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前回のblogのつづき。11月14日(金)に開催された茅ヶ崎市立浜之郷小学校の月例授業研究会に参加して目の当たりにしたのは、浜之郷小学校の若い先生方が「学び上手」であること。では、どうすれば私は「学び上手」になれるのか。佐藤学先生(学習院大学)は「教師花伝書」(小学館 2009)の中で次のように書かれている。・・・・・ 授業の事実(経験と出来事)から学ぶことができる教師と、授業の事実から学ぶことのできない教師とは、何がどう違うのだろうか。 ・・・(中略)・・・ 私は、この違いは、授業を「よい授業」「悪い授業」あるいは「よい指導法」「悪い指導法」というように「評価」する教師と、授業の事実をあるがまま「評価」しないで「省察」することができる教師との違いであると思う。授業の事実から学べない教師は、自分の尺度で授業の事実から「よい授業」「悪い授業」あるいは「よい指導法」「悪い指導法」の判別を行っているにすぎない。このような教師は、どんな授業の事実と出会っても、何も学ぶことができないのである。 ・・・(中略)・・・ 教師が教育の専門家として学び上手な人へと成長するためには、まず、自他の授業を「評価」する見方から「省察」する見方への転換を図る必要がある。「よい授業」「悪い授業」「成功」「失敗」として授業を観察したり反省したりしている教師は、一生かけても素人のままであり、いくら年数をかけても教育実習生のレベルから一歩も成長しえないだろう。 ・・・(中略)・・・ 専門家の学びは「経験」から学び、「経験」と「理論」を結びつけて「見識」を形成することにある。その最も重要な基礎となるのが「事実」(経験と出来事)から学ぶことである。教室の細やかな事実や出来事を「発見」し「驚き」を感じることができる能力が、そしてこの難解な探究を愉しむことができる能力が、専門家として教師に求められている。 学び上手な教師は、「評価」という枠を超えて、仔細な事実をあるがまま観察し、そこにいくつもの「発見」と「驚き」を見出すことができる教師なのである。・・・・・今の私は、「驚きと発見」を期待して授業参観に向かっているのか。授業参観中、「悪い授業」と勝手に評価し「悪い」と主張するための根拠となる事実を探していないか。自分の授業を「よい授業」だと主張するために、都合のいい事実ばかりに目を向けていないか。おそらく、見逃してしまった「驚きと発見」がたくさんあるのだろう。
2013.11.27
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先日のblogのつづき。11月14日(金)に開催された茅ヶ崎市立浜之郷小学校の月例授業研究会に参加して一番驚いたのが公開授業後の研究会であった。先日のblogにも、私は次のように書いている。・・・・・強く印象に残ったのは、授業、そして、その後の授業研究会を通して、(50名以上の外部からの参観者があるのに)授業者を含めた浜之郷小学校の先生方が、いわゆる「見せる授業」をしようとしていないことである。授業後の研究会も、それぞれのグループでの学びについて、浜之郷小学校の先生方一人一人がみた子どもの事実を語られる中で、「分からない子どもといっしょに操作することで『立体を切るイメージ』をもつことができていた」「分かっている子ども同士では生まれてこない疑問があることを再確認した」などの学びを共有することに発展していった。・・・・・授業研究会の中で、どんどん学びが語られ、どんどん学びが生まれるのである。もちろん、その研究会に私はついていけない。その挫折感の中、改めて佐藤学先生(学習院大学)の「教師花伝書」(小学館 2009)を読んでみると、次のように書かれていた。・・・・・ 周囲の人間が寄ってたかって欠点の改善を行えば、若い教師は混乱するだけで、せっかくの若さが生み出す「花」もしおれさせてしまう。その若い教師の将来の「花」のもとになる「種」を探り当て育てなければならないのである。 ・・・(中略)・・・ 若い教師の授業を参観して欠点を指摘することは誰にでも容易だが、授業の事実に即してその教師の成長を支える、的確な助言を行うことは至難である。若い教師の実践においては、あまり複雑な事柄がもつれた糸のように絡み合っているからである。 若い教師たちとの協同によって、私は「すぐれた授業」「すごい授業」ばかりを追い求めていた自分の浅薄さを反省した。 ・・・(中略)・・・ 「妙花」を追い求め、「すごい」「すごい」と自己満足に浸るのではなく、目の前の一人ひとりの教師の「花」を準備する「種」を深く研究する必要がある。私たちは「すごい教師」ではなく、「通常の教師」特に若い教師たちから、もっともっと学ぶ必要がある。 ・・・(中略)・・・ 多くの教師は「妙花」を求めるあまり、隣の教室の教師から学ぶことを怠っているし、最も身近な同僚から学ぶことをおろそかにしている。一言で言えば、学び下手である。さらに多くの教師は「花」を追い求めるあまり、「花」のもとである「種」について無頓着である。日々の修養をとおして「種」を育むことが求められるのに、「花」に目を奪われ、「花」の育て方や咲かせ方に意識を奪われていると言ってよい。・・・・・本当に「学び下手な私」を痛感した一日であった。(つづく)
2013.11.26
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先日のblogのつづき。「教える専門家」から「学びの専門家」へ。11月14日(金)に開催された茅ヶ崎市立浜之郷小学校の月例授業研究会に参加した私の一番の学びである。その研究会後、家に帰ってに真っ先に手にした本がある。それは、佐藤学先生(学習院大学)の「教師花伝書」(小学館 2009)である。その中で、「専門家として育つ」として次のように書かれている。・・・・・ 教師の実践を外から見ると「職人」としての性格が顕著だが、実践者の内側から見ると「専門家」としての性格が中心であることが知られるだろう。授業のデザインにおいて何を教材の核として設定し、どのような資料を準備し、どのような活動を組織するのか、その授業の遂行において、どの子どもの発言を取り上げて、それらの発言のどれとどれをつなぎ、どのような探究発動を促進するのか・・・。これらすべてが教師の認識と思考と判断によって遂行されている。その意味で、教師の実践は外からは「見えない実践(invisiblepractice)」である。 最近、学校を訪問し、教室で授業を参観して痛感することの一つが、授業の形式は整っていても内容がない授業が多いことである。 文学的な意味で言葉が豊かにならない授業、算数の技能は形成されても数学的意味が衰弱している授業、会話の技能は訓練されていても英語としての言語教育が貧しい授業、実験は行われているが科学的探究が成立していない授業、資料による事項の認識は成立しているが社会事象のつながりや対立が消されている授業などである。これらの教室では授業の形は成立していても学びは成立していない。(当然、教師の関心は、子ども一人ひとりの学びよりも、もっぱら授業の形式や進め方にある。どうする?どうする?の世界である。) ・・・(中略)・・・ 教師は「教える専門家(teaching profession)」であると同時に「学びの専門家(learning profession)」でなければならない。知識が高度化し、複合化し、流動化している知識社会においては、なおさらそうである。・・・・・先日のblogでも書いたが、浜之郷小学校ではどの授業も「地味」であった。授業の形式や進め方より、子ども一人ひとりの学びを大切にされているのである。だからこそ授業をみる浜之郷小学校の先生方も子どもたちの発言を「よい」「悪い」で評価するのではなく、子どものことばにならない「ことば」に耳を傾け一人ひとりの学びを見取ることができるのだろう。最近の私の関心は「もっぱら」授業の形式や進め方だったのである。(つづく)
