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堺市市長選で維新の候補が敗北したという。もはや維新は既成政党という敗戦の弁もあるようだが、そもそも新政党と既成政党という区分自体あまり意味はない。新しいものはやがては古くなる。古いものにはよいものだから残った部分もあり、時流にあわなくなった部分もある。新しいものも単に目新しさだけをねらったものもあれば時流をとらえたものもある。新しいから…何かやってくれそうだから…と勝手に期待して失望する。こんなことはもうそろそろ終わりにしてはどうなのだろうか。新しいかどうかよりも何を言っているか、どんな主張をしているかが重要だろう。*ある調査によるとサラリーマンの給料は下がり続けているという。平均なので実態はもっと厳しいのかもしれない。http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-1591.htmlこれで円安による物価上昇や公共料金の値上げ、消費税まで加わったらどうなるのだろう。マスコミがもちあげるアベノミクスなるものと世の中の実態は違うのではないか…。さて、安倍総理は誕生日に総理番の記者からプレゼントを貰ったという。http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4807.htmlそれが悪いとは言わないけど、総理番の記者ってこういうのばかりなのだろうか。それとも複数いる中で若い女性を選ぶとこうなるのだろうか。別に若いからとか女性だからとかいう理由でダメという気はもうとうないけど、なんかこういうのって「権力の監視」とかいうのとは距離があるみたい…。漢字のささいな読み違いを低能のように罵倒された総理がいた。サメの脳みそと侮辱された総理もいた。それにくらべると今の安倍政権にはヨイショがめだつようでキモチ悪い。「こんな素敵なおじさまなら私応援しちゃおうかしら?それにおいしいものも御馳走してくれるし。」というのは冗談だが、なんかこの写真を見るとそれも納得…。*アカハタは復興扶養のブログを書いた官僚を猛批判している。たった停職2月もけしからんといわんばかりの鼻息だ。http://plaza.rakuten.co.jp/akatamago/diary/201309280000/本当にバカだなあ。官僚の毒舌ブログ処分と一般公務員やサラリーマンの共産党支持記事が処分されるのとは実は地続きのことなのに。
2013年09月30日
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厚生労働省次官が米国で行なった講演の中で「イクメン夫のおかげで次官になれた」という件があるという。http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130927-OYT1T00065.htm?from=ylist功なり名遂げた女性の講演というだけなら、これでよいのだが、この人は国家の労働行政を統括する立場の方である。イクメンどころか結婚もできない低賃金、不安定雇用の若者、イクメンどころか交際の時間もままならないブラック企業の跋扈。こうした問題にこの人はどう考えているのだろう。労働行政を統括する立場の事務次官として…。*脱官僚という言葉が非常に流行った時期がある。官僚主導が諸悪の根源のように言われた時期もある。ただマスコミの大合唱とはことなり、官僚が国家を動かしているなんてこと、当のマスコミも含め、あまり信じていなかったのではないのだろうか。どうみても、不安定雇用の増大、ワーキングプア、ブラック企業の問題。こうしたものを招来したのは労働官僚ではない。だからこそイクメン夫に言及した事務次官の講演について前述のようなコメントはどこも行なわないのだろう。**裁判の公開の原則は恐怖政治、暗黒政治と戦ってきた中で人びとが勝ちとってきた権利の一つである。今日では晒されたくもない醜い争いが公開されるのがいやで訴訟をためらったり、犯罪被害者が公開裁判を怖れて被害申告を躊躇するなど弊害も多々あると思うのだが、それでも、国家権力によって個人の人権が蹂躙されたときには公開裁判というのが大きな歯止めになる。もし、有る日突然に逮捕連行され、それが一切報道もされないとしたらどんなに怖ろしいだろう。全体主義国ではそういうことがあったし、不穏分子が精神病院に入れられることもよくあったという。PC遠隔操作事件についての報道もぱたりととだえているが被告人はまだ身柄を拘束されている。冤罪が明らかになった時には「犯人扱いした報道」も指弾されるが、「黙っている報道」というのも同罪なのではないのだろうか。この事件では、パソコンを使った犯罪であるにもかかわらず、「どのパソコンが犯行に使われたか」ということが検察の主張でもでてきていない。見れば見るほど不可解な逮捕、起訴、そして身柄拘束なのであるが、これが報道もされず、世間からも忘れられていることが怖い。誰にも知られないまま、深い穴に閉じ込められているような…。必見http://www.asyura2.com/13/senkyo154/msg/265.html
2013年09月29日
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官僚のブログ騒動については別の目でみている。問題のブログをみたわけではないが、報道で見る限り、別に法にふれることを書いたというわけでもなさそうだ。内容や表現については問題は多々あるにしても、あの程度ならババア発言の知事や毒舌タレントだって言いそうなこと。それよりも、匿名のブログが発信者が特定されて、大騒動になって辞職にまで発展した事態になったのが怖い。こういうのは国の官僚だけの問題なのだろうか。こんな発言もある、けしからん…といいだせば、国の官僚から一般の公務員、そして公的企業の役員から一般社員、普通の企業の社員とどんどんと範囲が広がっていきそうな気がする。公務員には信用失墜行為による懲戒というものがあるが、同様の規定は民間企業にだってある。ネット上でもそのうち自由な立場の人以外は、政治的なテーマや社会的なテーマは書けなくなっていくのかもしれない。マスコミが声をそろえていっている無難な主張や情報とは別のものがあるからネットの言論は面白いのに…。官僚のブログが叩かれ辞職したとき快哉を叫んでいた。某市職員のブログが叩かれ懲戒免職になったときもザマアと思っていた。某企業の役員のブログが叩かれ辞職したときも関係ないと思っていた。某企業の社員のブログが叩かれたとき…そのときにはもう遅かった。*官僚が匿名ブログで毒舌タレントまがいのことを書いて処分されるのと、一般サラリーマンが匿名ブログで政府の施策批判や会社の支援する政党の批判をして問題にされるのとは実は地続きなのではないのだろうか。三浦綾子の小説「泥流地帯」に貧しい子供のお弁当の薯を米のおむすびと取り換えっこした教師が「皆が同じようなものを食べるのを是とするのは危険思想」だといって批判される場面がある。貧困や格差の問題を提起すれば、それも見る人によっては「危険思想」や「不満分子」にみえるのかもしれない。匿名ブログの実名さがしがあちこちで行なわれれば「スポーツ用品の会社の社員がオリンピック批判をした」、「営業の○○さんが社長の著書を批判していた」、「うちの社は何党を応援しているのに、別の党が選挙に伸びればよいなんて書いていた」といったことも問題になりかねない。そのうち政治社会テーマのブログなど衰退していくのかもしれない。そしてネットのブログと言えば、うちの子供や孫がどうしたとか、うちの庭になんの花が咲いたのとかそんな話題しか書けなくなっていく。
2013年09月29日
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方丈記を読んだ後、同じ本に収録されている発心集をよんでいる。不安な時代…様々に往生を願う人びとの話を集めたもので作者が直接見聞したものもあれば説話に近いようなものもある。*そのうちの一つ。入間川のすさまじい洪水の話がある。入間川のほとりにある男が住んでいた。大雨のときも当初は堤防があるからと安心していたのだが、夜中に突然雷鳴のような音がして外に出るとあたりは一面の水で海のようになっている。五月雨とあるので梅雨のおわりによくある水害だったのだろう。水はたちまち天井にとどき、家族ともども屋根にのがれるが、やがて柱の底がぬけ、家は湊の方に流れていく。「もうだめだ。海にでれば家もろとも波に砕かれてしまうだろう。今飛び込めば助かるかもしれない」とそう思った男は水に飛び込む。もちろん流されゆく屋根の上では、「私達を捨ててどこに行くのですか」と妻や幼子が叫んでいるのだが、どうしようもない。洪水の中を泳ぎに泳ぐのだが、浅いところは全くなく、陸かと思ってつかんだものは、木の葉や枝などがあつまった塊であった。男はそれをつかんだもののなお流されていく。悪いことにその塊の中には水を逃れた蛇が何匹もいて、それが体にからみつく。天のたすけか、ようやく空が明るくなるころ、浅い所にたどりつき、命だけは助かることができた。やがて元気が回復すると、あたりの様子をみてみる。そこでは波に壊れた家々が算木を散りばめたように散乱し、汀には数知れぬ人間や馬牛の死体が打ち上げられていた。その中には妻や幼子の遺体もある。家のあったところにいってみると、一面何ひとつない川原のようになっていて、多くの人が住んでいた痕跡はあとかたもない。蓄え置いたものなどもすべて一夜のうちに消えてしまったわけだ。*こうした災害の様子を書いたあと、鴨長明はこう続ける。自分はこうした目にはあわないという人はなんの根拠でそんなふうに思うのだろうか。人の身ははかなく、この世は苦しみを集めた世界だ。そして自分の身がはかないからといって、どこにも行かないというわけにもいかない。海賊が怖ろしいからといって宝をむやみに棄てるわけにいかないのと同じである。ましてや人に仕えて罪にとわれたり、妻子のために身をほろぼすなど、災難にあう例は数かぎりない。害にあう理由だって様々だ。ただ極楽に行く場合だけが苦しみを逃れる手段である…と。**官僚のブログ騒動については別の目でみている。問題のブログをみたわけではないが、報道で見る限り、別に法にふれることを書いたというわけでもなさそうだ。内容や表現については問題は多々あるにしても、あの程度ならババア発言の知事や毒舌タレントだって言いそうなこと。それよりも、匿名のブログが発信者が特定されて、大騒動になって辞職にまで発展した事態になったのが怖い。こういうのは国の官僚だけの問題なのだろうか。こんな発言もある、けしからん…といいだせば、国の官僚から一般の公務員、そして公的企業の役員から一般社員、普通の企業の社員とどんどんと範囲が広がっていきそうな気がする。公務員には信用失墜行為による懲戒というものがあるが、同様の規定は民間企業にだってある。ネット上でもそのうち自由な立場の人以外は、政治的なテーマや社会的なテーマは書けなくなっていくのかもしれない。マスコミが声をそろえていっている無難な主張や情報とは別のものがあるからネットの言論は面白いのに…。官僚のブログが叩かれ辞職したとき快哉を叫んでいた。某市職員のブログが叩かれ懲戒免職になったときもザマアと思っていた。某企業の役員のブログが叩かれ辞職したときも関係ないと思っていた。某企業の社員のブログが叩かれたとき…そのときにはもう遅かった。
