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一億総中流といわれた時代にはいまよりずっと厳しい女性差別があったことを書いた。ただ女性差別といってもそれはその状況に不満をもっていた人が「差別」と思っていただけで、それを差別と思っていない女性もいた。なんてったって女性は楽でいい…そんなことをいう人は男女ともにけっこういたように思う。つまり自立の道は狭かったものの、必死に自立なんていうよりも、アルバイトでもいいじゃない、家事手伝いでもいいじゃない、それよりもいい相手を見つけるのが第一よ…というわけである。その頃、男性の方は正社員があたりまえで、専業主婦、悪くても家計補助のパート主婦を扶養できるくらいの「相手」は潤沢にいた。その後、時代は変わり、女性でも能力本位の採用が普通になっていく代わりに、男性の正社員はあたりまえではなくなった。かつてアルバイトや花嫁修業をしながら、よい相手を待っていた女性達はどうなったのだろうか。さるニュースサイトで中高年の無職女性の中にはずっと「花嫁修業」をしてきた人が多いという記事をみた。のんびりと花嫁修業をしていたくらいだから、若い頃には親も十分な力があっただろう。娘に大学までの教育をつけた人も珍しくないかもしれない。ただ親もいつまでも経済力があり健康であるわけではない。8050問題ということがよくいわれるが、無職の息子だけではなく、無職の娘の問題もあるのではないか。しかし、それにしては、8050問題が背景にあると思われる事件をみると、無職の息子はあっても、無職の娘の関係するものは少ない。そもそも「働かなければならない」という圧力が男性の方に強い、男性の方が親に暴力を向けることが多い、いざ働く場合に外食や販売の現場など中高年女性の方が採用されやすい、低収入の場合女性の方が酒やギャンブルにもはしらずなんとか生きていく才覚がある…いろいろな要因が考えられるが、それでも中高年を迎えた無職女性の問題というのはあるだろう。若い頃から自立を目指した人生設計をせず、扶養してくれる相手を待ってばかりいたのだから、これも自己責任ということになるのだろうか。
2020年09月30日
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一億総中流者社会といえば格差の少なく安定した社会のイメージなのだが、この時代でもよいことばかりではなかった。それは男女差別というものがあり、それが当然のことと思われていたことである。結果として、大抵の男は正規職に就き妻子を扶養できるくらいの収入を得ることができた反面、女が自立するのは今よりもずっと難しかった。女子の若年定年制は昭和40年代くらいまでは珍しくなかったし、その後も多くの企業で30歳過ぎた女子社員は退職を強要するという慣行があったようである。自立できない女の場合、そこそこ実家に経済力があればニートやひきこもりということになるのだが、それも花嫁修業とか家事手伝いとかいう範疇になり、社会問題にもならなかった。こと女性の自立という視点に限ってみれば、あの一億総中流社会よりも、格差社会といわれる今日の方が、自立への道はずっと広くなっている。そしてその代わりに男性の就職が厳しくなってきたわけである。うんと単純化すると、昔はまあ、5段階の2くらい以上の男はなんとかなり女は5はよいが4以下は自立も難しかった。それが今では男女の区別(差別)はほぼなくなってきているかわりに、3か4以下の場合には男女ともに自立が難しい。そんな時代なのだろう。男女差別のような不当な差別がなくなり、誰もが能力に応じて働き、働きに応じて収入を得る…まことに結構な時代ではないかといわれればまさにそのとおりである。ただ高度に発達した産業社会では、どうしてもその収入の格差が大きくなる。仕事の内容自体が、高度に専門的な仕事と比較的誰にでもできる仕事に分化していくためだ。格差はあって当然と言われればその通りであり、能力に恵まれたものが努力して高収入を得るのが当然と言われればこれもその通りである。しかし、格差はあって当然という議論と、その格差の結果としての貧困を放置してよいかどうかは別問題である。
2020年09月28日
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コロナに関してはヨーロッパで明確な第二波がやってきており、日本の下げ止まりの状況が不安でならない。マスクの着用、様々な施設での検温の実施や消毒液設置、それに最近増えてきた外食店でのアクリル板…こうした「新しい生活様式」が感染の防止に役立てばよいのだが。8月初めのピークから減少傾向が続いてきたが、このまま減少していくのか、それとも反転して上昇するのか、急に涼しくなってきた今が岐路のように見える。それにしても、SARSや鳥インフルエンザなど、今までも世界的な感染症の流行はあったがいずれも数か月で終息していた。それなのになぜ今回のコロナはこれほど長期間にわたり大規模な感染が続くのだろうか。武漢の新型肺炎のニュースがあったのが1月、屋形船やクルーズ船の騒動が起きたのが2月、その後一斉休校や著名人の死去、4月の緊急事態宣言と事態が進行し、今年は年月のたつのが妙に早い。新年会はあったけど、歓送迎会はふっとび、暑気払いはもちろんなし、それでもよいという人もいるかもしれないが、今年人生の節目を迎えた人が気の毒だ。それに入学式や卒業式、修学旅行などの想い出のなくなった中高校生も。先のことは誰も予測できないが、コロナという不確定要素を考えると、早期解散に現実味があるように見える。再度の給付金バラマキをやった後、解散というシナリオである。
2020年09月26日