2013.11.26
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先日、科研費(奨励研究)の申請のために「発表した研究成果」を整理したのだが、この10年間「学会」で発表しただけでも、けっこうな数になっていることに気づく。しかし、この「学会」での発表は、苦手だったプレゼンの練習のために「年2回は発表する」と決心して本校2年目からはじめたもの。(初等理科教育研究会中央夏期講座での3回の発表と社会科初志を貫く会での2回の提案などを合わせると、何とか回数だけは達成できている。)よこしまな動機での参加であるが、私にとって「ちりも積もってなんとか」になっているのだろうか。度胸と「短時間でプレゼンをつくる」技は身につけたのだが・・・。・・・・・1)視点の明確化のための「映像」による事象提示の工夫『日本理科教育学会第54回全国大会(筑波大学)』20042)小学校理科におけるIT活用による「視点」の明確化『全日本教育工学研究協議会全国大会(東京工科大学)』20043)「発展的な教材」を取り入れた理科授業のデザイン『日本理科教育学会九州支部大会(熊本大学)』20054)小学校理科学習における「インターネット天文台」を活用した天体学習の工夫『全日本教育工学研究協議会全国大会研究(長野)』20055)小学校理科における協同的な学びの実現をめざした授業デザイン『日本理科教育学会九州支部大会(鹿児島大学)』20066)小学校理科における「発展的な教材」を取り入れた授業デザイン『日本理科教育学会第59回全国大会(奈良教育大学)』20067)「ことば」を大切にした理科授業デザイン~磁石に対する概念形成をめざした授業実践から『日本理科教育学会九州支部大会(宮崎大学)』20088)「ことば」を大切にした理科授業デザイン~溶解に対する概念形成をめざした授業実践から『日本理科教育学会九州支部大会(大分大学)』20099)みんなで「きまり」を創りだす理科授業デザイン『日本教育心理学会創立50周年記念シンポジウム2(福岡)』200910)「ことば」を大切にした理科授業デザイン~空気に対する概念形成をめざした授業実践から『日本理科教育学会九州支部大会(福岡教育大学)』201011)授業を意味づける(3)協同学習場面は何を語りかけてくるのだろうか『日本教育心理学会52回総会(早稲田大学)』201012)「ことば」と体験をつなぐ理科授業デザイン(1)『日本理科教育学第62回全国大会(鹿児島大学)』201213)「ことば」と体験をつなぐ理科授業デザイン2(1)『日本理科教育学会九州支部大会(長崎大学)』201314)論理的思考力を育成する理科授業のデザイン『日本教科教育学会第39回全国大会(岡山大学)』2013・・・・・このように並べてみると「私」の問題意識の変化が分かる。学会発表していない2007年がターニングポイントになっているようだ。その年は、私が授業ビデオを使ったリフレクションをはじめた年。原稿もちゃんと整理しておけばよかったのだが・・・。(つづく)
2013.11.26
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先日のblogのつづき。先日(11月14日)に参加した茅ヶ崎市立浜之郷小学校の月例授業研究会での学びを、このblogで次のように書いた。・・・・・授業後の研究会も、それぞれのグループでの学びについて、浜之郷小学校の先生方一人一人がみた子どもの事実を語られる中で、「分からない子どもといっしょに操作することで『立体を切るイメージ』をもつことができていた」「分かっている子ども同士では生まれてこない疑問があることを再確認した」などの学びを共有することに発展していった。・・・・・このことは、「子どもをみる」ことを授業研究の中心にしてきたつもりだった私にとって強い衝撃であった。浜之郷小学校の先生方の見とりと語りについていけないのである。授業中、子どもたちが「ボソボソ」っとつぶやく「ことば」をメモすることができない。しかし、浜之郷小学校の先生方は、そんな子どものつぶやきを紡ぎストーリーとして語ることができるのである。なぜ私にできないのか。おそらく、ある程度プロトコルとしておこすことができる子どもの発言ばかりをリフレクションの対象にしていたのだろう。さらには、論理的な説明を求めるばかり、子どもの発言の善し悪しを評価していたのではないか。特に、理由づけが表出した説明ばかり着目していたのではないか。 子どもたちのちょっとした表情やしぐさ、そして、文章として書き表すことのできない直感的・断片的な「ことば」。おそらく浜之郷小学校の先生方は、これらを論理的でしっかりとした発言よりも大切にされているのだろう。(つづく)
2013.11.24
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このblogでも何度か書いたが、設定する課題のレベルについて改めて考えてみる。結論からいうと、クラスの中のできる子どもが伸びてたどり着くレベルに設定することが必要である。わからない子どもに合わせないのである。「じゃあ『全員がわかる』に達しないのではないか」と反論されるだろう。しかし、このことは一歩学校を離れてみれば分かるだろう。たとば、サッカーチームで考えるとどうか。Jリーグのチーム(特に、ロアッソなどは顕著だが)でも、選手の力には差がある。それがチームとして目標を立てるとき、力量が低い方に合わせるだろうか。多くの場合、力量の高い選手のレベルでも少し難しいレベルに設定するのではないか。(ロアッソだとJ1昇格・・・)その中で、高いレベルの選手も低い選手も力量をつけることができるだろう。もし、力量の低い選手に合わせて目標のレベルが低かったらどうか。このことは、大学などの共同研究でも同じだろう。今回、高垣マユミ先生(津田塾大学)といっしょに学会発表や論文の執筆に取り組んで実感することができた。このことについて、石井順治先生(東海国語教育を学ぶ会顧問)は、「学びのたより」(東海国語教育を学ぶ会のHPでダウンロードできる)に「『ジャンプの課題』とは」として次のように書かれている。・・・・・ そもそも「ジャンプの課題」とは、独力では解決できないが協同的に取り組むことでその頂に登れるというレベルで設定されるべきものです。ロシアの心理学者ヴィゴツキーが提示した「発達の最近接領域」理論が基礎になった考え方です。「発達の最近接領域」は、自力で問題解決できる現実の発達レベルと、大人の指導や仲間との協同のもとで問題解決できる可能性の発達レベルとの間の距離のことです。一人で達成できるレベルを「現下の発達水準」と名づけられ、他者との協同、援助によった達成できるレベルを「明日の発達水準」と名づけられていて、学びは、子どもの学びを一人で達成できる水準に留めるのではなく、明日の発達水準に引き上げるものだと考えるわけです。ですから、明日の発達水準に合致する課題が必要なのです。それが「ジャンプの課題」です。・・・・・さらに、「『ジャンプの課題』設定の留意点」として・・・・・1)聴き合う関係を育てていること2)クラスの子どもの状況を見極めること3)共有の課題とのかかわりを明確にすること・・・・・また、先日の別府市立青山小学校の公開研究会で佐藤学先生(学習院大学)が講演の中で次のように話されたことを思い出した。・・・・・子ども同士がつながっていればジャンプできる。・・・・・これまで「私」が大切にしてきたはずの「聴く」−「語る」関係をつくること。今、立ち止まって振り返る必要があるのだろう。(ロアッソの選手はつながっているのだろうか・・・。)さらには、今私たちは校内研究としての課題や目標を高く設定しているだろうか。「このくらいでいい」としていなければいいのだが。
