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ガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えて裁判にかけられ、有罪になりました。今、天動説を真顔になって主張する様な人がいると、頭がおかしくなったのではないかと見なされます。現代では当たり前の地動説という世界の常識は、その当時は絶対に認めることのできない非常識であったのです。1616年4月、ガリレオはイタリアのボローニャに24人もの大学教授を集めて自作の望遠鏡を披露しました。その望遠鏡の倍率は約33倍だったそうです。その望遠鏡で地上の様子を見てもらいました。すると、山や森や建築物等、遥か遠くにあるものがドーンと目の前に映し出されます。教授たちは、その迫力に驚きガリレオを賞賛しました。次に、ガリレオは教授たちに望遠鏡で天体を見せたのです。月を見るとクレーターまでがはっきりと見えました。すると、教授たちは、 「こんなのはデタラメだ」と口々に叫んだということです。その教授たちの中には、当代きっての天文学者ケプラーの弟子、ホーキーもいました。「この望遠鏡は、地上においては見事に働くが、天上にあっては我々を欺く」つまり、ガリレオの望遠鏡は地上を見る分には問題なく作動するが、天に向けるとうまく働かない代物だ、と文句をつけているのです。当代きっての天文学者がなぜそのような非常識なことを言ったのでしょうか。当時は天上界と言うのは完全な法則に支配された完璧な世界だと思われていました。つまり、神が棲む世界です。地球がこの世の中心であり、この神聖な地球の周りを太陽や多くの星々が取り囲んでいる。そこでは、すべてのものが規則的に働き、美しく、統一ある姿をしています。ですから、月にクレーターなどあるはずがないのです。あってはならないことなのです。クレーターというのは不完全ということですから、星の表面は、綺麗にのっぺらぼうでないといけなかったわけです。教授達の頭の中には、そのような「かくあるべし」でがんじがらめに支配されているのです。だから、絶対に事実を認めることができない。イライラして態度を豹変させ、 「この望遠鏡はおかしい。デタラメに違いない」と騒ぎ出したわけです。この望遠鏡はなにかおかしな細工をして人々を欺いているに違いないと確信しているのです。望遠鏡の客観的な性能よりも、自分の頭の中にある主観的な思い込みの方が正しいと思っていたのです。ガリレオもはじめのうちはその当時の常識に染まっていました。しかし、その望遠鏡で、天体を詳しく観察するうちに、それまでの常識は間違っているのではないかと気づきました。さらに詳しく観察してみると、太陽の表面にも黒く汚れたシミのようなもの(黒点)があることに気づきました。そして最終的には、太陽を中心として地球を始めとした惑星が回っていることを発見したのです。つまりそれまでの自分の常識を捨てて、真実や事実のほうを信用するようにに態度を変えていったのです。ガリレオは「それでも地球は回っている」といって処刑されました。ガリレオの地動説の発見がなかったならば、天文学はその先の段階に進むことは不可能だったのです。観察や実験によって、真実や事実を知る事はとても大切なことです。そして、次に、真実や事実がどんなに自分の考え方とかけ離れていても、その真実や事実を優先して認めて受け入れるということが大事なことになります。そうしないで、真実や事実を自分勝手に作り上げてしまうと、それから先はどんどん横道へそれていってしまいます。これは森田理論を学習しているものにとっても、とても重要なところです。森田先生は、 「教育の弊は人をして、実際を離れて徒に抽象的ならしむるにあり」と言われています。学校や社会教育は世の中で常識とされているものを教えていきます。それらも大切なことですが、その常識を疑って、実際に現物に当たったり、現地に足を運んで自分の目で確かめてみるという態度を持ち続けることがさらに重要であると言われているのだと思います。そうしないと新しいものや新しい考え方は生まれてくることはないのです。(99.9%は仮説 思い込みで判断しないための考え方 竹内薫 光文社新書参照)
2018.07.31
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これは今年作った梅酒です。梅は田舎の畑で育っているものです。50個ぐらい入っていますかね。あとはホワイトリカーと氷砂糖です。夕食時、この梅酒を炭酸で割って飲んでいます。これを飲むとほっとします。ちなみに向こうに見えるのは、香りのよい琥珀色の焼酎「嵩山」(すうざん)です。私は森田を学習して、加工食品に関心があるのです。皆さんも挑戦してみてはいかがですか。
2018.07.30
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早稲田大学の中野佳裕研究員は「成長至上主義」は限界にきていると指摘されている。地球環境の破壊や格差拡大、大規模な金融危機、原発事故など、厄介な問題が同時多発的に起き、人類の生存の危機が叫ばれています。しゃにむに経済成長を追求してきた社会の仕組みが問われているのです。物質的な豊かさを追求する考え方は、産業革命期の欧州で生まれました。それまで豊かさには、人々の幸福感や健康も含まれていましたが、資本主義の発展に従い、もっぱら物質的な豊かさの増加を意味するようになりました。長い人類史から見ると、たかだか250年ほど前からの発想です。産業革命以前は、世界の多くの地域で、森や海の資源を過剰に消費しない循環型で節度ある生活を維持してきました。コミュニティーの隣人と食べ物屋生活用具を分かち合う経済も日常的に存在していました。今後は社会関係や自然環境にマイナスとなる経済活動は見直すべきです。大切なのは、規模は小さくても、持続可能な地域循環型の経済活動です。(中国新聞 2018年7月4日の記事より引用)私はこの考え方に賛成です。成長至上主義の資本主義社会の矛盾点は、現在あらゆる分野で目に見える形で表面化しています。その中に、地球環境問題があります。二酸化炭素の増加により、地球は温暖化しています。異常気象が頻発し、南極や北極の氷が溶けて海水面が上昇しています。南極ではオゾンホールが拡大し、紫外線によるガンが多発するようになっています。南米のアマゾンでは大規模な森林が伐採されています。昔のアマゾンと今のアマゾンの衛星写真を見れば一目瞭然です。森林の減少によって地球全体が砂漠化の傾向にあります。このままいけば火星のような不毛の地になることだって考えられます。化石燃料の使用により、酸性雨も問題になっています。さらに海洋汚染も深刻になっています。それにもかかわらず、物質の豊かさを最大限に目指す成長至上主義の考え方は、なんの疑いもなく全世界を覆いつくしています。物質至上主義、拝金主義が唯一絶対的な人類が目指すべき正しい方向であると考えられています。テレビ等を見ていますと、経済学者や政治家は、経済成長は今後もどんどん進めていかなくてはならないといいます。政府も日本経済の成長なくして日本人の生き延びる道はないといいます。先進工業国として、世界を相手の貿易戦争を勝ち抜いていくことが必須であると考えられています。カジノ法案もその一つでしょう。でもこの考え方はどこかおかしいと気づいている人は多いのではないかと思います。それを放置すれば、世間の常識は、人類史から見ると非常識になりかねません。これを森田理論で考えると、欲望の追求と抑制力のバランスが崩れているように思います。例えば太陽と惑星の関係は、太陽の引力と惑星との遠心力の釣り合いがとれているから、双方が存在できているのです。もしこの絶妙なバランスが崩れて、惑星の遠心力が太陽の引力よりも大きいということになると、惑星は太陽系から飛び出してしまいます。居場所がなくなり、宇宙をさまよっていつかは他の天体と衝突してしまうのです。そうならないためには、自分たちの欲望の追及一辺倒に突っ走るのではなく、バランスや調和を保つにはどうしたらいいのかというところから出発しなければなりません。そのためには、もっともっと地球環境の破壊、格差拡大、大規模な金融危機、原発事故などの問題点を日ごろからよく学習しておくことが欠かせません。そして抑制力を働かせないといけません。また、人間が生きるとは何か、人類の豊かさとは何か、人間関係はどうあるべきなのか、子孫に何を残していくべきなのかをみんなで考えてゆかなくてはなりません。成長至上主義、物質至上主義、拝金主義が破滅的状況を迎えるのを手をこまねいて待っているということは、現代に生きている私たちにとっては許されないことなのではないでしょうか。放任すれば、それを信じて疑わない人たちの食い物にされてしまいます。何よりも問題なのは、このかけがえのない地球と人類の将来を破滅の方向へと誘導してしまうのです。
2018.07.30
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昨日は紙芝居祭りでチンドンミュージックの演奏を頼まれて出かけた。合間にじっくりと紙芝居を拝見した。驚いたのは、紙芝居の大きさである。1m×1.5mぐらいもある大型紙芝居である。絵がよく描けていた。専門家に頼んで書いてもらっているので高くつくそうだ。弁士が一人でしゃべるのかと思いきや、母親、近所のおばちゃん、同級生、ファンなど赤い法被を着た女性に役割を振り分けて、それぞれがセリフをしゃべる。度肝を抜かされた。アニメ映画を見るようだ。全員役になりきって真に迫った演技をされたいた。音響効果音もあらかじめ録音されたものが適宜流れてくる。これはいったい何だ。極めつけは、10名ぐらいのお客さんにあらかじめセリフを書いた紙を渡して、視聴者参加型の紙芝居だったのだ。私には「カープは絶対につぶさん、わしらのたからじゃけーのー」というセリフが渡された。それをしゃべると会場に詰め掛けていた人たちから拍手喝采だった。また物語のあらすじが涙を誘うものだった。私は思わず目頭が熱くなった。最初にカープで炎のストッパーと言われていた津田恒美さんの物語があった。津田さんは将来を期待されていたが、脳腫瘍で30代で亡くなった投手である。ストレートを中心に「打てるものなら打ってみろ」という気迫を前面に出すピッチャーだった。巨人の原選手の手を折るほどの威力のあるストレードだったという。次にカープ創生期の財政難を樽募金で支えたファンとその期待に見事にこたえた初代監督石本秀一物語だった。設立当初はスポンサー企業はなかった。選手も寄せ集めで、名前の知れた人は全くいなかった。期待できる選手は皆無だった。給料も払えない。遠征は夜行列車で通路に横になって移動していた。社会人野球よりもお粗末だった。挙句の果てにユニホームも全員分をそろえることができなかったという。1年目のシーズンの成績は当然最下位で90敗以上だったという。お荷物球団と言われていた。1年目で早くも横浜への身売りの話が決まりかけていたという。それを食い止めたのは、ファンの存続を願う熱意・樽募金と広島出身の石本監督熱い思いだったそうだ。初優勝の時、郷土の人々とともに、カープを救い、カープを育てた石本秀一さんは77歳。東広島市の自宅で一人静かに大粒の涙を流してむせび泣いていたという。そんなカープが他の球団を押しのけて今や独立採算で毎年黒字計上を続けるようになった。土砂災害では多額の災害見舞金も出せるようになった。球団経営に苦しんだ過去の経験が今になって生きてきたのである。あの時横浜に身売りされていたらと思うとぞっとする。今日の体験で、紙芝居はソフト面が大変重要なのがよく分かった。小学校、中学校、地域のイベントなどで今や引っ張りだこになり、マスコミに出る機会も大変多いという。紙芝居は時代遅れと多くの人が思っているかもしれない。しかしやり方次第で、多くの人に感動を与えるツールになるのである。要は時代遅れと先入観で決めつけてしまうか、創意工夫で新しい可能性を開発する用意があるかどうかの違いである。「たかが紙芝居、されど紙芝居」ということがよく分かった。
2018.07.29
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松下幸之助さんは「人生心得帖」 (PHP文庫)の中で次のように指摘されている。「優れた能力を持っている人が経営者になれば、会社がうまくいきそうなのに、実際はそうならない場合が多い」その理由について、 「優れた知識や手腕を持つ人は、何でも自分でできるし知っていますから、仕事を進めるにあたって、いちいち部下の意見を聞いたり相談を持ちかけたりということをしない傾向があります。それどころか、せっかく部下が提案したような場合でも、 「そんなことはわかっている」と簡単にかたづけてしまうことさえあります。その結果はといえば、部下の人たちが進んで意見を言わなくなり、ただ命令に従うといった姿勢で仕事に当たることになります。それでは各人の自主性も生かされず、衆知も集まりませんから、力強い発展が生まれないのは明らかでしょう」この話は、普通に考えると、マネージメント知識の豊富な人は、経営を任せればうまくいきそうに思うが、実際はそうではないということだ。そういう失敗例はいくらでもある。経営者はマネージメントの知識を持っていることは必要条件ではあるが、 十分条件ではないと言うことです。プロ野球の世界でも、名選手が必ずしも優れた指導者になれるとは限りません。これは、自分はマネージメントにかけては優れているという「自惚れ」が災いしているのだと考えられます。つまり自分の立ち位置が、上から下目線で人や物を見ているということです。仲間や部下からわからないことを教えてもらったり、彼らの持っている潜在能力を見つけだそうという気持ちを持っていないのです。彼らに対して自分の想い描いている行動をとってくれないと、すぐにイライラして、叱責や批判ばかりを繰り返すようになるのです。最終的には自分を助けてくれる人がどんどん離れていってしまいます。その結果、自分も経営者として不適格と判定されるようになるのです。松下幸之助さんの口ぐせは、 「君はどう思う」という言葉だったそうです。つまり、部下はもちろん、新入社員からパートの人、近所の人、料亭の仲居さんまで、とにかく思いつくまま目の前の人に「君はどう思う」と、素直に意見を聞いたということです。松下幸之助さんは、考え方の基本的なところに、自分にはまだまだ欠けているいるところがあると自覚しておられたのです。謙虚な気持ちで、教えを乞うという気持ちを持ち合わせておられたのです。そこに自分の立ち位置を決めて、そこから一歩一歩階段を上っていくという姿勢を堅持されていたのです。これが森田理論で言う「事実唯真」という態度だと思います。ギリシャの哲学者ソクラテスは、 「私が知っているのは、私が何も知らないということだけだ」という言葉を残しています。本当は人生観について卓越した考え方を持っていいるにもかかわらず、自分がまだまだ発展途上の人間であることを自覚していました。そのような謙虚な態度で他人に向き合うことができるからこそ、次から次へと新たな発見をして自分の哲学をさらに深めることができたのです。 (なぜ、仕事ができる人は残業をしないのか 、夏川賀央 ソフトバンク文庫参照)森田先生がよく話されている親鸞聖人は、「自分は悪人である」と言われていたという。これも上から下目線で他人や物を見るのではなく、問題のある自分の考え方や行動の現状をよく自覚して、そこを出発点として生きていく覚悟を持ち続けていたということを評価されているのだと思われる。そういう人が結果として「善人」として認知され、「かくあるべし」を振りかざしている人は、結果として「悪人」になり下がっているのではないでしょうか。
