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閣下は倖田について、何の意見もなかったといってよい。まあ元気な歌手という印象だった。演出過剰と見える彼女だが、そこに彼女の秘密があった。それは弱みを隠して、強みを強調する巧みなイメージ戦術である。決して足も長くない、太ももはかなり太い。背も高くない。町を歩いている美脚ジーンズのきれい系のお姉さんのほうがよっぽど細くて長い。彼女の強みは、いうまでもない女性の象徴である。しかし、決定的な写真というものは、必ずあるものだ。 ボロがポロッと出つつあるわけ。。。 偉大な万有引力の法則により。。。 足で踏まれた豚マンのようなものを見て、結婚相手は何を思うだろうか。。。 「遅かったか。。。」
2007.09.30

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 内容はほとんど新説ばかりという、特に普通の三国志モノに読み飽きた人々には驚きの連続となると自負しています。 ここでは正史記述から曹操の言行の読み取れる範囲で、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載していきます。作画・Ms.KANZAKI■第一回■ ★曹操と袁紹のライバル関係について★ このKanzakiさんは朝日文庫の表紙絵を描いていただいた女性イラストレーターで、今回も連載で毎回、作画をお願いしました。 イラスト制作にあたっては、まず次回の内容に合わせたイメージを電子メールで連絡して、原画ができてから、いろいろ時代考証を何度も相談して、完成にこぎつけるという入念なプロセスで仕上げてあります。 この図では前面がもちろん曹操、その向こうで嫉妬のニラミを利かせているのが袁紹です。 これは私にとっても会心の傑作のひとつ。 一枚のイラストで二人の感情的な人間心理関係をスバリと表現したもので。 二人はまさに生涯のライバルともいえる関係でした。 袁紹はエリートの血筋だけれど妾の庶子。 嫡男ではないため、出生については認知・養育をめぐって、スンナリといかないトラブルがあったようです。 結局、実の父親の家庭ではなく、伯父の家で育ちます。 官僚貴族の子弟として、早くから教育を受け、二十歳前後で宮廷に勤務した後、人口数千人あまりの地方官(県長)になりますが、あまり目立った功績もなく、皮肉をこめて「清廉だ」という郡太守の評価が与えられます。 これは当時の一般官吏の最低レベルの評価ということです。 出世の早い義理の兄弟たちに比べ、出世競争に厭きた袁紹は官吏をサッサと辞職し、十数年以上も「父母の服喪」という表向きの理由で自由気ままなフリーター生活を送ります。 その袁紹のライバル心に火をつけたのは、黄巾の乱の鎮圧平定で、首都警備隊の軍団を率いて、官軍の主力を救援した曹操が、済南国で「王佐の才」を発揮して、二度も続けて天下の名声に輝いたこと。 さらには、その恩賞として任命の沙汰があった東郡太守の地位を任官謝絶してしまったこと。 「エリートのドロップアウトはかっこいい」という袁紹のプライドを大きく傷つけたのです。 それから袁紹の怒涛の猟官バックラッシュがはじまります。 無能で文盲のため、官位は高いが何の役割もなかった外戚の何進に接近し、その秘書役を買って出るという方法で、何進の権威を利用して、どんどん宮廷の地位を累進していったのです。 そして、クライマックスのその日。 このイラストの瞬間ですが、西園八校尉と八個軍団が新編成されたとき、袁紹は上軍校尉、曹操は典軍校尉に任命されます。 いつのまにか数年間で、袁紹は曹操の同僚として、しかも上座の地位についたのです。 まさに執念のライバル関係がそこから生々しく感じられるでしょう。 人間の歴史に関しては、天変地異のような偶然はほとんどありません。 董卓の乱の直前、馬騰らの甘粛叛乱後のものものしい情勢で新編成された西園軍でしたが。。。 もちろん「引きこもりフリーター」だった袁紹に実戦経験などはありません。 軍隊と戦争の実際を知っていたのは曹操だけだったのです。 曹操の涼しい顔と、睨みつける袁紹の痛い視線。 二人のバトルはここから本格的に始まったのです。
2007.09.29

作画・Ms.KANZAKI■第2回■・・・・横書きだから、漢数字はやめた(笑) ★イラストの時代考証★まず目立つのは、曹操の「冠」。だいたい三国志ファンが知っているゲームなどの服装は、京劇とか、南宋時代(鎌倉初期)に成立した舞台劇の衣装からイメージを引き継いでいる。時代考証として利用したのは、後漢時代の絵が描かれた「画セン」というレンガ。あるいは「画像刻石」という古墳の壁の画像。このことから、後漢時代の冠や頭巾が想像できる。特に曹操の冠は、正史にも明確な記述があり、「曹操は古代風の革製の冠をつけていた」とされている。これは【漢書】にも紹介されている「貢士(高氏)冠」というもので、もともとは前漢の初代皇帝、高祖・劉邦の冠だった。その劉邦の冠は、始皇帝時代に四水亭長にもなった「貢士」の地位に許された冠で、始皇帝兵馬俑の将校がつけている冠とほぼ同じである。「ほぼ」というのは、劉邦は秦帝国の政府から支給された普通の布製の冠では気に入らず、自分で部下を遠くの町に行かせて、竹の皮でできたオーダーメイドの冠をつけていたと【史記・高祖本紀】に書かれているからだ。曹操は劉邦を非常に尊敬しており、指導者論として歴史記述を学習していたので、その真似をしたかったのである。ただし、特別に革製にしたのは、竹よりもひとまわり大きなものにしたかったのだろう。そこで、兵馬俑を参考にして、このような冠を描いてもらったわけだ。袁紹がつけている頭巾は、このような冠をつけた頭にかぶせるものとして、皇帝もつかったので、公式に認められていたものだったが。正史記述によると、「袁紹の仲間たちは、冠をつけずに頭巾をつけ、その派手なデザインを楽しんだ」と批判的に記述してある。そこで袁紹が好んだ頭巾のデザインは、中東アラビアからシルクロードを経て、仏教とともに伝来したパルメット文様(唐草文様)であると推定した。ところで、このパルメットの神聖模様を、もっと大きくすると、中世ヨーロッパの王冠になる。武器類は、日本の後漢時代の遺跡からも出土する「広型銅矛」のデザインにした。甲冑は前漢・武帝時代の騎馬陶俑も兵馬俑と基本的に同じだったので、後漢時代にも変化はなかったと思われる。そのほかの画像では判別は困難。というのも、それだけ後漢時代は大戦争もなく、平和だったということだ。三国志の時代になると、タイムカプセルとなる後漢の陵墓はみんな盗掘されてしまったから。NHK人形劇・三国志の辻村ジュサブローさん製作の劉備・関羽・張飛はこの兵馬俑デザインの甲冑をつけている。ひとつ指摘しなければならないのは、頭に載せる「兜」は存在しなかったということ。これが陶俑などにあらわれるのは、三国志より百年後の五胡十六国時代である。騎馬民族王朝が持ち込んだものだ。だから、人形劇の趙雲とか、そのほかの「兜」をかぶった将軍たちは時代考証ミス。ひときわ目立つ旗。これはデザイン的には清王朝のものなのだが、中国では始皇帝の映画にも登場する。現物や画像があるわけではない。そういう意味では、これは西安映画電影撮影所の考証にしたがったわけだ。このように細部まで、すみずみ時代考証をして、この絵は完璧に仕上がっている。カンザキさん、ご苦労さまです。
2007.09.28

