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プロ野球選手会の調査によれば、今年の巨人が選手に支払っている年俸総額は約39億円だという。2位の阪神は25億円である。広島は21億円である。巨人は広島の約2倍である。巨人の年俸が高騰する原因は、他のチームでフリーエージェントになった選手の獲得に伴う出費である。今年は、西武で2回ほど2ケタ勝利を記録した野上選手を獲得した。野上選手は3年間で推定4億5,000万円の契約を結んだという。中日からゲレーロ選手を2年で推定8億円で獲得した。これらの選手が年俸に見合う活躍してくれれば、問題は少ないが、現実には必ずしもそうはなっていない。これまでも、 巨人は巨額な契約を前面に打ち出して、数多くの有名選手を入団させてきた。それらの選手が移籍前に残した成績と、移籍後に残した成績を比べるとかなり見劣りがする選手は少なくない。これについて広岡氏は、 「彼らも、少しでも上手になりたいと思って一生懸命自分の頭で考え、工夫をしていた選手達です。ところが、目のくらむような大金で連れてこられて、その上引退後の人生まで保証されている。そんな球団で気を抜くなと言う方が無理な話です」と分析されている。多額の年俸と一生面倒を見てもらえるという安心感が、結果として選手たちの緊張感を失わせる。 (週刊現代 2018年9月22日・ 29日合併号より)これは森田理論を学習している私たちにも警告を発していると思う。デンマークの哲学者キェルケゴールは、毎年大きな集団を作って南方に飛び去る野鴨を観察したジーランド海岸に住む人の話を書いている。そこに暮らす人々は慈悲深く、近くの沼に野鴨の為に餌を与えに行った。しばらくすると、鴨のうちの幾羽かは南方へ飛び去ろうとしなくなった。この人たちの与える餌を頼りにして、デンマークで越冬するようになったのである。だんだんこの鴨たちは飛ぶことが少なくなってきた。 3 、 4年の後には、この鴨たちはすっかりだらしがなくなり、飛ぶことさえ難しいほど太ってしまった。(状況が人を動かす 藤田英夫 、毎日新聞社)「過ぎたるは及ばざるがごとし」という諺があるが、多額の年金が入る、遺産が入る、生命保険金が入る、高額な宝くじに当たったという人は、それに浮かれて急に消費一辺倒の生活に切り替えてはならないということだ。そういう生活を続けていると、この野鴨のような状態になってしまう。森田で学んだように日常茶飯事に丁寧に取り組むことが肝心なのだ。いくら経済的に恵まれていても、自分のできる日常茶飯事を安易に他人に任せてはならない。自分でできる家事はできるだけ、自分の手で行う。それがやりがいを作り上げ、生き生きと生活することにつながる。巨人に巨額の契約金を積まれて移籍した選手は、一旦経済的に恵まれた環境に身を置くと、そうしたくてもできなくなった人たちなのではなかろうか。
2018.10.31
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不安やストレスを長期間抱えていると、前頭前野や海馬などの神経細胞がダメージを受けて回復できなくなります。ネズミをぬるま湯を貯めた円筒形の水槽に入れると、ネズミは壁面を這い上がって逃げようとします。しかし、表面がツルツルしているので、スリップして水の中に落ち込んでしまいます。その状態で10分ほど格闘すると、ネズミは精魂尽き果てて、逃げることを諦め、体が沈み込むことにも無抵抗になります。翌日同じことをすると、今度は二分も持たずに、もがくのをやめて、無反応になってしまう。人間の場合も同じである。自分の力ではどうすることもできず、絶望するところまで追い詰められると、現実の困難に立ち向かおうとする気力自体をなくしてしまう。子供の時に、親からいつも大声で怒鳴られて成長した人は、大人になっても、人と会うと過度に緊張し、不安や恐怖を感じやすくなる。対人恐怖症に発展するのである。子供の頃に受けた体験は、生涯にわたって深刻なストレス障害を受ける。また、過重なノルマと責任を背負わされ、失敗や非難の不安に怯えながら、長時間の労働を強いられる現代のサラリーマンは、ともすると水槽の中でもがいているネズミのような状態になる。ネズミの場合は、 1日か2日休ませればもとの元気な状態になる。人間の場合、そこまで追い詰められると、復活するのにもっと長い時間がかかってしまう。うつ病になる人は、不安やストレスに長期間さらされて、前頭前野や海馬などの神経細胞が多少なりとも破壊されている可能性がある。どうすれば不安やストレスを軽減することができるだろうか。不安については、森田理論学習によって、不安の特徴と役割について学ぶことが大切であると思う。これは神経症の人に限らず、心の健康を維持するために全員が学ぶ必要がある。不安は、今取り組んでいることの中で、問題点や課題を教えてくれる。適切に対応することによって、失敗を防ぐことができる。不安は重要な役割を果たしている側面がある。だから不安を邪魔者扱いしてはならない。次に不安は欲望と裏腹の関係にあることを教えてくれている。不安を活用しながら、注意深く欲望に向かって生活していくことが大切であることを教えてくれた。不安で押しつぶされそうになったときは、不安には手をつけない。欲望のほうに注意や意識を向けて生活する。つまり、欲望と不安のバランスをとることに注力するのである。そういう方向にエネルギーを投入して生活していくことが大切なのである。森田理論を学習して、日々の生活に活かしていれば、不安にとりつかれて、精神交互作用で神経症を発症することは少なくなると思われる。長期間ストレスにさらされるという事は、現代社会では自分の力では避ける事は難しいと思われる。ではどうすればよいのか。私は生活のバランスを整えるという事を提案したい。仕事や勉強だけの生活は回避しなければならない。家庭生活、地域活動、ボランティア活動、趣味の活動、運動をする、バランスのとれた食生活、様々な人間関係づくりなどにも力を入れて、偏らない生活を作り上げることが大切である。生活を楽しむという気持ちが大切であると思う。このようにして、不安やストレスを軽減していかないと、うつ病のような重篤な精神障害を作り出してしまうのである。(うつと気分障害 岡田尊司 幻冬舎新書参照)
2018.10.30
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森田理論学習で学んだ私の3つの生き方について考えてみたい。1 、私は苦しいことからすぐに逃げてしまう。嫌な事はしたくない。億劫な事は極力避けてきた。不快な気分に翻弄されて、為すべき事からずっと逃げてきた。そうすると、逃げた瞬間はほんの少しだけ楽になる。ところがその後、暇を持て余すようになり、後悔ばかりしてきた。森田理論学習で、不安、不快な気分は自然現象なので、どうすることもできない。不安や不快な気分は台風と同じなので、台風が来た時の柳の木のように枝を振り乱しているしかない。そのようにして、台風が通り過ぎるのを待つだけでよいと学んだ。不安や不快な気分に翻弄されてはいけない。気分本位な生き方をしてはいけない。気分本位と付き合っていると、後で後悔することがほとんどである。そんな時は、目の前のなすべき事に注意や意識を向ける。嫌々仕方なしに手をつけていくと弾みがついてくる。つまり、不快な気分に覆われていることと、自分がなすべき事は明確に区別することを学んだ。2 、私には強い「かくあるべし」があった。その「かくあるべし」で現実、現状、事実をことごとく否定してきた。自分という1人の人間の中に、現実でのたうちまわっている人間と、もう一方冷徹な目でその現実の自分を非難、否定している自分を抱えて、絶えず葛藤を繰り返していた。いつも主導権を持っていたのは、自分を非難、否定している自分の方だった。他人に対しても、完全主義、完璧主義を押し付けて、自分の思い通りに相手をコントロールしようとしてきた。いつも他人とは対立状態に陥り、人間関係がうまくいかないと悩んできた。森田理論学習で、 「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生き方を身に付ける事が、そうした悩みや葛藤を少なくすることを学んだ。そのために「かくあるべし」を自分や他人に押し付けない。事実をよく観察する。事実に基づいて考える。行動する。純な心や私メッセージの体得をする。 「かくあるべし」は意識して取り組まないと、なかなか少なくすることはできない。これは一生、私にとって意識して取り組むべき課題であると思う。3 、私はいつも他人と比較して、自分の物差しで、是非善悪の価値判断をして劣等感に苦しんできた。私はいつも理想の状態を頭に描いて、自分の物差しで、是非善悪の価値判断をして、自分を否定して生きてきた。私はいつも昔のよかった時のことを考えて、自分の物差しで、是非善悪の価値判断をして、現実を否定して生きてきた。森田理論学習で分かった事は、他人と自分、理想と現実、昔と今を比較して、自分の現状を正しく理解することは大切なことである。自分の置かれた状況や問題点や課題が見えてくるからである。現実や事実がよくわかるようになる。これは外国に旅行して初めて、日本のよいところや、悪いところがわかるようになるようなものだ。ところが、私は違いが分かるようになると、すぐに自分のあやふやな物差しを持って、是非善悪の価値判断をしてきた。その結果、他人と比べて優れたところでは、優越感をを持ち、他人を軽蔑するようになった。そして、大半は、自分の弱みや欠点を過大視して劣等感で苦しむようになった。理想とは程遠い自分の姿を見て、自分で自分自身を否定するようになった。森田理論学習で、自分の物差しは自分勝手な考え方によるものであり、普遍的な価値のあるものではないことがわかった。その物差しを使って、是非善悪の価値判断をすることは、自分や他人を不幸に陥れることだということがわかった。比較して自分の立ち位置をしっかりと把握する事にとどめる。それから先の是非善悪の価値判断は、余計なことである。そんな事はやめよう。自分の立ち位置が把握できれば、そこから一方、目線を上げて行動する。他人の立ち位置が把握できれば、そっと側によって、相手の立場に立って考えてみよう。そのように考えるようになった。以上の3つを森田理論学習によって学び、私の人生の指針にしているのである。
2018.10.29
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お嫁さんとお姑さんが同じ屋根の下に住んでいると、対立することが多くなるようです。お姑さんはお嫁さんの掃除、洗濯、料理、子育て等をよく見ています。完璧主義のお姑さんは、何かにつけて気になるようです。それを平気で口に出して指摘する人もいます。お嫁さんにとっては、自分は何もしないで、ケチをつけるお姑さんがうっとうししくて仕方がありません。どうしていつも私のやることに意地悪ばかりするのかと、反抗的になります。夫に相談しても、自分よりも母親の立場に立って、自分を擁護してくれることがありません。こうなると、家庭の中の人間関係はギクシャクしたものになります。お嫁さんはいつもイライラして反抗的な態度になります。子供やペットの犬にも八つ当たりするようになります。どうすればよいのでしょう。お姑さんと別居するか、夫と離婚するかしか解決策はないのでしょうか。これを森田理論で考えてみましょう。お嫁さんは、お姑さんがいつも意地悪な態度で自分を批判していると思っています。上から下目線で自分の行動を監視して、否定ばかりを繰り返している。自分はお姑さんにいいようにコントロールされている。お姑さんは支配者で、自分は奴隷のような存在である。この認識はほぼ間違いないものであると思っている。森田理論で言うとお姑さんが自分に対して、毎日「かくあるべし」を押し付けている。自分のやることなすことケチをつけるばかりで、自分は精神的に追い込まれ、気が狂いそうだ。こういう時、森田理論では「事実から出発せよ」と言っています。この場合、事実とは何か。例えば、掃除が終わった後、 「まだゴミが残っている」と言われた。おばあちゃんは、事実を指摘しているだけなのです。それなのにお嫁さんは、事実を確かめようとはしないで、すぐにまたおばあちゃんが意地悪なことを言ったと思っているのです。こんな時は「どこにゴミが残っていましたか」と聞いてみる。そうすると、お姑さんがその場所を教えてくれる。その場所を確かめてみる。たしかに掃除機をかけ忘れたところだ。 おばあちゃんに感謝しなければならない。「おばあちゃん、教えてくれてありがとう」すぐに掃除機をかける。おばあちゃんも納得する。「素直な嫁だ。家にふさわしい嫁だ」事実から出発すれば、お嫁さんもお姑さんに対する反抗心がでてこないので、精神的にとても楽である。怒りなどの感情が沸き起こってきたときは、その原因となった出来事は、本当のことなのかどうなのか確かめてみる必要がある。自分のミスや失敗で問題が発生しているならば、素直に謝り、すぐに改善策に移れる。ところが、自分のミスや失敗に対して、相手の批判的な反応に注意や意識を向けていると、対立的な人間関係の問題にすり替わってしまう。そこには目の前のミスや失敗は放置されたままになる。これはボタンの掛け違いが起きているようなものです。森田理論を学習した私たちは、常に事実をよりどころとして生活をしてゆきたいものです。
