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毒カレー事件に2審判決がでた。2審も被告人は死刑。まあ、実際にやったとしたら凶悪きわまる犯行で死刑も当然であるが、それにしてもこの事件、不可解なことが多すぎる。※まず動機である。近所の人と被告人がうまくいっていなかったとしても、無差別殺人など行なうだろうか。普通に考えれば、近隣住民に対するうらみは特定の人間に対する殺意に凝縮していくもので、現にそういった主婦同士の殺人事件の例もある。ああいった無差別殺人というのは、あの宅間のような自暴自棄的な状態になった人間のすることで、4人の子供を育ててそれなりに暮らしていた被告人がやったというのはどうにも違和感がある。※そしてあのカレーを作っている最中に一人になる機会があったのは被告人だけだったというのも不思議だ。あの最中には大勢の人々がそれぞれの意志で動いていた。カレーの鍋の傍に一人でいた時間があったのは被告人だけだったというのは実はすごい偶然である。そんな偶然があるのだろうか。そしてまた被告人はそんな偶然をあてにして、砒素入り紙コップをもって歩き回っていたのだろうか。これも不可解である。※そのほかにも、この事件はわからないことだらけだ。カレー祭りの日に被告人は家に留守番の子供を置いていたというが、子供が祭りに行くことは心配しなかったのだろうか。行くなといったって、そこは子供である。友達が誘いに来ればいかないともかぎらない。それなのに被告人は心置きなくカラオケに興じていたというのも変だ。そしてまた問題の砒素の隠し場所が台所?被告人には小さい子供がいた。そんなところに猛毒を隠すなんてことをするのだろうか。※まあ、それ以外にも他人の男性を同居させたりとか、健康そうなのに身体障害者手帳をもっていたりとか、あの被告人の生活にはわけのわからないところが多い。報道で見る限り、被告人やその夫がまともな市民であるとはとても思えないのだが、それでもあの大量殺人事件の犯人であるというのも、ちょっと納得がいかない。
2005年06月30日
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広告代理店に勤める方の手帳をみせてもらったことがある。祝日や六曜などは普通の手帳と変わらないのだが、面白いのは大きなイベントや予想される天体現象が書き込んであることである。日々ニュースとして我々が受け取っているものの中には、あらかじめ予定されているものもずいぶん多い。今年だったら愛知万博とか戦後60年とか…。たぶん日韓友情年なんてのも彼らの手帳には大書きされていたのではないか。もちろん今年は日本ドイツ年でもあるのだが、韓国の方がやはり近いし、タレントもおさえやすい。※韓流ブームなんていうのは、やはりこうした広告代理店がしかけたものではないのだろうか。日韓友情年をあてこんで、韓国のスターを何人かおさえておく。もちろん旅行代理店や出版業界とも連動である。韓国スターのでてくるCMをみるたびに、ふとこれを作った広告代理店を想像してしまう。ああいうスターや運動選手は広告代理店毎に専属となっているので、韓国スターをかかえたものの、「韓流ブーム」がおきなければ、さぞや困ったことだろう。※作られたブームとみると、それにのっているのが40代以上の女性達というのも納得がいく。彼女らにとってブームや流行というのはいつも外から与えられるものだった。秋が来る前にファッション誌はいっせいに「今年の流行は膝下5センチ」といった特集をだし、冬の声をきくよりも早く「この冬の流行はワインレッド」とかいった記事が載る。今の感覚では変なのだが、まるで号令のように流行はファッション誌とその背後の業界が作り、人々はただそれに右にならえするだけだった。そんな世代だからこそ「今年の流行は韓流」といえば、おくれてならじとばかりについていくのである。※いっちゃあなんだけどペとかピとかの韓流タレントってどこがよいのという感じだが、ああいう「ブーム」はしっかりと韓国のマスコミにも紹介されている。もしかしたら、韓国人男性の中には日本に行けばもてるなんていう誤解をしているのまでいるかもしれない。交通事故、難病、記憶喪失、出生の秘密といった、いかにもドラマなシチュエーションてんこもりの韓流はたまにみるから面白いのであって、2度3度とみるようなものではとてもない。それはちょうど娯楽映画のお手本のようなインド映画「踊るマハラジャ」は面白かったけど、似たような映画を見る気になったかといえば、そんな気にはならなかったのと同じである。※※山口県の高校生による爆弾事件を契機にばたばたとネットの有害情報の規制だの実名化の促進だのといった話が持ち上がっている。事件の真相ですらろくにわからない段階からネットで爆弾の作り方を入手したというところばかりが大報道されたせいである。ふと疑問に思う。少年が爆弾の作り方を入手したサイトってどんなサイトなのだろう。ネットで爆弾の作り方を入手というところばかりが一人歩きをしているが、肝心のサイト自体についての情報はほとんどない。本当にネット上にそんなサイトがあるのだろうか。※ためしに「爆弾の作り方」で検索してみる。たしかにそれらしい掲示板の書き込みはでてくるのだが、これを見て本当に爆弾を作る気になるかといえば、答えはNOである。ネットにはたしかに膨大な情報があるが、重要なものが欠けている。信憑性である。話の種くらいの情報ならネットでも十分だが、爆弾のように一歩間違うと作っている自分の方が危険になるようなものなど、危なくてネットの情報じゃ信用するわけにはいかない。もちろんタイマーと電熱器のようなアイディアならネット情報でも使えるのかもしれないが、そんなのはネットがなくても思いつくようなことでもある。※犯罪、特に少年犯罪などがおきるとすぐにネットで手口を学んだとかネットに影響されてという報道がでるが、ちょっとネットを過大視しているようにも思う。
2005年06月29日
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ニュースサイトを見ていたら驚いた。ネットの実名化を政府が促進…なんだこれ?ネットが有害サイトの温床になっているので実名化をすすめるために、匿名性の低いブログを小学生にすすめる?読んでますますわからなくなった。※まずネットが有害情報の温床になっているという前提からして変だ。ネットは圧倒的な情報提供力で大きな働きをしている。そしてその情報も有害なものも有益なものも、無意味なものも面白いものもある。ネットという道具は情報の中味に対してはあくまでも中立である。それを犯罪のための情報を手に入れるのにネットを使ったからってネットを悪の巣窟のようにいうのはいかにもおかしいではないか。例えば誘拐などの犯罪でしばしば自動車が使われたからって自動車を悪の道具などというだろうか。※そして実名化すれば有害な情報も減るという。これも変な話だ。ネット暦10年近くになるがいまだに爆弾の作り方やドラッグの入手方法を紹介したサイトなどは見たことがない。ネットの海の中で、ある情報を手に入れようとしたらそれなりの意思をもって探さないとダメだし、偶然に「有害」サイトにぶつかって、出来心で犯罪を犯すなんてことはあるわけもない。悪意を持つ人は実名にしろといったって偽名を使うであろうし、たいていの匿名氏は罪のない匿名である。実名ならよくて、匿名ならダメというその発想自体がよくわからない。※また、ブログが匿名性が低いというのも事実に反している。ブログこそまさに匿名ゆえの媒体ではないのか。人生観や宗教観、そして感銘を受けた座右の書の話…こんな話を職場や近所の人との会話でするだろうか。なぜブログではこんな話ができるかといえば、それは匿名だからである。本当に親しい友人としかできないような会話を、どこの誰ともわからない人とする。これが匿名のパラドックスでブログの面白いところである。それだけではない。社会批評的なものだって、匿名だからできる部分が多々ある。知り合いに警察関係者がいれば、実名で警察の悪口を書けるだろうか。〇〇社の友人がいるのに、その業界の裏話を書けるだろうか。※ましてや小学生に実名でのブログをすすめるという話にいたっては、驚きをとおりこしてあきれてしまう。子供が実名や写真をネットで晒して悪用されたらどうするのだろう。友人の万引きの話などを書いたら、その後始末はどうするのだろうか。はっきりいってネットに実名を晒すのは危険だし、人の実名を出すのはマナー違反である。そういうことを教えるのこそがネット教育ではないか。※ネットの実名化の促進なんてのは愚策を通りこして、国家による暴走である。実名を強要したらブログは死んでしまう。もしかしたらそれこそがこの「実名化促進」の目的なのかもしれないけど。ニュースソースhttp://www.kahoku.co.jp/news/2005/06/2005062701000377.htm
2005年06月27日