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遠藤周作はキリスト教作家と位置付けられており、キリスト教を背景にした小説も書いている。本作もその一つであり、ごく初期の作品だという。遠藤周作は自ら進んでキリスト教に入信したわけではなく、そうした親の下に生まれ、それでクリスチャンになったという。このあたりが、三浦綾子などとはずいぶん違う。三浦綾子の作品がどことなく信仰の薦めのようなところがあるのに対し、遠藤周作の場合は与えられた宗教があり、それがどうも日本の伝統や風土に合わないのではないか、そんな感覚を持っていて、それが作品のテーマとなっている。本作には、あの「沈黙」と同様に立派な殉教者と弱い人間がでてくる。そして背教者の白人や信仰に縁のない日本人も。黄色い人というタイトルはどぎついのだが、この場合の黄色には曖昧という意味もある。「クリスマスの夜だということを忘れていました。あなたには神がこの闇に光を与えた夜なのでしょう。だが、黄色い僕らには、闇も光もその区別もないのです。」これは作者の見方で実際に地球上の白い人や黄色い人がこう思っているわけではない。ただ、闇と光、信仰と不信仰、善と悪を峻別する感覚が日本人には合わない。そんな風に思っている、いや感じている人はきっと多い。ただ、その一方で、それほどに黄色い人である日本人と白い人々との感覚は違うのか、案外と人間は同じようなものではないか。そんな気もする。そのあたりは海外在住経験もなく、体験として海外の風土を知っているわけでもないのでなんともわからない。それにまた、宗教との付き合い方という意味ではこの日本の風土はなかなかよいと思う。人間を超えた「神」という概念は幻想といえば幻想、虚構といえば虚構なのかもしれないが、それで人生が生きやすくなるのならまあいいじゃないか。それをもって人が争ったり差別したりするのもばかばかしいし、神が存在するとかしないとかで深く悩むこともない。キリスト教についても、日本人はもうすでに受け入れているのではないか。八百万の神々の有力な一柱として、現に日本人の倫理観や生活習慣に影響を与えているのではないか。そして、いつか人類が宗教を捨てる日が来たとしても、この曖昧な日本の風土でだけは、神はやはり生き続けるのではないのだろうか。そんなふうにも思う。
2020年09月25日
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「世界史を変えたパンデミック」という本を読んだが、これはパンデミックという視点から世界史を読み解いた本で興味深い。医学が専門の方なのだが、かなりの才筆でいっきに読めた。本に書いてあることに触れながら、思ったことを書いてみよう。著者は幕末の大河ドラマを見ながら疫病に触れていないことに違和感を持つという。たしかに、現代人は疫病が存在しないという状況を当たり前だと思っており、大河ドラマなどでもこれに触れることはほとんどない。しかし、幕末、開国とともにやってきたコレラが攘夷思想の背景にあり、そうでなければ攘夷思想の過激さは読みとけない。よく時代劇などをみていると、「よそ者」を排斥する村人がでてくるが、人間の長い歴史の中で、「よそ者」は往々にして疫病の伝搬者であり、よそ者排斥の背景には疫病の恐怖があったのだろう。特に、開国にあわせてやってきたコレラは短期間のうちに全身がひからび老人のようになって死んでいく病で恐怖も並みの疫病の比ではなかっただろう。こうした疫病が攘夷思想の温床になっただけでなく、幕府の屋台骨もゆるがしていった。そういえば、都内散歩をしていたとき、淡島通沿いに駒場〆切地蔵というのを見たことがある。これは、隣村までやってきた悪疫が駒場村に来ないように願をかけて建立した地蔵だというが、幕末の頃にはコレラ退散も必死に祈ったのではないか。明治になっても疫病は社会的脅威であり、コレラや赤痢が何度も流行した。大量の人が動けばそこに疫病はついてまわる。戦役で強制的に大勢の人が移動する場合にはなおさらである。ナポレオンのロシア遠征失敗の背景にはチフスの蔓延があったといい、第一次大戦がスペイン風邪を世界中に拡散させたという。戦争だけではない。都市への人口集中もパンデミックの温床になる。近代化とともに人の移動は自由になり、多くの人が職や便利さ、そして賑わいを求めて都市に住むようになり、さらに交通手段が発達すると人々は国境を超えて移動するようにもなる。コロナが世界的に猛威を振るっている背景には、都市化や国際化があるのかもしれない。そうだとしたら、コロナの蔓延は、こうした流れにストップをかける契機となるのかもしれない。
2020年09月23日
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勝負ごとに勝つためにいちばん重要なことは何か?それはもちろん自分よりも弱い相手を選択することである。敵を知り己を知れば百戦百勝というわけで、力量をみきわめることも「強さ」のうちである。そしてもう一つは勝機をのがさないこと。相手の弱点や相手が弱っている時期を正確に見極めて勝負に出る。隙をねらうというわけで、これを見極めるのも勝負師の資質だろう。選挙を一つの勝負と見れば、今はまさに解散のタイミングなのではないか。国民民主と立憲民主をめぐる統合のドタバタは醜悪のかぎりで選挙互助会の離合集散には国民は辟易としている。一種の期待を集めていた山本太郎のれいわ新選組はやっぱり線香花火で失速気味だ。共産党はあいかわらずの化石ぶりで「大化け」の気配もない。今ここで解散をすれば、選挙難民も増えるだろうけど、自民党がどうやったって勝つだろう。ただ世の中は一寸先は闇だ。半年後になれば、「都民ファースト」のように瞬間的にブームを起こす政党がでてくるかもしれないし、現在の野党も看板の付け替え等で期待を集めるようになる事態だってありうる。そしてまたコロナという要因もある。コロナが終息すればよいのだが、感染爆発し医療崩壊という事態になったらどうであろうか。国民の不安や不満がそのまま政権政党にむかうという事態もありうる。とにかく政権を変えてしまえというわけである。選挙の勝敗だけを見ると、今すぐにでも解散をするというのが、政権党にとっては最も賢明な判断のように思う。ただこれは政権党、中でも現総理の権力維持のためのベストの判断であって、国家国民のためというのとは別である。
