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アメリカの文化人類学者デビット・K・レイノルズ先生は、森田療法と内観療法に詳しい先生である。この2つを神経症の治療に取り入れられている。内観療法が吉本氏によって確立されたのは1930年代のことです。内観療法とは、私たちが家族や身近な人たちによって支えられているという、具体的で明確な事実に焦点を当てて自己内省することです。周囲の人たちから絶えず恩恵を受けているという事実を、細部にまでわたって本当に認識した時、感謝の気持ちが湧いてきます。それに報いることをしていなかったことに罪の意識を感じ、行動を改めるようになるのです。内観療法は研修所で行います。私は一日だけの内観療法を受けました。畳半畳ぐらいなところに入ります。周りは立屏風で覆われていました。ここで自分ひとりで一日中内観をするのです。 1時間か2時間ごとに、 「この時間はどんなことを内観されましたか」と研修所の人が来られて確認されました。これは寝たりして、内観をしていないか確認のためだと聞きました。私は最初に母親との関係を生まれてから物心つくまで、できるだけ思いつようにしました。記憶はないのですが、成長してから聞いたことを思い出すようにしました。次に、幼稚園児だった頃から、小学生の頃の母親との関係を丹念に調べました。続いて、中学生の頃、高校生の頃、大学生の頃、社会人になって30代の頃、 40代の頃、50代の頃と年代を区切って母親との間で起こった出来事を調べていきました。その時、母親からしてもらったこと、母親にしてあげたこと、母親に迷惑をかけたことを中心に自己内省しました。普通集中内観療法は、母親との関係を調べた後、父親、祖父母、兄弟姉妹、叔父や叔母、友達などについても丁寧に調べてゆきます。集中内観は原則として1週間ぐらいです。これを朝から夜まで繰り返すのです。終了間際になると、自分がいかに周囲の人に迷惑をかけてきたのか、いかに周囲の人に助けられて生きてきたのかがよくわかるようになるようです。最後は涙が溢れて止まらなくなるそうです。感謝の念でいっぱいになるようです。内観療法が終わってから、普通の生活に戻ると、その恩に対してお返しをしたいと思うようになるようです。内観療法では自己中心という認識の誤りが、周囲の人との人間関係を丹念に調べることによって、頭の中で修正されるのではないかと思います。しかし、この内観療法は、しばらくするとまた自己中心という行動がぶり返すそうです。そうならないためには、自宅において家庭内観を日々行う必要があるようです。私は1日だけの体験内観療法でしたので、その境地に至る事はありませんでした。神経症に陥る人は何かにつけて自己中心的で、他人のことを思いやる気持ちが希薄です。自分の気持ちや主義を押し通して、 他人に平気で「かくあるべし」を押し付けています。森田理論では「かくあるべし」が強すぎると、思想の矛盾を起こし、葛藤や苦悩で苦しむようになるといいます。「かくあるべし」を極力抑えて、どんなに理不尽な事実であっても、その事実に立脚して生きていく事を勧めています。事実本位の生活をするための方法は色々と森田理論か教えてくれています。それに加えて、この内観療法を取り入れることによって、自己中心的な部分が抑えられ、他人に 「かくあるべし」を押し付けることが少なくなるとすれば、内観療法の持っている意義は大きいのではないかと思います。
2018.11.30
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私が以前パチンコにハマっていた時に、 「確率変動」というのがありました。これは1回大当たりがくると、 3回に1回ぐらいの割合で、またすぐに大当たりがくるというものでした。一回たまたま幸運が起きると、また同じような幸運が訪れやすいということです。この確率変動は、私たちの人生の中でも起きる可能性が高いのではないでしょうか。例えば、何回国家試験に挑戦しても合格することができなかった。ところが、努力の甲斐あって、 1つの国家試験に合格する。すると、自信がでてきたのか、あるいは合格するためのコツがわかったのか、いずれかよくわからないが、次から次へとお目当ての国家試験に合格する。これは私の経験でも、宅地建物取引主任者、行政書士、社会保険労務士、ファイナンシャルプランナーなどの試験で経験したことである。普通、多くの人は3回も4回も同じ国家試験に失敗すると、自分の能力ではもう無理だと思って挑戦を諦めてしまう。その時点でもう成長することが止まる。自己嫌悪や自己否定で苦しむことになる。大きな夢や目標を持つ事は大変良いことではあるが、大きな壁に阻まれて挑戦を諦めてしまうことは、残念なことである。飛び込みセールスをしている人は、この「確率変動」という考え方をしっかりと持っているようだ。例えば自動車の飛び込みセールスをする人は、 99人の人からの断りを甘んじて受けることができれば、確率的に1件の成約に結びつく可能性が高いことを知っているという。そのこと信じているから、きついお断りの言葉を受けても、ダメージは少ないのだ。それよりも多くの人からもっと拒否されて、断りの数をこなすことが成約への近道だと信じているのだ。私たちは夢や目標に向かって努力していても、 1回の失敗があると、二度と挑戦しないと言うのは実にもったいないことだ。そういう時は、人生で最初からうまくいく事はほとんどない。基本的には、失敗の数をこなすことが成功への近道だと信じて、努力を続けることが大切だ。何回も挑戦していくうちに、神様がその努力の代償として、最後にひとつのご褒美を与えてくれるのだ。最低でも3回は手を変え品を変えて、挑戦していくという態度を持つことが大切であると思う。すぐにあきらめるな。へこたれるな。そうすれば願いがかなう確率が高くなるのだ。
2018.11.29
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私はアルトサックスの演奏をしているが、その楽器が「人生をなめてかかるな」と教えてくれる出来事があった。私は素人チンドン屋に所属し、年間20回から30回の老人ホームなどの慰問活動をしている。その時に演奏する曲は、お年寄りが喜んでくれる昔懐かしい歌謡曲がほとんどである。定番の曲は30曲ぐらいあり、その曲を組み合わせて5曲から6曲演奏することが多い。竹と雀、ちどり、美しき天然、オッペケペ節、さんぽ、アンパンマンのマーチ、宇宙戦艦ヤマト、人間ていいな、木遣り節、皆の衆、笑点のテーマ、リンゴの唄、チンドン小唄、高校三年生、上を向いて歩こう、旅の夜風、好きになった人、見上げてごらん夜の星を、南国土佐を後にして、炭坑節、野崎小唄、瀬戸の花嫁、同期の桜、日本昔話、ありがたや節、さよなら港、黒田節、それいけカープ、燃える赤ヘル僕らのカープ、広島天国などである。最初のうちは朝指の運指訓練に30分、夜は消音機をつけて30分から1時間毎日練習を欠かさなかった。どの曲も、もう1000回以上は練習していると思う。今では楽譜なしでも暗譜である程度演奏できるようになっていた。すると、いつでも頼まれれば自由自在に演奏できると勝手に思ってしまうようになった。そして毎日していた練習を2日おきにするようになった。なめてかかっていたのである。その状態で、大勢の前で演奏してどうなったかと言えば、思わぬところで指使いを間違うようになったのだ。今までは簡単にこなしていたところで間違う。あせった。これはどうしたことか。もう引退せざるを得ないのではないかと悩んだ。そこで、以前の練習方法に戻した。次回演奏曲は1週間前に分かっているので、それを中心に朝晩練習することにした。なんとか間違いを少なくすることができるようになった。これで得た教訓は、毎日のルーティンは淡々と手を抜かずに取り組まないといけない。これは野球でいえば打率のようなものだ。手を抜くと打率は急降下してくる。毎日の練習こそが、自信の源となることが分かったのである。普段の日常生活もそうかもしれない。やるべきことを怠慢で手を抜いていると、生活全体が弛緩してくる。いろいろと手を付けていると、精神が緊張状態になり、弾みがついてくる。また精神が緊張状態にあるときに、様々な気づきやアイデアが泉のようにこんこんと湧いてくるのである。「凡事徹底」が私の座右の銘であるが、サックスの練習ではすっかり忘れていたのだ。
2018.11.28
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資料の添付技術がなく、見にくいのですが、「純な心」の体験学習で使用している資料を2分割で掲載します。本来この資料は1枚ものです。例がいろいろ書いてあります。参考のために読んでください。次に、一番下の「自分の例」の使い方について説明します。一番左に、不安や怒り、心配や恐怖、悲しみや不満を感じた「具体的な出来事」を書きます。次に、出来事から出発して、「一番最初に感じた感情(森田では初一念と言います)」を書きます。次に、初一念から出発したときの自分の言動を想像して書き込みます。続いて、普通は初二念、初三念が出てきます。この時に出てきた感情、気持ち、思いを書き込みます。普段はこれに基づいた言動で対応することが多いと思われます。この初二念、初三念から出発した時の言動を書き込みます。出来上がったら、学習の場で発表して、みんなで意見を出し合って議論してみてください。「純な心の体得」は、かくあるべしを少なくして、事実本位の生活態度を身につけるために必ず通る関所のようなものです。ぜひ取り組んでみてください。本格的にこの資料を使って学習してみたい人は、プライベイトメールをくだされば、「集談会での森田理論学習テーマ集」としてメール送信いたします。プライベイトメールは、このブログのカテゴリーの一番下にあります。
2018.11.27
