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早いもので、2005年も今日で終わり。皆様にはどんな1年でしたか? 個人的には、充実した1年だった。本も2冊出させてもらったし、カルチャーセンターなどでの仕事も増えた。夏には念願のイタリア語学留学(遊学???)も(2週間だったけれど。独身だったらもっと長く行ったな・・・)果たせたし、ついでにイタリア人のヴァカンスの生態も見られて面白かった。 音楽ツアーも3回催行できて、どれも満席だった。お仕事のパートナーの方々、そして本を買ってくださったりツアーにきてくださったりカルチャーにきてくださった方々、皆様に心より感謝。 でも、世の中は、明るくないですよね。 景気は(たぶん一部で)良くなっているようだけれど、人の心って、どんどんすさんでいるような気がする。刹那的というか。 子供がすさんでいるというけれど、大人がすさんでいるから、そうなるのだろう。 個人的に感じているのは、9.11の後、やっぱり何かが変わってしまったということ。変えられてしまった、のかもしれない。アメリカがどんどん強引になり、力の論理が前面に出てくるようになり、対立が煽られるようになり、強者がクローズアップされ、引っ張られる国が目立つようになった。残念ながら日本も。 大きな流れは目に見えにくい。でもすべてが、小さなところに反映されているのだと思う。すべてどこかで、つながっている、と思う。 色々考えることはあるし、いつか何かできればな、とも思う。思うだけじゃなくて、何でもいいからとにかくやらなきゃ、という声もある。それももっともな話だ。でもそう思っていれば、いつか「これ!」というものにめぐりあえる時もあるような気もする。 わけのわからないことを書いてしまったけれど、読んでくださった皆様に、どうぞ来年が幸の多い年でありますように。 世界が平和でありますように。
December 31, 2005
何年か前、「話を聞かない男 地図の読めない女」という本がベストセラーになったことがあった(今でも売れている)。 評判につられて、買って読んだ記憶があるのだが、読み進むにつれて不愉快になってきた。 だって、一貫して「決め付け」てくるんだもの。 たとえば。 女はおしゃべりが好き、長電話が好き、論理的思考ができない、好き嫌いで判断する、などなど。 これって、私にはほとんど?当てはまらない。 まずおしゃべりが苦手。人と話すのが嫌いなわけじゃない。人と会って話をするのは好きである。でも、自分の身の周りのことや、人の噂話やらを、時間を忘れておしゃべりするのは退屈。だったら家で本を読むか音楽を聴いているほうがいい。 長電話もめったにしない。だいたい電話が嫌いである。こっちの都合に関係なくかかってくるところがイヤ。仕事している時だってあるのに。 だから、メールという通信手段ができて、本当に良かった。つくづくありがたいと思っている。 好き嫌いで判断する。これはまああるていどはあるよね。でも、たとえばワーグナーは特に好きじゃないけど彼のやったことはそりゃもう理屈抜きですごい、とか、そういう判断のしかたはする。好き嫌いと能力は別だ、とは思う。女性のなかにはたしかに、「好き嫌い」しかものさしにしないひとはいるかもしれない。 論理的思考。これは、人にはそういわれる。以前喫茶店のマスターに、「理屈っぽすぎる」といわれたこともあり、まあ周囲から見ればそういう印象かもしれない。 ただ、だからといって、学者として一流になれるほど論理的な頭でないところが困るのである。 大学院時代、泣く子も黙る某大先生のゼミを、できが悪くてクビになったことがあるのだが、その時言われたのは、「物事を論理的に考えるくせをつけなさい」ということだった。 これって、学者としては致命的である。 学者であることをある部分投げ出してしまったのは、その大学で主流だった資料研究的なことに面白さを感じられなかったのと、このときのせりふが効いている、かもしれない。 いずれにせよ、どの点もかなり自分とは違うので、男女本を読んでいると、「お前は女じゃない」といわれているような気がして不愉快になるのである。別に女であることに不満はまったくないので・・・ そんなことを考えたのは、最近読んだある人気男性エッセイストの文章に、似たような文面を発見したからだった。 何とかしてー!
