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すぐれた小説というものについて考えてみる。これには、いくつかの要素があり、独断で言ってしまえば文体、筋書き、描写ではないかと思う。文体というのは、読みやすいかどうかであり、名手の文章は非常に読みやすい。まあ、名はあげないが、あたりまえの処世訓を書いたような本があり、そうしたものを読むとたいてい時間と金の無駄をしたように思うのだが、ただ、こうした本というのは非常に読みやすい文章で書かれている。乗り物の中でよむのは最適だし、読んだ後にはなにかためになることを学んだ気になる。老年になったら友達と健康が重要だとか、まあ、それができれば苦労はないといった内容であってもだ。この読みやすいというのは日本語なら、あたりまえのようなのだが、自費出版の本では、このあたりがそうでもないものが多い。読ませる文章を書くというのはなかなか敷居の高いもののように思う。次に筋書きなのだが、よく起承転結ということが言われる。世にある短編集でも、意表を突き、後味もよいおちの部分、つまり結が素晴らしいというものばかりではないのだが、それでも、多くは起承転結は踏まえているので、最後まであきさせない。この起承転結は純文学ではないものもあるが、エンターテインメントでは欠かせないだろう。最後に描写であるが、人物描写や情景描写がうまいと傑作になりうる。名手の短編では、こうした人物描写がよくできていて、実際にこうした人物がいるのではないかと思わせるし、目の前に情景が浮かぶような表現も豊富である。さらに、気の利いた警句や名セリフがあれば文句なしに後世にのこるだろう。なぜこんなことを書くかというと、最近、短編小説の公募サイトがあり、自分でも書いてみようという「野望」があるからだ。長いものは無理でも2000字くらいならなんとかなるように思う。思うのだが…上記のようなことを考えてみると、結局は難しいだろうなあ。
2025年07月31日
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ある景勝地に行ったときのことである。案内板に白テープが貼ってあったので、なんだろうと思いそっと剥がしてみたところ、「男性的な海岸美」という箇所の「男性的な」という部分が隠されていたのであった。もちろんテープは元通りにしておいたが、昨今では景観を表すのにも男性的とか女性的というのは使ってはいけないことになっているらしい。そのうち筑波山の男峰とか女峰、あちこちにある男坂、女坂という表現もなくなるのだろうか。それはさておき、「女々しい」とか「雄々しい」、あるいは「女の腐ったような」という表現は急速になくなっている。昨今の腐女子というのは全く別の意味である。こうした形容詞に限らず、男性とか女性に関する言葉は急に聞かなくなっている。女流作家とか女流文学は、平安朝などの文学史でしか聞かないし、女子教育というのもあまり聞かない。書くものや学ぶことの内容に、男女で違いがあるとも思えず、こうした言葉が消えてゆくのも当然だろう。このほか国際化を反映してか、外人とか肌色という言葉も公的には使わなくなっているという。外人というのは単なる外国人ではなく、一見してわかる外国人をいうことが多いのだが、こうした区別自体が差別的なのだろう。明治期には異人という言葉があり、童謡の赤い靴ではこの言葉がでてくるのだが、学校ではどう教えているのだろう。なお、当然にどこの国の言葉にも特定の外国人に対する蔑称があるものだが、これは公的な場ではもちろん正式な辞書にも載っていない。ただ、これもNHKの終戦記念日の特集番組で戦争の思い出を語る部分があり、語り手の老人が語る「〇〇〇が攻めてきて…」という言葉がそのまま放映されていた。ピーにすると全く意味不明になるのであるが、こうした放送禁止的な言葉は逆にしぶとく残っていくもののよう見見受けられる。困ったことだ。
2025年07月30日
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これは日本でもリメイクされて放映中だというが、大丈夫なのだろうか。人工的に手術や薬物で天才児を作るプロジェクトというのが物語の核になっているのだが、ドラマとしては荒唐無稽にすぎる。SFとしても中途半端、物語回収としても中途半端な印象を受けるのだが。これよりは前にみた「ナインルーム」の方がリメイク向きのように思う。ただ、W主役の美人弁護士の方の性格が悪く感情移入もできにくいので、あまりやりたがる俳優がいないのかもしれない。「誘拐の日」はストーリーは緻密とはいいがたいのだが、誘拐犯の中年男と誘拐された天才少女のやり取りが面白く、これで最後まであきさせない。誘拐した方より誘拐された側が賢く、誘拐犯が振り回されていくという面白さは「大誘拐」同様、このドラマの面白さのメインだろう。科学を使って天才を作るというのは「サイボーグ009」にもでてくるが、有名なのは「アルジャーノンに花束を」ではないか。主人公は知的レベルが向上するにつれ、人の善意の裏にも気づき、悩むところもあるが、それでは天才になることが不幸なのかというとそうではない。この物語で一番泣かせる場面は薬品の作用で天才になった知的障害の青年が、まもなく薬品の効果がなくなると知りながら、母親と妹を訪れ、自慢の息子であり、頼りになる兄の姿をみせる場面だろう。「誘拐の日」でも、天才少女は幸せな天才などいないといいながら、最後は幸せな生活への道を踏み出していく。わが子を天才児にするのに必死になっている女医も、最後は自分の娘の教育が成功しているのをみて、なんともいえない表情を浮かべる。人為的に知的能力を向上させることが可能なのかどうかはわからない。しかし、もし、そうした技術が開発されたとしたら、倫理的な議論をする人はいるに違いないが、結局は普及していくように思う。美容整形で望む容姿を手に入れ、医学の発展により、自然が定めた以上の寿命を手に入れてきたように、遠い将来なのかもしれないけど、人間は望むような能力を手に入れる日がくるのかもしれない。そうなったときに、この社会はどのように変わっていくのだろうか。
2025年07月29日
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図書館でなにげなしに手に取った本である。こういう本はただ本にまとめたというだけで面白くないことが多いのだが…と思いつつ読み始めたのだが、意外に面白い。そういえば、「一握の砂」は昔ざっと読んだことがあるが、なんとなく屈折した印象を受けただけで、あまり気に入らなかった。石川啄木はよく教科書に掲載されているあのオタク顔の印象が強く、暗くて正確に難のある人物という印象が強かったせいだろうか。実際には、同世代のエリートであり、随一の知識人であったわけなのだが、戦前はまた格差の激しい時代でもあった。そして故郷を離れ、北海道を函館、小樽、札幌、そして東京へと向かう生活の中で、その都度に詠まれた歌を読むと、明治末期の日本に生きる作者の姿が浮かんでくる。そしてまた、こうしたもの書く人によくある妄想や願望もあるのかもしれないが、歌には何人かの女性との恋も詠み込まれているのも意外である。きしきしと寒さに踏めば板軋むかへりの廊下の不意のくちづけまた、いつの時代も屈折した知識人は権力には批判的なものなのだが、大逆事件に関したこんな歌もある。雄々しくも死を恐れざる人のこと巷にあしき噂する日よ短歌ならぬ詩でも、反権力的な人々の議論を歌ったものにこんな一説もある。われらの且つ読み、且つ議論を闘たたかはすこと、しかしてわれらの眼の輝けること、五十年前の露西亜の青年に劣らず。われらは何を為なすべきかを議論す。されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD(ヴ ナロード)※ !’と叫び出づるものなし。※人民の中へやはり短歌の鑑賞は作者やその時代と切り離せないものなのだろうか。
