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無藤隆先生(白梅学園大学)のフェイスブックに、次のような記事(近況)があったので紹介したい。・・・・・思考力育成の実践的研究の進展を振り返る。1)1950年代から1970年くらいまで。トゥールミンモデルの議論の定式化(これは論理という三段論法的なものではなく、議論の構造に注目した)。ポリアなどの問題解決のコツ収集(あまりに一般的過ぎたが、でも、それが思考・自己学習スキルとして発展する)。2)領域固有性の発見と領域固有の理論とモデルの適用。1980年代あたり。思考一般ではなく、領域固有の理論を獲得することを目指す。メンタル・モデルの提案がその後の教育の基本の一つとなる。3)1990年代の状況理論の展開と道具の利用のデザインへ。思考は問題解決における道具の利用なのだ。だから、その道具をデザインすることで、よりよい思考を支えられる。道具の利用の仕方を教える(これが今のICT教育に至る)。4)同時期。領域ごとのモデルの詳細化。子どもの作るモデルをよりよくする指導法の開発。5)同時期。協同的問題解決のモデル化と道具的支えの展開。分散型処理とつながる。6)200年代。学習科学の展開と、現実の生活のICT化への適応の強調。これがいまだ。批判的な思考などもつながる。21世紀スキルとはその程度のものだろう。7)遺伝的進化論的議論の逆襲。脳科学の進展とともに、その議論が思考のとりわけ発達や教育の考えを変えていく。これも今の展開。どこにも「論理的思考」というものがないことに注意。そういうものがあるのかどうか。・・・・・たしかに「論理的」とは何かということに対して私たちは明確な答えはもっておらず、議論が深まらないことが多い。これまで何度もチャレンジしたのだが、説明しようとしてより曖昧な言葉を使ってしまうという悪循環に陥ってしまったのだろう。どちらにしても、単なるキーワードにならないように心がけたい。
2013.09.30
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前回のblogで「はじめて考えるときのように」(野矢茂樹著 PHP文庫)を紹介した。これは、4年前に「論理科」カリキュラム開発に取り組み始めたときに参考にした本であり、せっかくなのでここで紹介したい。その年の研究発表会では、全体提案の中で次の一節を紹介した。・・・・・ 考えるために、ぼくらがもっている唯一の翼が、ことばだ。 ひとまとまりの状況をさまざまなパーツに切り分け、そのパーツを関係づける。そして新たな組み合わせを模索する。それをぼくらはことばで作業する。 だから、いろんなことばをもっているひとはいろんな可能性を試せる。新しいことばを手に入れたなら、それで新しい可能性が開ける。 問いへの緊張に貫かれた、新たな可能性を手探りすることばは、しなやかで、つやつやしている。 ことばを、きたえなくちゃ。・・・・・ことばによって「ひとまとまりの状況をさまざまなパーツに切り分ける」「切り分けたパーツを関係づける」「新しい組み合わせを模索する」ということが何か、私の「ことば」で説明できるようになることが大切なのだが・・・。おそらく、「メタ的にみる」「再構成する」「知を創造する」という、本校の研究のキーワードに直接的に関係があるのだろう。とりあえず、私自身が「しなやか」で「つやつや」した「ことば」を手に入れる必要があるということだろう。
2013.09.30
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先日、ある中学校の理科の先生と話していたとき、「論理的な思考」が話題になった。その中で、トゥールミンモデルの「根拠」は観察・実験の結果、「主張」は結論であることを確認するとともに、子どもたちが「生活経験を語る」ことの意味について考えることになった。おそらく、根拠と主張の「距離」が短ければ、考察場面において推論することもないわけだから、様々な知識(情報)や生活経験を持もち出す必要はないのであろう。たとえば、水溶液の酸性・アルカリ性を調べるとき「青色リトマス紙が赤色に変わった」から「酸性である」というように、結果イコール結論になるのである。もちろん、厳密にいえばリトマス紙の性質や、数多くの水溶液を実際に調べた結果などを説明しなければならないのだろうが、実際の授業の中で、そういう場面が設定されることはない。つまり、論理的な思考力を育てようとするとき、根拠と主張の「距離」を長くする必要があるのである。このことにより、理由づけを説明する必然性が生まれるとともに、他者に分かりやすく説明することが促され、生活経験が語られることにつながるのだろう。さらには、直接は関係ないものの、「はじめてかんがえるときのように」(野矢茂樹著 PHP文庫)に、次のような一節がある。・・・・・ ひとつの足場から眺めわたしたら、こんどは足場を見つけて、そこからさっと自分が立っていたところを問題にする。つねに足場を確かめながら、ステップを変えていく。 現実ベッタリでもなく、論理の神様のようでもない、そんな人間のハンパさ。「ハンパ」って言っちゃあ身も蓋もないけど、言い方を変えれば融通無碍に足場を変えていく身軽さということになる。 考えるってことは、そんなふうに軽やかに踊ってみせることだ。・・・・・「論理的」というと、なんだかガチガチなイメージがあるのだが、これこそ私たちの誤概念なのだろう。そのせいで、私は(教師は)子どもたちに「軽やかに考える」機会と場を奪っていることが多いのではないか。もっともっと、ダイナミックな展開のある授業をめざしていきたい。
2013.09.30
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前回のblogで内田伸子先生(筑波大学監事、お茶の水女子大学名誉教授)に紹介していただ本について書いたので、続けてもう一冊。「ヘレン・ケラーはどう教育されたのかーサリバン先生の記録ー」(サリバン著 遠山啓序・槇恭子訳 明治図書)である。・・・・・ ある概念が子どもの心の中ではっきりできあがっている場合、その概念の名前を教えることは物の名前を教えることと同じようにやさしいことなのです。でも概念が子どもの心の中にまだ育っていない場合に、その単語を教えることは非常に困難です。経験や観察から子どもに、小さい・大きい・良い・悪い・甘い・すっぱいなどの概念ができていない場合には、子どもはそのことばを何に結びつけてよいかわからないでしょう。 ・・・・・ 同様にして、子どもは多くの経験から、彼の感覚を区別することを学びます。そして、私たちはその感覚に良い・悪い・やさしい・乱暴な・しあわせな・悲しいなどの名前をつけてやります。子どもの教育で重要なのは、感覚を多く経験する能力であって、言葉ではないのです。 ・・・・・ 言語は生活や、その必要や、さまざまな経験から生じる。最初、私の生徒の心は空虚であった。彼女は理解できない世界に住んでいた。言語と知識は固く結びついている。それらは互いに依存し合っている。言語を使ったよい仕事は、物事の正しい知識を前提とし、それに依存する。ヘレンがすべての物は名前をもっているということに、また、文字を使ってこれらの名前を人から人へ伝えることができるということに気づくや否や、私は彼女が喜びながら名前を綴ることを覚えたその対象について、さらに深い関心を目覚めさせるようにした。私は決して言語を教える目的のために、言語を教えたのではない。考えを伝える手段として不断に言語を用いたのである。 このようにして言語の学習は、知識の獲得と一致する。言語を知的に使うためには、人はそれについて話す事柄をもっていなければならず、また、話す事柄は経験の結果もつことができる。・・・・・理科でも、子どもたちに科学的な用語を教える場面は多い。しかし、「経験や観察から概念を育てる」「多くの経験から感覚を区別する」ことを大切にしているだろか。また、授業中に考えをノートに書かせたり、話し合ったりさせたりするが、「話すこと事柄をもっている」のか、さらには、そのための「経験の結果」があるのかと、ていねいに子どもをみているだろうか。さらには、「ことばの力」を育てるために、「ことば」ばかり意識していてはいけないということだろう。
