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5年前、当時の「私」が授業を公開する前に使っていたチェックリスト。・・・・・□ 子どもたちのテンションが低く、聴き合う関係ができていること。□ 教師の話は短くトーンも低く、教師自身が聴くことに専念していること。□ すばらしい発言ではなく、たどたどしい発言を大切にしていること。□ 課題の質が高く、教材に発展性があること。□ グループや個人で探究する時間が確保されていること。□ 教師が、きびしい子どもを「ケア」していること。□「もどる」きっかけや「もどり方」を、教師がていねいに与えていること。□「みんな」ではなく「その子ども」のわかり方を尊重すること。・・・・・普段の授業でも、同じことが大切であろう。最近、授業中に大声を出すことが多いので、自戒も込めて。
2013.10.31
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本校の研究の中心である「論理的思考」のモデルとなるのが、トゥールミンの論理モデルである。このモデルは、4年前に「論理科」のカリキュラム開発をスタートしたときから参考にしてきたものだが、最近の本校の研究授業を観ても、授業者自身がこのモデルを意識しているのかと不安を感じる授業が多い。もしかしたら、「主張」「根拠」「理由づけ」という言葉だけが一人歩きしているのではないか。それでは、このトゥールミンモデルを意識することができるのだろうか。わかりやすいのが、「三角ロジック」との比較である。まず、三角ロジックでは、「主張」「根拠」「理由づけ」が同等に扱われ(おそらく、この3つがそろうこと、もしくは「根拠」と「理由づけ」を区別することが大切にされているのだろう)、それぞれが線でつながれていてそれらの関係が明確でないのに対し、トゥールミンモデルでは、中心に矢印で結ばれた「根拠」と「主張」が位置付けられている。これは、「根拠」から「主張」を導き出すという思考の過程を(当たり前のことだが)明確に示している。その上で、それをつなぐもとのして「理由づけ」を加えていることがわかる。つまり、授業レベルで考えると「まず根拠を問う」ことが大切なのである。さらには、授業者が子どもの発言から「根拠を見定める」必要がある。以前、このblogでも紹介したように、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)は「『対話』で広がる子どもの学びー授業で論理力を育てる試みー」(内田伸子・鹿毛雅治・河野順子・熊本大学教育学部附属小学校著 明治図書 2012.2)の中で、「価値」「意味」「事実」による根拠づけがあると書かれているのだが、私たちはそのことをどれだけ意識し「見定める」ことができているのだろうか。実は、この「根拠を問う」ことをていねいにやっていれば、「理由づけ」が話題になり、子どもたちがこの「理由づけ」を語る必然性が生まれる。たとえば、下校の直前、雨が降りはじめたとする。すると、教室の中では「傘が必要だ」と主張する子どももいれば「傘は必要ない」という子どももいるだろう。(もちろん、大雨のときは全員「必要」というだろうが。)そんなとき、「『雨が降っている』(根拠)のに、どうして『傘は必要ない』(主張)のか」と問うたらどうだろう。「少しぐらいぬれても大丈夫」「傘をさしていると、早く移動できない」など、「理由づけ」を説明することになる。さらには、「もうすぐやむと思うから」という子どもは、その「裏付け(理由の裏付け)」まで説明することになるだろう。教師自身が「どうして」ではなく「どこから」と問うこと授業中に意識することによって、「根拠を示しながら自分の考えを主張する」子どもが育ち、話し合いの中でも「理由づけ」が検討されるようになるのである。(つづく)
2013.10.31
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以前、このblogで「授業のデザインをシンプルにできない理由」について書いた。最近、いくつかの授業を参観して、「授業のデザインをシンプルにする」以前に授業者が45分の授業に「あれも、これも」と盛り込みすぎだと感じることが多くあった。確かに、本時の課題を提示する前に前時の復習もしたくなるし、子どもたちの発言で「それも大事」ととびつきたくなるものもある。さらには、中心の活動以外にも「これもおさえておいた方がいい」と課題や発問を増やしたくなるときもあるだろう。しかし、このことによって「じっくりと考える」時間が少なくなっているとしたら「あれも、これも」と盛り込むことの弊害の方が大きい。さらには、話題が焦点化しにくくなり、話し合いも深まりにくくなる。このようなことを避けるために、次の二つのことが大切だろう。まず一つ目は、本時のねらいと照らしあわせてその活動が「本当に必要か」と吟味することである。もちろん、復習など一つ一つの活動をすることによってプラスになることもあるのだが、ここでは、それを無視する。つまり、ねらいに迫るために直接関係ないものを省いていくのである。前述した「あれも、これも大切」と盛り込んでいく授業づくりを「足し算」だとするならば、こちらの授業づくりは「引き算」である。二つ目は、その「引き算」で省いた部分を、子どもたちの「つまずき」と「発展」に位置付けることである。本時で中心になる「じっくりと考える活動」の中で、子どもたちはどんなところでつまずくのか。もしつまずくとしたら(子どもたちが気づいていない場合も含めて)「そのとき」導入の復習しようとしたところに「もどす」ことはできないのか。(こちらの方が、形式的に復習するよりずっと定着に向かうと思うのだが。)また、授業の終盤で、「わかったこと」と「わからないこと」を整理したとき、その「わからないこと」と「これもおさえておいた方がいい」と考えていたことと関係はないのか。もし、関係があるとしたら、子どもたちの思考(追究)の延長として、そのことを「新たな問い」とできないのか。こうすることで、授業は「子どもの思考」や「学びのストーリー」をイメージすることになり、授業のデザインをシンプルすることにつながるのだろう。ただ、この「あれも、これも」と「足し算で考える」ことは、授業づくりに限った教師の悪い癖ではない。学校行事などでも同じである。例えば修学旅行で「あそこも見学させたい」「こんな体験もさせたい」と計画してしまったり、運動会の競技でしこうを凝らしすぎて時間を大幅にオーバーしたり。やはり、引き算で考えるという習慣と本当に大切なものを見極める力を教師が身につける必要があるのだろう。
2013.10.30
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前回のblogの続き。学部4年生の講義「教職実践演習」で「幼児・児童・生徒理解について、学級経営について」というテーマで話をしたときのプレゼン。(最終回)・・・・・「みえているのは子どもの一部分だと自覚して子どもを理解しようとする」そして「学び続ける教師に」。今、私が学級経営で心がけているのは次のことです。最後にもう一つ、大村はまさんの「ことば」を紹介します。学習指導も生活指導も「子どもの事実」をみることからスタートすることが大切です。また、教師(大人)の学びも、子どもの学びと同じです。みなさんが卒業し現場に出たときは、あわてず、ときには立ち止まりながら、そして、最後までもがきながら成長し続けてくれることを期待しています。
2013.10.26
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前回のblogの続き。講義「教職実践演習」で「幼児・児童・生徒理解について、学級経営について」というテーマで話をしたときのプレゼン。・・・・・私にみえているのは子どもの一部分だということを自覚し、「いい誤解」を前提にして子どもを理解しようとする。そのために参考になる大村はまさんの「ことば」をいくつか紹介します。「ゴールは同時ではない。」当たり前のことですが、「オクラ事件」や「モンシロチョウ事件」などのように、教師が「私がなんとかする」と思っているとき、当たり前ではなくなってしまうのでしょう。また、「ゴールは同時でなくてもよい」だけでなく「ゴールが同時でないからよい」と感じることもあります。「ゆっくり」進む子どもがいるからこそ、他の子どもたちが「わかり直す」ことができるのです。私も、7年前の理科の授業で、そのことを実感することができました。6年「生物と環境」で「バランスドアクアリウムのひみつを探る」という授業。「バランスドアクアリウム」とは、ろ過装置やエア・ポンプを使わず、水槽内の生物と植物のバランス・物質の循環により水槽内の環境を保つアクアリウムです。その追究の中で、「どうしてバランスドアクアリウムは水替えをしなくてよいのか」ということが話題になり、一人の子どもが次のように発言しました。「『硝酸塩』って、どんなものかわからない。