2025年07月28日
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最近、参政党の躍進に関連して、かの政党を排他的なポピュリズム政党と批判する文章をときおりみかけるようになった。ポピュリズムについては定義がはっきりしないので、さておくとして排他的とする主張には疑問を感じる。欧州では移民の増大により、これに反発する人々が自民族あるいは自民族の属する人種の優位性を唱えて移民を排斥する動きがあるという。ネオナチとも右翼ポピュリズムと呼ばれる現象である。ただ、日本ではそうした状況にはなっていないし、合法的に日本で暮らす外国人に対する排除の動きなどはない。そしてもちろん参政党もそんな主張はしていない。参政党が主張しているのは、日本はできるだけ日本人の手で回し、積極的に移民を受け入れることには反対というもので、これは別に排外主義的な主張だとも思わない。日本には元気な高齢者も多いし、無業の中年も社会問題になっている。全部が全部ではないにしても、技能実習生のやっているような仕事が無職ひきこもりの社会復帰の第一歩になることだってあるのかもしれない。ある評論家は「外国人は辛い仕事を引き受けている」と発言し、それはそれで真実なのだが、その辛い仕事を放置し、貧しい国の外国人がやるのを当然とするのがよいことなのだろうか。辛い仕事であれば、労働環境や待遇をより向上させるのが正道ではないのだろうか。外国人も人間である。日本人のやりたがらないことは外国人もやりたがらないだろうし、いつまでもそうした外国人がやってくるともかぎらない。辛い仕事を放置すれば、それはまた、弱い立場の日本人もやることになるわけである。財界の意向を受けた政府与党が外国人単純労働者の流入を歓迎することはわかる。けれども、いわゆるリベラルとされる人々の中にも、外国人労働力の流入を制限しようという主張に対して排外主義というレッテルを貼っているようにみうけられる場合があるのは理解しがたい。人々の交流が深まるにつれて様々な文化を背負う人々が定住するのは当然のことで、多文化共生という目標には依存はない。けれどもそれは単純労働力の流入に対してどういう立場をとるかという政策の問題とは無関係ではないか。個人的には参政党の支持者ではないし、参政党に憲法草案なるものに見受けられるように心情としての民族主義があることは事実かもしれない。けれどもだからといって、移民政策を単純に排外主義対共生主義といった二分法で切り分ける議論は非常に危ういとしか思えない。すでに多文化多民族社会となった西欧にはこんな言葉があるという。来てほしかったのは労働力である。けれどもやってきたのは人間であった。
2025年07月27日
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韓国ドラマ「誘拐の日」を見ている。日本でのリメイク版も放映されていてなかなかの評判のようだ。ドラマ全体の感想はのちに書くとして、準主役の天才少女について主人公が語る言葉がある。天才として見世物になるよりも平凡な11歳の少女として暮らせるようにしたい…と。見世物というのは語弊があるが、天才として世の注目を浴びるよりも、本人が望めば普通の生き方もできるようにすべきということなのだろう。天才そして見世物という言葉でふと思い出したことがある。スプーン曲げ超能力者でテレビが荒稼ぎをするはるか前、韓国の天才少年がテレビの特別番組に出て話題になったことがあった。9歳の天才少年キムウンヨン君である。前宣伝もすごくて当日の朝刊にも広告ページで番組の宣伝が掲載されていた。積分の問題を解き、英語で詩を書き、それを見ていた観客の驚いた顔が映るという趣向だったと思う。その後、この少年について日本で報道されることはなかったのだが、紆余曲折を経た後、今は韓国で大学教授の職についているというのだから、頭は当然によかったのだろう。天才少年として海外のテレビに出たのも日本に来た時だけだそうだ。日本でも、昔からそうした天才少年少女はいたのかもしれないが、最近、中学生で高等数学を解いたとか、何歳で何の試験に合格したとかといった、様々な分野で天才的能力を持つ子供の記事が増えているように思う。子供の登校拒否最多などの話題のある一方で、傑出した子供も出ているのはよいニュースだろう。背景には女性の社会進出で、同種の才能のある親同士が出会う機会が増えていることもあるのかもしれない。今では、学業だけでなく、様々な分野で才能を生かして活躍する道が女性に開かれている。そうして才能を活かして活躍しているうちにやはり同じような才能を持つ伴侶を見つけて子供を授かる。その中から両親の傑出した才能を凝縮して受け継いだ子供もでるのかもしれない。※相変わらず参政党のディスリの記事が酷い。別にこの政党を支持するものではないのだが、しかし、外国人労働力の流入制限の主張をもって、排他的だの右翼ポピュリズムだのという主張は理解できない。しかもそうした批判を外国人単純労働力の流入で利益を得る財界やその意を受けた与党がいうのならともかく、いわゆるリベラルという人々まで同種の主張をしている。排外的右翼ポピュリズムを一方に置き、一方に多文化共生という命題を置いて、前者を悪、後者を善とする二分法である。日本ではまだそうした現実はないのかもしれないが、西欧で起きていることを見ると、無制限な単純労働力の流入は格差を拡大し社会を不安定化して、結局は経済的に弱い立場の者にしわよせがいく。その不満が低階層を若者を中心に爆発しているのが西欧の現実だろう。右翼だの排外主義だのという色眼鏡は抜きにして、外国人労働力の流入について冷静に検討する時期ではないか。それが参政党躍進の大きな教訓ではないかと思う。
2025年07月25日
