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1987年プロ野球のドラフト会議の開催日に、古田敦也さんは、立命館大学が用意してくれた記者会見場のひな壇に座り、自分の名前が読み上げられるのを今か今かと待ち構えていた。「うちは1位か2位で指名します」事前にそう言ってくれていた球団もあり、プロ入りはほぼ確実だと思っておられました。実際、その場にはマイクやカメラを手にした大勢の報道陣が詰めかけ、決まった瞬間に「おめでとう」の垂れ幕が降りてくる段取りまでされていました。ところが、最後の最後まで古田選手の名前はどの球団からも呼ばれませんでした。親も友人も近所の人たちも、テレビ画面を前にして楽しみに待っていてくれたのに、格好が悪くて、大変恥ずかしい思いをされた。プロ野球球団のスカウトに対する裏切られたという思いと、猛烈な悔しさ、怒りが沸き起こってきました。もしここで、やけくそになって、 「どうせ俺なんかプロ野球の選手になれっこない」と投げやりになってしまえば、そこで僕の人生は終わっていたかもしれません。古田選手は闘争心に火がついたそうです。いったん社会人野球のトヨタ自動車に入りました。そして2年後のドラフト会議では、 「今度こそ呼ばれる側になって、絶対に見返してやる」と固く心に誓いました。翌年の 1988年9月ソウルオリンピックが開催されました。古田選手は、手始めにオリンピック出場選手に選抜されることを目標にしていました。それが、 2年後のドラフト会議で指名権を得るための近道であると考えていました。最初は有力選手が70名ぐらい集められました。その中から振るい落とされて、最終的には20名に絞りこまれます。その中のキャッチャーの席は2つしかありません。最終選考で選ばれるためにはどうしたらいいのか。古田選手は必死になって考えました。合宿が始まる当初から、監督が「キャッチャーは1人は安定的なベテラン、 1人は今後の為にも若い選手を連れて行きたい」と言っていました。自分は若手なので、 1つの席をめぐって、ライバル達と争わなければなりません。そこで古田選手は、キャッチャーの強化担当のコーチがどんなキャッチャーを理想としているのか研究しました。その時のコーチは、元気があって最後まで手を抜かないで一生懸命に練習をする選手を求めていました。そこで古田選手は常に大きな声を出すようにしました。ランニングの時でも、そんなに足が速いわけではないのに、 1番前を走りました。カバーリングでも、 「そこまでやらなくてもいいだろう」というところまで走りました。その作戦と実践がコーチの目に留まり、最終的にオリンピック選手に選ばれることになったのです。ここがその後の運命の分かれ道でした。合宿に呼ばれるような選手は、実力的にはほぼ互角です。古田選手が選抜されたのは、その時の監督やコーチの意向をくみ取り、それに沿った努力を続けたからです。その後古田選手はヤクルトに指名され、野村監督の下で大成功されたのは記憶に新しいところです。(優柔決断のすすめ 古田敦也 PHP新書参照)この話から、次の2つのことを投稿してみたいと思います。1つは、どんなにどん底に突き落とされても、そこで諦めて投げやりの態度を取ってしまってはならないということです。そこを出発点にして前進することです。私たちは、会社などでミスや失敗をすると、 「もうこの会社に自分の居場所はない」 「みんなが自分のこと軽蔑している。退職してお詫びするしかない」などと短絡的にネガティブ思考に陥ってしまいます。少しのミスや失敗が、自分のこれから先の長い人生を左右するような思考に陥ってしまうのです。自分たちのミスや失敗は、古田選手がドラフトで指名されなかったような悔しさや憤りに比べるとまだマシなのではないでしょうか。古田選手は反骨精神で自分の運命を切り開いていかれました。私たちの人生には、自分の思い通りにはいかないことの連続です。そこで、簡単にあきらめてしまって投げやりな行動をとってしまうと後で必ず後悔します。なかなか受入入れがたいことですが、その理不尽で不快な気持ちを受け入れることしかありません。その状況の中で、目線を少し上に上げて、運命を切り開いて現状を打開していくのだという気持ちを見失ってはいけないのだと思います。簡単にあきらめて、投げやりになってしまえば、苦渋の人生が待ち構えているのです。次に古田選手は、オリンピックの出場選手に選ばれるために、監督やコーチの選手の選抜方法について研究されています。これは森田理論でいうと、現実や現状をしっかりと観察するということだと思います。じっと観察していると、監督やコーチがどんな選手を欲しがっているのかが分かります。すると、自分のとるべき行動がわかるようになります。後は実践するのみです。そこから古田選手の運命の歯車が噛み合うようになってきたのです。これは変化の兆しを的確につかみ、その変化に対応した実戦であると思います。小泉元首相は、平成13年の所信表明演説の中で次のように述べています。私は変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、 「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。では最も頭のいいものか。そうでもない。最後に生き残るものは、刻々と変化する時代のスピードに適切に対応できた生き物だ」という考えを示している。 森田理論学習では諸行無常、変化流動の流れの中で、自分をその変化に適応させる生き方を提示しています。私はそういう生き方を身につけて、人生を駆け抜けたいと考えています。
2018.05.31
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日本大学のアメリカンフットボール部の反則タックルの問題は今や大きな社会問題となった。監督が絶大な権限を持ち、コーチを使って学生を意のままにコントロールしていた。その監督は日本大学の理事会で人事権を握るNO2の要職も兼ねていた。運動部の予算の振り分け、コーチの人事権、学生の就職の斡旋までする絶大な権力を持っていた。それだけではない。相撲部の監督は今や日本大学の理事長まで上り詰め絶大な権力を保持している。絶大な権力の下で、その中に放り込まれたコーチや学生は監督の意向に逆らう事は許されない。逆らえば、コーチは路頭に迷い、運動部の学生は就職先の面倒をみてもらえなくなる。だからどんなに理不尽なこと言われても、引き受けて実行するしかない。日本大学のアメリカンフットボールの不祥事はこのような閉鎖的な組織の中で発生したのである。もともと日本の高校・大学の運動部は同好会であるという。そのために組織のあり方については、全く関心が払われてこなかった。そのツケが、今回大きな社会問題として表明化されてきたのだ。体育会系の運動部は、今や同好会と言われるにしてはるあまりにも巨大である。そのバックアップ体制としての父母会も巨大な組織となっている。高校や大学にはアメフト、バスケット、野球、相撲、陸上部、アイスホッケー、テニス、ゴルフ、レスリングなどがある。これらの運動は、大学の広告塔としての重大な役割を担っている。今や有名な運動部を持つことは、高校や大学の盛衰にも影響を与えているのだ。それだけに巨大な資金が投入されている。他の大学とのリーグ戦などが組まれて、中には入場料を取ったり、 TV放映料金をとったりする。アメリカの全米大学体育協会では、それらの金額は年間1000億円に上っているという。そんな巨大な組織になっているにもかかわらず、組織運営があまりにもお粗末であるのはどういうことなのか。先日、東大のアメフト部の監督がテレビ出演して重大なことを指摘していた。運動部のガバナンスのことである。運動部のガバナンスとは統治機能のことである。これはよくコーポレートガバナンス(企業統治)ということでよく耳にされている方も多いと思う。現代ではガバナンスを無視した会社経営は成り立たないと言われる。今や早急に大学の運動部にもガバナンスの確立が求められている。監督やコーチの権限、責任、役割の明確化、大学統治と運動部の統治の関係、監督やコーチと学生のあり方、運動部としての教育のあり方、父母会のあり方、マスコミとの関係、重大な死亡事故や怪我が発生したときの対応、運動部組織の監視体制、組織改革、意識改革、莫大な予算管理、経費の使い方、学生の就職口について、学生の日本代表選手の在り方、大学間における連絡や調整などについて予め検討して運営していくことが求められる。東大のアメフト監督によるとまずは、個々の大学でガバナンスを確立する。そして各大学を束ねる全日本大学競技スポーツ協会(仮称)などの全国組織が必要であるという。アメリカではNCAAという全米大学体育協会がありこれらの事を行っているという。 1,100の大学が加盟して、年間1,000億円を超える収入があるという。イギリスにもBUCSという協会が設立されているという。そういう意味では日本の大学の運動部は、ガバナンスが全く機能していない。その中で問題の一つとして、軍隊式のような閉塞的な監督・コーチと学生の問題が出てきた。カリスマといわれる監督が、自由自在に学生を将棋のコマのように扱っていたのだ。このような関係を解消しなければ、第二の日大問題はまたすぐにどこかの大学で発生することだろう。日大の監督・コーチを除名することも大切なのだろうが、ガバナンスに手を付けないと片手落ちだ。
2018.05.30
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私は水を取りすぎると身体を冷やすことになり、体調が悪くなるという話を聞いて、極力水を飲むこと控えていたことがある。その結果、水分不足になり、体調が悪くなり、それが原因かどうかはわからないが、尿道結石になった。今考えてみると、私の場合、 1つの考え方をまともに信じてしまって、全体的に統合の取れた考え方が出来なくなってしまうという特徴がある。これだという考え方で突っ走ってしまうのである。これから得た教訓は、何事も「ほどほど」が大切であるということだった。森田理論学習をしていて思うことだが、例えば、不安、恐怖、違和感、不快感などは自然現象なので、どうすることもできないものだ。それらをやりくりするのではなく、それらを持ちこたえたまま、目の前の日常茶飯事、仕事や勉強に取り組んでいけばいいのだと学習する。しかし、この考え方に取り付かれてしまうと、ともすると不安や恐怖に対して抵抗することなく、全て受け入れるのがいいのだと考えてしまう。そうなると、危険を回避することが全くできなくなってしまう。例えば田舎でまむしに出会ったとき、駆除しないで逃げてしまうと、いつまでもその恐怖に取り付かれてしまう。そうしないと田舎生活を楽しむなどということはあきらめてしまうようになる。人に知らせたり、手慣れた人に頼んだりしてすぐに駆除しなければならない。日本は地震が多い。これに対して、家具をきちんと固定しておく事は自分の身体や家族の安全を守る。そういう不安がありながらも、何も手をつけないということは、誰が考えてもおかしなことだ。生命保険もそうだ。一家の大黒柱である自分が、いつ不慮の事故や病気になり路頭に迷うことにもなりかねない。こういう不安を感じた場合、積極的に対応策を立てて準備しておくことが不可欠である。だから不安や恐怖に対して、森田療法的な考え方を学習することは、神経症に陥った人や神経質者にとってはとても大事な事ではあるが、その前に、不安や恐怖一般に対しての基本的な考え方を学ぶことも必要である。私たちは素直というか、すぐに言われたことを信じてしまう特徴があるようだ。なんでも極端に走ってしまう事は問題である。こういうのを盲信という。私は、不安や恐怖に対して森田療法理論を学ぶ前に、次のように言い聞かせている。それはラインハート・ ニーバンの言葉である。1 、変えることができないものについては、それを「受け入れる冷静さ」を持つ。2 、また、変えるべきものについては、それを「変える勇気」を持つ。3 、肝心なことは、変えることのできないものと、変えることのできるものを「区別する知恵」を持ちなさい。これに関連して、松下幸之助氏は次のように言われている。「人間万事、天の摂理でできるのが90% 、あとの10%だけが、人間のなしうる限度である」やりくりしないで素直に受け入れたほうがよいことが大半である。しかし残り10パーセントのことには対応策を立てて積極果敢に動かなければならない。それに対しては、決して指をくわえて放置してはならない。共に含蓄のある言葉であると思うが、皆さんはどう思われるでしょうか。
2018.05.29
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神経質者の大きな特徴は、 2つの相対立する考えが頭に浮かぶと、性急にどちらかに態度を決めようとすることである。例えば、付き合いたいと思うような素敵な異性がいたとする。その人のことを思えば思うほど、どうにかして友達になりたいと思う。できれば将来結婚できたらよいなと思ってしまう。ところが、そうした強い欲望があるにも関わらず、一方でもし交際を申し込んで断られたらどうしようという不安も浮かんでくる。神経質者の場合は、交際を申し込んで断られることばかりをネガティブに考えてしまう。そして最終的には、そんな嫌な辛い思いをするのだったら、交際を申し込むのをやめておこうと考えてしまう。この場合は、付き合いたいという欲望は蚊帳の外になり、 一時的な安楽の方法を選んでいるのだ。その結果はどうか。嫌な辛い思いをすることはなかったが、異性と付き合う事は永遠に巡ってこない。すでにチャンスは逃げていってしまったのである。その時、思い切って相手の気持ちを確かめておけばよかったと思っても、すでに時遅しである。神経質者の場合、こういう例のオンパレードである。別の例を出してみよう。今日は会社の懇親会だ。アルコールの好きな人は、始まる前から嬉しい。今日は飲み放題、食べ放題だ。たらふく美味しい料理が食べれて、浴びるほどビールが飲める。しかし一方では、持病がありお医者さんからアルコールは控えるように言われている。このような場合、普通はビールをたくさん飲みたいという欲望と健康のためにアルコールはたしなむ程度にしようという気持ちがせめぎあう。自分の態度が右へ行ったり左へ行ったり落ちつかない状態にあるのだ。その気持ちはどっちつかずで実に居心地が悪い。その時、そのどちらかに態度を決めてしまうと、気分的にはスッキリする。神経質者の場合、性急にどちらかに態度を決めてしまうという特徴がある。一般的には、今日だけは例外だ。徹底的に飲もうと決めてしまうことが多い。そういう態度になると、誰よりも先におかわりをし、時には一気に飲み干したりする。料理を食べるよりも飲むほうを優先する。次第に酩酊状態に陥り、饒舌になり、人の気に障るような事を言う。そのうち意識が朦朧として、 1人では歩けなくなる。次の日は二日酔いになり、仕事にはならない。これは極端な例かもしれないが、ビールを思い切り飲んでしまおうという風に態度を決めてしまっているのである。本来は、ビールを思い切り飲みたいという欲望と無茶苦茶に飲んではいけないという抑制力との調和を取ることが肝心なのである。神経質者はそのバランスをとることがとてもへたくそなのである。態度をはっきりさせて気分的に迷いのない状態、すっきりした状態に持っていきたいのである。これを気分本位な態度という。しかし実際には気分がスッキリしないどころか、その後の展開がよくない。あまりにも悪すぎる。結果が分かってから反省しても遅いのである。どちらにしようか迷っているうちに、その居心地の悪い状況を持ちこたえながら、右や左にさまよっている状態が1番適切な対応なのである。これは森田理論学習で言うと、両面観、精神拮抗作用、不安と欲望の関係でしっかりと理解しておくべき内容である。森田理論学習では、調和やバランスの理解と実践がとても大きな柱となっているのである。