資料を読めば読むほどわからなくなる。」このことに、あまり疑問を感じていないグループもあったのですが、あらためて話題に上げると、うまく説明することができません。図書館の資料から「アンモニアがバクテリアに分解されて硝酸塩になる」ということを知り「わかったつもり」になっているたのです。しばらくすると、子どもたちはバクテリアのはたらきを表した図に硝酸塩という言葉の下に書かれている「矢印」に着目し始めます。「『硝酸塩』って何に使われるのかなと思ったら、矢印が書いてあって、硝酸塩が植物の養分になるんじゃないかなて思いました。」「前調べたとき、アンモニアをバクテリアが分解して植物の栄養にするって書いてあったよ。」「ぼくが調べたものには、植物は、栄養として『硝酸塩』を吸収しているとも書いてありました。」そこで、「水草に吸収されていることは確かのようですね」と確認し、もう一度グループで話し合わせます。「根の方に向かっているから、やっぱり水草に吸収されているのかな。」「毒じゃないのかな。」「無害なのかな。」「栄養じゃないの?」「でも、植物は、光合成して養分を作っているんじゃなかったかな。」「5年生でインゲンマメを育てたとき、肥料が必要だったよ。」「それじゃあ、水草の肥料なのかもしれない。」「根から吸収されていることも関係あるかもしれない。」「肥料だった説明しやすいかも。」「水草が取り入れて、くり返されている?回ってる?」またまた、解決できなかったわけではありませんでしたが、アクアリウム内のつながりについて「わかり直し」を促し認識を深めることができたと考えています。この授業後、授業を参観いただいていた先生から、「硝酸塩」にこだわった子どもが同じ班の子どもに次のように話していたことを教えてもらいました。「私、授業をかきまぜちゃったかな?」自分が硝酸塩にこだわってしまって、みんなを混乱させたかもしれないと心配したのでしょう。それを聞いた子どもが、次のように話していたそうです。「あなたは”なぜ”を大切にしたから、とってもよかったよ。」こんな子どもの「ことば」を、自分自身で見つけることができるようになりたいと思っています。もっともっと私自身が成長することが必要なのでしょう。大村はまさんは、次のように書かれています。ぜひ、みなさんも「学び続ける教師に」「学び続ける社会人に」なってほしいと思っています。(つづく)
2013.10.26
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前回のblogの続き。学部4年生の「教職実践演習」の講義。「幼児・児童・生徒理解について、学級経営について」というテーマで話をしたときのプレゼンの一部を紹介する。・・・・・ 子どもを理解しようとするとき「いい誤解」を前提にする。この話をするとき、いつも思い出すことがあります。それは、私が中一のときに亡くなった父のことです。私の父は、中学の国語教師でしたが、生徒指導や部活も担当していたので、毎日家に帰るのも遅く、土日もほとんど家にいませんでした。でも、たまに話す時間があると「学校はどうだ」「部活はがんばっているか」など声をかけてくれました。そのときの私は、そんな父の姿から「忙しいけれどいつも私のことも見てくれている」と思っていたのでしょう。ですから、勉強も部活もがんばらなくてはと思っていました。また父も母から聞いたのでしょうか、私が話していないことでも「部活でレギュラーになったそうだね」とか「ギターが欲しいんだって?」と話しかけてくれました。しかし今思えば、これも「いい誤解」だったのでしょう。私自身、働きだして、そして、子どももできて思うことですが、仕事をしている間一時も自分の家族のことを忘れないということは、まずないということです。家に帰っても、仕事のことで頭の中がいっぱいのときもありますし・・・。私が本格的な反抗期に入る前に死別しましたので、このような「いい誤解」を前提とした父と私の関係が保たれていたのでしょう。今、学級の子どもたちとも、このような関係ができればと思っています。このことと、直接関係があるかどうかわかりませんが、ここで大村はまさんの「ことば」を紹介します。(つづく)
2013.10.25
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前回のblogの続き。学部4年生向け「教職実践演習」の講義で「幼児・児童・生徒理解について、学級経営について」というテーマで話をしたときのプレゼン。・・・・・「子どもを理解する」ために取り組んだことの1つに、授業リフレクションがあります。7年前に慶應義塾大学の鹿毛雅治先生に教えていただいたのですが、はじめは、同じ学年の同僚の先生と二人ではじめました。(今では、この授業リフレクションは、附属小の校内研究の大きな柱の1つになっています。)週に一度、お互いの授業をビデオで撮り、そのビデオを放課後いっしょに見て気付いたことを指摘し合う程度のものでしたが、その中でたくさんの驚き発見がありました。特に、授業リフレクションをはじめたばかりの2つの出来事をいつも思い出しますし、今の私を支えています。一つ目は「オクラ事件」。3年生の理科ではオクラを育てることになっていたのですが、子どもたちの栽培に対する関心を高めるために、スーパーで売られているオクラの実を一人に一個ずつ用意しました。これから半年かけて植物の成長を学習することもあり、実の不思議さを実感させるために「まず、形をよく見て」「次に、指で触った感じは」「においも」「振ったときの音は」「最後に、ハサミで実を切り、中の様子も観察しよう」と指示する予定でした。オクラの実を切ると、中から白い種がたくさん出てきますが、最後には「白い粒は、オクラの種でしょうか」という質問も考えていましていました。子どもたちには「指示があるまでオクラの実を机の上に置いておくように」と声をかけ、一班から順に配りました。すべての班にオクラの実を配り終えた直後、いざ子どもたちに指示しようとしたとき、一班の一人の子どもが、なんと、定規を包丁の代わりにし、つい先程配ったオクラの実を切り刻んでいます。もちろん、私は大きな声で注意をし、無残な姿になったオクラの実を取り上げました。しかし、授業後にビデオを見ると、そこに映っていたのは授業中に私が見たものとは全く異なるものであした。私が大声で注意した子どもは、私がだらだらと余計なおしゃべりをしながらオクラを配っている間に、一番にオクラの実を取り上げ、いろいろな方向に実を持ちかえながら、真っ先に「形」を観察。隣の友達に「五角形」「ロケット」と話しかけている声がビデオの中に。次に「毛、毛」とつぶやきながら実の表面を触り、においを嗅いで変な顔をします。そして、実を耳の横に持っていって振り「中に何か入っている」と実を定規で切る。なんと、私がだらだらと余計な指示をしながらオクラの実を配っていたわずかな間に、私がしてほしかったことの全てを、私が予定していた順に終えていたのです。その最後の場面だけを目撃し「教師の思いもわからない、自分勝手な子ども」と決めつけてしまった私。ビデオには「オクラの種は黒くない」というつぶやきも写っていました。二つ目は「モンシロチョウ事件」。この出来事は「オクラ事件」の二週間後に起こります。同じ理科の授業でモンシロチョウのたまごを観察していたときのこと。授業がはじまって約二十分が経ったとき、観察の途中にだいすけくんが嘔吐してしまいました。連休明けの疲れと急に暑くなったこともあり、体調を崩す子どもも多く、私自身、もっと子どもたちの様子に気をつけておけばよかったと反省しました。子どもたちにとって、昆虫の飼育や観察は興味のあることであり、きつい中にもがんばって観察していたのだと思いました。その日の放課後、この授業のビデオを見ると、そこには授業のはじめから顔色が悪く、何度もおなかを押さえて苦しそうな表情をするだいすけくんが映っています。そして、「やっぱり。どうして気づいてやれなかったのだろう」と思った瞬間、なんと、私は「だいすけくん、大丈夫?」と声をかけているではないですか。それも、二回も。二回目に「大丈夫か」と声をかけてしばらくして、だいすけくんは我慢しきれなくなって吐いていたのです。「気づかな かった」のではなく「気づいていたけれど忘れていた」のでした。そのときの私にとって、子どもの体調より、それほど授業の進行の方が大切だったのでしょう。朝早くからキャベツ畑に出かけ、何とか集めることができた二十個のたまごの方が大切だったのです。 この2つの出来事から、私に見えているのは子どもの一部であるということを痛感しました。その一部も、私の都合という色眼鏡越しに見えているもの。もちろん、この見えている部分を広げる努力は必要ですが、子どもを理解するために次のことが大切だと考えています。まず、複数の目で子どもを見ること。もし、同僚に先生に授業を観てもらっていなければ、2つの出来事に気付くことはできなかったでしょう。保護者も含めていろいろな立場の人といっしょに子どもを見ることがさらによいでしょう。さらに、自分にみえている子どもの姿は一部だと自覚するならば、できるだけ「いい誤解」を前提に子どもを理解しようとすることが必要でしょう。先ほどの「オクラ事件」は、オクラを切り刻んでいた子どもに対して、それまでの学習や生活の態度(これも私の色眼鏡を通してみた一部でしかないのですが)から「悪い誤解」をしていたことから起きたことなのです。(つづく)
