全5件 (5件中 1-5件目)
1
腸内フローラの改善について、父の為に努力したし、自分も努力している。 私は、仕事場では昼食を摂らない。代わりにヤクルトの3つの製品を飲んで終わり。 朝はカゴメの野菜ジュースでサプリメントを飲んで終わり。 基本的に、お腹の重い状態では職場に居ない。 ヤクルトの3つの製品は、消化器官の、特に腸内フローラを意識して種類を決め、 毎日の摂取を維持するため、ヤクルトレディーが来るのを外しても大丈夫なように、 基本的に、予備を1組買ってある。 職場に行かない土曜日や日曜日は、必然的に飲めないが、 代わりに、朝起きていないから、胃腸は、休んでいる。 昼ごろに野菜ジュースで空腹を見たし、サプリを飲む休日。 おかげで、56歳の今日でも、杉や桧の花粉症から逃れられている。 かつて、ひどいイネ科の花粉症に苦しんだが、アレルギーマーチにならないよう気を付けた。 今日も、仕事に出た後、神戸に生ハム類を買いに出たけど、ちゃんとマスクをして出た。 目がごろごろすると思う時は、洗い流すようにしている。 食事の時は、フルーツや野菜から食べ、たんぱく質を取ってから、 炭水化物を少量取るようにしている。 夕食や、会食の時の食べる量は人並みよりは多い。 健康だったころは、若い男性職員と同じくらいの量をぺろっと食べていた。 天麩羅うどんと親子丼とかの組み合わせ、平気だった。 天麩羅そばと、とろろご飯とか、大好き。 今は、退職まで健康に過ごしたいから、食事には気を付けている。 アンジェリーナ・ジョリー?っていう怖い顔の女優さん、 両方の乳房に次いで、卵巣と卵管も予防的に切除したらしい。 更年期障害を乗り切れる覚悟があるんだろうと感心した。 未だ健全な卵巣と卵管とを予防的に取ると言うことは、 いきなり更年期障害を経験する可能性が高いと言うことだし、 それでも、わかっていて切ったと言うことは、それだけ、卵巣ガンは怖いと言うことだ。 実際、出血のある子宮がんと違って、卵巣がんは発見が遅れることが多く、 手遅れになりやすい。 私の子宮の悪性腺腫の執刀医の先生も、それを言っていた。 だから、将来卵巣がんになる率が高いから、予防的に切りましょうか?と言われて、 私は迷わずにそうして下さいと言えた。 妹は、私と2歳違いで、この5月に54歳になる。 おそらくは更年期障害の真っただ中にいて、次々起こる症状を個別の事案としている。 心療内科にもかかっていると思うけど、基本、ホルモンバランスの崩れだから、 対症療法的に薬飲んでいても、薬が増えるだけだと思う。 今は、ずっと、歯痛に悩まされているが、歯科医師からは、どこも悪くないと突き放されている。 実は、腸内フローラを改善して、更年期障害に対応できるサプリがある。 タイトルの エクオール生産菌 ラクトコッカス20-92である。 大塚製薬からエクエルという製品が出ている。 この乳酸菌は、イタリアの伝統的なチーズ数種類からも検出されていて、 安全性は評価されており、特許も取得している。 で、私は、今後、母の世話をしてもらうことになるから、妹にこの菌を紹介した。 と言うか、そういうサプリがあるから、送ろうかと聞いた。 妹は「まだ姉上が父上に買ってたビフィーナEXが残っているから取り敢えずそっちを飲む」と。 なるほど、まだ、1月分くらい残っているのだろう。 しかしあれは、腸内フローラを改善して癌を予防したりする効果はあるけど、 更年期障害にダイレクトに来たりはしないと思うんだけどな。。。 妹も、父の腸内フローラが劇的に改善し、悪臭が低減されたことは認めるから、 無関心なわけではないだろう。 しかし、私のように職業的に情報を集めているのではないから、響かないのだろうなぁ。 二人の姪たちの進路についても、私のように職業的に情報を集めているのではないから、 妹は、後手に回って、更年期障害を一層重くする6年間のストレスにしている。 3回生になる下の姪の大学卒業後のことも、きっと後手に回って、ストレスを増やすだろう。 二進も三進も行かなくなってから、私に放り投げるのはやめてほしいと思っているが、 過去のデータではそうなるだろう。 今はせめて、妹の更年期障害の症状の改善を祈るのみだ。 情報は、出した。 姪のことにしてもそうなんだけど、取捨選択するのは、親としての妹。 健康管理情報も、取捨選択するのは、彼女自身だ。 