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対人恐怖症の人は、人の思惑がとても気になるという。他人から何を言われても、あまり気にしないで、目の前のことに集中したいのだろう。こういう人は、自分の感情や気持ち、自分の意思を相手に伝えていないように思う。私の話など聞いてくれるはずはないと決めつけている。どうせ私の気持ちなどは認めてもらえないと諦めている。あるいは自己主張するのは疲れる。このままでいいと妥協している。もしそんなことをすれば、言い争いになる。ケンカになる。周囲の人を巻き込んで、人間関係が損なわれてしまうと思っている。挙句の果てに、あの人は自分の感情がコントロールできない危険な人物とみなされて、警戒され孤立することを恐れているのだ。結果的には、自分の感情や気持ち、自分の意志を抑圧して我慢している。いつまでも耐えている。しかしそれは表面的なものだけで、心の中では不平不満が蓄積されている。そのためにストレスを感じ、いつもイライラして、精神的に追い込まれて生きていくのがつらいのだ。不安や恐怖や怯えを感じているのだ。そして心の中では相手を責めて、相手に振り回されながら、不平不満を募らせていくという悪循環に陥っている。その結果抑うつやうつ病などの精神障害を引き起こす。さらに胃潰瘍などの身体疾患を引き起こす。その不満に耐えきれなくなったとき、突然感情の大爆発を引き起こす人もいる。このような悪循環の連鎖が次から次へとひき起こされている。人の思惑が気になる人の注意や意識は、常に気になる相手の言動に向けられている。仕事や勉強、日常生活のほうに向いて行かなくなり、それが常態化しているのである。自分の素直な気持ちや、純な心を見つめる機会などはほとんどなくなっている。観念的になり、初二念や初三念に振り回されている。どうすればこの悪循環から逃れることができるのか。効果があるのは、素直な自分の感情や自分の気持ち、意志を見つめ直すことである。相手が理不尽な言動をとったから、それに対して私がどう対応する、と言うような対症療法では解決できない。最初に感じた感情をよく見つめてみる。自分はどう感じたのか。自分はどういう気持ちなのか。自分はどうしたいのか、という視点から出発するのである。相手の言動に対してすぐに対応するのではないということだ。自分の素直な感情や気持、身体感覚、意志を確認するということだ。森田理論では、この事を「純な心」から出発するという。あるいは事実から出発するという。そして次にもう一つ大事な事は、自分の感情や気持ち、自分の意志を口に出して相手に伝えることだ。その際、「私メッセージ」の手法を用いて、私の想いを吐き出していくことだ。これは相手を対立相手と見ているのではないので、言い争いにはならない。相手の言動に対して、「私はこのように感じました」「私は今、こんな気持ちです」「私はあなたが○○してくれたら嬉しいです」 「私は〇〇したいです」というような対応をすることになります。相手に自分の態度を見て、以心伝心で自分の気持ちをわかってもらいたいと思っても、それは無理があります。そのような態度は対立的になり、相手から見ると傲慢に見えるのではないでしょうか。もし口に出して相手に伝えることができないとしても、その時の自分の気持ちを日記などに書いて吐き出すことが大切です。
2018.12.31
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長距離走を楽しむランナーなら、 「 セカンドウインド」という言葉をよくご存知でしょう。走り始めてしばらくは呼吸が苦しく、とても長く走れないと感じます。しかし、 「長距離のランニングでは、走り出して15分ぐらい経つと心拍数や血圧が安定して楽になる状態」に至るのです。「酸素の需要量と供給量のバランスがとれた状態」になれば、 「快適にランニング等を継続することができる」わけです。つまり、 「からだ」がその気になるには一定の時間がかかり、そこまでは辛いのが常なのです。しばらく「からだ」を動かしているうちに、ある頃から、その気になった「からだ」が自然に動いてくれるようになるのです。似たようなスポーツ用語で、 「ランナーズハイ」という言葉もあります。これは、 「長時間のランニングなどの際に経験される陶酔状態」 「ランニングの途中で、苦しさが消え、爽快な気分になる現象」を表しています。 (考えすぎて動けない人のためのすぐやる技術 久米信行 日本実業出版社 147頁より引用)この話によると、ランニングを始めたときは、辛くて苦しいのが普通である。その感情にとらわれて、すぐに走るのを中止することもできる。中止すれば、その瞬間は楽になるが、爽快な気分を味わうことは永遠にやってこない。それどころか、何をしても根気のない自分を自己否定するようになるかもしれない。反対に、 「しんどい。もうやめたい」と思っても、すこし我慢して耐えて走り続けねば、いずれ体が順応して、快適にランニングができるのである。その結果、爽快な気分になり、身体の健康にも役立つ。ますますやる気が出てくる。これは湯船につかるとき、最初は熱すぎると感じても、そのうち体が順応して、熱さを感じなくなるのとよく似ている。そして湯船から出る頃には、ちょっとぬるすぎて風邪をひくかもしれないなどと思うこともある。プールで水泳をする時にも、最初にプールに入るときは水温をとても冷たく感じて、不快な気持ちになる。しかし、しばらくすると、その水温が体に馴染んでくる。ときには少し熱く感じることもあるのである。この時に最初の不快感という感情にとらわれて、我慢することができなかったら、その後の展開はとても残念な結果に終わる。体が水温に適用するには、少し時間がかかることを知っていれば、少々の不快感には耐えて我慢することができる。そのからくりを学習するとともに、多少の不快感は我慢して耐えるという行動をとる必要がある。何か新しいことに取り掛かるとき、様々なできない理由を考えて、手足が動かないという事はよくある。あれこれ考えているうちに、チャンスがするりと逃げてしまい、あとで後悔するということもある。人間は誰でも現状に満足してしまうと、新しいことに挑戦するという気持ちが持てないこともある。そういう時は、この話を思い出して、最初はイヤイヤでも、気分本位になってすぐにあきらめてはもったいないということになる。イヤイヤ仕方なく取り組んでいると、不快な感情は流れていき、新しい感情が湧き起こってくる。気づきや発見が生まれてくれば、意欲が生まれてくる。そのうちに弾みがついて、やりがいが生まれて、どんどん活動的に行動できるようになります。
2018.12.30
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学校でのいじめはどんどんエスカレートしている。いじめをしている児童や生徒に、 「どうしていじめをするのか」と聞くと、 「ムカつくから」という返事が返ってくる。「どうしてムカつくのか」と先生が聞くと、 「わからない」と返答する子供が多い。そんな子供たちが頻繁に使う言葉は、 「ムカつく。イライラする。腹が立つ。別に。わからない」なのだそうだ。これはいじめをしている子供は、普段から精神的に自分ではよくわからないストレスを抱えているということだと思う。イライラの正体が自分ではわからない。でもどうしょうもない息苦しさを感じている。この状態は、扁桃体や海馬などの脳の神経が少なからず損傷を受けている可能性がある。普通の人間は、他人から理不尽な言動を受けると、すぐに怒りなどのマイナス感情が湧きあがってくる。素直な感情を受け止めることで、次に自分の対応方法を考えているのである。しかし、ストレスを受け続けていると、脳のセンサーが十分に働かなくなる。五感を使っての感性が弱まってくるのである。感じる力が弱くなると、現実対応が難しくなる。不快な気分だけに左右されて、その解消のために、自分より弱い人をいじめて、イライラを発散して、精神の安定を図ろうとしているのである。どうして五感、自分の気持ちなどを感じる力が弱くなってきたのか。考えられる事は、周囲の者が支配者のごとく、 「自分の言うことを聞かなければ許さない。子供が黙って大人の言うこと聞いていればいいのだ」という「かくあるべし」を押し付けているのではないか。大人の尺度で子供を判断し、子どもの気持ちや意志を無視し、その尺度から外れようとするたびに叱責すると、子供は自分の感情や意志より、大人の顔色をうかがって行動するようになる。親などが子供に対して、暴力的な言動をとったり、体罰を与えたりして、子供を脅す事。詰問口調で、子供を真綿で締め付けるように、叱責しつづけること。こういう状態が継続すれば、子供たちは気づかないうちに、その支配に打ちのめされて、感じる力を抑圧し、自主性を持つことを恐れて、自分の人生を諦めてしまうようになる。このようにして、自分の意識を他者に預け、親など強者の顔色をうかがうことに精力を注いでいれば、自分の感情などを見つめる余裕はなくなってしまうだろう。自分の気持ちを見つめる余裕がなければ、自分の気持ちや感情を表現できるはずもない。もちろん、意志も育たない。こうしてみるといじめる子供を作り出しているのは、周囲の者が子供の感じる力を育て上げようとしていないことにある。むしろ感性を劣化させるような育て方をしているのだ。森田理論では感じる力をとても大切にしている。森田先生は、物をじっと見つめていると、自然に豊富な感情がわき上がってくるといわれている。そこから気づきや発見が生まれて、意欲が出てくるのだ。現代は感性が豊かで、自分の気持ち、五感、身体感覚を大事に育てることが社会全体でおろそかにされているのかもしれない。子供の感性を育てるということについて、大人は十分に配慮しなければならないのだと思う。(もう他人に振り回されない 石原加受子 大和出版 62頁参照)
2018.12.29
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今日の投稿はかたい話になります。2018年11月27日中国新聞の社説に「国連の小農宣言」があった。私はこの記事を見て、まだまともな考え方をしている人がいることに対して嬉しく思った。これによると、家族経営や兼業など比較的規模の小さな農家の価値や権利を守るという内容である。多くの人が自給自足に近い農業に取り組むことによって、国民の食糧の確保に大きく寄与できる。小農は多彩な穀物、野菜、小動物を組み合わせて行うので、無理のない自然循環が行われるようになる。これが全世界に普及してくると、食糧不足は大幅に改善され、飢えで苦しむ人は相当数減少するだろう。また、世界の人口が、近い将来、 90億人台に激増することが予想されており、食糧の不足や奪い合いを防止することができる。この宣言は、すでに国連総会の委員会で採択された。来月には国連総会で正式決議の予定である。採択にあたって賛成の国は119カ国である。しかし、日本は韓国などとともにこの採択を棄権している。ちなみに棄権した国は、農産物の輸出を積極的に進めている農業大国と工業先進国で49カ国であった。日本は自動車など工業製品の輸出を積極的に進めており、その見返りとして、農産物の輸入を積極的に推進しなければならない立場から、当然反対に回らざるを得ないのだろう。私は10月27日の「主要農産物種子法」の廃止に反対し、工業と食料の自給を両立させないとならないと投稿した。今の日本では、工業と国民の食糧の確保を天秤にかけ、過度の農産物の市場開放と、効率化重視、機械化、単一作物中心の大規模農業が、いかに国民の生活を破壊していくのかについてほとんど考慮されていない。政府の方針は、グローバル企業の代弁者のようなものであるから、どうしようもない面がある。その方向への舵取りは、物質文明至上主義、拝金主義の推進で、国民生活を不幸に陥れ、食糧難に追い込むのは、近い将来に予想される事実である。我々国民は、自分たちの生活を、より健康的で、将来に希望を持てるものにしていくという面から、政府の政策決定については注意深く見守っていく必要がある。そして本来人間はどう生きていくべきなのかを考える必要がある。そうしないと、鍋に飛び込んだカエルが、だんだんお湯が温まってきて、温泉気分に浸っているうちに、最後にはゆであがって命を落としてしまうということになりかねない。その時に慌てふためいてももう遅いのだ。この宣言を提案したのは、南米のボリビアなどが中心となっている。ボリビアは、スペインの植民地支配を出した後も、先進国の大資本によるさとうきびなどのプランテーション農業を押し付けられ、国民の食糧確保が困難になったという暗い過去がある。私たちは同じような誤りを繰り返してはならないと思う。政府が推進している無制限な規制緩和、市場開放、自由貿易の推進は、これと同様な結末を招くことが予想されるのだ。工業も農業もお金儲けの手段とみなしていると、国民に悲惨な状態を招くと考えるのは私だけであろうか。その証拠に田舎に行って人々の話を聞いてみると、米作りに情熱を持っている人はほとんどいない。外米も輸入するという政府の方針に、農業生産の情熱はもう骨抜きにされてしまっているのである。それに嫌気がさして、そもそも田舎に若者が寄り付かなくなっている。田舎に住んでいても農業生産に意欲的な人はほとんどいない。山は荒れ放題で、イノシシ、鹿、熊などの天国となっている。それを打ち破るのが、自給自足を柱に据えた小農政策なのである。この方向への推進は世界の人を救うはずである。国連の動きを注視していきたい。