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第3回■ ★カンザキさんの描画の魅力★ 簡単に紹介すると、カンザキさんは山陽・瀬戸内の在住の女性で、私は実際に会ったことはないのである。 私のほうで「東京に来たときは」と声をかけることはあっても、彼女は大阪のコミケの集まりや関西の小旅行を楽しんでいるので、なかなか来てくれない(笑。 そうこうするうちに、彼女にもラブラブの婚約者ができたそうだ。 さて、朝日文庫の装丁で、孫武と曹操の肖像を描いてもらったが、この美しい画像が多くの人々の注目を集めたことは多くのデータが証明している。 この表紙で、私が注文したのは、孫武と曹操の若々しさの強調。 孫武が呉王の宮廷で、自説の兵法を解説し、それが筆記編集されたのが、今日の【孫子兵法】のオリジナル・テキストになると推定されるのだが、どう計算しても孫武は当時、30そこそこの青年だった。 曹操が孫子兵法に自分の評註をつけはじめたのも、30代のあたり。 つまり、「曹操の孫子兵法」はすごく優秀で、若々しい才能が生み出した、ということをイラストで伝えたかったのである。 今回のイラストでは、曹操の正夫人となる卞(ベン)后を3回、描いてもらった。 「ベンちゃんを書いてください」ということで、髪飾りに曹操がプレゼントしたであろう梨花のデザイン。 衣装もちょっと苦労した。 「雷紋で」と頼んだが、 カンザキさん「?」 それで画像ファイルを送ると 「ラーメン模様ですね」 腕輪はやはり後漢時代の踊り子の壁画や陶俑を参考にした。 ベンちゃんは洛陽一の踊り子で、いわば人気絶頂時代のスピードやモーニング娘のリーダーみたいな少女スターだったのだ。 しかし、曹操は貴族であり、官位もあり、宮廷に出仕している官吏だったが、彼女は家柄としては平民より蔑視された定住地を持たない流民(住所不定の人々)である。 それでも、二人は身分や世の中のしきたりを超えて結ばれた。卞夫人が正式に正夫人として立てられたのは建安年間、つまり息子の曹ヒが成人してからである。 曹操は青年時代から恋愛を通じて、実力主義に基づかない身分制度の不合理や矛盾に目覚めていったのである。 私はこう表現した。 「歴史記述に見られる、最古の自由恋愛のラブ・ストーリーである」 イラストもすごく魅力的に仕上がった。
2007.09.27
「パリス・ヒルトン見てる場合じゃない」 著作「不都合な真実」で地球温暖化問題を警告するなど、環境分野での啓発活動で知られるゴア前米副大統領は24日、米ニューヨークでの国連首脳級会合で潘基文事務総長らとの昼食会に出席、「地球温暖化は惑星の緊急事態だ」と訴えた。 ゴア氏は、京都議定書の後継協定ができるまで3カ月に1度、首脳が参集して進展状況を点検することを提案。さらに「(元フットボール選手の)O・J・シンプソンや(女優の)パリス・ヒルトンを見て時間を費やしているより、温暖化に注意を向けなければいけない」と述べ、集まった首脳らから拍手を浴びた。 [2007年9月25日11時4分]☆そらまあ、その通り。 でもパリスはすごいね。 きっと現代のマリリン・モンローなんだな。
2007.09.26

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第4回■ ★イラストの独立★ 何回かイラストのイメージをやりとりするうちに、私とカンザキさんの「呼吸」があってきたというのだろうか、彼女が天才的なインスピレーションを見せてくれるようになった。 そこで私は、前々からイラストとストーリーから部分的に独立させるという、実験的なチャレンジを提案したのである。 いうまでもなく、このイラストは曹操と卞ちゃんの別離のシーン、離別の悲しみをこらえているところを美しく表現している。 このイラストを頼むとき、私は「曹操は肩だけ。ベンちゃんの顔をクローズアップして。別離は悲しいけれど、涙を見せて声を出して泣くと、曹操に心配をかけるだろうという彼女の賢明さを。。。」とかなり禅問答のようなメールをした。 カンザキさんは、これはもうベンちゃん本人になりきって描くしかなかったと思うが、それでこの作品ができた。 まさに傑作だ。 多くの人々に見てもらったが、みんな「彼女の悲しみと忍耐、愛情がよくわかる」といってくれた。 そう。たくさんの複雑な要素が、この表情にこめられている。 このイラストがすべてを物語ってくれたので、私は正史記述のない二人の急な別離(東郡・頓丘県令への赴任)のドラマはわざわざ書く必要がなかった。 イラストはそもそもストーリーの内容を具体的に説明するもの、つまり「イラストはストーリーに従属する」という考えがある。 これは迷信に過ぎない。 「女が男に従属する」という発想と同じだ。 イラストとストーリーは対等に独立すべきなのだ。 この絵は、そうした偏見の枠組みを超越した。 迷信を打破したといっていい。 ストーリーとイラストが表裏のコントラストになり、それぞれのイメージを展開することで物語を立体化するという野心的なチャレンジは大成功したのである。
2007.09.25