2018.10.28
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日本政府は、国民の食料を自給するという考え方は持ち合わせていないようだ。米を除くほぼすべての食料は輸入によってまかなうという方針だ。その米も外米の輸入を迫られて、存続が危うくなっている。この考え方は非常に危険であると思う。世界の人口が90億人台に増加することが見込まれており、いずれ食料は世界中で奪い合いになる。そうなれば食料は高騰する。しかも、天候不順などにより不作になれば、農産物生産国でも輸出に回すことができなくなる。こうなれば、日本は黒字倒産のような状況になる。つまり、いくら外貨を持っていても食料が買えないという事態に陥る。現在は食うものに困る人はほとんどいない。飽食三昧である。それが突然食糧難になる時代が来ることを今のところ誰も予想していない。しかしこれは近い将来に高い確率で起こる可能性が高い。戦後の食糧難の時代がやってくることに思いを馳せる必要がある。そうなったとき、政府は責任を取ってくれるのか。多分、自己責任の問題で片付けられるのではないだろうか。多くの餓死者が出る事は、近い将来の事実である。本来食料は命を再生産する大事なものであるが、食糧危機が起きると、生産国が非生産国を支配するという事態に陥る。いとも簡単にアメリカや中国に思いのままに支配されるようになるだろう。日本はいくら経済力があると言っても、食糧で首の根っこをつかまれてしまうと、経済大国、自立国家として存続することはできない。そんな折、今年「主要農産物種子法」国会で廃止された。これは戦中から戦後にかけて食糧難の時代を経験した日本が、 「食料を確保するためには種子が大事」ということで、 1952年戦後間もなく制定された法律であった。ここには、国が二度と国民を飢えさせない。国民に食料を供給する責任を負うという国の明確な意思が示されていた。この法律が廃止されると、国の保護はなくなり、種子の確保や保管は民間企業に移ることになる。つまり、農産物の種子は、完全に民営化されるのである。気を付けてもらいたいことは、日本の種苗会社に民営化されるということではないのだ。現在、野菜などの作物では、圧倒的な技術力と資本を持つアメリカの多国籍企業が中小の育苗会社を次々に買収し、世界中にシェアを拡大しています。モンサント社のような会社です。いずれ農産物の種子は、すべてアメリカなどの多国籍企業に握られてしまうでしょう。これらの企業は、 F1品種(2年目以降収量が激減する種子)や、 「ターミネーター種子」という遺伝子組み換え種子(翌年には発芽しない種子)を作り上げているのです。これらの改悪品種の独占販売で、巨額の利益を生み出そうとしているのです。古来から伝わる伝統的な種子を随時駆逐し、すべての農産物の種子をモンサント社などから買わざるを得ないような仕組みを作ろうとしているのです。いったんその仕組みが作られてしまえば、農産物の種子は武器よりも強い、他国を攻撃する武器になってしまうのです。これは考えてみただけでもぞっとするようなことです。このようにして自分たちで種子を作ることはできない時代が訪れようとしているのです。種子によって支配被支配の関係が生まれようとしているのです。 日本の「主要農産物種子法」の廃止は、アメリカの種苗会社の片棒を担ぐことになるのです。この点についてもっと知りたい人は、 2017年4月5日、 2017年4月24日の投稿記事をご覧ください。そして日本は、農産物生産の首根っこをつかまれて、身動きできない状態に陥ってしまうのです。これは国民を幸せにするのではなく、不幸のどん底に突き落とすことにつながるのではないでしょうか。これは森田理論で言うと、精神交互作用で神経症の蟻地獄に落ちてしまうようなものです。それを防ぐ道はないのか。私はまず問題点を国民全体が自覚することが大切なのではないかと思うのです。(中国新聞 2018年9月29日 食料主義と種子 西川義昭氏記事参照)
2018.10.27
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玉野井幹雄さんは、不安には「健全な不安」と「神経症的不安」があると言われています。この2つをしっかりと区別することが大切だと言われています。「健全な不安」とは、建設的な欲望と結びついている不安のことです。この不安は欲望を実現するために必要なものです。欲望→不安→準備→実行→結果→再計画(新しい欲望) → ・ ・ ・という建設的なコースを進むうえで重要な役割を果たしています。私たちは不安があるおかげで、欲望を実現するために必要な対策や準備をすることができます。私たちがこの世で生きるということは、欲望を実現していくことだと言ってもいいと思います。その欲望をしっかりと認識するために、不安は大いに役立っているのです。不安は不快なものではありますが、人間が生きていくためにはなくてはならない大切な感情です。「不安は安心のための用心である」という言葉がありますが、不安は欲望を実現するために大いに役に立っているのです。これに対して、 「神経症的な不安」というのは、欲望を実現するために必要な不安を、あってはならないものとして問題視する不安です。つまり、不安そのものを問題にする不安であり、それが神経症的不安の特徴です。したがって、それは、 「不安の原因も不安」という問題になっているために、その不安除去の心理的悪循環は止まることがなく続きます。精神交互作用によって、不安はどんどん膨らみ、ついにははからいをすればするほど、アリ地獄の底へと落ち込んでしまうのです。この段階では、生の欲望の発揮については全く考えが及びません。蚊帳の外になっているのです。つまり、欲望と不安のバランスが崩れています。注意や意識が不安にばかり偏っており、極めて危険な状態です。すでに神経症的不安にとらわれてしまった人は、 どうすればよいのでしょうか。不安にばかりとらわれている状態から、抜け出す必要かあります。森田理論では、苦しいけれども、不安はそのままにしておく。心の中の事はなりゆきにまかせて、日々為すべきことを為していけばよい、と言っています。言い換えると、不安のことばかり考えている状態から、欲望のこともしっかりと視野に入れて、不安と欲望の調和を回復させることに注力するということになります。(神経質にありがとう 私の森田療法 玉野井幹雄 白揚社参照)
2018.10.26
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神経症を治すためには、一般的には薬物療法がある。また精神療法としては、不安を取り去る療法が中心である。これに対して森田療法では、不安は自然現象なので、手をつけてはならない。心の中の事はなりゆきにまかせて、日々為すべきことを為していけばいいといいます。私はこれについては異論はありません。ただ、意識の持って行き方として、 「不安と欲望の調和を図る」ことをお勧めしたい。我々人間は多くの欲望を持って生きている。森田理論では、不安というのはこの欲望の裏返しであると学習しました。日々の生活の中では、不安の種は次から次へと発生する。それは欲望があるから発生しているのです。欲望が強ければ、それに伴って不安も強くなる。ですから、神経症の治療に関して、不安だけを問題にしていては、片手落ちなのではないでしょうか。不安と欲望の相関関係の中で、不安の対応を考えていく必要があると思われます。さて、不安に対しては、まず最初に、これらを忘れないようにメモして処理した方がよいものと、処理できないものを区別する必要があります。そして処理した方がよいものは、どんどん片付けていく。問題は、不快な感情など、どうにもならない不安に対してどのように対応するのか、ということである。その時、いかにして不安と欲望の調和を維持していこうかと注力することをお勧めしたいのである。サーカスの綱渡りの芸では、長い物干し竿ようなものを持っています。この竿を右に傾けたり、左に傾けたりしながら身体のバランスをとっています。そして目線は、しっかりと目的地をとらえて、注意深く前進しています。この物干し竿の右端を不安と考えてください。そして左端を欲望と考えてください。サーカスの綱渡りでは、不安と欲望のバランスを維持することに神経を張り詰めています。決して不安を取り除こうとか逃げ出そうと考えているわけではありません。私たちも、不安が出てくれば、不安そのものを問題視するのではなく、不安の裏には欲望があるわけですから、欲望の方にも目を向ける必要があります。そして最も重要な事は、不安と欲望のバランスをとるために、自分は何ができるのかと考えることです。例えば、お医者さんから「あなたはがんではない」と診断されたにもかかわらず、がん恐怖が強くて、頭の中がイライラして落ち着かない。そんな時、不安を取り除こうとやりくりをするのではなく、自分の欲望について考えてみるのです。二人に一人の割合で発症するというガンにはかかりたくない。がん手術、抗がん剤治療、放射線治療などは受けたくない。いつまでも健康で長生きをしたいという欲望が人一倍強いのだ。その強い欲望のために、不安が強く出ているのだ。ではどうすれば不安と欲望のバランスをとることができるのか。この場合は、欲望の方に力を入れて、不安のことを考える割合を少なくしていく。がんにかからないための生活習慣、食事や運動、ストレスのない人間関係のあり方などに注意を向けて生活を見直していく。今までは不安の方に大きく傾いていたのが、欲望を見直すことで、少しずつバランスが回復しているのである。このように不安だけを問題にするのではなく、不安と欲望のバランスを整えることに、注意や意識を向けることが、精神衛生の面ではとても大切なことである。神経症的な症状を直接取り除こうとするのではなく、欲望と不安のバランスを維持するという側面から取り込む方法もあるということを提案したい。そのための意識付けとして、パソコンの前には、天秤ややじろべいを置いておくことをお勧めしているのである。
2018.10.25