2018.05.28
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生きがい療法で行っているユーモアスピーチとは、身の回りの出来事を題材に、2分から5分の短い話を作ります。1週間に一話を目標に書きためて、ご家族や周囲の人たちに披露して一緒に笑い合う活動です。ユーモアスピーチは心理学的に大変良い効果があります。具体的に見ていきましょう。・話を作ると言っても体験談ですから、毎日何か面白いネタはないかと、周囲に注意を向けます。・何かネタがあると、面白く構成しようといろいろ考えますから、創作体験になります。・また、この1週間、 「話を作る」という目標も自ずから出てきます。・話をする段になると、今話をすると言うことに打ち込む、という体験。・自分が話をして笑ってもらい、人の役に立ったという手応え。・誰でも多くの人の前で話をするときには緊張しますが、そういう心の状態をそのままに、今の目標に一生懸命取り組むという体験。様々な身体やストレスに対処する体験学習にもなります。これらの効果を見ていると、すべて森田療法理論で、実践・行動の指針として学んだことばかりです。つまり、生きがい療法では、森田理論の具体的な実践の方法を提案しているのです。生きがい療法を開発された伊丹仁朗先生は、笑うと心が前向きになるだけではなく、血液の成分にも何か良い変化が起きるのではないか考えられました。そこで次のような実験を行いました。吉本興業の笑いのメッカ、大阪「なんばグランド花月」に19人のボランティアの方々に行ってもらい、漫才・漫談・吉本新喜劇を3時間見て、思いっきり笑ってもらいました。その直前、直後で血液の成分に変化がないかを見たわけです。測定した成分の1つはナチュラルキラー細胞(NK細胞)の強さです。 NK細胞とは、ガン細胞が発生すると、それを見つけ出し破壊してくれる、がんに対する防御機能を持った細胞です。検査の結果、ほとんどの人がNK細胞が活性化している。つまり、お笑いの効用は、心理的な効果だけではなく免疫学的な効果、つまり心と身体の両面に効果があるといえます。(生きがい療法と精神腫瘍学 伊丹仁朗 講話より引用)ここで私が以前作ったユーモア小話を1つだけ載せておく。早いもので、 30年の結婚記念日を迎えた。今日ぐらいは外食で豪華な食事をしようと思ったが、今月は家計が火の車だ。仕方なくいつもの定番の居酒屋に行った。開口一番、妻がパートを辞めたいという。原因は人間関係。どうしても許せない人がいるという。「そんな人はどこの会社にもいるぞ。そこをじっと我慢して生きていくのが女の道だ」とアドバイスしてみた。だがカキフライを食べたりビールを飲むのが忙しくて、私の話はほとんど聞いていない。次の話題は娘の転職の話だ。 「本人の好きなようにさせたらいいじゃないか」と言うと、 「それでも父親なの。あなたは昔から無責任なのよ」などと非難する。私もこの機会に会社を退職したいと切り出したかったのに、どうもそんな雰囲気ではなくなった。「今日はお祝いだから無礼講だ」とは言ってみたものの、妻が先に酔いつぶれて、支払いも全部持たされ、タクシーでやっとのことで家にたどり着く。「あんたはいい性格をしているよ。オレよりも絶対長生きをするはずだ」としみじみと独り言。そういえば、先日、今度生まれ変わったらまた一緒になるかとためしに聞いてみた。「イヤ、それだけは絶対にイヤ。男を見る目もついたことだし、過ちは二度と繰り返したくない」などと暴言を吐く。売り言葉に買い言葉で、 「それは実にいい提案だ。お互いに約束は絶対に守ろう。この統一契約書に記名押印をしてくれ」と言い返した。どうも妻はまた人間に生まれ変わって、今度はイケメンを見つけて玉の輿に乗ることを考えているようだ。果たして人間に生まれ変わるかどうかも分からないのに・・・。 チャンチャン
2018.05.27
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「なりきる」という言葉を誤解している人がいる。言葉というのは便利ではあるが、 誤解も生みやすいという事だと思う。1番多い間違いは、 「わき目もふらず1つのことに集中すること」と思うことである。これは森田先生が言うところの「集中する」ということは全く意味が違う。森田先生の言う「集中する」とは、例えば、先生が学生を前に講義をしているとする。先生は講義の内容だけに集中しているのではない。机の上に置かれた水差しや自分の持ち物、学生たちの授業に取り組む様子、遅刻して入室してきた学生のこと、外から聞こえてくる騒音などに次から次へと注意や意識が移っているのである。注意の対象がひとつのことに固定されていない。一時的に注意や意識が向いても、すぐに他のことに流れていってしまう。固定しようとしても肯定できるものではない。森田先生はそういう目まぐるしく変化している状態に一つ一つ注意を向けている状態を集中していると言っているのである。考えてみれば、神経症に陥ったのは、ひとつの不安や恐怖に取りつかれて、注意や意識が固定した結果、精神交互作用によって増悪して、蟻地獄に落ちてしまったのである。もしこれが、いったんとらわれても、速やかに流すことができれば、神経症に陥ることはなかったのである。それでは「なりきる」という事何を指しているのか。これは2つのことを指している。1つには、森田先生のところに入院すると、様々な日常茶飯事の作業に取り組むことになる。その時に、日常茶飯事に精を出すことによって、神経症が治るのだという気持ちを持っていては、神経症は治らないということである。最初のとりかかりはそれでもよいが、いつまでもそんな気持ちではまずい。治らないどころか、神経症はますます増悪していく。誰でも最初は嫌々仕方なく手を出したことが、つい興味が出て一心不乱に取り組んでいたという経験はある。日常茶飯事に取り組む時は、症状を治す事とは無関係に、 「ものそのものになりきる」という態度が欠かせないのである。そして気づきや関心が湧いてくることが肝心である。もう一つは、不安や恐怖、違和感や不快感などが沸き起こってきたとき、それらが嫌だからと言って打ち消すようなことをしてはならないという事である。そのような感情は、人間の意思ではコントロールできない自然現象としてとらえることが大切である。そのような感情に反抗しないで素直に受け入れる。正直に向き合って、よく味わうということが必要である。そういう意味では、嫌な感情と一心同体になる。敵対したり逃げたりしない。そうしていると感情の法則にあるように、どんな感情でも一山登って次第に下降してくる運命にある。神経症として増悪していくことがない。これはちょうど、並行して走っている電車が同じスピードであった場合、実際には高速で動いているにも関わらず、全くスピードを感じることがない。これと同じように、 「なりきった」状態の下では、最初注射針を刺されたような痛みがあるが、その後いつまでもわれわれを苦しめるような葛藤には陥らないのである。「なりきる」というのは、以上のような2つの意味がある。これは森田理論の学習で、しっかりと理解しておく必要がある部分である。
2018.05.26
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日本大学アメリカンフットボール部による悪質な反則行為がSNSによって拡散した。日大アメフト部、日本大学にとっては大変な不祥事である。テレビを見ていると、識者が大学側の危機管理が常識から逸脱していると言われていた。それでは常識とされている危機管理技術はどういうものか。・この場合は事実が映像によって重大な反則行為を犯しているということが誰の目にも明らかである。そういう場合、初期対応としては、すぐに自分たちの非を認めて誠意を持って謝罪するということが大切である。次に監督、コーチ、選手間でどういうことがあったのか包み隠さず状況説明をすることが大切である。これは1日か2日目で対応することが原則である。それを逃すと、問題はどんどん大きく膨らんでしまう。日大とアメフト部の対応を見ていると、 1週間ぐらいは放置していた。危機管理の常識から逸脱している。大学側は何もしないので、加害者である選手が謝罪と経緯について記者会見を開いた。これは事実をありのままに説明していたのでとても好感が持てた。すると次の日になってアメフト部の前監督とコーチが記者会見を開いた。これはこの場に及んでも、事実をありのままに説明することにはほど遠かった。見苦しい会見であった。言い訳ばかりで、事実の解明にはつながらなかった。これで火に油を注ぐような結果となった。この時点でもうすでに手遅れである。日大アメフト部は廃部に追い込まれるかもしれない。また、日大のイメージは大きく毀損され、今後の大学の運営は危機に立たされるかもしれない。・次に日本大学の対応を見ていると、日大広報部、加害選手本人、監督やコーチが矢面に立っていた。これは危機管理技術の基本から言うと逸脱していると言われていた。重大な不祥事が発覚した場合は、その組織の1番の責任者がマスコミの前に姿を現して謝罪することが不可欠である。日本大学で言えば大学の学長や理事長である。学長や理事長が誠意を持って事実を明らかにするとともに、謝罪することが欠かせない。組織を上げて取り組んでいない。日本大学の対応は間違っていた。・さらに内田正人前監督は、日本大学の人事権を持つ常務理事の役職にある。すでにアメフト部の監督は辞任したが、常務理事の仕事はアメフト部とは関係がないという。大学NO2としての職務は辞任するつもりは全くないようだ。今の時点では職務を一時停止して謹慎するという。あわよくば常務理事の役職に留まりたいようだ。危機管理技術では、不祥事を起こした責任者は辞任するのが常識であるという。 いつまでも職務にしがみつくことは、問題解決をさらに長期化させる。私はこれらの話を聞いて、自分の責任でミスや失敗をすることは多々発生する。それは仕事をしている人間である以上しかたがないと思う。ミスや失敗をした後の対応がその後の展開を大きく左右する。その時、明らかに自分に非がある場合は、すぐに謝罪し状況説明を丁寧にすることが大切である。なかなか受け入れがたいことではあるが、すぐにミスや失敗を事実のままに公開することが大切である。清水の舞台から飛び降りるようなつもりで、あるいはまな板の鯉のような覚悟を決めることが大事だ。決して嫌な事実から逃げては、後々のことを考えるとよくない。その際、言い訳、事実をねじ曲げる、事実を隠す、事実を捏造するなどはもってのほかである。その時は、周囲の人からパッシングを受けることであろう。でもそれは1時的なものだ。そうしなかった場合の弊害や精神的苦痛は、とてつもなく大きくなることを肝に命じておきたい。森田理論学習を続けている私たちは、事実の取り扱いについては特に誤らないようにしたいと思う。
2018.05.25
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森田理論の「事実本位」の大切さを考える2つの事件があった。1つは日大のアメリカンフットボールの悪質タックルの問題である。もう一つは「加計学園」問題の愛媛県提出の文章に対する安倍首相の答弁である。22日、日大の悪質タックルを行った宮川泰介選手が記者会見を行った。謝罪と事実をありのままに伝えるために、報道陣の前に名前と顔を公開した。この会見によって事件の一部始終が白日のものにさらされた。内田正人前監督や日大広報部が事実をねじ曲げようとしている中で、宮川選手の会見は非常に好感が持てた。また彼は事実を述べただけで、内田前監督や井上コーチを全く非難しなかった。宮川選手は事実を隠そうとする気持ちは全くなく、時系列で悪質タックルを行うに至った事実を淡々と説明した。これによると、悪質タックルは内田前監督と井上コーチの指示によるものだった。彼は試合で使ってもらいたい一心で、選択肢がなくなり、反則行為に及んだものだった。関西学院大学のクオーターバックを悪質タックルで怪我をさせれば、秋の試合に出られなくなることが狙いだったという。日大広報部は、内田前監督が 「相手を潰せ」と言ったのは、 「思い切って相手にタックルをしてこい」と言う意味で、相手に大怪我をさせてこいと言う意味ではないと言っている。しかし、その後の内田前監督やコーチの発言や対応を見ていると、そうではないことがはっきりとわかった。内田前監督はすぐに辞意を表明したが、事実をマスコミの前で明らかにすることはしなかった。そのふてぶてしい態度に多くの人が憤りを感じた。でも宮川泰介選手の勇気ある行動によって事実はほぼ明らかになった。これを見ていると、嫌な事実は隠したりねじ曲げたりする人が多いが、事実はすぐに素直に認めてしまう方がどんなにか精神的に楽になるのかということがよく分かる。「加計学園問題」に対する安倍首相や柳瀬元首相秘書官の答弁はいかがなものであろうか。安倍首相はこれまで29年1月になって初めて、加計学園が獣医学部新設に名乗りを上げていること知ったと答弁していた。それまでは加計孝太郎理事長と獣医学部新設の話をしたことはなかったと答弁していた。ところが、このたび愛媛県提出の文章によると、 27年2月25日安倍首相と加計孝太郎理事長が面会したことになっている。その時、加計孝太郎理事長の説明を聞いた安倍首相は、 「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」と答えていたと言う。この文章に対して、安倍首相は2月25日に加計孝太郎理事長に面会した記録はないという。愛媛県の文章にある事実を完全否定した。でも愛媛県庁の職員が東京への出張記録を改ざんすることがあるだろうか。誰が考えてもそのようなねつ造があるとは思えない。もし面会していたとすると、 29年1月になって無二の親友である加計孝太郎理事長が愛媛県今治市に獣医学部を申請することを始めて知ったという答弁はもろくも崩れてしまう。なんとしてものらりくらりと野党の追及を交わして乗り越えようとしている姿勢がみえみえである。しかし、政治家になる前からの親友である加計氏とはゴルフや会食を何度もしているのである。そんな付き合いのある友人から、獣医学部申請の話が全く出なかったということの方が不思議である。大多数の国民は安倍首相が言い訳をしているという事はお見通しなのではないだろうか。 1回嘘をつくと、その嘘を正当化するために、また嘘をつかなければならなくなる。でも今の時点ではもう嘘をつき通すしか方法がない。それは精神的につらいことだろうと思う。もし最初の時点で、安倍首相が加計孝太郎理事長に便宜を図ったという事実を認めてしまえばどうであったろうか。確かに、安倍政権の運営に大打撃を与えたに違いない。いったんは退陣を余儀なくされるかもしれない。しかしもし仮に、政権運営に失敗したとしても、現在の政界では安倍首相ほどの人材はいないわけであるから、必ず復活していたように思われる。そうすれば、事実を捻じ曲げて、何度も苦虫をつぶしたような答弁をする必要はなくなる。政治家は嘘をつくのが仕事であると言う人がいるが、事実を隠蔽したりねじ曲げたりするとどこかでほころびが出てくる。うまくごまかしているように思っているかもしれないが、嘘をついているのは国民は分かっている。その証拠がないから静観しているだけなのだ。森田理論で言うように、事実は素直に包み隠さず認めてしまうのが最も適切な対応である。みんなに知られたくない事実であればあるほど早く白日のものにさらすこと望ましいといえる。