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人権擁護法案に関し、マスコミは妙に沈黙しているのだが、もう一つこんな法案も審議されるなんて。共謀罪…法定刑の上限が4年以上の犯罪については共謀したというだけで罪に問えるとするものである。上限4年以上といえばほとんどの犯罪がこれに該当する。現行法では予備罪ですら殺人や内乱など特定の犯罪にしかないのに、それをいっきにほとんどの犯罪について共謀の段階で罪に問えるとすることは刑法体系の大改変ではないのだろうか。なぜこんな重大な法案が、いままでまったくといっていいほど報道されなかったのだろうか。(参照 http://plaza.rakuten.co.jp/mz5na/diary/200506250000/)※この共謀罪の新設はテロ犯罪などに対抗するためのものだという。それならばなぜ対象となる犯罪の範囲をもっと限定しないのだろうか。上限が懲役4年以上の犯罪というのはいかにも広すぎる。それにまた、「共謀」という範囲も不明確である。例えば自分の掲示板に「〇〇の社長けしからんから今度抗議に行って5~6時間くらい部屋からでられなくしてやろう」と誰かが書いて、それに別の誰かが「うん、いいね」なんて書きこめば、それだけで監禁罪の共謀となって、掲示板管理者もタイーホされるのだろうか。そんなバカな?いまだって子供がどっかの掲示板に「東京タワーを爆破する」なんて書きこんだだけで逮捕されている。同じことを文字どおり便所の落書きで書いたり、バラエティー番組でタレントが言ったりしたら、まさか警察がでてくるなんてことはないだろう。どうも警察も報道もネットとなると過剰反応しすぎのように思う。何もかもネット弾圧だなんていう気はないが、この「共謀罪」だって使いようによってはネットつぶしにおおいに利用できるし、それでなくても現在の刑法についての大きな変革である。こんな重要な法案には、もっと全国民的な議論があってもよいように思う。※※見ていないのだけれども「バットマン」の渡辺謙が少ない出番ながらも怪演しているらしい。いつかハリウッドで主演なんてこともあるのだろうか。なんか怪人フーマンチューの役なんてぴったりだと思うけど。というよりも、武装集団を率いる謎の人物という設定自体、すでにフーマンチューが下敷きになっているのかもしれない。ちなみにフーマンチューとは20世紀初めに発表された「怪人フーマンチュー」という小説の主人公で、天才科学者にして稀代の悪人、その正体は全く謎につつまれた東洋人のことである。
2005年06月26日
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中学のとき、数学が大好きだった。単純な公理から展開した理論ですべてが説明できるという幾何の世界はすごく魅力的だったし、権力にこびず、感情にも左右されない数学的真理というのはいさぎよく思えた。それに比べると国語なんかは、いかにもつまらない。教科書にのる論説や小説は毒気をぬかれたものばかりだったし、「このときの主人公の気持ちを説明せよ。」なんて問題を出されたって、そんなの作者にきかなきゃわかるわけない。※のんびりした中学だったし、あまり才能とか能力とかそんなことは考えたこともなかった。しかし高校に入っての最初の衝撃は数学であった。入学前の宿題として因数分解の問題集が出たのだが、これがなかなか難しい。ようやく最初の授業に間に合わせ、「難しかったよね。」と前の席に座った子になにげなしにこう話しかけたら、その子はこういったものだった。「へえ~そう?」。そしてまもなく中間テスト。得意のはずの幾何は何と問題が4つしかない。たったの4つ。でもいずれも見たこともないタイプの問題ばかりである。中学の試験だったら、教科書の問題をちょっと変えたのしかでなかったから、全部わかったのに。せめて図だけでもかいておけば何点かはくれるかと期待して答案を出したが結果は0点。こんなのとったこともない点数である。※やっぱりこの高校にはついて行けないのだろうか。すっかり自信喪失ぎみであったが、活路はおもいがけないところにあった。古典の授業で教師はよく和歌や文語詩をきいたが、なぜかそれが知っているものばかりだったのである。ひまなとき古今和歌集や海潮音をよんでいたが、記憶力のよい時期でけっこうそれを覚えていたのであった。やがて、今までなにげなしに読んでいた文語の正確な意味を示す古典文法の授業がすっかり面白くなり、面白くなると、また、いろいろなものが読みたくなる。更級日記や今昔物語、大鏡など、教科書にでているよりも、はるかに面白いものが、いくらでも文庫本になっているのだから。※そんなわけで中学時代とはうって変わって、高校時代は国語ならよいが数学には悪戦苦闘であった。やはり、数学にはなにか天賦の才の力があるようである。そしてまたもう一つ…子供の頃は学力で人生が決まるというような迷信があったが、あれも嘘である。まあ、勉強して、大企業や官庁などに入るのもよいけど、学力とは関係のない資格や技術を身につけるのだってそれに劣らず価値あるものである。
2005年06月25日
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15歳少年の両親殺害事件は衝撃的であるが、報道された事実からうける印象は他の少年事件とはずいぶん違う。どこが違うかって…つまりこれって典型的な「少年事件」ではないか。少年法で少年に対して寛大な扱いをする理由として人格の可塑性ということがいわれる。少年は更生の可能性が高いから、犯罪者として人生を固定させてしまうのはよくないという発想である。しかし栴檀は双葉よりなんとやらの逆で、子供の頃から悪の萌芽のある方がより問題であるともいえないことはない。それなのになぜ少年法の考え方では、少年は人格可塑性に富むとしているのか。それは、たぶん、終戦直後の浮浪児など典型だったろうが、少年には自分の周囲の環境についての責任がなく、そしてその環境から逃れられないからであろう。※今度の事件の15歳少年も、そういった環境に流されてきたようにみえる。両親の営む電気店は数年前に倒産し、以来一家は寮の住みこみなどで生計をたてていたという。ちょっと想像だが、父親は少しやけになって妻や子供に辛くあたっていたのではないのだろうか。自分のプライバシーもない狭い家で休日も仕事を手伝うような生活に必死で耐えていた少年が、最後の自尊心を打ち砕くような父親の一言でキレて暴発したというのが事件の真相のように思う。そういう意味では少年は決して犯罪者タイプではない。福祉的なものも含め、周囲の援助があれば十分に防げた悲劇ではなかったかとも思う。※余談だが、少年事件というものは、どうも3つほどの類型にわけられるのではないかと思う。まあ、印象だけによる分類だが…Aタイプ 古典型。劣悪な生育環境の中で追いつめられて犯す犯罪。かっては浮浪児による窃盗が典型例であったが、家で暴力を振るう父親を殺害するなどもこのタイプである。Bタイプ 享楽犯罪型。女子高校生コンクリート殺人事件やおやじ狩りなどが典型。集団で享楽を追い求め、罪悪感に乏しい。犯罪者タイプの少年が多い。Cタイプ サイコパス型。酒鬼薔薇などが典型。「人を殺す経験をしてみたかった」という少年や佐世保市の首切り少女もこのタイプか。知能の高い少年が多く、単独で常人には理解不能の犯罪を犯す。少年法制定時にはA類型が多く、少年法自体がこれを前提にして制定された法であるともいえる。それが世の中が豊かになるにつれB類型が増加し、少年法見直し論が出てくるようになった。そしてC類型となると少年法の匿名主義自体に無気味を感じてしまう。板橋の両親殺しが純粋なA類型なのか、C類型とA類型の混合型なのかはまださだかではないが、いずれにしても、マスコミがいうようにネットやパソコンが原因ではないことは間違いない。
2005年06月24日
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やはり北朝鮮への「人道支援」は横流しされていた。飢えたアフリカの子供達よりも先に北朝鮮の子供達に同情するのは自由だが、ああいう体制のもとでは支援食料は横流しされ、換金されて武器開発等につかわれる。映像でみると問題の袋には堂々と日本政府寄贈、そしてその下には世界食糧計画と書かれている。昨年5月に日本から送った12・5万トンもの食料支援の結果がこれである。かの国の人は袋に書かれた「日本政府寄贈」の文字をみながら「日本が過去を反省して贈ってきた。これも将軍様の威徳のおかげだ。」と思うのだろう。日本の総理が北の独裁者に平身低頭し、部屋から出るところを見送りまでしている映像はかの国でも広く放映されているだろうから。「人道」とか「飢えた人々のため」とか、どんな枕詞をつけようと、日本からの援助は確実にかの体制を延命させ、圧政下での人々の苦難をそれだけ長引かせる。かの国の支配者にしてみれば日本からの援助を喉から手の出るほどほしい理由である。※これが韓国からの支援だとこうはいかない。韓国は民族共助の名の下に官民あげて北朝鮮支援に励んでいる。南北会談で要請があったという肥料の追加支援にもおそらく応じるであろう。ただ一般の人々には韓国からの支援ということは周到に隠されるのではないか。西から東への情報流入がヨーロッパで冷戦崩壊をもたらしたように、豊かな韓国の情報流入は北朝鮮の体制崩壊につながりかねない。かの将軍様は韓国のドラマを好んでみているらしいが、北朝鮮では韓国のビデオを見ることは禁止されている。大量に韓国ビデオを複製して売っていたという市民が公開処刑されたという話もある。それくらい北の支配者は韓国からの情報流入の防止に必死なのである。※韓国のビデオを見ただけで公開処刑もありうる北朝鮮の現状。こうしたことになぜ同じ民族であるはずの韓国政府が冷淡なのかよくわからない。60年以上前の植民地支配下の日本による人権侵害をあれほどいいたてるのなら、なぜ現在進行中の北朝鮮の人権侵害には沈黙するのか。なぜ一般市民を苦しませるだけの体制を延命させるための支援に必死になるのか。※そしてまた同胞に対する冷淡さという意味では日本政府も似たり寄ったりである。いうまでもなく拉致事件であるが、高齢の御家族の方が座り込みをやるというニュースがある。被害者救出や真相究明は本来政府が最優先でやらなければならないのに、なぜ家族が動かなければならないのか。被害者の御家族の映像がTVに映るたびにやりきれない気持ちでいっぱいになる。他国による国家犯罪の被害者救出のために何もしない、ただ風化を待っているとしか思えない日本政府の現状。「国連安保理常人理事国」の資格などとてもない。
