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あちこちで起きている熊被害を受けて政府は熊対策閣僚会議を開催したという。今までは山菜取りや登山などで、いわゆる熊の領域に入った人間が被害を受けたが、最近では住宅地に熊が出没するなど、むしろ熊が人間の領域に進出してきている。状況が変わってきたといってもよいだろう。ことは人々の安全に関する問題であり、こうした問題を猟友会という高齢のボランティア頼みにしている状況が異常であろう。むしろこうしたことは警察か自衛隊が主眼となって行うものではないのではないか。その意味で自衛隊の役割は箱罠の運搬だけというのは理解に苦しむ。ところで、普通に考えれば熊はできるだけ駆除すべきだと思うし、それはその熊が肉食だろうが草食だろうが関係ないだろう。装飾というのもたまたま今まで肉の味を知らないというだけのことなのだから。警察や自衛隊が野生動物駆除の訓練をしていないのであればそうした訓練を行えばよい。もともと、武器の扱いの訓練をしている公務員組織は警察や自衛隊しかいないし、猟銃などの新たな武器の扱いの訓練も、素人にゼロからやるよりはずっと効率的だろう。そしてまたちょうどこれからは冬眠の季節になる。冬眠中は駆除の機会であるともいえる。こうした熊駆除については、よく出てくる議論がある。一つは熊は絶滅させることはできないという議論である。絶滅できないということと駆除は無駄ということとは別の議論である。そしてまた、絶滅が可能であるとした場合、絶滅して困ることってあるのだろうか。鹿などが増えすぎることには別途対策をとればよい。九州は戦後になって熊の絶滅が確認されたというのだが、九州の人々は熊の移入を望んでいるのだろうか。もっといえば近年絶滅したニホンオオカミについて、ニホンオオカミがいた方がよかったと思っている人がどれくらいいるのだろうか。二つは熊よりもスズメバチ被害の方が多いという議論である。別種のものをだしてきて、こっちの方が重要だといった議論はレトリックとしてよく使われる。しかしこれも、スズメバチ被害の方が多いということは、熊被害について対策しなくてもよいということにはならない。全く別の話であるし、だいたいスズメバチ被害があったからといって学校が休校になったり、商業施設が閑古鳥がなくなんてことはない。最初に述べた熊対策閣僚会議には環境省も入っているという。なんで環境省なんだろうか。まあ、中学生や高校生同士の暴行、恐喝、障害などの犯罪事件もかたくなに学校の責任だの教育問題だのにしている国なので、熊被害も環境問題ということなのですかねえ。
2025年10月31日
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参政党はある種のマスコミからは極右とよばれているらしい。しかし、宮城県知事選での参政党代表の演説を聞くと内容は新自由主義批判、グローバル資本主義批判であり、これだけを聞くと左翼と思う人もいるだろう。かつての保守対革新、保守対リベラル、右翼対左翼と政治では様々な対立軸が語られ、「極右」だの「社会主義的」だのは相手を罵倒する言葉として使われている。しかし、極右という人もいる参政党の代表が新自由主義を批判しているように、単に右翼とか左翼とかいう対立軸ではものごとがとらえにくくなっているのではないか。あるHPでの引用で参政党の支持者について以下のようなコメントがあった。うちの参政党員の夫がそうなんだけど、何も成し遂げないまま中高年になってくるとアイデンティティの持ち場が日本人であることとか男性であることになるんだよ、楽だから「何も成し遂げないまま中高年になった」人々や「経済的に貧しい人々」、「知性の足りない人々」が極右に吸い寄せられるということは往々にして言われる。言っているのはいわゆるリベラルといった方々で、こうした層を支持基盤にする政党を、上から目線で不満層のルサンチマンを煽るポピュリズムだと批判する。しかし伝統的な意味での左翼であれば、その支持基盤は社会の中で成功した層ではなく、まさに「何も成し遂げないまま中高年になった人々」ではないのだろうか。ところが今のリベラルはそうした人々を上から見下すだけである。リベラルお得意のジェンダーとか夫婦別姓、LGBT差別反対、同性婚などの主張は能力主義によって個人を最大限にいかそうとするグローバル資本主義の主張に重なり、逆に、経済的弱者にとってはどうでもよい問題である。リベラルというのかどうかはわからないが、ある伝統的な左翼政党では、マルクスの著作を現代的に解釈した出版物を出したというがこれも想定している読者層はコアな支持者の高齢インテリ層だろう。こうして従来の保守からもリベラルからも見捨てられていた層をSNSというツールで覚醒させた新政党が参政党であり、れいわであるのかもしれない。参政党の「日本人ファースト」とれいわの「誰もが生きていてよかったと思える社会」は、両方とも同じ層にささるのではないか。
2025年10月27日
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多文化共生ということをよく聞く。たしかに文化は他の文化の刺激を受け、より良いものを生み出すということはよくあるし、日本文化も様々な外来文化の影響を受けて豊かなものになってきたことは周知のところだ。ところが、最近ではその多文化共生と多民族共生が同じような意味で使われている。しかし、文化の伝え手として少数の人がやってくるのと、それぞれの日常的な生活習慣や宗教を携えて大勢の人々がどっとやってくるのはまるで別の話だ。多文化共生は社会を豊かにするのかもしれないが、移民国家でもない国で多民族共生がうまくいっている国は残念ながら今のところない。ましてや見慣れない異人種となると、そういう人々に囲まれれば不安に思うのは当然のことだろう。英国に留学した漱石は英国紳士の中での自分を「群狼に伍するむく犬」と表現し、留学の時期を人生最悪の時期としていた。だからといって漱石を偏狭な人種差別主義者だなんていう人はいない。そしてまた、多文化共生というものは、目的ではなく、結果である。日本に外国人がやってきたり、外国に在留した日本人が外国の文化を持ち帰ったりすることにより、結果的に多文化共生となる。だから多文化共生のために多民族共生をしましょうという主張は二重におかしなものになっている。さらに言えば、多文化というが、その大きな部分は宗教である。日本では「わが仏尊し」とか「神仏習合」といった伝統があり、宗教紛争というのとは無縁である。外国人の宗教についても、好きにすればといった感覚があるのだが、現実には食材にも葬祭にも強い戒律をもつ宗教がある。土葬墓地など日本の風景を変えてしまうようなテーマだと思うし、それ以外にも、学校給食における食材の問題や日本国内で日本人が行う行為に対する「冒涜」の問題など、今まで予想もできない問題が日本国内で起きてくる可能性もある。そういう場合も「多文化共生」だからどんまい、どんまいというのだろうか。