December 30, 2005
大掃除の季節である。 ふだんはさぼりっ放しの主婦業だが、大掃除くらいはしないわけにはいかない? というわけで、今日は休みにはいっただんなと手分けして大掃除。今日は締め切りすぎの原稿よりお掃除です・・・?(ごめんなさい・・・) 一応エコロジー?に気をつけたいと殊勝なことを考えている身としては、某健康雑誌の「重曹でお掃除」なんて記事を参考に、合成洗剤は使わないようにしような・・・なんて思うのだが・・・ これが、きれいにならないんですね。重曹。 場所によってはお酢と併用すると効果的、というので、やってはみるのだが(まあ中途半端なやり方ですが)、いまいち。 重曹だけできれいになる、といわれた風呂桶のなかも、いまいちなのである。 結局、お酢ならぬ合成洗剤を併用してしまった。 合成洗剤も、ずっと使っていると気分が悪くなって来るんだよね。体にいいわけはまずないだろうな。 悲惨だったのは台所の流し台など。重曹粉をまぶしたスポンジで拭けというのだが、いやはや、乾いたら重曹粉の跡?らしき白い筋がばらばらと。 あー、何と達成感のない大掃除だろうか。どっと疲れが出た。
December 29, 2005
以前このブログで、「音楽業界の謎」と題して、振込み日を伝えてくれない業界の慣習?について書いたが、レスもだけれど、当事者からの反応もあった。 あるホールの関係者は、ブログを見て肝に銘じて?早々に手続きを取ったというメールをくれたし(そうなるとそうなったで、なぜか恥ずかしくて恐縮してしまうのです)、これはブログとは直接関係ないものの、別の関係者が、「今度の原稿の振込みは・・・です」と知らせてきたときは、「ひょっとしてブログごらんですか?」と思わず返信してしまったものだ。 後で、これはまったくの偶然だと分かったが、その関係者も、同じような経験があるようで、「お金のことで迷惑をかけてはいけないですよね」とつくづく思っているようだった。 ここに書いているからには、誰が見るか分からないことは承知のはずなのだけれど、実際「見ている」といわれると変に照れてしまうものである。とくにこういう業界内部の内容のときは・・・業界の恥?体質?を洩らしているような後ろめたさがあるのだろうか。 けれど、考えようによっては、こんな私的な一石でも、投げないより投げたほうがいいのかもしれない。タブー(というほどでもないけれど)が破られれば、それに越したことはないから。
December 28, 2005
クラシックの代表的な雑誌に、「モーストリー・クラシック」がある。「音楽の友」など、硬い感じのものが多かったクラシック界に、かなりヴィジュアル&ミーハーな要素も加えて登場した雑誌だ。 その巻頭言を、人気評論家の黒田恭一氏が書いているのだが、今月号の巻頭言には快哉を叫んでしまった。 外来オペラが、とくに一流のものは、チケットの高額さのせいで一部のオペラファンにしか楽しまれないものになっており(これは当然だが)、一方でそれらの公演のテレビ、FM放送はさっぱり行われない、これではオペラの裾野は広がらない、という主旨である。 その反対の例として、黒田氏は過去にNHKが招聘した「イタリア歌劇団」の公演をあげ、これは何度も放送され、今日のオペラファンの土台を築いた、としている。これはまったくその通りだろう。 自分のことを考えても、最初にオペラに接して衝撃を受けたのは、テレビで放映されたイタリア歌劇団公演の「リゴレット」だったから。(ちなみにそのときは小学3年生でした)。 なぜ放映しないかというと、「放映権料が高すぎる」ということらしいが、それを何とか交渉しようという姿勢が主催者側に見えない、と黒田氏は苦言を呈していらした。 このままでは、ききたくともきくことのできないひとびとを置き去りにしてしまい、「新しい仲間など増えるはずもないオペラ砂漠」ができてしまうと、氏は警告している。 