2013.09.29
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あるクラスにいったら、教室にある「学級文庫」に「博士の愛した数式」(小川洋子 新潮社)が置いてあった。以前、この本に一節(博士の言葉)を内田伸子先生(筑波大学監事、お茶の水女子大学名誉教授)に紹介してもたっらことがある。・・・・・「問題にはリズムがあるからね。音楽と同じだよ。口に出してそのリズムに乗っかれば、問題の全体を眺めることができるし、落とし穴が隠れていそうな怪しい場所の検討も、つくようになる。」・・・・・これこそ、「ことばの力」であろう。最近、オリンピック招致のプレゼンが素晴らしかったことから、何かしらのメッセージが伝わることを「ことばの力」といわれることが多いのだが・・・。また、ぱらぱらとめくっていたら、次の一節を見つけた。・・・・・「問題を作った人には、答えが分かっている。必ず答えがあると保証された問題を解くのは、そこに見えている頂上へ向かって、ガイド付きの登山道をハイキングするようなものだよ。数字の真理は、道なき道の果てに、誰にも知られずそっと潜んでいる。しかもその場所は頂上とは限らない。切り立った崖の谷間かもしれないし、谷底かもしれない。」・・・・・「道なき道の果て」に向かう覚悟と、そのことに夢中になる楽しさを味わう経験の両方が必要ということだろうか。
2013.09.26
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「モデルの探究」と直接関係はないのだが、「自然事象に対する見方や考え方の変容(再構成)」について説明するとき、よく紹介するエピソードがある。5年前の5年「植物の発芽」の学習での出来事である。・・・・・発芽に必要なものを調べるために、脱脂綿を入れたコップの上にインゲンマメの種子を置く。数日たつと発芽するのだが、子どもたちは「根が出てきた」「芽が出た」などの声を上げる。そんな中、Tくんが「種がななめになった」と発言した。はじめは、他の子どもたちに理解されないのだが、しばらくするとaさんが種子をじっと見ながら、次のようにつぶやいた。「種が持ち上がりそうだって、言いたいんじゃないのかな?」この発言を聞き、他の子どもたちはとまどっている様子である。これまでの生活や他の植物の観察では、土の中の種子から子葉が出るととらえていたのだろう。「種子そのものが動くなんて」と言いたいのだ。しかし、次の日の朝には、この子どもたちも驚きの声を上げることになる。種子は、もっとななめになり、脱脂綿から離れるくらい持ち上がっていた。「発芽するって、種子が持ち上がって出てくることなの?」「4年生で育てたツルレイシも種のからが土の上に落ちていたよ。」このように、Tくんが発した「種がななめになった」という「ことば」をきっかけがきっかけになり、インゲンマメの変化をくわしく「みる」ことを促すことができた。その後、インゲンマメの成長を振り返る場面でも、その様子を「根が出て種子が持ち上がった」「種子だった子葉が開いた」など適切に表現することができた。・・・・・実際、この学習の前(途中)に、インゲンマメはどのように発芽するか予想を図で書かせると、多くの子どもたちが次にように書く。これは、「単子葉植物」の発芽の仕方に近いモデルであり、「種から芽が出る」という「ことば」も子どもたちを混乱させる原因になっているのだろう。このような子どもの直感的・断片的な「ことば」をきっかけに、観察・実験の結果や、観察・実験そのものに「もどる」ことにより、モデルの変更・修正を促すことができたと考える。また、このことが単なる知識の獲得だけでなく、活用できる知識につくり替えることにもつながるのだろう。なぜ「モデルの探究」なのか。まだまだ十分ではないが、説明するための一つの事例である
2013.09.25
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昨年から本校理科が主張している「モデルの探究」。「なぜ『モデルの探究』なのか」という問いに答えるために、今年5月に参加した日本理科教育学会九州支部大会(於;長崎大学)の論文集を読み返す。その中の「モデル構築の場面での受容すべき情報の質の検討に関する研究ー中学校理科『水の電気分解』におけるICT機器を活用したモデル構築場面からー」(佐藤寛之 佐賀大学文化教育学部,小野瀬倫哉 国士舘大学文学部,森本信也 横浜国立大学教育人間科学部)に、ジョナセン(Jonassen,D.H.)の「モデルを構築するための概念的な理由」が紹介されている。(注;なお番号は、私が説明のために書き加えたものである。)・・・・・1)未知の現象に遭遇した際には、学習者(人)はモデルを用いて、その未知の現象について自分なりに説明する理論を構築する。そして、その際のモデルの構築は、これまでに経験したある現象の個人的な解釈を通した表現によってなされる。2)モデルを構築することは、仮説の検証や推論をするための手助けとなり、学習者にも明確な因果関係による推論や最も科学的に妥当な推論を可能にするための根拠を求める。3)モデルを構築することは、子どもがなすことのできる最も価値のある認知過程の一つであり、モデルを構築することで、子どもにとっても概念変換の必要性を自覚する。4)モデルを構築することは、子どもが自ら考えたことを新たな創造物として外化する。そして、自らモデルを創造したという感覚(自己効力感)は、意味や知識を形作るために重要である。5)創造したモデルを他と比較し評価することで、代替モデルの可能性を子どもは理解できる。また、モデル構築の活動そのものが対立するモデルの検証に役立つことを、子ども自身が理解できる。・・・・・先日のblogに、「なぜ『モデルの探究』なのか」私なりの考えを書いたのだが、1)「これまでに経験したある現象の個人的な解釈を通した表現によってなされる」や2)「学習者にも明確な因果関係による推論や最も科学的に妥当な推論を可能にするための根拠を求める」、3)「概念変換の必要性を自覚する」と重なる部分も多いことが分かる。また、おそらく4)「自ら考えたことを新たな創造物として外化する」は「活用できる知識」や「活用力の育成」と、5)「代替モデルの可能性を子どもは理解できる」は「創造的な学び」と関係があるのだろう。まだまだ単なるメモであるが、今後じっくりと考察する(私の「ことば」、そして、「実践」で語る)必要がある。
2013.09.24
