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「南総里見八犬伝」(十)には作者自身の後書きと、内田魯庵の八犬伝についての講演録が収録されている。作者の後書きでは、作品は評判になるとともに、多くの便りや訪問客があり、中には遠くから自作の小説を送ってきた女性もいたという。当時の大衆文化の広がりをみる文章としても、興味深い。作者自身は息子と死別し、執筆終盤で目を病んで失明に至っている。こうしたことは、江戸時代では珍しくなく、むしろ作者は当時では長命だった。それでも、功成り名遂げてからは隠棲して仙境に住んだという八犬士は作者の理想だったのだろう。物語作者には自分自身を描くタイプと理想を描くタイプとがいるようであるが、八犬伝は間違いなく作者の理想を描かれた小説のようだ。その理想は八犬士だけではなく、仁政を旨とする里見の政治にも及んでいる。この点や、物語中に勅使をおくる場面があることをもって、当時の幕政批判や勤皇主義を主張したとみるのは的外れであろう。知識人の間では古い文献を渉猟することで、勤皇思想を持つ者はいたであろうし、それは幕政批判に必ずしも結びつくものではなかったのではないか。なにしろ将軍自身も天皇から位を貰うことで、形の上では支配の正当性を得ていたわけであるのだから。内田魯庵の講演録では、少なくとも明治期くらいまでは南総里見八犬伝がかなり広く読まれていたことがわかる。ここでは八犬伝の人物を善人、悪人、その他に三分類して、悪人や市井の人々がむしろ生き生きと描かれていると指摘している。たしかに、粋で軽薄な浪人や小ずるい市井人など、江戸の町にいそうな人物で、そうした人間が描かれているから八犬伝は面白い。また主人公の八犬士もそれぞれにキャラが立っていて、決して坪内逍遥の言ったような仁義八行の擬人化などではない。 個人的な八犬士の人物評を書いてしまうと以下のとおりである。親兵衛(仁):後半部分の始まるところから関東会戦前までの主人公。ほぼ完全無欠のヒーローで年齢は童子だが10代のような外見を持つ。一説には作者の同年代の孫を理想化したという説もあるらしい。海賊との戦いで海に投げ飛ばされた者の中に死者が出たという以外では人を殺していない。荘介(義):物語の初期からでてくる温厚な苦労人。NHKの人形劇では美男子の人形になっていたが、原作では容姿についての説明は乏しい。せいぜい、荒芽山での「悪い人そうではない」といったところか。信乃よりは地味でもよいけど、美男子という記述があればよいのにね。なお、武士の子でありながら下男として育つのは一種の貴種流離譚ともいえる。大角(礼):学識は八犬士随一。現八と友情を結び、父に化けた化け猫を退治した後は行動をともにする。眉目秀麗かつ文武両道なのだが、武の方はあまり強調されておらず、どことなく江戸時代の模範的武士の趣がある。一説によると作者の知人がモデルとか。毛野(智):対牛楼の仇討ち、関東会戦での皆殺しと、ある意味、闇を感じさせるキャラ。仁と智はやはり別物なのだろうか。女装すればどこからみても美女という絶世の美少年で、身も軽い。ただ、NHKの人形劇ではさほど美少年ではなかったのが残念。まあ、あれは二次創作なのだが。道節(忠):登場からインチキ行者としてでてくるので怪しさ十分。火遁の術を会得していたが後に封印した。気性が激しく、八犬士が集まってからも過激な意見を言って、たしなめられる場面が多い。円塚山や湯島の場面では詳細な容姿の記述があり、一癖ありげな美男子のようである。率先した発言や行動が多いが、知恵は毛野、大角、信乃、荘介に劣るようである。現八(信):八犬士は基本文武両道なのだが、小文吾とともに、どちらかといえばの武闘派タイプ。柔や捕り物の名手。路銀が足りないときは京都で武芸を教えたが弟子たちが慕って離さなかったという記述があり、かなりの人望があったようだ。二次創作ではお笑い系のムードメーカーキャラにしたいところ。関東会戦では詳細な容姿の描写があるが、美男というよりも、どうも水滸伝の英雄のような容貌魁偉という方に近いようである。信乃(孝):父母の代からの詳細な記述があり、物語の最初から登場する。最大の見せ場の芳流閣の決闘の主役でもあるので、物語前半の主人公ともいわれる。目元涼しく鼻筋通り、優美な外見。そして最初に出てくる浜路、甲斐でであう同名の浜路はともに物語随一の美女で、ともに信乃の許嫁となる。最初の浜路は薄命で、母の悪行が祟ったという説明なのだが、今の読者はそんなことでは到底納得できず、二次創作ではほとんどが生きているという設定になっている。路用に乏しくなると、学問や武芸を教えて収入を得るのだが、現八のように弟子が慕ったという記述がないのはキャラの差なのか。小文吾(悌):現八とともに、どちらかといえば武闘派キャラ。色白大柄で相撲の名手。武蔵での猪退治、越後でのあばれ牛退治、終わり近く古井戸の大石をどかすなど、怪力エピソードがある。八犬士は道徳の化身という評もあるのだが、物語が動きだす前の行徳での行状をみると、武士に憧れて家業を嫌い、地元の腕自慢のヤンキーの親分格のようであり、道徳の化身のようにはみえない。八犬伝の余韻はまだ残っているのだが、日記での八犬伝の記述はこのくらいにしておこう。
2025年03月31日
