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大阪でまた誤認逮捕事件が起こった。窃盗事件で無関係の男性会社員(42)を逮捕し85日間も勾留した問題で、被害者の男性は、「公開の法廷で捜査の経緯を明らかにし、裁判所に『無罪』と認めてほしい」などと、現在の心境をつづったコメントを弁護人を通じて出しているが、検察は「無実の人を法廷にたたせるわけにはいかない」として起訴取消を行なったという。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000149-jij-soci&pos=1「無実の人を法廷にたたせるわけにはいかない」というのは一見もっともらしいのだが、その実、誤認逮捕という国家犯罪の真相を闇にほうむるための理屈のようにも見えなくはない。第一、この件では被害者は法廷で事実が明らかになるのを望んでいる。無実の人云々の理屈は、教師のわいせつ事件などで被害者のプライバシーをふりかざして、その実、加害者の教師を守る理屈によく似ている。パソコン遠隔操作ウィルス事件での教訓などは全くいかされておらず今後もこうしたことは続くだろう。85日間も勾留されれば会社も辞めていることだろう。そういえば遠隔操作ウィルス事件でも大学を辞めた若者がいた。*どんな職業でも、その職業上のミスというものについては、厳しく責任が追及される。オーバーランの運転士、舞台に遅刻した俳優。医療事故では医師が氏名を晒されるだけではなく、逮捕されることさえもある。ところがこうした誤認逮捕や冤罪では、警察官、検察官、裁判官個人が責任を追及されるということは決してない。謝罪といったって、直接に取調べをおこなった警察官や検察官ではなく、誰かが「組織を代表して」行うのだから気楽なものだ。それでもこの会社員は誤認逮捕がわかっただけでも運がよいのかもしれない。死ぬのをまたれているような名張毒ぶどう酒事件の被告がいる。冤罪にもかかわらず死刑が執行されたという議論が絶えない飯塚事件がある。獄死や刑死をしてしまえば、国家は決して誤謬をみとめようとしないだろう。再審の扉が開いたのだって、「真犯人の告白」という異例の事態のあった弘前助教授夫人殺人事件の再審以降で、それほど昔のことではない。*そういえば遠隔なりすましウィルス事件の報道もすっかり少なくなった。いろいろな意見はあるのだろうが、K被告は誤認逮捕、冤罪の可能性が十分にあると思っている。彼はまだ拘束されているのだろうか。冤罪と分かった時の被害をより少なくするためにも、自由だけは回復すべきではないか。この事件で、証拠隠滅や逃亡の可能性があるとも思えない。冤罪といえば、25年もの間、裁判が続いた甲山事件。検察のメンツだけで市井の人間の人生をふみにじったような酷い事件であったが、唯一の救いは被告人が拘束をされていなかったことである。
2013年07月30日
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山口県でおきた限界集落連続殺人事件については報道には出てこない事情がまだまだありそうである。下記のブログを読むと容疑者の方も村人から執拗ないじめを受けており、とくに数年前、刃物で刺された事件について村人が「鋭利なものがちょっとあたっただけ」とテレビインタビューで答えている映像には首をかしげてしまう。容疑者も村人との不和を警察に相談しており、最初の印象のような異常者の暴発といったものとはかなり違うのかもしれない。http://ameblo.jp/usinawaretatoki/entry-11581501848.html*村の生活は牧歌的とかいう表現で語られることもあるが、人間関係も閉鎖的でいったんこじれると修復が難しい。この場合、容疑者は長期間、都会に出てから戻っており、その意味で村共同体の中では「よそ者」視されていたのではないか。また、独身生活を続けている中高年男性に対する色眼鏡もあったのかもしれない。「○さんとこの△ちゃんもどってきたんだってねえ。」「嫁さんも子供もいないとよ。」「何やってきたんだか。いられなくなって戻ってきたんではねえんだか?」まあ、こんなやりとりもあったかもしれない。*背景事情は今後徐々に報道されていくだろうけど、高齢化や非婚化などと合わせるといろいろと考えさせられる事件である。容疑者の両親はすでに死去している。暴発の歯止めになる係累がなくなったということが犯罪の背景にあるのではないか。少子化の問題ばかりが語られるが、その原因の非婚化についてみると、いわばそうした係累のない人びとが今後大量に増えていくということを意味している。また、5人殺人という犯罪行為が証明されれば、容疑者には重刑が予想されるが、彼はすでに60歳を超えている。今後裁判が始まるにしても、上告審で刑が確定する頃には70歳を超えている。そうだとすると今後の司法手続きは容疑者にとっては屋根と食事と医療を提供するという以上の意味はないのではないか。失うもののない人間ほど強いものはないというが、高齢で係累もないなんていう人間には、国家による刑罰ですらさして威嚇効果はない。こんな事件は今も、そしてこれからもあくまでも特異な事件であってほしい。心からそう思う。*年齢とともに人格が円熟し完成していくというのは理想ではあるが、現実ではない。以前薬局にいったときのこと。70代くらいの老女が薬が出てくるのが遅いと言って若い薬剤師を怒鳴りつけているのをみた。風体からすると仕事をしている人とも思えない。そういう人でも今日では低廉な負担で医療を受けられるし、薬も貰える。それをありがたいこととも思わずに自分のために働いている人に怒りをぶつけるなんて…そのとき、その老女を本当に醜いと思った。**カネボウの化粧品で皮膚がまだらになったなんていう事件はかなり重大だと思うのだが、この報道はひかえめなように思う。マスコミ各社は大スポンサーである化粧品会社に遠慮して報道をひかえているのだろうか。
2013年07月30日
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教科書で誰でも名前は知っているが読まれていない本の一つだろう。ただ読んでみると意外に面白い。才覚や運によって長者(分限者)になったり、その後、没落したりした商人の列伝であり、どこまでが真実でどこまでが創作なのか…まあ、歴史資料になっているという話もきかないので、ほとんどが創作なのだろうけど、モデルくらいはいるのかもしれない。江戸時代はユートピアのように語られるときもあるが、ここで描かれる商人の世界はなかなかの競争社会だったようである。恵比寿のコスプレで茶を売ってもうけたり、金平糖の製法をあみだして儲けたりというのは、今日の企画でヒット、新製品でヒットというのとかわりない。抜け目のない人は寺の説教を聞きにいいっても、眠気覚ましと称する飴をうったり、有料で荷物をあずかったりと何でも小銭稼ぎの道具にしてしまう。まあ、こうした切磋琢磨があればこそ、明治期以降に急速な近代化もできたというものだろう。*今でもビジネス書や成功へのハウツー本はそれなりに売れているようであるが、その元祖ともいうべき本である。そしてまた、同時代にこの本が事実あるいは事実らしい噂を基にしたものとして読まれていたのであればルポの元祖ともいえるのかもしれない。そう考えると平成永代蔵なんていう本を今出しても案外売れるのかもしれない(そんな本は既にあるかもしれないが)。この本の終章では総括的なめでたい話を書いている。この本においていちばんめでたいこととされているのは何であろう。それは三夫婦である。つまり親父88歳、その連合い81歳、息子夫婦は57歳と49歳、そして子供と妻は26歳と18歳でいずれも夫婦仲良く、生活のわずらいもなく暮らす。これ以上の幸福があるだろうかというわけである。そしてしまいにはこの幸福にあやかろうとして三夫婦の升かきなる新製品のエピソードもでてくる。江戸時代の人から見たら高齢化だのなんのといっている平成日本は夢みたいな幸福社会にみえるだろう。長生きする人が増えたという意味ではたしかに夢実現である。ただ、子世代、孫世代になるとなかなか結婚しない、あるいはできないので、平成の今日でもおめでたい三夫婦というのはやはりまれである。
2013年07月29日
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この間の選挙の結果には自民党・公明党の圧勝と日本共産党の躍進という二つの特徴がある。そのほかの政党についてはみどりの風、社民、民主、みんな、維新といずれも消滅か消滅間近、そうでなくとも分裂が必至といったところだろう。これらの政党は、社民はちょっと別かもしれないが、自民党やその亜流、もしくは補完勢力といったところで、ただ自身が議員に当選したいがため、そして政権にありつきたいがために右往左往をしているだけにしかみえない。そして日本共産党である。この党は千載一遇の躍進のチャンスにたっている。もし、それをつかめば国政に影響を及ぼすだけの政治勢力に成長しうるが、それができなければ元教員や大企業労組OBの茶飲みクラブとしていずれは時代の遺物として消えていく。*それではチャンスをつかむためには何が必要だろうか。まず古典的マルクス主義理論に対してどう対するかを明確にすることである。それをしないと、共産党が伸びれば「思想言論の自由がなくなる」、「私有財産が否定される」、「ソ連や中国、はては北朝鮮やカンボジアのようになってしまう」といった中傷誹謗があとをたたない。そして、そうしたものはおそらく一定の効果をあげる…。*昨日の日記にもかいたように共産党宣言がでたのは明治維新の20年も前である。当然、その時代と今日とでは社会状況は大いに違う。マルクスの時代には圧倒的多数の人は地主、小作人、工場主、労働者のどれかであった。労働者というのはもちろん単純労働者である。それが今日では同じ給料生活者でも、製品開発者、組織運営者、専門事務職、単純労働者と様々である。。こうした労働力の多様化によって、古典的マルクス主義の労働価値説はなりたたなくなっており、能力こそが最大の生産手段になっている。資本主義のその先にある病巣を指摘したマルクス理論には敬意をはらいつつも古典的マルクス主義とは距離を置くことを明確にすべきである。要は、党として、言論や思想の弾圧や私有財産や起業の自由の否定とは無縁であることをはっきりさせるということである。だいたい共産党とか社会党と言っても、イタリアで連合政権に入った例もあるし、フランスのように政権をとっている例もある。ソ連などの例ばかりがすべてではない。*格差や貧困が拡大している今日の状況を思うにつけ、困っている側、経済的弱者の側にたつ政党はぜひ必要であると思う。そうでなければかつての民主党のようにそれらしい主張をするところに騙されてしまうか、公務員バッシングのようなうっぷんばらしをするだけの政党に票が流れてしまう。民主党はたんに劣化した自民党でしかなかったし、うっぷんばらし政党も決して庶民の味方ではないのに。
2013年07月28日