2018.12.28
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会社の中で同僚との人間関係で苦しんでいる人が多いようです。平気で自分の心の中に土足で踏み込んでくるような同僚は大きなストレスになります。最後にはその同僚のせいで、自ら身を引いて退職してしまうこともあります。とても残念なことです。これを森田理論で考えてみました。そういう人は同僚から自分のことを批判、否定、軽蔑、無視されたとき、あからさまに反発するのは大人げない。腹立たしい気持ちを無視して、我慢しておられるのではないでしょうか。その結果どうなるのか。無視しようとすればするほど、その同僚の言動が気になります。注意や意識が目の前の仕事のことよりは、その同僚のほうにばかり向いています。その同僚が上司や他の同僚と親しく会話をしていると、自分の悪口を面白おかしく話しているのではないかと疑心暗鬼になります。その同僚がミスや失敗を犯すと、 「ざまーみろ」という気持ちになります。もっといっぱい失敗をして、みんなから集中砲火を浴びればいいという気持ちになります。そのようなマイナス志向の気持ちは精神交互作用でどんどん悪化してゆきます。でもどうしたよいのか、自分では解決策が見つからず、心の中は憎悪の念で苦しいばかりです。そこで森田理論学習で学んだように、 「その同僚の言動によって、不快な気分になった。つらいな。嫌だなぁ」と、同僚が嫌いだという感情をよく味わってみるようにされたらどうでしょうか。同僚とウマが合わない、その同僚は嫌いだという感情を、抑圧してしまうということから、どんどん問題が大きくなってきたように思います。理不尽な言動に対して、 「不快な気分にさせた同僚は許せない。なんとかやり込めてやりたい。仕返しをしてやりたい」というのが、自分の素直な感情なのではないでしょうか。そのことをよく思い出してみることに解決策のヒントがあります。その素直な感情をすぐに否定して、 「そんなことを思ってはいけない」「思う事は現実になって暴言を吐いてしまう。なにしろ感情は暴れ馬のようなものだから」このようにすぐに素直な感情を否定してしまうのが、そもそも間違いなのではなかろうか。森田理論で学習したように感情は感情、行動は行動、別々のものだということがわかっていれば、理屈の上では暴言を吐く事は少なくなります。感情と行動を区別するということは、いろんな手法がありますから、それを身につけることも必要でしょう。しかし、ここで大事なのはその前段階のことです。感情はすべて自然現象です。その自然現象に対して、無謀にも自分の意のままにコントロールしようとしているのです。その態度は厳しいことをいえば自然を冒涜する態度です。世の中の問題の多くは、自然を意のままにコントロールしようとする態度から起きていることが多いのです。その同僚に対して殴ってやりたい、殺してやりたいなどという極端な感情が湧いてきても、すべてOKなのです。問題なのは、その感情を邪魔者の様に扱い、素直な感情に反旗を翻していることなのです。腹が立つ感情、憎悪の感情、嫉妬する感情は決して抑圧してはなりません。そういうマイナスの感情を認めることができるようになると、相手に集中していた注意や意識は次第に分散されてきます。そして、相手に自分の気持ちをどう伝えたらよいのか創意・工夫するようになると思います。自分でどうにもならないときは、信頼のおける上司や他の同僚、集談会の仲間たちに相談することになるでしょう。いつまでも、相手にコントロールされっぱなしでは、扁桃体や海馬などの脳の機能が損傷を受けてしまいます。一旦破壊されてしまうと、修復はとても困難になります。ですから、いつまでも続くストレスや理不尽な相手の言動は、適切な対処をする必要があるのです。その方向に進むためには、まずは最初にわき起こった感情をすぐに抑圧しないで、十分に味わい認めていくという態度がとても大切になるのです。そのことが精神的なストレスに巻き込まれない第一歩となるという事をよく認識する必要があります。
2018.12.27
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私たち人間は、共同体の中で仲間として受け入れてもらいたいという強い欲求があります。山竹伸二さんは、これを「承認欲求」として説明されています。これによると承認欲求は3つあります。まず親和的承認欲求です。これは、家族、恋人、親しい友人など、親密な相手と一緒にいるときに、この人といると素直になれる、自然体で、 「ありのままの自分」でいることができる、と感じるようなものです。これは濃密な二者関係において生じる、存在そのものへの無条件な承認です。次に集団的承認欲求があります。学校の同級生や仲間、職場の同僚、宗教や地域活動、趣味のサークルの関係者など、自分が所属する集団の人々による、自分の行為に対する承認です。これは集団が共有している目的、価値観、ルールに基づいて評価されることになります。例えば、仕事で取引を成功させて、職場で賞賛されたり、部活で活躍して仲間に認められたり、共同作業に参加してほめられたりする、といったようなことが考えられるでしょう。集団における自分の役割をこなして、集団に貢献する。仲間を気遣い、協力する。集団で重視されている知識や技能を披露する。このような時、同じ集団の人々は、その行為の価値を認め、 高く評価してくれるはずです。3番目に一般的承認欲求があります。これは、目の前にいる人々から認められなくても、公平に物事を考える人であれば、きっと認めてくれるだろう、いつか誰かに認められる日がくるだろうと心のどこかで信じて 、行動しているような場合です。例えば、私は森田療法理論は多くの人に役に立つと思っているので、このブログによってその有用性を発信し続けているのです。いつか日本中の人が、森田療法理論の素晴らしさに気付いて、自分の生き方や社会のあり方、自然との付き合い方、人間関係のあり方、環境問題を変革する契機になるのではないか、と思っているのです。神経症で苦しんでいる人は、親和的承認欲求、集団的承認欲求の段階で問題を抱えている場合が多いのではないでしょうか。親和的承認欲求の場合は、愛着障害を抱えている人が多いように思われます。そういう人が大人になると、他人の思惑に振り回されて、他人を恐れ、自己防衛に専念せざるを得なくなる。つまり、他人と良好な人間関係を築くことが難しくなってしまうのではないかと考えています。親和的承認欲求に問題を抱えている人は、心の安全基地づくりを手掛けることが大切となる。その方法については、このブログでたびたび紹介してきました。その上で、自分の所属する共同体の中で、自分の能力や体力応じて、何らかの役割を果たしていくことが集団的承認欲求を満たすことにつながるのではないかと考える。高良武久先生が、10年間一つのことに取り組めば、社会の中で評価されるようになる。そうなれば、対人恐怖症はほとんど問題にならなくなると言われています。このことを言われているのではないかと思います。(子育ての哲学 山竹伸二 ちくま新書 91ページ参照)
2018.12.26
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相手が自分に対して腹を立てるということを考えてみましょう。相手は自分に対して、 「 〇〇でなければならない」 「 〇〇であるべきだ」 「 〇〇のように行動するべきである」という思いが強いのだと思われます。自分が相手の考えていることとはずいぶんかけ離れた言動をとっているために、必然的に発生している事だと思われます。すぐに腹を立てる人は、森田理論で言えば、 「かくあるべし」的思考態度が強い人です。観念主義、完全主義、完璧主義、理想主義、目標達成第一主義、自己中心的コントロール欲求を前面に出した生き方をしている人です。短気で腹を立てやすい人を見ていると、わがままで柔軟性がなく、世界は自分を中心に回っていると考えているような人です。腹が立ってもそれを自分の胸の内に置いて、不平不満を周囲にぶちまけなければよいのですが、そういう人に限って、すぐに他人を非難したり、攻撃したりします。他人に対してよく腹を立てるという人は、反対に、他人から自分のこと非難、否定、軽蔑、拒否、無視、抑圧されることに耐えられない人です。他人からの評価に神経過敏になり、他人の攻撃から自分自身を防衛することに、多くのエネルギーを使っています。これが昂じると、対人恐怖症へと固着してしまうのです。二重の意味で問題を抱えているのです。対人恐怖症の人は、他人に対して腹をたてたりイライラすることが多い。反対に、他人の思惑に翻弄されて、生きていくことがつらいという状況に陥っているのです。これらの悪循環から抜け出すためにはどのようにしたらよいのでしょうか。森田理論学習では、 「かくあるべし」を少なくして、現実、現状、事実をそのままに認めるという態度になればよいと教えてくれています。これを事実本位の生活態度といいます。これは自分という1人の人間の中で長らく続けられてきた紛争に終止符を打って、お互いに協力し合う関係に改善できたということです。理想と現実のギャップが、森田理論学習と実践によって、折り合いをつけられるような状況になったのです。理想は持ちながらも、事実を中心として考え、行動できる能力を獲得したといえるのです。相手を〇〇主義という視点からではなく、事実という視点で見つめることができるので、腹が立つということは相当数減少してくるものと思われます。そうなれば、他人も自分も穏やかな人間関係を築くことができて、楽な生き方につながるものと思われます。神経質性格の人で、腹が立ちやすい人は、森田理論の「事実本位」の生活態度を身に着けるように学習と実践に取り組んでいけばよいのです。
2018.12.25
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どんな感情も台風などと同じ自然現象です。人間の意志の力ではコントロール不能です。そんな感情とどう付き合っていけばよいのでしょうか。感情を「言語」にして表現できれば、感情を解放することができます。 私メッセージで、私はこう感じました。私は○○したい。私は○○したくない。と口に出して相手に伝えるのです。最初に感じた気持ちを打ち出すのです。これを森田理論では「純な心」と言います。夾雑物が入っていない素直な感情です。 たとえば友達から、明日の休日に飲み会に誘われたとします。激務で疲れているので、参加したくないという気持ちが強いとします。そんな時は自分の気持ちに素直になって対応することが大切です。 「どうしても明日は急用で、早起きしないといけないのです」 「誘ってくれたのはうれしいのだけど、どうしても明日は時間がとれない。今度は必ず参加させてもらうよ」 急用があるか無いかは、この際関係ないのです。「行きたくない」という自分の気持ちを素直に打ち出すということが肝心です。 自分の気持ちを無視して、次のように考えて対応しがちです。「断ると相手が二度と誘ってくれなくなるのではないか」 「仲間外れにされないだろうか。」 「嫌いな人がいるので行きたくないけど、今後のことを考えて参加しよう」 このように、「明日は家でゆっくり体を休めたい」などという感情を無視して、無理やり叱咤激励して、参加するということが積み重なると心の中にストレスが蓄積されてつらくなります。そこには自分の意志はありません。相手の思惑に左右されてイヤイヤ付き合っているだけになります。こんなふうにして生活していると、生きることがつらくなりませんか。自分の気持ちを否定して、人の言いなりになって生きていくことほど、みじめなことはありませんね。自分の気持ちや感情、意思を優先して付き合っていかないと、人づき合いは苦痛になってしまいます。まずは自分の感情をきちんと受け入れて、相手に対して「私メッセージ」などの手法を使って、「言葉」で自分の意思を伝えていくことが大切だと思います。それが自分の中に湧き起こってきた自然現象である感情に素直に対応することだと思います。感情はどんな感情にも素直に認める謙虚さが大切です。(「へとへとに疲れる嫌な気持ちがなくなる本」 石原加受子 中経文庫参照)
