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仕事こそ私の生きがいだ、仕事は楽しいと感じている人は、果たしてどれぐらいおられるだろうか。基本的には、仕事は苦役だと考えている人が多いのではなかろうか。その証拠に、高額な宝くじが当たったり、高額の保険金や遺産が転がり込んできた場合、仕事はすぐにリタイアしたいと思っている人が多いのではなかろうか。つまり、仕事は自分と家族の生活のためにやむを得ず続けている。仕事は苦役であり、必要悪だと考えているのです。何を隠そう私自身がそうだったのです。プロジェクトリーダーや業務改善に取り組んでいたときは、無我夢中でやりがいもそれなりにあったが、基本的には仕事は苦役であった。しかし、自分と家族の生活を支えるために、仕方なく仕事にしがみついてきたと言うのが実情だ。人生の半分くらいを占める仕事がそんなことでいいのだろうか。どういうスタンスで関わればよいのであろうか。さて森田理論では、やりがいについて次のように考えている。まず目の前のことをよく見つめて観察する。すると、感情が生まれる。そして高まる。つぎには気づきや発見が生まれる。関心や興味が湧いてくる。疑問や工夫やアイデアが生まれてくる。すると次第に意欲ややる気がわき起こってくる。行動や実践に移していくと、どんどんやりがいが膨らんでいく。このように学んできたと思います。ところが他人から指示や命令される仕事は、そのようなプロセスを踏んで行動している訳ではない。感情が高まり、次第に意欲ややる気が出てくるのではなく、指示命令によって唐突に行動を強要されるのである。こんな状態は苦役以外の何物でもない。他人から強要される仕事に、燃えるような情熱を持って取り組めといっても無理な相談である。しかも仕事というのは、自分と自分の家族のための生活とは無関係なことに取り組んでいる。狩猟や農耕社会では、仕事は自分と自分の家族、 一族、共同社会のための仕事であった。仕事をすればするほど、自分たちの生活が豊かになるという実感が持てたのである。高度化された現代の文明社会では、仕事はすべて複雑な分業制である。分業制は、基本的には生活費を稼ぐための仕事になる。その収入によって、必要な生活物資を揃える。生活の全てが貨幣経済に飲み込まれてしまうと、意に沿わない仕事であっても、自分の持ち時間の大半を仕事につぎこまざるを得ない状況が生まれてくるのである。さらに悪循環は深まる。本来自分がしなければならない日常茶飯事も、安易に人に依存するようになってしまうのである。こうなれば、本来は生活の補完ための仕事が、仕事のための生活に成り下がってしまうのである。目的と手段の本末転倒現象が起きているのである。分業制は、基本的にはいったん職業を持つと、同じ仲間と同じ仕事を一生涯続けることになる。同じ仕事を続けていると、意識的に自分を鼓舞しないと、マンネリ化に陥り、仕事に対する熱意は次第に失われていく。仕事仲間とは、利害関係で常に対立的になり、人間関係のストレスが増加してくる。このように見てくると、分業制を核とした仕事のあり方というのは、自分たちの生活をより豊かにするという面はあるが、ミイラ取りがミイラになったようなもので、自分たちの首を真綿で絞めているようなものだ。以上を踏まえた上で、人生の半分を占める仕事といかに関わっていくのかを考えてみよう。先にも見てきたように、意欲やモチベーションを高めるためには、感情の高まりというプロセスが鍵となる。そのためには、仕事に対する姿勢が大事になる。つまり、仕事に対しておつかい根性の気持ちでは、 永遠にやりがいは生まれてこないということです。森田理論で言うところの、物そのものになりきって、一心不乱に取り組むということが必要となります。仕事の内容によっては、難しい面もあるでしょう。また、常にものそのものになりきるという事は困難です。しかしそういう気持ちを全く持てないと、仕事は苦役であるという状況から抜け出すことはできないでしょう。苦しいことも多いが、我を忘れて仕事に取り組んでいたということも必要なのではないでしょうか。もう一つ大事なことは、仕事だけを重大視して、仕事を軸にした生活を送らないことです。仕事は自分の生活を支えるための大事な面はあるが、その比重を100%にしないことです。できればどんどん下げていった方がよいと思います。仕事以外にも、基本的な日常生活、子育て、介護、家庭生活、地域活動、趣味やお稽古、夢や目標など取り組むべき課題はたくさんあります。仕事にかまけて、それらを放置することは人間としては許されません。仕事の比率を下げても、それらに取り組まなければなりません。仕事1本にかけている人は、挫折した時のショックは計り知れません。仕事とそれ以外の事のバランスを維持するということに注意を払う必要があるのです。そうすれば、仕事でつまずいても、それ以外のことに取り組んでいることで、結果的には仕事のつまずきを乗り越えることができるのです。森田ではバランスと言う事をとても大事にしています。自分たちの生活でも、仕事は生活の1部であるということを再認識し、仕事とそれ以外のことのバランスを保つようにしたいものです。
2018.08.31
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事実本位の生き方をするためには、自分なりに分かりやすい自分だけのキャッチフレーズを作るのが有効だと思います。私は次のように自分に言い聞かせています。不安、恐怖、違和感、不快な感情がわき起こったときは、台風が接近したときの柳の木のようになろう。柳の木は、激しい風雨に身を任せて、枝がちぎれんばかりに、荒れまくっている。反対に、松の大木は、どんなに強い風雨でも抵抗して踏ん張っている。これを見ていると、柳の木に勝ち目はないように見える。いずれ跡形もなく吹き飛ばされてしまうだろう。松の大木は、どんなに強い風雨であっても、力強く耐えぬくことだろう。耐えるだけの強靭な体力を持っている。しかし、驚くことに、事実は反対になっているのだ。台風が通り過ぎたあと、柳の木は、何事もなかったかのようにたたずんでいる。ビクともしなかった松の大木は、時として無惨にも倒壊している。弱さになりきった柳の木が生き延びて、松の木に勝ったのだ。最後まで抵抗していた松の大木は、ぽっきりと折れて命を絶たれた。弱さになりきり、抵抗したり逃げたりしなかった柳の木は、私たちに不安などの嫌な感情に対する対応方法を教えてくれている。不快な感情や気分に対して、はからいや逃避は禁物なのだ。荒れ狂うままに受忍して、時間の経過を待つ。台風はいつか必ず通り過ぎるのがまぎれもない事実だ。その事実を信じて、右往左往しないことがことだ。時間の経過は必ず私たちに味方してくれる。一時的な自然現象である不快な感情に素直に従っている人が、予想に反して神経症に陥ることから免れているのだ。よって私は柳の木のようになりたい。
2018.08.30
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台風も次々と沸き起こってくる感情もどちらも自然現象です。台風が来ると、私たちは外出を控え、家でじっとしています。テレビを見ると、台風が近づいている場所にはヘルメットをかぶり、カッパを着たレポーターが暴風雨の状況を説明しています。「昼過ぎから雨や風がどんどん強くなっています。現在は歩くのも困難な状況です。台風は今後ますます勢力を強め、この付近に午後5時ごろ上陸するものと思われます」テレビ画面には、海の波が防波堤を乗り越えている凄まじい光景が映し出されています。レポーターには、あとどれぐらいで台風が上陸してくるのか分かっています。それを踏まえた上で、波の高さ、風雨の状況を伝えているのです。そして、 「不急不要な外出は控えてください。増水した河川や高波が押し寄せる海には絶対に近づかないでください。注意勧告が出しているところは避難所に避難してください」と注意喚起をしています。これを見ると、台風という自然現象に対して、戦いを挑むという事は全く考えていません。台風の状況を的確につかみ、その被害から身を守るということだけに注意を向けています。人間は最初から台風という自然現象に対して完全に服従しているのです。そのためにできる事は、現場の近くにレポーターを向かわせて、台風の状況を客観的に伝えることだけです。自分の私情を交えずに、第三者の立場から冷静に事実を見つめているのです。台風という自然現象に対する態度は、感情の取り扱い方にとても参考になります。私たちに自然に沸き起こってくる不安、恐怖、違和感、不快感などはどうでしょう。同じ自然現象でありながら、対応方法はずいぶん違います。それらは、人間がコントロール可能な自然現象とみなしている人が多いと思います。人間の意志の力で、それらをやっつけて、すっきりとした気分に転換できると思っているのです。これがそもそも認識の間違いです。同じ自然現象ですから、人間の意志の自由はありません。森田理論学習によって、そういうことがわかってくると、あらゆる感情に対してやりくりをすることがなくなります。嫌で不快な感情に対しても、闘う相手ではない。仕方がないと諦めて、持ちこたえることができるようになるのです。しかし、議論は分かっていても、実際には体がそのように反応してくれません。その時に、台風を実況するレポーターのように、感情の変化の状況を第3者的な立場に立って口に出してみるのはどうでしょうか。 「先ほど得意先から誤発注のお叱りの電話がありました。泣きたいような、いたたまれないようなつらい感情がわき起こってきました。その感情がどんどん増悪しています。このまま進行していけば、頭の中がパニックになって倒れてしまうかもしれません。他の仕事が手につかなくなってきました。どうしようという事ばかりが頭の中を駆け巡っています。その場から消えてなくなりたい気持ちです。自分は何をやってもダメだ。この仕事は自分には向いていないのだ。これが上司や同僚たちに発覚したらすごく叱られるだろう。嫌だなぁ。担当営業マンに知れたらまたどんな嫌味を言われることやら。自己嫌悪や自己否定に走っております。ミスをしたことが、自分の一生を左右するような大きな問題になってきました。仕方がない。ここはひとつ、まな板の鯉になったようなつもりで、得意先、担当の営業マン、上司、同僚に自分のミスを報告しよう。それが今やらなければならないことだと感じています」こんなところでしょうか。このやり方は、沸き起こってきた感情に対して、コントロールのきかない自然現象として捉えている。自然現象は、人間の意思の自由はない。抵抗は無用である。その自然現象に対して、その変化の過程を詳細に観察して、実況中継しているようなものである。そうするとどんなことが起きるのか。自然現象に対してやりくりしたり逃げたりしない。風の吹くまま、気の向くまま、嫌な感情を素直に受け入れているという状況が訪れるのです。台風が来た時の柳の木は、台風の直撃を受けたときは、枝がちぎれんばかりに悶え苦しみます。しかし、台風はいつの間にか通り過ぎていきます。その時の柳の木は何事もなかったかのように、頭を垂れているいるではありませんか。えらいものです。湧き起こってくる感情に無抵抗でやり過ごすことができれば、我々も柳の木のような状況が自然と生まれてくるのです。柳の木は我々の先生のようなものですね。どうにもならない自然現象である感情に対して、すっきりしようと手出しするよりも、 1歩引いて第三者的な立場から感情の変化を実況中継するレポーターになるという方法をとることはできないものでしょうか。
2018.08.29
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王貞治さんは、巨人に入団して3年経った頃、今までのやり方でいいいのか、自分の力はプロで通用するのか分からなくなり悩んでいたという。そんな時、荒川さんが巨人のコーチとして入団された。王さんは荒川コーチのもとで、プロとしてのバッティングや野球についての基礎を教わったのです。荒川コーチと二人三脚で、 1本足打法を完成させ、世界のホームラン王と呼ばれるようになったのです。荒川コーチとの出会いがなければ、自分の才能は開花しなかったであろうと言われています。そういう意味では荒川コーチは、コーチと言うよりは、自分の将来を決定づける偉大な師匠であったといえるでしょう。私は30年以上森田理論学習に取り組んできて、森田の場合にも、師匠の存在は不可欠であると思う。神経質性格を持ち、神経症でのたうちまわっていた私を導いてくれた師匠との存在なくして今はない。今考えると私の師匠は2人いた。 1人は森田正馬先生である。もう1人は集談会で見つけたある先輩会員である。2人の人が夜道を明るく照らして、人生の進むべき方向を差し示してくれたのである。森田先生に実際に会った事はない。しかし、残された数多くの著作に接するうちに師匠として尊敬するようになった。まず神経症の発生するメカニズムを明快に説明してくださった。そして、神経症が治るとはどういうことか。神経質性格の活かし方、欲望と不安の関係。生の欲望の発揮の仕方、 「かくあるべし」の弊害、事実本位の生き方。などなど的確に私の疑問を解決してくださった。森田先生の著作による指導なくして今の私は存在しないと思っている。集談会の中で見つけた師匠は、森田理論そのものについてもより深く掘り下げて研究されていた。それよりももっと特質すべき事は、ご自分の経験から、森田を実際に生活面に応用した具体例について色々と話してくださったことである。このブログでその一端は数多く紹介した。それらは私の生活に取り入れようと思えばいくらでも取り入れられることであった。その方は、森田理論の中でも、 「ものそのものになりきる」 「物の性を尽くす」について、とことん研究され、自分の生活の中に縦横無尽に応用されていた。私は、その人を見ていて、森田理論の応用は、つまみ食い的に取り組むやり方はダメだと確信した。富士登山には5つの登山口がある。所要時間はそれぞれに異なるが、どの道を進んだとしても、富士山頂に到達できるのはいっしょのことである。大事なのは、「この道しか我の進む道はない」と覚悟を決めて、 1つか2つの事を極めていくやり方が有効なのであった。そういう意味では私は、森田先生のウグイスの谷渡りという宴会芸からヒントを得て 「一人一芸」に活路を見出し、 ひとすじに打ち込んできた。すると、老人ホームなどで多くの人に喜んでもらい、あれほど対人恐怖で苦しんでいたのに、多くの演技仲間と楽しく交流することができるようになった。今では人生の中では、広く浅い人間関係を構築することがとても大事なのだということが実感できるようになった。さて、王貞治さんはこんなことも言われている。子供には第一反抗期、第二反抗期がある。この反抗期を経ないと立派な大人にはなれない。これはどういう事かと言うと、いつまでも師匠の言うことばかりにこだわっていては成長はないということである。「守・離・破」という言葉がある。「守」とはまさに素直に師匠に教えを乞う時期である。「離」とは師匠の教えを身につけ、師匠から離れる時期である。子供で言えば反抗期である。自我が出てくる。師匠の教えに疑問も出てくる。だからこの時期は師匠から少し距離を置く時期である。この時期があることが、次につながるのである。「破」とは、今までの経験を踏まえて、自分独自の森田理論を切り開いていく時期である。今までは、師匠に見守られて、内海の中だけで船を航行していたが、いよいよ外洋航海に出る時である。怒涛逆巻く太平洋に向かって、自力で挑戦する時期が「破」の段階である。森田療法理論では、神経症を治す段階から、人生観を確立する段階に進む。さらに森田療法理論の考え方を基礎におきながら、政治や経済、人類の将来、文明論、環境汚染、人間の生き方などに発展していくのが自然の流れであると思う。そういう意味で、森田療法理論は無限の可能性への発展を秘めているのである。