2025年10月26日
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我々は労働力を呼んだがやってきたのは人間だったという有名な言葉がある。これはスイス人が50年以上前に言った言葉で当時問題になっていたのはイタリアからの移民だった。人間であれば、自分なりの幸せを求め、その人なりの価値観も人生観もある。愛する家族もあるし、よりどころになる宗教も持っていることもある。辛くて人の集まらない職種に当座の人員不足のために呼んだところで、いつまでもそんな仕事をしていたくないのは同じだろう。結局、人手不足というものの不足しているのは待遇が低く人がやりたがらない仕事だ。そこに人間を外から呼んでも解決策になるわけはない。世界にはいろいろな国があり、途上国には政情不安の国もある。期限がきたら帰国を義務づけたところで帰れないという場合もでてくるだろう。外国人労働者とは違うが日本にいる在日の方も半島の動乱で帰れなくなったという人が多いという。シンガポールのように厳密な出入国管理がどこまでできるかはわからないが、それでも、できるだけの出入国管理をすれば移民として社会を変えるような流入は起こらないかもしれない。移民の最後は骨を埋める…つまりその国で死を迎えることだろう。だから移民政策と墓地の問題は切り離せない。そこで問題となるのは土葬墓地である。外国人の中には宗教上の理由から土葬を必須としている場合もあるという。日本も昔は土葬が普通だった。しかし、それは火葬の設備がなかったというのが大きな理由ではないか。両親の実家の墓地にいったとき、ところどころ地面がぼこっと柔らかくなっているところがあり、それは土葬をしたところだという。土葬の場合には、たやすく墓地の整理もできないので、その影響は何十年も残る。また、土葬が普通だった昔は墓地にはときどき燐火が飛ぶのが見えたという。そういうものを見たいか見たくないかはともかくとして、土葬墓地は日本の風景を変えていくのではないか。外国人労働者を全く入れるなとかそういう議論をするつもりはない。けれども、労働力不足だから外国人を呼ぶにしても、やってくるのは人間だということを意識しておきたいものである。
2025年10月24日
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秋が短くいきなり冬になったような寒さがやってきた。ついこの間まで夏日だなんだのといっていたのが噓のように思う。こういう時期の雨を時雨というのだろう。時雨といえば二条院讃岐の「世にふるは くるしきものを 真木の屋に やすくもすぐる 初時雨かな」(新古今和歌集)という歌がある。歌にただよう寂しい無常観に心惹かれるものもあるが、一方でただ「降る」と「古る」をかけただけの歌のようにも思っていた。そしてまた、長いことこれを式子内親王の歌だと思い込んでいたことも白状する。あらためてこの歌を見ると、世にふることのくるしさと時雨を対比させている。時雨は季節を運ぶ雨で、季節の移ろいや時の流れを象徴するものでもある。どんなに苦しいことがあっても、時間は容赦なく過ぎ去っていく。時間とともに苦しみが減っていくのかそうでないかはそれは分らないけど…とにかく時間だけは止められない。作者は源頼政の娘で父の死後遊女になったという伝説があるが、それはあくまでも伝説で、歴史上の彼女は当時としては天寿を全うし、上流の女性としてまあまあ幸福な人生を生きた。ただ時代は源平の争乱から鎌倉幕府の成立と大きく動いた時期だ。方丈記の時代よりは少し前であるが、やはり天災、疫病といった災厄もあったであろう。多くの不条理な悲しみが世にあふれているのをみながら、それでも、時間だけは容赦なくすぎていくものよ…こんな感慨があったのかもしれない。令和の今の時代はそんな時代に比べればはるかにはるかにましであるのだが、時は動いていく。10年前には高市首相の誕生など夢にも思わなかった。米連邦議会立法調査官という肩書の華やかな女性がテレビによく出てくるようになって、いつのまにか議員になって…という印象しかない。極右という人もいるが、今や政治の対立軸は右とか左とかではないだろう。グローバリズムとアンチグローバリズム、そして積極財政と消極財政という枠で考えた方がわかりゃすい。もしも、貧困層の底上げあるいは格差の縮小を志向する立場を「左」というのであれば、それはアンチグローバリズムと積極財政の組み合わせしかない。そしてどこの国でも恵まれない層ほど既存の宗教や民族的神話に引き付けられるものなので、インテリ層を主要勢力とする「リベラル」とは距離が遠い。高市首相はテレビでみるかぎり、機会の平等を強調し、「生活保護は恥」と明言する議員を重用するなど弱者に冷たいように見受けられるが、実態はどうなのだろうか。とにかく時は容赦なく過ぎていく。いったい新政権が国家をどんな方向に率いていくのか見ていきたいと思う。
2025年10月23日