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本年度の私自身の授業改善「課題」の一つに、「グループの充実」がある。7年前、私が「学び合い」に取り組みはじめたことは、このグループを中心に子ども同士のかかわり合いを組織しようとしていたのだが、いつのまにか「学級全体の話し合い」に私の「力点」が集中していたのだろう。昨年の授業ビデオを見てみると単なる「発表会」や「おしゃべり」になっている場合もあったのである。(私にとっては、けっこうショックだったのだが。)本年度になり、もうすぐ半年がたとうとしているが、少しは改善しただろうか。昨年よりも、積極的にかかわろうとしている子どもは「増えているように見える」のだが。この「グループ内のかかわりの内容」について、石井順治先生(東海国語教育を学ぶ会顧問)は「学びのたより」(東海国語教育を学ぶ会のHPでダウンロードできる)に次のように書かれている。・・・・・ かかわりへの積極さを好ましいと思いながら、そこでわたしが着目したのが、グループ内での子どものかかわりの内容でした。「学び合う学び」は、子どもがかかわり合うことを目指していますが、それは、かかわりが生まれればそれだけでよいということではありません。 ・・・(中略)・・・ グループでの子どもたちの様子を見ていて、やはりこうなってしまうのだ、でもここからどう脱却するかが「学び合う学び」深まりの鍵になる、そういう意味では。これはだれもが通る関所のようなものだと感じたことがあります。それは、子どもたちのかかわりが、学び合いではなく「教え合い」になっていたことです。 「教え合い」と「学び合い」に違いについては、拙著『「学び合う学び」が生まれるとき』(世織書房)に詳述していますが、要するに、よく分かっている子どもがそうでない子どもに教えるのが「教え合い」、逆に、分からない子どもが援助を求めてそれに他の子どもが応じるのが「学び合い」です。「教え合い」は教えることが軸になりますが、「学び合い」は分からないことを学ぼうとする行為が軸になります。 ・・・(中略)・・・ しかし、これは「教え合い」です。これでは、学びにおいて大切な「互恵的関係」は生まれません。かかわり合ってよかったと思う時には、互いにそうしてよかったと思える事実が生まれます。それがなく分かっている子どもから分からない子どもに一方的に「教える」という行為では双方に学びが生まれないのです。 ・・・(中略)・・・ 「学び」は、分からないことに挑むから楽しいのです。意味があるのです。 ・・・(中略)・・・ しかし、それだけではまだ「互恵的な関係」は生まれていません。分からなかった子どもが分かるようになっていく過程で、分かっていると思っていた子どもにも学びが生まれるようにならないと、そこに「互恵的な関係」は存在せず、ひいては、全ての子どもの学びの保障にはならないということになります。・・・・・おそらく、私の授業では、何か「分からないこと」があったとき、「挑む」のではなく「分かった友達から教えてもらうのを待つ」子どもが多いのではないか。その結果として、「わかったつもり」に満足してしまう子どもが多いのだろう。「本気で『分からなさ』を大切にしようとしているか」。私(教師)自身が問われているのである。
2013.09.24
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昨年から、本校の理科では、子どもたちの追究の中に「モデルの探究」を位置付けることを中心にして研究を進めている。では、なぜ「モデルの探究」なのか。4年「空気と水の性質」を例に考えてみたい。近年、筒の中に閉じ込められた空気を棒でおしたときの手ごたえを「『バネのようだ、ゴムのようだ』と子どもたちが表現することが少なくなった」と指摘されることが多いのだが、多くの理科教師は、このような表現は必ずしも必要ではないと考えているのではないか。おそらく、「ことば」のしなくても、実際に体験している、実感しているということであろう。しかし、空気に対する深い概念的な理解を促すためには、この「目に見えない」現象を既有の知識や経験を総動員して想像することが必要であり、その表れとして「バネのようだ、ゴムのようだ」という「ことば」が発せられるのである。実際の授業の中で、「空気でっぽうの棒をおしたとき、筒の中の空気はどうなっているのだろう」という問いに対し、Jくんは体を動かしながら次のように説明した。筒の中の空気を自分(人)に例えて説明していることが分かる。この説明に説得力があったのだろう、グループの友達もいっしょに体を動かしていた。つまり、空気を人に例えることでモデル化することができたのである。その後、筒の中にスポンジを入れて棒をおしたときの変化を調べた。スポンジは、四方八方から全体的に小さくなる。この結果から、Jくんは、次のように説明をつくり替えた。先ほどの「人間モデル」では、スポンジの変化を説明することができず、「粒モデル」にモデルを変更したのである。さらに、ゴム栓をつけた試験管を熱湯であたためたとき、ゴム栓がとぶ現象を見る。このとき、子どもたちは次の話し合った。「粒モデル」では、空気が膨張することが説明できないのである。そのため、子どもたちは「おしくらまんじゅうをした経験」をもとに「空気くん(粒+人間)モデル」に修正したのである。この事例から、「モデルの探究」を単元を通した追究の中に位置付けることは、より子どもたちに「目に見えない」現象や「実際に見ることができない」現象を既有の知識や経験を総動員して想像することを促すことにつながることが分かるだろう。さらには、「モデルの探究」を促すことにより、根拠となる事実(観察・実験の結果)にもどり「根拠」や「理由づけ」が確かなものになるとともに、分かりやすく説明しようとする中で「理由づけ」が豊かなものになることも期待できるのである。(つづく)
2013.09.20
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明日は、私の研究授業(校内研)である。その中で、今回の実践「地層のでき方」について次のように説明する(予定である)。・・・・・昨年から、本校理科部は、子どもたちが論理的に思考する中で、直感的・断片的な「ことば」をきっかけにして事実(観察・実験の結果)にもどすことの重要性を主張してきた。さらに、本年度はその「事実にもどすこと」をより充実させるために、根拠となる事実の「層」を厚くすることを実践の中で試みてきた。今回の実践においても、子どもたちが「地層のでき方」を推論するための根拠となる事実として、次のことを挙げることができるだろう。見学時に撮影した写真をタブレットPCで自由に見ることができるようにしたことや、複数回のモデル実験(特に2回のペットボトル実験)を準備したこと、「土地、大地」をテーマに自由研究に取り組ませたことなどが具体的な工夫といえる。そんな中、HNくんは、自由研究で行ったモデル実験(今回のペットボトル実験と同じ)の結果を根拠に、9月4日には、次のように発言している。これは、れき・砂・泥の混ざった土砂が1回だけ水の中に流れ込んで地層ができるという考え方(この考え方を「1回モデル」とする)である。しかし、この「1回モデル」では、実際の地層では粒の小さいものの層の上に粒の大きなものの層があることを説明することができない。NHくんも、このことに気付き、疑問を感じていることが分かる。しかし、1週間後の9月11日には、自由研究で同じようなモデル実験を雨樋を使って行ったSMくんの「小石の下に泥が積もったのはどうしてか」という疑問に対し、次のように発言している。これは、水の中にれき・砂・泥の混ざった土砂を1回ではなく複数回流れ込むことで地層ができる(この考え方を「複数(単純)モデル」)ということに気付いているのだろう。さらには、十分ではないものの、実際の川をイメージして、水量などの変化に伴って流れ込む土砂が変化するという考え方、「複数(変化)モデル」にたどり着いているようにも見える。雨樋と水槽を使ったモデル実験(雨樋実験)を行うことで、その考えはより確かなものになるだろう。このように、子どもたちは、モデル実験を繰り返し、実際の地層とのギャップを埋めながら、より合理的なモデル(ここでは、「複数(変化)モデル」)に近づいていくことが予想される。ただ、そんな中、子どもたちの考えとして根強いのは「ばらばらモデル」である。これは、水の中に流れ込む土砂がれき・砂・泥の混ざったものではなく、「泥の次にれき」というふうに、それぞれがばらばらに流れ込んで地層ができるという考え方である。これだと、どんな層の重なり方(層の厚さの違いも含めて)も説明することができる。実際、9月11にMKくんが次のように発言している。「実際の地層は、層と層の切れ目がくっきりとしている」という観察結果を根拠に挙げていて説得力もある。おそらく、この「ばらばらモデル」は、追究の最後まで他のモデルを揺さぶるものとなるだろう。実際、9月17日にペットボトル実験を終えた後、ペットボトル内に下かられき・砂・どろの層ができたという実験結果から、SJくんは、「MKくんの意見(ばらばらモデル)が正しい」と結論を導き出している。明日の授業では、まず、これらのモデルを交流させることによって、その違いに気付かせること。そして、これまでの観察・実験の結果や5年「流れる水のはたらき」での学習や経験をもとに自分の考えを見直させる。さらには、昨年私たちが住む熊本市を襲った豪雨災害の経験を語り、「地層のでき方」と結びつけることができればと思う。・・・・・(いつも授業を公開する前に書いているのだが)研究授業ということもあり、私も子どもたちも「先に、先に」と進みたがるであろう。しかしながら、しっかりと子どもたちの「ことば」に耳を傾け、「聴く」「つなぐ」「もどす」ことに全力を注ぎたい。そのためにも、しっかりとテンションを落として「よい授業」ではなく「子どもたち一人一人の学び」を求めたい。「研究授業だから」という意識を、今からどれだけ捨てることができるかが勝負である。