2018.08.28
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王貞治さんのお話です。日本の子供たちは、勉強なら勉強、スポーツならスポーツばかりやる傾向があります。しかし、海外では、スポーツをやりながら勉強をやったりして、いろいろな資格を持っているプロ野球選手は少なくありません。学生時代には、野球をやりながら、バスケットボールやフットボールをやったりします。例えば、バスケットボールで有名なマイケル・ジョーダンは、高校までは野球をやっていたそうです。王貞治さんは、中学時代、平日は陸上部で砲丸を投げたり、卓球部で卓球をしていました。野球は週末に草野球チームでやっていただけです。いろいろな競技をやったからこそ、野球が1番好きだというのがわかりました。(人生で本当に大切なこと 王貞治 幻冬舎新書 75頁より引用)日本では有名な大学に行く人は、小学生の頃から塾に通い、猪突猛進でわき目もふらず猛勉強をしています。そういう人は確かに偏差値の高い大学に合格します。しかし、高い学力は身につけていますが、人間関係のあり方については、皆目見当がつかないという人もいます。それは小さい頃から勉強ばかりして、友達との人間関係の中で遊んだ雑多な経験がないからです。一緒に遊びまわったり、喧嘩をしたり、言い争いをしたり、時には殴ったり殴られたりするような経験がほとんどないのです。経験から学ぶということがすっぽりと抜け落ちているのです。これは考えただけでも怖ろしいことです。そういう子供が大人になり、上下関係や指示命令系統のある組織に入った場合、自由を奪われて、容易に挫折することは目に見えています。国税庁に入庁した人に聞いてみると、有名国立大学、有名私立大学を卒業した人が数多くいます。ところが、入庁後 3ヶ月ぐらい経って突然退職していく人が数名はいるそうです。学力は高く、論理的な思考力には長けていても、人間関係の距離の持ち方が幼児並みで、組織の中ではすぐに挫折するという事ではないのでしょうか。他の会社に転職しても、また人間関係でつまずくのは目に見えています。よい面は持っているのですが、人間関係が幼児並みであるために、宝の持ち腐れになっているのです。有名私立大学に合格するためには、小学生の頃から、現代文、英語、日本史だけを徹底的に鍛えていけばよいという人もいます。その方が合格を勝ち取るための間違いのない戦略だと言われるのです。確かにこの3科目で合否を決められるのでしたら、他の科目は切り捨てるというのは合理的なのかもしれません。数学、生物、物理、化学、地学、世界史、地理、現代社会、倫理などは単位をとるだけでよいのでしょうか。また友達との付き合い、キャンプに行ったり、海に行ったりする遊びは極力避けるのがよいというのでしょうか。こんな考え方ではたして世の中の荒波を乗り越えていく人間を作ることができるのでしょうか。雑多な経験を積み重ねることなく、一つのことだけに特化した生き方をしてきた人は、もし困難な状況に直面したとき、容易に挫折するのではないでしょうか。森田理論の考えは、あまりにもひとつのことに注意や意識を集中してはならないといいます。神経症というのは、自分の気になる不安や恐怖に注意や意識を集中して、精神交互作用で蟻地獄に陥ってしまうのだと学びました。不安や恐怖があれば、その裏にある欲望にも目を向けて行動することが必要なのです。また、森田では、あらゆることに満遍なく注意を払い、同時並行的にいくつもの案件を処理していくような生き方を勧めています。人間関係でも、薄く、幅広い人間関係を構築していくことを勧めています。子供の頃から勉強なら勉強だけ、スポーツならスポーツだけという考え方は、子供にとっては不幸な人生です。子供は好奇心旺盛ですから、やりたいことには何でも取り組ませる。いろんな経験をさせる。その際、親は、つい口を出しそうになっても、ギリギリまで我慢して見守るという姿勢が大事なのではないでしょうか。そのうち子供自身が、自分の将来やりたい職業を見つけてくれれば御の字です。森田療法家の宇佐玄雄先生は、学校教育に森田療法理論を加えるべきであると主張されていたと聞きました。せめて森田理論を学び、人生観を確立することができていたなら、いとも簡単に人生の落伍者になることはなることは防げるのではないでしょうか。
2018.08.27
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今日は人間だけに備わっている前頭前野について考えてみましょう。前頭前野の働きは、判断力、企画力、比較力、分析力、想像力、思考力、問題解決力、抑制力、意欲の役割を持っています。財務省が官庁の中の官庁と言われていますが、前頭前野は大脳の中の大脳と言われる所以です。この部分は怪我などで損傷を受けると、動物の脳と何ら変わりがなくなります。人類の文明や文化の発達は、言葉、記憶力の獲得とともに、この前頭前野がいかんなくその働きを発揮したからこそ可能になったものです。次のような生活をしていると、この前頭前野が急速に廃用性萎縮を起こしてきます。日常茶飯事を雑にするようになる。あるいは他人に依存するようになる。そのうち食事を作らなくなる。出前、宅配の惣菜やお弁当に頼るようになる。子供も成長し、家のローンも完済し、働く意欲が湧かない。今までの蓄えや年金でなんとか生活できる。さしあたっての問題や課題がない。趣味や目標もない。楽しみは何もない。毎日退屈だ。暇を持て余している。何か楽しいことはないかな。毎日テレビを見て、お菓子をつまみながら、横になっている。好奇心が湧かなくなってきた。お化粧や服装、異性にも全く関心がなくなってきた。こうなりますと、前頭前野の出る幕は無くなります。東北大学の川島隆太教授は痴呆症を防ぐために、脳トレーニングを思いつきました。前頭前野を脳トレーニングで鍛え、劣化させないように考えられているのです。森田理論では、ことさら日常茶飯事を丁寧に取り組むことをお勧めしています。自分でできることは、できるだけ手放さないで、自分で手掛けることです。また、人のために役に立つこと、仕事を持つこと、生涯学習として森田に取り組むことなどもお勧めしています。以前に、このブログで、ボケます音頭、ボケない音頭という替え歌を紹介しましたが、関心のある方は検索してみてください。そしてマジックで紙に書き出して大勢人が集まった場で合唱してみてください。大いに盛り上がることでしょう。このように前頭前野がフルに活動していることは大変意味のあることです。しかし、神経症に陥った人はこの前頭前野がマイナスに働いているのです。前頭前野は、欲望がわき起こった時の抑制力という役割も担っています。森田理論では精神拮抗作用として学習する部分です。例えば、オリンピックなどで素晴らしい演技をして世界の人から称賛を浴びたいという強い欲望を持っているとします。そういう欲望を持っていると、必ず失敗したらどうしようという考えも同時にわき起こるようになっているのです。そういうネガティブな感情を持ち堪えたまま、演技に集中できれば良いのですが、逆の場合もあります。そうなりますと、ネガティブな考えが次から次えと湧き起こり、身体はカチカチに固まり、金縛りに遭ったような状態になります。神経症の場合は、根っから心配性という性格特徴を持っていますから、いったん不安にとりつかれると精神交互作用によってどんどん増悪していくことが多いのです。不安と欲望はバランスをとらなければならないということはよくわかっていますが、不安に圧倒されて、ついには欲望は蚊帳の外になってしまうのです。生の欲望を前面に打ち出し、不安を制御機能として活用していくためにはどうしたらよいのでしょうか。そのヒントをイチロー選手が教えてくれています。イチロー選手がバッターボックスに入るしぐさをよく観察してみてください。まずマスコットバットを大きく振り回して、上半身と脇腹の筋肉をストレッチします。その後はまた割。左に2回、右にも2回と体をひねる回数は決まっている。そして試合用のバットを手に取り、打席に入る直前で一度屈伸。打席では狙いを定めるようなポーズでバットを持つ右手をピッチャに向け、左手で右袖の上をつかむ。イチロー選手が打席に入る前の動作はほぼ同じ動作で繰り返されている。(イチローの流儀 小西慶三 新潮文庫 112ページ)これはイチロー選手がルーティンを黙々とこなすことで、おせっかいな前頭前野の出番を制限しているということではないでしょうか。森田学習では、行動することで、新しい感情が生まれると学びました。新しい感情が発生すると、以前の感情は無くなるか、少なくとも薄まるという法則を応用しているように見えます。
2018.08.26
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8月24日投稿の記事に対して、 4つの問題について回答を投稿してほしいという意見がありました。参考のため、私の考えを投稿します。これに近い答えは全て正解です。1 、森田療法では「不安の取り扱い」に他の療法にない特徴がありますが、 100字以内で述べなさい。他の精神療法では、不安は生きていくための障害物であって、取り除くことが目的となっています。森田療法では、欲望があるから不安も存在している。不安と共存していく生き方を提唱しています。2 、森田療法でいわれている「精神交互作用」について100字以内で説明しなさい。神経症か固着する過程は、自分が気になる症状に注意を向ける。すると感覚が鋭くなる。次第に注意と感覚が相互に作用して、どんどん症状が悪化してくることをいう。3 、森田療法でいわれている「生の欲望の発揮」について100字以内で述べなさい。森田療法の根幹をなす考えである。日常茶飯事、仕事、勉強、家事、育児、興味のあること、夢や大きな目標に向かって努力精進していく生活態度を維持していくことをさしている。4 、森田療法でいわれている「思想の矛盾」について70字以内で説明しなさい。自分の頭の中で理想的な状態と考えることと、現実、現状、事実の間でギャップが生じ、そのギャップの間で葛藤や悩みが尽きない状態を言う。5 、森田療法でいわれている「かくあるべし」の弊害について説明しなさい。自分の立ち位置を理想主義、完全主義において、現実や事実を見下して、批判や否定を繰り返すようになると容易に神経症を発症するようになる。 森田療法では「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生き方を目指していくことが大切であると言われている。
2018.08.25
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他人の言動にカッとなりすぐに切れてしまう人がいます。これが夫婦の間で起きると、喧嘩が絶えなくなります。 私はカッとする性格は感受性が強い人だと思います。 感受性が強いということは、悪いことばかりではありません。 周囲のことに敏感に反応できますので、音楽や文化、芸術をより深く味わうことにもつながります。我々神経質者に備わった優れた性格特徴だと思います。 だからこの鋭い感受性はまだまだどんどん伸ばしていかなくてはなりません。 ただ人間関係ではこの鋭い感受性が裏目に出やすいということも事実です。 不快な感情にすぐに対応して、何とかしないと、自分の精神状態がおかしくなってしまうと思うのです。相手に負けてしまうことにこだわる人もいます。そんなことがあるといつも相手の言いなりになってしまう。 そんなことは自分のプライドが許さないなどと思ってしまうのです。 この問題の解決のヒントは森田理論学習が教えてくれました。 怒りの感情は自然現象なので、自分たちの意志の自由がありません。 怒りは行きつくところまで行きつかせるのが原則です。手出し無用です。 その間は不快感に対して我慢して耐えるしか方法がありません。 そういう態度をとったからといって、感情が暴れ馬のようになって収拾がつかなくなることはありません。むしろその反対です。穏やかな気持ちになれるのです。必ず時間が解決してくれるのです。 不快感は勢いよく一山登りますが、登りきると下るしかないのです。 それを信じて行動できるかどうかがカギです。その後の展開を大きく左右します。ただ森田を学習したからといって一挙にものにできるようなものではありません。一進一退を繰り返して身につくものです。 失敗している人を見ていると、まだ山を登り切っていないのに不快感の火消しをしているのです。 その方向は、不快感に向かってどんどん灯油をまいているようなものです。 それでは不快感が収まるどころか、どんどん火が燃え盛ってしまうのです。 後に残るは後悔と気まずい人間関係です。交通事故は一瞬で起こりますが、再起するためにはとてつもなく長い時間がかかります。それと同じことです。だから感情には深入りしてかかわらないことが肝心です。 ここでもう一つ大事なことは、不快感を何とか持ちこたえながら、目の前の仕事や日常茶飯事などにイヤイヤ手を出していくことです。そちらのほうに早めに注意や意識を切り換えることが大切です。 すると不快感で大やけどを回避できるのみならず、日常生活も前進していきますので、めでたしめでたしという状況が訪れるのです。 この2つがセットとして行動・実践として行われるようになった状態が森田が目指しているところです。これが身についた人は、森田の達人に一歩近づいている人だと思います。
2018.08.25