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「法王庁の抜け穴」を読んだ。平凡な作家、信心深い善良な男、悪漢、その日暮らしの青年など個性豊かな登場人物が動き回る物語で、教皇の誘拐事件を騙る詐欺事件と二つの殺人事件がでてくるが、特にそれらが収束していくわけではない。文学としての人物造形は面白いが、この筋書きで大衆文学だったら失敗作だろう。教皇の誘拐というと全く荒唐無稽のようなのだが、当時は教皇が共和国よりの態度を示していたことで、教皇の偽物という設定もまんざら現実離れしていたわけではない。自分の持病の状況に応じて、無神論から信仰、さらに無神論と移っていく人物は戯画的だが、当時はこうした人もいたのだろう。一番興味深かったのは、無償の善というものがあるのなら無償の悪というものもあるのではないかという命題である。青年はこれを実証するように、列車内から見ず知らずの男を外に突き飛ばすという理由なき殺人をおかす。退屈しのぎに蟻をつぶすなんてことは普通にやるのだろうけど、それと同じ感覚である。あの「異邦人」で理由なき殺人が描かれる前にすでにこうした犯罪が描かれている。殺人時の描写は極めてリアルであり、この青年の人物造形には「罪と罰」と影響を指摘する説もあるらしい。しかし、「罪と罰」の殺人には思考や論理があるが、こちらは全くの行き当たりばったりである。犯罪の告白を聞く女性が出てくることも「罪と罰」に似ているが、「罪と罰」では主人公とその女性との交流が大きな位置を占めているが、こちらでは女性とあっというまに交情をした後、その後どうしようかという形で物語は終わる。青年は自首したのか逃げたのか。読者はそこで突き放される。結局のところ、最も印象に残るのは理由なき殺人で、こうしたものは案外と世の中に多くあるのかもしれない。迷宮入りになっているいくつかの殺人事件も被害者との接点がなく動機もないために、犯人にゆきつけないのかもしれず、電車の人身事故のいくつかも実際には後ろからの突き飛ばしによる殺人もあるのかもしれない。人込みの中での一瞬の行為なら事故として処理されてしまうこともあるだろう。人間というものの不条理さはそのまま人生の、また世の中の不条理さにも通じる。小説家としての筆力は大変なものだと思うが、後味はあまりよくない。
2025年07月24日
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政治ネタは書かないようにしているが、選挙の直後くらいはよいだろう。それにあくまでも中立の立場であるが…、今回の選挙にはやはり二つの特徴があるだろう。一つは参政党の躍進であり、もう一つはマスコミよりもネットの影響が強くなり、今までマスコミから遠いところにいた人々の票を起こした可能性があることである、参政党の躍進についてはいまさらいうまでもない。ただ参政党自体は数年前からあのオレンジの幟やオレンジのシャツを着た運動員をみかけることが多くなっていた。選挙には膨大な金がかかる。いったいあの資金はどこからきているのだろうか。党首は特に著名人というわけではないし、個人の支持者の寄付だけというのも信じられない。次にネットの影響であるが、ネット動画の配信に熱心だった政党には参政党とれいわがある。休憩時間に指先一本でみることのできるショート動画も多く、参政党とれいわが、今まで政治に期待できず、マスコミからも距離があった層の票を掘り起こしたということがいわれるが、事実だろう。東京新聞には、参政党とれいわのどちらに投票しようか迷っていたというロスジェネ非正規社員の話が載っていたが、まるまる創作とも思えない。周囲にも、比例と選挙区でれいわと参政党に分けて投票したという人がいる。れいわも伸びたことは伸びたのだが、参政党の急伸に比べればずいぶん違う。両者とも自民党政権がとってきたような移民拡大には反対で消費税の減税や廃止など政策的に共通点が多い。戦前の皇民化教育ははるか昔であの国粋主義的憲法草案が受けているとも思えない。いったいこの差異は何によるものなのだろうか。
2025年07月23日
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今回の選挙で台風の目となった参政党について、右翼だのポピュリズムだのということがいわれている。最初にいっておくが、別に参政党を支持するわけではない。それでも、こうしたものいいには違和感がある。日本で普通右翼というと国粋主義的勢力を指す。国粋主義というと戦前の国家神道のように日本や日本人について皇室をいただく特別の国とみる考え方を言う。欧州の右翼も同様に白人至上主義の立場で異人種の移民を排斥する勢力を言い、だからネオナチは極右といわれる。参政党の憲法草案なるものをみてみると、たしかに「日本は稲生が稔る豊かな国土に、八百万の神と祖先を祀り」とか「天皇はいにしえより国をしらすこと悠久であり」とか国粋主義的な言葉が並んでいるが、この憲法草案自体中学生の作文のようなもので、法律の専門家でなくとも、党首が法科大学院まで行ったとは信じられないと思うだろう。憲法は、人の支配に対する法の支配の根源として、権力の恣意的な暴走を防ぐためのものなので、その見地からすると、まったくもって憲法の体をなしていない。ただ参政党だって、憲法論議に一石を投じるために憲法草案なるものを作ったので、この憲法がそのまま実現するとは思っていないだろう。これをもって参政党を右翼ということはできるのだが、しかし、こうした国粋主義的な考え方があったとしても、具体的に外国人を排斥するとか差別するとか、そういう主張は別にしていない。この政党を差別や排除と結びつけるのは無理があるし、いったいこの政党の主張のどこにそんなものがあるのかと聞いてみたいくらいだ。問題になるのは、外国人労働力の流入制限の主張であるのだが、日本では外国人単純労働者の流入に舵をきったのは2021年の安倍政権の時である。そして安倍政権の時に日本の外国人労働者数は激増した。それでは安倍政権は右翼の反対の左翼だったのだろうか。そんなことはない。そしてこうした外国人単純労働者の流入で、一番わりをくうのはそうした外国人と競合する日本人労働者である。日本の賃金水準は韓国などに比べても高くないので、ベトナム人やフィリピン人は来なくなっていくのだろうが、ネパール、バングラディシュと貧しい国はまだまだある。そうした国から人々がやってきて、単純労働の賃金はそれこそ重力の世界のように下がっていく。こうした単純労働者の流入に反対する考えは自民党や財界のおしすすめてきたグローバル資本主義とは対極であり、それを一番大きな声で唱えていたのが参政党だったようにみえる。本当に参政党は右翼なのだろうか。そもそも右翼とか左翼って何なのだろうか。もう一つわからない言葉にポピュリズムがある。民主主義である以上、選挙民に都合の良い公約を出すのは当然で、それは池田内閣の所得倍増など昔からそうではないか。ポピュリズムという言葉には、バカな大衆におもねる政治勢力というニュアンスがあるようなのだが、それではそんな言葉を使う貴方は何様なんだと言いたくなる。日本人ファーストも差別や排外主義とごっちゃにしていて批判する向きもあるが、日本の政党が日本人ファーストなのは当然のことで、都民ファーストやアメリカンファーストとどこがちがうのだろうか。排外主義を憂慮する式の識者の批判がよく掲載されているが、日本人ファーストというだけでネオナチかなにかの親類のようにみえるのだとしたらそっちの感覚の方がよほどおかしい。高齢女性は子供を産めない発言を差別と糾弾するマスコミもあったが、高齢になれば身体が変わるのは当たり前で、普通のことを普通に言っているだけの話だ。坊主憎けりゃ何でも問題発言というのだろうか。
2025年07月22日