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共産党の躍進についてのブログやコメントを見ていたら、こんな書き込みがみつかった。大意は以下のようなものである。共産党は政権にない間は平和勢力風に見えるが、マルクス主義を奉じている。もしも政権をとれば、粛清や思想言論統制もするだろうし、自衛隊も党の軍隊にするだろう。共産党の発言は、とても分かりやすいが、どう考えても、人々が貧乏になって苦しむ方向である。共産党エリートのみが特権階級として存在していればいいのだろうか。つっこみどころ満載である。共産主義が弾圧の中で疑似宗教のようになってしまった面はあるのかもしれないが、資本主義や新自由主義については資本主義を奉じているとか新自由主義を奉じているなどといった表現はしない。せいぜい新自由主義的な考え方をもっているとかそういう言い方である。それなのになぜ共産党についてはマルクス主義を奉じているなんていう言い方をするのだろう。そういえば某週刊誌は共産党の新人議員に「共産党宣言」や「資本論」は読んだことがあるかと聞いていた。共産党員は「共産党宣言」を聖典にしていて、あれを一字一句ただしいものとあがめているとでも思っているのだろうか。ばかばかしい。*まあ、百歩ゆずって共産主義に疑似宗教的な面があったとしても、「粛清」や「思想言論統制」というのは共産主義に付随するものなのだろうか。別に「共産党宣言」に、粛清すべし、政権をとったら思想言論統制をすべしなどとは書いていない。「共産党宣言」が出たのは日本で言えば明治維新より20年も前である。そしてロシア革命も今は昔の大正時代の出来事だ。あれも、王政が倒れた時、革命勢力が当時流行していた思想であった共産主義・社会主義を看板にかかげただけで、今にして思えば「社会主義の唯一モデル」というわけでもない。生産手段の国有化といっても、農地は貴族が所有していたのでそれを没収し、資本主義も未発達であったから工業の発展は国営工場で行なうしかなかったというだけだ。革命が終わると、やはりそこでも特権階級が生まれ、その体制を維持するために思想言論統制を行なったし、権力闘争の過程で同志の粛清も起きた。それは「共産主義・社会主義」の看板を掲げた国で起きたことではあるが、共産主義、社会主義に付随するものでもあるまい。それに日本人は「思想言論統制」については、外国の例をださなくても、自らの体験があるではないか。戦前の治安維持法下における特高による弾圧である。民主主義が機能せず、人権が軽視される国では、粛清も思想言論統制も簡単に起こる。戦前の特高による虐殺、治安維持法下での刑死者、獄死者、そして日本軍内部での軍法会議による処刑と言う粛清…こうしたものから目をそむけてはならない。*聖典をいただく宗教でさえ解釈は時代とともに変遷する。聖書には明白に金儲けを信仰に反するものだとした文言があるが、今では、職業に励み、金を稼ぐことを信仰にのっとったものと考える人もいる。篤い信仰と熱心な金儲けが両立するわけである。ましてや経済社会思想であれば、それは時代とともに変遷するのはあたりまえのこと。マルクスがいた時代は大きな工場に大勢の労働者が劣悪な労働条件で働いていた時代であった。人びとは地主や工場主といった階層と労働者小作人といった階層に分かれ、親がどちらであるかで人生もだいたい決まった。でも、今日の日本では、本人の能力次第で工員の息子が高収入を得ることも可能である一方、親に多少の資産があっても本人がボンクラならたちまち低収入に落ちてしまうのが実態である。生まれながらの「階級」という概念はどれほどの意味があるのだろう。それにこうした「生まれながらの階級」というものにこだわると、逆に、機会の平等さえあればよいという格差肯定論や貧困自己責任論に陥ってしまう。「生産手段の国有化」も、工場の設備や技術などたちまち陳腐化してしまう今の時代、工場や土地だけが生産手段であるわけがないし、それを国有化したところで格差がなくなるわけがない。まさに個人の能力や資質こそが、今の時代には、生産手段なのであって、そんなものは国有化できるわけがない。「計画経済」も、これほどに複雑化した時代には無理である。だいたい明日の天候でさえ正確には知り得ない人間が、人びとの需要や不確定要素の多い経済活動の結果をどうやって予測するというのだろう。そしてまた、「プロレタリア独裁」というと、これこそまさに噴飯もののありえない概念。なぜなら、国家の要職に就けば、その人はもうプロレタリアではないのだから…。「書記長閣下は今日は9時から○○工場に夜勤にでかけます。従って会談はそれ以前にセットしてください」なんてこと、あるわけないじゃない。要するに教科書どおりのマルクス主義は今日ではなりたたないのである。*それでは「共産主義を奉じている」のではなく、「共産主義的な考え方によってたつ」とは何なのだろう。人によってイメージは違うのだろうが、小生は、新自由主義的な考え方の逆にあるものと考えている。要するに…人間に能力の差異がある以上格差は仕方がないにしても、格差がありすぎるのは好ましくない。貧困を自己責任ではなく、社会の問題ととらえる。企業活動の自由は当然であるが、労働者保護のためには公的な働きかけも必要だと考える。国家としての再分配機能を重視する。こんなところだろうか。わかりやすくいえば「困っている人の側につく」ということにつきるように思う。(必見 http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4624.html)*最後に冒頭に引用したコメントは、共産主義を「どう考えても、人々が貧乏になって苦しむ方向」であるといっているが、実際人々が貧乏になって苦しむ方向に誘導したのはなんだったのだろうか。非正規雇用を増やし、賃金を減らし、ブラック企業を野放しにしてきた新自由主義ではないか。そしてそれはまだつづいている。
2013年07月27日
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ひさしぶりに週刊新潮を読んだらヤンデンマンのコラム「東京情報」が復活していた。ヤンデンマンって、たしかもう何十年も前から書いている。生きていたらとうに80歳や90歳にはなっていることだろう。たぶんこのヤンデンマンは二代目かそれとも何代目。そして誰でも推測しているようにニセ外国人…。ヤンデンマンもそうなのだが、いつの頃からか外国人名を使った評論というのが一つのジャンルのようになっている。でも、これって反則ではないか。外国人の評論を読むのは、外国人の見方を知るためであって、ニセ外国人が普通なら言いにくい差別的なことやタブーに触れることを書いているのを読みたいわけではない。そしてまたこういうのはなりすまされた外国人にとっても失礼な話だ。もし、欧米の雑誌に、スズキとかヤマモトとかと名乗るニセ日本人の評論家が黒人差別は当然だみたいなことを書いたらどうなのだろうか。やっていることはそれと同じである。また、こうしたことは評論に限らず、小説についてもいえる。外国人名の作者が日本人を主人公にした小説を書くとする。読者は小説のストーリーとしての興味以外に、外国人が日本人をどう描くかということにも興味をひかれる。それで本屋で手に取り購入した後に、作者が実は日本人だったと知れば、それは一種の詐欺にあったような気分になることだろう。*ネット選挙については様々な評論がでてきている。その中でネットを称して「巨大な井戸端会議」に例えているものがある。たしかにそういう面もある。http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/business/media/671739/しかし「メディアに対する国家統制が強い中国やロシアなどの国では、ネットは社会開放・解放の手段としてある程度有効だが、日本のような言論・表現の自由が法的に保障された国では、不満のはけ口として機能するにすぎない。」というのは間違っている。言論表現の自由が法的に保障されていることと、実際にそうした情報を発信できるということとは違う。ネットというツールでしか世間に向けての情報発信ができないという点では中国やロシアの庶民も日本の庶民も変わらない。従って、ネットが社会変革の手段になりうるかもしれないという点では、アラブも中国もロシアも、そして日本も同じなのではないか。また、言論表現の自由が法的に保障されていることと実際に自由だということも違う。マスコミも、そしてそれにのっている評論家や言論人も、かなりのところでスポンサー企業や情報源としての役所の意向に縛られている。原発反対をとなえた芸能人はあっというまにほされるというが、それは評論家やコメンテーターについても同様であろう。*アラブ首長国連邦で犯罪被害にあったノルウェー人女性が逮捕されたという。罪名は「不法な○行為」だというが、被害者が逮捕されるというのがどうにもわかりにくい。この女性は本国の領事館の働きかけもあり、恩赦となって釈放されたという。さて、もしこれが被害者が日本女性だったらどうだろうか。国内で起きたこの種の事件でさえ「女性の側の落ち度」が過度に強調されるし、マスコミによる報道加害も野放し状態だ。この間のイラク人質事件での被害者バッシングも記憶に新しい。その上、政府もおそらく被害者一個人のためには動かないだろう。麻薬密輸の罪で日本人がオーストラリアで懲役刑に処せられた事件(被告側は冤罪を主張していた)でも、何もしなかったのだから。被害者が日本女性だったら、さんざんバッシングされた上、マスコミのえじきにもなり、国にも見殺しにされる。考えるだに怖ろしい。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130722-35034948-cnn-int
2013年07月26日
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おとといの日記で「共産党アレルギー」は存在しないという趣旨の日記を書いたところ沢山のコメントをいただき感謝している。現在の共産党に批判的なものも数多くあったし、それは正直言って正鵠を射ているようにみえる。ただ、格差や貧困の拡大していく中で、貧困層や経済的困窮層の立場を代弁する政党というものはどうしても必要だと思うし、そういう意味での受け皿となりうる政党は共産党しかないのではないか。あの党にはぜひ自己改革を推進して社会の一翼を担いうる政治勢力となってほしい…と切に望んでいる。*もちろんかつては社会党がかなりそうした役割を果たしてきたと思うのだが、あの政党はマドンナブームなるもので変質した。一億総中流社会を達成し、貧困も社会の表面からはみえにくくなり、女工哀史も蟹工船も過去の話になったようなhappyな時代に、マドンナブームはあだ花のように起こった。消費税導入でだました自民党をこらしめてやりたいという願望と当時はまだ目新しかった美しい女性候補にかってに清新というレッテルをはって選挙民がとびついたというわけである。あれから社会党は権力にとりこまれ、経済的困窮層や労働者の立場によってたつ政党という色彩を急速に失っていった。現党首もマドンナブームにのってやってきた人で、もともとは夫婦別姓にとりくんできた弁護士である。貧困問題や労働問題というフィールドからきた人ではない。社会党は社民党と名を変え、そしてそろそろ消えていく時期であろう。民主党も立ち位置を「リベラル」と称することもあり、政権交代の当初には貧困や格差の問題についても何か進展があるのではないかと期待する人も多かった。ただあの政党も実際にふたを開けてみれば、劣化した自民党のようなもので、その分、失望と選挙民の怒りは大きい。それもそのはず、民主党の有力議員は元自民党であったり、政治家になる手段として民主党にのっかっただけという人がほとんどで、民主党自体には党全体をたばねる理念のようなものすらなかったのだから。まさに議員になりたい人が集まっただけの烏合の衆で政権にありつきたいという以上の共通の目標は何もなかった。あの鳩山氏が「政権交代」という文字の後ろで睨みつけているポスターはあの党の無内容さを象徴していたようだ。最近では「生活の党」の代表も反新自由主義のようなことをいっているようであるが、あの方は自民党にいた時期、もっとも自民党的な政治家であった。そしてその後の動きをみても、政策よりも政局の人という印象ばかりが強く、そのため、新自由主義に疑問を唱える言説も、どうせ政局をにらんでだろうというようにしかみえない。彼の周辺の方々も議員に当選したいという以上のものはなさそうであるし。それにあの代表の方は何年か前には「普通の国論」をぶって改憲して軍隊をもつことを主張していた。*今でも多く、そしてこれからも増えていきそうな貧困層や困窮層。こういう人びとが投票難民になってしまうことがあってはならない。また「共産党」という名前についてもいろいろな意見があるが、「自由」とか「民主主義」という名でも世界には様々な政党や国家がある。あの北朝鮮ですら民主主義だの社会主義だのといっている。そういえば、フランスの政権党も「社会主義」の名を冠しているし、イタリアでも「共産党」が政権についたことがあった。