2018.12.24
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速水敏彦さんは、現代人は「仮想的有能感」を身につけている人が多いと言われている。これは、周囲の人から現実には有能と認められていないにもかかわらず、過度に自己主張を繰り返す自己中心的で、他人を軽視し、軽蔑する人のことをいう。ミスや失敗の原因を自分以外の要因として責任転嫁してしまう。また、周りの人の失敗には敏感で、その機会をとらえて、相手を批判することを通して自分の有能さを回復させたり、誇示しようとする。会社で評価されない人が、家で会社を批判したり、成績の悪い子供の親が、母親同士の集まりで学校を痛烈に批判するようなことが起きる。周囲の人を批判、否定することには際限がないが、反対に、自分が周囲の人から非難、軽蔑されることには猛烈に反発する。例えば、常識はずれの運転をしている人に注意をすると、逆上して注意した人を危険な目に合わせたりする。高速道路上で幅寄せを繰り返したり、車を停車させ、喧嘩を売るような行為をする。ここで言う仮想的有能感を持った人は、森田理論で言うと「かくあるべし」が強い人なのではなかろうか。なんでも自分の思い通りにしようとする。周りの人を自分の支配下に置き、自由自在にコントロールしようとしている。自分を中心にして世界が動いているかのように錯覚している。理想の立場に自分の身を置いて、上から下目線で他人を見下している。速水氏は、仮想的有能感を持った人は、次のような特徴があると言われている。仮想的有能感を持つ人は、本質的に自己中心的であり、自分のことだけは関心が強いが、他人のことには関心が薄い。仮想的有能感の高い人の特徴は、共感性がもてない人である。街で見知らぬ人が困っていたりしても、 「悲しみ」を共感できないので手を差し伸べるような事はない。彼らは社会的出来事に対しては極めてクールで何ら感情を持たない。仮想的有能感の高い人は、何よりも自分が弱い存在だと思われたくない。例えば、学業成績が悪い、運動競技に負けたという現実があっても、素直に自分の能力や努力の足りなさを認めるというよりは、先生の指導が悪かったとか、競技場のコンディションが悪かったと自分以外の要因に帰し、自己責任を回避するものと考えられる。その限りでは悲しみは生じない。ただ怒るだけである。仮想的有能感の高い人は、多くの苦労をしてまで目標達成を目指すとは思われない。彼らは障害に直面すると怒りを爆発させてしまい、失敗を正当化して、別の目標に移行させてしまうことが多いだろう。仮想的有能感の研究は、 「かくあるべし」の弊害ととてもよく類似している。私たち森田理論を学習しているものは、 「かくあるべし」の弊害については十分に認識しておく必要があると思う。なぜなら、「かくあるべし」という発想が葛藤や苦悩を生みだす原因となるからである。また、この点の認識が不十分であれば、 「かくあるべし」を少なくして、「事実本位」の生き方に方向転換することは難しいからである。(他人を見下す若者たち 速水敏彦 講談社現代新書より一部引用)
2018.12.23
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神奈川県足柄上郡山北町で「一心寮」という生活道場を開設しておられた和田重正さんという方がおられた。人里離れた山奥で、和田さんの家族と登校拒否児や自分の生き方を求める若者たちと共同生活をされていた。和田さんは、日本の教育に人間が生きていく基本姿勢を教える教科が欠けていることを心配され、 「人生科」という人生について教える教科の必要性を提唱しておられた。そうかと言って、特別な考え方を教えるような事は一切されていない。「ああしろ」 「こうしろ」 「こう思わなければいけない」などということも一切ない。「こうしてやりましょう」と思ってやった事は、ろくなことにならないことが多いという考えだった。ですから、そんなものはいつでも手放して、本当にめいめいが自分自身を生きていくという事、そういうことができるようになればよいと思ってやっておられた。大体、みんな朝6時ごろに起きて、朝食の準備をする。神社にお参りをする。鶏を飼う。畑を耕す。山で薪をとり、食事は手作り。味噌を作り、玄米食などの自然食である。可能な限り自給自足生活を送っている。掃除をする。大雨で流された道を修理する。時には坐禅をする。大体そういう生活だ。ほとんど規則はない。和田さんは、規則とか枠はない方がよいと言われる。そういうものがなければ、人間同士の争いはなくなるのではないか。そんな風に生活をしていると、花や鶏も自分たちの仲間だという感じになってくる。鶏の考えているようなこともわかるようになり、自然は新鮮で美しいと思えるようになる。 「ああしちゃいけない」「こうしちゃいけない」と言うような事をなしにして、全部を平らにしてしまって、自分は何をしたいのか、という自分の中の欲求をよく見つめて手足を動かし、実際にやってみる。何しろ頭で考えたってダメなんだ。頭でもって「ああか、こうか」と考えたって、それは妄想なんだ。そんな生活をしていると、2、3週間から1ヶ月ぐらい経つとみんな顔つきが変わってくる。穏やかになってくるという。根本的に人間を信頼できるようになる。いろんな規則や抵抗のない所へ来たならば、自然の姿に変わっていくのだと思う。鶏は大脳がないからすごく素直なんですね。だから余計なことを考えない。人間もそういう素直さで生きると、これは本当に楽に楽しく生きていけるということでしょうね。今の学校教育は、 「人間はこうするべきである」 「こうするべきではない」と教えているわけですが、何か役に立っているだろうか。まったく役に立っていないんじゃないかと思うんですね。もしかすると学校教育はマイナスになっているのかもしれない。そういう考え方を180度回転して、自分の内心、心の中の有様を検討していくというような方向に気持ちを向けて言ったら、もう少しましなことになるんじゃないかと思っているんですね。「うそを言っちゃいけない」ということだって、どうしても嘘を言った方が、なんか人情に合っているような場合だってあるじゃないですか。それを「嘘を言っちゃいけない」と、そこのところを強調したら、かえっておかしいものになるんじゃないかと思うんですね。ですから。この嘘を言うというようなことでも、必ずしもその言葉通りじゃないし、もっと自然な形で自分の行動を決めていけるということが必要なんだと思っているわけです。ここでの入寮期間は無制限です。 3ヶ月いたり、半年いたり、 1年いたり、 2年いたりで、どこまでいたらいいと、そういう事はありません。 (昭和61年3月2日 NHK教育テレビの「こころの時代」の放送より)和田重正さんの考え方や実践を見ていると、森田先生の考え方や入院療法にとてもよく似ていることに気づく。
2018.12.22
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先日の集談会後の居酒屋での懇親会の席で、ある方が次のような話をされた。神奈川県足柄上郡山北町で和田重正さんという方が、登校拒否や出社拒否に陥った人を受け入れて、人間再教育をされていた。その方が晩年になって「無欲の欲」という心境になられた。私も歳をとってきて、 「無欲の欲」を生活信条として生きていると話された。この方は、森田理論を学習して40年近くになり、理論的にもしっかりしたものを持っておられ、何よりも森田的な生活を継続されているところがすごい。私はこの話を聞いて、私達の考えも及ばない境地に達しておられるのだなと感じた。その一方で、 1つの疑問が湧いてきた。森田理論では「生の欲望の発揮」をとても大事にしている。人間に生まれたからには「無欲」ということがあり得るのだろうかということである。森田先生の弟子の古閑義之先生も、 「生の欲望の提唱は、森田先生の晩年において強く主張された重大な事項で、この生の欲望の提唱こそ、森田の神経質解明の根本理論であると主張してやまない」と言われています。このことについて、家に帰ってから考えてみた。現代の日本人は、物質的に豊かで便利な生活、飽食三昧の欲望を追い求めている。テレビコマーシャルやインターネットがそれを盛んに煽っている。知らず知らずのうちに、欲望を追い求める渦の中に巻き込まれている。その欲望を叶えるために、過度にストレスの溜まる仕事を続けざるを得ない。人間関係はいつもぎすぎすして対立的である。そして身体疾患や精神障害で苦しむ人が増えている。日本人全体がそのような考え方で染まってしまえば、それが当たり前な人間の生き方のように思うようになる。井の中の蛙現象が起きている。次第に欲望が欲望を呼び寄せ、欲望が暴走しているにもかかわらず、そのことには全く気付かない。これは、坂道でブレーキの壊れた自動車が疾走しているようなものである。その上、アクセルを踏み込んでいるので、いずれ重大な事故につながる可能性が高い。この方は欲望は無制限に追い求めてはならない。人間には欲望があれば必ず不安も発生するようにできている。今の世の中は、欲望と不安の調和が崩れている時代である。調和を取り戻すためには、欲望の制御が必要な時代である。この際、調和を取り戻すためには、「無欲の欲」という方針で臨む方がよいと言われているのではないのか。その方針で臨むとやっと調和がとれてくるということだ。また欲望を制御すると、副産物として、小さなことで感動する場面が増えてくる。路傍の花を見ても、雑草を見ても感動できるようになる。他人の思いやりも身に染みる。ないものを追い求めるのではなく、あるものを活かす喜びも生まれてくる。つまり神経質者にとって、五感や鋭い感性がますます発揮されるようになる。私たちはその方向に舵を切ることが、味わいのある人生を送ることにつながるのではないのか。その方が言いたいことは、人間には精神拮抗作用が備わっている。欲望が強くなったときは、制御能力を発揮して、バランスのとれた中庸の生き方を目指すことが肝心であるということだと思う。懇親会は時として生活に密着した素晴らしい話題がでてくるので外せないのである。
2018.12.21
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井形慶子さんは、自分の暮らしぶりと自分の体型はリンクしていたという。マンション暮らしをしていたときは、生活全体が平面の中で繰り広げられていた。家の中を掃除するのも、部屋から部屋の移動も狭く、短い動線の中ですんでしまう。これ以上便利な事はない。ところが不思議なもので、楽になればなるほど、とめどなく怠惰な暮らしを求めている自分に気づいた。しだいに私は、リビングダイニングの食事テーブルにキッチンから食器や料理を運ぶのが面倒になっていた。食事をする場所など、さっさと食べ終わればどこでもいいと思うようになった。やがて、約4.5畳の狭いキッチンにテーブルを移動した。そうなるとますますだらしなく座ったままで、冷蔵庫やガスコンロの上にのった鍋から直接料理をとって食事を済ませるようになった。これを「楽チン楽チン」と喜んでいたが、そんな暮らしの反動で私の体重はどんどん増えていった。自分では30歳を過ぎて皆と同じ中年太りがはじまったのだとタカをくくっていたら、まず9号の服が着られなくなり、スカートやパンツに至っては、 11号・ Lサイズしかはけなくなってしまった。思えばあの頃、家の中は収納できないほどの衣類で溢れかえっていた。年中何かがなくなり、探し物でイライラしたり、クローゼットは服を詰め込みすぎてパイプが落ちてきたり、押し入れは入りきれないほどの寝具が詰め込まれて、誰かが泊まりに来ると、布団や枕が転がり落ち大騒動になった。そうなってくると余計、自分の住む家がうっとうしく感じられ、問題の箇所には見て見ぬふりをして暮らし続けることになった。家にいるのが嫌で外に出る。刺激を求めて街をさまよう。いつしか私の暮らしは後退していったのだ。運動をしないで、高カロリー、高タンパクの食事を続けていれば誰でも太る。そして、生活習慣病と言われる糖尿病、高コレステロール、高脂血症、高血圧などの病気がしのびよってくる。そういう方は、家の中では収容しきれないほどの衣類、電化製品等で溢れかえっている。もう何年も使っていない衣類や小物類でパンパンの状態だ。これは体でいえば、動脈硬化を起こしているようなものではなかろうか。過ぎたるは及ばざるが如しの状況だ。栄養過多、物質過多の生活は、身体と精神に病気を引き寄せる。井形さんは、お正月を挟んだ年末年始の約10日間、外出することなく、家事に没頭された。余計な生活道具などを整理することに集中した。まず仕事部屋の本と雑誌を処分した。そして、必要な資料は整理し直した。次に、仏壇も古くからあって、不要なものを整理した。次に寝具や衣類の整理も一日がかりだった。朝起きて夜寝るまで、毎日毎日集中して家の中の片付けにいそしんでいると、整頓されていく部屋とともに私自身の心と頭のつかえもとれていった。私の中には刺激を求めて買い物をするリズムもあったが、それに打ち勝つリズムが新たに生まれてきた。それにしても家とはなんと面白いことのつまっている場所なのだろうか。これほどまでに限りなく生活意欲を生み出してくれる場所は家以外にいないのではないかと思った。家に向き合う日々は、もうひとつ意外な効果をもたらした。 1週間で2キロ体重が落ちていた。こまめに体を動かしたせいではないか。そのうち、血管も内臓も本来の働きを取り戻すことだろう。(イギリス式お金をかけず楽しく生きる 井形慶子 講談社 要旨引用)
