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多摩ニュータウンに行ってきた。できたときには交通事故が大変な社会問題になっていた頃でそのせいなのだろうか。自然の丘陵をいかした設計で人と自動車の導線が完全に分離されている。駅の前には一通りの店がそろっており、歩行者は自動車を気にせずに散策することができる。おりしも、イルミが点灯しており、駅前にはかなり水準の高いグループが路上ライブをやっていた。近くにサンリオのテーマパークがあるせいか若者もめだつ。日本のあちこちがシャッター街や空き家、駐車場だらけになっているのに、ここはまるでそんなものとは無縁の様相だ。ところがこの駅前の一郭を離れると様相が変わる。駅前にも介護相談センターなどがあったのだが、少し離れたビルはほぼ全部が医療関係で、やはり住民の高齢化を反映しているのだろうか。しかし、考えようによっては、高齢になっても医療機関にすぐにアクセスができるというのはよいことなのだろう。定年後に田舎に移住といったことを考える人もいるが、高齢になるということは医療の需要も増えるということではないか。最初から医療の世話にはならないと覚悟をきめるのならともかくとして、そうでなければ、遠く離れた病院まで通うというのはかなり大変である。適切な医療を受ければ健康寿命はそれなりに伸ばすこともできる。日本人の平均寿命の推移をみると、1955年には男64歳、女68歳、1970年には男70歳、女75歳くらいであり、入居が開始された1971年には、あまり老後ということを考えていなかったのではないか。歩行者と自動車の導線分離はよいのだが、もとが丘陵地形のせいか、段差とか階段が多い。高齢化にともない、車椅子も普通になっていくのかもしれず、こうした場所では移動に困難かもしれない。もっとも、これはここだけでなく、日本のあちこちでもいえることなのかもしれないが。
2025年11月30日
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面白くていっきに読んだ。ただ、これから書くのはこの本の要約ではなく、この本を読んで思ったことである。映画「翔んで埼玉」の第二弾は滋賀をディスった「琵琶湖より愛をこめて」であった。第一弾の埼玉ディスりは、地域ネタが面白かったのだが、第二弾では、なぜ滋賀なのかと正直思った。滋賀ってディスるような県なのだろうか。だって、過去には都があったところではないか。しかも、それは京都に都がおかれる以前のことだ。その都の印象は強烈なので、「さざなみの滋賀の都」という言葉は名歌だけでなくあの琵琶湖周航の歌にもでてくる。都道府県が47あっても過去に都のあった府県は奈良、大阪、京都、滋賀、そして一瞬なのだが兵庫しかない。埼玉と一緒にするなんて…。そう思ってこの本を読み始めたが、なるほど、たしかに滋賀には京都の陰に隠れているという面はあるなと思う。そうだ、京都に行こうのテレビCMで比叡山がでてきたのだが、比叡山は滋賀県にある。なんで京都に行こうなのに比叡山なのだろうか。変といえば変なのだが、その変であることを誰もいわない。昔、修学旅行で比叡山に行ったことがある。でもその修学旅行は皆あたりまえのように京都奈良修学旅行と言っていた。まあ、東京ディズニーランドに行く修学旅行も東京修学旅行といっているのかもしれないけど。ちなみに東京ディズニーランドは東京と言っているが、実際には東京にはない。滋賀の大津と京都市の距離は非常に近い。二つの府県の県庁所在地がこんなに近いというのはあまりないのではないか。京都はオーバーツーリズムとか言われて宿がとりにくいなんてことを言う人もいる。そういう場合には大津に宿泊すればよいのではないか。温泉観光ではないのだから、寺社仏閣を巡るのは昼間であっても、夜、京都に泊まる必要はない。外国人向けの気位の高いところに泊まるよりも、大浴場のある旅館の方がいいのではないだろうか。いつも京都の日陰で…というのをマイナスにとるのではなく、京都の奥座敷、京都の隣というのも非常な強みだと思う。余談だが、本書には三大夫人という言葉がでてくる。ポヴァリー夫人、エマニエル夫人、キューリー夫人なのだが、キューリー夫人というのは考えてみれば変だ。女性の偉人伝の定番といえば、キューリー夫人とヘレンケラー、ナイチンゲールであるが、なんでキューリー夫人だけ夫人なのだろうか。結婚しているからといえばそうなのかもしれないが、夫人といえば夫が偉くてその夫を助けて妻の務めを果したというニュアンスがある。なんかそれって違うように思うのだが。
2025年11月28日