2005年06月23日
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ニート・フリーター、ホームレス、自殺、年金財政そして悪化する一方の治安…別々に語られることの多いこれらの問題であるが、どうも、その根っこには共通する大きな原因があるように思えてならない。それは雇用不安である。人間は「どこか」に所属することではじめて安心感を得て、生活を律することもできる。かってはそんな役割を果していたのは、ムラであり、血縁共同体であった。そしてそういうものの影響力が消えた後にも、ながらくそれに代わる役割を果してきたのが会社共同体ではなかったのだろうか。※ところが今日では、会社共同体の一員である正社員になることが難しく、また現在正社員であったとしても、明日もそうであるという保証はない。昨今さかんにいわれている実力評価や成果主義といったかけごえはこうした傾向にさらに輪をかける。実力がないとか成果があがらないといった烙印をおされ、いつ共同体から放逐されるかわからなくなるのだから。マスコミなどで、ものをいっている人達はたいてい「実力」を認められている人達ばかりだから、おもてだってこうしたことに異をとなえることはしない。「痛みを伴う改革」のその痛みをひきうけた人達の声は社会の表面にでることなく、沈殿していく。※雨の日の夜、帰宅途中に2回も人身事故による電車のおくれにぶつかったことがある。人身事故と婉曲にいうが、はっきりいえば投身自殺であろう。もちろんその詳細は報道されることはないが、ふと想像する。祝福をうけてこの世に生まれ、楽しい子ども時代や青春時代だってきっとあったはずの人生。それをこんな陰鬱な雨の夜に、自分から生命を絶たなければならなかった絶望の深さはどんなものだったろうか。一説によると自殺の手段として電車を使うのは中高年が多いという。観念的な動機もある若者の自殺と違い、中高年の自殺は借金や経済苦などがほとんどである。衆人監視の中、公共交通機関を自殺の手段にするのが、その人にとってのせめてもの社会への抗議、強い言葉を使えば社会への復讐だからではないか。※「実力主義」や「成果主義」などいらない。「痛み」などももう沢山。今日を心静かに終え、明日のささやかな幸せを夢見ていられるような平穏な共同体の生活をかえしてほしい。
2005年06月22日
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思ったとおり人権擁護法案の反対集会の記事は朝日はスルーである。色つきまくりのプロ市民の集会は20人でも大報道するのに、何の組織もなく大勢の市民が集まった集会を無視するなんてどうみても世論操作としか思えない。さて、この人権擁護法案、別に問題ないという意見もあるようだ。曖昧な文言の法律など他にもあるというのである。たしかに破防法や刑法の一部などそういった文言をもつ法文は多い。しかしこうしたものはいずれも、規制の必要があって、あってなおかつそれを曖昧な条文でしか表わせないというものである。いったい、人権擁護法案がなぜ今必要なのだろうか。人権侵害といっても、その中味は千差万別である。恐喝におびえる中学生、上司のいやがらせに悩む気弱なサラリーマン、不自由をしいられる身障者。こうした人達全部に「人権」という網をかぶせるのではなく、それぞれの問題毎に個別に対処すればよい話であろう。警察力の強化や相談機能の充実など、べつにあんな法律をつくらなくてもやることはいくらでもある。※※韓国統一相が金正日と会談したとき、6者協議では「重要な提案」をすると発言したという。この提案の中味については北朝鮮版マーシャルプラン、つまり大規模経済支援という説もある。そうだとしたらノムヒョンが米国や日本と協議しているのは、その「大規模経済支援」提案の根回しなのだろうか。たしかにそれでもなければ北朝鮮の体制はもたない。言葉だけの「体制保証」など、何の役にもたたないのである。※なお、金正日は、「米国が国交を締結したらミサイルを廃棄する」ということも言っているらしい。小泉総理がメッセンジャーとなってサミットで伝えた「のどがかれるまで米国大統領とデュエットしたい」もこういう趣旨なのだろうか。そういえば、あの米中国交締結のとき、日本では「バスに乗り遅れるな」式の議論が沸騰して、中国との国交を急ぎ、以後、何年間も巨額ODAを支払いつづけることとなった。北朝鮮のねらっているのもこんなとこだろう。米国が北朝鮮と国交を結べば、「日本だけが取り残される」と騒ぐ人が必ずでてくる。中国との国交はやむをえなかったにしても、北朝鮮と国交をむすび、血税を使って体制を延命させる必要などさらさらないのではないのだろうか。たとえ米国が国交を結んだとしても…。
2005年06月21日
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平日の図書館に行くと驚くことがある。主婦や学生ばかりというのは、ほんのちょっと前までのイメージで、スーツ姿の男性が驚くほど多い。大体40代から50代くらいであるが、所在なげに新聞や雑誌を読んでいる、もちろん全部が全部というわけではないのだろうが、ああいう人の中には解雇などで失職した人がかなりいるのではないのだろうか。会社には行けないが、家でぶらぶらしていると近所の目もある。家庭もすさんでいく。自殺者3万人、そのうち失職や倒産などの経済的理由によるものは7000人から8000人に上るという。自殺者を1とすれば未遂者は10倍だという。失職や倒産で7万人や8万人もの人が自殺をするまで追い詰められているとしたら社会的大問題である。※新聞の論調を見るとこうした自殺をうつ病などのせいにする議論が多い。しかしこれはニートやフリーターを若者の就業意識の問題にしてしまうように、問題から目をそらす議論のように思えてならない。高止まりしている自殺者数もニートの増加も、いずれも問題の本丸は雇用問題ではないのか。終身雇用が崩れているというが、それは決して雇用流動性の高い社会になったことを意味するわけではない。雇用流動性の高い社会とは、仕事を辞めたことが次の就業のハンディにならない社会のことである。仕事を辞め、貯めたお金で学校に行ったり、留学したりしてステップアップを図っていく…そういうのを雇用流動性の高い社会という。日本では会社を「辞めさせられた」人間が次の仕事を探すのは極めて難しい。崩れているのは終身雇用ではなく、終身雇用の安心感である。※民間に比べて公務員は安定しているからよい。よくそんな言葉を聞く。たしかに倒産がないという意味では安定しているだろう。しかし、解雇という面でみると、法律上は民間も公務員もほとんど変わらない。公務員は懲戒、分限など解雇の理由は限定されているが、民間も判例法上「解雇権乱用の法理」が確立し、恣意的な解雇は行なえないからである。ただ、解雇された者がすべて法的手段に訴えるわけもなく、民間、特に中小企業では解雇されても泣き寝入りすることが多いから、結果、不安定になるのである。※公務員の雇用が不安定になったからって民間の雇用が安定するわけではない。それどころか公務員の解雇がより自由に認められるようになったら、民間の解雇もそれに合わせてもっと自由にできるようになるだろう。その意味で和歌山県の職員が分限免職で解雇された事案など、世の中、関心をもってよいと思う。従来は遅刻や行方不明など客観的事由にかぎられていた分限免職による解雇を「事務の不能率」にまで拡大したのである。「企画書を作れなかった」とか、「窓口で住民とトラブルを起こした」というのがその理由だというが、企画書などは一人で作るものではないし、そもそも企画書ができないのが特定の一人のせいなんてことは普通はありえない。窓口でのトラブルにしても、様々な住民がいれば偶発的に起こることもあり、必ずしもその職員の資質のせいばかりともいえない。たとえ窓口対応に不向きだったとしても、県庁であれば窓口以外の分野は沢山ある。免職になったのは40代の女性職員だというが、こういう例が定着すれば、40代、50代の男性職員だって、いつクビを切られるかわからない状況になるだろう。※当面倒産の心配のない大企業に勤めているが、別に企業中枢にいるわけでもなく、細々と事務などを行なっている七詩としては、和歌山の県職員解雇のニュースがとても気になるのである。これについては「親方日の丸に風穴が開いた。」とか「公務員も能率が悪ければ解雇が当然」という受け止め方が多いだろうが、本当にみんな他人事みたいに考えていていいのだろうか。明日は我が身かもしれないのに…。