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臨床心理士を始めとして、心理関係の資格は民間資格のみだったのですが、2015年9月の通常国会で「公認心理師法」が可決されました。 第1回公認心理師試験は、2018年9月9日(日)に実施されます。 心の問題を抱える人に対応して、「公認心理師」資格が初めて国家資格として認定されることになったのです。 活動分野は、「保健医療、福祉、教育その他の分野」とされています。資格取得後は臨床心理の専門家として幅広い現場での活動が期待されます。 「公認心理士」ではなく「師」の字が正しい表記になります。 この国家資格の受験資格を得るためには、次のようなハードルがあります。 1.「公認心理師になるために必要な科目」を心理学関係の大学と大学院を出て修了する。 2.その後、文部科学省令・厚生労働省令で定める施設で、規定の期間以上心理関係の仕事に従事する。 資格取得のためには臨床心理士と同等の高いハードルが課せられています。 現在第一回目の試験に向けて盛んに模擬試験が行われていた。 その中に森田療法の問題も含まれているようだ。 ツィッターに次のような模擬試験の問題があったと投稿されていた。 臨床・障害(心理学検定一問一答問題集A領域編)より。 森田療法の入院4期について正しい順序はどれか。 正しいものを選びなさい。 1、生活訓練期―絶対臥褥期―軽作業期―重作業期 2、軽作業期―重作業期―絶対臥褥期―生活訓練期 3、絶対臥褥期―軽作業期―重作業期―生活訓練期 4、軽作業期―生活訓練期―重作業期―絶対臥褥期 簡単なサービス問題です。答えは当然3番です。 私は、大学と大学院で心理学を専攻して修了し、その後臨床経験を積んだ人に出すような問題なのかという強い疑問が湧いた。 専門的な精神療法の学習をした人なら、もっと難度を上げてもらいたい。 例えば私が問題を作成すれば次のような問題を出したい。 1、森田療法では「不安の取り扱い」に他の療法にない特徴がありますが、100字以内で述べなさい。 2、森田療法でいわれている「精神交互作用」について100字以内で説明しなさい。 3、森田療法でいわれている「生の欲望の発揮」について100字以内で述べなさい。 4、森田療法でいわれている「思想の矛盾」について70字以内で説明しなさい。 5、森田療法でいわれている「かくあるべし」の弊害とはどういう意味ですか。 森田療法は、国際森田療法学会も開催され、森田セラピーとして世界中で認知されています。 国家資格である「公認心理師」資格を授与されるような臨床心理の専門家には、日本で生まれた優れた心理療法である森田療法をもっと学習してほしいものだと思います。
2018.08.24
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森田理論は、西の横綱を「生の欲望の発揮」とすれば、東の横綱は「あるがまま」のような気がする。つまり、この2つのキーワードは森田理論学習では大きな柱となるのである。今日は、 「あるがまま」について投稿してみたい。「ある」は、物、自然、自分、他人が存在するということである。「まま」は、 「そのまま」ということである。続けていえば、そのままに存在するということである。存在するそのままに生きていく。事実そのままに生きるという事である。これが「あるがまま」に生きるということの本質である。自然や動物の世界は、まさにそのままに存在している。人間だけが、それからはずれた生き方をしている。それは人間が、他の動物と比べて、言葉を使い、記憶力が発達し、認識や解釈、判断、内省、思考などができる前頭前野が発達しているためです。そのおかげで高度な文明を築き、文化を発展させてきました。はかり知れない恩恵を人類もたらしてきたのは紛れもない事実です。その半面、事実そのままに生きるという本来の生き方は、軽視されてくるようになりました。観念が重視されて、事実を観察する態度が希薄になりました。事実そのものがいとも簡単に否定されるようになってきました。事実を認めない。事実を隠蔽する。事実をごまかす。事実をねじ曲げるなどが横行するようになりました。そうした態度のことを森田では、「はからい」といっています。それをすると益々事実から離れていってしまいます。常識や観念全盛の時代に変わってきたのです。それが人間の精神分野に多大な悪影響をもたらせていることに早く気が付く必要があります。森田先生は、はからいを止めて、現実、現状、事実に立脚した生き方に転換すること求められています。森田先生が大正から昭和の初期にその弊害を見抜いて喝破されていたことに驚かされます。私は、森田全集第5巻の619ページに載っているイソップ物語のきつねとブドウの話を思い出します。ある時きつねが実がたわわに実ったぶどうの木を見つけます。きつねは早速飛び上がってぶどうを取ろうとしました。ところが、木が高くて自分の力では取ることができません。そのうちエネルギーがなくなり、やる気も気力も失せたきつねは次のように考えました。「あのぶどうはきっと酸っぱくて食べられるような物ではないはずだ」ぶどうが食べたいという自分の気持ちを無理やりこじつけて抑圧しようとしたのです。これが発展すると、自分はもともとぶどうなんか食べたくなかったのだなどと、欲しいという事実をごまかすようになるのです。さらに、ぶどうを取る能力のない自分を、自己嫌悪や自己否定するようになります。このような自分を生んだ親を憎むようなことにもなります。そしてぶどうを欲しがらない人間になるために精神修養しよう。簡単にぶどうが取れるような超能力を身につけたいと空想するようになります。迷いの元は、すべて事実を「あるがまま」にみようとしないことです。 「自分はぶどうを欲しがっている」と「自分の力ではぶどうを取ることができない」の2つの事実を認めようとしないのです。苦しい困難な現実に直面したとき、動物であれば四方八方に力を尽くして、及ばざればそのままその事実に服従します。この点は人間が動物から謙虚に学ばなければなりません。人間は、事実をあるがままに認めようとせず、観念で事実をごまかしたり、自分を欺こうするのです。もしイソップ物語のきつねが、2つの事実を認めたらどうなるのか。自己嫌悪や自己否定に陥る事はなくなるでしょう。どうにもならない事実に対して向き合ううちに、気づきや発見、工夫を思いつくに違いありません。てっとり早いところでは、棒のようなものでぶどうを叩き落とす。あるいははしごや脚立のようなものを探しに行く。また親しい友人に声をかけて、協力を得る。そうすれば、最終的には、最初の目的を達成することができます。その前提としては、どうしてもままならない事実を素直に認めていくことが必要なのです。「かくあるべし」 に自分の立ち位置を決めて、現実、現状、事実を否定するところから何も生まれません。生まれるのは疑心暗鬼と自己否定のみです。現実、現状、事実に自分の立ち位置をしっかりと決めて、そこから上目線で一歩一歩前進していくのが人間本来の生き方です。実際には二歩前進して、また一歩後退というケースが多いでしょう。それでも諦めず粘り強く前を向いて生きていく。これが森田理論でいう「あるがまま」の生き方の本質だと思います。
2018.08.23
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夏川賀央氏は、「仕事ができる人」は次のような特徴があると言われている。・残業をしない。・上司の言うことを「話半分」にしか聞かない。・メールの返信が早い。・異性に優しい。・帰り途中で「寄り道」をする。・交通費請求をまめにする。・案外と悪口を言う。・スパッと会社を辞める。(なぜ、仕事ができる人は残業をしないのか? 夏川賀央 ソフトバンク文庫参照)私はこれを参考にして、森田的な生活を送っている人は次のような特徴があると思う。・ひとつのことにいつまでものめりこまない。実行することは、 「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」を応用している。基本的には30分ぐらいで次から次へと仕事を転換している。・人の話を鵜呑みにして、先入観や決めつけをしない。実際に現状や事実を自分の目で確かめるという姿勢を貫いている。・なんでも尻軽く、すっと行動できる習慣が身についている。・好奇心が強いという神経質性格を存分に発揮している。興味や関心のあるものにすぐに手を出している。みんなを楽しませる「一人一芸」持っている。・異性ともよく話をするようになる。というか、異性だけに限らず、幅広く薄い人間関係を数多く作り上げている。その時、その場で付き合う相手がどんどん変わる。・雑事、雑仕事などを丁寧に行っている。「凡事徹底」を心がけている。・自分の考えや意見はしっかりと持っており、自己主張をすることができる。相手と考えや意見の相違があるときは、絶えず歩み寄ることを考えている。・嫌なことにいつまでもかかわり合っていない。自分の夢ややりたいことに取り組んでいる。これらがまがりなりにも実行できていれば、 「森田の達人」の域に近づいているのではないだろうか。みなさんの達成度合いはどれぐらいだろうか。自己採点をすることをお勧めしたい。8項目あるので、一つ10点として40点以上に自己評価できればいい線を行っていると思います。さらに得点を高めていきましょう。
2018.08.22
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自分の身体の違和感にとらわれている人のお話です。ちょっとしたことですぐに疲れを感じる。病院で身体を検査してもらって、異常はないといわれる。そのうち疲れ以外に、めまいや耳鳴り、頭重感も起こってくる。。やはり、重大な病気は隠されているのではないかと思い、別の病院で診てもらう。そこでも、結果は異常なしなので、不安はいよいよつのります。今度はもっと大きな大学病院を訪ね、頭からつま先までの検査をしてもらいます。しかし、何も異常は見つからず、医師からは、ちょっとした過労でしょうと言われます。過労になるほど動きまわった覚えはないものの、この程度の動きが過労なら、もう横になっておくしか策はありません。何日間か横になって休んでみます。にもかかわらず、 1週間経ち、 2週間たっても、疲れとめまいと耳鳴り、頭重感は一向に減りません。いよいよ悩みは深まるばかりです。1週間の休みで改善しないなら、 2週間はどうだろうかと考えて、さらに横になる日は長くなります。苦悩は深まり、再びあちこちの病院を訪れるようになり、ついには人生そのものが病院通い一色になってしまいます。こういう人の頭の中では、人は生きていくためには、健康であらねばならないという「ねばならない」が渦巻いています。極端な話、 「健康であれば命はいらない」と言うようなとらわれが強くなっているのです。この場合、疲れやめまい、耳鳴り、頭重感がどうしてもとれないのは、動かしがたい事実です。一方で、どの病院に行っても、検査データに異常が出ないのも事実です。こういった人の場合の特徴は、客観的な事実は全く無視しているのです。自分の不安、身体の違和感にばかり注意や意識を向けているのです。気分や沸き起こってきた不安感に振り回されて、対症療法に走っているのです。2つの異なった事実が存在する場合は、どちらか一方に偏るということは大変危険です。ある程度自分の身体の異常を察知して気にすることは、健康で長生きをするためには欠かす事は出来ません。気になれば、病院に行って、様々な検査をしてもらい、症状を客観的に掴むことが必要です。原因が明らかになれば、たとえ病気であっても、不安におののくという事は少なくなります。そういう意味で、身体の異常を察知して、不安になるということはとても大事です。しかし、病院の検査で器質的な疾患はありませんと言われたにもかかわらず、まだ不安が消えないという事はよくあります。神経質性格を持っている人は、 「石橋を叩いてても、石橋の検査ばかりをして橋を渡らない」と言うような慎重さがあります。心配性の度が過ぎているのです。これは医者の診断を全く信用していないということです。現代の医療技術を信頼するよりも、自分の身体に対する違和感を重視しているのです。気分や感情ばかりを信用して、過度に振り回されているのです。気分本位な態度です。これは客観的な事実と自分の不安な気持ちとの調和がとれていないといえます。この人の欲望は、重大な身体疾患にかからないで、いつまでも元気で長生きをしたいということです。その大きな欲望の半面で、大きな不安が生じているのです。これは森田理論で学んでいる通りです。どう対応すればいいのかというと、欲望と不安の調和をとるように行動すればよいのです。大きな不安は自然現象ですから、受け入れていくことしか方法はありません。健康で長生きをしたいという欲望は、行動の意志の自由があります。不安に取りつかれて、恐れおののくのではなく、自分の欲望に向かって舵を切っていけばよいのです。例えば、ヨガ、マインドフルネス、気功などの研究をして、実際に取り組んでみる。健康によい食べものや料理方法を研究して実際に自ら作ってみる。健康によいサプリメントを研究してみる。自分の体に合った運動やボケないための脳トレーニングをする。これらに取り組み、工夫や研究を積み重ねることで、ますます身体も精神も健康体になります。そのような行動をとることで、健康に対する疑心暗鬼の不安感は随分と小さくなってくるものと思われます。(生きる力 ~森田正馬の15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版 168ページより1部引用)
2018.08.21
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日大アメフト部の前監督の目標は何だったのか。昨年度、思いもかけず、日本大学は甲子園ボウルで大学日本一を勝ち取った。それで、大学の内外で改めて前監督の手腕が評価されることになった。前監督は、さらにその評価を高めて、ゆくゆくは日本大学の理事長となりたかったのだろうか。自分の野望を実現するために、さらにチームを強くして連続大学日本一を勝ち取ろうとした。その手段として、アメリカンフットボールのコーチや選手たちを自分の思い通りにコントロールしようとしたのである。これは運動を通じた人間教育とはいいがたいのではないか。そもそも教育の在り方とはどうあるべきなのだろう。小中学生では、大人になって生きていくために人類が積み上げてきた基礎的な学習が欠かせない。国語、語学、算数、歴史、地理、理科、社会の仕組み、人間関係のあり方、体の仕組み、自分の適性などの学習である。これらを広く浅く学習しておく事が重要である。それ以上の学問は、それぞれの人の進路に合わせて高等教育として、選択科目として教育していけばよいのではないのか。次に高校や大学の課外活動である運動部の目標は何か。課外活動である運動部の目標は人間教育にあると言われている。体育会系運動部は教育の一環として行われているのである。大人になって社会の荒波にさらされて生きていく中で、様々な困難や壁が待ち受けている。それらから安易に逃避することなく、果敢に乗り越えるための強靭な体力、忍耐力、対人折衝能力、個人の能力や技術等を身につけることにある。選手個人個人が自分の目標や課題を認識し、それを乗り越えるために努力精進することは尊いことだ。選手個人で目標や課題を見つけられないときは、監督やコーチが選手を刺激したり、一緒になって考える。いずれにしろ選手が目標や課題を見つけることが大切である。目標に向かって向かって努力・挑戦していくことはもっと重要だ。挑戦の過程では、容易に目標や課題は達成できないことが多い。そんな時は監督やコーチの出番だ。監督やコーチはその状況をよく見て、選手がくじけてしまわないように、側面から支援をしていく。監督やコーチはサポート部隊なのである。監督やコーチがサポートすることによって、それぞれの選手は、中途で挫折することなく能力を獲得して大きく成長していく。そのような体験や経験を持った人間は、社会の荒波に放り出されたとき、つらい状況を乗り越えることができるのである。運動部に所属するとそのような人間教育の体験を積むことができる。これが課外活動における教育の醍醐味である。森田理論学習を続けている私たちは、「かくあるべし」があまりにも前面に出てくると、こんなにも悲劇的な状況を迎えるという事を肝に銘じておく必要があると思う。