2013年07月25日
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共産党について語るとき、よく「共産党アレルギー」ということがいわれる。この言葉をきくたびに、「ちょっと待った!」と言いたくなる。だいたいその「共産党アレルギー」というのの根拠は何なのだろうか。それを裏付ける世論調査のようなものがあるのだろうか。世の中には何となく「存在している」とされるが、実際には存在しないものもある。「共産党アレルギー」というのもその一つなのではないか。戦後すでに68年、いまさら「アカが怖い」「アカは非国民」といった時代でもないだろう。それよりも問題は、当事者である党員が支持が伸びないのを自身の側ではなくアレルギーのせいにしていることではないのだろうか。「共産党アレルギー」とか「アカの壁」とかいいながら、オレ達は選ばれし少数者なんだという自負に酔う。*はっきりいって、一番大きな問題はアレルギーではなく、党の側の発信の問題ではないかと思う。小生も含め、かなりの人は、あの党を、上意下達の閉鎖的集団というイメージでとらえている。中では自由にものを言えない、発言が党の方針に反していると、自己批判を強要され、場合によっては除名される…違っているのだろうか。違っているなら違うということを発信していけばよい。別にマスコミに載らなくとも、今ではネットという手段がある。マスコミはこのネットを過小評価したがるが、そんなことはない。今やネットは貧しい人も含め、老若男女かなりの人が見ている。そしてさらにネットを見た人は口コミでも伝える。その評価は社会の底流に静かに深く拡散していく。また、以前、党員だけの旗開きの光景をみたことがあるが、ああいう行事も開かれた形でできないものだろうか。ミニ赤旗祭りを地域住民をまきこんだ形で行ない、そこで生活相談を行ない、カンパや寄付も募る。党員だけの閉ざされた党から地域住民に開かれた党への転換である。重要なのは、党員や機関紙の数ではなく、支持者ではないか。国政で地歩をしめれば党員増はついてくる。もちろん支持者にはコアな支持者から争点ごとの支持者や風まかせ支持者もいる。さて、それでは、どういう層で支持者を掘り起こし、投票やことによればカンパや行事参加などの日常的支持にむすびつけるのか。そんなに難しくないと思う。受け手の立場で考えればよいのである。病気の人が一番知りたいのはその病気の治療法であろう。*今度の選挙で選挙区で当選した人はいずれも従来のイメージでは「らしくない」タイプであった。そうした意味でイメージ転換はすでに進行中なのかもしれない。東京の候補者は、ブラック企業など雇用の問題を主に訴えていた。これがまさにスウィートスポットだったのではないかと小生は思っている。もし、憲法9条とか沖縄の基地とかTPPとか原発とか保育所増設ばかりを訴えていたらどうだったのだろう。いずれも重大な問題ではあるが、支持者やその予備軍にとって、すぐそこにある問題というのとはちょっと違う。イメージをより開かれた明るいものに転換し、雇用、貧困などの切実な問題に応えていく…内部で自由闊達に討議を行ない、役員の選出などの手続きも透明化する。そうなれば風を起こして風に乗り、世の中を変えていくこともできるのではないか。まさにYONAOSHI…そんな力を秘めている政党ではないかと思うので、あえてこんなことを書いてみた。
2013年07月23日
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そんなに皆さん、タダで残業をやりたいと思っているのですか?そんなに皆さん、いつでも会社から解雇されるようになるのがよいのですか?そんなに皆さん、身分不安定の限定正社員になるのがよいのですか?そんなに皆さん、16時間勤務の連勤20日なんていう働き方をしたいのですか?そんなに皆さん、命令違反が死刑や無期になる国防軍なんていうものに入りたいのですか?…それともそういうことはどうせ自分にはおこらないと思っているのでしょうか。自分は絶対に会社を解雇されない、自分は絶対にブラックな働き方とは無縁であると。そしてまた貧困や生活保護とも無縁である、そんなのは自己責任にきまっていると本当に思っているのでしょうか。どうもわからなくなりました。…強い日本というけど自分が強くなるわけではない。景気が良くなったとか株が上がったとかいうけど、自分の所得が増えたわけではない。たぶんアベノミクスなるものの恩恵を庶民が受けるなんていうことは永久にないでしょう。この間の大本営景気だって六本木セレブを生んだだけでトリクルダウン(おこぼれ効果)なんてなかったのですから。考えれば考えるほど、自民圧勝、維新やみんなもそこそこという選挙結果はまるで悪夢のようです。
2013年07月22日
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選挙の後の七詩さんとムメイさんの会話ムメイ「よかったよかった。自民圧勝だってねえ。これでねじれが解消して政治が動き出す。アベノミクスによる経済効果で庶民の懐が潤うのももうすぐだしね♪」 七詩「そういえば新聞なんかではねじれ解消が争点だなんて書いてあったね。でもそれってこの間の選挙で政権交代が争点だといっていたのと同じくらいへんてこな話だよ。だってねじれが解消するかどうかは自民が勝つかどうかであって、それを争点というのはさ、自民が勝つかどうかが争点といっているようなもんじゃないの。まるで、巨人阪神戦の勝敗のカギは巨人が勝つかどうかにかかっていると言っているのと同じようなナンセンスな話。この間は政権交代が争点だ、つまり民主が勝つかどうかが争点だなんていって票を民主党に誘導し、今度はねじれ解消が争点だといって自民党に誘導する…まあ、そういうのにのせられる人が多いということだろうけどね。でも、そんなふうにねじれ解消が争点だなんて大合唱したせいで、肝心な争点がずいぶんぼけてしまったようにもみえるけど。」ムメイ「あんたにかかれば私などマスコミに誘導されっぱなしとなるのだろうね。でも、アベノミクスは効果をあげているようじゃない。」 七詩「どうだか…高級品が売れているだのなんのと報道した後で、天気の話でもするみたいに小麦粉が値上がりしているだのガソリンが値上がりしているだのと報道するけど順序が逆じゃないの。それに世の中が好景気への期待で明るくなったなんていうけど、どこの話なのさ、いったい。円安で原材料費が高騰して大変だなんていっているところもけっこうあるみたいだよ。」ムメイ「でもさあ、この間までの政権で民主党にも本当に失望したし、これで自民もダメだとなると投票する政党がなくなっちゃうじゃないの。投票難民になるところだよ。まったく。」ムメイ「でも、アベ総理はよくやっているみたいだしね、中国や韓国にもいうべきことはちゃんといいそうで頼もしいじゃない。」 七詩「そういえばあんた、何年か前には『みんなのワタナベさんてなんか素敵ねえ』なんていっていたし、この間まではハシモト氏を『演説しているところがカッコいい』だとか『何かやってくれそう』だとかといってさんざん誉めていたじゃない。」ムメイ「だってテレビ見てたら本当に素敵だと思ったし、カッコいいと思ったんだもん。」 七詩「ふふ、あの政党の候補者をみていると、政党なんかどうでもよくて、とにかく議員になりたいというだけみたいだよね。特にみんななんか…。自民党の元総理の秘書がなんでみんなからでているのかなあ。誰も不思議と思わないこの不思議。」ムメイ「そういえば自民とどこが違うのかよくわからなくなるけど。でも給料もらいすぎの公務員だとかさあ、いい思いをしている小中学校の教員とかをぶったたいているのをみるとスカッとするじゃん。だいたい公務員は恵まれすぎて腹立たしいったらありゃしない。」 七詩「でも、みんなの党なんか元公務員が多いけど。」ムメイ「あれは別だよ。別。東大を出て高等文官試験にうかったような頭のいい人たちじゃん。そうではなくてさ、普通の公務員や小中学校の先生なんかの高給が本当に腹立たしいんだよ。分かる~。」 七詩「これで当分選挙はないし…残業代タダ法案とか解雇自由化とか、私らのようなサラリーマンには辛い時代になりそう。でもこれも、われら有権者の選んだことだから仕方ないかなあ。上がる物価に下がるは給料追い打ちかけるは消費税~♪」ムメイ「わかったわかった。あんたにかかると世の中は真っ黒真っ暗なんだね。」 七詩「ふう、本当に。ブラック魔王も国会議員ならこの世はブラック、ブラック日本。過労で鬱になったって、過労で仕事辞めたって、これからは自己責任なんだなあ。一日10数時間労働で連続勤務10日以上なんて、19世紀英国の工場労働者の方がまだましみたい。まあ、その中でもキラリと光る一番星もあったりしてちょっとは救われるかなあ。」ムメイ「ああ、この間あんたが投票するといっていた若い女性候補だね。そういえば当選したっけ。」 七詩「うん。やはり就職難やブラック企業などの雇用の問題に焦点をあてたのが大きかったようなきがする。その昔のマドンナブームのとき当選した若い女性が『就職活動大成功』なんてほざいて消えていった例があったけど、あの人は全然違うと思うからね。自分の後ろには不安定な雇用に苦しむ人、劣悪な労働条件に苦しむ人、そしてその親たちなど、本当に多くの人の思いや願いのあることを考えてほしい。そして政治家として大成して世の中を変えていってほしいね。」ムメイ「そうそう。あの候補の政党も野党の中では躍進したってねえ。」 七詩「こんな時代だもの。本当はもっともっと躍進してほしかった。でもあの政党の上意下達の官僚主義みたいなイメージ、それはもともと誤ったものだったのかもしれないけど、確実に変わっていると思うよね。一番星さんは官邸前のデモにも参加しているというけど、ああいう個人の自由意思を尊重するデモにも顔をだしているなんてうれしいね。紫陽花は一つ一つの花の色が微妙に違うからあんなに綺麗なんだ。一人一人が自由にものをいい、自由に意見をたたかわせながら、人間の尊重、人間の平等という理想にまとまっていけるのならそれが一番美しい。昔々ロシア革命のとき、革命家の間でイスクラという雑誌が読まれていたんだ。イスクラとは火花という意味。最初は小さな火花でもやがては世直しの大きな炎となっていく。それを期待したいね。」ムメイ「あほ。」 ムメイ「負けた政党、民主とか生活とかみどりの風なんかはどうなんだろう。」七詩「最初からあんな奴と思っていた場合とすごくいい奴だと思っていたのに実際にはあんな奴と分かった場合とどっちが怒りが大きいと思う?」ムメイ「そりゃあとの方だろうね。」七詩「そうそう。