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第5回■ ★スタニスラフスキー・システム★ 私の考え方では、イラストは舞台芸術のカット写真のようなもので、そのために詳細な時代考証をして、登場人物の配置、表情、身振りを決めていく。 この劇的な表現方法を体系的にまとめたのがスタニスラフスキー・システム(スタ・シス)である。 これはロシア革命劇に採用され、有名な名画【戦艦ポチョムキン】にも展開された。 それを徹底的に研究したのが、あのナチスのゲッベルス宣伝相であり、若き彼が編み出した悪魔的なノウハウが、ヒトラーの過剰なジェスチャーをともなう煽動演説術にもなっていく。 ともあれ、スタ・シスはアメリカでも多くの個性派俳優たちが学習した。 あのジェームス・ディーンが名画【ジャイアンツ】で、青年カウボーイから成り上がり富豪の老人までを見事に演じきったのは、スタ・シスの偉大な成果である。 スタ・シスはヒトラーの煽動演説が特徴的であるように、心理学的な効果、潜在意識に働きかける効果を持っている。 30才そこそこのジェームス・ディーンが初老の役をやれたのは、われわれが「初老の男」と思うよう身振りや話し方を研究しつくしたからである。 ジャッキー・チェンを世界的大スターにした【酔拳】のベースも、拡張されたスタ・シスだといえる。 彼は別に酒を飲んでいたわけでもないのに、泥酔した演技で拳法のテクニックを展開したわけ。 この最終回、洛陽炎上のシーンは再び「イラストの表現する部分を、あえてストーリーは書かない」という形にした。 ストーリーには「家族にも知らせず、逮捕をのがれるために、曹操は身分証も捨てて洛陽から逃亡した」と書いただけ。 あとに残されたベンちゃんたちの運命は。。。それを表現するのが、このイラスト。 私はカンザキさんにこう修正の依頼をした。 「左の侍女は火の粉を恐れて、両手で熱気をふりはらう仕草、右の侍女はキョロキョロしながら泣き顔。そうすると、中心のベンちゃんの決然とした表情が引き立つ」 傑作でしょう!!!
2007.09.24

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第6回■ ★初期仏教と曹操・袁紹★ このイラストは、青年時代に父親の書斎にこもって、猛烈な濫読にふけっていた時期の青年・曹操を、敦煌莫高窟の交脚弥勒菩薩像やガンダーラ仏になぞらえたものである。 このイラストを旗印に、本書は「曹操は初期仏教を信仰していた仏教徒だった」という説を主張した。 というと、「曹操は仏教寺院を建てなかったではないか」と反論する人もあるだろう。 確かに、正史三国志には巨大な仏教寺院を建てた人間も出てくるが、それは明らかに暴君が権力を誇示するためのものであって、仏教の精神からではない。 曹操自身の立場としては、戦争の連続で戦費を心配するとすれば、寺院の建立に巨額の資金や労力を使う発想はまったくなかったであろう。 それを敢えてやってしまうのが暴君なのだ。曹操はそんな人間ではない。 仏教は西遊記に見られるように、中国伝統の不老神仙思想と結びつき、弥勒菩薩や観音菩薩のように現世を救済する存在として、信仰が広まった。 だから、現在の中国の人々は、まるで今宮恵比寿や稲荷神社のように福運や財運を観音や弥勒に祈願するのである。 孫悟空が、天界の不老不死の桃園の番人をしていて、盗み食いをしていたという話はよく覚えているだろう。 「不老神仙」の思想は、始皇帝も、前漢の武帝もコロリとだまされた呪術信仰である。 前漢時代に盛んにおこなわれた不老術(導引術)は馬王堆前漢墓から絹布に描かれたものが出ていて、呼吸法と屈伸体操が一緒になっているものだとわかった。 つまり、エアロビックスである。 曹操たちが理解した初期仏教は、まず「お告げをする神仙」が夢の中にあらわれることが基本である。 そのような神仙と出会うために、いろいろな努力をする。 これは具体的に伝わっていないが、今日のような仏教の戒律は存在していなかったので、禁忌の言葉を使わないとか、菜食主義にするとか、そんなものだったと思われる。 実際に晩年の曹操は、「夢の中で神仙と出会い、お告げを受けた」と公然とみんなの前で発言するようになった。 これは文字の読める知識階級たちに広がった仏教の片鱗だったが、同時に仏教の伝来は完全に組織化された「教団」の成立も促進した。 いいかえれば、仏教は、経典に文字で書かれ、言葉として述べられた思想と、インドのカースト社会で強固な宗教組織をつくりあげた「組織論」が別々な展開をしたのである。 それまで不老神仙の「方術」は、特殊な霊力を持ったニセ超能力者たちが指導者だった。 ところが仏教が中国に持ち込んだ教団組織論は「誰でも、決められた修行をすれば宗教指導者になれる」という考えで、僧侶が呪術のように経文を唱えて庶民の生活に入っていく。 このような教団組織論は、いうまでもなく一向宗(浄土真宗)の組織論であり、広く解釈すればプロテスタンティズムの教団組織論でもある。 こうした組織論のいきつくところは、一般の世俗から独立、超越した意識を強烈に発揮するカルト・コミュニティである。 このような過激な宗教団体の見本を、現代の我々はオウム真理教の事件で目の当たりにしたが、 後漢時代末期には、これが【黄巾賊の叛乱】という形で現れた。
2007.09.23