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少子高齢化社会についての議論はいろいろあるのだが、社会意識の変化や社会問題といった観点から思うことを書いてみる。まず、大前提として、今の少子化は未婚化の結果であり、夫婦間の出生児数はほとんど変わっていない。従って、すでに結婚をしている夫婦に対する子育て支援策なるものの多くは、少子化対策としてはあまり効果が見込めないのではないか。従って、少子化がもたらす社会意識の変化や社会問題は未婚化のもたらすものといっても過言ではない。それではその未婚化のもたらすものとは何なのだろうか。第一に、「家意識」の低下である。先祖があって、子孫があって、そして家というものは連綿と続いていく。だからご先祖に恥じないように、子孫に迷惑をかけないように…こんな意識が多かれ少なかれあったものなのだが、そうしたものがなくなっていくわけである。まあ、ここでいう「家意識」なるものの良い悪いは別問題であるということを付言しておく。「家意識」がなくなるとどうなるのだろうか。叙勲とか叙位とかいうものの価値の低下である。こうしたものは子々孫々に伝わる家の名誉なのかもしれないが、独身で子供もいないという子弟にとってはさほどの価値はない。そして、お墓とか墓地に関する意識も変わる。二十年くらい前には高齢化社会を踏まえて墓地不足ということがさかんにいわれた。これからはお墓は不足するということで、急いで自分の墓を買った人もいた。しかし想定されたような墓地不足は起きていないし、むしろ墓じまいが進んでいるという。墓だけでなく、仏壇もむしろ仏壇じまいの方が多いのではないか。第二に、現象としての引き取り手のない遺体、引き取り手のない財産の増加、そして空き家や耕作放棄地の増加である。親はとうに亡くなり、子供もいないという人が増えれば当然そうなるだろう。遺体は最低限公衆衛生の問題であるし、引き取り手のない財産は国庫帰属になるのだが、いずれはそうしたものを処理管理する部署が必要になってくるのではないか。過疎地でもない東京近郊でも、さがせば空き家が目につく。そうしたものの中には相続人不在のまま放置されたものも多いが、いつまでもほっておくわけにもいかない。第三に高齢の独身者の大量出現という近未来図である。ロスジェネの先端はすでに50代であり、その中には安定した就業につかずに年金も不十分という人も多い。5080問題というのも、その中の一部であるともいえる。かなりの部分が生活保護受給に移っていくと思うし、ある意味、自分の人生が見えてくる年齢になると、そのやりきれなさを親にぶつける人もいるし、方向を変えて、社会に向けるという人もいるだろう。滋賀のタワマン夫婦殺傷事件のような親族間殺傷事件やわけのわからない通り魔事件は今後も増えそうである。
2025年03月30日
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南総里見八犬伝を読んだのだが、これはぜひ多くの人におすすめしたい。なにしろ、物語が非常に面白い。こうした長編については、人気漫画の引き延ばしのような中だるみがしばしば指摘されるし、南総里見八犬伝についてもそうした指摘がある。たしかに、親兵衛が主役となる部分は無敵の10歳童子という設定が感情移入しにくく、それまでの七犬士離合集散編に比べ、面白みにかける気がするので、昔読んだときにはこのあたりでリタイアした。そして、その後の関東会戦も三国志や平家物語、太平記の焼き直しのような作戦が多く、軍記物語としては傑作とはいいにくい。ただ、離合集散編だけでは、冒険小説としての面白さがあっても、八犬士が集まってから何をしたかが描かれないと物語としては完結しない。それにまた、数多くの登場人物の結末や名刀村雨丸の行方も最後の最後に描かれている。八犬伝は、二次創作の小説や映画はたくさんあるのだが、多くは物語を改変しているだけでなく、親兵衛編や関東会戦まで描いたものはたぶんほとんどない。だから、物語として完結した形で読みたければ原作をよむにしくはない。南総里見八犬伝は、古典といえば古典なのだが、江戸時代末期に老若男女が読んでいたものなので、平安文学などに比べるとはるかによみやすい。そして全体が五七調になっており、ある意味、その文体が命なので、俳句が現代語に訳すと別物になってしまうように、現代語訳はおそらく無理である。原作を忠実に再現した映画やドラマがあったらよいとも思うが、あの五七調の語りがなくなると、特に親兵衛編などはファンタジー色が強く子供向きのようになるのかもしれない。
2025年03月29日
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南総里見八犬伝は発端の八つの玉が飛び散るまでの部分(これもかなり長いのだが)を除くと、だいたい親兵衛を除く犬士達の離合集散編、親兵衛を主人公とする反賊討伐及び京都での冒険編、八犬士集合後の関東会戦編に分けられる。このうち親兵衛を主人公とするところは、親兵衛自体が無敵でやや人間離れしているため物語としてはやや大味で、やはり一番人気のあるのは犬士達の離合集散であろう。映像や二次創作もこのあたりが多い。犬士達はそれぞれに格好よく人気もありそうなのだが、子細にみると、関東会戦の陸戦で防御使になる信乃、荘介、副防御使になる小文吾、現八、そして海戦で主に活躍する道節、毛野はかなり違うように見える。独断をもっていってしまえば、信乃、荘介は軍記物語的ヒーロー、小文吾、現八は水滸伝型ヒーローというのだろうか。信乃、荘介は、文武両道の正統派ヒーローとして描かれているのに対し、小文吾、現八は八犬士の中では文の方はやや劣っている(これは、八犬士の中ではということで、一般基準では文武両道)が、そのかわりに、個人戦としての見せ場がある。こうした個人戦の描写は水滸伝に何度も出てくる。この4人に比べ、道節と毛野は最初は謎の人物として登場する。