まったく、その通りでしょうね。 以前、出演したJ-WAveの番組で、オペラに行ったことのない番組スタッフに、「いくらなら行きますか」と聞いてみたところ、「ロードショーの2回分」といわれてしまった。3600円ですよね・・・まあせめて5000円というところか。 昨日の兵庫の公演もそうだけれど、コストパフォーマンスがよければ、今、オペラは満席になる。あるマネージメントが浜離宮朝日ホールで、ピアノ伴奏&独唱歌手3名でやった「マイクロ・オペラ 椿姫」も満席だったというし、おととい会ったミラノ在住の日本人歌手が、地元の掛川市の全面的なバックアップで、イタリア人も大勢招聘して企画した「椿姫」は、S券10000円という設定で、1日で売り切れたそうだ。 そのような努力はあるけれど、華々しく宣伝されるのも、浮かれ騒ぐのが好きな無責任な日本のマスコミが取り上げるのも、豪華一流劇場の来日オペラ。そしてそのチケット代が掲載されるたび、「オペラは高い」というイメージが刷り込まれていく。 マネージメントは、これでいいと思っているのかな。かなり刹那的な状況だと思うよ。赤字国日本が万が一破産した時、ほんとにオペラは砂漠になるかもしれない。 黒恭さんのテレビ放映の話、ぜひぜひ検討してもらいたい。某テレビ局の某ディレクター、いかがでしょう。
December 25, 2005
相変わらず寒いイヴである。 その寒気を押して、西宮まで行ってきた。 10月に開館した兵庫県立芸術文化センターのオペラ公演、「ヘンゼルとグレーテル」を見に行ったのである。 プログラムの解説をさせてもらったので、そのご褒美。交通費は自前だが、新しいホールを見たかった。 途中、名古屋から米原の間では、報道通りの大雪もあり、新幹線が遅れるトラブルもあったけれど、何とか無事に開演前に到着。 阪急の西宮北口駅から、直接つながる通路もできていて、アクセスはばっちり(少なくとも地元のひとには)。 まあたらしいホールは、木の香りもぷんぷんしてきそうな美しい内装で、大きすぎず小さすぎず、心地のいい空間だった。 女性用トイレが多いのもマル。ほんと、必須です。休憩時間、トイレ前に大行列するのは誰だってイヤだもの。 予定されている催し物も、旬の演奏家がかなり組み込まれており、内容的にも人気が高まりそうなホールだという印象を受けた。 肝心のオペラだが、これまた楽しかった。芸術監督の佐渡裕さんの姿勢の反映だと思うけれど、とにかく徹底的に楽しませる演出。鈴木敬介氏の演出も楽しんでいる感じでいきいきしていたし、とても分かりやすい日本語上演、親切なことに字幕もついていたが、これがまた秀逸だった。 合唱やバレエには地元のひとたちを起用、地域密着型であるのもいいよね。 装置も贅沢で、これでS券6500円は安い!3日間の公演がすべて売り切れというのもうなずける。 カーテンコールでは、指揮者の佐渡氏がサンタクロース姿で登場。また聴衆と一緒に、オペラのなかの曲を「歌いましょう、踊りましょう」とやって、かなり受けていた。シャイな?日本の聴衆も、けっこう立ち上がって手拍子で楽しんでいた。 そう、こういうオペラを続けられれば、オペラってもっとひろーく愛されるようになるだろうな。 そして、こういう素敵なオペラの仕事にかかわれて、とても幸せだな、と客席で思ってしまった。 プログラムの担当者にも挨拶させてもらったが、私の文章を読んでいてくれて、いつか依頼したいと思ってくれていたそう。感激。この仕事をやっていて一番幸せを感じる瞬間である。 演出の鈴木夫人と客席でばったり、終演後楽屋に連れて行ってもらった。体調悪いはずの鈴木先生は張りきりまくり、佐渡さん(エンターティナー)にもご挨拶できてラッキーでした。 最後に一言。ビュッフェだけはコストパフォーマンス悪し。明らかな安ワインがグラス半分くらいで800円、はないんじゃない?
