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主観であるが、正直あまり面白いとは思わなかった。事故で寝たきりとなり、赤ん坊からやり直し、ようやく活動できるようになった男が、過去の自分を探すという話で、心の旅路ものである。過去にドラマ化もされているが、一度赤ん坊に戻ってやり直すという無垢な人間の役は、俳優の演技を見るテレビドラマとしては面白いだろう。ただ小説としては、あまり登場人物のキャラが立っているとも思わないし、ストーリーとしてもそんなによくできているとも思えない。特に、最後のドタバタは唐突である。しかし、こう並べてみて、さすがと思うのは、こういう話であっても最後まで読ませるのだ。実際に読んでみて途中で投げ出そうと思ったことはなく、すいすいと読める文体である。世の中には長編小説の公募は多い。しかし、そのほとんどは、「腐った卵を全部食べる必要はない」という理由で最初の部分しか読まれないのではないか。それくらい読ませる文章というものは難しい。以上、ほめているのかけなしているのかわからないけど、まあそんなところである。
2025年08月31日
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最近テレビの視聴時間が減っているという話がある。そういえば最近国民的人気番組というものも聞かないし、話題になっているドラマという話もない。たしかにテレビはつまらないように思う。特にいやなのはバラエティと称するタイプのそれだ。いったいこの人って何の芸があるのだろうというタレントを並べて楽屋落ちのような笑いで時間をつぶす。また、一般人を取材対象にしたものでも、対象はどちらかといえば恵まれない立場の方が多い。自殺未遂、余命宣告など不幸な話てんこ盛りだが、一般人の話であれば、いくらでも話を盛れる。あなたなどまだよい方なのだ…という大衆の不満懐柔策だろうか。たしかにテレビに出るのが識者やスポーツ選手、タレントばかりだと、一般人は不満がたまるかもしれない。そしてまた、報道しない自由も酷い。アフリカ諸国とのホームタウン構想であるが、ネットで問題視されているのに、テレビでは一切報道されない。誤報を打ち消すのであれば、誤報だと指摘するだけでは不十分で正しい情報を発信する必要があるだろう。具体的にはホームタウンの中味について行政の責任者に語らせればすむことである。なぜそれをしなかったのだろう。外国人の問題は社会の在り方を変える。西欧の国はかつてのような国ではなく、いまや多文化多人種社会となっている。背景には経済界の要請もあったであろうし、人口爆発する国々の送り出し側の事情もあった。治安のよい地域に住み、限られた層の外国人とだけ付き合い、恵まれた仕事についているエリート層にとっては、途上国から単純労働者が流入しても痛痒を感じない。負担は、その国で貧困層の多い地域に住み、単純労働者と競合する職種についている人々が負うのである。だから、労働者の党とかサヨクとかいわれるある政党が、外国人労働力流入規制を唱える政党に対して「排外主義と戦う」と叫び続ける理由がさっぱりわからない。国際交流、多文化共生といってしまえば無条件によいものと思うのは思考停止であろう。世界には様々な国がある。人口爆発、テロ、犯罪、疫病、宗教紛争と救いがたい問題の山積みの国もあれば、人種も違和感ないほど日本人に近く、日本文化にも順応しやすい国もある。国際交流といっても、どんな交流をどのような国と行うのか、具体的に考えた方がよい。
2025年08月30日
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今では動画で昔なんとなく知っていたという曲も聞くことができる。NHKで「みんなのうた」という番組があった。今もあるのかもしれないけど、ここで紹介された歌には、おぼろげに記憶に残っているものがいくつかある。それを今改めて聞いてみると、ああ、こういう歌だったのかと気づく。「トムピリピ」という歌がある。これは、単に大金持ちの歌だと思っていたのだが、最後にオチがある。そういえば、子供にホラをふいて面白がっているオジサンというのはどこの国にもいるのだろう。また、「グリーングリーン」も明るい旋律で自然賛歌のようなのだが「僕は死ぬだろう」という歌詞が不思議だった。そう思って聞くせいか、明るい曲もそこはかとない悲哀があるように感じた。あらためて聞いてみると、「死ぬ」ではなく「知る」であった。ただ、歌詞は父との別れを歌ったもので、ある日、父が遠いたびに出てしまって二度と帰ってこない…というところは不気味でもある。戦争、死別あるいは離婚など、いくつもの解釈ができそうである。一時期は父が向かったのは戦場であり、反戦歌とされていた時期もあったらしい。「さっちゃん」も「さっちゃんはね、遠くに行っちゃうって本当かな」をもうすぐ死んでしまうことだと思っていた。そうとる人が多かったせいか、何年か後のバージョンでは、「さっちゃんもうすぐ引っ越すんだってね」というセリフを入れたのもあったが、急につまらない歌になったようにも思う。有名な童謡「赤い靴」のように少し怖く解釈できる歌の方が子供の印象に残る。みんなの歌では最初の頃はロシアや東欧の民謡や外国の愛唱曲の紹介が多かったのだが、次第にオリジナルの曲が増えていったように思う。そうした曲では「算数チャチャチャ」はよくこんな歌を作ったなと思うくらいの怪曲である。ただこの曲を聴くと、新しいことを学ぶのがワクワクするほど楽しかった中学生の頃を思い出すので、とても気に入っている。
2025年08月29日
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ニュースサイトをみていたら、例のアフリカのホームタウン事業について、不確かな情報がネットで拡散することに懸念を表する記事があった。まあ、情報弱者ならこんな記事をみて、だからネットは信用できないとなるのかもしれない。しかし、よく読んでみると、ここでいう不確かな情報というのは英国の権威ある放送局や相手国政府の発表である。いったいどこが不確かなのだろうか。ネットで騒ぎになったことを受けて相手国政府の発表の移民のくだりは削除されたというが、海外でこうした情報が出回っていること自体、ネットがなければほとんど誰にも知られなかったであろう。本来なら日本のテレビや新聞こそが問題にすべきであったし、さらにいえばJICAや外務省も相手国の広報くらいチェックすべきではないか。玉木氏「外国発の不確かな情報が簡単に拡散」懸念 JICA事業めぐり(毎日新聞) - Yahoo!ニュースこの件について、官邸、JICA、関連自治体のHPを見てみた。いずれも移民政策推進というネットの情報を否定している。しかし、こうしたものは否定だけしてすむものではないだろう。AについてBだといううわさがあるが、それは嘘だという場合には、Aについては真相はこうだという説明がなければならない。つまりホームタウン事業が移民政策だというネット上の話があるがそれは誤情報だというのであれば、ホームタウン事業とはこういうものであるという説明がなければならないのだが、それがない。しいていえば、交流事業といっているのだが、その交流の中身こそが知りたいものである。単に誤情報だの誤りだのといってうち消しても、じゃあなんなのという説明がないと説明にはならない。国際交流…というと、それ自体なにかよいもののような気がして大いにけっこうだといいたくなる。普通の国ならそうだろう。珍しい民俗行事や料理、それに民芸品などは多くの国にあるし、日本にはない自然景観だってある。しかし、このホームタウン構想にでてきたナイジェリア、ガーナなどはそういう国ではない。ほとんどが外務省の渡航禁止勧告の国であり、貧困や政情不安に苦しみ、ついでにいえばエイズやエボラといった疫病感染の懸念もあるところである。親善だの文化交流だのといってホイホイと出かけるような国ではない。単にネット上の話を「誤情報」だというだけでは納得できない。ホームタウン構想の交流の中味について外務省なりJICAなりできちんと説明する必要があるだろう。