今日の、母からのデイリーメールで、妹が、退院後の母を自宅ではなく妹宅に引き取るとの提示。 2月でボランティアみたいな仕事を辞めると言っていたのはお正月だった。 3月になってもまだやっていて、父の葬儀の時には、3月末で辞めると言っていたが、 4月末まで続けると、母には言ったらしい。 妹にとっては、30秒で着く実家よりも、自分の家に母を引き取る方が簡単なのだろう。 お仏壇も、父の遺骨も、実家で母を待っているが、私はなす術もないから、 妹と母との話を聞くばかりだ。 妹の家で、昼間は好きにしていいと、妹は言うんだけど、 母の足では、むしろ危なくて、自宅までの田圃道を歩けないだろうから、 結局、無人の妹の家で、母が一人で過ごすことになるだろう。 母がそれでいいのなら、私は、それでいいけど、姫路の叔母が呆けたのは、まさにその状態で。 嫁が何でもしてくれるようになって、どんどん呆けてしまったのだ。 しかも、それでも困らないから、発見が遅れて手遅れになっている。 あらゆるものがある自宅で過ごすより、何もない妹の家で過ごす方が良いのだろうか。 妹の家は、風呂もトイレも全くバリアフリーではないんだけどね。 せっかくバリアフリーにして、ベッドを入れてる母の自宅の方が、 母の機能を奪わないと思うが、離れて暮らしている私は、ここに書いておくしかない。 母の人生である。。。母の好きなようにして、100歳越えを狙ってほしい。
2015年03月28日
コメント(2)
昨日、勝手に、バーズデイ休暇を申請して、誕生日を休んだ。 父の居ない誕生日を、どう過ごし、明日からの仕事に復帰するのか・・・ 結局、また、毎年のように、自分の生まれ故郷に旅し、 初めて勤務した街を通って、昔仲間とよく行った店に行って、 お久しぶりですねって言われて、 誕生日は1年に一度しかありませんからねって答えて・・・ 34年前、初めて仕事に行った道、 勤め始めて、初めて住んだアパート、初めて住んだ一戸建て、初めて暮らした街、 昔、娘と遊んだ河原、 昔、娘を預けた家、 昔、娘と行ったスーパーマーケット、 いや、もっと昔、私がほんの幼い少女だったころ、母が勤めていた中学校 母にお弁当を届けるために父が自転車で通った揖保川沿いの土手の道。。。 私が生まれるからって、両親が一緒に暮らしていた龍野の街。 私の母の実家のある田舎道。 もう、時間は完全に行き来する。 毎年のようにその道を通り、その街を通り、あの店にランチに行くから。 時間軸は自由自在に私の中で回転する。 56年は、私の中ではあっという間だ。 いや、大学を出て、働き始めてからは、本当にあっという間だ。 最初の勤務地。 運転免許を取りに通った道。 教習車で走った道路。 そして、何度も、転勤転居後も通った道。 今でこそ、年に1度しか行かなくなったけど、 子供が小さかったころは、もっともっと頻繁に転居先の今の家から通った。 私の大好きだった街、龍野。ジュリーを目の前で見た赤とんぼホールのある街。 いつの間にか、時間軸の刻みの幅が小さくなったような気がする。 幼い頃、1年はもっともっと長かった。 一日一日、日が暮れるのが早くなる。もう人生の秋だから。。。 空間は、装いを変えているが、地軸がぶれるわけではない。 龍野の山を見、揖保川の流れを見、林田川を見、栗栖川を見た。 山崎の小さな町で食事をして、それから海を見に行った。 瀬戸内海は、鏡のように凪いでいた。 どこまでも青い空、きらめく海。舞い飛ぶ海鳥。磯の香り。 貝殻を拾った。 これは、中学生の頃夢中になって集めていたナミマガシワ貝 咲き始めたばかりのハマダイコンを見た。 梅は終わろうとしていた。山桜が咲き始めていた。三葉躑躅満開。 樺色の山桜の新葉、純白の山桜の花、遠目には本当に美しい。 山が花霞の衣をまとう。 家に帰りつくと、仙台のジュリ友さんから、素敵な贈り物があった。 1981年当時のドラマの録画。「いつか黄昏の街で」 お礼のメールを送った。 東北を襲った地震と津波の時の交流以来、ずっと気にかけていただいている。 夜遅く、元夫君のおばさんから電話が有った。 父のことでのおくやみの電話だった。 同じ年代のご夫婦だから、他人事ではない。 まして、去年の春までは、1歳年下のご子息とは同じ職場だった。 まさか誕生日と知っての電話ではないだろうが、驚いた。 時間は緩やかに動き続けている。 オリラジの中田敦彦氏のMCを務めているNHKの高校講座地理で、 空間軸、地球上のプレートの動きは、毎年人間の爪の伸びるのと同じくらいと・・・ それを、緩やかと感じるのか、そんなにもと感じるのかは、人それぞれだろうが、 同じ時間軸上に居て、この国に生まれるのと、 そうでない国に生まれるのとでは大違いだろう。。。 この時間軸、この空間軸上に、今自分が生きてあることを肯定的に感じられるよう、 最善を尽くして、生きたいと、56歳の今、思っている。 お父さん、見守ってて。。。後四半世紀生きたら、お父さんの年に近づく私の時間を。