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「式子内親王」の評伝を読んだ。新古今を代表する女性歌人であるが、なんとなく薄幸で孤独な女性という印象を持っていた。しかし、実際には、当時としては決して薄命ではなく、最後まで歌壇で活躍していた。孤独な女性というよりは、理知的で闊達な女性だったのかもしれない。百人一首にもある「玉の緒よ…」の歌もしのぶ恋というテーマで男性の立場にたって歌ったもので彼女自身の実体験というわけでもないという。たしかに本当のしのぶ恋であれば、堂々と歌にして公にするわけもない。歌を通じて藤原俊成や定家とも交友があり、親愛の情や敬愛の情は当然にあっただろう。もしかしたら恋に近い感情もあったのかもしれない。後年には式子内親王と藤原定家との恋をテーマにする謡曲などもできているのだが、まさか現実に男女の関係があったというわけではないだろう。晩年には法然の浄土宗に傾倒していたといい、従来の仏教の加持祈祷にはあまり関心がなかったようだ。現生利益的なものはあまり信ぜずに、精神的な救いを求めたということだろう。日本では歴史の節々に才女が登場する。日本文化の根底には和歌があり、それは男女の区分、場合によっては身分の上下をも超越するものであることと関係があるのかもしれない。歌仙という中には必ず女性も入っている。文芸の世界も同様で日本最古の書物である古事記の語り手は女性であったという説が有力であるし、平安女流文学作品は千年以上にもわたって読まれ続けている。そしてその長い歴史の中で、「源氏物語」にしても「枕草子」にしても、女の書いたものだからくだらないといった人はただの一人もいない。それは西洋の女性作家が女性であることを隠すために男性名で作品を世に出した例があるのとは対照的である。式子内親王はあの後白河天皇の娘として生まれ、源平争乱の時代から鎌倉初期を生きた。平家一門の没落など数多くの不幸を見聞きした。そうした中で一種の無常観を身に着けていたのかもしれないし、同時に、冷静な醒めた目で世の中を見つめていたのかもしれない。そのうえで、皇女という制約の多い中で和歌の世界で才能を輝かせた女性ということで、今日まで彼女の名が残っているわけである。
2025年11月27日
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タイトルの印象からサイコパスを主人公にしたホラー色の強いドラマかと思っていたが、可愛らしい子役がでてきたので、これはもうバッドエンドではないな…という感じで最後まで面白く視聴した。見どころは主人公役のイ・ジュンギの演技だろう。サイコパスめいたところでは本当に顔立ちも変わったのかと思うくらいに迫力ある悪役を演じるかと思うと、優しい父親の顔をみせる場面もあり、最後に一時的に記憶を失った場面では全く別人のような顔もみせる。韓国ドラマの俳優は演技力がすごいと思うことが多いのだが、イ・ジュンギもアクションをこなすだけでなく、多彩な演じ分けもできるすごい俳優だと思う。それにしても、デビューをしてから、相当の年月が経ち、今では40歳代になっているはずなのに、見た目がほとんどかわらない。フィギュアの羽生君に似たイケメンである。視聴している間は先の読めない展開、事件を追う刑事たちや主人公の幼馴染の記者などの魅力的な登場人物がでてきて非常に面白いのだが、ただ、見終わってみると、共犯者と真犯人の関係、主人公が10歳までの記憶のない理由など回収できていない伏線も多い。そしてまた、背景となる事件も陰惨である。もう一度最初から見直すとなるとどうしようかとも思う。
2025年11月25日
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原作を読んだことがあるが、めちゃめちゃ面白かった。ただ筋は複雑で登場人物は多い。いくら三時間の大作にしても、映画の中でどうおさめるのだろうか。実際に見てみると、主人公の投獄から脱獄まではほぼ筋書どおりだ。ただ、復讐するくだりは原作と大きく異なり、これはもはや二次創作といった方がよいのかもしれない。こうした二次創作には原作のイメージをぶち壊すようなものと、原作の雰囲気はそのままにそて映画用にうまくまとめたものとがある。この映画は後者であって、原作とは違うのだが、これはこれでよいではないかと思う。主人が復讐をする相手は冤罪の発端となった恋敵、金の亡者、そして検事の三人で、これは原作も映画も変わらない。原作ではこの復讐の過程も込み入っているのだが、映画ではわかりやすく、最後に剣戟の場面があるのも映画らしくてよい。大きく異なるのは結末で、原作では主人公は美女エデと結ばれるが、映画ではエデは仇である恋敵の息子と結ばれる。改変については、この結末の方がよいと思うし、最後に主人公が再び海にのりだしていくところも原作の雰囲気どおりである。原作では、主人公は完璧な女性である彼女を恩人の船主の息子の結婚相手として後見していた。今の感覚では、こうしたことは一種の女性蔑視で当世向きではないし、エデを自我をはっきりもった女性として描いた映画版の方がよい。原作では主人公を見送る若いカップルは恩人の息子と仇である検事の娘なのだが、そうなると、登場人物は映画では収まり切れないくらい多くなってしまう。複雑極まる物語を原作の雰囲気を活かしながら、うまくまとめている。中世風の街並み、海の光景、華やかな宴会の場面なども原作のイメージどおりで一見の価値のある映画だと思う。3時間の上映時間が全く長く感じられなかった。ぜひお薦めしたい。