2025年08月28日
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JICAアフリカホームタウン構想が昨日あたりからネットで話題であるが、これに対して、新聞、テレビなどの旧来のメディア、外務省や自治体などはネットの誤情報だとして火消にやっきになっている。こうした構想がアフリカから大量の移民を受け入れるものではないというのがその理由だ。そこで、実際に外務省や自治体のHPもみてみた。これらのHPでは、ネット情報について誤報だとか誤解だとか言っているのに、肝心のホームタウン構想の中身については説明が少ない。交流を増やす…というのだが、具体的にどういうことなのだろうか。ホームタウンの相手となっているタンザニア、モザンビーク、ナイジェリア、ガーナは多くは経済困難をかかえ、外務省の渡航禁止勧告地域になっているところもある。そうしたところとの交流が、まさか、折り紙を通じての子供たちの交流とかミスなんとかの親善訪問ではないだろう。ホームタウンに指定された自治体は三条市とか今治市、そして木更津市、長井市であるが、三条といえば金属食器、今治といえばタオルと思い浮かぶ。長井市もリサイクル工業などが盛んな地域らしい。それを考えると、移民政策ではないというが、結局はアフリカから労働力を移入するということなのではないか。もちろんその労働力を移民と呼ぶのか、技能実習生と呼ぶのか、交換労働研修生などの新しい名で呼ぶのか…それはわからないのだが。もし、ホームタウン構想がそうしたものではないというのであれば、正確な情報を早く出してほしい。日本の人手不足ということはかなり前から言われている。一方で日本の平均賃金は統計の上では、諸外国に比べて決して高くない状況になっている。そのため、やってくる外国人労働者も韓国人から中国人、そして最近ではもっと南や西の人々が増えているように思う。世界には人口増加と貧困に苦しむ国がまだまだある。そのうちアフリカから労働力を移入するのではないか…と思っていたが、意外に早く来るということか。別に事実なので書いてもよいかと思うのだが、アフリカにはエイズやエボラなど疫病の問題もあるし、イスラムなど日本人になじみのない宗教の信者もいる。アフリカから労働力(短期間で帰るので移民ではないにしても)が入ってきて多文化共生がうまくゆけばよいのだが。
2025年08月27日
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どこかの自治体でスマホの時間を制限する条例を制定するということが話題になっている。意味がわからない。スマホというのは単なる入れ物のようなもので、スマホでニュースや論説を読む人もいる。音楽を聴く人もいれば映画を見る人もいる。ゲームをやる人ももちろんいるだろう。なぜなんのために制限するのかさっぱりわからない。たとえば、読書時間を制限するというと変に思う人が多いと思うが、今はスマホ画面で本を読むという人もいる。それはともかく…パソコンでいろいろな画面をみていたらまたやってしまった。いきなり警告音がなって「あなたのパソコンはロックされました」と女性の声が出てきて、画面にはサポートセンターとしての電話番号が表示される。詐欺メールは毎日いくつも来ていて、ほとんどは入ってもいないクレジット会社だったり、入っているものでも宛名が単にyouとあるだけなので、即削除している。しかし、今回の警告音は別にそうしたメールの誘導で怪しいところをクリックしたわけではなく、yahooから行くようなごく一般的なサイトである。画面に余計なものがでているときには、やたらに押さない方がよいということなのだろうか。こうした番号に電話をすると、遠隔操作ソフトをインストールするように案内され、少額の請求に応じたところ、それが書き換えられて大金を送金される事例もあるという。パソコンも通販や映画の予約など生活必需品になってきているのに、詐欺が跋扈というのも困ったものだ。今のところは長押しの強制終了で事なきを得ているのだが。この間は、詐欺というのではないのかもしれないが、有名な通販サイトで、定価1200円の本を3000円以上で売っているのを見た。古書でない限り、本は定価で売られるものと思い込んでいると、こういう値段だと思って買う人もいるのだろう。
2025年08月26日
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神戸の女性殺人事件は通り魔的な犯行のようだ。事件の詳細は不明なのだが、男は不遇そうな人物で、被害者の女性はそうした男から見れば勝ち組に見えたのかもしれない。通り魔犯罪の多くは背景に絶望と嫉妬がある。また、未婚化社会というものは、異性との交際から排除される者が相当数いる社会でもある。疎外されている全員が草食化しているというのならそれでもよいのだが、中には暴力などで鬱憤を晴らす人がいるだろうし、それもまた犯罪の温床になる。教訓としては、マンションのセキュリティ機能も過大評価しないということだろうか。鍵なしでエントランスを通過する状況をなるべく少なくするのが理想なのだろうが、それでも、出入りの多い時間帯などは無理である。防犯カメラも、何かあった場合の事後的な捜査に役立つだけで、カメラ自体が犯罪を防ぐわけではない。犯罪者の中には捕まってもよい、あるいは始めから刑務所に行くことを目的にしている場合もある。今回の事件にしても、本気で逃げるつもりなら犯人はわざわざ髪を黒金メッシュにはしておかないだろう。自己顕示欲が強く、それだけに不満と劣等感にさいなまれていたような人物なのかもしれない。犯罪は社会に対する警鐘であり、社会の在り方を変えていく。今はマンションは鍵をさしてエントランスを開ける方式が多いのだが、やがては一部高級マンションにあるように自動改札式が普通になるのではないか。住民はカードをタッチすることで、その先に進めるという方式である。今回のような事件があるにしても、入り口の管理や防犯カメラのあるマンションは一戸建てよりは安心である。今でも集合住宅に住む人の比率は上昇しているというが、今後は安全という見地からも、一戸建てを処分して、マンションに居住する人が増えていくのだろうか。