2015年03月27日
コメント(0)
荒涼たる帰宅 高村光太郎 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ 智恵子は死んでかへつて来た。 十月の深夜のがらんどうなアトリエの 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、 私は智恵子をそつと置く。 この一個の動かない人体の前に 私はいつまでも立ちつくす。 人は屏風をさかさにする。 人は燭をともし香をたく。 人は智恵子に化粧する。 さうして事がひとりでに運ぶ。 夜が明けたり日がくれたりして そこら中がにぎやかになり、 家の中は花にうづまり、 何処かの葬式のやうになり、 いつのまにか智恵子が居なくなる。 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。 外は名月といふ月夜らしい。
2015年03月26日
コメント(0)
祖母の葬儀の後の火葬場で、待ってる時間に耐えられなくなって、 談笑している家族から一人離れて待合室の外に出た。 何気なく見上げたその時の4月の空に、水蒸気の揺らぎが見えて、 ああ、おばあちゃんの体は風になって空に昇って行った と、感じた。 すでに肉体を離れた魂は、光の中に溶け込んでいると思っていたけど・・・ その後、ある機会に、全然関係ない仕事がらみの講演会で、 元教員で、甲子園でアンパイアもしてた浄土真宗のお坊さんの講演を聞いた。 宗教がらみの講演会ではなかったけど、その中で火葬の話が出て、 魂の離れた後の肉体は、火葬されて水蒸気と二酸化炭素と遺骨になるんだって話で 水蒸気は、風になり、空に昇って、雲になって、雨と降り、地球を循環し、 二酸化炭素は、火葬場周辺の木々の働きで、吸収されて美しい緑になると・・・ ああ、あの時見えたおばあちゃんの揺らぎは、そうだったんだと、ふっと講演会で思った。 17日に、父の火葬を待つ間、ふと、そのことを伝えたくて、姪を呼んだ。 2人で、一緒に建物の外に出た。 3月半ばだったけど、おばあちゃんの時と同じように温かい春の日だった。 姪に、水蒸気の揺らぎを指さしながら、二酸化炭素と水蒸気の話をした。 姪はこの正月に帰った時、成人式のお祝いをして、 施設の父の部屋にも、着物姿の写真が飾ってあった。 父にとっては、本当に嬉しい写真だったし、華やいだ思い出だ。 二十歳の姪が、今の56歳になろうとする私の年齢に達する頃、 私は生きていれば92と言うことだ。 そんなに生きていたくはない。 いや、老い病んで無残な老後など迎えたくはないのは、誰しものことだ。 「二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」って言うのは、あり得ない嘘だ。 シンデレラも白雪姫も、眠り姫も、みんな、 病気もせず、事故にも遭わないなら、老い衰えて王子様か自分かどちらかが先に。 そして、やがては残された方も・・・ 魂は光に戻り、肉体は二酸化炭素と水蒸気と、わずかばかりのカルシウムに。。。 よしんば、火葬に付されることも無いような情けない死を迎えたとしても、 魂は、光に戻るし、 肉体は、生き物の餌となってたくさんの命を支え、大地に帰っていくだろう。 火葬を待っているたくさんの親族の中で、 姪の56歳を迎えるまで生きている人の方が絶対に稀だ。 その姪とて、大災害や、第三次世界大戦やに巻き込まれれば、56歳を迎えられない。 諸行は無常である。 盛者は必滅である。 会者は定離である。 光の中と、苦労の娑婆と、どちらにより多くの知人が居るのかを秤にかけて、 苦労の娑婆より 光の中の方がはるかに多くなっていたら、 老い病み衰えた肉体を捨てて、光に魂が吸い込まれる瞬間は苦悩ではない。 