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先日、沢田研二さんの「さいたまスーパーアリーナ」でのコンサートが中止になった。この会場は最大収容人数が3万7,000人であるという。これに対して、今回のイベント会社による集客数は7,000人だったようだ。沢田研二さんは所属事務所とイベンター会社から9,000人と聞いていた。収容人数からすると、同じようなものだと思うが、沢田さんは納得できなかった。沢田さんは、リハーサルでモニターを見たとき、椅子が置けるのに置いてない。また客席が潰されているブロックが6カ所ぐらいあったことに腹を立てた。沢田さんは、 「客席がスカスカな状態でやるのは酷なことだ。無理だよ。僕にも意地がある。コンサートをやるなら満員にしてくれ。無理なら断ってくれ」と、最終的に自分で中止を決めた。これに対して、テレビ報道が過熱している。賛否両論があるようだ。小倉智昭キャスターは、 「沢田さんの気持ちはよく分かるんですよ。大きな会場で客が入っていないと黒い幕で座席を全部覆うんですね。それを見ていると気の毒でならない。特に栄光のある大歌手の場合は、かなりステージに立ってショックを受けると思うんですね。主催者はもっと沢田さんの気持ちを察しなければいけなかったのではないかと思います」と同情の見解を示していた。それはそうかもしれないが、一面的な物の見方に偏りすぎていると思う。これに対して、私は森田理論で考えてみた。これは集談会で言えば、外部講師を招いたとき、外部講師が来てみれば5人ぐらいしか参加者がいない。こんなに参加者が少ないのでは講話をする意欲が湧かないので、申し訳ないが帰らせてもらうと言っているようなものではないかと思う。「僕は講話をするにあたって、時間をかけてそれなりの準備をしてきたのだ。僕にもプライドがある。バカにするのもいい加減にしろと言う気持ちなのだろう」せっかく外部講師を招くのならば、それなりの参加者を集めるべきだという気持ちがみえみえである。これは、 「講話をするからには、きちんと集客をして、少なくとも10人から15人以上の参加者を集めてもらいたい 」という、「かくあるべし」という理想主義が前面に出てきているように感じる。もっとも、実際には集談会ではそういう外部講師はいないと思う。残念に思うだろうが、参加した人に一生懸命準備した講話をするはずだ。それは小人数の参加者という事実を受け入れて、その状態でベストを尽くすという生活態度が身についているからだ。私は「かくあるべし」という思考態度を改善していない人の、講話を聞いてもよい話は聞けないような気がする。なぜなら森田理論の根幹的な部分で、理解不足を露呈しているように思えるからだ。理想通りに事が運んでいないと、現実を受け入れることができない。すぐに現実や事実をを否定してしまうのである。その不満をあからさまに行動に移すと、参加者やその日コンサート楽しみにしていた観客には多大な迷惑や損害を与えてしまう。そして信頼感を失ってしまう。また、そのような行動をとった人も、理想と現実のあまりにも大きなギャップで苦悩することになる。さらにこのような「かくあるべし」に翻弄されている人は、他の面でも生活全体が「思想の矛盾」で苦しんでいる人だと思われる。
2018.10.24
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あるお父さんは、小学2年生の次男がヨーヨーのカタログに夢中なのに気づいていました。次男はカタログに載っているヨーヨーについてはすべて覚えていました。いろいろとうんちくを傾けるのも好きでした。かといって「ヨーヨーが欲しい」と言った事は1度もなく、実際に誰かに借りてやったこともないようでした。見て楽しんでいる段階だったのでしょう。ところが、 2ヶ月ほど経った頃、父親が突然ヨーヨーを買ってきました。お母さんは驚きました。次男は「ヨーヨーが欲しい」とは一言も言っていなかったからです。ずっと次男の様子を見ていた父親は「そんなに好きなら」と、かなり値の張るものを選んで買ってきたのです。結局、買い与えたヨーヨーは与えられたというだけで、実際に使われることなく、引き出しの中に今も眠っています。次男はヨーヨーそのものが欲しかったわけではなかったのでしょう。彼の楽しみは、カタログを見ることにあったのです。もしかすると、もう少ししたら自分でもやってみたいと思うようになったかもしれません。そのまま別のものに興味が移っていったかもしれません。とにかく次男は「欲しい」とは言わなかった。それなのに、父親が買い与えてしまった。なんでも買ってやり、子供の喜ぶ顔が見たい。それが親の愛のあかしのように思う風潮は、 「豊かさ」が人間をダメにする1つの落とし穴です。モノを大切にせず、ものを欲しがる子供が、そこから育ってくることを忘れてはなりません。(ちゃんとがまんのできる子に 田中喜美子 php研究所 72ページより引用)森田理論に「砕啄同時」 (さいたくどうじ)という言葉があります。砕は卵から雛が生まれる時に、自然に成熟してからを破って出てくることである。啄というのは、母親はそれをくちばしで突き破ってやることである。これがもし親鳥が慌てて早く殻を壊さば、雛は早熟で生育することができない。これに反して成熟した雛が、殻を破ることができなければ、窒息して死ぬということになる。すなわち、雛が完全に生育するには、砕と啄とが同時でなくてはならないということである。この例では、子供が欲しいと言う前に、父親が子供にヨーヨーを買い与えた。親が子どもの機嫌をとるために先走ったのである。これは子供を甘やかされているということではなかろうか。子供を甘やかしると、我慢ができない子供になってしまう。大人になって欲望が暴走しても、本来備わっている制御機能が働かなくなるのである。制御機能が壊れていると、自分の生活と家族の生活が破綻しやすくなるのである。この場合は、子供がヨーヨーが欲しいと言いだすまで親が我慢する必要がある。仮に子供が欲しいと言っても、すぐにホイホイと買い与えるようではいけない。仮に3週間待って、やっぱり欲しいといえば買ってあげるもっと言えば、自分で小遣いを貯める。お年玉をもらうまで待つ。誕生日やクリスマスまで待つ。要するに、欲しいものがあれば何でもすぐに買ってもらえるのだという気持ちにさせてはならない。大切なのは、我慢しなければ欲しいものは手に入らない。努力しなければ欲しいものは手に入らない。このような育て方をすれば、忍耐力がつき、自分の欲しいものを手に入れるために努力する子供に育つ。甘やかされて育つと、依存する子供に育ち、欲しいものが手に入らないとすぐにキレるようになる。それは子供にとっても親にとっても不幸な関係になってしまう。
2018.10.23
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ある程度、我慢できる子、すぐに逃げないで困難に耐えてがんばる子どもに育てる事は大切だと思います。そうしないとすぐに欲望が暴走して、制御不能な人間になってしまいます。そうなると自他ともに不幸な人生が待っています。欲望を追及する姿勢とともに制御力を身に着けさせることは親の重要な役割です。そのためには、赤ちゃんのときの親の育て方が大変重要になります。多くのお母さんは、子供が泣くと、すぐに子供を抱きかかえます。これは愛着の形成にとってとても大事なことです。しかし、これは程度問題のようです。抱き癖がついてしまうと、赤ちゃんは泣きば親は何でもしてくれるという気持ちになってしまいます。何でもかんでも親に甘えて、我慢のできない子、自己中心的で依存体質の子供になる要因が形作られるようです。我慢できないとすぐに衝動的な行動をしてしまいます。これは子供の将来にとってはよくありません。 赤ちゃんが泣くのは、最初は意思表示の為です。お腹が空いた、眠たい、おしっこが出た、気持ちの悪いところがある、痛いなどなどです。何かを訴えて泣くわけです。その訴えていることを正確に知り、その時に応じて、お母さんは赤ちゃんにどういう態度をとるかを決めなければなりません。何をしてやるのか、やらないのか。赤ちゃんの状態をよくつかんで、臨機応変に対応することが大切です。何でもかんでも抱きかかえて、泣きやますことでは、子どもに我慢の力はつきません。今の日本では、赤ちゃんの頃から甘やかしを容認する風潮がありますから、 「赤ちゃんの甘えを受け止める」ということと、 「甘やかす」ということの区別が明確でないのです。子供の要求をホイホイ叶えてやる母親は、本当は子供のことよりも、自分自身が楽な方向へ流れているだけなのではないでしょうか。子供に黙っていてもらうために、子どもの要求をすぐにのんでしまっているのではないでしょうか。それは大変危険なことです。まず子供に「待つこと、我慢すること」を教えなければなりません。そのためには、親が子供のわがままを通してしまってはならないのです。子供の言いなりになる方が泣かれるより楽だと考えてしまってはいけないのです。次に、子どもが何かを欲しがっても、ついホイホイと安易に買いに与えず、まず最初に「がまん」を教えることが大事です。それはときには「待たせること」であるかもしれません。友達と分け合うことかもしれません。大人と同じ権利は子供にはないよ、と子供に教えることかもしれません。この我慢こそ、子供の心を鍛え、欲しいと思うもののために努力する喜びを子供に与えるのです。そして、そうした忍耐の一つ一つが、子供のやる気を引き出し、生きる力の土台を作っていくのです。子供はデパートやスーパーに行くと、欲しいものがあるとすぐに買ってといいます。何でもかんでも子供の言う通りにすぐに買ってはいけません。高価なおもちゃは誕生日やクリスマスまで待たせる。だいたい子供が「欲しい、買って」というのは、その場かぎりで長続きしないことも多いのです。ある園長先生は、 「子供が欲しいと言ったら、すぐに買い与えないで3週間待ちましょう。そして、もう一度欲しいかどうか聞いてみてください。たいていはどうでもよくなっています。子供の流行の周期は短いですから、 3週間待って、まだ欲しがっていたら本物ですから、買ってあげてください」とおっしゃったそうです。(ちゃんと我慢のできる子に 田中貴美子 、 PHP研究所参照)
2018.10.22
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秋晴れの中、老人ホームの慰問活動に行きました。昔懐かしいチンドンミュージックと浪曲奇術を披露しました。大変な盛り上がりでした。その時に神楽団の「土蜘蛛」の上演がありました。普通の人間の顔から、鬼の面の顔に一瞬にして変わるのが不思議でした。
2018.10.21
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私たち人間は、ある欲望が起きれば、それを制御する考えが自然に湧きあがり、欲望が暴走しないための機能が備わっています。このことを森田理論では、精神拮抗作用として説明しています。欲望と不安の調和は、森田理論学習では、避けて通れない大きなテーマとなっています。例えば、懇親会などで二日酔いになるぐらい思いっきり酒を飲みたいと思っても、明日の仕事のことを考えて酒の量を押さえたりします。人が高級車に乗っているのを見て、自分も欲しいと思っても、収入や貯蓄の状況を考え、購入することを我慢して諦めます。制御機能がきちんと働いているからです。この制御機能が働かないと、二日酔いになって、次の日の仕事に差しつかえます。あるいは、ローンの支払いで生活が苦しくなるのが目に見えています。このように自然に備わった機能を活用して、欲望を適度に制御しながら生活することがとても大切なことです。しかし、制御機能が不十分で、欲望が暴走する人が後をたちません。特に本能的な欲望が勝手に暴走してしまうことが大きな問題です。欲望が暴走する人は、自分とその家族の生活を破壊し、周囲の人に多大な迷惑をかけることになります。これは、効きの悪いブレーキの車に乗って、坂道でアクセルを踏み込んでいるようなものです。考えただけでもぞっとします。欲望が暴走し、制御機能がほとんど働かない人はどうしたらいいのでしょうか1 、自分がある場面に置かれると、欲望が暴走し、制御機能が効かなくなるという傾向が強いということを自覚する必要があります。2 、これは自分の意志の力で修正できるものではないということも自覚する必要があります。3 、欲望が暴走しそうな場面には、最初から近づかないようにする。これができればよいのですが、これはとても難しいことです。欲望が暴走する人に限って、歯止めが効かなくなるという特徴があります。4 、そういう場合は、第三者の力を借りることが必要です。信頼できる人に、制御機能の役割を担ってもらうことです。少なくとも、欲望の暴走を抑えるために、単独行動は控えることです。同行者がいれば、自分勝手な行動はある程度抑えることができます。配偶者、両親、友達、同僚や上司などと一緒に行動することです。自分の行動を咎められたりするかも知れませんが、反発を控えて素直に従うことです。5 、不幸にして欲望が暴走し、依存症に陥った人は、早く依存症から抜け出るための治療を受ける必要があります。また、同様の問題を抱えている人たちの自助グループに参加し、お互いに励まし合い、支え合うことが大切です。欲望の暴走は、ある特定の分野に限って問題になる場合が多いようです。その他は別段生活の中で支障はないようです。自分はどういった場合に欲望の暴走が起きやすいか見極めて、その対策を立てて実施する。一つの欲望の暴走が、自分と家族の生活を破壊してしまうということを肝に銘じておく必要があると思います。
2018.10.21