2013.10.25
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今日、学部の4年生に話をする機会があった。「教職実践演習」の講義で、テーマは「幼児・児童・生徒理解について、学級経営について」というもの。せっかくなので「何か工夫を」と思い、大村はまの「灯し続けることば」(小学館)をもとにプレゼンをつくる。今回、その一部を紹介したい。・・・・・2年次、3年次、4年次の教育実習を終え、そして、採用試験などの就職活動もだいたい終わり、卒業を半年後に控えた今、いよいよ社会人・教師になろうとしている今、みなさんは、次のような意気込みをもていることでしょう。しかし、国語教育の実践で有名な故・大村はま先生は、著者「灯し続けることば」の中で、次のように書いています。これは、「教育に愛情や情熱が必要ない」といっているのではありません。「熱心なのは当たり前だ」といっておられるのでしょう。「せっかく4月からがんばろうと思っているのに」とがっかりする人もいることでしょう。そこで、今日は「教師として、社会人として」どのように仕事に向き合っていけば、一緒に考えていければと思います。まずは、私自身が「熱心と愛情だけで」がんばっていた頃の失敗談から。今は小学校に勤めていますが、採用されたのは中学校でした。熊本市内の中規模校で、それなりに学習指導も生徒指導も大変な学校でした。そんな中、3年目には3年生の担任と野球部の顧問を任され、「がむしゃらにがんばってきた」という自信もあったのでしょう。他校とのトラブルなどでは、いつも先生方の先頭にいました。そんなときに、担当していた野球部のエースが、朝、学校の近くまで自転車に乗って登校するのを見つけます。その学校は、全員が徒歩通学だったので、いわゆる「やみチャリ」だったのです。学校の近くに隠そうとした自転車とともに、その子どもを学校までつれていったのだが、そのとき思わず自転車を乱暴に扱ってしまい、スポークが少し曲がってしまいました。そのときは「保護者からクレームがきても、しかっりと自分の熱い気持ちを伝える」と意気込み、しばらくの間、自転車を学校で預かることにしました。しかし、なんとその自転車は「盗難車」で、後日、警察にスポークが曲がった理由を説明することに・・・。そんな私も、少しずつ成長することができたのでしょうか。7年目にはじめて小学校に赴任し3年生担任したのですが、そこに登校を渋り全学年から休みがちな子どもが二人いました。1時間目や2時間目に授業を教頭先生にお願いし、家庭訪問をすることもありました。そこで、追っかけっこすることもあったのですが、なかなか「変化」は見られませんでした。そこで、私の通勤途中に二人の子どもの家があったこともあり、少し早く家を出て、毎日2軒に立ち寄ることにしました。そこでやったことは2つ。まず、玄関のチャイムを鳴らしあいさつをして、しばらくの間家の人と雑談をする。その後「学校で待ってね」と伝え家を出る、というもの。「毎朝家庭訪問をする」と覚悟を決め焦りがなくなったからでしょうか、子どもとも保護者とも(追いかけっこしていたときと比べると)自然な雰囲気で話すことができるようになりました。その後、なぜか二人とも自分から登校できるようになったのです。このことから、当時の私は、次のようなことを学びました。つまり、子どもを動かそうとするとき、「教師である私の力で何とかする」のではなく「子どもと保護者を理解しようとする」「子どもや保護者といっしょに悩む」ことが大切だということだと考えます。(つづく)
2013.10.23
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前回のblogの続き。2年前の本校の紀要の冒頭で、平田オリザさん(劇作家)の「対話のレッスン」(小学館 2001)の中の「ことば」を紹介し、「対話」という「ことば」は使っていないものの、「対話」について私は次のように書いている。・・・・・ 私とあなたは違うということ。 私とあなたは違う言葉を話しているということ。 私は,あなたが分からないということ。 私が大事にしていることを,あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。 そして,それでも私たちは,理解し合える部分を少しずつ増やし,広げて,ひとつの社会の中で生きていかなければならないということ。 そしてさらに,そのことは決して苦痛なことではなく,差異のなかに喜びを見いだす方法も,きっとあるということ。 ・・・ 平田オリザ「対話のレッスン」より 子どもたちが,これから生きる社会は知識基盤社会である。 これからの社会では,国際化・情報化が一層進み,新しい知識や技術が絶え間なく生まれる。そんな中で,獲得する知識は更新が可能なものでなければならず,柔軟な思考や判断も一層重要になるだろう。つまり,多種多様な情報や様々な人々とのかかわりの中で,知識を獲得し,常により質の高い知識につくり替えていくことが求められているのである。 しかし,多様な考え方をもつ人々とのかかわりを求めるとき,そのコミュニケーションは容易ではなく,「伝わらない」ということからスタートしなければならない。「どのように相手に説明すればよいのだろうか。」「どのように相手を理解すればよいのだろうか。」「どのように自分を振り返り,成長させていけばよいのだろうか。」 日々の授業の中で,このことを問い続ける子どもたちを育てていきたい。・・・・・前回のblogを書いたあとに読み返すと、後半の「どのように相手を理解すればいいだろうか」が言い過ぎている感じがする。「どのように相手の理解できる部分を探せばよいのだろうか」ぐらいでいいのでは、と考えてしまうのだが。また、「様々な人とのかかわり」も、大きすぎるのではないか。前回のblogで書いたように「『社交的な』かかわり」ぐらいでいいのではないか。このように書くと、「対話」を粗末に扱っているようにも見えるのだが、本気で子どもたちの中に「対話」を生もうとしたとき、このくらい思い切った見直しと分析が必要である。(つづく)
2013.10.22
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本校の研究は、子ども同士の「対話」がキーワードである。これまで、その「対話」を定義する(明確にする)ために、参考文献を読んだり「話し合い」「議論」「ディベート」とその意味を比べたりしたこともあった。しかし、その中で「『対話』は特別なものであり、他のコミュニケーションよりレベルが高い」と、勝手に思い込んではいなかったか。先日、「論理科」カリキュラム開発をスタートさせたときに参考にした平田オリザさん(劇作家)の「てねいなのに伝わらない『話せばわかる』症候群」(北川達夫,平田オリザ 日本経済新聞出版社 2013.1)を読んだのだが、その中に次のように書かれていた。・・・・ ぼくはよく、コミュニケーション観の転換が必要だという話のときに、これからの社会のキーフレーズは「『協調性から社交性へ』です」って言うんですけども、社交性というのは「人間同士はわかり合えない、わかり合えない人間同士だけども、どうにか共有できる部分を見つけて、それを広げてなんとかうまくやっていけばいいんじゃないか」という考え方を基本的とするものだと思っています。 でも、「社交性」という概念は、これまでの日本社会では、「うわべだけの付き合い」とか、「表面上の交際」と言われてマイナスのイメージだったんですね。大人の社会でも学校教育のなかでも、「心からわかり合おうとするものでなければほんとうのコミュニケーションとはいえない」「心からわかり合える人間関係をつくりなさい」と教え育てられている。それが実は、子どもたち、若い世代の人たちに相当なプレッシャーを与えてきているのではないか。・・・・・つまり、「対話」に必要なのは「協調性」ではなくて「社交性」であるということだろう。もしかしたら、「対話」とは高尚なものであり子どもたちの人間関係や人間性まで育てる必要があると(教師のまじめさから)考えていたのではないか。以前、「学びの共同体」に取り組むある学校の校長先生から「グループ(席)はできるだけ短い期間で替えた方がいい」と話を聞いたことがある。おそらく「だれとでも心からわかり合える」ということをめざしているわけではないのであろう。(つづく)
2013.10.22