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選挙が終わった。さて、この選挙期間中になにが妙だったかといえば、中立もなにもかもかなぐりすててマスコミが賛政党たたきをやっていたことだ。それも、日本に在住する外国人の子供をとりあげて日本人ファーストならぼくは何番なのとつぶやいているだの、あなたの一票が身近な外国人を脅かすかもしれないことに想像をはたらかせてほしいだのと、きわめて情緒的でそれだけに広く伝わる方法でだ。参政党のいう日本人ファーストは都民ファーストやアメリカンファーストと同じようなもので、政党としてはごく普通のものだ。日本はできるだけ日本人で回すようにということも、どこが問題なのだろうか。日本には元気な高齢者がありあまっているし、無職中年も深刻な問題となっている。無職中年のかなりの部分が社会不適合者ではなく、受験や就職などの挫折で、レールから外れているだけで、単発でも就労の機会があれば、やり直せる人もいるのでないか。外国人労働力の流入を見直せという主張は排外主義でもなければ、差別でもない。だいたいどこの国でも無制限に労働力を入れているわけではない。なぜこんなことが起きたのだろうか。おそらく、想像ではあるのだが、外国人の労働力流入制限という主張が気に入らなかったのだろう。マスコミ論調というものは、財界人や役員、株主、権力の意向を忖度しながら、マスコミ人士が作っていく。財界にしてみれば、利益を最大化するためには、外国から安い単純労働力を受け入れたほうがよいにきまっているし、マスコミ人士の脳内でも、多文化共生や多様性の尊重は素晴らしいものになっている。どちらにしても、日本には外国人労働者の流入は必須であるという論調になってくる。少子化だあ、大変だあ、もっともっと海外から受け入れなければ…というわけである。一方で、草の根レベルでは、外国人の集住する地域では不安とか反発とかそうしたものがあるのは否定しにくい。貧困のため海を渡り単純労働に就く場合、人間はどうしてもよからぬ行動にでることもあるし、習慣の違いから周囲との軋轢も生まれることもある。それは〇〇人だからということではなく、どこの国民、どんな民族でも似たようなものである。ところが、財界人やマスコミ人士などの経済的に恵まれた階層では、そうした外国人と直に接することはないし、付き合う外国人もお行儀のよい外国人ばかりであるので、その辺がわかりにくい。今度の選挙はマスコミとネット、グローバル化と人の移動などについていろいろと考えさせる選挙だったように思う。なお、自分自身は、参政党を支持する者ではないのだが。
2025年07月21日
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安倍政権の遺したものはいろいろとあるのだが、その一つに外国人労働者の急拡大がある。そのため、外国人労働者を町でみかけるのはすっかり普通の光景になっているし、特に最近では一見してわかる外国人が増えてきており、そのためますます急増しているような印象がある。こうした中で、外国人労働者の受け入れが国民の選択の大きな争点になっていくのは時宜をえたことだと思うのだが、こうしたテーマが排他的、差別、多文化共生、共存といった文脈で語られていることだ。外国人労働者をどういう条件で受け入れるかということは、排他的とか差別的ということとは全く関係ない問題だ。世界に国境という者がある以上、無条件に労働力移動を認めているところなどどこにもない。それでも、優れた才能や専門知識を持つ人材はどこに行っても望まれるのだろうけど、問題はそうでない単純労働力の異動だ。この受け入れを制限する方向で見直そうという議論があった場合、それを差別だの排他的だのといって批判する議論が蔓延しているのは不思議としかいいようがない。それもマスコミが一丸となってやっているような印象を受けるし、さらに、もともと安い労働力の無制限な受け入れを望んでいる経済界もそれにのっかっている。一番問題なのは単純労働者の受け入れの問題であること、そしてそれは今日本に在住している外国の方を差別したり排除したりすることとは全く関係ないということが、うまく伝わっていないのではないのだろうか。昨今のマスコミ報道をみていると、それを危惧する。
2025年07月20日
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想像してみてほしい。道路沿いに何か所か崩れそうな崖があったとする。いつ石が転げ落ちて人が死んだり怪我したりするかわからない。しかし、自然保護という観点からそのままにしておき、石が崩れて誰かが死傷した場合だけ、その崖の法面を崩れないように工事する。そうでないところはいくら通る人が怖いと思っても、まだ誰も怪我していないのでそのままにしておく。なんだかねえ…クマ対策をみているとこれと同じことをやっているように見えてしまう。人を襲ったクマは駆除、そうでないものは森に返すって、どう考えても変だとして思えないのだけれども。新聞配達の人を襲ったクマと同一かどうかはわからないが、クマが一匹駆除されたという。しかし、人を襲っていないクマだって、クマである限り、人を襲う可能性はあるだろう。いつ崩れるかわからない崖の上の石と同様、人間に危害を与える可能性のある自然物ではないか。全面的な駆除のための動きがないことが、遠くから見ていると不思議である。参議院選挙投票日が近づいてきた。結果もさることながら投票率が気になる。今度の選挙はマスコミよりもSNSの影響が強くなった選挙、今まで選挙に行っていない層が選挙に行くようになった選挙として記憶にのこるのかもしれない。多くの人が選挙という歴史の一瞬に参加するために投票する。たとえは悪いは繰り返すことのできない試合やライブに観客として参加するノリで投票所に足を運ぶ。マスコミが上から目線で選挙誘導のような発言をしていることもあるかもしれないが、既存のマスコミに対する不信や反発も背景にあるだろう。それをさかしらぶってマスコミエリートがポピュリズムだと批判しても始まらない。選挙とはそういうものなのだから。昔も今も…。
2025年07月18日
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よく様々な問題を語る際に右とか左とかいう言葉が使われる。ネット界隈でもネトウヨとかパヨクというのは耳慣れた言葉だ。これにリベラルという言葉まであるのだが、これはどうやら左に分類されるらしい。この右とか左なのだが、つきつめていくとどうもよくわからない。一番古典的な定義は社会主義や共産主義を理論として正しいと思っている側が左でそれを批判する側が右というものだろう。しかし、いまどき階級闘争だの歴史の必然だのといった共産主義思想を信奉している人間がどれほどいるのだろうか。まあ、あえて定義づけると経済階層を上下に分け、格差縮小を是とする側を左とするということなのかもしれない。ただし、現実には格差を全くなくすということは不可能であるし、格差と言っても機会の格差と結果の格差がある。機会の不平等の是正は必要だが結果の不平等を是正することは悪平等だという考え方は、普通は左とはいわない。次に、右翼というのは何なのだろうか。自民族至上主義や人種至上主義を右翼とよび、特に欧州などで外国人排斥を唱える団体や政治勢力を極右と呼ぶ。そうなると疑問がわく。どうやら政治においては右の反対は左、左の反対は右というわけではないらしい。実際に欧州の極右団体に共鳴している人々は、左翼の唱える格差縮小政策と親和性の高い貧しい階層の人間が多いという。穿った見方をすれば、競争社会で敗れ、他に誇るべき者のない人々が自民族の誇り、自分の人種への誇りに縋りつき、不満を外国人という他者に向けているようにも見える。一方で、リベラルという言葉もある。もともとこれは伝統や宗教的因習からの自由を意味しており、妊娠中絶の自由、ジェンダー平等や環境保護、LGBT差別反対などの主張が含まれる。日本では強固な宗教がないので、伝統的家父長制をそれに替えることがあるが、さて、今の日本で伝統的家父長制などがどの程度残っているのだろうか。