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戦後間もない小金井を舞台に五人の男女の心理を描いた小説である。大学教授秋山とその妻の道子、事業をやっている大野とその妻富子、そして復員してきた道子の従弟の勉が登場人物であるが、道子は貞淑でやさしい女性、富子は善良だがコケットな女性と対照的。男性も、秋山はプライド高く打算的、大野は鷹揚で社交的、勉は戦場の体験から屈折したところがあると、三者三様である。秋山と富子は不倫関係にあるが、富子と道子は勉を愛し、勉は道子を愛しているが、富子にも惹かれるものがある。恋愛といっても理想的な恋愛の描写はない。旅館の朝の描写では富子は秋山のいびきをきくとともに、朝の光でみる白髪や皺に気づく。秋山と道子は望み望まれて結婚したが、世間知らずの道子はなにかに夢中になりたかっただけだし、秋山は道子の家柄と財産も計算に入っていた。勉も優しい従姉の道子への恋に、反抗的な喜びを感じたのかもしれない。勉の自堕落な生活の描写もあり、彼もまた決して理想的人物ではない。登場人物の中で一番「いやな奴」は秋山であろう。自己の都合の良いように解釈した近代文学論で不倫を正当化し、道子に財産がなくなると、離婚を持ち出す。ここまでこうした人物の性格を生き生きと描いているのは、作者の身近にモデルがいたとしか思えない。五人の男女の愛憎劇なのだが、小説全体の雰囲気が爽やかなのは、題名のとおりその武蔵野の描写によるところが大きい。丘陵があり、はけという崖があり、湧水があり、川がある。昭和30年代以降に急速に宅地化する以前の武蔵野にはこんな雰囲気のところがあちこちにあったのだろう。自分もそんなところに育ったので、目の前の川からは蛙の鳴き声が聞こえ、森からは毎晩フクロウと声が聞こえてきた情景を思い出した。
2025年10月22日
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戦後間もない小金井を舞台に五人の男女の心理を描いた小説である。大学教授秋山とその妻の道子、事業をやっている大野とその妻富子、そして復員してきた道子の従弟の勉が登場人物であるが、道子は貞淑でやさしい女性、富子は善良だがコケットな女性と対照的。男性も、秋山はプライド高く打算的、大野は鷹揚で社交的、勉は戦場の体験から屈折したところがあると、三者三様である。秋山と富子は不倫関係にあるが、富子と道子は勉を愛し、勉は道子を愛しているが、富子にも惹かれるものがある。恋愛といっても理想的な恋愛の描写はない。旅館の朝の描写では愛、富子は秋山のいびきをきくとともに、朝の光でみる白髪や皺に気づく。秋山と道子は望み望まれて結婚したが、世間知らずの道子はなにかに夢中になりたかっただけだし、秋山は道子の家柄と財産も計算に入っていた。勉も戦場帰りの屈折した心境から、優しい従姉の道子への恋に、反抗的な喜びを感じたのかもしれない。勉の自堕落な生活の描写もあり、彼もまた決して理想的人物ではない。登場人物の中で一番「いやな奴」は秋山であろう。自己の都合の良いように解釈した近代文学論で不倫を正当化し、道子に財産がなくなると、離婚を持ち出す。ここまでこうした人物の性格を生き生きと描いているのは、作者の身近にモデルがいたとしか思えない。五人の男女の愛憎劇なのだが、小説全体の雰囲気が爽やかなのは、題名のとおりその武蔵野の描写によるところが大きい。丘陵があり、はけという崖があり、湧水があり、川がある。昭和30年代以降に急速に宅地化する以前の武蔵野にはこんな雰囲気のところがあちこちにあったのだろう。自分もそんなところに育ったので、目の前の川からは蛙の鳴き声が聞こえ、森からは毎晩フクロウと声が聞こえてきた情景を思い出した。
2025年10月22日
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このところの政局の動きはめまぐるしい。そんな動きをみながら何が醜悪だったかというと「数合わせの政権交代」の動きである。あたりまえなのだが、政権交代はあくまでも目的であって手段ではない。何を目指すということをあいまいにしたまま、政権交代ありきのような議論は意味不明だ。もちろん自民党がよいとは思わない。特に政治とカネの問題を野党は批判してやまない。ただこの政治とカネの問題は、国家の方向に影響を与えるような大問題とは思わないし、そこしか攻撃しないのは不毛だろう。そしてまた、自民党が下野するとなれば、総理は誰であれ、立憲民主党中心の政権になるのだが、先の参議院選挙でも見られるように、この政党が支持を伸ばしているわけではない。どうも立憲民主党はヌエのような政党で、自民党とさほど違わないような野田氏と旧社民党の辻元氏を並べると、いったいなぜこの二人が同じ政党にいるのかよくわからない。数合わせの政権交代にならなくてよかった。戦後の政治を見てみると、しばらくは自民社会の二大政党の対峙が続き、それは保守対革新の対立といわれた。社会党は戦後の一時期を除き政権をとれずに、長期低落傾向を続けていたが、それは、自民党政権の下で国民が次第に豊かになり、格差も縮小していったからではないか。岸信介といえば改憲、田中角栄といえば金権政治のようなイメージばかりが語られるが、岸信介が貧困追放を掲げ、田中角栄が福祉元年を唱えていたことを忘れてはならない。まさかの社会党の首相が誕生し、その後、社会党が凋落してからは政治の対立は保守対リベラルになった。しかし、このリベラルというのはわかりにくい。選択的夫婦別姓、ジェンダー、LGBT差別反対、同性婚など普通の国民にはどうでもよい問題ではないか。その一方で、現に問題になっている外国人集住による治安悪化や住民不安については、リベラルと称する勢力は「差別反対」「ヘイト反対」という一般論しか語らない。最近、SNSを通じて、今まで投票しなかった層を含めて、支持を拡大させている小政党があり、マスコミはこうした小政党に対してポピュリズムといった冷ややかな目を向けている。しかしこうした小政党の躍進の背景には、保守対リベラルといった既成の大政党で掬いきれなかった民意があるからではないか。保守対リベラルでは掬いきれない対立軸として、グローバリズム対アンチグローバリズムというのも大きな軸のように思う。もちろんアンチグローバリズムといっても、外国人を一切入れないとか外国人を排斥するということではなく、国内で労働力をまかなうことを、どこまで考えるかという順序の問題なのかもしれないが…。それでも、グローバル資本主義の立場を奉じる政権党にしてみれば、SNSを通じた草の根小政党の躍進は脅威なのだろう。マスコミは制御できるが、SNSは制御できないものなのだから。