2025年11月24日
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政治家の中には政策の人と政局の人とがいる。政局の人は国家や国民の利益よりも、次の選挙や政権の行方の方が気になる。その昔、政権交代が選挙の争点になったことがあるが、考えてみると、政権交代かどうかよりも、その政権で何をするかが重要だろう。今にして思えば、あの頃、無内容な政権交代に騒いだのはなんだったのだろうか。この間も数合わせの政権交代の話があったが、国民の間にはそれほど政権交代の議論は盛り上がらなかった。だいたい最大野党が他党の党首を総理にして政権交代しようというのが迫力にかける。そしてまた、政局の政治家は、国家国民の利益よりも、政権党をゆさぶるということを第一の目的とする。その結果、国益を損じても、政権が危機に瀕すれば目的を達するわけだ。ただ、今の時代は選挙民もマスコミだのみではなく自分で考えるようになっている。いくらマスコミが持ち上げようがなにしようが、国家国民の利益よりも政局しか考えない政治家や政党はいらない。
2025年11月21日
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若い女性と老女を主人公にして、二人がそれぞれの愛を語るという形式の小説である。若い女性の恋人、そして老女が昔その元を去った夫はいずれも山に入ったまま帰ってこない。小説では山は異界として描かれており、その山もまたもう一つの主人公なのかもしれない。読書は年齢を選ぶ。すごく昔ならこうしたファンタジー色の強い恋愛小説は好きになっただろう。若い女性、神秘的な老女、そして凄艶な冬の山という舞台。ところが今の年齢で読むとつっこみどころばかりが気になる。山の神秘を描くにしては土俗的な匂いがしない。現実的に考えると老女が何をやって暮らしているのか判然としない。若い女性の恋人の父親殺し、老女の元夫の家族殺し、こうした犯罪も何か通り一遍の描写のように感じる。最後は若い女性の恋人は生還しているようだが、これも現実にはありえないだろう。しかしそれはそれでよいのかもしれない。これはそういう小説なのだ。そして自分はこうした小説を読んで楽しむには年をとりすぎてしまったのかもしれない。
2025年11月20日
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かつて高齢化社会の予測として子供の遊びはすたれ大人の遊びの市場は大きくなるというものがあったという。たしかに子供市場は廃れたせいか、ゴールデンタイムには競うように放映されていた子供番組もなくなったし、スーパー戦隊シリーズも終わるという。NHKの人形劇はとうに消えて久しい。ただその一方で、大人の遊びとされているゴルフやパチンコが流行っているという話も聞かない。全体の印象であるが、かつては子供向けとされていたものが、そのまま大人市場にシフトして行っているような例が多いように思う。アニメなどはその最たるもので、昔はアニメといえば子供の見るものだったのが、いつの間にか高校生もみるようになり、それがそのまま対象年齢が上がっている。アニメ市場の最大のボリュームゾーンは40代という話もあるくらいだ。深夜アニメなど女子中学生や女子高校生を主人公にしたものの多くは、実際には中学生や高校生向きというよりも、明らかに大人の男性向きに作っている。鬼滅の刃のようなメジャーなアニメ作品でも、映画館には、20代や30代の観客が多いというし、今やアニメ映画は子供とその親がターゲットというわけではなくなっている。ゲームもでてきたときには、子供が親にせがんで買ってもらっていたのだが、今は大人のゲームなど普通になっていて大人市場の方が大きいのではないか。それはよいのだが、ソシャゲで万単位の課金というと、ギャンブルや風俗ではなく(それがよいというのではないが)、そうしたものに大人が金を使うのがさっぱりわからない。大人が金を使うといえば、ガチャもそうだ。あれも昔は子供のおもちゃで値段も小遣い程度だったと思うのだが、いつのまにか、値段も高くなって、遊ぶのも大人が主流になっている。どこにいっても、ガチャアイドル市場も、ものにもよるが、息の長い男性アイドルでは、親子ファン、さらには三世代ファンなんてのがあるという。なんというか、かつては娯楽でも大人向きと子供向きには区別があったのだが、今やそうした区別は非常にあいまいになっている。娯楽に年齢は関係ない…今はそんな時代なのだろう。