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一昨日岡山で開催された心の健康セミナーに参加した。今回講演をしてくださった先生は、皮膚科の専門医だった。この先生が言われるには、慢性の皮膚疾患に対して、薬物療法や外科的治療だけでは不十分である。慢性疾患を抱えている人たちは、様々な皮膚症状に対して、心の中に不安、葛藤、怒りなどが渦巻いている。たとえば、 「アトピーが治らなければ何の希望もない」 「アトピーが治ったら働く」 「皮膚炎のために受験できない」 「自分が嫌い、どうなってもいい」などと考えがちである。進化している対症療法的施術と並行して、心のケアを付け加えると慢性の皮膚疾患は驚くほど良くなるケースが多いと言われる。この先生は、心のケアについては森田療法を研究され、皮膚疾患による不安、葛藤、怒りなどの悪循環を断ち切るように指導されていた。つまり外来森田療法を慢性的皮膚疾患の患者に取り入れられていたのである。このような皮膚科の専門医が存在すること自体大変な驚きであった。この先生は、次のようなことを心がけて心のケアに取り組んでおられた。傾聴・共感を心がけて、肯定的側面を評価する。できることや興味のあることに取り組むように提案をする。私メッセージの発信に心がける。ユーモアを心がける。日記指導を行う。食事、運動、音楽、ダンスなどの効用についても言及されていた。その中で印象に残った言葉は、 「人間はもともと何かを作り出す行為に生きがいを感じるように生まれてきている」 (伊丹仁朗 生きがい療法の証明 海竜社)だった。不安を持ち抱えたまま、なすべきことに取り組んでいくという考えだった。私はこれまで、がん治療、難病疾患、慢性疼痛などの専門医が外科的施術に加えて、森田療法を応用して、身体疾患を軽減させている講演を数多く聴いてきた。慢性疾患やストレスが原因となる身体疾患は、心や考え方の歪みが症状を悪化させていることがよくわかった。森田療法理論は、神経症を治すだけではなく、慢性疾患、身体症状、免疫力の低下した人に大いに応用できることがもうすでに証明されているのだと考える。身体疾患に対症療法だけでは無理があるのだ。心身一元論で取り組む必要がある。つまり、森田療法理論は、 「人間はいかに生きて行くべきなのか」について、明快な指針を示しているものと思われる。ですから、森田療法理論は、すべての人々がその価値を認識し、自分の生活の中に取り入れていく必要があるのではないかと考えています。ちなみに、来年2月10日(日)14時から16時30分まで、広島市西区区民文化センターですばるクリニックの伊丹仁朗医師による「心の健康セミナー」が開催される。伊丹先生はガンの専門医であるが、ガン治療に森田療法理論から「生きがい療法」を開発され応用されている先生である。森田療法理論を広く紹介し、一人でも多くの人に森田療法に対する関心を高めてゆきたいものです。
2018.11.26
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本日は田舎に帰り柿の収穫をしました。大豊作でした。田んぼは近所の人に頼んでいるのですが、30キロ入りの新米を4袋もいただきました。
2018.11.25
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私はカラオケは苦手です。高い声が出ないし、音程に合わせることもできない。私の周囲には、カラオケが好きな人が多い。その人たちは自分の持ち歌を何曲も持っていて、自信を持って堂々と歌っている。聴いている人を気持ちよくさせる。私はその人たちは、長い間天性の才能があるものだと思っていた。高い音が伸びやかに出る。ビブラートがかかる。テンポが良い。音程を外さない。天性の才能があるからあんなにうまく歌えるのだ。それに引き換え、私にはもともとそのような能力がない。だからカラオケに誘われると、いつも理由をつけて断っていた。神経症で悩んでいた頃は、歌は歌えないことに劣等感を持ち、 「自分は何をやらせてもダメだ」と人格否定をしていた。ところが、その人たちの話を聞いていると、ある程度天性のものはあるが、それに加えて大変な努力をされていることに気づいた。例えばボイストレーニングの教室に通っているという。そこでは、腹式呼吸で発声する訓練をしている。また、高音域の声、ビブラートをかけるなどということは、それなりに練習をしないと出るものではないといわれた。大きな声をだすための姿勢も大事だといわれた。「おうあえい」という母音を、練習に取り入れて毎日発声練習が欠かせないという。それもいろんな練習の仕方があることを教えてもらった。 1週間も練習を怠ると声が錆び付いて、うまくは歌えなくなるという。持ち歌をYouTubeのカラオケで歌って録音している。そして改善点を見つけて、修正をしているのだ。大変な努力をされていることに驚いた。極めつけは普段から採点機能を使って自分の歌唱を客観的に把握しておられる。この話を聞いて、負けず嫌いの私の性格に火がついた。ある程度努力すれば、カラオケを将来の趣味として持つことができると確信したのだ。早速歌えそうな曲、好きだった曲を20曲ばかり選曲した。練習して録音して後で聴いてみた。テンポはある程度聴きこむことで分かった。しかし高音部が上ずる。低音が息苦しくて出ない。音程がずれるのは相変わらずだ。上手な人たちに交じってカラオケに行ってその歌を唄った。いつも「これはちょっと、指導の方法がない」などといわれることもある。うまくなりたい気持ちが強く、自己否定することはない。それよりも上手な人からコツをつかみたいばかりだ。また「貴方は歌を唄っているというよりは、思い切り大声を出してストレスを発散しているようにみえる」といわれた。人前で歌を唄うということは、相手を気持ちよくさせるという配慮が必要だ。思い切り大声を出すのではなく、相手に語り掛けるというぐらいで歌うとよいといわれた。そして手あたり次第たくさんの曲を歌うのではなく、1曲か2曲に決めて練習してみなさいといわれた。また、複式呼吸で横隔膜を瞬時に押し上げる方法を教えてもらった。今は「足手まとい」「博多時雨」「南部蝉しぐれ」「祝い船」「他人船」「ああ上野駅」「夜桜」に絞って練習をしている。この曲はカラオケ仲間がよく歌う曲ばかりだ。抑え気味に丁寧に歌うことを心がけている。カラオケは利害関係もないし、女性を含めて、人間関係が拡がって楽しい。また2時間歌いまくって一人当たり1000円以下という手ごろさがよい。これを生涯の趣味にしたいと悪戦苦闘している毎日です。
2018.11.25
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今度結婚するという方から、自分が神経症で苦しんでいるということを相手に伝えなくてもよいでしょうかという質問を受けた。神経症が原因で、自分のことを嫌われて、結婚話が立ち消えになることを恐れているのである。そういえば、集談会に初めて参加した人にアンケートを書いてもらっている。その中に、集談会のご案内をはがきで出してもよいかどうかという質問がある。半分ぐらいの人は「不要」という欄に0印をつけている。ある方に聞いてみると、神経症であるということを家族には絶対に知られたくない。そういう自助グループに参加していることを家族に絶対知られたくないという。また、会員になるとは生活の発見誌が送られてくるので、会員にはなりたくないという。神経症は何か人格に欠陥があるかのように思っておられるのだ。神経症は集談会に参加して、誰にも知られずに「こっそり」と治したいようだ。これらは自分の症状だけでなく、弱みや欠点を人に知られることをとても恐れている人だ。相手がそのことを知ると、ますます自分のことを否定して、仲間として認めてくれなくなるのではないかということを恐れているのだ。そのために今まで専守防衛の態度で涙ぐましい努力をしてきた。弱みや欠点は隠したり、取り繕って何とか嫌われないように生きてきたのだ。弱みや欠点が露呈する場面は出来る限り避けてきた。中には整形美容をしたり、エステに通ったり、カツラをかぶったり、腹を締めつけたり、厚底の靴を履いて誤魔化してきたのだ。また、神経症がわからないように、強気の発言をしてみたり、相手の言うなりになって言いたいことも我慢してきたのだ。そのおかげでやっと仲間として受け入れてもらっているのに、今更そのような生活態度変えろと言われても無理な相談だ。そんなことより、森田療法で神経症を治す方法を手っ取り早く教えてもらいたい。神経症さえ治すことができれば、鬼に鉄棒で自信を持って生きていくことができるのだ。そんな気持ちなのだろうが、そのような態度をとり続ける限り、神経症は治るどころかどんどん増悪していくと思う。森田先生は、自分の症状を周囲の人々に対して「赤裸々に打ち出すという態度」にならないと神経症は治らないと言われている。そういう人は、神経症を告白することは、他人が自分から離れていくと思っているが事実は違う。赤裸々に告白すればするほど、他人は自分に同情してくれて、人が近寄って相談にのってくれるのだ。反対に、自分の症状を隠したり、取り繕ったり、逃げてばっかりいると、 「あの人はプライドが高く、我々を寄せ付けないオーラを醸し出している。我々を馬鹿にした態度ばかりで鼻持ちならないやつだ」と思われて、他人は距離を置くようになる。自分はますます惨めになり、自分のことを無視する他人を憎むようになる。自己保身の態度をとっていると、益々人間関係が悪化してくるのである。結婚する時は、重大なことを隠していると後で大きな問題になる。付き合う時に、良い面も悪い面もさらけ出して、両面観で見てもらうほうが、夫婦の人間関係はよくなる。むしろ、神経症だけではなく、身体的な弱みや欠点、自分の神経質性格についてもどんどん打ち出していった方がよい。よいところも悪いところもバランスよく見てもらうほうがよい。隠し事がなくなると、注意や意識が自己内省にばかり偏ることがなくなる。そうなると、我々が目指している物事本位の生活に邁進することができるのである。弱みや欠点を隠すことに神経を使うのと、まな板の鯉のようにさらけ出してしまうのとどちらが意味があるのかは明らかなことである。
2018.11.24
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欲望が暴走しないで制御がかけられる大人になるためには、小さい頃の親の接し方がとても重要です。子供のほしい物をなんでも与えたり、子供ができることを親が子供になり替わってやってしまうと、子供は制御能力を身につけることができません。自己中心的で依存体質な人間になってしまいます。他人に迷惑をかけ、自立するということかできません。我慢することができなくなり、自分の思い通りに事が運ばないとイライラして、投げやりな行動をとることが多くなります。欲望が暴走すると、つい見境なく本能的な行動をしてしまい、あとで後悔することが多くなります。欲望を追い求めるのは構わないのですが、制御をかける能力が身についていないと、とても危険です。壊れたブレーキの自動車に乗って、アクセルを踏み込むことがどんなに危険なことか、考えただけでもぞっとします。子供が制御能力を獲得するために親はどんな援助が出来るでしょうか。2歳から3歳という時期は、自分で何でもやりたいという自我が出てきます。靴を1人ではく。パンツやズボンもひとりではける。でも、全部1人でやるのは四苦八苦して時間がかかります。お母さんはイライラして、つい、口を出してしまいたくなるものです。「早くしなさい」 「ぐずぐずしないで」 「時間がないのよ」 「いつもあなたは遅いのね」子供を否定して、 「こっちにいらっしゃい」などと言って、親がやってしまおうとします。こんなことでは、子供が能力を獲得し、自立する力を奪ってしまいます。さらに、親に依存する態度を養成し、身の周りのことは 自分でやろうとしなくなります。子どもが自分でやりたい意欲があるときは、時間はかかっても大人はなるべく黙って見守ることが大切です。やがて、そのやりたい欲望は、嫌なことも我慢して挑戦するという能力を身につけていくのです。だから親が手を貸してやればすぐ済むような事でも、我慢して見守ることが必要なのです。子供が2年生ぐらいになったら、持ち物は自分でそろえさせるようにしましよう。忘れ物をしたり、遅刻しそうになっても親は口を挟まないようにします。親がいつも手や口を出していると、子供が本当に困ったときにはパニックになってしまいます。忘れ物をして恥ずかしい思いをする。先生に注意される経験は子供にとって必要です。困ったり、イヤな思いをすることは、子供の成長にとっては良いことだと思います。おもちゃ、お菓子、ゲーム機など欲しがってもすぐにホイホイと買い与える事は問題があります。こんなことをすれば、自分が欲しいものは何でもすぐに手に入ると思うようになります。我慢や忍耐力、欲望の制御能力は育てることができなくなります。大人になって困るのは子供自身です。あとから制御能力を身につけようとしてもどうにもならないのです。お正月や誕生日まで待つ。自分の小遣いが溜まるまで待つ。最低2か月から3カ月間は我慢してみる。子供の頃に我慢する力を身につけさせるのは親の役割です。成り行きで子育てをするのではなく、子育てには先人の知恵を活用して、子供を成長させることが重要です。これは森田理論でいうと、欲望は野放しに追い求めるのではなく、適度に制御をかけて、欲望と不安のバランスをとりながら生活をするということです。これは森田理論の中ではとても大きなテーマとなっていると思います。