2018.07.28
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私たち人間は、人生という大舞台に立って演技をしている俳優や女優のような存在であると思う。このように考えると、不安、恐怖、違和感、不快感などに対する対応が変化してくるのではないでしょうか。テレビドラマや舞台で演技をしている俳優や女優は、当たり前のことですが、自分とは全く違う人間を演じている。役とは職業、学歴、親、育ち方が全く違うのに、台本に書いてある役柄になりきって演じている。普段の気持ちや感情は時として表面に出てきやすいものですが、俳優や女優にとってはそれは禁物です。たとえ家族に不幸があったとしても、その悲しみを演技の中で出してはいけないのです。恋愛や家族の団欒のシーンでは、見ている人にそれらしく、ワクワク、楽しそうに演技をしなければなりません。たとえ新婚さんでも、失恋で心に傷を負った役をもらったときは、それなりに演技する必要があります。プライベートな悲しい感情を、仕事に持ち込むようでは演技にはなりません。そうすれば、すぐに役を下ろされてしまいます。他にいくらでも代役がいるのです。いったん下ろされると、次にオファーがくるかどうか分かりません。そうなると、収入がなくなり、途端に生活が苦しくなっていきます。私たちも人生という大舞台に立って立派な演技をしていくことは意味のあることではないでしょうか。普段の生活では、苦しいこと、悲しいこと、腹の立つこと、泣きたくなること、逃げ出したくなること、理不尽な仕打ちを受ける、災害に遭うことなどの連続です。また生まれてきた性別、場所、時代、家族、周囲の人、境遇、容姿、能力、病気、老い、死などはどうすることもできません。自分が思い描いている状態からは程遠いのが現実です。そのような問題だらけの現実や現状をどのように捉えるのかがとても重要です。ひとつには、それらに翻弄されてしまう人がいます。自分が雲の上のようなところに立って、問題だらけの現実や現状に対しグチや批判ばかりしている。現実、事実、自分、他人、世の中の状態を素直に認めようとしないで、否定ばかりしている。人生劇場の中でそのような演技ばかりをしていると、演技者としては失格なのではないでしょうか。 この態度は、TVドラマや舞台で素の自分を演技の中に表出させているようなものです。見ている人に、違和感や嫌悪感をもたらします。もう一つの捉え方は、苦しいことや境遇を自分に与えられた宿命として受け入れ、現実や現状に寄り添った演技をしている人です。苦しいこと、悲しいこと、腹の立つこと、泣きたくなること、逃げたくなること、理不尽な仕打ちを受けることなどを素直に受け入れている人です。決して自暴自棄になって取り除こうとしたり、逃げたりはしない人です。感情は自然現象として捉え、自然の動きに任せている人です。森田理論学習によってそのことがよくわかっている人です。また生まれてきた性別、場所、時代、家族、周囲の人、境遇、容姿、能力、病気、老いなどは、グチや批判の対象とするのではなく、そこを出発点として、次の打開策を探っていける習慣が身についている人です。過酷な境遇や運命に対して、それを背負って、なおかつ前向きな生活をしている人は、人生劇場の俳優や女優としてはとても魅力的に見えます。反対に、境遇や苦しみに対して果敢に戦いを挑んだり、意気消沈して不遇を嘆いたりしている人は、人生劇場の俳優や女優としては心もとないと言わざるを得ません。森田理論学習を継続している私たちは、ぜひとも自分の人生劇場の中で味のある名優を目指していこうではありませんか。噛めば次第に何ともいえないよい味の出てくるするめのような俳優・女優です。別の言葉で言えば、人生の達人、森田の達人を目指す生き方こそが、私たちの宿命のような気がします。それ以外に私たちの進むべき道はないと考えていますが如何でしょうか。
2018.07.27
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世界保健機関(WHO)が 、インターネットゲームをやりすぎて生活や健康に支障をきたす病気として「ゲーム障害」を認定した。最近はスマートフォンの急激な普及により、ネットゲームに依存する人が急激に増加しているという。厚生労働省の調査では、ネット依存が強く疑われる中高生は全国で約52万人と推計されている。その大半がオンラインゲーム依存症とみられている。今後さらに増加が見込まれる。皆さんの中にも、自分自身や家族、知り合いなどでネットゲームにはまっている人がいるかもしれない。大人でも囲碁、将棋、麻雀などのゲームにはまり、パソコンに張り付いている人がいる。これは、ギャンブル依存症、アルコール依存症、薬物依存症、セックス依存症によく似ている。普段の生活でストレスや生きづらさを抱えている人にとっては、そのはけ口としてネットゲームは役に立っている。最初はどんなものだろうと思いながら、恐る恐る手を出してみた。意外に面白い。次第にのめり込んでいくのである。その結果、最悪の場合、深夜遅くまで、あるいは明け方までゲームにのめりこむようになる。時間を無駄遣いするとともに、睡眠不足によって、勉強や仕事に多大な影響を与える。家族の人間関係も悪化してくる。また、有料のゲームにのめり込んでいると、高額な費用を支払わなければならなくなる。ネットゲーム依存症になってしまうと、やめたいと思っても、弾みがついてやめるにやめられない心理状態に追い込まれてしまう。これは精神交互作用によって神経症が固着する過程と同じである。ゲームをしたい欲求を抑えることができず、日常生活よりもゲームを優先するようになる。神経症の場合は、不安を取り除くことばかり考えて、勉強や仕事、日常生活がおろそかになる。頭の中では、ゲームのことを考えることが中心になっている。神経症の場合は、自分の気になる症状1点に絞って格闘している。そしてどちらの場合も、もがけばもがくほどアリ地獄の底に落ち込んだようなものである。頭のなかの快楽神経が麻痺しており、ここから、自分ひとりで抜け出す事はとても難しいと言わざるを得ない。精神科にかかり、カウンセリングを受け、自助組織などに参加して、外部の人の助けを必要とする。ここで依存症で神経症に陥っている人の陶冶について考えてみよう。薬物療法、様々な精神療法、カウンセリング、自助組織がある。その一つとして入院あるいは外来森田療法と自助組織による森田療法理論の学習と実践がある。その程度に応じて、適宜その人に合った治療方法を選択することになる。基本的には勉強や仕事が曲がりなりにも維持できていれば、森田理論の学習をお勧めしたいと思っている。その際自助組織に参加しながら取り組むことが欠かせない。そのことがある程度歯止めになる。森田理論は神経症を克服できるのみならず、神経質性格を持った人の確固たる生き方を教えてくれる。私も一時期パチンコ依存に陥ったが、みんなの励ましで抜けだすことができた。森田理論学習は、このブログで紹介しているように、その期間を約3年で一サイクルとみている。最初の1年は森田理論の基礎編の学習である。 2年目は「森田理論全体像」を中心とした応用編の学習である。そして3年目はそれらの学習の上に立って、森田理論の体験学習である。3年は長いと思われるかもしれないが、人生90年と言われる時代では、取り組んでみる価値は高いのではないか。神経質性格を持ち、ゲーム依存症の人は森田理論の学習と実践は有効であると考える。
2018.07.26
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元消防署の所長さんから防災についてレクチャーを受けた。参考になることが多かったので投稿してみたい。まず東南海地震ですが、ここ30年で発生する確率は60%くらいだと言われている。私が住んでいる中国地方では震度6程度の揺れがあるという。太平洋沿岸では甚大な被害が予想されている。日頃の耐震化の準備と心構えが大切になる。この場合瀬戸内沿岸では約3~4メートルの津波が押し寄せる。その場合、遠くへ逃げるのではなく、高いところへ上がるのが基本である。避難場所に指定されているマンションなどの3階以上に避難することが大切である。指定されているマンションなどでは、オートロックを外し、付近の住民を受け入れることが義務づけられている。緊急地震速報は、 5弱以上の地震が発生した場合に発令される。この場合は、机があれば机の下に潜る。公園などの広い場所があれば移動する。基本的には絶対に慌てて外に出てはいけない。外に出ると落下物で頭をやられる。地震では頭を守るということが第一です。ヘルメットかぶる。なければ鞄を頭の上に乗せる。それもなければ自分の手で頭を覆う。部屋内にいれば、できれば家具などの倒壊の恐れがない場所に移動する。トイレや風呂に入っていた場合は、すぐにドアを開けて逃げ道を確保する。エレベーターに乗っていた場合は、すぐにすべての階の停止ボタンを押す。近くの階で降りる。ブロック塀には近寄らない。ブロック塀は2.2メーターが限度です。それ以上は違法です。ブロック塀にはそで壁を作っておくことが必要です。次に、火災についても聞いた。火災は全国で1日100件程度起きているという。その原因は、タバコではなく放火が1位である。燃えやすいものを家の周りに置いておくと、「どうぞ火をつけてください」と言っているようなものだ。日ごろから整理整頓が大事だ。マンションは厚い壁に区切られて延焼を食い止める構造になっている。それなのになぜ上の階に燃え拡がるのか。それは、ベランダに可燃物を置いているからである。特にプラスチック容器の灯油缶から大火災につながるケースが多い。灯油缶の置き場所として、ベランダを選択するの誤っている。それも大量にまとめ買いをしているのは問題である。これらの話を30分ぐらい聞いた。実際役に立つ話ばかりであった。これらを参考にして、しっかりといざというときのために準備と心構えを持っておくことが必要だと思った。
2018.07.25
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森田療法、森田理論は誤解を受けやすい言葉である。それは、個人の名前がついているからである。森田先生自身は、 1919年に開発された神経症克服の理論を、自覚療法、自然療法、特殊療法などと言われていた。のちに高良武久先生が森田療法と名付けられたのである。個人の名前を付けずに、もっと分かりやすい言葉はなかったのかと思う。しかし長らく「森田」という言葉が使われてきたので、この言葉を外すと何を目的にしているのかかえって分かりにくくしている。この療法は、神経質性格を持った人の療法である。心配性である、強い生の欲望を持っている、自己内省が強い、執着性が強いなどの性格特徴を持った人を対象としている。目指すところは、わかりきったことだがまず神経症に陥った人を治す。森田先生の入院治療はほぼこの目的に限られていた。現在は薬物療法や他の精神療法に押されて、その比率はどんどん下がってきた。しかし全くなくなったわけではない。治療の面では現在外来森田療法が主流となっている。森田が脚光を浴びているのは、心配性でちょっとしたことにこだわりやすい人たちに対して、心の健康法と人生哲学に対して明確な方向性を示していることであると思う。現在ではこの役割の方が、はるかに重要だと考えていますが如何でしょうか。このような森田適用の対象者と目的に対して、一般市民の人に対して分かりやすい適切な言葉はないものだろうか。キーワードとしては、仲間、学習、体験交流、心配性、取り越し苦労、メンタルヘルス、生きづらさ、心の健康法、人生哲学の習得などであろうか。長谷川洋三氏の著書の中に「森田式精神健康法」があった。この本は、キャッチフレーズとしては魅力的であった。森田理論を学習すれば、心が健康になるというイメージを持つことができる。医療としては森田療法で構わないが、我々のように森田療法理論を学習して、生きづらさを解消し、確固たる人生の指針を得たいと思っている人は、別の言葉に置き換えた方がよさそうである。例えば、「森田心の健康実践会」「メンタルヘルス森田理論学習交流会」「森田生きがい療法の会」「森田生き生き療法の会」「森田理論学習実践会」「森田理論学習交流会」「森田生涯学習研究会」などである。もちろん名称の前にNPO法人は欠かせない。今すぐに適当な言葉が浮かばないが、みんなで知恵を出し合えば、これというものが出てくるのではないか。誰が見ても短くて分かりやすい、親しみやすものがよいと思う。 次に、森田療法理論を学習し、体験交流の自助組織としてNPO法人生活の発見会がある。心の健康に関しては、日本最大級の自助組織である。しかしこれも対外的には誤解を受けやすい名称である。公開講演会などを企画して後援申請に行くと役所などで詳しい説明を求められることがある。手際よく説明しないとすぐに怪しまれる。生活改善を目指している会か、日常生活の工夫を幅広く収集している会か、生活の知恵や発明の情報を共有している会か、あるいは耳障りのよい新興宗教の集まりではないのかといわれることがある。私は集談会の会場の入り口に案内板に次のように書く。NPO法人生活の発見会 ○○集談会 (森田療法理論の学習と体験交流の会)ここまで書かないと、何を目的としている会か分かってもらえないのである。このような注釈をわざわざ記載しなければならない名称というのは如何なものかと思う。我々は使い慣れているので、違和感はないのだが、世間一般の人はそうではないのである。
2018.07.24