こうしたリベラルが、なぜ左翼とされ、場合によってはマイルドな左翼をさす言葉になったのかは不思議であるが、もともとの左翼が冷戦崩壊後にこうした考えを前面に出すようになったことによるのだろうか。いってしまえば「労働者を見捨てたリベラル」である。結論を言ってしまえば、左翼は経済的階層を上下に分け、格差の是正を目指す考え方、右翼は自国自民族とそれ以外の内外に分け、自民族優先を唱える考え方になる。これを縦軸と横軸にして四分割してみると、左翼にも右翼にも含まれない部分ができる。経済的格差是正には関心がなくなおかつ自民族自国民ということにもこだわらないという立場である。新自由主義とか競争至上主義がこれにあたる。反対に左翼でもあり右翼でもある部分がある。自民族自国民優先でなおかつその中の経済的格差是正にも注力するという立場である。こうした政治勢力を右翼と呼ぶべきなのだろうか。左翼と呼ぶべきなのだろうか。そういえばナチスも当初は国家社会主義労働者党と称して社会主義に似た政策を掲げていたという。また、自民族主義にはこだわらずに経済的格差是正を目指すという立場はどうだろうか。これははたしてなりたつものなのだろうか。自民族主義にはこだわらないということが多文化主義とかダイバーシティというお題目だけならよいのだが、外国人の単純労働者受け入れについてはどう考えるのだろうか。待遇の低い職種に外国人労働者を受け入れることは格差を拡大されるし、場合によっては定住した外国人が新たな下層階層を形作ることもある。はっきりいえば、単純労働者の流入と格差是正は両立しない。右とか左とかをこうして整理してみると面白い。なお、日本国が衰退しているかどうかとか、万博は開催した方がよいかとかという問題は、もともと右とか左とかとは関係ないテーマであろう。すべてのテーマが右左に結び付くというわけではない。
2025年07月17日
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人間には言語的思考と数量的思考があるという。数量的思考はともかくとして、言語的思考にはあやうさがある。それは言葉を使って考えているつもりが、いつのまにかその言葉にふりまわされてしまうからだ。だいたい昨今の外国人問題にしてもそうだ。いくつかの識者の意見がネット上にのっているのだが、多文化共生、ダイバーシティという言葉にのまれ、だから外国人流入を問題視するのは憂えるべきことだとなる。多文化共生にしてもダイバーシティにしても、それに異をとなえるひとはいない。その素晴らしさや必要性について本を書けば何冊も書けるくらいのものである。こういうときには、おおきな言葉をふりまわすよりも、具体的に、さらに具体的に考える必要がある。人々が国境を越えて行き来することが多くなった今、国際結婚が増えたり、自分の収入資産で異国に定住する人々が増えるのは当然のことだろう。また、特殊な専門技術や技能を持って国境を自由に移動する人々も生まれている。こうした人々について異を唱える人などまずいない。同様に、やってくる観光客も日本の風土や文化に憧れをもってやってきて、お金を落としてくれるのだから、基本ありがたい存在である。オーバーツーリズムや一部観光客のマナーの問題は別途対処すればよいし、これは日本人観光客にだってある問題だろう。多文化共生やダイバーシティの議論はこうした中でやればよい。となると問題は人手不足を補うためにやってくる外国人単純労働者だろう。これについては、どんな分野で人手不足となっていて、それは本当に必要なものなのか、日本人では補えないものなのかという順序で考えてみる必要がある。世の中には絶対に必要なものもあれば、なければないですませられるものというものもある。コンビニの24時間営業や外食の深夜営業、それに宅配の即日配送などは後者なのかもしれない。そのほかにも、人手不足の結果、給与などの待遇が改善され、その結果人が集まるようになるという当たり前の循環がある。これを、日本人が集まらないからといって、途上国の外国人でまかなうというのは、永久にその職種の待遇が低いままで固定されるということにもなる。それどころか、外国人を入れると言葉の通じない人々の集団ができてますます日本人にとっての労働環境は悪くなる。外国人労働力については、「労働力が来ると思ったが、やってきたのは人間であった」という言葉がある。待遇の低い職種は外国人もやりたくない。その結果、外国人はいつかず、かといって本国に帰るわけでもないので、いつのまにかアングラの外国人社会ができてしまうことだってありうるのである。待遇が悪いから途上国の外国人でまかなおうという発想にはこうした危険がある。外国人の問題というと、すぐに排他主義だとか、はなはだしきはナチの教訓を忘れたかだのという人がいる。しかし、今の日本で外国人を排斥したり、ましてや迫害したりという動きはないし、そんなものを主張している政党もない。ただ、単純労働者の受け入れ(安倍政権の時に受入れの幅を広げたという)をどうするかという問題である。教訓を言うのならナチではなく、現在の西欧をみればどうなのだろうか。多文化共生とかダイバーシティ…もっともらしい言葉に酔って思考停止するようなことは避けたいものである。
2025年07月16日
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今回の選挙は一つの転機として記憶されるのかもしれない。マスコミが影響を与える時代からネットが影響を与える時代へ…と。かつてマスコミは社会の木鐸と呼ばれ、そこに登場する人々はオピニオンリーダーとよばれた。過去の選挙でのブームを思い返してみると、だいたいはマスコミが風を煽っていた。好感度あふれる映像や写真、好意的なコメント。こうしたもので有権者にイメージが作られ、まるで流行のように地滑り的に票が動く。若き日の細川総理も小泉総理もかっこよかったし、ずっと昔の新自由クラブも理想に燃える青年政治家の集団といった感じだった。マドンナブームの知的で清新な女性議員もよかった…がそうしたマスコミ発ブームも過去の話だろう。いまや老若男女だれでもスマホで情報を得られるし、特にショート動画には隙間時間に見られるインパクトあるものも多い。こうしたネット情報は、政党支持者が作っているものもあれば政党自身が作っているものもある。ブームはマスコミが作るのではない。草の根の有権者が作るのだ。争点だってそうだろう。当初マスコミは外国人の問題など歯牙にもかけていなかった。ところがそれを争点とする政党が急伸してくると急に取り上げだした。多くは批判的な形であるが…。この外国人導入の本丸は単純労働者の受け入れの話だ。観光客を締め出せとか専門技術者を締め出せなんてことは言っていない。それなのにマスコミはあえて外国人とぼやかしていい、ヘイトだの排除だの、はてはナチの教訓を忘れたかだのという。まったくピントはずれとしか思えない。こうしたことがますますとマスコミ不信を増幅していくのではないか。
2025年07月15日