2013年09月28日
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国語審議会の調査では「ざっくり」、「きんきん」などの言葉について新しい意味が定着しているという。そういえば10年くらい前を考えても、「ざっくりと説明」とか「きんきんに冷えた」なんて言い方はあまりしなかった。「はじける」なんて言葉もせいぜいカタバミの実につかうくらいで今のような意味では使わなかったんじゃないか。「説明のキモ」とか「生きざま」なんて言葉もそんなに古くない。言葉の意味や使い方は時代とともに変わる。人びとの生活が変わるように、言葉も変わる。最初はみだれだの誤用だのといわれるが、そのうちにそれが普通になっていく。ながれにうかぶうたかた…のように言葉もまた無常である。*反面使われなくなった言葉もある。「ナウい」とか「イマい」といったってわからない人も多いだろう。「モダン」なんていう言葉はモダンどころか昭和の匂いがする。古語「今めかし」が使われないようにこの手の言葉は寿命が短い。新しいものはすぐに古くなる。「OL」とか「オールドミス」とかといった言葉もあまりきかない。「売れ残り」も同様。BGにいたっては完ぺきに死語である。評論家がムリに使ってひろめたような「ぬれ落ち葉」、「わし族」なんてのもきかない。人びとの生き方がかわれた言葉もまた変わっていく。「女だてらに」、「男勝り」、「女の細腕」とか、そんな言葉も絶滅寸前だろう。*こんなふうに言葉の変遷はめまぐるしいようだが、それでも意外に変わっていないのはおどろくばかりである。最古の書物である古事記は奈良時代に編纂されたが、もとが口伝であることを考えれば実際の成立はもっと昔にさかのぼる。その古事記には今と同様の単語がいくつもでてくるし、もってまわったいいまわしも少ないので、今の人が普通に読んでもかなり理解できる。魏志倭人伝の邪馬台国の記述には「ヒミコ」とか「ヒナモリ」という語がでてくるが、ヒミコのヒはおそらく日であろうし、国境警備のヒナモリは鄙と守であろう。「守る」は目と守るの複合語で、それを遡ると卑弥呼の時代にいきつくということになる。言葉は川底と川の表面のようなものなのかもしれない。川の表面の泡は消えたり生まれたりするけれども、底の流れはかわらない。日本語も様々な言葉が生まれ、消えていったが、古事記は現代の人が読んでも大意がわかるし、万葉や平安の歌もいまなお人口に膾炙し、多くの人に愛好されている。**「気の置けない人」とか「情けは人のためならず」とかけっこう真逆の意味で使っている人もいる。そのうちに反転した意味の方が「正しい用法」になるのかもしれない。
2013年09月27日
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JR北海道では事故の後、レールの問題個所の放置など様々な問題が噴出している。効率や利益を前面にだして、様々な公的部門の民営化が行なわれたが、効率優先、利益優先というのは、実は多くの人びとから仕事に対する誇り、そしてそうしたものを通じて得られる人生の喜びを奪っていってしまうものなのかもしれない。そして、それはめぐりめぐって結局は全体の効率を阻害し、大きな目で見れば社会の利益にもならないのではないか。こんな大きなニュースにならなくとも、誤配や紛失などの郵便事故は普通に起きるようになったし、様々な場で労災や市民をまきこんでの事故も増えているように思う。以前なら道にでっかいクレーン車が重い資材なんかぶらさげていても別に怖いとも思わなかったのだが、最近では、そうしたものがあると、できるだけ急ぎ足で通るようにしている。*人間に能力の差がある以上、平等などは実現不可能な見果てぬ夢であることは間違いない。ただそうしたものの結果としての「格差」にはおのずから適正な程度というものがあるのではないか。だいたい勝ち組にしてみたところで、多くの使用人を顎でつかいながら王侯貴族のような生活をするのと、安全な街を歩き、買い物をし、公共交通機関やタクシーを利用できるところで暮らすのとどちらがよいのだろうか。それに格差が身分でも血筋でもなく、能力や運によるものなら、勝ち組の子供が子子孫孫勝ち続けるなんて保障はどこにもない。今、勝ち組とされる人びとも、自身の子供や孫のことを考えれば、格差がそこそこで普通の人がそれなりに暮らせる社会を残しておいた方がよいように思う。*格差で想い出したが、戦前の日本は酷い格差社会であった。そうした社会ではお金持ちは広大な邸宅に住むものと決まっていて、だから戦後の高度成長期やその後の景気のよかった時代に金をためた人の中には広大な邸宅を購入して人生の成功を実感している人も多い。ただ戦後の日本は戦前とは違う。鉄平石の門に芝生の庭。それに二階建ての広い邸宅。こんな屋敷はありふれているが、ときどきそんな庭を外から眺めると、邸宅の奥様らしい人が麦わら帽子をかぶって草むしりをしている。暑いさなかに一日草むしり…ご苦労なことである。平成日本も貧困が広がっているのだが、じゃあ、邸宅で貧しい人びとが顎でつかわれるような時代になるのだろうか。それはならないと思う。かつては貧乏人といったって農村などの地縁共同体や血縁共同体の中に組み込まれていて、それで使用する側も安心できたし、社会もそれなりに安定していた。よいとか悪いとかではなく。それにひきかえ今増えているのは結婚もできず、地縁も社縁もなく、無縁社会の中を漂っているような人びとである。いわば安定した貧困と不安定な貧困との差異である。日本の貧困はアフリカよりもマシだともいえるが、より深刻だともいえる。**平成不況のあとの陽炎のような好景気をイザナミ景気という。思えばなんて不吉な名称をつけたのだろう。イザナミは火の神を生んで死に、その死のケガレから諸々の禍つ神が生まれた。日本の福島では原発事故が起き、その災禍は今なお拡散している。
2013年09月26日
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マスコミ報道をみていると景気回復だのオリンピックだのとうかれた報道ばかりを行なっているのだが、現に進行していることは物価上昇であり、これに増税が加わったらどういうことになるのだろうか。それにまた消費税増税について枕詞のようについていた「福祉」もいつのまにか消えている。http://sun.ap.teacup.com/souun/12111.htmlそういえばブラック企業対策というのはどうなったのだろう。政府は一時企業名公表とか電話相談とか言っていたようだが、その後の続報はない。かわりに聞こえてくるのは残業代タダとか解雇自由化のための雇用法制の改正の話だ。これらの施策については法制化もまちきれないのか、特区を作ると言う話も進行中である。これでは長時間労働で残業代もでないブラック企業が増えるばかりでなく、近い将来、職を失う人も続出するかもしれない。こうした施策は選挙前から自民党は公言していた。この政党に票を投じ、内閣を支持している人がこんなに多いなんて…この国にはマゾしかいないのかしら…。*昨日テレビでニートの電話相談について報道していた。対応は主にカウンセラーなどがあたり、精神衛生や面接指導の問題としてとりあげられていたのだが、これだと問題はもっぱらニートの側にだけあるみたいでなんら解決にはならないように思う。椅子の数が少ないのに椅子取りゲームの勝ち方を教えたって仕方がないじゃない。初めから職がなかったり、職を失ったりすれば、求職活動を行なう。そして求職が思うようにならなければそのうちあきらめる。かといって資格などのための学校に通うのは金がかかるが、その金もない。ニート問題の主戦場は雇用であって、精神衛生ではない。もちろん鬱屈した中で精神を病んでいく人は多いのだろうけど。解雇自由に残業代タダ。こんな政策が実現したら今にも増してニートが増えていくことだろう。ニートというのは近代的な呼び方で古典的には遊民、流民という。**テレビで「神の数式」という番組をみた。内容は難解なのだが、素粒子論の数式でくりかえしでてくる数というのがあるらしい。その数は496。古代ギリシャではこの数を神の数といっていたらしいのだが、偶然なのだろうか。もっとも、496というのは3番目にでてくる完全数〈約数の総和がその数に等しい数で6、28など〉であり、完全数の概念自体はそう難解でもないので、古代人がそれを発見していても不思議ではないのだが…。
2013年09月24日