2018.12.20
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ウサギを使って次のような実験が行われたそうです。通常の3分の1までエサの量を減らしたウサギを2つのグループに分けました。1つ目のグループは隔離され、たっぷりエサをもらえる仲間のウサギの様子が分からないようにされました。周りのウサギは、みんな自分と同じように腹を空かせたウサギです。2つ目のグループは、仲間のウサギが好きなだけエサを食べる様子を見たり、彼らの動きまわることを聞いたり、匂いを嗅いだりできる環境に置かれました。この状態で8週間飼育した後、解剖し、心臓の細胞にどの程度のダメージが出るかを確認しました。すると、たっぷりの餌を食べて満足そうに暮らす仲間のウサギを見ながらひもじい思いをしながら暮らしていた2番目のウサギの方が、 1番目のウサギより心臓にはるかに大きなダメージを受けていることが分かりました。両グループとも、減らされたエサの量は同じです。ダメージが大きくなった原因は、仲間と差を付けられる事、つまり、格差によるストレスと考えられます。このような格差を見せつけられた場合、社会性が強い人間の場合、なおさら大きなダメージを受けるのではないでしょうか。先進国の人が飽食三昧で文化的で豊かな生活を享受しているのを、テレビなどで見ながら生活をしている後進国に暮らしている人たち。戦争や紛争、治安の悪い国に住んでいる人たちは、平和で治安の良い国に住んでいる人たちを見るにつけ、精神的なストレスはとてつもなく大きくなるでしょう。先進国の人でも、会社や学校などで、他人から見下されていると感じる屈辱感にさらされている人たち。人より劣っているという劣等感で苦しんでいる人達。周囲の人からのけ者にされているという孤独感を感じている人たち。このような人たちは慢性的なストレスで、うつ状態なり、胃潰瘍や十二指腸潰瘍などの身体疾患で苦しんでおられるのではないでしょうか。これらは自分の置かれた状況を、先進国の人たちと比べることによって、知らず知らずのうちに、精神的なストレスを受けているのです。この中で注目したいのは、人間関係による精神的ストレスです。本来人間関係は、平等でお互いに助け合いながら友好的な関係を築き上げたいものです。ところが現実は、支配被支配の関係の人間関係に陥りやすい。一方が他方を自由自在にコントロールする関係になりがちです。森田理論を学習すると、それは「かくあるべし」という完全主義や理想主義を相手に押し付けるための弊害と見ています。「かくあるべし」を少なくして「事実本位」の人間関係作りを目指すことが大切であると学びました。精神的ストレスが身体面にも重大な病気を引き起こすことを考えると、ぜひとも「事実本位」の生き方は身に着けたいものと決意を新たにしました。(不安は悪いことじゃない 伊藤浩志 イースト・ブレス 要旨引用)
2018.12.19
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自動車を所有すると、様々な税金が課せられている。自動車取得税、重量税、自動車税などである。ただし新車の場合は多くの優遇措置がある。新車(トヨタアクア 1.5L ハイブリッド)を購入すると、取得税は0円、重量税は0円、自動車税は通常3万4,500円のところを2万2,500円です。さらに1年後の自動車税は、 75%減税で9,000である。 2年目以降は通常の3万4,500円になる。さらに3年目の初めての車検時、通常1万5,000円の重量税は0円になる。ところが、登録から13年以上の車は自動車税は標準課税額より15%加税される。重量税についても、 13年目で大幅加税があり、さらに18目になるとさらなる加税がある。これは見方によると、新車購入の後押しを官民が歩調を合わせて行っていることではないか。さらに、自家用車をメンテナンスしながら、大切に乗りこなしてきた人に加税をするという事は、 「 13年も過ぎたような車は、もう車の価値はない。たとえエンジンが丈夫でまだ乗れるような車でも、早く廃車にして買い換えなさい」と暗黙のうちに購入を促しているようなことではないだろうか。私は、これは反対ではないかと思う。自動車を13年以上も丁寧に取り扱ってきた人は、資源を大事にしてきた人であって、むしろ感謝を込めて減税をするべきではないのか。さらに15年、 18年、20年と乗り続けた人は、感謝状を出してもいいぐらいだ。使用できるうちは、こまめにメンテナンスをしながら、なるべく長く乗り続けるというのがまともな考えなのではないだろうか。この考え方は、森田理論の「物の性を尽くす」ということに通じる。森田先生は、入院生にこのことを徹底して指導されている。例えば、水を使うにも洗面には一杯の水で済ませる。洗面の水をそのままこぼさないで、バケツにとり、これをぞうきんがけに使い、さらにそれを植木や散水に使う。この手の話は枚挙に暇がない。風呂の残り湯もそうだ。ちびた古下駄を燃料として使う。新聞に入っている広告の裏紙の利用。自転車の古タイヤを机の脚に巻く。これは、机の脚が床を傷つけていることが気になっていたころ、偶然自転車屋の古タイヤを見つけられ、とっさに思いつかれたことである。これは倹約だけを目的としているのではない。むしろそのものが持っている存在価値を役目を終わるまでまで全うさせようとしておられるのだ。森田先生自身は、検体を考えておられたようだ。自分が亡くなったとき、自分の亡骸を医学のために役立たせようとされていたのだ。森田先生は神経症で苦しむ入院生を見て、神経症を克服し、社会のために役に立つ人間に生まれかわらせようとされていたのである。温かい人間愛で貫かれていた。ものを平気で使い捨てする人は、一事が万事ものを粗末にする人である。まだ使用価値があるのに、流行を追ってすぐに新しいものに飛びつく。そして自分の持っているものについては、見向きもしなくなる。ましてや、壊れたものやメンテナンスが必要なものは、修理して使おうという気持ちはない。安くて新しいものがあればすぐに買い替える。こういう考え方は人間関係にも影響を及ぼす。やる気がない、能力がない、面白みがないなどの人間を見ると、すぐに意識のうえで、その人間を切り捨ててしまう。自分自身についても、弱みや欠点、短所や能力不足を感じると、自分自身を毛嫌いして否定してしまう。どんなものにも頼りないものであっても、必ず存在価値があるはずだという視点に立つと、そのものの持っている可能性を見つけることに注意や意識を向けるようになる。そうすると発見や気づきがある。それを元にして工夫していけば、やる気や意欲が高まり、有意義な人生を送ることができる。物、自分、他人の持っている存在価値に注意や意識を向けて発掘して、その価値をどこまでも活かし尽くすという考え方は、神経症から解放される一つの方法である。
2018.12.18
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最近の脳神経科学では面白いことがわかってきた。今まで不安や恐怖に対して、扁桃体と海馬が重要な役割を果たしていると思われていた。とっさな危険を察知した時、すぐに身をかわすことができるのは、扁桃体が機能しているからである。 これは、ほとんどの動物にも存在しているそうである。これに加えて、抑うつや取り越し苦労などの不安に対しては、前頭前皮質腹内側部が大きく関係しているという。これは、名前の通り前頭前野に存在する。この部分が事故などによって損傷されるとどうなるか。不安、恐怖、喜び、悲しみ、怒りなどの感情がわき起こらなくなるそうだ。不安や恐怖が起こらないと、平気で猛犬や毒蛇などに近づいていくようになる。本来、不安や恐怖が起きると、心臓がドキドキし、手のひらに汗をかいたり、身構えたり、顔つきが変わって不安顔になるなど、急激な身体的変化が起きます。コルチゾールというストレスホルモンが分泌されます。免疫系も影響を受けます。ところが、この部分は損傷されると、不安や恐怖が湧き起こらないので、そうした生理反応が起こらなくなる。危険や自分に不利になる局面で警戒心が全く働かなくなる。これは安全や生存に不利に働きます。アメリカでこの部分を損傷したフィニアス・ゲージという人がいた。この方は事故の前は、鉄道建設現場で現場監督をされていた。それまでは、そつがなく、頭の切れる仕事人であり、非常に精力的で、あらゆる計画を忍耐強く遂行する優秀な人物と評されていました。事故の後も、驚くことに、注意、知覚、記憶、言語、知性は全く問題がなかった。ただ、人格が豹変してしまった。気まぐれで、無礼で、ひどく下品な言葉を吐き、同僚たちにはほとんど敬意を払わなくなった。自分の願望に反する束縛や忠告に苛立ち、時折どうしようもないほど頑固になった。移り気で、優柔不断で、これから先の作業をいろいろ計画するが、段取りするやいなや、やめてしまう人間になっていました。一言で言うと、注意力を欠いていて、計画を実行できない人間になっていたのです。感情が失われたために好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかの判断力がなくなってしまったのです。合理的な意思決定に時間がかかり、結局何一つ自分で決断することができなくなってしまったのです。その結果、職を失い、社会生活が営むことができなくなくなったのです。よく感情が暴走すると理性が働かなくなるなどと言います。傍若無人の行動をとると言います。しかし、実際には感情が湧きおこらなくなってしまうと、理性的な判断能力が失われて、決断力がなくなってしまうのです。感情が発生するから理性が働いているとみたほうが正解なのです。神経症になると不安や恐怖などの感情は、忌み嫌うようになります。しかしこれまでに見てきたように、不安や恐怖は意思決定するうえにおいて、必要不可欠なものであるということを忘れてはなりません。不安の役割をしっかりと頭に入れた上で、森田理論学習に取り組んでいただきたいと思います。(不安は悪いことじゃない 伊藤浩志 イースト・プレス 参照)
2018.12.17
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歌謡曲の中には森田療法理論の真髄をついているのではないか、と思われるものがある。歌が好きな人は、歌詞を覚えて口ずさむことお勧めしたい。まず中島みゆきさんの「時代」と言う歌である。今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて もう二度と笑顔にはなれそうもないけどそんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょうまわるまわるよ時代はまわる 喜び悲しみくり返し 今日は別れた恋人たちも 生まれ変わってめぐりあうよ続いて「世界に一つだけの花」です。花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだねこの中で誰が一番だなんて 争うこともしないで バケツの中誇らしげに しゃんと胸をはっているそれなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる 一人一人違うのに その中で一番になりたがるそうさ僕らは 世界に一つだけの花 ひとりひとり違う種を持つその花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい最後に「花のように鳥のように」です。そこにあるから追いかけて 行けばはかない逃げ水の それがしあわせあるようでなくて だけど夢見る願かける 花のように鳥のように 世の中に生まれたら一途にあるがままの生き方がしあわせに近いこれ以外にも自分を励ましてくれる歌詞はたくさんあることと思う。ぜひ発掘して、自分の持ち歌にしてほしい。