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「がん検診強迫神経症」というのがあるそうだ。今やがんは2人に1人がかかる病気である。1年に1回のがん検診では、見落とすことがあると言われている。特に膵臓癌などは発見された時はもう手遅れという場合がある。そのために、自分ががんでないことを確認するため人間ドックに行って、血液検査、バリウム検査、胃カメラ検査など、 1年に2回3回と繰り返す人がいる。健康体であることを確認しようと、人間ドックで検診を繰り返しているうちに、異常がたまたま発見される、といったことがよくあります。精密検査に回され、最終的には特に手当てをする必要はないなどといわれます。また半年後に検査に来て下さいなどと言われ、ひとまず安堵するといったことを繰り返しているうちに、検診癖にはまり込んで、そこから抜けだすことのできなくなった人が数多くおられるようです。それが、ある段階までくると、愚行とは知りつつも、検査を繰り返さないと、どうにも安心できないという心理が固着してしまうのです。こうなると、もう強迫神経症です。不安が不安を招き、精神交互作用によってどんどん増悪して、ガンの不安・恐怖で振り回されるようになるのです。「健康さえ手に入れば、命なんかほしくない」と言うような、本末転倒状態に陥っているのです。このようながん検診を繰り返しているとどうなるのか。まず検査による被曝が問題になります。イギリスで行われた実験によると、全てのがんのうち、 0.6%から1.8%が、レントゲン検査の被曝によってひき起こされているという。胃のバリウム検査の被曝量は、 単純エックス線撮影の場合の6倍以上です。CTスキャンは、レントゲン線の細いビームを照射し、身体を通過する線量を測定して、コンピューターで映像化するものですが、この線量による被曝は一段と大きいということです。日本のCTスキャンの保有台数は世界最高です。普通日本人は年に1回はこれらの検査を受けています。これを毎年受けることだけでも被曝量は相当なものです。がん検診強迫神経症の人は、これらの検査を年に何回も受けるわけですから、健康な細胞が数多く傷つけられる事は明白です。次に、がん検診強迫神経症の人は、がんに対して神経が過敏になります。サプリメントや民間療法などにも手を出すようになります。あるいは宗教にすがるような人も出てきます。寝ても覚めてもがんに振り回されるようになると、精神的に追い詰められてしまいます。また、実生活のほうに目が向かなくなり、生活が後退していきます。これは私たちが神経症で苦しんでた過程と同じことです。がんにならないように、心配する事はとても大事なことです。しかし、それが高じてがん検診強迫神経症になることは避けなければありません。そのためには、年に1回の検診は必ず受ける。それで大きな問題がなければ、疑心暗鬼に陥っても、日常生活や仕事、趣味などのほうに目を向けて生活を充実させるほうに目を向けていく。気が付いたらがん恐怖のことは忘れていたという方向に向かうことが大切です。森田療法理論が勧めているとおりだと思います。(死生観の時代 渡辺利夫 海竜社参照)
2018.10.20
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老子の「無為自然」という考え方は、森田理論の「自然に服従」の考えに近い。普通「無為」は、 「無為無策」という言葉があるように、目の前の課題や問題点に対して、放置したままにしている。「無為徒食」と言って、仕事をしないでぶらぶらしている人のことを非難する言葉として使われている。老子の「無為」はそのような意味で使われているのではない。エレン・エム・チェン氏は「老子の無為とは、そのものの内なるリズムに逆らわず、それとともになすことである」といっている。人は、ときには自分の命のリズムである「無のパワー」に任せたらいいのだ。すると、かえって事はスムーズにゆくよ、と老子は言うのだ。すなわち、無為とは、なまけるではなくて、余計な手出しや心配をするなということだ。日常の私たちには、絶えず余計なことをしすぎる。観念主導の生活態度である。森田理論では、現実、現状、事実にしっかりと足をついて、そこを基礎として出発することを勧めている。加島祥造氏は、「無為自然」の例として、次のような逸話を紹介されている。天竜川に流れの速いところがあって、ここででカヌーの競技大会が行われている。ある父親と息子が参加していた。父親が先に競技をした。コースの難所にさしかかり、父親は普段の腕前を見せてやろうと思って、あれこれとさおさばきをしてしていた。ところが、意外にも思い通りに操ることができなくて、転覆してしまった。その後、経験の浅い息子が挑戦した。父親はとてもあの難所は乗り越えるられないだろうと思っていた。しかし、実際には、息子のカヌーはすーっと難所の流れを乗り切ってしまった。父親は、息子がどうしてそんな高等テクニックを身につけたのか聞いてみた。すると息子は、 「あそこに来たら恐ろしかったから、何もしないでいた」と言った。海で溺れる人は、足が底につかなくなると慌ててバタバタと手足を動かす。すると顔が沈んで息ができなくなる。すると死の恐怖でいっぱいになり、さらにバタバタと力一杯体を動かす。このままの状態が続けば大変危険だ。こんな時は力を抜いて、顔を上に向けて、波に揺られながら呼吸を確保してじっとしておく。そうすれば決して沈むこともない。人間の身体はじっとしていれば海では浮かぶのだ。鉄の塊である重い舟が浮かぶのと同じことだ。エネルギーの消耗がないので助かる確率が高い。近くに人が来れば、助けを求めればよい。この場合も、自分から動き出さないで、自然の動きに波長を合わせるということが大事なのである。ワンクリック詐欺にかかる人は、驚いてすぐに先方に連絡してしまう。すると自分のメールアドレスが相手に知られてしまう。それが詐欺師にとっては思うつぼなのである。執拗に追っかけまわされる。こんな時は、相手に連絡しないで、警察や消費生活センターに連絡をすればいいのだ。何とかしようと自分一人で慌てふためいてバタバタと動き回るのがよくない。不安や恐怖、不快な感情などは、台風などと同じ自然現象である。それらの対処法は、森田理論学習で学んだ。それらの感情は一山登りきるまでは手出し無用である。普通は登りきるまでに、気になる感情をなくそうとして、様々なやり繰りをする。そのやり繰りが裏目に出て、 不安などの感情は治まるどころかどんどん膨れ上がってくるのである。森田理論を学習している人は、客観的に見ることができる。不快な感情は一山登りきってしまえば、次第に沈静化してくるのが自然の摂理である。だから、不安や恐怖でいっぱいになっても、そんな時は我慢して耐えるのが定石なのだ。この考え方は、老子のいう「無為自然」の考え方と同じだと思う。
2018.10.19
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男の子の興味や関心は、狭くて深いという傾向があるそうです。車や恐竜展、アニメなど、自分が好きになったものの世界にグッと入り込む、その集中力やパワーは強力です。会話といえば、その話ばかりです。初めて会った人にも、いきなり恐竜や電車など好きなものの話を始めます。お母さんは慌てて話を逸したり、叱ったりして、なんとか止めさせようとします。しかし、無理やり止めさせると怒ったり暴れたりして大変です。お母さんにすれば、 「もういい加減にして」 「もっと勉強して」という気持ちなのでしょう。「否定はしないけれど、もう少し他のことにも興味を持ってほしい。視野を広げてほしい」という気持ちもあります。それなら、夢中になっているもの取り上げるのではなく、そこから子供の世界をもっと広げてあげるようにしたらどうでしょうか。たとえば恐竜に夢中なら、多くの恐竜の化石が発掘されている福井県に連れて行ってあげる。恐竜博物館や無料で化石掘りが出来るスペースがあります。とても喜ぶはずです。そこから歴史に興味を持つかもしれません。福井県にどうやっていくのかを、地図や時刻表で調べたり、恐竜の生態を調べたりするうちに、地理や生物の基礎を自然と学ぶでしょう。別のものに置き換えるのではなく、その子が好きなことをどんどん深堀して行く。人間、好きなものに対するパワーを存分に発揮する時が一番伸びます。なかには専門家になる子がいるかもしれません。みんながみんな、そのまま行くわけではありませんが、ひとつのものに全力で向かっていく情熱や集中力という能力は残ります。それがまた違うものに対して発揮できればいいのです。親たちはよく「広く浅く、いろんなことにチャレンジしてほしい」と言います。僕はちょっと違うんじゃないかと思います。とことんいってみる方が絶対に面白いですよ。そして例えば親も一緒に化石を掘ってみたらいいんじゃないでしょうか。(男の子の自立を決めるお母さんの叱り方 小﨑恭弘 48ページより引用)森田理論で、子供に親の「かくあるべし」を押し付けてはいけないと学びました。ましてや子供の興味や関心の目を潰すようなことがあってはなりません。ではどうするのか。まず子供の現状を親の価値判断なしに把握するようにする。子供をよく観察して、子供の興味や関心をつかむ。そういう子供に寄り添って、少し距離を置いて、子供を見守っていく。できれば、子供の興味や関心を少しだけ刺激してみる。ここにあげた話は、その時のやり方の一例です。親が子供に無理やり押し付けることがあってはいけませんが、刺激して子供の興味や関心がさらに高まり、意欲ややる気が出てくる事は、親としても嬉しい事なのではないでしょうか。寄り添うだけではなく、子供の目線を一方、上に上げさせるように親が刺激を与え続けることが大切だと思います。
2018.10.18
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田舎の寺の住職さんが、ある働きざかりの男性がネットに投稿した話を紹介してくれました。その男性は小学校5年生の時、すぐ近所に住む女の子と同じクラスだったそうです。しかし、彼女は病気で学校を欠席しがちで、たまたま学校へ登校してもすぐに早退してしまったそうです。勉強が嫌いな彼は、彼女が羨ましかったそうです。「あの子だけは特別扱いされている。いいな」彼はその子と家が近くなので、彼女が欠席したときは、連絡帳を彼女の家に持っていき、そして朝は彼女の家に立ち寄って連絡帳を受け取り、担任の先生に渡す役割がありました。そんなある日、彼は連絡帳に何が書いてあるのか、興味本位でこっそり開いて読んだそうです。そこには女の子の華奢な子で、こう書いてありました。「今日もずっと家で寝ていました。早く学校行きたいです。今日は窓際から女の子たちの笑い声が聞こえてきました。学校行けば私も輪に入れるのかな・ ・ ・ ・ ・ 」彼はショックを受けたそうです。学校へ行かないのは楽なことだと思っていたからです。これを読んで、逆に彼は毎日学校へ行けることが申し訳なくなったそうです。そこで彼はその連絡帳に自分も書き込んだそうです。「いつまでも待っているからな。体が良くなったら遊ぼうな」そして次の日の朝、女の子の家に連絡帳を取りに行ったら、お母さんに言われたそうです。「もう連絡帳は必要なくなったの」小学校5年生なので、その意味することが彼にも分かりました。女の子の突然の死に、彼の目からポロポロと涙が止まらなくなりました。すると、お母さんは、 「せめてあなただけでも、娘のことを覚えていてね」と言って、その連絡帳を彼にくれたそうです。それから時が流れ、今彼は30代の働き盛りですが、その連絡帳は宝物だそうです。人生行き詰まって絶望の時も、死んでしまおうと投げやりになったときにも、その連絡帳を読んだそうです。そこには亡くなる直前に書かれた彼女の返事が書いてあります。「ありがとう、いつかきっと、遊ぼうね」 考えてみれば、小さい時に不治の病に襲われた人。大きな障害をもって生まれた人。戦争の真っ只中で命を落とした人、地震などの自然災害で亡くなった人もいます。過保護、放任、虐待を受けて育った人。理不尽な仕打ちを受けて、生きることに絶望し、投げやりな気分になることはよくあります。そんな時、 「こんな人生なら死んだ方がマシだ」と、生き続けることに、早々と見切りをつけてしまう人もいます。そんなときには、無念の死を迎えざるを得なかった人、この女の子のように、病気を治して再起したかったという人のことに思いを馳せる事は大切だと思います。理不尽な仕打ちによって、自分の願いは無残にふみにじられてしまったのです。私達はいろいろと不安や恐怖はありますが、そういう人の願いを踏まえて、生き尽くすことが大切なのではないでしょうか。幸いなことに、神経症的な不安や恐怖は、森田正馬先生が森田療法理論によって、その乗り越え方を明確に残してくださいました。これに頼ることがいい結果をもたらしてくれるはずです。神経症のとらわれから抜け出した後は、森田療法理論の学習と実践が必要だと思います。