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年齢とともに読書傾向も変わる。昨日、昔のようにSFに対しては興味をもてなくなったと書いたが、その反対にがぜん面白く読めるようになったものがある。それは古典である。方丈記を再読したがこれが面白い。以前…といってもはるか昔で高校時代であるが、読んだ時には暗いだけで面白くもなんとも思わなかったのだが、今読んでみると前半の災害のリアルな描写も後半の老年期の心境をつづった部分も時代をこえて通じるものがある。そして三大随筆とよばれているが非常に短く、有名な「行く川の流れは絶えずして…」の冒頭から読み始めても30分もあれば読み終えてしまう。*時代は源平争乱の時期。これを合戦の主役となった英雄やその周辺の女人に焦点をあててみたものが「平家物語」、宮中の女房の視点で描いたものが「権礼門院右京太夫集」だとすると、よりひろく民衆や社会全般も視野に入れて描いたものだといえる。この時代の人びとを襲ったのは戦乱だけではない。1177年4月28日の突風と火災。家を作るのに宝を費やすことは愚かであると説く。さらに1180年4月ごろの突風。盆地の京都に昨今のような竜巻があったとも考えにくいが、「かの地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる」というほどに家屋、資材の被害は酷かった。福原遷都などの政治の混乱も人びとの苦しみを倍加した。この時期には飢饉もあってその描写もすさまじい。飢饉と疫病とがあいまって、死体がおかれた川原だけでなく、街のあちこちにも死人が倒れていて、埋葬もされず、死臭があたりに満ち満ちていたという。こうした災害を描写しながらも、なお、災害の中で最も怖ろしいものは震災であると説く。1185年7月9日マグニチュード7.4の地震が都を襲った。元略の大地震である。「山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。」と描写されている。家の下敷きになって圧しつぶされ、目の飛び出した子供の死体を父母がかかえて泣き叫ぶなどの凄惨な描写の後に、この余震が3月の間続いたことなども書いてある。「四大種の中に水、火、風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。」なのだが、普段、ことなる変をおこさない大地が変をなすのが一番怖ろしい。*災害や戦乱の記憶を綴った前半と異なり、後半では老年を迎えた心静かな日常生活を綴る。老年といっても60歳くらいだが、当時としてはまぎれもない老年である。質素な中に散歩や四季の風情を楽しみ、ときには遊びにくる村の童との交流にも慰めをみいだすなど、穏やかで心豊かな生活である。前半で描写された自然災害が後半の無常感や諦観の背景になっており、その意味で、前半、後半あわせて一つの随想として完成している。最近、著名な小説家や文学者などが、自分の生活を基に老年生活の処方箋のようなものをまとめた本をだしているが、そうしたものを読むのなら「方丈記」を読んだ方がよいのではないか。大震災と思い合わせると、なお一層心にしみいる。「おおかた、世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。それ三界は、たゞ心一つなり。」http://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html
2013年09月23日
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読書傾向は年齢とともに変わる。一番変わったのはSFという領域についての接し方だ。若い時期にはこの領域がけっこう好きだったのだが、いつの頃からかすっかり興味を失ってしまったように思う。*ただSFといっても一筋縄ではいかない。タイムマシンや宇宙人侵略で始まったこの領域も様々に進化していろいろなジャンルに分化しているからだ。そしてその設定の自由さゆえに他の領域ではできない文明批評的役割を果たすものもある。先般紹介した「闇の左手」は性の区分の存在しない社会を描くことで現実にある性の区分について考えされるし、手塚治虫の「鳥人体系」は鳥人文明を借りて、人間の文明とは何かについて考えさせられる。また、SFという形を借りればタブー中のタブーである人種差別も可能である。だいたい異人種を猿に例えれば広告であればすぐにお蔵入りであるし(日本にもそんな例があったように記憶する)、スポーツ選手がそれをやればひんしゅくを買う。しかしSFなら堂々とそれをやれる。有名な「猿の惑星」である。これは今も読み継がれているだけでなく、何度も映画化されヒットしている。原文で確認したわけではないが、猿の支配する惑星で退化した人間がでてくるが、その人間は「人間」でも「地球人」でもなく、わざわざ「白人」と表記されており、それで「猿」がなんの比喩かはすぐにわかる。人種差別がよいとは思わないが、設定とそれに盛り込める主張の自由さはSFの魅力だろう。見ていないが最近の映画「エリジウム」は格差社会を描いたSFのようであり、今後は格差社会の行きつく果てを描いたものなども一領域になっていくのかもしれない。*一頃は夢中になって読んだSFだが、思い返してみると読み返してみたいほどよいと思ったものにはそれほど出会わなかったように思う。宇宙を舞台にした活劇ものは、単に未来とか宇宙とかといった舞台を借りた冒険小説だし、大戦争後の荒廃した世界や文明の退化した世界を描いたものも冷戦下には流行ったが、これも傑作は少なかったように思う。その中で、「闇の左手」はよいと思った数少ない傑作であるし、これは読み返してもやはりよかった。以前読んで感銘を受けた「火星年代記」、「都市」などもそのうち再読してみたい。
2013年09月23日
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大阪で鳴り物入りで発足した公募校長に不祥事が続発しているらしい。そりゃそうだろう。普通に考えれば、それぞれの分野できちんと仕事をしているような人はそれをなげうって校長になろうなんていうことはあまり考えない。そもそもそんな公募に応じる人自体にちょっとかたよりがあるのかもしれないのだから。だいたい「公募」というとそれだけでよいことであるかのように思われがちだが、公募については選考の基準が明確化されていなければなんにもならない。ところが形は一般公募でも、選考がブラックボックスであれば、たいていは恣意的なものになるだけである。特殊法人の役員などが形は「公募」でも実際には退職した官僚がついているのなどよい例であろう。いわばめくらましとしての「公募」である。まあ、それでも大阪選挙民の善男善女達は「教員どもは校長公募をやったおかげで校長になる途がなくなったなあ。ザマア…」くらいに思っているのかもしれないけど。*それだけでよいものと思われがちと言えば人物重視もそうだ。人物重視といえばきこえはよいが、人物などどうやって客観評価するというのだろうか。大阪府、大阪市では、そうした人物評価で選考を行なった結果、合格者の8割が女性になったという。地下鉄で煙草を吸っただけで懲戒、君が代斉唱の口パクチェックなど執拗な職員いじめが行われている大阪で公務員志願者の質が変わっていること自体ありそうなことなのだが、結果的に女性が合格者の大半を占める現象と言うのはどういう背景があるのだろうか。昨今の特徴的現象として女性優遇というのがある。公務員の分野でも女性の積極登用というのが旗印になっていて、これは保守的な政治家も旗をふっているし、マスコミも同調している。「人物重視」に明確な基準などはない以上、採用担当者が最後まで意識したのが「女性の登用に不熱心という批判はうけたくない」ということだったのではないか。女性登用は昨今のトレンドのようで、一例として、警察でもなにやら急に女性の登用、活用をいいだしている。警察の定員は変えずに女性の警官を増やすという。こうした女性登用に、どういうような利点があるのか…その説明がさっぱりないのに、マスコミもなにやらそれ自体がよいものであるかのように御神輿をかついでいるのは不思議でならない。よい人であれば男女にとらわれずに登用していけばよいだけのことなのに。*小沢氏は政界再編に熱心だという。「自民党にかわる政権の受け皿」云々と言っているらしいが、このひとはどこまでも政策そっちのけで政局しかみていない。そしてまた小沢氏が何年か前には改憲論を主唱していたこと、こうしたことをマスコミがさっぱり報じないことも不思議でならない。まあ、彼にとっては政治家としての政策主唱など二の次、三の次なのかもしれないが。
2013年09月22日
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年齢とともに読書傾向も変わってきたが、特に変わったのがSFに対する興味関心である。何とか星系の惑星なんとかというだけで昔ならわくわくしたのに、今では「何さ、そんな作りごとのホラ話」という感じで夢もなにもあったものではない。「闇の左手」は若い頃に読んで感銘を受け、いつかは再読したいと思っていたのだが、このたびようやく再読した。正直言って今読み返してこうしたSFワールドに入っていけるかどうか疑問だったのだが、やはり昔読んでよかった本は今読み返してもやはりよい。舞台は名もなき辺境の星系の「冬」ともよばれる惑星ゲセン。そこにやってきた地球人の使節とゲセン人との愛と友情の物語。*異世界を舞台にしたSFといっても波乱万丈の冒険活劇系ではなく、丁寧に描きこまれた社会風土や文化がこの作品の真骨頂で、それゆえ、どこか辺境の民族の生活を描いたルポを読んでいるような趣があるし、特に後半の氷雪の中をゲセン人と二人で旅する場面は「デルスウ・ウザーラ」を連想させる。そしてまた、こうした架空の社会風土を描くことが、そのまま現実の人間社会の文明批評になっている。もしこれを文明批評として読むのなら、そのテーマはおそらく「性」だろう。惑星ゲセンは性のない世界で、人びとは月に数日間の「発情期」にだけ男か女になることができるが、その選択は本人にもできない。主人公の地球人男性はゲセンにとどまるうちに、人が男か女のどっちかに分けられる社会の方に違和感をもつようになり、その違和感は読者にも十分にも伝わってくる。なんで地球人には「性」なんて面倒なものがあるのだろう。なんで人をみるとき意識するにせよ、無意識であるにせよ、「性」というふるいにかけてみるのだろう。誰もが友人にも恋人にもなりうる世界。それはそれでいろいろと問題があるのかもしれないけど、でも考えてみれば漫画「風と木の詩」や「トーマの心臓」の世界って、けっこうこれに近かったのかも…。*物語は惑星ゲセンを訪問した地球人が交渉の糸口をつかむために苦闘する経緯が縦糸になっている。いわば幕末に日本を初めて訪問した外国人のような立場である。保守的な指導者はなかなか異星の客を認めようとしないのだが、唯一彼を理解し、助力の手をさしのべるのがゲセンの大国カルハイドの謎の宰相エストラーベン。主人公は優雅なものごしと機知を有するこの人物をなかなか信用しない。物語の中盤以降、失脚した宰相と矯正施設(主人公は年中発情している異常者とみなされる)を脱出した主人公は、氷雪の世界を共に旅するうちに次第に理解し、友情〈愛情〉をふかめていく。そのあたりは文明批評とは別に、究極の愛の物語と言う読み方もできる。この物語はかなり前から映画化の話があるというがいまだに実現していないようだ。いろいろと他のHPをみていたら、エストラーベン役はティルダ・スウィントン以外に考えられないなんて書いている人がいたが、そういえばたしかに…。でも、異世界といっても、風景等にきわだった特徴があるわけではないし、奇妙な動植物がでてくるわけではない。氷雪の逃避行の場面なども実写でやればそりゃ迫力はあるだろうけど、結局は地球の風景にしか見えないだろう。どうせなら実写よりもアニメやCGの方がよいのかもしれない。その場合には、キャラクターデザインはジブリよりも、萩尾望都のような漫画家がやれば素敵だろうな。もしこの物語が映画化されヒットすれば、「ヌスス」とか「シフグレソル」、「ケメルの伴侶」といったカルハイド語が流行ったりして…。*印象的な個所として以下のような場面がある。性のない世界には二元論はないかと聞く、主人公に対し、エストラーベンはこう答える。「われわれだって二元論者だ。二元論は根源的なものではないか?自己と他者がいるかぎり。」