2018.08.20
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先日延長国会でカジノを賭博罪の適用対象から外す「統合型リゾート施設(IR)整備法」が成立した。通称「カジノ解禁」法である。この法律は、安倍総理の成長戦略の柱と位置づけている。世界から観光客を呼び込み、税収増加や雇用の創出を目的としているという。北海道、大阪、和歌山などがIR誘致に名乗りを上げている。開業は2020年半ば以降である。果たして目論見通り、外国人が大金を落としてくれるのだろうか。現在カジノといえば、ラスベガスやマカオが有名である。日本政策投資銀行などの訪日外国人旅行者の意向調査では、日本のカジノに行きたいという人はわずか7%であったという。世界の大富豪がカジノをやる場合は、日本よりは本場のラスベガスに行きたいのである。お客の大半は日本人で占められるのではないか。そうなるとギャンブル依存症が心配だ。現在、競馬、ボート、競輪などの公営ギャンブルやパチンコなどの市場規模は、驚くことに30兆円であるという。ギャンブル依存症が疑われる人は現在約320万人に上るという推計もある。国民の約3.6%である。有識者によると、カジノ解禁によって5 %台に跳ね上がると予想されている。この法律によると、日本人には週三回の入場規制を設けたが、 1回の入場で、 24時間以内は自由に出入りできる。日付をまたげば、実質的には週6日通うことができる。ザル法だ。さらにカジノ事業者が、入場者にカジノの金を自由に貸し付けできる。つまり好きなだけ賭け事ができる。これは2カ月間は利息が付かないが、それ以降は年14.6%の利息がつくことになる。この貸付金は、貸金業法の対象外である。社会問題になった多重債務者救済の為に導入された、年収の3分の1を超す貸し付けを原則禁じる「総量規制」を守らなくてもよいのだ。自己破産してもすべては自己責任の世界なのだ。さらに、カジノ事業者は債権を譲渡することもできる。反社会的集団に債権譲渡された場合、どのようなことになるのか。どんな現実が待ち受けているのか火を見るよりも明らかだ。カジノは私たちが絶対に近づいてはならない場所だということが分かる。この法律は331項目にものぼる細部については、国会審議を経ない政令や省令で決められるという。国民の知らないところでどんどん事は進行していくのである。そして、ギャンブル依存大国へと拍車をかけていく。共同通信社が7月21日と22日に実施した世論調査では、この法律に反対する人が64.8%に上った。安倍政権はこのような問題が多い法律を数の原理でいとも簡単に成立させたのである。政治は与党と野党がある程度の均衡を維持しないととんでもないことが起きるような気がする。国民の過半数が反対するような法律を簡単に通すことより、韓国には1件もないという、パチンコというギャンブルを日本から追放するような法律を作ってもらいたいものである。しかし、実際にはパチンコ業界は政界、官界、業界が三位一体となり確固たる利権関係が成り立っており、ギャンブル依存解消のために廃止することはあり得ないという。ギャンブル依存症に陥ってしまうと、そこから抜け出す事は並大抵のことではない。ギャンブルをしてはいけないということがわかっていても、すべての財産を失うまでのめりこんでしまうのがギャンブルである。さらに犯罪を犯したり、家族をバラバラにしてしまう。人間を廃人同様に追い込んでしまう可能性もあるのだ。そのような法律は絶対に作らないというのが政治家の仕事ではないのか。そのような国民を不幸にする法律を平然と通す必要はどこにあったのだろうか。何かやり切れない気持ちを抱かせるのは私だけであろうか。
2018.08.19
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この本を紹介します。著者は出口清一さん。医学通信社BOOKS。出口さんは現在名古屋大学の助手をされています。パワハラで2度うつで休職に追い込まれた方です。いずれも克服して復職されています。その時の取り組み方、ノウハウが詳しく書いてあります。大変参考になりました。森田療法では「大うつ病」は対象外とされています。「大うつ病」の知識として興味のある方は一読ください。なおこの本は市立図書館で借りました。一度に10冊まで2週間借ることができます。多読の私は大変重宝しております。
2018.08.18
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今日は、 「自然に服従」という意味について考えてみたい。まず、「自然」とは何か。一般的には台風、地震、津波、火山の噴火、大雨、洪水、土砂災害、雷、大雪、寒波、隕石の落下などの自然災害を思い浮かべる。これらは自然の圧倒的な力を前にして、人間はほとんど無力である。好むと好まざるとにかかわらず、最終的には受け入れざるを得ない。次に、地球の温暖化、酸性雨、オゾンホールの破壊、森林破壊、海洋汚染、大気汚染などの環境破壊の問題がある。これらは、人類が作り出した自然破壊である。自分たち人類が自然を自分たちの都合のよいようにコントロールし過ぎた結果である。ここには自然に対する畏敬の念は全くない。自然は人類が簡単に征服できる相手もみなしているのである。これはいったん暴走しはじめると、もう後戻りすることはできない。森田先生は、湧き上がってくる様々な感情も自然現象であると言われている。不安だ、恐ろしい、不快だ、苦しい、痛い、悩み、怯える、腹が立つ、悲しいなどの感情は、人間がコントロールできない自然現象である。神経症に陥るのは、自然現象に対してコントロールできると思って戦いを挑むからである。森田先生はそれ以外に「境遇」についても、自然現象であると言われている。生まれてきた時代、生まれてきた家、産んでくれた親、先天性の心身の疾患、神経質性格などは、自分で選択することはできない。また、成長していく過程で、大事故に遭遇し、大病になることも自分の力ではどうすることもできない。また自分に対する他人の理不尽な仕打ちも自分のコントロールできることではない。その他、政治、経済変動や金融不安、紛争や戦争なども自由にコントロールすることはできない。こうしてみると、自然という言葉は、大自然のみならず、多くの意味を含んでいる。それらはほとんど人間の意志の自由がきかないというのが特徴である。それを無理矢理にコントロールしようとすると、天に唾するようなもので、必ず人間に災いが降りかかってくる。基本的には、できる範囲の備えをして、それ以上の惨禍については、不満足ながらも受け入れざるを得ない。次に「服従」という言葉について考えてみたい。これは、ほとんどの人が忌み嫌う言葉である。経済力・政治・権力を持った人に一方的に支配される状態を連想させるからである。服従には、国家権力、多国籍企業、独裁者、奴隷、支配・被支配、征服・抑圧などの言葉を思い浮かべる。支配・被支配、征服や抑圧などのの人間関係は、いずれ行き詰まっていくのが人類の歴史である。その解消のために、平等な人間関係を求めて紛争や戦争が繰り返されてきた。そういう歴史を学ぶこともなく、紛争や戦争は今でも繰り返されている。本来は、人間はお互いに平等で、共存共栄の関係が望ましい。しかし、人間の性なのだろうか、少し気を抜くと支配、被支配、征服、抑圧の関係に陥ってしまう。調和やバランスを得ることがとても難しい。自然、服従という言葉は以上のように分析できるだろう。森田先生は、この2つの言葉を結びつけて、 「自然に服従せよ」と指摘されている。自然に戦いを挑んではならない。自然に対しては、どんなに承服しがたい出来事が発生しても、その事実を受け入れるということが基本であると言われているのだ。森田先生の場合は、主に境遇や感情について言及されている。不安、恐怖、怯え、違和感、不快感など、自然に沸き起こってきた感情はひとまず受け入れることが大切である。それらの感情を嫌だからといって打ち消そうとしたり、逃避してはならない。抵抗は無用である。どんな嫌な感情でも、理不尽な事実であっても我慢して持ちこたえることが大切なのである。これを一言で言えば、 ずばり「自然に服従」するということであろう。そういう前提に立って、目の前の仕事や、やるべきことに取り組んでいく。そうすれば、あんなに嫌だったネガティブな感情は気にもならない小さな感情に変化していくのである。これが森田療法理論の最も重要な考え方の1つである。
2018.08.18
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今日は「無所住心」について考えてみたい。これは自分の取り組んでいる事や悩み一点だけに意識や注意を集中させてはならない。一点だけに注意を集中させずに、自分の周囲の四方八方にまんべんなく注意を向けていくことです。アフリカの草原に住んでいる草食動物は、餌を食べている時でも、常に近くに肉食獣がいないか四方八方にアンテナを張っている。そうしていないとすぐに肉食獣の餌食となってしまうからです。我々神経質者は、自分の気になる症状一点に意識を向けて、症状を取り除くことばかりに没頭している。これでは症状を取り除く事はできずに、逆に悪化していく。さらに、周囲に意識や注意が向かないために、うっかりミスが多くなる。変化に対応することができず、臨機応変な行動はできなくなってしまうからです。1つのことに注意を集中していると、金縛りに遭ったような状態になる。例えばプロ野球のピッチャが、 一打逆転されるような厳しい状況に直面した場合、 「相手バッターを打ち取りたい。うちとらなければならない」などと、一点に注意や意識が高ぶってくれば、逆に緊張して失敗することが多い。普段は精密なコントロールが出来ているようなピッチャーでも、ピンチになればつい力が入って暴投や打ちごろの球を投げてしまう。これは注意を一点に集中してきたための弊害と見るべきだろう。冷静さを失い、自分の一人芝居になってしまう。これではチームとファンの期待に応えることはできない。このような時に、状況判断ができる選手は違う。1塁が空いていれば、きわどいところを攻めてフォアボール覚悟で臨むことができる。相手打者の特徴を日ごろから研究していれば、その弱点を突いていくような工夫もできる。ベテランキャッチャーがいれば、そのリードに身を任せて、自分は思い切って腕を振って投球することもできる。ここでは、相手バッターを抑えるために意識を打ちとること一点に集中するのではなく、四方八方に注意を分散しておくことが、力みを抑えて、普段通りの力を出すことにつながるのである。帚木蓬生氏は、普段「無所住心」の生活を心がけている人は、何かことがあって、精神を集中させなければならないときは、自然に精神が統一できるようになると言われています。逆に1つのことに注意や意識を集中している人は、集中しなければならない肝心な時に、悲観的でネガティブな余計なことを考えてしまう。無意識でいつもの通りにやれば出来るような事でも、 1つのことに注意や意識を集中して、ああでもないこうでもないと取り越し苦労をしてしまうのである。そして自分の思いとは反対の結果を招いてしまう。四方八方に注意が向いている人は、気になる一点に絞って取り越し苦労ばかりしているのではない。そういう人は気になる点が無数に存在している。一つ一つこだわっては身が持たないのである。そして自分の身に危険が及ぶような事、取り返しがつかないような危険な状況にあることはすぐに察知できるようになる。変化に対応して素早く臨機応変な対応ができるのである。これによって、大事に至ることが少なくなる。全体としてはうまくいくのである。健康志向の人が、健康でありさえすれば、命なんかほしくないという笑い話がある。健康体を維持するために運動やサプリメント等は色々と試している。中には熱中症をものともせずに運動に励む人もいる。怪しいサプリメントを飲んでいる人もいる。これは注意や意識が健康のことばかりに向いているからである。本当は長生きするための健康法だったにもかかわらず、今や健康のための健康法になっている。これも注意や意識の極端な集中の賜物であると思われる。我々神経質者も、注意や意識を1つのことに集中しないで、まんべんなく四方八方に向けるという方向で生活することが大切であると思う。
2018.08.17