2025年08月25日
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この間の参議院選挙の結果について識者の意見がいろいろとでてきてる。そこで思うのは、日ごろ差別反対を声高に言っている人ほど実はとんでもない差別主義者なのではないかということである。具体的には、急伸した参政党の支持者に対して、政治的に無知な層であるとか、初めて投票に行った人々が多いとかといった、決めつけのような主張が目立つ。はなはだしきは知識のない者は投票するな、とか、もっと酷いのになると、投票権を知識層だけに絞るか、知識層の投票権を2倍にするとかといった主張をしている論者もいる。後者は某全国紙に掲載されたもので、ネットで探したのだが、有料記事だったので、金も払いたくないので全文は読んでいない。その全国紙は日頃は憲法を守れとか、差別をするなとか言っているのに、ここにおいて思いっきり憲法違反の差別の塊のような論説を掲載したのは驚くばかりである。衆愚政治と賢人政治については、ギリシャの昔から議論があるところなのだが、賢人政治が良いものだとは思えない。なぜなら賢人といえども、人間であり、人間であるからには己の利益を優先して考えるものだからである。賢人政治は賢人に都合のよい政治が行われるだけであろう。そして現代における政治、行政というものは、その多くが主に凡人を対象としたものである。福祉政策しかり、治安維持や刑事政策しかり…。自力で高度な知識を得られる人には教育行政は必要ないし、引く手あまたの高スペック人間には労働政策も不要だろう。だから一部識者の意見とは逆に、普段、政治について考える余裕もない見捨てられた層ほど、投票に行かなければならないのではないかと思う。
2025年08月24日
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この間の参議院選挙で非常に画期的だと思うことがある。それは有権者が争点を決めたということである。投票するのが有権者である以上、有権者が争点を決めるのは当たり前なのだが、今までの選挙ではマスコミは争点は〇〇とか対立軸が見えてきたというように争点を提示することが多かった。参議院選挙でも当初のマスコミ報道では物価問題などを争点にしたかったようだ。ところが、外国人政策に関する公約を大きく掲げた政党が躍進するにつれて、マスコミも外国人政策を無視しないわけにはいかなくなってきて、結果的にこれが選挙結果を左右する争点になった。今回の選挙結果について立憲民主党は「外国人問題に関しては重要度は低いが潜在的な不満が高いイシューとのデータもある」との認識を示したという。多くの選挙民が重要度が高いと判断したからこそ、有権者の投票行動に影響を与えたのではないか。欧州の現状などを見ても、外国人労働者の流入に対する政策は社会の在り方、国家の将来を決定する。なぜ重要度が低いとしているのか理解しにくい。少なくとも選択的夫婦別姓などというテーマこそ一部の意識高い系エリート女性が騒いでいるだけのどーでもよい問題のように見えますけどね。もっと奇妙なのは日本共産党だ。外国人労働者の流入を規制する主張を「極右排外主義」と位置づけ、街頭演説への抗議活動を容認するという。外国人単純労働の無制限な流入によって何が起きるか。グローバル資本は安価な労働力を利用して利潤を最大化できるのだが、競合する国内の単純労働者は賃金上昇や待遇改善が見込めない。場合によっては失業増という結果にも結び付く。外国人と本国人とによる貧困層が形成され、社会不安の要因となる。日本においてどの職種がどうなのかといわれても困るのだが、はるかに多くの外国人労働者を受け入れた欧州で現に起きていることである。治安も悪くなり、これもそうした地域に住んでいる恵まれない層の生活を直撃する。はじめて知ったのだけれども…共産党というのは貧困層の敵だったのね。また、ある論者は、外国人の問題が争点になってしまったことで、当初、争点だったロスジェネの問題がかすんでしまったという。それはそうだろう。しかし、争点は各政党の公約や主張を見て選挙民が決めることだろう。正直、ロスジェネの問題について、これといった公約や主張をしていた政党はなく、皆、同じような消費税廃止や減税の主張に埋没してしまったようにみえる。これはちょっと残念に思う。
2025年08月22日
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少子化ということがよくいわれる。少子化の原因は主に未婚化であり、これからの時代、いわゆるおひとり様といった家族を持たずに生きる人々が増えていく。家族というものは支え合いであり、おひとり様は支えてくれる人がいないとともに、支える必要のあるひともいないということである。世の中には、多くの係累に囲まれて幸せな老後を送る人もいるが、配偶者の介護が桎梏となっている老後もあり、それはときどき介護殺人という形でニュースになる。ふつうは子供や孫の存在ははりあいであるが、それについても、独り立ちできない子供がいれば8050問題、9060問題などといったものもある。結局のところ人生も様々であるということだろう。また、少子化で人手不足になるということもよくいわれる。しかし、今生まれた赤ん坊が労働力になるのには20年以上の年月がかかる。年齢で切り分けて現役世代何人で何人のお年寄りをささえるといった議論をするよりも、人口を絶対的従属人口(子供)と相対的従属人口(高齢者)に分け、職場を高齢者にも働きやすいものにしていくという考えも必要なのではないか。例えばレジは立って行うのが普通であるが、海外では椅子に座ってのレジを行うところもあるという。高齢者に働きやすい職場はおそらく現役世代にとっても働きやすいものであろう。そしてまた、子供や若い世代が減っていくことで、需要が減少していく分野もある。塾、美容院、保育などでは苦しいところが多いというし、私学も経営難や淘汰ということがいわれている。また、24時間年中無休の店や深夜営業の外食、即日配達の配送などなければないですむようなサービスも世の中にある。少子化だ、人手不測だ、さあ大変だという前に考えてみることは多い。最後に少子化は国力の衰退を招くというが、国家全体の国力と個々人の幸福は別物である。国家規模のGDPは減っても少子化によって個々人は豊かになるということもある。兄弟の少ない世代は前の世代に比べると親からの遺産を受け継ぐ機会が多い。そして親に未婚の兄弟がいれば、思いがけず叔父叔母の財産が入ってくるというのもよくある話になってくるのではないか。さらにいえば、未婚化とともに、相続人不存在で国庫所有になる財産も増えてくる。もちろん空き家も増えてくるわけで、将来的にはこうしたものを管理する国の部署ができるのかもしれないが、相続人不在の財産によって国庫が豊かになるという面もある。地球規模の環境問題も深刻であるし、それを思うと少子化というのは必ずしも悪いことばかりではないと思う。むしろ、ライフサイクルの多様化による、未婚者と家族を持つ者との分断というものが、今後の社会の大きな課題となってくるのではないか。今は子育て支援が大きな政治テーマになっているのだが、将来的には未婚者の利害を代表する政治勢力などもでてくるのかもしれない。