December 24, 2005
寒いクリスマス三連休。いかがお過ごしですか。 今日はさいたま芸術劇場の音楽ホールで、BCJの「メサイア」を聴いてきた。あの合唱はほんとにうまくなった、とつくづく感心。最後の「アーメン・コーラス」ではぞくぞく&ジーンとしてしまった。 プログラム解説を担当させていただいたご褒美だったのだが、その解説で曲番号の訂正ミスをやらかし(「メサイア」は決定稿のない作品で、楽譜ごとに曲番号のつけかたが違い、私の所持楽譜と当日の使用楽譜の番号が違ったのです。直前に訂正したのだけれど訂正もれがあり・・・)、休憩時間に担当者に泣きついて訂正を出してもらった。あー恥ずかしい・・・ それはさておき、昼間は都内某所で歌手2人(日本人1、イタリア人1)、および都内某ホールの企画担当者と打ち合わせをしていた。 おそらく再来年にそこで開催してもらう、ヴェルディのレクチャー・コンサートの打ち合わせだったのだが、話は当然ながら色々飛び、来年のモーツァルト・イヤーに、イタリアではどのくらいモーツアルトの催しがあるの?なんて話も出た。 結構各地で、小さな催しもあるみたい。同席していたイタリア人女性歌手の話では、「モーツァルト時代のメニューの再現」なんてこともやるという。 「何が出るの?」と聞いたら、 「モーツァルトのオペラの名前をつけたメニュー」なんだそうだ。 じゃ、モーツァルトが食べたもの、ってわけじゃないかもね。 ところで、そのモーツァルト・オペラだが、イタリアでは「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」などは、そこそこ人気があるとか。イタリア語オペラだしね。 反対に人気がないのが、「魔笛」だという。 「どうして?」と聞いたら、 「宗教的な理由とかがあるんじゃないですか」(これはミラノ在住の日本人男性歌手)という返事だった。 「宗教的理由」って、フリーメーソンとかのことだろうか。そういう理由であの音楽に対してバリヤーを張っているとしたら、ずいぶん損な?話である。 そういえば、この間びわ湖で初演した「スティフェリオ」も、プロテスタントの牧師の話なので、カトリック国のイタリアではなかなか上演の機会に恵まれないという話も聞いた。まあ楽譜の不備(1990年代に発見)という事情もあるのだけれど。それにしても楽譜がちゃんとしてからは、ウィーンやチューリヒやメトではさっさと上演しているのにね。 そういう話を聞くと、オペラやクラシック音楽が「お国もの」の国って言うのも、けっこう大変だな、と思う。 宗教とか「伝統」とか(これはよくわかんないところもあるが)そのほかのタブーがいろいろあるから、保守的で、柔軟性に欠ける部分があるように思うのだ。 だから、イギリスや、それこそ日本そのほか東洋諸国のように、大作曲家のいない、伝統だ何だのない国から、いい演奏家が出てきたりするし、スイスのチューリヒのように、中立的な国だからこそ各国のオペラを充実させ、また冒険できる劇場が生まれたりする。とらわれのない分、自由になれるのだ。 いつも思うのだが、少なくとも音楽のような国際言語になっているものに関しては、「出身国」は最終的に、属性のひとつにしかならない気がする。それを拡大して錦の旗頭にするか、個性のひとつにとどめるかは、各々の姿勢次第なのではないだろうか。
December 23, 2005
今日で大学の授業も終わり。大学にしてはけっこう12月おそくまでやっているな、という印象なのだけれど。でも1月に入れば実質講義は1週だけなので、その分12月にじっくりやるということだろうか。 ところで、今年はいろいろな場所で話をさせてもらうことが増えた1年だった。 とくにカルチャー講座の仕事が増えた。 で、いつも感じるのだが、やはり大学と比べてカルチャーの受講に来る方は真剣さが違う。(カルチャー学校?によって多少の差はあるが)。 親掛かりの大学生と違い、自分から進んで貴重な時間と費用をかけてきてくれるのだから当然なのだろうけれど。 大学の通信教育部の夜間スクーリングも同様だ。単位を取るのが目的のひともいるから全員とはいえないが、かなりの確率でとっても真剣。