それは、長い間会いたくて会えなかった人々との再会への旅、光速の旅なのだ。 父の亡くなる直前の二日間、叔母が来てくれて、 父の懐かしい子供時代の話を聞いてくれた。 父の思い出の旅を一緒に辿れるのは叔母だけだ。 樺太でのこと、青森でのこと、熊本への2人きりの旅、熊本でのこと、 敗戦後の混乱で無理がたたって死んだ二人の生母の思い出。 その8日の晩、父は「ぐっすり眠れた」と、9日の朝訪ねた叔母に、言ったと。 父は、おそらく樺太や青森や熊本やと時間軸も空間軸も超えて飛び回っていただろう。 私は確信している。 父のライフワーク、生きた証と言っていたパリ大学史第2巻の上下巻の翻訳の校正が上がり、 父の執着はもう無かったと思う。 魂は、光速で移動する。雨月物語の「菊花の契り」の中でもそう書いてある。 12日の夜から離れていた肉体に、 13日、母が妹と会いに来て、一時魂が戻ったけど、 その母の手から、水分補給用のジュースをもらって、それが「末期の水」となって、 夕方、また、父の魂は離れた。 もう、母とも、十分話ができたし、 ぼろぼろの肉体や、施設のベッドという受け入れがたい現実に、戻る意味はなくなった。 30年前から胃も膵臓も脾臓も無く、リンパ切除で腹腔内のリンパ節も無く、 痩せて往時の半分ほどになった体。 息を引き取ってからも、しばらくは、ペースメーカーが作動していたという心臓。 多臓器不全と言うけど、そんなに臓器は残ってないよって、私は診断書を見て思った。 父は、脾臓や膵臓も無いことなど知らなかった。 胃部全摘の後、30年、本当に良く頑張った。 妹は、憎んでいた父を受け入れることができただろうか? 母は、父の老いての近年の妄言を赦すことができただろうか? 命長らえると、老醜は無残であることを、父は身を以て教えてくれた。 しかし、生き切らなければならないことも、また、その身を以て教えてくれた。 葬儀の読経の間、私の横で妹は居眠りをしていた。 銅鑼の音で目を覚ましてからは、それを埋め合わせるように泣いていた。 前夜、母に、通夜での喪主の挨拶が冷静過ぎて泣けないと妹がダメ出ししていたが、 葬儀でも、母の挨拶は冷静で、しっかりした全く泣けないものだった。 でも、母はそういう人だったし、二人の関係性はそうだった。 妹は、世間の手前それが不満なのだが、私は、客観的に見てそう言う母だと評価する。 兵庫県の私の職場からわざわざ会葬してくれた上司は、 母の元の職業をすぐにわかったと言った。 そりゃあそうだろう、あそこまで言葉と内容を吟味して、 今後の自分と周囲の住民への関係を考えた文章、 普通のおばあさんは書かないだろう。 あそこまで明瞭でしっかりとした声で、喪主挨拶をする81歳とかそうそう居ないって。 私が、父だったとしても、立派で、緊張感があって、安らぎの無い妻だと思っただろう。 高校生だった私が、ぐれてて、そんな超ご立派な母を非難してつらく当たった時、 「人の嫁さん泣かすな」と言って、私をぶっ叩いたのは、まだ70キロは軽く有った父。 40年後に、その父のことを、二度と一緒に暮らせないと施設に入れたのは母だ。 母は、父が最初に入った一時入居の施設から自宅に帰るなら、 自分は病院から自宅には帰らずに、施設に入ると言い張った。 ホテルで暮らすとまで言い切った。 私は父を自宅に戻してあげたくて、退院後の母の為にホテルを探したくらいだ。 幸い、母は、病院のシステムが変わったせいで、ホテルに入らずに済み、 父は、自分の口から、居住型の施設に入りたいと言うようになった。。。 自宅の屋根の見える非常に近い施設で、父は自分らしい生き仕舞いを迎えた。 息を引き取る少し前に、一筋の涙が、意識のなくなった父の目から流れたと、 妹が言っていた。 父の荷物を片付けに施設に行ったとき、 妹が、父の錯覚でなく本当に自宅の屋根が見えるのだと、その位置を教えてくれるまで、 私は父の錯覚、または妄想だと思っていた。 そのくらい家に帰りたいと思っているのだと。。。 父は、生まれて初めて住んだ自分のものである家を本当に愛していて、帰りたがっていた。 子供の頃、よく父が本を読んでくれて、ある時期高村光太郎の智恵子抄が続いた。 「あんなに帰りたがっていた我が家へ 智恵子は死んで帰ってきた」みたいな一節があった。 「梅酒」とか「レモン哀歌」とか「あどけない話」とか何度も読んでもらったものだ。 何十年も経って、その一節が私の脳裏に浮かび、父への言葉として何度も繰り返された。 レモン哀歌やあどけない話ではない。そらんじているからわかる。 梅酒?違うか? お父さん、お帰りって、あの13日の晩、誰も居なくなった我が家で、私は一人つぶやいた。