2013.11.24
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前回のblogのつづき。11月23日(土)24日(日)に岡山大学で開催された日本教科教育学会で「論理的思考力を育成する理科授業のデザイン」を高垣マユミ先生(津田塾大学)と共同で発表するために事前のやりとりをする。その中で、高垣先生に次のように考察していただいたのだが、今の本校の研究の方向とは少し異なっていることが分かる。私たちの研究が「子どもの説明の仕方」に偏っていることが分かる。特に、トゥールミンモデルの中の「根拠」「理由づけ」「主張」が揃うこと、さらには「質の高い理由づけ」が表出することを子どもの経験と意欲、そして、授業中の教師の力量にゆだねすぎていないだろうか。少なくとも、2年前までの「私」は、子どもの「論理」を見とり揺さぶることを実践の中心にしていたのではなかったか。(つづく)
2013.11.24
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11月23日(土)24日(日)に岡山大学で開催された日本教科教育学会に参加し、「論理的思考力を育成する理科授業のデザイン」というタイトルで発表した。学会に参加すると「アウェー感」を感じることができるとともに、いろいろな発表を聞いている中で思わずアイディアが浮かぶこともある。しかし、それ以上に高垣マユミ先生(津田塾大学)と共同で発表するために事前にやりとりできたことが、私にとって一番の学びであった。高垣マユミ先生には、昨年の研究発表会の講師として本校に来ていただき私の授業を観ていただいたのだが、そのときの実践を評価していただいたことから今回共同で発表することにつながった。発表原稿やプレゼンをつくる段階でメールでやりとりしながら、いろいろなアドバイスをいただいた。その中でも、いくつかの子どもの説明をトゥールミンモデルに照らし合わせて分析していただいたので、ここで紹介したい。5年「流れる水のはたらき」で「どうして上流と下流で石の大きさがちがうのか」という課題に対し、雨樋実験(雨樋を使ってれき・砂・泥の流されやすさを調べるもの)後のりくとくんの発言。分析していただいたりくとくんの説明の論理構造は次の通り。また、「上流から中流に焦点化」して話し合ったときのまさみさんの発言。分析していただいたまさみさんの説明の論理構造。やはり、授業中の「私」は聴くことができていない・・・。(つづく)
2013.11.24
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前回のblogのつづき。11月14日(金)に開催された茅ヶ崎市立浜之郷小学校の月例研究会に参加し、理科の算数の授業を参観することができた。算数の授業は、6年「立体の体積」で、底面が台形や90°の扇形を2つずらしてつけたような形や、円柱を斜めに切断したような形の体積を求めるといったものであった。授業者の目崎先生は、おそらく浜之郷小学校が初任の若い先生である。強く印象に残ったのは、授業、そして、その後の授業研究会を通して、(50名以上の外部からの参観者があるのに)授業者を含めた浜之郷小学校の先生方が、いわゆる「見せる授業」をしようとしていないことである。授業では、ジャンプの課題として「ちくわぶ」の体積を求める問題が用意されていたのだが、その提示に向けて授業者が慌てることはなかった。(結局、提示しないまま授業を終え、子どもたちは「ちくわぶやりたい」と声を上げていた。)授業者は、グループの中でのもどもの学びをケアすることに終始したのである。授業後の研究会も、それぞれのグループでの学びについて、浜之郷小学校の先生方一人一人がみた子どもの事実を語られる中で、「分からない子どもといっしょに操作することで『立体を切るイメージ』をもつことができていた」「分かっている子ども同士では生まれてこない疑問があることを再確認した」などの学びを共有することに発展していった。数年前、別府市立青山小学校の公開研の講演で、佐藤学先生(学習院大学)が次のように話されたことを思い出した。・・・・・「教える専門家」から「学びの専門家」へ。研究の事実は子どもの姿であり、子どもの「学び」を大切にしていくと、授業は自然に地味になる。形式や見映えにこだわらず、明確なビジョンをもってほしい。・・・・・また、佐藤学先生は、著書「教師花伝書」(小学館 2009)の中で、次のように書かれている。・・・・・ 例えば、「学びの共同体」のパイロット・スクールとして知られる茅ヶ崎市立浜之郷小学校は、創設11年目を迎えているが、近年の都市部における爆発的な新規採用の増加によって教師の若返りが著しい。 昨年は、浜之郷小学校の校長を含む約30人の教師の平均年齢は31歳まで低下した。担任教師の半数が教職経験4年以下、研修主任も教職5年目という若さである。同校は東京近郊や大阪近郊など、都市部の学校の数年後の姿を先取りしていると言ってよい。 この若返りの学校を「よちよち歩きの浜之郷」とときには揶揄しているのだが、驚異的に思われるのは、同校における教師たちの「同僚性」の素晴らしさと若い教師たちのまぶしいほどの成長ぶりである。若さゆえに経験や技術の未熟さは致し方ないが、それらのハンディを超えるだけの教師相互の学び合いと質の高い授業実践が展開されている。 どの教室においても教師と子ども、子ども相互の細やかで丁寧な学びとケアの関わり合いが実現しているだけでなく、特に授業協議会において一人ひとりの子どもの学びの省察の深まりが見られ、一人ひとりの同僚に対する親密な配慮と信頼に基づく批評が交流されている。 大半の教師が20代の学校でも、どの学校よりも質の高い授業協議会が可能であることを浜之郷小学校の若い教師たちは示唆してくれる。・・・・・ 2月の研究発表会で、「私」は参観される先生方に何を見せようと(提案しようと)しているのか。この7年間「私」が大切にしてきたことは何か。再確認する必要がある。(「公開研究会」と「研究発表会」は違うと反論されそうだが。)(つづく)
2013.11.23