2013年09月21日
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汚染水の拡散予測という動画がある。http://forfairplay.com/movies/MqRogjLKbzk-10-fukushima-pacificsea-radiation-contaminatedmap-in10ysどの程度信憑性のあるものかはわからないが、福島原発の汚染水が海に流れている以上、国外でも不安を感じている人がいても不思議ではない。日本のマスコミは黙らせても、そのうち海外のマスコミが黙っていなくなる。そしてまた総理はこの問題について管理できているといっていたが、この発言もほころび始めている。事故は収束しておらず、汚染水は日々発生している。こういうものを技術的に管理できるものなのだろうか。金をかけても、ましてや専任大臣や局長のポストを増やそうが…無理なのではないか。**閑話休題。「赤い追跡者」というエイズ問題を扱った元記者の小説を読んだ。小説と言ってもエイズ問題は実際に起きたことであり、固有名詞こそ多少変えてあるが、もともとのモデルはすぐに推測できる。筆力も小説としての構想力もあり、しかも事実をふまえたものなので、面白くないわけがないのだが、読後感は非常にいやなものであった。エイズ問題そのものよりも、作者の投影とおぼしい主人公の自己陶酔と手段を選ばない取材に疑問を感じてしまうからである。エンタメとして今後この小説を読みたいと思う人は以下は読まない方がよいのかもしれないが、主人公はエイズ問題のカギを握る老教授のインタビューを得るために、教授の秘書の女性に接近し、女性の婚約者ということで老教授に合う。その後は騙すようにして映像や録音をとっていくのであるが、その結果、老教授は放逐され、秘書の女性は職を失う。事実かどうかはさておき、こうした取材も「取材の鬼」なんていう名で正当化されている。マスコミの仕事の社会的重要性は認めないわけではないが、かといって市井の人間の人生をふみにじっていくようなやり方が許されるとはとても思えない。こうした取材も是とするような雰囲気がマスコミ内にあるのだとしたら、あの世界もずいぶん特殊だ。*さらに思う。マスコミの中にああいった取材を容認する体質があるのだとしたら、取材源だけでなく、取材対象に対してもそうなのではないか。いわばマスコミという特権階級人士の切り捨てゴメン感覚といってもよい。事件はおきるとまず被害者のところに取材が殺到する。そして近所の人や学校職場関係など周辺人物への取材や隠し取りの映像があふれる。そうしたことが犯罪被害者やその家族をどれほど傷つけ、立ち直りをどれだけ邪魔するものかはまるで考慮しない。報道被害は自然現象でもなんでもない単なる人災である。普段からこうした人権侵害を行ない、そしてそうしたことに鈍感になっているからこそ、取材の過程で取材源となった人びとの人権についても鈍感でいられるのだ。小説「赤い追跡者」に書いてあることが事実そのものではないにしても、外務省機密漏えい事件の西山記者がマスコミ仲間内でいやにもちあげられて扱われているのをみると、やはりマスコミ村の倫理感覚と一般社会のそれとはかなり違うとしか思えない。*社会に存在してほしいのはエゲツない「取材の鬼」なんかではない。様々に溢れている情報を過不足なく整理し、その上で専門家の意見をわかりやすく紹介する情報伝達の専門家である。原発や汚染水の問題に関してはマスコミとネット上の情報の落差が激しい。後者の情報をみていると不安になるばかりである。双方を過不足なく検証したうえで、科学的な知見はどうなっているのかを知りたいものである。
2013年09月20日
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東京五輪と原発事故をからめた諷刺画について政府が抗議を行なったという。その問題の諷刺画…日本の新聞にはほとんど掲載されないが、下記のサイトでみることができる。http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4764.htmlこうした海外の目もあるということ、こうしたことを知らせるのも報道の役目なのではないかと思うのだが。*東京五輪の関係でいえば、各競技場候補地の空間線量が軒並み「毎時0.15μSv」を超え、馬術競技を行なう夢の島競技場に至っては「毎時0.48μSv」という高い線量が計測されたというネット上の記事もある。http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/b5ec631ce3224c39115b2ff3aa17f43ahttp://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/d61e7ba06cb58b496cf0eb6d9b35836dこんな記事ばかりみていると、東京五輪など本当にできるのだろうか、選手や観客はちゃんと集まるのだろうかと不安になる。マスコミをにぎわしているオリンピック報道とこうしたネット上の記事に落差がありすぎるのだ。そして専門家でもない限り、どの情報が正しく、どれが間違っているのか検証のしようがない。決して非科学的な不安をふりまいているのではなく、正確な知見を知りたいと切に望むだけである。*もちろん小生とてこの社会に暮らしている限り、東京五輪が経済再生ののろしとなればよいし、経済効果で多くの人が恩恵をうければよいと思っている。けれどもその経済効果の多くは日本にやってくる外国人観光客によるものであろう。こうした外国人観光客誘致のために発信力を強化しようという動きもあり、よいことだと思う。ただ不思議なのは一方でこうした観光客誘致をめざし、日本の「おもてなし」を礼賛する人びとが周辺国に対しては敵意を撒き散らしていることである。外国人観光客といってもそのほとんどは周辺国から来るはずなのに。さらにいえば経済効果も少数の人がより豊かになるというだけではなんにもならない。豊かな人がより豊かになることで下にもおこぼれがいくというトリクルダウン理論などは嘘であろう。それは貧困の海のなかに巨富が浮かぶ途上国の実態をみれば明らかではないか。
2013年09月19日
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報道を読んでいて「ン?」と思うことってある。小沢氏の生活と社民が統一会派を結成かなんていう記事もその一つだ。http://www.nikkei.com/article/DGKDASFS14019_V10C13A9PE8000/「リベラル系結集を摸索」という題目で、「保守二大政党化」の動きを警戒した上で、生活、社民両党による参院での統一会派構想などが浮上しているということを報じた記事である。何か変だと思わないのだろうか。だってその保守二大政党化の流れの真っただ中にいたのが小沢という政治家ではないか。それに「リベラル」の定義はファジーだと思うが、小沢氏の過去の言説を見る限りリベラルという印象はない。何年か前の主張である「普通の国」論では軍隊を持ちこれを国連の指揮下に置くという主張をしていたかと思うのだが…。http://lailai-hanyu.at.webry.info/201002/article_16.html状況に応じて考えを変えるのは当然のことだが、背景にある価値観などはそうそう変わるものではないだろう。そうした価値観にわたる部分までこれだけ大きく変える政治家は良いとか悪いとかではなく非常に珍しいと思うし、その過去の言説をマスコミがとりあげないのも不可解だ。「リベラル」的なものに票田があるという選挙屋の嗅覚は正しいと思うが、生活、社民の統一会派がそこそこに支持を集め、力を持つようになれば、小沢もまたいつまでも「リベラル」でいるという保証もない。まあ、選挙民もそうそう騙されないとは思うのだが。**マスコミが報道しないのは政治家の過去の言説だけではない。PC遠隔操作事件についての報道もぱったりととだえているが、K氏はいまだ身柄を拘束中だという。k氏については冤罪の新たな証拠がでてきたというが、これも全く報道されない。http://www.asyura2.com/13/senkyo153/msg/811.htmlもしK氏が冤罪だとしたら、途上国なみ、中世なみの奇怪な人権侵害が進行中ということになる。こうした問題は国際的な人権擁護機関に訴えることも検討すべきではないか。
2013年09月18日
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落語をたまに聞くことがある。話としてはたいしたことがなくても、間の取り方などでどうしてこんなに面白くなるのだろうかとおもうほどに面白い。それも名人級になるとたった一人の話を聞いただけなのに、劇をみているように複数の人びとの性格や動きも伝わるのだから本当に不思議だ。こうした話芸は外国ではあまり聞かないので、日本独特のものと思われ、まさに世界に誇ってもよいものかもしれない。*落語を聞くようになったのはここ数年間なのだが、想像していたのとは違った部分もある。それは、意外に権力者を風刺した笑いというのは少ないということだ。聞く…といってもそれほどでもないので、実際にはそういう演目もあるのかもしれないが、日ごろ威張っている幕府の役人や侍をおちょくるようなものはまだ聞いたことがない。士農工商といっても、実際には武士のほとんどは下級武士だし、貧乏暮らしも多く、そうした対象にはなりにくかったのだろう。実際、新宿区の区の花がつつじになっているのは、百人長屋でつつじを栽培して内職にしていた鉄砲足軽が多かったことに由来するという。つつじを売っていた武士よりも豊かな町人が沢山いたわけである。彼らにはつつじを買って愛でるだけの生活の余裕があった。*かわりに落語で笑いの対象になっているのは、与太郎とか権助といったバカが多い。世の中バカもいるから面白い…という言葉があるが、文字どおりバカを笑いのネタにしているわけである。こういう笑いというのは、昨今のお笑い芸人が「芸」ともいえないようなバカのふりした一発ネタで受けているのに通じている。強者を風刺するのではなく、バカを笑う。自分がバカに共感したらこんなものは笑えるわけもなく、相対的な強者の立場に身を置くからバカを安心して笑っていられる。弱者の側ではなく、強者の側に身を置きたい、弱者を笑うことで強者である自分を確認したい。昔も今も人間にはこんな心理がある。与太郎ネタも権助ネタも考えてみればちょっとほろ苦い。もちろんこう書いたからといって落語のよさや芸の深さを否定するつもりはさらさらないのだけれどね。