それだけに物語の中では格好良く、演じる役者にとっては、いわゆる「おいしい役どころ」だろう。こうしてみると、やはり無敵の神童親兵衛と大角はちょっと異質で、大角は作者と親交のあった人物がモデルに比定されているという。八犬伝の物語は一世を風靡し、今でいうキャラ商品や二次創作もあふれ、老若男女、都鄙を問わずに読まれていたようである。たぶんそうした人気は明治以降も続いたのだろう。そのため、近代文学を提唱した文学者が、人物が類型的だとか、物語がご都合主義的だと批判したのは、八犬伝にとって不幸なことだったのだろう。読んでみると、本当に面白いし、世上言われるような中だるみもない。五七調の美文は心地よく、古典と言えば古典なのだが、平安文学に比べるとはるかによみやすいので、手に取ったら意外と夢中になるのではないか。こうした江戸時代の戯作を否定し、自然の人情を描く近代文学もまた、どうでもよい私生活を綴った退屈な私小説を大量に生み出した。それが悪いとはいえないのかもしれないが、個人的には、どこで何を食べたみたいな描写ばかりが目立つ私小説はあまり面白いとは思えない。
2025年03月28日
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南総里見八犬伝(九)を読んだ。かつて読んだときにはこのあたりでリタイアした記憶がある。しかし、今読んでみると、軍記物語のような趣があり、これはこれで面白い。難をいえば、伏姫の冥助が都合よく出すぎることと、作戦が平家物語、太平記、三国志にでてくるようなものが多くオリジナリティがないことくらいだろうか。それでも面白いことには変わりない。 そしてこの里見対関東管領軍との戦いは親兵衛以外の七犬士がメインであり、それぞれの個性も描き分けられている。八犬伝をもとにした映画などでも、八犬士集合後は描かれていないものが多いが、集合後のこの会戦の部分も不可欠であろう。 親兵衛はこの会戦には途中参加でさほど活躍していないのであるが、親兵衛は終始、仁の玉をもつだけに、人を殺すことには消極的な別格の犬士で、殺戮の場にいなかったというのは作者の用心と思われる。かわりにこの会戦の場で異彩をはなつのは智の玉を持つ軍師毛野と敵中に潜入する大角であり、特に大角には、ここまでは博識の文人というイメージが強かったので、ここで一流の武将としての見せ場を作るという作者の意図を感じる。 里見八犬伝は完結までに二十数年を要したのだが、物語自体は犬士達の運命が動き出すところから会戦までは六年の出来事で、八犬士もまだまだ若者である。若く優れた八人が安房に集結して、仁政を旨とする主君のもとで、理想の社会を作るという一種のユートピア小説といった趣もあり、この会戦がおわった後も読むのが楽しみだ。人はなぜ小説を書くのだろうか。作者によって様々なのだろうけど、最近公開された映画「八犬伝」のように、作者はこの小説の中に作者自身の理想を描きたかったのかもしれない。
2025年03月24日
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最近、熊谷市に行く機会があった。熊谷は東京近県の中で、東京への通勤圏を越えたところで、神奈川で言えば小田原のような位置なのだろうか。ベッドタウンとは違う地域の核都市らしい雰囲気のあるところである。こうした都市にはよくその都市を代表する百貨店があるものだが、熊谷市にもそうした百貨店がある。昭和の頃には百貨店に行くというのは、家族ぐるみの娯楽のようなもので、子供にとっては屋上での遊園地も楽しみなら、よい子にしていれば連れて行った貰える約束の食堂も楽しみであった。今は屋上に子供の遊戯施設を置いているところも見かけなくなっている。最近ではこうした都市を代表する百貨店が次々と消えているというのだが、熊谷市の百貨店は、まだまだ元気なように見えた。エレベーターは展望式で屋上にもまた展望スペースがある。市内の様子がよくみえるのだが、中心部であるにもかかわらず、駐車場が目につく。人口減少の影響がこうしたところにも出ているのだろう。また、昔はにぎわっていたであろう百貨店近くの商店街もシャッターをしめたままというところが目立つ。人口減少とか少子高齢化というものは、数値だけだと実感しにくいのだが、実際の街なみなどを見てみると、あちこちで実感できる。日本の人口は減少していくのだが、それは均一に減っていくのではなく、都市への集中をともなって現象していくので、もともとの過疎地の限界集落化の次には、地域の核都市で人口の急減ということが起きるのではないのだろうか。なお、この熊谷市には星渓園という回遊式の庭園があり、無料で観覧できる。池を囲んだ庭園そのものはよいのだが、季節のせいか水が汚れていたのが少し残念であった。
2025年03月23日