2025年10月21日
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維新と自民が合意したという比例定数の削減は新興政党つぶしだろう。もちろん古い政党でも比例でようやく残っているところもあるのだが、そうしたものは制度をいじろうがどうしようがいずれは消えていく。脅威となるのはSNSを使い、今まで投票しなかった層にも訴えかけている政党である。具体的に言えば参政党やれいわであろうが、特に参政党は急伸しており、今度も増加が予想される。それではこうした新興政党の何がそんなに脅威なのだろうか。思うにこうした政党が外国人労働者の流入制限を主張していることなのではないか。この外国人労働者の流入については、従来の右とか左、保守とかリベラルといった色分けでは律しきれないところがある。グローバル資本主義は企業の利益を最大化するために安い労働力としての外国人労働者の受け入れには積極的である。現政権もインドとの間にIT労働者受入れの話を進めているという。普通に考えれば、教育政策あるいは職業訓練で日本人のIT技術者の養成を考えるべきなのだが、いきなりインド人何千人である。また大政党の立憲民主党も多文化共生の旗印の下、外国人が働きたくなる国を目指すのだといい、外国人労働力の流入には肯定的なようだ。そうなると、参政党のような政党が、このまま日本が多人種多民族社会になってもよいのだろうかと考える人々の受け皿となって伸長を続けることになるのだが、それはグローバル資本主義を報じる自民や維新にとっては大問題だ。その両政党の利害が一致したところが比例代表を中心とした定数削減ということではないのだろうか。この両政党のタッグによって日本は大きく多人種多民族社会につきすすむことになるように思う。もちろん比例代表には小選挙区で落ちた議員の復活とか、支持の少ない議員の当選といった問題も指摘される。しかし、前者については重複立候補の禁止などで対処できるし、後者についてはそうした人物を名簿に入れることにより、その政党は比例票自体を減らしているという解釈もできる。こうした問題はいずれも比例区自体を減少させるということには結びつかない問題であろう。
2025年10月20日
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政局はめまぐるしく変わる。公明が自公連立から離反したと思ったら、今度は維新が自民と接近している。この二党のテーマが議員定数削減である。様々なコメントや評論などを見ても、日本では議員が多すぎるとか、国会議員定数を削減すべきだといった議論は多い。中には身を切る改革イコール議員数削減といわんばかりの議論もある。しかしどうなのだろうか。国民目線では国民が国家の方向に影響を与えうる最大の武器は参政権であろう。議員定数削減というのは、その参政権の価値を減ずるものではないか。そしてまた議員定数を減らせば歳費等の支出は減少するのかもしれないが、それとても、国家全体の支出の中ではどうでもよいもので、これで税金が安くなるなどというものではない。この議員定数削減の議論でまっさきに議論となるのは比例区である。たしかに小選挙区で直接本人の名前で票をとれない議員が当選するのはおかしいという議論はわからんでもない。しかし、小選挙区というものは膨大な死票を生むのに対し、比例代表制は民意を鋭敏に反映する。先の参議院選挙でマスコミも大政党も問題視していなかった外国人流入の問題をテーマに据えた小政党が急伸したのも主にこの比例代表の部分であった。比例区の削減というのは大政党以外に極めて不利になる。その内容の良いとか悪いとかではなく、民意を鋭敏に反映する部分も選挙制度には必要である。それにしても、議員定数の問題は個々の議員の政治生命に直結する。自民と維新の接近、そして比例区の削減に危機感を覚える議員は自民の中にも維新の中にもいることだろう。執行部だけの協議が足元の造反に結びつくおそれもあるのかもしれない。
2025年10月19日
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大岡正平の武蔵野夫人を読み始めた。終戦後まもない武蔵野を舞台にした物語なのだが、子供の頃の育った町の情景と重なっているようで懐かしい。小説の背景となる時期よりはやや遅れるが、昭和30年代は急速に田舎から都会に人が集まってきた時期だった。宅地化は最初は野原、次は雑木林、そして畑、そして田んぼの順だったのではないか。育った家はもとは畑だったのではないかと思う。目の前には田んぼが広がり、住宅地となった一画を除くと畑が残っていた。家の前には小さな川が流れ、夜にはフクロウの鳴き声が聞こえてきた。小学校に入るとクラスの半分くらいは農家の家の子で、遊びに行くと鶏などを飼っていた。しょっちゅう転校生がやってきて、中には炭鉱離職者の子もいたなどはやはり時代だろう。子供はどこにいても大勢いて路地には子供がたいてい群れをなしていた。逆に老人は少なく、〇〇ちのおじいちゃんといえば近所の子供はたいてい知っていた。老人は田舎にいるものだと子供心に思っていたように思う。住宅地では近所付き合いは極めて盛んでなぜか近隣の家の夫婦はどこの県の出身だとか、どこに勤めているかなどということは皆知っていた。今では考えられないことである。冷蔵庫は家にまだなかったので、おつかいは子供の仕事だった。母が夕食の準備をするためには、子供がその日の食材を買わなければならなかった。お使いに限らず、当時は母の仕事も大変で子供の手伝いは他にもあった。例えば、セーターはサイズが小さくなると毛糸にほどいて編みなおしていたので、腕を広げてほどいた毛糸を受け止めるのも子供の役割だった。テレビはあっという間に、そして電気洗濯機も冷蔵庫次第に普及していき、生活は変わっていった。ある日、目の前の一面の田んぼが宅地に造成されはじめたのは今でも記憶に残っている。そのころにはそんな大規模な住宅地があちこちにできた頃で転校生はますます増えていき、クラスが増設され、小学校も増えていった。中学も新規開校されたため、学年の半分くらいは新規開設の中学校に移っていったが、それでも、転校生がやってきたために、クラス数はあまり変わらなかった。農家の子は少数派になったものの、そのころには皆けっこうな資産家になっていたようだ。高校に入るころには、都内はほぼ開発されつくされ、電車で郊外に行くと、車窓からひな壇のように土地が造成されている光景がよくみられた。住宅地は郊外へ、郊外へと広がっていき、皆が庭付きの一戸建てを求めていた。一方で農家の嫁不足は社会問題にもなっていて、嫁飢饉なる言葉もあった。まあ、今は昔、そんな時代もあったということである。