2005年06月20日
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北朝鮮を訪問した韓国代表が満面の笑みを浮かべて金正日と歓談している写真を見た。訪問団の一人は無名兵士を称える北朝鮮の歌まで歌ったという。そんな写真を見ながら、ふともう一つの写真を思い出した。米国大統領が脱北して新聞記者となった男性と歓談している写真である。かの脱北者は北朝鮮の圧政を告発した本を出しており、米国大統領はこの本に非常に感銘を受けたという。はたして北朝鮮を訪問している韓国要人は彼の著書を読んだのだろうか。彼に会ったのだろうか。おそらくどちらもNOであろう。もし北朝鮮の人権抑圧の惨状に少しでも想像力が働けば、金正日を相手にあんなに屈託ない笑顔を見せていられるはずもない。※韓国は植民地統治下の日本の人権侵害の残酷さをいいたててやまない。ならば現在進行中の半島の北半分で行なわれている人権侵害については、どう思っているのだろうか。植民地支配がよかったなんていう気はもうとうないが、今現在の北の状況に比べれば植民地時代の方がはるかにましではなかったか。学校や保健所は作ったが、公開処刑場や収容所は作らなかった。大量飢餓も起こらず、人口は暗黒時代だったはずなのに3倍に増加した。それを考えると南北朝鮮が口をそろえて日帝の植民地支配の人権侵害を糾弾している図式などグロテスクですらある。※韓国ではよくウリミンジョク(我が民族)という言葉を使う。ウリミンジョクの自尊心とかウリミンジョクの優秀性といった具合である。この間、世界で初めてES細胞の培養に成功したファン博士などはそんなミンジョクの自尊心の最たるものだろう。Koreanは、民族意識の強い誇り高い人々である。それなのに、韓国の新聞をみるかぎり、北の同胞の圧政や国家犯罪については、あまり恥とかそういうものを感じていない。このあたりもちょっと不思議なところである。
2005年06月20日
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住民運動のチラシでこんなのをみたことがある。〇〇が建設されると私達は毎日死に直面した生活を強いられ…と。いったい死に直面する生活を強いるほど危険なものって何だろうと、あらためてチラシをよくみると、その〇〇というのは葬儀場。それも環境汚染などが心配される火葬場はまた別のところにあるらしい。それでも住民が反対している理由をみると、葬儀場があると雰囲気が暗くなるとか、「今日は子供だった」とか「まだ若い人だった」とか、そんなことが話題になることがたまらないとか、そんな理由であるらしい。なるほど、たしかにそれも表現のしようによっては「死に直面した生活」といえないこともない。※なぜ繁華街や住宅街の中に葬儀場を作ることに住民がこれほど反対するのであろうか。どうもこれは死を最大のケガレととらえ、ケガレたものはひたすら日常生活から排除して見えないふりをしたがる日本的感覚と関係あるのかもしれない。欧米の映画やニュースなどでは街中を棺桶を中心とした葬儀の行列が通る様子などがよくでてくるが、日本では屋根のついた霊柩車の車も嫌われるようだ。実際のところ、葬儀場の建設についての住民意識が他の文化圏ではどうなっているのか、気になるところである。※好むと好まざるをかかわらず、今年あたりから日本の人口は減少に向う。出産よりも葬式の方が頻繁に行なわれる社会がくるのである。我が家の近くの病院でも、この4月から小児科と産科が消えた。ホテルでも結婚式よりも葬儀を重視するところが増えたようである。街では結婚式場帰りの人よりも、葬儀帰りの喪服の方が目につく時代がくるだろう。葬儀社も成長産業で、その広告だってもっとみかけるようになる。あのホテルはお葬式の広告でよくみかけるから使いたくない…なんていうこともいえなくなる。日本は今後未曾有の高齢社会を迎えるというが、高齢のその先には死がある。「死に直面した生活」は真っ平御免、繁華街や住宅街の真中に葬儀場があるのは非常識だなんていうことだって、そのうちきっといえなくなる。
2005年06月19日
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人権擁護法案の成立をごり押しする動きがあるらしい。こんな法律が成立したら規制されるのはまずネットだろう。自分はネットでは立派なことしか書かないから規制されるわけもない…なんてのは甘い。ひめゆり学徒の体験を扱った入試問題文だって実際はごくまともな内容だし、黒人を使ったCMだって実物は見ていないがさして問題とするほどのものでもなかったのだろう。それが特定の人々の価値観をとおすと、あっというまに大問題にされ、スケープゴートになってしまう。あなたのブログや日記だって、突然、批判の矢面にたたないとも限らない。「言論の自由」を言論の特権だとかんちがいしているマスコミは一切ふれないが、人権擁護法案はネット規制につながりかねない怖さがある。日本を中国以上のネット規制社会にしてしまってよいのだろうか。※そして人権擁護法案のもう一つの怖さ。それはネット書き込みもそうだが、企業活動ではない個人としての行為を規制しようとすることである。たしかに世の中には規制の手法として立入調査や氏名公表を定めた法律は沢山ある。しかし、それは企業とか商店などを対象としたもので、個人に対する立入調査、つまり役人が書斎や個室にまでやってくる調査というのはきいたことがない。社会の中で経済行為を行なう以上は様々な規制に服するのは当然であるが、個人の行為に対する規制が、さして議論のないまま決まっていくのだとしたらこんなおそろしいことはない。※人権侵害といってもその態様は様々だ。障害者の問題、児童虐待の問題、職場でのパワハラやセクハラ、こうした問題は人権一般という網をかけるのではなく、個々の問題に応じたきめこまかい対策をとった方がよほど実効があがるだろう。ネットでの誹謗中傷や名誉毀損だって現行法で十分対処できる。それ以外の差別発言や差別を助長する発言となると、こんなものは規制する必要があるのだろうか。はるかに影響力の大きいマスコミを除外してネットでのこんな発言だけを規制しようという意図がよくわからない。かりに〇〇人はバカだといった発言をとりしまったところで、それで差別意識がなくなるのだろうか。きくところによると、ドイツでは法によって外国人に対する差別発言を禁じているらしい。しかしネオナチによる外国人襲撃などは頻発しており、いっこうにおさまる気配もない。しょせん言葉狩りによって差別をなくそうなんて無理なはなしで、そうしたものは抑圧すればするほど逆に隠微な形で広まっていくのではないのだろうか。※せっかく手に入れた市井の人間にとっての言論の自由。これがこんな先進国として恥ずかしいこときわまりない法律につぶされてしまってよいのだろうか。もちろんネット以前にも普通の人が意見をいう媒体として投書欄などがあった。でもああいったものはマスコミ好みの意見しか載らないし、ときにはマスコミが書かせているという話もあった。たとえばあのA新聞なら「私は進学校に通う女子高校生です。爆撃におびえるイラクの子供達(飢えた北朝鮮の子供達でもOKだが)の記事を読んで涙がとまりませんでした…」という感じのね。※※「黒人差別」だとして中止に追いこまれたあの広告。当の企業はモデルとなった黒人達にどう説明したのだろうか。きっと彼らは友人知人にも吹聴し、自分の映ったCMがオンエアされるのを心待ちにしていたはずである。いくらなんでも「あなたがたを類人猿と同視しているという抗議がありましたので中止しました」なんてことはいえないだろうし。
2005年06月17日
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こんな想い出がある。職場で仕事が終った後、居酒屋に繰り出してわいわいやっていたのだが、そのうち誰かさんと誰かさんが付き合っているらしいなんていう噂話に話題は流れていった。○○さんと△△さんが一緒にいたのを見たとか、□□さんは◎◎さんにふられたとか…。そのうち●●さんが看護婦さんと付き合っているという話を誰かがし始めた。へ~と相槌をうった途端、その場にいた上司が強い調子で口をはさんだので驚いた。「看護婦がなぜ悪い。差別をしちゃいかん」。いっておくけど、私達には「差別」なんてのは、全く念頭になかった。彼女が薬剤師だって栄養士だって、きっと同じようなリアクションをしただろう。※ただその年配の上司をみて、ふと思った。昔はやったとかいう定番のメロドラマ。青年医師と主人公の看護婦の恋路に病院長の娘がからむ。ふうん…そういうことだったんだ。階級社会だった昔は看護婦になるのは貧しい家庭の娘が多かった。だから医師と看護婦の恋は大変だったのだろう。しかし、今では看護婦は堂々とした専門職で看護学校は大変な難関である。少なくとも、私みたいなしがない事務職なんかよりよほどたいしたもんだ。「差別をしちゃいかん」なんていっている上司こそ差別してるんじゃないの。※差別だと言う方が、よほど差別をしている。同じようなことは、あるCMが中止になったというニュースでも感じた。数人の黒人の横でサルが人間のマネをするという映像だったというが、それが「黒人を類人猿と同視している。」とクレームをつけた人がいるらしい。どうしてそうなるのだろう。昔からサルが人間のマネをして笑いをとる映像などいくらでもある。たぶん黒人を使ってなければ、誰も問題にしなかったのではないか。それに、もしどっか外国のCMで日本人が宴会で盛り上がり、その横でサルがマネをしている映像を使ったらどう思うだろうか。たぶん異国情緒をだしたぐらいにしか思わない。それを大真面目で「日本人を類人猿と同視している。差別だ。」なんてクレームをつける人がいたら、普通の感覚ならこう思う。「そういうあんたこそ日本人をバカにしてるんじゃない?」と。正直、今回の件では、黒人の側から怒りの声があがるのではないかと心配している。もちろん怒りの対象はCM製作者ではなく、それに抗議を行なった人達である。