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先日のblogの続き。11月14日(火)、茅ヶ崎市立浜之郷小学校の月例授業研究会に参加した。その中で、理科の算数の授業を参観することができた。はじめに参観したのは秋山先生の5年理科「ものの溶け方」の授業。氷砂糖とコーヒーシュガー、普通の砂糖をネット(普通の砂糖は穴あきのビニル袋)に入れて水につけ、その溶ける様子を観察するというもの。前時には、水の入った細い管に砂糖をと小麦をの粒を落として様子を比べていて、砂糖が溶けることは分かっているのだが、実験前の「氷砂糖は」という質問に対し「固すぎて溶けない」「ちょっとだけ残る」「口の中では溶ける」という声が上がった。実際に水につけてみると、3つとも「もやもや」としたものが下に落ちていくのが分かる。子どもたちは、じっとその現象を見つめながら「どれもたくさん出てきた」「砂糖が減ってる」「コーヒーシュガーのは水が茶色になってきた」「下の方にたまってる」などのつぶやいている。ボソボソっとしたつぶやきで、けっしてうるさくないのだが、そのグループはもちろん、教室中に広がっているという感じがした。授業も終盤になり、授業者が気づいたことをまとめさせようとするのだが、子どもたちは目の前の現象から離れない。「もうちょっと」という子どもたちの静かな雰囲気が「そろそろいいかな」という授業者の声を押し切っていく。それでも時間になり、授業者が「まとめて」というと、一人の子どもがグループで次のように発言した。「氷砂糖は、まとまっているから溶けやすい。(普通の)砂糖は、まとまってないから溶けにくい。」これは、普通の砂糖だけがネットではなく穴あきのビニル袋を使っていて、そのビニル袋に砂糖が残っていたことから、そう見えたのであり、他の子どもも「穴だよ」と指摘する。そんな中、となりの子どもが次のように発言した。「固まっているほうが遅いんじゃないかな。『砕かれて』るのと固まってるの。」はじめに発言した子どもは、氷砂糖と普通の砂糖を別のものととらえているのに対し、この子どもは氷砂糖を砕いたものが普通の砂糖だ」と考えているのだろう。このように考えると、溶ける水に対する固さはどちらも同じであり、表面積の大きい普通の砂糖の方が溶けやすいという結論を導き出すことができる。これは、導入の「氷砂糖は固い」というイメージが変容したものであり、単元終末で取り扱う「粒子」の概念に近づくきっかけになるものである。(時間があれば、どこからそう考えたのか尋ねたかったのだが。)授業後の研究会で、佐藤学先生(学習院大学)は、次のようにコメントされた。・・・・・子どもが「学び上手」になっている。日本の理科の授業は、「仮説・実験・検証」のワンパターンになっている。これは、科学の方法の一つにしかすぎず、その中で最も単純なもの。一番大切なのは、ていねいで細やかな観察である。・・・・・このコメントを聴き、5年前に佐藤学先生に当時の私の授業を観ていただいたときのことを思い出した。同じ5年「ものの溶け方」の授業で、そのときは単元終末に「溶けた食塩はどうなったのだろう」という課題だったのだが、授業後にいただいたコメントは次の通り。「最初の15分はとてもよかった。残りの30分はそのカスの部分だった。」ほめられているのか、けなされているのか。(もちろん、そのときはほめていただいていると佐藤先生の話される様子から「実感」していたのだが。)しかし、よく考えてみると、そのときの最初の15分間は、水を蒸発させて取り出した食塩を子どもたちは指で触ったり虫めがねで見たりしながら、ボソボソっと気づいたことや疑問をつぶやき、ゆったりとした時間が過ぎていたのである。それに対し、その後の時間は、(もしかしたら私が促したのかもしれないが)いわゆる活発にグループで話し合う時間であった。さらには、その中でも最も活発に話し合っていたグループの様子を、授業研究会ではビデオで紹介したのであった。「カスの部分」とは、ほとんどのグループが「終わっていた」という意味であり、「学び合い」ではなく「話し合い」になっていたのだろう。このことに5年経って気づいた私は、ちょっとは成長したといえるのだろうか・・・。(つづく)
2013.11.20
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先日、ある先生と話をしていたときに「教え合いと学び合いの違い」のことが話題になった。以前、このblogでも「『教え合い』ではなく『学び合い』に」と書いたが、ちょっと視点を変えあらためて考えてみる。「教え合い」と「学び合い」は、「教える子ども」と「分からない子ども」のどちらが主導しているかという違いで考えることができる。「教え合い」は、「教える子ども主導」であり、「学び合い」は「分からない子ども主導」である。(「主導」ということばが適切かどうか分からないが、「教師主導」とよく使うのでイメージがしやすいので。)教師主導の授業もそうだが、「教え合い」では、教える方は「分かった?」という確認を繰り返すことになる。それに対し「学び合い」では、分からない方が「どうして?」と分かるまで(納得するまで)問い返す。このことにより、「学び合い」では、教える子どもは分からない子どもの思考を辿り、つまずきを見つけなければならなくなる。その途中で、説明していることの意味を問い直したりや自分自身の考えの飛躍や矛盾にも気づいたりするだろう。また、相手に合わせて説明をつくり替えなければならなくなる。たとえば、分かりやすくするために「たとえ」を使った説明も必要になるだろう。しかし、そのたとえが説明したいこととピッタリと合うわけではない。ピッタリと合わないことを前提に、整合性をもたせながら説明することになる。このことは、教える方の考えを深めることにつながる。さらには、複数の相手に説明しようとしたとき、同じたとえが使えるとは限らない。多くの場合、一人一人に合わせてたとえを選び、説明をつくり替えなければならないだろう。(余談だが、トゥールミンモデルで考えると「理由づけ」の質が高まることにもつながるのだろう。)こう考えると、学び合いで得をするのは、より考えが深まる教える方である。では、教師である私はどうか。毎日40人の子どもたちの「わからない」の中で授業しているのだから、どんどん考えが深まり、より「わかった」という状態に向かっているはずなのだが。そういう実感がないということは、まだまだ教師主導の授業をしているのだろう。
2013.11.19
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今週末、岡山大学で開催される日本教科教育学会のプレゼンをつくる。が、発表のタイトルが「論理的思考力を育成する理科授業のデザイン」であることから、「論理的思考力とは何か」という説明が迫られ、つまずく。学会だけに「よりよく考える」「具体的に考える」といった抽象的なレベルでは主張も考察もぼやけてしまう。(もちろん、論理的思考とは「筋道立った思考」といった程度しか説明できないものなのだろうが。)そこで、とりあえず「私なりの説明」を書いてみる。(本当にとりあえずなのだが。)・・・・・説明をトゥールミンモデルの各要素を表出したものにし、特に根拠、理由づけ、主張が関係づけられたものにしていく思考を「論理的思考」とし、その関係づける力とともに、そのつながりを検討することができる力の力のことを「論理的思考力」とする。・・・・・以前、トゥールミンモデルを三角ロジックと比較したことがあったが、根拠、理由づけ、主張の三点を揃えることができる力ではなく、そのつながりを疑い、検討することができる力だということである。だからこそ、まず揃えることが大切だと反論されそうだが。さらには「じゃあ、批判的思考の方がいい」とも・・・。単なるメモである。
2013.11.19