民主党はそれなんだよね。最初は政権交代に期待したものの、実際にやってみると『あんな奴』の自民と同じだった。悔しい。騙された。ならば元祖『あんな奴』の方がまだましだというわけ。要するに与党として失格だけではなく、野党としても失格という烙印をおされたんだよ。それが大敗の次には勝つという逆バネが働かなかった原因何だろうね。きっと。消え去るしかないんじゃないのかな。」ムメイ「じゃあ、生活とかみどりの風は?」七詩「票欲しさのイメージ戦略がみえみえで選挙民はかえって騙されないぞというファイトがわいたんじゃないのかしら。清新なイメージの美人女性をあつめてみどりの風ですといったってそうはいかないぞとね。そしてまた生活も言っていることはよいのだが、これも、政局をにらんだ票めあてというあざとさが鼻につくばかり。なにしろ生活の党代表は昔は改憲論を説いたこともあるし、簡単に言葉だけをみるわけにもいかないね。でも、生活の党代表の方のこんな言葉もあるよ。「われわれの標語は『いのちと暮らしと地域を守る』。安倍晋三首相とは対極の考え方に立っています。安倍首相の思想は競争力のある者がもうければいいという小泉純一郎元首相と全く同じ理屈で、企業サイドの論理、強者の論理といっていい。これでは格差がさらに広がり、非常にいびつな社会になってしまう。環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)も、農林漁業だけでなく、国民皆保険制度の崩壊を招きかねない。弱者の論理に立った施策、すなわちセーフティーネットを整えた上での自由競争でなければ、弱肉強食の「獣」の世界と同じだ。」http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130708/stt13070822110002-n1.htmいいことを言っている。本音をいえば、こうした言葉こそ他の野党党首の口から聞きたかったよ。
2013年07月21日
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韓流が好きなので新大久保界隈にときどきでかけることがある。報道だけみると韓流ブームは終わっただの、新大久保も人が減っているだのとあるようだが、見た限りではそんな様子はみうけられない。そして、噂のヘイトデモなるものも、まだ見たことはない。ヘイトデモ…ちょっと見てみたい気もするが、おそらく、見た方が恥ずかしくなるようなしろものではないか。ならば恥をさらしたい連中にはかってにやらせておけという気もする。*ヨーロッパでもこうした反移民や反外国人のデモがあり、貧しく不満をかかえた若い層が主な参加者であるという。そうだとしたらまさに「弱いものが夕暮れ、さらに弱いものをたたく」という哀しい光景であるとしかいいようがない。人というものは一筋縄ではいかない。経済的、社会的に「弱い」立場にあったとしても、否そういう立場にある者ほど。実は自分が「弱者」であるとは認めたくない。弱い者がさらに弱い者を叩くというのは、それが、自分が「弱者」であり「敗者」であることを、自分自身に対して否定するもっとも手軽な方法だからだろう。在住外国人は別に弱者ではないのだが、アメリカ人やドイツ人でなく、特定の外国人を叩き、自分が日本人であることに対するつかのまの優位幻想を味わうと言う意味で、構造は同じようなものに思う。ヘイトデモばかりではない。生活保護受給者を最も熱心に叩いているのは、おそらく「真面目に働いて生活保護受給者とさして変わらぬ給料を得ている人びと」であろう。*弱いものがさらに弱いものをたたくといえば、地球規模でもっとやりきれない話がある。格差が究極にまで拡大したような米国社会では下流から這い上がるために軍隊という選択しかない若者達がいる。こうした現象を意味する「経済的徴兵制」という言葉もあるという。http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/book-hinkontaikoku.htm「ルポ貧困大国アメリカ」にはこんな言葉が紹介されている。「もはや徴兵制などいらないのです。政府は格差を拡大する政策を次々と打ち出すだけでいい。経済的追い詰められた国民は、イデオロギーのためでなく、生活苦のために黙っていても戦争にいってくれますから」(「世界個人情報機関」のスタッフ)そうして海外に派遣された兵士たちは外国で殺人等を経験する。それで除隊後上級学校に進学する人もいるのだが、一方では、精神を病んだり自殺したりするものもいる。米国では毎日18人の元兵士が命を絶っており、アフガニスタンとイラクからの帰還兵だけでも自殺者は数千人にも上る。もちろん戦闘中の死者数も6460人に達している。http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2012/08/post-2647.php
2013年07月21日
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某政党代表のFBが大炎上しているという。内容をみると確かにネット住民がカチンとくるのは無理もない。自分は新聞記者の父親の薫陶をうけて立派な文章を書いているが…といったような上から目線の内容で、マスコミに地歩を築いている評論家などがこうした姿勢でネットを批判することはこれまでもあったが、さすがに政党代表が、それも選挙の前にやったら逆効果だろう。http://news.infoseek.co.jp/Councilor2013/article/20130719jcast20132179770?p=1選挙直前であるが、まだまだ不確定要因はある。ふたをあけてみなければ本当のところ、結果はわからない。*ネットはマスメディアと違って誰でも発信することができ、しかも双方向の媒体である。今ではネットカフェで寝泊まりしている人がいるように、社会的に弱い立場の人もネットに普通に接している。そうした意味で、ネットこそまさに庶民の媒体であり、下から社会を動かしていく力を秘めた媒体であるともいえる。ただそれだけに使い方を間違えてはいけない。*この方からみれば下手くそな文章で誹謗中傷を書きなぐっているだけのようにみえる人びとも、リアル社会では普通の選挙民であり、国民である。ネットは少数のオタクのものだったなんていう時代は大昔の話だ。そこを間違えるとせっかくのネット利用も落とし穴になってしまう。
2013年07月20日
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「泥流地帯」を読み終えた。貧困、重労働、身売りなど大正期の北海道開拓農民の苦難をこれでもかこれでもかと描いた後、物語のラストでは十勝岳の噴火により主人公らの愛する者の多くは死んでしまう。「こころがけのよいものは助かったべ。おてんとうさまはちゃんとみている。」死んだ姉に辛くあたっていた義母の言葉は主人公の心をえぐる。災害で助け合う人々がいる一方で、国からおりる見舞金の金勘定をする者やこのときとばかりに食べ物を高く売りつけ荒稼ぎをする業者もいる。いったいなぜ心の正しい者が不幸になり、邪な者が栄えるのか。そもそも心正しく真面目に生きてきたものがなぜこのような不幸にあうのか。主人公の問いは実人生における多くの人びとの問いかけに重なる。*はっきりいってしまえば人生というのはかくも不条理なものとしかいいようがない。勧善懲悪はフィクションの世界だけのものであり、因果報応だって現実世界ではかなりあやしい。いったいなぜ…と問いかける主人公に、兄はこう答える。「おれはな耕作、あのまま泥流の中でおれが死んだとしても、馬鹿臭かったとは思わんぞ。もう一度生まれ変わったとしても、おれはやっぱり真面目に生きるつもりだ。」答えになっていないといえば答えになっていないのだが、人間にはそういう一面もあり、人間の社会にはそうした人もいる。*ただひとついえることは病、貧困、事故や災害、人間にとっての様々な不幸は自己責任だけでは説明できないということだろう。貧困についての自己責任論はさかんに言われるし、時には病も「生活習慣病」と称してその人の生活態度に問題があるような印象付けが行なわれる。そうではなく、なんの責任がなくとも、自己や家族だけではかかえきれない不幸が時としてあるから社会や国家などの共同体の役割があるのではないか。そしてまたそもそも論をいえば、不幸や幸福の淵源にもなる才能や能力というものも不条理である。映画「アマデウス」の中のサリエリの問いかけ…なぜ心正しく身を律して努力する者に才能が与えられず、そうでない者に与えられるのか。人生とは、そして人間の生きる世の中とはかくも不条理に満ちている。
2013年07月19日
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歴史を調べてみると一般に喧伝されているイメージとその実相とが乖離しているものというのはずいぶんある。新撰組などは滅びゆく時代に殉じた英雄集団のように思われているが、実際には、志士と戦って戦死した者よりも規律違反の詰め腹などで内部で粛清された者の方が多かったという。後世の美しいイメージとは異なり内実は連合赤軍のようなカルト集団に近かったのではないか。*同じようなことは先の大戦の日本軍にもいえる。戦没者は戦死がほとんどといったイメージがあるが、実際には餓死や病死の方が圧倒的に多く、また、軍隊内で日本軍により処刑された人もいた。この軍隊内の処刑者については、遺族も「恥」として口をつぐんでおり、なかなか真相が明らかにはならないのであるが、戦争末期の南方戦線で起きた軍人の処刑については、NHKスペシャルでもとりあげられたことがある。http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0814_2/これによると、太平洋戦争末期、南方戦線では、飢えに苦しみ、食糧を求めてジャングルをさまよった日本兵たちが、「逃亡罪」で次々に拘束され、処刑されたという。しかもなかには見せしめとして、本来なら死刑にならない罪でも兵士を処刑した例もあった。こうした処刑は全体ではどのくらいあったのか。罪状はどんなものであったのか。戦争後、多くの年月が流れ、今さらこうしたことを明らかにするのは難しいであろう。しかし、軍隊というものは、軍刑法と言う独自の刑法を持ち、軍事法廷という独自の司法手続きを持つ集団であるということは、銘記しておくべきであろう。戦前の軍刑法では、多くの国々と同様、戦闘中の敵前逃亡や上官反逆などは極刑をもって処せられた。http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm41-46.htm兵と国家との関係は特殊であり、軍人というものは単なる武器をもった公務員というのとはわけが違う。*また、戦前の日本で国家に殺された日本人はこれだけではない。治安維持法により、拷問死、獄死あるいは刑死した人びとがいる。これについても、わかっているだけで、拷問などによって虐殺された者が65名、そういう拷問、虐待が原因で獄死した者が114名、病気その他の理由で死亡した者が1503名、全部で1682名であるという。中には20代の女性もいた。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron_hosoku5.htm
2013年07月18日