2005年06月17日
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いまでは誰知らぬもののない大企業であるアート引越しセンターは夫婦で経営する小さな運送屋さんから出発したらしい。また、ダイエーももとはといえば親から継いだ小さな薬屋が発祥だという。商売事業の世界ではこんな話がけっこう多い。ところで、もし、商店は家族経営以外はみとめないなんていう規制があったらどうだろうか。そうなったらアート引越しセンターもダイエーもなく、親の商売を継ぐ若者は「夢」を持つこともできないだろう。※ところで、こんなおかしな規制が今もって残っている領域がある。いうまでもなく農業分野である。家族経営以外はまかりならん…つまり腹いっぱい食えればそれで幸せだろう、それ以上の夢や野心は持つなということである。これでは意慾ある若者は農業を継がないだろうし、農業分野に魅力的な若者がいなければ嫁のきてがないのも理の当然である。農業政策に関する議論を聞いていると、いまだに「プロ農家」だの「中核農家」だのといっているのは不思議でならない。なぜ農業は「農家」、つまり家族経営でなければならないのか、そのあたりの固定観念からしてまず見なおすべきではないのだろうか。※農業も今では高度化している。単純な肉体作業など昔の話で、機械操作や農薬の扱いだって習熟が必要だし、作付けの計画だって実は高度の専門知識が必要である。農業だって他の産業と同様、今やそれぞれの人が得意や専門を活かして参加すべき時期になっているのではないのだろうか。品種改良の研究者もいれば、農薬の専門家もいるし、単純作業だけを行なう人もいるというように。親から継いだ農地を元に農業会社を起こして一大企業の創業主になる。こんな夢をもつ若者がいたってよいではないか。なぜ農業にかぎって会社経営が認められていないのか不思議である。
2005年06月16日
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昨日の日記にも紹介したが、リンクさせていただいているSOWONさんの日記にこんな記事があった。概略以下のとおりである。国際法律家協会IADLの大会がパリで開催されていて、そこでこんな決議が行われたという。日本国憲法第9条を変えることに反対する。なぜなら、第9条は、第2次世界大戦とアジアの植民地支配を反省した、日本の国家・民衆の世界の国家・民衆に対する平和の誓いだからである。第9条は、人類の希望の原理を指し示している、人類の宝であると言っても過言ではない。人類の希望の原理を指し示している、人類の宝を破壊することは絶対に許されない。部分的な引用の怖さは入試問題の件で指摘したばかりなので、関心のある方はぜひSOWONさんのところへ言っていただければと思う。http://plaza.rakuten.co.jp/mz5na/※意識するとしないとにかかわらず普通の日本人が権威を感じるものがこの中にすべてちりばめられているのがすごい。フランス、法律家、そして「国際」と。この権威あふれる国際法律家協会が、日本国憲法を「人類の宝」と評したのだからすごい話だ。まるで日本や日本人が人類の宝だといわれたようで面映い。こんな「人類の宝」を変えないでという決議がなされたのなら、ついなるほどといいたくなるが、ちょっと待てよ…と思ってしまう。この憲法第9条、そんなにすばらしいものならなぜこの法律家諸賢は、自国の憲法にもこうした条項を取り入れるように運動をしないのだろうか。この憲法が制定されてもうすぐ60年になるのに、憲法9条と同趣旨の規定のある憲法をどっかの国で制定したとか、自国の憲法にも9条同様の条項を取り入れるように運動しているとか、そういった話は寡聞にして聞かない。※自国の憲法には取り入れるつもりなどさらさらない非戦条項を、日本人だけは「人類の宝」として後生大事に守ってほしいなんてのは一種の差別ではないのだろうか。だって、それって自分達は軍隊をもっても立派にコントロールできるのだが、日本人は軍隊を持つと何をしでかすかわからないということなのだから。※差別といえば、マンダムかなんかのCMが差別だといって中止になったらしい。数人の黒人の横でサルが人間のマネをしている映像だったらしいが、それを見て、「黒人を類人猿と同視している。」と抗議をした人がいたらしい。でも、サルに人間のまねをさせて笑いをとる手法は昔からある。なんかそれって言ってる方がよほど「差別的」なような気がするのだが、大丈夫なのだろうか。
2005年06月15日
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性格がひねくれている(?)せいか、どうもあの「青年の主張」というのが苦手であった。貧しい環境、片親…私はこんなに苦労をしてきました。でも自分の努力で立派にそれを乗り越えてきました。大体こんな話ばっかりで、ありていにいえば、自慢話にしか聞こえない。それなのに、なぜか「くだらない」とか「つまらない」とかいうのをはばかられるような雰囲気があって、それがどうにもいやでたまらなかった。そんな大嫌いな「青年の主張」であるが、なんと教科書にまでついてきた。「青年の主張」を活字化した文章で、たしかタイトルは「いばらのみちをふみこえて」とかだったと思うが、貧しい家庭に生まれた筆者が、常に前向きに努力をして、定時制高校を卒業したというような内容であった。もうくさいのなんのって、勘弁してほしかったのに、感想文まで強要されて、本当にいやな想い出である。強い意思、逆境をはねかえす能力、そんなものを持っている人がいたら、おおいなる僥倖であって、うらやましいとは思っても、間違っても気の毒だとは思わない。ましてやそんなことを自慢げに語られたらムカツクだけだ。※「ひめゆり学徒」の話が「青年の主張」と同じだなんて言うつもりはない。でも、なんか「くだらない」というのがはばかられるような雰囲気、感動を強要させるような雰囲気って、ちょっと「青年の主張」に似ているのではないか。でもどんな話だって100人が聞けば、その中には退屈する人だっているだろうし、それがあたりまえである。もしひめゆり学徒が、話を聞いた人の中に退屈した人がいたといってショックをうけているのだとしたら、そもそもショックをうける方がおかしい。※「ひめゆり学徒」の体験談は歴史を伝えるという意味で意義深いし、それは否定しない。ただそのうえで、あえていうのだが、ああいう話を聞いて、多くの人が戦争の恐ろしさを実感したとしても、そんなことが平和維持にさして役立つとも思えない。それはちょうど、犯罪被害の悲惨さをいくら訴えたところで、犯罪の減少にはさして役にたたないのと同様である。犯罪抑止には警察力がなければならないように、平和の維持にも基地や軍隊がなければならないのである。※※リンクさせていただいているSOWONさんの日記で、パリで民主国際法律家協会(IADL)が日本の憲法第9条を宝だとし日本での改憲の動きに反対する決議を採択したという記事を読んだ。日本国憲法がこんなに高く評価され、日本人として誇らしいというべきなのかもしれないが、このすばらしい憲法9条が日本国内だけにとどまっているのは、どうして誰も残念だと思わないのだろうか。この憲法が制定されて60年近くになるのに、光り輝く憲法9条が他の国にも広まっていく気配はいっこうにみえない。ぜひ民主国際法律家協会(IADL)の先生方には、自国の憲法に「人類の宝」であるも第9条を取り入れるように運動をしてほしいものである。
2005年06月14日
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省エネ対策だか経費節減だか知らないけど今年は職場の冷房温度が高めに設定され、暑いことこのうえない。クールビズとかノーネクタイとか言っても人によりけり。何を着てもきまるひとはきまるが、人によっては本当におやじが家でくつろいでいるようにしか見えない人もいる。そしてもっと困るのは肥満体の人だ。夏用上着を着ればよいが、単なるシャツだとポッコリお腹が強調されて、みっともないことこの上ない。※省エネとか省資源とかいうけど、暑いのを我慢したり、レジ袋を使わなかったりするのって、そんなに効果があるのだろうか。一説によるとクールビズで潤うのは服飾業界だという。新需要開拓で、特に「かりゆしウェア」業者などは笑いが止まらないだろう。でも、生産が増えれば、そのために資源もエネルギーも使われる。※結局のところ、人が生きて豊かな生活をしていれば、地球環境を犠牲にせざるをを得ない。本当の意味で「地球にやさしく」あろうとすれば、人口を減らしていくしかないのではないか。だから省エネ対策で暑いのを我慢しましょうなんてのは、単なる自己満足としか思えないし、環境問題を叫びながら少子化を憂えるのは全くのところ自己矛盾にしかみえないのである。