2018.11.23
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現在の日本人は比較的自由に行動することができます。学問の自由、職業選択の自由、旅行する自由、好きな人と結婚する自由、好きなものを食べられるという自由、欲しいものをほぼ手にすることができるという自由、好きなことに挑戦するという自由などです。これらについては条件が整わないと難しい面もありますが、まったく不可能であるというわけではありません。努力と情熱によって実現可能なものばかりです。そういう意味では、現代の日本人は自由人であるといえます。苦難の歴史を経てやっと自由を獲得したのです。それなのに、多くの日本人がなぜ山竹伸二氏がいうような「空虚な承認ゲーム」に振り回されているのでしょう。自由と豊かさを獲得しているのに、なぜ対人関係で苦しんでいるのでしょうか。これを森田理論で考えると、不安と欲望のバランスが取れていないということではないでしょうか。仲間として、自分が所属する集団に受け入れられているかどうかという不安は誰にでもあります。経済力もなく経験のない子供は、両親に自分の存在を受け入れてもらえなければ生きていく事は出来ません。学校や職場で、みんなからいじめられたり、無視されるようになってしまうと、生きていく力は湧いてきません。無意識的意識的にしろ、集団の中で自分を承認して受け入れてもらいたいという欲望は誰にでもあります。しかし、そのことにばかり注意や意識を向けて、何をやるにしても他人の思惑を気にするようになると、精神交互作用によってどんどんとらわれが強くなってきます。最終的には対人恐怖症として固着してしまうのではないでしょうか。この悪循環から抜け出すためには、対人不安と正面から格闘してはならないと考えます。森田理論では、この場合生の欲望の追求がおろそかになっているといいます。生の欲望の発揮に力を入れることによって、不安とのバランスを回復していくことが、 「空虚な承認ゲーム」から抜け出るための1つの方法であると考えます。現代の日本人は、社会から価値観を押し付けられることもなく、自分の自由な選択によって、自分の将来を切り開いていくことが可能です。食物にも生活にも困らないから、何もしないで楽をして生活するという態度では、 「空虚な承認ゲーム」から抜け出る事は出来ないのではないでしょうか。自分の出来る事は他人に依存しないで自分で取り組んでみる。自分のやりたい事、夢や希望に向かって挑戦し努力してみる。森田理論でいう「生の欲望の発揮」に邁進していくこと。こういう生活態度を維持していると、対人不安でおびえて追い詰められ、簡単に対人恐怖症で身動きできなくなるという事態は避けることができるのではないでしょうか。そして、家族、親戚、学校での友達、仕事仲間、趣味の仲間、 同級生、近所の人たち等と浅くて幅広い人間関係を作ることを心がけていれば、 「空虚な承認ゲーム」で苦悩や葛藤で投げやりになることも避けることができるないでしょうか。ここでは森田療法理論が大いに役立つものと考えています。
2018.11.22
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現在の日本では、職場でも学校でも人間関係の悩みで苦悩している人が多い。仲間として受け入れてもらうために、自分の本音や感情を常に抑圧している。他人の言動に常にビクビクし、過度に集団のルールに同調している。そのことにばかり注意や意識を向け続けているので、疲労困憊している。無理をしていればいるほど、ちょっとした行き違いによって人間関係が破綻しやすい。この緊張状態から逃れるために、一方ではあたり障りのない表面的な人間関係に終始してしまう。他方で、人間関係に疲れはてて、没交渉でひきこもってしまう大人や子供たちも多い。山竹伸二氏は、現代の日本は、社会全体が「空虚な承認ゲーム」を展開していると指摘されている。自分の所属する団体の中で、仲間として承認され受け入れられることのみに、神経をすり減らしている。自分の気持ちや意思は、常に抑圧して、他人に同調して、かろうじて集団に踏み留まることのみを目的としているので大変疲れる。この空虚な承認ゲームは、今や家族の人間関係の中でも展開されている。本来家族は愛と信頼に満ち溢れ、基本的には常にありのままの存在を無条件に受け入れてくれる共同体である。果たして自分のところの夫婦関係、兄弟姉妹の関係、親子関係がそのようになっているかどうか、今一度振り返ってみてもらいたい。お互いの存在を認め合う関係になっているかどうか。他人行儀で一歩距離を置いた淡白な人間関係になっていないか。あるいは共依存の関係になっていないか。過干渉あるいは無干渉な人間関係になっていないか。親密な人間関係を構築したいのだが、対立が生まれ、人間関係が破綻することを恐れて、表面的なおなざりの関係に陥っていないか。それが進行すると、人間関係は常に防衛的となり、人から非難、否定、拒否されることばかりにおびえるようになる。これが「空虚な承認ゲーム」で味気ない生活を送っている現代の日本人の姿である。ではどうすれば良いのであろうか。明日はこの問題を森田理論で考えてみたい。
2018.11.21
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黒沢清監督の映画「トウキョウソナタ」(2008年制作)を見た。この映画は、井の頭沿線に暮らす佐々木家の人間模様を描いたものだった。夫婦と成人した男の子と小学生の男の子の4人家族であった。父親役は香川照之、母親役は小泉今日子であった。この家庭は、 4人がバラバラで殺伐とした家庭であった。温かみは皆無で、仮面をかぶって体裁を整えているような家庭であった。主人の佐々木竜平は、ある日突然会社を解雇された。その事を家族には内緒にしていた。家族に打ち明けることもなく、解雇された後も、毎日スーツ姿で会社に行くフリをしていた。図書館で時間を潰したり、炊き出しの食べ物をもらって食べていた。ある日、妻の恵が、外出先で失業者たちに混じって炊き出しの食べ物を口にしている夫の姿を目撃した。でも妻は家で夫にそのことを問いただすような事はしなかった。仮面夫婦を演じていたのだ。その後、夫はビルの清掃業の仕事にありついた。帰宅するときにはスーツに着替え、手提げかばんを持って、サラリーマンを装っていた。夜中にアルバイトをしていた長男の貴は、突然アメリカ軍の国外志願兵に応募したいと言い出した。夫は猛烈に反対したが、聞き入れず、母に見送られてアメリカへ飛び立った。直ちに中東に派遣された。次男の健二は、才能に恵まれていたピアノを習いたいと父親に申し出たが、即座に断られた。バスに無賃乗車しようとした健二は、警察の留置場で一晩を明かすことになる。不起訴処分で釈放された健二が家に帰ってみると、そこには誰も待っていなかった。この映画を見て感じた事は、この家族は1つ屋根の下に暮らしてはいるが、温かい家族の交流は全くない。それぞれが家族という共同体を維持するために、当たらず触らず、距離を置いて生活をしている。普通の家族は、みんながある程度言いたいことを言い、わがままを押し通し、ありのままの自分をさらけ出して生活をしている。職場や学校で嫌なことがあっても、家庭という母港に帰れば、ゆっくりと羽を伸ばして英気を養うことができるものだ。それは家族の中の人間関係が、一人一人の存在を無条件に認めているから、安全基地となっているのだ。この映画に出てくる佐々木家は、お互いに疑心暗鬼で、妙に距離を置くので、心の安らぎを得ることができない。家庭がこのような状態では、精神的な安定は望むべくもない。このような他人行儀な家庭というのは結構多いのではないかと感じる。夫婦の人間関係、親子の人間関係、兄弟姉妹の人間関係、祖父母との人間関係が、和気あいあいの気の置けないざっくばらんな関係になっているのかどうか。点検してみる必要がある。家庭での他人行儀な人間関係は、職場や学校ではもっとひどくなる。非難、否定、拒否、軽蔑されるような場面に遭遇しないように、あたらずさわらず表面的なものになる。人間関係は自分を苦しめる煩わしいもの以外の何物でもないという気持ちになる。恐怖と怯えで意識は常に防衛的になり、神経が休まることがない。仕事や勉強よりは、他人が自分を仲間として受け入れてくれるのかどうかにより注意が向かうようになるのだ。こういう風潮は、日本全体が一億総対人恐怖症という社会に突入しているのかもしれない。これについては、明日以降さらに投稿してゆきたい。
2018.11.20
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先日の日曜日、老人ホームのイベントに呼ばれて、昔懐かしい歌謡曲を10曲余り演奏してきました。出店もたくさんあり、多くの人で賑わっていました。真ん中の白い服装が私です。楽器の演奏は楽しいですよ。皆さんも挑戦してみませんか。
2018.11.19
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考えすぎて動けない人のための「すぐやる! 」技術(久米信行 、日本実業出版社 164ページ)という本に、森田理論の関連記事がありました。「法」という字は、さんずいに去ると書きます。つまり、本来「自然の法」は、常に流れ去っていき、一瞬たりとも同じ姿がないということです。ところが、 「人間の法」はそれを言葉にし、形にとどめようとするから、悩みが生まれてしまうのです。時代はゆったりと、しかし確実に流れていく川だとすると、今の場所にしがみついていることは、かえって気力や体力を必要とします。むしろ流れに身をまかせながら、行き先を見極めて泳いでいく方が、実は楽なのです。ときには、石にぶつかることもあるかもしれません。流れにうまく乗れないこともあるでしょう。それでも、泳いでいくうちに、もっと遠くを見通せるようになるでしょう。そして、もっと楽に速く泳げるようになるでしょう。川岸で見ている人や、岩に懸命につかまっている人には、流れに乗って泳ぐ人は、奇人変人か、特別な達人に見えるかもしれません。そして、なんて危険な行動をしていると思っていることでしょう。しかし、実際には、誰もが使おうと思えば使える「自然な流れ」に身を任せて泳ぎ続けているだけなのです。鴨長明は方丈記の中で次のように言っています。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、かくの如し。森田理論の考え方も全く同じです。このことを、森田先生は「諸行無常」といわれています。気になることにいつまでもしがみつくよりも、サーファーのように、刻々と変化する波を予測して、その変化に素早く対応する生き方が健全な生き方なのではないでしょうか。