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認知症の研究の大家である金子満雄氏は、次のように言われる。「恋をする人はボケないが、浮気をする人はボケる」この話をすると、金子さんは、不倫している人から詰め寄られた。「先生は高齢になっても男女交際がボケ防止に役立つと言われていたのではありませんか」これに応えて金子さん曰く。「確かに男も女も恋やときめきの心を忘れたら、ボケるよりないだろう。女の人はお化粧しなくなったら、また、綺麗な着物を着たいと思わなくなったら、これは確かにボケが始まっている。恋をする人はボケないだろうが、浮気をする人はボケるかもしれないのである。この違いは大切なのだ」人間は成長するにしたがって、性衝動が高まってくる。これは人間だけに限らない。その衝動に従って行動することで、子孫が残せるのである。性衝動が起きないと、子孫繁栄につながらないので、性衝動は快楽と密接に結びついている。これは、視床下部を中心とした大脳辺縁系の活動の賜物だ。いわゆる動物の脳である。ここが活動をすると、その快感情はA10神経に快楽情報として蓄積され、記憶される。浮気をする人は、その快楽情報をもとにして、いたるところで性衝動を満足しようと行動する。皆さんの周りにも、あの人はところかまわず異性に手を出してどうしようもない人だという人がいるかもしれない。そういう人は、本能のままに、気分本位の行動をしている人です。動物と同じです。人間社会で犬や猫のような本能むき出しの行動は、他人から顰蹙をかって、自滅の道を突き進むことになります。制御機能の働かない人間は欠陥人間とみなされても仕方ない。人間には判断力や想像力を司っている前頭前野が大きく発達していることを忘れてはなりません。前頭前野は、本能剥き出しの性行動に歯止めをかけているのです。相手の女性がどんなに素敵で、強い性衝動を引き起こしても、最終的には泣く泣く諦めるというのが理性のある人間のすることです。そうしなければ、社会的な制裁を受け、自分と自分の家族をバラバラにしてしまうからです。金子さんが「浮気をする人はボケる」というのは、本能の悩と言われる動物の脳は盛んに活動していますが、人間だけに高度に発達している前頭前野が休眠状態にあるのです。バランスがくずれているのです。人間が人間であるためには、想像力、判断力などを司る大脳の前頭前野も活動をさせる必要があるのです。金子さんが「恋をする人はボケない」と言うのは、動物の脳とともに前頭前野が活発に動いているということです。その両方が働かないとときめくような恋には発展しない。だいたい幾つになっても気になる異性に対してわくわく感を持って話している人は精神的に若い。ボケる人は前頭前野が老化・廃用性萎縮を起こしていると言われています。私たちは、ボケないで元気で長生きをするためには、ひとつには積極的に恋をすることが有効なのです。セックスだけが恋する目的ではない。これを世間ではプラトニックラブという。例えば、 70歳の男性が65歳の女性に恋をしたらどうなるか。真剣に、その人が好きになり、心からその人を敬愛している。その人に詩を添えてラブレターを書く。一緒にお茶に飲みに行く日は丹念にヒゲを剃り、オーデコロンの数滴もふりかけていく。胸は青年のように躍りときめきながら。 70年余りの人生体験を経て、人を見る目を熟成させた後に見初めた女性は、さすがに彼にぴったりの気質と品格を備えた女性であった。そして、そんな恋のできる彼自身もさすがにはつらつとした若さを保っている。金子満雄さんはそんなペアを実際に知っているという。世間ではいい歳をして何をしてるんだという人もいるが、そんな意見は無視すればいいのだ。(生き方のツケがボケに出る 金子満雄 角川文庫 67頁より引用)
2018.07.23
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私は、 「ついてもいい嘘とついてはいけない嘘」があると思う。もっと拡大していれば、相手に対して積極的に嘘をつかなければならない場合があると思っている。これはどういうことかという事を森田理論で考えてみよう。森田理論を学習していると、 「かくあるべし」を少なくして事実本位に生活していく事を学んでいく。そういう意味では事実は神様のようなものである。「境遇に柔順で自然に服従する」という森田の言葉は耳にたこができるほど聞いていると思う。これを拡大解釈すると、すべての事実に対して、それらを受け入れていくことが絶対であるという考えに陥りやすい。つまり実際に見たり聞いたりした事実のままに、自分の考えを相手に正直に伝えることが正しいのだと考えやすい。私はこのような事実に対する理解は問題があると思う。物忘れや意欲の亡くなった人に、医師が不用意に「あなたは認知症ですね」と正直に宣告されたために、がっくりと落胆し、意気消沈した経験を持つ人は多いという。意欲をなくして家の中に引っ込んでばかりいると、その後、 1年から2年経つと本当に痴呆状態になってしまう。これはある意味で、医者が作り出した廃用性痴呆といえる。そんな時こそ、医師は詳しく検査し、言葉を選びながら、相手を励まし勇気付けてあげる必要がある。「あなたは痴呆ではありませんよ。記憶中枢のところだけに傷がついていますが、痴呆じゃないんです。思いついたときに、すぐにメモしていけば、買い物にも出るし、旅行にも行けますよ。人生楽しく過ごしましょう」などと、患者の立場に立った会話を心がければ、その言葉に励まされて、彼らはそれぞれゴルフをしたり、短歌を作ったり、みんなとゲートボールを楽しんだりするのである。ものはいいようで、相手をいろいろと変化させる。こんな嘘はついたほうがよいのだ。(生き方のツケがボケに出る 金子満雄 角川文庫 204ページ参照)私達も顔色がやけにどす黒い人を見て、心の中では 「肝臓に障害があるのではないか。ガンにかかっているのではないか」と思っていても、それをストレートに口に出すのは控えている。相手の体調をそれとなく聞いてみるのが基本だ。過去ある集談会でこんなことがあった。ちょっと化粧の濃い女性がおられた。その人は普段からそのような化粧をしていたそうだ。ある男性の参加者がその女性に、「あなたの化粧は濃い過ぎて、周囲の人に不快な感情を与える」ような発言をされた。ちょっと気まずい雰囲気となった。その女性は継続して参加している人であったが、以後ばったりと参加しなくなった。その後いくら参加を促しても頑として聞き入れられなかった。実に残念な結果となった。不用意な発言をした男性は、事実を正直に話しただけであるから、自分に何らやましいことはなく、落ち度はないと思っているのであろう。事実に正直に行動できた自分を誇らしくさえ思っているかもしれない。しかし、普通の人間ならば、いくら心の中でそのように思っていても、その気持ちをストレートに言葉に出してしまうと、相手が傷つくかもしれないとすぐに察しがつくと思う。相手の気持ちを考えて、そんな不用意な発言は控えるはずだ。自然に抑制力が働くのである。森田先生がよく言われている人情が働くのである。森田では基本的には、どんなに理不尽で不愉快な出来事であっても、事実を隠蔽し、捻じ曲げてはてはならないという。そういう意味で自分を擁護したり、楽にするために嘘を吐いてはならないのだ。その点はどこまでいっても事実唯真の立場を貫き通す必要がある。その方向が神経症に陥らず、葛藤や苦悩を避ける一番安楽な道だ。ただし、相手がある場合は違う。自分の感情をそのままに吐き出しては問題が大きい。相手の立場に立って、相手が傷つくと判断すれば、事実とは違う発言をしなければならない。こんな場合は、事実と真反対な嘘をつかなければならない場合もあるのである。行動よりも感情に重きを置くからこんなことになるのだ。感情と発言はきっちりと区別することが大切だ。感情は自然現象でコントロールできないが、発言は意志の自由が効く。自分の不快な感情をすっきりさせるための、発言は厳に慎まなければならないのである。それが人情というものだ。湧き起こってくる感情は、押さえつけてはいけない。ところが、その感情をストレートに相手に吐き出すことは別の問題なのだ。ここの微妙な感覚は集談会などでよく話し合ってほしいものである。積極的に嘘をつくことで、相手を否定しないで、受容したり励ましたりすることができるのである。
2018.07.22
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「こころの旅」や「生きがいについて」などの本を書かれた神谷美恵子さんはどんな人生を送った人なのだろうか。「人に歴史あり」というが、大変興味がある。早速調べてみた。神谷さんは1914年(大正3年)生まれで、 1979年(昭和54年) に急性心不全で亡くなられている。65歳という年齢は、とても短いように思える。ところが、その残された業績は素晴らしい。妻として、母として、語学教師として、医師として精一杯の実績を残して、思い残すことなく旅立たれたような気がする。神谷さんは気品のある顔立ちで、家柄もよく、何よりも類稀な能力を持っておられた。半面、大きな大病をされ、太平洋戦争の戦時下で大変な苦労された。父親はのちに文部大臣を歴任された前田多門氏であった。父の海外赴任に伴い、9歳から3年間、スイスのジュネーブで暮らした。ここでフランス語を身につけた。19歳の時、ハンセン病国立療養所多摩全生園を訪れた。この体験が精神科の医師を志すきっかけとなった。21歳の時、肺結核を患い、軽井沢で療養生活を送る。一旦は治ったが、翌年再発した。本来なら死の病と言われた結核で意気消沈するところですが、神谷さんは療養中にギリシャ語、その他の外国語を独学でマスターする。その他、当時の女性にはかなり難しかった「英語科高等教員検定試験」の準備をし、その後合格している。この資格のおかげで大学で語学の教鞭をとることができたという。結核が治ってから、奨学金でアメリカに留学。コロンビア大学で本格的に医学の勉強を始める。27歳の時、戦時下のためやむなく帰国。東京女子医学専門学校へ編入学された。30歳の時、卒業後、東京大学医学部精神科医局に入局。31歳の時、しかし父が文部大臣に就任したため、父を助けて一時期文部省で翻訳者として働く。32歳の時、神谷宣郎氏と結婚する。その後、2人の男の子を出産し、立派に育てる。36歳の時、神戸女学院大学で教鞭をとる。英語、フランス語、精神医学の講義を行う。41歳の時、子宮がんが見つかる。43歳の時、岡山県長島愛生園非常勤職員となり、神戸から朝4時起きで通い始める。診療は主に土曜日と日曜日に行った。その他は神戸女学院大学や津田塾大学での講義などにあてた。58歳の時、体調不良の為、 15年勤めた長島愛生園精神科医長を辞任する。神谷美恵子さんは、兄の陽一さんに、「美恵子には逆立ちしても勝てない」といわせたほどの秀才であった。その兄も東大文学部教授となった。神谷さんは目指した目標はことごとく達成していた。また太平洋戦争も何とか生き延びることができた。ただ、病気には勝てず、肺結核を2回発症した。そして、 40代になってガンにかかった。それらも目の前の目標に向かって努力することで、免疫力がついて、最後に乗り越えられたのは自然治癒力の賜物であった。神谷美恵子さんは語学万能であったために、自分の進路についてはいろいろと迷われている。でも、最終的には19歳の時に志した精神科の医師としてハンセン病患者の医療の道へと進まれた。神谷美恵子さんは、大変忙しい毎日であったにもかかわらず、一つ一つ丁寧にこなして、自分の使命を全うし、存分に生きがいを発揮した人であった。その生き様が多くの人を惹きつけてやまないのだと思う。
2018.07.21
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神谷美恵子さんは、 「現代に生きる婦人の人生観」の中で次のように述べておられる。人間はいかに外面的条件が良くても、例えば病や老いや死など、あるいは仕事の問題、人間関係の問題など解決できない問題に常に直面している。その力不足を自覚することが大切であると述べ、こう続けている。「人間は自分を超えるものに対しては常に畏れの心を持ち、謙虚であるべきものと思います。また過ちやつまずきを重ねがちな自己を常に反省し、貧しい心のままに、大いなる自然の力に身を委ねて歩んでいくべきものでしょう」なぜなら「いつでも謙虚な貧しい心でいるほうが、あらゆる物や事や人から、絶えず新しく学んで成長していくためにもよいことだと思う」 (神谷美恵子の生きがいの育て方 神谷美恵子東京研究会 PHP文庫 140頁より引用)ここの部分は、森田理論に関係のある指摘だと思います。「自分を超えるもの」というのは、自分や人間の力ではどうすることもできないものと読み替えることができます。台風、大雨、土砂災害、地震、雷、大雪、地震、火山の噴火、隕石の落下などの自然現象は制御できません。大きな経済変動、戦争や紛争なども一般庶民にとっては制御不能です。私たちが問題にしている自然に湧き上がってくる感情も自由自在にコントロールすることができません。自分の容姿、性格、境遇、環境なども思い通りにはなりません。他人の理不尽な仕打ちなども自分の思い通りになりません。他人の容姿、性格、境遇、環境なども自由自在に変える事はできません。神谷美恵子さんは、病や老いや死など、仕事の問題、人間関係の問題など解決できない多くの問題に直面していると言われています。それらは人間が自由自在にコントロールできないものである、ということをよく自覚することが大切だと言われています。次に自由自在にコントロールできない問題は、常に畏れの心を持ち、謙虚であるべきだと言われています。森田理論で言うところの、 「自然に服従し、境遇に柔順になる」という事だと思います。納得はできないかもしれませんが、たとえ理不尽で受け入れがたいことであっても自覚して受け入れるということです。生きていく上には、自分ではコントロールできない問題が数多く存在します。自分の心や感情、自分の容姿や性格、他人の自分に対する仕打ち、他人の容姿や性格、自然現象などキリがありません。将来に向かって明るい展望が開けるものなど、変えられるものに対しては積極的に取り組む。しかし変えられないものに対しては、潔く受け入れるという態度が大切だと思います。その前提として、この2つを明確に区別する知恵を持つことが極めて大事になってきます。
2018.07.20