2020年09月22日
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来年の箱根駅伝は無観客で行うという。駅伝の無観客っていったいどういう意味なのだろうか。東京マラソンも沿道の応援は自粛するようにといっていたがそれでも、多くの人が沿道にでていた。箱根駅伝だって同じように大勢の人が沿道にでて「無観客」といっても有名無実になるのではないか。もっともよほど密集しない限り、屋外でもあり、声援を控えれば感染拡大の不安は少ないのかもしれないけど。季節が逆の南半球で8月以降感染が拡大していること、秋を迎えたヨーロッパでも明確に第二波が来ていることを見ると、日本でもさらに大きな第三波がやってくるのではないかと不安でならない。ピークを過ぎたような今でさえ、一日の感染者数は第一波の波の高い頃と同じくらいであり、しかも下げ止まりの傾向がみえている。それなのに政府は自粛要請どころかイベントの自粛基準を緩和するなど、ますます緩める方向に動いている。東京五輪も「人類がコロナに打ち勝った証としての五輪」といううたい文句からいつのまにか「with コロナ時代の五輪」に変わっている。世界的に感染終息の目途が立たないまま、五輪を強行しようとするつもりなのだろうが、感染拡大、そして感染爆発の危険を冒してまで五輪というものはやらなければならないのだろうか。あの太平洋戦争の終結は政府が「国体の護持」に執着したために遅れたという。終戦がもう少し早かったら死ななくても済んだ命もあった。大日本帝国にとっては国民の生命は第一の価値ではなかったわけである。そうした国家の体質が現在の日本国にもうけつがれているなんて思いたくないのだが、五輪の方が国民の生命や健康よりも重要だなどと思っているむきがあるとしたら、それは違うと言うべきではないか。箱根駅伝の無観客での開催や、あいつぐイベントの自粛要請の緩和が、五輪強行の布石でなかればよいのだが。
2020年09月21日
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コロナによる影響があちこちに及ぶだろうが、来春の大学入試は激変するかもしれない。コロナが、一過性の流行ではなく、何年にもわたって社会のあり方を変えてしまうのだとしたら、観光、旅行、ホテルといった業界を志望し、それにあわせた進路選択をしていた人はその選択を考え直すかもしれない。たとえこうした業界が10年後くらいには業績回復したとしても、自分が就職を目指す時期に門を閉ざしていたら何にもならない。国際関係も同様であろう。グローバルな人の移動がもとにもどるのに長期間かかるのであれば、留学を目指したり、外国語の能力をみがくことを目指してもなんにもならない。そんなふうに考える受験生がでるかもしれない。もっともこれには逆の考え方もあり、コロナ禍が契機となってバーチャルな国際交流はますます頻繁になっていくという見方もできる。そうなると身体は日本に留まったまま海外の学校での授業を受けるなどバーチャル留学も可能になる。オンライン授業であれば、別に日本の大学だけが選択肢ではない。そして、海を越えて、オンラインでの会議や交渉が普通になれば、やはり語学のできる人材の需要というものはある。そして気になるのは医学部や医療関係の学部の人気の動向である。コロナ禍は医療従事者の重要性も社会に再認識させたが、同時にこれらの職業の過酷さも実感させた。重要な仕事だから一生の職業として選択したいという若者と、こんな大変な仕事ならやりたくないと思う若者とどっちが多いのだろうか。それも気になるところである。
2020年09月18日
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ニュースを見ながら「変だよ、変だよ」と叫びたくなるようなのがたまにある。このドコモ口座不正引き出し事件だってそうだ。本人の知らぬ間に自分の口座からドコモ口座を通じて金が引き落とされていたというのは大変な問題のように思う。提携している銀行も多く、電子マネーを使っていない人の口座もあったという。被害額は補償されるというのだが、自分の銀行口座の残高だって常時把握しているわけではないし、通帳をみても、この出金はなんだったっけと思うこともある。実際の被害額はもっと多いのかもしれない。ところが、それなのに…である。なぜか、この事件に関しての報道は少ない。スポンサーに遠慮していると見るのは考え過ぎなのだろうか。さらに、不思議に思うことがある。他人名義のドコモ口座を作成し、買い物をして紐づけされている他人の口座から現金を引き落としたというのであればれっきとした犯罪である。詐欺になるのか、窃盗になるのかはともかくとして。犯罪であれば、被害報道の他に、当然に警察の動きとか犯人像とかそうしたものの報道があるはずだ。ところが、今回の場合、そうした報道はまったくといっていいほどない。そもそも警察は動いているのだろうか。報道によればドコモの偽口座は、本人の氏名と口座番号、そして暗証番号が分かれば作成できたという。氏名や口座番号は別に秘密にはなっていないし、これに4桁の暗証番号となるとそれほどハードルは高くないだろう。暗証番号に自分の誕生日を使っているという人はほとんどいないだろうけど、家族の誕生日や記念日を番号にしている人は多いだろう。そうなると4桁の番号と言っても確率は1万分の1ではなく、365分の1とかなり高くなる。それによく知らないが、1万とおりの数をなんらかの方法で総当たりでぶつけることも可能かもしれない。いずれにしても電子マネーの普及に冷水を浴びせる事件であり、マスコミにはわかりやすい報道、警察には徹底捜査を願いたいものである。組織的な犯罪であるにしても、末端で数万円から数十万円の買い物をした人間は特殊詐欺の受け子のようにネット上で勧誘された人の可能性が高い。高級ブランド品を買うにしては違和感のある雰囲気の客がいたとか、そんな風に店員の記憶には残っているのではないか。