2013.09.18
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今週、校内の研究授業で私の授業を公開する。単元は「土のつくりと変化」。そのために指導案を書こうとして、どうしても「図」が必要になったので、よい図はないかと本棚を探していたら、たまたま「楽しみながらすすめる実験&観察の授業」(別冊教育技術2008年11月号 小学館)を見つけ出した。この本と手にしパラパラとめくっている間に、自分も原稿を執筆したことを思い出す。それも、今回の実践と同じ単元である。そのときは、分かりやすくするためにイラストレーターにイラストを描いてもらった。さらに、「人体のつくりとはたらき」も執筆していた。もちろん、このイラストをそのまま使うことはできないのだが、7月に科学の祭典の実験集用に苦労して「人体模型Tシャツ」のイラストを描いたのにと、どっと徒労感が押し寄せてきた。たいした内容ではないのだが、これまでに書いた原稿もけっこう多くなってきた。なんらかの「ライブラリー」が必要である。
2013.09.17
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前回の授業で、話題になったSMくんとNHくんの自由研究の結果。今回は、HNくんの方法で実際に試してみる。なお、実験の前に、前時で出された3人の考えを確認した。NHくんの方法は、水を入れた容器(今回はペットボトルを使う)にれき・砂・泥の混ざった土砂を一気に入れるというもの。「一気に入れる」ことの難しさはあったものの、どのグループもペットボトルの中に「しま模様」ができ、「地層ができた」という声が上がった。実験結果と「分かったこと」をノートに書き、授業を終える。授業後「座席表」用の付箋紙には、「地層ができた」「重いものから先に沈む」と多く書かれている中、次のようなコメントがあった。・・・・・TRくん「なぜ地層は下から順に積もるのではなく、交互に積もるのか。」MRくん「地層は、下から重いものから積もっていないのが不思議だった。」uhさん「れき→砂→泥の順にはやく積もっていた。また、その順に下から積もっていった。この実験で地層のでき方は分かったが、砂、泥、砂、泥の積もり方が分からなかった。」SJくん「れき→砂→泥になったことから、MKくんの意見が正しいと思いました。」・・・・・実際の地層と層の重なり方が異なるため、SJくんはMKくんのれき・砂・泥が「ばらばら」に流れ込む地層のでき方を採用したのだろう。そのMKくん本人は、次のようにコメントしている。・・・・・MKくん「くっきりとはわかれていなかったけど、地層のでき方はだいたい分かった。納得はしていない。」・・・・・少しずつではあるが、実物の地層とモデル実験の結果との違いを意識しはじめているということだろう。今後、この違いを子どもたちがどのように埋めていくのか楽しみである。※ 今回の記録は、平成25年9月17日のものである。
2013.09.17
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前回のblogのつづき。「どのように地層ができたのだろう」という課題に対し、「海底に土砂が積もったものが陸上に出てきて見えるようになった」ということに子どもたちが納得したのだろうか、話題が「層の重なり方」に移っていく。・・・・・SMくん「今ちょっと疑問なんですけど、esさんの重いものから積もるって、まあそうかもしれないんですけど、ぼくがやってた自由研究で、雨樋に水を流してやってたら軽いものから順になってたんで。重いものからだったら、土とかと石とかだったら石がしたにくるはずなんで、自由研究で泥と石でやったら、泥の方が下にきて軽いものからなってたんですよ。だから、何でかなって。」 anさん「えっと、SMくんがいっているのは、流したときだから、一番軽い泥などが早く流れて、それで軽いのが先に流れたから、泥みたいなやつがバケツみたいなやつに入るだけで、そのあとに、石が入ったあと。流れてくるんじゃなくて、全部いっしょに入れたやつの結果を見ると違うと思います。」 smさん「前回の9月4日のときに、SMくんは流してから実験をやってて、でもHNくんは、上から落として沈めるようにしてたから、その違いがあるんじゃないのかなって思っう。雨樋を流していたら軽いのが先に落ちると思うけど、でも、HNくんは落としてからやったから、お風呂とかで何か置いても軽いものが浮いて、重いものが下に沈むから、だから、SMくんとHNくんは、ちょっと違うんじゃないかなって思いました。」 HNくん「SMくんが、泥が最初に沈んだっていってたんですけど、そりゃあ、普通の地層で砂、泥、砂、泥の順番になっているのは、一気に全部流れてくるわけではないから、砂も泥も混ざってて、そっから砂が最初に沈んで砂、泥になって、そっからまた砂になるのは、そのあとに流れてきた砂が泥の上に乗っかってなるわけだから、そのSMくんがやった実験で、泥が下になったのは、順番、最初に泥が流れてきたから、下になったんだと思います。」 MKくん「2班が持ってたものの切れ目っていうか、砂と泥の切れ目がすごいくっきりしていたから、もし一気に流れてあの石ができたのならば、全部混ざった状態で、きれいに分かれるのは、たぶん相当な無理があると思う。もし仮になったとしても、少しは、泥のところに砂が入ってたり、砂のところに泥が入っている可能性もあるわけだから、違うんじゃないかなって思いました。」 ・・・・・れき・砂・泥・が混ざった土砂が海に流れ込んで、それぞれの層ができると考えているSMくんとHNくん。しかし、それに対して「層と層の切れ目がくっきりしていた」という事実から、れき、砂、泥がばらばらに海に流れ込んだと考えているKSくん。さらには、HNくんが1回ではなく複数回土砂が流れ込んだと考えはじめていることが分かる。今後、これらの考えの違いから、それぞれの考えのモデル化を促し、交流させていく必要がある。※ 今回の記録は、平成25年9月11日のものである。
2013.09.15