2005年06月13日
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ひめゆり学徒の体験談を「退屈」と断じたというどっかの学校の入試問題が批判の的になっている。で、現物がどんなものか気になったところ、下記のような翻訳があった。http://plaza.rakuten.co.jp/oo00wa00oo/diary/200506100000/ざっと読んだ限りでは、戦争のような極限的な体験を言葉だけで伝えることには限界があるという趣旨で、問題の「退屈だ」という感想は、そうした文脈の中でわずかにでてくるだけである。※ふと、これを読んで、以前森総理の「神の国」発言が問題となった経緯を思い出した。あの発言は全体を読むと、宗教心が豊かでありながら、他宗教にも寛容な日本の風土について述べたもので、別におかしな発言でもなんでもない。それをあの「神の国」という一節だけぬきだすと、とんでもない発言のようにみえてしまうのである。別に森総理がよいとも思わないが、あのバッシングは明らかにアンフェアというものであろう。それと同様に、この入試問題だって、全体を見ると別に問題がないのに、ひめゆり学徒の体験談を退屈だとしたところだけをみると、問題のようにもみえる。政治家の発言や大新聞の社説ならともかく、一学校の入試問題の文章の一部を抜き出して、こんな記事にしたてる必要があるのだろうか。さらにそれを高齢のひめゆり学徒に伝えて、コメントをとるなど、マスコミによるいやがらせ(ひめゆり学徒に対する)ではないのか。※マスコミがどうでもよいことを騒ぎたて、それが原典をはなれて次第に拡大していく。悲惨な戦争体験を退屈だなんてとんでもない話だ、新聞で問題とされるようなことをしたのがとにかく問題だ…と、まあこんな具合である。本当にあの学校の入試問題関係者には、深く同情する。
2005年06月12日
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もうそろそろ終っているはずだが、韓米首脳会談はどうなっているのだろう。以前、韓国の新聞に北朝鮮版マーシャルプラン…つまり大規模経済支援なんていう話がでていたけれども、韓国の本音がそこらあたりにあることは間違いない。以下は想像というか、妄想である。※ノムヒョン「ブッシュ兄貴。このとおり。お願いだ。今度の6ヶ国協議で、核兵器を凍結するといいさえすれば、大規模経済支援を行なうと北朝鮮に伝えてくれ。北東アジアの平和と安定のためには、ぜひそれが必要なんだよ。」ブッシュ「経済支援ならあんたのところで今でもさんざんやっているのではないかね。民族共助だといって。」ノムヒョン「いやいや、あの国の破綻は大変なもので、ウリだけの支援じゃ焼け石に水。それに脱北者の定着援助の金だって財政を圧迫しはじめているし。ドイツみたいに吸収統一して今の生活を落すなど考えただけで悪夢だよ。」ブッシュ「しかし、あれだけの圧政に通貨偽造や麻薬密輸までやるような国を援助するなど我が国の世論は許さないよ。ウチは世界の警官を自認する民主国家だしね。」ノムヒョン「あんたらが金だせとはいってないよ。チョッパリがだすにきまってる。植民地支配のせいで国が分断されたのだから、北の窮状だって、もとはといえば、あいつらのせいさ。ブッシュさん。あんたからチョッパリに圧力をかけてくれればよい。」ブッシュ「…。」ノムヒョン「大丈夫だよ。あんたは6ヶ国協議で北への大規模経済支援をよびかけ、北との国交締結の用意があるといいさえすればよいのさ。そうすりゃチョッパリどもはたちまち『うちだけがとりのこされる』とか『バスにのりおくれるな』とかいいながら国交締結をあせるにきまっている。もちろんその後には過去の清算という名の大規模経済支援がついてくるわけさ。」※そういえば中国のときもこんなパターンだったのではないか。バスにのりおくれるなといわんばかりにあわてて国交を締結し、日中友好ブームの中で莫大なODA支援を行ないつづけた。中国は大国であり、国交締結も趨勢でやむをえなかったのだろうが、奇形的なテロ国家と国交を結び、大規模経済支援を行なう理由などは万に一つもない。たとえ、米国と北朝鮮が国交を結んだとしても…。
2005年06月11日
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北朝鮮が堂々と核保有を宣言しているのに…なんであんなに静かなんだろう。もちろんあの反核反戦の方々のことである。何年か前にフランスが核実験をやったときなど、大使館前でデモをやったり、ボージョレヌーボーは飲まないなんて騒いでいた人達がいた。どうしてあの人達は、今度は朝鮮総連の前でデモをやったり、北朝鮮のアサリや洋服は買わないよといわないのだろう。実に不思議だ。※考えてもみるがよい。人権や民主主義を国是とする遠いヨーロッパの国と、圧制を公然と行っている近くのテロ国家。核を持たせて危険なのはどちらなのだろうか。それなのにヒロシマの市長は沈黙し、ノーベル賞作家も何も語らない。落ち目のミニ政党の毒鳩オバサン達はいわずもがな。ぜひこうした方々のコメントを聞きたいものなのだが。
2005年06月10日
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出場決定おめでとう。それにしてもアジアって優遇されている。あのアフリカ大陸が5カ国(はなびらさん、ご指摘ありがとう)なのはまだしも、今のアジアのレベルで4・5ヵ国というのは多すぎる気がする。まあ、次回からはオーストラリアもアジアに参戦するし、かなり様子が変わるのかもしれない。それに、なんだかんだいっても、日本が出やすいのならそれにこしたことはない。※それにしても負けた北朝鮮。今度の大会ではまるで精彩がない。これがもしかして北朝鮮崩壊の序曲なのではないか・・・などとつい思ってしまう。米国の報道によると、現在、北朝鮮は大変な食糧危機で北朝鮮で、エリートとされる金日成大学の学生まで農作業に動員されているそうである。数日前の韓国の新聞には手作業で田植えをする農民を軍楽隊が鼓舞している写真までが報道されていた。ちょっと前まではこうした報道がなされること自体考えられなかったのではないか。情報というものは一方通行ではありえない。こうした情報が外に出ているということは、住民にも外部の情報が伝わっているはずである。北朝鮮の崩壊を怖れる韓国は支援にやっきとなっており、自治体レベルでも北支援は花盛りであるという。そして彼らにとっての重要な外貨獲得源である金剛山観光の韓国人観光客ものべ100万人を突破したらしい。情報は言葉だけではない。身なり、血色、体格、すべてが情報である。韓国人に接する北朝鮮人は全部が全部エリート階層ばかりではないだろう。韓国が北を支援すればするほど、豊な韓国の情報は北の一般市民に伝わり、それがまた体制をゆさぶっていく。※6カ国協議に北朝鮮がいつ復帰するかが問題となっているが、いったいその6カ国協議で何をやろうというのだろうか。北が望む核凍結の見返りとしての経済支援。それがはたして可能なのだろうか。かってとは状況が異なり北の暴政は広く世界に知られている。直接交渉をあてにしている米国は民主国家である。問題は、大統領が金正日を非難した発言を取消すかどうかなどということではない。これだけの犯罪的な国家に支援を行うことなど、米国の世論はとても許さないのではないのだろうか。
2005年06月09日
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東京の世田谷区で通り魔の男を警官が銃で取り押さえたという事件があった。これについての朝日新聞の報道にはおもわず首をひねってしまう。近所の人のこんなコメントを載せているのだ。「あのあたりは人通りの多いところでまきこまれる人がいなくて本当によかった。」確かにそうだろう。でも、警官が取り逃がすことなくその場で犯人を逮捕してくれて安心した…こう思った人だって多いはずである。近くに住んでいる者として私もそうである。たくさんいる住民の中で、なぜあえて警官の発砲を問題視するような人の発言だけを取り上げるのか、これって世論誘導ではないか。先日、中国人が職務質問の警官に発砲した事件があったが、今の日本の治安は丸腰の警官ではとても守れないところまできている。逮捕術や武道もよいが、射撃訓練こそもっと力を入れるべきであろう。※※日本がやっきとなっていた国連安保理常任理事国入りは米国の反対で頓挫したかっこうである。それ以前に、そもそも拒否権の扱いについてG4では意見がまとまっておらず、日本は「拒否権はあるが行使しない」ということで纏めようとしていたらしい。行使できない権利などはそれ自体言語矛盾であり、こんな概念が国際的に通用するわけがない。拒否権なしで常任理事国入りすれば、逆に拒否権のある常任理事国の優位が半永久的に固定されることとなり、中国をライバルとみるインドが拒否権なしの案に反対するのは当然である。※分担金を払っているのだから常任理事国になって当然とは常任理事国入り推進派の言であるが、これに対しては逆に、常任理事国でもないのになぜそんなに分担金を払うのという議論もあってしかるべきであろう。国連官僚の腐敗や浪費はつとに指摘されているし、世界共通語が英語に収斂しつつあり現在、国連公用語に中国語まで入れておく必要はどう考えてもない。国連の大口スポンサーとしてこうした無駄を見直しつつ、分担金のあり方についても検討していくのがあるべき方向ではないのだろうか。※ところが来年の予算では、常任理事国入りをめざすためODAを増額するという。方向がまるで違うのではないのだろうか。同じ税金の使い道でも町役場職員の会議のお弁当代や田んぼの文化ホールにはブーイングの嵐なのに、ODAとか援助とかいうとさして批判の声がでないのは、本当に不思議である。どちらも出所はわれわれの税金なのに・・・。