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集談会の仲間の人が、NHKの「ガッテン」の番組を紹介してくれた。題して「肺ストレッチで体が変わる!呼吸コントロールSP」だった。これは大変役に立った。集談会ではこういう有益な情報の交換ができることがうれしい。これらの有益な情報を実行するだけで、自分の生活の幅がどんどん広がってくるのである。それによると、普通の人は一分間に平均15回の呼吸をしているという。まず自分の場合は何回か調べてみるとよい。調べるときは、息を吸って吐くのを1回として計算する。それを13.7回ぐらいに減らすと、ストレスの軽減、肩こり、低血圧、冷え性、不眠症に効果があるという。「ガッテン」という番組では、その仕組みを明確に説明していた。呼吸数は、大脳の中の「呼吸中枢」と「扁桃体」が共同で指揮命令をしている。私たちが問題にしている不安、恐怖、不快感、違和感が発生するとすぐに「扁桃体」が活動する。「扁桃体」は生命の危険を察知して、生命を危険から守る防御の役割をもっている。「扁桃体」が反応することによって、闘うのか逃げるのか即座に判断する。「扁桃体」が反応した時、「呼吸中枢」と一緒になって、心拍数の増加、呼吸数の増加、血圧の上昇、交感神経の活動を促進する。これらはほとんど、人間の意志と無関係に行われる生理現象である。ところが、この中に例外が1つだけある。呼吸数は人間の意志によってコントロールできる。裏を返せば、深呼吸などをして呼吸数を減少させれば、過度な扁桃体の活動を抑えられるということである。我々神経質者は、ちょっとしたことですぐに不安やストレスを感じやすい性格特徴を持っている。そういう人は日ごろから、呼吸の回数を少なくする「肺ストレッチ」をすることが有効であるということが分かっているそうだ。呼吸の回数を少なくすると、腸内の炎症を抑えることもできる。また呼吸の際、鼻呼吸や鼻歌を心がけることで、一酸化窒素を血管に届ける量が多くなり、毛細血管の血流がよくなることも紹介されていた。「肺ストレッチ」を行って、肺の動きは本来のしなやかさを取り戻すと、逆に呼吸の回数は少なくなっていく傾向があるという。 「肺ストレッチ」のやり方は次の通りである。息を吸う時のコツは、体の前で組んだ両手を、そのまま前に伸ばす。伸ばす時に息を吸うようにする。その両手を体に戻すときに息を吐く。息を吐く時のコツは、両手を後ろに回して腰のところに置く。息を吐くときに、腰の上で組んだ両手をななめ後ろに伸ばす。息を吸う時はななめ後ろに伸ばした両手を腰の上に戻すときに行う。これだけである。以上を一日に2~3セット行う。朝昼晩と時間を決めて行なうようにする。ただし注意点として、腰や背中に傷みのある人は行わない方がよい。ストレッチで傷み等が出た場合は、すぐに中止した方がよい。こういう有益な情報は試してみる価値があると思いますが、皆様いかがでしょうか。
2018.07.19
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生きがい療法の伊丹仁朗先生の勧めておられるガン予防法について紹介してみよう。1 .適度な運動の継続。2 、笑いと生きがいのある生活をする。3 、過労、ストレスを避け、睡眠を十分にとる。4 、緑黄色野菜・食物繊維・果物・海藻をしっかり食べる。5 、未精白穀類(玄米・胚芽米・全粒パン)を常食する。6 、牛乳・味噌汁・緑茶を毎日飲む。7 、食塩の摂取をできるだけ少なくする。8 、食品添加物や農薬使用の少ない食品を選ぶ。9 、肉食や動・植物性脂肪を少なくする。10 、便秘をしないようにする。11、肥満を避け、健康体重を保つ。12 、タバコをやめ、他人の煙も吸わないようにする。13 、日焼け(太陽光・紫外線)を避ける。14 、ピロリ菌や肝炎ウィルスの保菌者はその対策を取る。15 、必要によりビタミンA、C、Eや、ごく少量のアスピリンを常用する。16 、胃・腸・肺・乳・子宮・前立腺などの定期検診を受ける。(40歳以上の人)(ガンを退治するキラー細胞の秘密 伊丹仁朗 講談社 249ページより引用)これを私の場合で考えてみた。毎日仕事で階段の上り下りや歩くことを心がけている。だいたい毎日6000歩ぐらいだ。一人一芸の練習を毎日行っている。サックスの練習、腹話術、どじょうすくい、しば天踊りなど。毎日12時前には寝て、 6時40分に起きるようにしている。毎日野菜や海藻を取るようにしている。玄米食である。牛乳や味噌汁は毎日飲んでいる。7 、 8 、 9 はあまり心がけてはいない。便秘はすることがない。体重は60キロぐらい。少し肥満気味だ。タバコは吸わない。外に出るときは日焼けを避けるために帽子をかぶっている。ピロリ菌は調べたことがない。特にビタミン剤は飲んではいない。生活習慣病検診の時に、肺、胃、肝臓、膵臓、前立腺のガンの腫瘍マーカーの検査を行っている。その他、腹が冷えないように、夜寝るときは腹巻きをしている。こうしてみると、概ね伊丹先生の推奨されているような生活を送っているようだ。でもガン細胞は健康な人でも毎日3,000個はできると言われているので、油断大敵である。大事なことは、いきがいを持って、自己免疫力を高めていくことだと思う。
2018.07.18
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今日は結婚について考えてみたい。見ず知らずの男女が一緒になり、ひとつ屋根の下で生活するようになる。これは考えてみれば、大変な冒険である。うまくいくのか失敗するのか全く見当がつかない。私の周囲には離婚に至った夫婦がそこかしこにいる。中には3回結婚して3回とも離婚している人もいる。そういう人は恋愛やセックスが目的なのだろうか。たかが夫婦、されど夫婦。縁あって結婚したのだから、よい人間関係を築くに越したことはない。結婚すると衣食住、家事、育児、子育て、仕事などを分担しながら、お互いに協力する態度が必要になる。結婚生活をうまく乗り越えるためには、お互いが協力し合う気持ちを持って生活しているかどうかが問題となる。相手に家事や子育て、親戚や町内会などの仕事を押し付けてばかりではいつか夫婦の人間関係は破綻してしまうと思う。夫婦はそれぞれ別の人格を持った人間であるから、大なり小なり意見の衝突は必ず起きる。将来必ず繰り返される事実である。離婚に至る夫婦に二通りのタイプがある。意見の衝突が起きない夫婦は、夫婦関係が支配者と被支配者に分かれている。表面的には波風の立たない夫婦のように見えるが、実際には支配される側には不満や怒りが蓄積されていく。それが少しずつたまっていくと、いつか何かをきっかけにして大爆発を起こすことがある。意見の衝突が起きないもう一つのパターンは、相手のこと無視している夫婦である。子供や世間体や年金のことを考えての仮面夫婦のことである。食事も別。寝室も別。家計のやりくり、普段の生活も別々。これでは結婚している意味がない。むしろ夫婦生活が精神的な苦痛を増加させる。こうなると夫婦の人間関係はほぼ修復不可能となる。離婚か家庭内別居という状態に陥る。この問題を森田理論ではどう考えるのか。まず結婚する前にお互いに確認しておくことがある。それは、結婚すると、婚約中の時のように、いつまでもラブラブという状態が続かないということである。お互いにエゴを出し合って喧々諤々といがみ合うことがたえず頻発してくるということである。そうした事態に陥ったとき、どういう風に対応していくのかということを話し合っておくことだ。結婚前に意見交換して、一致したときは統一契約書にサインして額に入れて掲示しておくことが肝心である。軌道に乗れば取り外してもよい。一方が相手を抑えこんでいくのか。たまにはそれでもいいと言う人がいるかもしれない。私はあなたの言う事には何でも従いますから、問題ありませんという人だ。しかし、実際にはそういう人は10人に1人もいないのではないか。私の気持ちや意思ははっきりと口に出して言いますという人が多いのではないか。結婚当初は控えめなひとであっても、そのうち我慢できなくなって、自分の気持ちや意思を表出させる人も多い。その時に問題になるのは、相手が持っている気持ちや意思の取り扱いである。自分の気持ちや意思を表出した後で、じっくりと相手の気持ちや意思を聞く用意ができているかどうか。ここが肝心なところである。そして自分の気持ちや意思と相手の気持ちや意思の違いを確認する。そしてお互いに調整や妥協を図る用意を持ち合わせているかが肝心である。これはWINWINの人間関係である。一方がいつも自分の思い通りに相手を言い負かす事ではない。時には自分の主張を押し通したり、あるいは別のときには相手の言い分を取り入れたりする。話し合いによって、調整や妥協を繰り返して、譲ったり譲られたりしながら、なんとか夫婦の人間関係を存続させている状態である。うまくいっている夫婦でも、危ういバランスの中でなんとか家庭を維持しているのが普通である。もう一つ、夫婦の人間関係でぜひとも活用してみたいことがある。「私メッセージ」の活用である。これは発言する時に、「私」を主語にすることである。「私は・ ・ ・このように思う」「私には・ ・ ・このように感じられる」これに対して、「あなたメッセージ」というものがある。これは「あなた」を主語にして相手と話すことである。「あなた」を主語にすると、「あなたは・ ・ ・こうすべきだ」「あなたは・ ・ ・こうすべきではない」という方向に向かいやすい。相手に指示、命令、禁止、叱責、説教する発言が多くなる。つまり、相手に「かくあるべし」の押し付けとなるのである。これは森田理論で勉強したことだ。 「私メッセージ」の活用は、「かくあるべし」を少なくして、事実本位に近づく1つの方法である。このことを夫婦の会話に取り入れることを提案したい。
2018.07.17
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7月15日、森田先生のふるさとで墓前祭がありました。高知県知事、香南市長はじめ全員が献花をしました。約400名参加。続いて、高知県民文化ホールで作家で精神科医の帚木蓬生先生の記念講演会がありました。こちらは1000席の会場がほぼ満員。(おまけ) 高知はカツオのたたきが有名ですが、ひろめ市場で食べた藁焼きのものは最高でした。
2018.07.16
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私は来年2月10日に、「心の健康セミナー」を企画していることはすでに投稿した。現在はほぼ一人で準備を進めている。途中経過をまとめてみたい。実施会場、講師、体験発表者、司会者、開会挨拶者、閉会挨拶者は決まった。立派なチラシも作成した。地元の新聞社、市役所、市教育委員会の後援もいただいた。心の健康セミナー開催にあたっては、市の後援は必須であることが分かった。区民文化センター、市の図書館、市立病院、保健所、健康福祉施設、公民館などは「市の後援をいただいている講演会です」と伝えれば審査なしでチラシを置いてもらえることが分かったのである。当日の役割分担表、勧誘目標数値の設定、講師の著作の研究、開会挨拶のパワーポイントの作成、気運を盛り上げるための集談会での10分間レクチャーの作成、受付で配布する集談会の紹介チラシの作成、アンケートの作成、講師や体験発表者に対する質問票の作成、タイムテーブルの作成、スタッフの名札の作成、受付名簿の作成、当日配布するプログラム表の作成、体験発表者の研究、会場の下見、プロジェクターの動作確認などがすでに終わった。これらは森田理論学習によって、気のついたことを早くからどんどん処理していく体質が身についているからお手のものである。今後は8月になってから、チラシとポスターの作製。会計の仕事。受付での配布物の準備。打ち上げ会場の決定と交渉。その他にこまごまとした雑多な事務作業がたくさんある。手ぬかりなく進めてゆきたい。11月からは本格的に80名の動員に向けて、勧誘活動を開始する。それまでの準備作業が成否を決するという意気込みで取り組んでみたい。動員目標は集談会関係約30名、講師、体験発表者のつながり関係10名から20名、難病やガンの自助組織約10名、チラシ配布、マスコミ、病院関係約10名から20名、家族・知人関係約10名とした。集談会関係は縁遠い人の掘り起こしと近隣集談会への協力依頼。講師・体験発表者は貴重な組織や仲間を持っておられるので協力依頼したい。またガンや難病の自助組織はいろいろと存在することが分かったので、慎重に接触を図りたい。チラシ配布は、市役所、市教育委員会の後援をいただいたので、それをフルに活用した広報を実施したい。マスコミは新聞社から後援いただいたので、新聞紙面による暮らしやイベントコーナーでの紹介。その他タウン誌、ミニコミ誌を予定している。病院関係は精神科、ガン難病などの病院にダイレクトメールを送ることを考えている。あと財団、発見会、集談会のホームページなどを活用した広報も行う。チラシは1700部作成するので積極的に活用したい。ポスターを置いて下さるところは持参する。それでも1か月を切って動員目標に到達しないときは、家族・知人関係をあたる。生活の発見会や集談会の紹介によって、森田療法や森田理論に一人でも関心を持ってもらいたいものだ。地道な活動は必ず実を結ぶという信念を持って取り組みたい。最初はなかなか気が乗らなかったが、今は弾みがついた。発見や工夫が次から次へと浮かぶ。森田先生が言われるように、迷ったときはイエスといって引き受けるという体験だった。今は引き受けて貴重な体験ができてほんとうによかったと思っている。
2018.07.16