2018.12.16
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金子みすゞさんの童謡集に次のようなものがある。お魚海の魚はかわいそう。お米は人につくられる、牛は牧場で飼われてる、鯉もお池で麩を貰う。けれども海のお魚はなんにも世話にならないしいたずら一つしないのにこうして私に食べられる。ほんとに魚はかわいそう。土こッつん こッつん打たれる土はよい畠になってよい麦生むよ。朝から晩まで踏まれる土はよい路になって車を通すよ。打たれぬ土は踏まれぬ土は要らない土か。いえいえそれは名のない草のお宿をするよ。金子みすゞさんの詩に共通しているのは、自然物の立場に自分の身を置いて、物事を眺めることができるということです。こういう視点から発想できる人間はほとんどいません。理性を身につけた人間は、自己中心的な欲望が暴走して、制御不能に陥っているのではないでしょうか。金子さんの詩が私たちに優しく訴えかけているのは、人間中心の考え方はちょっと違うのではないのということだと思います。金子さんは、この世にあるすべての動植物、鉱物に至るまで、すべて宇宙からもたらされたものです。本来生きとし生けるものはみんな平等なはずだ。人間が欲望にまかせて、他の存在を自由自在にコントロールしようとすることは間違っているのではないか。この地球上に存在しているすべてのものは、それぞれに存在価値があるのではないの。きっとすべての地球上にあるものは、その存在価値を高めて、自分の持てる能力を十分に発揮して生を全うしたい。他人の役にたつ存在として手をたずさえて生きていきたい。きっとそう思いながら、存在しているはずですよ。そういう思いで、次の詩を読んでみてください。大漁朝焼小焼だ大漁だ大羽鰯の大漁だ。浜は祭りのようだけど海のなかでは何万の鰯のとむらいするだろう。
2018.12.15
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厚生労働省が2016年におこなった意識調査に、 「生きていればいいことがある」と言う質問があった。これに対して、 「そう思う」と答えた割合は20代が最も低く、わずか37%だった。2008年の調査では、 62%が「そう思う」と回答しており、この8年間で大幅に減少しています。同様の調査は、 2013年に日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンの7カ国の13歳から29歳までの若者に対しても行われました。 (内閣府 「わが国と諸外国の若者の意識に関する調査」 2013年)「自分自身に満足している」という質問に対して、 「そう思う」と答えたアメリカの若者は46%でした。これに対して日本の若者は7.5%でした。 「親から愛されている」と思っている若者も、日本が最も少なく35%でした。「自分にどの程度誇りを持っているのか」についても、日本の若者が最も少なかったという。また、日本の若者は、 「自分は社会の役に立たないと強く感じる」 「人は信用できない」と感じている若者が多かった。将来への希望を聞いたところ、 「希望がある」と答えた若者は12% 。社会に対する満足度を聞いたところ、 「満足」と答えた若者は3% 。 「自国の将来は明るいと思う」と回答した若者も同じく3% 。日本では比較的治安が安定し、飢えている人もいない。物質的には豊かで、基本的な生存権は保証されてはいるが、精神的にはとても不安定な若者が多い。仕事もフリーターや派遣労働者が多く、将来への展望が持ちにくい。正社員となっても、厳しく目標管理を設定され、ノルマの達成に追われている。他人の評価を気にし、自己を抑圧して、周囲の人に認められることばかりに神経をすり減らしている若者が多い。日本は大企業が、世界の名だたる多国籍企業と熾烈な生き残りをかけて戦っている。今や熾烈な経済戦争に勝ち残ることが日本の最大の目標となっている。その中で、国民の幸福がないがしろにされ、次世代を担う若者たちに夢や希望、生きがいを喪失させるような社会を作り出してきているのではないだろうか。日本はここらでいちど立ち止まり、社会のあり方、食料の自給、資源の枯渇、環境破壊、人間関係、生活のあり方、子どもたちの教育などについて見直す必要があるのではなかろうか。その際、森田療法理論の考え方が大いに役にたつと考えている。特に欲望を暴走させないための「不安と欲望」のバランスのとり方はとても役に立つと思う。またすぐに観念優先で、現実、現状、事実を否定してしまう態度は人間を不幸に追いやるものだという考え方は人類の貴重な文化遺産であり、すべての人が学んでほしいと思う。
2018.12.14
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会社の中での人間関係がぎくしゃくしている人は、夫婦の間でも、親子の間でも、近隣住民との間でも、友人との間でもぎくしゃくしていることが多い。みんな寄ってたかって、自分のやることなすことを批判していると思っている。それに対して、いつも好戦的な態度で神経をピリピリさせている。相手を対等かあるいは力が劣っているとみなすとすぐに、買い言葉に売り言葉で怒りを爆発させてしまう。そして二度と修復が出来ないほど人間関係を破壊してしまう。それは周囲の人にも波及し、 「あの人はいつ切れるか分からないから、近寄らないほうが安全だ」と思われてしまう。そのうち会社の中では、自分の味方になってくれる人がいなくなり、ついに孤立してしまう。昼ご飯のお誘いもかからなくなる。夜の飲み会も自分だけのけ者にされていることも起きる。こうなると毎日雨降りや土砂降りの天気が続いているようなものだ。精神的には抑うつ状態に陥る。身体的にも胃潰瘍などの症状が出てくる。そうなっては困るので、一般的には相手から自分のことを非難、否定、叱責されても我慢している。耐えている。不快な感情を抑圧している人が多い。表面的には波風が立たなくて問題がないように思われる。しかし心の中では、依然として相手を責め続けているのだ。それが精神交互作用でどんどん増悪している。頭の中で考えていることと行動がちぐはぐになっている。そういうことが繰り返されるとストレスがどんどん蓄積されていく。こうなると人間関係はとても辛いものになる。そして人間関係で疲れ果ててしまい、自ら人との接触を極力避けるようになる。人との接触がない人生は本当に辛いものである。針の筵に座っているようで、生きた心地はしない。これは相手が「かくあるべし」を自分に押し付けてきた時の対応方法が間違っているから、大きな問題に発展したのである。相手の「かくあるべし」に対して、自分も「かくあるべし」で対応しているのだ。そこに気づいてほしいものだと思う。相手だけではなく、自分も相手のことを批判的、否定的に見ているのだ。心の中で相手を責め続けているということはそういうことだ。その結果どうなるのか。 2人の人間関係はいつも平行線をたどり、折り合いをつけたり、妥協点を探るという事はないのだ。理不尽なことを言ってくる相手に対して、絶対に許せない。仕返しをしてやりたい。この不快な感情は相手にぶつけることでしか収まらない。などと、いつも戦いモードで構えているのだ。すぐにスクランブル発車して戦える準備ができているようなものだ。戦いに明け暮れて、自分を守ることばかりに神経をすり減らしているので、生きていくことが辛くなる。こういう人間関係に問題を抱えている人は、森田理論の「かくあるべし」を減らして、事実本位の生き方をめざすことをお勧めしたい。どういうことかというと、相手の理不尽な言動に敏感に反応して、自分の「かくあるべし」を持ち出して好戦的な態度に出ることを少しずつ減少させていくのだ。 「かくあるべし」でがんじがらめになっている人は、茨の道ではあるが、その方向でしか明るい光は見えてこないと思う。では、具体的にはどうしたらよいのか。まず、相手の自分に対する理不尽な言動を、正確に見つめることだ。見つめるだけにして、それが良いとか悪いとか、価値判断に結びつけないことが肝心である。そして、不愉快極まる不快な感情をそのまま味わうことだ。感情は時間の経過とともに薄まったり変化する。そのままに感じておくことが大切だ。感情は否定したり抑圧していると、火に油を注いだように燃え盛る。怒りや腹立たしい感情もそのまま行き着くところまで行きつかせば、収束する運命にあるのだ。次に、「純な心」の応用だ。感情には、第一に感じる感情と「かくあるべし」を含んだ第二の感情がある。第一に感じる感情は、ともすると見失いがちである。これをきちんと捕まえる必要がある。また「かくあるべし」を含む第二の感情は、自然に発生するものであるから、そういう時は第一の感情にすぐに立ち戻るという能力を身につけていく必要がある。そしてその第一の感情を、私メッセージで言葉にして発することが自分を楽にする方法になる。感情は、どこかに解放させていかないと、どんどん蓄積されてしまうのだ。小さな感情のうちに、小川の流れのようにどんどん流していく必要がある。つぎに自分はどういう気持ちなのか。自分はどう考えているのか。自分はどうしたいのか。自分の意志はどうなのか。これらに焦点を当ててみることだ。他人のことではない。自分に焦点を当てることが肝心なのだ。これらは相手の言動に、対症療法的に「かくあるべし」で反応するやり方ではない。それでは自分は楽になるどころか、ますます葛藤をや苦悩を抱えてしまう事は、森田理論学習で何度も学習したことである。相手の言動に対して、自分にどのような感情がわき起こっているのか、自分の身体感覚はどうなっているのかというところに注意や意識を向けて、自分の今の状況から出発するという視点に立っている。不快な状況に陥っている自分をいたわってやるというやり方なのだ。相手の「かくあるべし」を修正させようとしても、多くのエネルギーを使うばかりで、ほとんど効果はないのだ。それよりは自分の感情や身体感覚に重点を置いて、自分をどこまでも大切にして、癒していくのだという方向が楽な生き方につながっていくのだと思う。
2018.12.13
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イチロー選手は、記者のインタビューで「目標」というものに対する捉え方を質問されて、次のように答えている。目標を設定して、そこに到達すれば、そこで満足してしまって先に進む努力をしなくなるでしょう。満足は求めることの中にあるのです。イチロー選手は、大きな目標を持つことよりも大切なことが別にあると言っているのです。そもそも目標は大きければ大きいほど、達成は難しくなってきます。例えば、富士山ならある程度訓練をすれば、大抵の人は登れるかもしれません。ところが、エベレスト、ヨーロッパ最高峰モンブラン、アイガー北壁、マッターホルン、アラスカのマッキンリー、南米のアコンカグア、アフリカのキリマンジャロに登頂するという目標は極めて難易度が高くなります。登山の経験の豊富な人でも登頂するにあたっては、多くの困難が待ち受けています。サポーターやシェルター、キャンプ地設営、多くの物資、資金など用意周到な準備なしには挑戦することはできません。ましてや未熟な人がそのような大きな目標を持つと、途中で挫折することが多くなります。大目標が達成できないということになると、不全感が残り、ストレスがたまります。それを押しのけてでも、目標達成に向けて、闘志を奮い立たせることができる人は問題ないでしょう。しかし現実には目標達成第一主義で挫折してしまう人が圧倒的に多いのではないでしょうか。また、たとえ、大目標を達成してしまうと、次に挑戦する目標がなくなり、意欲や、やる気が減退してしまうということもあります。イチロー選手は、最初から大きな目標に照準を合わせると、モチベーションが維持できなくなるといいます。目の前の小さな目標をクリアしていくうちに、終わってみれば、最初に思い描いていた大目標に到達していたというのが実態です。だから、その時々の小さな目標を達成するための「プロセス」に全力を尽くすことが大切だと言われています。大きな目標を持って、その目標に到達するために、小さな目標を立てて努力することは、森田理論で言う「努力即幸福」の実践です。イチロー選手がマリナーズに在籍していた2004年は、マリナーズは優勝の可能性は全くなかった。ところが、その年、イチロー選手はシスラーのシーズン通算257安打の大リーグ記録を塗り替えた。プロセスを重視して貫いていれば、優勝というチームの目標の達成が不可能になっても頑張れる。何が何でも目標を達成しなければならないという目標達成第一主義では、容易に挫折してしまう。これは、上から下目線で自分の状態を見ているために、ちょっとした壁にぶち当たれば、「もう自分はダメだ。能力がない」などと自己否定してしまうために、やる気や意欲も同時に失われてしまうのだと思われる。目標達成第一主義は、 「かくあるべし」を自分に押し付けているのである。それよりは、自分の現状を自覚して、今自分にできる小さな目標に向かって努力するという態度がより重要になる。