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森田理論のキーワードに「なりきる」という言葉がある。これは2つの意味があると思う。1つは「ものそのものになりきる」というような使われ方である。行動するときは、症状を治したいという気持ちは横に置いて、一心不乱に取り組むことである。症状を治したいという気持ちがあると、心は物事や外向きにならず、自己内省的、自己否定的になって、症状はかえって悪化する方向に向かう。もう一つの使われ方は、 「弱くなりきる」というような使われ方である。弱い人は強がったりしないで、弱い人間であると自覚して、弱い人間として生きていくという意味である。ここでは弱い人間であるということを自覚し、それに抵抗しないで素直に受け入れるということである。弱い事実と一体となった状態である。不安と一体化、恐怖と一体化、痛みと一体化、不快感と一体化、苦悩と一体化した状態である。動物はほぼ一体化していますが、人間には大脳が発達して、なかなか一体化できないのです。トイレ掃除や排水溝の掃除は汚いから嫌だと思う人は多いでしょう。嫌だという気持ちはそのままにしておく。その気持ちを持ったまま、いやいや、しぶしぶ掃除にとりかかる。本人の気持ちはともかく、周囲から見ると不快感と一体化した状態です。とりかかってみると、最初の不快感はどんどん変化していきます。少なくとも、ずいぶん薄まってきます。掃除は終わった頃には、きれいになったトイレや排水溝を見て嬉しくなってきます。慢性疼痛も痛みや苦痛になりきってしまうと、それ以上の痛みは感じなくなってきます。苦痛に顔をしかめ、なんとか痛みを取り除こうとしてあがいているうちは、苦痛はいやがうえにも高まってきます。対人恐怖の人は人を恐れています。恐ろしいから人と接触するような場面も避けています。人の思惑ばかりを気にして金縛りに遭ったような状態です。人が恐ろしいという気持ちはそのままにして、やりくりしないで野放しにしておくことが大切です。不安には恐怖を排除しないで行き着くところまでいきつかせるのです。放置することができれば、後は時間が解決してくれます。不安や恐怖が次第に気にならなくなってくるのです。不安や恐怖になりきって一体化している状態です。それを更に促進させるためには、目の前の仕事や日常茶飯事に取り組むことです。正岡子規は次のように言っています。「悟りという事は、いかなる場合にも、平気で死ぬことかと思っていたのは間違いで、悟りと言う事は、いかなる場合にも平気で生きることであった」これは「弱くなりきる」という言葉を適切に説明しているように思われます。山本五十六は次のように言っています。苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不安なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえていくのが男の修行である。人生には苦しい事、言いたい事、不安なこと、腹の立つ事、泣きたい事などが次から次へと起こってきます。これらに対して、基本的には我慢したり耐えたりしながら、しかもいつも前を向いて生きていくことが大切なのだと言っているように思われます。森田理論で言うところの「弱くなりきる」ということではないでしょうか。
2018.08.16
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森田先生は、 「即」という言葉をどういう意味で使われておられるのだろうか。煩悩即菩提、煩悩即涅槃、煩悩即解脱、雑念即無想、矛盾即統一、諸行無常即安心立命、強迫観念即安楽、耳鳴即無声、病気即未症などである。一般的に即という言葉は、即席ラーメンという言葉があるように、すぐにただちにという意味がある。それから拡大解釈されて、 「とりもなおさず、つまり、すなわち、言い換えると」という意味を持つようになった。即という言葉をこれらの言葉に置き換えてみると、少しはわかりやすくなる。煩悩を持って苦しんでいる人は、「言い換えると」解脱した人である。耳鳴りを持ってイライラしている人は、「すなわち」耳鳴りが気にならない人である。でもこれではまだまだ説明不足で何のことかさっぱりわからない。私たちは一般的に煩悩で苦しんでいることと、煩悩をなくして心安らかな日々を過ごす事は全く正反対のことであると考える。だから煩悩を持っていることが、そのまま解脱していると言われてもにわかには信じがたいのだ。理論的に整理して分かるように説明してくれないと、言葉遊びのようなものに終始してしまう。私は次のように考える。煩悩を持っていると、自分の思い通りにいかなくて葛藤や苦しみが生じる。いわゆる森田理論でいうところの「思想の矛盾」である。そこでその葛藤や苦しみをなんとかなくしてしまおうと、様々なやりくりをする。そのようなことをすると煩悩は煩悩のままである。葛藤や苦しみはなくならない。葛藤や苦しみがなくなるどころかどんどん増悪してくる。煩悩をなくそうとする様々な抵抗を止め、そんな気持ちを持ったまま我慢して耐えていく。それがいいとか悪いとか、価値判断をしないようにするのだ。そして目の前の仕事や、やるべき事、興味や関心のあることに手を出していく。そうなれば、煩悩はあるにはあるが、気になる度合いがどんどんと小さくなってくる。これは自分の乗っている電車と並行して走っている電車が同じスピードの場合、自分が動いているということを意識していないということと同じことだ。防災ヘリで人命救助に当たっている人が、次のように言っていた。高層ビルの上や高い山の山頂で人命救助をしている場合、高所恐怖症に見舞われることはほとんどない。ところが、救助活動が終わり、ヘリコプターが動いて少しでも位置がずれると、急に距離感が変わって高所恐怖感が出てくる。急に自分の身を守るという意識が自然に働くのだろう。「病気即未病」とは、実際にはガンや難病で苦しんでいても、できるだけ健康な人と同じように日常茶飯事をこなしていけば、病気ではあっても、精神的には健康的であると言える。「耳鳴即無声」とは、しつこい耳鳴りをなんとかなくしてやろうとやりくりをしていれば、意識や注意がその一点に集中し、ますます耳鳴りがひどくなってきます。不快な気持ちを我慢しながら、日常生活を進めていけば、いつの間にか耳鳴りのことは忘れていたという状況が訪れてきます。そのようなことが増えてくれば、いつの間にか耳鳴りは気にならなくなってくるものです。雑念にしても、強迫観念にしても、それを目の敵にして戦いを挑んでいたのでは、症状としてはどんどん悪化してきます。即という言葉が意味する通りの状態にもっていくためには、条件があります。治すための努力を放棄するということです。どんなに不快で理不尽なことであっても、それらに耐えて我慢して受け入れるということです。そして、目の前の仕事や日常茶飯事に手を出していれば、煩悩、雑念、耳鳴りなどは問題にならなくなるということです。つまりそれらの葛藤や苦しみから解放されているということです。
2018.08.15
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私たちはネガティブな気分や感情に左右されやすい。イヤだ、恥ずかしい、腹が立つ、嫉妬する、恐ろしい、不安だ、億劫、しんどそう、失敗するかも、たいぎそう、めんどくさそう。苦しそう、やる気がしないなどという気分や感情に振り回されてしまう。誰でもが感じることである。感じるだけなら問題は発生しないが、それに重きを置いた生活態度は問題である。これらの感情に振り回されてしまうと、次第に生活がだらしなくなってしまう。生活が後退し、怠惰な生活となる。安易に人に依存するようになる。観念的になり、内向きで思考が空回りするようになる。人間関係も希薄になり、次第に孤立してくる。坂道を転がる雪だるまのように、観念と生活の悪循環がどんどんと拡大していく。このような気分や感情に重きを置いた生活態度は、 「気分本位」という。例えば、毎日の食事の後の皿洗いです。気分が乗らないので、食べたあと、食器を洗う気がしません。流しにそのままにしておいて、食器棚から別の皿を出して、スパゲッティーでも食べます。あるいは山積みになっている食器の1枚か2枚をそそくさと洗って、インスタントのチャーハンを食べます。そのうち皿がなくなれば、紙皿や紙コップを買ってくるようになります。流しの中は汚れた食器の山のままです。やはり洗う気分にならないので放置しておくしかありません。このような気分に左右された状態を他人が見れば、怠惰と言うしかありません。これに対して、目の前の日常茶飯事や仕事、勉強や家事、育児などのやるべきことに手を出していく生活態度を、 「目的本位」 「物事本位」といいます。日々の生活では、しなければならない仕事、急がれる仕事、大切な仕事が山積みになっています。考えれば嫌な気持ちになり、ため息がでるでしょう。それはそれでいいのです。嫌な気持ちのまま仕事に着手することが大切なのです。この生き方は、気分や感情に翻弄されない生き方である。目のつけどころが違うのである。嫌な気持ちを持ったまま、仕事、勉強、育児、子育て、介護、日常茶飯事、親戚や町内会の付き合いなどに手をつけていくのである。行動・実践していれば、気分や感情はいかようにも変化してくる。後から考えると、 「気分本位」に陥らなくてよかったということになる。だいたい気分や感情というものは、新しい行動をとることによって、新しい感情が発生する。そうすれば、どんなに不快な古い感情であっても、しだいに小さくなっていくのだ。なかなかうまくいかないこともあるだろうが、 「目的本位」 「物事本位」を目指すことで、生活は前に進む。学力や技術が身につく。生活の糧を得て、自分や家族を養うことができる。実践や行動によって、興味や関心が生まれ、生きがいを持つことができる。多くの人と友達にもなれる。人間放っておくと気分や感情に左右されやすい。特に心配性な神経質性格者は、その方向に流れやすい。そうならないためには、「気分本位」を捨てて、 「目的本位」 「物事本位」の生活態度を身につけておく必要がある。そのために、森田理論学習がある。そして生活の発見会などの自助組織に参加して、仲間同士で刺激を与え合うことが大事になってくる。 (生きる力 ~森田正馬の15の提言 帚木蓬生 75ページから86ページを参照)
2018.08.14
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森田先生の書は味わいがありますね。
2018.08.13
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森田理論は、基本的に、どんなに承服できない事実であっても、それを受け入れる態度が大切であると言っている。そういう態度を身につけることをお勧めしているのである。では、事実を受け入れない人はどのような態度で周囲の人に対応しているのでしょうか。1 、何か問題が起きると、 「それは私がやったのではありません」 と事実とは異なる嘘をつきます。そして他人が納得するようなアリバイを捏造して、いかにも自分は無関係であるように装います。明らかな証拠がなければ、いくら嘘をついても他人にわかるはずはないという態度が見え見えです。今の法律は、明らかな証拠がないと、その人を罰することはできません。それを逆手に取って、証拠隠滅を図るのです。その証拠隠滅がバレそうになると、また新たな嘘をつきます。嘘が嘘を産んで次第に辻褄が合わなくなってきます。2 、他人に責任転嫁する。 「この問題は上司の指示によってやりました。したがって責任は私にはありません。罰せられるべきは上司です」 「前の担当者がずさんな管理をていたために、このような事件が起こりました。私は被害者なのです」3 、 「この事件はたいしたことではない」などと事態を過小評価することです。 「たかが1時間遅れただけじゃないか」と待ち合わせ時間に遅れたことを軽く取り扱う。主人が大事にしていた花瓶を壊したときでも、 「たかが花瓶ひとつが壊れただけではないか」などと開き直る。学校でイジメで子供が自殺したとき、いじめた側の生徒が「あれはイジメではなくて、遊びでした」と平気で言う。虐待された子供が亡くなり、逮捕された親が、 「あれは虐待ではなく、しつけでした」などとシラを切る。4 、大きな問題が発生したのに、開き直って正当化する場合もあります。原子力発電所の大事故が起きても、 「資源の少ない日本で原子力発電以外に何があるというのだ。今後も積極的に推進していく必要がある」試験で不合格になったとき、 「あんな引っかけ問題を出す教師などペテン師のようなものだ」と自分を擁護しようとする。5 、言い訳の言葉としては次のようなものがあります。「しかし」 「でも」「魔がさしたのです」 「そうせざるを得なかったのです」 「つい他のことを考えていたので」 「無我夢中でついやりました」 「そんなつもりはありませんでした」 「冗談で言っただけです」 「あの時は体調が悪かったのです」 「忙しすぎて、ついうっかりとやってしまいました」いづれも事実から目をそらして、責任を逃れようとする気持ちが見え見えです。帚木蓬生氏は、言い訳と嘘で壁を作ってしまうと、反省や内省が生じません。嘘と言い訳で、失敗は失敗を呼びます。どこまで行っても失敗の連続ですと言われています。私たち森田理論学習を続けているもの者は、どんなに承服しがたい理不尽な事実であってもに素直に認めて、事実に服従して、事実本位に生きることを目指しています。ここでは、事実を無視すると、さまざまな弊害が発生すること理解していただきたいと思います。(生きる力 ~森田正馬の15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版 63ページから74ページを参照)
2018.08.13
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引き続き帚木蓬生氏の講演で心に残った話を紹介しよう。病気の人は、健康な人のふりをすることが大事だ。病気のことは病気に任せる。病気を人にさとられるようではいけない。これによると、例えば腰痛になって周囲の人に「腰が痛い」と言って、自分の痛みを公表するのはよくない。痛みを公表すると、周囲の人に自分の腰痛が知られてしまう。そうするとますます弾みがついて、痛みを口に出すようになる。それを理由にして、日常茶飯事を避けるようになる。周囲の人は、たびたび愚痴を聞かされるようになる。一応いたわりの言葉はかけるが、そのうち次第に嫌気がさしてくる。本人は注意や意識が腰痛のことだけに集中して、実際の痛み以上に腰痛が悪化するように感じる。だから、あくまで基本的には、病気になっても、 「人に言わない、見せない、さとられない」ことが大切なのです。いくら苦しくても、痛くても、ある程度は我慢して、さりげなく日々の生活を続けていた方が、苦しみも痛みも減ってきます。いわば、泣きながらの前進です。苦しくない、痛くない、平気な顔して目の前の実生活に全力を注ぐのです。心は行動のあとについてくる。そう考えた方が事実に近いのではないでしょうか。心にはクモの巣が張ったまま、埃が積もったままでも構わないのです。外相さえ整え、日々の生活の大切な部分に着手していくうちに、クモの巣も埃もどこかに消えてしまいます。心には、はいはい、さようでございますと馬耳東風の態度で臨むのが1番です。言うなれば全面降伏です。降伏したのですから、心と戦う必要はありません。内相を、心の旗印にすると生活に雑音が入りだします。早い話が、 「生きる意味」とは何か、これを突き詰めて考えた挙句、生きるための錦の御旗を手に入れたとしても、すぐにつまずきが待っています。心が「生きる意味」の御旗を高々と掲げて、体がついていけば、話は簡単です。実際には外相、つまり行動はなかなか伴ないません。心に方向性がないので、旗が上がってもついて行きようがないのです。それより、外相を整えた方が、 「生きる意味」などはすぐに見つかります。困った人を助ける、人に親切にする、親孝行、日々の家事、日常の仕事を黙々とこなす外相の方が、内相より整いやすいのです。整えているうちに、 「生きる意味」も明確になってくるでしょう。文化勲章や芸術院会員を辞退し、無名の一陶工として生きようとした河井寛次郎氏が残した言葉に、 「手考足思」があります。陶芸家は、瞑想して作品の想を練るのではありません。足でろくろを回し、手で粘土をこねているうちに、想が形を成してきます。これは人間の実生活の真理です。頭で思考するよりも、手足を動かして思考した方が、人間の生活には最も適しているのです。(生きる力~森田正馬の15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版 51ページから62ページより要旨引用)