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11月14日(金)、念願だった茅ヶ崎市立浜之郷小学校に行き授業を観ることができた。佐藤学先生(学習院大学)がいくつもの著書で紹介されているように、落ち着いた学校の雰囲気や教師と子どもの柔らかいかかわりなどを肌で感じることができたのだが、その中でも、学校紹介での尾崎校長先生の次のような話が強く印象に残った。・・・・・授業後の研究会で、参観者は「自分だったらこうする」ということを言わない。授業者の土俵に乗って発言する。授業者が損をするような研究会にはしない。話し合うのは、授業の中の子どもの事実をどうみたかということ。・・・・・実際、授業後の研究会では、参観した先生方が、自分がみたことと学びを「驚きと発見」として語られていった。それでは、今の私はどうか。授業中の子どもの事実に関係なく、もしくは一部だけをみて自分の考えを主張しようとしていないか。やはり、授業のビデオを持ち込んだ(もしくは、持ち込む必要性のある)授業研究会にする必要があるのだろう。(つづく)
2013.11.19
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昨年から本校理科の提案の中心は「モデルの探究」を単元を通した追究の中に位置付けることである。しかし、このことは全ての学年、単元で可能だろうか。もちろん、演繹的な思考ができるようになる高学年がやりやすいだろうし、単元によってやりやすいものとそうでないものもあるであろう。ただ、可能かどうか問われるならば、全ての学年、単元で可能であり、できる限り(何らかの形で、時間が許すならば)「モデルの探究」を位置付けた方がよいと考える。ならば、3年生はどうするのか。おそらく、大切なのは「モデル化」である。たとえば、1学期に学習する「昆虫の体のつくり」では、複数の昆虫を比較し「頭・胸・腹の3つの部分に分かれていること」と「6本のあしが胸についていること」を帰納的に見出すのだが、このあとに、粘土などを使った「昆虫だと一目で分かる昆虫モデルづくり」に取り組んでみてはどうか。おそらく、頭・胸・腹を3色で分けたアリのようなモデルができあがるだろう。また、モデルづくりの途中には、4枚の羽をつけようとする子どももいるだろうし、カブトムシのようなものをつくろうとして上手くいかない(頭・胸・腹の区別が難しいことから)子どももいるだろう。「電気の通り道」ではどうか。単元のはじめに、豆電球に明かりがつくとき電気の通り道は「一つの輪になる」と学習する。豆電球1個と乾電池1個の回路を指で辿らせれば簡単に分かることがが、問題は「モデル化」できているかどうか。単元の後半は、テスターを使って電気を通すものと通さないものを調べるのだが、そのテスターを子どもに作らせると、それまでに学習した「一つの輪になる」ことを活用すれば、簡単にできそうだが、実際にはなかなか作ることができない。この「テスターの作り方」を取り上げて話し合わせたなら、「まず一つの輪を作って、導線の途中を切ればできる」ということに気づくだろう。さらには、単元終末に計画されている「ものづくり」後、そのできあがった作品の写真を撮り、その写真の上に電気の通り道を書き込ませたらどうか。また、「ものの重さ」では、粘土や紙など「形を変えても重さは変わらない」ことを調べたあとに、レゴなどのブロックで説明させる。「ばらばらにすると、形を変える前と後では、全く同じ」「同じ種類のブロック同士を数えてみたら同じだった」など、いわゆる「粒子モデル」に近い発言も生まれるだろう。このように、漠然と見出した「きまり」を、他の事象でも活用できるような具体的なイメージに、そして、より確かなものにすることが「モデル化」である。また、そのときには一人一人がもっている自然事象に対する見方や考え方の変容が伴うことが必要である。(つづく)
2013.11.18
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よく公開授業後の研究会で「指導案に書かれている本時の目標は達成できたのか」という質問や指摘が参観者から出ることが多々ある。たしかに、目標を設定し実際に授業したのだから「達成したかどうか」「目標設定が適切だったかどうか」を振り返ることは大切である。しかしながら、授業後の研究会でこのことに終始するのはどうか。「目標と目的」を分けて考えてみてはどうか。たとえば、野球などスポーツの試合である。もちろん、大会の前には「絶対に優勝する」などの目標を立てるだろう。しかし部活動などでは、多くの場合この目標と別に目的がある。体力や技能の向上はもちろん、人格形成など。であるから、優勝できなかったとき「目標が達成されなくとも、目的は達成された」といえることがあるだろう。授業では、「単元の目標」をこの目的ととらえたらどうか。45分の授業で、そのときの目標は達成されなくても、十分に単元の目標に向かっていることも多い。かえって、近道だったということもないか。このように考えると、「本時の目標」の在り方を次のように見直すこともできるだろう。まず、「高め」に設定すること。たとえば、5年「ものの溶け方」の単元終末の授業で「溶けた食塩が水の中でどうなったか粒モデルを使って説明することができる」と目標を設定したとする。このことは、教科書でも発展で取り扱っていることでもあり、すべての子どもが達成するのは難しいだろう。しかしながら、「ものの溶け方の規則性を理解する」といった単元の目標を達成することに十分成果が期待できる。次に、「幅」をもたせること。これは、あいまいということではなく、授業中、授業後に修正可能という意味である。たとえば、先ほどの野球の試合だが、準決勝で負けてしまったらどうするか。目標は「全体、優勝」だったのだが、三位決定戦はどうするのか。多くの場合「絶対3位になろう」と目標を修正するだろう。でなければ、目的は達成できない。だからといって、目標設定をおろそかにするということではない。子どもの「今」にあった目標でなければ意味はないし、その目標を達成するための具体的な手立てがなければ、修正しようとしてもできないだろう。大切なことは、単元を通した(もしくは、もっと長いレベルの)子どもの学びにとって、その45分の授業がどういう意味があったのかということを、授業後の研究会では丹念に振り返ることである。
2013.11.16
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前回のblogのつづき。実践を通して見えてきた「理由づけの質を高める」ためのポイントを整理する。まず、子ども同士の「聴く」ー「語る」関係をつくること。友達に指摘(反論)されたり分かりやすく説明したりしようとすることにより、多様な理由づけが表出する。もちろん、少人数での話し合いの方が、多様な理由づけが出やすいだろう。次に、単元後半に「モデルの探究」を促す課題を設定する。このことにより、それまでの観察・実験から見出したきまりの仕組みや意味を問われることになり、「目に見えない」現象や「実際に見ることができない」現象を既有の知識や経験を総動員して想像させることにつながるだろう。このとき、根拠と主張の「距離」を長くするとともに、様々なたとえを使った比喩的な表現を大切にしたい。さらには、根拠となる事実の「層」を厚くすることが必要である。そのためには、課題と単元での学習や経験との関係を明らかにし、意図的に組織しなければならない。場合によっては、継続的、日常的な活動(観察)などにも取り組む必要があるのだろう。さらには、一人一人の発見やこだわりを共有するために、その事実を「じっくりとみる」ことを促すために工夫も必要である。これらのことによって、多様な理由づけが表出し、それらの交流を通して「質」の高まりが期待できるのだろう。