いきおい、やりがいがある。 一昨日の月曜日は、その夜間スクーリングの最終日だったので、有志で帰りに食事をしました。初めて受講生の方に声をかけてみたのだが、10人くらいでファミレスで楽しくおしゃべりできた。(元銀ホスの可愛い子ちゃんもいて、さっそく男声陣がかまをかけていました???) で、話は元へ戻るのだが、熱心度という点では、どうしても大学が一番熱度は低いのである。居眠りはまだしも、遅刻、さらに途中退場はあまり愉快なものではない。おしゃべりは注意するから撃退できるのだが。 繰り返しだが、親がかりだし、一般教養の単位を取らなければならない、という事情はよくわかる(自分もそうだったから)。成績だって重要だしね(本当は成績なぞつけたくはないのだが)。講義を通して、オペラに興味を持ってくれる学生ももちろんいる。 けれど、反応のクールさやノリの悪さ(若いから照れもあり、仕方がないのは分かるのだけれど。。。こちらが学生に対してノリが悪いといわれてしまえばそれまでだが、大人相手の場合はそうはならない)を感じるたび、思ってしまうのだ。 本当は、無理に今でなくても、やりたいときにこういうことが勉強できたほうがいいのにな、と。 勉強するのは、若ければいいってものじゃない。やりたいときが、勉強する時なのである。たとえ年齢は行っていても、やりたいときに(カルチャーのような場所に)通ったほうが、吸収の度合いが全然違うように思うのだ。 教壇の向こうとこちらでのキャッチボールは、互いに熱意があったほうがいい。学びの時期というのは、人それぞれなのである。 そう、そろそろ、一斉教育なんてやめるべき、じゃないだろうか。
December 21, 2005
昨日も書いたように、モーツァルトの本を書いていたので、モーツァルトのオペラにかなりはまりこんでいた。ついでに大学やカルチャーセンターでも、モーツァルトを話しまくっていた。 で、つくづく思ったのは、いわゆるダ・ポンテ三部作、「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トウッテ」の普遍性と多層性である。 普遍性でいえば、昨日書いたような感情表現。とくに男女の間の微妙な感情表現について、この2人の右にでる台本&作曲コンビはそうそうないのではないだろうか。 一方多層性というのは、いたるところに「謎」があり、受けてによって色んな解釈が可能だという点である。いろんな演出が可能な幅広さがあるのだ。 以前、「ドン・アンナの謎」について書いたが、「ドン・ジョヴァンニ」でいえばドン・ジョヴァンニとツェルリーナの関係だってあやしいし、「コジ・ファン・トウッテ」にいたっては、心変わりしておいてすぐ元に戻るハッピーエンドの結末は、どう見てもおかしい、と思えてくる。 「ドン・ジョヴァンニ」もそうだが、ハッピーエンドに持ち込むための最後の曲はいらないように感じてしまう。「ドン・ジョヴァンニ」の、ジョヴァンニの地獄落ちのあとの重唱はいらないし、「コジ・ファン・トウッテ」も、姉妹両方とも心変わりしてしまった、その後のハッピーエンドに持ち込むためのどたばたはいらない、と思える。 まあ、両方ともオペラ・ブッファだから、定式にしたがってちょっと無理したんだろうけれど。 とにかく18世紀なので、お約束事が多いのはしかたない。「コジ」が、1日で心変わりするから非現実的というけれど、それは1日のうちに終わらなきゃいけないという決まりがあったからで、3ヶ月のスパンで毎日口説かれたら、落ちるほうがはるかに多いだろう。 また、男女を取り替えてみたらどうなるか、とか、色々考えさせられるのが「コジ」の面白さだ。 でもあんまり一般的には、受ける話じゃないみたい。 まあ、男にとっても女にとっても、面白い話じゃないことは確かですよね。 たぶんそれは、あまりにも現実的だから、じゃないだろうか。 オペラで非日常を味わいたかったら、これほど日常的なものを目の前に突きつけてくるオペラなんて、不愉快、なのかもしれない。
December 19, 2005