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先日のblogで書いた「どうして『論理科』で考える子どもが育ったのか」に、フェイスブックで無藤隆先生(白梅学園大学)からコメントをいただいた。その後のやりとりもあわせて紹介する。・・・・・無藤先生)確かに論理科が目指したものがある程度成果を挙げたように思えます。しかし、その狙いは当たり前のことです。どんな教科でもやるべきことでしょう。そこをぜひ実現していってほしいですね。私)ありがとうございます。カリキュラム開発に取り組んでいる途中にも「論理科」でなくてもできるのではないか、という指摘もありましたし、私たちも何か特別なことをやっているという意識はありませんでした。だからこそ、研究開発が終わっても、全ての教科等でやらなければいけないことが明確になっているはずだったのですが。研究開発が終わって1年半。残念ながら、どうして「論理科」ではある程度上手くいったのか、整理する必要がある状況です。無藤先生)既に学習指導要領の改訂の方向性が議論されています。論理科はそのデータの一つですが、私はやや狭いと思います。筋道だった考えと表し方をすべての教科に共通にする(総合で強調する)ことと、教科固有の内容としてのモデルとの並行と関連づけが必要でしょう。私)研究開発の3年目には、各教科等の関連を明確にするために「論理科」に3つの領域を設定しました。(それまでの2年間の実践を、思考の仕方で分類したのですが)読解を中心とする「芸術」、複数の根拠から科学的推論をすることを中心とした「科学」、いくつかの主張を比較し判断、意思決定する「くらし」です。この3つをベースに、各教科等との関連を明確にし横断的なカリキュラムの試案づくりまでは何とかしたいと思っていたのですが、そこまでたどり着くことができず、報告書や図書ではこのことを強調することができませんでした。研究開発後の研究はこのことを中心にするつもりだったのですが、個々の授業の充実に追われてしまっています。やはり、研究開発などがなければ、カリキュラム開発は難しいようです。無藤先生)カリキュラム開発と授業の充実とが分かれるところが私には分からないのですよ。論理科でいっていることが関係ない教科などありませんよね。だったら、個々の授業で論理科で目指すところを実現していこうというのでやれないものなのですか。またそこから分かってきたことを教科横断的に整理できないのですか。私)そうですね。「論理科」で目指したこととおおまかな授業づくりのポイントを確認し、授業実践を積み重ねることが必要ですね。あと必要なことは、それらの実践を整理する観点でしょうか。今のところ、トゥールミンモデルと発達段階によるコミュニケーション様式だと考えているのですが。無藤先生)ぜひそこに「モデル的思考」を入れて下さい。参考文献は文科省の会合の資料にあります。・・・・・確かに、「論理科」も、まずはとりあえず(?)実践を重ね、2年目からはそれらの実践を整理することによってカリキュラムをつくった。実践を並べることによって見えてくるものがある。「論理科」のカリキュラム開発が終わって1年半。今、立ち止まって「論理科」を振り返るとともに、「論理科」後の授業実践を整理する時期なのだろう。
2013.10.17
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石井順治先生(東海国語教育を学ぶ会顧問)は、「学びのたより」(東海国語教育を学ぶ会のHPでダウンロードできる)に「読みの深まり(学びのジャンプ)を仕かける」というタイトルで次のように書かれている。・・・・・ 読みの深まり(学びのジャンプ)を仕掛けるために大切なことはどういうことかについて。 まず、数学・算数のように、授業前から「ジャンプ問題」を用意しておいて、それを子どもに提示するというやり方は、文学の授業の場合そぐわないということです。読むのは子どもです。ですから、その子どもの読みに教師は寄り添いながら、深まりを探っていかなければなりません。ということは、授業のその場になって、子どもとともに読む中で、判断することになるということです。 子どもはどこまで読めるか、もちろん子どもによって個人差がありますから、それも勘定して判断するのです。そして、授業の後半、もうほぼ読めていくことをくどくどやっても、手を変え品を変えして時間をつぶしても、子どもの読みは深まらないということを自覚しなければなりません。 そして、そこから、何が読めていないのか、それは、教師の読みをわからせるということではなく、テキストに触れることによる子どもの読みの可能性を見定めるということになります。いまどういう状態かからその先をみることになるのです。そのとき、必要なのが、教師の読みの力です。テキストが読めない人にはそれを見つけることはできません。子どもが見えている人、そしてテキストが読める人が、深まりのきっかけを見つけることができるのです。 次に、授業しながらそのことに気づいたとしましょう。そこから考えなければいけないのは、それをどういうふうに子どもの中に持ち込むのかということです。どう問いかけるか、そこで、テキストの文章に触れさせる音読をどう入れるか、ペアを入れるのか、一人で考えさせるのか、書かせるのか、どうすれば、子どもがインパクトを持ってそれを受けとめられるのか、その判断をするのです。・・・・・国語の読みに関することであるが、理科においても、観察・実験の結果から推論することにより概念的な理解を深めるような学習には同じことがいえる。授業前に、何かを用意するということではなく、授業中の教師の「判断」が一番大切だということだろう。もちろん、何もしなくてよいというわけではなく、授業前は、その「判断」をより適切なものにするための「準備」が必要なのである。子どもの学びの可能性を見定めるための準備。その上で、学びのジャンプをしかけるための準備。おそらく、事前に模擬授業を繰り返すというレベルのものではないのだろう。
2013.10.17
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先日、このblogで「カブトムシの頭・胸・腹は?」を書いた。このことに直接関係はないものの、無藤隆先生(白梅学園大学)のフェイスブックに次のような記事(近況)があったので紹介したい。・・・・・学校での体験活動と分類行為生活科での植物の分類の授業へのコメントから。 <分類することの意味> ・中学年くらいになると,すべての物を分類したくなり,分類しつくす面白さを感じるようになる。個別の特徴から,全てを覆う属性を作ること(例えばアンコを使っているのは「和菓子」,バターを使っているのは「洋菓子」など)は現実にないものまで分類できるようになり,予測につながっていく。 ・幼稚園の子と遊んで楽しかったというときにも,楽しかったにもいろいろあるよねと返すと,「幼児が喜んでいたので楽しかった」「自分が遊んで楽しかった」などいろいろ出てきた。こういう発見の中身で分けていけると良いのではないか。・科学の場合,椅子は家具であるという階層的な概念化よりもむしろ,椅子にはどういうものがあるのか,座る機能として重要なのはどういうことか(足があって平たい板と背もたれがあるなど)を知ることが重要である。生物は,足が6本あれば「昆虫」など,ある意味では無理やり約束を作って分類しており,そうであっても、そういった分類の約束を教えるのが学校教育である。それには素朴な段階もあって,物の個性に属した機能や特徴を知ると良い。 ・12年間のカリキュラムを考えると,中学の生物はまさに分類。それもあって今回取り上げているというのもある。 <体験することの意味> ・中学校や高校の理科がゴールではない。はっきりいって植物が根や茎に分かれることを知るのは大したことではない。特に学校教育の中の理科は分かりやすい所だけを取り出していて例えばキノコのような植物とも動物とも言い難いものは取り扱っていない),大学1年を越えるとぐっと内容が変わる。今回の授業で子どもが出した「きゅうりの手触りはベタベタしてい」という発見についても,どうしてなのかを考えるとものすごく難しい。日常には素朴な体験レベルの発見がたくさんあって,そういう体験が実は重要である。学校教育ではそういうことは扱わず,ある限界の中で授業をしているのだということを教師側は自覚しておくことが大切である。 ・中学や高校の内容から下に下ろしていくと,下に行くほど分かりやすく簡単になりやすいが,実際の「体験」はこのように複雑でややこしいものである。子どもが関心を持つことは高校までの理科では扱えないものであり,何でも生活に戻していけばいいというものではない。体験を学校教育の枠の中で決めてしまうとつまらないし,教科として取り出している内容と日々の体験とを組み合わせるのは実際にはとても難しい。取り出しつつ,生活の中との結びつきを考えて,新しい文脈を考えるといいのではないか。例えば中学年くらいからは,生活から離れたことに飛躍できるようになる。「世界一○○な人」といった実際にはあまり意味のないことへの「ギネスブック的関心」が出てくる。歴史なども,自分には直接関係ないけれども好奇心を持つようになり,文脈から離れたことにも関心を向けるようになる。生活の中から出てきた疑問と,生活と無関係に出てくることをどうつなげるかが課題になる。 ・不思議なことは「不思議ね」で置いておくとしても,不思議さを経験し,それに気づくことが大切である。それが科学的発見につながっていく。生活科では,経験ベースの分類と,多様なその子なりの気づきを引き出すことが大事で,単なる学校教育のカリキュラムに落とし込まないほうがいい。むしろ中学年以降の何にでも興味を持つところに落とし込んでいく。・・・・・「6本のあしがついている部分が胸」というのも、無理矢理つくった約束なのだろう。「ある限界の中で授業している」ということ、「日常には素朴な体験レベルの発見がたくさんあって,そういう体験が実は重要である」こと、「不思議さを経験し,それに気づくことが大切である」こと。しっかりと自覚したい。