2025年08月21日
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かつては、人間も自然の一部で、他の動物同様に大いなる自然の一環として生きていた。しかし、牧畜あるいは農耕というものを覚え、自然をコントロールし始めた時期から人間はすでに自然の生態系を離れた存在になっていった。ただ、それでも、人間にとっての天敵はいる。日本では、古来、人間を超えたものを神として畏敬してきたのであるが、オオカミやクマが神と音が通じているのも、人々はそうした動物を畏敬し神とみていたのであろう。さらに文明が発達すると人間の活動範囲は広がっていく。山を切り開いて住宅地にしたり、道路を通したりというのは見方によっては自然破壊である。道路沿いの法面は大体、崩落防止のための工事が行われているが、これも本来の自然の景観とは異質で昔の文人墨客がみたら嘆かわしいと思うだろう。現代の文明は、結局のところ自然に手を加えざるをえない。すごい素朴な考えなのかもしれないのだが、人間の活動範囲に出没する可能性のある熊も、駆除するというのが普通の考えではないのだろうか。環境保護とか景観保護とかいうのは人間の安全を確保したうえで考えればよい。景観が損なわれるので法面補強はしなくてもよい、落石で被害にあった人は運が悪いと思えなんて言うのは明らかに暴論である。最近の報道を見ると、熊被害は人里離れた山にあえて行った人だけではない。町で新聞配達員が襲われるとか、自分の畑で襲われるといったことも起きている。これはもう日常の安全が脅かされている状況である。そういえば、子供のころは町にも野良犬がよく徘徊していた。それがいつのまにか、野良犬の駆除は普通のことになり、今では町で野良犬を見ることもなくなった。野良犬だけではない。春先では公園で毛虫の駆除も行われるので、公園を散策して毛虫が落ちてくる心配もほとんどない。野良犬や毛虫の駆除は誰も批判しないのに、熊の駆除となると抗議の電話をかける人がいるのが不思議だ。こういう人は人間の天敵の熊と絵本のクマさんを混同しているとしか思えない。とここまで書いてきたが、熊との付き合い方を決めるのは地元民の判断である。駆除は基本人間を襲った個体だけに止め、あくまでも熊との共生を目指すという選択をするならそれもありだろう。そして熊の駆除を地元の僚友会にまかせるというのもまた選択である。都会の人間があれこれいうものでもない。ただ、遠くから見ていると、このまま熊被害が続いていけば、そのうち住宅地で子供が襲われるようなことがいつか起きるのではないかと思ったりもする。
2025年08月21日
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羅臼岳で熊被害で男性が死んだのだが、駆除された熊男性をが襲った熊と同一かどうかDNA検査を行ったという。普通に考えれば、登山道には熊が出没して危険なので、付近の熊を駆除するということでよいのではないか。わざわざDNA検査をやる意味があるのだろうか。駆除された熊が襲った熊だろうが、そうでなかろうがどうでもよいのではないか。熊は熊ではないか。それとも、人を襲った熊を特定して駆除することで、熊が人間を襲えば駆除されるということを学習する…なんてわけもない。なんというか人間と熊とをごっちゃにしているのではないか。熊は自然物であり、食物連鎖では人間の天敵である。ただそれだけのこと。相変わらずの猛暑だ。これだけ気候が変わると時候の挨拶も変わってくる。梅雨の時期も相当に暑かったので「梅雨が終わり本格的な夏を迎え」なんていうことも今年は書けなかったであろうし、まだまだ暑い日が続きそうなので、「残暑」などという言葉も使いづらい。そのうち今まで寒くて住みにくいとされた道東などに富裕層が競って移住するようになるのかもしれない。そのころには熊も駆除されているのだろう。通販サイトでときどき本を購入することがある。本屋に行って本を探す、なければ取り寄せてもらうのだが、そうなると何週間もかかる…そんな頃に比べると便利になったと思っていた。ところがこの間、本を注文しようとすると、どう考えても1000円か2000円の本が専門書なみの値段がついていて驚いた。調べてみると、セドリという転売ヤーがいて、買い占めたうえで高額で売ることもあるという。古書でもない新書を定価以上で売るなんてことはないと思っていたのだが。今までももしかして定価以上で本を買っていたのかもしれないと思うと後悔しきりである。
2025年08月19日
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政治に対する見方を右と左の二軸で分けるのは無理があるのではないかということを書いた。古典的な社会主義主義理論を信奉している人々はいるのかもしれないが、それは今ではごく少数だろう。そしてまた、40代、50代くらいの世代は物心ついたころに冷戦崩壊を経験しているので、条件反射のように社会主義≒悪といった感覚をもっている人も多い。それはちょうどものごころついた頃に進歩的知識人やうたごえ運動が大流行していた世代が、社会主義はよいもので戦前は暗黒時代だったという感覚をもっているのと似ている。左という言葉は今ではリベラルという意味でつかわれることが多いのだが、これは社会主義というのよりもっとわかりにくい。リベラルという言葉は欧米では権威主義に対する語として使われている。だから宗教的権威で否定するLGBTや中絶がホットな政治的テーマとなる。しかし日本ではリベラルに対峙する権威というものはみえにくいし、そもそもそんなものあるのだろうか。ジェンダー平等を主張する人々は日本にはどっかと家父長制的権威が残っていて、それが女性を差別しているという。だから女子の登用枠を設けろ、理系で女子受験生を優遇しろ…と主張するが、そんなものは男性差別でしかないだろう。今の日本のリベラルの主張は、ジェンダー平等、LGBT差別反対、同性婚を認めろ、選択的夫婦別姓、非核そしてこれに憲法9条護持と原発反対がつく。こうした主張の是非はともかくとして、気づくのはいずれも労働者の生活とはほとんど関係のないテーマであるということだろう。米国では「労働者を見捨てたリベラル」という言葉があるというが、日本のリベラルも労働者を見捨てている。そしてさらに、リベラルの主張では、外国人労働者の流入促進というものもあるらしい。このあたり一枚岩かどうかわからないが、外国人労働者の参入規制の主張を排外主義とかナチスとか言って攻撃するのもリベラルの立場からが多いように見受けられる。先の選挙でも立憲民主党は外国人労働者受け入れの主張をしており、グローバル資本主義の立場で受け入れを促進している自民党がかすんでしまうほどだ。しかし、外国人の単純労働力の受け入れは確実に現在競合する労働を行っている日本人の待遇を低下させる。少なくともそういう業種はあるだろう。待遇向上の努力の前に、日本人が希望しない、じゃあ外国人だという発想になれば当然のことである。こうして単純労働の外国人と日本人とによる貧困層が形成され、それは社会不安や治安悪化に結び付いていく。今の欧州の実態を見ればよくわかる。まあ、どこの国でもマスコミはインテリ・リベラルに牛耳られている。労働力流入に否定的な政治勢力を極右だのネオナチだのというのは、そうしたインテリ・リベラルの色眼鏡であって、実際にこうした政治勢力が支持を集めているのは当然のことなのではないか。外国人単純労働力流入促進と国内の格差貧困の問題の解決とは両立しない。日本のリベラルはまた一つ労働者から遠ざかっているように見える。社民は消滅寸前、共産は激減、立憲民主も実質敗北となると日本のリベラルも遠からずニッチな少数勢力になるのかもしれない。意識高い系のインテリ・リベラルというのはどこまでも少数派なのだから。