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いよいよ、「地層のでき方」について話し合う。まず、前回の化石の観察を振り返る。子どもたちは、次のように発言した。・・・・・ SJくん「化石は、でこぼこしたものやつるつるしたものなど、いろいろな形があった。」kmさん「貝の化石が多かった。」C 「っていうか、貝の化石しかなかった。TMくん「貝の形をした化石が多くて、きれいな形をした化石じゃなくて、ざらざらっていうのが多かった。」hmさん「えっと、貝は海とか生みの中にいるから、水の中とかでできたっていうか、そこにあった。」・・・・・「海の中や水の中でできたということは、たしかのようですね」と確認し、「どのように地層はできたのだろう」と課題を設定した。なお、自分の考えをノートに書く前に、観察した御輿来海岸の地層の「層の重なり方」を確認した。 自分の考えをノートに書きグループで話し合った後、学級全体の話し合いでは、次のように発言がつづいた。 ・・・・・esさん「私は流れる水のはたらきによって地層ができたと思って、2班の地層は上と下が全部砂になっていたので、重い方からどんどん積もっていったと思います。理由は、川の水のはたらきの堆積は、重い方から積もっていって、前回MSくんがいってたんですけど、今地層がある場所は陸じゃなくて河口みたいなところで、そこまで流れてきた3つのれき、泥、砂が、大きい順に積もって地層になっていったと思いました。」 HNくん「えっと、今地層があるところは昔海だったと思って、川から浸食され運搬されてきた泥や砂が、海に積もっていって、昔は海面の位置が高かったから現在に近づくにつれ海が引いてきているわけですよ。だから昔海に積もっていった砂や泥が、地面に出て、そこから、そのままだと自分たちが乗っているのは地層の一部で、崖崩れが起きることで、その地面の断面から地層が見えるということ思いました。」 smさん「私は、土が積もりながらできたんじゃないかなって思って、その理由は、波が地層をつくってると思っていて、波が来るときに、泥もいっしょに来るわけだから、そのときに泥とかが重なってきて、できたんじゃないかなって・・・。」 MKくん「地層は海の中や水の中でできたと思って、その理由は、その中に貝殻やアンモナイトの化石があったことから、海の中で泥や砂が、一つ一つの層が積み重なって、大きな一つの層になって、川から流れてきた小さい泥や砂などが、海に流れてきて徐々に積もっていき、たまに少しでかい小石が何十回に1回のペースで流れてきて、何万年かかけて一つの地層ができると思った。御輿来海岸の大半は、泥と砂のやつだったけど、1、2個ぐらいは小石が入っているものもあると思いました。」 SJくん「ぼくはMKくんと同じで、川から流れてきたものが徐々に積もって、崖に地層が出てると思って、もう一つは、smさんと同じで、海から運ばれてきたものが積もって地層ができるというのもあると思います。」ksさん「私は、川か海にあった砂とか泥とかが積もって、海の水が引くか、崖崩れか津波で見えるようになったって思ったんですけど、予想なんですけど、海の水は引いてできるのかなって思った。昔は、そこがMSくんが海だったっていってたから、今の景色になるには、海の水が引いて見えるんだと思います。」GTくん「ぼくは流れる水のはたらきで砂や泥が運ばれてきて、この地層も最初は海底じゃないかなって思って、その海底にどんどん流れてきたものが積もっていって、今よりもたぶん、ぼくの予想では海水面が高かったのかなって思っう。で、だんだん積もっていくにつれて、海底は水面に近くなっていくじゃないですか。そうすると、干潟とか浅瀬みたいになってきて、そこに貝とかが住み始めて、化石とかになって、今の地層ができたんじゃないかなって思いました。」・・・・・「海底に土砂が積もり、何らかの原因で地上に出てきて、その断面が今のようにみえるようになった」と、多くの子どもたちが考えていることが分かる。そんな中、MKくんの発言をよくみてみると、れき、砂、泥がばらばらに流れてくると考えてくることが分かる。たしかに、粒の大きさの異なるものがある程度時間を置いてばらばらに流れてくれるとするならば、どんな層の重なり方でも説明することができる。層の厚さも「流れてきた量が少なかった」といえばよい。おそらく、この考え方が、他の子どもたちの考えを揺さぶるにものになるだろう。(つづく)※ 今回の記録は、平成25年9月11日のものである。
2013.09.15
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8月31日に、福岡で開催された「新理科セミナー」に参加し、村山哲哉先生(文科省教科調査官)の講演を聞くことができた。演題は「理科の学力テストと授業づくり」であったが、その中で紹介されたエピソードがおもしろい。・・・・・ある学校を訪問し、顕微鏡を使う授業を参観した。しかし、4人1組のグループに1台ずつ、計10台の顕微鏡しか用意されてない。当然ながら、子どもたちがその顕微鏡を使って観察する時間は足りなくなってしまった。10台しか顕微鏡はないのかと準備室をのぞくと、なんと約20台の顕微鏡がきれいに棚に並べてある。どうして、使わなかったのか授業後に尋ねると「顕微鏡の種類が違う、同じもので揃えようとすると10台しか揃わない」という返事が返ってきた。どうして、種類の異なる顕微鏡を使わないのか。おそらく、教師は「子どもが混乱する」と思っているのだろう。しかし、本当は「説明する教師が混乱する」のである。・・・・・たしかに、種類の異なる顕微鏡を使えばいいのである。多少の混乱はあるかもしれないが、顕微鏡の基本的な使い方は同じであり、ばらつきのあるものに対応することで、そのことの理解がより深まるであろう。子どもたちは新しいゲーム機を買ったとき、ほとんど取説を読まずにゲームをスタートさせることができる。それまで使っていたゲーム機の使い方を活用するのである。つまり、種類の異なる顕微鏡を使うことによって、どんな顕微鏡でも操作することができる、さらには、高度な顕微鏡に対応できる技能が高まるのである。子どものために「よい」と考えて教師(私)がやっていることの中に、見直さなければならないことも多いのだろう。
2013.09.12
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実際の地層の見学で見つけた「化石」。「生痕」であったものの、子どもたちの関心は高い。幸いなことに、本校の理科室には保管しきれないほどの化石がある。御輿来海岸の地層ではないものの、子どもたちには同じように地層からでてきたものであることを説明し、その化石を観察させる。子どもたちが観察した化石は「二枚貝(アサリやハマグリ)」「巻き貝」「アンモナイト」などである。子どもたちは、化石に「オス」と「メス」があることなども話題にあげながらいくつもの化石をスケッチしていった。いくつか観察する中で、多くの班から「貝の化石が多い」というつぶやきが聞こえるようになる。授業後、子どもたちのノートを見てみると「地層は海でできたということか?」という疑問が書かれていた。※ 今回の記録は、平成25年9月10日のものである。
2013.09.11
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前回のblogのつづき。「地層の見学と自由研究を終えて分かったことや疑問に思ったこと」。学級全体の話し合いの中で、話題は「地層のでき方」に移っていった。・・・・・smさん「esさんのに答えられるっていうか、私は津波だと思うんですけど、津波っていうか、やっぱり海って潮が引いたりするじゃないですか。見学しに行ったときも地層のところに水があったりとかしたから、たぶん、潮が満ちてきて・・・。」 MSくん「観察したところが一枚のプレートでできていると考えて、断層ができて、見えるところができて、その見えたところが観察した地点だと思います。 ・・・・・そんな中、NGくんが「層の重なり方」について発言する。・・・・・NGくん「なぜ砂と泥が交互になるのかっていうのを考えると、前に流水の実験をやったときに、大きな石とかはあんまり流れずに、砂とかがよく流れたから、多分そういうことで砂と泥では砂の方が重いから砂の方が先になるっていうことだと思うんですけど、泥の上に砂がくるのはちょっと分かりません。」HNくん「家で実験したんですよ。なんか透明のボールに砂と泥と石を入れて。そのときに、石、砂、泥の順で沈んでいったから、重い、大きいものから積もって、それて、砂、泥の順になっていると思うんですけど、でも、砂、泥の繰り返しだから、泥の上に砂が流れる理由は分からない。」 SMくん「え?ぼくとKGくんが実験したのでは、ぼくは、赤土と畑の土と川で取ってきた石でやったんですけど、赤土と畑の土は混ざっちゃったんですけど、ぼくたちがやったときは、小さい土の方が流れやすくて下に行って一番下が土になって、その上が石になったので、流れやすいものから積もるんじゃないかなって思いました。」