2013年09月17日
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ある調査結果によると、英国では、神が存在していると信じている人が54%なのに対して、超常現象を信じている人は58%だったという。http://mhd28h.seesaa.net/article/211545787.html日本では神はともかくとして超常現象を信じている人と言うのはもっと多いのではないか。なにしろ首相官邸の幽霊が話題になり、ちょっと前まではゴールデンタイムで前世がどうだの霊がどうだのといった番組が高視聴率をとっていたのだから。*英国では、宗教観の衰退による倫理的基準が低下していることを懸念することを強調する意見もあるというが、日本ではどうなのだろうか。つまり神様と幽霊とどちらが倫理的基準に貢献しているのか。日本では神様もいろいろで、ヤクザ映画なんかでは組事務所に神棚があったりする場面がある。かえってボランティア団体に神棚なんて方が想像しにくい。これに対して幽霊の方は案外「倫理的基準」に貢献しているのかもしれない。昔静岡県で集金帰りの銀行員が山に拉致されて殺害された事件があった。事件は迷宮入りし時効期間も過ぎたのだが、「犯人」という男が突然名乗り出たことがあった。夜だけではなく、白昼の人ごみの中でも被害者の姿が見えて、「逮捕されるより辛い日々」だったという。ならばもっと早く自首してろよとも言いたくなるが、かといって「犯人」の言葉が嘘ばかりとも思えない。被害者の霊が苦しめると言う話は女子高生コンクリート殺人や大久保事件、連合赤軍事件でも聞く。*幽霊の存在は神の存在と同様に、永遠の謎なのかもしれない。神の不在が証明されたら宗教は成立しないかもしれないが、神の存在が証明されても宗教は成立しない。「信じる」というプロセスがなくなるからである。幽霊も同じかもしれない。不確実なものに対する恐怖と確実に存在するものに対する恐怖とは違う。それにしても、日本では生活苦で多くの人が自殺している。非正規雇用を拡大し貧困を広げた政治家などがこうした人びとの苦しみに痛みを感じるということはないのだろうか。政治家が困窮死した人びとの霊に苦しんでいるなんていう話をきかない以上、霊というのは存在しないのかなとも思う。
2013年09月16日
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「平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う、原子力発電所の事故により放出された放射性物質による環境の汚染への、対処に関する特別処置法」という長い名前の法律がある。この法律が、6月に改正されて以下のような国民の義務に関する条項が入ったという。(国民の責務)第六条 国民は、国または地方公共団体が実施する、 事故由来放射性物質による、環境の汚染への対処に関する実施に協力するよう、努めなければならない。せっかくこうした規定が入ったのにこの法律についての広報があまりなされていないのはどうしてなのだろうか。努力義務とはいうものの、国民にこうした義務を課したということは、十分に周知すべきことなのに…。そうでないと法律を改正した意味がない。http://www.asyura2.com/13/genpatu33/msg/553.html*安倍総理は原発事故による汚染水は完全にコントロール下にあるとIOC総会で宣言したという。その嘘は次々とほころびを呈しているのだが、そんなことはIOC委員にとってはどうでもよいのかもしれない。そもそもあの人達は別に日本に住んでいるわけでもないのだから。だいたいIOC委員自体どういう人がどうやって選ばれているのかさっぱり分からない。かつての名選手ならわからないでもないが、サマランチの息子がなぜいるのだろう。どちらにしても、人類の知性とか専門家集団というのとは距離があるみたい。だからそんなIOC委員の前でこれまた素人の日本総理が何を言ったってどうということもないのかもしれないけど、さすがにこんな嘘はよくないのじゃないの?そしてまた原発事故で亡くなった人はいないとも言ったようだが、これも本当なのだろうか。原発作業員は何重にも下請けに出されており、身元も行方も分からない人がほとんどだという。そしてなぜか作業員の被ばくが報道されてもその作業員の氏名が報道されることはまずない。身元も行方もわからないということは、その後、放射線を原因とする病気で死亡してもわからない…ということだ。吉田所長ははっきりと身元が分かっているので、病気や死亡の経緯もきちんと報道された。でも、本当は吉田所長以外にも亡くなった人はいるのではないのかしら。*放射線による健康被害については晩発制のものもあれば直接被曝によるものもある。直接被曝による死亡については、「東海村臨界事故 被害」で検索すると経過報告がでてくる。このような直接被曝による死亡はチェルノブイリ原発事故の作業員(リクビダートル)にも例がある。原発事故収束作業に従事し、被爆死した作業員の遺体は鉛の棺に入れ埋葬されたという。直接被曝による死亡の経緯や鉛の棺の埋葬なども…そのうち個人のプライバシーなどを盾に報道が規制されるようになるのかもしれない。福島原発の事故はチェルノブイリのように石棺をつくらなければ収束できないという話もある。もしそうだとしたら、チェルノブイリのリクビダートルのような決死の人びとがなければならないが、日本でそんな志願者を募ることは不可能だろう。安全だといいながら騙して募集するのだろうか。NHKで最近、大阪あいりん地区のルポ報道をやっていた。スポンサー企業に気を使わなくてもよいNHKはこうした問題提起型の鋭い番組を放映する。ただ、そこでも原発事故作業員の募集がなされているということは報道されていなかった。原発作業員はどういうところから、どういう経緯で募集されているのかということ、これも一種のタブーになっているのかもしれない。
2013年09月15日
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こんな言葉がある。 一杯の泥水に十倍の量のワインを注いでもそれは泥水のままだが、一杯のワインに十分の一の量の泥水を注げばそれは泥水になってしまう。 人間関係もそれと同じではないか…とため息をつきながらそう思う。いつも楽しみにしているささやかな飲み会があった。職場の枠組みの会なのでメンバーは固定しており、OB、OGも来たければ来るということで、雑談や近況報告に花が咲き、適度のストレス発散になっていた。ところが、この間はちょっと雰囲気が違った。テーブルの一角で新しく配属されてきたQ氏が向かいに座ったP氏に半泣きのような勢いでくってかかっているのだ。日ごろの不満や人事への怒りをぶつけているらしいとは断片的な言葉でわかったのだが、せっかくの会も後味が悪いものになったことは言うまでもない。これで当分この会も開かれないことだろう。Q氏ははじめてきたときから、挨拶もろくにしないなどちょっと変わった雰囲気の人だと思ったのだが、やっぱりという感じだ。普段の業務でも周囲の人はさぞやりにくいことだろう。 * 真に頭脳や傑出した能力で勝負する世界は別にして小生のような凡人の事務職にとっては仕事はしょせん人間関係である。そのせいかどこもかしこもここ数年では採用に関してはまず面接を重視する。面接でものをいうのはコミュニケーション能力だというが、これは話す能力、聞く能力というのとは違う。良好な人間関係を築ける能力という意味で、はっきりいってかなりの部分は生来のものではないか。 変なのを排除したいというのならわからんでもない。 周囲の人がやりにくくなるような性格の人も迷惑だというのもわかる。ただそうした人物重視、コミュニケーション能力重視というのが普遍化すると別の弊害がでてくるように思う。さわやかな好青年というのは誰が見てもたいていそうだし、この人はつきあいづらそうというタイプもまた誰が見てもそうである。その結果、内定の取れる人はいくつも内定を決めるし、そうでない人はいくら筆記で合格しても判でおしたように面接で落ちる。これはいくら筆記をがんばったところでどうしようもないのだから、友達づくりの下手な人間には嫌な時代になったものである。 * 泥水を排除したいというのはよくわかる。しかしながら、友人ができない、性格的にくせがあるなんてのは、生まれつきの容姿や音感、運動神経同様、本人にとってはどうしようもないものである。 職場に入っても泥水のまま…と言う人もいるのだが、人間関係で苦労し、気遣いを重ねていくうちに泥水がそこそこに薄まり、真水くらいになっていくということもよくあるものである。 冒頭にあげたQ氏も10年後、20年後にはずいぶんと角がとれているに違いない。 **「オリンピックの経済効果」があちこちで語られている。そうした経済効果の中でも大きなものは日本に来る観光客による外貨収入であろう。そこでふと疑問に思う。日本に来る観光客の多くは欧米ではなく中韓の観光客である。そうだとしたらことさら緊張関係をあおる政治家の言動や新大久保あたりのヘイトデモはどうなのだろうか。経済効果には正の経済効果もあれば負の経済効果もある。中韓の観光客を減少させるという意味でも、緊張をもたらすだけの政治家の言動やヘイトデモは批判されるべきである。「オリンピックの経済効果」をいうのであればなおさらそうではないか。
2013年09月14日