2025年11月18日
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ポピュリズムという言葉が気になっている。いろいろと考えてみると、どうも昔の郵政選挙の時に、選挙戦略として想定された「B層を狙うという戦略」というのと重ねるのではないか。そうだとしたら、石破総理はポピュリズムと戦うといっていたがなんのことはない自民党こそがポピュリズム政党だったのではないか。いや、自民党に限らない。民主主義国家においては選挙に勝つためにはB層に訴えるのは当然であり、民主主義とポピュリズムはまさに同じものの表裏ということになる。もう一度このB層という言葉についてWIKIでみてみる。選挙民をABCDに分けると以下のようになる。A層 IQが比較的高く構造改革に肯定的。財界勝ち組、都市部ホワイトカラーB層 マスコミ報道に流されやすく主婦、子供、シルバー層が中心。IQが比較的低いC層 構造改革に否定的。IQが比較的高い。D層 IQが比較的低く、構造改革に否定的。既に失業などの痛みにより構造改革に恐怖を感じている。IQというのは知らんけど、政治的関心の多寡、構造改革に対する姿勢を現政権に対し肯定的か否定的かで置き換えれば、選挙民の区分として今でも通用しそうだ。なお、マスコミはA層に分類されているが、実際にはC層よりになることもあるだろう。選挙民のボリュームゾーンはどうみてもB層とD層である。ただ、B層はマスコミの影響下で投票所に向かうが、D層は最初から政治に見捨てられたと感じ投票意欲も低いという違いがある。マスコミの力が強い時代には、A層ときどきC層のマスコミがB層に影響を与え、投票結果を左右してきた。それがかわってきたのがネットの登場だろう。誰でも情報を発信するようになれば、マスコミの論調だけがすべてではなくなる。そしてショート動画のような休憩時間に手のひらでみることのできる媒体は新聞を読まない人や政治討論番組などみない人にも政治への関心をうえつけた。いままで沈黙していたD層も投票所に向かうようになる。格差が拡大し、一億総中流が崩れた時代には、実はこのD層こそがブルーオーシャンなのだが、既存の野党は相も変わらず憲法九条護持だの非核だの夫婦別姓だのLGBTだの…と全くこの層を無視してきた。それを動かしたのがネット発信に力を入れてきた新政党だろう。マスコミの影響を離れたB層とD層の影響力が大きくなれば、ポピュリズム批判の声が起きるわけである。このポピュリズムには、思っているほど右と左の垣根はない。ただし、敵を作って支持を集めるというポピュリズムにありがちな特性を考えれば右派ポピュリズムと左派ポピュリズムの差異はあるだろう。右は内外で分け、左は上下で分けて考える。外に敵を作るのは右派ポピュリズム、上に敵を作るのは左派ポピュリズムとなるのだが、貧しい国からの移民の目立つ先進国では右派ポピュリズム、金持ちの大邸宅が貧困層の見えるところにあるような途上国では左派ポピュリズムが勢いを得やすいのかもしれないが、興味深いのはニューヨーク市長選である。移民が当たり前のニューヨークでは右派ポピュリズムよりも富裕層に応分の負担を求めようとする左派ポピュリズムが勢いを得たわけである。ポピュリズム…これを決して悪い意味で使っているわけではないが、二大政党制が強固でピープルの意向が選挙に反映しにくい構造になっている米国でも、首長選挙レベルではこういうこともあるということなのだろうか。
2025年11月17日
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この間の参議院選挙で急伸した参政党の支持者はどこから来たのか。これについては政治学者などが、いろいろと分析をしていると思うが、ネットで見たある記事が興味深い。生活が苦しくて初めて街頭演説に行ったというあるロスジェネ世代男性の体験を紹介していたのだが、投票先を参政党にするかれいわにするかで迷っているというものであった。こうした有権者がどれくらいいるのかは不明なのだが、選挙前にSNSの動画を見てきた感想としては、参政党とれいわの支持者は意外に重なっているのかもしれないと思った。両者ともSNSの発信に非常に力をいれていて、しかも、分かりやすい、よくできた動画が多い。こうした動画という新しいツールが今まで新聞やテレビの政治討論などをみなかった層に強い訴求効果をもったのではないか。