2018.05.24
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元プロ野球の選手の古田敦也さんのお話です。変化を好まないものは成長しません。プロ野球選手は成功体験を繰り返してきた人たちの集まりなので、壁にぶち当たってしまうと、元に戻そうとしてしまい、母校に帰って指導を仰ぐ選手がよくいます。私に言わせると意味がないと思います。なぜなら、アマチュアとプロはレベルが違うからです。違うからこそ、変わらなければならないのに、原点回帰してしまっては、元も子もないのです。イチローが毎年バッティングフォームを微妙に変えて言っていることは有名ですが、かつてあんなにも賞賛された振り子打法といわれた打ち方は、今ではほとんど原形をとどめていません。つまり、一流は変化をする。いろいろとトライする。可能性のある事は、どんどんチャレンジしていくのです。(古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術 古田敦也 朝日新聞出版 186頁より引用)森田先生は「変化対応」「流動変化」という事について、宇宙の話をされている。宇宙は絶えず猛スピードで動いている。すべての天体が絶えず動き回り、引力と遠心力のバランスの上に宇宙が成り立っているのである。月は絶えず地球の周りを回っている。その地球は1年をかけて、太陽の周りを1周している。その太陽系は銀河系の中心に対して、秒速300 kmというスピードで、 2億年をかけて1周しているという。私たちの住んでいる銀河系から200万光年の彼方にはアンドロメダ星雲があり、お互いの引力で、秒速275 kmの猛スピードで絶えず接近しているそうです。この2つの銀河は将来合体して1つになる運命にあるそうです。この流動変化、諸行無常という自然の法則は、精神世界にも貫徹されています。どうすることもできない不安や恐怖、違和感、不快感などは、いちいち立ち止まってそのつど解消して、次に進むという余裕はないのです。自然の法則に従えば、それらを持ったまま、目の前のなすべきことに取り組んでいくということが、理にかなっているのです。変化に対応した生き方の事を岩田真理さんはサーフィンに例えて説明されています。サーフィンでは、サーバーは「波」という、動いているものに乗っかっているのです。常に波の様子を読まなくてはいけません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーバーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスを取り、波に乗れれば素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力だけではなく、勢い良く打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。人生の波に乗るとは、一瞬一瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察して、その時その時で適切な判断が取れるように努め、自分の生を前に進めていくことです。感情の波は上がったり下がったりします。無理に反発しないで、動きに合わせて、その波に乗っていくことが、自然に服従するということです。その生き方が一番安楽な生き方となります。
2018.05.23
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相田みつをさんの言葉に、 「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」と言うのがある。森田理論学習をしていて思うことは、人によって物事や出来事に遭遇して受け取り方が大きく違うということを強く感じている。特に神経質者の場合は、普通の人から見るととるに足らない小さいことを、すぐに自分の一生を左右するような大きな問題にしてしまう。次に、楽観的に考えることが少なく、取り越し苦労ばかりする。マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。現実、現状、事実を無視して、 「かくあるべし」から出発している。完全主義や完璧主義者である。事実を受け入れるということが少なく、他人に責任を転嫁したり、自己否定に陥ってしまう。予期不安が沸き起こってくると、それに翻弄されて目の前の仕事や日常茶飯事が手につかなくなる。不安や恐怖に対して、しばらく持ちこたえて、耐えたり我慢するという気持ちが薄い。普通の人は、ミスや失敗があると、すぐに必要な処置をとる。上司や得意先に正直に報告して、すぐに事後処理に走る。気分本位になってミスや失敗をやりくりしたり隠したりしない。私たちのようにミスや失敗にとらわれて自分を追い込んでいくという事が少ない。私たちは小さなミスで自分の将来が全てダメになったように拡大してしまうのが得意である。私たちの注意や意識は、 「ひょっとしてまたミスや失敗をするのではないか」という方面に向かっており、目の前の仕事や物事に向かっていないので、思いがけないところでミスを連発してしまう。それがますます自己嫌悪につながり、生きること自体が苦痛になってくる。私達の意識は、うまく行ったときのことは蚊帳の外になっている。ミスや失敗のことだけが頭の中を占めている。マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒なのである。これではバランスが悪い。両面観で考えると全くバランスがとれていない。このような人は、「かくあるべし」という理想という視点から、現実、現状、事実を見ているのである。そして理想とは程遠い現実を見て、批判や否定を繰り返しているのである。そのような考え方をする人は、生きていくことそのものが苦痛となってしまう。その反対の考え方をすることができる人は、苦しい時がたくさんあっても、人生そのものが苦痛の塊であるという事はない。これらは認識の誤りから起きている現象である。これを打開する方法としては、認知療法、論理療法、森田療法がある。森田療法では、劣等感的差別化、部分的弱点の絶対視、劣等感的投射、防衛単純化等について学んできました。しかしそれだけでは不十分だと思う。その他に、認知療法で指摘されていることも学習する必要がある。全か無かの思考方法、一般化のしすぎ、心のフィルター、良い出来事を悪く考える、結論の飛躍、拡大解釈と過小評価、自分の感情を根拠に決めつける、 「かくあるべし」という思考、レッテル貼り、自分のせいにするなどである。これらは自分ひとりで学習してもその誤りについてはほとんど理解できない。集談会のような学習の場で具体例を取り上げて、相互学習が有効である。認知療法では、まず落ち込みの原因となった出来事を具体的に書き出します。次に落ち込んだ時に湧き上がってきた感情を書き出します。そして、学習仲間と一緒になって、その感情について認知の誤りがないかどうかを検討していきます。森田理論学習では、認知の誤りや認識の誤りはもっと掘り下げて学習する必要があると思う。
2018.05.22
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メジャリーグで活躍した黒田博樹さんは目標の持ち方について次のように述べておられる。高校は上宮高校だったが、周りは凄い人だかりでライバルとなる人はいなかった。補欠の選手で終わった。専修大学では、 1学年先輩に小林幹英さんという目標ができた。小林さんを見ていて、専修大学でナンバーワンの投手になりたいと思うようになった。当時の小林さんはとにかくすごいボールを投げていた。そのうち私は小林さんを目標やライバルとして捉えることが出来るようになった。それは、大学に入ってから、気持ちに余裕ができ、野球の技術にひとつひとつ取り組んでいくことで自分の腕も上がり、周囲と自分の比較ができるようになった。そうすることで、自分だけを尺度にしながら野球をするのではなく、周りのライバル、目標を意識し、自分も成長できるようになったのだ。黒田さんの上を目指すという考え方とは、 「目の前の枠の中に目標を作る」という方法だった。その目標は達成できると、今度は他の大学の同学年の投手という枠の中で、自分の力を比較し、目標とするようになる。そこで結果を出しナンバーワンになることができれば、今度はリーグという枠の中でナンバーワンの投手になりたい。そんな欲求が湧いてきたのだ。ひとつひとつ自分の目の前の枠の中でナンバーワンを目指す。それが達成できれば枠を広げて行く。その後枠の中でまたナンバーワンを目指す。それが今も変わらない自分の考え方の原点になっていたのだ。その結果、枠はどんどん広がり、メージャーリーグにまで辿り着いてしまった。これがもし、大学入学時から目の前の目標ではなく、遠い彼方である「メージャーリーグに行ってやる」と鼻息荒く意気込んでいたら、きっと途中で野球を止めてしまっていたと思う。(決めて断つ 黒田博樹 KKベストセラーズ 38ページより引用)黒田さんの目標の立て方は、自分の現在の状況を踏まえて、目の前の達成可能な小さな目標を設定して挑戦していくというやり方です。最初から大きな夢や目標を追い求めるのではない。目の前の小さな目標を1つ1つ達成することによって、後で振り返ってみれば、とてつもないところに到達していたというやり方です。これは私たちにとってとても参考になる話だと思われます。私たちはとかく、最初から大きな目標を立てて、どこから手をつけていいのかわからなくなって容易に挫折してしまいます。これは目標というより願望に近い。また反対に雑仕事や日常茶飯事のような小さな目標に対しては、馬鹿にして全く手をつけることがない。その2つの板ばさみになって、無為な人生を過ごしている場合が多いのではないでしょうか。これは目標の立て方に無理があるということではないでしょうか。さて、黒田さんはそのためには、ライバルの存在が有効だと言われています。追い越すことが可能なライバルを明確にして、果敢に挑戦する態度が欠かせないと言われています。アテネオリンピックへ出たとき、黒田さんはメンバーに選ばれましたが控え投手でした。その時、松坂大輔、上原浩治、岩隈久志、和田毅投手を始めとして各チームのエースが選ばれていました。この時黒田さんは、先発できないことで悔しい思いをしました。その悔しさをバネにして 「よし、自分も日本を代表する投手になる」と決意を新たにした。自分の気持ちを鼓舞するきっかけとなったと言われています。一つ一つ目標を切り上げていったのです。黒田さんの野球人生を振り返ってみると、ギリギリの隙間をぬって目の前の大きな壁をぶち破って前進されたように思います。それこそが、私たちがめざしていくべき方向なのではないでしょうか。
2018.05.21
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アメリカのノーマン・カズンズ氏は 50歳の時に膠原病にかかりました。最初は発熱と体の激しい痛みに悩まされます。そして1週間もたたないうちに、首・腕・手・指がうまく動かせなくなりました。主治医は、強直性脊椎炎との診断を下しました。これは、膠原病の1種で、 500人に1人しか治らないと言われる難しい病気です。なお膠原病は、自分の免疫細胞が暴走して、細菌やガン細胞などの異物だけではなく、健全な細胞をも攻撃する自己免疫疾患と呼ばれています。その代表的なものはリウマチです。膠原病にかかった彼は、以前に読んだことのある、ハンス・セリエ博士の著書「生命のストレス」を思い出しました。セリエの説は、不快な気持ち、マイナスの感情を抱く事は心身ともに悪影響を及ぼすというものでした。ではその逆をいけばどうなるんだろうとカズンズ氏は考えました。プラスの感情、快適な気持ちを持つことは、心身に良い影響を及ぼすのではないか。今でこそ、このような考えは精神免疫学として確立されていますが、彼はそのことに直感的に気がついたのです。そして、プラスの感情、快適な気持ちを得るために役立つ「笑いの効用」に着目したのです。彼は早速、病室に映写機を持ち込み、滑稽な映画を観ることに専念しました。その効果はテキメンだった。 「ありがたいことに、 10分間は腹を抱えて笑うと、少なくとも2時間は痛みを感じることなく眠ることができる。笑いの鎮静効果が薄らいでくると、また映写機のスイッチを入れたが、それでもう一度、しばらく痛みを感じることなく過ごせることが多かった」さらに彼は別の実験も行っている。膠原病やリウマチ、貧血、腎臓の病気などでは血沈が早く沈降します。これは赤血球沈降速度の略で、試験管にとった血液中の赤血球が何ミリ下がるかを測るものです。彼は、ゆかいな小話を聞いた前と後では血沈がどう変化するかを比較しています。そして、お笑いの後では、 「いつも少なくとも5ポイントは改善した。この数字自体は大きくはないが、改善は持続的であり、累積的であった」と述べています。やがて難病を克服して彼はジャーナリストという仕事に復帰することができました。彼は、 「生きようとする気持ちは薬のように体に効果をもたらす」 「笑いは、積極的・肯定的な気持ち、生への意欲を持つということのひとつの象徴と考えたい。そして、笑うだけでよいというのではなく、理解ある医師の協力があってはじめて力が発揮される」 「愛と笑いと、希望と、信頼と、生への意欲、それらを尊重し、実践しなければならない」と述べています。(笑いの健康学 笑いが免疫力を高める 伊丹仁朗 三省堂 110頁より引用)病気になって、投げやりになり悲嘆にくれて、ネガティブで悲観的な入院生活を送る人は、免疫力も落ちてきます。入院していても、ダジャレを飛ばしたり、ユーモア小話や川柳を作ったり、楽しいことをいろいろと思いついて手足を出している人は、免疫力が急激に落ちることがなく、自然治癒力が増加して病気は快方に向かうことがあります。免疫をつかさどる白血球が適度のバランスでその役割を発揮します。森田理論では心身同一論といわれますが、このように精神と身体は切っても切り離せない関係にあるということを忘れてはなりません。そういう意味では、心理療法や精神療法を取り入れないガンや難病治療は片手落ちというしかありません。
2018.05.20