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東京にもまだ行ったことのない名所がある。なにしろ260年も続いた江戸時代の文化の蓄積したところだ。灯台もと暗し…遠出もよいけど、そんな東京の名所にも目をむけてみたい。江戸時代の文化や人びとの暮らしに思いをはせながら。*ちょっと歩くのだが永代橋から清澄庭園に行ってきた。永代橋は日本橋と深川を結ぶ隅田川にかかる大きな橋で江戸時代には橋崩落の惨事があったという。歴史をたどると惨事もいくつもあり、永代橋の日本橋側をちょっと行くと亀島川という小さな川があり、そこにかかる新亀島橋のたもとには関東大震災の慰霊碑、そしてその横にはちょっと小さいのだが東京大空襲の慰霊碑があり、たいてい誰かが何かをそなえている。閑話休題。永代橋を隅田川の光景を楽しみながら深川側にわたり、しばらく歩くと門前仲町の駅につく。まあ、門前仲町まで地下鉄できてもよいのだが、それだと隅田川を渡る楽しみがない。そこから清澄通りに曲がり、しばらく歩くと清澄庭園である。庭園はどれも同じようなもの…と思う向きもあるが必ずしもそうではない。築山、植物といったものもあるのだが、清澄庭園の特色は緑の池と全国からとりよせた名石である。中でも佐渡の赤石が大変に珍しいもので、鉄分の色だと思うが、ペンキで塗ったような鮮やかな赤色である。そのほかにも青石という緑泥片岩の岩を滝に見立てたように置いたり、伊豆半島や伊豆諸島のあちこちからもってきた火山性の岩を配置したりとそれだけみてもあきない。植物を愛でる庭園は多いのだが、岩の美しさを鑑賞できる庭園というのは少ないのではないか。*清澄庭園はもともとは紀伊国屋文左衛門の屋敷だったのが、関宿藩久世家の下屋敷になり、その後、、岩崎弥太郎が買い取って庭園にしたものだという。関東大震災の時には多くの人がこの庭園に逃げてきて助かり、その後、岩崎家から都に寄贈された。紀伊国屋文左衛門と岩崎弥太郎という江戸時代初期と幕末明治を生きた二人の風雲児の人生がこんなところで重なっているのも面白い。入園料は150円。池を散策しながら涼むには今頃の季節がちょうどよいように思う。
2013年09月13日
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テレビはあまりみないのだが、それでも朝のワイドショーはみることがある。そんなワイドショーで活躍している司会者の一人にセクハラ騒動が持ち上がっているらしい。http://ameblo.jp/usinawaretatoki/entry-11610556449.htmlテレビ局、もしかしたらもっと上の方からみて、この人に利用価値があればこんな騒動は鎮静化していくだろうし、そうでなければ、消えていくことだろう。*どうもよくわからないのだが、世の中の事象を非常に単純化してズバッと言い切る。それを聴いて視聴者はある種のそう快感を感じ、そしてそれは共感や同調につながっていく。こうしたものが世論形成に与える影響は大きいのだが、時にはとんでもないミスリードにもなるのではないか。どんな番組かは忘れたのだが、派遣村や若い人の失業、不安定雇用を扱った会で、司会者が憤懣やるかたないといった表情をうかべた後、「アマエルナ」と一喝した。その後、派遣村や若者の不安定雇用の問題が「甘え」ということに急速にすりかわっていったように思う。そういえば公務員バッシングをうりにする「みんなの党」という政党ができたときも、党の規模に比して過剰ともいえる報道をしていたのもこうしたワイドショーだった。そして、最近では毎朝のように橋本氏のさっそうと歩いている姿や何かをしゃべっているところを放映して、「何かやってくれそうな大物」といったイメージづくりに一役かっていた。「日本にも本格的な二大政党制を根づかせなければならない。」「増税を言う前に議員自らが身を削る(議員定数の削減)ことが必要だ。」、「自民党や民主党に変わる受け皿としての第三極の動向が問題。」…こうしたワイドショーの言説も本当はよく考えなければいけないのだが、何度も繰り返し語られているうちに、あたりまえのこととして浸透していった面はないのだろうか。*こうしたテレビ局のワイドショーの論調の他に世の中に大きな影響をあたえるものとして広告代理店というものがある。大手広告代理店が世の中を動かしているというと、なにやら陰謀論のようだが、そうした面はあると思う。さる代理店に知り合いがいるのだが、その人から何かの機会に「人気爆発の美人テニスプレーヤー」とか「女性に人気にイケメン〈当時はこうした言葉はなかったかもしれないけど)騎手」というのを教えてもらったことがあった。テニスにも競馬にも全く興味がなかったし、写真をみるかぎりでは、両方とも全く美人だともイケメンだとも思わなかったので忘れていたのだが、そのうち、その二人を使った広告が街にあふれるようになり、両方ともたしかに人気者になった。肖像権をおさえたスポーツ選手などについて世の中の人気を煽っていく…こういうのは広告代理店はよくやるのではないか。ワールドカップのベッカム様ブームの後にベッカムを起用したCMが街にあふれた。急速にもりあがっていったオリンピック招致ムードや、東京に開催決定した後の歓迎ムードにも、こうした広告代理店の力が働いているのかもしれない。オリンピックというのは広告業にとっても一世一代の稼ぎ時だ。*テレビを消して、そしてできれば新聞からも手を話して自分の生活実感でよく考えてみよう。ワイドショーの言説でも、広告代理店の煽るムードでもなく、自分自身で考えることがなによりも大事である。
2013年09月12日
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オリンピック招致演説で安倍総理は「汚染水は完全にコントロールされている」といった。むろん根拠はなにもないし、国民にとってもそんなのは初耳だ。でも、IOC委員達は安倍の演説で心を動かされ、日本のオリンピック招致が決定したという。IOC委員は日本に住むわけではないし、参加するスポーツ選手や観光客だって同様だろう。放射性物質や汚染水の被害は長期的であり、オリンピックとは実はそれほど関係ない。*テレビや新聞では連日オリンピック招致を喜ぶ日本国内の声を伝えている。そしてこれと同時に景気回復や消費税増税がほぼ決まったかのような報道もなされている。うんと素朴な質問だが日韓ワールドカップで所得や収入は増えたのだろうか。長野オリンピックではどうだったのだろうか。今度の東京オリンピックも同様で、多くの人の所得はあまり変わらないのではないか。むしろ家計に影響するのは消費税で、低所得層ほどその打撃は大きい。そうなると、列島全部がオリンピック招致を喜んでいるらしいのだが、オリンピックとともにやってくる消費税を考えるといったいぜんたい何をそんなに喜んでいるのかよくわからない。*全然スポーツは得意ではないので、勝敗を競うスポーツはやるのも見るのも興味ない。どうもそれは子供の頃からだったみたいで、日ソ女子バレーボール決勝も円谷選手と英国選手との競技場でのデッドヒートもあまり印象に残っていない。想像していたようにしょっちゅう外人をみかけるということもなく、街の様子も普段どおりであった。でも、カッコいい外人や美しい外人はテレビの中にはいた。チャスラフスカとかアスタホワとか、子供心にもすごく綺麗だと思った。だから図工の時間にオリンピックの絵を描くようにといわれたときには迷わず体操の絵にした。美人選手やイケメン選手が体操をやっているのを世界各国の観客がみているという構図だ。観客の方もいろんな国の人がいた方がよいと思ったのでラーメン屋さんの広告にでてくるような泥鰌髭の中国人や鼻に骨をさしたドジン(死語?)の絵まで描いた。でもその体操も熱心にみていたかというとどうもそうでもなかったようだ。皆の絵が教室の後ろに貼りだされるとさっそくに何人もの友達から指摘された。「ナナシさ~ん、男子には平行棒はないんだよ。」当時の体操競技では男子平行棒という種目はなかった。今はどうなっているのかしら?
2013年09月11日
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東京オリンピック招致決定でマスコミは大歓迎のお祭りムード一色。そしてそのマスコミが紹介する街の声も喜び一色なのだが…これが消費税増税に追い風だなんて書いてあるのをみると、よろこんでばかりもいられないのではないのといいたくなる。財政危機が言われて久しく、公務員はおろかぎりぎりの生活をしている生活保護支給額も削られている。消費税だって低所得者ほどダメージが大きいだろう。オリンピックの招致に何億円、開催にむけてさらに何億円というと、そんな金がいったいどこにあるのだろうかと不安になる。ギリシャのようにオリンピック開催の数年後に地獄を見た国だってあるではないか。*大歓迎ムードにたたでさえ違和感をもっているのに、さらにスポーツ庁設置とか金メダル何十個が目標なんていう話をきくと目が回る。だいたい金メダル選手何人なんてことよりも、貧困とか失業とかブラック企業とかワーキングプアとか、国家の重要な課題は山積みではないか。原発事故の問題だってもちろんある。東京にどうせオリンピックがくるのなら発想を転換すればどうなのだろうか。勝利至上主義からの脱却である。日本選手のメダルなんてドーでもよい。おもてなしの心で海外からの選手や観光客を迎え、どこの国のメダリストにも温かい声援を送る。人類の祭典であるのなら、少数の国にメダルが集中するよりも、できるだけ多くの国がメダルをとった方がよい。日本選手の強化に使われる多額の金はスポーツセンターの設置などより多くの市民がスポーツを楽しむために使えばよい。もちろん多くの若者がスポーツを楽しむ時間をもてるようにブラック企業対策なども前進させる。勝利至上主義ではなく、社会が平和で多くの人がスポーツを楽しみ、どんな国の選手にも同じように声援を送ることができれば、これこそまさに「人類の祭典」にふさわしい大会になるのではないか。*正直いって親戚でも知り合いでもない日本選手がメダルをとったからといってなんで「感動」するのか、その思考回路がさっぱりわからない。「メダルメダルってメダル○○○○ですよ。じゃあ自分でやってみたらどうなの」といったさる女子競泳選手の明言の方がずっと真実をついている。
2013年09月10日