来年の生誕250年記念ということで、モーツァルト本を上梓した。 「さわり」シリーズと同じCDブックだけれど、「さわり」シリーズが単なる解説を書く仕事だったのに比べ、今度はストーリーを持たせ、読み物としてより価値のある本になったと自負している。 タイトルは「モーツァルト 愛の名曲20選」。以前このブログでタイトルについてご意見をいただいたのだが、結局「愛の名曲」になりました。 曲は、器楽と声楽がだいたい半々で、声楽は、オペラのなかの「愛」に関連する曲を選び、登場人物に託された「愛」の感情と、モーツァルトがどうやってそれを音楽で表現しているかについて、そして器楽作品では、その曲成立前後のモーツァルトの人生をなぞりながら、「ピアノ」「旅」「遊び」など、モーツァルトが情熱を注いだものについて触れてみた。 来週中には本屋に並ぶと思うので、もしご興味があったら手にとっていただけると嬉しいです。 ところで、これはあとがきにも書いたのだが、あのマリア・カラスは「モーツァルトは退屈」だと言ったそう。 また、オペラファンのなかにも、モーツァルトは感情移入できないからつまらない、というひとは案外多いようだ。 なかには、「感情を表現していないから」いや、というひともいる。 けれど、それはちょっと違うんじゃないかな、と私は思う。 「感情移入できない」というのはまだ分かる。モーツァルトの表現のしかたが趣味じゃない、というのも、無理もない話だ、と思う。趣味はひとそれぞれだから。 でも、「感情を表現していない」、というのは正当じゃない。やり方はそれは19世紀ふうのおおげさなものではなくて、18世紀の上品な?ものだから、19世紀の絶叫オペラになじんでしまうと、物足りなく思えるかもしれない。 でも、オペラのアリアにしろ二重唱にしろ、音楽をよくよく聴けば、モーツァルトが人間の感情、それも私たちにもおなじみの普遍的な感情を、じつに巧みに切り取っていることがよおく分かる。 たとえば「フィガロの結婚」の、ケルビーノの有名なアリア「恋とはどんなものかしら」。年上の憧れの女性の前で、少年が胸のときめきを打ち明ける曲だ。曲の間中聞こえているヴァイオリンのピッツイカートは、設定では小間使いの伴奏するギターの音。でもよくきけば、ケルビーノの胸のどきどきに聞こえてくる。 また中間部で調性が不安定になるのも、彼がだんだん興奮してくるようすを絶妙に表現している。そして彼がはっと我に返ると、音楽ももとに戻るのだ。 二重唱でいえば、「ドン・ジョヴァンニ」の口説きの二重唱「手に手を取って」。これも、口説く男と女の絶妙な駆け引きがばっちり表現されているのだ。女がその気になった瞬間がよく分かる。 というわけで、そんなことも書いてあるCDブックです。
December 18, 2005
久しぶりに、国会の「証人喚問」とやらをちらっと見た。 例の強度偽装問題。肝心の姉歯氏はもう終了していて、見られたのは内河というひとの喚問だったのだが。 これがお粗末きわまりなかった。 何がって、質問した議員の質である。 質問らしい質問もろくにしないで、身勝手なお説教をたれるだけ。それもねめつけるような調子で。まるで国民から委嘱された不満ぶつけ係。とくに自民党の議員(望月、吉田という2人)など、言い方がまるでやくざなので、いったいどっちが悪役?だかわかんないくらい。内河氏のほうがまともに見えてきてしまったから世話はない。 こういう議員って、よく言われる「いばりちらす」議員なんだろうな。 ドイツで旅行社を経営している知人が言っていた言葉を思い出した。 「お客さんのなかで一番いばるのが、政治家とテレビ局の人間」 たぶん前記自民党の2議員はこのタイプでしょうね。 あまり頭に来たので、夕方キオスクに並んでいた「日刊ゲンダイ」に、「こんな無能な国会議員に証人喚問をさせておく」云々、という見出しをみつけ、思わず買ってしまった。 ところで、その日刊ゲンダイを買う前に会った知人と、この話をしていたら、 「どうも自民党、公明党はこの問題突っ込まれたくないんじゃないか。だからわざと?つまらない質問をさせているのではないか」 という。 献金も含めて、いろいろつながっているんじゃないか、というのだ。 本当なら由々しきことである。それこそ、国会で追及してもらいたい。 まあこの調子じゃ期待できないけど・・・ それにしても、本当にそんなことがあって、このまま放置されて、地震で当の建物だけじゃなくて周りまで被害を受けたらどうするのだろうか。 どうやら政治家の想像力は、決定的にまひしているみたいだ。