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議論のテクニックに論点そらしというものがある。本当の問題は別にあるのに、論点をたくみにずらし、自分の主張したい方向にもっていくやり方で日常でもよくみかける。マスコミではいまさらのように外国人政策を取り上げているが、こうしたぼかした言い方も論点そらしなのだろうか。この外国人政策であるが、整理してみる。外国人政策は参政権の問題、土地所有の問題、流入(移民)の問題に分けられる。参政権や土地所有については、現在動きがあるわけではないので、問題にすべきは流入(移民)の問題であろう。そしてこれにも、オーバーツーリズムの問題、留学生の問題、労働力の問題がある。オーバーツーリズムについては、いろいろな問題を指摘する人がいるが、基本的に観光客としてやってくる外国人は、お客様であり、ありがたい存在ではないか。個別の問題はあるにしても、日本人観光客にもマナーの悪い人はいるし、日本の習慣等を周知してもらうことで問題は軽減できる。現に賑わっている観光地をみると、多くは外国人の誘致に成功したところである。逆に失敗すれば、かつての有名な温泉地のように廃墟のホテル群が不気味にならんでいるだけということになるかもしれない。外国人観光客はやってくるうちが花で、それは治安もよく文化に恵まれ、食べ物もおいしいことの証左であろう。留学生の優秀層や専門知識や技術を持つ労働力については反対する人もあまりいないだろう。いずれも、日本にプラスになる人材であり、多くが故国に帰ったり、米国などに移動したりするのだろうけど、日本にとどまっても問題にはならない。となると、結局は問題となるのは単純労働者の移入である。西欧の先進国では多民族社会となってすでに後戻りのできない状況になっているのは周知のところだ。日本の場合、単純労働力流入に舵をきったのは、安倍政権の時なので、今ならまだ後戻りができる。これこそが現下の問題であろう。https://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/08/31/antena-313/なお、不法や違法滞在については厳格に対処するという意見があるが、法がある以上、厳格に対処するのは当然であり、これは何もいっていないに等しい。
2025年07月14日
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最近、北海道美瑛町に旅行に行ってきた。このあたりは丘陵と畑の風景が美しく、昔、写真集で見た時からいつか行ってみたいと思っていた場所だ。聖地観光というのがあるが、美瑛町観光にもそうした側面がある。この場合の聖地というのは、アニメや映画ではなく、写真集やCMであり、実際、ケンとメリーの木やセブンスターの木はそれ自体が観光地になっている。ただ単に木を見るのではなく、背景の丘の情景と合わせてのもので、やはり写真で見るだけでなく、その場所にいて、そこの空気や風の中にいるというのがよい。丘が緩やかに続き、広大な畑が作物によって色を変え、パッチワークのようにみえるのもこの地ならではの光景で、このあたりはパッチワークの路と言われているらしい。四季彩の丘ではいろとりどりの花の縞模様が丘をつつみ、富良野のラベンダー公園では丘全体を紫のラベンダーが覆って空の青とコントラストを作っていた。中でも、人出が多かったのは富田ファームで、ここはラベンダーと花畑の両方があり、さらにフードコートも充実していて、大人気のスポットのようだ。ただよくみると、観光客のかなりの部分はアジア系の方である。北海道の景観は欧米人には比較的なじみやすいのかもしれないけど、アジアではおそらくあまりみられないもので、そこで日本に二度以上来ている人の中には、今度は北海道に行ってみようとなるのだろう。美瑛町の絶景がコマーシャルや写真を通じて知られるようになったように、写真をきっかけに観光地化されたところがある。それは青池であり、これは青い水をたたえた池の中に、立ち枯れた白樺の木が何本も立ち、それが水に映ることで幻想的な光景になっている場所だ。青い色に見えるのは、水酸化アルミニウムを含んだ水が微粒子を形成して、それが太陽の光が当たると青く見えるためであるというが、他にはなかなか見られない光景である。なお、土地柄かもしれないが、外国人観光客以外では、女性の二人連れ、あるいは三人連れというのが目立っていた。若い女性ではない。たいていは40代以上の女性達である。どういうわけか女性はいくつになっても友人同士の旅行を楽しむのだが、男性では年配の同性同士で旅行というのはあまりみかけない。そうした女性同士の旅を楽しむ人々の中には、もちろん子供に手がかからなくなってから旅行に出るようになったという人もいるのだろうけど、独身だという層もけっこういるのではないか。出生率の低下というと、子供市場の縮小にばかり目が行くのだが、同時に膨大な独身者の市場というものもある。必ずしも独身者ということではないのだが、女性の友人同士の旅行や会食の需要(女子会需要?)というのは今後も有望なのではないか。楽しそうな女性同士の観光客をみてそんなことも考えた。
2025年07月13日
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中学の頃、国語の教科書に一部が掲載されていたのを覚えている。瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけりこうした歌も覚えている。ようやく、この名前だけを知っていた墨汁一滴を読んだ。明治後期の世相などを反映した記述もあるが、全体としては闘病記であるともいえる。暗さがないのは作者の精神の強靭さのせいだろう。冒頭の短歌を授業で習った時、正直、なんてつまらない歌なのだろうと思った。子規は従来の古今集以来の技巧的和歌を批判し、写実的短歌を唱え、その流れは今も続いている。よみこみや折句などの言葉遊びや屏風絵の和歌など実感と無関係な技巧的和歌から近代短歌へと向かう流れの中で写生が唱えられたのはわからないでもない。ただ、写生だけではつまらないし、砂をかむようではないかとも思う。今こうして日記を書いていることだって…我が机パソコン置いてぱたぱたと今日も文章書き連ねたりありのままなのだが、こんなのが短歌といえるのだろうか。瓶と藤の花の歌も、重病の床で花瓶と畳しか見ることができない…という作者の境遇を思って、はじめて別の読み方が出てくるのだが、それだけにこの歌は作者と切り離せない。和歌の沈滞を抜けて近代短歌を作った人々の本意ではないと思うが、生活べったりの写生だけの短歌というものはあまり面白くない。これはちょうど江戸時代の読み本文化を脱し、近代的な文学としての小説を作り出した中から、自然主義文学が起こり、その中から私小説という、親族とのいざこざとかどこで何を食べたかという記述ばかり目立つ小説群が生まれたのとなにやら似ている。明治という時代は、圧倒的な西洋文明に目が眩んで右往左往した時代なのかもしれない。日本語ローマ字表記論とか、はては人種改良論まであったそうだ。従来の文化を近代にいかに適合させるか。そうした中で和歌や俳句の革新運動も起きてきたのだろう。
2025年07月10日