2020年09月17日
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自民党の新総裁が決まった。興味深いのは岸田候補のかかげた政策の方向だ。「新しい資本主義」という旗印で格差是正を正面から掲げている。自分だけの利益、短期的利益だけを重視して儲ければよいのかという問題提起、格差という分断の解消など、理念だけをみると共感できるものが多い。どんなブレーンがいるのか知らないが、野党の皆さま、先に言われてしまいましたね…というところだ。モリカケ桜といった政権の私物化もたしかに問題なのだが、モリカケはたとえると友達に与えた話であり、友達から受け取って私腹をこやした話ではない。桜は、今までの政権だって多少の手心はあっただろうけど、今回はやりすぎで有象無象をよび過ぎたということだろう。いずれにしても、ワイドショーネタとしてはかっこうの話題でも国民の生活に関連するようなものではない。これで総理夫人が国民の憎悪をかうようなメギツネタイプなら話は違うけど、天然のお嬢様でメギツネとは真逆のタイプなので憎まれようもない。野党がモリカケ桜を追及すればするほど支持が離れていくのも当然である。ましてや9条マンセーとなると、正直ポスターやチラシをみるだけでげんなりする。化石サヨクやお花畑サヨクには9条は一種の宗教教義になっているかもしれないけど、雇用がどんどん不安定になっていて、生活も苦しくなってきている中で「9条は宝」なんていうスローガンが響かないことくらいわかりそうなものだけれど。かつてマルクスは資本主義に代わるものとして社会主義を唱え、それを歴史の必然だと説いた。けれども、もしその社会主義が自由な企業活動を禁止するものだとしたら、それは無理というものだろう。いつの時代にも才覚のある者や能力の優れた者はおり、そうした人間が己の力を生かして成功する自由は誰にも阻害できない。夢に向かって努力する自由は人間の自由の中でもかなり根源的なものである。ただそれを全くの自由にすると、能力努力運に恵まれた者は巨万の富を得るかもしれないが、そうでない者の多くは不平不満を抱えて暮らすことになる。そんなことにならないために、資本主義は認めるが、己の利益だけでなく、社会全体をよりよいものとするために、その資本主義を修正していく。そうした考え方が今後主流になっていくのではないのだろうか。その意味でトリクルダウンという金持ち優遇の施策は見直す必要があるし、契約自由の名のもとに奴隷労働を強制するようなもの、労働基準法などの労働者保護規定を逃れるようなものは規制の対象とする必要があるのではないか。
2020年09月16日
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平成の三大迷宮事件(コールドケース)というのがあるらしい。世田谷一家殺害事件、八王子スーパー殺害事件、そしてもう一つが上智大生殺害放火事件である。世田谷一家殺害事件は幼児を含む一家4人が殺害され、大量の遺留品があったにもかかわらず迷宮入りしている点、八王子スーパー殺害事件は銃を使って犯罪とは無縁な女性3人が殺害されている点が特異である。これに対して上智大生殺害放火事件は被害者も一人であり、銃が使われているわけでもないのに、三大未解決事件の一つとなっているのは、普通に暮らしている女子大生がまだ明るい時間に自宅で殺害され、その殺害方法も残忍な上、犯行後家に放火したことも凶悪であるということだろう。この上智大生殺害放火事件は1996年9月9日に起きており、犯人像も顔見知り説、居直り強盗説、ストーカー説などがあるのだが、居直り強盗やストーカーは考えにくいように思う。居直り強盗なら家人が留守にしている時間や深夜寝静まった時間を狙いそうなものだし、ストーカーなら屋外の人目のないところで狙うのではないか。ただもし顔見知りだとしても、その範囲はきっと家族が思っている以上に広い。報道によると被害者は評判の美人だったというし、本人が知っている範囲以上に、多くの人が彼女を知っていたことだろう。そしてもし被害者に、人に恨まれるような理由はないとしても、犯人の側に「人が恨む理由」はあるのかもしれない。なんの非もない人間を激しく恨む感情…それは嫉妬である。これはやっかいな感情で、その対象が性格も含めて完璧であればあるほど嫉妬の火は燃える。被害者は留学を間近に控えていたというが、その留学のための試験は上位の成績で合格していたという。留学や試験がどんなものかはあまり報道されていないのだが、彼女が上位で合格したというのであれば、その陰には不合格になって夢破れた人だっていただろう。才色兼備で多くの人に好かれ、留学を控えた前途洋々な女性。光り輝けば輝くほどその後ろでは嫉妬の黒い炎を燃やしていた人がいたのかもしれない。もちろんこれはあくまでも推測である。この事件の真相は不明なのだが、日常に潜む底知れぬ人間の恐ろしさを感じさせる事件であり、それもあって平成の三大未解決事件になっているのだろう。
2020年09月15日