2018.10.17
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ある女性の人が会社で必要な資格試験の勉強を始めました。子供を学校に送り出した後、出社するまでの間に少しの時間がありました。キッチンタイマーをセットして20分ほど学習の時間にあてたのです。13歳になる娘が、彼女の行動に興味を持ちました。するとある日、彼女が使うキッチンタイマーが、彼女はセットしていない時間にセットされています。聞いてみると、娘は、お母さんはキッチンタイマーを使って集中してやっているのを見て、自分もやってみようと思い、 45分に設定して勉強をしてみたとの事。別に、娘に見せようと始めたことではありませんでしたが、意外にも娘は母親を見ていたようです。彼女は、自分のやっていることが子供に及ぼす影響に気づきました。自分のテーマに取り組んでいただけなのですが、その姿を見た子供が、やる気を出して自分の取り組むべきことに取り組んでいる。 「私のやる気と一緒に、子供のやる気もいっそう上がったようです」と彼女は笑顔で語りました。人間はモデルから学びます。子供の話し方が、親そっくりだと思う事はありませんか。親が話す仕草などを見て、いつの間にか親をモデルにして、それと同じように振る舞うのです。特に、親子の関係が良好な場合は、その影響は強いようです。大好きなお父さんやお母さんがやっているのを見て、無意識に子供が真似ているのです。親子の関係を良好に保ち、親が日々の生活の中でやる気を見せることで、その姿を見て子供は、自分の生活においてもやる気を発揮します。親の後姿は、 「がんばれ」 「もっと勉強しろ」などのどんな言葉よりも、強力に、しかも自然に子供の後押しをしてくれるようになるのです。(子供のやる気のコーチング 菅原裕子 PHP研究所 193頁より要旨引用)私の体験では、親が本を読むことが好きだと子供も本好きになります。親がガニ股気味に歩いていると、子供もガニ股で歩くようになります。こんなことは似てほしくないのですが、自然に真似ているんですね。興味や関心のあることに積極的に手を出していると、子供も好奇心旺盛で意欲的になります。森田理論を生涯学習として取り組み、生の欲望の発揮、事実本位の生き方を子供に見せることは、子供も素晴らしい生き方を身につけるようになると思われます。如何でしょうか。
2018.10.16
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ある人の子供さんは、小さい時から運動能力が高く、小学校に入学する頃に、親の影響で剣道を始めたそうです。その成長には目を見張るものがあり、子供はどんどん強くなっていきました。子供は強くなるにつれ、親は子供以上に子どもの剣道にのめり込んだそうです。どんな協力も惜しまず、もっと強くなることを求め、親は夢中だったそうです。そんななか、どんな試合でも勝ち進んでいた子供に、 1つの成長のピークがきました。思うように伸びなくなってきたのです。誰にでもある試練の時です。親は子供を叱咤激励しました。すると子供は、親のために剣道をやるのはイヤだと、さっさとやめてしまったのです。周りからは、せっかくの才能がもったいないと説得を受けたようですが、厳しい練習に耐えるだけのやる気はないと言ったそうです。やる気を横取りされて、努力だけを求められる子供は、自分がやりたくてやっているものさえ、まるで親の為にやっていることになってしまいます。自分が好きで始めたことを横取りされた状態です。自立への欲求は満たされません。自立とは、自分の意志で選び、自分の意志で行動を起こすことです。親の意志でやらされていると感じると、やる気がなくなるのは当然かもしれません。(子どものやる気のコーチング 菅原裕子 php研究所 85頁より引用)同じ大きな目標を目指すにしても、子供が親に指示されて取り組むのでは、やる気が萎えてしまいます。子供自身が目標を立てて取り組もうということになると、俄然やる気がどんどん大きくなっていきます。子供にどんな大きな能力があろうとも、親が子供以上に舞い上がっては、子供にとってはマイナスの効果しかないということでしょう。これは子供が親に思うがままにコントロールされているという気持ちが出てくるからではないでしょうか。子供の意欲が高まって行く前に、親が子供に「かくあるべし」を押し付けているのです。「かくあるべし」を押し付けるという事は、現実を受け入れることができなくなるのです。現実や事実を批判し、否定するようになるのです。反対に、どんなに問題を抱えていても、現実を受け入れて認めてくれると、その人を信頼するようになります。安心して、目の前の課題に向かって努力できるようになります。親は、子供にどんな素晴らしい能力があっても、それに浮かれて、子供以上に舞い上がってはいけません。いつも子どもの現状に寄り添い、子供を側面からサポートするという態度を崩してはならないと思います。
2018.10.15
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金子みすゞさんの詩に次のようなものがあります。わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、とべる小鳥はわたしのように、地面をはやく走れない。わたしがからだをゆすってもきれいな音ではないけれど、あの鳴るすずはわたしのようにたくさんなうたは知らないよ。すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。(ほしとたんぽぽ JULA 出版局)金子みすゞさんは、森田理論の考え方をよく理解している人だと思います。人間に生まれるか、小鳥に生まれるか意思の自由はありません。人間は誰でも欠点や弱点があります。ミスや失敗も数多いです。男に生まれるか女に生まれるか。裕福な家に生まれるか、貧しい家に生まれるか。子育てに熱心な家に生まれるか。過保護や子供に無関心な家に生まれるか。文明の発達した国に生まれるか、ジャングルの山奥に生まれるか。戦国時代に生まれるか、江戸時代に生まれるか、太平洋戦争の時代に生まれるか。これらはどうにもならない事ですが、比較して、是非善悪の価値判断をするようになると、現実や現状を認めることができなくなってしまいます。すべてを否定的に見るようになります。自分を否定し、他人を軽蔑するようになると、生きることが苦痛になってしまいます。森田理論では、過去や未来にこだわるのではなく、今現在に足場をしっかりと固めて、そこを出発点として上を目指して生きていく考え方です。ありのままの自分を認めて、事実本位の生き方が一番安楽な生き方です。そんなことを金子みすゞさんは教えてくれました。
2018.10.14
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私は森田理論学習を30年以上続けてきた。以前と比べてどのような変化があったかまとめてみた。1 、体がよく動くようになった。迅速な行動ができるようになった。興味や関心、好奇心のあるものには、できるだけ手を出せるようになった。2 、他人と交流することが楽しみになった。時と場合に応じて、広く浅く、どんどん付き合う人が拡がってきた。3 、事実本位の生き方が身に付いてきた。最初に浮かんだ素直な感情から出発すること、私メッセージの応用、他人と意見の相違があるときは話し合って調整することなどが生活習慣となった。 「かくあるべし」と現実のギャップで苦しむことが少なくなった。4 、小さな日常茶飯事を丁寧に行うことができるようになった。凡事徹底の実践ができるようになった。5 、目的本位の行動ができるようになった。夢や目標が持てるようになった。森田理論学習を継続し、森田理論を生涯にわたって深めること。老人ホームの慰問活動を続けていくこと。6 、世の中の出来事、その他様々な問題に対して、森田療法理論を使って、よく分析できるようになった。自己内省力がプラスに発揮できるようになった。人間の生き方、人間関係、子育て、政治問題、資本主義の問題点、社会の在り方、自然との共生、環境問題などである。7 、対人恐怖症の苦しみはあるが、悩みはほぼなくなった。人の思惑が気になるという性格は、他人を思いやる性格として捉え直し、プラスに生かすことができるようになった。対人恐怖はなくならないが、それにいつまでも振り回されることがない。8 、森田療法理論学習は、神経質性格を持った人にとって、生き方の指針となるものであることが分かった。この指針なしで、人生を乗り切ることは、GPSや羅針盤を持たずに、太平洋の荒波に飛び込むようなものであるという考えに至った。森田理論でどうしても身に付けることはできなかったものは、人を統率し、リーダーシップのとれる人間になることだった。これはそういう特性を持った人に譲るしかないようだ。神経質性格を持った人は、NO.2の立場に立った時、その能力をいかんなく発揮できるような気がする。神経質性格のよい点を評価して、いかんなく発揮して生きていくことがより重要であると思う。
2018.10.13
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子供が家で宿題をやっていると、どうしてもわからなくなるところがあります。そんな時「もう勉強するの嫌だ。遊びたい」などと言います。これは嫌だという気分に流されているのです。子供にありがちなことです。いつもこういう態度では、辛抱して耐えて頑張るという習慣を身につける事は出来ません。こんな場合、親はどんな対応をしているでしょうか。「だめだよ。できるまで頑張りなさい。簡単にあきらめてはいけません。取り残されてしまいますよ」などとハッパをかけているのではないでしょうか。森田理論でいう「かくあるべし」の押し付けです。これではますます子供は勉強に対する意欲をなくしてしまいます。こんな時、まずイヤだという子供の気持ちを汲んでやることが大切だと思います。わからないからやりたくないという気持ちを受け入れてあげるのです。決して子供を非難したり、叱責してはなりません。そして次のように聞いてみましょう。「分からないからもうやめてしまうのと、分かってできるようになるのかとどっちがいいと思う」ほとんどの子どもは、 「それはわかるようになったほうがいい」と答えるでしょう。つまり子供は、自分1人では乗り越えられないような問題に出会ったときに、すぐに諦めてしまうという面もありますが、また一方では、なんとか問題や課題を乗り越えたいという情熱も持っているということなのです。そういう相反する二つの気持ちのせめぎあいの中で生きているのです。人間は放っておけば、苦しい事は避けたい、楽をしたいという気持ちに流されてしまいます。子育てをしている親が、子供のそういう気持ちに同調するようでは、教育にはなりません。苦しい事は避けたいという気持ちは汲んでやる必要はありますが、 「嫌な事はやらない」という気持ちは、親としては受け入れてはならないと思います。気分本位な態度を助長するからです。子供自身も、本心で望んでいることではないと思います。忍耐力のない大人になったとき、親を逆恨みするようになるかもしれません。子供自身はできないことができるようになり、自信をつけて成長していきたいと考えているのと思うのです。ここで必要なのは、子供が簡単に気分本位に流されないようにすることです。そのためには、どうしたら勉強に取り組んでいけるのか、親が子供と一緒になって考えてみることです。例えば、1人では難しければ、親も一緒になって取り組んでみる。親が解いてみて、子供にやり方を教える。問題自体が難しければ、もっと易しい問題を出してみる。他の宿題などをして、気分転換を図ってみる。などなど。山本五十六の言葉に、「やってみせ、やらせて見せて、ほめてやらねば人は動かず」と言う言葉がありますが、子供がくじけそうになった時は、親が松葉杖となって、子供をサポートしてやるという気持ちが大切なのではないでしょうか。これは森田理論で言うと、子供に「かくあるべし」を押し付けずに、子供の現状に寄り添い、そこから一歩上の目標を目指していけるように、親が子供を援助していくということなのです。森田理論の事実本位の生き方は、子供のしつけや教育にとても役に立つ考え方なのです。
2018.10.12