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かつて東京でオリンピックが開催されたとき、日本ではまだ外国人の姿をみることは非常にめずらしかった。遠足でバスに乗っていたとき、一人が窓の外を見て「わあ、ガイジンが歩いている」と叫ぶと皆窓に顔をつけてそっちの方をみたものだ。それくらいガイジンというのは珍種であった。だから、外人というと皆カッコイイと思っている人も多かった。オリンピックの頃に起こった英会話ブーム。その頃発行された本にはわざわざ第一章に「外人は皆カッコイイというわけではない」とあったのを覚えている。たしかに若い外人にはカッコイイ人が多いのは事実なのだろうけど、若ハゲは日本人よりも多いみたいだし、中年以降の激変も総じて大きいみたいである。昆虫の完全変態と不完全変態があるが、外人には完全変態型が多い。変態期はどうなっているのか謎である。外人がそれくらい珍しい時代だったから、子供向けの雑誌にも簡単な英会話(カタカナ)や外人の見分け方なんていうくだらない記事が掲載されていた。アメリカ人は明るい感じで動作がオーバー、ドイツ人はよく時計をみる…今から思っても怪しい記事だ。*そしていよいよ始まった東京オリンピック。皆テレビにかじりつき、その後に制作された記録映画も学校の行事などで何度も何度もみたのでよく覚えている。ただ、期待していたほど、街に外国人があふれたわけでもなく、街の光景が激変したわけでもない。オリンピックの後には教室の椅子をバーベルにみたてた重量挙げごッこがはやり、器用な子は鉄棒に足をかけてぶらさがったりしながら「ウルトラC」と叫んでいたりした。唯一、生でみた競技がマラソンで、先生の引率で甲州街道まで歩いていったのを覚えている。赤いパンツで二位を大きく引き離して黙々と走っていたアベベ選手と教室にもどってからみた円谷選手と英国選手の二位争いのデッドヒート。そしていつのまにかオリンピックは終わっていた。
2013年09月09日
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一夜明けたら日本中オリンピック歓迎ムード一色のような報道ぶりである。財政危機と言っているのにオリンピックをやるお金はあるのだろうか。7月や8月の東京は温度湿度ともに大変な猛暑であるが大丈夫なのだろうか。誘致演説で東京は福島から何キロ離れている…なんてことをいったらしいが、福島にも人が住んでいる。そういう人々は危険ということなのだろうか。とかなんとかいったところで奔流のような歓迎ムードに流されていくだけだろう。どうせオリンピックを開催するのなら閉塞感を打破するものであってほしい。経済効果は多くの人を豊かなものにするものであってほしい。オリンピックが東京に決まったのは三度めである。最初に決まった東京オリンピックは戦争によって中止され幻のオリンピックとなった。だから1964年の東京オリンピックは「戦後の終わり」を象徴する大会となった。今度のオリンピックにはどんな意味をもたせるのだろうか。二度目に決まった東京オリンピックが「戦後の終わり」であれば、今度のオリンピックは「再生へののろし」になるのだろうか。
2013年09月08日
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街角を歩くとよく○○遺児のための募金活動というのをみかける。昔からあったのは「交通遺児」であるが、最近では「ガン遺児」とか「自殺遺児」というのもみかける。そうした募金活動をみるためにいつも違和感を感じていた。父親がいなくて、あるいは父親がいても貧しさゆえに進学できないという人は、昔からいた。そうした子供のために募金活動をするのはよいが、なんで○○遺児なのだろうか。子供にとっては父親のいない理由は関係ない。*この違和感の背景をつきつめてみると、○○遺児と限定することで、離婚とか未婚によって父親のいない子供が排除されていることがある。交通遺児、ガン遺児、自殺遺児と募金の種類は増えていっても、婚外子のための募金というのは最後までないのではないか。もちろん離婚や未婚の場合には父親から養育費が出るのではないかと言う議論もある。しかし現実にはそうした父親は少ないというし、離婚の場合にはそもそも父親の生活力のなさや不実が原因になる場合も多い。きちんと養育費を出すような男ならそもそも離婚などしない。遺児の場合には、保険金や遺産などがあるが、離婚や未婚の場合にはそれもない。*離婚にくらべても未婚の場合にはハードルは高い。婚外子を「他人の不始末によって生まれた子」と言った同世代の人がいたので、のけぞるくらいに驚いたが、そんな感覚って世間にまだ残っているのだろうか。今度の相続分についての区別を「違憲」と判断した最高裁の判決がこうした世の中の不条理をなくすための力になっていけばよい。母子に対する公的支援や制度的支援は父親のいない理由にかかわらずすべての母子に与えられるもので、そうしたものの中で婚外子が排除されているものがあれば早急にみなおすべきであろう。遺児かどうかで区別するのは街角の募金活動だけでよい。**それにしても、こうした判決のでた背景は何なのだろうか。世論はたしかに変わりつつあるのだが、相続分についてはまだまだ現行を支持する人が多いように思う。なにしろ婚外子を「他人の不始末」だなんていう人もいるくらいなのだから。最高裁の判断の後押しをしたのは、何よりもこうした区別を設けないという国際的潮流が大きかったのではないか。いわば国民の世論よりも国際的潮流を重視というわけである。飛躍かもしれないけど、死刑制度もこれと似たところがあるのかもしれない。死刑制度についてはなんど世論調査をやっても存置すべきという結果がでている。その一方では廃止が世界の潮流であるというのも事実で、韓国でも〈韓国ですら?〉実質的に死刑を廃止している。いつの日か死刑制度についても違憲と判断される時がくるのだろうか。冤罪の余地のない事件、残虐きわまる事件は世の中に存在する以上、この制度は遺族のためだけでなく社会全般のためにも必要なものだと思うのだが…。
2013年09月06日
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おなじみの歌舞伎の脚本である。いくつかの幕に分かれていて一幕だけをみても十分に楽しめるようにできており、話だけきいていて知った気になっていたのとは随分印象が違う。まず物語全体が忠臣蔵の外伝のようになっていて、お岩の父も伊右衛門も妹の夫も、塩治浪士という設定である。もちろん悪役は忠義を忘れて高師直にとりいろうとし、善玉は敵討をめざす。塩治浪士というのは赤穂浪士で高師直というのは吉良上野介であるが、当時はお上をはばかって室町時代に設定を写したようである。当時の人は忠臣蔵の顛末などみな知っていたのでそれを背景に物語を楽しんだのだろう。*当時の人からみた赤穂事件というのはどんなものだったのだろうか。肩で風をきっていたような大藩のお侍様が突然明日をも知れぬ浪人の身…ザマアというか哀れというかそんなところだったのではないか。そんなふうにみると民谷伊右衛門一家の悲劇も今で言えばリストラにあた元エリートの悲劇のようである。崩壊した一家の主を近くの娘が見初める。娘の親は就職先の世話を餌にくどくが、邪魔になるのは今の妻…。民谷伊右衛門も単なる悪役と言うよりも、それなりに才気もあり風采も上がった人物なのだろう。そして伊右衛門の実母もそんな息子が自慢でならない。一読してみて実はこの実母お熊が一番印象深い。人のよい老人の後妻になったが、勝気な彼女にしてみれば人のよさはうすらバカにしかみえない。血のつながらない孫も鍛えなおすといいながら虐待をくりかえす。その一方で熱心に寺詣りもするものだから「まっさかなまに地獄行きだ」と揶揄されたときの言い返す言葉がよい。「そうねえ、こんな提灯じじいよりも鬼の女房になりたいものよねえ」と。人のよい温厚なだけの老人にあきたらない女の気持がよくでている。悪い女だけど、いるいるこんなの…。*四谷怪談というとお岩の幽霊という印象が強いのであるが、実は二体の幽霊がでてくる。もう一体はお岩の死体と一緒に戸板に釘づけにされた下男の幽霊である。お岩の幽霊は怨霊となって何人もの人をとり殺すが、下男の幽霊はこれと対照的である。死んでも自分の旧主に尽くし、最後は不自由な体の旧主のために薬を用意して塩治判官仇討の本懐をとげさせる。当時のポスターなどではむしろ下男の幽霊の方を前面にだしていたようである。また、芝居には怖い場面だけではなく、こっけいな場面もかなり多い。笑いがあるから怖さが引き立つし、観客も飽きない。最初から最後まで恐怖を煽るばかりの最近のホラー映画よりもこういう方がよい。
2013年09月05日
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最近のマスコミの政治面のテーマは「野党再編」ということらしい。次期衆議院選挙までに新党をたちあげるといっている政治家も何人かいる。今年の流行語候補NO1は「今でしょ!」だと思うのだが、なぜ新党たちあげはそうならないのか。選挙直前の新党効果を狙っているからだろう。新党結成をニュースにして、マスコミがもてはやしているうちに、そしてぼろがでないうちに投票日にもっていく…そうした発想自体が有権者をバカにしている。そしてそんなもののお先棒担ぎをするマスコミもマスコミ。*しょせんは新党といったってみるべき政策の差異があるわけではなく、「自民にかわる受け皿」とか「批判勢力の結集」といったこと以外は何もいえない。単に議員バッジをつけたいだけ、政権にありつきたいだけの烏合の衆。それにまた、こうした野党再編劇に出演する役者もお粗末だ。特に内紛劇で更迭した元幹事長を「使い捨てのカス」よばわりする某政党党首には、今に始まったことではないものの大いにげんなりさせられる。まあ元幹事長に低知能を日ごろからバカにされていたのかもしれないけど、これこそまさに低品格のバカ丸出し発言。だいたいこんな発言をきいて他の人はどう思うだろう。「こいつは俺のことだって腹の中ではそう思ってやがるんだろう」とどうしたって考える。父君も下品で売っていたけど、もう少し頭もよく、人間としても度量があったように思う。*対立軸がどうとかこうとかいうけど、実は大きな対立軸というのは一つしかない。あるべき社会の姿として格差や貧困をどう考えるかということである。「機会の平等は保障するけど結果の平等は保障しないのが民主主義」、「能力や努力の結果としての格差であればいくらあってもそれは当然」、「貧困だのなんのと騒いでいるけど日本の貧困はアフリカよりもまし」、「グローバル化や技術発展の中で貧困が広がるのはやむをえないのであとは意識改革でなんとかしろ」と。このあたりは自民党もその受け皿と称する亜自民も、みごとに一致している。*漫画「はだしのゲン」で旧日本軍の残虐行為が描かれていることについて、産経新聞が「どこまで日本をおとしめるのか」と批判している。残虐行為の史実は別にして、こうした批判をする人は大日本帝国と今の日本国との関係をどう考えているのだろうか。両者は連続しているのか、それとも前者の批判の上に後者が新生したのか。産経新聞の言い方は前者だとしか思えない。ドイツなどだったら、いくら過去の蛮行を描いたところで、「ドイツをおとしめる」なんていう批判は絶対にでないだろうから。もし描かれた蛮行が嘘だと思うのなら、それは「ドイツをおとしめるな」ではなく、「子供に嘘の歴史を教えるな」になる。ふと思う。安倍総理のよくいう「日本を取り戻す」というのは、いったいどんな「日本」なのだろう。特高や憲兵の暴虐がまかりとおり、拷問や虐殺死も闇に葬られているような戦前日本をとりもどすのだったら、ごめんこうむりたい。