2013.10.16
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あらためて「『対話』で広がる子どもの学び−授業で論理力を育てる試み−」(内田伸子・鹿毛雅治・河野順子・熊本大学教育学部附属小学校著 明治図書 2012.2)を読み返すと、内田伸子先生(筑波大学監事、お茶の水女子大学名誉教授)に本校の取り組みを次のように評価していだたいていた。・・・・・ 熊小の論理科開発は大きな実りをもたらしました。熊小の先生方は原口淳一研究部長のもとに連携協同して論理科カリキュラムの開発と実践に取り組んできました。熊小論理科の特徴は、【タイプ1】、すなわち、妥当な論拠を挙げて検証するスタイルを教える教育と、【タイプ2】、教科横断的に応用する教育を車の両輪として日本の学力低下の課題である、論理力・記述力の育成に大きな成果を上げたと評価できます。・・・・・確かに、当時、授業をしていた私たちも子どもの変容を実感することが多かった。子どもたちが「自ら」「どこから」と友達の考えの根拠を尋ねたり、比較したり、メリット・デメリットを考え表に整理したり。また、友達の考えを聞き「それだったら」や「もしそうだとすると」と相手の意図を理解し発言しようとする子どもも多かった。さらには、社会などで「インターネットの掲示板に書かれていたことだから本当かどうかわからないけど」といいながら調べてきた資料を紹介する姿もあった。(私の授業で「塾で習ったことだから確かではないんだけど」といった子どももいた。)今振り返ると、これらは「論理科」の成果であろう。それでは、どうして「論理科」に取り組むことによってすべてのクラスで考える子どもが育ったのか。まず、「論理科」の授業の直接的な効果。その中でも、「課題の質」と「授業の流れ」が挙げられるだろう。課題は、学年ごとに検討するとともに、毎週、互いの授業を見合って修正・改善したものであるから、ある程度「質」が高くクラスごとの差もなかった。また、45分の授業の中で、「書く」時間、グループで話し合う時間は必ず確保された。次に、座席の形態の変化。「論理科」をスタートさせた1年目のうちに、すべてのクラスの座席が「コの字型」になった。グループも男女混合の4人組で、同姓が対角になる「市松模様」に配置した。多くのクラスが、他の教科等の授業でもこの形態になった。さらに、教師自信の意識の変化。これには二つあって、まず一つ目はすべての教科等で「根拠を問う、示す」ことの重要性を認識したこと。「どうしてそう考えたのか」ではなく「どこから考えたのか」と問い返すことが多くなった。そして、国語の授業では、教科書の拡大コピーを用意し、その「どこか」を示すことに心がけた。そのため、子どもたちも自然に「何ページの何行目から」と根拠となる部分を明確にして発言するようになった。他教科でも、作品や資料を拡大したものを準備することが多くなった。二つ目に、板書は一人一人の考えを可視化することが大切だと認識したこと。多くのクラスで、ネームプレートを使い、キーワードでなく「語り」そのものを可視化するようにした。最後に、互いの授業を見合ったこと。カリキュラムの開発ということもあり、週二回は授業を見合い、授業後もビデオを使ってリフレクションの時間を設定した。カリキュラムや指導法の評価、修正・改善が目的だったものの、それ以上に、目の前の子どもの事実をていねいにみること、そして、細やかな教師の技を共有することに効果があった。きちんと分析すれば、まだまだ挙げることができるだろう。しかし、このように振り返ってみると、週1〜2回の「論理科」の授業以外のものが多く挙げられることが分かる。ならば、「論理科」の授業、カリキュラムの開発が終わっても、「よく考える」子どもはどのクラスでも育っていなければならない。私は最近「もの足りなさ」と「不安」を感じるのだが、もし本当にすべてのクラスで「よく考える子ども」が育っていないのならば、早急に日々の授業を見直す必要があるだろう。「論理科」がなくなったことをいいわけにはできない。
2013.10.16
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前提となる事実や考えを疑う。そして、論の飛躍やねじれを指摘する。つまり、情報の真偽性や主張の妥当性を問うこと。このことは「批判的思考」といえるだろうし、一昨年まで取り組んだ「論理科」カリキュラム開発でも大切にしてきたことである。しかしながら、授業研究会で実践の説明のときに「文句(批判?)」が羅列されることがある。「学習指導要領にはこう書かれているけど、現状は上手くいっていない」「これまでの数年間こういう取り組みをしてきたが、あまり成果はなく、こういう問題点があった」「子どもたちは、なかなかこういうふうにならない」など。(このような文句に共通するのが、具体的でないことであろう。)問題点や課題を指摘することは大切なことであるが、そこに「目的意識」が欠けると単なる文句(批判)である。その目的を達成するために、それらの取り組みの成果はあったのかどうか。課題が残ったなら、その原因は何か。その課題を解決した方がいいのか、取り組みそのものを変更したがよいのか。そのときのメリット・デメリットは何か。さらには、情報が発信された背景や意図を、さまざまな資料から解釈する必要もあろう。理科でも「言語活動の充実」が求められているが、「これまでもやってきた」という反論がある。話し合いやレポートなどの言語活動を取り入れてきたことは確かであるが、では、なぜさらに「言語活動の充実」が求められるのか。これまで通りの「言語活動」でいいのか。改善するのは「言語活動」だけでよいのか。など。子どもの学びも同じだろう。「『対話』で広がる子どもの学び−授業で論理力を育てる試み−」(内田伸子・鹿毛雅治・河野順子・熊本大学教育学部附属小学校著 明治図書 2012.2)の「Q&A」で、私は次のように書いている。・・・・・Q3:なぜ、小学校から「論理科」が必要なのですか? A: 本来、子どもたちは「論理的」です。普段の子どもたち同士の会話の中にも「論理的」に考えている姿を見ることができます。 「今日の昼休みは、いっしょに運動場でサッカーをして遊ぶか、図書館に行って本を読もうよ。」「じゃあ、図書館に行こうよ。」「どうして?」「だって、朝の天気予報では昼ごろから雨だって言ってたもん。」「だったら、図書館にしか行けないね。」 これは、低学年の子どもたちの何気ない会話ですが、「雨が降る」という事実から、「外で遊ぶことができない」という結論を見出すとともに、このことを根拠に「図書館に行く」ことを選んでいることが分かります。 つまり、小学校の段階から「論理的に考えることのよさ」や「相手に分かりやすく説明する方法」を学ぶことは、十分に可能なのです。それとともに、低学年のうちから、ものを比較したり分類したりしながら、じっくりと「みて」、根拠を示しながら自分の考えを「語る」ことを経験させることが必要だと考えています。 また、高学年の社会や理科などの学習では、推論をしたり多面的に考えたりする力を育成することが求められています。ですから、小学校から「論理科」で学ぶことは効果的ですし、より高度な読解や考察が必要な中学校での学習につながるのです。 Q4:1年間の取り組みの中で、子どもたちにどのような変容がありましたか? A: まず、「友達の話にしっかりと耳を傾ける」姿を多く見ることができるようになっています。授業中の話し合いの中でも、単に自分の考えを発表するだけではなく、「それだったら」とか「もしそうだとしても」と友達の発言の意図を理解した発言が多くなりました。相手の話を聴こうとするともに、相手の話がよく分かるようになってきたということでしょう。 また、多くの子どもたちが「なぜ、そのことが必要なの」とか「どうしてそのように考えたの」と理由を問い返すことができるようになっています。このことは、「理由と主張」や「原因と結果」などのつながりを明確にして考えることの大切さを、子どもたちが実感してき結果だと考えています。どの教科等においても、じっくりと考え、物事の本質や作品の意図やよさを探究しようとする子どもの姿を見ることがでています。 さらに、国語だけでなく全ての教科等の授業で「ことば」に敏感になってきたことも子どもの変容としてあげることができます。何かを表現しようとするとき、「ことば」の使い方や「ことば」そのものの違いが話し合いの話題に上がることが増えています。・・・・・当たり前のことだが、「批判的思考」とは単に批判することではなく、「問題解決や判断のため」に「多面的、客観的に」そして「内省的に」はたらくものである。