2018.11.19
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日本における糖尿病になる主な原因は、過食、偏食、運動不足、ストレスなどのライフスタイルの影響があるという。そのため糖尿病は、生活習慣病とも言われている。血液中のブドウ糖の量が、正常値は空腹時110 mg/dl以下だが、それより高い値が続くと糖尿病に移行する。放置していると失明、腎臓障害による透析、手足のしびれ、神経痛、動脈硬化など重大な疾患を発症する。精神疾患としては、うつ状態に陥る。そして不安障害やうつ病を発症する。糖尿病になっている人が、うつ病を発症する例はかなりあるようだ。それ以外にも、過剰な恐怖、心配、取り越し苦労、疑い深さ、塞ぎ込む、本能的欲望の制御不能、無気力、無関心などの傾向も強くなる。普通は膵臓からインスリンが分泌されて、血糖値の上昇が抑えられている。血糖値の上昇が慢性化してくると、膵臓のインスリンを作るβ細胞が疲弊してインスリンの分泌量が減ってしまう。その他、肥満などによってインスリンが効きにくくなって糖尿病に至ることもある。糖尿病については、九州大学による食事療法に関する興味深い調査が報告されている。1988年、福岡県糟屋郡久山町の住民健診で、男性の15% 、女性の9.9%の人に糖尿病が見つかった。早速、運動療法と食事療法の徹底的な指導が行われた。食事療法は「高糖質カロリー制限食」である。その結果、 14年後の2002年の調査で、男性の23.6% 、女性の13.4%が糖尿病になっていた。14年前よりも患者数が増えていたのである。糖質たっぷりの食事療法が糖尿病を激増させてしまったと考えられる。脳細胞などの栄養源は糖質であると言われていが、それも程度問題で、過剰摂取は逆に糖尿病を招く。糖質たっぷりの食事とは、スイーツ、お菓子、砂糖、菓子パン、食パン、精白米、チョコレート、ジャガイモ、はちみつ、もちなどである。糖尿病の予防にあたっては、これらの食事を減らして野菜や肉、魚介類などとのバランスのとれた食生活に変更していく必要があるようだ。特にカップラーメン、ファーストフード、スナック菓子、スイーツに偏った食生活を続けている人は、糖尿病の発症リスクが非常に高い。糖尿病による鬱状態、不安障害、不快感などを、森田療法によって改善しようとするのは無理がある。ザルで水を救い上げるようなもので効果がない。まずは、食生活の改善、健康のための運動の継続などに取り組むことが先決であると思う。(こころの免疫学 藤田絋一郎 新潮社参照)
2018.11.18
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今日は公民館活動に参加した。調理師専門学校の先生の指導のもと、ブルスケッタ、鶏肉と白いソース煮込み料理、バターライスに挑戦した。食材も含めて1000円という受講料は格安だった。料理は食材の調達、調味料の調達、小さな作業の積み重ねの数々だった。料理のコツが幾つもあり、先生の指導のもと、目から鱗の体験だった。最初はあまり乗り気ではなかったが、料理はとても奥が深く楽しいものだった。細かい作業が多く、タイミングがあり、発見や工夫が多いので、森田実践に格好の作業だと思います。毎日の料理に真剣に取り組むだけで、神経症は霧散霧消してしまうかもしれません。今度は魚料理に挑戦してみたいと思いました。
2018.11.17
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がん細胞を食い尽くしてくれるというナチュラルキラー細胞は、人間の体内に少なくとも50億個以上存在すると言われている。これらのナチュラルキラー細胞が、日々発生する3,000から5,000 個のがん細胞を探し出しては攻撃し、破壊してくれています。しかし、このナチュラルキラー細胞は、精神的ストレス、食べ物などの影響を非常に受けやすいという特徴があります。神経症に陥っているときは、物事を悲観的、否定的にとらえる傾向があります。そうなるとノルアドレナリンなどの神経伝達物質が多量に放出され、ナチュラルキラー細胞の活性を低下させるそうだ。対人恐怖症の人は、子供の時に愛着障害を受けている可能性が高い。そうなると、他人に対して常に防衛的になり怖れを抱くようになる。このような傾向が長い間続くと、癌を発症しやすくなる。森田療法の両面観の物の見方や愛着の修復を行うことががん予防につながる。では、具体的にどのようなことを心がけて生活していけば良いのか。まず、運動するとナチュラルキラー細胞の活性が高まることが知られている。東京ガス健康開発センターが発表したデータでは、社員9,000人を16年間追跡調査をしたところ、毎日1時間の歩行と週末に運動している人は、ほとんど歩いていない人に比べて、常にナチュラルキラー細胞活性が高く保たれており、がんによる死亡のリスクが半分になるという結果が得られている。次に、笑うということも、ナチュラルキラー細胞の活性を高める方法としては有効だ。これは生きがい療法の伊丹仁朗先生が、吉本新喜劇を見る前と見た後の血液を採取して検査した結果、見た後の方がナチュラルキラー細胞の活性が高まっていたという報告がある。普段からダジャレ、川柳、ユーモア小話、漫才やコントの番組を見ることで、容易にナチュラルキラー細胞の活性が高まるのだ。次に、良いことをイメージすることで免疫力は高くなる。たとえば、 30分間目を閉じて、沖縄のサンゴ礁をイメージしてみるという実験を行うと、きれいなサンゴ礁に美しい熱帯魚が泳いでいる様子をイメージするだけで、ナチュラルキラー細胞の活性化につながる。これはアメリカを中心に、サイモントン療法というイメージ療法があるが、これの応用である。がん細胞が出現すると、活性化されたナチュラルキラー細胞が近づき、パーフォリンという物質を出してがん細胞に穴を開け、そこからがん細胞内の水分と塩分を消失させ、がん細胞を数分で死滅させるのだが、サイモントン療法では、受けている治療の中で、がん細胞が破壊されるイメージを思い浮かべるのである。これに加えて、森田療法理論の学習と実践ががんに打ち勝つ免疫力を高めると確信している。このように、 「運動をする」 「楽しく生きる」 「ポジティブな思考をする」 に努めることで、ナチュラルキラー細胞の活性化を図り、ガンにかかりにくい体質になることができるのである。
2018.11.17
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ある会社員の女性から次のような相談を受けました。その方は対人恐怖症で、自己主張かとても苦手だということでした。対人関係は、いつも相手の機嫌を損なわないように八方美人的な対応をしている。そんな私に対して、ある同僚の女性が、お茶碗を洗ったり、コピーをとるような仕事をどんどん私に押し付けてくる。それだけではなく、自分のことを馬鹿にしたような言動もありました。私は何も言い返せず、彼女が指示する仕事を黙々とやっていますが、心の中ではストレスが溜まり、いつも腹立たしい気持ちです。森田理論学習では、腹立たしい気持ちは、そのまま持ちこたえて、目の前の仕事に取り組んでいれば、自然に解消してくると言いますが、私にはとてもそのようには思えません。どうしたらよいでしょうか。今日はこの問題を考えてみたいと思います。森田理論では、怒りの感情は自然現象なので、どうすることもできない。その不快な感情を取り除いて楽になりたいと思い、売り言葉に買い言葉で言い返してはいけません。その怒りの感情をそのまま放置して、行き着くところまで行かせる。怒りの感情をそのままに放置していれば、あとは時間の経過とともに次第に収まっていく。スピードアップするためには、目の前の仕事やなすべきことに取り組んでいくことを勧めています。でもこの人の場合は、ストレスが溜まるような理不尽な仕打ちを継続して受けています。怒りの感情を一旦抑圧しても、その同僚は、あなたのことをなめてかかって、どんどんエスカレートしていくと思われます。そうすると、ストレスが蓄積し、ある時、ダムの決壊のように感情が爆発するかもしれません。あるいは、その人から逃れるために、退職するようなことを考えるようになるかもしれません。こういう場合は、怒りの感情を、我慢して耐えるということだけでは解決できません。そもそも怒りの感情がわき起こってくるのは、相手の自分に対する期待と自分の相手に対する期待のズレが生じています。相手は、自分に対して自由自在にコントロールしたいと思っています。他の同僚に比べて扱いやすい人間だと思っているのです。自分は相手に対して、少しは自分のことを思いやって、対等の立場で仕事をしていきたい。自分の仕事ぶりを見て、忙しそうだと思えば、自分から進んでお茶碗を洗ったり、コピーをとってほしいと思っています。2人の間でその溝を埋めなければ、今後も同じような状況で自分だけが苦しむことになるでしょう。この場合は、忙しくて手が離せない時は、「今はちょっと手が離せないの。ごめんなさい」などと、自己主張をする必要があると思います。そうはいっても対人恐怖症で、八方美人的な対応が習い性になっていますので、自分1人ではどんな自己主張が良いのか思いつかないかもしれません。そういう時は、集談会という自助組織の仲間に相談することです。適切なアドバイスをいただけると思います。それ以外にも、カウンセラー、精神科医、信頼できる友達などに相談することもよいでしょう。その中から自分が実行に移すことが可能なものを選んで、相手に伝えることが大切です。森田先生も、 3日考えてまだ腹が立つようであれば、論点を整理して相手と交渉を行った方が良いと言われています。ストレスを感じているのに、自分の殻だけで何とかしようとすることは悪循環にはまるでしょう。
2018.11.16