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第7回■ ★「晩学」だった曹操★ このイラストは、青年時代に父親の書斎にこもって、猛烈な濫読にふけっていた時期の青年・曹操を初期仏像になぞらえたものである。 この時代の高級官吏の師弟は、だいたい15才程度で学問の基礎を身に着け、20才まで父親の傍や元官吏の師匠の下で実務教育を受けた。 20才前後になると、地方政府から召喚の命令があり、郡太守や各州刺史などの推挙という形で中央政府に推薦された。 【蜀志・前主】つまり正史・三国志の劉備の伝記によると、劉備もまた、少年時代に基礎教育を受け、郷里出身の蘆植が、琢郡太守だったときに、私塾の弟子の一人として座を連ねたとしている。 しかし、劉備は実はシングル・マザーに育てられ、そのために少年時代は貧乏暮らしをしていたのであり、各地に遊学したりしたのは、富裕な同姓の劉氏の金銭的支援によるものだったとされている。 私はこうした正史の諸伝には最初から疑問を持っている。 蘆植のような人物に教えを受けたならば、自分で兵書の一つは考えが及ぶはずであり、帝王になっても代筆やら公文書の発給に苦労をしないはずだが、そもそも彼はそんな知識は持たなかった。 その経歴(学歴)は、どうやらニセモノであり、出自からしても劉備が「劉氏」であったのかどうかも疑わしい。 彼は故郷を離れ、自分の近縁にあたる劉氏からは一人も人材を採用していない。 同じような学歴を持った他人に「なりすまし」をすることで、自分を誤魔化していたのが「劉備」の実像だったのではないか。 それに比べると、曹操が官吏(郎官・宮廷内のパシリ小僧)になったとき、彼は必要な知識を何一つもっていなかった。 父親の曹嵩が、曹姓に養子縁組したことで高官になってから、郷里にいた曹操を首都・洛陽に呼び寄せたのである。 簡単にいえば、開成・灘・桐蔭学園の卒業生がそろって入学する名門大学に、甲子園出場の名門野球部のキャプテンが同級生として投げ込まれたようなものである。 曹操本人も相当にショックだったであろう。 曹操は荒れた。 精神的にドロップアウトした曹操は、一方では洛陽きっての少女歌手トップのベンちゃんと自由恋愛に走る一方で、最高権力者の宦官の庭に殴り込みをかけるという事件を起こした。 この事件は不問にふされたが、曹操は一切の外出を禁じられたに違いない。 そして。 彼は父、曹嵩が収集していた図書館のような蔵書室の書籍をすべて濫読しつくしたのである。 後に、彼の部下になる知識人たちが驚嘆する博学さと、文学的な教養はこの時期に陶冶されたと考えられる。 曹操の「晩学」は、さまざまな言行にあらわれている。 孫権が若い呂蒙に学問をすすめたとき、「孟徳(曹操)は老いてますます学問が好きになったと言っている」と忠告した有名なエピソードもあるが、 曹操自身も、「年長になって学問をしてから成功したのは、彼と私だけだな」と友人を賞賛した言葉をのこしているからである。 曹操の「晩学」というのは、当時でいえば20才前後の話だが、今日でいえば大学を卒業して社会人経験が二年ほど、要するに25才ごろと考えていい。 しっかりした職業について、それから学び始めると、大きな違いが出るのは、社会人大学院で起きているさまざまに好ましい効果である。 翻訳文献しか知らない経営学者より、社会人大学院生のほうが実務や企業内の人間関係に詳しいからである。 学校生活で迷いながらテスト生活を送っていた時代と比べて、社会人大学院生には「自分に必要なもの」がわかっている。 問われなくても、促されなくても、自分から文献の読解に挑戦している。 曹操は「社会人大学院生」だったのである。
2007.09.22

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。■第8回■ ★曹操の政治腐敗との戦い★ 政治腐敗との戦いは、現在の問題、あるいはマスコミが発達した今日だけの問題だと考えている人々は、この曹操の言行に注目してもらいたい。 曹操は若いときから政治腐敗を憎み、実力のないものが金銭や便益の供与で権力を売買していることに心底の憤激をもっていた。 それは彼の父親、曹(夏侯)嵩が、ただ宦官の養子であるということから、その出世に対して多くの官吏から向けられた激しい嫉妬と偏見と無縁ではないだろう。 曹嵩という人物は、おそらくは当時の学者にも匹敵する優秀なキャリア官僚であった。 それは彼が故郷から、東の徐州に移住しようとしたとき、その荷物が荷車数十台の大がかりなものだったということで判明するのである。 多くの研究者、あるいは研究史においては、この荷車は「金品財宝だった」ということになっている。 私はこのような研究はまったくの俗説であり、そのようなことを一行でも書く人間は、まったくのデタラメを流布する大馬鹿阿呆の愚連隊だと非難したい。 したがって、今日の三国志研究なるものの大半は、デタラメであると断言していいだろう。 三国志の他の記述を参照すると、華北を平定した曹操が各地で抜擢した元地方官の人材が中央政府に召喚されるとき、やはり荷車何十台という大変な引越し作業をしていることがわかる。 その荷物の大半は、竹簡類など古書典籍のおびただしい蔵書群だということがちゃんと書いてある。 これら各地から戦災を避けた写本の収集を通じて、曹操は大学制度を復興したのである。 したがって、曹嵩の大量の荷車の荷物、それは当時ほとんどの書籍を網羅した図書館並みの蔵書群だったと断言してもよいだろう。 金品財宝などという考え方は、曹嵩たちを殺害して荷車を奪取しようとした、殺害事件の犯人たちと同じように下劣な餓鬼豚どもの発想に間違いないのである。 それが「○○大学の有名教授でございます」というのは、きっと毎日、猿と豚のダンスを大学講義にかけているのだろう。 馬鹿野郎どもめ! この私立図書館ともいうべき蔵書群のおかげで、曹操は当時の教養人も文化人にもなしえなかった学問的業績を完成させた。 それが【兵法接要】と伝えられる著書で、兵法書に書かれてあるさまざまな戦術を歴史的な故事、つまりケース・スタディに当てはめて考察したものだったと考えられている。 これもなかなか大変な索引書になっていて、曹操に批判的だった文化人たちも、この【接要】については何も非難や批判めいたことを漏らしていない。 それは物量が大きくて、あまりにも大部の著書だったから、いちいち具体的に批判できなかったのであろう。 もう一つ、重要なことがある。 それは二度も曹操が発意して、霊帝に上書、つまり皇帝に直接、意見書を奉呈し、かなり大きな政変をしかけていることである。 実際に皇帝は、曹操の告発に驚愕し、当時の権力者すべてに辞表を出させるという大事件に発展したこともある。 この告発文というもの、これはすべての官吏が納得できるような格調高い文体でなくてはならず、論旨の説得力はもちろん、過去の歴史事実を典拠にして、現実の政治社会問題に批判を加えるという難事業である。 それを曹操はたった一人でやってのけた。 当時の曹操はまったく孤立無援の存在、手助けするのは友人であり、家来でもブレーンでもない。 政治腐敗に対する、たった一人の告発の叛旗。。。 それが若き日の曹操なのである。作画・Ms.KANZAKI
2007.09.21

