思っていた。子供の関係の付き合い、今の友人以外に案外と保険の勧誘などで突然訪ねてくる昔の同級生や先輩も盲点なのではないかと思っていた。犯人が逮捕されたとき、被害者の夫は、自分の方の関係者が犯人で申し訳ないと言っていたというが、夫も犯人は妻の交友関係の中にあると思っていたのかもしれない。家族を持ち、仕事を持って普通に生活している女性がある日、自分にとっては初対面のような主婦を刺殺し、その後も長いこと普通の生活をしていた…ということがどうも不思議でならない。
2025年11月11日
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よく右とか左とかいうことが政治的立場の分類として言われてきたが、さらに最近ではポピュリズムという言葉もよくつかわれる。そうした言葉を使えば、今の世界で伸長しているのは右派ポピュリズムということになるらしい。ポピュリズムという言葉はつきつめると意味不明だし、民主主義国家ではしょせんは多数の支持を集める政党は多かれ少なかれポピュリズムなのではないか。右とか左という言葉も、マルクスレーニン主義を信奉しているのが左、そうでないのが右といえば、それはそれでわかりやすいのだが、今時、マルクスレーニン主義をそのまま信奉しているという人はどのくらいいるのだろうか。その昔左翼学生がマルクスの本のどこそこにこう書いてあるがこれはこういう意味だなんていう議論をしていたのは今は昔である。ある方の文章を読んでいたら、経済的に恵まれない層にとって、それを外国人のせいと考えるのは右、搾取のせいと考えるのは左という分類があってなるほどと思った。なるほどと思ったのは同意したのではなく、多くの人はそう思っているのだろうなという意味である。 たしかに現代においてはどこの国でも格差が拡大する傾向にあり、そしてまた膨大な数の貧困層を抱える国もでてきている。そうした貧困の背景は何だろうか。外国人、それとも搾取…何のとこはない。その両方だろう。高級人力は別なのだが、途上国から低賃金の労働者を導入するのは搾取するためではないか。もちろん外国人とて人間なので、低待遇の職場にいつまでもいない。結局、本国人と外国人の低待遇職種集団が発生することになる。格差を問題視しながら、外国人単純労働力の受け入れを容認するのは実は大いなる矛盾だとしか思えない。さらに言えば、治安の悪化、文化摩擦などで被害を受けるのも、その国の恵まれない層であって、治安の確保された高級タワマンに住む上級国民はそうした外国人流入によるマイナス面とは無縁であることを付け加えておく。 さらに、右とか左とかいう区分以外にリベラルという言葉もあり、これは往々にして左に分類される。ただ、リベラルの唱えるジェンダー平等、LGBT差別反対、夫婦別姓、外国人を受け入れるなどの主張は、良い悪いではなく、円周を回って反対側にぶつかるように、グローバル資本主義の唱える主張と重なる。リベラルは左翼とはやはり違うように思う。
2025年11月10日
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こうした純文学というのは今ではあまり読まれないのではないか。しかし、中高生の頃には、日本文学といえばこうしたものだった。「暗い絵」は作者の体験が相当に反映されている私小説風の小説である。ここでいう暗い絵とは作者が友人の下宿で見たブリューゲルの絵であるが、それと戦争に向かう暗い世相、政治活動に関与する学生らをとりまく状況を暗示させている。 これに比べると「顔の中の赤い月」は題名は奇抜なのだが、ずっと小説らしい小説である。戦争で九死に一生を得て帰国した主人公だが、生活はまだ安定していない。彼は事務所が近いということで、二人の戦争未亡人と知り合うのだが、彼女らも売り食いの生活をしている。主人公は一人の戦争未亡人に惹かれるのだが、過酷な戦争体験の中で人間の醜さをさんざんに見てしまったことが、彼女との仲を遠ざける。 大正二けた生まれというのは貧乏くじ世代といわれる。この世代の多くは戦場に行った。そして無事に帰ってきたものも戦争体験を語らない者が多い。文学の世界でも戦場体験そのものを基にしたものは少ないように思う。「顔の中の赤い月」や同じ短編集に収録されている「崩壊感覚」や「残像」でも戦場から帰ってきた者の屈折が描かれているが、戦場そのものは描かれていない。女も急激な価値観の崩壊でどこか自堕落な感じの者が多い。 しかし、戦後の復興というものの中心を担ったのはまさにこうした貧乏くじ世代である。戦場体験と戦前体制の転換の中で価値観のすっかり変わった人々が一方にいて、その一方には戦後改革の「いきすぎ」を憂う戦前に郷愁を感じる人々もいた。戦後しばらく続いた保守対革新という構図もこうしたものが背景にあったのかもしれない。この世代もしだいに消えつつあり、保守対革新というのも、すっかり過去の話になっている。その戦後日本で革新の中核を担ってきた政党社会党の後身の社民党もごく少数の人間同士が離党をめぐって争っている。戦後は遠くなりにけりであろう。
2025年11月06日
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最近ポピュリズムという言葉をよく聞く。そしてこの言葉は特にSNSによって支持を伸ばしている政党に対して使われることが多いようである。このポピュリズムという語については定義が曖昧なのだが、曖昧なまま人口に膾炙しているのは不思議な気がする。数ある定義の一つとしてWIKIによる日本の学者による定義の最初のものを見てみると、1政治経済文化エリートに対する異議申し立て、2主権者として代表されていない人々を顕揚すること、3カリスマ的指導者が扇動することとされている。そうであるならば、自らをエリートと自認しているであろうマスコミ人士が自分らとは別のところで情報を発信し、自分らの関与なしに支持を拡大している政党をポピュリズムというのももっともなのかもしれない。しかし、このポピュリズムという言葉は非常に否定的なニュアンスで語られている。