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名前からわかるように「12人の怒れる男」のパロディである。御存じのように「12人の怒れる男」は陪審員の議論の場面だけで、最後まで見せてしまう名作であるが、「12人の優しい日本人」も本家に劣らず面白い。殺人事件があった。犯人の有罪か無罪かをめぐって12人の陪審員が議論する。本家では陪審員の一人だけが無罪を主張し、その主張が次第に他の陪審員を動かしていく様子が描かれ、いわば最初に無罪を主張した陪審員が主役となっているのだが、「12人の優しい日本人」では一人だけが有罪を主張し、他は全員無罪。本家は息子の父親殺しだが、こちらは若くて美人のシングルマザーがよりを戻そうとする元愛人を殺害したとする事件。そしてその有罪を主張する若いサラリーマンもどこにでもいそうな生真面目で不器用そうな青年で主役というイメージとはほど遠い。本家のように彼の孤軍奮闘は他の陪審員の意見を動かすか…が映画の興趣になっているのだが、さて、どうなるか。この映画の面白いところは、12人の一人一人がどこにでもいそうな市井の人々になっており、それでいてその一人一人が個性たっぷりに描かれているところだ。有罪を最初に主張する若いサラリーマンには有罪を主張したい彼なりの背景があるし、逆に30代の職人は彼なりの事情で無罪説を主張する。ネタばれを書いてしまうとサラリーマンは妻に去られているので、その恨みを被告人に投影するし、独身の職人は「女にたかってもてている」被害者に反感をもつ。インテリ気取りの自称銀行員や生真面目な中年OL、こころやさしいおばちゃんやふわふわと頼りない若い主婦。こうした人物らが「あるある感」たっぷりに描かれる。もし日本に陪審制があって、世の中の縮図のような多様な庶民が議論を始めたらこんな感じなのかなあ…と思うのだが、実際に今ある制度の裁判員というのはどうなのだろうか。これは最初から裁判官の議論に立ち会うだけで、裁判員としての意見を求められることはあるのだろうけど、映画のような議論はまず起きないだろう。陪審員制度がよい悪いは別にして、ただ議論の場に立ち会うだけという裁判員制度はますます無意味なものに思えてくる。
2020年09月14日
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コロナの第二波はピークを過ぎたように見えてもまだまだ予断を許さない状況である。一日当たりの感染者数が、まだ第一波のときの感染者数が多い時期と同じような数字である上、これから秋を迎え、気候が寒冷になってゆくにつれ、第三波がやってくるおそれもある。アルゼンチン、オーストラリア、南アフリカのような季節が逆の国で8月頃から感染者数が急増したことや、最近、ヨーロッパの国の中にも明らかに感染者数が増えてきているところがあり、秋の到来はウィルスの再度の活性化の要因になるのではないかということも、根拠ある不安のように思う。第二波がこのまま終息していけばよいが、下がりきらないうちに第三波の山がやってくるのではないか。一方、コロナについてはむやみに恐れるのではなく、どういうことが危険かということも、次第にわかってきたように思う。ウィルスは人から人に感染する。クラスターになった例を思い浮かべてみると、会食、カラオケ、イベントなど、人と人が密閉空間で声をだすことが危険だということが共通認識になっているように思う。一時騒がれたパチンコは換気もさることながら客は黙って台に向かっているだけなのでさほど感染の危険はないようだ。そう考えると個人や家族での会食を推奨するかぎりではgotoイートキャンペーンはさほど問題ないのかもしれないが、gotoイベントはやめた方がよいのではないか。すでにイベント関連では複数回クラスターの発生した例がある。危機感の少ない人々がイベントに集い、感染を町中に広げたらなんにもならない。そういえば、毎年出かけていた埼玉県の巾着田では開花前のヒガンバナを全部刈り取ったという。日本のコロナはまだまだ終息していない。経済と感染対策は決して二者択一ではない。祭りが消え、花が詰まれ、人々が恐れて家にこもっていれば、経済も枯れていくしかないのではないか。
2020年09月13日
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田園調布に家が建つ…というギャグのきめ台詞は一定以上の年齢の人ならきっと知っていると思う。それくらい田園調布は庶民には羨望の地であり、ましてやそこに家を建てるなど夢のまた夢だった。田園調布といっても駅の西と東では雰囲気が違い、西は緑濃い中に広壮な邸宅が並ぶ高級住宅地なのだが、東はわりあい普通の雰囲気だ。はるか昔になるのだが、ここにさる用事があって立ち寄ったことがあるのだが、駅近くの交番で道を聞いた時、警察官が警戒心をむきだしにしていたのと(当方は別に怪しまれるような人相風体ではないと思うのだが、著名人の居住者が多いのでストーカーまがいを警戒したのだろう)、駅近くの洋菓子店で買ったワッフルがすごく美味しくさすがにここらの住民を相手にしている店は違う…なんて妙に感心した。田園調布にはもちろん親戚も知り合いもいないのだが、サイクリングなどで通りかかると並木の中に要塞のような邸宅があって、やはり他の街とは雰囲気が随分と違う。そんな田園調布だが最近は人気がないというし、空き家もあるのだという。そんな話がどの程度本当かはわからないが、いわれてみればそうかもしれないと思う。だいたいあそこはあまり便利な所でもない。駅から至近というわけでもないし、その駅も乗換駅というわけでもない。周囲に大きな商業施設もなく、「閑静な住宅街」といえば聞こえがよいが、ああいう場所を夜など歩くのは嫌ではないか。そしてまた、広大な一戸建て自体も人気がなくなっているように思う。女中部屋だの仏間だのは死語になっていると思うが、客間や応接間も死語に近いのではないか。昔の金持ちの家には応接間というのがあって、ソファと書棚の百科事典や文学全集、美術全集は定番だったが、こんなのは今時ないだろう。広い一戸建てはかえって手間がかかって住みにくいし、そもそも使用人を置かず来客もなく、家族だけで住むならそんな広い空間はいらない。いつのまにか、金持ちは交通至便で展望のよい高層マンションを選ぶようになり、昔ながらの高級住宅地は代替わりとともに様相を変えているのだろう。※※コロナは感染のピークをすぎたようにみえてもまだまだ油断はできない。それなのに第二波では政府や自治体の対策は鈍く、かえってgotoキャンペーンやイベントの自粛要請緩和など感染を拡大させるようなことをやっているようにみえる。そしてまた紅白無観客など年末にも感染が収まっていないことを予想しながら、なぜかオリンピックはやるつもりでいる。不思議としかいいようがない。