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私は森田理論学習を続けている人にオススメしたいことがある。それは俳句や川柳、ユーモア小話、ダジャレ、カラオケ、替え歌、 一人一芸に取り組むことである。生活の発見誌では川柳の募集が始まった。私は毎年応募している。1年を通じてネタを探している。注意や意識が内向きから外向きになるのがよい。今年は次のような川柳を作った。半端ない 森田理論は 半端ないおめでたや 森田誕生 100年目柿食えば 梨も食べたい 里の秋新年会 一人一芸 花盛り発見会 発明展と 誤解受け抗ガン剤 飲んでないのに 髪がない不快感 放っておけと 無茶を言うユーモア小話作りも楽しい。すぐに思いつかない人は、収集から始めるとよい。昨日服用した「ハッキリA」は、いまいち効果がなかったので、今日は新しく「スッキリS錠」を試してみた。しかし、「 パッチリM 」に比べると、パンチが弱いので、 「シャッキリ」と混ぜて飲んだら少し効いた気がした。口あたりから言うと、「シッチャカ」と「メッチャカ」あたりが好みだか、かみしめたときの「プッツンAM錠」などは、ほのかな甘みが口の中に広がるので好感が持てる。これは、以前に生活の発見誌で紹介されたものだが、こんなユーモア小話をたくさん収集していると、症状が出たときに気分転換を図ることができる。私はおかげで自分で作ったものと合わせて、 A4サイズで100ページぐらい持っている。時々取り出して見ているが、すぐに笑いで一杯になる。集談会で症状に陥っている人で、極端に顔つきが暗くなっている人がいる。そういう人は是非とも、ユーモア小話の収集から始めてみることをお勧めしたい。ユーモア小話を作るという目標を持つと、ネタを求めて自然に周囲をよく観察するようになる。みんなの前で発表すると、その場をなごやかにすることができる。次にカラオケや替え歌作りである。カラオケは仲間と一緒に大声を出すことができる。大声を出すというのが気分転換になる。音痴だと思っている人は、 YouTubeに合わせて練習をするとよい。その際、録画機を使って録音して後で聞いてみる。これだったら皆の前で歌えるという曲を1曲か2曲選んで練習しておく。そういう準備をして、カラオケの当日は朝から発声練習をしておく。そうすれば、なんとかカラオケを楽しむことができる。みんなと一緒にカラオケを楽しめるようになる。カラオケに行くと上手な人がいる。その人の歌声を聞いているだけでも心が癒される。替え歌作りも楽しいものである。替え歌は作ったら、模造紙に書いて懇親会などの場で披露する。そしてみんなで大合唱するのだ。みんなで楽しむことができる。一人一芸を身につけると、懇親会などの飲み会では重宝される。さらに、老人ホームや町内会などの慰問活動をするようになれば、それが生きがいにつながる。人脈も広がり、毎日忘れないように練習するので、生きる目標が持てるようになるのだ。現在、サックス、腹話術、高知のしばてん踊り、どじょう掬いはほぼ毎日練習している。神経症で苦しんでいる時に、川柳や俳句、ユーモア小話、カラオケや替え歌作り、一人一芸が神経症克服に役立つということを思い出してほしい。
2018.10.11
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作家の故遠藤周作さんは、次のように書いています。「小学校も中学も不成績で、周囲の者や親戚の人たちから馬鹿にされるばかりか、学校の先生からも馬鹿あつかいを受けて、自分でも俺は本当に馬鹿ではないかという劣等感に悩まされた。そうしたときに、母は、 「お前には1つだけいいところがある。それは、文章を書いたり、話をするのが上手だから、小説家になったらいい」と、言ってくれた。とにかく、算術はからっきし出来ないし、他の教科も散々だったが、小説というのか童話と言うのか、そんなものを書いて母に見せると褒めてくれるので、それを真に受けて、大きくなったら小説家になろうという気持ちを、その頃から持つようになったのだが、 (略)もし、その当時、母が他の人たちと一緒になって、私を叱ったり馬鹿にしていたら、私と言う人間はきっとグレてしまって、現在どうなっていたか分からないという気がする。母は私の1点だけを認めて褒め、今は他の人たちはお前のこと馬鹿にしているけれど、やがては自分の好きなことで、人生に立ち向かえるだろうと言ってくれたことが、私にとっては強い頼りとなったといえる。実際、小説家となった今日、あの母はいなかったら、小説家にならなかったに違いないと思う」 (本当の私を求めて 遠藤周作 海竜社)遠藤周作さんは、勉強ができなかったようです。普通の教育ママなら勉強ができない子供を叱責するのではないでしょうか。そして最後には、あきらめて子供を放り投げてしまうのではないでしょうか。遠藤周作さんのお母さんは素晴らしい対応をされたと思います。どんなに勉強やスポーツができなくても、かけがえのない子供として、絶えず身近なところにいて見守る。子供の存在を認める。そして子供の可能性、興味や関心のあるものを見つけ出す。そこを評価し、褒めて意識付けをする。様々な経験を積ませる。遠藤周作さんは母親の励ましによって、自暴自棄にならず、小説家として自立することができたのです。私たちも、上から下目線で子供を価値評価するのではなく、子どもの現状に常に寄り添って、もともと備わっているものを見極めながら、子ども自身が人生を切り開くために協力したいものです。考えてみれば、これが森田の事実本位を子育てに活かすということだと思います。 「かくあるべし」を前面に押し出す人は、とてもこのような子育ては出来ないと思われます。
2018.10.10
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(読み方)心は万境にしたがって転ず。転ずる処、実によく幽なり。流れにしたがって、性を認得すれば、喜も無くまた憂いも無し。 (臨済録)(森田先生の解説)私どもの日常は、自分の腹加減や頭の具合でも、天気でも、周囲の事情でもたえず変化して、まったく諸行無常であります。けっして時間割や型や主義にあてはまるものでないということを知らなければなりません。そして型や悪智を去って、白紙のような自然の心のままになるときには、「心は万境に随って転ず」というふうに、周囲の変化にしたがって自然の感じが起こり、自然の理知の調節があって、それぞれその人の最善の能率が発揮されるようになることは、ほとんど不思議といってよいくらいであります。「転ずるところ実に能く幽なり」というこの「幽」が、すなわち「不思議」という事であります。そこで初めて、学者でも事業家でも、いたずらに古人の真似をするのではなく、すべてが独創的になるのであります。(神経質問答 白揚社 167ページより引用)「かくあるべし」という理想主義、完全主義をできるだけ少なくしていく。どんなに受け入れがたい不快な感情、出来事であっても、基本的には、その感情の事実を「あるがまま」に受け入れていく。なにしろ感情そのものは、台風や地震と同じ自然現象なのだから。そして、不快な感情や恐怖を抱えたまま、あるいは持ちこたえながら、注意や意識を生活のほうに振り向けて、日々の日常生活に精一杯取り組んでいく。森田理論が目指している生き方は、こんなところにあります。
2018.10.09
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家のベランダにやってきたバッタ(?)です。5センチくらいな小さな虫でした。よく見ると、顔は人間のような顔をしています。なんといってもバランスのよさを感じました。早速スケッチをして楽しみました。こんなささやかな楽しみを日々たくさん見つけながら生活したいと思っています。これも森田学習のおかげかな?
2018.10.08
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子供がボール投げをしていて、ガラスを割った。こんな場合、あなたならどんな言い方をするだろうか。「どうしてガラス割ったんだ。そばにいたのは、君だけだというじゃないか。誰かに割れたガラスがあたったら大けがをするだろう。ガラスは高いんだぞ。いったいどうするつもりなんだ」などと怒鳴り散らすのではないだろうか。「普段お前の素行は近所の人から苦情が出ているんだぞ。もう二度としないと約束しろ」などと子供の人格を否定するようなことも言うかもしれない。それは自分の不快な感情を解放しないと、腹立たしい気持ちが収まらないように思うからある。これでは、ショッピングセンターに行って、欲しいものがあって駄々をこねる子供とほとんど変わらない。 こういうときこそ、森田理論を活用したいものである。森田理論は、「ガラスが割れた」という事実に焦点を当てる。すぐにガラスを割った犯人を見つけて、叱責し責任を追及することはしない。言い方としては、 「ガラスを割ったのはお前だろ。親に弁償してもらうからな」とは言わない。「ガラスが割れた。粉々になった。後片付けが大変だ。君もびっくりしたろう。けがはなかったか」「どんな投げ方をしていたんだ。変化球でも練習していたのか。手が滑ったのか。もともとコントロールが悪いのか」これを見ると、子供を叱責していない。ましてや子供の人格を否定していない。ここでの言い方のポイントは、「ガラスが割れた」という事実に注目していることである。「ガラスを割った」ではなく、 「ガラスが割れた」という言い方である。「を」と「が」の違いだが、その後の展開を大きく左右する。「ガラスを割った」と言うのは、子供に罪を認めさせ、罪をつぐなわせるという目的がある。もはやガラスが割れたというところに注意は向いていない。責任を負わせることで、 1件落着に持ち込もうとしているのである。不快感を払しょくして、多額の損害賠償をさせてやろうという魂胆がみえみえである。そんな言い方をすると、子供もつい反発したくなる。 「そんなこと言うのなら、窓ガラスが割れないように防護壁を作ったらいいじゃないか」 「公園の近くに住んでいる人は、植木を植えて被害がないように気を付けているじゃないか」そしてついに喧嘩になり、双方とも後味の悪い思いをする。そんな噂が子供の間に広がり、今度は隠れてゴソゴソと嫌がらせをされるようになる。犯人が見つからないので、大人の方がノイローゼ気味になる。負の連鎖が続くのだ。「ガラスが割れた」という言い方は、その後どういう展開を見せるだろうか。「ガラスが割れた。粉々になった。後片付けが大変だ」と言うと、子供は我に返り、 「ごめんなさい。すみません」と謝るのではなかろう。 「僕にできることならなんでもします」と言って後片付けを手伝おうとするのではないだろうか。「それは、ありがとう。でも、ガラスの破片で手を切ったりするといけないから、おじさんの指示するようにやってね」まず大きな破片を取り除く。次に小さな破片に移る。その時は手袋をはめさせ、新聞紙を濡らして小さく切ってそこら中に撒く。ほうきを使って、ちりとりに入れる。その後は丁寧に掃除機をかける。子供と一緒になって処理をすれば、子供もガラスが割れた時の処理のノウハウを経験できる。そういう子供は家に帰って親に事の顛末を話し、親と一緒にお詫びに来る。こういう展開になるのは、 「ガラスが割れた」という事実に注目しているからである。物事本位になっているのだ。子供は「しまった、どうしよう」と思っているのである。そう思っているのに、すぐに叱責すると、人格否定をされたように思い、反発心が出てくるのである。事実を事実のままに認めると、そこを出発点にして、現状復帰するにはどうしたらよいのかを考えるようになる。決して安易に自己否定や他人否定の方向に向かわないのである。事実を素直な気持ちで受け入れることによって、良い方向に向かうのなら、取り組んでみる価値はあると思いますがいかがでしょうか。
2018.10.08