不満を抱えながらも、政治にあきらめを持ち、選挙にもいかなかった層、いわばブルーオーシャンのような層の票を掘り起こしたわけである。もちろんそれ以外にも、参政党の躍進については、自民党の岩盤保守層が移ってきたという分析もあり、それもあたっていると思う。また、れいわと参政党で迷った人がいたということである。一般のイメージでは参政党は右、れいわは左となるのだろう。強固な政治信条を持つ人なら右と左で迷うなどありえない。しかし、普段政治にあまり興味のない層にとっては、この右とか左というのはそれほど確固とした区分ではないのかもしれない。よく世の中の見方について右は内と外に区分し、左は上と下に区分するという。ならば内で下、外で上という立場もあるわけで、こういうのは右というのだろうか、左というのだろうか。それだけではない。政治的テーマの中には生活に関連するものと理念的なものとがある。夫婦別姓、ジェンダー、憲法九条、歴史認識などは、理念的なテーマで多くの選挙民にとってはさほどの関心事ではないのかもしれない。右派的な主張をしながら所得再分配につながる主張をしたりする政治勢力があってもおかしくない。米国の話であるが、サンダース候補が民主党の指名を得られなかったため、サンダース支持者がかなりトランプ支持にまわったという話もある。
2025年11月16日
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久しぶりに東京タワーに行った。昔は東京タワーといえばお上りさんの観光スポットで、それっぽい東京土産が売っていたものなのだが、今やすっかり外国人の観光スポットになっている。見てわかる外国人が半分くらい、残りの半分の多くは外国語を話す人々なので、日本人の方が少ないのではないか。そしてその外国人観光客相手になにやらぼっている?タクシーの運転手がいたが、その運転手ももしかすると日本人でないようにみえる。日本にいながら外国気分を味わえるスポットとしてはなかなかよいかもしれない。半分ジョークで外国人に道を聞かれたときのために英会話を勉強しているなんて言うのを聞くが、困った様子の外国人を探せば実地に勉強できる可能性も大である。売店にいくと、そこの土産も東京土産ではなく、日本土産になっている。簪を模したアクセサリーとか扇子などだが、実際、外国の方が日本にくるとどんなものを土産に買うのだろうか。漆とか陶器などは結構高いし、かといって、日本趣味のアクセサリーはさほど高くない代わりに壊れやすいようにもみえる。こけしはあまり実用性がないし、日本人形は持ち帰りが大変だろう。検索してみると、扇子、箸、箸置きなどのさほど高くなく荷物にもならないようなものが人気らしい。そういえば最近は東京たわーだけでなく、あちこちの観光地でそうしたものを売っているように思う。
2025年11月14日
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国も自治体も「多文化共生」という掛け声でいっせいに移民政策にかけだしている。移民政策というと議論になっても、同じものを多文化共生といってしまえば、なにやら素晴らしいものに聞こえて反論しにくい。しかし、多文化共生というのは、移民政策が進んで異なる文化の人々が国内に併存するようになった段階での議論であり、多文化共生だから当然に移民政策はすすめますよ…というのはおかしいだろう。米国のような移民国家では異なる文化の化学反応で豊かな文化が生まれるという例もないわけではないが、その一方では異人種間、異民族間の軋轢が起きている。ましてやもともとが移民国家でない西欧では、多文化共生に成功しているところなどないようにみえる。こうした移民政策については、グローバル資本主義政党の自民党だけでなく、立憲民主党や共産党なども差別反対や排他主義批判ということで移民政策に反対していない。結局のところ、はっきりと移民政策に反対しているのはSNSで支持を拡大している参政党とれいわだけのようにみえる。おそらく今の与党からみて、消える直前の政党やさっぱり支持が伸びそうにない政党は脅威ではない。そうではなく、移民政策に反対し、SNSで支持を伸ばしている政党こそが脅威なのではないか。それを考えると、最近浮上している比例区削減の議論、そしてSNSによるデマを問題視し、究極的にはSNSを規制しようという議論は、そうした政党つぶしが目的なのかもしれない。それにしても、よく政党や政治的立場をいうのに右だの左だの、あるいは権力よりか反権力よりかという。しかし、極右なんていっても合法的に滞在している外国人を攻撃しようなどという勢力はないし、極左といっても暴力革命を主導しようという勢力もない。歴史認識や憲法についての考え、ジェンダーやLGBTについても、正直、現実の問題にすぐに直結するものではない。やはり現在進行中の大問題、例えば移民政策についてどう考えるかというあたりが一つの大きな軸のように思う。