・・・・・HNくんとSMくんは自由研究で実験しているものの、その方法が異なるため、結果が正反対になったのである。ただ、NGくんとHNくんは「泥→砂(もしくは、砂→泥)の順になるのは分かるけど、それだけでは説明できない」ということに気づいていることが分かる。その後も、次のように発言がつづいた。・・・・・ esさん「確かにNGくんとHNくんがいったように、その順番で積もるのはよく分かんないんですけど、二人に質問で、2班の持ってきた地層では、色が混ざったようなものがあって、それはどういう風な感じで積もっていったのかなっていうのが分かりません。」 MKくん「小石は流れてくるのが遅いから、それで地層の何回かに1回小石が流れるペースで、あとは泥と砂で、でも何十回に1回小石が流れてくるペースなのかなと思いました。で、2班が採ってきた地層は全部小石がなくて、全部砂と泥が混ざり合ってたやつだったから、やっぱりそうなんじゃないかなって思います。」・・・・・おそらく、今回の追究の最後でポイントとなるであろう「混ざっている層」と「れきの層」。もちろん、そのことを子どもたちは意識していないのだが、これからの追究が楽しみである。※ 今回の記録は、平成25年9月4日のものである。
2013.09.11
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宇土市御輿来海岸での地層の見学から2ヶ月。今回は、まず、そのときに撮った写真や採ってきた石や岩などを見ながら、見学を振り返る。続けて「地層の見学と自由研究を終えて分かったことや疑問に思ったこと」を話し合う。グループでの話し合いの後、学級全体では、次のような発言があった。・・・・・SJくん「見学で分かったことは、地層には固くて分厚いものと中に細かい層があるものがあって、色は灰色と茶色があって、そのとき思った疑問は、地層は何でできているかっていうこと。それを自由研究で調べたんですけど、固い分厚いのが「単層」で細いのが「葉層」ていうことが分かった。何でできているかっていうことは、れき、砂、泥、生物の死骸などの堆積岩っていうものからできているっていうことが分かりました。」 TRくん「地層見学に行ったとき、石を取ろうとしたときに、普通にぽろぽろって取れるやつと、ちょっと力を入れないと取れないやつがあって、そうしてそういう固さの違いがあるのが分かりません。」 MRくん「SJくんが言った厚さが分厚いものと細いものというのは、その石が固まっているものが違うから違うのかなって思って、この前の地層見学のときの分厚いのは黒い層で、細いのが茶色の層だった。持ってきたものをグループで見てたら、黒いものは少しざらざらとはしてなかったから、黒いものは泥で茶色いものは砂かなと思いました。」 ・・・・・まずは、素朴な疑問が出たということだろうか。地層をつくる一つ一つの層が何でできているのか、さらには、どんなものなのかということが話題になる。その後、少しずつ地層のでき方に話題が移っていく。・・・・・esさん「考えたいことなんですけど、地層はどのようにつくられているのかっていうので、班で考えたのは、地震とかが起こって津波とかで崖が削られて色が変わったりとか地層になっているっていうのと、あと崖崩れとかで、砂とかいろんな岩とかが落ちてきて積もってそういうふうになったというのと、あと一つは、水で削られて、浸食のはたらきみたいなものでつくられたんじゃないかなって。それでも、もし津波とかでも宇土でも津波があったのかというのも疑問だし、海の近くにあるからたぶん崖崩れとかもないんじゃないかなっていうことで、どれなのかなって思いました。」 SMくん「疑問なんですけど、地層を見に行ったとき化石があったじゃないですか。地層の上に化石があったので、地層と化石のつながりを調べてみたいです。」 ksさん「私は、HNくんが自由研究で地層のでき方を調べていて、川から流れてきた石とか泥とかがたまって、海の水が引いたから地層が見えたって言ってたんですけど、地層を見に行った御輿来海岸は海だったからこれは当てはまると思ったのと、地層ができたり見えたりする条件?というのはあるのかなと思いました。」 OHくん「疑問なんですけど、地層はけっこう高さが高かったのでどれだけつくるのにかかったのか思いました。」MKくん「TRくんに付け加えで、地層全体はポロポロ取れてもろいけど、地層の一つ一つは、班で、でかい地層からポロポロ取れたやつから取ろうとしてみても、小さくて細いけど、なかなか折れなかったから、地層はもろいけど、取れた一つ一つは固いということが分かりました。」・・・・・津波、崖崩れ、浸食、川の流れ。いろいろな「説」が出てきた。そんな中で、MKくんは一つ一つの「層」にこだわっているのだろう。(つづく)※ 今回の記録は、平成25年9月4日のものである。
2013.09.11
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夏休みも終わり、2学期のスタートは「自由研究発表会」。今回の自由研究のテーマは「地層」「火山」「地震」などの「大地」に関すること。「できれば実物を観察したり実験したりするように」と伝えていたのだが、子どもたちはいろいろなことを調べていた。まず、熊本で見られる地層について調べたもの。7月には宇土の御輿来海岸の地層を見学したのだが、御船町などに実際に足を運び地層を観察していた。次に、火山の噴火について調べたもの。夏休み中に噴火したこともあって、桜島について調べたものが多い。さらに、火山の噴火による土地の変化について調べたものもあった。ホームページなどで紹介されていたのか、風船を使って阿蘇のカルデラを実際につくったものもあった。また、雨樋を使って実際に地層をつくってみたものも。やり方は教科書などを参考したのだろう。他にも、岩石の種類や熊本県内の断層などを調べたものなどもあった。今回の自由研究が、一人一人の考えの「足場」や「こだわり」になるとともに、地層のでき方を追究するための根拠の「層」を厚くするものになればよいのだが。いよいよ「地層のでき方」の追究がスタートする。このような多様なアプローチを保障し、子どもたちの学びに生かすことができるような授業に挑戦していきたいと思う。※ 今回の記録は、平成25年9月3日のものである。
2013.09.10
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道徳の授業研究会の中で、授業とは直接関係ないないのだが「どうしてバスマナーが守れないのか」ということが話題になった。子どもたちは「バスマナーは守らなければならない」ということは知っているはずである。しかしながら「自分ひとりぐらいしゃべっても大してうるさくない」や「混んでないバスの中でしゃべっても問題ない」、さらには「友達といっしょになるとついついしゃべりたくなる」や「高校生や大人がうるさいこともある」など、自分なりの「論理」で自分たちの行為を正当化し「いいわけ(主張)」しているのだろう。この「論理」について、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)は「『対話』で広がる子どもの学びー授業で論理力を育てる試み」(内田伸子・鹿毛雅治・河野順子・熊本大学教育学部附属小学校著 明治図書 2012.2)に次のように書かれている。・・・・・ 根拠づけには少なくとも三つのパターンがあると言われている。第一に、意味によって根拠づける場合である。「まちがえたのはお店の人だから返さなくてもよい」という意見がこれに該当する。「おつりを間違えるという行為の責任はお店の人にあり、おつりをもらった側にはない」というBさんの主張のように意味に整合性をもたせることで結論を導いている。第二に、事実によって根拠づける場合である。