2013.11.16
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前回のblogのつづき。このような発言を聴いていたからだろうか、おうかさんの発言が、話し合いの前半と後半で次のように変化した。この発言をみると、前半は「粉砕モデル」に近い考えであったのが、後半には「運搬モデル」に近い考えであることが分かる。そこで、おうかさんの授業前半に書かれたノート(左)と最後の振り返りのときに書かれたノート(右)を見てみる。授業前半(左)では、2学期に学習した「ものの溶け方」で、水に溶けた食塩が小さくなることについて話し合ったときのことを振り返り、「食塩が水の中で小さくなったように、川の石も同じように」と理由づけされていることが分かるだろう。授業後半(右)では、それまで意識していなかった「B(中流)からC(下流)にかけて水の流れが遅くなる」という観察結果を再確認することによって、B(中流)にある石とC(下流)にある石(砂)は、別のものだと結論を導き出している。さらには、A(上流)からB(中流)では、ある程度の大きさの石は流され「角が取れる」ことにも言及していて、なおやくんの考えが取り入れられている。この変容は、のりみさんの「浸食モデル」、まさみさんの「運搬モデル」、なおやくんの「粉砕モデル」のちがいが話し合いの中で明らかになり、それぞれの理由づけが語られた結果であろう。(つづく)
2013.11.16
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前回のblogのつづき。理由づけの質を高める。それでは、これまでの実践を振り返ってみる。今年2月に実践した5年「流れる水のはたらき」で、「どうして上流と下流で石の大きさがちがうのだろう」という課題に対する子どもたちの発言を紹介する。数名の子ども発言が続く中、一人の子どもが次のような疑問を投げかけた。これは、授業当日に教室に持ち込んだB(中流)とC(下流)の大きさのちがいから生じた疑問なのだが、おそらくのりみさんは、それまで、上流にある大きな石が下流にかけて流される途中に他の石とぶつかりながら小さくなっていくという「粉砕モデル」、もしくは、流れる水に削られながら小さくなっていくという「浸食モデル」に近い考えだったのだろう。しかし、話し合いの中で流れる水の速さに注目し、実際の川を観察したときの結果「C(下流)の水の流れは遅い」という事実から、自分の考えの矛盾に気付いたのである。こののりみさんの考えと疑問を、そのときの「私」は、簡単な図を書いて板書した。(もっとていねいに取り上げればよかったのだが。)このことをきっかけに、次のような子どもたちの発言が続いた。まさみさんは、流水の運搬するはたらき着目し、B(中流)のカーブする内側にこぶし大の石が多くあるという事実から、もともと上流にあった石の大きさによって流される距離がことなるという「運搬モデル」に近い考えをしているのだろう。理由づけの部分をみると、「たぶん、内側に集められて積もったものであり、それ以上は流されない」としていることが分かる。これは、土を盛って水を流しながらその様子を観察する流水実験で、カーブする部分にそこまで流されてきた砂が積もったという結果を振り返ることによって表出したものではないか。さらに、教室に持ち込んだB(中流)の石に「白い粉」がついていたことを根拠にした発言もあった。その「白い粉」は、流されている間に石同士がぶつかって出たものだからと理由づけし、「粉砕モデル」に近い考えを主張していることが分かる。興味深いことは、その「白い粉」が、石についていた海水が蒸発し出てきた塩だとも考えられるのだが、B(中流)は海から遠く、その可能性はない」と反証まで出てきていることである。(つづく)
2013.11.16
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本年度の研究の「問題意識」の一つに、理由づけの質を高めることがある。このことについて一度整理してみる。理科においても、言語活動を充実させ論理的に思考させることによって、より深い概念的な理解を促すことができる。トゥールミンの論理モデルに当てはめて考えると、根拠となる観察・実験の結果から主張にあたる結論を導き出す課程を充実させる中で、事実と事実、根拠と主張のつながりを意識させることができる。しかし、このつながりを意識させる論理的な「ことば」ばかり着目していても、ある程度筋が通った説明ができると「わかったつもり」に陥ることも多くあるだろう。そこで、本校では、言語活動の中で思いがけず生まれる直感的・断片的な「ことば」にも着目し、観察・実験そのものやその結果などの事実にもどすことを大切にする。このことにより、根拠と主張をつなぐ「理由づけ」を検討することを促し、理由づけの質を高めることにつながる。さらに、この主張の部分を「モデル」とすることにより、より論理的な思考に焦点化した研究ができると考える。なぜなら、モデルを探究するためには、「目に見えない」現象や「実際に見ることができない」現象を既有の知識や経験を総動員して想像する必要があるからである。そこで、本校では、よりよいモデルによる説明をつくる活動である「モデルの探究」を単元を通した追究の中に位置付けることで、何度も事実にもどりながら自分の考えをつくり直す中で表出する「確かなり理由づけ」とともに、相手に分かりやすく説明しようとするときに表出する「豊かな理由づけ」を交流するような学習をめざす。(つづく)
2013.11.14
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11月1日(金)に開催された別府市立青山小学校の研究会での佐藤学先生(学習院大学)講演から。前々回のblogに「グループの終わり方」について「『全員がわかってから』ではなく、『できる子どもが終わる前に』」と書いたが、やはりその見定め(決心?)が難しい。佐藤学先生は続けて次のように話された。・・・・・教師は、(基礎が)分からない子どものために説明するが、分からない子どもほどその話を聞いていない。基礎が分かって発展にという順で学べるのはできる子どもだけ。分からない子どもは、ジャンプのときに基礎を学ぶ。教師は、ジャンプの中で基礎をやっているかを確認する。基礎的知識は、使うことで定着する。意味が分かることで構造化する。・・・・・私たち教師は、まじめに下から順に積み上げるような学びをイメージが強いのだろう。授業中、何度も「分かった?」と子どもたちに尋ねるのもそのせいである。授業デザインをシンプルにし、教師が「聴く」「つなぐ」「もどす」ことに専念するためには、このイメージの転換が必要である。(つづく)
2013.11.13