石破元首相の戦後80年の所感でも「無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家の矜持と責任感を持たないといけない」という言葉がある。しかし、上記のポピュリズムの定義からは無責任という要素はでてこない。また、別のポピュリズムの定義でよく出てくる「敵を作って叩く」だの「利益誘導を行う」だのということも、特段どの政党ということではなく、選挙の手法としてはよくみられる。敵を作るについては、過去の選挙でも、公務員バッシング、生活保護バッシングは行われたことがあるし、利益誘導も前回の参議院選挙で、いろいろな政党が減税や給付を公約していたことは記憶に新しい。そうしたものは選挙が終わればなかったことになっているようであるが。結局のところ、このポピュリズムという言葉はSNSを中心に支持を伸ばしている政党に対して、マスコミを介さず直接に無知な大衆にアピールして支持を伸ばしているのは問題だ、こんな政党を支持しているのは非エリート、非インテリの奴らに決まってる、だからこんな政党が伸長するのは問題だということをいわんがためにポピュリズム政党というレッテルを貼っているだけのように見える。だからこうした政党を叩くのであればポピュリズム政党だからけしからんというのはトートロジーであり、実際に掲げる政策について問題点を指摘すべきであろう。
2025年11月05日
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26年前の殺人事件の容疑者逮捕については考えさせられることが多い。違っているかもしれないけど、今までの報道では犯行の大きな動機は嫉妬だろう。嫉妬というのは結構強い感情で、しかも恨みと違って嫉妬される側には大して理由もないので余計にやっかいだ。誰にでも好かれる人望あふれる人間は恨みを買うことはあまりないのだが、嫉妬されることは十分にありうる。もし、自分の周辺に容姿端麗、才能抜群、そしてまた人間的にも非の打ちどころもなくよい友人に囲まれているような人がいたら、なぜ世の中にはあんな人がいるのだろう、不条理だ…そんな気持ちを抱く人は案外と多いのだろう。さらにそんな人が自分には手の届かない試験に合格したり、自分が片思いしている高値の花のような人と恋人になっていたりしたら〇してやりたいと思うかもしれない。まあ、普通はそんなことはしないのだが…。そしてこの嫉妬が背景にある殺人というのは、個々人の事情や人間関係にもよるので、いったいなぜと思うことも多い。すぐに思いつく嫉妬による殺人としてはお受験殺人事件がある。被害者は裕福な家の美しいママの娘で、難関国立小学校にも合格が決まっていた。もちろん被害者の母の写真にはモザイクがかかっていたがそれでも華やかな美人であることは推察ができ、犯人の女性との格差は歴然としていた。これに家の経済状況、娘のお受験の合否の差も重なれば嫉妬は当然とも思うのだが、一方で、犯人の方は30歳代というそれなりの年齢であり、しかも看護師の職歴もあったので、様々な人生を見てきたはずだ。自分と被害者の母親だけを見つめて、その娘を手にかけるなど想像にしくいのだが、事件は起きた。日常の地続きのところで犯罪者になってしまうような怖さのある嫌な事件であったので、記憶に残っている。最後にこの26年前の主婦殺人事件ですごく気になるのは事件当時の犯人の生活状況である。犯人がそれなりに充足した生活をしていれば、事件は全く理解不能だ。しかし、なんらかの不幸な状況にあったとしたら、その不満の矛先を誰かにむけても不思議ではない。世の中には人生の不幸を若いころの挫折のせいにしている人は多い。最近では親ガチャなんていうふざけた言葉もあって親のせいにもするなど他責思考は大流行だ。若いころの受験失敗をひきずっているようなのはどこにもいるし、結婚相手で人生が左右されると思っている女性の中には若いころの失恋をひきずっているという人もいるだろう。どこまで検証されているのかはわからないが、どこの国でも他殺と自殺を合計した比率は似たようなものであるという話もある。自分の人生が嫌になって自暴自棄になったとき、その衝動が自分に向かうか、他人(不特定多数も含め)に向かうかは場合によるというわけである。その意味で、この犯人の女性は事件当時どういう生活をしていたのかが気になるのである。他の未解決事件の中にも、上智大生放火殺人のように犯人の血痕(本当に犯人のものだとして)が残っているものもある。動かなかった事件も解決するということがあるのかもしれない。
2025年11月04日
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26年前の殺人事件で犯人が逮捕されたという。玄関先での殺人で走って逃走、血を洗う姿が目撃されているなど、犯人はどうみても素人で自動車などの逃走手段ももっていなかった。なぜ、もっと早く逮捕できなかったのだろうかとも思うのだが、被害者との接点がない事件の難しさがあったのだろう。とにかく殺人事件の時効が撤廃されていてよかった。そしてまた、犯人を追い詰めた警察の努力は称賛に値するだろう。犯人の状況や動機などは今後明らかになっていくだろうけど、被害者遺族に余計な憶測を加えたり、プライバシー侵害をするようなことはつつしむべきだろう。ただ、動機については、まったく一般論であるが、世の中には自分の不幸を他人のせいにしたがる人間というのは一定数いるように思う。境遇に対する不満は怒りとなり、その怒りが自分に向かえば自殺となるが、他人に向かえば犯罪になる。そしてその怒りの矛先になる他人は必ずしも自分の不幸と因果関係がある必要もない。自分はこんなに不幸なのに、なぜあの人はあんなに幸せそうなの…でもよいのである。殺人の動機にはいろいろとあるのだが、嫉妬というのも殺人の動機になりうるものである。恨まれる理由のない人間でも嫉妬される理由のある場合はある。その場合には、良い人だと周りに慕われていること、好かれていることすらも嫉妬の理由になるので、まことにやっかいである。
2025年11月02日
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