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第9回■ ★一世風靡した北部尉・曹操の指導力★ 曹操ファンにとって、最初に「曹操らしさ」を感じるのは、この北部尉に抜擢された時期の華麗なる指導力であろう。 この時期の曹操の意気軒昂を表現するのは、あのナポレオンに匹敵する騎馬像がよいということで、ベネズエラの首都カラカスのボリバル広場の中心、サイモン・ボリバルの騎馬像など、解放者(The Liberator)のイメージを強く出すことにした。 というのは、有名なダヴィッド画のアルプス越えのナポレオン騎馬像は、彼が権力者になってから描かれたものであるから、その目は野心と権力に向かっている印象があるから、敢えて、これを手本にはしなかったのである。さて、聞くだに鮮やかな北部尉の業績。。。しかし、ほとんどの三国志関連の研究は、単なる正史の祖述と混乱した膨張になっていると断言しなければならない。 そもそも曹操が北部尉に就任して、さっそく首都洛陽の北門と、北部尉の監督署の施設、つまり勤務先の改修工事をはじめた、というが、その費用はどこから捻出したのだろうか。 皇帝の命令で資金が用意されて、こんなことをしたと考えるのはまったく愚かなことである。 また北部尉の曹操が自腹で、首都の北門の改築費を調達できたと考えるのもトンマな話だ。 曹操が神様や魔術師のように、呪文を唱えて、北門を改修したというのだろうか。 諸君。 三国志の研究などというものは、いかにオカド違いの馬鹿野郎たちが詐欺まがいのベンチャラでやっているか、これでよくわかるだろう。 最大の疑問が何一つ追及されていないのだ。 その後の経緯からすると、曹操は就任直後、北部署に巨額のウラ金が蓄積されていることを知って、これを思い切った改修工事のプランに投入したらしい。 そのウラ金とは。 富裕な階層が郊外に夜遊びに出て、時間外に北門の事務通用口を通過するときに支払う巨額のワイロ。 そして日常の通行にも門番たちが支払いが強要するような通行税など。 曹操は北部署のリニューアル後に、すべてこれらの腐敗行為を禁じて、門衛兵たちに新しい兵器類と、制服・備品・甲冑を支給している。 最大の疑問。。。なぜ曹操はこんなことをしたのか。 それはドロップアウトの時代に、庶民の生活にまじわり、騎馬ではなく徒歩で、このような門衛兵たちの卑劣な蛮行と腐敗行為を直視していたからであろう。 官吏の服装をして、騎馬で通行する官位ある人物に、門衛兵たちは手出しをすることはない。 それは彼らも違法行為だとわかっているからだ。 そこで庶民をいじめ、富豪や高官にへつらって、ウラ金を蓄積していたのが、門衛兵たちの実態だったのである。 曹操はそれがわかっていた。 しかも、それが門衛兵たちの勤務形態、古くなった施設、古くなった備品、そして汚くても再支給されることのない制服などに由来する士気の低下によるものだということもわかっていた。 だから、曹操は一過的に門衛兵たちを責めることより、このように構造的な改善に着手することによって、北部署という職場の大改革をやってのけたのである。 そして、曹操はここで初めて洛陽の全市民、そして宮廷の官吏すべてに顔と姓名が知られるようになった。 まさに一世を風靡したといってよい。 自衛隊のイラク派遣部隊の初代隊長が、国民的な有名人となり、参議院議員に当選したということも、最近の事実である。 現代の政治、経営において、実地に参考になる指導力の実例の一つと言えまいか。 お馬鹿ぞろいの三国志研究の愚連隊講演団やらダボハゼ大学文学部教授にゃ、そのあたりはわからんだろうが。
2007.09.20

□謹告□ 知る人ぞ知る連載【曹操言行録】が近日に単行本として出版される運びとなりました。 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。作画・Ms.KANZAKI■第10回■ ★曹操と許劭のつながり★ 許劭という人物は、みんなも知っているように、若い曹操のことを「治世の能臣、乱世の姦雄」と評したことで知られている。 許劭は「月旦表」という人物鑑定のガイドブックを公表し、ミシュランのグルメガイドのように人材の評価を列挙して論じた。 面白いことに袁紹・袁術などは許劭との交際は見当たらない。 袁術は、その人間からして許劭は敬遠しただろうが。。。 どうして曹操は許劭から「治世の能臣」という破格の評価を受けたのか。 そして「乱世の姦雄」とは具体的にどういうことなのか。 またしても従来の三国志研究の愚連隊講演団やらダボハゼ大学文学部教授なんぞの馬鹿面は、こうした基本的な疑問に何も答えていないことがわかるだろう。 まったく口先だけのアホな眠たいヤツラだぜ。 まず「治世の能臣」ということについて。 これは北部尉として、綱紀粛正の改革で洛陽全市民に一世風靡した時期の世評と無関係ではないだろう。 そもそも許劭との出会いのきっかけをつくったのは、後漢の最高官・太尉の橋玄の言葉である。 「曹操君、君は確かに有名になったが、まだ官界や文化人たちに名声があるわけではないぞ」 「橋玄さま、私はどうしたらいいのでしょうか」 「許劭に面会して、君の人物を鑑定してもらいなさい。大丈夫だ。私が貴君を抜擢したのだから」 ここで推理されるのは、北部尉の抜擢は太尉・橋玄の決断と推挙によるものだということである。 もちろん橋玄は許劭と面識も交際もあったはず。 しかし、許劭は頑固に、しかし手前は柔らかに面会を謝絶しつづけた。 それは曹操がいかに清廉の志士であるとはいえ、やはり宦官の養孫ということに偏見をもっていたからで、許劭としても葛藤があったものであろう。 ただ、それだけでは「能臣」という評価はない。 文化人の代表格だった許劭を「これはすごい」と唸らせるものは何だったか。 後に議郎に就任したとき、ただちに皇帝に政治改革の意見書を奉呈したわけだが、その準備を、この時期から営々とやっていたのである。 その草案を、曹操は許劭に見せた。 その文才と志気に感動した許劭は「能臣」という評価を即座に与えたのである。 では「姦雄」とは。 「姦」というのは、相姦にせよ強姦にせよ、印象のよくない漢字である。 しかも女性が関係している。 「雄」というのは、曹操自作の「青梅、酒を煮て英雄を論ず」の詩にもあるように、動物のオスの意味ではない。 人材として傑物を意味する。 曹操たちがよく引用した歴史的人物名としては、前漢時代に皇帝廃立のクーデターを断行した霍光があげられる。 西域遠征で武帝に仕えた将軍・霍去病の異母弟である。 この人物は非常に偉大な政治家として評価されているわけだが、皇帝を擁立して一ヶ月もたたないうちに廃止したり、これはなかなか文化人たちの評価が分かれるところだった。 私の解釈するところ、「姦雄」というのは、英雄ではあるが、そのやり方が尋常ではない、むしろ君臣の境目を踏み越えてしまう人間に対する警告であった。 曹操の強引な手法は、なるほど鮮やかで効果は抜群だが、従来の前例にとらわれない、したがって保守的な人間たちからは批判の対象になりやすいものだった。 そして、許劭は実際に曹操の人物を評価して、「月旦表」にも姓名を掲載した。 そのことによって、曹操は単なる有名人ではなく、一流の文化人たちと交際が認められるような人間として成長していったのである。
2007.09.18