2025年08月18日
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日本人ファーストが差別だとか、外国人差別を許さないと言っている人たちが、某政党を支持する人々が無知だとか、押し活感覚で支持しているといった思いっきり差別的主張をしているのはなぜなのだろうか。考えてみると、いやさほど考えてみなくても不思議である。はてはよくわかんない奴らは選挙に行かない方がよいなどという発言まで出てくるようでは…。そもそも辛い仕事は外国人にさせればよいという発想の方がよほど差別的だと思うのは自分だけなのだろうか。閑話休題「僕の東京全集」(小沢信男)を読んだ。黒焦げの遺体を積んでいく車を見たという自身の空襲直後の体験の記述は、当時の新聞や雑誌を丹念に読み込んだうえでの明治初期の歌人芸者や出歯亀の評伝は面白い。歴史を考えると、主役にばかり目を向けがちなのだが、当時の普通の庶民の感覚やそういう人々の織り成す世相はどういうものだったのかを考えてみるのも面白い。先日、樋口一葉の小説を読んだが、明治初期に男装の女性が闊歩し(まあ、そういう人もいたということなのだが)、千人斬りがまことしやかに喧伝されていた芸者が歌人としても評価を得ていたことを思うと、樋口一葉の小説も忍従を強いられた女性の哀しみを描いたというだけでは言い切れないのかもしれない。「僕の東京全集」は読んだ後、実際に東京の街を歩き、明治、大正、あるいは昭和の痕跡を探したくなる。そういう本であるように思う。
2025年08月17日
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歴史にはいくつかの都市伝説がある。人体石鹸というのもその一つだろう。今日ではプロパガンダであり、虚偽であるとされているらしいのだが、ナチスが強制収容所の犠牲者の遺体を材料にして石鹸を作ったという話である。物資が不足しても石鹸というのはそれがないと生命にかかわるものでもないし、普通の感覚ではそんな石鹸があったとしても、とても使う気にはならないだろう。もっとも、こうした猟奇的な話がなくとも、ナチスの暴虐の証拠は多々あるので、ナチスの蛮行は今でも人類史の絶対悪とされているし、その評価が将来変わることはない。このほかにも、インディアンが頭の皮をはぐという話がある。子供の頃は西部劇が大人気で、少年漫画誌にも日本製の西部劇漫画があったくらいだ。そしてその西部劇ではインディアンは頭の皮をはぐという野蛮人で、いつも悪役だった。ところがこの風習も、合衆国政府がインディアンの頭皮に懸賞金を賭けたのを起源としているというWIKIの記事もあり、これが本当だとすれば、加害者と被害者がまるで逆である。この頃では先住民の人権や文化を尊重しようという機運があり、西部劇は作られなくなっている。考えてみれば、歴史の評価というのも一種の情報戦という要素が強い。ナチスの収容所をテーマにした映画は山ほどあるのだが、奴隷貿易、アボリジニー狩り、南米の先住民殺戮などは映画のテーマにはなっていない。実際にはナチスに劣らぬ蛮行であるのだが、一般レベルではナチスほどの印象はないのはそのせいだろう。また、韓国で文禄慶長の役(壬辰倭乱)を描いた映画で、上陸した日本軍が子供を的にして銃の練習をする場面があり、それはいくらなんでも…と思ったのだが、幸いにもこの映画は韓国以外ではあまり見られていない。ところで、今度は中国が抗日戦争勝利80周年を記念して、日本軍の欧米人捕虜虐待をテーマとする映画を作成し、海外にも売り込むという話もある。韓国の映画やドラマが海外で流行り、中国もまた、自国製の映画やドラマを海外に発信するようになるということは、そうした国の歴史観もまた、広がっていくということなのだろう。
2025年08月15日
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「にごりえ」、「十三夜」、「うつせみ」、「わかれみち」、「われから」といった「たけくらべ」以降の樋口一葉の作品を読んだ。樋口一葉の代表作というと「たけくらべ」といわれるし、それは間違いない。しかし、「たけくらべ」を少年少女の淡い恋を描いただけの小説というと間違いだし、樋口一葉をそういう作家とみるのも違うだろう。樋口一葉の作品には様々な女性がでてくる。「にごりえ」、「たけくらべ」では花柳界に入る女性を描いているし、「わかれみち」では妾になる女性、「十三夜」、「われから」では妻として忍従の道を選ぶ女性がでてくる。女性の生きにくさがこれでもかというほどに描かれている。樋口一葉にしてもあれほどの才能があっても生活の苦労は生涯続いたし、借金を申し入れた相手に妾となる提案をされたこともあったという。そうした時代であった。そしてまた、小説家はよく小説の中で自分の分身を描くものであり、また、自身の願望を投影した人物も描かれることが多い。しかし、樋口一葉の小説を読んでいると、作者の分身ではないかと思われる人物はでてこない。昭和の女流作家がよく自身の体験をもとにした半自伝的な小説を書いていたことをおもうと不思議である。むしろ「にごりえ」、「十三夜」、「わかれみち」では自暴自棄となった男性が描かれており、それが非常にリアリティがある。一説によると素行の収まらない作者の次兄がこうした人物造形に影響しているという説もあるという。一方、理想的男性像となると樋口一葉の作品には少ない。「たけくらべ」の信如は気弱な優等生だし、「にごりえ」の結城朝之助も影が薄い。作者の周囲には文学を介して才能あふれる男性が何人もいたはずであるのに、そうした人物があまり作品に投影されていないように思う。樋口一葉の最初の頃の作品「やみ夜」には王朝文学めいた趣があるし、流麗な筆致も先行する古典文学の影響があるのだろう。「おおつごもり」や「十三夜」となると流麗さはそのままだが、世話物のような雰囲気がある。こうしてみると、王朝文学の時代以降、明治まで女性の紡いだ物語が残っていないのはなぜなのだろうか。戦国時代の才女の小野のお通も浄瑠璃の物語を書いたという話があるが、その物語は残っていない。
2025年08月14日