2018.08.12
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帚木蓬生さんの「生きる力~森田正馬の15の提言」 (朝日新聞出版 47ページ)にある言葉です。物を頼むときは、忙しい人に頼め。忙しい人には時間があるが、暇な人には時間がない。ちょっと矛盾するようだが、真実をついている言葉である。普通に考えると、暇な人にはふんだんに時間があるように思える。なんでもやろうと思えばできそうな気がする。しかし、暇な人は頭の回転も悪く、さらに手や足が出ない。時間が有り余るほどあっても、それを活用する精神状態にはないのだ。もともと精神が緊張状態にはなく、弛緩状態にあるから無理なのである。さらに考える事は内向的で、自己嫌悪、自己否定、愚痴、他人否定に偏っている。つまり、不平不満ばかりで、欲求不満に陥っているのである。無為な時間ばかりがあるのである。そういう人にできもしない無理を言ってはいけないのだ。幾つもの案件を抱えて忙しい人は、あれもこれも周囲のことが気になる。好奇心旺盛で、実際に興味や関心のあることにすぐに手足を出す。また、しなければならないことや問題点を見つけると、すぐに行動を開始する。全般的に手を付けることが早い。仕事が早いか遅いか人物観察すると、その人の精神状態がよく分かる。傍から見ていると、小さな家事や仕事などをお金を扱うようにとても大事にしている。気持ちが外向的で、しかも行動的である。頭の中は同時進行的にいろんな懸案事項を抱えている。1つのことにいつまでもこだわっていることができない。細切れ時間を活用して、数多くのことを手がけている。解決困難なことは見切り発車をして、目の前のやるべきことを数多く手がけている。行動する癖がついていると、ちょっとした困難や壁を簡単に乗り越える力が備わっている。帚木先生は、 「小事をおろそかにする人は大事はできない」と断言されていた。全くその通りだと思う。その上で、受験勉強のコツを伝授されていた。それは、一つの科目を1時間なり2時間、ぶっ通しで取り組むのはまずいやり方だ。例えば6つの科目があれば、 10分なり20分に小分けに分けて、どんどん科目を変更していく勉強法だ。こうすれば、わからない場所があっても、それはそのまま放置して、次の科目に移ることになる。すると、新たな気持ちでその科目に取り組むことになるので、何とも言えない不快感で苦しむことがない。これは森田理論で言うと、 「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」ということである。忙しい人は、ぶらぶらと歩いている様な状態ではなく、ランニングをしているようなものだと思う。ランニングをしていると、手や足は素早く前後に動かしている。体も活動的で緊張状態になっている。忙しい人は、それに加えて頭がフル回転して緊張状態あるのだ。そのような状態になると、様々なことに気が付き、弾みがついて、新しいアイデアが泉のようにこんこんと湧き出てくるのだ。神経質者は、物事に取りかかるのが遅い。しかし、いったん取りかかると弾みがついていつまでもそのことばかりに熱中している。そういう状態になると、例えば集談会参加のお誘いをしても、今取り組んでいることに手一杯で、それ以外のことは時間がなくて参加はできないと言われる。これが悪といっているのではない。実践や行動の取り組み方に問題があり、森田の視点で見ると残念な結果に終わっていると思うのだ。そういう人の話を聞いていると、オンラインゲーム等では時間無制限で深夜遅くまでとめどなくふけっている。つまり、時間の有効活用は頭にないようだ。さらに規則正しい生活習慣作りも頭にない。こういう考えでは、森田理論の「物の性を尽くす」という実践がすっぽりと抜け落ちてしまう。「物の性を尽くす」には、物、自分、他人、時間、お金などがあるが、そのすべての面に渡り、考えが及ばなくなってしまうのだ。何年も森田の学習をしてきたのに残念なことだ。同じ事を長時間続けていると、だいたい飽きが来るものである。体や頭脳も使っているその1部分が疲れやすくなる面もある。そうなると、臨機応変、変化に対応する動きができなくなる。周りから見ていると、融通がきかない人である。自己中心性が強い人である。次第にそういう人とは距離を置きたくなるのである。神経症が治った人は、もちろん今自分が力を入れていることに注意や意識の大半が向いている。しかし同時並行的に、その周辺のことにも注意や意識が向いているはずである。ここが肝心なことである。つまり、 1つのことに注意や意識を集中しているのではない。まんべんなく周囲のことにも注意や意識が行き渡っている状態である。そういう人は、同時進行で様々な課題や問題を処理することができる。仕事や勉強の切り替えも早い。そのことによって多くの事を手掛けることができ、能率が上がるのである。
2018.08.11
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これは100均で見つけたものです。くちばしが尖っていて、止まり棒の上に乗っています。うまい具合に羽根と尻尾でバランスをとっています。尻尾に手をかければ、グルグルと回転します。私はこれを見ると森田理論の「精神拮抗作用」を思い出します。森田理論は不安と欲望は、どちらかに片寄ることは問題だと言います。それよりはバランス・調和をとることに注力することを勧めています。私はヤジロベイ、天秤を意識付けとしてお勧めしてきました。また、サーカスの綱渡りの芸のバランス感覚の話は何回も紹介しました。ここに、竹細工のトンボも付け加えたいと思います。
2018.08.10
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7月15日、高知県民ホールで森田正馬没後80年記念講演会が開催された。定員は1000名の会場であったが、ほぼ埋まっていた。その中で特別講演として、作家で精神科医の帚木(ははきぎ)蓬生氏のユーモアに溢れた楽しい話を聞くことができた。演題は、 「生きる力~森田正馬の15の提言」であった。この題名の本はすでに読んでいたが、講演を聞いてまた読みたくなった。今日はその中から印象に残った話を投稿したい。先生は、毎日4時から6時までを執筆活動に当てておられる。これを30年間続けられた。その中から、多くの文学賞に輝く数多くの作品を世に送り出された。昼間は精神科医の仕事をされている。自身のことを、 1日中机に座っているのではないので、パートタイマー作家だと言われていた。アイデアが浮かばない時は、「へのへのもへじ」と書いている。この点は神経症の時の倉田百三とよく似ている。森田先生は神経症の倉田百三に対して、小説が書けなくても、書き続けなさいと言われていた。そういう習慣は、 1日中机の前に座って小説を書いているプロの作家に引けをとらない成果を出す。よい習慣は才能を超えると言われていた。その説明の際、 1万時間の法則についても紹介された。1万時間を3時間で割ると、 3,333日となる。 約10年間である。何を言いたいかというと、毎日コツコツでも10年間も続けていると、その道のプロになれるということである。私はそれに遠く及ばないが、毎日6時40分に起きて8時までの1時間20分をこのブログを作成する時間に当てている。先生の半分の時間である。さらにまだ6年目に入ったばかりだから、先生の30年間にははるかに及ばない。それでもある程度のアクセスはあるので、 「継続は力なり」と決意も新たに精進していくことを心に誓った。その際、「が」「だが」「こと」という言葉は、文章をダメにすると言われた。知識のひけらかしに通じる。これらの言葉は先入観や決めつけによって、自分の「かくあるべし」 を前面に押し出す態度がみえみえである。物事をよく観察することができる人は、文章がうまくなるそうだ。それは観察したことを素直に表現するからだろう。事実を事実のままに文章にすることが肝心である。面白い話は、医者で文章を書くことが下手な人は、よい医療行為はできないと言われていた。診断をを下す前に、患者を観察するという態度を持ち合わせていない人である。過去の経験をもとにして先入観で決めつけをしてしまう。文章を書くことを苦手にしている医者にはかからない方がよいと言われていた。そういう医者は病巣ばかりに注意や意識が向いていて、目の前の患者を見ていない。中にはパソコンのカルテ作成に集中して、患者の顔すらまともに見ない医者もいる。あるいは自分の治療成果の実験台として利用しているかもしれない。そういう医者は得てして、日記は書いていない。文章を書かせれば小学生並みである。結局そういう医者は、上から下目線で患者を見ているのである。それは私たちが問題にしている「かくあるべし」的態度である。患者に寄り添い、患者の身になって医療行為を行っているのではないのである。そういう医者は、一刻も早く見切りをつけないと大変なことになる。ここで先生の言いたい事は、物事をよく見つめる。よく観察するということが極めて大切なのだということだろう。
2018.08.10
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松下幸之助さんは新入社員に対して、結果をきちんと報告することの大切さをしばしば説いておられる。例えば上司から、 「 Aさんと会う予定だったが、急用で会えなくなった。Aさんに明日お会いすると伝えておいてくれ」と頼まれたとする。この場合、 Aさんに連絡したあと、必ず上司にも「Aさんに伝えておきました」と報告することが肝要だ。上司は安心し、信頼するようになる。「指示されたことだけ指示通りにやる」とか「報告を求められていない」と考えるようではダメである。プラスアルファを加えるのが仕事なのだ。そしてプラスアルファは、小さく平凡なことでいいのである。積み重ねればいい。 「難しいことができても、平凡なことができないということではいけない。難しいことより平凡なことの方が大事である」平凡な事、手を抜こうと思えば抜ける事を軽んじず、丁寧にやっていくことだ。独創的な人を見ても驚くほど細かい事まで気づくし、実行しているものである。「独創は得意ですが、細かい事は嫌いです」という成功者はまずいない。(一分間松下幸之助 小田全宏 ソフトバンククリエイティブ 88ページより引用)森田先生も、指示されたことだけを指示通りにやることをお使い根性だと言われている。形外先生言行録に林要一郎さんがこんな話をされている。ある日、庭で働いている私を、 2階の居間におられた先生が「林君、林君」と呼ばれた。早速、 2階に上がって、居間に伺うと、先生は床の間にかけられた掛け軸を指差して、これを巻いてしまいなさいとの事である。お指図のままにその幅を巻いて箱に収めた。 「それでよろしい」と言われるかと思うとそうではない。「君はあれは誰の筆か見たか」とのお尋ねに私ははっと詰まって黙ってしまった。「だから君はダメだ、掛け軸を巻けといえば、言われるままに機械的に巻くだけだ。なぜ巻きながら筆者を見たり絵を見たりしないのか」と言う先生の言葉が続いた。森田理論では実践や実行を重視している。その際注意することがある。依頼されたことを、指示通りに実行するだけでは神経症の克服にはつながらない。それは実行することによって、神経症を治せるのならば取り組んでみようという気持ちがあるからである。この気持ちはあると、神経症が治るどころか、どんどん増悪していく。ここで大事な事は、実践や実行することによって、何らかの感情が湧きあがってくることなのである。感情が湧き上がってくると、疑問、興味、関心、気づき、発見などが生まれてくるのである。お使い根性で行動していては、何ら感情が動き出さない。今1歩踏み込んで、無我夢中になり、ものそのものになりきるという体験が必要なのである。松下幸之助さんが言われるように、指示されたことに対してプラスアルファを付け加えて取り組むと、気づきや発見、工夫などが次から次えと生まれてくる。これが物事本位になる、ということである。
2018.08.09
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カーネギーの言葉に「不足しているものを数えるな、恵まれているものを数えてみよう」というのがある。欠点を修正することよりも、むしろ長所に光を当てて磨き上げるということである。陸上競技では、マラソン向きの選手と短距離向きの選手は筋肉のつき方からして全く違います。マラソン向きの選手が自分の得意な面を忘れて、短距離の練習をしたところで成果が上がりません。自分の得意な面に焦点を絞って伸ばしていくことが、生きがいにつながってゆきます。プロ野球選手は、球を遠く投げること、球を遠くへ打ち返すこと、速く走ることなどは、天性のものであって、後からいくら鍛えても身に付ける事はできないそうです。ただプロの世界へ入っていく選手でも、 3拍子揃って超一流という選手はあまりいません。それでもプロの世界へ入ってくる選手は何かしら優れた面を持っている。3つのうちの1つは見るべきものがある。ホームランを打つような事はできないが、バットに当てることが上手な選手もいます。 150キロを超えるスピードボールを投げることはできないが、コントロールだけは抜群の選手もいます。また、多彩な変化球を操ることができる器用な選手もいます。打つことは苦手だが、守備だけは天下一品の選手もいます。相手ピッチャーや相手バッターの癖を見つけるのが上手な選手もいます。ベンチにいて仲間を鼓舞するのが上手な選手もいます。プロ野球の世界では、それらのうちの1つが他の選手よりも上回っていると、生き残っていくことができる場合があるのです。他はどうでもいいと言っているのではない。他は人並みか、人よりある程度劣っていても構わない。ここで最も重要なことは、他の選手と差別化できるアピールできるものを何か1つでも身に付けているということである。ですから、自分の恵まれている長所を伸ばしていくことに力を入れていくことが欠かせないのである。これを怠って、欠点を修正していくことばかりに力を入れていると、長所は次第に見劣りしてくるようになる。つまり平凡な選手に成り下がってしまう。そうなればプロ野球の世界から弾き出されてしまうのです。我々神経質者は、鋭い感性を持っている。他の人が気づかないような細かいこともよく気がつく。反省心が強く、分析力があり、責任感があり、粘り強い。好奇心が旺盛で、強い生の欲望を持っている。これらを自覚して、さらに磨きをかけて、これで勝負していくという覚悟を決めることが大切である。これが神経質者を活かす道であり、これ以外に自分を活かす道はないのではないか。神経質性格には、小さなことに取り越し苦労をする。小さなことにいつまでもとらわれてしまう。自己内省ばかりで外向きにならない。 「かくあるべし」で自分や他人を縛り上げてしまう。などのマイナス面の特徴もある。これは神経質性格に限らず、どんな性格であってもプラスがあればマイナスがあるのである。ある程度修正していかなければならないが、基本的には性格のプラス面に光を当てて存分に活かしていく方向を目指さなければならない。私たちは森田理論の「神経質の性格特徴」を学習している。これが理解できたならば、後は自分の性格を実生活の中で生かしていくことを実践していかなければならない。理解できても、仕事や実生活の面で活かすことができなければ、残念な人生で終わってしまうこと肝に銘じておきたい。