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30年前サリン事件が起きた。毒ガスを使った前代未聞のテロで、もし、あのサリンの純度が高ければ、国家の根幹が揺らぐほどの事態になったのかもしれない。事件直後、二種類の人々がテレビ、新聞、雑誌を席巻した。当時はインターネットは普及しだした頃で、いわゆるオールドメディアが圧倒的に優勢な時代だ。二種類というのは、まず一つはオウム側のスポークスマンの人間、そしてもう一つはオウムウォッチャーといわれるカルト問題に強い評論家や弁護士、そして精神科医などだった。オウム側の人間でテレビを席巻した人はなぜか人気者になって、女子高生のファンまでついたという。まあ、広報部長はなかなかの美形だったし、顧問弁護士も今でいえば韓流ドラマの脇役っぽい雰囲気があってむべなるかなであった。ファンについては非難する声もあったかもしれないが、視聴率がとれると思ってテレビにだせばそりゃあ、ああなるだろう。一方、オウムウォッチャーは多彩なようで皆似たようなことを言っていたと思う。あの犯罪はカルトの教祖に犯罪とは無縁の信者達が「マインドコントロール」されて起こしたという解釈である。信者は被害者だ、彼らを犯罪者扱いするのは問題なので破壊活動防止法適用には反対だ…という具合である。しかし、その「マインドコントロール」なるものの中味はいくら説明を聞いてもよくわからない。カルトはマインドコントロールをする、カルトとはそういうものだというのであれば、結局それはトートロジーではないか。貧困、障害、社会からの隔離など、あの教祖がいかに自分の不条理な運命に憤りを感じたか、そして恵まれた人間にいかに憎しみを感じたかというのは、よくわかる。ただ、なんの専門知識もない教祖があれだけの犯罪を主謀したとは、思えない。そしてまた、実行犯たちの心理となると、これはさっぱりわからない。何人かの幹部は「オウムと私」、「悔悟」などの本を書いていて、そうしたものは読んだことがある。ただ、読んでみてもわからないのである。教祖を非難しながら、なぜサリンを撒いたのか、その説明があまりない。人間この不可解なるもの…サリン事件のあった季節になると、いつもこの言葉を思い出す。
2025年03月20日
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南総里見八犬伝にはところどころに作者の付言がある。これをみると、里見八犬伝はすでに評判となり、江戸や大阪で歌舞伎や浄瑠璃になっているだけでなく、錦絵や神社の絵額や灯篭にも八犬士の絵が描かれていたという。それだけではなく、煙草入れ、うちわ、子供の腹かけにも八犬士の絵が描かれていたというのだから、昨今の人気アニメのキャラやグッズがあちこちで売られていたのと似たような状況だったのだろう。今でいえばドラゴンボールか鬼滅の刃のようなものなのかもしれない。ところで八犬士の絵といっても、今日の漫画と違いイメージがわきにくいのだが、岩波文庫版には原本の挿絵も収録されており、読み本はふんだんな挿絵とともに娯楽として読まれていた。挿絵は浮世絵のような画風で、役者絵にも近い印象だ。ヒーローの八犬士は歌舞伎で人気役者が演じ、それがまた役者の人気、原作の人気を盛り上げていたのだろう。今でいうメディアミックスであり、江戸後期に、これだけの大衆文化の隆盛があったのは驚くほかはない。里見八犬伝は偏見と独断で分けると以下のようになるのだろう。結城合戦から八つの玉の飛散までの発端部分八犬士の出現から親兵衛を除く七犬士の武蔵穂北への集合第一の犬士である親兵衛の出現と反賊蟇田素藤の討伐、結城法要での八犬士会同親兵衛の京上りとそこでの冒険管領軍と里見軍との関東会戦その後の大団円?それぞれに趣が違うのだが、一番人気のあるのは、芳流閣の決闘などがある二番目のあたりだろう。有名な場面もそこにあるのだが、よくよくみると、犬士達は、さほど強力な相手と戦っているというわけでもないようにみえる。ただ、歌舞伎などにすると面白いところなのだろう。昔、読んだときには親兵衛が出て来てから急につまらなくなり、関東会戦の途中でリタイアしたのだが、どこでリタイアしたのかすら記憶にない。そのくらいに惰性で読んでいたのだろう。今、関東会戦のところを読んでいるのだが、非常に面白い。江戸時代には擬古典的なものが流行り、源氏物語もどきのものが共通テストにもでているようだが、擬古典のなかには軍記物もあり、ここのあたりは見事な擬古典の軍記物になっているようである。
2025年03月19日
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中学生の時の国語の先生が南総里見八犬伝の話をしたことがあった。それは、日本に近代文学が始まる前の悪い小説の例として…。曰く、登場人物が善玉悪玉に分かれていて類型的、曰く、高殿から落ちたところにたまたま舟があったなどご都合主義的なストーリー、しかし最後に先生はこうもいった。「すごく面白いんだけどね」と。明治になり、日本にも西洋風の近代文学なるものが芽生えた時期、やはり里見八犬伝のような小説が批判された時期があった。どうも、このあたりが、里見八犬伝があまり評価されていない最大の背景ではないのだろうか。源氏物語は、本居宣長が日本的美意識の精華として評価され、今にいたるまで多くの研究所や解説書、現代語訳がでている。これに対して里見八犬伝は文学としての研究は少ないし、それをもとにした漫画、小説、映像は多いがいずれも原作を大いに変えているものがほとんどだ。実際に読んでみると登場人物は決して類型的ではないし、八犬士も昔の評論家が言ったような道徳の繰り人形ではなく、それぞれにキャラがたっている。そんなわけで、八犬伝キャラの中で思いついたものをいくつか評してみる。船虫 若くもないし絶世の美女でもないが、文学史上の稀代の毒婦とされている。最初は夫婦で旅人を襲う盗賊の妻(水滸伝の母夜叉に似ているが武芸の心得はない)、次は化け猫が変化した郷士の妻、さらに越後の盗賊団の首領の妻、最後は逃げのびた盗賊のかたわれと夫婦になり辻君になって客を襲う。まあ、悪いといえば悪いのだが、そこそこ美人で女にしては腕力があり、頭の回転が速く口が上手いという犯罪者は今でもいそうだなあ。例えば時効直前まで逃げ切った絞殺犯とかね。それに不倫とかはしていないし、逆に最初の夫の仇を執拗に狙うなど案外と貞女(最初の夫に対して)なのかも。