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集談会でこんな話を聞いた。以前の仕事は大変忙しく、仕事上の不安が常にたくさん存在していた。次から次へと仕事を片付けていかなければならず、症状を気にしている暇もなかった。簡単に片付く仕事から、どんどん仕事を片付けていくのが精一杯だった。胃腸神経症という症状については考える暇もなかったせいか、気にならなかった。現在の仕事は、自分のペースでのんびりと仕事ができる部署に異動した。すると、とたんに胃腸神経症の症状のことが気になりだした。この不安を無くしてしまおうと格闘しているうちに、神経症がひどくなった。現在は寝ても覚めても、胃腸に注意が向いてしまう。つまり、小さな不安がたくさん存在していた時の方が、精神状態がよかった。そんな不安に振り回されない部署に移動したとたんに、神経症がぶり返してきた。これはどういうことなのでしょうかと質問された。これは、仕事で忙しかった時は、頭の中で、症状以外の事を考える割合が多かったことが考えられる。ところが、自分のペースでのんびりと仕事ができる部署に異動した途端、頭の中で症状について考える割合が、格段に増えたという事だと思います。森田理論では、新しい行動に取り組んでいくと、新しい感情が発生する。以前の不安に加えて、新たな不安や喜びの感情が発生するのである。すると、以前の不安に対する感じ方は変化する。時間の経過に伴う変化とともに、不安の数が増えることによって、以前の不安に左右される度合いが減少していく。つまり不安の数が増えるということによって、症状だけに集中していた意識や注意が分散されるのである。実生活上の不安に対応していると、神経症的な不安が問題になることはない。このようにして、頭の中で症状のみにかかわり、苦しんでいた状態が変化していくのである。こういうことから考えると、休日や祝日などの過ごし方は注意する必要がある。朝寝をしたり、パジャマのまま過ごしたり、横になってテレビを見たり、ゲームをして過ごす事は考えものである。精神状態が一挙に緊張状態から弛緩状態に陥り、症状に意識や注意が向きやすくなるのである。休みの日は普段から計画を立てて、朝から懸案の事項をどんどん片付けていくという生活態度が大切であると思う。このようにして、頭の中で症状のみにかかわり、苦しんでいた状態が変化していくのである。
2018.11.15
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プロ野球の試合を見ていると、今ピッチャーが投げたボールは明らかにストライクではないのかと思うことがある。投げているピッチャーはよほど精神的にこたえるのだろう。明らかに不満をあらわにする選手もいる。アンパイヤの判定を受け入れることができないのだ。ストライクとボールのリプレイ検証というものはないのにもかかわらず、その事実を認められないのだ。その結果どうなるのか。頭が怒りでいっぱいになる。気持ちが切り替えられなくなる。相手バッターと対戦する前に、頭の中でアンバイヤに勝負を挑むような状態になる。冷静になって勝負を組み立てるというよりは、やぶれかぶれの投球に陥りやすい。そして、相手打者に痛打されて、最後にはピッチャー交代ということになる。メジャーリーグの試合を見ていると、ストライクとボールの判定をめぐって、バッターがアンパイヤにクレームをつけている場面に出くわすことがある。クレームをつける選手は、 「このへたくそなアンパイヤーはなんだ。もっと正確に判定しろ」と言う気持ちなのだろう。あくまでも自分の見立てが正しいと思っているのだ。判定は覆る訳もないのに、怒りを発散させないと苦しくて仕方がないのだ。しかし、怒りを発散させて、次のボールに冷静な気持ちで立ち向かえるかと言うと、それは逆である。頭に血が上っており、相手の配給を読んで、相手ピッチャーと勝負するという気持ちが希薄になっている。どんな球でも飛びついて、三振や凡打に終わってしまうケースがとても多い。イチロー選手は、審判の微妙な判定に抗議しない。イチロー選手は次のように考えている。「審判はジャッジするのが仕事。自分はボールを打つのが仕事。だからボールのジャッジは審判に任せる」その信念がある。だから決してクレームをつけたことはない。イチロー選手でも、今の球はボールと判定してほしいという時はあるだろう。でも、審判も人間だ。人間にはミスがつきものだ。その結果、どちらとも取れるよう球を、ボールと判定したり、ストライクと判定しているのだ。私たちはその事実を受け入れるしかない。そして次の打席で同じようなボールが来た時は、どのようにして撃ち返すのか。イチロー選手の頭の中は、審判に対する不平不満に取り付かれて怒りが増幅することはない。理不尽とも言える判定の事実を受け入れて、次の打席でどうしたら撃ち返すことができるのかという方面に注意や意識が向いているのである。これは、神経症で、不安や恐怖、不快感で格闘している我々にとってとても参考になる話である。理不尽な事実に対して、それに反旗を翻すよりは、素直に事実を受け入れて、次に自分がどのような行動をとるのか。その方面に舵を切り直していくことが、よほど意味のあることだと教えてくれている。
2018.11.14
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イチロー選手は高校2年生の時に、自転車に乗っていて車に追突され、 1ヶ月半松葉杖の生活を余儀なくされたそうです。もともとイチロー選手はピッチャーをしていましたが、この交通事故のために速い球が投げられなくなりました。人生の岐路に立たされたのです。普通は過去の栄光に取りつかれ、投げやりになってしまうのではないでしょうか。嘆き悲しむばかりで、野球を止めてしまうかもしれません。現実を受け入れることが難しいのです。プロ野球の1軍の選手が今まで投げていた速球が投げられなくなると、たちまち二流の選手になり、プロの世界から消えていった選手をたくさん見てきました。イチロー選手は、すっぱりとピッチャーを諦め、打者としての道を歩むことに方向転換したそうです。冷静に現状を分析して、現実を受け入れ、将来の目標を入れ替えたのです。自分の能力の変化に応じて、素早く対応することができたのです。これは、森田理論で教えている事実本位、変化対応への生き方の見本となります。著名な心理学者、マックスウェル・ マルツ博士が次のように語っている。「人間はどこか自転車と似たところがあります。自転車はどこかを目指して走っている間は安定し、バランスは取れています。ところが、走るのをやめるとぐらぐらします。私たちの心と身体は、目標を追求する仕組みにできています。だから個人的な目標がなくなると、不安になり、 一種の喪失感を覚えるのです」幸せは、突然外からあなたのもとに舞い込んではこない。あるいは、幸せは、あなたが得た報酬や地位によって獲得できるものでもない。幸せは、あなたが自発的に心の中に発生させる絶対的価値観の中にしか見いだせない。よくないことが起こったとき、それを跳躍の予兆と捉えてみよう。反対に、絶好調の時に浮かれている人は、不運がすぐそこまで迫っていると考えて気を引き締めよう。自分に不幸な状況が訪れたとき、決して現実を上から下目線で否定してはならない。現実の自分の持っている能力を棚卸しして、再度夢や目標や課題を設定し直し、挑戦し続けることが人間に生まれた私たちの宿命なのではなかろうか。(イチロー思考 児玉光雄 東邦出版 116頁より一部引用)
2018.11.13
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私はユーモア小話の収集の趣味がある。この収集と自分で作ったもので1冊の本ができるくらいだ。精神的に苦しくなると、この本が精神安定剤代わりになるから不思議である。今回面白いものが見つかったので紹介したい。(笑芸人しょの世界 プロでも使えるネタノート 高田文夫 双葉新書より引用)春風亭昇太さんのところへ、東大卒の新人がやってきた。これが世間知らずのヨタロー。学校の勉強と社会での常識は比例しないようだ。先日も楽屋で、持病持ちながら高座に上がっていた故桂歌丸師匠から、 「ちょっとタクシーを呼んでおいて」と頼まれた。「師匠、タクシーが来ました」と言えばいいところを、 「師匠、お迎えがまいりました」と大声で言っちゃった。天国お迎えレース第一位とまで言われている歌丸師匠に、このセリフ。楽屋中が凍りついたそうだ。せんだみつをはミスター長島茂雄氏と案外親しくて、先日も会ったので、聞いたそうだ。「ミスター、もう今まで散々色々な賞とかもらってきて、次に欲しいものはなんですか。人間国宝ですか」するとミスター、しばし考えて、「ウーン、どうでしょう? やっぱり今だったら世界遺産ですか」と答えたという。あるイベントのサイン会でアントニオ猪木と一緒になった林家木久扇師匠。サイン会となり、色紙に座右の銘を書いてくれと頼まれた。「入魂」と書いていくアントニオ猪木さん。その横で我らが木久扇師匠、 「入金」と書いていた。「向こうへ行ってくれ」と、猪木さんから怒鳴られたらしい。いつも寄席で爆笑をとっているのか、三遊亭歌之助さん。韓国語の覚え方というのがあって、 「サンドイッチ」はこういう。「パンニハムハサムニダ」確かにパンにハムがはさんである。ハサミを見たら、 「ヨーチョンギレルハサミダ」よく切れるハサミだというわけ。そう聞こえるからおかしい。天才芸人、立川談志、北野武、太田光。3人を見ていると、よい芸人というものは躁と鬱がたっぷりとある。この両方を併せ持っていないと、表現者として、あれだけの仕事はできないのだろう。その点、根っから明るい天才が明石家さんま。島田紳助は聞いていた。「さんまはええなあ、落ち込むことがないから」すると、 「何いうてんの、オレかて、鬱があるがな。あれは確か・ ・ ・ 18歳の時に15分だけ鬱になった」生涯で落ち込んだのは、この15分間だけだったのだ。なんでも自由な我らはミスター、長嶋茂雄。学生時代に受けた英語の問題。「 I live in Tokyo 」を過去形にしろという出題にしばし考えてこう書いた。「 I live in edo 」確かに東京の過去は江戸ではあるが。発想が面白い。正解は、 「 I lived in Tokyo 」である。いつも言ってることの9割はウソ。楽屋では「ホラ吹き勢朝」と呼ばれている春風亭勢朝。ある日、勢朝が歩いていると、 80歳くらいのおばあちゃんは元気よくゲートボールをやっていた。「バシッ」とものすごい力でボールを叩いている。その球を見ると「ひろこ」と書いてある。球をなくさないようにちゃんと書いてあるのだなと思い、おばあちゃんに声をかけた。「おばあちゃん、いい球打ちますね。ひろこさんていうんですか」「いや、違いますよ」 「それじゃ、このひろこっていうのは」 「嫁の名前」
2018.11.12
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皆さん丹精込めた素晴らしい作品ばかりでした。菊花展は2週間で終わってしまうようですね。私は黄色の福助を1鉢買いました。長持ちさせるためには、日陰に置いておくのがコツだそうです。でも部屋の中にいれると、どうしても温度が高くなりかえってよくないようです。これを手入れしてまた来年咲かせようと思っています。
2018.11.11