2013.10.15
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このblogでも書いたが、今年も「夏休みに毎年参加する研究会」に参加し、11月1日の別府市立青山小学校の公開研究会にも参加する予定である。私は、いわゆるリピーターなのだろうが、こういう研究会に1、2回参加し、その後ぱったり参加しなくなる人もいる。物理的に無理な場合や他の研究会にどんどん足を運んでいるという場合もあるのだろうが、その学ぶ姿勢が心配になることもある。(「余計なお世話」なのだが。)もちろん、1回参加しただけでも学ぶことはあるだろう。しかし、「わかったつもり」になり思考停止状態になってはいないか。自分自身でこれ以上インプットする必要がないと決めつけてはいないだろうか。もしくは、「そこまでしなくても」と考えているのではないか。しかし、教師としてインプットし続けることや試行錯誤し続けることは必要不可欠である。授業は複雑な状況と関係の中で成り立つものであり、「これでよい」ということは最後までないのだろう。また、日々変化する子どもの事実を見取りはぐくむためには、教師自身の成長が必要である。だからこそ、「学び続ける教師」という「ことば」がキーワードになるのだろう。7年前に、同僚の先生と二人で授業リフレクションをはじめたとき、「みえると思った瞬間、みえなくなる」が合言葉(?)であった。「わかった」と思った瞬間、「本当にわかる」ことから遠ざかるのだろう。
2013.10.14
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本棚を整理していると以前買った「イチローの流儀」(小西慶三 新潮文庫 2009)を見つけた。パラパラめくっていると、・・・・・ ここでは”同じリズムで繰り返す”ことに意味がある。単純な一連の動きの中に自分を投じることにより、余計なことを考えない状況をつくるのだ。・・・・・昨年放送されたNHKのプロフェッショナル「イチロースペシャル2012」もたまたま観たのだが、家を出るときからバッターボックスに立つまで、100以上のチェック項目があるそうだ。おそらく、同じリズムを繰り返すことによって、調子がよいときと悪いときの微妙な体の違い(ブレ?)に気付きやすくなるのだろう。よく上手くいったときのことを分析しないまま「験を担ぐ」ことがあるが、全く次元が違う。さらには、引用にもあるように「余計なことを考えない状況をつくる」ためというのは納得することができる。前の日や朝のうちに、その日にやること(to do リスト)をつくると、その後の時間を有効に使うことができる。「今から何をするか」をいちいち悩まないでいいからだろう。私の場合、毎年繰り返す行事などについても同じである。日程や段取りなど、大きな問題がない限り、前の年と同じにすることを大切にしている。そのほうが中身に集中することができる。また、途中で改善すべき点がみえるときがあるが、いったん計画がスタートしたら、その計画通りに進むほうが、そのたびに悩むよりは結果的に効率がよい。特に、学校全体で取り組むときは、職員同士の議論を「本当に必要なこと」に焦点化でき、お互いの時間を保障することができる。このことは、授業デザインにもいえることだろう。「柔軟に事前の計画を修正しながら」という授業デザインの考え方と矛盾するようにみえるが、目の前の子どもの学びに集中して判断できるように「余計なことを考えない状況をつくる」ことが大切なのである。授業者が判断することと場面を焦点化するのである。つまり、授業のデザインをシンプルにすることにつながるのである。もちろん、単なるルーチンワークになることは避けなければならないだろうが。教師という職業柄からだろうか、「人のよさ(?)」であれもこれも話し合い、時間だけが過ぎていることが多いような気がする。教師も、「余計なこと」と「本当に大切なこと」を仕分ける習慣を身につけるための努力が必要である。
2013.10.14
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前回のblogの続き。3年前、日本教育心理学会総会(於;早稲田大学)の自主シンポで、3年「昆虫の体のつくり」の授業を紹介したとき、白水始先生(当時は中京大学、現国立教育政策研究所)に分析していただき、コメントをいただいた。そのときのプレゼンをもとに、実践を紹介したい。・・・・・カブトムシの「むね」はどこ?答えは「3」。昆虫の体は、頭・胸・腹の3つに分かれているのだが、カブトムシを含む甲虫類は、胸の途中にくびれがあり間違いやすい。教科書には「3つの部分からできている」「むねには6本のあしがついている」と説明してある。実際の授業でも、リョウタくんは「1」を選び、「昆虫の胸は、3つに分かれている体の真ん中の部分だから」と説明した。それに対して、カズミさんは「昆虫のあしは6本とも胸についている」というこれまでの学習事項から「3」だと主張する。この二人がいるグループでは、次のように話し合っている。見て分かるように、カズミさんの説明に対してリョウタくんは、なかなか納得しない。このやりとりを、白水先生に分析していただいたところ、次にような結果になった。注目すべきは、リョウタくんが4回同意しなかったことによって、カズミさんは3回説明をつくっていることである。また、つくり替えるたびに「きまり」や「意味」が深まっていることが分かる。これは、説明をつくり直す過程で、その説明の不十分なところに気づき、理解を深めるからであろう。授業後、他のグループのタツヤくん、サラさん、そして、カズミさんの話し合いが15分以上続くのだが、その中で、同意しないタツヤくんに対し、カズミさんは10回も説明をつくり直すことになった。その話し合いの一部は次の通りである。納得してくれない相手への説明をくり返すことで、カズミさんは「なぜ腹があるか」という腹の機能自体へ言及するまでに達している。しかしその説明を聞いても、タツヤくんはカブトムシを裏から見ようとせずに納得しない。また、ヤスオくんは「甲虫のなかまだけ分かれ方が違う」と納得していた。この実践から、次のことが指摘できるだろう。理科の本質に迫る主題設定が必要であること。また、「理由づけ」だけでなく「理由の裏づけ」にも注目させることが必要であること。さらには、一部の事実のみを根拠にして結論を導くことのないようにする必要があること。そのために「直感的なことば」を大切にする必要があるのだろう。
2013.10.10
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「理科の教育」(東洋館出版 平成25年10月号)に「科学概念の適用範囲の画定に着目した理科授業の構想と実践ー生命領域における科学概念の内包と外延の分析からー」(甲斐初美 福岡教育大学・中島晴美 大野城市立大城小学校)という論文を見つける。以前、カブトムシの体のつくりについて授業したことを教育心理学会で発表したこともあったので、ここでその一部を紹介する。・・・・・ 私たちが構成する概念は、個々の様々な事例の中から線引きされたものの括りであり、概念には必ずその適用範囲が存在する。そのため、私たちは、自然事象に出会ったときは、保持している概念の適用範囲を探りながら、それについての意味づけを行おうとしているのである。M.Z.Hashwehは、その適応範囲内外の関係性を明確にしていくこと、すなわち、「概念の適用範囲の画定(demarcation)」という観点が、学習には不可欠であると述べている。 ・・・(中略)・・・ したがって、昆虫について理解させるためには、完全変態と不完全変態の違いはあるにしろ、数種類の昆虫に関して「育ち方」と「成虫の体のつくり」の両側面から、共通の定義である内包を見いださせていく必要がある。 ・・・(中略)・・・ 特に、完全変態の典型事例であるカブトムシやテントウムシなどの甲虫類の場合、成虫の体のつくりでは、胸の途中にくびれがあり、一見すると頭、胸、腹の特徴をとらえにくいため、成虫の体のつくりとしては境界事例となり得るが、取り扱いの判断が分かれる傾向にある。・・・・・子どもたちの昆虫に対する概念をより科学的なもの(確かなもの)にするために、カブトムシなどの甲虫類は「境界事例」であり、学習に取り上げることは効果的であるということだろう。(教科書での取り扱いは様々なのだが。)(続く)
2013.10.10