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先日、読売ジャイアンツに内海投手がいるが、、その人のことを「うちうみ」投手という人がいた。思わず苦笑した。人のことを笑ってはおられない。私も熊本県の「不知火海」のことを「ふちびかい」と思っていたのだ。「兎に角」(とにかく)というのを、長い間「うさぎのつの」だと思っていた。どうも意味不明だと思っていた。分かったときは顔から火が出る思いだった。こういう間違いはよくある。鬼島くんのことを「おにしまくん」、五木村のことを「ごきむら」、お洒落のことを「おさけおとし」、月極のことを「ゲッキョク」、封建的を「ふうけんてき」などである。ドラえもんでは、のび太は「地平線」のことを、 「ちだいらせん」という鉄道の路線名だと思っていた。のび太は、 「チダイラ線というのはどこを走っている電車か」とママに聞きました。それを聞いたのび太のママは、 「情けない。あんた何年生になったの。もう4年生なのよ。ちゃんと勉強してないからこんなことになるのよ」と怒っています。これではのび太は卑屈になるばかりです。それに対してパパは、 「そういえば、どっちを向いても家の屋根ばっかり。この辺で地平線の見えるところはないな」と言いました。パパの言葉に刺激されて、のび太の探究心が目を覚ましました。早速ドラえもんに頼んで魔法の地平線を出してもらいます。「天と地との境目、あれが地平線だ」とドラえもんはのび太に説明します。早速、のび太は、ジャイアンやしずかちゃん、スネ夫まで呼んで、地平線を見るだけでなく、一緒に体験して実感しています。素晴らしい展開です。確かに常識的なことを勘違いしている人を見ると、その人のことを馬鹿にしたり軽蔑するようなことがあります。自分では、穴の中に隠れたいような、恥ずかしい思いをします。これは森田理論で言うと、現実や事実を否定することにつながります。批判や否定をすると、自分自身が惨めになるだけでなく、人からそのような事をされると反発するようになります。自分の存在や人格を否定されるので当然のことです。現実はどうすることもできないのに、それを受け入れないから葛藤や苦しみが出てくるのです。森田理論で言う思想の矛盾に陥っているのです。反対に、失敗やミスの事実をそのままに認めてしまうと、そこを出発点として展望が開けてきます。この場合で言うと、地平線に興味や関心が出てきて、実際に確かめてみようという気持ちになるのです。気持ちは外向きになってどんどん発展してゆくのです。それに比べ、自分の常識のなさを嘆き、自分や自分を育てた親を憎むということになると、すぐに閉塞状況に追い込まれます。そういうことを繰り返していると、雲泥の差となって表面化していくのです。 ここでは、事実にしっかりと足をついて、そこを出発点とする態度がとても大切だということがわかります。
2018.10.07
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カーネギーの「人を動かす」(創元社)には、森田理論を深めていくヒントが紹介されている。他人の欠点を指摘して修正してやろうという態度は、確かに立派であり、賞賛に値する。しかし、人を非難したり否定したりすると、ちょうど天に向かって唾をするようなもので、必ず我が身に帰ってくる。人の過ちを直したい、人をやっつけたりすると、結局、相手は逆にこちらをうらんで反撃してくる。およそ人を扱おう場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということを心得ていなければならない。人を非難することは、いわば危険な火花である。その火花は自尊心という火薬庫の爆発を誘発しやすい。人を批評したり、非難したり、小言を行ったりすることは、どんな馬鹿者でもできる。そして、馬鹿者にかぎってそれをしたがるものだ。理解とか寛容は、優れた品性と克己心をそなえた人にしてはじめて持ちうる徳である。人を非難するかわりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったのか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また面白くもある。そうすれば、同情、寛容、好意もおのずと生まれ出てくる。英国の偉大な文学者ドクター・ジョンソンの言によると、 「神様でさえ、人を裁くには、その人の死後までお待ちになる」まして、我々が、それまで待てないはずがない。私たちは、自分の価値観に従って、常に相手の是非善悪の評価している。自分の価値観に合わないものは、情け容赦なく批判、否定する。自分のしゃべっていることが論理的に正しいのであるから、相手は自分に合わせるべきであると思っているのである。自分が相手より上の立場に立って、相手を自分の思い通りに支配しようとしているのである。こんなことをすれば、相手から嫌われ、人間関係に亀裂を生じさせることが誰の目にも明らかである。こんな人はどうすればよいのか。森田理論を学習した人はすぐにわかる。まず、自分の価値判断は絶対的なものではない。時代とともに変化してくることもある。その時に感じたことは、事実ではあるが、それを安易に口に出す事は真っ先にやる事ではない。そんなことをすると、その後の展開が最悪の結果につながりやすい。真っ先にやるべき事は、相手の言い分をよく聞くことである。口を挟む前に、相手からその時の状況を説明してもらうのである。次にすることは、仮に間違っていると感じても、相手の言い分を価値判断しないで認めてあげることである。カーネギーは、 「盗人にも五分の理を認める」といっている。犯罪者は、どんなに大きな犯罪を犯しても、自分を正当化する言い訳をするそうだ。ましてや、普通に生活をしている人は、何か問題が起きても、なかなか素直には過ちを認めることはできないのだ。そんな時に、すぐに叱責しても、過ちを認めるどころか、その相手を逆恨みするのが普通である。森田理論は、 「かくあるべし」を押し付ける態度が、人間関係が悪化する原因だと見ている。何か問題が起きたとき、相手の立場に立って、事実を嘘偽りなく把握しようとする態度が欠かせないのである。相手の話を傾聴する。受容と共感の態度で相手に接する。事実を出発点として、問題点や課題に立ち向かっていく。他人に是非善悪の価値観を押し付けている人は、実は自分自身に対しても折り合いがつけられない人である。自分の確固たる価値観から見れば、現実の頼りない自分は決して受け入れることができないのである。人前では、自分を擁護しているが、他人から見れば自己中心的な人だと相手にされなくなるのだ。どんなに幼稚で頼りない自分であっても、 「かくあるべし」を前面に押し出して自分を否定しない。そういう葛藤とは無縁な状態で、現実の自分を出発点にして、自分のできることになんとか取り組んでいる。そういうふうに自分の中で折り合いが付けられる人は、拡大すると他人との人間関係も折り合いが付けられる人なのである。他人といつも対立関係にある人は、まず自分の中で折り合いをつけることが先である。そうでないと、雑多な人間関係で自分が苦しむことになる。私たちは森田理論学習と実践によって、事実を出発点にして生きていく術を身につけようではありませんか。
2018.10.06
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営業開発という部署がある会社がある。名前だけを見ると夢のあるような部署に見える。これは、今まで取引がなかった会社に営業展開して、新たに顧客にする仕事である。営業をかける会社はすでに他の会社と取引をしており、その会社を顧客にするということは、他の会社との取り引を止めて、自分の会社と新たに取引を開始するということである。ライバル会社にしてみれば、元々あった得意先を奪われるということであり、熾烈な仕事になる。しかし、常に新規開拓をしていかないと、他の会社に得意先を奪われたり、何らかの事情で会社が消滅したりするので、自社もジリ貧になっていくのである。今まで取り引きがなかった会社に、営業をかけても断られることが多い。中には虫けらを扱うように追い出されることもある。自尊心をつ傷つけられるような冷たい対応をされる事は常につきまとう。対人恐怖症の人はとてもつらい仕事だ。悪い方に展開すると次のようになる。一度訪問しても、最初に断られると、見込み客のリストから外し、もう二度と訪問することはなくなる。見込み客の名簿を渡されても、自分の頭の中でいろいろできない理由を考えて、訪問しないことにもなりかねない。実際に営業活動をしないで、頭の中でダメに決まっていると勝手に選別している。すると、見込み客が10件あっても、実際に訪問する先は2件か3件になってしまう。これで契約が成立すればよいのだが、失敗すればその日の実績はゼロになってしまう。営業活動は人が見ているわけではないので、仕事をさぼって休むようになることが多くなる。業績が上がらないので、上司から叱責をされ、同僚達から軽蔑の眼差しで見られるようになる。「さぼってはいけない」「どうしたら成果を上げることができるか」が循環理論になって苦しむことになる。そのうち「自分は何をやってもダメだ」「死んだ方がマシだ」などと投げやりなことを考えるようになる。反対に、こういう仕事を何年も続けて、成果を出している人はどういう人だろうか。1度目に断られても、日を変えてまた訪問している。会う人を変えて面談していることもある。営業に対する考えをしっかりと持っている。今までの数多い営業経験の中から、成約する確率を頭の中に想い描いている。例えば、自動車の新規営業活動では、100件のローラー作戦を展開すれば、例えば確率的に1件の成約に結びつくという希望を持っている。だからできるだけ多くの人に会って、営業し、失敗することが成約への近道だと確信しているのだ。冷たい断りは自尊心を傷つけられつらいけれども、 1件の成約を取るという目標を達成するためには、必ず通過しなければならない関所のようなものだと考えているのだ。だから、苦しいけれども、きちんと営業活動の計画を立て、仕事に邁進している。時間が足りなくなるぐらい営業を活動にあたっている。サボるということは考えられない。営業活動の中で失敗した数多くの経験は、どんどん蓄積されて、成功するための肥やしになっていく。そして営業能力がどんどん向上しているのである。さぼってばかりの人とは差が開いていく。そういう人は、心の中でライバルを持って果敢に戦いを挑んでいる。相手に勝ちたいという強い気持ちを持っている。相手の動向や営業手法を研究している。それが営業活動の困難を乗り越えるエネルギーとなっている。私たちの場合は、成功する確率は100%ないとやろうとしない。失敗する確率が10% 、 20%あると、絶対にうまくいかないとネガティブに考えてしまう。そう考えて営業活動をして、失敗をすると、「やっぱり考えていたとおりのことが起きた」と悲観的な思考を正当化して悪循環を招くのである。心の中には、失敗してエネルギーを消費するようなことはしたくない。やるからには、 100%成功するようなことだけを手掛けたい。失敗が予想されることに挑戦することは、人生の無駄や汚点を作ってしまうようなものだと考えている。この考え方は一見すると合理的な考え方のように見える。しかし、そこには、成功は数多くの失敗の積み重ねの上に成り立っているのだという考えがすっぽり抜け落ちている。最後に、成功の栄冠をつかむ人は、数多くの失敗の中にも、成功のイメージを最後まで持ち続け、諦めなかった人である。神経質性格の人は執着性が強いと言われている。執着性はプラスに活かすと素晴らしい果実を手に入れることができる。しかし、マイナスに作用していくと、坂道を転がる雪だるまのようにどんどん悪循環してくるのである。「失敗は成功の基」という意識をしっかりと持って、失敗を乗り越えて、いつかは目標を達成したいものである。
2018.10.05