スポーツクラブの楽しみは外では履けないブランド靴が使えること。ローリングストーンズのシューズもその一つ。そこに、また【新兵器】が加わった。この在庫を取り寄せるのに、大阪支店まで捜索をお願いした一足。おかげで表参道ヒルズのスタッフとも仲良くなれたしね。D&G-C3POと命名した(笑。
2007.09.15
さて曹操閣下はヴォルフギャング・パック新宿店のオープニングに呼ばれて、オーナーシェフのヴォルフギャング・パックさん御本人と握手したのである。それ以来、だいたい食事時にヴォルフギャング・パックの看板をみかけると、安心して利用している。ところが今日はローストチキンを頼んだのに、間違ってバーベキュー・チキンバーガーが出てきた。メニューの聞き間違いは困ったものだ。抗議したら、あとになってアイスクリームのデザートセットを[お気持ちですが]ということでサービスしてくれた。失敗はいつでも、どこでも起きるもの。ヴォルフギャング・パックの顧客満足方針には感服したというわけだ。経営学はおいしい学問なのである。
2007.09.14

アルフォンス・ミュシャは日本でも最も人気が高い画家だ。多くの作品がポスターやリトグラフ(彩色版画)だから普通サイズでも価格は五万円前後。オフセット印刷なら三千円以下だ。その価格もいいが、もちろんデザインもすばらしい。今回の展示でいくつか発見があったので、メモしておこう。ミュシャはモルダヴィア族(現スロヴァキア)の出身で、パリで画学院の学生をしていたとき、女優のサラ・ベルナールにポスター制作を依頼された。彼のデヴューは学生アルバイトだったわけだ。このサラのポスターで、いわゆるアルフォンス・ミュシャのスタイルが完全に完成されているのは驚きだ。まずジャポ二ズムといわれる浮世絵モチーフのデザイン。扇子を丸く折り重ねた車輪の円形。有名な『四季』のリトグラフの冬の図は、素描では羽ばたく天使が粉雪を巻き上げる構図だったが、完成したものは寒そうに絹をまとった女性と、雪をのせた盆栽の背景モチーフ。これをみて閣下は直感したのだが、アルフォンス・ミュシャ本人はあまりジャポ二ズムに熱心ではなくて、彼に絵を書かせた人、スポンサーたちがこういった図柄をしつこく要求したのだろう。その一人は、デヴュー作のポスターで、彼の前で日本の着物と帯をまとってみせたサラ・ベルナールその人であったことは間違いない。もちろんミュシャはすごい勉強家で、モチーフの同じデザインを複写して並べるエジプト・オリエント装飾文様を完全に欧風化した。葛飾北斎の浮世絵から、乱れ咲きの菊花のモチーフを花冠に使っている。安藤広重の生け垣の朝顔は、葉形の連想から葡萄になっている。生け垣に葡萄というのは無理があるからな(笑。ただアルフォンス・ミュシャは菊の実物は観たことがなかったのだろう。その冠の菊花は薄緑に彩色されているからである。。。
2007.09.13

こういう盆栽の特殊な枝振りや達磨大師のホッカムリをヘタに図案化したミュシャの代表作を見ると、「やっぱりミュシャはジャポニズムだ」という印象が強くなるし。ミュシャは驚くほど多くの商業広告のポスターを残している。そのデザインもすばらしい。この【JOB】は何だろうといつも不思議に思っていたが、Joseph Bardou ジョセフ・バルドゥーという名の「タバコの巻紙を製造する会社」のイニシャルだった。聖書のヨブ紀とか、英語のJob(労働)と何の関係があるのか、ずいぶんと取り越し苦労していた(笑。で、気がつくのはタバコの持ち方が反対だということ。女性が喫煙しているのではなく、「ハイ、タバコに火をつけましたよ」と手渡しているという構図なのだ。恥ずかしながら、タバコの煙だとは思わなかった。。。実によくできている。◇ ◇ ◇さて、クリムト、ラリックをはじめ、世紀末とりわけアールヌーヴォーの芸術家は、女性の顔といえば「うっとりと陶酔した表情」が最高の美とする傾向があった。それはSEXのエクスタシーの表情である。クリムト、そして晩年のロダンも、SEXとエクスタシーの女性美を追い求めた。ミュシャも【JOB】あたりまで、こうしたセクシー系の美を表現していたのだが。。。この少女の怒りのような目は何だろうか。そして、その顔も女優のような端正な顔立ちではない。まゆ毛の間が広く、顔も四角、アゴとエラが張っている。鼻も低めである。解説によると、これはスラブ民族系女性の顔であり、薔薇を手にした少女はミュシャの故郷、モルダヴィアの象徴である薔薇の妖精だという。パリを離れ、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったプラハにもどったミュシャは民族的な独立思想を絵画で表現するようになったというのだ。右下の黒い鷹は、なるほどハプスブルグの象徴なのだろう。でもなあ。そうなると芸術は政治的なプロパガンダでないといけないのか、そのほうが上等なのかということになるし。この絵の周囲の菊と薔薇の装飾は、明らかにミュシャの心の中に、ヨーロッパの別世界であるジャポニズム再評価をあらわしているだろう。そして、鷹の爪を受ける曲がった枝、これは尾形光琳のモチーフ。ミュシャはパリのベル・エポックを完全に否定したわけではなかったのだ。民族の不幸と悲劇を見つめつづけた画家の描きたい作品は別だったとしても、やっぱり初期のミュシャはすばらしい。もし彼がユトリロのように、政治も戦争も意識しないパリっ子だったら。。。そんな思いがよぎるのである。
2007.09.12