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ダイコクネズミを、仲間から1匹だけ離して飼うと、 4~6週間後には神経質になり、行動はイライラと粗暴になる。さらに1~2週間経つと、支離滅裂な行動となり、皮膚には炎症ができ、解剖して内臓を調べると、内分泌性に異常が起こっているという。このようなネズミでも、1日にわずか5~10秒間、他のネズミとスキンシップの機会を与えるだけで、心身の異常の現われ方を大幅に遅らせることができると言われている。(内向的性格はこんなに得をする 斎藤茂太 文化創造出版 56頁より引用)プリンストン大学で感覚遮断実験という面白い実験があった。この実験は、完全防護の小部屋に、アルバイト学生を被験者として閉じ込め、眼には目隠し、手には木綿の手袋、肘から手先までボール紙の筒で覆い、食事とトイレ以外は、耳がすっぽりと覆われるようなU字形の枕をして、ペットに横たわっているように命じた。この実験に多くの人はせいぜい2日くらいしか耐えられなかった。被験者たちは、ベットに横たわるとまず眠りに入るが、起きてから鼻歌を歌ったり、筒で覆われた腕を叩き合わせたり、口笛を吹いて、自分自身に刺激を与えようとする動作をする。そのうち、 実験中の彼らにいろいろなテストや質問をする。だんだん時間が経つうちに小学生レベルの簡単な算数や文章構成問題も成績が低下していく。思考様式も子供っぽく筋道の立たないものとなってしまった。 (同書 125頁より引用)最初の実験で分かる事は、対人関係を遮断していくと、短期間のうちに精神の異常が現れるということです。対人恐怖症、引きこもり、登校拒否、出社拒否で全く他人と話をしなくなる。田舎で一人暮らしをしていて、 1日中誰とも話をしなかった日が続くような人がいる。これらは、身体と精神に大きなダメージを与えてしまうのである。私も対人恐怖症でアリ地獄の底に落ちていたときは、周りに人はいたが、話すことを拒否していた。イライラして精神病のような状態に陥った。立ち上がったリ座り込んだり、いつも動き回って気が狂いそうだった。体調が悪くなり、胃がキリキリと痛むようになった。病院に行くとうつと胃潰瘍だと言われた。うつと胃潰瘍を治すためにその後、 2年ぐらいかかった。そんな私を救ってくれたのは、病院での治療と生活の発見会の集談会の仲間であった。特に集談会の仲間は、 1週間に1回会ってくれて、自分の悩みをよく聞いてくれた。そして励ましてくれた。私はそれを頼りにして会社勤めを続けた。そして危機を乗り切ることができたのである。集談会の仲間たちは今や私の貴重な財産となった。2番目の実験は、体の自由を束縛して、行動を抑えこんでしまうという実験だ。この実験に対して、立正大学の山下富美代教授は「あまりにも刺激が乏しく、しかも限定的であっては、正常な精神活動は不可能だということになります。ある程度の一般的な相当量の刺激があってこそ、私たちはあるものに対して打ち込むことができ、集中することもできるのです」と指摘されている。 (同書 124ページより引用)神経症の人は、観念的で頭の中では色々試行錯誤するが、手足は全く動かないという傾向がある。 行動をしないと、頭や身体に刺激を与えることができないので、その働きは次第に落ちてくる。人間の体は活用していかないと、とたんに廃用性萎縮を起こしてくる。後で気づいたときは手遅れになっていたということも多い。それを避けるためには、せめて日常茶飯事を丁寧にこなしていくことがとても大切である。それらを人任せにして楽をしていると、暇を持て余すようになるのである。危険な兆候だ。その次には、やるべきことや、気づいたこときちんとメモしていく習慣をつけることである。それらに真剣に取り組むことによって、心と身体は活動的になって、好循環を始めてくれるようになるだ。これらはすべて森田理論学習で学んだ。
2018.07.15
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私は現在、マンションの管理人をしている。その勤務棟の薄暗い駐輪場に蛇がウロウロしているのを見つけた。一瞬腰が抜けるほどの恐怖を感じた。その場を立ち去って管理人室に戻った。どうしたらいいのか。管理会社に電話をしてみたが、明確な指示はなかった。以前にスズメバチが出たときに役場に電話したことを思い出した。役場に相談すると、蛇を駆除する業者は知らないという。念のため、スズメバチを駆除する業者を紹介するので電話をしてみてくれという。すると、ある業者が2時間ぐらい待ってくれれば、駆除しに来てくれるという。私は長靴を履いて、椅子と長い棒を持って駐輪場に行ってみた。またカラーコーンに「蛇がいます」と書いて、駐輪場に置いて居住者に注意喚起した。すると、蛇が移動して見当たらない。そのうち思いがけないところにとぐろを巻いていた。また腰を抜かしそうになった。気持ちが悪かったが、自分ではとすることもできないので、蛇を見失わないように監視することにした。ちょうどお昼休みの時間だったが、放っておくこともできない。多くの居住者が来られたが、気持ち悪がって、すぐに退散された。蛇はその後1時間ぐらいじっとして動かなかった。そのうち私と仲の良い、 前理事長さんが車で帰って来られた。「そんなところで何をしているんだ」「あそこに蛇がいるんです」すると、前理事長さんは、蛇の側に近づいていかれた。そして、「これは青大将だ」と言って、長い棒を手に取られた。その棒で蛇をつつくと、身の危険を感じた蛇は急にすばやく動き回った。気持ち悪い。前理事長さんは、3分ぐらい格闘されて、ついに蛇のしっぽを掴まれた。そして引きずり出すと、 2メーターぐらいな大蛇だった。長い棒に蛇を巻きつかせて、そのまま国道の向こうの大きな川に投げ入れられた。私は気持ちが悪くて、一部始終を離れたところから見守るのが精一杯であった。そのうち駆除してくれる業者が来た。駆除後であったので、出張料だけで済んだ。その後前理事長さんと話をした。前理事長さんは、以前は自衛隊に勤めており、訓練で蛇を捕まえてそれを料理して食べる指導をしていたと言われた。蛇の肉はこんがりして美味しかったと言われる。マムシもよく採って焼酎に漬けていたと言われる。マムシの生態についても教えてもらった。マムシは綺麗好きであるという。水の綺麗な水辺にしかいないらしい。またマムシは夫婦で行動している。だから1匹マムシを見つければ、その近くにほぼ間違いなくもう片方のマムシがいるという。どうりで手慣れた駆除ができたのであった。私はこの話を聞いて、森田先生の話を思い出した。「神経質の本態と療法」の180ページに書いてある話である。人が犬に吠えかけられたとする。もしこの時に、小さい子供なら母にしがみつき、その懐に顔をうずめ、犬のほうは見ないで鳴き叫ぶ。普通の人ならば、仕方なしにまずその犬を見つめて、自分の態度を決めなければならない。この時は、その犬の一挙一動に対して、逃げるとか、立ちすくむとか、あるいは犬を追い払うとか、自然に臨機応変の処置をとるようになる。一生懸命に恐怖の対象である犬に集注しているから、無我夢中である。強迫観念はこのどちらでもない。 一時のがれの目先の安心を得ようとして、その犬を見ないように顔を背ける。その時、本人の注意はどこに向かうか。ただ、自分の不安の状態、すなわち自分の胸騒ぎ、脱力の感とか、寒気や震えということだけに集中し、心を奪われ、現実の対象を忘れ、自分の恐怖、不安の結果がどうなるかということが恐ろしくなる。これを私は恐怖を恐怖すると言うのである。このような内向的なものは自分の気分を目標としていて、気分は事実とは無関係に、いつまでも自分に内在しているから、日夜その恐怖に悩まされるようになる。「煩悩の犬追えども去らず」という風に、自分の心の中の犬だから絶えず悩まされることになる。寝ても覚めてもその苦しみに悶え苦しむようになる。私の蛇に対してとった態度は、 一時のがれの目先の安心を得ようとして、ただもその蛇を見ないように顔を背けた。しかし、そのまま放置しておくと居住者に迷惑がかかるので、駆除できる人を手配して、また舞い戻って監視していた。自分ではどうしても処理できなかったが、人の協力を得て、大事には至らなかった。私が蛇を恐れるというのは、いかんともしがたい。これが私ができる精一杯のことであった。
2018.07.14
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京都大学の川上浩司特定教授は「不便益」というテーマに取り組んでいるという。この言葉の意味は、現代社会は多くの人は便利さをどこまでも追い求めている。その結果、便利な世の中になったと思う反面、何かゆとりを失ったような気持ちにもなる。便利さ一辺倒の追求から、あえて不便の良いところに着目する研究なのである。例えば、自動車はオートマチック車になっているが、マニュアル車にはオートマチック車には無い運転の醍醐味が味わえる。鉛筆削器を使うより、ナイフを使った方が面白く達成感を得られることもある。高性能なカーナビゲーションは便利ではあるが、それに忠実に従うことばかりに気がとられる。地図を見ることもなくなり、沿道の風景の記憶さえ曖昧になってしまう。川上教授は、便利な暮らしそのものを否定しているわけではありません。あらゆる事を不便にすればいいとか、昔に戻れという懐古趣味でもありません。ただ便利にも不便にも、良いものと悪いものがあると考えられているのです。この考え方は森田理論にも関係することであり、もう少し膨らませて考えてみたいと思います。私たちは、便利である、快適である、楽しい、楽ができる方向に世の中が進む事はよい事だと考えています。確かにその方向で、生活を便利にするいろんな発明品が生まれてきました。全自動洗濯機、掃除ロボット、炊飯器、自動車、テレビ、パソコン、スマホ、農機具など数え切れないほどの商品で溢れかえっています。これらの商品は確かに家事労働の苦痛から解放し、生活を豊かに華やかにしてきました。しかし、それらを取りそろえるために多額のお金がかかるようになりました。現在、住宅ローンや教育費を抱えた家庭で、 20万円以内で生活しているという家庭はほとんどないでしょう。これ以外にも、医療費、税金、冠婚葬祭費、交際費、遊行費など出費項目が格段に増えてきました。その費用を賄うために、夫婦とも稼ぎで莫大な生活費の工面する必要が出てきたのです。好き嫌いに関わらず、自分の生活時間の大半を金儲けのための仕事に充てざるを得なくなっています。昭和初期までの日本人は、自分とその家族、地域の人たちと、つつましいながらも、心豊かな生活を楽しんできたのです。それが便利、快適、楽しさを最大限に追求する生活に変化してきたために、どんどん失われてきたのです。このような生活を追い求めると言う事は、人間が生活の主人公ではなく、お金が人間を支配する時代に変わってきたのです。こんな生き方は本末転倒です。便利、快適、楽しさを無制限に追い求めることは、結局は人間本来の生き方を見失うことに通じる。それらの行き過ぎには、抑制力を働かせることが大切になります。この方向に向かって、すべての日本人が何の疑いもなく突き進んでいることは、背筋が寒くなる思いがします。次に、便利さを無制限に追い求めると、家事という日常茶飯事は手抜きができるようになります。他人や機械に依存して、自分は何もしないで楽をして生活していけるようになります。そして暇を持て余すようになります。そのうちお金に支配されるようなストレス解消と余暇をいかに埋め合わせるかにエネルギーを使うようになります。てっとり早いところでは、旅行、演芸やスポーツの観戦、グルメ三昧などに向かうようになるでしょう。最終的には刺激のある刹那的な快楽を追い求めるようになるでしょう。本来の人間は、自分と家族の生活は、他人や機械に依存することなく、自分自身が手を付けることが基本になります。日常茶飯事に丁寧に取り組むことによって、様々な感情が生まれ、関心や興味が湧いてきます。気づきや発見、他人との交流も生まれてきます。積極的になり、やる気や意欲が高まって行動の弾みがついてくるのです。これらは森田理論で学習したことです。日常茶飯事を軽視して、安易に依存していくという態度は、結局は人生を砂を噛むような味気ないものにしてしまいます。この意味からも、珍しいもの便利なものに安易に飛びつくという事は控える必要があるのです。森田理論学習によって、自分は人間らしく生きて行くのだという決意を固めていただきたいと思います。
2018.07.13
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自分のことは誰よりもよくわかっていると思っている人が多いが、それは半分ぐらいは合っているが、半分は間違っている。たとえば、体の調子が悪くて医者の診察を受けてみたら末期ガンだったというようなことがある。膵臓ガンなどは手遅れになることが多い。これは自分がガンになっていたという、自覚がないのが原因である。自分の音声は他人にどのように聞こえているのか、自分ではあまりよくわからない。自分の声を録音して、再生してみて始めてわかるのである。自分の考え方や動作について、第三者的に客観的な立場に立って眺めてみるということは、実態を正確に把握し、修正して改善することに役立つ。私はアルトサックスを吹いているが、ある人からビデオで撮影して、自分の演奏技術を客観的に見てみたらどうかと言われた。Yahooオークションで探してみると、機能的は落ちるが、 6,000円のビデオカメラがあった。これで撮影して再生してみた。すると、どんな音色が出ているのかよくわかった。自分で演奏しているときは、実はよくわからなかったのだ。また、 8分休符を無視して演奏している箇所があった。楽譜を無視して、自分勝手に演奏している箇所も分かった。聞いていて違和感がある箇所がある。問題のある事実がよく分かったので、修正して改善につなげることができた。次にこのビデオカメラを利用して、老人ホームで行う一人一芸もビデオ撮影してみた。高知のしば天踊り、安来節のどじょうすくい、江戸寿獅子という獅子舞、浪曲奇術、腹話術、各種手品である。すると、色々と改善点が見つかった。しばてん踊りでは、もっと手足の動きを大きく使う必要があると感じた。どじょうすくいは、歩く時にもっと腰を上下させないと、見栄えが悪い。その他所作の改善点がいくつかあった。獅子舞は、口の動きや耳の動きは意外とよかった。ただ胸噛みという所作と山越えという所作の改善点が見つかった。浪曲奇術は、すべて口パクで行うがつい声を出してしまう癖がでていた。あとコップの芸で改善点が見つかった。腹話術では、改善は難しいかもしれないが、五郎君という人形の声が今一つであることが分かった。また首をすこし上に出さないとおかしいことがよく分かった。続いて、カラオケも撮影してみた。you tubeのカラオケに合わせて歌ってみた。音痴なのがよく分かった。いきなり歌うのはまずい。発声練習が大切なのがよく分かった。高音部がの声が十分に出ない。人に不快感を与えず、自分でも楽しむ程度にはしたいと思う。持ち歌を集中して練習しようと思った。私はこれらのことから、自分の考え方や思考の癖も客観的に見ないと独りよがりになるということがよく分かった。ついネガティブで悲観的になってしまう。事実を確かめないで先入観や決めつけで動いてしまう。小さな問題を、すぐに人生を左右するような大きな問題に拡大してしまう。そういう自己中心的な考え方が自分を苦しめているのだ。では独りよがりな自分の考え方や思考の癖を客観的に見て、事実誤認をなくするにはどうしたらよいのか。それは他人から教えてもらうことが有効である。友達、配偶者、先生、カウンセラー、生活の発見会の集談会という自助グループの仲間などである。それなくして、自分を客観的に第3者的に眺めることは難しいのではないかと思う。
2018.07.12