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北海道の砂川市に「いわた書店」がある。この書店は珍しい販売方法で本を売っている。それは、 「 1万円選書」と呼ばれている。注文した個人個人に合った文庫本を6 、 7冊ぐらい店主が見繕って届けるやり方である。こんなやり方でうまくいくのかと思うが、注文が多すぎて、現在3,000人待ちの状態である。申し込んでも抽選に当たらなければ買うことができないという。これは、本を読みたい人が自分はどんな本が向いているのかわからないということだと思う。そのため、この店主は毎日読書を欠かさない。年間300冊以上を読んでいるという。店内には自分が、本の好きな人に読んでもらいたいと思う本のみを置いている。ジャンルは多岐にわたる。ベストセラーや自己啓発本、ハウツー本は基本的には選ばない。注文を受けるにあたっては、まずカルテを書いてもらう。店主はそのカルテを丹念に読んで、ときにはメールでやりとりを重ねた上で本を選び発送するカルテには、まず読書歴を書いてもらう。今まで読んだ本とその評価について書いてもらう。次に、アンケート形式で次のような項目について自由に書いてもらう。・人生で大切にしていること・今までの人生で嬉しかったこと。苦しかったこと。・何歳の時の自分が好きか・これだけはしないと決めていることは何か。・あなたにとって幸せとは何か。これを私の場合で考えてみた。まず、人生で大切にしていること。森田理論を深めていくこと。森田的な生活を継続していくこと。今までの人生で嬉しかったことは、結婚して子供が生まれたこと。大学時代に日本全国を旅してまわった事。トライアスロンで完走したこと。森田療法に出会った事。いろんな資格試験に合格した事などである。苦しかった事は、対人恐怖症になり、他人の思惑に翻弄された生活を送ったこと。何歳の時の自分が好きか。これは今現在の自分が一番好きである。これだけはしないと決めていることは何か。自己破産しないこと。ガンなどの難病に犯されないこと。交通事故を起こさないこと。あなたにとって幸せとは何か。日々処理しなければならない課題や目標がたくさんあって、常に地道に努力精進している状態にあること。広く浅い人間関係を作りげて、交流を楽しむこと。これらの情報で、どんな本を選んでくれるだろうか。おすすめの本を聞いてみたい気がする。森田療法の本、これからの老後の人生をさらに豊かにしてくれる本、旅と人生。自給自足生活。田舎暮らし。人間関係に関する本、日々何かに挑戦して素晴らしい人生を送っている人たちの本などが選ばれるのではないかと勝手に思っている次第である。私は読書が好きで、それこそ年間300冊ぐらいは読んでいると思う。ほとんど森田に関係する本ばかりである。もっと言えば森田理論に関係する周辺の本である。その中から森田を深めるために役にたつ本を何冊も見つけた。森田理論を深めるための本、事実本位、凡事徹底、ユーモアのある生活、一人一芸、夢や希望、バランスや調和、ストレスや不安の役割と対応、神経質性格を活かした人生観の確立などのジャンルに分けて考えてみたい。これらをもう一度整理して、コメントをつけて、早めにこのブログで発信をしてみたいと思う。
2018.05.19
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筑波大学の田神助教授は次のような実験を行った。ネズミを2つのグループに分けて3週間実験を行った。1つのグループは、毎日餌を好きなだけ食べさせて、温泉に入れた。もう一つグループは、餌を少ししか与えなかった。さらに毎日水泳をさせた。その後、両方のグループを寒さにさらした。風邪をひいたのは、餌を腹いっぱい食べさせて温泉に入れたグループであった。空腹と水泳をさせたストレスいっぱいのように思えるグループは風邪を引かなかった。しかもキラー細胞(ガンを攻撃する細胞)という免疫機能の働きを調べると、空腹と水泳をさせたグループのほうか強かった。この結果から、適度の運動を実行して、適度のストレスを受ける方が免疫力を高めることがわかった。一般的にストレスや悩みを抱える事はよくないことであると受けとめられている。しかし、実際にはストレスや悩みがまったくない順風満帆な生活を送っている方が、心身の健康にとってはよくないということである。適度なストレスや悩みを抱えながら、日々の生活に立ち向かっているほうがより健康的な生き方をしているということである。適度なストレスや悩みは我々の心身の健康にとても役に立っているということである。さらにアメリカで次のような実験をした。ボランティアの方を2つのグループに分け、それぞれ別の部屋に入れて、大音響の騒音に耐えてもらいました。片方グループの部屋にだけは、騒音に耐えられなくなったらスイッチを切って止められるような仕掛けがしてあります。その部屋の人がスイッチを切ると、両方の部屋で騒音が止まる仕組みになっています。この実験の後、 2つのグループのキラー細胞を測定してみると、自分たちの意思でスイッチを切ることができる部屋にいた人のキラー細胞は減少していなかった。もう一方のグループの人はキラー細胞が明らかに減少していた。このことから、ストレスに対して受け身になって対応することはよくないことがわかった。ストレスに対して、自力で解決する姿勢があればキラー細胞は減ることはない。免疫力が持続する。これに対して、ストレスに無防備で受け身になってしまうとキラー細胞が減少し、ガンや難病に侵されやすくなる。(笑いの健康学 伊丹仁朗 三省堂 51頁より要旨引用)神経症の人は、不安、恐怖、違和感、不快感などが湧き起こってくると、あってはならないものと認識して、取り除こうとする。思い通りにならないと逃げてしまう。この対応は1番まずい対応である。それらに対してどのように対応していけばよいのかは、森田理論学習が明確に教えてくれている。対応するための理論を知っているか知っていないかは、精神や身体の健康に大きく影響するのである。森田理論では、それらは欲望があるからこそ発生しているものであるという。不安などに関わり続けるのではなく、欲望のほうに目を向けて日常茶飯事や仕事に取り組んでいくことを教えてくれた。また不安があるからこそ、無制限に欲望を追い求めるということがなくなる。欲望の暴走を食い止めることができるのだ。それは丁度自動車のアクセルとブレーキのような関係にあたることを学んだ。車はアクセルを踏み込まないと絶対に前に進む事はない。アクセルを踏み込むことが1番大事だ。しかし、その時ブレーキが壊れていては、追突事故や大惨事を引き起こす。アクセルを踏み込むことに重点を置きつつも、ブレーキの果たしている役割を十分に認識することが大切である。適宜アクセルとブレーキを使いこなしていけば、安全に目的地に到達することができる。これはサーカスの綱渡りの芸にも似ている。綱渡りでは、長い物干し竿のようなものを持って常にバランスを取っている。バランスを取りながら、慎重に一歩一歩目的地に向かって移動している。神経症に陥っている人は、不安などに取り付かれてバランスが崩れている状態である。神経症が治るということは、不安と欲望のバランスを回復させることだと言っても過言ではない。
2018.05.18
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ヨーロッパの最高峰モンブランの頂上に達する最後の道は、頂上直下で非常に細い稜線になっている。そこはいわゆる「ナイフリッジ」と呼ばれ、ナイフ状の稜線になっている。そのナイフリッジの幅は20センチ足らずで、両側の斜面は削ぎ落とされたような断崖絶壁である。視界が良好な時にその細い道を進んでいくことはとても恐ろしい。なにしろ、左右が断崖絶壁のために目がくらむような恐ろしさである。風があれば吹き飛ばされそうになる。視線を谷底に向けてしまうと足がすくんで這いつくばってしまう。しかしモンブランの頂上を目指すためには、その恐ろしいところをどうしても通過しなければならない。ここで死の恐怖を避けようと思えば、前進することをやめて中止して下の小屋に帰り、他の人が降りてくるのを待っていればいいのである。そうすれば今直面しようとしている死の恐怖を感じなくてすむ。しかし、その代わり一生に一度のモンブラン登山という、人生の目標は捨てなければならない。一旦人生の夢や目標を捨てると、やる気やモチベーションは急激に低下してくる。生きる屍と化してしまう。そのこと考えてみれば、ぜひ渡り切りたい。大きな目標があれば、それには様々な不安や死の恐怖はつきものなのである。これは生きていればどんな人にとってもいえることである。その場合、心の安楽を求めて目標を放棄するか、大きな目標に心を向けて、死の恐怖と共存しながら懸命に目標に向かって進むかのどちらかなのである。実際には「生きがい療法」の伊丹先生が、ガン患者とともにモンブラン登山に挑戦された時は、ナイフリッジ付近は猛吹雪で、視界が1メートルぐらいだった。ほとんどもう周りが見えず、どこを歩いているのかわからない。そのせいで、死の恐怖はなかった。しかし、そのために素晴らしいアルプスの眺めは全く見ることができなかった。果たしてどちらがよかったのか。これはガンでいうと、自分がガンにかかっているという認識がないことと同じである。心の安楽は確かにあるかもしれない。しかし、自分の身体がどのようにガンにむしばまれているのか見当がつかない。疑心暗鬼になる。すると、ガンの克服に向けて、本来家族、友人達が心を合わせて闘い、ガンに負けずに生きる目的に取り組もうとするすばらしさ、人生の手ごたえもないであろう。そのうち痛みでのたうち回るようになる。ガンという病名を知っていれば、死の恐怖はあるけれども、家族や友人と力を合わせて、生きている間にしたいこと、あるいは病気と闘いながら、素晴らしい人生に取り込むことができるのではないか。心の安楽だけを求めることは、大事なものを失う結果になるという事をよく考えてみる必要がある。(生きがい療法でガンに克つ 伊丹仁朗 講談社 209ページより要旨引用)この話は森田理論に通じるところがある。事実、自分の置かれた状況に向き合わなければ、感情が発生し、高まっていかない。意識化できなければ、気づきや発見は湧き上がってこない。関心や興味も出てこない。工夫やアイデアも思いつかない。意欲ややる気が出てこない。生きがいや人生を謳歌することは永遠に閉ざされてしまう。たとえ心配や恐怖があっても、目の前の事実や現状に真正面から向き合い、十分に事実を見極める態度が大切である。
2018.05.17
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30年ぐらい前はガンの告知をしない場合があった。つまり、医師も家族もガンになったという事実を本人に知らせないのである。事実を隠し通そうとするといろんな面で弊害が出てくる。まず闘病上の問題である。ガンになったことを本人は知っていると、自分の意志で納得いく治療を選択できます。もし本人に病名を知らせないと、ガンの最高の治療が出来る病院に行きたくても、本人にガンの専門病院だとわかってしまうので連れていけない。また、つい忘れがちな飲まなければいけない薬があるにもかかわらず飲まない。検査もなかなか受けない。手術や特殊な治療もなかなか取り組もうとしない。その他、食事とか睡眠、運動など生活の中でしなければならない闘病に真剣に取り組まない。伊丹先生の経験では、ガンを知った人はタバコをすぐに止める。ガンを告知していない人は、いつまでも吸われる。タバコを吸うと、ガンに対しての免疫力が低下し、ガンの再発率が非常に高くなる。ガンを告知しないと、家族は言葉の端々で、本人に病名は知られてしまうのではないかと1日中ビクビクしている。家族のエネルギーの半分ぐらいは、 病名を隠すことに注がれてしまう。病名を知っていれば、家族が心を合わせ、自由に話し合って闘病に取り込めるので、家族のストレスも減ってくる。次に実生活上の問題である。病名をきちんとしていれば、もしもの場合に備えて、今すべき準備をすることができる。例えば、遺書を書いておくとか、仕事上の引き継ぎとか、遺産の分配とか、ローンや保険を整理しておく。身の回りの不要なものも処分しておくことができる。また、生きている間に、ぜひともやりたいことを実行するチャンスが得られる。ガンの告知をしないと、やりたいと思うことも退院してからでもよいと安易に考えて、うかうかと毎日を過ごしてしまう。そのうち病状はどんどん悪くなる。退院もできない。結局亡くなる間際になって後悔することになる。次に、本人の知る権利を奪ってしまうという問題である。自分の人生の中の最大の問題を本人に告知しないで済まされるのであろうか。事実を隠蔽してしまうことは許されることではない。最後に、身体的利益の棄損である。自分がガンに侵されていることを知ってショックを受ける面は確かにある。しかし反面ガンに冒されていることを知って、ガン克服のために懸命に頑張ろうと決意する人もいる。そのようなファイティング・スピリットでガンに立ち向かった人の生存率はかなり高まることが分かっている。さらにガンになったことによって、今までの生き方を考え直す契機にする人もいる。どちらに傾くかは本人次第であるが、生きがい療法や森田理論はその対応の仕方にヒントを与えている。(生きがい療法でガンに克つ 伊丹仁朗 講談社 49ページより要旨引用)
2018.05.16
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心の働きが自然治癒力に大きな影響を及ぼし、ガン闘病中の人の治療効果を左右する。これは、今や世界の医学最先端の常識となっている。がん患者の心の状態と生存率の関係についてのイギリスでの研究によると、ガンに対して闘争心で対応した人々の13年後の生存率は80%であるのに対して、絶望感に陥った人々は15%と5倍もの差が出ることが明らかとなっている。ちなみに、冷静に受け止めた人と、病気を否定した人々はそれぞれ25% 、 50%であった。なぜこのような現象が起こるのか。それは心の持ち方とナチュラルキラー細胞の活性化の関係についての研究から明らかとなってきた。悲しみ、不安、恐怖、抑うつ、ストレスなどにとらわれて、ネガティブで消極的な生き方を続けている人は、ナチュラルキラー細胞というガンを捕食してくれる免疫機能が落ちている。毎日3000個はできるというがん細胞を攻撃する能力が落ちてくるのである。その力関係ががん細胞優位に傾いて逆転したとき、人間は容易にガンになるのである。神経症で不安や恐怖に翻弄されている状態は、身体に大きな負荷をかけているのである。特にうつ病の人はナチュラルキラー細胞の活性化が正常の人に比べて、 64%にも低下していたそうである。がん治療中、うつ病になる人は、欧米での調査によると、 48%から98%と驚くほど高率なるという。神経症の場合でいえば、うつ状態が続いているというのが問題になる。抑うつ神経症、気分変調性障害である。この場合も免疫機能に悪影響を起こしていることが考えられる。元々ガンになった人は、免疫機能が落ちている。それに加えて、うつ病になることでさらに免疫機能が低下してくるのである。したがって、ガンとうつ病になった人は、ガン治療だけに取り組んで、病巣を取り除いても自然治癒力が回復しないのである。多くの場合は再発や転移につながる。現在、うつ病には薬物療法が有効である。そしてまずストレス・過労を避けて、睡眠を十分にとり休養本位の生活をすることが大切である。その後うつ病が治ったあとがもっと肝心である。悲しみ、不安、恐怖、抑うつ、ストレスなどの対処方法を森田理論学習によって学んで、日々の生活の中で実践していくことが大事である。つまり不安や恐怖を持ったまま、外向きに仕事や日常生活に精を出すことである。そうすれば、ナチュラルキラー細胞が増えて免疫機能が正常になってくる。がんが完治するということは、心身両面からの治療が大切なのだということがわかる。そうしないと自然治癒力が発揮されることがない。森田理論は心身一元論であるといわれるが、ガンの成り立ちを見ていると、そのことがよくわかる。(絶対あきらめないガン治療・ 30の可能性 伊丹仁朗 三五館 28ページより要旨引用)