2018.08.08
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森鷗外は小説家としてよく知られているが、本職は陸軍の軍医であった。軍医としても高位に上り詰めた人である。若き日の森鷗外は、軍医の仕事をきちんとこなした上に、睡眠時間を削り、文学活動にあてていた。そうした努力によって、彼は軍医としてより先に文学者として有名になった。しかし、その名声のために、周囲の中傷、ねたみを買い、東京の近衛師団軍医部長という要職にあったが、小倉の第12師団軍医部長に転任させられたという。左遷されたのである。当時、森鷗外は38歳だった。普通の人なら、こんな屈辱的な目にあわされるとやけになって酒でもあおり、周りの人に不平不満をぶちまけるだろう。凡人ならぬエリートならなおさら、これまで築いてきた出世の道は絶たれた。もはや将来はないと絶望の淵に落ちるだろう。しかし、鷗外は周囲のあざけりの目を受けながらも、敢然としていっそう勉学に取り組んだ。挫折をバネにしたのである。この不遇の時代の勉学が、後に大文豪の名声を決定づける傑作を次々に生む基礎となり、原動力となったのである。もし不遇の小倉時代がなかったならば、森鷗外の文学があれほど人間の深奥に迫るものに達し得ていたかどうかわからない。エリート軍医の高級な余技と評されるものに終わっていたかもしれない。ロシアの大作家ドストエフスキーも若い頃、大変な危機に直面した経験を持っている。政治運動に関わり、死刑を宣告されたのだ。処刑の日、あわや銃殺という直前に恩赦が出された。死刑は免れたものの、その後数年、シベリアに流刑された。死の1歩手前に立たされた経験、そして数年に及ぶ流刑は挫折どころか、普通なら精神に異常をきたすか、生きる意志も奪われてしまうほどの強烈な衝撃である。しかしドストエフスキーはそれに耐え抜き、さらに自らの体験を内面で深め、哲学にまで高め、後に世界的名作の数々を生み出していったのです。2人とも自分を襲った過酷な運命に対して、絶望し、すべてをあきらめ、投げ出してしまいたくなる時も当然あったであろう。しかし結果的には、彼らは運命の深刻さにとらわれたままにならず、その中で自分がなすべきこと見出して実行した。挫折や人生の危機を乗り越えるなかで、自分たちを高めていったのです。(心の危機管理術 岡本常男 現代書林 158ページより引用)森田先生は、このことについて次のように述べられている。 「運命は堪え忍ぶにおよばぬ。耐え忍んでも、忍ばなくても結果は同様である。われわれはただ運命を切り開いていくべきである。正岡子規は、肺結核と脊椎カリエスで、長い年数、仰臥のままであった。そして運命を堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。苦痛の激しい時は、泣き、叫びながら、それでも、歌や俳句や、随筆を書かずにはいられなかった。その病中に書かれたものは、ずいぶんの大部であり、それが生活の資にもなった。子規は不幸のどん底にありながら、運命を堪え忍ばずに、実に運命を切り開いていったと言う事は、できないだろうか。これが安心立命であるまいか」(森田全集第5巻 261ページより引用)私たちは神経症に陥ったことを嘆き悲しむのではなく、自分に与えられた運命だと思って受け入れて、それを乗り越えることで、一回りも二回りも大きな人間に成長していくのではないでしょうか。
2018.08.07
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鋭い感受性は強ければ強いほど、人生を楽しむことができると思います。好き、嫌い、美しい、醜い、嬉しい、感動する、悲しい、腹が立つ、妬みなどという感情は、強く沸き起こってくればくるほどよい。これらの感情がわき起こることによって、感情が発生し、次第に高まっていく。興味や関心が高まり、気づきや発見が次々と生まれてくるのです。それを元にして、自然に行動意欲、創作意欲などが発生する。意欲ややる気がみなぎってくる。自然に活動的となり、夢や希望が生まれる。生きがいを持って人生を楽しむことができる。神経質性格を持っている人は、普通の人と比べると、この鋭い感受性をより多く持っている。芸術家、音楽家、画家、小説家、解説者などは神経質性格でないと優れた作品を生みだすことができません。小さな心の機微を鋭くキャッチすることができる能力は、神経質性格者に与えられた特権です。天性のものですから、あとから鍛えて身に着けようとしても難しいものです。心配性であるということ自体が、鋭い感受性の持ち主であるという事を表しているのです。心配性であるという性格を、嫌な性格であるとみなす人がいますが、それは間違いです。微妙なことにすぐに反応してしまうという性格は、手に入れようとしても手に入れることのできない貴重な性格なのですから。私たちは、いくらお金を出しても手に入れられない鋭い感受性を持って産まれた事をもっと評価しなければならないと思います。そして私たちは、その鋭い感受性を日常生活の中で存分に活用していくようにしたほうがよい。活用に際して注意することがあります。例えば、自分たちの周囲には、しゃくにさわってとても好きにはなれない人がいます。そんな時、私たちは「かくあるべし」で、自分の周りに嫌いな人は存在してはならないと考える。周りの人全員に好かれたいのである。普通に考えるとそんなことはありえない。それなのに、嫌いな人にこびたりして、なんとか好かれようと涙ぐましい努力をしている。しかし結果は、ますます軽蔑されたり、馬鹿にされて、気まずくなるばかりである。この場合は、嫌だという感情が沸き起こってきたという事を評価したい。嫌な奴は嫌な奴だと感じる事はとても大切なことである。そう感じる感性が強いということだ。次に、嫌いな人を作ってはいけないという考え方は、 理想主義の考え方であることを自覚する。そこから出発していては、自分で自分を否定したり、自分が嫌いだと思う人に反発するようになる。ここでは、目の前に嫌な人がいるという現実から出発する。嫌だという感情は自然現象なのでそのままにしておく。忍受するということだ。感情が高まってなぐりたくなれば、その感情も否定しないでそのままに、味わい尽くす。自然に歯向かっても私たちに勝ち目がないことは、耳にタコができるくらい学習した。ここで肝心な事は、感情は行き着くところまで行きつかせるということだ。そうすれば、感情の法則で学習したように、どんな感情でも一山を超えると下ってくる。嫌いな感情も次第に薄まり沈静化してくるということです。肝心な事は、嫌いな感情が山を駆け上っている時、あるいは山の頂上付近で、じっと持ちこたえることができずに軽率な言動をとることです。これは、自分にとっても相手にとっても最もまずいやり方です。マイナスの感情と言われる、怒り、腹立たしさ、悲しみ、嫉妬などの感情の対処方法は皆同じです。私たちは鋭い感受性という高性能レーダーや魚群探知機を標準装備しているようなものです。ですから、その使い方を誤ると自分や相手を攻撃する道具に早変わりしてしまうのです。適切な使い方を森田理論学習によって学んでいくとともに、確実に身につける必要があるのです。そして私たちは、鋭い感性の持ち主という優れた面をさらに磨いて鍛えていく必要があります。そのために留意しておきたいことがあります。1つには、鋭い感受性は常に外向きに活動している中で生まれてくるものです。日常茶飯事、仕事、勉強、育児、課題や目標に向かって前に進んでいる時にこそ生まれてくるものです。自分の気になる症状1点に絞って試行錯誤している状態では、鋭い感性は鈍ってしまいます。2つ目には、見境なく欲望を追い求めている状況では、鋭い感受性は次第に失われてきます。欲望は適度に抑えながら生活しないと、感じる能力が落ちてくるのです。毎日運動もしないで宮廷料理のようなものばかり食べていると、味覚の感性は次第に失われてきます。「少欲知足」「我唯足知」という言葉があります。欲望と感性は正比例しているのです。欲望を抑制すればするほど、感性は次第に鋭くなってきます。このことを肝に銘じて、神経質に生まれたことを喜び、どんどん感性を磨いてゆきましょう。
2018.08.06
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町田貞子さんのお話です。「自分の手でやってきた事は、できるだけ手放さない」この方針でやってきて、本当によかったと思います。自分の気持ちの持ちようで、大切な自分の能力の1つを失わずにすみ、しかも新たな自信、喜びまで得られたのですから。毎日を力いっぱい生きていれば、今日の自分に満足できて、 「よくやったね」と、褒めてあげられる。自分を心から褒めてあげられるというのは幸せです。80代の年齢になると、子供たちの家族と同居して、炊事、洗濯、掃除など身の回りのことまで、お嫁さんや娘さんにやってもらっている人もいます。だけど、見ていますと、どうも、人に頼って生きている人の方が、早く亡くなる傾向があります。というのも、 1度、家の中のことを人に任せ始めると、どんどん、その種類や数が増えていきます。そのほうが楽だからです。最初は肉体労働だけだったのが、そのうちちょっとした事、例えば手紙を書くのさえ、自分で書くのが億劫になり、代筆してもらうようになります。そして、やがていろいろなことが自分ではできなくなってしまうのです。今まで自分の手でやってきたものを、いちど手放してしまうと、自力ではもう二度とできなくなってしまうのです。実際、昨年までの私は、天窓や高い場所の掃除も、はしごをかけて上って自分で拭いていました。でも、背中に怪我をした後、いちど人に頼んでしまったら、もう二度と、はしごをかけてまで掃除をする気にはならないのです。(娘に伝えたいこと 町田貞子 光文社文庫 203ページより引用)この話は森田理論学習をしている人にも参考になります。私たちは、日常茶飯事を丁寧にこなして行く事が大切であると学びました。しかし、人間には苦しいことはしたくない。エネルギーを無駄に消耗したくない。つらい家事はお金を出してでも人にやってもらいたいなどという気持ちがあります。例えば家族のために食材の買い出しに行き、料理を作ることは毎日しなければならない家事です。ところがそんな面倒なことはしたくない。お金を出せば簡単に美味しいお惣菜が買える。外食をすれば、毎日好きなものが食べられる。などと考えて、食事を用意するという日常茶飯事を一旦放棄してしまえば、それが習慣になってしまいます。人間の基本的な家事である食事作りをいったん手放してしまうと、次第に自力ではできなくなってしまいます。スーパーで買ったお惣菜をそのまま食卓に並べたり、出前をとったり、外食で済ますようになります。そのために、食費が膨れ上がり、自分はますます意に沿わない仕事を続けざるをえなくなるのです。オランダで渡り鳥の悲劇が紹介されていました。冬はシベリアから渡り鳥が南下してきます。ある湖にやってきた渡り鳥に地元の人が餌をやっていました。普通の渡り鳥の日々の生活は、餌を追い求めて動き回っているのが6割から7割くらいです。ところが、その湖にやってきた渡り鳥はそのような仕事をしなくても、餌にありつけるようになったのです。するとどんなことが起きたのか。機敏だった渡り鳥がブクブクと太り始めて、最後には飛び上がることさえできなくなったのです。つまり渡り鳥としての生活はできなくなってしまいました。人間に媚を売って命をつなぐことしかできないのです。本来、自分のやるべき事を放棄して、楽な方向に一歩足を踏み込んでしまうと、もう二度と自立することはできなくなってしまうのです。依存する生活に変わってしまうのです。そういう気持ちはあっても、心と体がついていかなくなっているのです。依存した生活からは生きがいは生まれません。そうならないためには、いくら経済的に恵まれていても、楽で依存的な生活に足を突っ込まないことです。その方向に向かえば、人間本来の当たり前の生き方は永遠にできなくなってしまうのです。これは森田理論学習を続けていれば、肝に命じるほどよく分かることだと思います。
2018.08.05
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2018.08.04
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今年9月に開催される第36回日本森田療法学会の大会テーマは、 「やわらかに生きる~森田療法による回復の歩み~」に決まったそうだ。今日はこの「やわらかに生きる」について考えてみたい。やわらかいの反対は固いである。神経症で苦しんでいる人は、固い生き方をしている人が多い。固い生き方は、なんといっても 「かくあるべし」が強くて融通がきかないということではなかろうか。理想主義、完璧主義、コントロール至上主義、目標達成主義の強い人である。自己中心的で、観念的な人である。固い生き方に凝り固まっていると、理想とは程遠い現実や現状に我慢がならなくなる。いつも現実や現状に対して軽蔑の視線を向けて、否定し、拒否している。これが自分自身に向けられれば、神経症へと落ち込んでいく。他人に向けられれば、人間関係が悪化して、孤立してくる。また「かくあるべし」という思考方法をとっている人は、問題の多い現実を一挙に理想の状態に引き上げようとする。現状を踏まえて、時間をかけて一歩一歩目の前の障害を取り除いて階段を上っていくやり方ではない。自分は雲の上のようなところに居座っていて、もたもたしている現実を眺めて叱り付けているようなものである。けっして現実や現状に寄り添って暖かく見守っている態度とは言えない。これに対して、やわらかい生き方をしている人は、いつも現実や現状に寄り添って、暖かく見守っている。苦しくて逃避するようなときは、叱り付けることもある。でもそれはその人のことを考えたうえでのことである。あとから考えると、あのときに厳しく叱ってもらったことを感謝されるような叱り方である。やわらかい生き方をしている人も、問題点や課題、理想や夢や希望や目標を持っている。でも自分の立ち位置は、あくまでも現実や現状のほうにある。自分は常に現実や現状と一緒のところにいる。つまり下のほうにいて、上を見上げているのである。その目標を達成するために、時間をかけて前進している。大きな目標を小さな達成可能な多くの目標に分けているのだ。その小さな達成可能な目標に向かって努力精進しているのである。この状態をを森田理論では努力即幸福という。素晴らしい生き方である。森田理論学習によって、やわらかな生き方を学び、その能力を身につけているのである。「かくあるべし」的思考方法をとる人と努力即幸福の生き方を身につけている人の違いは、自分の立ち位置をどこに置くかによって決まる。今まで私たちは雲の上のようなところに自分の身を置いて、現実や現状を否定していたのである。これは登山に例えるとわかりやすい。自力で登山しないで、富士山山頂にヘリコプターで舞い降りているような人で、上から下目線で途中で苦しくなっている人をみては、能力のない奴だと軽蔑したり馬鹿にしている人が、 「かくあるべし」の強い人である。反対にふもとから登山する人と一緒になって、その人たちをサポートしながら、自らも富士山頂を目指して努力している人がやわらかい生き方をしているといえる。森田理論学習によって、「かくあるべし」を振りかざすことが、神経症を作り出す大きな原因であることがわかった。それが自覚できれば、あとは「かくあるべし」を徐々に少なくして、事実本位の生活態度に切り替えていけばよいのである。この方向は容易ではないが、 1割でも2割でもその方向に切り替えていくことができれば、ずいぶん楽で有意義な人生を歩んでいくことができるのである。