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11月1日(金)に開催された別府市立青山小学校の研究会での佐藤学先生(学習院大学)講演から。・・・・・全国でグループを取り入れた「学び合い」に取り組んでいるが、ほとんどが上手くいっていない。なぜ、グループが上手くいかないのか。その原因は次の2つ。まず一つ目は、グループが話し合いになってること。話し合いが活発な授業では学びが起きていない。「ハイ、ハイ」と活発で元気な発言が続くことがあるが、それは、すでに分かったことを発表しているだけ。「学び」とは、分かったことの交流ではなく「分からないことの探究」である。そんなときの子どもの「ことば」は「ボゾボゾ」っというつぶやきになる。そのつぶやきが、わぁーっと教室中に広がる。なのに、教師は「話し合いの方法」ばかり指導しようとする。二つ目は、課題がやさしいこと。課題のレベルは、個々の子どもの能力に合わせるのではなく、共同でたどり着ける高いレベルに設定する。・・・・・一つ目と二つ目はセットで考えることが大切であろう。やさしい課題でグループを入れても単なる発表会や「答えあわせ」になってしまう。また、じっくり考える場面がなくどんどん教科書を進めるような授業では、子どもたちは「ハイ、ハイ」と発言を競い合うようになってしまう。それ以上に、まだまだ私たち教師に「ハイハイ授業」がすばらしいという思い込みが強いのだろう。(つづく)
2013.11.11
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11月1日(金)に、別府市立青山小学校の研究会に参加し、佐藤学先生(学習院大学)の講演を聞くことができた。その中、グループについて次のように話された。・・・・・グループは、どこでも入れる。「いつ入れるか」「どこで入れるか」という問いは成り立たない。できるだけ早い段階でグループやペアを入れる。問題は「どこで切るか」ということ。・・・・・早い段階でグループを入れるということについては、グループを入れるのが遅いと「わからない子どもはあきらめている、できる子どもは終わっている」だとのこと。グループの終わり方についても、「『全員がわかってから』ではなく、『できる子どもが終わる前に』」。一旦終わってしまうと、最後始めるのは難しいのだろう。さらに、次のように話された。・・・・・「一人でできるから協同で学ぶことができる」ではなく「協同で学ぶことができることから一人でできるようになる」。・・・・・どうしても、前者のイメージが強いため「どこで入れるか」という発想になるのだろう。後者であれば、どこでもグループは必要であり、「そろそろ一人でできそうだ」という見定めることの方が大切になる。以前、このblogで「グループの入れ方と終わり方」を書いたが、見直しが必要である。(つづく)
2013.11.11
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11月1日(金)に、別府市立青山小学校の研究会に参加した。このblogでも何度か紹介したが、青山小学校は11年前から「学びの共同体づくり」に取り組み、その実践は佐藤学先生(学習院大学)や石井順治先生(東海国語教育を学ぶ会)の著書の中でいくつも紹介されている。私も、この秋の研究への参加も7回目になる。午後から参観した授業は、朝久野先生の2年算数「三角形と四角形」の授業。授業前半の「共有の課題」は「折り紙(正方形)に1本直線をひいて三角形と四角形をつくろう」というもの。子どもたちは、折ったり定規を使って線を引いたりしながら考えるものの、なかなか上手くいかない様子だったが、しばらくすると、一つの頂点から一つの辺にかけて直線をひく子どもが数名観られるようになり「できた」という声が上がる。しかし、できる四角形がいわゆる「真四角(正方形や長方形)」でないことから、他の子どもたちはなかなか納得しない。そこで授業者は、線に沿って切り三角形と四角形に分けて提示する。「あー」という声が上がる中、一人の子どもが「五角形になる」とつぶやく。おそらく、真四角でないことから「四角形ではない」と思い込み、頂点の数を数え間違えたのだろう。授業者が、子どもたちといっしょに頂点の数と辺の数えてみると、どちらも「4つ」。「五角形」といった子ども自身も「あっ、四角形だ」と納得したため、授業者が先に進めようとしたとき、他の子どもが次のように発言した。「○○くんが、五角形と間違った(理由)わかった。『ここ』も数えたんだ。」その子どもが「ここ」と示したのは、四角形の一辺の途中にある「折り目」であった。課題が提示されたとき「線をひいても、折ってもいい」と指示されたため、黒板に貼られた折り紙には、答えを示す鉛筆でひかれた線以外に、いくつかの折り目が入っていたのである。このことは、「直線である一辺の上に点(交点)があっても、頂点には数えない」ということにつながる(わかり直す)気づきである。もちろん、「五角形」といった子どもは単なる数え間違いだったのだが、この発言は「いい誤解」から生まれたのだろう。このことについて、授業後の研究会の中で佐藤学先生は次のようにコメントされた。・・・・・このように、友達の間違いから学ぶことができることが大切である。その間違いに隠されているひみつは何だろうと考える子どもに育てる。・・・・・このような「安心して間違えることができるクラス」を私はつくることができているだろうか。青山小学校では、すべてのクラスで「間違いを含めた一人一人の考えや考え方を大切にする」ことから子どもたちが「安心して間違えることができる」のだろう。(つづく)
2013.11.11
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校内の研究会の中で、授業者から「子どもの『ことば』が聴けない」という悩みが語られた。しかし、授業中のジャグリングのような教師の仕事の真っただ中で、上手く聴けないのは当たり前である。問題なのは、聴くための具体的な「しかけ」があるかどうかである。といいながら、私はどうか。せっかくの機会なので振り返ってみる。1)教師がトーンを落とし、子どものテンションを下げる。2)「聴く」ことが学習の中心であることを子どもたちに実感させることを積み重ねることにより、ゆっくりと発言することを促すとともに、発言と発言の間に「間」をつくる。3)子どもの発言を聴けていなくてもとりあえず板書し、授業中に振り返る。(振り返ることができる時間をつくる。)4)授業後のリフレクションをシステム化する。(無理なく日常的に行えるようにする。)子どもたちが「ハイハイ」と挙手し、活発に自分の考えを次々と発表する「ハイハイ授業」の中で、子どもの発言を聴くことは、至難の業である。大切なのは、「聴けない」ということを教師自身が自覚し、どうにかして聴くためにあの手この手を使って工夫すること、もがくことなのであろう。教師が聴けると思った瞬間に、聴けなくなるのである。
2013.11.07
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先週末から風邪をひいたせいか、この1週間は声がかれて大きな声が出ない。もちろん、今週も授業はあるので「困った」と思っていたのだが、子どもたちを見てみるとそうでもない様子である。先週よりも教室の雰囲気が「しっとり」とし、子ども同士の話し合いにも深まりが感じられる。おそらく、声の出ない私に「気を遣って」くれているのだが、それ以外にも次のような要因もあるようである。1)私が無駄なおしゃべりをしない2)私がなるべく簡潔に(わかりやすく)指示しようとしている3)私が子どもたちの活動を急かさない4)私が子どもの活動を大げさに評価しない5)グループなど、子ども同士の学び合う活動を多く取り入れるこれらのことが、子どもたちのテンションを下げることにつながっているのだろう。ということは、普段の私は子どもたちの学びの邪魔になっているということだろうか・・・。