2018.05.15
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伊丹仁朗医師が開発された「生きがい療法」には5つの基本方針がある。ガン患者や難病疾患の人が、この方針に従って、行動・実践することを心がけるのである。1 、自分が自分の主治医のつもりで病気や困難の解決に取り組む。生活習慣病などになった場合、本人が病気の成り立ちを理解して、食べ物、運動、禁酒、禁煙とか、ストレスを減らす等問題ある生活習慣を自ら改善していかないと病気はよくならない。ましてガンのような治すことが難しい病気の場合は、そのような強い心構えで取り組むことが大切である。2 .今日1日の生きる目標に打ち込んで生きる。ガンは放っておくと常に少しずつ大きくなる。 1日の猶予もない。だから今日一日を建設的な前向きの生活に打ち込むことで、少しでも免疫中枢(間脳)を活発化してガンと戦う必要がある。したがって、 1日も手を抜いてはいけない。勝負は今日1日である、というように考えてほしい。体の調子が悪くても、あるいは、たとえベッドに寝ていても、できることはある。気分が大義なら大義のままに、今日1日する必要のあること、この目標に向けて一生懸命作業に取り組む。3 .人のためになることを実践する。「自分の病気のことで頭がいっぱいで、人のためになる事どころじゃありません」と言われるのだが、人のためにすることが、一見回り道のように見えて、実は生きがいを手に入れる近道である。生きがいを持つことが免疫力を高めていく。この自然治癒力がガンを退治するのである。4.不安・恐怖と共存する訓練に取り組む。ガンとか死ということが非常に恐ろしい、という自分の気持ちを事実として認める。怖い気持ちをなくそうという無駄な努力をすると、ますます怖ろしくなるという心理学的な特徴がある。だから、恐ろしいのは当たり前なんだ、というこの気持ちを認める。そうすると、心理学的に非常に面白い。不思議な現象が起きる。今まで持っていた不安とか恐れとかいうものが軽くなるのである。その結果闘病しやすくなり、闘病をより快適にすることができる。5 .もしもの場合の準備だけはしておく。なんとか長生きしたい、死にたくないと思っても、いずれ誰にも死は訪れる。死を「嫌々ながら受け入れる」誰でも死ぬのを喜んで受け入れる人はいない。事実だから仕方がないということでもある。そして生きている限り、できるかぎり、建設的に有意義に生きることが大切である。その際、死後残された人のために迷惑をかけないような準備をしておく。(生きがい療法でガンに克つ 伊丹仁朗 講談社 146頁より要旨引用)神経症者も、この5つの指針に学び、神経症克服のための行動・実践をしていくことが大切である。1では、森田理論学習によって神経症とは何か。自分の神経症の成り立ちを理解する。神経質性格の特徴を学ぶ。感情の法則など神経症の乗り越えるための森田療法理論をしっかりと学ぶ。これはこのブログで説明しているように基礎編と応用編がある。順序よく学んでいくことが効率的である。特に応用編の「森田理論全体像」の学習は大事である。理論を学んだ後は、自分の場合はどうであったのか付き合わせてみることも必要である。2では、症状があるととてもつらいが、不安、恐怖、違和感、不快感を持ったまま、目の前のやるべき日常生活や仕事などに積極的に取り込んでいく。最初はイヤイヤ仕方なしにボツボツでもよい。どうしても行動に入れない場合は、実践課題を作って取り組む。それができるようになると、気のついたことメモに書きとめて一つ一つ片付けていく。そうすれば次第に弾みがついてくるはずである。実践・行動なくして神経症は克服できない。3では、人に役立つこと見つけて実践に移す。人に役立つ事を絶えず見つけて取り組む。それはは小さければ小さいほどよい。数多くこなすことである。そうすれば注意が外向きになり、他人から感謝され、自己中心性が打破される。4では、不安、恐怖、違和感、不快感は、強い欲望があるから発生したものであるということを理解する。また人間が生存するために、不安などはなくてはならないものであるということを理解する。つまり、欲望や不安は車のアクセルとブレーキの関係にあることを理解する。不安を持ったまま、目の前の仕事や日常茶飯事に取り組むことを目標にしていく。それができるようになると、一つの大きな能力を獲得したことになる。5では、不安に学んで、対策を立てておけば、将来の思わぬ災難から逃れることができる。例えば、不慮の事故に備えて生命保険に入っておく。巨大地震、津波に備えて家具を固定したり、耐震化構造にしておく。自動車保険に入っておく。等々 、いくらでもある。これらに対しては、見て見ぬふりをしていてはならない。不安に学んで、積極的に手をだすべきである。それが自分と家族の安全を守る。我々神経質者は森田理論を学ぶ場合、あまりにも理論にとらわれて、肝心の森田理論を生活面に応用していくという面がすっぽりと抜け落ちていることがある。こういう状態は、神経症が治るのではなく、むしろ神経症を強化する方向に働くのである。大変危険である。生きがい療法の5つの指針から学ぶ事は人それぞれに違うかもしれない。でも、実践なくして森田理論学習はないということを肝に銘じておく必要がある。
2018.05.14
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森田先生、森田理論の立場は「心身同一論」 「心身一元論」です。 これについて森田先生は次のように説明されている。「身体の新陳代謝に変化があれば、同時に精神にも変化がある。呼吸、消化、結構な科活発に調和よく行われるときは、精神も活発で気分爽快である。(中略)内臓の変化により気分が良いとか悪いとか変化があり、これによって我々の思想、人生観などに常に著しき影響を及ぼすものである」「感情のおこるときには血行、呼吸、分泌、筋肉の運動など、すべて身体に一定の変化があるのである」これに対し、 「心身二元論」がある。心と身体は無関係に存在しているという考え方だ。このような考え方の違いは、その後の対応方法が全く違ってくる。「心身二元論」は、例えばがんになったとき、どこにどのようながんが発生しているのか分かると、そのガンを外科手術、放射線、抗がん剤などで除去したり、がん細胞を縮小させようとする。これらの治療は免疫機能に大きな負担を与える。そして完治できなかったときは大変だ。がん細胞が退治できなくて、他の臓器に転移した場合はお手上げになる。現代の医療では処置できないとして、ホスピスなどに送られて放置される場合が多い。これに対して、 「心身同一論」 「心身一元論」ではどう考えるのか。もちろん「心身二元論」と同じように、がんの病巣について徹底的に調べ、その人に合った必要な措置を講じる。しかし、その後が違う。1つには、がんが発生したということは、心の構え方が大きな影響を持っているとみているのだ。つまり、ストレス、絶望とか、悲しみとか、イライラとか、不安感、恐怖などの生活上の悩みが、がんに対する抵抗力を低下させているとみている。一方、希望や喜び、あるいは建設的な生きがいを持った生き方は、がんに対する抵抗力が大幅に強くなって来る。健康な人でもがん細胞は毎日3000個は作られている。それに対してナチュラルキラー細胞などの白血球ががん細胞に戦いを挑んで、がん細胞を除去してくれているのである。がんになるということは、体の中でナチュラルキラー細胞が減少して、がん細胞との戦いに敗れているということを意味している。がん細胞は一旦勝利を収めると無限に増殖していく。本来人間には、病気になると自然治癒力が働くようになっている。がん細胞が体の中で増殖するということは、白血球の力が弱まり、がん細胞との力のバランスが崩れ、がん細胞が体の中を我が物顔で支配しているということになる。がんになって外科手術、放射線治療、抗がん剤治療によって、病巣を完全に除去し、がんを退治したとしても、白血球の働きが活性化してこないと、いずれまたガンが再発すると見ているのである。がんに対する抵抗力を高めるような生活習慣、食習慣、精神的なストレスや苦悩に対してどう普段から取り組んでいくのかという視点が欠かせないのである。そうしないと自然治癒力が働かないのでまた再発や転移を繰り返す。結局は「心身一元論」の立場に立たないと、ガンは根絶できない。神経症にしても、不安、恐怖、違和感、不快感などの原因をつかみ、それに対して薬物療法、精神療法、カウンセリングによってそれらを除去するという考え方は、 「心身二元論」の考え方であり、この場合は容易に再発を繰り返す。たとえば、肩こりや腰痛などの慢性疼痛で苦しんでおられる人がいる。これらは器質的な面に加えて、注意や意識がが過度に肩こりや腰痛に向けられることによって重症化してくるという。この場合は、森田的な考え方を取り入れて、多少の痛みを抱えたまま、普段の日常茶飯事を丁寧に行うことによって、むしろ痛みを軽減できる場合があるという。対人恐怖症の人も、人の思惑が気になるからといって、ハウツーものの対症療法にばかり走っていると、精神交互作用によって症状として固着してしまう。森田療法では、精神的な改善を図るよりも、普段の生活に目を向けて、身体的に健康的で規則正しい生活をすることによって精神的な問題を乗り越えようとする理論である。「心身一元論」は何を言っているのか、全く分からないという人が多いと思う。またそんな難しい理屈を聞いていると頭がいたくなるという人もいる。ここではあまり難しいことはいわない。神経症を治そうと思ったら、心の治療と生活をまともにするという両面から取り組まないと、労多くして達成は難しいということを覚えておいてもらいたい。神経症の解消のために薬物療法や精神療法だけに偏る事はその目的を達成することは困難である。心と体はあざなえる縄のごとく一体であるので、その両面から取り組んでいく必要があるのである。その点森田療法理論に忠実に取り組めば、バランスがとれて、神経症が克服できるのみならず、人生観まで確立できるのである。
2018.05.13
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森田理論学習において「純な心」の学習は重要である。「純な心」という言葉は、森田理論で使われる特集用語である。それだけに、難解で誤解を受けやすい言葉でもある。森田理論学習をしている人は、純な心は、美しい感情、良い感情という意味でない事はよくわかっている。森田先生は、素直な感情、直感、最初にわき起こってくる感情のことを「純な心」と言っている。自分の価値観では受け入れることができない、いやなもの、醜いものであっても、最初に沸き起こってくる感情は「純な心」である。だから不安、恐怖、違和感、不快感、憎しみでも嫉妬でも、そのままに感じ、状況に応じては持ちこたえたり、表現すればよいと言っているのである。「純な心」の理解が難しいのは、今わき起こった感情が初一念であるのか、あるいは初二念、初三念であるのか、区別がつきにくいという事である。簡単に言えば初一念は素直な感情、初二念、初三念は初一念に引き続いて湧き起こる感情であり、「かくあるべし」などを含んでいる。森田先生は、初一念の感情に従って発言をしたり、行動することを重視しているので、これを見間違えると大変なことになる。例えば、中学生位の女の子が、深夜になっても、家に帰ってこない。家に連絡もしてこない。親は何か事故に遭ったのではないか心配で、いてもたってもいられない。その後何事もなかったように、娘が帰ってきた。するとほっと安心して気が緩むのか、最初の初一念は蚊帳の外になってしまう。そして娘の振る舞いを烈火のごとく非難する。いかりや腹立たしさが沸き起こってきたのだ。これは初一念に引き続いて沸き起こってきた初二念であるが、初一念と見間違えて行動しているのである。小学生を引率して遠足に行った先生の対応。帰る時間が来ても、 2人の児童が集合場所に戻ってこない。どこに行ったのだろう。事故にあって怪我でもしているのではないか。心配でしかたがない。そのうち遅れて帰ってきた。すると、「どこに行っていたの。皆から離れて遠くへ行ってはいけないとあれほど注意していたでしょう」と児童を叱りつける。学校で脚立に登って文化祭の掲示物を取り付けていた生徒が危うく転落しそうになった。それを見ていた先生は冷や汗が出た。でも転落しなくてケガがなくてよかったと最初は思った。しかし、口をついて出た言葉は、 「不注意にもほどがある。骨折でもすれば先生の責任になるんだぞ」と生徒を叱り付けた。これらの例は、すべて初一念と初二念の感情を取り違えているのである。取り違えてしまうと、その後の言動が全く違ってくる。だから、森田理論学習で純な心について学習したら、今度は実際の例で検証してみる必要があるのである。これは1人で行っていてもなかなかうまくはいかないが、大勢のグループでやるとよくわかるようになる。自分が、これは初一念に間違いないと思っていたことが、実は初二念であったということが容易に判断できるようになる。私が考えるには、初一念は相手や対象物と一体になっている。ものそのものになっている。例えば大切な骨董品を落として壊したとき、 「しまった。取り返しがつかない事した。なんとか元に戻らないか」と一瞬考える。ところが、すぐに、「これが見つかったら大変なことになる。叱られる。弁償させられる」などと考える。この時点では、心が骨董品から離れて、責任逃れのようなことばかり考えている。通常はこの初二念をもとにして対策を立てようとするのである。相手から見ると弁解や自己保身に躍起になっている人を見ると我慢ができなくなってつい叱責してしまうのである。森田の「純な心」は大切な考え方という事はわかっても、このような体験学習をしていないと全く身につかない。集談会などの自助グループなどの学習の場で事例を出し合いながら学習することが大切である。
2018.05.12