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伊豆半島入り口の町熱海を過ぎて南下していくと、お椀をふせたような特徴的な形の草山が目を引く。伊東のシンボルの大室山だ。その湯の町伊藤市が全国ニュースになっている。市長の学歴詐称疑惑のせいだ。伊東が全国区になったのは大河ドラマ鎌倉殿の13人以来かも…。それに、今の日本で大学中退を問題視する人などあまりいない。著名な作家やタレントで〇〇大中退を堂々と言っている人は多いが、それは、単なる大学出のサラリーマンではなく、自分の能力と才能で世を渡ってゆく自信があったので中退したということで、むしろ勲章のようなものだろう。また、経済的事情や家庭の事情で中退したといえば、それは世間的見方では苦労人というイメージになり、政治家や社会活動家にとってはマイナスではない。件の市長も選挙公報には別に〇〇大卒とは書いていないし、普通に「家庭の事情で中退」とでも言っておけば誰も問題視しなかったのではないか。家庭の事情と言えば、普通はそれ以上の詮索はしない。この場合、否定したり、卒業証書らしきものを見せたことによって、非常に不利になったのだろう。この市長は接戦の末、当選した方で、争点には48億円の図書館建設や太陽光パネルの問題があったという。人口が6万か7万の伊東市で48億円の図書館建設というのは信じがたいし、そうした小規模の市だからこそ地元業者に流れる48億円は大問題だったのだろう。図書館の重要性はわかるが、廃校となった学校の建物を再利用すれば、それほどの金はかからないだろうし、観光都市によくあるように、住民がまばらに居住しているような地域なら移動図書館の充実と言うやり方もある。市長の学歴詐称がよいとは思えないが、引きずり下ろしの背景もまた気になる。
2025年07月09日
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ある政治家の「高齢女性は子供を産めない」という発言が物議をかもしているというが、こうした発言は生物学的事実を述べているだけで、なんで問題視されるのかよくわからない。ただ、この発言はここに重点があるのではなく、次の「大学や高校を出たら働くこともいいし、家庭に入って子どもを育てるのもいい」というところにあるのだろう。ここ何十年かで、変わってきたものは多いが、そうした大きな変化の一つに専業主婦の激減がある。ある時代までは専業主婦と言うのはごく普通の生き方で、従来は普通だった農家や自営業者の嫁に比べればずっと憧れる人が多かった。そして女子中高生でもそれを前提に人生設計を立てるのがむしろ普通だった。なにしろ「四年制大学をでたら敬遠されてお嫁にいけない」と言った言説も昭和のある時期まではまことしやかに言われていたくらいだ。だから職業教育よりも良妻賢母教育を行う大学や若いうちに卒業できる短期大学は人気があったが、今ではそうした学校は学生集めに苦労しているという。件の政治家の発言もそんな時代なら、普通の意見、普通の感覚として受け入れられたことだろう。共働き、かぎっ子、キャリアウーマン、三食昼寝付き、永久就職…こんな言葉が今では忘れられるくらい女性が普通に働く時代になった。ただこうした時代でも、十分に生活できるだけの職に就いていない者の比率は女性の方が高い。ネット情報であるが、最近の婚活市場では専業主婦志向の女性と相応の収入のある共働き女性を望む男性の間でのミスマッチがあるという。そうかもしれない。ありあまるほどの収入のある男性は婚活市場には出てこない。今の時代、専業主婦志向というのは極めて危険だということである。今、無職であったりアルバイトを転々としたりしている層が将来的には貧困層として社会問題化することを危惧する意見もあるのだが、専業主婦志向できちんとした職についてこなかった女性の貧困問題というものも大きくなっていくように思う。バブルの頃はフリーターは夢を追う若者の自由な生き方といわれ、女性については家事手伝いがかっこよいとされた。そんな時代もあったわけである。
2025年07月08日
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選挙に限らないのだが、政治的なテーマに対する対応というのは、現状に満足、不満足(批判的)という軸と政治問題に関心があるかないかという軸で分けて四種類に分類できるのではないか。これは前にも書いた。政治的テーマに関心があって満足しているA層、関心がないが満足しているB層、関心があって不満足なC層、関心がなく不満足なD層である。思うにマスコミ情報というものは担い手であるC層(批判精神旺盛なマスコミ人士)がA層(スポンサー企業や権力者など)に忖度しながらB層(視聴率のボリュームゾーン)に向けて作っているので、このあたりで世論が形成されやすい。わかりやすいのはワイドショーなのだが、最近はマスコミも元気がなく、大リーグや犬猫ばかりやっていて、昔ほど政治問題や事件報道をやらないようだ。それとも自分がそういうものをたまたま見ていないだけなのだろうか。それはさておき過去の政治潮流など、けっこうそうやってマスコミによって作られてきたものが多いのではないか。噺の上手いイケメン政治家がでてくると「何かやってくれそうだ」とわっと人気がでるなんてこともあったし、過去の新党ブームやマドンナブームなどもこの類だと思う。ただこうしたマスコミ発の潮流作りというものは、ネットの出現で変わってきたのではないか。ネットはいまや老若男女が接するメディアとなっており、人によってはテレビや新聞よりもネット情報に接する時間の方が長い。そしてその作りも、ネット動画などは特に短時間で面白くまとめたものが多い。そうなると、今までマスコミから遠いところにいて投票にも行かなかった層、つまりD層の動向というものが今後は重要になってくるのではないか。おそらくこれは世界共通の現象で、米国などで見られるマスコミの言論と実際の投票結果との乖離という現象もこういうことで説明がつくのかもしれない。
2025年07月07日
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ユーチューブで探すと子供の頃に見たアニメの動画がアップされていることがある。かの鉄腕アトムの大ヒットで、しばらくのあいだ、スーパーマンの少年が悪者をやっつけるというタイプの漫画が大流行した。遊星少年パピイ、宇宙少年ソラン、スーパージェッターなど、だいたいこの系統だろう。その後、漫画を愛読する年齢層が上にシフトするとともに、こうしたものは流行らなくなっていった。もしかしたらこうしたものの源流はアメコミにあるのかもしれない。日本発の独自の番組が少なかった頃はスーパーマンが日本でも大人気だった。そして、その後もアメコミでは似たようなスーパーマンがたくさん生まれている。アメコミのスーパーマン達が成人男性で、それも、筋骨隆々タイプなのに、なぜ日本のスーパーマンは可愛らしい少年だったのか…このあたりって比較文化的に興味深いのではないか。なつかしついでに作者や作品について検索してみる。遊星少年パピイの作画を担当した人が、パピイのヒットで莫大な収入を得たが、その後散財して、生活は楽でなかったという。宇宙少年ソランでは宇宙リスのマスコットのアイディアが盗作だとして手塚治虫が怒ったというエピソードがあるという。いずれも、ネットで初めて知った話である。今はゴールデンタイムの子供番組というものはなくなっているが、その代わり、鬼滅の刃とかコナンとか、見るものについての大人と子供との境がなくなってきているようにみえる。
2025年07月06日