亀笹 これも悪役なのだが、欲深でいじわるというだけで、改めて読むとさほどの悪女とも思えない。親から捨てられた濱路を令嬢として育て、行き倒れの母の子の額蔵も下男としてだが幼児のうちから家にいれている。美男で遊び人の浪人の左母次郎は気に入っているが不倫をするわけではない。孤児になった信乃のところには話し相手にもなるようにと額蔵を派遣する。最後のところを除けば、そんなに悪くもないのでは…。濱路1、濱路2、夏引 濱路1は薄命な美女で、親の悪行が子に報いで昔はこれで読者は納得したのかもしれないけど、新八犬伝などでは生きているという改変が多い。濱路2は幼児期に鷹にさらわれ、お姫様としての出自がわかり、お城に戻ってからも、化け狸にさらわれかけたり継母夏引の幽霊になやまされたりと美人は辛いよといった受難にみまわれる。特に気の毒なのは夏引が不良武士と不倫をしたうえ、父殺害にも関係し、おまけに濱路を売り飛ばすことまで考えるとんでもない女だったこと。ちょい役なのだが、夏引の悪女度はかなり高い。音音(おとね) 武器をとっては大活躍の最強のおばあちゃん。水滸伝の梁山泊にも女性はいるが、おばあちゃん戦士はいない。若い女性にしなかったのは、八犬士の恋愛相手にならないための作者の用心なのかも。他のキャラについてもおいおい書いてみよう。
2025年03月18日
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南総里見八犬伝第九集は非常に長いので、岩波文庫の八巻、つまり管領方との決戦の前まで読んだ感想を書いてみる。以前、読んだときは、この決戦の途中でリタイアしたように思うが、今回はとりあえず完読をめざそう。前にリタイアした理由をつらつら考えてみるに、まず、9歳の親兵衛が主人公というあたりで、読む意欲が減退したことと、そして化け狐、化け虎、化け狸などファンタジー色が強くなりすぎたこと、最後に親兵衛があまりにも無敵で完全無欠すぎて、それまでのような冒険譚としての面白みがなくなってきたように思えたことが理由であった。実際に当時の読者にも、八犬士が揃ったところで物語を終えた方がよいとか、化けものが出すぎるのではないかという感想はあったようであり、それに対する作者の考えも載っている。たしかに、八犬士がただ揃うというだけだと、物語として中途半端だろう。改めて読んでみると、親兵衛が主人公の部分も、いわゆるそれまでの「血わき肉おどる」タイプの面白さはないが、けっしてつまらなくない。むしろ、過去の人物の伏線回収もあるので、それはそれで興味深い。八犬士はそれぞれ将(親兵衛は途中まで別行動)となり、関東管領軍と戦うわけだが、この部分も物語上かかせないだろう。八犬士はそれぞれが文武両道の優れた英雄的人物として描かれているのだが、親兵衛を別にすると、さほどの大敵と戦っているわけではない。敵討ちという暗殺もヒット&ランだし、悪女船虫も普通の人間で、一緒にいるのも盗賊などで、とりたてて凄い能力があるわけでもない。作者もこのあたりを執筆した頃には息子の死や視力の衰えなど、生活上の不幸があったという。そうした中でフィクションでは若い英雄的人物の活躍を描いていたわけである。
2025年03月17日
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かの星の百まり八つのそれよりも此のくし玉や光まさらむ八犬伝には刊行ごとの漢文、長歌、短歌の序文があり、標記のものはその一例である。荒唐無稽といえば荒唐無稽な物語なのだが、子供に限らず、相当に教養高い層にまで読まれていたことがうかがえる。「百まり八つのそれ」というのは水滸伝なのだが、水滸伝よりも面白いというのがその趣旨だろう。水滸伝を漢文で読みこなしていた層がどのくらいいたのかは不明なのだが、旅人を殺して金を奪うだけでなく、人肉饅頭を作って売っている盗賊夫婦とか、二つの斧を振り回して老若男女見境なく殺しまくる者が好漢として梁山泊の英雄になっているのは、どうも多くの人に受け入れがたかったのではないか。そのあたり八犬伝では考慮されていて、対牛楼の仇討ちでも、仇やその息子には手を下しても、妻や幼い娘は護衛の武士が梯子からおちたことで、押しつぶされて死んだということになっている。第九集は非常に長く、今は親兵衛が姓を賜る勅許を得るために京に行く場面を読んでいるのだが、江戸時代は弱体化していたといわれる皇室の権威が描かれているところが興味深い。滝沢馬琴も膨大な古書籍を読んでいたのだが、知識人を中心に御政道は本来天皇がするものだといった概念が広がりつつあったのかもしれない。挿絵には里見家の幟に中黒が描かれている。中黒といえば源氏の新田氏の系統で、里見家はそれにあたる。徳川氏も先祖の徳阿弥は新田源氏の系統を自称していたので、物語の中に将軍家の上には天皇家があるということの暗喩と思うのは深読みに過ぎるのだろうか。
2025年03月13日