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三浦綾子の作品にはたいてい二種類の人間がでてくる。それは人の不幸を我がことと感じる人間とそうでない人間…。もちろんそれは単純に善玉とか悪玉とかというのでもないし、小説的には後者のタイプの弱さ卑小さの方がうまくえがかれている場合もあるのだが。「母」でタコ部屋の労働者をきづかう主人公もそうなのだが、この小説「泥流地帯」でも様々な不幸とその中で助け合う人びとの姿が描かれている。三浦綾子は1999年に亡くなっているが、もし今日も存命だったとしたら、ワーキングプア、過労死、失業などの問題についてどう思うのだろうか。氏は生前社会的な発言はあまりなさらず審議会委員などとも無縁の方だったと記憶しているが、三浦作品の主人公達だったら「貧困は自己責任」だの「アフリカよりもマシ(死なないだけでいいじゃない)」だのとは言わないような気がする。*「泥流地帯」の舞台は大正時代の北海道。貧しさで上の学校に行けない秀才がいる。父の借金の方に遊郭に売られる娘もいる。重労働や病気。そして最後には十勝岳の噴火による災害もある。読書レビューをみると噴火の場面を東日本大震災と重ね合わせて読んだ人が多く、この作品が時代を次いで読まれていることがよくわかる。この小説のテーマになっている人生の苦難。それはいつの時代でも変わらぬ重いテーマだからであろう。*三浦綾子は懸賞小説「氷点」でデビューした。ただ「氷点」は小説を書こうというつもりで書いた小説で、出生の秘密、交通事故など今日でいえば韓流ドラマのような面白い話であるが、作者の真骨頂はむしろ実在の人物や事件を基にした作品にあるように思う。自身の半生を綴った「道ありき」や実際の鉄道事故とその運転士をモデルにした「塩狩峠」、実在の人物をモデルにした「母」など。「泥流地帯」では主人公には実在のモデルはいないが背景の十勝岳噴火は実際に起こったことである。実は「泥流地帯」はまだ読了しておらず、これからいよいよ噴火が始まる個所である。後日再び読後感をまとめてみたいと思う。**いよいよ選挙が近い。ふと今までの選挙のあとどんなことが起きたかを考えてみる。無所属や小政党からでてきた議員が有力政党に入ることはしばしば起こっている。とにかく政治家になって議員の椅子にありつきたいというだけの人ならそうした選択だって当然するだろう。実際、風にのりそうな政党を探して渡り鳥のように政党をのりかえる人だっているのだから。政治という舞台で何かをやりたい人を政治家という。とにかく議員に当選して金と名誉を得たいとだけ思う人を政治屋という。
2013年07月17日
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大洗市で昨日、自衛隊も参加しての街おこしイベントがあった。少女が戦車にのってスポーツとしての戦車戦をくりひろげる深夜アニメ「ガールズ&パンツアー」の関連イベントではあるが、戦車や軍艦もくるとあって、アニオタだけでなく、親子連れの姿も目立った。会場には自衛官が銃をかかえて行進したり、希望者といっしょに写真をとるなどのサービスもやっており、子供の中にはさっそく敬礼のマネをしているのもいた。昔は自衛官が軍隊ではないということで戦車も特車といった。今では戦車は戦車とよぶようになったが、それでも階級の名称は軍人風に大佐とか中尉ではなく、一佐とか三尉とかしているようだ。そして街中で軍服(自衛隊ではなんとよんでいるのだろうか)を見る機会はほとんどまずない。*自衛隊は今では立派な軍隊で国防軍はその追認にすぎないと言う人もいる。そうではないだろう。軍隊にはかならず軍事刑法があり、軍事裁判所がある。敵前逃亡はまず重刑に処せられ、死刑を廃止した国でも軍事刑法では死刑を存置している国は多い。先の戦争中でも戦死や餓死だけではなく、逃亡などの罪で軍隊内で処刑された兵士もいた。そうした軍事裁判所の設置は憲法改正案にものっており、それだけでも、国防軍を自衛隊の名称変更というには無理がある。福島の原発事故処理で逃亡した自衛官がいたというが、現行法では、こうした場合、懲戒処分や一般刑法以上の処罰はできない。しかし、軍隊となれば話が違う。大洗の町もシャッター通りが目に付き、猛暑の東京とは異なり、親潮からの涼風が吹いていた。ありがたいようだが、農作にはよくない風で、昔から飢饉風とよばれているという。大洗のイベント会場には自衛官募集の幟がいくつもたっていた。
2013年07月16日
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ケネディ大統領の長女のキャロライン・ケネディ氏が駐日大使に赴任するという。報道にはでていないのだが、キャロラインの名は一定年齢層の日本人にとってはなじみ深い。かつて、少女向けの漫画週刊誌として「マーガレット」と「少女フレンド」が人気を二分していた時代があった。そのどちらだったかは忘れたが、「キャロリン日記」と題して米国大統領の娘の日記なるものが掲載されていた。内容は家でクリスマスパーティをやって何を貰ったとか、バーベキューをやったとか、愛犬がどうしたとか、そんなたわいもない話がほとんどであったが、まだ日本が豊かでなかった時代のこと、世界一豊かな国の大統領令嬢のリアルお姫様の生活に多くの子供は興味しんしんであった。この「キャロリン日記」連載中に暗殺事件が起き、とたんに日記も悲しい物語になってしまったが。*想い出ついでに書くとあの時代に夢中になって読んだ漫画も今ではかなり復刻されている。ただ中には話が改変されているもの、あるいは後のバージョンで変更されたというものもある。例えばリアルタイムで月刊誌に連載されていた頃に大好きだった「秘密のあっこちゃん」。これは記憶では、不思議な鏡を路上で見知らぬおじさんから貰ったという設定になっていた。路上で出会った見知らぬおじさん…というのが妙にリアリティがあったのだが、たしかに防犯という見地からは好ましくない。それでテレビ版では「鏡の精」に貰ったということになったようだが、これでは最初からお伽話になってしまったようでちょっと残念である。また、石森章太郎の傑作に「ミュータントサブ」というのがあり、これもなかなか復刻されていないのだが、調べてみるとやはり母親が被爆者という設定に問題があったようである。記憶では母親の被曝が主人公のサブが超能力をもつ原因となっていたが、たしかにそのままでは復刻されにくい。それで現在復刻版はあることはあるらしいが、原爆の絵はそのままで文字では「正体不明の怪光線」となっているらしい。被爆者という設定を問題視するのはわかるのだが、背景に被曝という悲劇があるから物語に陰影ができ、超能力を持つことの孤独のようなものも表現されていたように思う。そういえば石森章太郎のもう一つの傑作「サイボーグ009」も背景には戦争の悲劇がある。主人公のジョーは栗色の髪の混血児で、差別を受け、非行に走り少年院を脱走したという設定になっていた。終戦直後にはそうした混血児が沢山生まれたし、リアルタイムでこの漫画が連載された時代のジョーはそうした年代であった。この設定も現在では変わっているのかもしれない。
2013年07月15日
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今でもハウツー本やビジネス書がベストセラーになる例は多いが江戸時代にもそうした本があった。「日本永代蔵」である。虚実織り交ぜなのだろうけど、様々な商人の成功談や没落談を集め、そこからくみとれる教訓をちりばめる。これだけ読むと安定しているようにみえる江戸時代もけっこう厳しい競争社会だったのかもしれない。今も昔も何よりの財産は才覚、勤勉、そして運ということなのだろうか。*成功者もいる一方で、「乞○に筋なし」なんていう諺もあったようで、生まれ育ちに関係なく乞○に転落するようなものもいたらしく、そうした乞○の独白も興味深い。何をやってもできた大店の息子が江戸に来て好きなもので身を立てようとするが、謡も語りも学問もしょせんは素人にしてはできるという範囲でそれで身をたてようとすると自分よりもできるものはいくらでもいて、金をとれるというほどにはならない。それでついには落ちぶれて…という話だが、自己過信は身をほろぼす基というのは今も変わらない。なまじの利口者ほど自分よりも優れた人が多くいるということがわからないなんていう言葉もでてくる。*この乞○の話をきいて一念発起した話が面白い。遊女遊びで勘当された大店の長男が無一文になって江戸に流れてくるのだが、死んだ犬を譲り受け、それを丸焼きにした後細かく刻んで、田舎言葉をまねて狼の肉で薬になるといって売り歩く。それをもとに木綿を買って牛天神の手水のところで縁起の良い手ぬぐいだといって売る。このように、勤勉と才覚、そして贅沢をつつしむことで分限者になったという話がほとんどで、フィクションだったらなんてこともないようだが、情報の未発達な時代のこと、多くは実話としてうけとめられたのだろうし、実際にもとになった事例があったのかもしれない。*百いても同じ浮世に同じ花 月はまんまる雪はしろたえ江戸時代の狂歌作家の辞世だったかと思うが、江戸時代の浮世も平成の浮世も似たところが案外多い。
2013年07月14日
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朝の駅前では様々な候補が選挙運動を繰り広げている。階段近くでさかんに自分の名前だけを連呼している候補もいた。比例区の候補なのだろう。ただ、○○と書いてくださいと叫んでいる。党の名も政策も言わない。言ったとしても中味のないものばかり。公認してもらえれば、当選が望めるのであれば、どの政党でもよいのだろう。そして有権者などは自分が議員になり6年間歳費で暮らすための道具のようなもの。それならいっそ党名も「私が議員になりたい党」にでもすればいいのに…。*そうかと思えば政党を隠す候補者もいる。何とか労連の○○です、何とか労連の○○です~という演説をきいて、はてさて何とか労連なんていう政党があったのかしらとポスターをよくみてみると、隅っこに小さく政党名が書いてある。政党名を隠さなければならない候補者ならいったいなんで選挙にでたのだろう。
2013年07月13日
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古事記に題材をとった田辺聖子の小説である。田辺聖子って写真の印象もあって軽妙洒脱なエッセイばかりを書いている人という印象があったのだが、こんな美しい恋物語を書くとは意外である。そういえば田辺氏は古典にも造詣が深く、源氏物語をもとにした小説も書いていたっけ。*女鳥と隼別と大雀という、いずれも鳥の名をもつ三人の三角関係に端を発する反乱は原文ではわずか10数行であるが、それをこんな若者の純粋な恋を描いた叙情的な物語にするなんて。やっぱり作家の想像力は尋常ではない。もっともひねたみ方をすればこの当時の日本に、物語にあるような波璃の器や透かし彫りまで施した金の鎧なんてものがあったとは思えない。そうした工芸品がでてくるのはもっと後の時代のことである。でも、霧のかなたのような5世紀ころの日本…多少おおらかに想像力をふくらませて物語を紡いだ方が楽しい。*古事記は好きで数回読んでいる。なんで好きなのかというとうまくいえないのだが、こうした豊富な物語を背景に秘めていることもその魅力なのだろう。普通はそうした豊饒な物語の匂いを嗅いでいるだけなのだが、小説家はその豊かな想像力で様々な物語を作って見せてくれる。前半の反乱の部分と後半のその反乱の記憶を抱えながら生きる人びとの物語と、小説は二つに分かれる。小説は様々な登場人物の独白を連ねると言う形式をとっているが、それがちょうどオペラのような雰囲気になり成功している。そうした様々なアリアの中でひときわ印象的なのは磐之媛の迫力あるアルトである。嫉妬深い皇后磐之媛は古事記でも強烈なキャラである。彼女はこの物語の最後には霊力の衰えを自覚して世を去るのであるが、古代ではこうした霊力ある女性が大きな役割を果たしていたのであろう。古事記では彼女が大きな権力をもっていたことが描かれているが、その権力の源泉も彼女が持っていると信じられていた霊力によるものだったのかもしれない。