December 15, 2005
ソフィアオペラの「オテロ」に行ってきた。 オケと合唱にはあまり期待できなかったのだが、主役が、フィレンツェでこの役を歌ってすばらしかったガルージン、そして相手役のデスデモナが、やはりこの役を得意としているロストだったので、そこに期待した。 結果はまずまず。オケと合唱の弱さはどうにもいなめないが、主役2人はやはり力量あり、他の独唱歌手もまあまあ揃っていて、歌唱的には楽しめた。 だんないわく「(2,3年前に来た)ワシントンオペラの、ドミンゴ&ゲルギエフのオテロよりずっといい」「NBS(一流の劇場を呼ぶが値段も一流の招聘元)の公演より、コストパフォーマンスはいい」。 そうかも。NBSの公演もだが、あのワシントンオペラはひどかった。ロートルのドミンゴに手抜きのゲルギエフで最高席6万円!それもNHKホール!末代まで語り継がれるべきハイコスト&ローパフォーマンスの公演でした。 それはともかく、今回ちょっと息を呑んだのは、隣のおじさまの「ブラヴォー」フライングでした。 第1幕が終わり、まだ音楽が鳴りながら幕が閉じかかったところで「ブラヴィー!!!」主役にも負けない?声量だったのでおもわずびくっ。 第2幕、イヤーゴの有名なソロ「クレド」のあとで、「ブラヴォッ!」 これにもたまげた。第1幕以上に。だって「オテロ」っていわゆる番号オペラじゃなくて、1幕を連続して演奏するオペラだから、いくらソロがおわっても途中では拍手やブラヴォーはしないから。 ところがそのおじさま、たぶんオールド・オペラファンなのだろう、「スカラ座やメトではね、こんなのは当たり前」なんて大声で話している。 うーん、ちょっと違うような気もするが・・・ ひやひやしていたら、休憩時間に、有名ジャーナリストのE女史が、係員に詰め寄っていた。 さすがジャーナリストだなあ、言うべきことはちゃんとすっぱり言う度胸と強さ、と感心してしまったのだけれど、女史がさらに主催者にも話をしているのを見かけたので、このままではまずいと思い、主催者側の知り合いをつかまえて、「私たちの隣の席」だと、列と番号を伝えておいた。 それで、主催者側の担当者も、私たちの席の近くに来て、おじさまに注意したのだが、 「きみは、何を言っているんだ」と、跳ね返されてしまうしまつ。 「音楽が終わらないうちの拍手や掛け声はお控えください」という場内アナウンスもあったのだが、いっこうに聞いていないようすだった。 ただ、さすがに、その後は大声は控えていたのだけれど。 拍手やブラヴォーのタイミングは難しい、とよく言う。でも、一番大事なのは、周りの空気を読むことだと思う。音が消えるまでじっと聴いていたい聴衆か、そうでないか、場慣れしていれば分かるはず。今回のケースはブラヴォーのフライングに対して、場内の反応は明らかに冷たかったから(「しっ!」という声も飛んでいた)、その空気を読む配慮も必要だ。自分一人のための公演ではないのだから。 そういえば、時々「さくら」としか思えない「ブラヴォー」もあるが、あれもしらけるものである。 本当に感動すると、拍手もしたくない、ブラヴォーも言いたくない、という心境になることもある。今回は、とくに第1幕や第4幕の幕切れなどは、余韻を楽しみたかったので、個人的には音が消えるまで拍手やブラヴォーは待ってもらいたい、という心境ではあった。 2年前だったかな、ライプツィヒのバッハフェスティバルで、ヘレヴェッヘの「ロ短調ミサ曲」を聴いたときは、あまりにもすばらしくて、「お願いだから拍手をしないで、静かにしていて!!!」と叫びたい気持ちにかられたものだ。 そう、ブラヴォーや拍手のしかたにも、やっぱり品格って、出ると思うよ。
December 10, 2005