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私立高校の無償化が議論になっているのだが、ネットなどでみるとどうも反対意見の方が多いようだ。子供の数は減少しており、このため、塾や予備校の廃業も相次いでいる。そうした中で、私立高校の経営も相当に苦しいものと思われるのだが、どうもこの私立高校の無償化というのは、そうした私立高校の救済策ではないかと思えてならない。公立高校は統廃合されても職員の失職という問題は起きないが、私立高校の廃校はそうはいかない。それはわかるのだが、少子化で子供関連産業が消えていく中、私立高校だけを延命させる理由はあるのだろうか。また、私立高校を無償化すれば、二番手以下の公立高校の人気低下ということも起こりうるし、こうした施策を行っている大阪では現にそうしたことが起こっている。効率が消え、私立が生き残れば、その先になにがあるのだろうか。私立は小学校や中学校から生徒を囲い込もうとする傾向があるので、お受験はますます過熱するので、多くの家庭では結局教育費がかかることになる。また、私立無償化で貧困家庭の子供も私立に行くという選択肢ができるという人もいるがそうはならないだろう。多くの私立高、それも人気のある私立高ほど、授業料が無償化した分だけ、制服デザインや校外教育のメニューを充実せさるだろうから、そこで金がかかることにはちがいはない。ある政治家はゆくゆくは私立大学の授業料を無償化するなどということをいっているが、これこそ愚策中の愚策ではないか。一定水準以下の私立大学は教育機関というよりも、天下りのための機関になっており、学生は貴重な時間と高い授業料を払っても、それにみあう待遇の就職口があるわけではない。優秀な人材を家庭の経済状況にかかわらず育成するというのであれば、国立大学の授業料を昔のように安くすればよい話であり、国策としても少なくとも理系に関しては激安にすべきだと思っている。バラマキがゆるされるような時代ならともかく今は財政に余裕はない。こんな愚策が検討される一方で、生命切り捨てのような高額医療費の負担増が言われているようでは、本当に次の選挙で激震が起きるのかもしれない。
2025年03月12日
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日本は1995年に人種差別撤廃条約に加盟したが、加盟が遅れた背景として、人種的憎悪の流布や人種差別の扇動を禁止し、法律上の犯罪とすることを義務づけた条項が、表現の自由と抵触するおそれがあるとされたためである。条約のこの部分については、留保が付され、今でも人種差別の禁止に関する包括法は設けられていない。とはいえ、今日の世界では、人種差別は禁止され、中には犯罪とされる国も多いので、人種の問題はかかわらない方がよいテーマになっている。能力の差など人種間であってはならないし、統計的にあったとしたら、それは経済状況や環境の差であるとされる。例えば、ある人種について走力などの運動能力が低いということがあれば、それは、そうしたものを軽視する根強い文化があるからということになるのだろうか。それとも同じ能力であっても身体的能力の差異をいうのはOKであるが、知的能力の差異はNGなのだろうか。このように、人種差別撤廃条約の加入には、ここまで表現の自由を考慮して慎重だったのに、昨今の罰則もついたヘイト規制条例については、あまりこの点が議論されないのはなぜなのだろうか。それどころか、普段は人権を声高に主張している人ほどヘイト規制条例を歓迎しているようにさえみえる。普通の市民にとっては罰則というのは強いインパクトがある。そして条例の条文を読めば、普通の言論はまず入らないにしても、罰則付きの条例が存在すること自体による委縮効果というものもある。欧州では、移民が集団で住むことによる住民との軋轢や治安悪化が社会問題となっている。もしも、日本の一角でこうした問題があった場合、それを指摘すること自体がヘイトととらえられかねない。欧州のように問題が拡散し深刻化したら手遅れであることが多いのに。
2025年03月11日
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昔、NHKの人形劇で「新八犬伝」というのがあった。坂本九の軽妙な語りや日本的な効果音、丁寧に作られた人形、そしてなによりもけっこう難解な言葉などもでてきて、子供にこびない作りになっていたのがよかった。そして新とつくだけに原作の物語は改変されていたのだが、それがうまくできていて、実は南総里見八犬伝を最初に読んだのはその頃であった。人形劇の方は越後編のあたりまでは、うまく原作を活かしていたのだが、いつのまにか椿説弓張月が入ってきたりして、なんだこれは…という状態になってしまったように思う。ただ、八犬伝関連のサイトをみてみると、NHKの人形劇の印象が強く、この再放送を希望する人は多いようである。もう一度、人形劇でも実写でもアニメでもいいと思うが、八犬伝を映像化すればうけるのではないか。化け猫や化け狸の物語もCGを使えば映像化できるだろう。ところで、八犬士をみてみると、現実的な設定タイプとファンタジー系のタイプがあるように思う。幼児のときに神隠しに遭い、伏姫の神霊の下で育って、9歳なのに16歳くらいに成長している親兵衛はファンタジー系の最たるものだし、3年間母の胎内にいたという絶世の美少年の毛野もファンタジー色が強い。母親の死体とともに土中にいてよみがえった道節も火遁の術を使う怪しい人物として物語に登場する。一方で、大塚村の信乃と荘介、そして行徳に縁のある現八と小文吾は、それぞれ農村、漁村の若者として物語世界ではリアリティがある。二人はそれぞれに幼馴染であり、義兄弟であるのだが、逆境の中で疎遠を装っていた信乃と荘介に比べると、現八と小文吾の境遇は明るい。不思議なのは犬村大角の設定である。実父が化け猫にすりかわっていたという設定はファンタジー的なのだが、学問、武芸に励みながら、実父との軋轢にいやけがさし、物語登場時には仏道修行に励んでいたという人物像は一番現実的である。南総里見八犬伝もかつてリタイアしたあたりをすぎつつあるのだが、いろいろと興味深い物語である。
2025年03月10日