2013年07月13日
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青天の霹靂とはこのことだろう。いつものように会社に行くと突然に北海道支社への転勤を言い渡された。たしかにあそこにも小さな支社があるのは知ってはいたが…。返事をためらていると上司がどなりつける。「君は正社員なんだろう。ならばどこにでも転勤する覚悟でいないと。それがいやなら限定正社員に変更願いをだしたまえ。」そして限定正社員になったのが6か月前。そこでまっていたのは毎日朝早くから深夜までの勤務だった。「ホワイトカラーエグゼンプション」とかで残業代はでない。同時期に限定正社員になった人はそれでほとんどやめていって…連絡がとれない。解雇をいいわたされたのは3か月前で、新しい職場はまだ見つからない。そういえば解雇もずいぶん簡単にできるようになったんだなあ。正社員だって解雇されるのに、限定正社員の身分じゃしょうがないか。貯金を取り崩して生活しているのだが、物価上昇に消費税で同じ金額で買える食品は日ごとに少なくなっていくみたい。この間なんて納豆の値段にびっくりしたばかりだ。貯金がなくなっても就職先はない。いずれは生活保護窓口に並ぶかもしれないけど、それも怖ろしい。申請しようとしても追い返されるばかりでなく、申請を受け付けたとしても、今度は疎遠になっている兄弟ばかりでなく、今では従兄弟にまで通知がいくという。兄だって高校生の子供が二人もいるし、教育費を削ってこちらの生活を見ろなんて言われたら、家庭崩壊するのではないか。それでなくとも、生活保護受給者はナマポとかゴクツブシとかとよばれて社会のうっぷんのはけ口の賤民扱いだもんね~。*ゆううつなことばっかり考えていると友人のムメイさんがやってきた。あの人も残業、残業でくたびれはてて、ついには体を壊して失職したという。そればかりではなく、二人の子供さんも、上の子はやはり失職して下の子も就職が決まっていない。話はどうしてもそちらにいく。「上のお子さんはどうしたの。」「仕事がないし、こっちもお金がどんどんなくなってしまうので、国防軍に入ったんだよ。そしたらほら新聞にでてたでしょ。PKOに参加した日本軍兵士、反政府軍テロにより15人死傷って。あの子は死ななかったけど右手と左足がふっとんでしまって傷兵院に入っているよ。」「ああ、泣かないでよ。ティッシュはほらそこにあるけど。下のお子さんは元気なんでしょう?」「それが、就職活動を諦めて家にいるのだけれど、どうも悩むことが多いみたいで、それにこの頃は電波だのお告げだのとわけのわからないことを言いだしている。それも心配で。」「そうそう。精出せば凍るひまなき水車っていうものねえ。毎日行くところがあって毎日やることがあれば人はまともに生きていける。でもそうでないと、どうしてもそういう人もでてくるよねえ。」*それにしても、そんなに昔のことではないのだけれども、高級品が売れているだの、株があがっているだのといって、景気回復だの日本経済の復活だのと言っていたのはなんだったのだろう。ムメイさんだって、あの頃には、これで景気がよくなるよとか我々庶民が景気回復を実感できるのももうすぐだよなんて言っていたのに…。「ムメイさん、そんなに泣かないでよ。ティッシュだってこの頃高いんだから。」小生もつられて涙声になりながら、悩み多い人生を歩む友人の背中をなでた。**新聞の中には選挙の争点を「ねじれ解消」だなんて書いているところがある。そういえばいつかの選挙では「政権交代」が争点だと書いてあった。ねじれ解消も政権交代も、それは選挙の結果であって、争点ではないだろう。争点は…人によって違うだろうがやはり雇用の安定、ブラック企業にみられる過酷労働、低賃金、就職難、そういったものではないのだろうか。政策の中身に関係ない選挙の結果を「争点」だと煽るなんてミスリードもはなはだしい。だから新聞はこの頃読む気がしない。
2013年07月12日
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非嫡出子の相続分を嫡出子の半分にするという民法の規定について違憲判決がでる可能性があるという。そもそも父親と子供の関係で考えた場合に非嫡出子と嫡出子を相続で区別すると言う理由はなんであろうか。家業への協力や生活を共にしていたことによる介護などが考えられるが、家業は別の形で継承がなされるし、それに今の時代、そうした家業のある家というのは少数であろう。介護はこの問題とは別に相続の際に重視すればよい話で、嫡出子同士の間だって親と同居介護をした孝行息子(娘)がばかをみるような今の制度はおかしいともいえる。結局のところ、非嫡出子を相続で不利に扱う理由というのは希薄だとしか思えない。*それにたとえ相続分を同じにしたところで嫡出子と非嫡出子が同じになるわけではない。妻の相続分は2分の1であるが、妻が相続した分は、妻を通じて嫡出子だけに行く。また、兄弟が複数いて一人だけ大学をだしてもらった場合には受益者として相続の際に不利に扱われることもあるが、これもおそらく嫡出子の間だけの話で、子供の中で非嫡出の子だけが進学の費用をだしてもらえなかったとしても、相続では考慮されないだろう。嫡出子は父親と生活をともにすることで、日々の生活、進学、学習や職業教育の費用などで様々な便益を受ける。せめて相続は嫡出子も非嫡出子も平等に…という考え方もある。*それにまた、このように嫡出子、非嫡出子を相続で平等に扱うことはある意味で男性の無責任に歯止めをかけると言う効果もある。未成年を相手にした場合はともかくとして、大人の女性を騙した場合には、男性が責を負うということはまずない。世間ずれしていない女性に「妻とうまくいっていない」とかなんとかいいながら火遊びをやったって、それが犯罪になることはない。100%女性の側の自己責任であり、道徳的非難もむしろ女性に向けられる。ただ、そうした場合でも、女性が自分の子供を生んだとして、その子供が嫡出子と同じ相続分をもつとなれば、男性も無責任ではいられなくなる。*最後に…暴論をあえていってしまおう。幸福観の問題であり、人生観の問題でもあるのだが、バカとくっついてバカな子を生むのと優秀な男性と付き合って(確率ではあるが)優秀な子を生むのとどっちがよいのだろうか。生物の進化の摂理は圧倒的に後者であり、自然界には正当婚姻も一夫一婦制もない。たしかに婚外子差別の現実はあり、問題となっている憲法訴訟の当事者はこうした差別を訴えている。しかしハンディ、不平等、差別、そうしたものは人の世にはつきものである。もちろん差別はなくすように努めていかなければならないが、現実にある障害、現実にある事故や犯罪被害の悲惨、そうしたものに比べて「婚外子である苦しみ」がどれほどのものだというのだろうか。肉体的、精神的ハンディをもって生まれるのと、能力資質に優れた婚外子に生まれるのと、どっちか選べと言われれば、躊躇なく後者を選ぶ。自身が婚外子であることを公言している作家の方だって、その優れた能力、才能、資質は生物学上の父親から受け継いだのかもしれないではないか。
2013年07月10日
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運動ダイエットというのはいつから始まったのだろうか。その歴史はそれほど古くないようだ。美容のために体操を始めたのはオーストリアの王妃シシーが最初でそれは19世紀のことである。庶民にそうした習慣が普及するのはもっと後のことであろう。そういえば昔は美容体操と言う言葉をよく聞いた。あんな体操くらいで体型はそうそう変わるとも思えないのであるが、けっこうなブームになっていたように思う。今ではこうした体操も運動も美容というよりも健康のためにやる人が圧倒的に多い。そのせいか区のスポーツセンターで行なう体操も妙齢の女性よりも中高年が目立つ。従って何かを期待してそうしたセンターの体操の時間に行ってもムダである。レオタードの女性が一糸乱れずに動いているなんていう光景とはほど遠いのだから。*ダイエットには運動がよいか食事制限がよいかというのはしばしば議論になるが、運動だけではまずやせることはない。食事制限が主で運動は副次的なものだろう。小生も極力運動をしているのだが、その効果はというと日ぐれて道遠しとしかいいようがない。ただ食べるものを食べることができ、運動する場もあって…それで効果云々なんていうのは贅沢な話だと我ながら思う。ダイエットも健康あってのもの、運動も余裕あってのもの。ダイエットの効果云々というよりも、ダイエットに心を配ることのできること自体幸福なんだなと思ったりもする。のんびりとした休日の昼下がり。老若男女さまざまな人がさまざまなペースで公園のまわりを走っている。こんな平和な光景がいつまでも続いてほしいものである。
2013年07月10日
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福島原発事故のとき現場で指揮をとっていた吉田所長が亡くなったという。あの事故現場にいたのは吉田所長だけではない。FUKUSHIMA50と外国に紹介された作業員をはじめ大勢の人がいたはずだ。不思議でならないことにこうした原発作業員の個人名が報道されることはほとんどなく、何層もの下請けで会社も身元をつかんでいないなどという話もあった。事故直後に放射線を含んだ水に足をつけた作業員、線量計に鉛のカバーをつけて働いていた作業員…ああいった人びとについては後追い報道がなされていないのだが、健康被害はどうなっているのだろう。身元が分からないということは、その後どんな健康被害がでてきても、それを社会は知りようがないということではないか。あの日、あの時、福島の事故現場にいた人びとで今も健在な人ってどのくらいいるのかしら。吉田所長の死去の報道をききながらそんなことをふと思った。*選挙である比例区の候補の当落が注目を集めている。でも、その候補が気に入らないのであれば、その政党にそもそも投票をしてはいけないのではないか。比例区の候補に推したのはその政党であり、候補者自身ではない。たとえその候補者自体は当選しなくても、その政党が勝てばやはりその候補者の推奨しているような施策が推進されることだろう。また街をあるいていると誰々と比例区に書いて下さいと絶叫している候補者がいた。候補者の中には政党をころころ変えて出る人もいる。かの絶叫候補者の政党もそんな人が多い政党のようだ。政策などはどうでもよい。というよりも政策にはもともと見るべき差異などない。ただ自分が国会議員になりさえすればよい。そういう人にとっては有権者なども自分が議員になって歳費を得るための手段のようなものなのだろう。*インターネット画面のでるテレビを開発したところ当のテレビ局がその製品のCMを拒否しているという。何でも業界の内規にひっかかるということなのだがそれをみると噴飯ものである。なんでもテレビというものは、・大半の時間において受動的にリラックスして視聴されている。・この場合、視聴者はテレビからの情報を信頼して視聴している。という特性があるというものらしい。http://ameblo.jp/usinawaretatoki/ていのよい洗脳装置であり、若者を中心にテレビ離れがおきているのも無理もない。そういえば少し前までテレビは毎朝のワイドショーでこれでもかこれでもかと某政治家の映像を流していた。さっそうと歩く姿、はぎれよく語る姿…そしてそれと連動するように雑誌などではこの政治家を「日本の救世主」とまでよんでいた。かくもマスコミの操作は露骨だ。彼らマスコミ人は自らが風を起こし、自らが政治家をまつりあげ、自らがこの国の将来までも決することができると思っているのかもしれない。