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滋賀のタワマン殺人事件の容疑者とみられる男が樹海の中で遺体となって発見されたという。男は進学校に通っていたが、卒業を前にして登校拒否になり、その後、長くひきこもり生活を続けていたという。両親は、最近になって、ひきこもりの息子を残して、タワマンに引っ越し、そこで被害にあったのだが、これも8050問題の一つの形だろう。裕福な両親と学業優秀な子供という家庭に起きた悲劇という意味では、かの元農水省次官による息子殺人を連想させる。成人した子供も最初のうちは親に依存する。しかし、親が老齢になり、体力的に息子を抑えられなくなると、地位が逆転してくる。元農水省次官は息子から暴力を振るわれていたというのだが、滋賀のタワマン殺人でも似たような事情があったのかもしれない。住居を別にして、経済的には自立できなくとも、せめてもの生活面の自立をさせるということは親ならば考えるだろう。元農水次官は東京都区内に豪邸があったが、不動産も所有しており、息子はアパート管理人として別居させていたという。しかし、ゴミ屋敷で不摂生極まる生活をしていた息子は実家に舞い戻ってきて、その後まもなくして事件は起きた。滋賀のタワマンの事件では両親の方がタワマンに引っ越して息子から逃げたつもりでも、そこに息子が追いかけてきたわけである。生まれた時、そして子供の時には、何よりも可愛いと思っていた我が子に怯えなければならず、そして最後には命まで失ってしまった親が気の毒である。親ガチャなんていう甘ったれた他責志向のお化けのような言葉があるが、実際には子ガチャにも特大の大凶がある。想像なのだが、こんな事件があることも、出生率の低下の背景にあるのではないか。続報がないし、おそらくはあのまま精神鑑定の結果不起訴となりそうなのだが、東大前駅駅構内殺人も似たような例だろう。とりあえず、別居させようとして格安の空き家バンクを購入して無職の息子を住まわせた。息子は最初の頃こそ、野菜作りなどを行ったが続かず、近隣の人にはIT技術者と見栄をはりながらぶらぶらと暮らしていた。やがて父が死に、母からの仕送りも途絶えがちになると、親へのあてつけもあって事件を起こした。そんなところだろう。いずれもロスジェネ世代であるが、ロスジェネ世代で他の世代に比べて無職ひきこもりが多いというデータはない。ただ、長いこと無職で履歴書に空白のある中年というのは、就職しようにもなかなか職がない現実がある。
2025年07月03日
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全12巻の大作「真田太平記」を読んだ後なので、比較的短いものをと思って読んだ本である。警察の様々な立場の人を主人公に小説を書いている作者であるが、本作はその反対側、つまり犯罪者の側を主人公にしている。ノビ、夜明かし、ヌキ、バンカはずしなどの隠語や、忍び込みの手口なども嬉々として記述しており、警察小説の作家として知られる著者は、そうした裏社会の材料にもことかかなかったようである。本作では忍び込み窃盗犯を主人公にしているが、いくら腕がよくても窃盗だけで暮らすのはけっこう大変なのではないか。この世界も高齢化しているだろうから、三食目当てでの受刑者志願もけっこういるのかもしれない。また、最近、増えているだろうと想像するのは、空き家専門の窃盗だ。過疎地では空き家の方が多いくらいだし、東京都区内でも、一戸建ての空き家というのは散見する。ああいう中には家の中に高額の貴金属類が放置されている場合もあると思う。ネットで検索してみると、やはりこうした空き家の空き巣は増えているようだ。ストーリーはさることながら、こうした売れっ子作家のあまり有名でない小説(とはいってもこれも映画化されている)を読んで思うのだが、すごく面白いというわけでなくとも、最後まで読ませる筆力は大したものだと思う。以前、自費出版の小説を読んだことがあるのだが、最後までは読めなかった。文学賞応募作品のほとんどは最後まで読まれずに落選となるのだが(腐った卵は最後まで食べる必要はない)、こうしたぐいぐい読ませる文章を書ける筆力はうらやましい才能である。
2025年07月02日
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しばらく前まで女権拡張論者(フェミニスト)が声高に唱えていたスローガンがあった。それは「男は仕事、女は家庭という固定的役割分担意識の見直し」である。最近この言葉を聞かなくなったのは、その見直しがすっかりと定着したせいなのだろうか。むしろ、最近では多様性の名のもとに、女性の登用ということが主張されている。この男は仕事、女は家庭という意識なのであるが、昭和の40年代、50年代くらいまでは、結構根強く、民間企業でも、男は企業戦士予備軍、女は社内結婚花嫁予備軍としての採用を公言しているところもあったくらいだ。それが変わってきたのは男女雇用機会均等法以降だろうか。法律が世の中を変えたというよりも、産業構造の変化が背景にある。男女格差よりも、男男格差、女女格差の大きい時代となり、その格差も開いていったわけである。一方で、家事はどんどん簡単になり、花嫁修業と言う言葉も今はほとんど死語である。昔の家事の最難関は洋裁であり、服飾系の専門学校の前身が花嫁学校だと言っても知らない人が多いだろう。もう一つ、負担感の大きい家事として老親の介護があったが、これは家庭でやるという時代ではなく、親も子供をあてにはしていない。そんなわけで一家の大黒柱の夫と専業主婦という家庭はどんどん少なくなり、最近の婚活市場では、家事手伝いという名の無職女性、専業主婦志望の女性は敬遠されるという。婚活市場には高収入の男性は参入していないので、そんなものかもしれない。固定的役割分担意識が崩れたせいで、婚活も変化しているわけである。しかしこれは、同時に結婚しにくい社会の到来なのではないか。女性の就労が普通になったとはいえ、就職のハードルが男性と全く同じになったわけではない。また、女性の側にも昭和時代の残滓のような結婚観があり、どうせ主婦になるのだからと言う安易な道を選んだ人もいるだろう。ざっくり分けると、女性は自立できる収入のない場合、かつかつ自立できる程度の収入のある場合、高収入の場合の三通りがある。最初から専業主婦志向で自立できる職業についていない場合には、婚活市場でも敬遠されてそのまま貧困に陥るということも多く、こうした女性の貧困ということも問題になっていくのかもしれない。かつかつ自立している女性は高収入男性と結婚できればよいが、そうではなく、自分とさしてかわらない収入の男性との結婚にはあまり利点を感じない。なんとか自立できるのであれば、何が何でも結婚しなくてもよい。高収入の女性の場合であるが、それはそれで、自分と同等以上の高収入男性しか相手にならないと思うので、結婚は難しい。これを男性の側からみると、家族と言う贅沢品を手に入れる高収入男性以外では、結婚を諦め、気楽な独身を謳歌する人々が大量に生まれるわけである。昔と違い、家事の難易度は下がっているので、妻がいなくとも、生活になんら支障がないし、場合によっては高齢でも元気な親がはりきってかわいい息子のために家事をやっていることもあるだろう。こうして考えてみると、「男は仕事、女は家庭」といった固定的役割分担意識の強い社会は、女性を差別していたのではなく、単に依存心の強い女性を優遇していたのかもしれない。
2025年07月01日
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