この山手十番館はフレンチ・レストランとして営業している。ところが客の入りは今ひとつ。ところが、そのとなりのガラス張りのフレンチ・レストランは大盛況。簡単なことで、このレストランからは山手十番館の全体がよく見えるのだ。みんな西洋館を見ながら食事をしたいのであって、わざわざ西洋館で食事することで割り増しを払いたくないのである。消費者の行動はおもしろい。理屈にせよ、錯覚にせよ、いつも何かの真理を語っている。
2007.09.11

ははあ。でも入場料200円は高いよ。。。http://www.yokohama-jyubankan.co.jp/
2007.09.10

中華街の散策中に、ある古着屋に入ってみた。あれ。これはオリンビック選手の公式ブレザーだ。このファースト・リテイリングはユニクロの本社である。昔の仕事はおもしろかったでしょ、会長さん。
2007.09.09

パリス・ヒルトンのスキャンダル映像がDVDで発売されている。いろいろ考えさせられたが、彼女を弁護したり擁護するつもりはない。しかし、19才の彼女は、ほんとうに痛々しいほど美しい。DVDの主題は、もちろん彼女の私生活の暴露が目的だが、ビデオに撮影されても平気でいる彼女(デビュー前)に哀れさを禁じえない。もう一つ、哀れに感じるのは、ハードもの・ビデオにみる、多くの外国人のテクニックの貧困である。第一に、動きがノロすぎる。ワン・ストロークを一秒以上もかけて出し入れしている(笑。男だけがノロマなロバのように「あうあう」とわめいている。ったく見るに耐えないヘッタクソな野郎だ。有名なハリー・リームズなど、今になってみると、すごくユックリズムで動いている。日本のAVの熟練した男優なら、少なくともロック・リズムぐらいの速さは動かせるだろう。それでも女性は幸せになれない。そんなリズムでは頂点には行けない。それで男何人がかりでかかっても、勝手にフィニッシュして中断で終わってしまう。女性はいつも置き去りなのだ。女性の頂点など、最初から目的から除外されているのだ。ハードロック・リズムからタタタタタッと2倍速にかかるとき、女性ははじめて宙を舞う。そして目を閉じている間だけ、妙なる虹の光りに包まれた天国の扉が開くのだ。つまり16ビートから最速32ビートまで激しく数分以上は動かさないと、本物には到達しえないのである。パリスも、もちろん終わったあと、はかなげにつくり笑いをしているだけ。失神も陶酔も目眩もしていない。実に哀れだ。第二に、ディープキスと、おざなりタッチ以外に目立ったテクニックを何も使っていない。ここをこう、というアクションは何もなく、さっそく本番になっている。パリスの表情は最初は苦痛そのもの。声も呼吸音しかない。痛みに耐えているのだ。哀れだ。第三にキスも可哀相なほど淡白だ。ディープキスもテクニックを使うと、女性は次第に頭の中が吹っ飛んで、数分で体の力が抜けてしまうものだ。つまり、キスのエクスタシーは、手間をかけた本番行為より激しく速く軽く急上昇するのである。しかし、パリスにそんな目立った反応はない。ビデオ男はキスもヘタクソなのだ。ヘタクソなウソつき男に「愛してるわ」と言葉をかけるパリス。哀れでならない。
2007.09.08

まあ、あんまし説明はいらないでしょう。http://www.y-navi.jp/kihon.phpなかなかよかった。
2007.09.06

紅茶のカップはロイヤル・アルバートUK。http://www.y-navi.jp/kihon.php神戸の北野にもこういう店はあるんだけど、観光客ズレしていないというか、非常にあったかい雰囲気でいいところだ。曹操閣下の「また行きたいカフェ」のリストに入れておこう。
2007.09.05