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今日は「自己肯定感」と「自己受容」について考えてみたい。「自己肯定感」とは、どんなに辛い状況にあっても、決して投げやりになることなく、将来に希望を見出して自分を信じることができる人である。あるいはいくら他人から自分のことを否定されようとも、それに振り回されないで行動できる人のことである。自分が自分の最大の味方になっている人のことだろう。「自己受容」とは、 「かくあるべし」という理想主義、完全主義的な考え方をしないで、今現在の自分の状況を踏まえて、そこから一歩前を向いて行動できる人である。現状や事実を大事にして、事実本位の生活を送っている人のことである。森田で言う思想の矛盾で苦悩や葛藤を抱えていない人である。神経質者は、目の前に手強い壁が立ち塞がるとすぐに諦めてしまう人が多いようだ。また、他人から避難や否定されると、すぐに自己嫌悪や自己否定に陥ってしまう。さらに、完全主義や完璧主義が強く、現実でのたうちまわっている自分を、軽蔑して、理想の自分に引き上げようと涙ぐましい努力している。つまり集談会では、 「自己肯定感」 「自己受容感」が持てないで生きづらさを抱えて悩んでいる人が多いようだ。ところで、この問題を考える場合、今までは十把一絡げに取り上げていたが、これではまずいのではないか。その中身を分析してみることが必要である。そのヒントを見つけた。これは名古屋の生活の発見会の会員が、「自己受容」に関しての論文を発表してくれたのである。これは全国の会員にメール配信されていると思われますのでぜひご一読ください。内容はとても格調の高いものです。事実に基づく分析はとても好感が持てます。私は、その中で「自己受容測定スケール」に興味を持ちました。その中身は「自分の生き方」「対人関係」「神経質性格」「身体・容姿」「自分の能力」などである。それぞれについて、「自己受容」の変化の度合いを検討していくのである。これを私の場合で説明してみたい。まず「生き方」の指針であるが、森田を知る前は全く将来に対して希望が持てなかった。現在は、神経質性格の持ち主としてどう生きていけばよいのかが分かった。それに沿って毎日の生活をしている。この方面での自己肯定感、自己受容はほぼ100%に近い。森田を深めていけば誰でも人生観を確立できると思っている。次に、「対人関係」をみていきたい。私の症状は、対人恐怖症であった。他人が自分のことをどう見ているかについて四六時中気になっていた。注意や意識が内向化して、専守防衛に偏っていたため、苦しくて仕方がなかった。現在は、人の思惑が気になるという自分の性格特徴はそのままである。ただ、そのことに引きずられて、やるべきことから逃げたり、嫌な人を避けたりするという事はかなり減ってきた。対人関係に伴う葛藤や悩みはあるが、最低限の必要なことだけはこなしていけるようにはなった。また、それ以上に大きいのは、気の合う人、趣味の合う人などとの交際が格段に増えたことである。さらに集談会を通じて全国の多くの人と親交を結ぶことができた。これも精神的支えとなっている。今ではこうした薄い人間関係をどんどん拡大していきたいと思っている。100%修正できたと言いたい所ではあるが、実感としては70%くらいか。次に、「神経質性格」である。これについては、森田理論学習を始める前は、心配性でちょっとしたことにこだわりやすい性格が嫌で仕方がなかった。そのことで親を恨んだりもした。森田理論学習によって性格には二面性があることがわかった。心配性であるという事は、感受性が非常に鋭く豊かであるということに気がついた。また、普通の人は気がつかないような事にどんどん気がつくという優れた性格であることもわかった。自己内省力もあり、好奇心旺盛で生の欲望も強い。夢や目標に向かって粘り強く努力していくという特性も兼ね備えていることがわかった。今ではこの神経質性格を与えてくれた自分の親、特に父親に対してとても感謝できるようになった。以前は憎んでも憎み切れない父親だと思っていたのには全く様変わりした。この点での自己肯定感、自己受容は100%である。次に、「身体・容姿」である。身体面では、身長は低く、肥満気味である。身長が低いことに対して、ずっと劣等感を持っていた。今はほとんど感じないが、背の高い人と話をしていると威圧感があった。何よりも今まで大病をしてこなかったことが幸運であった。容姿は全く自信がない。それは他人と比較するからであろう。髪は抜け落ちてしまった。顔かたちもどちらかと言えば見栄えが悪い。しかし最近、あることに気がついた。私の周りには紳士的な人が多いのだが、そういう人の中には歯が悪くて歯医者通いをしている人がいる。あるいは入れ歯をしている人もいる。その他にもガンになったり、若いにもかかわらず痴呆状態の人もいる。このように考えると、全体で見るとバランスがとれているのではないだろうか。「身体・容姿」の面の自己肯定感、自己受容は100%とは言い難い。でも70%ぐらいはいっているような気がする。次に「能力」である。森田の学習をする前は私に特別な能力があるとは全く思っていなかった。そのために、世の中で生きていいくことができるのだろうかと、とても不安であった。森田理論学習を始めて、神経質性格を実際の生活の場面で生かしていけば、それが他人と違う能力の獲得につながるということに気がついた。例えば細かいことによく気がつくという性格であるが、気がついたことをきちんとメモして実践、習慣化すれば、大きな能力の獲得につながることがわかった。それを仕事の面で応用したところ、会社の上司から高評価を受けることができた。自己内省という面であるが、これは出来事や現象を詳細に分析して、将来の予測をたてたり、事前に危機を防止することに役立つ。そのおかげで森田関係の本も3冊書くことができた。またこのブログも5年以上にわたって、ほぼ毎日無理なく投稿できているのも、この能力のおかげではないかと思うようになった。好奇心が強く生の欲望が強いという性格を生かして、生活の幅が以前と比べて格段に広がってきた。それに伴って貴重な人脈も増えてきた。この方向で生活していけばほぼ間違いないないという段階にまで達して来た。能力は、実行することによって自信をつけ、さらに弾みがついて、最終的に能力の獲得として身に付くものだと思う。この面の自己肯定感、自己受容は100%である。集談会では、「自己肯定感」が持てないというような話が出るが、このように分解して、具体的に検討してみることをお勧めしたい。このように分析すれば、全部の分野で、「自己肯定感」が持てないということはあり得ないのではないか。私の場合、こうして振り返ってみると、「自己肯定感」「自己受容」は森田理論学習と実践に伴い徐々に確立されたものである。ですから、もし森田理論学習に出会うことができなかったならば、「自己肯定感」「自己受容」を獲得することなく、人生を終わることになっていたと思われる。
2018.05.11
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本日は薄くて広い人間関係を作るために、その一つの手段として「名刺」について話してみたい。会社勤めをしているときは誰でも会社の名刺を持っていたと思う。名刺交換していないと、連絡をしようと思っても連絡がつかない。私は現在、会社勤めの名刺の他に、森田理論学習の関係の名刺、老人ホームの慰問の名刺を持ち歩いている。これらは全て手作りである。パソコンで作って、名刺専用の用紙を買ってきて印刷している。いつも20枚程度作り、配り終わればまた補充している。森田の関係の名刺は、例えば他の集談会などで講話をしたりするときに渡すことがある。これには生活の発見会での役割、所属している集談会での役割、心理関係の資格、住所、氏名、電話やfax 、メールアドレス、このブログの紹介などが入っている。これが大いに役立ったのは森田療法学会に参加した時だった。少し話をすると、名刺交換になる。持っていないと、一方的にもらうばかりで、自分の紹介はできない。ブログは現在、平均すると 1,000人近くの人が訪れてくれるようになったが、この名刺を渡すと、 「ブログをやられてるんですね」と言う人が少なからずおられる。この名刺はブログの宣伝効果にもなっているのだ。次に、老人ホームの慰問活動で渡す名刺である。森田関係の名刺とは全く異なる。老人ホームの慰問は、主としてチンドン屋としての活動がメインになる。写真付きで、それを前面に出している。その他に、私の持ち芸であるサックスの演奏、どじょうすくい、浪曲奇術、獅子舞も紹介している。これに近々腹話術を加えるつもりである。これは、訪問先で渡すと同時に、初めて出会った他の慰問仲間に渡すことになる。この名刺を見て、慰問先以外の人以外でたまたま参加していた人が、慰問を依頼してくることがある。また同じような活動している慰問仲間に渡していると、人間関係が広がってくることがある。数打てば当たるではないですが、それでも少しは人間関係づくりに役に立っていると思う。私は、花を育てたり、家庭菜園、果樹、加工食品づくり、魚釣り、小動物を飼うことに興味がある。田舎にそのための畑も持っている。作業場も農機具や道具もある。仕事を退職した後は、そちらの方面に力を入れたいと思っている。将来は、それらをアピールした名刺も作りたいと思っている。その名刺を持って、すでに楽しんでいる人や、そうしたグループを訪ね歩いて親交を深めたいのである。自分ひとりで取り組むのもよいが、もっと面白いのは、同好の人たちとの交流そのものである。私は森田理論学習で、人間関係のコツは、広く薄い人間関係を幅広く作り上げていくことだと学んだ。それに向けて、自分独自の名刺を作って自分を自己アピールして、幅広い人間関係を楽しみたいと思っているのである。夢はどんどんと拡がっていくようである。
2018.05.10
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私たちは、行動する前から頭の中でやりくりをしてしまうという特徴があります。例えば、簡単な仕事と思えば、軽く見積り、難しいと思えば、やる前からため息が出る。頭の予想に振り回されるところがあるのです。そのため、手が出ない。あるいは手を出しても簡単だと思っているから失敗する。そんな時、なるべく早く手をつけ、作業をすることによって、その人の中に「はずみ」が生まれます。 1種のリズムです。そして作業する人は、自分が今まで取るに足らない自分などがやることではないと思っていた家事の中に、面白みを見つけ、達成の喜びを見つけるのです。思想、つまり観念というものは、実際に当たることによって変化するのです。くだらないと見下げていたものが、やってみると意外に面白いものがあったりする。あるいは、簡単だと思っていたものが、工夫のいるものだと体験することは、その人のものの見方を変えていくのです。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 95頁より引用)森田先生の入院森田療法では、どんなに社会的な地位が高い人に対しても、それまで全くやっていなかった日常茶飯事や雑仕事に取り組ませました。飯炊き、食事の準備、風呂焚き、部屋の清掃、便所掃除、小動物の世話などです。今までそのような取るに足らない日常茶飯事は軽蔑して、親や奥さんに押し付けていたのです。あるいは会社での仕事でも雑仕事は全く手を付けないで、同僚や部下などにやらせていたのです。自分はもっと価値のある仕事、もっとやりがいがあり、人に注目されるようなクリエイティブな創作活動などに専念すべきだと考えていたのです。知らず知らずのうちに、頭の中で価値の高いものと価値の低いものを選別して、取捨選択をしていたのです。その結果、実際には、一方ではやることがなくなり暇を持て余して退屈になりました。もう一方では、価値の高いと判断した仕事にはどこから手をつけていいのか、手がかりさえつかめないという状況に陥っていたのです。どちらにしても実践・行動がおろそかになってきました。森田先生は頭の中で是非善悪の価値判断をするという態度を改めさせようとしています。そのためには、自分の体で見本を見せて、入院生にも同じ事を体験させていました。ある入院生は、雑巾がけや肥くみなどの作業をさせられて情けなくて涙が出たと言われていました。それほどまでに、是非善悪の価値判断で自分自身ががんじがらめに縛られて、融通が利かなくなっていたのです。頭の中で価値判断をすることをやめさせ、とにかく目の前の日常茶飯事や雑事・雑仕事に注意や意識を向けて丁寧に取り組ませる。そうすると、次第に感情が発生し、高まり興味や関心が湧いてくる。さらに一心不乱に取り組むことによって行動に弾みがついてくる。これが基本的な生活態度となるべく入院生と生活を共にする環境の中で、徹底的に指導されていった。そのうち入院生たちは、頭の中で価値判断をしてやりくりを試行錯誤するよりも、尻軽に気づいたことに即座に手足が出るようになる。そうすることで、生活の幅が広がり、神経症的な葛藤や悩みが少なくなっていったと思われる。つまり、価値判断至上主義から、物事本位の事実本位の生活へと人生観の転換が図られたのである。ちなみに森田先生は、価値判断することやめて、自然に服従した生活ができるようになると、大学卒業程度の段階であると言われている。
2018.05.09
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今日は感情の取り扱い方について次の3つの視点から考えてみたい。まず 自然に湧き起こってくる「喜怒哀楽」などの感情への対応である。喜びや嬉しさなどの感情は、ストレートに表現してもよいものである。ただし、試験などに合格した場合、一方で不合格になった人がいる前であまりにもはしゃぎ過ぎるのはどうだろうか。自分ひとりで喜ぶのなら問題ないが、多少は他人の配慮も欠かせないと思う。次に森田先生は一人息子がなくなったとき、人目もはばからず号泣されたという。悲しいという感情は、人前で恥ずかしいとか言うのではなく、そのまま表出させた方がよいのではないか。悲しみの気持ちは素直に吐き出すことがよいと思う。問題は怒りの感情である。森田理論では怒りの感情は自然現象であるので、抑圧してはいけないと言われている。逃げたりやりくりしてはいけない。味わい尽くすことが原則だ。怒りの感情は、売り言葉に買い言葉で激しい応酬の繰り返しになることが予想される。しかし、肝心なことは怒りの感情はそのまま持ちこたえて放置しておくことだ。多分、なんとか仕返しをしてやりたいといろいろ試行錯誤するだろうが、怒りの感情を十分に味わい尽くすことが肝心である。しかし、決して軽はずみに反論したり、暴力沙汰を起こしてはならない。感情と行動は切り離すことが必要なのだ。感情の法則をよく学習して、普段の生活の場で確認していくという態度が大切になる。次に、「不安、恐怖、違和感、不快感」への対応である。もともと「不安や恐怖」はレーダーのようなもので、それらをそのまま放置しておくと将来大変な事態に遭遇するかもしれないことを教えている。例えば不慮の事故に備えて生命保険や自動車保険に加入しておく。地震に備えて耐震化工事をしておく。これらは不安に学んで、積極的に備えをしておくことが必要である。それ以外の神経症的な不安や恐怖は、やりくりをしたり逃げたりすることがよくないことは森田理論を学習している人は誰でも知っている。これらについては、森田理論学習によってそのカラクリをよく学び、適切な対応をとることが必要である。神経質性格を持った人は、ちょっとしたことに不安や恐怖を感じやすい。一つのことにとらわれやすい人である。そういう人は長い人生を生きていくにあたって、森田理論学習は必須であると考える。森田理論が自分のこれから先の生き方を明確に指し示しているのである。神経質性格を持ち、生きづらさを抱えている人にとって森田理論学習は大いに役立つと思う。その際このブログで取り上げているように、基礎編、応用編に分けて順序よく学習することが有効だ。特に応用編の「森田理論の全体像」はよく理解してほしいと考えている。最後に、人間は放っておくと、目の前の問題や課題にから逃避欲求に従ってすぐに逃げてしまう。楽をして、他人に依存して、自分は何もしないで安楽に暮らしたいとつい考えてしまう存在である。一方で燃えるような素晴らしい生き方を熱望しながら、逃避欲求に従った気分本位的な生き物という一面がある。このような安易な態度で生活していると、自分が惨めになるだけである。そういう怠惰な感情が沸き起こってきたとき、そのような感情とどのように対峙していくのか。森田理論では、努力即幸福という。問題や課題に対して安易に回避しないで立ち向かっていくことに意味があるという。そのためには、目の前の事実や出来事をよく見つめて観察をする。すると自然に感情が高まってくる。興味や関心が湧き、気づきや発見が生まれてくる。次第に行動したいという意欲ややる気が出てくる。それにつき動かされて行動・実践していけば、弾みがついていくらでも前進できるようになる。面倒なことはできるだけしたくないなどという怠惰な感情への対応はよく考えておく必要がある。感情については、以上の3つの視点から洞察を深めて、適切な対応をとることが重要であると考える。それに対して重要な示唆を与えてくれているのが、森田理論なのである。