2025年11月13日
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名古屋主婦殺人事件はどうもよくわからない。犯人が非常に不幸な境遇であれば、この事件は通り魔殺人の変種のようなものとして説明できるのかもしれない。聞いた話では、どこの国でも自殺と他殺を合わせた発生率は似たり寄ったりであるという。この説の真偽は不明だが、通り魔殺人などは自殺の変種なのかもしれない。殺意の矛先が消えてしまいたい自分ではなく、幸福そうな誰かあるいは襲いやすい誰かに向かうわけである。通り魔殺人以外にも嫉妬による殺人というものもある。すぐに思い浮かぶのはお受験殺人であるが、犯人には嫉妬には十分な理由があったが、その一方で守るべき家族が犯人にもいた。ただママ友という形で被害者の幼児の親と犯人とは常に接する関係にあり、その中で感情が増幅していったことが考えられる。名古屋主婦殺人では、犯人には守るべき家族もあったし、継続的な仕事もあった。そしてまた、被害者との接点はいまのところない。職場では事務をしていたということであるが、こうした仕事を長く続けるためには、それなりの人間関係を築き、信用も得ていなければできるものではない。若いころに被害者の夫に告白をしたということがあるというが、普通の感覚ではこうした青春の思い出が殺意に結びつくとは思わない。たとえ被害者の夫が告白のことを警察に言っていたにしても、彼女については怪しい人物から外すのではないのだろうか。この事件については、未解決事件としてテレビなどにもときどきとりあげられていた。現場から徒歩で逃げ、血を洗う姿まで目撃されているのならどうみても犯罪の素人であろう。B型の女性ということまでわかっているのになぜわからないのだろうか。ただそれでもいきなり刃物を向けるという計画的で強い殺意は、被害者の生活圏内にいる人物に違いないと思っていた。子供の関係の付き合い、今の友人以外に案外と保険の勧誘などで突然訪ねてくる昔の同級生や先輩も盲点なのではないかと思っていた。犯人が逮捕されたとき、被害者の夫は、自分の方の関係者が犯人で申し訳ないと言っていたというが、夫も犯人は妻の交友関係の中にあると思っていたのかもしれない。家族を持ち、仕事を持って普通に生活している女性がある日、自分にとっては初対面のような主婦を刺殺し、その後も長いこと普通の生活をしていた…ということがどうも不思議でならない。
2025年11月11日
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よく右とか左とかいうことが政治的立場の分類として言われてきたが、さらに最近ではポピュリズムという言葉もよくつかわれる。そうした言葉を使えば、今の世界で伸長しているのは右派ポピュリズムということになるらしい。ポピュリズムという言葉はつきつめると意味不明だし、民主主義国家ではしょせんは多数の支持を集める政党は多かれ少なかれポピュリズムなのではないか。右とか左という言葉も、マルクスレーニン主義を信奉しているのが左、そうでないのが右といえば、それはそれでわかりやすいのだが、今時、マルクスレーニン主義をそのまま信奉しているという人はどのくらいいるのだろうか。その昔左翼学生がマルクスの本のどこそこにこう書いてあるがこれはこういう意味だなんていう議論をしていたのは今は昔である。ある方の文章を読んでいたら、経済的に恵まれない層にとって、それを外国人のせいと考えるのは右、搾取のせいと考えるのは左という分類があってなるほどと思った。なるほどと思ったのは同意したのではなく、多くの人はそう思っているのだろうなという意味である。 たしかに現代においてはどこの国でも格差が拡大する傾向にあり、そしてまた膨大な数の貧困層を抱える国もでてきている。そうした貧困の背景は何だろうか。外国人、それとも搾取…何のとこはない。その両方だろう。高級人力は別なのだが、途上国から低賃金の労働者を導入するのは搾取するためではないか。もちろん外国人とて人間なので、低待遇の職場にいつまでもいない。結局、本国人と外国人の低待遇職種集団が発生することになる。格差を問題視しながら、外国人単純労働力の受け入れを容認するのは実は大いなる矛盾だとしか思えない。さらに言えば、治安の悪化、文化摩擦などで被害を受けるのも、その国の恵まれない層であって、治安の確保された高級タワマンに住む上級国民はそうした外国人流入によるマイナス面とは無縁であることを付け加えておく。 さらに、右とか左とかいう区分以外にリベラルという言葉もあり、これは往々にして左に分類される。ただ、リベラルの唱えるジェンダー平等、LGBT差別反対、夫婦別姓、外国人を受け入れるなどの主張は、良い悪いではなく、円周を回って反対側にぶつかるように、グローバル資本主義の唱える主張と重なる。リベラルは左翼とはやはり違うように思う。