曹操閣下はヨコハマに来ている。中華街を歩いたが、その激戦ぶりにずいぶんと変化が現れてきたようだ。いわゆる「勝ち組」と「敗退組」のあり方がハッキリとしてきた。経営戦略学としても、横浜中華街ほど同業者の競争が激烈で、変化が激しい場所はモデルケースとして見当たらないだろう。http://www.heichin.com/sario/この【聘珍茶寮】というのは、中華街で一番の老舗、聘珍楼が展開したファーストフード方式の店舗である。場所もいい。JRの関内駅・石川町駅から中華街への入り口に当たる善隣門の正面右角という最高の立地。しかし、これが入りづらいのである。あまりにソッケない。何をどうやっているのか、何の説明もない。二階に上がって、奥のカウンターに行くと、マクドナルドのような店だとわかる。とてもアイデアはすばらしいのだが、わかりにくいのはよくない。「わかりにくい」というのが、売れない理由の一つ。だから、このセルフサービスの茶寮もそんなに客が大入りというわけではない。オープンな厨房に立っているのは、みんな30才前の女性たちである。で、閣下が彼女たちを見ていて思ったのは、その真剣さなのである。中華料理店の厨房というのは、いわば名人芸の世界で、陳健一などもオタマ一つで、すべてのレシピを一瞬にして計量し、「ハイ、これ大さじ3杯ねーっ」と言いながら、鍋に投げ込んでいく。中華の料理人はそのように料理を曲芸方式で作っていると思っていた。ところが、この聘珍茶寮の厨房はまるで女子高の化学部の実験のように、すべてが緊張感の中でゆっくりと、フレンチの厨房のように仕事をしている。ただただ、すごく真剣なのである。チンゲン菜をラーメンに盛りつけるのも、普通の曲芸料理だと指でつかんで投げつけるのが普通だし、あちこちのラーメン屋でも見かける光景だが。彼女たちは菜箸をつかって、本当に丁寧に盛りつけをしている。すごく真剣に。レシピはもちろん、聘珍楼の総料理長がつくったわけで、まずいはずがない。そこで、閣下は考えたのである。曲芸料理のフリは上手でも、食べて見ると塩味がきつかったり、いいかげんな料理は中華街にはどこにでもある。それはセット・メニューで1995円とか、コース料理で一人3000円と大きく看板を出している巨大な店のことである。なぜ、こんなに安くできるのか。これは賃金の安い中国人の料理人を使い、安い食材で、複雑な手間のいらない料理を並べるからである。このように安さを売り物にしはじめている大きな店は、もちろん営業成績があがるものではない。利幅も小さいし、客が行列するほどの盛況は取れない。他の小さい店では、これらの料理はもっと安く、そして美味しく食べられることはわかっている。現実に、そうした小さい店のほうが平日でもたくさん行列しているのである。なぜ小さい店が喜ばれるのか。それはやはり厨房が緊張していて、真剣な空気が伝わるからであろう。有名な店、大きな店ではなく、「真剣な店」が勝つ。孫子兵法の極意がほの見えたのである。
2007.09.04

曹操閣下はヨコハマに来ている。中華街を歩いたが、その激戦ぶりにずいぶんと変化が現れてきたようだ。いわゆる「勝ち組」と「敗退組」のあり方がハッキリとしてきた。経営戦略学としても、横浜中華街ほど同業者の競争が激烈で、変化が激しい場所はモデルケースとして見当たらないだろう。倒産した金陵酒家。まるで関西の金龍ラーメンのようだが、満珍楼と聘珍楼の中間の立地で、巨大な廃墟になっていた。入り口の脇に張り紙がしてあって、「別の場所で再開しています」という。行ってみた。料理店ではなくて、北京ダックなどの下請け店として営業を再開していた。ほかの中小の店が、金陵酒家の北京ダックの味を惜しんだのだろう。この金陵の下請け仕事のおかげで、中小の店でも北京ダックをメニューに加えることができるわけだ。持ちつ持たれつ。中華街の知恵といえるだろう。さて、その金陵酒家のすぐ近くで、こんな看板が出ていた。この店は金陵酒家など比較にならない小さい店。そこに地元企業の幹事たちが出入りしている。中華街ドリームがまた生まれようとしているのか。
2007.09.03

曹操閣下はヨコハマに来ている。中華街を歩いたが、その激戦ぶりにずいぶんと変化が現れてきたようだ。いわゆる「勝ち組」と「敗退組」のあり方がハッキリとしてきた。経営戦略学としても、横浜中華街ほど同業者の競争が激烈で、変化が激しい場所はモデルケースとして見当たらないだろう。ここを歩くと、企業間競争のモデルはいくつでもころがっているようだ。たとえば、こんな看板。そんなこといったって、行列なんかどこにもないじゃないっすか。ハッハッハッ。その理由はわかっている。ここは行列ができている。なるほど、世界一の中華マンが90円というのは、ビジネスモデルとしてはおもしろい。90円の豚マンは、普通のアンパンぐらいの小さいもので、これも意表を突いている。中華街を歩いている、ほとんどの客は女性たちなのだ。女性は巨大な豚マンは食べにくい。ところで、このように単品の売り物で中華街に殴り込みをかけていたのは、かつて周富徳たち兄弟だったことは記憶に新しい。去年までは元町の方向の小さな店で、派手な看板でみやげ品とか売っていたが。すでに絶滅していた。
2007.09.02

曹操閣下はヨコハマに来ている。中華街を歩いたが、その激戦ぶりにずいぶんと変化が現れてきたようだ。いわゆる「勝ち組」と「敗退組」のあり方がハッキリとしてきた。経営戦略学としても、横浜中華街ほど同業者の競争が激烈で、変化が激しい場所はモデルケースとして見当たらないだろう。写真は後になるか、まずは考察を進めたいと思う。さて、こうハードな話題がつづくとグルメ・ブログとして価値ないじゃないかということもあるだろうから。曹操閣下が見つけたヨコハマ中華街とっておきの店を紹介しよう。その名前はhttp://www.kouseiwa.com/善隣門から、ヨシモト・さかなミュージアムと、巨大な満珍楼を過ぎた数件目、左側の小さな店である。閣下としては、これまで単なる中華食材屋の一つではないかという認識だったが、どうやら看板娘さんの手づくりで、店先でスイーツを売りはじめた。この娘さん、若いのにすごく生真面目な人で、二度目に来た閣下のことを完全に記憶していた。。。まぁ、こっちも印象濃い人間であるのだが(笑。ミルクティーに入れた黒タピオカの飲み物、150円!別に安いものがいいとは言わないが、目の前の店が黒タピオカのドリンク300円、200円とハデハデに張り紙してあるのに、公生和は冷蔵庫の脇に小さな手書きで、控えめに「150円」と書いてある。このギラギラ看板だらけの中華街で何と生真面目な。。。三度目に行くと、娘さんが控えめに「オーギョーチ(愛玉子)のバフェも200円です。いかがですか」とすすめてくれた。少し時間がかかったが、カップに山盛りのオーギョーチ・パフェを出してくれた。しかも、閉店間際なので家族全員が表彰式のように総出で。本当に生真面目。食べてみると、何とオーギョーチの下には、話題スイーツのシェーホワビンが!中華街で最高のスイーツの店は、公生和である。
2007.09.01
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