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最近、「外国人労働力の流入制限は日本人のお財布を直撃」という記事をネット上で読んだ。検索すればすぐに出てくるだろう。ここはもともと財界よりの論説を載せるサイトなのだが、人手不足は賃金上昇を招き、それを放置すると物価上昇に結び付くので、それを防ぐためには外国人労働力を入れなければならないという趣旨である。賃金を上昇させては不味いので外国人労働力を入れるということが、あからさまに書いてあるのだが、それが本音だろう。そうであるのなら、人手不足の職種で働いている日本人にとっては、本来、賃金上昇するはずが、外国人労働力の流入によってそれが妨げられるわけである。それにそもそもであるが、いったい賃金上昇による物価上昇の何が問題なのだろうか。賃金が上昇して物価も上昇するという好循環はしばらく前の日本で目指していたことのような気がするのだが。参政党の躍進についてはいろいろといわれているのだが、中には参政党の支持者について差別意識まるだしのようなことを書いている識者がいる。だからどうだというのだろうか。様々な立場の人々の意見を処理していくのが民主主義というもので、マスコミ情報に接することの少ない人の票も、経済的弱者の票も同じ一票である。参政党の躍進の大きな理由は外国人労働力の流入拡大を批判したことである。これまでのマスコミが作った新党ブーム、マドンナブーム、そして何かやってくれそうな政治家人気などとはそこが違う。政権与党は外国人労働力流入拡大の方向であるし、立憲民主党や共産党も外国人労働力流入に対する規制強化の主張に対しては、差別批判や共生などといったことをいうばかりであった。労働力の無制限な流入を認めている国など世界のどこにもないのに、こうした規制を強化(こういう潮流が欧米では現に起きている)しようとする主張がなぜ「ナチスと同じ」なのかさっぱりわからない。新聞やテレビなどのオールドメディアが、いくら参政党の「憲法草案」なるものを批判したり、議員個人のスキャンダルをやり玉にあげようとしても、ここのところが変わらなければ、参政党の支持拡大は続くのではないか。
2025年08月13日
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三浦半島に行く機会があるときには、よく訪れる場所がある。それは湘南国際村という施設なのだが、ロビーには自由に入ることができ、相模湾を一望できる海の景色も素晴らしい。ホテル機能もある設備も最先端という感じで、初めて訪れたときには、こんな場所もあるのかと感動したくらいであった。聞くところによると、この施設はもともと国際会議などを行う施設として県の肝いりで設立されたのだという。東京からの至近距離にある風光明媚な場所ということで、葉山の高台にあるこの場所は絶好の地のようにみえたのだろう。国際会議やイベントでそれ相応の人々がやってくるようになれば土地のブランドイメージも上がり、お金も落ちる。いいことづくめではないか…きっとこんな風に考えたのかもしれない。日本でもこれからどんどん国際会議を誘致しなくてはという時代もあった。ところがこの場所、ホテルの建物の豪華さはそのままなのだが、訪れるたびに空洞化しているようにみえる。コロナ全盛の頃に感染者の宿泊施設に使用された時期は別にしてなのだが、最初はあった和風レストランと洋風レストランは営業をやめ、今では看板だけをだして予約注文となっているようだ。カフェテリアも今では、椅子テーブルはそのままで、どこにでもあるようなコーヒーの自動販売機だけが置いてある。初めて行ったときには国際会議はなかったものの、学生同士と留学生の交流イベントや不動産業者の説明をやっていた。それが、コロナ感染者の宿泊が終わって以降には、なんらかのイベントをやっているのもみたことがない。たまたまそれに当たらなかっただけなのかもしれないが。また、この施設にはホテルとしての機能もあるのだが、お盆の期間にもかかわらず、宿泊者らしき人はほとんどみなかった。温泉があるわけでもなく、大浴場もない。これは国際会議を念頭に置いた施設なのでそんなものなのかもしれないが、かといって、海の眺めはよいが、海そのものからは遠いのでマリンレジャーや釣りにも向かない。レストランもカフェも開店休業状態で、車でしばらくいくとこじゃれたレストランがいくつかあるといったところだ。そして庭園なのだが、これがいくたびに自然に返っている。最初は広々した散策路のある芝生の庭園で富士山や江の島の眺めがよいと思ったものだが、次第に雑草が繁茂し、植え込みも藪からしが浸食しつつあるように見える。施設設立時には、世界各国から来た研究者や行政官らがこのあたりを散策しながら富士山を眺めているなんていう光景が想像されていたのかもしれないと思うと、まったく寂しい光景である。
2025年08月12日
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昔、中学生の頃には思春期の少年少女の物語として読んだ記憶がある。祭りの日のいさかいや淡い恋など、今も昔もさほど変わらない。けれども、改めて読んでみると、今の子供と明治半ばの時代の子供はなんと違っていることか。親ガチャなんていう言葉があるが、それをいうのならこの時代の子供はどんな家に生まれるかで人生がほぼ決まっていた。多くの家には家業というものがあり、大店の子は大店の旦那に、お寺の子は僧侶に、車引きの子は似たような職に…という具合である。美登利は姉が吉原の売れっ子の芸者で、両親ともどもその余得で金に不自由のない暮らしをしている。家族ぐるみで吉原に世話になっている立場なので、器量のよい美登利も、やがては芸者になるという途が定まっている。明治の時代には政治家や高官の妻にも元芸者という人がいた。妾も社会通念では認められていたので、有力者の妾になり豊かな生活をすることも人生の成功の一方法だったのかもしれない。しかし、作者はそうしたものを幸福な生き方とはみてはおらず、それは芸者になる日が刻々と近づいてくる中での美登利のいらだちやふさぎこみの描写でうかがうことができる。お寺の子の信如に恋心を抱くのだが、小説には実際に美登利と信如が会話をする場面はない。ただ最後に信如が水仙の造花を朝に人知れずさし入れるだけである。どうにもならない定めの中で人が大人になってゆく哀しさや思春期という人生の一瞬のきらめきのような時期を流麗な筆致で描いたゆえに傑作と評せられるのだろう。ただ、「たけくらべ」だけを読んで樋口一葉というのはこういう作家だと思うのはちょっと違うような気もする。感想なのだが、「やみ夜」や「ゆく雲」のようなやや大衆小説的な筋立てで、物語を美しく紡ぐというのが、むしろ真骨頂のように思う。「ゆく雲」では幼い時に資産家の養子になった男が養家の気に染まない娘との縁組を迫られ、その一方で下宿先の器量のよい献身的な娘に惹かれるという物語で、それが当時の世相を背景に描かれていて面白い。主人公の男の独り相撲のような恋の悩みと下宿屋の娘の達観したような冷静さがなんともいえないのである。
2025年08月10日