2013.11.07
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4年前に明治図書「楽しい理科授業」で連載していた「授業が変わるものづくりのヒント」。今回は、その第5回。・・・・・授業が変わるものづくりのヒント 第5回ヘロンの噴水(4年「空気と水の性質」)□完成しても説明できない? 今回紹介するのは「ヘロンの噴水」です。(写真1) 「ヘロンの噴水」とは、下図のようにビンをゴム管でつないだもので、Aのビンに水を入れると、B・Cのビンの中の空気が押され水が噴き出します。(写真2) 1時間もあれば制作することができるのですが、その仕組みを説明するのは、子どもたちにとって容易なことではありません。 それでは、どうして水が噴き出すのでしょうか。上図のAのビン(今回はペットボトルを使用しました)に水を入れると、Bのビンに水が落ちます。このことにより、Bのビンの中にある空気がCのビンに送り込まれ、Cのびんの中の空気に力が加わり、Cのビンの中にある水が噴水のように押し出される現象が起こります。□ヘロンの噴水をつくろう 必要な材料は、ペットボトル3本(1個は半分に切ったもの)、ゴム栓3個、ガラス管6本、ゴム管3本です。 事前にゴム栓にガラス管を通してジョイント部を準備しておくと、安全でスムーズに作業させることができます。(写真3) なお、今回、吹き出し口には塩ビ製のスポイトをカットしたものを使用しました。□「空気が閉じこめられている」 実際の授業では、空気と水の性質を調べた後にこのものづくりに取り組みましたが、やはり、子どもたちは水は噴き出す仕組みを説明することができません。そこで、図に空気と水を色分けさせます。(写真4) すると、一人の子どもが次のように発言しました。「空気が、水に閉じこめられている。」 この発言をきっかけに、次のように話し合いが進んでいきました。「この閉じこめられている空気が押し縮められているとしたら・・・。」「上から落ちてくる水が、空気でっぽうと同じように空気を押してるのかな。」「それじゃあ、ペットボトルの中に空気がなかったら、噴水はできないの?」 子どもたちが説明するのに、ちょっと難易度が高い「ヘロンの噴水」。思いきってチャレンジしてみてはいかがですか?
2013.11.05
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4年前に明治図書「楽しい理科授業」で連載していた「授業が変わるものづくりのヒント」。今回は、その第4回。・・・・・授業が変わるものづくりのヒント 第4回モビールをつくろう(6年「てこの規則性」)□単元の導入からものづくりを 今回紹介する「モビールづくり」も、先月号の「手作りモーター」と同様に、単元の導入から取り組みました。このモビールは、左右がつり合う支点の位置を感覚的に探すことができ、「てこのきまり」を知らなくても1時間もあれば完成させることができます。(写真1) もともとモビールは飾りとして楽しむ造形作品で「きれいなモビールをつくりたい」「もっと複雑な形にしたい」と単元を通して楽しみながら活動することになります。 なお、学習の大まかな流れは次の通りです。1)モビールをつくる。2)てこのつり合いのきまりを調べる。3)てこの働きを調べる。4)モビールのしくみを説明する。5)おもりを好きな物に変えてモビールをつくる。(写真5)6)生活に利用されているてこを調べる。□モビールをつくろう 実際の授業では、棒は竹串、糸はテグス、ジョイントにはカップリング(ボールチェーンを固定するための器具でラジオペンチを使うと上手く固定できます)、おもりは教材キット(大和科学)の中にあったおもりを材料として使用しました。なお、つりさげる台はハンガーラックを使い、洗濯ばさみで固定しました。(写真2)□左右のおもりの数が違ってもつり合う? モビールづくりがスタートしてみると、左右のおもりの数が同じになるようにしているのか多くの子どもたちが左右対称の「トーナメント型」にしようとしています。(写真3) そこで、左右のおもりの数が異なるモビールを紹介し比較させます。(写真4) すると、子どもたちは「おもりの数が違う」「つるす位置がちがう」などの声を上げます。そんな中、一人の子どもが次のように発言しました。「左右のおもりの数が同じだと『つるす位置』は真ん中で、違うとずれる。」 その後、おもりの数を変えてを試し「おもりの数が多い方に『つるす位置』を移動させるとつり合う」「おもりが重くなればなるほど、そのおもりに『つるす位置』が近づいていく」ということを発見します。 「つるす位置」とは「支点」のこと。この発見が「てこ」を追究する視点となり、その後の学習を進めていくことになります。
2013.11.05
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4年前に明治図書「楽しい理科授業」で連載していた「授業が変わるものづくりのヒント」。今回は、その第3回を紹介する。・・・・・授業が変わるものづくりのヒント 第3回モーターをつくろう(5年「電流の働き」)□モーターをつくろう 今回は、教科書(大日本図書「たのしい理科6年下」)に発展的な内容として掲載されている「手作りモーター」を紹介します。 必要な材料は、エナメル線、磁石(丸形のものを4個)、乾電池(ホルダーがあると便利)、導線、クリップ、紙コップです。エナメル線を約10回巻いてコイルをつくり、線の端を片方は全部、もう片方は半分だけ紙ヤスリで削ります。紙コップに穴を開けてこのコイルを固定。このとき、紙コップの外側にクリップをつけ、エナメル線とクリップがきちんと接するように調整します。(写真3) 磁石2個を、内側と外側からを紙コップはさむように2か所につけ、クリップに乾電池をつなぐと、コイルが回り始めます。(写真4) なお、磁石の位置を調整したり、強い磁石と交換したりするとよく回ります。□今回は、単元の導入からものづくりを 実際の授業では、単元の導入から、この「手作りモーター」づくりに取り組みました。学習の大まかな流れは次の通りです。1)市販のモーターを分解して調べる。(写真1・2)2)「手作りモーター」を知り、つくる。3)「手作りモーター」の回転を、もっと速くする方法を考える。(写真5)4)巻き数や電流の大きさを変えながら、電磁石の強さを調べる。5)モーターが回るしくみを説明する。 特に3)4)では、より速く回転するモーターをつくるために、電磁石(コイル)の「きまり」を見い出し、その「きまり」を実際に活用していくことになります。□どうして半分だけ削るの? 5)で問題になったのは「どうしてエナメル線の半分だけ削るのか」ということ。子どもたちは、「ここで電流は流れなくなるよ」と電流の流れを確かめながら考えることになりました。そんな中、一人の子どもが「磁石にはN極とS極があるから、電磁石にも極があるんじゃないかな」と発言しました。 子どもたちは、この発言をきっかけに、コイルの周りにできる極を調べ「ずっと同じ極だったら・・・」をつぶやきながら、モーターが回る仕組みを説明することができました。 このような工夫することで、単元の導入からものづくりに取り組むことができます。
2013.11.05
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