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自然科学者は事実でないもの事実として公表することは許されません。いったんは間違いのない事実だと確信しても、何回も実験を繰り返して検証する必要があります。そして間違いのない確証を得た段階で、論文を発表するのが建前です。以前STAP細胞問題が大きな社会問題となったことがあります。STAP細胞は、リンパ球を弱酸性の液体に25分間漬けるだけで、いろんな細胞に分化する万能細胞ができるというものです。これを理化学研究所のある研究員が世界的に有名な科学雑誌に発表したのです。もしこれが真実であるとすれば、人間の手でいろんな臓器が作れますので、難病などで苦しんでいる人たちにとってはとても朗報です。ところが後に、この研究内容は真っ赤な嘘であったことが判明しました。この研究員は社会から大きなバッシングを受けて、退職に追い込まれました。また、直属の上司を自殺に追い込こんでしまいました。私たちは森田理論学習で、事実を自分の都合のよいように、勝手に捏造してはならないと学びました。事実をねじ曲げると、自分自身が精神的に窮地に追い込まれます。最悪神経症に陥ります。また、周囲の人たちを巻き込んで不幸な状態に追い込みます。どんなに認めたくない事実であっても、事実に服従するという態度が森田理論が目指しているところです。こういう態度が求められているのは、私たち神経質者だけではありません。自然科学者の場合は、事実を軽視・ねつ造することなどは絶対にあってはならないことです。本来の自然科学者は、あっと思うような発見をした場合、自分の発見が本物かどうか、納得がいくまで検証し、そして間違いなく新発見であることを確信した時点で論文にして公表します。ところが、事実を軽視する科学者はそのような検証作業を丁寧には行ないません。次のように見切り発車して考えるのです。「これはすごいネタだ。これが世間に伝われば、私の評判も高まり、研究費もたくさんもらえる。うまく特許がとれたら、その収入もすごいことになるだろう。それが何より大切なことだ。そのためには、先を越されないよう、ともかく一刻も早く発表しなくては。それもできるだけ華やかに宣伝して、世間の注目を浴びるようにしなくては」などと発想するのです。(出家的人生のすすめ 佐々木閑 集英社新書 一部引用)つまり本来の科学の目的である真実を解明するという態度が希薄になっているのです。確たる事実の確認よりは、世間に注目されることの方が優先されているのです。こんな気持ちになれば、事実の検証作業には手を抜くことが多くなります。その結果、実際には新発見でも何でもないことを、偉大な業績として発表する、などという失態を犯すことになるのです。その原因は言うまでもなく、科学者としての自覚の欠如、もっと言えば、社会的な肩書きや地位や名誉のことばかりにとらわれているエセ科学者の研究態度です。我々神経質者は、この事例から事実の大切さを反面教師として学んでゆきたいものです。
2018.07.11
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お釈迦様が2500年前に始められた正統派の仏教を踏襲しているのは、タイやミャンマーの僧侶たちである。この人達の目的は、出家して、自分自身で人生のあらゆる困難、生老病死などを解決することである。人間とは何か、よりよく生きるとはどういうことか、生きがいとは何か、苦しみや悩みとは何かについて考え続けている人である。その目的達成のため、一途に修行に専念している。生きるための仕事は全くしていない。食べ物は全てお布施によってまかなう。その他生活必需品は他人に依存しているのである。タイやミャンマーの人たちは、お布施をすると回りまわって自分たちに返ってくるという考え方をする人が多いので、お布施をする習慣が根付いている。だから、たくさんの修行僧がいるのである。修行僧たちはサンガと呼ばれる共同体の中で生活をしている。サンガを末永く維持していくために、「律」という何百という規則が定められている。修行僧たちは、この規則を厳密に守る必要がある。この規則を守らなければ、サンガを永久追放されてしまうこともある。例えば、自分で食べ物を作ってはいけない。他の仕事をしてはいけない。結婚してはいけない。財産を持ってはいけない。嘘をついてはいけない。等々である。「自分が悟っていないということを知っていながら、悟ったと嘘をつく」ことは、サンガから永久追放されます。最も重い罪です。なぜこのことが重罪に当たるのでしょうか。在家の信者さん達は、立派な僧侶で、あればあるほど、よりいっそうのお布施をするようになります。もしそのお坊さんが悟りを開いた聖人だとすると、われもわれもと、みんなが競ってお布施をしますから、衣食住のすべてにわたって、膨大な量の物品が集まってきます。ですから、もしもインチキで欲張りな心を持った僧侶がいて、 「信者からたくさんお布施をもらいたい」と考えたなら、 1番手っ取り早い方法は、 「私は悟った」と言いふらすことです。それだけで山ほどの食べ物、飲み物、着物や、豪華な住まいが手に入るでしょう。しかし、その僧侶は本当は悟っていないのですから、それは明らかに詐欺です。嘘で人を騙して、多くの物品、財産をだまし取ったのですから、正真正銘の犯罪行為です。このように、サンガでは、出家者が社会に対して虚偽の成果を申告することで、利得を得ようとする事は厳しく諫められているのです。(出家的人生のすすめ 佐々木閑 集英社新書 165頁より要旨引用)このように考えれば、日本で起こったSTAP細胞問題、日大アメフト問題、日本レスリング協会の問題、森友問題・加計問題などはどう考えたらよいのでしょうか。お釈迦様の正統派仏教では、こういった事実を隠したりねじ曲げたりする行為は重罪になることは明白です。仏教なら出家世界からの永久追放になるのですから、これらは科学の世界、教育の世界、政治の世界から永久追放になることでしょう。それらを許せば、お布施を基本にした僧侶の修行は成り立たなくなるのです。科学の世界、教育の世界、政治の世界でそのようなことを許せば、不正な自己利得を求めて、利権がらみ腐敗まみれになって国民の信頼感を失ってしまうのです。嘘をついて信頼を失った科学、教育、政治の世界がどういう行く末をたどっていくのか明白であります。証拠がなければ何とでも言い逃れがができると考えるのはいかがなものでしょうか。またほとぼりが冷めるのを待つという態度には嫌悪感さえ覚えます。人間はこんなにも愚かな面があるのでしょうか。我々森田理論学習をしている者にとって、事実を隠さない、事実をねじまげないことは大変に重要なことです。どんなにイヤなものであっても、どんなに理不尽な事実であっても事実をありのままに認めていくことは森田理論の根幹にかかわります。これらの事例から、反面教師として学んで、事実に対する自分の立ち位置をしっかりとしたいものです。
2018.07.10
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ここは広島県安芸郡海田町です。私がマンションの管理人をしている棟からの写真です。川は瀬野川です。手前の道は国道2号線です。向こうに見える山は広島市の黄金山です。この国道の手前4キロ付近には、豪雨で国道がえぐられて崩落しています。現在不通です。瀬野川の向こう側に山陽本線がありますが、流木が線路を塞いでおり、復旧の目途が立っていません。この近所に、テレビ報道でよく出ている安芸区矢野東、坂町、呉市天応があります。駅が水浸し、国道も土砂に覆われています。交通渋滞で大変です。行方不明者が多数おられ、県外の警察なども駆けつけて懸命な救出活動が続いています。驚くべきことに、6日夜の豪雨時には、緑の橋まで水かさが増しました。信じられないとは思いますが事実です。川には中州が多数あって、木が生えていましたが、すべて流されました。もう30分豪雨が続けば国道2号線を超えて、手前の一段と低い広範囲な住宅地に浸水して計り知れない被害が起きていたと思われます。ここは間一髪で助かったのです。教訓としては、自然の脅威を前にすると、大丈夫だろうという安易な考え方はとても危険だということです。自然を甘く見てはならないと思います。災害マップで危険地域として指定されているところに住んでいる人は、すぐに高台に逃げておくことです。とにかく命だけは守りたいと思います。命があれば、またいつか復活することができます。
2018.07.09
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発明王のエジソンは、 「複数の仕事を同時並行させる」という信念を持っていた。6つから7つの構想を同時に練っているというのだ。同時に複数のテーマを考えると、思考が分散されて、効率が落ちるように思える。しかしエジソンは、あえて複数のテーマを同時並行させることで、アイデアの相乗効果を狙っているという。あるテーマで、常識的に考えられる原理や材料を使って実験を続けたものの、結果が出なかったとしよう。ひとつのテーマしか追っていないと、普通はそこで行き詰まる。常識以外の発想をしようと思っても、ヒントになるものがないからだ。しかし、別のテーマを同時並行で進めていれば、 「こちらで使った原理はあちらに応用できるのではないか」という発想が浮かんでくる。こうした視点は、多ければ多いほどいい。エジソンはそれを狙って、複数のテーマを同時に抱えるというルールを意図的に実践していた。そもそも発想というものは、既存のモノや考え方の組み合わせに過ぎない。斬新と評価される発想も、元をたどれば組み合わせが異質であるだけだ。ただし、視野の狭い人に、異質なものを組み合わせる発想は浮かばない。そこで重要になるのが仕事の複線化だ。例えば、新商品の企画を練りながら、既存商品のテコ入れ策を考えるのもいい。さらに異業種のレポートを作ったり、全く関係のない社内のイベントを企画するうちに、なにかのヒントが得られるかもしれない。ビジネスの現場では、実際に数多くの案件を抱えて忙殺されている人も多いだろう。そこで、上司から新たな案件を割り当てられると、 「勘弁してくれ」と考えるのが普通の感覚だ。しかし、アイディアを深めるという意味で、複数案件を同時に抱えるのは大きなアドバンテージになる。新たな案件が発生したら、それはむしろ喜ぶべきことである。アイディアと仕事の数はイメージとしては、y=x2乗の二次曲線の関係にあると考えていいい。ひとつの仕事しかしていないと、アイデアもひとつ。しかし、仕事が10に増えれば、アイデアは一気に10の2乗で100に増える。仕事が20ならアイディアは400だ。仕事が1つ増えるたびに、アイデアは雪だるま式に増えていく。そう考えれば、目の前に積み重なった多くの仕事にも前向きに取り組めると思うが、いかがだろうか。(凡人が一流になるルール 斎藤孝 PHP新書 42ページより引用) 森田先生は、 「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」と言われた。ひとつの仕事を長時間続けていると、身体的疲労が溜まってくる。また刺激が少なくなり、飽きがきて、マンネリ化が起こると言われている。これを解消するためには、一定の時間が過ぎると、仕事の内容を変えるとよいといわれているのだ。勉強をしていると、急に睡魔が襲ってきて眠たくて仕方がない時がある。そのまま寝てしまうと、気がついたら朝だったということにもなりかねない。そういう時は、風呂に入ったり、犬を連れて散歩に行くなど別のことをする。するといつの間にか眠気が取れて、新たな気持ちで勉強に取り組むことができるようになる。エジソンの考え方は、森田理論の「無所住心」の考え方に近い。森田先生は、我々の心は最も働くときは、 「無所住心」と言って注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねく行き渡っている状態であろう。この状態にあって、私たちは初めてことに触れ、ものに接して、臨機応変に最も適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触覚がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて、つり革を持たずに立っていても、少しの揺れにも倒れずに本が読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また、自動車の運転をしていても、音楽を聴いたり、景色を眺めたり、ナビを見ていても、車線変更もでき、赤信号では止まれる。交差点では歩行者や自転車にぶつかるようなこともない。森田理論では、 1つのことに神経が集中している状態はよくないといっている。例えば森田先生が学生達に講義をしている時のことを考えてみよう。決して講義内容にばかり神経を集中している訳ではない。躓いたり、コップをひっくり返したりしないように注意している。学生達の様子や周囲の変化などにも注意を向けている。その上で、自分の話の筋道を工夫している。この四方八方に心が散った有様の事を「無所住心」といい、周囲のすべてのことに気がついて、しかも何事にも心が固着しないで、水の流れるが如くに心が自由自在に。適用していく有様である。あたかも明鏡に物の映るが如く、来るものは明らかに映り、さればただちに影を止めないと言う風である。この時は、精神が緊張して張り切っているのだ。アイデアはそういう精神状態の時にこそ、泉のように湧き上がってくるのである。
2018.07.09