2013年09月04日
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テレビの番組の内容はその視聴形態と密接な関連があるものらしい。かつてテレビが茶の間で家族皆で見られていた時代には、家族皆でみられるホームドラマやクイズ番組が流行っていた。皆で回答者と一緒に答えを言い合うことにより、会話の活性化に大いに貢献したものである。クイズ番組がすたれたのは、複数でテレビを見る習慣が廃れたことと関係がある。一人でクイズ番組をみたってなんとなく虚しいだけなのだから。*人の生活スタイルの変化とともに、テレビの見方も変わり、それがテレビの内容にも影響を与えている。一世帯当たりの人数は減り都会では単独世帯がむしろ普通になった。若者の多くは交際相手をもたず、未婚率も上昇している。夫婦二人の世帯、あるいは夫婦と成人した子供の世帯でも、見たい番組は皆別々というところが多いのではないか。テレビと言うのは情報提供とか娯楽といった役割もあるけど、今では何よりも「孤独をいやす道具」になっているように思う。根を詰めて中味をみるわけではないけれども、ついていないとなんとなく寂しいという視聴形態である。これがバラエティという昔はなかった形態の番組の隆盛と関係しているのではないか。求められているのは高度な情報やこった物語ではなく、楽しい雰囲気。自分がその場にいるような友達感覚の番組である。「お笑い芸人」にも芸は期待しない。ただ面白くて笑えればよい。人を笑わせる芸ではなく、「笑われること」をやるだけで十分なのだろう。だからお笑い全盛のようでも、プロの笑いが流行っているのではないので、「笑点」などは高齢化が著しくさっぱり若手が育っていない。**汚染水流出の写真が下記HPにでている。こうしたものには、いくら対策本部を作ったって、局長ポストを作ったってお手上げなのではないか。日本国内だけであればマスコミを黙らせればよいが、海外は黙っていないだろう。汚染水が流れゆく先の太平洋のかなたには多くの国がある。http://ameblo.jp/usinawaretatoki/entry-11605029913.html
2013年09月03日
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各省庁の予算要求の記事を見て驚いている。日本は財政危機ではなかったのか。そしてそんな財政危機を理由に生活保護費が削減され、公務員の給与が削減され、ひいては消費税の導入まで検討されているのではなかったのか。それなのに各省庁の予算は新規施策のオンパレードで予算要求は空前の規模だという。震災復興や防災対策や原発事故対応といった緊急のものならともかく、趣旨はけっこうなのかもしれないが、なぜ今?といったものもけっこうある。今でしょ!といっても、それで当然のように消費税を上げろと言うのでは、ちょっと待てともいいたくなる。この財政危機を連呼しながらの大盤振る舞い。どうもよくわからない。*大盤振る舞いといえばもう一つ。東京にオリンピックが来るかもしれないという。もしオリンピック開催といったことになったら税金はどれほどかかるのだろうか。経済効果があるとしても、それと支出とのバランスシートはどうなるのだろうか。オリンピック開催後モントリオール市は財政赤字に苦しんだという。あのギリシャの財政破たんもアテネ五輪が一因という話もある。ならばこの天文学的な赤字を抱える状況でオリンピックを開催することがどうなのだろうか。ギリシャのような財政破たんへの近道となるのではないか。こんな危惧を感じるのだが、どうしてこうした議論はないのだろう。**ときどきおもうのだが、あの「バラエティ」と称する番組が幅をきかせるようになったのはいつからだろうか。あの番組形態と昔はいなかった「お笑い芸人」というテレビ人種の興隆とは連動している。かつてはテレビは茶の間でみるもので一家団欒の話題提供となっていたのだが、今ではテレビは孤独を癒す装置になっているのではないか。だからプロの芸よりも、クラスにたいてい一人二人はいるひょうきん者程度の「芸」でも通用する。なぜあんなものが「芸」なのかさっぱりわからないのだけれども。
2013年09月02日
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日本でも新派の舞台などで昔からよく知られている小説である。青年貴族が小間使いの少女カチューシャを誘惑して捨てる。カチューシャは淪落して売春婦となり、刑事被告人となったところで陪審員の青年貴族と再会する…というのが物語の発端である。必ずしも主題は恋愛というわけではない。青年貴族(あきらかに作者の分身)の葛藤と土地所有に対する考察、刑罰や社会の在り方というものが主なテーマである。*物語の最後で、カチューシャとの結婚を決意していた主人公が、彼女の無実が明らかになって懲役刑が取り消され、実際に彼女との結婚生活を送ることが可能になるととまどう。彼女との結婚の決意は愛ゆえのものというよりも、義務感や思想からでたものであったからだ。それゆえ彼女からの拒絶を「解放」と受け止める。囚人達と行をともにしてきた主人公がシベリアの街で長官の夕食に招かれ、慣れた貴族生活への郷愁へとらわれる描写とともに、この心理描写はリアルである。作者は、晩年農民のように農作業を行なってはいたものの、決して農民と同じ生活をしていたわけではない。理想は理想ではあるが、貴族に生まれついたというのも現実であり、決して農民と同じにはなれない。カチューシャは最後には青年貴族ではなく、農村に身を投じて今は懲役囚となっている革命家と結ばれる。物語の設定は1880年代、10月革命までに早くても27年の時間があり、もちろん作者トルストイはそんな革命のことは知る由もない。それでも革命成就後に50代を迎えたはずの主人公達がどうなっただろう、そんなことを想像する。*ロシアの貴族と農民は同じ民族の二つの階層というよりも最初から別の民族とみた方がよいという言葉があったそうである。それくらい革命前のロシアは究極の格差社会であった。小説の中にも贅をつくした貴族の生活と「今日はパンとクワス。明日はクワスとパン」という極貧の農民生活や囚人達の生活との対比をこれでもかこれでもかと描いた箇所が何度もでてくる。「戦争と平和」では主な登場人物は貴族達であり、民衆についてはいささか理想化された人物が出てくるだけであったが、「復活」には数多くの民衆が登場する。女主人公カチューシャにしてからが、毎年父のしれない子を生んでいる百姓女とジプシーとの間に生まれた私生児である。また、こうした民衆とともに革命家も登場する。幼い時から貴族の特権的生活に違和感を感じていた女性や父の不正蓄財に怒って家を飛び出した若者。そしてまた自分が称賛され権力に近付ける場として革命運動を選んだ秀才など。小説家は作家としての直感できたるべき革命を予感していたのではないか。*革命家の中にはマルクスの資本論を熟読する者もいる。マルクス思想も社会主義も決して新しいものではない。物語の舞台となった時代でさえ、すでに古典として読まれていた。もちろん道には馬車が行き交い、ITなどというものは想像もできなかった時代である。今の時代にマルクスがそのままの姿で通用するわけはないではないか。貴族と民衆という階級が生まれながらに決まっており、それで人生が決まっているような時代には「生まれ」による格差だけが問題の大半であった。「平等」という理想は「生まれによる差」だけをなくすことで達成できるはずだった。平成の今の世にも、人間はもともとが平等であるのに、親の経済力や家庭の文化環境だけで差異が生じると考える人は多い。そういう人のものを読むと「生まれながらの差異」や「階層の固定化」だけを問題としている。そうではないだろう。人間にはもともと能力や資質に差異があり、家庭の経済力はいくぶんの変数にはなるにしても、格差のほとんどはその能力や資質から生じているのである。問題はその能力や資質の結果としての格差を勝者総取りのようなものにしてよいのかということではないか。今日の高度に産業技術の発達した社会では、高級人力と比較的誰にでもできる人力との間には天地ほどの差ができる。前者は奪い合いとなってどんどん値がつりあがる反面、後者は途上国との買いたたき競争になり価値が下がっていく。その結果は、少数のセレブと多数の貧困や過酷労働、失業に苦しむ者との二極化である。マルクスのいうように土地や工場の国有化が処方箋になるわけもない。だいたい「社会主義」を標榜する国でも、計画経済を担いうる人力とそうではない労働者農民との間には大きな格差が生まれ、しかも、権力が閉鎖的な構造では、人情として自分の子孫や親族に特権的地位を分け与えたくなるものなので、資本主義国以上の格差や生まれながらの階級を出現させた。だからそうした社会主義体制崩壊の引き金が、マルクスも想像し得なかった労働者のストで始まったという仰天の結果となったのだ。*閑話休題。主人公の土地国有化論は今日でもありうる議論であるが、刑罰や矯正を否定する思想は受け入れがたい。カチューシャと結ばれる革命家の「地球や宇宙などすべてのものに生命がある」という考え方はエコロジー思想にも通じるようであるが、これも極端な思想であろう。もちろん人間の思想には、時代にかかわらず普遍なものはあるが、社会の在り方や制度に関する考え方は時代とともに変わるのが普通である。社会制度や自らの特権に疑問を抱きつつ、活動をつづける主人公は作者の分身として魅力的とはいえないが十分に共感を得る人物に描かれ、大変に面白い。そのほかの人物もわずかの描写でその人の体温まで感じられるように描かれており、その天才としか思えない筆力に驚くばかりである。特にカチューシャは登場場面は意外に多くないのであるが、きびきびした動作や善良で明るい性格を想像させる細かい描写が随所になされ、本当に魅力的な女性として描かれている。
2013年09月01日
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