2013年07月10日
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少子化論議には非常に違和感を覚える。それはよくこのままでは若い労働力が不足し、今までは何人で一人の老人を支えなければならなかったのが、今後は何人で一人の計算になるというおなじみのフレーズにも関係する…つまり少子化の問題点が若い労働力の不足という局面で語られることに対する違和感である。たしかに少子化は進み、若者の数も子供の数も減っている。じゃあ、若者は雇用の場でひっぱりだこになっているのだろうか。そんなことはない。若い人の就職は相変わらず厳しいままである。そのあたりですでに少子化≒問題という構図は破たんしているのではないか。この国に生まれてもまともに就職できるなんていう保障はない。無事に学校までだしてやった息子が家でうっ屈し親に暴力を振るった挙句の事件など新聞にあふれている。こんな時代にどうして子供が欲しいなんて思うのだろう。*自分に小さな子供や孫がいれば、そしていつかそうした子供や孫を持つというあてがあれば、人びとは子供に優しく、多少の迷惑でも目を細めて眺めていられる。でも最近ではそういう人は少なくなっているみたい。子供の遊ぶ声、公共の場での子供の行動。そうしたものに対する世間の許容度が20年前、30年前等に比べるとぐっと下がっているように思う。*男女平等というものは「能力を活かす」という面ではほぼ達成された。いまどき組織の長や指導的地位につくことに対し「女だからだめだ」などという人はいないだろう。むしろバカ男が「女の方が優秀だ」と真顔で語る時代である。むかしから自分のだめさや努力不足を「女一般」や「女性差別」のせいにするバカ女がいたものだが、その男性版も昨今では目だってきたということだろう。*ただそれでも特定の状況にある女性に対する偏見は健在のようだ。例えば、障害児を、障害が分かっていて生んだ母親がいればそれは確実に美談として扱われる。障害児として苦労するのが分かっているのになぜ生んだのかという議論は表には出ないし、評論家がそんな発言をすればまず評論家生命を失う。ところがその発言が未婚の母になら許される不思議。「命の選別はいけない」とあれほど大きな声で言われるのに、親が未婚の場合の「命の選別」はなぜ誰も問題視しないのだろうか。生まれた生命についての出産を支持するかどうかのアンケートも日本の人権後進国ぶりをしっかりとみせつけてくれる。そしてもう一つ。事故などで障害を負った場合に「お前の人生はもう終わった。生きていても仕方ない。」なんてことは表立っては誰も言わない。障害をかかえながらの人生には生きる価値がないなどといえば障害者団体が黙っていないし、むしろ障害をかかえても前向きにいきる人がいればその姿は美談として世間に喧伝される。ところがある種の女性犯罪被害者については、マスコミなどでそうしたものいいが普通になされることが不思議でならない。事故の不幸、犯罪の被害、人の世には様々の不幸はつきものであるが、それでもそうした不幸にあった人が立ち直り、生きるにたる人生を歩むことを応援していくのがメディアも含めた社会の役割ではないか。それなのに、ある場合には「お前の人生は終わったのだよ」とそのメディアが率先していいたてる不思議。こうした犯罪被害者の人権に対する鈍感さがメディアの人権蹂躙報道をのばなしにしているのかもしれない。
2013年07月09日
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ダイエット成功のコツに初期投資を上げる人がいる。ウェアでも機器でもよい。最初に大枚をはたいて購入すれば、それが無駄にならないように努力する。それが人間の心理だからだそうだ。機器については案外埃をかぶって放置されているようなものも多いので一概にはいえない。ただウェアについてはいえるかもしれない。スポーツセンターの常連さんや公園でもおなじみのジョガーはたいていウェアも決めている。もっとも常連だからウェアをそろえたのか、そろえたから常連になったのかは卵と鶏のようなものなのかもしれない。*実はウェアについてはためらっている。値段が高いことだけではない。ジョギングといってもとにかく遅いのでウェアできめると気恥ずかしい感じがするのである。まあ、こういうのって昔からで、高校の頃、化学実験用の白衣を学校で購入したことがあったが、あれも結局は成績上位3分の1くらいの人しか購入しなかった。たいして成績もよくないのに白衣なんて気恥ずかしい。まあ、あれと同じ感覚である。*そんなわけで走るのもトリム体操も今のところは動きやすい普段着を使っている。別にそれで不自由はない。もっとも、ダイエットスポーツならそれでもよいが、山登りなどは単なるカッコという問題ではすまないことは昨日の日記に書いたところだ。靴に軍手にリュックに雨具…。どうでもよいのは山ガール用のチロルハットくらいだろう。
2013年07月08日
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那須に行き、茶臼岳と朝日岳を眺めると、茶臼岳が那須連山の最高峰というのは信じがたい。鋭角の山峰を持ち、人を寄せ付けない高山という雰囲気がぴったりの朝日岳に比べると、茶臼岳は文字どおり茶臼のようななだらかな形をして、しかも山頂行きロープウェイがある。下からはその山頂駅もみえるので、いつかあのロープウェイにのって山頂まで行きたいものだ…と思っていた。*ちょうど梅雨があけた土曜日、その茶臼岳に行く機会を得た。下から見えた茶臼のような形の上にさらに巨大な岩山があり、ロープウェイの「山頂」は実は山頂ならぬ9合目であった。なんという認識不足。自動車とロープウェイで来たとはいえ、そこは2000メートル近い高山。天候はやはり山の天気だ。真っ白い雲がみるみる近づいてきたかと思うとたちまちあたりは濃い霧につつまれる。岩も火山からとんできたものだけあって、歩きにくいことこの上ない。頂上まで行けたのは運がよかったとしか思えないし、幸いに上についたときは霧ははれ、見晴らし絶景とまではいかなかったが、火口の様子はみることができた。*最近では文明の利器でかなり高いところまで登れる山も多い。でもそれは高山であることには変わらず、しかも、頂上付近の岩登りは最後の難所である。装備もなく、経験もない人びと(小生のような?)が散歩気分で登ることで事故もまた起きやすくなっているのではないか。タウンウォーク用の靴で登ったのだが、岩を踏んでいるうちにすっかりだめにしてしまったし、途中で転んで手をついたりもした。下調べ不足だったのだが、こうした場合は、登山用の靴と、せめて軍手は必需品であったように思う。*岩には迷わないようにペンキで印がついており、本格的に山をやっている人にはなんてこともない道なのかもしれないのだが、それでも散歩気分では危険である。ロープウェイは満員に近かったが、本格的な山装備と言う人はいくらもいなかった。
2013年07月08日
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夏季五輪の招致をめざすプレゼンで東京には5つしか質問が出ず、時間も大幅に余ったという。http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/394507c8af2c61eac6fa07a301ee61e3これを多くのマスコミは好感触を得たと報道しているが、どうしてそういう報道になるのかさっぱりわからない。面接などでろくに質問もされなかったような場合は「脈なし」と考えるのが普通だろう。プレゼンだって同じではないか。もしもマスコミが当局におもねって大本営発表をやっているのであれば、マスコミはとっくに役割を放棄しているとしか思えない。*情報収集を暴露した元CIA職員が当局に追われている。もしこれが米国ではなく、ロシアや中国の話であれば報道ぶりは全く違ってくるのではないか。ところがことが米国となると、米国を批判したり元CIA職員を擁護する報道はほとんどない。報道だけではない。欧米の国では米国に抗議するところも多い、というよりもそれが普通であるようなのだが、日本政府は自らも情報収集の対象になっているにもかかわらず米国に対する抗議は全く考えていない。*「侵略」の定義は歴史学者に任せると言っている人がいる。おそらく歴史学としての「侵略」と国際政治の場での「侵略」は定義が違う。それほど古い時代のものでなくとも、アフリカでの奴隷狩り、オーストラリアの原住民虐殺、シベリア原住民の支配服属、アメリカインディアンの生活圏への白人入植、こうしたものは歴史学では「侵略」かもしれないけど、国際政治の場で「侵略」として取り上げられることはまずない。だから「侵略」を歴史学者にまかせるという言い方は、問題とすべき「侵略」もこうした問題として取り上げられることのない「侵略」と同視したいという作為を感じる。もし、ドイツの政治家が、「侵略の定義は歴史学者に任せる」と言ったらどうなるのだろう。だいたい想像がつくのだが、これはおそらくナチドイツと同盟を結んでいたどっかの国の政治家が言ったって同じなのではないか。ただ、報道がされていないだけで…。*人間というものは不思議である。「自分と同じような苦しい思いは誰もしてほしくない」とか「こんな悲しみは自分で最後にしてほしい」といって様々な活動を行なう人がいるかと思うと、「自分はこんなに辛い目にあった。なぜ自分だけがと思うと悔しい。人にも同じ苦しみを与えたい」と言いながら悪事を行なう人もいる。人というものは自分と同じ苦しみを人に望まないのか、望むのか…どちらも人間というものの盾の両面、どちらも人間の本性なのだろう。ただどちらの本性が強く現れるかは社会によって、時代によって違う。国民というものはそのレベル以上の政治をもつことはできない。そうした政治を選択するのも多くの国民であるし、そうした政治で苦しむのもまた多くの国民である。
2013年07月07日