2020年09月12日
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オンライン飲み会なるものをやってみた。なにぶん皆初めてということで、それ用のソフトをインストールして、「集まる」までが一苦労。でもそれさえ過ぎれば、画面に映る顔を見ながら自然と普通の飲み会の雰囲気になってくる。場が盛り上がり、話の接ぎ穂がなくなるような事態をさけるためには4人以上いた方がよいし、かといってあまり大勢では飲み会の気分がでない。4人から7人くらいが適当であろう。こういう飲み会なら遠く離れた者同士でもできるし、移動に時間を取らなくて済むので日程も調整しやすい。そして金もかからない。コロナ禍とは別に新たな社交文化として定着していくのではないか。そのうちこうした形式を利用してオンライン合コンなんてのもできるかもしれない。そうなるとオンライン上の画像を加工する技術などもでてきて、画面に映るのはとんでもない美男美女ばかりなんていうことになるかもしれない。現実に会ってみるとがっかりということになるのだが、オンライン上で異性と飲むのはオンラインだけで満足という考え方もある。ネット上のつながりが現実の出会いを期待しないのと似たようなもので、ネット上の美男美女とオンラインで出会っておしゃべりをする。それだけでよいではないかというわけである。まあ、いくら一緒に酒を飲んでも全く触れることもできない…というのもなんだかなあという向きは、傍らに猫でも人形でもはべらせておけばよい。人間関係もオンライン主体…そんな時代はあんがい近くまできているのかもしれない。
2020年09月11日
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タイトルに惹かれ前から読みたかった本である。SFの権威ある賞をとったことでも有名なのだが、これをSFというのだろうか。たしかに知的能力を人為的に上げる実験という設定はSF的だが、今の科学ではさほど荒唐無稽な設定とも思えない。知的障害を持つ主人公チャーリイが知的能力を改善する手術を受けたことで天才的な頭脳を獲得する物語なのだが、これがすべて主人公の手記の形で描かれているのが面白い。最初は幼児のようなひらがなばかりの文体、それが知性獲得とともにしだいに文体も語彙も高度になっていく。タイトルのアルジャーノンというのは実験に使われたネズミの名で、ネズミで成功した手術を次に主人公に施したというわけである。チャーリーは知性を獲得して幸福になったのであろうか。それが必ずしもそうとはいえない。知恵遅れの頃には友人が何人かいたが知性を獲得してからは孤独になり、かえって友人と思っていた人から実際には嘲笑されていたという記憶に悩むようになる。ただだからといって、この物語は知性がかえって人を不幸にするとか、優しい心があれば低知能の方が幸福だとか、そんなことを言っているわけではない。高い知性で多くの人のあらが見えるようになったものの、より広い世界を見て、より多くのことが理解できる知性のもたらす幸福は主人公自身が一番よくわかっている。物語の中で主人公が家族との関係を問い直す場面が一番印象に残った。母親は幼い頃彼の障害を認めようとせず、それが父親との諍いの種になった。やがて正常な妹な生まれると、母親は主人公を疎ましく思うようになり、主人公は施設に送られ、その後、両親も別居する。チャーリーは手術後、父母と妹に会い、彼らを受け入れるが、それは高い知性で彼らを理解したのであって、父母や妹が決して障害児であった彼をそのまま受け入れて愛していたというわけではない。障害による父母の諍い、障害児を施設に預けっぱなしにする親…こうしたことも障害児者をとりまく一つの現実であり、美談のように語られているものだけが事実ではない。人為的に知性を高めるという技術はいずれ現実化するかもしれない。すでに生まれた人間に手術を施すのではなく、遺伝子段階で操作を行うようなものであれば、もっと実用化は早いだろう。最初は知的障碍者の治療として、そしてその次にはより高い知性を得たいという人間の欲望のため…。なお、本作品と同様に、知的障碍者がなんらかの理由で高い知性を獲得するという話は子供の頃漫画雑誌の読み物で読んだ記憶がある。森の中に迷い込んだ知恵遅れの少年が「銀色の人間」に出会い、高度な知能を得る手術を施される。実は銀色の人間は宇宙人で、地球破壊の手先にするために手術を施したのだが、宇宙人に協力することを拒否した少年は結局もとの知恵遅れに戻ってしまう。そんな話だったかと思う。
2020年09月10日
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次期総理として有力視されている政治家は「たたきあげ」といわれているらしい。そういえば横浜に住む人から「秋田の貧しい農家の生まれで集団就職で上京し工場で働きならが苦学して…」という話を聞いたことがある。実際ではそうでもないようなのだが、そんなことが仮に本当だとしても、それは政治家の力量や信念にむすびつく話でもない。だいたい、貧しい農家に生まれるかどうかなんてのは本人の選択外のことであり、それって自慢するようなことでもないだろう。有権者からすれば「だからどうなの?」ではないか。貧しい中から這い上がった人の中にも、自分と同じように貧しかった人々に共感をよせるタイプもいれば、かえって競争礼賛、弱肉強食の価値観を持つタイプもいる。いわゆる銀のスプーンをくわえて生まれてきた人も同様で、困窮者を別世界の人としか見ないタイプもいれば、恵まれた境遇に負い目を持つのか常人以上に福祉博愛の精神を持つ人もいる。要は人それぞれである。