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先日のblogに「グループを充実する」ための手立てについて書いたので、続けてもう一つ。「グループのときの教師(授業者)の居方」である。私はグループのとき、次のことに気をつけている。・・・・・1)うろうろ歩き回らない。2)じろじろのぞき込まない。3)何を話しているか(書いているか)をチェックしない。4)不用意に話しかけない。5)時間で急かさない。・・・・・それでは、何をしているのか。心がけていることは、ケアすることである。遠くから見ていても、話し合いっているかどうかは分かるだろう。ある程度話し合っていれば、その場で介入することはしない。大切なことは、グループに入れない子どもをケアすること。それも、直接的に「みんなと話し合いなさい」と指示することは逆効果であり、「さりげなく」「他の子どもに」声かけすることが必要である。例えば、「○○くんも、おもしろいことを書いてるよ」とか。それでも、その子どもの発言をその場で最後まで聴くようなことはしない。このことは、なかなか話し合わないグループに対するケアにもいえるだろう。ただ、注意しなければならないことは、(先日のblogでも書いたが)話し合っていないからといって学んでいないとは限らないということである。全体的に見れば、最高をめざすのではなく、最悪を避けるといったスタンスなのだろう。いずれにしろ、「子どもの学びをみる」力量をつけることが一番の手立てなのだろう。
2013.10.10
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本年度の研究発表会(2月15日)に講師としてきていただく秋田喜代美先生(東京大学)が初等教育資料(2013年10月号)の巻頭言に書かれた原稿(インタビュー)を見つけた。「子供の居場所感と夢中」という題であったが、取り上げられている事例が理科と関係があるので、ここで紹介したい。・・・・・ 四年生の授業で、見付けてきた昆虫を見て描くという図画工作の授業のことです。シーンとして、皆、幼虫を触ったり、じーっと見たりしています。ゆっくりと時間の半分くらいまで触っている子もいます。でもその先生、「早く描け」っていわないんです。ー大事ですよね。 その子は、最後の方になって描き始めました。描き始めたら一気なんですよね。こういうのを描きたかったんだという感じで。そして、それぞれの子供の描いている絵を見ると、一人一人、どう幼虫と出会ったか、何を見ているか、感じているかが全然違うわけです。 先生は、一人一人をとらえながら、それぞれの感じ方でこんなふうにやったんだよと、後でお互いがお互いのよさを味わい認め合っていけるように、課程を写真に残していました。 もちろん、教科のリテラシーを学ばなければいけない授業もある。それから探究して、深く思考する授業もある。でも、一方で、鑑賞したり味わったりする時間が、それぞれの教科の文化の中にある気がしており、子供が紡ぎ出した表現を交流し味わい吟味することも私の教育観からはとても大事なことと思っています。・・・・・以前、理科の理論の中に「多元的なアプローチを大切にする」ことを位置付けたこともあるのだが、最近の私は、ノートに自分の考えを書かせることだけに目がいっていないだろうか。もちろん、「その子らしく夢中になっている」かどうか見極めは必要だろうが。以前、校内の研究会の講師に秋田先生に来ていただいたとき、「私とは教育観が違う」とコメントされたことを思い出す。2月までには、ていねいに授業研究に取り組み、子どもたちの居場所感と夢中にあふれる教室にしていきたい。
2013.10.09
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今年の私自身の課題として「グループの充実」がある。先日のblogでも次のように書いた。・・・・・7年前、私が「学び合い」に取り組みはじめたときは、このグループを中心に子ども同士のかかわり合いを組織しようとしていたのだが、いつのまにか「学級全体の話し合い」に私の「力点」が集中していたのだろう。昨年の授業ビデオを見てみると単なる「発表会」や「おしゃべり」になっている場合もあったのである。(私にとっては、けっこうショックだったのだが。)本年度になり、もうすぐ半年がたとうとしているが、少しは改善しただろうか。昨年よりも、積極的にかかわろうとしている子どもは「増えているように見える」のだが。・・・・・この機会に初心にもどり、「グループを充実させる」ための手立てについて見直してみたい。今回は、「グループの入れ方と終わり方」について考えてみる。まず、「グループの入れ方」。学級全体で話し合っているとき、グループを入れるタイミングであるが、なるべく早いほうがいい。国語であれば、音読し書き込みした直後でもいいし、算数だと問題を確認した直後でもよい。理科では、観察・実験しながらや、結果を整理しているときにもグループで話し合っていることは多い。また、学級全体の話し合いの中である程度「対立軸」が明確になったあとも効果的であろう。さらには、ある子どもの発言に対して「ざわめき」が起きたあとも、グループが深まることがある。おそらく、多くの子どもにとって「思いがけない発言」であり、そこにはひらめきや飛躍があるのだろう。よく「教師自身が困ったときにグループを入れてはいけない」といわれることがある。もっともなことであるが、そんな状態になってしまったなら早めにグループを入れた方がいい。教師自身が立ち止まり、整理するためである。子どもの方が、冷静に話し合いの流れをつかんでいることも多い。もちろん、そんな状態にならないことが一番なのだが。次に「グループの終わり方」である。こちらは、グループごとに違うので難しく、一概にはいえないのだが、「大きな声で話し合う」グループがいくつか出てきたら終わった方がいい。なぜなら、それらのグループは、一見活発に議論しているようにみえるのだが、自分の考えを主張することに終始しているのであり、グループで一番大切な「友達の話を『聴き』自分の考えを『語る』」こととはほど遠いのである。逆に、ほとんど話さないものの、テキストや資料、実物をじっくりと見ているときの方が判断が難しい。授業者には聞こえないものの「ぼそっ、ぼそっ」と大事なことをつぶやき聴き合っていることも多い。また、しばらく待つと一気に話し合うこともある。そんなとき授業者は、感覚を研ぎ澄まし教室内の「空気を感じる」しかないだろう。しかし、先日あるクラスの授業中、落ち着いて話し合っているなと思った瞬間、いくつかのグループが机の中から授業に関係のない本を取り出し、読書をはじめてしまった。おそらく「私たちのグループの話し合いは終わった。することがないので読書をする」と子どもたちは判断したのだろう。(テストのときなど、そう指示することもあるのだが。)課題やグループの入れ方も悪かったのだろうが、これではグループが単なる作業になってしまっている。私たちは日頃から、グループのよさやおもしろさを味わわせているのだろうか。反省させられた一瞬であった。
2013.10.09
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以前、道田康司先生(琉球大学)に「どうしてブレないのか」と質問をされたことがある。おそらく、リフレクションを中心とした授業研究が進んでいた当時の琉大附小の先生方に、「ブレ」が生まれたていたのだろう。道田先生には、私のblogをよく読んでいただき、コメントもいただいていた。「授業リフレクション」や「授業デザイン」、つまり7年前「子どもの事実からスタートする授業研究」に対して「ブレブレ」だった「わたし」が、ほとんど「ブレなくなった」過程を知りたいといわれるのだ。この質問には明確には答えることができないだろう。なぜなら、今でも「ブレる」からである。しかし、ブレながらもなんとか結果的にブレずにやってこられたのは、次のような「支え」があったからである。まず、多くの外部の先生方に授業を観ていただく機会が多く、そのたびに「いっしょに授業をみて」「目の前の子どもの事実を丹念に分析すること」を教えていただくとともに、私自身(授業者自身)のリフレクションを促していただいたことである。本校の研究会や研究発表会のときに授業を観ていただいた佐藤学先生(学習院大学)や秋田喜代美先生(東京大学)、高垣マユミ先生(津田塾大学)、社会科初志を貫く会で知り合い、何度も本校に足を運んでいただいた溜池善裕先生(宇都宮大学)、田上哲先生(九州大学)、田代裕一先生(西南学院大)、松本康先生(信州大学)。最近では、柴田好章先生(名古屋大学)にも授業を観ていただく機会があった。さらには、研究開発学校として取り組んだ「論理科」カリキュラム開発で運営指導委員としてお世話になった内田伸子先生(筑波大学監事)と鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)には、年に何回も授業を観ていただくことができた。(もちろん、道田先生にも何度も観ていただいた。)次に、九州内にモデルになる学校があったこと。もちろん、別府市立青山小学校である。7年前、熱海で行われていた「教育のアクションリサーチ研究会」で佐藤学先生に紹介していただき、秋に行われた公開研究会に参加した。その後、土曜日開催であったこともあり、毎年参加している。(今年は、11月1日(金)。ただ、本校は開学記念日で休み。)我が家(山鹿市)から別府までは車で2時間弱。秋の開催で、校内の研究授業や2月の研究発表会に向けてブレはじめる私をリセットする絶好の機会であった。これらのことから、少しであるが、私自身の授業の中で、何度も予想外の考えに「驚きと発見」とともに出会うことができたことも大きい。もちろん、その出来事は前述した先生方に見つけてもらったものもあれば、授業ビデオから発話記録を起こすときに見つけたものもある。このことが、一番「確信」をもつことにつながっているようである。さらには、附属学校の「新しい指導法や教材をお土産に」という考えに限界を感じていたことも一因である。つまり、ブレてももどるところがなくなっていたのである。このように振り返ってみると、やはり私は「ブレブレ」なのであり、そのことを早めに自覚できたことだけが唯一自慢できることなのかもしれない・・・。