「みんな内心そうでしょ?」「大当たりのアイスの棒を拾ったら交番に届けますか?ふつうはもらうでしょ?」と迫るA君の主張は、現実にはどうなのかという(A君の推測ではあるのだが)「事実」に基づいており、この種の論理は「理想論」を撃沈させる威力をしばしば発揮する。第三に、価値によって根拠づける場合である。例えば「泥棒と同じことだから返す」という意見はその論拠として「泥棒=悪」という論理によって主張されているといえる。そもそも上記の例は道徳の時間であるということもあり、最終的には「よいことだから返す」「返さないのは必ずしも悪いことではない」というように価値を根拠とした主張へと議論が収束していくことになる。・・・・・ 「意味」「事実」「価値」の三つによる根拠づけ。上記の「いいわけ」も、前者が「意味による根拠づけ」で後者が「事実による根拠づけ」によるものであろう。おそらく大切なのは、自らの「根拠づけ」を自覚せざるおえない機会に直面し、信念や思い込みが揺さぶられるということである。では、理科学習で考えるとどうなるだろうか。「事実による根拠づけ」によらない主張もあるとともに、それらの主張も授業の話し合いの中では必要だということを再確認するとともに、「意味」や「価値」による根拠づけによる主張を授業者が理解し揺さぶる手立てを考えること大切なのだろう。
2013.09.09
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前回のblogの続き。前回まで「一般的な」指導案の書き方について書いたが、本校ではこれらの前に枠囲みをして「教師の『ねがい』」を書く。これが、本校の指導案の一番の特徴である。この教師の「ねがい」は、目の前の子どもたちに対する私の問題意識であるとともに、私自身の課題である。なお、この「ねがい」は、以前のこのblogで紹介した藤岡寛治先生によって提案された「授業デザインの6つの構成要素」の一つであるが、鹿毛雅治先生(慶應義塾大学)は「授業研究と教師の成長を結ぶ」(藤沢市教育文化センター 2009.3)の中で、次のように書かれている。・・・・・A ねがい では、授業デザインとは何か。今言った「ねがい」ということがキーワードなんです。要するに先生一人ひとりがですね、目の前の子どものようにどのように育ってほしいのかとか、どういうことを学びとってほしいのかとか、非常にオリジナルな思いを持って、そういうことを授業の中核に据えて授業をしているということなんです。 この「ねがい」というのは意外と明確に自覚していないものだと思うんですね。日々実践する中で自覚化していない、ことばにできない部分だと思うんですが、授業をデザインするということは、ある意味、それを明確化したり自覚化したりすることだという気がしますね。この「ねがい」が6つの構成要素の中の中核になる一つの要素ですね。授業デザインをする上で暗黙に日々感じていたり思っていたりしている「ねがい」をことばにしています。これが授業づくりの中核になります。・・・・・ちなみに、今年2月に授業を公開した5年「流れる水のはたらき」の指導案の中で、私は「ねがい」を次のように書いている。・・・・・ これまでの学習の中で,一人一人の子どもたちが,観察・実験の結果などの事実をもとに推論しながら自分の考えもつことを大切にしてきた。例えば,発芽の学習での「発芽後に子葉が落ちる」や,ものの溶け方での「水に溶けた食塩の重さは保存される」などの事実である。 しかしながら,本実践で取り上げる「川の上流と下流の違い」は,長い時間をかけて起きた現象であり,教師から一方的に説明しても子どもたちは受け入れなかったり,事実のとらえ方にずれが生じたりすることもある。実際に川を観察したとき,上流や下流の様子の違いに気付いた子どもたちは,次のように発言した。「上流は,川はばが狭いから水の流れが速い。」「下流の川はばが広いのは,水が長い距離を流れたから,けずる力が大きくなったから。」 そこで、これまで以上に「目の前の事実」から思考することを促すとともに,川の様子と流れる水のはたらきを関係付けることができるような工夫が必要がある。 また,子どもたちは,「聴く−語る」という他者とのかかわり合いの中で「ことば」を使って推論したり,自分の考えを見直したりする。この「ことば」を大切にするとともに,事実を見直しながら思考できるような教師のはたらきかけを行うことにより,一人一人の子どもたちの見方や考え方をより科学的なものに変容させていきたい。・・・・・子どもとともに授業を創る教師である私自身の「ねがい」は「ことば」にすることによって明確化、自覚化される。指導案を書くことによって、「ねがい」を鍛える必要がある・・・。
2013.09.04
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教育実習中、実習生によく紹介したドラマの話がある。「どうして教師になろうと思ったのか」「自分は教師に向いているか」などの質問に対する答えの中で話したことなのだが、けっこう前に放送された「ブラックジャックによろしく」というドラマの一場面である。小児科の研修医(加藤浩次)が、研修に行き詰まって病院を逃げ出す。その研修医が、雨が降る夜の街角で犬の散歩中をしている指導医の安富先生(鹿賀丈史)と出会ったときのやりとり。T が小児科安富先生(鹿賀)で、Cが研修医(加藤)。 ・・・・・T:犬はいいですよね。人間の子どもと違って、素直だし、中立だし。C:は?T:ぼくもね、あいにく子ども好きじゃないんですよ。C:え?好きじゃない。T:若い頃顔見せただけで泣かれましてね。C:・・・。T:それで、この笑顔覚えたんです。C:・・・。T:子どもをかわいいなんて思ったことは一度もありません。C:・・・。T:だからこそぼくは小児科医を続けてこれたのかもしれない。C:安富先生・・・。T:ぼくね昔三日間病院ずる休みしました。だから君の病欠も3日まで認めます。・・・・・また、その指導医の安富先生に研修医(妻夫木)が質問したときの答え。・・・・・C:どうして小児科医を続けているんですか?T:私がやらなきゃ、誰がやるんですか?(笑)・・・・・この話をするときに、いつも思い出す大村はま先生の「ことば」がある。・・・・・「熱心と愛情、それだけでやれることは、教育の世界にはないんです。」(大村はま「灯し続けることば」小学館)・・・・・「子どもが好き」「やる気はある」は教師の専門性に含まれないのだろう。
2013.09.03
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前回のblogのつづき。私が指導していた指導案の書き方のポイント。5.本時の目標の書き方基本的に、次のような文で書く。できるだけ一つにする。「・・・する活動を通して、・・・することができる。」「4.指導観」と同様、「ねらい」と「手立て」が明確になるようにするが、ここは子どもの立場で書く。6.本時の展開の書き方「学習活動」は「子どもの立場」で。「指導上の留意点」は「教師の立場」で書く。「指導上の留意点」は「4.指導観」と同様、「ねらい」と「手立て」が明確になるように次のような文で書く。例「(ねらい)・・・のために、(手立て)・・・する。」もしくは、「(手立て)・・・することにより、(ねらい)・・・させる。」書く必要のあるものだけ箇条書きで書くが、中心になる学習活動に対するものの数が多くなるようにする。また、「学習活動」は、「導入」→「展開」→「まとめ」の3つの段階の沿って、それぞれのスペースの割合が1/4、1/2、1/4ぐらいになるように書く。特に、「導入」の学習活動は、次のような文で書く。例「・・・し、本時の課題を把握する。」(この文の後に、本時の課題を枠囲みして示す。)なお、「考える。」ではなく「書く。」「話し合う。」などの具体的な活動を書くようにする。この「6.本時の展開」は子どもの活動がバラバラではなくつながりがあるものにするとともに、シンプルになるようにする。また、「課題と、それに対するまとめ」「問題と、それに対する答え」という思考の流れがイメージできるようにする。※ 今回、説明を分かりやすくするために「本質観の書き方」や「本時の目標の書き方」などのプロットの前に番号をつけたが、これは実際の学習指導案上の番号と異なる。今回書いたものの他に、「単元名」「単元の目標」「指導計画」なども、もちろん書く必要がある。(つづく)