2018.12.12
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あるカウンセラーの方が次のような話をされている。20代後半から、髪の毛が毎日のようにたくさん抜け始め、 30代前半には最も恐れていたハゲになってしまったのです。私は悩み、落ち込み、そして軽い鬱状態になり、対人恐怖症もあって、引きこもりがちになってしまいました。私は自毛を取り戻すために様々なことを試みましたが、どれも全く効果がありませんでした。この時、私は、もしかしたら自毛が生えてくるかもしれないという、ほんのわずかな可能性にかけて悩んでいたのです。しかし、世の中にはどうやっても達成できないこともあります。ですから、私はその時、いくら一生懸命やっても無理な事、努力してもどうにもならないことでほ悩んでも仕方がないと思ったのです。そして、バカバカしいと気づいたのです。それをきっかけに、私は見事に発毛の悩みを諦めることができました。すると、不思議なことに絶望ではなく、すごく楽になっていたのです。つまり、ありのままの自分を認めて受け入れたことによって、いい意味で開き直ることができたのです。ハゲという状況に全く変わりがないものの、ハゲという状態の見方を変えたのです。すなわち、いい意味で開き直り、ハゲという状況で役に立つことやハゲのメリットなどを見つけ、そこに自信を持ったのです。そして、ハゲに自信を持つことで、仕事に活かすことができました。特に初めて訪ねてきたクライアントさんにほ私のハゲの話をすると、笑ってくれて、心を開いてくれるのです。これはカウンセリングを有効に進める上で非常に重要だと私は思っています。なぜ重要かというと、ほとんどの方が、初回は緊張しているからです。効果のあるカウンセリングをしようと思ったら、その緊張をほぐすことがまず大切なのですが、クライアントさんも笑うことにより緊張がほぐれ、リラックスし、話しやすくなるのです。そして私との信頼関係も築きやすくなり、カウンセリングは楽しくスムーズに、有効に進んでいくのです。今はかえって「髪の毛が生えてきたらどうしよう」と心配してしまうくらいです。まさに、自分自身がいい意味で開き直り、短所にも自信を持つことによって、長所に変わるということを学びました。ハゲという現状は全く同じなのに、見方を変えることによってこんなにも変わるとは、私自身が1番びっくりしています。あれだけ悩んでいたのがまるで嘘のようです。あなたも自分の短所の中に隠れた長所を探してみてください。すると、あなたの人生は今よりずっと充実したものになり、そしてきっと自分らしさが持てるはずです。(心の相談室へようこそ はまの出版 237頁より引用)この話は私にも当てはまる話でした。自分の弱みだと思っていることがあると、多くの人は人前に出すことをためらい隠してしまいます。さらにその欠点をなくすることのために、精一杯の努力をします。この方は、どうすることもできない弱みや欠点は、隠したり取り繕うたりしないで、むしろ人前で積極的に公開する。そうすることで、精神的にも楽になり、人間関係もうまくいくようになるというわれているのです。これは現実、現状、事実をありのままに認めるという森田理論の考え方そのものです。
2018.12.11
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今年も年賀状を作る時期になりました。今日は年賀状作りに森田理論をどのように活用するのかを考えてみたいと思います。年賀状は11月に発売されます。私は年賀状の裏面は11月に基本的な部分は完成させるようにしています。その年に携帯電話で撮った写真から、これはと思うものを選んで、年賀状に貼り付けます。そしてプリンターで印刷します。ここまでが第一段階です。その後は喪中ハガキがどんどん届いてきます。ですから、 12月10日まではそのままにしておきます。12月10日を過ぎると、今年もらった年賀状のリストから、喪中ハガキが届いた人をチェックします。私が現在年賀状を出している人は100名ちょっとです。それでも取り掛かるにはちょっと気が重くなります。そこで、毎日1日10名と決めて、 15日間で全てを完成させるようにしています。このように少しずつ年賀状作りに取り組めば、精神的に大きな重荷にはなりません。いつの間にか終わっていたという状況になります。これは、森田理論の「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」の実践ではないのか、と思うようになりました。また、余裕を持って取り組めるので、一言添えるメッセージをいろいろと考えるようになります。考えてみると、もらっている年賀状の多くは、裏面も印刷に出してそのまま出している人がいます。表もパソコンの宛名書きを利用して作成している人は、まさに義理で出している年賀状です。そんな年賀状では、もらった相手は思いやりは感じることができないのではないでしょうか。年賀状のやり取りをするだけの人間関係も大切にしたいものだと思います。今年や過去の付き合いの中で印象に残ったことなどを 一言ぐらいは書き添えたいものです。思い浮かばなければ、自分の今年の出来事、来年取り組む目標などを書いておきたいものです。たくさんの年賀状をもらう中で、もらって嬉しいのは、そういう言葉を書いてある年賀状です。私がもらって嬉しいのは、書道の先生をしている人で、宛名書きも裏書も毛筆できれいに書いてある年賀状です。写真などは張り付けてありませんが、他の年賀状とは一味もふた味も違います。それから絵手紙などを丁寧に描いている人はすごいなと思います。毎年、色んな題材を取り上げて、心がなごみます。 1枚1枚がオリジナルで丁寧に描いているわけですから、相当な時間がかかるものと思います。そういう年賀状は、自分のことを大切に扱ってくれているんだなとひしひしと感じます。そういうことは、友達同士で評判になります。もらってない人から年賀状の催促があると聞きました。評判が評判を呼び、年賀状の催促をされることは負担にはなるでしょうが、人の役に立っています。またその人も立派な生きがいづくりになっているのではないかと思います。私がもらった年賀状の中では、毎年版画を掘って、 1枚1枚丁寧に印刷しているものもあります。中には草木染めの顔料を利用して思い出を絵をしているものもあります。この絵は草木染の顔料を使用していますと書いてあります。まあなんと手間をかけている年賀状かと感動します。年賀状作りに心を砕いている人は、日常茶飯事にも丁寧に取り組んでいる人だと思います。丁寧に森田の実践をされているのです。 心の中では年賀状は、日本の悪い習慣だと思いながら、仕方なしに義理で出し続けている人とは、人生の楽しみ方において雲泥の差が生まれていると思われます。たかが年賀状、されど年賀状。真剣に向きあえば、向き合っただけの成果か出てくるのが年賀状だと思います。年賀状作りに対する基本的な姿勢は、一度にまとめて取り組まない。小分けに分けて、 11月から無理のない範囲で取り組む。いつの間にか12月の下旬には滞りなく終わっているという状態に持っていく。そして 1枚1枚、相手の顔を思い出しながら、相手にぴったりの言葉を吟味してみる。相手に小さな感動のお裾分けをするという気持ちで取り組む。森田理論に不即不離という言葉があります。人間関係においては、あまりベタベタと親密な関係作りを目指さない。必要に応じて、必要な時に、必要なだけの人間関係を幅広く築き上げることを目指す。そうすると親友同士の人間関係できまづくなって孤立することは避けることができます。コップ溢れんばかりの水を満たすことを目指すのではなく、コップに少しだけの人間関係をそこら中に広げていくほうに意識を向けていく。これが人間関係を円滑にするコツであるということを、森田療法理論から学びました。実際にこの方法を採用してみると、精神的にとても楽です。困ったときには多くの知り合いの中からぴったりの人が、専門的な立場から親身になって相談に乗ってくれることがよくわかりました。
2018.12.10
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今日は宇野千代さんの言葉を紹介したい。誰の心の中にも、自尊心と言うものは隠れている。この自尊心があるために、人と人との関係が、なんとなく、ギクシャクすることがある。自尊心というものが隠れている間は、何事も起こらないのに、一たび、ちょっとでも頭をもたげてくると、面倒なことが起こる。そのことを知っている人は、その時、ちょっと自分の自尊心をよそへ持っていく。人目のつかないところで、隠しておく。自尊心なんか持っていなかったようなふりをする。それに、うまく成功すると、人と人とのあいだには、案外、何事も起こらない。自尊心をちょっとどこかへ隠す、というのは、なんという便利なことであろうか。(宇野千代 幸福の言葉 海竜社 98ページより引用)これは森田理論で言うところの「かくあるべし」を前面に押し出したやり方であると思う。人間は一旦言い出すと、その言葉にとらわれて、途中でその誤りに気づいても引っ込みがつかなくなる。また、自分の頭で考えた理想や主義主張を相手に押し付けることがある。その結果、自分と相手の間に亀裂が生じ、人間関係が悪化の一途をたどる。理想や完全を追い求めて努力する生き方は尊い。しかし理想主義や完全主義の立場から、現実、現状、事実を否定すると葛藤や苦悩が始まる。「かくあるべし」に翻弄された人生は、苦難の人生の始まりである。ではどうすればよいのか。「かくあるべし」はこれまでの人生の中で作り上げてきたものであり、 完全にはなくすることはできない。しかし、努力することによって「かくあるべし」を減少させることができる。「かくあるべし」の弊害を理解して、そういう方向に向かっているのかどうかが重要である。その際、有効になるのが、事実をよく観察する。事実を両面感で見ることが欠かせない。ごまかしたり、隠したりしないで事実のままに具体的・赤裸々に話す。事実から出発する態度を身につける。事実に対しては、是非善悪の価値判断をしない。 「純な心」を大事に取り扱う。 「私メッセージ」の言動を身に付ける。これらは、私が森田療法理論から学んだ方法であった。これを一言で言えば、「事実本位」の生き方である。これはたえず「かくあるべし」とのせめぎ合いであり、一生をかけて取り組むべき課題であると考えている。「かくあるべし」が強くなっていると思ったら、事実本位に立ち戻れる能力を身につけることが大切なのだと思う。
2018.12.09