2025年11月10日
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こうした純文学というのは今ではあまり読まれないのではないか。しかし、中高生の頃には、日本文学といえばこうしたものだった。「暗い絵」は作者の体験が相当に反映されている私小説風の小説である。ここでいう暗い絵とは作者が友人の下宿で見たブリューゲルの絵であるが、それと戦争に向かう暗い世相、政治活動に関与する学生らをとりまく状況を暗示させている。 これに比べると「顔の中の赤い月」は題名は奇抜なのだが、ずっと小説らしい小説である。戦争で九死に一生を得て帰国した主人公だが、生活はまだ安定していない。彼は事務所が近いということで、二人の戦争未亡人と知り合うのだが、彼女らも売り食いの生活をしている。主人公は一人の戦争未亡人に惹かれるのだが、過酷な戦争体験の中で人間の醜さをさんざんに見てしまったことが、彼女との仲を遠ざける。 大正二けた生まれというのは貧乏くじ世代といわれる。この世代の多くは戦場に行った。そして無事に帰ってきたものも戦争体験を語らない者が多い。文学の世界でも戦場体験そのものを基にしたものは少ないように思う。「顔の中の赤い月」や同じ短編集に収録されている「崩壊感覚」や「残像」でも戦場から帰ってきた者の屈折が描かれているが、戦場そのものは描かれていない。女も急激な価値観の崩壊でどこか自堕落な感じの者が多い。 しかし、戦後の復興というものの中心を担ったのはまさにこうした貧乏くじ世代である。戦場体験と戦前体制の転換の中で価値観のすっかり変わった人々が一方にいて、その一方には戦後改革の「いきすぎ」を憂う戦前に郷愁を感じる人々もいた。戦後しばらく続いた保守対革新という構図もこうしたものが背景にあったのかもしれない。この世代もしだいに消えつつあり、保守対革新というのも、すっかり過去の話になっている。その戦後日本で革新の中核を担ってきた政党社会党の後身の社民党もごく少数の人間同士が離党をめぐって争っている。戦後は遠くなりにけりであろう。
2025年11月06日
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最近ポピュリズムという言葉をよく聞く。そしてこの言葉は特にSNSによって支持を伸ばしている政党に対して使われることが多いようである。このポピュリズムという語については定義が曖昧なのだが、曖昧なまま人口に膾炙しているのは不思議な気がする。数ある定義の一つとしてWIKIによる日本の学者による定義の最初のものを見てみると、1政治経済文化エリートに対する異議申し立て、2主権者として代表されていない人々を顕揚すること、3カリスマ的指導者が扇動することとされている。そうであるならば、自らをエリートと自認しているであろうマスコミ人士が自分らとは別のところで情報を発信し、自分らの関与なしに支持を拡大している政党をポピュリズムというのももっともなのかもしれない。しかし、このポピュリズムという言葉は非常に否定的なニュアンスで語られている。石破元首相の戦後80年の所感でも「無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家の矜持と責任感を持たないといけない」という言葉がある。しかし、上記のポピュリズムの定義からは無責任という要素はでてこない。また、別のポピュリズムの定義でよく出てくる「敵を作って叩く」だの「利益誘導を行う」だのということも、特段どの政党ということではなく、選挙の手法としてはよくみられる。敵を作るについては、過去の選挙でも、公務員バッシング、生活保護バッシングは行われたことがあるし、利益誘導も前回の参議院選挙で、いろいろな政党が減税や給付を公約していたことは記憶に新しい。そうしたものは選挙が終わればなかったことになっているようであるが。結局のところ、このポピュリズムという言葉はSNSを中心に支持を伸ばしている政党に対して、マスコミを介さず直接に無知な大衆にアピールして支持を伸ばしているのは問題だ、こんな政党を支持しているのは非エリート、非インテリの奴らに決まってる、だからこんな政党が伸長するのは問題だということをいわんがためにポピュリズム政党というレッテルを貼っているだけのように見える。だからこうした政党を叩くのであればポピュリズム政党だからけしからんというのはトートロジーであり、実際に掲げる政策について問題点を指摘すべきであろう。
2025年11月05日