2013.09.03
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前回のblogのつづき。私が指導していた指導案の書き方のポイント。2.系統観の書き方基本的に、次の2文で書く。一文目例「子どもたちは、これまで○年『○○』で○○について学習している。」二文目例「本単元で『○○』について学習することは、○年「○○」の学習に発展する。」3.児童観の書き方ここでは「本単元に関する子どもの実態は次の通りである。」と前置きし、次の3つの点について、アンケートの結果などをもとに箇条書きで書く。そのとき、結果だけでなく、考察まで書くようにする。○ 取り上げる教材や内容に関する関心○ 既習内容に関する実態○ 単元に関する経験や技能の実態4.指導観の書き方ここでは「指導にあたっては、次の点に留意する。」と前置きし、次のような文で箇条書きで書く。例「(ねらい)・・・のために、(手立て)・・・する。」もしくは、「(手立て)・・・することにより、(ねらい)・・・させる。」なお、次のような工夫について3〜5点書く。○ 導入の工夫○ 主となる教材・教具の工夫(提示の仕方も含めて)○ 課題設定の工夫○ 子ども同士の交流の工夫(話し合いを含めて)○ 終末の工夫ここまでに「1.本質観」から「4.指導観」まで書いたが、これらが次のような一連の流れになるようにする。「ねらいや系統」はこうである。しかし、「子どもの実態」はこうである。だから、このように「指導の工夫」をする。つまり、一つの文章として成り立つように書くのである。(つづく)
2013.09.03
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来週から教育実習がはじまる。担任をしてた9年間は私も実習生の指導していたのだが、その間に担当した学生は101人。1人あたり3回授業するので、指導案の書き方(あわせて実際の授業についても)を指導したのも300を超えることになる。この指導案の書き方は、実習生に配る「教育実習必携」に詳しく説明してるのだが、せっかくなので、私が指導していたポイントをこのblogでも紹介したい。0.学習指導案とは私たちが普段「指導案」と呼ぶが、正式には「学習指導案」である。文字通り学習指導の計画であるが、以前、ある校長先生から「『学習案』と『指導案』の二つの意味がある」と話を聞いて、妙に納得したことを覚えている。確かに、学習指導案は、教師の立場で書く(○○させる、○○できるようにする)部分と、子どもの立場で書く(○○する、○○できる)部分がある。また、そのとき「指導ばかりで『学習』が抜けているものが多い」と指摘された。子どもの「学び」を具体的にイメージできない学習指導案になってしまっているのであろう。つまり、学習指導案を書く時に大切なことは、「教師の指導の『ねらい』と『手立て』を明確にする」ことと「子どもの『学び』を活動レベルで具体的にイメージする」ことである。もちろん、このことが学習指導案を書く意義であり、参観者にもこのことが伝わらなければならない。1.本質観の書き方ここでは、「単元の主なねらい」「教材の価値」「学習の発展」の3文(段)で書く。(単元によっては、二文目を省くこともある。)一文目例「本単元は、・・・ことを主なねらいとしている。」二文目例「本単元で取り上げる○○(教材)は、・・・であり、・・・することができる。」三文目例「また、これら活動を通して・・・することは、・・・する能力を育てることにつながる。」(つづく)
2013.09.03
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8月18日・19日に開催された「学びの共同体研究会・別府」に参加した。その中で、私も参加した「東海国語教育を学ぶ会 授業づくり・学校づくりセミナー」の報告があり、次のような石井順治先生(東海国語教育を学ぶ会顧問)の話が紹介された。・・・・・学びの深まりを生み出す教師の対応は、 すべての子どもの学びの事実をみようと心を砕くこと。 子どもの考えのつながりに心を砕くこと。 テキストの読みや課題の追究に心を砕くこと。 子どもの学びの可能性に心を砕くこと。 子どもの育ちに心を砕くこと。・・・・・私も、同じ「ことば」をメモしていたのだが、どうして「心を砕く」なのか。「砕く」「心を砕く」を辞書(goo辞書)で調べてみると、次のように書かれている。・・・・・1 強い力を加えて、固い物やかたまりになっている物を細かくする。2 勢いを弱らせる。計画などをつぶす。くじく。3 ㋐(「心をくだく」の形で)あれこれと心を悩ます。思い悩む。(略)・・・・・いよいよ始まる2学期も、コチコチに固まった私の心と目、そして、「よこしまな」思いに思い悩む日々になるのだろう・・・。
2013.09.01
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夏休みに多くの研究会に参加したが、自分にとってアウェイだと感じることがあった。おそらくそのほとんどが私自身の自信のなさからくる「場違い感」であるのだが、私が提案・主張していることと違いからくる「違和感」、そして、「受け入れてもらえないだろう」という「敵地感」もある。だからこそ、いろんな研究会に足を運ぶ意味があるのである。しかし、振り返ればこの10年間、私は自らずっとアウェイに居続けたのだろう。新任のときは、理科の主張がまわりから受け入れられない。それで、中央での研究会にも足を運び、情報を収集したりネットワークをつくったりして理論をつくった。また、プレゼンの能力をつけるため、学会でも発表した。研究テーマに「協同的な学び」になってからは、一番に手を挙げて授業を公開した。その後、研究部としての提案する立場になるのだが、その主張が受け入れられない。「授業デザイン」「授業リフレクション」「認知的葛藤」「わかり直し」、そして、「教師の『ねがい』」と「子どもの『学び』」。「これまでもやってきた」や「授業者としてもっと重要なことがある」という反論の中で、地道に授業リフレクションを続けた。途中、文科省の指定を受け「論理科カリキュラムの開発」に取り組むことになる。少しずつ進めてきたことの上にいきなり落ちてきた隕石のようなものであったが、それまでの3年間大切にしてきたことと何とか整合性が取れるようになる。しかし、しばらくするとその「論理科」の主張が受け入れられない。それでも、授業リフレクションをシステム化し、教室の座席の配置もコの字型をベースにするなど、子ども同士の「聴く」ー「語る」関係づくりを研究の中心に据えた。「論理科」が、すべての教室を「学び」に向かわせる原動力になったのである。 しかし、その「論理科カリキュラムの開発」が終わると、今度は「学び」を中心に据えた授業づくりを続けることが受け入れられない。これが一番きつくて闘うことが難しいのだが。でも、このように振り返るとアウェイであり続けたことが自分を成長させてくれたのだろう。「ちがう」ということを前提で対話することこそ研究である。いやでも「ちがう」相手にわかりやすく、そして自分の「ことば」で語らなければならない。また、戦略を立てることも、研究の幅を広げることにつながったのだろう。もちろん、ホームのよさもあるのだろうが。おそらく1年目からアウェイだったことから、ずっとアウェイあることを覚悟できたのだろう。
2013.09.01
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