2018.05.08
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私には最近1つの生きがいができました。来年の2月10日に心の健康セミナーを行うことになりました。当初、一集談会が単独の主催者になるので実施すべきか、どうか大変悩みました。集談会の幹事会で相談したところ、全員が挑戦してみようということで、不安ながらも実施することにしました。それでも本当に一般市民の方が来てくださるのか、とても不安な船出でした。また心の健康セミナーに参加したことがある人が幹事の中には皆無に近かったのです。私が企画や実施の責任者になりました。私は悩んでいても仕方がないので、思いつく限りの準備を1年前から怠りなく丁寧にすることにしました。まずは、開催日と会場の決定です。これはすぐに決まりました。次は講師と体験発表者の決定です。講師は、I先生に決定しました。I先生は超多忙のため、果たしてお引き受けいただけるか、とても不安でした。お引き受けいただいたときはほっとしました。I先生は、森田療法理論から生きがい療法を開発された方です。これを、ガンや難病治療に応用されているので、一般市民の方にも参考になると思いました。森田療法を応用した活動が一般市民受けするのではないでしょうか。体験発表者は、ガン治療と生きがい療法の両方に取り組みスキルス胃がんを克服された方に決まりました。次の準備は、配布するチラシの作成です。多くの人の協力を得て、試行錯誤の末、やっと納得のできるチラシが出来上がりました。印刷は8月に行うことにしました。1500枚から2000枚印刷する予定です。その後、経費予算書の作成、会計業務、ホームページなどでの宣伝活動、勧誘先の選定と動員目標数値の設定、集談会参加者への協力依頼の取り付け、その一環として毎回の集談会での10分間レクチャの実施計画、そのためにI先生の活動や著作の研究、近隣集談会の協力取り付け、集談会での役割分担の決定、開催当日の段取り、タイムテーブルの作成、スタッフの名札の作成、会場の下見、受付用紙の作成、新聞社や市役所などへの後援依頼、アンケートや質問用紙の作成、私は開会の挨拶をするので、そのためのパワーポイントの作成、受付で配布する集談会の紹介のチラシの作成、その他必要な配布物の手配、実施後の報告、会計報告、アンケート集計、打ち上げ会場の選定などの多くの事前の準備を思いつきました。手を付けなければならないことは山ほどありました。これらを10月までに、手ぬかりなく準備を終えるようにしたいと思っています。これらに丁寧に怠りなく手を付けていくことは、森田の学習と実践で身に着けております。今や私の最も得意とするところです。森田をここで存分に活用してゆきたいと考えております。実際に少しずつ準備に手を付けているうちに、たくさんのアイデアや工夫を思いつき、弾みがついてきました。準備することがしだいに面白くなってきました。最終的には11月から、集談会の仲間とともに、本格的に80名の動員目標に向かって動くことにしました。これが一番の問題です。私にはあまりノウハウがありません。思いつく限りの動員方法を考えてみたいと思っています。またそのために多くの人の知恵を借りて実施したい思っています。ノウハウを持っている方がおられましたらぜひ教えてください。あと10か月弱で、良くも悪くも結果が出ます。最初は引き受けたことを後悔する日もありましたが、今や目標に向かって日々努力するのみです。森田先生もやるかどうか迷ったときは、「イエス」といってまず引き受けるほうがよいといわれています。その後のことは、その後に考えれば十分なのだ。森田でいうところの「努力即幸福」の実践です。船は岸を離れて、大海に向かって航行を始めたのです。そのうち時化にあったり、船が故障したり、乗組員の人間関係に問題が発生したりすることでしょう。解決できるものは解決し、できないものはそのまま持ちこたえながら、進んでいくしかないと思っています。
2018.05.07
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古田敦也さんのお話です。最近はプロ入り前の高校生が、 「身体を効率的に伝えるにはどうしたらいいのか」 「何を食べたら筋肉がつくのか」 「足が速くなるにはどのようなトレーニングがよいのか」 「球のスピードを上げるにはどうするか」といった情報を頭の中にいっぱい持っている。つまり頭でっかちになり、情報や知識で満杯なのである。これは一見するとよい事ばかりのように思えるが、そうばかりとは言えない。それは、情報や知識で頭でっかちになり、それを優先するあまり、行動や実践力が鈍ってくるからである。これは大きな問題です。実行する前から頭の中で結論が出来上がっていて、それが固定観念となっている。「どうせ無理」 「やっても意味がない」などという先入観や決めつけが強くなってくる。例えば、古田さんが若いピッチャーに、 「ここに投げてみろ。そうしたら、バッターだってひるむんだよ」 「次の球を生かすためにも、こういうことやってみろ」と言うと、表面的には「はい、はい」と頷いてはくれる。しかし、実行はしてくれない。 「そこはデータ的に打たれる確率が高いから」とか、 「それよりも、自分の得意なコースに投げた方が打ち取れる」と、実際のところは、端から決めつけているのである。(優柔決断のすすめ 古田敦也 PHP新書 6頁より引用)我々神経質者でいえば、情報や知識で頭の中は満杯になっている状態です。「かくあるべし」でいっぱいになっている状態です。情報や知識が多いと、事実や現実を軽視するようになります。その情報や知識で将来の予測をシュミレーションしているのです。現実の状況はあまり観察しようとしません。ちょっと見ただけで後は頭の中だけで、対応策を考えているのです。ですから、たとえ挑戦しても失敗する確率が高いものについては、 「エネルギーの無駄遣いになる」 「最初から失敗するとわかっているものにあえて挑戦するのは愚かなことである」などといって尻込みしてしまう。頭の中だけで納得したものだけに、手を出すようになります。しかし観念的なものは、事実には対応していません。事実の変化にも対応できません。そのためにミスや失敗が多くなります。シュミレーション通りに事が運ばないと、最後には投げやりになってしまいます。かって自動車の飛び込みセールスをしていた人が、次のように話されていました。ローラー作戦で飛び込みセールスをすると、確率的に商談に結びつくのは100分の1だそうです。99人の人にはすべて断られます。圧倒的に断られる確率が高いのです。断られ続けると、普通の人は自尊心が傷つき、ほとんど成果が出ないので、営業活動に嫌気が差すようになります。そして、断られないようなセールステクニックを身に付けたいと思うようになります。しかし、実際には仕事から逃げているのでまったく成果は上がりません。その人は、断られ続けても、 100分の1の成功のイメージをしっかりと持って仕事をされていました。断られれば断られるほど商談に結びつく確率が上がってくるのだと思っておられました。ここでは、頭の中でいろいろやりくりをするよりも、実際に面会する人を増やすということが大切だったのです。実際に失敗した営業体験を積み重ねていけば、失敗から成功の足がかりを数多く得ることになります。私も実際に飛び込み営業の仕事を9年ほどしていました。その時思ったことは、高い見込み客ばかりを狙って営業をしかけていると、成約に結びつかなかった場合のショックは計り知れないものがあります。実際にはその方が多かったかもしれません。頭の中でこの人は絶対に契約にこぎつけると思っていても、現実は非情なものがあります。そのような訪問営業活動をいつまで行っていても思っているような成果は出ません。自己嫌悪と仕事をさぼることで、窮地に追い込まれます。頭の中でシュミレーションすることをやめて、手考足考で実際に試行錯誤することが大切なのです。できるだけ数多くの見込み客に会うことが営業の基本だと思います。情報や知識はその土台の上で初めて役立つものです。私たちは情報や知識に重きを置きすぎて、あまりにも事実や現状を軽視しています。その結果、先入観や決めつけで、ますます実践・行動から遠のいているような状態ではないでしょうか。そんな生き方は自分を益々みじめにしてしまいます。
2018.05.06
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元慈恵医科大学教授新福尚武先生は、長い間、老人問題、特に老人の心の問題について取り組んでおられた。新福先生は、老人の方に次のようにアドバイスされている。歳をとって、心身の衰えや病気を抱える事はある程度やむを得ないことである。「 歳をあるがままに受け入れる」というのは、手放しで衰えていくということではなく、衰えたものに逆らわない。愚痴を言わないことです。皆さん、病気になる。病気になったら、その現実を素直に受け入れる。しかし、病気にならないようにするということは、人間にとって極めて大事なこと、大きな義務でもあります。歳をとり1カ月間ベッドに縛られて寝たままにしていると、足腰の筋肉が弱り立ち上がることができなくなってしまいます。頭のことになると、もっと急激な変化が起こります。前頭葉を使わなくなると、判断力や決断力が急激に衰えてきます。廃用性委縮が起こってくるのです。一旦脳神経が死滅してしまうと再生することはありません。普段から前頭葉を鍛えて認知症などを防ぐように心がけることが大切です。そのための、心の構えをしっかりしておく。実際には森田理論学習を続けることによって、 生き方の指針のようなものが身に付いてくる。老人になって、人生観が確立しているかどうかということは、人生の最終版を実りあるものにしていけるかどうかに大いに関係がある。人生観を確立できていない老人はみじめである。そう考えると、対人恐怖症で苦しみ、森田療法理論に出会い、学習できた事は感謝にたえない。振り返ってみると、森田理論学習のおかげで人生観の確立が図られたことはまちがいないのである。特に神経質性格を活かして生きていくということ。不快な感情に対してどのように対応していけばよいのか。生の欲望の発揮した生き方について。欲望と不安の関係はどうなのか。 「かくあるべし」を少なくして事実本位に生きていくということ。凡事徹底の生き方。好奇心を活かして一人一芸を極めた生き方。これらの考え方は、今や血となり肉となり、私の全身を駆け巡っている。新福先生は、さらに生きる心の支えや喜びというものを身につけておくことが必要ではないかと言われている。喜びの源は2つあります。 1つは自然に親しむ喜び。もう一つはものを創造する喜びです。一般的には物質的な豊かさを求めることが究極の喜びであるように思われている方が多いようです。また、日常茶飯事もできるだけ手を抜いて、他人に依存する生き方を目標にしている人もおられます。新福先生は、今まで何気なく見過ごしていた路傍の草花にも感動を覚えるような喜びが大切なのではないかと言われています。歌を作ったり、俳句を読んだり、絵を描いたりしていると、他人には想像できないような張り合い、喜びというものを感じることもできます。私は自給自足的な生活が究極的な喜びをもたらす自然な生き方ではないのかと考えております。草花を育てたり野菜を作ったり、小動物を飼育する。そして蕎麦を打ったり、様々な加工食品を作って楽しむような生活は、新福先生の言われるものを創造する喜びの基本形ではないかと思っている次第です。「終わりよければすべてよし」という言葉もあります。私たちはそこに焦点をあてて日々過ごしてゆきたいものです。
2018.05.05
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元プロ野球の古田敦也さんは、キャッチャーには旺盛な観察力が必要だと言われている。観察力のないキャッチャーには、キャッチャーという責任ある仕事は任せることができない。キャッチャーに必要な観察力は、 目に見えたものを客観的にしっかりと捉える能力、今、どういう状況なのか冷静に見極める能力といえるでしょう。この観察力がなければ、その先に必要な洞察力や、的確なサインを出す判断力を働かせようがなく、結果として相手を打ちとっていくということにつながりません。日ごろからバッターをよく見る癖をつけておくと、狙い球に限らず、細かいところの変化が見えてくるということがあるのです。それでは、キャッチャーはバッターのどのようなところを注意して見ているのでしょうか。まずはバットの変化です。グリップの大きさが変わっていたり、形や色が変わっていたり、長さが変わっていたりする。同じバットでも先々週まで長く持っていたのに、指1本短く持つようになったなどということもあります。その時点ではどういう心理でそのようにしているのかは分かりません。しかし、野球にはその後必ず結果が出ます。その結果を見ると、相手の目的や意志が分かるのです。バッターボックスでの立ち位置も見ています。ホームベースから離れて立っているとか、いつもよりキャッチャー寄りに立っているとか、軸足の位置が変わったとか、またバットを構えた時のヘッドの位置が違うなどといったことも観察しています。バッターを見るのは、バッターボックスに入ってからだけではありません。バッターボックスに入ってくるのがいつもより遅い選手がいます。これは経験則からいって、たいてい不調な選手です。1球ごとに打席をはずしたり、時間をかけたりするような選手も調子がよくないという場合が多いのです。キャッチャーはランナーの観察も欠かせません。特に1塁にランナーがでて、ピッチャーがセットポジションに入ったとき、ランナーがどのように体重をかけるかなどに注目しています。同じ選手と何度も対戦していると、その選手の走る時の癖のようなものが見えてきます。このように客観的な状況認識、よく観察するという力をつけない限り、現象の裏にある本質や洞察力にはつながっていかないのです。このような多岐な観測をして、相手選手を客観的に分析し、ピッチャーとキャッチャーが一体になって相手打者と勝負をしているのです。(古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術 古田敦也 朝日新聞出版 112ページより引用)私たち森田理論学習をしているものは、 「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生き方を目指しています。その際、最初の出発点になるのは、事実をありのままに詳細に観察するということです。これは簡単なようですが、とても難しいことです。実際には、事実をよく観察しないで、今までの経験則などをもとにして先入観や決めつけで判断する事が多いのです。それを元にして、対策を立てたり、拙速な行動をとるものですから、見込みちがいが多々発生します。原点に帰って、目の前の出来事や事実を改めてよく観察するという態度になることが大切です。例えば、新聞に水滴が落ちたとき5歳位の子供は次のように言います。「新聞に水が一滴たれたら、小さな水の小山ができて、そこに写った字が大きくなった。だんだん水の小山が小さくなってきたら、今度は横に拡がっちゃった。そしたら裏の字も見えてきた」私たちも小さい頃はみんなこのように事実をよく観察して、先入観や決めつけをしないで、見たままを表現していたのです。いろいろな経験や体験を積み重ねるに従って、知識過剰になり、事実を軽視するようになっていったのです。それと反対に、 「かくあるべし」的思考態度が増大していったのです。その結果、思想の矛盾に苦しみ、葛藤や苦悩が生み出されてきたのです。これが神経症の発症の大きな原因となっているのです。この悪循環を断ち切るためには、まず事実をありのままに観察するということが重要です。次に観察した事実を、歪曲しないで、具体的に包み隠さず赤裸々に話すという態度を身につけることが大切になります。