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生活の発見誌の11月号に基準型学習会に参加した人の話があった。この学習会は生活の発見会が発行している「新版 森田理論学習の要点」 の単元に沿って学習するのである。学習期間には日記指導もある。この学習会に参加すると森田理論のエッセンスがあらかた分かるようになっている。この学習機会に参加した人は、終了後次の3つの気づきを得たという。1 、人の感情は自然現象であるから、湧いてくる感情に対し自分に責任はない、何を感じても、自分を責めないでよい。森田理論を十分に学習している人は、皆さんよくご存知の事だが、この話を初めて聞いた人はびっくりする。なにしろ自分に湧き上がってくる感情は、自由自在にコントロール可能だと思っていたのだから、正反対の考えなのだ。このことが理解できれば、感情に対する取り扱い方が変化してくる。不安や恐怖は台風などの自然現象と一緒なのであるから、通り過ぎるのをじっと待つしかない。そうすれば不安や恐怖は自然に収まりがつくようになっている。台風が来た時の柳の木のような心境であればよいということだ。間違っても松の大木のように、正面から受け止めて格闘してはならない。2 、人間の性格には多面性があってよい。この方は、他人から「明るくて優しくしっかり者」と評価されていた。ところが、自分では、 「自分はそんな人間ではない。そう見えるのは自分が仮面を被っているからなのだ」と思い、自分を責めておられた。しかし、講師の方から、 「明るいと言われるのはそれもあなたの一面であるのです。全然違うと思うのは、自己否定感が強く、暗い面に意識が行きがちだからです」と言われて、はっと気づいたそうです。人には色々な面があってよいということが、それまでの自分にはわからなかったのです。私は神経質性格には、プラス面もあれば、マイナス面もあると思っています。神経症で苦しんでいるときは、マイナス面ばかりに注意を向けています。森田理論を学習して、神経質性格のプラス面の理解ができれば、自己肯定感が生まれてくるのではないかと考えています。3 、強い不安の反対側には必ず前向きな欲求があるということです。これは「欲望と不安」の単元を学習すればよく理解できるようになります。神経症で苦しんでいる人は、不安や恐怖を取り除くことばかりにエネルギーを費やしています。また、「どうすることもできない」とあきらめてしまえば、逃避するようになります。精神交互作用によって神経症が固着してしまうのです。この悪循環を断ち切るためには、生の欲望の発揮に視線を移すことがとても大切です。そして、将来的には生の欲望の発揮と不安のバランスを維持しながら生活するようになれば、将来に展望が開く生き方ができるようになります。
2018.12.08
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インターネットが普及した時代には、短所を逆手に取って、むしろ成功するという事例が出てくる。例えば、パソコンの販売をしているデルという会社は、生産工場を持たない。販売チャネルを持たない。それなのに、どうしてあんなに大きな会社になることができたのか。それは、欠点を逆手に取って、インターネットによる直販のシステムを作り上げたからだ。デルはインターネットでお客様の注文を受け、好みに合わせてカスタマイズして、全世界の提携会社に発注を出す。出来上がると直に顧客の元へと発送する。既存の会社は、自前で生産工場を立ち上げ、さらに販売網を確立している。相当な資金力が必要だ。巨大な生産ラインや販売網、それにかかわる多くの人を雇用しており、直ちに販売戦略を変更できないのである。全世界でインターネットによる販売が主力になってくると、自力で立ち上げた生産工場や販売網は大きな足かせとなっているのである。一昔前にはデルという会社が、パソコンの販売で全世界の首位に立つという事は考えることができなかった。パソコンも作れない、販売網もない。そんな会社は既存のパソコンメーカーと同じ土俵の上に上がることさえ不可能であった。ところが、インターネットの時代になって、形勢は一挙に逆転をした。既存メーカーは、デルと比べると生産や販売に関するコストが格段に高い。そのため、販売価格に大差がついてしまい、太刀打ちできなくなってきたのである。インターネットは情報や生産、販売の方法を一挙に変革していったのである。この変化の波をうまくとらえて、大躍進を果たしたのがデルという会社である。最近ではアマゾンがそのやり方で情報、生産、物流、販売を大きく変革した。今では本はすべてアマゾンなどで、中古の格安本を物色するという人が普通になってしまった。これは短所を見直して、長所として活かした例ではないだろうか。一般的には、弱みや欠点などの短所があると、悲観的になってしまう。しかも人と比較して劣るところがあると、自己嫌悪、自己否定に陥ってしまう。隠す、言い訳をする、ごまかすばかりで、事実を認めようとしないのである。このように弱みや欠点の裏に長所が隠れているとは夢にも思わないだろう。例えば卑近な例で申し訳ないが、イケメンや美人に生まれついていると、異性にモテて幸せな人生が待っているかのように思われている。確かに一面では正しい。しかし、それを鼻にかけて有頂天になっていると、思いもかけない悪い虫がたくさん寄ってきて、取り返しのつかない失敗をすることがある。特に、抑制力のない人がイケメンや美人だと、見境もなく恋愛、結婚、離婚を繰り返し、年代を重ねるにつれて周囲の人たちから見放されて、じり貧な惨めな生活に陥って人がいる。その点、体型や容姿に恵まれない人は、いくら抑制力がない人でも男女関係で失敗することは稀である。また、いったん結婚した人を大切にして、最後まで添いとげて、温かい家庭を築くことも多い。それはそういう欲望があっても、悪い虫が寄ってこないので、結果として助かっているのだ。欠点や弱点が自分の人生に役に立っているということだ。この場合も一長一短あると言うことだといえよう。欠点や弱点ばかり見て悲観している人は、その裏に隠れた強みや長所にも考えを及ぼさなければ、物事を正確に見たことにはならない。森田理論でいう両面観、多面的な考え方は、ぜひとも身に付けたいものである。
2018.12.07
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戸締まりやガスの元栓の点検を繰り返す人は、五感に対する信頼が薄いようだ。普通の人も戸締まりやガスの元栓は気になる。 2回3回と確認行為をする人は多いだろう。ただし、それ以上の確認行為はしません。それはとりもなおさず五感に対する信頼が厚いということだ。五感に対する信頼が薄いと、本来は理性的な判断や検討を司る前頭前野が割り込んでくる。前頭前野は、 「五感は信頼できない。私が意識的に身体に納得させるから少し待っていてくれ」という。 1つの不安をあらゆる側面から検討しているのである。しかし、ドアは閉まっている。ガスの元栓は閉じられている。などと前頭前野で意識的に納得させようとしても、その時に否定的な考え方も同時に沸き起こってくるようになっている。そうしないで安易に判断する習慣があると、命に関わる危険な状況に遭遇することが多くなるからである。このことを森田理論では、人間にはある考えが浮かんでくると、それを打ち消す否定的な考えが浮かんでくるようになっているという。この事を精神拮抗作用として説明されている。欲望と不安のバランスがとれるからこそ、欲望の暴走を抑えられるのである。前頭前野の発達は人間だけに備わっているものであり、とても貴重なものである。しかし、そのことが、かえって人間に葛藤や苦悩をもたらしているとも言えるのである。私はアルトサックスの演奏をしているが、そのことが実感としてよくわかる。人様の前で演奏する曲は、毎日練習をしている。定番の曲などはもう1,000回以上は、練習をしていると思う。暗譜で覚えてしまい、楽器をとると手が勝手に動く状態になっている。練習の段階ではほとんど間違うことがない。ところが、いざ本番になると金縛りに遭った状態なって自由に手が動かなくなるのである。特に司会者が色々と曲の紹介などをしていると、その間に前頭前野が活発に動き出す。「間違えて演奏会を台無しにすることはないだろうな。そうなればバカにされるぞ」などと脅しをかけるのである。一般的にはプレッシャという。楽器の演奏する人は、この前頭前野がしゃしゃり出てお節介をやく事をとても嫌がる。運動野に蓄えられた記憶を元に、前頭前野を経由することなく直接指示命令が来ればほぼ90%以上の演奏はできると思っている。この時に邪魔になるのは、人間にだけに備わった前頭前野の活動なのである。その時に前頭前野が休憩モードに入ることがとても大事なのである。しかし、そうは言っても前頭前野が働くのは自然現象であるのでどうすることもできない。私の場合は、イチロー選手や羽生結弦選手に学んで、本番前にルーティーンを作り上げている。ルーティーンを黙々とこなすことによって、前頭前野が入り込まないようにしているのである。しかし、実際にはなかなかうまくいかない。というのは、前頭前野を入り込まされないようにするということ自体が「かくあるべし」であり、そのこと自体が前頭前野の活動を促進するという面があるからだ。実際には、演奏活動は仲間と共にしているので、間違えたらいったん止まり、途中からまた演奏に復帰するという方法をとっている。私の場合は、演奏技術が未熟であるので、完璧と言う事はありえないと思っている。 80%以上の出来で満足するという気持ちがないと、とても人様の前で演奏する気持ちにはなれない。練習だけは完璧にして、あとは清水の舞台から飛び降りて、成り行きに任せるという気持ちだ。演奏が終わるとほっとする。緊張と弛緩の繰り返しである。そのビクビクハラハラする気持ちが、後で思い返すと快感なのである。
2018.12.06
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法律の「法」という字は、一般的には、社会で人が守るように定められた取り決めと言う意味があります。注目したいのは、それ以外に、「ある事柄のもととなる普遍的な原理」という意味があります。その普遍的な原理をこの言葉自体が表しています。この字を分解すると、水偏(いわゆるさんずい)に「去る」になります。これは自然界のあらゆる出来事は、絶えず水のごとく変化して流れていくということではないでしょうか。この話を聞くと、鴨長明の方丈記の一節を思い出します。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。人生の中では、自然災害に遭遇したり、思わぬ事故に巻き込まれたり、大病をしたりします。その度ごとに悲観的になって生きる勇気を挫かれてしまいます。人間関係や理不尽な出来事に遭遇して、腹立たしい感情が絶えず沸き起こってきます。道端で猛犬やヘビに出会ったり、山でイノシシや熊に出会うと、生きた心地はしません。このような危険に遭遇すると恐怖心でいっぱいになります。そんなときに、その嫌な出来事や感情にいつまでもこだわる生き方は、自然の流れに反する生き方ではないでしょうか。川で流された時、必死に岩などにしがみついて、流されないようにありったけの力を振り絞っているようなものです。川の流れに沿って、川の流れに身を任す方がまだ助かる可能性が高いのではないでしょうか。世の中は自分の思い通りにならないことばかりですが、それでも大自然は大河や銀河の流れのごとく、絶えず変化し流れてゆきます。一時も同じ場所にとどまっていることはありません。「岩もあり 樹の根もあれどさらさらと たださらさらと水の流るる」という古歌があります。この古歌の意味は、岩や木の根のような煩悩やしがらみの娑婆世界にありながらその中に埋没せず、さりとて超然ともせず、空、無の境地で水が流れるように、あるがままの姿で生きるという意味です。その流れを止めようとしたり、逆らおうとしたり、無理に流れを変えようとすると苦しくなるのです。私たちはサーファーのように波を捉え、波に乗ることだけに集中して生きていければ、葛藤や苦悩は少なくなるのではないでしょうか。私たちもこのような楽な生き方を森田理論によって学び身に付けたいものだと思います。
2018.12.05