このところけっこうお仕事に追われている。 モーツァルトの本と平行しながら、単発の原稿書きをせっせとこなしていたので、ちょっとのびました。半日くらいで回復したけれど。 商売繁盛でありがたい限りなのだけれど、この業界ならではのナゾ?も時々気になる。 さすがに今はなくなったが、以前は原稿料を明記しない、なんていう依頼もたまにあった。払わずに逃げられたことも2回くらいありましたね。電話すると「分かりました」というばかりで、何度連絡してもいっこうに振り込んでこない、ということもあった。たち悪いですね。 今、ちょっとな、と思うのは、原稿料や締め切り、枚数などの明記は当然のことになっているのだけれど、振込みをいつします、ということは、まず書かれていないのである。けっこう肝心なことだと思うんだけどな・・・ 一度、なかなか振り込まれてこないので、相手先をよく知っている知人に打診したところ(直接電話する勇気がなく・・・)「ご予定がおありですか?」なんていわれてしまった。あるから聞いているんだけど・・・ やはりクラシックの世界って、今はともかく昔はお坊ちゃんお嬢ちゃんの道楽でやっていたようなものなので(たぶん)、みなさんお上品なんでしょうね。 まあ、でもそろそろそういう時代は終わりにしたほうがいいのでは。本の世界もそうだけれど、「売れない」と嘆く前に、古い習慣は入れ替えたほうがいいと思うな。
December 9, 2005
「ドレスコード」といえば、ふつう聴衆の立場から、「どうしたらいいですか」?と聞かれるもの。(これは答えがなかなか難しいものなのだが) けれど、舞台に出ている側のドレスコードっていうのも、気になりますよね。 服装はそのひとの個性だから、やっぱりかっこいいアーティストは、かっこいい?(ただしそのひとだから似合うもの。ここがポイント)衣装をつけている。 今夜行ってきたコンサートで、ひさびさにアーティストのドレスにしびれた。 アーティスト名は波多野睦美。ルネサンス、バロック、そして近現代の歌曲を得意とする、個性派メゾ・ソプラノである。 澄んで深みのある声と、あのマリア・カラスではないが、役に没入できる憑依ぶり?が魅力のアーティストだ。 正直、今はやりのビジュアル系かわい子ちゃんではまったくない。歌同様、外見も個性的。でもすごく存在感がある。これって、アーティストには大事なことだ。 プログラムも彼女ならではで、バロック・オペラの女王役のアリア集。とくに後半はパーセルの名作「ダイドーとエネアス」を抜粋で聴かせてくれ、しびれた。最後のヒロインの自殺を決心する場面は泣けました。 で、衣装もとても個性的でした。 といっても、内田光子さんのように、ミヤケイッセイのプリーツで決める、とかそういうんじゃない。 最近の彼女のCDのジャケットにも写っている、デコルテの開いた真紅のドレスなのだが、これがめちゃめちゃかっこよかった。 いわゆるツーウェイタイプで、前半はすっきりしたドレスの素のシルエットを生かしてショールをまとい、後半は、しわくちゃだがとてもひだの豊かな、重量感のある、ドレスと同じ素材のドレープ?のようなものをまとっていた。 すごく彼女のセンスの生きた舞台姿だった。 こちらも女のはしくれだし、アーティストの舞台衣装はやっぱり気になる。 といっても、ファッションショーみたいなのはまっぴらゴメン。今売り出し中の、ファッションモデルばりの容姿も売り物?のある女性ソプラノ歌手は、バッハのカンタータを歌うのに4回もお色直しをしてきた!ハリウッド女優なみから披露宴のお色直しドレスまで・・・それでバッハのテキストが聞こえないのだから世話はない。何をしに舞台に出ているのやら。 だいたいリサイタルでは、休憩をはさんで1回着替えるくらいまでが妥当なんじゃないだろうか。女性だから着替えたいのは分かるが・・・ 最近は、たまに着替えないひとがいると、かえって新鮮ですね。 9月に聴いたワルトラウト・マイヤーは1枚のドレスで通した。歌も最高だったけれど、それも何かかっこよかったな。 まあ、かっこよく見えるひとは、自分の個性を知っている、ということも言えるかも。これはアーティストだけでなく、一般人でも参考になることですよね。
December 8, 2005
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