2005年06月08日
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前にも書いたが怪談の系譜の一つにドッペルゲンガーというのがある。自分が自分自身に出会うということなのだが、なぜ自分に会うということが幽霊や化け物に出合うことに劣らずそんなに恐ろしいのだろうか。考えられる大きな理由として、多くの物語でそれが凶兆、つまり死や発狂の前兆としてとらえられていることもあるのかもしれない。※今昔物語には灯火の中にある女房の姿が生きているようにうかびあがったら、ほどなくして当の女房は死んでしまったという話があるし、江戸時代の奇談にも「影の病」といって書斎の戸をあけると自分にそっくりの男の後ろ姿をみたところ、しばらくして本人が急病で死んでしまったという話もある。もっとさかのぼって六朝時代の中国の怪奇小説集「捜神記」には畑から戻ったところ床に自分そっくりの男が寝ている姿をみた農夫が2,3日して発狂したという話がある。自分そっくりにみえるものは、自分の魂だったり生命だったり…という解釈なのだろうが、江戸時代の話でも、中国の話でも、自分の影がなんてこともない日常生活の中で突然現れるのが無気味である。このほかにも妖怪に分類されている「ともかずき」なども凶兆の一種なのかもしれない。これは、海女が海中で自分そっくりの女がもぐっている姿をみることが時々あるという。これを「ともかずき」といい、これを見た海女はしばらくは海に潜ることをひかえるのだという。※これをさらにひねって、出合うのが今の自分ではなく、過去(将来)の自分というパターンもある。どっか外国の話だが、ある少年が川に落ちて溺れている人を助けたという。その人を岸に上げ、人を呼びに行こうとして振りかえるともうそこにその人の姿はなかった。不思議な記憶としてずっと引っかかっていたが、後年ひさしぶりに故郷を訪れた男はふとしたはずみで川に落ちてしまう。すると向こうから泳いでくる少年がいる。それこそは何年も前の自分自身の姿だった。実話ということで子供向けの雑誌で読んだのだが、さて本当のところはどうなのだろう。見てもすぐにはわからない過去(将来)の自分ということで、怖さはいまいちのせいか、このパターンの怪談は多くはないのだが、今読んでいる高橋克彦「緋い記憶」はこの中での数少ない傑作の一つなのではないか。いずれも不確かな記憶をモチーフにした連作であるが、もしかしたら幼い日のあいまいな記憶をたどっていくと、案外どこかで将来の(今の)自分にあっていたなんてことがある…わけはないか。
2005年06月07日
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北朝鮮には「苦難の行軍」という言葉がある。これはもともとは抗日闘争に使われていた用語だというが、最近ではもっぱら1994年の金日成死亡後の大飢饉を指して使われることが多い。もちろん正確な数字はないのだが、一説によると150万から300万人の人が餓死したといわれる。※この苦難の行軍であるが、最近の北朝鮮では「第二苦難の行軍の備えよ」という住民に対する指示が行われているという。世界食糧計画WEPの最近の記者会見では、今年になって米国が支援を停止したために北朝鮮の食糧難がいっそう深刻化したといっている。なにしろ、外務省職員さえも週末には農場支援に行くように指示されているらしい。※前回の苦難の行軍は、国際社会からの支援で乗り越えたというが、今回はどうであろうか。前回と今回とでは決定的に違う点がある。それは住民の持っている情報量である。前回のときは住民はおそらく国外の情報をほとんど有していなかった。だから飢餓は飢餓としても、それは天災であり、耐え忍ぶしかなかった。ところが今では豊かな韓国の情報は、ビデオなどを通じてかなり行き渡っているし、中国でさえ自分達よりもましな生活をしていることを知っている人も多い。前回のように住民はただ耐え忍ぶだけですむとは、とても思えないのである。大量のエクソダスが始まり、中国、韓国をもまきこんだ政治変動が起こる可能性だって。そう遠い日のことではないのかもしれない。※さらに付け加えれば、前回のように米国が食料支援を行なうことはあるであろうか。この可能性は極めて少ない。いまや金正日は米国の大衆文化においてフセイン後の「悪役」としてすっかり定着しているという。前回は一般の米国人は北朝鮮に対してほとんど情報も関心ももっていなかったが、今回は違う。民主主義国家米国が一般の大衆感情に反してまで「悪の独裁者」の政権を助けるとはとても思えない。
2005年06月06日
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偽募金が問題となっているらしい。偽募金云々というけど、本当の募金ってそんなによいものなのだろうか。スマトラ募金、新潟募金、アフリカの子供達に…街をあるけばいくつかの募金活動に必ずぶつかるのだが、そういうのをみるとついついいいたくなる。「そんなに金をわたしたければ、一日つったっているよりも、どっかでアルバイトでもして、その金をそのかわいそうな人達にわたしたらどうなんだ」と。仮に純正な目的の募金だったとしても、ただ、たっているだけで「良いことをした」という満足感を得るのってやはりおかしい。第一、あの募金をしている御本人は、自分の懐の金をいくらさしだしたっていうのだろうか。※ボランティアに行くことはできないけど、わずかでも金をさしだしてできるだけのことはしたい…という人は世の中にいる。そういう人のためには、マスコミや大企業、公的機関などが戦闘にたって募金をあつめればよいのではないか。街頭にたっている有象無象の人々ではどうにも信用できない。※そしてまた、ああいった募金活動で、どうにも不思議でならないことがある。中高生くらいの子供達がよくやっている○○遺児奨学金の募金である。今時進学にはお金がかかるし、母子家庭の経済が苦しいのも分かる。でも、なぜそれが○○遺児というように父を失った理由毎に募金を集めなければならないのだろうか。交通遺児、災害遺児、ガン遺児、自殺遺児…ああいうのをみていると、離婚で父を失ったり、未婚の母などでもともと父のいない子供達は最後まで残されるのかなあなんてつい思ってしまう。子供にとっては父を失った理由なんて関係ない。どうして「○○遺児に進学の夢を」ではなく「父親のいない子供達に進学の夢を」とならないのだろうか。募金をやっている子供達には悪いけど、ああいうものに募金したことは一度もない。
2005年06月05日
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出生率低下で年金財政がピンチになると騒いでいる人たちがいる。少子化をなんとかしろということらしい。こんな議論をきくといつも疑問に思う。そもそも子供って年金を払うために生まれてくるのだろうか。そんなわけはないじゃない。※たとえば皆が85歳まで生きる静止人口社会を想定してみればよい。高齢化率は20÷85で24%にもなる。超高齢化は皆が長生きできるようになった結果で大いにけっこう。おまけに医療も発達して元気な60代や70代も増えてきているし、産業構造だって変わってきて、肉体労働以外の仕事もたくさんある。つらい畑仕事を引退して老人になったら楽隠居で暮らすなんてもう過去の話。65歳になったら働かないで遊んで暮らすのが当然の権利だなんて考え、そんな制度を維持しようと思う方がムシがよすぎるのではないか。※そう考えると少子化なんてよいことばかりである。育児や子育てに投入されてきたコストを今後は老人介護にふり向ければよい。若い人が減り、人手不足になれば、その分、元気な高齢者を雇えばよい。遊んで年金暮らしよりも、堂々と働いて給料を取ったほうが社会にとっても本人にとってもはるかにhappyである。介護や医療の保障は必要なのかもしれないけど、苦しみを長引かせるだけの高額の終末医療などは見直せばよい。65歳以上は決して介護予備軍や社会のお荷物ではない。高齢化を嘆かわしいもののようにとらえ、何人で何人のお年寄りを支えるといった議論はそろそろやめにしてはどうなのだろうか。※それに、少子化といったって、赤ちゃんは生まれてすぐに働き手になるわけではない。これから生まれる赤ちゃんは、とても超高齢社会の到来には間に合うわけもなく、かえって扶養人口が増えるだけ社会の負担は大きくなる。ぶっちゃけ少子化対策で税金を使うのなんかやめたらどなのだろうか。
2005年06月04日