2013.10.09
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先日のblogで無藤隆先生のフェイスブック「思考力育成の実践的研究の進展を振り返る」を紹介したが、その後「コメント」を通じて、次のようなやりとりをしていただいた。・・・・・私)たしかに「論理的」ということを明確にしているものは見かけませんね。無藤先生)以前に議論したこともありますが、厳密に「論理的な思考」は使われることはありません。あるいは脳のハードウェアに入って教育の必要がないというべきかもしれません。通常、論理的と呼ばれるのは、筋の通った議論という程度の意味です。トゥールミンが良く引き合いに出されるのはそれを明確にしたからです。人間は様々な筋の通った議論をゆがめるバイアスを持ち、また多くの議論の前提を自覚していません。さらに、あらゆる現実的議論は(数学を除いて)飛躍があり、また前提を伝統(科学者集団のそれを含めて)に依存しています。ですから、論理的思考の教育とは論理性を教えることではなく、ゆがみや前提に気づかせることになります。私)本校が研究開発学校として「論理科」カリキュラムを開発していたときは、トゥールミンモデルをもとに説明するのではなく、根拠や理由づけの妥当性を検討するような授業になるようにしました。どちらかというと「批判的思考」に近かったのかもしれません。無藤先生)トゥールミンモデルに元々批判的思考の考えが入っています。だから、1960年代からそういった考えはあるし、教育もあります。私)トゥールミンモデル(三角ロジック?)に当てはまっていれば「論理的」であるとされるビジネス書も多いのですが、実際の授業では、自他の考えを振り返る、見直す、そして、議論を深めるためのツールということでしょうか。小学校現場では、すぐにこういうモデルを「型」にして教え込もうとする傾向があるので・・・。無藤先生)そういったモデルは型であり、スキルであり、吟味のための手立てです。それらを兼ねているのがこういった思考支援の道具(心的モデルを含めて)の特徴です。私)論理学のように「前提を問わない」のではなく、トゥールミンモデルなどを活用することにより、その前提の正しさや意味を考えたり、論の飛躍やねじれに気づかせたりすることにより、批判的な思考や互いに分かり合える議論ができるようになるということですね。・・・・・「通常、論理的と呼ばれるのは、筋の通った議論という程度の意味。トゥールミンが良く引き合いに出されるのはそれを明確にしたから」「論理的思考の教育とは論理性を教えることではなく、ゆがみや前提に気づかせること」。このことを、しっかりと意識しながら研究を進めていくことが大切である。
2013.10.04
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前回のblogで「論理」や「論理的」ということについて、私が書いたものをもとに考えた。このことについて、鹿毛雅治先生は「『対話』で広がる子どもの学び−授業で論理力を育てる試み−」(内田伸子・鹿毛雅治・河野順子・熊本大学教育学部附属小学校著 明治図書 2012.2)の中で、次のように書かれている。・・・・・ 「論理」という言葉は、日常的に耳にする機会が多い割に、その意味を明確に説明することが難しい用語である。ちなみに、『広辞苑(第五版)』には「思考の法則的なつながり」だとか、「推理の仕方」、「論証のすじみち」などと定義されているが、今ひとつピンとこないというのが正直なところだろう。比較的わかりやすいものとして以下の福澤(2010)による説明が挙げられよう。すなわち、論理とは「言葉と言葉の意味上の関係、文と文との意味上の関係、または、ある一つの発言内容の意味ともう一つの発言内容の意味との関係など」であり、論理的とは「これらの関係が保たれていることを指す」のだという。 ・・・(中略)・・・ このように複数の情報が関連づけられて整理されることで、われわれは一連の既存情報について統合的に解釈できるようになると同時に、推論によって新しい情報を生み出すことが可能になるわけである。 「論理的」とは、このように複数の情報が関係づけられた状態を指すのだといえる。 ・・・(中略)・・・ 以上のように考えると、論理とは「論理学」や学者による「学術活動」といった特殊な世界での出来事なのではなく、われわれの日常的な思考活動や表現活動に埋め込まれた身近な現象だということがみえてくる。例えば、われわれが頭の中で道筋立てて特定の出来事の原因を理解したり、将来を予測したりするような「思考のプロセス」の問題でもあるし、「いま発言したことが、それより以前に発言した(された)内容と関係のあるように話すこと」(福澤,2010)といった話し方の問題でもあるのだ。・・・・・「論理とは、特殊の世界での出来事ではなく、われわれの日常的な思考活動や表現活動に埋め込まれた身近な現象」。おそらく、その中で「根拠にもどる」「つながりを意識する」ことができるということが大切なのだろう。
2013.10.04
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前回のblogで「論理的思考」について書いた。ここでちょっと立ち止まって、「論理」についても考えてみたい。「『対話』で広がる子どもの学び−授業で論理力を育てる試み−」(内田伸子・鹿毛雅治・河野順子・熊本大学教育学部附属小学校著 明治図書 2012.2)の中で、私は次のように書いている。・・・・・ 「論理」とは、「理由と主張」や「原因と結果」、「情報と情報」など、「ことば」と「ことば」のつながりのことです。 朝起きたとき、家の外を見て雨が降っていたら、どのように考えるでしょうか。例えば、「雨が降っている。だから、かさが必要だ」と考えたとします。このとき、「雨が降っている」と「かさが必要」という「ことば」のつながりが分かり、この考え方は「論理的」といえます。逆に、ある人が「雨が降っている。だから、かさは必要ない」と言ったとしたら、それを聞いた人は「ことば」と「ことば」の間の「つながり」、すなわち、「論理」が理解できません。「あの人の『論理』はおかしい」とか「あの人の『論理』は分からない」と口にするでしょう。しかし、「雨が降っている。でも、すぐやみそうだから、かさは必要ない」と説明されると、このときの「論理」は適切だと考え、納得することができます。 また、「ケーキは甘い。だから、私はケーキが好きだ」という人もいれば、「ケーキは甘い。だから、私はケーキは嫌いだ」という人もいます。このとき、「私にとって」どちらも「論理」は適切だといえるでしょう。 このように、本校の「論理科」では「ことば」と「ことば」のつながりを「論理」ととらえ、その適切さを検討したり、筋道立てて「論理的」に考えたりすることを大切にしています。そして、「論理」に着目して話を聴き、相手の伝えたいことを理解しようとする子どもを育てたいと考えています。・・・・・この原稿の中の「『私にとって』どちらも『論理』は適切だといえるでしょう」という部分について、ある数学が専門の大学の先生から「どちらも適切だという『論理』はあるのか」と指摘を受けたことがある。もちろん、内容を批判されるものではなく、「論理」という「ことば」の使い方からくる違和感なのだろう。ただ、よく読み直してみると「論理的」ということを定義していない。あえて抽出するなら「『ことば』と『ことば』のつながりが分かる」といったところだろうか。(つづく)
2013.10.02
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