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26年前の殺人事件の容疑者逮捕については考えさせられることが多い。違っているかもしれないけど、今までの報道では犯行の大きな動機は嫉妬だろう。嫉妬というのは結構強い感情で、しかも恨みと違って嫉妬される側には大して理由もないので余計にやっかいだ。誰にでも好かれる人望あふれる人間は恨みを買うことはあまりないのだが、嫉妬されることは十分にありうる。もし、自分の周辺に容姿端麗、才能抜群、そしてまた人間的にも非の打ちどころもなくよい友人に囲まれているような人がいたら、なぜ世の中にはあんな人がいるのだろう、不条理だ…そんな気持ちを抱く人は案外と多いのだろう。さらにそんな人が自分には手の届かない試験に合格したり、自分が片思いしている高値の花のような人と恋人になっていたりしたら〇してやりたいと思うかもしれない。まあ、普通はそんなことはしないのだが…。そしてこの嫉妬が背景にある殺人というのは、個々人の事情や人間関係にもよるので、いったいなぜと思うことも多い。すぐに思いつく嫉妬による殺人としてはお受験殺人事件がある。被害者は裕福な家の美しいママの娘で、難関国立小学校にも合格が決まっていた。もちろん被害者の母の写真にはモザイクがかかっていたがそれでも華やかな美人であることは推察ができ、犯人の女性との格差は歴然としていた。これに家の経済状況、娘のお受験の合否の差も重なれば嫉妬は当然とも思うのだが、一方で、犯人の方は30歳代というそれなりの年齢であり、しかも看護師の職歴もあったので、様々な人生を見てきたはずだ。自分と被害者の母親だけを見つめて、その娘を手にかけるなど想像にしくいのだが、事件は起きた。日常の地続きのところで犯罪者になってしまうような怖さのある嫌な事件であったので、記憶に残っている。最後にこの26年前の主婦殺人事件ですごく気になるのは事件当時の犯人の生活状況である。犯人がそれなりに充足した生活をしていれば、事件は全く理解不能だ。しかし、なんらかの不幸な状況にあったとしたら、その不満の矛先を誰かにむけても不思議ではない。世の中には人生の不幸を若いころの挫折のせいにしている人は多い。最近では親ガチャなんていうふざけた言葉もあって親のせいにもするなど他責思考は大流行だ。若いころの受験失敗をひきずっているようなのはどこにもいるし、結婚相手で人生が左右されると思っている女性の中には若いころの失恋をひきずっているという人もいるだろう。どこまで検証されているのかはわからないが、どこの国でも他殺と自殺を合計した比率は似たようなものであるという話もある。自分の人生が嫌になって自暴自棄になったとき、その衝動が自分に向かうか、他人(不特定多数も含め)に向かうかは場合によるというわけである。その意味で、この犯人の女性は事件当時どういう生活をしていたのかが気になるのである。他の未解決事件の中にも、上智大生放火殺人のように犯人の血痕(本当に犯人のものだとして)が残っているものもある。動かなかった事件も解決するということがあるのかもしれない。
2025年11月04日
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26年前の殺人事件で犯人が逮捕されたという。玄関先での殺人で走って逃走、血を洗う姿が目撃されているなど、犯人はどうみても素人で自動車などの逃走手段ももっていなかった。なぜ、もっと早く逮捕できなかったのだろうかとも思うのだが、被害者との接点がない事件の難しさがあったのだろう。とにかく殺人事件の時効が撤廃されていてよかった。そしてまた、犯人を追い詰めた警察の努力は称賛に値するだろう。犯人の状況や動機などは今後明らかになっていくだろうけど、被害者遺族に余計な憶測を加えたり、プライバシー侵害をするようなことはつつしむべきだろう。ただ、動機については、まったく一般論であるが、世の中には自分の不幸を他人のせいにしたがる人間というのは一定数いるように思う。境遇に対する不満は怒りとなり、その怒りが自分に向かえば自殺となるが、他人に向かえば犯罪になる。そしてその怒りの矛先になる他人は必ずしも自分の不幸と因果関係がある必要もない。自分はこんなに不幸なのに、なぜあの人はあんなに幸せそうなの…でもよいのである。殺人の動機にはいろいろとあるのだが、嫉妬というのも殺人の動機になりうるものである。恨まれる理由のない人間でも嫉妬される理由のある場合はある。その場合には、良い人だと周りに慕われていること、好かれていることすらも嫉妬の理由になるので、まことにやっかいである。
2025年11月02日
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