2018.05.04
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プロ野球を見ていると、打者が内野ゴロを打った時、キャッチャーは悪送球に備えてファースト後方にカバー入ります。カバーに入らないと、 1塁手が後逸した場合、無駄な進塁を許してしまいます。防具をつけたまま、内野ゴロのたびに1塁手の後方までカバーに入るのは大変な仕事です。実際には、内野ゴロの送球を1塁手が後逸するということはほとんどありません。100回に1回というような確率ではないでしょうか。ただし、頻度が低く、作業も大変なプレーだからといってカバーリングを怠ってしまうと、チームからの信頼を失いかねません。キャッチャーにとってピッチャーやベンチからの信頼は必要不可欠です。キャッチャーは、ピッチャーや野手に色々な指示を出すからです。にもかかわらず、カバーリングを怠ってしまうようでは、 「こいつは信用できない」とダメキャッチャーの烙印を押されてしまうのです。しかし、よく見ていると、毎回毎回しっかりとカバーに行くキャッチャーもいれば、中にはあまり積極的にカバーに行かないキャッチャーも見かけます。こうした目立たないプレイにこそ、その選手の本質が出ます。(古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術 古田敦也 朝日新聞出版 123ページより引用)私達も成果につながるかどうか分からないような雑仕事は、手を抜くことが多いのではないでしょうか。神経質者は細かいことによく気がつきます。気がついても、 「面倒だ。手を抜いても大した事はないだろう」と勝手に判断して、細かい仕事を雑に扱っていると、我々の最大の特徴である神経質性格を活かした仕事ができなくなってしまいます。。雑仕事とは、例えば、事務所内外の清掃とか、メーカーから来た仕入伝票の取り扱い、整理保管とか、注文伝票の整理保管 、コンピュータ帳票類の整理、見本帳の整理、書庫の整理整頓、書類の整理、机の中の整理、電話応答などがあります。私は以前、メーカーなどから仕入伝票が来ると、郵便物を開封して、チェックが済むと、大きな段ボール箱の中にそのまま投げ込んでいました。ファイルすることを怠っていたのです。すると、何か調べ物しようと思っても、なかなか目的の伝票を探し出すことができませんでした。時間を相当無駄にしていました。目的の伝票を見つけられないとイライラしていました。その伝票をきちんとファイルしていれば、難なく目的の伝票を取り出すことができます。こういう気持ちで伝票をお金のように丁寧に扱っている人は、何かにつけて整理整頓を心がけている人です。そういう人の仕事には、無駄がなく、テキパキと仕事がはかどります。そういう人は、仕事に追われることが少なく、自分から仕事を追っている人です。仕事を追っていけるような仕事ぶりになると、能率が上がり、仕事が楽しくなってきます。仕事に追われている人は、もつれてれてしまった糸を解きほぐすような仕事ぶりになります。これではなかなかスムーズな仕事にはなりません。要領が悪くて、同僚や上司から「もう少し丁寧にスピードを上げて仕事をしてもらえないだろうか」と言われるようになります。同じ神経質性格を持ちながらも、雑事や雑仕事を丁寧に心掛ける人は、精神的に落ち着いて取り組むことができ、同僚や上司からも信頼を得ることができるようになるのではないでしょうか。
2018.05.03
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プロ野球をテレビで観戦していると、今の球はストライクではないのかと思うことがよくあります。あるいは反対に、どうも外れているような気がすることもあります。審判も大変なのでしょう。ストライクゾーンにボールが半分、あるいは3分の1入ったか、入っていないかなとをその都度判定しているのです。これでは審判によって差が出るのは当然のことでしょう。ボール気味の球でもストライクという人もいれば、とにかく厳しくやるのがアンパイアだときわどいところはほとんどボールという人もいます。走塁での微妙な判定はリプレイ検証というのが始まりました。ビデオ検証により判定が覆ることがあります。しかし、当然ですがストライクやボールの判定のリプレイ検証はありません。だから、個々の審判の特徴をあらかじめ知っておく事は大切です。プロ野球の選手は、自分のストライクゾーンを自分の体に覚え込ませています。自分がボールであると判定した球を、審判がストライクと判定した場合、選手によって様々な反応があります。審判がストライクというのだからストライクなのだろうとおとなしく引きさがる選手もいます。不満はありながらも、そのケースがほとんどでしょう。なかには、腹を立てて「なんで今のがストライクなんだ。お前の目は節穴か」などと悪態をつく選手もいます。あまりにもしつこすぎて、退場させられる選手も出てきます。こうなりますと、審判を敵に回すことになるので、後々まで悪影響がついてまわります。この点では、落合選手の対応はとても参考になります。落合選手は現役時代、試合前に、とにかくよくアンパイアと喋っていました。また試合中、本人がややボールと思ったものを仮にストライクと言われても、顔に露骨に不満を表したり、高圧的に「今の低いだろ」などと声に出したりはしません。そんな時、落合さんはゆっくり振り返って、そのアンパイアに向かって、いたって優しい口調で、 「ちょっと広めに取っているように思えるんだが、今日はそこまで取っているんだよな」と事実確認をします。決してお前の判定は間違っているなどという事は言いません。あくまでも事実の確認をしているのです。ところがこういうことを続けていると、審判たちの間には、 「やはり落合さんはきわどいところがすごくよく見えている」というイメージが定着するのです。落合さんは元々選球眼のよい選手です。それに加えて、ある種の威厳のある確認行為を繰り返すことで、ただでさえ良い選球眼がそれ以上によいような印象を審判の方々に植え付けられるのです。そうこうしているうちに、落合さんが狙い球を外して甘い球を見逃したとしても、審判が「ボール」と言うようになりました。時として落合さんに有利な判定をするようになったのです。(古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術 古田敦也 朝日新聞出版 85頁より引用)この話は森田理論に通じる話です。審判に文句を言う選手は、自分の「かくあるべし」を審判に押し付けているようなものです。その結果、ストライク、ボールの判定が覆ることは全くありません。それどころか反対に逆襲を浴びて、自分を不利な立場に追い込んでしまいます。もしそれが仮に正しくても、百害あって一利なしです。落合選手は、納得できない理不尽な判定にクレームをつけることは行いません。その審判の判定の事実の確認作業を淡々と行っているのです。そのためには、試合前からざっくばらんな話をしながら、試合中でも確認作業程度の話ができる人間関係を作り上げています。そして、受け入れがたい事実の確認作業を積み重ねることによって、最終的には自分がその事実に対応しようとしているのです。変化に対応しようとしているのです。審判は是非善悪で自分たちを非難したり評価してしないので、落合選手の世界に自然に引き込まれてしまっているのです。これが落合選手の審判を味方につけるということだと思います。こういうことを継続していると、全体が丸く収まっていくのです。この話は私たち神経質者にとっても、とても参考になる話です。他人に対して「かくあるべし」を押し付けて、改心させるようなことを言うには及ばない。相手の実際の行動・実践に対して見たままの事実だけを述べる。事実の確認作業を行う。その事実に対して、「私はこのように思ったのだが、その見方は間違いないのかどうか。教えてもらえないだろうか」と低姿勢で聞いてみる。そのような対応を繰り返すことで、相手との関係が険悪な関係に陥ることなく、双方にとってメリットが出てくるのではないでしょうか。そこには批判、強制、否定、拒否、無視、脅迫など相容れない相互信頼の人間関係が構築できるのではないでしょうか。これが森田理論から導かれる、人間関係のコツだと思われます。
2018.05.02
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森田理論を学習していると「かくあるべし」が強すぎてはいけない。なぜなら「かくあるべし」と「現実・実際」が乖離して、そこに大きな葛藤や苦悩が生まれる。それが原因となって、最終的に神経症に陥ってしまうといわれている。例えば、人前で緊張するようなことがあってはならない。人から非難されたり、軽蔑されるような人間であってはならない。ミスや失敗、欠点や弱点はあってはならないことだ。ノルマや目標は必ず達成されなければならないものだ。睡眠時間はきちんと確保しなければならない。身体の違和感や体調不良は決してあってはならない。理不尽な事は決して見逃してはならない。このような「かくあるべし」を持っていると、必ずしも現実はそのようには動いてくれない。そうすると、現実と理想のギャップにイライラして我慢できなくなる。神経症で苦しむような人は、理想のほうに肩入れして、理想に現実を合わせようとしてくる。しかし実際には、容易に現実を変革することはできない。そこに苦悩や葛藤が生まれてくる。そのような態度で生活していると、神経症に陥り、生活自体が停滞してくる。「かくあるべし」の強い人の弊害はこういうことである。これに対して、森田理論学習をしている人で、次のような素朴な疑問を持っている人がいる。 「かくあるべし」というのは、目的や目標、希望や夢のようなものを含んでいるのではないか。それらは人間として生きていく上において欠かせないものではないのか。目的や目標に向かって努力していくというのは、とても大切なことだと思うが、森田理論ではどうしてそれを否定するのか。そういう所に引っかかっていると、かたくなに「かくあるべし」を少なくしていこうという森田理論の考え方には、素直には納得しがたい面があるというものだ。これらの質問が出た場合は、先輩会員としては、即座にその理屈を説明してあげることが必要であると思う。私なら次のように説明したいと思う。当然、人間が生きる上において、目的や目標、希望や夢は欠かせないものす。それらを餌にして食べて、明日のエネルギーを得て生きているのが人間という生き物である。森田理論に「努力即幸福」というキーワードがあるが、まさにこのような生き方のこと言っているのである。そういう意味で、あなたのいわれていることはまさに的を得た考え方である。ここで1つはっきりしていおきたいことがある。極めて重要なことだ。それはそのような目標を持った生き方をしている人の立ち位置である。その人は、一方で目的や目標、希望や夢は明確ではっきりしている。そこを目指している「今現在の自分の立ち位置」を明確に認識している。そしてそこに向かっていくための強い意志を持ち、何段階にもわたる工程表を組んでいるのである。そして実際に一歩一歩階段を登っている。困難な壁が立ち塞がっても粘り強く前進を続けていく。そのために現実、現状をとても大切にしているのだ。これに対して「かくあるべし」の強い人はどうなのか。今述べたような目的や目標、希望や夢を漠然としているかもしれないが同様に持っている。しかし、その人の立ち位置が、現実・現状にはないのである。その人の立ち位置は、自分が目指している達成地点に立っているのだ。そこから、はるか彼方下界の現実世界にいる自分を見下ろしているのである。そうなると、一歩一歩努力して目標や夢に近づこうとする努力は蚊帳の外になってしまう。努力しないで安易な方法で、目的や目標、希望や夢を手に入れたいと考えるようになるのである。そのために反社会的なことをしてでも、他人から奪い取るようなことも考えるようになる。さらに他人と比較していたらない自分を否定したり、軽蔑するようになる。自己嫌悪や自己否定で苦しむようになるのである。これでは目的や目標、希望や夢が自分を苦しめる道具になり下がっているのだ。最初の思いは同じようなものであっても、自分の立ち位置をどこに置くかによって、その後の展開は全く正反対になってしまうのである。この点の理解は、どうしても分かってもらう必要がある。それが、神経症に陥るか、あるいは意味のある生き方をすることができるかどうかの分岐点になるからである。なお、この学習をする前に、まずは基礎編の学習が大切であると考えている。学習の要点で言うと、神経症の成り立ち、神経質性格の特徴、感情の法則、行動の原則、認識の誤りなどである。それらが終わると、応用編の学習に入る。応用編は森田理論の全体像の概要の把握から入る。その中に、 「かくあるべし」の発生と苦悩の始まりという単元がある。その中で、上記のことをしっかりと学んでほしいと思うのである。森田理論は相互の関連を重視した本当の意味での理論学習でないと役に立たないと考えている。このブログを欠かさず読んでいただいている方にはご理解いただけているのではないかと思っている。
2018.05.01
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