だから別の政治家であるが、自分の学費を調達するために親が馬を売ったという話を演説の十八番にしている人がいる。以前、テレビで感極まって演説する政治家とそれを涙を流して聞き入る選挙民の映像をみたが、まったく信じられない光景であった。演芸の語りならわかるが、こんなもので政治が動くなんて…。菅官房長官(おそらく次期総理)は自助共助公助ということを唱えている。これは福祉の世界でははるか前から言われていたことであり、近年では災害対策などでも言うようになっている。まず自分や家族で問題を解決し、それでもできないとこには地域社会などで、そして最後に公共の支援を頼れということで、それも一つの考えなのだが、政治家がこれを言うと最初から国は消極的だと言っているようにも聞こえる。総理候補と目される三人の中で、格差の問題や資本主義の限界に言及している候補は一人しかおらず、この人は総理になる可能性のないのが残念である。
2020年09月09日
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あと2か月もしたら来年のカレンダーが発売され、紅白(無観客でやるらしい)の出場者も話題になる。ゴーン逃亡のニュースに驚いたかと思う間もなく、武漢肺炎のニュースがやってきて、その後は屋形船、クルーズ船、一斉休校、緊急事態宣言…とコロナの話題で埋め尽くされたような2020年。今年の流行語はやはりコロナ関連しか考えられない。三密、ソーシャルディスタンス、濃厚接触、緊急事態宣言、無観客といろいろ考えられるけど、案外と受賞するのは「アマビエ様」かもしれない。東京オリンピックといえば、おそらく、もうほとんどの人が「えっそんなのあってっけ」なのだが、あの変なキャラクターよりも、ストラップも人形もアマビエ様の方がはるかに人気なのだから。そしてまた今年の漢字もおそらくは「君」じゃないのか?だって「君」の字をよくよく見て分解してみると…ね。今年もあと4か月をきっていることを考えると、コロナ禍が年内に終息するとは考えにくい。感染者数の推移をみると第二波のピークは過ぎたようにみえても、まだまだ第一波の山のかなり高いところと同じような数字だし、賑わいの戻ったようなところを見ても、明らかに若い人が多く、高齢者はまだまだ警戒して外出を控えていることがわかる。外国をみても米国の感染は深刻だし、ヨーロッパでも明らかに第二波がきている国も多い。一方で感染が終息した中国では日本そっくりの夏祭りも行われているという。本場の日本では今年は軒並み中止になった夏祭りが...。https://diamond.jp/articles/-/247112コロナ禍は国による差が大きく、未知のものを含め、様々な要因があるにしても、成功したところをみると例外なく検査を徹底しているところである。その一方、コロナを風邪の一種であるかのように当初過小評価していた米国やブラジルは感染を広げた。日本も世界的にみると被害は少ない方であるが、東アジアに限ってみると、フィリピン、インドネシアとならんで感染が深刻な国の一つとなっている。
2020年09月07日
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忘れられない事件があった。千葉市川市で起きた一家殺人事件でその犯人は当時19歳の男だった。彼は接見に来た母親にこう言ったという。「今度は長くなりそうなので資格試験の参考書を差し入れて」と。少年法のぬるさは実際以上に誇張されて、犯罪者やその予備軍の少年たちに誤解を振りまいていたらしい。実際には18歳以上では現行法でも死刑は可能であり、関某にもすでに死刑が執行された。現行の少年法は遺族や社会の意識とも乖離しているばかりでなく、犯罪少年あるいはその予備軍のためにもならないのではないか。そんなふうに考えていたが、法制審議会では、大人と同じ刑事手続きを取る犯罪の範囲を広げて厳罰化を図るとともに、重大事件で起訴に至れば本人を特定する報道も可能にするという。こういう改正は大賛成である。人の心身に重大な被害を与えるような犯罪に対しては、機械的な年齢の線引きだけで寛刑となるのはおかしいし、犯罪からの更生は自分が行った犯罪行為に口をぬぐって幸福になることではない以上、犯罪少年の氏名公表を抑えるのも変である。英国で幼児を殺害した11歳や12歳の少年の実名を公表した例もあったが、犯罪少年の実名を出さないのは先進国標準というわけでもない。人を殺傷することが悪いことだくらいのことは10歳を超えればわかることだろう。さて、こうした少年法改正の動きに対しては必ず起きる反対論がある。それは少年犯罪は増加していないので改正の必要がないという反論と、厳罰だけでは少年犯罪は解決しないという反論である。前者については少年法自体に問題があるから改正するのであり、それは少年犯罪の増減とは関係なく、改正すべき点が改正するということであろう。年少人口の数が少なくなればその年代の犯罪が減るのは当然であるが、それでも少しでもゼロに近づけるために最善をつくさなければならない。次に厳罰だけでは解決しないというのももっともであるが、こうした「だけでは」論は刑罰の応報という側面を忘れている。被害者や遺族が国家や社会に対する信頼を取り戻していくためには加害者が十分な刑罰を受けることは欠かせない。忘れてはならないのは、少年犯罪の被害者もまた、春秋に富む少年であることが多いということである。そうした被害少年や遺族の立ち直りということにも目を向ける必要があるのではないか。
2020年09月06日