2018.08.04
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対人恐怖症の人は、他人の言動にいつもビクビクしながら生活をしています。頭の中は、他人の思惑ばかりで占められています。他人から非難、否定、拒否、軽蔑、脅迫、無視、抑圧されることにとても敏感になっています。これらを分析してみると、注意や意識が極端に内向化しています。自己嫌悪や自己否定に陥っています。このことを森田理論では自己中心的であると言います。また専守防衛一点張りです。サッカーで言えば、攻めることを忘れて、全員を守りに専念させているようなものです。なかなか得点はとられないかもしれませんが、勝負に勝つという目的は永遠に達成することはできません。これは目的をはき違えているのです。守りを固めることばかりに専念していると、日常生活がおろそかになり、容易に他人に依存するようになります。依存している人に生きがいは生まれることはありません。実行・実践がなくなり、実生活上の悪循環、観念上の悪循環が繰り返されることになります。このような生活態度は周りの人に迷惑をかけるだけではなく、自分自身も大変な生きづらさを感じるようになります。生きていることが苦痛になり、人によっては死をイメージするようになるかもしれません。それでは対人恐怖症の人はどのようにすればよいのでしょうか。集談会などに参加していると、 「人の思惑ばかりが気になって苦しい。どうすればこの苦しみを取り去ることができるでしょうか」という質問を受けます。私はこれは問題や課題の立て方が違うのではないかと思います。こういうところから発想すると、対人恐怖症は治るどころかどんどん増悪してしまうのではないでしょうか。私の場合がそうでした。注意や意識を対人恐怖症1点に絞ることは大変危険だと思います。むしろ開き直って、人のちょっとした言動にいつも動揺してしまうのは私の性分である。そんな神経質性格を、あっけらかんとした外交的性格に修正することはどだい無理である。人の言動にビクビクオロオロしながら生きていくしかない、と覚悟を決めてしまう方がマシなのではないでしょうか。覚悟を決めると初めて次の段階に進むことができます。ここでは守り一辺倒の生活から、視線を前向きに外向きに変えていくことが重要です。症状にかまけて、日常生活の多くの部分を家族に依存しているわけですが、そういうところから改善していくべきでしょう。家族は共同体ですから、それを維持していくために、自分も何らかの役割を担うことが必要です。そして依存の度合いを少しずつ減らしていくことが大切です。そうすれば、頭の中の全てを占領していた対人恐怖の悩みの割合が少しは減っているのです。そのような実践を続けたからといって、急には対人恐怖の悩みはなくなりませんが、症状克服の糸口となるのです。次の段階として、実践課題を設けたり、気のついたことをメモして実践に移す。このような行動をとり続けていると、行動には弾みがついてきます。そうすれば、ますます頭の中では対人恐怖の占めている悩みの部分が小さくなっていきます。度合いが小さくなっていくということが肝心なのです。最終的には、対人恐怖的な悩みはあるにはあるが、いつまでもそのことだけに拘ってはおられないという状況が生まれます。そういう習慣が獲得できれば、ほぼ大丈夫です。その後、夢や希望も持てるようになるかもしれません。「たかが人生、されど人生」 苦しいことも多いけれども、たまには楽しいこともある。そのように思えるようになったとき、対人恐怖症と共存できるようになっているのです。対人恐怖症の治り方というのは、実はそうした治り方をするのです。性格が全く変わるという治り方をするのではありません。他人の思惑が気になるという部分は最後まで残ります。それがなくなると自分の人格そのものが崩壊してしまうとみるべきでしょう。対人恐怖症の克服は、症状そのものと闘えば、私たちに勝ち目はありません。回り道のように思えても、外堀から埋めていくという方法をとることによって、結果的に対人恐怖症は気にならなくなるのです。対人恐怖症を持ちながらも、それと共存し、懸命に生きている人を見るととても感動的です。そのようなことを教えてくれているのが森田療法理論だと思います。
2018.08.03
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生活の発見誌に、次のような疑問が寄せられていた。1 、欲望を実現へ近づこうと意欲を高めるほど、不安は強くなるのではないか。2 、不安と欲望の調和とはどういうことか。全て調和がとれたものは、時間の経過とともに、その調和は崩れていく。より本質的に言うならば、調和の固定化は時間の停止を意味するのではないか。これらについて、私の考え方を述べてみたい。まず1ですが、欲望と不安は正比例しています。ですから、欲望が大きくなれば不安もそれと同程度に大きくなります。裏を返せば、不安を全く感じないようにするためには、欲望をなくすればいいわけです。しかし、欲望はなくすることはできません。欲望があるから、意欲ややる気も出てきます。欲望に沿って、頭や体を働かせていくことが人生の醍醐味となります。とりわけ神経質者の場合には、この欲望がとても強い。生の欲望の範囲が広いと言われています。この質問の場合は、欲望はともかくとして、不安が発生し、強くなることは由々しき問題であると思われているように見えます。私は不安が発生すること人間が生存する上で必要不可欠なものだと考えています。五感で感じた不安や恐怖の情報は、扁桃体に集められます。海馬や前頭葉などと連携を取って、戦うか逃げるか、瞬時に対応方法が検討されて、行動に移ります。その結果、命の危機を乗り越えているわけです。もし、不安や恐怖が発生しなかったならば、容易に命を落とすことでしょう。ここで大事な事は、生の欲望の発揮です。不安にだけ深入りしてはならないのです。次に大事なことは、欲望は無制限に追い求めてはならないということです。人間には欲望が発生すれば、それを抑圧する気持ちも同時に沸き起こってくるようになっているのです。これは欲望を車のアクセル、そして不安を車のブレーキに例えてみると分かりやすいと思います。車のアクセルを踏みこまないと車は前に進みません。しかし、いったん動き出した車はブレーキで制御をしていかないと、どこかにぶつかって最悪命を落とすことになります。森田理論学習では、欲望と不安の単元があります。ここで、それぞれの特徴や役割をよく学習することが大切になります。世の中はは欲望が暴走して様々な惨禍を引き起こしているケースが多いのです。しかし、神経症の場合は、欲望の追及を忘れて、不安や恐怖を取り除くことばかり考えています。世の中とは反対の方向に向かって、格闘したり逃げたりしているのです。森田理論学習によって、その弊害を理解し、対応を変えていく必要があります。2番目の質問ですが、 一旦調和がとれても、時間が経てばすぐに調和が崩れていくと言われています。おっしゃる通りだと思います。ですから、生きていくということは、絶えず欲望と不安のバランスを維持していく必要があるのです。これはサーカスの綱渡りの芸が参考になります。これを見ていると、長い物干しざおのようなもの持っています。これを微妙に操りながらバランスをとっています。そして目線は到達点をとらえて、一歩一歩注意深く前進しています。ここでは、一方的に欲望を追求するのでもない。また一方的に不安にとらわれているのでもない。注意や意識はその2つのバランスをいかに維持していくかに注力しているのです。私がよく提案しているように、やじろべいや天秤などもその意識付けとして役に立つと思います。森田理論の中に、「精神拮抗作用」の説明があります。森田理論学習の中では重要なキーワードです。これがまさに、ここで言うところの調和やバランスの説明となります。私の知っている住職さんで「ほどほど道」を話される方がおられます。その人の話を聞くたびに、「行きすぎたら戻る、戻りすぎたら行く」という生活態度のことを思い出します。バランスのとれた生き方をしている人は、神経症になることはないと思います。
2018.08.02
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欲望が大きくても不安に振り回されない人で神経症にならない人がいっぱいいる。それはなぜなのか。という疑問を持っている人がいた。この質問は、神経質性格を持っている人でも神経症にならない人がいる。それは何故なのか。という質問と同様であると思う。この質問について考えてみたい。これは、神経質性格を持ち、ちょっとしたことにとらわれやすい人は、神経症に陥るのが宿命のように思っておられるのだろう。神経質性格は、心配性である。注意が自己内省的に向かいやすい。こだわりやすい。生の欲望は強い。自己中心的である。観念的である。依存性が強い。などの際立った性格特徴を持っている。このように列記すると、神経質性格はマイナスの面ばかりだと思われるかもしれない。この考え方は誤りである。正確には、これらのマイナス面が強く出た時は、神経症に陥りやすいと言うべきであろう。反対に、これらがプラスの面が強く出た時は、仕事や勉強や家事、育児など、大きな成果をあげる。そうなれば、神経質性格は類まれな優良な性格であると自覚することができる。例えば、私の以前の同僚に、 500名の営業マンの中でも常に10番以内に入るような営業マンがいた。その営業マンは、毎年優秀営業マンの表彰を受けていた。副賞として、長期休暇を与えられ、海外旅行の特典を与えられていた。彼はアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、アジア各国、ヨーロッパなどをくまなく回っていた。まだ行っていない所は南アメリカとアフリカぐらいだと言っていた。その人は多くの女子社員から「あんなに神経質な人はいない」と言われていた。立派な神経質性格の持ち主だったのだ。とにかくやたらと細かい。気が付いたことは何でもかんでも女子事務員に連絡してきて色々と指示をしたり、苦言を呈していた。ある意味ねちねちと細かいことを言われるので、彼の担当の女子社員も閉口していた。周りでは「あの2人は犬猿の仲だ」と言われていた。しかし、お互いに惹かれるところがあったのかいつのまにか結婚した。あんなに口喧嘩ばかりしていたのに、結婚すると聞いた時はみんな唖然とした。今では3人の子供を育てている。 その女子社員は外交的な性格の人で、神経質性格の持ち主の彼にはぴったりだったのかもしれない。彼の風貌はお世辞にもよいとは言えない。頭は禿げあがり、身長も低い。そのうちスキンヘッドにした。仕事以外で異性と話するときはいつもおどおどしていた。ところが、得意先の女性と仕事上の話をするときは実に堂々としていた。彼の営業スタイルは、得意先で依頼された事をきちんとメモして、会社に帰ってからきちんと片付けるというやり方だった。会社に帰ると、多くのメモを取り出して机の上に並べて、一つ一つ丁寧に処理していたのが印象的である。それも1つのことを頼まれれば、それにプラスアルファをつけて依頼事項を処理していた。これをいつも心がけていた。至れり尽くせりで、他の営業マンの見本であった。彼は神経質性格を活かした営業スタイルを確立していたのだ。その効果は絶大で、彼の営業エリアから同業他社はいなくなってしまった。彼の独壇場となったのだ。そうなれば、自由自在である。同業他社からは、ヘットハンティングの誘いも舞い込むようになった。その彼は社内で優秀営業マンをライバルとして頭の中に持っていた。その営業マンに勝ちたいという意欲が半端ではなかった。出張営業の時は、その日にやり遂げると決めていたことは、どんなに遅くなってもその日のうちにやり遂げるというやり方だった。土日には次の週の訪問計画を綿密に立てていた。その際訪問する目的を明確にしていた。販売予算もしっかりと立てていた。彼の場合は、ちょっとしたことが気になるという神経質性格を仕事に活かしていくというやり方だった。常に気持ちは外向きであった。自分に与えられたノルマを大幅に超えて達成することが生き甲斐となっていた。言われたことだけをやるのではなく、どうすればもっと相手に喜んでもらえるのかということを日ごろから考えて実行していた。彼を見ていると、神経質性格というのは、その良い面を仕事に生かしていけば好循環が生まれてどんどん良くなっていくことがわかる。反対に、私のように神経質性格をネガティブに捉えて、 1つのことにとらわれて精神交互作用で格闘していたものは、観念と行動の悪循環を招き神経症でのたうち回ってきたのである。私の場合は、森田理論を学ぶ自助組織に参加して、何とか乗り越えることができた。そして、神経症で苦しんだおかげで、これから先の生きる指針を見つけることができた。これはこれで良かったのだと思っている。神経症に陥ることが悪いとは言えない。今現在神経症で苦しんでいる人は、神経質性格というかけがえのない性格特徴を持っているのである。その活かし方を是非とも森田理論学習によって習得してもらいたいものだと思う。
2018.08.01
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