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いくら欲しいものがあってもお金がなければ我慢しなければなりません。本能的な欲望も、ところ構わず行動すれば、犯罪者になってしまいます。また食べていくためには、気が進まなくても、我慢して仕事をしなければなりません。子育ては気苦労が多いものですが、つらいからといって放り投げるわけにはいきません。これらの欲望は理知の力で制御する必要があるのです。強い欲望の追及にあたっては、もともと人間に備わっている制御機能を活用する必要があるのです。これは森田理論でいう欲望と不安の調和をとるということです。耐える、我慢する経験を子供の頃から身につけさせる必要があります。では、どのように行うのか。子供をスーパーに連れて行くと、店の中を走り回り、いろんな商品をつついたりします。そして、欲しいものがあると、 「これ買って」と言います。「ダメです。戻してきなさい」と言うと、だだをこねます。中には床に座り込んで泣き叫ぶ子供もいます。小さい子供さんを持つお母さんは苦労されていると思います。しかし、これは、裏を返せば、子供に社会のルールを教え、耐えたり我慢する体験を積ませることになります。子供は3歳前後でしたら、スーパーに入る前に、腰をおろして、子供と視線を合わせ、両手を握って、次のように話してみましょう。「お店にあるものは、あなたのものではなくて、お店のものなの。だから触ったり、汚したりしてはいけないのよ。もしやったら帰るからね」しかし、子供は母親が言った事を、 「うん、わかった」といいますが、すぐに忘れてお店のもの触ったり、店内で騒いだりするものです。こんな時は、ガミガミ叱るのではなく、買い物の最中でも、やめて子供の手を引いて帰りましょう。先に注意しておいたのですから、連れて帰っても理不尽ではありません。。母親が毅然とした態度を示すことが、我慢できる子供になるのです。よくあるケースは、母親が子供に合わせて、 「ダメだって言ったでしょ」と言いながら、 「しょうがないわね。今日だけは特別よ」と言いながら、子供の欲望を叶えてあげることです。このような対応は、 子供の将来になりません。欲望が叶えられないことでも、ゴネればなんとかなるものだと思わせてしまいます。みすみす教育の機会を逃しているのです。忍耐力や我慢強さは獲得することができなくなるのです。これは、電車やバスに乗るとき、家族で外食をする時などにも応用できることです。問題行動の発生が予想される時は、事前に子供に真剣に注意しておきます。その後、約束が守られなければ、途中で電車やバスを降りる。お金を払って出てでも、外食を中止する。親が毅然とした態度を見せることによって、子供は社会のルールを学びます。さらに忍耐力、我慢強さも身に付いてくるのです。小さい時に厳しく育てると、後で楽になります。子供も欲望の暴走を理性で制御することができるようになるのです。生の欲望の発揮を最大限に追い求めることは、車のアクセルを踏むことです。これはとても大切なことです。しかし、一旦欲望が暴走し始めると、そのうち制御不能になります。欲望には最初からブレーキを正常に機能させることが大切なのです。子育てをする親は、そのことをよく理解して、小さいうちから身に着けさせるようにしなければなりません。
2018.11.11
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「常識を疑うことから始めよう」 (ひすいこたろう サンクチュアリ出版)に森田理論に通じる話があったので紹介してみよう。 健康な人には病気になる心配があるが、病人には回復するという楽しみがある。明治時代の物理学者の寺田寅彦さんの言葉である。健康な人が病気のことを心配しすぎると神経症になる。思想の矛盾に陥るからだ。いったん病気になった人は、病気を治そうと目の前の目標に向かって努力するようになる。事実を明確にして、努力精進することは、 「努力即幸福」につながる。イチロー選手は、 「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道なのだ」といった。目標は大きく、実践は小刻みにということだ。大リーグで年間最多安打の記録を持つイチロー選手の言葉は重みがある。自分の欠点をどうしようもない弱みとみなすのではなく、自分が持って生まれた特徴だと思え。例えば自分はどうしようもない三枚目だとすると、たとえ女にだらしない人間であったとして、そのおかげで、大事に至らない。家族を大事にして、幸せな家庭を築くことができる。弱みや欠点は、見方を変えるとすばらしい強みや長所になる。人生とは、ないものを嘆くのではなく、あるものも工夫して、楽しむものである。自分にないものはないでいいではないか。自分にあるものだけで世界は変えられるのです。実際には、自分に備わっている能力や自分の持ち物をないがしろにして、見向きもしない人が多い。モーリス・ワシントンというサックス奏者が脳卒中になり、楽器の演奏ができなくなりました。サックスの演奏で生計を成り立たせることができなくなりました。その時に彼が言った言葉。 「もうサックスが吹けなくなってしまった。だからこれからは歌うことにしたんだ」きっと歌声も素晴らしかったのでしょう。しかし、ここで肝心な事は、人生の苦境に陥っても、可能性を見つけてチャレンジするということなのです。決して嘆き悲しむことではないのです。この時、モーリス・ワシントンは87歳であったという。お坊さんは、 鉢を持って家々を回り、お布施をいただきます。お釈迦様は、托鉢に向かう弟子たちに、こう言いました。「お金持ちの家ではなく、貧しい人たちの家を回って托鉢をしてきなさい」普通、お布施を頂くのですから、お金持ちのところに行くのが常識です。お釈迦様の思いは別のところにありました。貧しい人はなぜ貧しいのか。それは、自分のためにしかお金を使わないからであり、その人たちに与える喜びを味わってもらう機会を生み出すのが、托鉢の真の目的だと言うのです。
2018.11.10
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日々草が終わり、菊の季節になりました。我が家の菊がいっぱい咲いてきました。実に気品があります。そして清楚です。芸術作品を見るようです。癒されます。花のある生活はいいもんですね。これだから花の手入れはやめられません。明日は菊花展に出かけてみようかなと考えています。
2018.11.09
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広島カープの新井貴浩選手(41)は、今シーズンを持ってユニフォームを脱ぐ。そこで、 2種類のTシャツが作成された。1つは栄光の歴史を紹介したものだ。出場試合数、 2,383(歴代13位) 、安打数2,203(名球会)、本塁打319、打点1,303などの栄光の歴史だ。新井選手は、 1998年のドラフト会議で6位指名で入ってきた選手であった。積極的に指名したいというような選手ではなかったが、地元広島出身であり、大学の先輩の強力な推薦を受けてついでに指名した選手であった。しかし猛練習のかいで20年間の現役生活を続けて、数々の栄光をつかんだ。もう一つのTシャツが面白い。三振数1,693、 併殺打242、失策175。いずれも現役選手のワースト記録である。このTシャツを見て新井選手は、「なかなか秀逸だ」と感慨深げだったという。我々なら、ミスや失敗だらけの自分に対して、自己嫌悪、自己否定に走るのではなかろうか。新井選手は、ミスや失敗を反省し、練習を重ねて、もっと活躍してファンを喜ばせたいという気持ちであったという。こういう態度のことを、森田理論では事実本位の生き方というのである。生の欲望の発揮を前面に打ち出した生き方になる。「かくあるべし」で苦しまないので、とても精神的に安定している。広島カープには衣笠祥雄という選手がいた。連続試合出場世界第2位である。連続フルイニング出場歴代3位である。衣笠さんは160個の死球を受けている。歴代3位の死球数である。巨人の西本投手から死球を受け、骨折をしているにもかかわらず、翌日江川投手の球をフルスイングしたことは記憶に残る。また三振は1,587で歴代9位である。併殺打は267回で新井選手を上回っている。歴代10位の不名誉な記録だ。数々の不名誉な記録を持ちながらも、今ではそれらは忘れ去られ、安打数歴代5位、本塁打7位、打点11位という記録が評価の対象になっている。衣笠さんも現役時代はたびたびスランプに陥り、心ない数多くのヤジを浴びていた。普通の人なら野球に嫌気がさして、早々に引退をしていたかもしれない。衣笠さんは、 「思うようなバッティングができない」という苦悩を抱えながらも、決して仕事を放棄することはしなかった。自分のできることを精一杯こなして、後で振り返ってみれば前人未到といわれる山の頂に立っていたのである。こうした生き方は、ともすれば、すぐにくじけやすい神経質者の生き方に勇気を与える。
2018.11.09
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読書をしていると、いつの間にか眠くなることがあります。特に自分に関心のない部分や、容易に理解できないところを読むときは眠くなります。しかし眠いなという気持ちを持ちながら読書をしていると、そのうち頭が冴えてきて読書に没頭するという状況が訪れてきます。そうなると、途中で放りださなくてよかったという気持ちになります。私は小学生の頃、夕食を済ませた後、宿題をやろうとしましたが、すぐに眠くなりました。頭が朦朧となり、宿題を続けることができなくなりました。少し寝てから目が覚めたらやろうと思いました。そのうちぐっすりと寝てしまい、気がつくと朝を迎えていたという失敗を数多く経験しました。私の家の近くに、小高い山があり、その頂上から街全体が見渡せ、とてもいい景色を眺めることができる場所があります。ちょうど1時間ぐらいの適度なハイキングコースになっているのです。登る途中には長い階段や岩場もあり、足腰の鍛錬にはもってこいのところです。体に良い事は分かっているのですが、行く前にはとても億劫な気持ちになります。それよりは、家でテレビを見たり、音楽を聴いて横になっているほうが楽だからです。いずれも、 「つらい」 「しんどい」 「楽をしたい」という気持ちがあり、読書、宿題、ハイキングをしたいという前向きな気持ちと、常にせめぎ合いをしているのです。人間は悲しいもので、すぐに気分本位に流されてしまいます。しかし、しばらくたつと気分本位になって挑戦をあきらめてしまったことを後悔することになります。こんな時、森田理論の次の言葉がとても参考になります。休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり読書や宿題の場合は、一旦中止して、体を動かすようなことに取り組めばよかったのです。掃除や洗濯、整理整頓、散歩、コーヒーを飲むなどなど。精神が弛緩状態になり、頭が疲れているわけですから、体をリフレッシュしてやればよかったのです。リフレッシュすることで、頭の疲れが回復し、さらに精神が緊張を取り戻します。ハイキングの場合は、気分本位になって楽な方法を選択するよりは、思い切って支度をして、家を飛び出る。そうすれば、弾みがついて、素晴らしい景色も望めるし、体を鍛え、すっきりすることができる。出かける前は、億劫だったけれども、出かけて本当に良かったと思えるようになるのである。