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最近よくポピュリズムという言葉を聞く。これは日本語では衆愚政治、それではこんな言葉を言っている人々は賢者のつもりなのだろうか。そしてまた、ポピュリズム政党という言葉もある。昨今ではネット情報を通じて急伸してきた参政党を指すことが多いようだ。これも翻訳すると衆愚政党となり、支持者は愚民ということになるのだろうか。評論としても失礼きわまりないではないか。しかし、衆愚の衆の方に着目すれば、選挙民の中で圧倒的多数は衆である。今まではマスコミがかなりその衆をコントロールしていたし、そうしたマスコミの影響を受けた層が選挙に行っていたので、マスコミが選挙の動向を左右できた。それがネットの普及によって、マスコミのコントロールのきかない衆が動き出すようになったということが昨今の情勢ではないのだろうか。ポピュリズムという語がマスコミから聞こえてくるのは。自分の意のままにならない勢力が出てきたことに対するいらだちなのかもしれない。古代ギリシャでは民主主義の堕落した形態として衆愚政治をあげ、賢人政治こそが理想とされていたという。ただ、実際には賢人政治なるものがあったとしても、そんなものは理想にはならないだろう。賢人とても人間である。そうであるならば賢人政治があっても、それは賢人に都合の良い政治ということになるだけで、衆には辛いものであるにきまっている。マスコミが賢人であるかどうかは知らないが、賢人気取りであるのは間違いない。これからも、マスコミによるポピュリズム政党へのバッシングはつづくだろう。しかしまた、利口ぶってバッシングすればするほどポピュリズム政党への支持は伸びていくのかもしれない。例の女子アナの発言がかえって火に油をそそいだように。
2025年08月08日
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日本の人口は90万人と過去最高の減少を記録している。こうした人口減は日本以外の国でも起きており、東アジアだけでなく、あのインドも将来的には人口が減少に転じるのだという。一説にはイスラム圏では人口減がないという説があるのだが、マレーシアでも人口のピークアウトが予測されているので、文化とか宗教とかを超えた要因があるのかもしれない。閑話休題…であるが、最近、樋口一葉の小説を読んでいる。大昔に「にごりえ」と「たけくらべ」を読み、あまり面白くなかったという印象しかないのだが、今回、「うもれ木」や「やみ夜」などの初期作品を読むと非常に面白い。明治20年代の作品で、文章は美文調。私小説的なところはなく、さらに昔の時代の草紙のような物語である。別の言い方をしてしまうと俗っぽい。例えば「やみ夜」では零落した屋敷に住む美女と時流に乗って議員になった男、美女に忠誠を尽くす召使夫婦、美女をひたすら崇める貧しく天涯孤独な男というような人物を配して物語がすすむ。源氏物語のような王朝物語を遠い祖先にし、子孫には後年の少女小説、さらに下って少女漫画の系譜があるのではないか。これが「おおつごもり」になると、大衆小説的な人物配置は消え、チェーホフの短編にあるような貧しい人間の生活の素描のような趣になってくる。ただ主人公がぎりぎりまで追い詰められた後のどんでん返しはストーリー的にも面白いし、作者と一緒に主人公は今度どうなっていくのかと想像する楽しみがある。これから読む「たけくらべ」以降の作品群の感想はまた、書くつもりなのだが、樋口一葉、読んでみると想像以上に面白い…ということは大いに宣伝したい。
2025年08月07日
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地球温暖化というものはある閾値を超えると急速に進むものなのかもしれない。今年は6月から猛暑で、あの決まり文句「梅雨が明け本格的な夏を迎え…」という表現が使えなかったように思う。6月からすでに本格的な暑さであり、こうした酷暑は9月、場合によっては10月になっても続くのではないか。そして驚くべきは、西欧で日本以上の高温化が進んでいて、パリでも40度を記録したという。西欧といえば夏は涼しい印象で、明治期のお雇い外国人達は東京の猛暑を嫌って軽井沢などに行っていたのは有名な話だ。地球規模で進む高温化というのはこれからどこに向かうのだろうか。今日は広島の原爆投下の日であり、今でも被ばく死者の遺骨収集が続けられているという。原爆投下に先立つ3月には東京にも大空襲があった。炭化した遺体を積み上げている写真は残っているし、そうした遺体を車に積んで埋葬の場所に運んでいくのを見たという話もある。公園などに急遽埋葬したものと思うのだが、こうした空襲の死者についても、その後の遺骨収集や身元確認(無理な場合も多かったのだろうが)は行われているのだろうか。もしかしたら、東京をはじめ、全国のあちこちの公園や空き地だった場所で今でも空襲の死者の遺骨が知られることなく眠っているのかもしれない。殺人や自殺のあった事故物件といえば、あれほど騒ぐのに、一面の空襲のあった場所、そこでは多くの人々が死んだはずなのだが、こうした場所についてはあまり気にしないというのも不思議な感じがする。まあ、気にしても仕方がないということなのかもしれないのだが。今日が広島の原爆の日で9日には長崎の原爆の日がやってくる。そしてこの9日はソ連の対日参戦の日でもある。昭和天皇はこのソ連参戦の報を聞いてまもなく終戦の決断を下したという。おそらく多くの国民にとって、空襲や原爆の悲惨もさることながら、ソ連がやってくるというのも大きな恐怖だったのだろう。本当に地域限定の噂だったのかもしれないが、母は終戦時の思い出として、ソ連軍が上陸してもうすぐやってくるという噂があったことを怖そうに語っていた。
2025年08月06日
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年齢とともいろいろなことが変わってくるものなのだが、昔に比べて夢をみなくなったのもその一つだろう。願望という意味の夢はもちろんのこと、夜寝る間に見る夢もそうである。子供の頃はよく夢を見て、中には今でも覚えているものがある。だいたい、化け物に追われる夢や、どこかで一人ぼっちになる夢が多かったように思う。化け物の方であるが、想像力に乏しいのか化け物そのものがでてくることはほとんどない。ただ、家の中にお化けがいるということを知っていて逃げ出す。家の周囲には畑も沢山あったので、畑の畔をいっしょうけんめい歩き、ここまでくれば大丈夫かもしれないけど、まだ、不安だ。そう思っているうちに目が覚めてなんだ夢だったのかとなる。こんな夢は複数回みたように思う。化け物そのものがでてくることはない…と書いたが、一度だけそんな化け物がでてきたことがある。親戚の家で皆で炬燵に入っていると、一人(一匹?)だけお化けが仲間に入っている。あのカオナシのような感じなのだが、まったくの白いなにもない顔で、形はそら豆のような感じだ。子供はてんでに声を出して本を読んでいるのだが、そのお化けは大人のように黙って本を読んでいる。お化けがいるので怖いのだが、他の子供たちは、そこにそれがいるのは当然という様子で怖がっていない。子供の頃、大人が黙って本を読むのが不思議だったので、そんな夢になったのかもしれない。子供から見れば大人というのは不可解な存在だった。一人ぼっちになる夢では、両親と手をつないで夜の雑踏を歩いていると、父がみるみる縮んで座布団のような形の風船になったと思ったらパンと破裂し、次に母も同じように風船になって破裂してしまう。行き交う大人たちの脚の間でどうしてよいかわからなくなるという夢だった。考えてみれば親はいつまでも一緒にいるわけではない。それなのに、子供の時というのは自分はいつまでも子供でいるような気がしている。