2025年10月17日
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新聞の付録で昔のテレビ欄を見た。昭和30年代、そして40年代くらいまではゴールデンタイムにはたいてい子供番組をやっていたのをみて今昔の感がする。ゴールデンタイムだけではない。母親が夕食の準備をする時間帯にも小さな子が夢中になってみるようなヒーローものがあった。そうしたものがなくなったのも少子化の影響なのかもしれないし、その少ない子供達も昔なら母親が夕食の準備を始めるような時間は保育園にいることが増えたせいなのかもしれない。少子高齢化を見据えて子供の娯楽は減り大人の娯楽需要は増えるという予測があった。たしかに子供向けのテレビ番組が減ったのは事実だが、この予測は当たっていない。スキー、ゴルフ、パチンコなど大人の遊びとされるものはいずれも需要が減っているが、もともとは子供向けに作られた鬼滅の刃などは大人気だ。ガチャポンも子供向けのように見えるのだが、むしろ大人が買っている。大昔はアニメは子供のものと決まっていたが、今ではアニメファンの中心は40代で20代はアニメ離れをしているという話もある。そういえばアニメを見るのを邪魔されたといって両親を殺害した60歳の無職男もいた。結局のところ、大人の遊びはすたれ、もともとは子供向けのものが大きく対象年齢を上にシフトさせているということなのだろうか。テレビといえばもう一つ、二時間サスペンスというものもなくなった。どうも製作費のわりに広告効果が薄いということが背景にあるようで、高齢者(昔は若者の方が高齢者よりも購買力があった)ばかり見るというので時代劇がすたれていったのと同じ現象だろう。そしてまた、今日では好きな映画やドラマをネットでみることができるので、テレビの前でドラマにかぶりつく時代でもないのかもしれない。それでは今のテレビはどうかというと、ものを食べる番組だとかちょっと変わった生活をしている一般人を紹介する番組だとか、身近にいれば変な人としか思えないタレントをひな壇に並べて笑わせるバラエティ番組しかない。これではテレビ離れもむべなるかなである。報道番組もコメンテーターがあたりさわりのないことをいうばかりで、時間つぶしとしか思えない。新聞は部数が激減しているというのだが、テレビもあまり将来はないように思う。
2025年10月15日
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1962年に刊行された草創期のSF小説である。今でこそSFは小説の重要ジャンルだが、最初の頃はややマニアックな分野とされていた。しかし、これもどこまでをSFというかで、あるSF小説全集には、「銀河鉄道の夜」や「山月記」も収録されていた。たしかにありえない事件や非日常的な光景を描いたものをSFというのならこうしたものもSFだろう。一説によるとSFとファンタジーの境は科学的にもっともらしい説明があるかどうかという人もいるが、そもそもありえない事件に科学的な説明をするなど不可能である。もっともらしい説明があるものもあるが、こうしたものは専門家からみれば噴飯もので、SF作家には意外と科学の専門家が少ないのもそれゆえだろう。本書はタイムトラベルや恒星間飛行もテーマになっており、その説明もけっこう分量をとって書いてあるのだが、このあたりは読み飛ばしてもよいように思う。最近では、いや最近のSFに詳しいわけでもないのだが、こうした科学的な、というよりも科学の匂いがするもっともらしい説明はなくなっているように思う。舞台は未来の世界なのだが、テーマは核戦争、そして登場人物は戦前の軍人風、得体のしれない敵の攻撃で廃墟と化していく街の描写にはまぎれもなく先の大戦が反映されている。最後に攻撃が止み、再建に励む人々の描写では、昔から天災に慣れてきた日本人は復興に取り組むのも早かったという趣旨の記述があり、妙に納得する。多くの都市が空襲や核兵器で焦土と化したが、戦後の日本では反米感情というのはあまりなかった。子供の頃のアメリカのイメージも豊かで陽気な国であり、爆弾を落とした悪い奴らというイメージはないし、漫画にはアメリカかぶれのキャラまでもあったくらいだ。日本人にとっては空襲被害は天災のような感覚だったのだろう。ジャンルはSFなのだが、読んでみると、昭和30年代の雰囲気が濃厚にただよう懐かしい小説という感じがする。
2025年10月14日
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かつて教育問題を語るときに必ずでてくる議論があった。「日本人は独創性がない。暗記中心の詰め込み教育の弊害だ」という問題提起である。そうした議論をさんざん聞いたせいか、暗記中心や知識詰込みをどこか軽視する雰囲気もあったように思う。こうした議論の背景には日本人のノーベル賞受賞者の少なさがあった。日本人の中でも自虐的に日本の近代化は欧米の猿真似だという人もいたし、たしかに目に付く発明や発見はその多くが欧米人の頭脳によるものであったので、それもそうかなと思う人も多かった。ところが…である。自然科学系のノーベル賞受賞者の国別推移を見ると、2000年以降に日本人の受賞者が出たこともあり、米国、英国、ドイツ、フランスに次いで5位となっている。これをさらに今世紀に入ってからの受賞者で見ると米国の91人に次ぎ、英国と並ぶ2位となる。