2018.11.08
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「石にかじりついても金メダルを取らなければならない」という風に考えるのを、目標達成第一主義という。この考え方は、 「かくあるべし」の強い人が陥りやすい考え方だ。この考え方をとっている人は、周りから見てみると悲壮感にあふれている。ピリピリしていて人を寄せ付けないところがある。楽器の演奏者は、完璧な演技をしなければならない。この資格試験には絶対に合格しなければならない。このプロジェクトは絶対に成功させなければならない。などなど。完璧に出来るのが当たり前と思っているので、取り越し苦労が絶えない。ミスや失敗に怯えているので、言動がぎこちなくなり、思わぬ失敗を招きやすい。完璧にこなそうと思うが故に、ミスや失敗を招いてしまう。こういう考え方をとっていると、ミスや失敗をするとすぐに落ち込んでしまう。それと、自己嫌悪や自己否定に走り、すぐに挫折してしまう。そして、自分は何をやってもうまくできない。ダメな人間だと人格否定をしてしまう。一挙に意欲や、やる気がうせてしまい、世間の失笑をかうのである。こういう人は、オリンピックなどでメダルを獲れないと、生き恥をさらしで国に帰ることができないと深刻に悩んでしまうのだ。かくあるべしは自滅の道を突き進んでいると言える。これに対して、 「石にかじりついても金メダルをとりたい」というように考えるのを、プロセス第一主義という。金メダルを取るという大きな目標を持っている。しかし、今の技術や能力ではとても獲る事は出来ない。技術的な問題があるのか、能力的に無理なのか、様々な角度から検討を加える。そして、技術的な面に問題があれば改善をする。能力を高めるための方法が見つかれば挑戦をする。全て思い通りに事が運ぶ事はほとんどない。二歩前進して一歩後退が続くかもしれない。試行錯誤の連続である。しかしあきらめない。1段ずつ階段を上って努力を積み重ねていく。そして、うまくいけば、オリンピック代表選手に選ばれ、その次にメダルを目指すことになるのである。金メダルは最終の目標となる。プロセス第一主義とは、毎日毎日、瞬間瞬間を精一杯に生きるやり方である。結果第一主義とは、そもそも出発点が違う。自分の立ち位置が違う。プロセス第一主義とは、現実、現状、事実を素直に認めることに重きを置いている。森田理論では、目標達成至上主義は自分や他人を苦しめるばかりであるという。「かくあるべし」を少なくして事実本位に生きる「プロセス第一主義」をオススメしているのである。これを一言でいえば「努力即幸福」ということである。
2018.11.07
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誰でも歳をとれば、物忘れが多くなる。すぐに疲れやすく、体のあちこちが痛くなる。病気がちになる。根気なくなる。意欲がなくなる。性欲がなくなる。物が食べられなくなる。睡眠が浅くなる。 シミやしわが増える。顔や体形が醜くなる。目が見えなくなる。歯が抜けてくる。髪が抜けてくる。昔、簡単に出来ていた事が時間がかかるようになる。あるいはできなくなってくる。などなど、若い頃には考えられなかったような身体の衰えを感じるようになる。このような時にどうしたらよいのか、森田理論で考えてみよう。一般的には、老化による心身の変調や体力の低下に意識や注意が向いて、悲観するような人が出てきます。昔の元気だった頃と比べて、今の現状を嘆き悲しんでいるのです。「もう年寄りだから」「もう夢も希望もない」「生きていても、何の楽しみもない」「死んで楽になりたい」体が弱って病気がちになり、意欲ややる気がなくなった自分を否定することは、将来への希望を喪失してしまいます。これは「かくあるべし」が強い人にありがちなことです。元気な人は、自分を奮い立たせて、エステに通い、高額なサプリメントを買い求める人も出てきます。昔のように機敏に行動しなければならない。物忘れが激しくなり、ましてや認知症になれば夢や希望がなくなってしまう。顔や体形が醜い状態では人前に出ていく事は出来ない。体力が衰えているのに、つい無理をして頑張り後でその反動で苦しむ。このように「かくあるべし」で、衰えの目立つ体や脳の機能を、嘆き悲しんでいると、どんどん閉塞状態に落ち込んでしまう。自分に「かくあるべし」を押し付けると、体や脳の機能はどんどん失われていくので、理想と現実はどんどん乖離して、苦悩や葛藤がますます膨らんでくる。精神的にはとても辛い状況が待ち受けているのです。これらに対して、森田理論で学習したように、現状を受け入れて認め、事実に寄り添うようにしたいものです。現在の状況の中でできることに取り組んで精いっぱい生活を楽しもうではありませんか。そしてあまりにも現実離れした欲望は持たないことだ。顔や体型は努力すれば、ある程度はもとに戻せる。ヨガ、ストレッチや運動によって、体力や体の柔軟性はある程度は保てるはずだ。老眼鏡をかければ、新聞は読める。歯が抜けても入れ歯がある。無理しないで、今の自分にできる範囲のことを精一杯やっていこう。自分のできることは安易に人任せにしないで、自分で手掛けるようにする。年をとれば髪が抜ける人がほとんどだ。体の自由が利かなくなるのが普通だ。体力に合わせて動こう。無理をすることは禁物だ。できなくなった仕事は、人に依頼しよう。体調の変化を感じたら、病院で検査をして、悪いところが見つかればこまめにメンテナンスをして生活しよう。記憶力はなるべくメモする習慣をつけて、忘れてもすぐに思い出すことができるようにしよう。老いという現実、現状、事実を素直に認めて、そこから一歩でも前進するという気持ちを持ち続けることが、心身共に健康で暮らすことができる道であると思う。もう年だからとあきらめてしまうと、体力も気力も急に老け込んでしまうので要注意だ。
2018.11.06
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思想の矛盾(理想と現実のギャップで苦悩している人)を抱えている人の特徴は以下の通りである。1 、強力な「かくあるべし」を持っている。完全主義、完璧主義、理想主義の人である。強いコントロール欲求がある。目的、目標至上主義、結果第一主義の人である。すぐに是非善悪の価値評価をする人である。自己弁護、自己否定、他人否定をする人である。考え方に柔軟性がなく、硬直している。一方的な決めつけが多く、再考する余地はほとんどない。そのため、変化対応力に乏しい。状況に合わせて、臨機応変に対応することができない。「絶対に、必ず、いつも、みんな、決して」という言葉が頻繁に出てくる。2 、話す内容が非論理的で筋道が通っていない。本能的、感情的、観念的である。その時の不安や恐怖、不快感などに左右される。気分本位な言動が目立つ。3 、事実を観察したり、確かめるという態度が希薄である。事実の裏を取るという気持ちがほとんどない。過去の自分の経験で、すぐに是非善悪の価値判断を行う。人の噂や話を事実として安易に信用してしまう。4 、現実、現状、事実を悲観的、否定的に見てしまう特徴がある。坂道を転がる雪だるまのようにどんどん増悪して、身動きも出来ない状況に陥ってしまう。事実を正しく認識して、そこから打開策を探りだし、将来に明るい展望を見出すことが困難になる。人生を悲観して、生きる意欲がなくなってしまう。森田理論では、強力な「かくあるべし」を持っている人は、辛い人生が待っているという。「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生き方を身に付ける事は、自他共に幸せな人生を全うすることにつながる。
2018.11.05
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本日は江田島市のオリーブの祭典にお呼びがかかり、サックスの演奏をしてきました。その後の子供たちの太鼓も素晴らしかったです。今日はお天気もよく瀬戸内海が波穏やかでとてもきれいでした。写真は戦艦大和を作った呉市方面をとっております。この近くには海を囲って鯛の釣り堀がありました。たまには気分転換もいいものですね。
2018.11.04
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森田先生は、森田全集第5巻の中で人の気質を7つに分類されている。神経質気質は、自己内省的で、何かにつけて、自分のことを観察批判して用心深く、石橋を叩いて渡るという風である。全て理知的で感情を抑制することが強い。したがって、軽はずみではないがひねくれである。自己中心的で、他人に対して、情愛がうるわしくはないが、信用を置くことができる。発揚性気質の人は、陽気で、愉快な人で、あっさりしていて、交際上手で、朗らかな人である。交際にも、気持ちよく、気の置けない人で、よく人の世話をやく人である。その代わり、ただうわべばかりで、人に対して、深い思いやりなどは全くなく、自己内省などもできない。人が笑っていれば、単に喜んでいるくらいに考えて、泣き笑いとか、会釈笑いとかいうことの見分けのつかないものである。人と喧嘩するときでも、神経質は、自分の欠点や、悪い意見を十分に考えて、しかるえうで争うことができるが、その他の気質の人は、ただ一途に相手の悪いところばかりを怒るという風である。ちなみに、その他の気質として、ヒステリー性気質、意志薄弱性気質、抑鬱性気質、偏執性気質、乖離性気質をあげておられる(森田全集第5巻 364ページより引用)ここで問題なのは、神経質気質の人が、発揚性気質の人の性格を比較していることである。自分の性格のマイナス面と、発揚性気質のプラス面を天秤にかけて比較しているのである。発揚性気質の人は、小さな事は気にならず、あっけらかんと笑い飛ばしてしまうような人である。明るく愉快で他人の注目を一身に集めている。社交上手で、行動力も交渉力もある。人を統率してまとめ上げるリーダーシップも持ち合わせている。神経質性格の人は、これらの性格特徴は持ち合わせていないので、発揚性気質の人と比較すると自己嫌悪、自己否定に陥る場合がある。しかし、発揚性気質の人も欠点や弱みを持っている。細かい事は気にならないので、対応することが困難である。体の異変にも気づかず、診察を受けたときは、もうすでに手遅れという事態を招くことがある。大きなプロジェクトなどは手がけることができるが、 ザルで水を救うようなもので、予期せぬ事態に陥り、足元救われるようなことが発生する。内省性に欠けるので、第三者から見て、無鉄砲なことでもイケイケドンドンで突っ走ってしまうこともある。他人の気持ちを思いやる心がなく、自分の思い通りに支配しようとする。神経質者は、心配性で不安にとりつかれる、物事にいつまでもこだわりやすい、注意や意識が自己内省一辺倒である、 「かくあるべし」が強いなどの欠点がある。神経質者から見ると、発揚性気質の人は自分にない性格特徴持っており、とても眩しく見えるのである。自分の性格特徴を否定して、発揚性気質の性格に変えてしまいたいと思う人が出てくる。心身を鍛えたり、性格改造のためのセミナーに参加したりする。こういう方向で努力するのはいかがなものであろうか。それよりは、神経質性格にはプラス面とマイナス面が共存しているのであるから、それをきちんと自覚することがより大切なのではなかろうか。神経症に陥っている人は、まさか自分の神経質性格にプラスの面があるとは思えない。神経質性格のマイナス面ばかりをみて、自己嫌悪、自己否定しているのである。こんな性格に産んだ親を憎んでいるのである。これは性格の見方があまりにも一面的である。性格特徴には、それぞれの性格に10の欠点があれば10の長所もあるのである。10の長所もしっかり自覚できなければ、性格を正確に自覚したことにならない。そして神経質者の生き方としては、その長所を大切にして育んでいくことにあるのではないでしょうか。