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千葉県は市川市で少年による一家殺人事件が起きたことがあった。面会に行った母親に対して少年はこう言ったという。「今度は長くなりそうだから、国家試験の参考書を差し入れてほしい」と。女子高生コンクリート殺人の被告たちが軽い刑ですんだので、自分も少年だし、そんなに重い量刑にはならないと思っていたようだ。さすがに4人もの殺人となると、極刑となり、すでに執行もされている。この事件に限らず、少年だから大した罪にはならない…という感覚は犯罪を犯す少年の間ではけっこう蔓延しているのかもしれない。闇バイト事件でも、強盗の五年以上というのを、五年だと思っていたなんて言う人もいたくらいなのだから。また、別の事件ではこんな少年もいたという。法廷で「殺した〇〇君の分まで長生きして幸せになります」と。おそらく、弁護士は更生の可能性が高いことをアピールするつもりでアドバイスをしたのだろう。その結果、被害者遺族の感情を逆なでするような発言になったのだが、つらつら考えてみると、更生というのは、まさに出所後、二度と罪を犯さず、社会に適応するということなので、かの発言も、まんざら間違いでもない。さすがに犯罪者が犯罪の手記をだして印税を稼ぐことには反発があったようなのだが、高校一年で同級生を殺害し遺体の首を切断した人物が少年院出所後に、勉強にいそしみ、弁護士になったという例もある。これだって言葉の意味を考えれば更生ということになるのだろう。刑事裁判では、事件の態様、反省の度合い、そして更生の可能性が考慮されるというのだが、あえて再犯を宣言しているようなケースは別にして、更生の可能性というのは、あまり考慮しなくてもよいのではないか。早く出たい、社会に戻りたい、幸せになりたい…そんなことは誰でも考える。しかし、それはあたりまえのことであって、逆にそれを前面に出すことは、反省はどうなっているのと問いたくなる。まず反省あっての、更生ではないか。
2025年03月08日
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昔、南総里見八犬伝を読んだとき、親兵衛が出てきたあたりでつまらなくなりリタイアした記憶があるのだが、今、読んでみるとそのあたりもなかなか面白く、最初に読んだ頃よりもかえって先を読むのが待ち遠しくなっている。狸の化け尼や狐の報恩など今の感覚では子供向けのようなのだが、これも江戸時代の伝奇物語はこういうものだとわりきって読むようになったからだろう。南総里見八犬伝は二次創作は沢山あるのだが、原作そのものはあまり知られていないように思う。それでもやはり原作のファンはいるようで、下記のようなサイトがあり、なかなかに面白い。伏姫屋敷-南総里見八犬伝のホームページ江戸時代には大人気で女性の間でもけっこう読まれていたという。八犬士はそれぞれにかっこよく、キャラ毎にファンがいたのだろうし、今でいうメディアミックスというか、歌舞伎にもなっていたので、演ずる役者もまた人気があがったのだろう。江戸時代に腐女子がいたかどうかは知らないが…。
2025年03月07日
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私立高校の無償化など教育費支援の動きが活発化している。もちろん背景には維新との関係など政局もあるのだろう。こうした教育費支援は少子化対策との関係で議論されることが多いのだが、実際のところはどうなのだろうか。日本における少子化は未婚化の結果であって、結婚した夫婦の完結出生児はほとんど変わっていない。そうであれば取るべき方策は、未婚であっても子供を望む女性が子供を持てるようにサポートをしていくか、あるいは現在結婚を躊躇している人が結婚をしやすくなるようにサポートをしていくかの二つだろう。前者は議論があるとしたら、後者ということになるのだが、結婚を決める場合に、子供のことは当然に考えるが、それはまず保育の問題であって、高校生や大学生になったときの教育費を考えて結婚を躊躇する人はまずいない。ところで保育であるが、今、週末に街を歩けば、店は開いているし、業務車両は走り回っているし、土日も仕事をしている人々も多い。もちろん若い人もいるだろう。ところが保育所というのは土日は閉まっているのが普通である。子育て支援には土日も勤務している人は念頭にないのだろうか。それに限らず、子育てというのは、余裕の時間や金がなければまずできない。一人口なら食えぬが二人口なら食える、でも、三人口なら破滅、10人口ならテレビに出られるという笑い話もあるくらいである。まあ、結婚を後押しするような支援というのは、思いつかないのだが、いずれにしても、高校や大学の教育費支援というのは少子化対策とはあまり関係ないだろう。それではいったい高校授業料無償化、あるいは大学の教育費支援というのは、なんのためかといえば、これもよくわからない。
2025年03月06日