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レイノルズ先生が、自らみじめな状態を招き、苦痛でがんじがらめになってしまうケースについて説明されている。これに沿って私の意見を述べてみたい。 (建設的に生きる 創元社 36ページ参照)1 、他人と自分を比較するということ。他人の優れたところと、自分の劣っているところ比較して嫉妬する。嘆き悲しむ。比較するときは、自分の中の弱みや強みを把握するのにとどめるほうがよい。そして自分が持っている能力や強みを活かしていくようにする。比較するということは、理想と現実を比較するということもある。この場合、理想主義の立場から現実を否定すると、思想の矛盾で苦しむことになる。現実から出発して、夢や理想に近づこうとすると「努力即幸福」を味わうことができる。昔の裕福で何不足なく生活していた頃と生活するのがやっとの現実を比較することもある。昔の良かったころの時に重点を置いて考えていると、現実は我慢できなくなり、投げやりになってしまう。現実から出発して、これから先の生活に視線を向けることが大切である。2 、事実の流れに逆らう。時間の経過とともに自然に収まることを、無理矢理解決しようと急いではなりません。例えば離婚や別居、職を解雇された直後は、誰でも激しい絶望感や怒りを覚えるものです。こうした感情は蒸し返すようなことをしなければ、時が移るにつれて次第に消えていくのが事実です。ところが、不快な感情を早く消そうと、安定剤などの薬物やアルコールに頼ってしまう人たちがいます。また、仕事上の取引で多少の損失があった場合でも、強い自責の念は、時間と共に薄れていきます。現状を変えたいと急ぐあまりに本来のペースを無視すると、かえって悪影響を及ぼします。3 、自分のことばかりに焦点を当てる。自分勝手で利己的な人、愛情にさめた人、他に依存ばかりしている人は、自ら苦痛を招く傾向にあります。自己内省性という特徴が、いびつな形で表出しているものと思われます。普段の生活の中で、人のために役に立つ行動を心がける必要があります。挨拶をする、笑顔を心がける、小さな親切を心がけることから始めてみましょう。4 、目的のない生活。目的のない生活は味気なく苦痛を招きます。普段の生活の中で、なすべきことを丁寧に行う。まずはこれに尽きるでしょう。それから発展して、自分が興味が持てるもの、趣味等にも取り組んでみる。そうすると意欲がみなぎり、豊かな人間関係が広がってくることでしょう。最終的に大きな夢や目標が持てるようになれば、幸せな人生を送ることができるでしょう。5 、不規則な生活態度。早寝早起きを心がけ、規則正しい生活を送ることが心身ともに健康で長生きができるコツです。同じ時間に同じ行動をとるというリズム感のある生活を心がけたいものです。6 、物事に対して悲観的な人。うつ状態になると、ネガティブで悲観的なことばかり考えるようになります。物事を先入観で悪いほうに決めつけがちになります。考えることが無茶で大げさで、論理的に飛躍しすぎています。物事を両面観で考えることができなくなっています。認識の誤りが自分を苦しめていますので、認知療法、論理療法などで考え方の過りを自覚することが必要になります。7 、感謝や感動を忘れている。人間は人の助けなしに生きていく事は出来ません。人によって生かされているわけですから、自分も何らかの面で身近な人や社会に貢献することが大切です。内観療法を受ければ、身近な人たちからいかに助けられて生きてきたかが分かり、感謝の念が湧いて来ると言います。長谷川洋三先生は、 「感謝即幸福」と言われていました。自分の身の回りの出来事から感動を受ける事はたくさん存在しています。生活の中での小さな発見、人から受けた親切、音楽や芸術、路傍に咲く花を見ても感動します。その感動は心身に好影響をもたらし、生きる勇気がもてるようになるのではないでしょうか。
2018.12.04
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宇野千代さんの「幸福の言葉」(海竜社)という本の45ページに次のような文章があった。「忙しい」というのは追いかけられるということではない。朝から晩まで、何かに追っかけられているというような気持ちで暮らすことは禁物である。いつでも、こっちから追っかけるような気持ちでいることである。それがどんな仕事であっても、仕事を追っかけていると、とても気持ちがよい。ストレスを感じるような暇がない、という状態になったら、しめたものである。今日は仕事に追われるのではなく、仕事を追いかけていくために大切なことを投稿してみたい。私は以前、多くの仕事を抱えていた。その重圧で大変なストレスを感じていた。イライラするために、人間関係にも影響が出た。胃潰瘍にもなった。仕事をすればするほど、新たな問題が出てきて、仕事が増えていたのである。森田理論学習からヒントを得て、この問題は収束に向かった。それは、今まで取るに足らない小さな仕事だと思っていたことを丁寧にこなすことだった。それまでは、雑仕事をバカにして、いい加減に取り組んでいたのだ。森田理論では、日常茶飯事、雑仕事などを丁寧に取り組んでいくということ学んだ。これを自分の仕事に応用してみようと考えたことが転機になった。ちょうどその頃、インテリアの卸会社で買掛金の支払い業務を担当していた。膨大な量の納品書や請求書を取り扱っていたのだ。メーカーの請求とわが社の仕入れ額を一致させて、支払額を確定させる仕事だった。仕入れ商品に対して、値引き交渉や返品、クレーム案件が絡むと仕入れ金額と支払い金額に乖離が生じる。そんなことが頻繁にあるため、とても面倒で難しい仕事であった。私が改善していたのは、その月の違算を次月に繰り越さないという事だった。その月の問題は、その月のうちに処理して解決すると言うことに力を入れた。その月の違算が、 次月に繰り越してしまうと、糸がからまった釣り糸のようになって、解決するのに困難を極めた。その月の違算をその月にきちんと処理することで、 余分な仕事が大幅に減った。その次に取り組んだのは、膨大な量の納品伝票をメーカー毎、日付ごとにきちんとファイルしていくことだった。こうすれば、何か問題が発生したとき、すぐに納品伝票と突合することができた。それまでは一旦処理が終わった納品伝票は、処理済みと判断して、ダンボールの中に入れていた。こうすると、違算が発生したときに、お目当ての納品伝票を探すのが一苦労であった。当然、無駄な時間を消費していた。私が仕事をしていく中で感じた事は、一枚の納品伝票をお金や宝物のように大切に取り組んでいけば、無駄な仕事を作り出さないで、ゆとりのある仕事ができるということであった。これをヒントにして、「仕事に追われる人と仕事を追いかけていく人」の違いについてまとめてみた。2013年1月12日に投稿しているので、関心のある方は参照していただきたい。ゆとりが出た分は、他で気になる仕事の改善や他人の仕事の手助けにあてた。ゆとりが生まれて精神的に楽になり、みんなからも喜ばれるようになった。会社からも仕事ぶりを評価され、昇進にも結び付き、ボーナス査定も最高評価をされるようになった。大きなプロジョクトのリーダーに抜擢されたこともある。「凡事徹底」は、こんなにも好循環が生まれてくるのである。
2018.12.03
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私はマンションの管理人の仕事をしている。その中に清掃作業がある。厄介なのは、開放廊下にあるドレンの掃除である。ドレンは側溝に溜まった水を排出するための役割を果たしている。これは金属でできており、しっかりと3点をボルトで固定されている。ドレンをきれいにするためには、基本的にはドライバーで取り外して、ゴミを取り除いてブラシをかけて水洗いするのが1番だと思う。 1カ所だけ挑戦してみたが、ボルトが固くてなかなか外れない。電動ドライバーのようなものがあれば容易に外れるかもしれないが、私が勤務しているマンションには用意されていない。ついに掃除すること諦めてしまった。ドレンは綺麗にはできないという先入観が支配していた。他のマンションで働いている管理人に相談してみたが、 「ドレンは綺麗には掃除ができない」と言われた。私も納得して見えるゴミだけをホウキで取り除いていた。しかし、髪の毛や黒いゴミが張り付いていかにも汚い。先日、ホームセンターに行くと腰のしっかりしたブラシがあった。これはドレンの掃除に使えるかもしれないと思った。このブラシとマイナスドライバーを使ってドレンにこびり付いた砂や泥を掻き出してみた。きれいに掻き出すことができた。その砂や泥は側溝用のちりとりに集めて捨てた。その後はドレンには穴が開いており、そこにもゴミがこびりついている。マイナスドライバーで押し込みピンセットで取り除くと、比較的きれいになった。億劫でめんどくさいと思っていたドレンの掃除であるが、取り組んでみると意外にうまくいって嬉しかった。その作業を見ていた居住者の方が、ゴム手袋を持ってきてくれた。そして「あなたは仕事は丁寧で細かいね」と仕事ぶりを誉めてくれた。弾みがついて、10階まで各階に4個ずつのドレンがあるが、その全てが綺麗になった。ここで得た教訓は次のようなものだった。否定的な先入観や決めつけがあるとどうしても行動が前に進まない。初心に戻ってなんとかしたいという気持ちがあれば、色々と自分でも挑戦し、人にも相談して改善し解決できるようになるのではないか。この成功体験は、次に階段の側溝の砂や泥で汚れた部分に向かった。ここも今まではホウキをかけるだけだった。くろずみがあって汚ならしかった。ここはスクレパーで隅にこびりついたゴミをはがし取る。その後水をつけたブラシで擦り、布巾で取り除くことにした。階段の側溝がピカピカに輝いた。ひとつの成功体験は、また新たな気づきや意欲を作り出し、弾みがついていたのである。
2018.12.02
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広島カープの丸選手がFA権利を行使して巨人に移籍した。これについて、 SNSでは様々な意見が飛び交っている。丸選手は2年連続で最優秀選手に選ばれたセリーグを代表するスラッガーである。広島ファンの気持ちとしては、ぜひともカープに残ってほしい。それが切なる願いだった。丸選手はいなくなると、 4連覇は厳しいのではないか。巨人に移籍すると、カープの戦力が落ちるだけでなく、巨人の戦力が格段に上がる。先日のファン感謝デーを見ても、プラカードを掲げてファンは神様に祈るような気持ちだったのだ。「ぜひ残ってくれ」という悲痛な叫びだった。これは森田理論で言う純な心だ。最初に感じる素直な気持ちだ。初一念というものだ。ところが、その気持ちは時間の経過とともに、どんどんとあらぬ方向に変化してくるようだ。丸選手が巨人に移籍したことに対する腹立たしさだ。今まで11年間カープで育ててもらったことに対してどう思っているのだ。FAは選手に与えられた権利ということは分かるが、どうしても腹立たしさが湧き上がってくる。その気持ちは球団にも向けられる。どうしてカープは、もっと積極的に丸選手の引き止めに積極的でならないのだ。広島は、 4年の契約でで17億円のオファーを出していたという。広島としては精一杯かもしれないが、ロッテは5年の長期契約で20億円を提示し、さらに将来の監督候補として処遇するという。巨人は5年の長期契約で30億円の破格の契約を提示していたという。これは絶対的エースと言われている菅野投手の今年の年俸を大きく上回るという。これでは子供が大人と相撲を取るようなものだ。カープ球団の勝ち目はほとんどない。これでは年俸がすべてのプロ野球選手が、カープに残ってくれるはずがない。来年以降もFA権取得の選手が目白押しなのに、自前で育てた選手をすみすみ移籍させてもよいのか。カープは今まで、川口投手、江藤選手、大竹投手が巨人に、金本選手、新井選手が阪神に移籍した。球団に対する恨みつらみがSNSで拡散している。また巨人に対しては、毎年他球団の有力選手がFA宣言するたびに、根こそぎ獲得に動いている。巨人はなぜドラフトで指名した選手を育てることに力を入れないのか。だから巨人に入団した若い選手は、モチベーションが高まらず、宝の持ち腐れになっているのではないのか。移籍するとしても、せめて直接対決の多い巨人よりは、ロッテを選択してほしいという投稿もある。こういう気持ちは、森田理論でいえば初二念、初三念である。素直な感情の次に湧き出てくる気持ちである。ここから出発して発言すると、丸選手、カープ球団、巨人球団などに対する不平不満、怒りなどがどんどん増悪してくる。イライラして、カープファンは精神的に不安定な状態になる。私は森田理論を学習しているので、こんな時は初心に戻ることが大切だと思っている。初一念を思い出して、その感情から改めて出発するようにしているのだ。 この方法はとても有効なのがよく分かっている。丸選手は広島にとってはとても大事な選手なのだから、ぜひとも広島に残ってほしい。それをファン感謝デーでは、球場全体で丸選手に伝えたのだ。丸選手もその願いに大きく手を挙げて応えていた。でも最終的には丸選手は熟慮の上巨人への移籍を選択した。私たちに広島ファンにとっては痛恨の極みだ。とても悲しい。このやるせない気持ちを十分に味わうことが大切なのだ。そうすると次に向かうことができるのだ。この態度でいると、割合早く自分の心が自然に癒されてくる。反対に、初一念を見逃して、初二念、初三念で対応しようとすると、丸選手やカープや巨人球団の批判ばかりを繰り返し、自分たちもみじめになるばかりである。初一念を大切にすると、新たな楽しみも出てくる。巨人からどんな選手が来てくれるのか。一岡選手のような若手の有望選手が来てくれるかもしれない。また今まで丸選手は不動のセンターだったので、他の有力選手は力はあっても出場機会がなかった。今まさに外野の選手にはチャンスだ。やっと出番がやってきたのだ。一層やる気に火がついていることだろう。誰が出てくるのかとても今から楽しみだ。丸選手は巨人で日本一のプロ野球選手になってもらいたい。その源流は広島での11年間にあったと証明してもらいたいと思っている。
2018.12.01
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