日本ってこんなに傑出した頭脳を輩出する国だったのかと不思議な気がする。たしかに江戸時代の庶民の識字率は高かったし、和算が娯楽として普及していたという話を聞くと江戸時代の方が今よりも頭がよかったのではないかと思ったりもする。そういえば江戸時代に確立した俳句も一瞬の発見を五七五にまとめる知的遊戯といった趣もある。そうした面を見れば日本にも知的な土壌はかなりあるのかもしれないが、一方で、日本人の知的水準は低いのではないかと思うこともある。それは絶望的な語学力である。外国人観光客が英語を全く話そうとしない観光地の店員に怒っているコメントを見たことがある。これだけ国際化が進んでも、日本人の英語力が向上したという話はあまりきかない。日本語は難しいというのだが、逆にコンビニ店員の外国人など、日本語でいくつもの操作をこなしているので、どうやら外国人が日本語を学ぶよりも日本人が外国語を学ぶハードルの方が高いのではないか。これは、絶望的といってよいくらいの日本語の発音の単純さが背景にあり、知的水準とはあまり関係ないのかもしれないが、なんとかならないものかと思う。
2025年10月13日
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言葉は時代とともに変わっていく。特に今のように時流の変化の激しいときには、次々と新しい言葉が生まれ、次々と言葉が消えていく。流行語大賞というのが毎年発表されるが、最近の流行語は聞いてもわからないものが多い。マスコミが流行らせようとしただけで実態は流行っていない言葉もあるのではないか。本物の流行語の中には流行語に終わらず、新語彙として定着するものもある。消えた言葉について考えてみる。かつては女性の多くは稼ぎのよい旦那を見つけて専業主婦になることを夢見ていた。そんな専業主婦の趣味や社交の場としてカルチャーセンターなるものがうまれ、そのカルチャーセンターの広告には「よくぞ女に生まれたり」なんてのがあった。今はカルチャーセンターの受講生も高齢者ばかりで、産業としては衰退産業なのかもしれない。今、もし、娘が夢は専業主婦などといったら、親はきっともうそんな時代ではないと𠮟責するのではないか。そしてそんな過去の時代にあった言葉も死語になっている。オールドミス、クリスマスケーキ花嫁修業、腰掛OL、お茶くみ、職場の花そしてまた、かつては女がやるのが珍しく特殊だった時代の女性に特化した言葉も消えている。例えばキャリアウーマンとか女流文学といった言葉である。まあ、バリキャリという言葉はあるけど、普通に働くのは今では当たり前だし、女性が小説を書いたからと言って男性と別ジャンルのものが出てくるわけではない。そのほか、形容詞や形容動詞でも新語があるがこれって本当に流行っているのだろうか。エモいとかチルいとかいう言葉である。英語由来の言葉のようだが、形容詞は語感にあっていなければ定着しない。その点でどうも語感と意味にずれがあるように思う。その点、同じ英語由来でもエロいとかミスるといった語は語感にあっていて定着している。
2025年10月12日
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アマプラで見た映画である。昭和40年代の在日韓国人一家の物語であるが、父母の下に子供達がいて、娘達はそれぞれの伴侶とともに旅立っていく。このあたり、あの「屋根の上のバイオリン弾き」とよく似ている。それぞれに悩み巣立っていく子供を見守るがんこな父親像というのも共通している。「明日はいいことがきっとある」というのが焼き肉ドラゴンの父親の口癖であり、貧しい中を明るく生きる父親像には共鳴する人も多いだろう。演じたのは韓国ドラマで脇役でよく見る俳優なのだが、完璧に在日の焼き肉屋の親父を演じている。その昔、日本が韓国に比べてずっと豊かだった時代にはたしかに在日差別があった。映画にあるような進学校でのいじめの実態についても話をきいたことがある。今のように韓国ドラマが人気で韓流タレントがくると大騒ぎになる時代は当時は想像もできなかったし、それをいうなら、多くのアジアの国から日本に観光旅行にやってくるなんてのも考えられなかった。そしてまた思う。人の移動が活発になっていけば、故国を離れて異国で家庭を持つ人も増えていくが、そうした人々の多くは故国に戻らないし、戻ることができない。映画の主人公も故国の動乱を逃れて日本にいたわけだが、世界には政情不安な国は多い。いったん外国から入れたら、それはずっと日本に定着するものと考えた方がよい。欧米でも移民制限という動きがあるが、すでに他民族多人種社会となったものは決して元に戻らないだろう。参政権は別の議論なのだが、いったん定住した外国人を差別するのは問題であるし、生活保護にしても、日本に定住している人が外国人であれ日本人であれ餓死したり自暴自棄になるような社会は望まないだろう。外国人の入国制限の議論と定住している外国人を差別しろという議論は話が別である。ある県では県主催で某国からのIT人材を採用するためのセミナーが開催されたという。IT人材の不足はわかるが、それではなぜ日本人のIT技術者を養成する政策を行わないのだろうか。四則計算を教えるようなFラン大学をぼこぼこつくって補助金を撒いているくらいなら、そうしたところに金を使うべきではないのだろうか。IT人材の不足は前々からいわれていたし、その某国にしても一流の人材は欧米にいくだろう。「在日」でも昔は差別といった問題があった。今では、日本の社会にとけこんでいるようにみえる。ただそれは文化的に近いからであって、地球を半周したところから来た人々が同じであるとは思えない。
2025年10月11日