2018.11.04
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子供に「かくあるべし」を押し付けない身近な事例が見つかったので紹介してみたい。ある冬の午後、 6歳の男児が庭先で1人で遊んでいます。気温が下がり寒くなってきました。母親は、 「寒くなったので、セーターを着なさい」を言いました。でも、子供は遊びに夢中です。 「セーターはいらない」 「寒くない」と言ってそのまま遊び続けています。母親はセーターを家に取りに帰り、無理やり子供押さえつけてセーターを着させてやりました。この母親は、 「セーターを着たほうがよい」と判断し、子供に着せてやっています。「寒いだろう」 「風邪をひいてはいけない」と心配したのでしょう。しかし、子供は周りの状況については考えていませんし、状況に適した行動をとろうともしていません。母親が適切な行動を促しているのに、それに従う事はしません。こうなりますと、母親はイライラして言うことを聞かない子供をつい叱責してしまいます。そして最終的には、子供の意思とは関わりなく母親の思い通りの行動を強制しているのです。母親の身体やイライラ感はなくなりましたが、この対応は母親の「かくあるべし」を子供に押し付けている事にはならないでしょうか。では、どのような対応がよいのでしょうか。目の前の問題を解決するために、あるいは現状をより良い方向に持っていくために、 「どうすればよいか」 「何をすることができるか」を親と子供が一緒になって考え、互いに協力して解決策を探す。親だけが考えるのではなく、 「寒くなったみたいだけれど、セーターを着たほうがよくない」と子供に問いかけ、子ども自身の判断も交えて、協力して次の対応を考えるようにするのです。この対応は、母親があらかじめ「子供にセーターを着させよう」という「かくあるべし」を持ち出して、その「かくあるべし」を子供に押し付けているのではありません。それだと、親が子供に対して、一方的な忠告、話しかけ、命令、指示になってしまいます。子供には子供の意思があります。もし子供が「セーターはいらない」 「寒くない」と言うのなら、 「お母さんは、寒くなってきたからセーターを着たほうがいいと思うけど」など、私メッセージを活用して返答することです。私メッセージは、どのような行動を選択するかは相手に任せています。この場合、それでも「セーターはいらない」と子供が言うのなら、しばらくそのまま遊びを続けさせて、様子を見るしかありません。無理やり母親の「かくあるべし」を子供に押し付けることだけは差し控える必要があります。さらに気温が下がってきたら、改めて注意を促します。もしセーターを着ないまま外で遊んでいたために、風邪をひく結果になれば、子供はその経験から、気温の変化への対応を学ぶことができます。次回からは、子供も寒さに気をつけるようになるでしょう。「かくあるべし」を押し付けることは、子どもの反発を招き、親子喧嘩のもとを作るようなものです。小さい頃は、親の「かくあるべし」 に従うでしょう。しかし、思春期を迎えるころになると、今までの「かくあるべし」的対応は何倍にもなって反発を招いてしまいます。その時点で親が右往左往するのでは遅いのです。取り返しがつきません。小さい頃から、母親の意思と子供の意思が大きく乖離したときは、どうするのかについて対等の立場で話し合うことが大切なのです。双方が自分の意思を打ち出して、話し合う。歩み寄るのだという意志が必要なのです。このようなことを積み上げていけば、子どもは自分で周りの状況を判断し、自分で適切に行動する能力を身につけてきます。そして自立した大人に成長していくのです。これは親と子供の事例ですが、大人と大人の人間関係の持ち方にも応用できることです。2人の人間が寄れば、自分の考えと他人の考えは、乖離があるのは当たり前のことです。その時に「かくあるべし」を前面に押し出してしまうと、人間関係がぎくしゃくとしてうまくいかなくなります。そういう時は、一時的に自分の考えを横に置いて、相手の考えを十分に聞くことです。そして、自分の考え方との乖離状況を見極めることです。そして次に、その乖離を話し合いによって少しでも解消していくことです。交渉の過程では、私メッセージの手法が大変に役に立ちます。「かくあるべし」で相手と渡り合うと、非難、否定、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒りのオンパレードとなります。当然人間関係は悪化してきます。ここで取り上げた手法を取り入れると、少なくとも人間関係で最悪の状況を迎える事は避けることができます。この手法が人間関係で「かくあるべし」を抑えるひとつの方法となります。森田理論はこういうところで、大いに活用し応用していくことが大事なのです。(アドラー心理学 古庄高 二瓶社 32ページ参照)
2018.11.03
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玉野井幹雄さんの言葉です。この世には、初めに、存在価値の支配する評価のない事実だけの世界があります。存在すること自体に最高の価値を認める世界、評価する以前の世界、比べない世界、雑草はないという世界、根源的な幸福感が得られる世界、生かされている恩恵の世界、神経症があってもなくてもいい世界。自分は評価に支配されていなければ、思い切ったことができる。次に、利用価値とか経済価値などの支配する評価の世界があります。役に立つか立たないか、利益になるかならないかが評価される世界、雑草があるという世界、神経症の起きる世界、 いつ評価が変わるか分からないので落ち着いていられない世界、ここでの評価は最高のもので、それ以上のものはないと思わせる世界。世間を騒がしている幸・不幸の話題の多くは、この世界の出来事である。与えられるものは当然で、自分のした事は評価してほしいという不満の多い世界。自分が評価に支配されていると恐ろしくて思い切ったことができない。(神経質にありがとう 、玉野井幹雄 白揚社 244ページより引用)玉野井さんは、人間に生まれて、人間として存在すること自体に最高の価値を認めて、事実だけが尊重される世界に生きると、ほとんどの悩みは霧散霧消すると言われています。これは自分にないものを求めるのではなく、自分に備わった能力をとことん活用し、伸ばしていくことだと思います。他人と比較して、自分の状況を正確に把握することは必要です。しかし、自分の欠点や弱みと他人の長所や強みを比較して、良いとか悪いとか価値判断をすることはほとんど意味がありません。事実を唯一のよりどころとして、目線を一歩上に上げて前進して行くのが人間の宿命というものではないでしょうか。森田理論は、すべてのものは、生まれながらに持っている存在価値を存分に発揮して、世のため人のために役立てる事を勧めているように思えます。そして、人間を苦しめている 「かくあるべし」という考え方、態度を少なくして、事実本位の態度を身につけることが、人間が本来の生き方であるということを教えてくれているように思います。
2018.11.02
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私は現在マンションの管理人をしている。掃除のために10階建てのマンションの外階段を上ったり下がったりしている。私は慰問で獅子舞をしているために、仕事をしながら足腰を鍛えているのである。階段の上り下りをしていて気がついたことだが、下っているときはゴミがよく見えていない。反対に階段を上っているときは、ゴミの存在によく気がつく。その差は格段に違うことに気がついた。階段の掃除には上から見ただけではきれいにならない。下から階段を一段づつ上りながら見ることが肝心であることがわかった。それも一番下から1回だけ見るというのではなく、何段階にも分けて見ることが有効であることがわかった。話は変わるが、大学時代、神奈川県の丹沢で沢登りに夢中になったことがある。10メーターから20メーターの崖を登っていくスポーツである。経験を積んだインストラクターが先に見本を見せて登っていく。そのインストラクターが頂上から命綱を投げてくれる。我々素人はその命綱を体に巻き付け、ヘルメットかぶって登っていくのだ。登っているときは、無我夢中だった。気を抜けば落下する。目の前のしっかりした手や足がかけられるような岩を見つけて、慎重に登っていく。その繰り返しに集中しており、ほとんど恐怖は感じなかった。森田理論で言う「努力即幸福」の体験であった。ところがある時、余裕が出てきて、今登ってきたところを見たときに何とも言えない恐怖心が沸き起こってきた。急に死の恐怖がわき起こってきて、手や足の震えが止まらなくなった。もうそれ以上登ることができなくなり、ロープで釣り上げてもらい命拾いした。頂上から下に降りてみると、登り口の近くにたくさんの墓標があることに気がついた。ここでたくさんの人が命を落としているのだと感じると途端に恐怖心に火がついた。ヨーロッパのアイガーの北壁を登る人をテレビで見ることがあるが、これも目の前だけを見つめて、決して下に目を移さないということが肝心だと思う。 話は変わるが、会社などでは、部下は割と正確に上司のことをよく見ている。反対に上司は見ているつもりでも、部下のことがよく見えていないことが多い。親もそうだ。親は子供のことを何でも知っていると思っているが、案外そうでもない。それ以上に、子供は親の事をよく見ていると思う。しぐさや行動パターン、考え方に至るまで全て親に似てくるのは、観察の賜物であると思う。ここで何を言いたいのかというと、物を見る時に上から下目線で見ていては、正確に見ることが難しい。抜け落ちてしまうことがたくさんあるということである。反対に、下から上目線で見るという態度は多くのメリットがある。そのほうが物事がよく見える。問題点や課題がより多く見つかるのだ。物事本位の生活態度に移行しやすい。これは事実に立脚して物事を観察するのと、「かくあるべし」で物事を判断することの違いであると思う。森田理論のキーワードの1つとして、 「上から下目線ではなく、下から上目線で物事を見る」を付け加えたいと思う。
2018.11.01
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