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発明王といわれるトーマス・A ・エジソンは、電話機、蓄音機、白熱電球、トースター、電気アイロン、映写機、配電システム、セメント、プレハブ住宅等を発明し、 GE(ゼネラル・エレクトリック)などを創業した。そのエジソンは正規の学校教育を受けていない。小学校はわずか3ヶ月で退学している。その後は自宅で母親が基礎となる勉強を教え、後は独学で科学を学んだ。そのエジソンが21歳から亡くなるまでの60年余り、ずっと続けてきた習慣がある。それは「思いついたことは何でもその場でメモに残す」という習慣だ。エジソンは、発明のアイディアはもちろん、着想を得た場所、日付、時間までを克明に記録していた。とにかく思い浮かんだ事は何でも書き留めるので、 1週間もしないうちに手帳がいっぱいになることも珍しくなかった。ここで我々の参考となることは、自分の頭で思いついたことを克明に記録しているという点だ。メモを取るというと、人から聞いた話を詳細に書き留めようとする人は少なくない。しかし、見聞きしたことを書き留めるレベルは、創造的なメモの使い方とは言えない。発想で大事なのは、外部からの情報をヒントにして、何を生み出すかだ。情報を記録することに神経を使って、肝心のアイディアが浮かんでこないというのではメモを取る意味が薄れてしまう。(凡人が一流になるルール 斎藤隆 PHP新書 21頁より引用)メモを取るという習慣は、ほとんどの人が心がけておられると思う。しかし神経症で苦しんでおられる方は、そのことがおろそかなっている場合があります。森田理論を生活に応用している人は、そのことを徹底しておられるのではないでしょうか。しなければならないこと、してあげたら人に喜ばれそうなこと、ちょっとした気づきやアイディア、川柳やユーモア小話のネタなど頭に浮かんでくるものは毎日山のようにあります。それらは宝の山です。その時、いい考えだなと思ってもメモしていないと、すぐに忘却の彼方へと飛んでいってしまいます。忘却の彼方に飛んでいくと、再び思い出す事は出来なくなります。私たち神経質者の長所は、普通の人があまり気にしないようなことに気づくという点にあります。これは心配性という性格がもたらしてくれるものです。心配性というと否定的な意味で捉える人が多いと思いますが、別の面から見ると、感受性が豊かで鋭いということでもあります。この特徴を活用していかないと、私たちの備わっている性格特徴を十分に活かしたということにはならないと思います。確かに何でもかんでもメモするということはしんどいことです。とりあえずポケットの中に紙切れを入れておいて、ボールペンを用意しておき、いつでもメモが取れるという状況に置いておくことが必要です。これができるようになった人は、やるべきストックが沢山増えてくると思います。やりやすいものや納期の急ぐものから手掛けていくことが大切です。私が心がけていることは、メモしたうち60%ぐらいできればよしとするということです。自分1人ではできないこと、能力的にできないこと、今やるにしては時期が悪いなどいろんな条件があって、すぐにはできないことなどもたくさんあるでしょう。それらはそのままにしておいて、とにかく数をこなすことに注力した方がよいと思います。このような生活態度で生活していると、尻軽にすっと体が動くようになってきます。これが習慣化してきた時、神経症の悩みや苦しみはかなり軽減されていることでしょう。
2018.07.08
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このブログの背景に宇宙から観測している地球の様子を写した画像を使用している。当然私が撮影したものではない。誰が撮影したものかもわかりません。ある方からこれは肖像権を侵害をしている。ただちに使用を中止すべきであるという度重なる忠告をいただいている。ここで説明をしておきたい。この写真は、楽天ブログが簡単にブログを作成できるようにテンプレートに組み込んでいるものです。私は自分で一からブログを作ることができなかったので、そのテンプレートをそのまま使わせてもらっているのです。それでも肖像権を侵害していると言われるのならば、別のテンプレートに差し替えることもやぶさかではない。ただこの画面が、地球を観測しているというメッセージを送っているように見えるので気に入っている。そういうわけですので、損害賠償は起こりえないと考えています。今までもそんな指摘を受けたこともありません。ご指摘いただいている方は、是非楽天ブログのテンプレートの内容をご覧ください。どうかよろしくお願いいたします。
2018.07.07
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豊臣秀吉は駆け出しの頃、木下藤吉郎と呼ばれていた。木下藤吉郎は織田軍団の家老たちから徹底的に嫌われ、あらゆる嫌がらせを受けていた。木下藤吉郎はいじめられるために生まれてきたような人間で、尾張中村の田舎から出てきた成り上がり者であった。出目といい、猿のような容姿といい、いじめられる条件は揃っていた。しかし、木下藤吉郎は、卑屈なることなく、前田利家、丹羽長政などと親しくなった。柴田勝家や佐々成政などとは犬猿の仲であったが、総帥である織田信長には可愛がられた。その組織の長に可愛がられていたため、柴田勝家は苦々しく思いながらも、秀吉を認めざるをえなくなったという。学校で言えば、最初はみんなから嫌われ者であったにもかかわらず、リーダー的存在にのし上がっていった人である。普通、そのような状態になれば、友達が恐ろしくなり、あるいは自己嫌悪に陥って、不登校や引きこもりになる人が多い。それでは、秀吉はなぜそのようにならなかったのか。子供のイジメによくあるのが、身体や顔などの特徴をとらえて、揶揄をすることだ。秀吉の場合は「猿」である。これは秀吉も相当気にしていた。しかも百姓の出である。武将からしてみると百姓は1人前の人間ではない。むしろ動物に近いわけです。だから、そこから出てきて、しかも顔が猿に似ているというのは、武家社会では大変なハンディである。それは悔しいけれども仕方がなかった。しかしここからが我々と違うところだ。秀吉はそれを逆に取って、 「猿」と言って可愛がられよう、愛嬌を作ろうと考えた。そして、なんと自分で自分のことを「猿」というのである。 信長に「この猿めにお任せあれ」と言うようになる。普通は周りのものから顔のことを取り上げられて、軽蔑されたりからかわれたりすると、 「わしは猿じゃない。れっきとした人間だ」などと反発するのではないだろうか。秀吉は自己否定し、卑屈になっていると言うよりも、よい意味で開き直っているのではないだろうか。事実を見つめ、事実を認めていると言った方がよいかもしれない。事実を隠したり、捻じ曲げようとしていない。ありのままに公開しているのである。私の中学時代の経験であるが、テストで悪い点をとると、その答案用紙はすぐに机の中やカバンの中に隠していた。ある友人は、悪い点を取った時に限って、その答案用紙を級友たちに面白おかしく見せていた。級友たちはとても喜んで、「どうしてこんな所を間違ったのか。ばかだなあ」などとはやし立てる。そのうちその答案用紙は多くの級友たちにたらい回しされていた。その友人は、それを取り返そうともせず、されるがままにされていた。その友人は高校を卒業してある大手企業に就職した。同窓会で会って近況を聞いてみると、なんとその会社で部長職にあるという。大勢の部下がいるという。これには同窓会に参加していた人の度肝を抜いた。あの成績の悪かった友人が、今では級友たちを押しのけて1番出世していたのである。私はこの友人は、根回し、仲間づくりや対人折衝能力の賜物ではないかと感じた。その中でも、自分の不利な事実でも隠したりねじ曲げたりすることなく、事実のままに公開するという姿勢が良い結果を招いたのではないかと確信した。
2018.07.07
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私の住んでいる広島県はバケツでひっくり返したような大雨が朝からずっと降り続いています。テレビ報道では、大雨を降らす雨雲がほとんど動いていません。多いところでは600ミリの雨量です。これは数十年に一度の災害だそうです。このまま明け方まで同じ状況が続くようです。消防車、救急車のサイレンが鳴りっぱなしです。県では自衛隊に災害派遣を要請しました。近くのよく知っている地名で、被害情報が続々とテレビに映し出されます。このままでは数年前の安佐南区での土砂災害並みの被害が予想されます。山の近くの人は非難勧告が出されています。私も生きた心地がしません。特に呉市は坂道が多く、崖の上に建つ家が多いので今後の被害が心配です。なんとか被害が最小限で収まることを祈るばかりです。西日本にお住いの皆さんのところでも、大雨かと思います。どうぞお気をつけてお過ごしください。
2018.07.06
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神経症の症状に「着手恐怖症」というものがある。目の前にやらなければいけないことがあるにもかかわらず、なかなか手をつけない。取り掛かることにためらいがある。先延ばしにする。そんなものがいくつも溜まってくる。そのうちそれらが束になって自分を襲ってくるので、イライラして、その重圧に圧し潰されそうになる。これらの原因と対応方法について考えてみたい。人間には、燃えるような人生を生きてみたいという気持ちを持っていると同時に、苦しいことは何もしたくないという気持ちもある。めんどくさいこと、億劫なこと、しんどい事、エネルギーを使うことには、極力手を付けたくない。休みたい、楽をしたい、何もしないで本能のままに生活したいという気持ちも強い。こういう安易な気持ちに従っていると、どんどん「すぼら」な生活になってくる。気分本位な生活態度は、少し気を抜いているとすぐに習慣になってしまう。行動力が落ちてきて、頭や体の回転が悪くなり、暇をもて余すようになる。これらが進行してくると、大脳と身体が廃用性萎縮現象を起こすようになる。これらを改善するためには、最初に不快な感情がわき起こってきても、それを押しのけて無理にでも動くことである。私も、定期的な楽器の演奏の練習に行く前はとても億劫である。ドタキャンをしたくなる。でもそれでは仲間に迷惑がかかる。嫌々仕方なしに出かけていく。練習が済んで帰る頃になると、いつも気分も変わり、来てよかったな、という気持ちになる。このような経験は誰でも持っておられることだと思う。気分本位の打破は、ちょっとした気持ちの切り替えでできることである。神経症の人は、困難な課題に対して、不安な気持ちになる。この課題の解決は難しそうだ。時間がかかりそうだ。失敗しそうだ。エネルギーの無駄遣いに終わるかもしれない。うまくできなかったことをあれこれと取越し苦労する。この問題は自分には荷が重いのではないか。どうせ自分にはできるはずがない。課題に対してどうしてもやらなければならないという気持ちがある半面、その反対の不安に注意や意識を向けている。ネガティブでマイナスの考えが次から次に泉のように湧いてきて、行動の糸口さえつかめなくなってしまう。そのような課題がいくつも重なると、もつれた糸のようになり、解きほぐすことが困難となる。金縛りに遭ったような状態になって、日常茶飯事やすぐにできるような簡単な仕事もまったくできなくなってしまう。森田理論では、このような結果を予想するよりも、行動するプロセスを大切にしている。努力即幸福という考え方である。森田先生は気が進まない勉強でも、とりあえず5分だけ教科書開いてみる。興味や関心が出てこなければいつでも中止するという気持ちで取り組んでおられる。尻軽に動くということが大切である。神経症の人は、頭の中で「これなら失敗しないでできる」という確信を持ててから動き出そうとする。不安が精神交互作用によって増悪してくると、なかなか確信を持つことができない。従って、体を動かすことができない。そういう課題がいくつも重なって手も足もでなくなる。普通はやるべき課題は、思いつくままにメモしていくことが大切である。その中からすぐにできることや納期の迫っているものから、嫌々仕方なしにても手をつけていくことである。ここで大事なことは、すっと体が動くという習慣を身につけることである。だれでもジョギングをしていると、手や足が素早く動いている。我々の生活もそのような状態に変化させることが必要なのだ。そのためには抵抗感のないやりやすいものから数多く手がけることが必要なのです。そしてできたら線を引いて消していく。これもできたあれもできたという満足感とともに、弾みがついて頭や体が外向きになり、物事本位に変化しているのである。
2018.07.06
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2000年以降、熟年離婚は約6万件前後で推移しているそうです。熟年というのは、 50歳以上の夫婦のことを指しています。この1つの理由として、 2007年から始まった年金分割制度の開始が挙げられます。その他に熟年離婚の理由は次のような原因は考えられます。・とにかく一緒にいるのが苦痛である。・親の介護の問題がある。・すでに子供が自立したから。・やることなすこと価値観が違う。・女性の自立・相手の浮気や不倫の問題・セカンドライフプランが異なる。熟年離婚というのは、妻の方から夫に対して切り出す方が大半を占める。1986年に結婚した森進一さんと森昌子さんはその後離婚しました。森昌子さんは、結婚を機に芸能活動を休止していましたが、 2001年に再開しました。その時に森進一さんはジョイントコンサートを提案されました。これは森昌子さんにとっては不本意な活動だったようです。さらに、子供の教育方針においても埋められない考え方の違いがあったようです。その結果、最終的に森昌子さんは2人の子供連れて自宅を出ることになりました。熟年離婚の問題を、森田理論を使って考えてみましょう。熟年離婚の原因は、自分は正しい、相手は間違っている。だから相手をコントロールして、自分の思う通りになってほしいという考え方があります。これは森田理論で言う「かくあるべし」を相手に押し付けていることです。こういう時にどう対応するのかが、その後に大きく影響するのです。小さな夫婦のすれ違いを放置して積み重ねるほど、溝は広がり、さらに深くなってきます。そして、ある日突然、妻の方から熟年離婚を持ち出されて、夫の方が右往左往することになるのです。森田理論では理想と現実は大きく乖離していると考えています。その時の自分の立ち位置が問題になります。 「かくあるべし」という完全主義、理想主義に自分の身を置いて、問題の多い現実の自分や他人を否定することは、溝を広げ、最後には修復不可能となってしまうのです。相手を自分の思い通りに変えることはできません。出来る事は、相手の言い分をよく聞くことです。そして、自分の考えや意見をしっかりと述べることです。この段階では、 2人の間にどんな考えや意見の相違があるのか、きちんと整理するのです。次の段階では、お互いに交渉して、どうすれば、ほどほどのところで折り合いをつけられるのかという作業に取り組むのです。ここでは、お互いの力関係はほぼ拮抗しています。自分の思い通りに相手をコントロールしたいという欲望を抑えて、いかに自分の考えや意見を相手に伝えられるのか。その事に注力していくのです。夫婦生活はいつも波風がたっています。それはお互いの利害関係が絶えず衝突しているからです。そんな口げんかがいやだから、熟年離婚を選択して自由気ままに生活したいという人もいるでしょう。しかし1人の生活は、元気なうちはいいと思いますが、歳をとってくると、孤独や寂しさが増してくる人も多いでしょう。雨降って地固まるではないですが、絶えず繰り返される衝突に真摯に向き合い、お互いにwin winの関係を目指すのが夫婦の人間関係作りの基本ではないでしょうか。皆さんは、朝起きたとき、夫婦で「おはよう」と元気よくあいさつはされていますか。恥ずかしくてそんな挨拶はしたこともないという夫婦もおられるかもしれません。そんなところから夫婦の人間関係のほころびが始まっているのかもしれません。(考・熟年離婚 鳴門教育大学 浜崎隆司教授の新聞記事参照)