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昨日もまた日本人のノーベル賞受賞者がでた。いかつい顔の方で気難しいのかなと思っていたがインタビューを聞くとユーモアと滋味あふれる内容で、これもまたよい。だいたい人間は不公平なもので、ピンもいればキリもいる哀しさよ…。これであとは平和賞、文学賞、経済学賞なのだが、いつも思うのだが、平和賞と文学賞はノーベル賞と別区分にした方がよいのではないか。価値がないというわけではないが、平和賞は政治的色彩が強すぎる。そしてまた、文学賞は日本特有なのかもしれないが、ほぼ毎年恒例の本屋の祭りと化している。だいたいニルスの不思議な旅で知られるラーゲルレーブが受賞していて、同時代に生きていたはずのトルストイが貰っていないのは変だと思うだろう。それに英国首相のチャーチルも文学賞を受賞しているのだが、彼の著書を現在、文学として読む人がどれくらいいるのだろうか。文学については、自然科学と違い、だれでも語れるのだが、正直文学賞を受賞している「百年の孤独」は読んでみたが正直どこがよいのかわからない。いや、それをいうのなら村上春樹のよさもわからないのだが。それはそうとして日本人歴代受賞者には現在は米国籍であっても、もともとは日本国籍だった人も数えている。それはそれでよいのであるが、チャールズ・ぺダーセンについては、日本名でないこともあってあまり知られていない。安井良男という日本名もあり、1987年に化学賞を受賞している。1904年、ノルウェー人の父と豆や蚕の貿易に携わっていた日本人の母との間に朝鮮半島で生まれ、8歳まで朝鮮半島で過ごしたのち、日本に渡り、その後、化学を学ぶために渡米している。日本に所縁のある受賞者である。
2025年10月09日
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日本からノーベル賞受賞者がでた。自然科学系部門の受賞者はある意味国家のステイタスといったところもあるので、手放しで喜ばしいニュースだろう。今回の受賞者は夫人も同分野の研究者として貢献をしており、今でも夫婦そろって現役の研究者として活躍している。「青春真っただ中」という夫人の言葉もまぶしい。その昔、平安時代の人々は、自分の不幸な運命を嘆く場合だけでなく、限りなく素晴らしい天分や資質に恵まれ、幸福に生きている人を「いかなる宿世にやあらむ」といったという。いってみれば前世でどんなよい行いをすればああなれるのだろうかといったところだ。閑話休題。人間には頂点もあればその逆もある。東南アジアで特殊詐欺グループに関与していた連中が検挙された。中には大使館に助けを求めてきた人もいたという。騙されたという見方もできるが、海外で楽して稼げる仕事は往々にしてまずいものだというくらいの知識はあっただろう。知性や品性は話し方にも出るものなので、特殊詐欺のかけ子といえども、全くのうましかでは務まらない。鬱屈をかかえた人間が今の人生を変える手段として海外での仕事にとびつくような心理があったのかもしれない。そういえば、町田にも、不満を募らせ、見ず知らずの人を殺害した男がいた。人を殺して人生を終わらせたかった…と語っているが、彼もまた、不満だらけの今の人生から逃れたかったのだろう。人生いろいろ世の中いろいろだ。
2025年10月08日
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静岡県が「日本一の多文化共生県」をめざしてシンボルマークを作ったという。世の中には誰も反対しにくい綺麗な言葉というものがある。多文化とか多様性もそうだし、共生というのはもっとそうだろう。しかし、具体的に考えてみると、この多文化共生というのは異なる民族、異なる人種が互いの文化や価値観を尊重しながら仲良く暮らすということである。静岡の方はそんなに多文化を背負った多人種、他民族の方と共存したいのだろうか。どうもよくわからないことである。もちろん静岡にも人手不足に悩む工場等はあって、そういうところでは外国人労働力大歓迎なのかもしれないけど…。抽象的に多文化共生といっていても、具体的に外国人がどっとやってくるというイメージを描くとそうもいっていられなくなる。例のホームタウン構想はそれ自体はたしかにいきなり多くの外国人がやってくるといったものではなく、その意味では誤解だったのだが、それでも、具体的な国名が上がったことで、将来的には西欧のような多人種社会になるのではないかといった不安を触発したのだろう。識者の中には日本に日本人しかいないのは異様だとか言う人もいるのだが、多くの人は西欧のような多人種社会になることは望まないのではないのだろうか。だいたい陸続きで多くの人種や民族が行き来していたヨーロッパと日本とでは状況が異なる。多文化共生などという抽象的な言葉を使うと、お上品な外国人とお互いの国の料理を教えあったりといった美しい情景を想像する。小説「細雪」にドイツ人家族と主人公家族の交流が描かれる場面があるが、明治以来の美しい交流イメージである。しかし、現実には途上国の単純労働者がどっとやってきて、彼我の習慣の違いからいろいろと軋轢を起こしたり、治安の不安を引き起こしたりということが実態であるし、それが現に西欧で起きていることである。それでも人々は「日本一の多文化共生」を望むのだろうか。
2025年10月07日
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万博で展示された人間洗濯機が実用化されるという。商品のネーミングとしてはどうかと思うが、こうした機器が最初はホテルなどであっても、ゆくゆくは介護施設で導入されるようになれば、介護の職場環境も随分と変わっていくであろう。介護で一番大変なのは入浴介護と排泄介護なのだが、これがこうした介護の場で使われるようになれば労働環境は大幅に改善され、人手不足解消にも資するのではないか。この入浴介護や排泄介護というのは介護者にも負担なのだが、被介護者にとっても大きな精神的負担であり、排泄介護を受けるようになってから痴呆が急速に進んだという話もよく聞く。日本がかつて一人勝ちともいわれるほどに繁栄した背景として、西欧が外国人労働者を入れていた時期に日本ではロボットによる省力化を進めたということがいわれた。介護についても、「安い労働力」ばかりを探すのでなく、機器による省力化も進めるべきではないのだろうか。介護をめぐる環境変化は機器だけではない。かつては介護は家庭内で行われるのが普通であった。高齢者の三世代世帯同居が普通で、介護が嫁(死語?)