2025年08月05日
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今回の参議院選挙での参政党の急伸については自民党の岩盤保守という層の票が流れたという説がある。LGBTや夫婦別姓に批判的な層が参政党支持に回ったと解するわけである。たしかにそうした面もあるであろう。ただ、LGBTの問題は日本ではさほど深刻とも思えないし、当事者は少数だ。夫婦別姓というのも、関心のある人には関心があるのかもしれないが、多くの人にとってはどうでもよい問題だろう。 むしろ、ネット情報での政党の発信が増えたことで、今まで政治に見捨てられていたと感じていた層が投票するようになったということが大きいのではないか。こうした層はマスコミの笛に踊るのではなく、隙間時間にネット情報を見て、大きな政治変動がありそうだと思えば、いわば、その歴史的瞬間に参加したいという感覚で投票所に向かう。だからであろうか。マスコミの扱いは参政党に冷たく、中には、支持者をうましか呼ばわりする輩までいるのだが、こうした態度は評論家としては命取りになるのではないか。 さて、こうしたネット情報で政治意識に目覚めた層については、参政党のほかにれいわ新選組という選択もあった。この二政党がネットでの発信という面で突出していて、ショート動画もわかりやすいものが多かったからだ。実際、参政党とれいわとの間で迷ったという有権者の話も聞くし、参政党躍進の背景にはれいわから流れた票もあったという説もある。参政党が躍進して、れいわが微増にとどまったのは、外国人移民に対する態度の浸透度合いがあったのではないか。参政党もれいわも移民政策には反対の立場であったが、それをより積極的に打ち出していたのは参政党であった。たしかに、参政党とれいわでは夫婦別姓や憲法に対する姿勢は違う。しかし、そうしたものは普通の有権者にとってはさほど関心事ではない。参政党の憲法草案は中学生でも笑うレベルだが、だれもあの憲法が実現するなんて思っていない。あれで離れた支持者はほとんどいなかったように思う。評論家は政党をすぐに右とか左、あるいは保守とかリベラルとかに分けたがるのだが、実際の投票行動では、こうした差異はあまり意味がなくなっているのではないか。
2025年08月04日
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短編小説の名手の短編集である。江戸時代を舞台に、ある作品では商人、ある作品では職人と様々な身分の者を主人公にして、なるほどこういう人物もいたかもしれないと思わせる筆致は見事である。起承転結がぴったりときまり、意表をつくすっきりとした終わり方という意味では「昔の仲間」がベストかもしれない。ただその一方で救いのないラストや、登場人物の心理がいまいちはっきりとしない物語もある。世の中は現実にはそんなものかもしれないし、現実にはそうしたことの方が多いのかもしれない。どこまでを虚とし、どこまでを実とするかは永遠の課題なのかもしれないが、エンタメだったら、もう少し都合よく運ぶ物語にしてもよいように思う。ただ、そうした物語でも、人物造形がしっかりとしているので、やはり最後まで読ませる。江戸時代が舞台ということで、そこはかとない江戸情緒もあり、そして舞台が江戸であるときには、これは今日のあのあたりだなんて想像してみるのも面白い。
2025年08月03日
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参議院議員選挙の帰趨は外国人問題が決したといっても間違いではないだろう。 外国人問題といっても、現実には外国人の流入に対する規制を強化しようというのであり、国内に合法的に住んでいる外国人を排斥したりするものではない。このあたりが参政党については「日本人ファースト」の言葉とともに、ねじまげられているように思う。外国人の流入といっても、国際結婚や専門技術職の流入に異を唱える人はいないので、実際には単純労働者の流入だろう。これについては、安倍政権のときに入管法の改正があり、大きく増えたことは事実だ。 企業にしてみれば低い待遇で働く外国人労働者が増えることは利益になる。一方で、リベラルといわれる中にも排外主義反対とか共生といった旗印で外国人の流入規制を強化することに反対している人がいる。そして外国人流入の規制強化を主張する人々をナチスだの極右だのといって叩く。冷酷な新自由主義とお花畑リベラルさんのコラボ…もうこの外国人単純労働力の流入については右だの左だのと分けるのはやめてはどうなのだろうか。 現実には欧州では移民政策の見直しが進んでいるが、すでに社会の分断が進み、正直、手遅れの感がある。多文化共生といっても、宗教風刺画をめぐっての殺人と被害者教師の国葬なんてことをやっている実態を見ると、現実に多文化共生に成功した国など存在しないようにみえる。たしかに外国人といっても、様々で中には10月からドラマ化される小泉八雲のような日本文化を豊かにする人物もいるだろう。けれども、多くの人はそうではないのが現実である。 次に参議院選挙で外国人が主要なテーマになったことについての議論をみてみると、ちょっと違うのではないかというものもある。 一つは外国人を叩く対象にして不満のはけ口にしたという説。これはナチスにとってのユダヤ人がまさにそうだったし、気分としてそれがあったということをいう人もいる。ただ、今の日本にはまだ移民スラムのようなものは形成されていない。外国人は脅威ではあっても、不満のはけ口になる対象とは違う。かつて郵便外勤や運転手などの公務員を叩き、生活保護バッシングを公約にできたのは、それが税金で給料や給付を得ている人々だったということが大きい。 もう一つの議論としては外国人が争点になったことでロスジェネの問題が霞んでしまったという説がある。外国人問題は最初はマスコミも与党も争点にしていなかった。それが参政党が急伸したことで、大きな争点になった。争点というものは政党と有権者のキャッチボールで決まっていくもので、政府与党が決めるわけでもなければ、マスコミが決めるものでもない。ロスジェネの問題は大きな問題であり、最初これを争点として提示したのは自民党で、その対策はまるで失笑ものであった。ならば、政府の提示した対策以上のものを公約として提示する政党があれば、ロスジェネ問題は立派に選挙の大争点になりえただろう。ただ、それをする政党がなかっただけである。
2025年08月02日
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