2018.07.05
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今日は神経症克服のために、4つ目の「現実や事実の受容手法」の説明をしてみたい。森田理論で言えば「事実唯真」の話である。事実唯真の反対は、 「かくあるべし」という理想主義的考え方のことをいう。「かくあるべし」的考え方は、理想とかけ離れた事実を隠したり、ねじ曲げたりする。そのことが、自分や自分の所属する組織を不安定にする。また事実をごまかしていると、自分の思いとは反対に周りの人から信用されなくなってしまう。葛藤や苦悩を抱え、ますます生きづらくなってくる。このことを森田理論では「思想の矛盾」というのである。最近社会問題となっている日大アメフト部の問題や政府がもみ消しに躍起になっている森友問題、加計問題などを見ていると、そのことがよくわかる。私たちはこれらに学び、基本的には現実や事実を隠すことなくありのままに認めて行きたいものである。これらは森田理論学習を深耕することによって、能力として身に付けることができます。まずはっきりさせておきたいことは、事実にはどんなものがあるかということである。事実は次の4つに分けて考えると、わかりやすくなると思います。 1 、自然にわき起こってくる感情がある。これは雨が降ったり、地震が起きたりする自然現象と同じです。私たちに意思の自由はありません。ですから、裏を返せばどんなに嫌な感情であっても責任を取る必要はありません。2 、自分の容姿、性格、素質、能力などがあります。また、自分の欠点、弱点、自分が引き起こしたミス、失敗、過失などがあります。これらは自分にないものを探すよりも、持っているものを活かしていくことが大切です。また隠したりしないで事実をありのままに開示することが大切です。3 、自分に対する他人の理不尽な仕打ちです。その事実に対しては、状況をよく把握することが大切です。他人の容姿、性格、素質、能力、欠点、弱点、ミス、失敗、過失などについては、安易に批判しないで、その事実を正確に把握するにとどめることが大切です。4 、台風、地震、火山活動などの自然災害、経済的な危機、紛争、伝染病の蔓延などです。できるだけの事前の準備をしておく事は大切ですが、どうにもならないことは、最終的には受け入れていくしか手の打ちようがありません。それでは次に、事実本位の生活を維持するために大切なことを説明します。1 、事実を自分の感情を入れないでよく観察するということです。我々は自分の周りに起こった出来事を、よく観察もしないで、今までの経験をもとにして、先入観を持って決めつけてしまいがちです。それに基づいて行動を起こすので、とんでもない間違いを起こしてしまうのです。完全に事実を把握することはできませんが、できるだけ事実に近づこうとする態度が大切なのです。2 、私たち人間は都合の悪い事実を隠しがちです。事実を公表するのを遅らせる。ありもしない事実を捏造したりします。これらは自分と自分の所属する組織を守ろうとしているのですが、結果は周りの人からますます非難されたり軽蔑されるようになります。事実を受け入れるという姿勢を身に着けることが大切です。事実は、なるべく早く公開する。具体的に話をする。包み隠さず赤裸々に話をすることが大切です。事実の公開を遅らせる。抽象的な話をする。言い訳をする。ごまかす。責任転嫁をする。などということはご法度です。3 、起きてしまった事実について、自分勝手な是非善悪の価値判断をしない。価値判断は、時間とともに変わっていくものですし、 10人の人がいれば10人の価値判断があります。価値判断は絶対というものではありません。あやふやなものなのです。自分の価値判断に固執して、自分や他人に押し付けることは百害あって一利なしです。自分の価値判断に基づいて、相手を説教、批判、禁止、叱責、怒り、指示、命令していると、人間関係は悪化してきます。起きてしまった事実の原因究明をすることが、まず先に来なければなりません。4 、森田理論学習では、事実本位の生活をするために、「純な心」「私メッセージ」の活用をオススメしています。「純な心」は、自分の最初にわき起こった感情を思い出して、生活の中で応用していくことです。最初に沸き起こる感情は、すぐに「かくあるべし」を含んだ感情で塗り換えられてしまいますので、意識して取り組まないと、自分のものにはなりません。獲得のためにはグループ学習が効果的です。「純な心」の体得のための具体例は、何度もこのブログで紹介して行いますのでご覧ください。「私メッセージ」は、他人と話をする時、「あなたは・・・」から始めるのではなく、「私は・ ・ ・と思う」「私には・ ・ ・こう感じられた」と言うように、私を主語にして話す習慣を作り上げることです。この能力が獲得できれば、事実本位の生活態度に近づいてきます。
2018.07.04
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今日は「認識の誤りの修正手法」について見て行こう。認識の誤りにはどんなものがあるでしょうか。一例を書き出してみましょう。・こんな神経症で苦しんでいるのは自分ひとりである。自分の症状が1番重い。・神経症がなくなれば、人生はバラ色に変わってくるはずだ。だから神経症をなくすることに全エネルギーを投入した方がよい。・他人は神経症で苦しんでいる自分を見て、重大な関心を寄せている。軽蔑し、毛嫌いし、迷惑がっている。・ミスや失敗をすると、すぐに「自分の人生はもう終わったも同然だ」などと大袈裟に考える習性がある。・自分に1つでも弱みや欠点があると、自分の全人格を否定する。生きている価値や資格がないと考える。・自分の欠点を過大に取り扱い、他人の欠点は大したことはないと過小評価する。・データの裏付けもないのに、自分勝手に悲観的、否定的な結論ばかりを出す。・一旦先入観や思い込みを持つと、事実を確認するということ怠り、端から決めつけてしまう。・ 0か100か、白か黒か、といった二分法的思考をしいる。この友人は自分にとって役に立つか、そうでないのか、どちらかに決めつける。役にたつと思えばべったりとひっつき、そうでないと思うとまったく寄り付かなくなる。・ 「失敗してはいけない」 「すべての人に受け入れられなければならない」 「間違いや失敗は決してあってはならないことだ」などというかくあるべし的な考え方をする。これらをまとめてみると1 、色眼鏡をかけてみている。1部分だけを見て、全体を判断している。先入観や思い込みが強い。2 、物事をマイナス面しか見ていない。物事にはプラス面や前向きな面もあります。例えば、テストで良い点を取ったのに、 「そんなことはたいしたことではない」といってまったく評価しない。3 、物事をすぐに大袈裟に飛躍させている。小さな失敗にもかかわらず、自分の人生を左右してしまうような大問題に発展させてしまう。4 、つい悪いことを予想してしまう。何の根拠もないのに、他人は自分を嫌っているはずだと判断する。やる前から悪い結果が出る事を予想している。これらの「認識の誤り」が、自分を苦しめ、他人を巻き込んで他人に迷惑をかけているのです。事実を客観的によく観察して、どこまでも事実を確認する態度を養成する必要があります。そのために、自分自身に次のように問い掛けてみましょう。1 、その考え方は具体的ですか。抽象的な思考に陥ってはいませんか。2 、実際に事実を確かめましたか。人からの又聞きで対応していませんか。3 、客観的に見て、妥当性がありますか。論理的で整合性がとれていますか。4 、先入観は入っていませんか。決めつけをしていませんか。5 、両面観で、マイナス面だけではなく、プラス面も見ていますか。「認識の誤り」は、自分ひとりで修正する方法もありますが、自分自身ではなかなか気がつきません。第三者から見ればすぐ分かることでも、長年にわたって自分に染み込んだ考え方の癖というものは、自分では自覚できないのです。ですから、 「認識の誤り」を修正していこうとすれば、第三者の力を借りた方が効率的です。友人、配偶者、師、集談会の仲間、カウンセラーなどの力を借りて修正していくのです。「私の考え方、物の見方はどこかおかしいのでしょうか」と謙虚な気持ちで聞いてみることです。グループで「認識の誤り」を学習する場合は、次のように行います。1 、まず具体的な出来事を出します。2、その時自分の物の見方、感じ方、考え方の癖についてありのままに発表します。3 、参加者全員で別の見方、別の感じ方、別の考え方を出し合います。4 、自分のものの見方や考え方が偏っていることを自覚していくことが大切です。
2018.07.03
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今日は神経症を克服するために、 「欲望と不安のバランス回復手法」について説明してみたい。神経症に陥った人は、不安、恐怖、違和感、不快感などに対して、なんとか取り除こうとエネルギーを傾けている。どうにも取り除くことができない場合は、逃げまくっている。そのような行動をとればとるほど、精神交互作用によって症状は悪化し、固着してしまう。これはこの回復手法から見れば、欲望が蚊帳の外になり、不安と欲望のバランスが崩れているということになる。神経症から回復するためには、欲望と不安は一体のものと考えて、いかにそのバランスをとっていくかということにエネルギーを投入する必要があるのである。このことの意識付けをするために、よく目の見えるところに「やじろべい」 「てんびん」などを置いておくことをお勧めする。そもそも不安、恐怖、違和感、不快感などは人間にとってなくてはならないものである。それがあるおかげで、身体の危険の存在を教えてくれている。あるいは問題や課題の存在を教えてくれている。それに対応することによって、身体や財産の安全が保たれている。また、不安などは欲望の暴走を制御するという役割も持っている。不安は意味もなく存在しているのではない。大きな役割を果たしていて、人間にはなくてはならないものなのである。神経症に陥る人は、不安の使い方、対応の仕方を誤っているのです。神経質者は、心配性という性格特徴を持ち、不安などに対する感受性が非常に強い。いわば、高性能のレーダーや魚群探知機を標準装備しているようなものです。その高性能な機能の使い方を誤っているために正常に機能していないのです。そういう不安や恐怖が強い人は、その裏に大きな欲望を持っている人です。不安と欲望は正比例しています。不安は大きければ大きいほど、欲望もそれに見合って大きなものがあるのです。不安と欲望は、コインの裏表の関係にあります。もっとわかりやすいのは、車のアクセルとブレーキの関係と同じです。アクセルは欲望、ブレーキが不安と考えると分かりやすいと思います。アクセルを踏みこまないと、自動車は決して前に進む事はありません。アクセルを踏み込むという事はとても重要なことです。しかしアクセルを踏み込むだけで、スピードを制御するというブレーキがなければ、すぐに大事故を引き起こしてしまいます。アクセルをふかしながら、ブレーキを適度に使いこなして前を向いて前進するという態度が大切です。我々が手がける事は、不安を取り去ることでも、欲望を無制限に追い求める事でもありません。ただ、その2つのバランスをいかに取っていくかということに意識を向ける必要があるのです。神経症に陥った人は、不安や恐怖の解消のことばかり考えています。これは片手落ちです。生の欲望の発揮のことを忘れてはなりません。むしろそちらの方を6ぐらいに考え、不安や恐怖の方を4ぐらいに考える必要があります。神経症に陥っている人は、バランスを回復するために、不安や恐怖はこの際考える必要はありません。必要な事は、 「生の欲望の発揮」に目を向けることが大切です。 100%そちらのほうに意識を向けてみてください。具体的には、昨日「実践・実行手法」で取り上げたことに取り組んでいくのです。そうすれば次第に、不安と欲望のバランスが回復してくるものと思われます。これが神経症を克服するための第二の着眼点となります。これはすぐに忘れがちになりますので、「やじろべい」などで意識付けをすることが必要なのです。
2018.07.02
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今日は、 4つの手法のうち「実践・実行手法」について見ていきましょう。これは森田理論学習の中でさかんに言われていることです。他の手法に比べると即効性があります。しかし、この手法だけに頼っていると、思ったような効果はありません。この手法も、 4つの手法のうちの1つだと思って取り組むことが大切です。私は、実践・実行・行動のレベルを8つに分けました。1から順番に徐々にレベルアップしていくことが大切だと思います。これは人によって取り組む課題が違っているからです。レベル1 、気が進まなくてもいやいや、しかたなく手足を動かしていく。森田では「月給鳥」という鳥になったつもりで会社に出かける。家事では超低空飛行を心がけるなどと言います。レベル2 、実践課題を作って取り組んでみる。布団あげ、部屋の掃除、靴磨き、風呂の掃除、トイレの掃除、車の洗車、ペットの世話、草花などの手入れ、家庭菜園、地域の活動、趣味、運動などの課題を作って取り組んでみる。レベル3 、気づいたことを逃さないようにメモして課題のストックをためていく。そして、できることから手をつけていく。雑仕事、雑事を大切にする。コツはものそのものになりきるって行うということです。注意点は、今できる事は1つしかない。完全にこなそうと思わず、 6割できればよしとする。変化に臨機応変に対応して、優先順位を意識する。これは森田理論では、 「無所住心」の考え方です。レベル4 、規則正しい生活を心がける。自分の不安や心配事よりも仕事、勉強、家事、育児に力を入れていく。レベル5 、物、自分、他人、お金、時間をできるだけ有効に活かして使う。森田では「ものの性を尽くす」と言います。レベル6 、人に役に立つことを見つけて行動していく。レベル7 、好奇心を活かして、興味がある趣味などに取り組んでみる。仲間との交流の体験を持つ。一人一芸を身につける。レベル8 、大きな目標、課題を設定する。コツコツと尻な努力を重ねていく。目標達成に向けてチャレンジしてみる。神経症に陥っている人は、まずレベル1からレベル4までに力を入れましょう。まずこの段階までを軌道に乗せることが大切です。その結果を集談会などで発表し、先輩方からアドバイスをもらい、次のステップへと進んでいくことで成長していくことができます。
2018.07.01
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