や娘の手で行われた時代には、政治家の中でもこうした家族形態は「日本の含み資産」であるとか「日本型福祉社会」であるとかいう人もいた。こんな話は今は昔である。この時期は医療も今ほど発達していなかったので、介護期間もそれほど長期にならなかったし、旧民法の風習も残っていたので、特に農村では、親の面倒をみた子供夫婦に財産を集中的に相続させるのこともよくあった。今では、寄与分という制度があるが、これは実際のところどの程度運用されているのだろうか。家族介護は過去のものになったようにも見えるが、最近では、成人した未婚の子が老親と同居するという昭和期にはあまりなかった形態の家族が激増している。こうした場合、同居する未婚の子が親と同居し介護するという例も増えていると思うのだが、このような場合、介護をしていた子供を相続や税制で優遇するような制度、あるいは家庭で老親を介護する子供に対する支援のようなことは考えられないのだろうか。昔々は家庭で義父母を介護している嫁に「模範嫁」として給付金を出す制度があったという。さらに、衛生用品や医療の変化もある。大人用の紙おむつ市場は乳児用をすでに抜いており、中には下着に類似したものも出てきている。こうしたものの普及や認知症予防医療の普及、関節手術などによる健康寿命の伸長…こうしたものも介護環境の変化や介護需要の減少に貢献するのかもしれない。
2025年10月06日
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町田で通り魔事件が起きた。被害者は高齢女性で襲われる前の映像を見ると、みるからに歩行が困難な様子で、あれで買い物袋をもったまま後ろから襲われれば、まず助からないだろう。犯人の風貌を見ると、苦労したといった感じで、甘やかされたひきこもりという感じとは違う。報道では大学を卒業した後、最初の会社を辞め、その後は派遣などの仕事を転々としていたという。両親が取材に答えていたが、両親もおそらくは年金暮らしで、息子が自立しなければ生活がなりたたなかったのだろう。8050問題とか7040問題とかいうが、最良の解決策はとにかくつきはなしても自立させることしかない。いわゆる「引き出し屋」というのも世の中にはあるそうであるが、親の監護権の及ぶ未成年ならともかくとして、成人を本人の意図に反して引き出すのは拉致監禁罪で場合によれば親も同罪になる。この両親が経済的事情もあったのかもしれないが、息子と別居して別に暮らしていたのは正解で、この事件にかぎらないが、成人した子供の起こした犯罪で親を責めるのは筋違いというものだろう。詳細は分からないのだが、犯人の立場で考えてみる。大学を出て最初の会社を辞めた後は職を転々としていたようだが、いったん会社を辞めるとなかなか安定した職に就けないのが現実である。「貧困の滑り台社会」ともいわれる。犯人は氷河期世代よりはわずかに後だが、氷河期を過ぎたとしても就職が急によくなったというわけではない。派遣やアルバイトとして命令系統の最下層として仕事をこなしているうちに自分も年齢を重ね、周囲の人々は自分と同年配や自分よりも年下になっていく。そして年齢とともに、将来の希望も次第に薄れていく。42歳が男の厄年といわれるのは、そろそろ人生の先がみえてきて、焦りを感じるのがこのくらいの年齢だからだろう。氷河期世代が生まれた頃からこうした犯罪の頻発は予見されていた。昨日、自民党の総裁が決まった。「解雇規制の緩和」を言っていた小泉氏が総裁にならないで本当によかった。解雇規制の緩和は財界がつとに要望してきたことだが、これによって、辞めても次の就職がしやすくなるということは決してない。今でも、次のステップに向けての転職なら自由に行えるし、別に会社が社員を羽交い絞めにしているということもないのだから。解雇規制を緩和して現実に起きることは、現在の正規社員もまた非正規同様の境遇に落ち、社会はますます住みにくくなるということではないか。
2025年10月05日
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世の中には誰もが反対できない建前の議論というものがある。民主主義はよいものだというのもそうした議論のはずなのだが、今度の選挙結果については、知識のない奴は投票に行くなのような、民主主義に真っ向から対立するコメントを出した識者がいた。普通なら大問題になり、言論界からも放逐されるかと思ったのだが、マスコミからの追及はなく、無事にすんでいる。どこまでがOKでどこからがNGかはわかりにくい。また、人種差別はけしからんというのも当然のこととして受け入れられている。ただそうした人種差別は許せないということとは別に、自分の生活圏に異人種の集団がいたらなんとなく不安だという感覚はあるのではないか。明治期の文豪は英国に留学して異人種の中で暮らす気持ちを「群狼に伍する一匹のむく犬」と表現している。まあ、そんな立派な人の感想とはくらぶべくもないのだが、家から出たら、体格のよい外国人ばかりというのはどうなのだろうか。実際の犯罪率が同じような地域に比べて多いかどうかはともかくとして、不安に思う住民の感覚を「人種差別」としてきってすてることはできないのではないか。それとはちょっと違うが、ジェンダー平等ということも今では反論しにくい議論になっている。男女の固定的な役割分担を見直すことがよいこととされ、難関理系国立大学入試の女子優遇や各分野での女性登用も進んでいる。これは逆に言えば、昔のような人生観を持つ女性にとっては厳しい時代でもあるわけなのだが、あまり大きな声で反論もしづらい。先の参議院選挙では参政党が大きく伸びた。外国人が増えていることを何となく不安だと思う感覚とジェンダー平等に違和感を持つ人々の感性にうまくフィットしたことが背景にあるのだろう。参政党は移民政策には明確に反対をしているだけでなく、ジェンダーについても保守的な主張をしているようにみえる。そして参政党の支持者にも議員にも案外と女性が多いという。
2025年10月01日
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