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京都大学の本庶佑さんのノーベル医学生理学賞の受賞が決まりました。今まではがん治療といえば、手術、抗がん剤、放射線治療が中心であった。本庶さんは、免疫療法という4番目の方法を開発された。これによると、 一部のがん細胞は、免疫細胞の表面にあるタンパク質「PT1」に結合して、「僕は異物ではないよ」というウソのメッセージを免疫細胞に送り、免疫細胞の働きにブレーキをかけていたそうです。本庶さんは、このブレーキを解除することで、免疫細胞が効果的にがんを退治する薬を作り出した。2014年「オプジーボ」が承認されました。これは「免疫チェックポイント阻害剤」と呼ばれています。私はここで1つ疑問があります。今までの3大治療を受けていると、免疫力が低下してしまいます。がんを食いつぶすと言われるナチュラルキラー細胞などの免疫細胞の機能が少なからず失われているとするとどうなるのか。「オプジーボ」を投与しても、自然治癒力が働かなくなるのではないか。免疫細胞の機能が失われていると効果は薄いのではないかということです。ここで、岡山県倉敷市の伊丹仁朗医師が、開発された「生きがい療法」を組み合わせることで、免疫細胞が活性化し、よりがん治療の効果が高まるのではないか。生きがい療法は、森田療法理論をもとに開発された理論である。森田療法をガン治療に応用した例として高く評価されている。これによると、病気になっても病人にならない。これまで通り、生きがいをもって普通に生き、できる範囲で社会の役に立つ。病気に負けず、力の限り生き抜くとして、次の 5つの指針が示されている。1 、自分は自分の主治医のつもりで病気やこんなに対処する。2 、今日一日の生きる目標に打ち込む。3 、人のためになることを実行する。4 、不安・死の恐怖はそのままに、今できる最善を尽くす。5 、死を自然現象として理解し、もしもの場合の建設的準備をする。生きがい療法の会合では、ユーモアトレーニング、イメージトレーニング、体験学習などが行われている。また過去、がん患者が富士登山をしたり、ヨーロッパ最高峰モンブランに登ったり、オーロラの見学ツアーに参加されたりしている。がんという病気を抱えたまま、ユーモアを忘れず、目の前の日常茶飯事、課題や夢に向かって懸命に努力することで、免疫細胞が活性化し、それが自然治癒力を高めるのだと言われている。「絶対あきらめないガン治療・30の可能性」等多数の著作があります。伊丹先生の著作は、ネットで簡単に検索できるので、興味のあるものを読んでみることをお勧めしたい。
2018.10.04
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相田みつをさんの言葉に「遠くからみている」という言葉がある。知的発達障害の人々は、年老いた両親が支援していることが多い。一方で、両親ではなく、第三者が援助していいる場合もある。一般的には、第三者が応援している方が、成功していることが多い。若い障害者夫婦が両親と同居していると、最も破綻しやすい。両親がスープの冷めない距離より、少し離れたところから見守ることができている場合が、若い夫婦の生活は最も安定している。これは両親が障害者の子供に直接援助したり、口出しが出来ないからである。親子が離れて生活しているから、共依存に陥らないのである。この状態は、両親が過度な干渉を控えて「遠くからみている」ことになる。子供の自立を助けるというのは、そういうことであろう。しかし、遠くから見ていることができるのは、見ている人自身の自律や自立がしっかりしていなければならない。相手を信じられない人は、実は自分を信じることができないでいる。佐々木正美さんは、子供を育てると言う事は、遠くから見守ることと、信じて待っていることだと思っている。育児に失敗する親は、遠くから見ていられない親なんです。僕は育てる喜びと言う事は、「待つ喜びだ」と思います。自分の子供は挫折したり、迷ったとき、親としてどれだけ待ってあげるのかは、親の最大の役割だと思っています。待つ間、親は心配しない、悩まない、苛立たないために、夫婦で待っている何年間も豊かに会話をして、両親の世界をちゃんと持つ。子供に近づきすぎずに遠くから見ている。これは、 1人ではできないことです。その間(ま)を夫婦で持たせることが大切だと思います。もちろん子供を信じられなかったら待てないですね。(相田みつをいのちのことば 佐々木正美 小学館 38ページ、 98ページより引用)パラサイトシングルという言葉がある。幾つになっても、両親と同居して、親の経済的な援助を享受しながら独身生活を謳歌している人のことである。普通は動物でも自分で生活できるようになると、親元から離れていく。伴侶を探して、子供を産み、経済的にも精神的にも親から自立して生きていくようになる。親とはたまに連絡を取り合うだけの関係になっていく。いつまでも親と一緒に生活していると、子供のほうにどうしても甘えが出てしまう。親も子供がかわいいので、必要以上にできるだけのことをしてしまう。経済的な面だけではなく、精神的な面でもいろいろと口を出すようになる。子供が親の援助を受け続け、親が子供に過剰に援助することが生きがいになってくると大変なことだ。お互いが自分の人生を生きているのではなく、お互いの自立した生き方や向上発展の目をことごとくつぶしてしまうようになるからだ。母子密着という言葉があるが、それは0歳から3歳ぐらいまでのことだ。その後は次第に距離を広げて、親は過保護、過干渉を止めて、子供の側にいるが「遠くからみている」状態に変化することが大切だと思う。
2018.10.03
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「家庭と学校に活かすアドラー心理学」 (古庄高 二瓶社)にこんな話が紹介されていた。5歳児の子供たちが箸を使って70個ほどの小豆をつまみ、別の皿に移しかえる練習をしました。箸を使うこと自体が、 5歳の子供にとってはやさしいことではありません。小豆は小さくて表面が滑りやすいですから、 1つ摘むだけでも大変です。手先があまり器用でないFくんは、何度も失敗した後、 1つ目の小豆をやっとつまめたときは、きょとんとした表情をして先生を見ました。先生は黙ってうなずくと、 2つ目の小豆に挑戦しました。ところがうまくいかず、また先生の顔を見ました。そこで先生はもう一度うなずきました。こうして成功したり失敗したりしながら、ペースは遅いものの、徐々にできるようになりました。他の子供よりかなり時間がかかりましたが、 70個の小豆を、別の皿に移し変えることができました。70個が終わったときには、得意そうにしていました。今度は70個の小豆を元の皿に戻す練習をして、とうとう、それもやり遂げました。手先の器用な子供は、その間に3回も移すことができました。Fくんは家に帰ってから、誰からも言われなかったのに、自分から練習したそうです。Fくんは、箸で小豆つまむことに最初から興味があったわけではありません。また、最初のうちはうまくいかず大変悪戦苦闘しました。それなのに、家に帰ると、自分から練習したのです。日ごろから努力家というわけではありません。それなのに自分からやろうとする気持ちになった事は、大変嬉しいことです。他の子供に比べて動作が遅いと、親はつい「何をもたもたしているの。もう○○ちゃんはとっくに終わっているのよ」ともどかしい気持ちになってしまいます。子供はまだ未熟ですから、大人のようにはできません。また、箸の使い方が不十分な子供は、上手な子供に比べて見劣りがします。そういう子供を否定、非難することは百害あって一利なしです。子供はすっかりやる気をなくし、小豆を放り投げてしまうかもしれません。こんな時は、子供が出来るまで近くにいて見守ってあげる。そして1つの小豆をなんとか移し替えたら、その成功を一緒に喜んであげる。そのような態度が、子供自身の成功体験に結びつき、満足感と自信でいっぱいになる。次第に意欲が高まり、粘り強く挑戦するようになる。これらの行為は子供の自立にとってとても大切なことだと思います。子供と接触する場合は、大人が「かくあるべし」を振りかざしたりしないで、今現在の子供の状態に寄り添って、子ども自身が一歩上を目指すように見守る態度が大切なのでしょう。そしてできたことをともに喜ぶ。失敗しても「誰でも最初からうまくはできないのよ」「頑張ればそのうちできるようになるかもね」と励ます。そうすれば子供はいろいろな能力を身につけて、次第に親から離れて自立していけるようになります。子育てに森田理論の事実本位の生き方をぜひとも応用したいものです。
2018.10.02
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私は神経質性格者にとって、森田理論学習はとても大切なものだと思う。生涯学習として取り組んでいけば、素晴らしい人生は約束されたようなものである。私は日本の人口は約1億2,000万人であるから、少なくとも神経質性格者は1,500万人から2,000万人はおられるのではないかと推測している。その根拠は、森田先生が人間の性格を7種類に分類されておられることにある。その性格のために、小さなことにとらわれて生きづらさを感じている人が相当数おられると思う。それを極力少なく見積もって、 10%とすると、 150万人から200万人は、すぐにでも森田理論学習に取り組んで欲しい人である。必ず自分の人生にプラスになると思う。そのためには、森田理論はきちんと理論化されているので、自助組織に参加し、相互学習として学んだ方がよいと思う。これは1人ではなかなか難しい。また、継続することが困難だ。自助組織に参加していると、森田理論を正しく理解することができる。何よりも森田理論を活かしている人の貴重な体験談を聞くことができる。その恩恵ははかりしれないのである。以上の点から考えると、自助組織としては、少なくとも 10万規模のキャパシティーがあると考えている。少なくとも1万人から3万人規模の学習団体になる要素を、森田理論自体が含有していると考えています。現在日本最大の森田の自助組織でも2000人規模である。私の考える理想的な人数と現実には大きなギャップがある。今日はそのことについて考えてみたい。森田の自助組織が拡大していかない大きな原因は、50代以下の人たちに支持されていないことにある。それでは、そういう人たちに不安や悩みがないのであろうか。そんなことはことはない。私は現在60代だが、私が若い頃よりはもっと生きづらい時代になっていると思う。まず、仕事が安定しない。パートや派遣の仕事に就いている方が多く、収入も減少している。社会保障制度も十分ではない。そのため、結婚もままならない。仕事は能力主義、成果主義でノルマがきつすぎる。人間関係も希薄になり、人間同士のつながりが持てない。経済は横ばいが続いており、将来に明るい希望が持てない。高度経済成長時代と違い、頑張ればなんとかなる時代ではないのだ。うつや精神疾患で苦しんでいる人はとても多いのである。そういう人たちに対して、今のところ薬物療法、認知行動療法を始めとする精神療法が受け皿となっている。しかし、それらは対症療法であり、根本的な治療法ではない。最終的には生きづらさに真正面から取り組んでいる森田療法理論の学習に入ってこないと、残念な人生で終わってしまうのが目に見えていると思う。そういう受け皿としての森田の自助組織の責任は極めて重い。どこに問題があり、どう乗り越えていくべきなのだろうか。わくわくして、集談会に参加することが待ち遠しい。集談会は自分を成長させてくれる。生き方の指針を教えてくれる。温かい人間関係に身を置いて安心感がもてる。このような希望の持てる自助組織を作り上げていく必要がある。最近の学習会は、金太郎飴だと言われている。全国一律の学習の方法を設立当初から継続している。裏を返せばマンネリ化しているということである。新しい発想が生まれなくなると、刺激がなくなり、集談会の魅力は急になくなってくる。すると、参加することが苦痛になるのだ。以前の学習会は、活気があった。体験発表も多くの人が取り組んでいた。レクリエーションや野外学習会、 1泊学習会、懇親会なども盛んに行われていた。現在の参加者は少なくなってくるとともに、そうした活動は次第に姿を消し、形だけの学習会は細々と続けられている。ミニ体験発表、生活森田・応用森田ぐらいは、ぜひとも集談会のプログラムに取り入れたいものだが、それさえもままにならない。それから、新しい人が定着しないのは、信頼関係が形成されていないのに、やたらアドバイスをされる。森田理論を押し付けられるという意見を聞く。当然、信頼関係の形成は大事である。受容と共感、傾聴は、学習仲間として必要不可欠である。しかし、その上で、今現在悩みや葛藤を抱えている人に対しては、適切なアドバイスをすることは、もっと大事な事である。悩みを葛藤を抱えている人が、適切なアドバイスをしてもらえないと会に参加する意味が薄れる。やたらアドバイスや森田理論を押し付けられるというのは、悩みや葛藤を抱えている人を理解していないことからくると思う。相手の立場が十分に理解できれば、適切なアドバイスができ、相手から感謝されることになると思う。私たちは先輩会員として、適切なアドバイスができるように森田理論を深めていく必要があるのだと思う。そういうことが行われないと、傷を舐めあうだけの烏合の衆の集まりになると思うのだが、いかがであろうか。
2018.10.01
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