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20年ほども前のことであるが、雑談で児童手当の話が出た時、ある女性が憤懣やるかたないといった様子でこう言った。「私たちの税金が未婚の母のために使われるなんてゆるせないわ。真面目に暮らしてきた私たちがなぜ『他人の不始末で生んだ子』のお金まで出さなければならないの」と。彼女は自分と同年輩の戦後派である。婚外子を生むことを「他人の不始末」という…そんな感覚をもった人が当時は珍しくもなかった。最近ある有名なスケート選手が未婚の母になったという。いまどきそれを「不始末」だなんていう人もいないし、報道でみるかぎり、未婚の母となることを責めるような声もきこえてこない。時代は確実に変わった。よいことだと思う。結婚をするもしないも成り行きであり運というものだろう。そして子供を持つ持たないも同様のこと。母の幸福はどのような子供が生まれ、どのような子供に育ち、そしてその子供とどのような関係になるかによってきまるもので、父親と結婚しているかどうかは決定的な要素ではない。未婚で母になるという選択を許容する社会の方がそうでない社会よりもきっと暮らしやすい。*未婚の母もそうだが、性の問題に関して厳しい見方をする人は昔も今も女性の方が多いように思う。「自分は真面目に生きてきた」ということをアイデンティティにしている人ほど、他人の「不始末」が許せないというのだろう。病院の待合室での忘れられない光景がある。会計をまっていた母娘に対して、窓口の中年女性が大きな声で「産科の何とかさ~ん」と呼びかけていた。娘の方はどうみても中学生くらいで、産科の患者なら絶対に名前など呼んでほしくなかっただろうに。それにその病院の区分は産婦人科となっていたので、わざわざそれを「産科」なんて言う必要もない。どうみてもあのオバさん職員は御自身の信条からか知れないけど、いじわるをやっているとしか思えなかった。こういう人の感覚では、この娘の背景にどんな事情があったとしても、すべて女性の「不始末」や「落ち度」にしかみえなかったのだろう。病院で名前でなく番号を呼ばれたといって怒った地方議会の議員さん(その後このブログが炎上して自殺したという)がいたという。治療の際には誤認をさけるためにフルネームで呼ぶにしても、往来と同様、誰がきいているかわからない待合室では番号で呼ぶのはけっこうなことではないか。なによりもそれは患者の側のプライバシーを守ることになるのだから。
2013年07月05日
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三角関係を清算するために妻と愛人の二人を関係のない人もまきぞえにしながら殺害する…こんなバカなことがあるのだろうか。リアルタイムでニュースを聞いたときからそう思っていた。名張の毒ぶどう酒事件である。普通、妻と愛人の関係に悩んだのなら、邪魔になる方を殺害する。立教大学の助教授は愛人を殺害したし、妻を殺害した方は…すぐには思い出せないのだが、そんな事件など三面記事を探せばいくらでもありそうである。動機も変だし、物証も歯型だけで、その鑑定の評価も二転三転している。こんなことで死刑囚になっちゃってよいのだろうか。そしてその死刑囚も高齢で病になり危険な状態だという。人の世に災厄は多々あれども、冤罪ほど不条理な災厄もないだろう。奪われた時間も人生も戻らず、そして多くの場合、誰も責任を負わない。彼を取り調べた警察官、検事、裁判官…皆今頃勲章でももらって悠々自適の生活をしていることだろう。http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/*冤罪の被害は取り返しがつかない。それは生命だけではなく、自由な時間についてもいえる。20代で拘束された人間が50代で無罪が確定しても、失われた時間は戻らない。それを考えると冤罪の可能性のあるなりすましウィルス事件のK氏なども拘束から解放し、速やかに裁判を進めるべきではないのだろうか。それができないのなら、日本の司法は中世並みといわれても仕方ない。**前のローマ法王のヨハネパウロ二世が聖者に認定されたという。認定された二つの奇跡がその根拠となったという。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130703-00000932-yom-int最近「不思議なキリスト教」という本がでたというが、一番の不思議はこうした奇跡という理性にも科学にも背反するものをもった宗教が2000年も続いているということではないか。だいたいキリスト教はその最初から処女懐胎とか復活とかいう奇跡に満ちているし、初期の伝道の過程でも障害の治癒などの奇跡によるところが大きかった。そうした個々の奇跡は別にしても、時の文明の中心からみれば辺境ともいうべき地域で、権力とも富とも無縁な人びとの間で起こった宗教が今に続いているのも大変な奇跡のように思う。そしてまたヨハネパウロ二世が不治の病を治したという奇跡を別にしても、法王が関与したともいわれる冷戦崩壊がほとんど流血なしになしとげられたことこそが真の奇跡というべきものなのかもしれない。**
2013年07月04日
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ぜひ下記のブログをみてほしい。マスコミには載らないことなのだが、これを他人事とは思えない人はたぶん多いだろう。http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-1492.html公認撤回をしたところで党の政策、いや政府の政策が変わるわけではない。むしろ選挙の争点からぼけるだけである。公認をした方がよい。いや、絶対に公認すべきだろう。*今日の新聞に選挙の争点が載っていた。ほとんどの党が景気をあげていたがどうなのだろう。景気はよくなるそうだが、おれの給料はあがらない。でも景気を重視してこの党に入れよう…とそんなに皆利他心にとんでいるのだろうか?どうみても抽象的な景気よりも雇用なんじゃないの?最低賃金や非正規雇用それにブラック企業とか。憲法はあのお花畑の級長さんにまかしておけばいいけどね。
2013年07月03日
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報道をみると、アベノミクスで景気がよくなるとか世の中が明るくなるとかそんな印象を与えたがっているように見える。えんえんと物が売れているだのとか業績がよくなっているだのといった特定企業のレポートを行なった後、商品の値段が上がっているなんていう状況を天気の話でもするように流す。よく考えれば縁もない高級商品が売れているなんてことよりも、生活必需品の値段が上がっていることの方がはるかに重要なことなのに…。やはりマスコミの報道はかたよっている。*経済以外でも、現政権よりの報道はめだつ。例えばサミットで日米会談がなかったのは、どう考えても、総理が会談を熱望したにもかかわらずそでにされたのだろう。米議会での演説を行ったパックネに比べても安倍総理は冷遇されている。総理が執心の憲法改正とか従軍慰安婦などの歴史認識の見直し、そして今年から始めた主権回復の日記念式典だど諸外国からみたらどうみえるのだろう。従軍慰安婦は別に半島出身者だけではなく、日本人もいたし、オランダ女性などの欧米人もいた。報道では中国や韓国との関係だけが冷え込んでいるかのようであるが、実は米国との関係も同様なのではないか。よいとか悪いとかではなく、現在の国際秩序は第二次大戦の戦勝国の枠組みをひきずっている。枢軸側は悪であり、それに連合国が勝利したという図式である。米国による日本の間接統治や憲法の制定も、そうした戦後秩序を形成する一環となったもので、安倍総理の姿勢はそうしたものに対する反旗と映るのではないか。主権回復の日記念式典では、「自然発生的」に天皇陛下バンザイの声があがり、総理も唱和していた。*新聞では、自民圧勝のように予測されているが、これも「自民圧勝」ムードを作りだしているのではないか。アベノミクスとやらで給料が増えたとか収入が増えたとかいう話はきこえてこない。逆にきこえてくるのはガソリンなどの物の値段が上がった話ばかりだ。外交に目を転じれば、報道はされないものの、急速に国際的孤立化を深めているようにみえる。さらにいえば、ネットでは疑問の声噴出のブラック企業の問題も新聞やテレビではあまりでてこない。本当にマスコミ報道のように自民党は支持されているのだろうか。横須賀市長選挙の結果などをみると案外そうではないのかもしれない。*いまどきネットは一部の人の行なうもの、情報や金に恵まれた人だけが行なうものだと考える人はいない。スポンサー企業や情報源である政府の意向を気にしなければならないマスコミと違い、いまやネットこそ庶民のメディア、本音のメディアなのではないのだろうか。大企業や時の権力と距離のある政治勢力にとってこうしたネットを活用しない手はない。こんなサイトはこれからどんどん増えていくのかもしれない。欲を言えば書込みができるなどの双方向だともっとよいのだけれども…。http://jcp.or.jp/kakusan/interview/02.html
2013年07月02日
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昨日の日記で「批判票という選択」について書いた。与党や勝ち馬に投ぜられ票こそが実は死票ではないかという意見は変わっていない。下記のブログもぜひ読んでほしい。http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4429.htmlhttp://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4509.html批判票という選択については実はある政党をイメージして書いたのであるが、それとは別に実際に不満層の受け皿となっている政党があるのではないかと思う。野党でも与党でもないゆ党と揶揄されることもあるあの政党である。あの政党は宗教政党のようにいわれることが多いのだが、実際には、宗教とは無縁だがあの党に投票するという人がかなりいるのではないか。かつての社会党が果たしていたような役割(経済的弱者、困窮層の不満の受け皿)をする政党が十分な機能をはたしていない今日では、そうした層は案外と増えている。そんな気がする。*野党ではないので自分の投ずる票が「死票」になるというきづかいはない。そして与党の一つとして、経済的困窮者のための施策を主張してくれることも期待できる。おそらく消費税増税の際には、あの政党の発案ということで低所得者向けの一時金がばらまかれるかもしれない。そしてそうしたことは、選挙のたびに行なわれるようになるのではないか。人間の欲望、苦しみ、そして哀しみに対峙している宗教団体と言うものはある意味人間というものがよ~くわかっている。貧乏人の心も分からず憲法9条や平和だのとうすっきれいなごたくばかりをならべていたり、党員が増えただの機関紙購読が増えただのと言っているどっかの政党も見習えばよい…。*ところで与党の自民党だが、ある御仁を公認するかしないかで議論になっているそうだ。もちろん公認したほうがよい。公認することによって、自民党や時の政権がいかにああいったブラック企業を野放しにし、労働者の生命人権をふみにじるような政策を行なってきたかがよくわかるから。公認をとりけしてしまえば、ど~せマスコミはだんまりだろうし、過去に自民党がやってきたブラック野放し政策も隠れてしまう。娘を亡くした親御さんも自民党に抗議にいくよりもまず、それに対峙しうる政党にいって訴えた方がよい。争点には例えてみれば山のように実態のあるものもあれば、雲のように当座の生活とは関係のない理念的なものもある。そして山の中には高い山もあれば低い山もあるし、砂漠にそびえる山もあれば肥沃な地に立つ山もある。過労死の問題と言うのは大きな山なのではないか。労働環境の劣悪さのため、新人社員のかなりの人が離職し、その多くは非正規雇用や無職になっている。たとえ離職をしなくとも、不満をもっている社員やその彼や彼女を気遣う周囲の人もいる。あの御仁の公認こそまさに盤石のようにみえる自民党にとっての「トロイの木馬」。 これを大いに攻撃し、労働環境の問題、低賃金の問題、非正規雇用の量産の問題を問うべきではないか。貧乏人の心、経済的弱者の側にたつ政党だというのなら、ぜひそうすべきだ。
2013年07月01日
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