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エンゲル係数が43年ぶりに28.3%と高水準になったという。このエンゲル係数というのは、消費支出に占める食糧費の支出の割合であり、一般にこれが高くなるほど貧困であるとされる。エンゲルは19世紀のドイツの社会統計学者であり、彼が1858年に発表した論文にちなみ、エンゲル係数といわれる。なお、諸外国のエンゲル係数をみると、これは検索するとすぐにでてくるのだが、主要国の中で日本が最も高くなっていて、それも最近になって急上昇していることがわかる。これをもって、日本が貧しくなっているのかどうかという議論はさておくとしても、気になる点を書いてみる。エンゲル係数は19世紀に提唱された概念であり、その時代には文字通り食うや食わずという人々が大勢いた。その時代に提唱された数値が、貧困と言っても飢餓は過去の話になっている主要国の貧困指標として正確なのだろうか。次にエンゲル係数は消費支出の中の食糧費の割合であり、貯金は含んでいない。19世紀のドイツにはあまりいなかったのかもしれないが、世の中には、支出は最低必要なものに限り、貯蓄を行っている世帯もあるわけで、こうした世帯は貧困世帯とはいわないだろう。以上のようにエンゲル係数を貧困の指標とすること自体に疑問がないわけではないのだが、最近のエンゲル係数の上昇には、共働き世帯の増加、高齢化、食生活の変化などが指摘されているという。これもよくわからない。共働きでは、出来合いの総菜など食費が高くなるという面はあるが、一方で家計全体では所得が増える分、日常的な食糧費の割合は低下しそうである。高齢化も同様で、手間をはぶくために外食や総菜に頼るという面のある一方で、食べる量そのものが減っていく。最後の食生活の変化となると、エンゲル係数が上昇した最近の時期になって高価な外食や食料が好まれるようになったという話はきかない。グルメブームなど今は昔の話だろう。その一方で、あまり言われていないのだが、エンゲル係数の上昇と少子化との関係はないのだろうか。子育て世帯の子供に対する消費は増加しているというが、子育て世帯自体が減っている。これを高齢者世帯でみると、孫に対する支出が減っていくことを意味する。ひな人形、五月人形などの孫消費市場もきっと減っているのでは…。いろいろと考えさせられる最近のエンゲル係数の上昇であるが、実際のところはどうなのだろうか。
2025年03月04日
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「南総里見八犬伝」第九集を読んでいる。八犬士も幼児のうちに神隠しにあった親兵衛を除き、七人はすでに集まり、武蔵国穂北の郷士のところにいる。八犬伝については、八犬士が集まるまでが面白いとよくいわれるのだが、八犬士が集まり、仲間の仇討ちにかかわっていくあたりも十分に面白い。第九集になると、親兵衛がいよいよ登場し、むしろ彼が中心となる物語が展開する。他の七犬士はそれぞれに個性ゆたかで、かっこよいのであるが、親兵衛となると、9歳の子供でありながら、伏姫の神霊に育てられたために無敵の力を持つという設定になっていて人間離れしてくる。以前、読んだとき、このあたりでリタイアしたのも、親兵衛にはどうも感情移入しにくかったからかもしれない。まあ、この部分はそれ以前の物語とは別の作品といってもよいのかもしれない。なお、ここでは蟇田素藤という大物の悪役がでてくる。盗賊の息子から身を起こして館山城主になったという人物であるが、その成り上がりの手段が神水の功徳で人心を得るという教祖のようなやり方であるのが面白い。昔からこういう手法で世を騒がす大悪人がいたのだろう。これにかぎらず、里見八犬伝には様々な悪役がでてくる。毒婦船虫は、四度にわたって登場するが、そのたびに夫を変え、夫とともに悪事をはたらく。口がうまく、人殺しなどなんとも思っていない女であるが、とびきりの美人でもなければ、武芸の達人というわけでもないのが、かえってリアリティがある。このほか、公金をくすねたり人妻と不倫をしたりする武士、主人を殺害して路用金を奪う下僕、そしてまた、甥の財産を横領する伯母夫婦など、作者が生きていた時代に実際のモデルがいたのかと思うほどに生き生きと描かれている。
2025年03月03日
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かつてある凶悪な少年犯罪事件で、犯人たる少年が被告人質問で、殺した〇〇君の分まで長生きして幸せになるといった例がある。あの最近起きた神居古潭殺人事件で犯人の19歳女がマスコミに公表した手紙も、記事の見だしは「責任と重い罪を背負う」とあったものの、中味を読むと、言っていることは殺した〇〇さんの分まで長生きして幸せになると言っているだけのようにみえる。「…勉強していて英語に興味がでてきたんです。…」として一日9時間から13時間勉強しているというあたりは、早期の出所と社会復帰、その先の幸せな人生を目指しているということなのだろう。おそらく「責任と重い罪を背負って生きたい」というくだりは弁護士の入れ知恵で、早く出所して幸せに長生きしたいというのが本音なのだろう。まあ、わからなくはないのだが、こうしたものをマスコミに公開したのは逆効果のように思う。それにしても不思議でならない。国民のうちの誰が望んだのかもわからない裁判員制度なるものは事前の世論調査もなしに導入された。そしてまた、18歳成人というのも、諸外国との均衡ということなのだろうけど、なにやら突然に導入されたという印象がある。その一方で、少年法に関しては世論と制度との乖離がかなりあると思われるのに、改正の動きは遅々としている。18歳で成人というのであれば、18歳を超えた人間を特定少年などという変な日本語で呼ぶのは奇妙としか思われない。国政の代表を選ぶだけの判断力は18歳で十分であるというのなら、人を殺してはならないくらいの基本的な判断能力も18歳で十分に完成しているとみるのが普通ではないのだろうか。
2025年03月02日
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