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コロナの新規感染者のグラフを見ると4月半ばにピークを持つ第一波とその後の8月上旬にピークを持つ第二波があることがはっきりとわかる。そして今は第二波のピークを超えたあたりなのだが、それでも一日の感染者数は第一波のピークの前後とあまり変わらない。国によってはそのピークからの下降が極めて遅いところやピークを超えたと思ったら再度上昇したところもあるので、まだまだ予断を許さないが、それでも第一波のピーク直前のような不安感は薄れたような気がする。原因は死者数や重症者数の推移である。どういうわけか知らないが、第一波に比べて第二波は感染者数は多いが死者数や重症者数はさほど多くない。数字で見てもそうだし、「感染した著名人」をみても第一波のときはかなり大変そうだったのだが、第二波では若いタレントが多いということもあるが、さほどしんどそうに見えない。そしてもう一つの要素として慣れもある。人々のマスクも店でのビニールシートや店員の手袋もいつのまにか日常の光景になった。電車やエレベーターで大声で会話しているような姿もぐっと少なくなったようだ。テレワークは確かに普及し、テレワーク用の部屋を貸すというチラシもこの前みかけた。コロナにおびえる日常ではなく、コロナとともにある日常である。それでも第二波が終息し、たまの飲み会を開くくらいの生活は戻ってきてほしい。政府は9月半ばからgotoイートキャンペーンを始めるという。単なる外食需要の喚起であれば、どうしても感染再拡大の不安がある。外食の出前が盛況になっているように美味しいものを食べたいという需要は減っていない。外食では感染の不安があるから出前にして家で食べているのである。ならば、テーブルを隔てるアクリル板の設置や客席の個室化などが行われ、感染不安がなくなれば、客は戻ってくるのではないか。大規模な宴会はなくとも、個人や家族で外食という需要はある。補助すべきは顧客ではなく、感染予防仕様に客席を改装しようという店の方なのではないのだろうか。
2020年09月04日
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コロナについては、ワクチンが後何年でできる、経済回復に何年かかる…そんな議論があちこちで行われている。ただ、そのワクチンができるまでの何年、経済回復にかかる何年というのは、個々の人生にとってみれば、決して取り戻すことのできない人生の何年かである。特に人生の選択をしなければならない若者にとってその何年かは大きい。例えば旅行業界の回復に何年といった場合、老人にとっては旅行を我慢するくらいのことかもしれないが、この業界を志す若者にとっては、何年後に回復するにしても、自分が就職活動をする時期に門が閉ざされていたらなんにもならない。国際関係、観光関係、ホテル関係、イベント関係も同様で、こうした業界と関連の深い学部学科の場合は中退や転学を考える人もいるかもしれない。そうでなくとも、授業がオンラインになったため、せっかく入った大学のキャンパスにも入れない若者も多いという。将来の進路選択という問題でなくとも、大学に愛着も希望も持てず、第二志望、第三志望で入った学校なら仮面浪人をきめこんで受験勉強をやり直している人もきっといることだろう。中退はそれ以降の授業料が入ってこないことを意味し、大学経営にとっては深刻な問題になる。そのうえ、大学によっては留学生で定員を埋めているところもあるので、こうした留学生が来なくなったことも打撃であろう。若者が集まることで感染の拡大の不安はあるが、高校以下の学校ではすでに対面授業を始めている。キャンパスの門を閉ざしたままというのは、ちょっと殿様商売がすぎると思う。大学の倒産続出なんていう事態にもなるかもしれない。
2020年09月03日
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数が人間の運命を支配する世界を描いたファンタジーであるが、ストーリーはどうでもよい。妖精世界や王国を舞台にしていても、描かれているのは数の不思議なのだから。フェボナッチ数列やピタゴラス素数の話はたぶん「博士の愛した数式」で読んだことがあるし、完全数や友愛数の話も、そこに出ていたと思う。ただ巡回数というのは初めて知った。142857はその2倍から6倍すると同じ数の並びで巡回するように動いていく。142857を2倍すると2857143倍すると428571というように。そしてこの6つの数字の並びはすぐに気が付くように7で割って割り切れないときに出てくる循環小数の並びだ。それにしてもこういう巡回数というのは他にもあるのだろうか。また、ピタゴラス素数というのは知っていたけど、メルセンヌ素数というのもあるらしい。これは2の累乗マイナス1であらわされる素数で、その性質上4の倍数よりも1少ないことになる。4の倍数よりも1多い素数はすべてピタゴラス素数で二つの数の二乗の和であらわされるのに対し、4の倍数よりも1少ない素数がすべてメルセンヌ素数というわけではない。そこでエクセルを使って遊んでみる。2の累乗の列を作り、その横の列に1を引いた数を並べる。この中にメルセンヌ素数ってどのくらいあるのだろうか。1の位が5になるのは別にして、7で割ってみると、2列おきに7で割り切れる数がでてくる。11ではどうだろう…メルセンヌ素数がどのくらいの頻度ででてくるかエクセルで試してみたいと思ったが面倒ですぐやめた。中でも面白いのは、物語の中では「運命の泡立ち」とよばれているコラッツの予想だ。どんな数でも偶数なら2で割り、奇数ならば3倍して1を足すという操作を繰り返していくと最後は必ず1になるという。例えば10、5、16、8、4、2、1というように。これは人の一生が栄枯盛衰照る日曇る日を経て最後は終末に向かうのに似ている。だから「運命の泡立ち」では1は存在を表す数であるとともに、死の数というように定義されている。テーマは数の神秘なのだが、数式がでてくるわけではないし、ファンタジーとしてさらっと読むことができる。ぜひお薦めである。ただし、読むときは電卓、できればエクセル画面が前にあった方がよい。
2020年09月01日
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