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あの謎のピアノマン…一時はチェコのピアノ奏者といういかにもそれっぽい話が出てきまりだとも思ったのだが、これも本人がでてきて否定したため、またまた正体は霧の中といったところである。正体不明もよいけど、そろそろ次の展開がないと、この話題も忘れ去られてしまいそう。金髪でどっきり、ピアノで胸キュンの世のミーハー(あ、私もそうか)も、単なる言語障害の精神病患者じゃ、いつまでも関心を持つわけにもいかない。そろそろ何かしゃべってよというのが本当のところである。※それに、この人、「発見」されてかなりになるのに、いまだにあの変な写真数枚しか公開されていないのがなんとも不思議だ。血液型とか特徴とか身元手がかりになるものって他にもいくらでもあるだろう。映画の宣伝は考えすぎにしても、ここまで情報が少ないと、どうもなにかのやらせくさい匂いもしてくる。※で、この話題が完全に消えないうちに、ちょっと想像してみる。まずは国際謀略ミステリー編。もしかしたらこの人は極東某国の工作員ではないのだろうか。007最新作にたしかそんなのがあったかと思うが、極東人種が手術で西洋人になるのである。マイケルジャクソンの例もあるし、今の医学ならそれは決して不可能ではないだろう。だとしたら身元がわからないのもあたりまえ。工作員がいやになっていたのか、それとも知名度?を活かしこれから情報をとるつもりなのかはわからないけど。※次はもっとありふれた少女マンガ編。彼はやはりどっかの王子様で、物語としてはこんな展開はどうだろうか。記憶喪失で発見された金髪の美青年(やっぱ美青年でしょう)はヒロイン(読者が感情移入しやすいように容姿は並で性格のよい子)の愛と献身によって次第に回復していく。実は彼はさる貴族の家の正当な継承者であったが、お家騒動のからむ犯罪行為にまきこまれていたのであった。次第に記憶をとりもどしはじめた青年はヒロインの助けもかりながら、自分の正当な地位をとりもどしていく。そして最後はお城で、新しい当主となった彼とヒロインとの盛大な結婚式が行なわれる…なんてね。誰かこんなドラマかマンガを作らないかなあ。作るわけないか。
2005年06月04日
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人権擁護法案がまたまた蠢動している。マスコミはこれをもっぱら「委員の国籍」と「マスコミ規制条項」だけの問題にしたがっているようであるが、とんでもない話である。政治家の北朝鮮批判の発言が問題にされるおそれがあるというのなら、一般人の発言だって問題になりうる。要は、北朝鮮籍の人が人権擁護委員になれるかどうかではなく、こうした発言そのものを法で規制することの是非であろう。※どうやらマスコミは規制の枠外になるようだから、一番規制される言論は何か。それは、ネットではないか。人権擁護法案の本質はネット規制であるとみるゆえんである。たしかに人権擁護法案が成立したからといって、ブログが次々と規制されるなんてことには、すぐにはならないかもしれない。しかし忘れてはならないのは、法律には直接の規制効果のみならず、萎縮効果というものもあることである。もし、「差別を助長させる言論」が規制されるようになれば、多くの人は日記や掲示板での批判的言辞をひかえるようになるであろうし、この楽天のように匿名で日記を書けるサイトも閉鎖されてしまうかもしれない。※つぶやきでも囁きでもよい。せっかく手に入れた、普通の人が普通に意見を発信できる媒体が消えてしまうことが残念なのである。報道によると、人権擁護法案の反対派は代案として、規制の対象を「人権侵害となる違法行為」に限ったものを用意しているという。これこそ人権擁護法案の、最もおかしな点ではないか。人権侵害となる違法行為は、すでに他の法律で違法とされているのだから、その法律の機能を充実させていけばよい。児童虐待の問題なら警察と児童相談所の連携強化や困難をかかえた父母へのサポート。職場の人権侵害なら法律相談などの充実。そうした個々の分野毎の対策以外に、ことさら「人権擁護」といって人権一般に網をかけた法律が、今の時点で緊急に必要だなんてどうしても思えないのである。
2005年06月03日
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出生率が低下しつづけているらしい。環境問題や人口過密のマイナスを考えれば出生率の低下そのものはさして問題とも思わないのだが、その背景に、先の見とおしのたたない社会、希望のもてない社会があるのだとしたらそれは大問題である。※出生率の低下の原因としてよくいわれているものとしては、女性の高学歴化や社会進出、育児と仕事との両立の困難さなどがあるが、どうも昨今の出生率低下をみていると要因はそれだけにはとどまらないのではないか。結婚が選択の一つとなった云々ではなく、とても結婚どころではないという若者が増えているのである。具体的には、ニートやフリーターなどの正規雇用につけない若者達の激増…安定した将来が描けないのであれば、お互いに結婚などの利点はないし、ましてや子供を持つなどおもいもよらない。そして運良く正社員の職につけたとしても、それすらかってのように安心感をもたらすものではない。終身雇用が崩れてきているというが、これは決して雇用流動性の高い社会の到来を意味しているわけではない。中途で職を失った元サラリーマンが次の職を簡単にみつけることができるのだろうか。次々と転職することによって適職をみつけていくという社会もあるが、残念ながら日本はそういう社会ではない。自殺者年間3万人、家出行方不明9万人という実態の中には、失職が理由となっているものもかなりあるのではないだろうか。人が安心して暮らせないような社会では、子供なんか育てられるわけもない。だから、逆をいえば、田畑というセイフティネットのある農村、親族による相互扶助機能が生きている沖縄などでは、出生率も高くなっているのである。※失職というが、実は私も他人事ではない。自分から辞表をかくつもりはさらさらないし、こういうことは会社内の人にはまず相談できない。このまま会社に居つづけるにしても、信頼していた先輩やよく一緒に飲みにもいった同僚が「敵」になっていくのは本当に辛い。こうした問題は私だけではなく、日本社会全体が安心感を失ってきていることの一つの現われではないのだろうか。急激な都市化で農村社会や親族扶助というセーフティネットを失い、今また、実力主義とかリストラとかいう掛け声のもとで「会社」というセーフティネットも崩壊しつつある。人々が希望を失い、子供が減っていく状況はまだまだ続くように思えてならない。※※天下の悪法「人権擁護法案」が、まだ蠢動している。どうして新聞は、これを委員の国籍条項とマスコミ規制だけが問題であるかのように報道するのだろう。政治家の北朝鮮批判の発言が問題にされるおそれがあるのなら、当然一般人のネットの発言だってひっかかってしまう。そしてこんな発言を問題にするのは外国人ばかりではない。日本人だっていろいろな考えの人がいる。問題の本質は国籍でもマスコミ規制でもない。この法律が成立すると、マスコミ以外の言論、はっきりいえばネットでの言論が規制されることになるのである。
2005年06月02日
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歴史というと、ついその流れを作った立役者の方にばかり目が向いてしまうが、実はその流れにまきこまれた数多くの普通の人々にもそれに劣らずドラマがある。日本の歴史の大きな転換点である幕末から明治維新にかけての時代もそうである。この時代というと、英雄や政治家中心に語られがちであるが、庶民にとっても、御維新は重大事であり、人生の岐路でもあった。※高祖父は信州でわさび農家を営んでいたのだが、身分制が撤廃され、農民も商売ができるようになると、直ぐに農地を弟に譲って街道筋で商売を始めたという。農民の子は農民で、そして一生農民というのがあたりまえの時代…それが維新になって、始めて「夢」というものを持つことができたのである。土地にしがみついて年老いていく未来しか見えないところに、突然起きた維新は、目の前が急に開けたようなものではなかったのだろうか。高祖父がはじめたよろず屋の商売はあたって、儲けたかねで着々と土地を買い集めたという。こうした農地は最後は競馬場ができるほどの広さになり、地代のあがりも相当なものだったという。※その高祖父には娘が一人しかおらず、そのため養子をとって家を継がせた。ただこの婿は早くに死んでしまい、娘は一人で農地を切り盛りすることとなった。娘、つまり曾祖母は学校にも行かず、字も読めなかったというが、計算にはめっぽう強く警察や裁判所に行ってよく議論していたという話だ。高祖父も、そして曾祖母も、私はもちろん知らない。競馬場ができたというほど広い農地も、農地改革で皆とられてしまい、今はない。※ただ高祖父や曾祖母の話は父や親戚から何度となく聞いており、知らないのだけれども、すごく近しいような気もする。父母は二人、祖父母は4人、曾祖父母は8人、高祖父母は16人。彼らのうち一人でも激動の時代に人生を全うできなかったら、今の自分は生きていなかった。そう思うとすごく不思議な感じがする。
2005年06月01日
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