2015年03月25日
コメント(0)
2月21日 アルツハイマー性痴呆などの改善に音楽療法が有効との知見を得るため神戸に研修に行く。 2月22日23日24日課題を点検し、作り、印刷し畳みを繰り返す。大嫌いなパソコンと向き合う。 2月25日 1年越しの仕事の仕上げに向けて始動する。 2月26日 一仕事終える。 2月27日 大仕事が終わり、ホッとする。夜はパーティー。 2月28日 東京に向かう。国立博物館に東北の仏像を見に行く。 夜、チームの最初で最後の宴会。普段飲まないスタッフも飲む。 3月 1日 朝から雨の中、鎌倉をべたに観光バスで観光する。 鶴岡八幡宮に感動し、大仏の体内に入り、晶子の歌碑を見る。 せっかくの七里ヶ浜 歌を思い出すことで、父のことを考えた。 夜豪雨、イタリアンレストラン予約してたので行く。 3月 2日 朝から晴れて、鎌倉を再散策し、昼は横浜中華街へ移動。 スタッフの中に、以前横浜の検疫所で働いていた子が居て、 移動やご飯の決定など心強かった。 関帝廟近くの中華料理屋でランチの後、チャイナ服を買いに行く。 夕方妹からメールがあり、父が便失禁あって、意気消沈と。 そもそも、私が話さなかったら、父がまともに話す相手はいないのか! 夜、3日ぶりの父からの電話の声が、弱弱しいことに心痛。 3月 3日 普通に仕事。必死で溜まった仕事をする。 夜、相変わらず父の電話の内容が弱弱しい。 トイレに立てず、おむつに排泄するほうが安全な状態。 本人はトイレに立とうとするが、介助なしにはできない。 介助の人が到着する頃には失禁している。 3月 4日 妹に父の認知の状態についての不安を知らせる。 妹は、部屋に顔を出してもほとんど時間がない状態で、 父の症状への認識が乏しい。 母は法事の気遣いで一杯。 3月 5日 妹から父のかかりつけ医が、施設に緊急入院用の紹介状を渡したとメール。 3月 6日 朝がきつそうだと妹からメール。 法事で帰るから頑張ってと、9時の電話で父に話す。 妹と、父の妹に知らせて存命中に会いに来てもらう協議。 3月 7日 実家に帰り、父に会いに行く。父は、車いすに居た。 車椅子でのトイレの移乗を手伝う。 翌日の車椅子ごとの帰宅に車椅子の乗る車両の手配をする。 父の妹、富山から明日の午後着くと連絡。慌てる。 3月 8日 法事 朝から母も父も病院や施設から戻る。 母におばちゃんが来ると伝えたら、様子が急変。 明らかに動揺している。耳なりや不快を訴える。 父は、法事には出られない状態。母と話していたが、便意。 私と妹と二人がかりで見守る中、最初はトイレに行ったが、 トイレでは出ないと言い、一旦紙パンツをはいた。 その後、自室のベッドで出始めて、止まらない状態になり、 一旦紙パンツを切り開けて交換したが、さらに便も尿も止まらない状態。 読経の時だけ、私たちも参加したが、後は父につき切り ところが、昼食は少量でも頑張って食べている。 お寺さんとの会食は、我々3人はできなかったが、 結局この食事が、父と私たちとの最後の食事だった。 便は漏れ続けるが、ビフィーナEXの効果で、悪臭は無い。 法事の後、父は、最後に、帰られるお寺さんとも挨拶できた。 本当は、もっと自宅に居たがっていたが、 「おばちゃんがお母さんのお見舞いに来るよ」と伝えたら、 いそいそと施設に戻って行った。 父の下剤のことで、訪問看護の人に手紙を書いた。 下痢が止まらないのに、毎晩下剤を処方されることへの不安を。 母を病院に返し、おばを施設に送迎し、長い1日終了。 叔母は、夕方から夜まで、父の思い出話を聞いていた。 3月 9日 私は、朝から職場に向かうので、新幹線で帰った。 叔母は、時間の許す限り、父と会っていて、父は喜んだ。 前夜あんなに長く話して疲れなかったかと叔母が聞いたら、 父は、ぐっすり眠れたと答えたそうだ。 この日の晩電話で父は自分のことを「兄ちゃん」と言った。 父の一人称は「お父ちゃん」なので、多分、私と叔母とを混同している。 幸福な混同だが、脳の酸素量は明らかに欠乏している。 父が気にかけている中国からの帰国家族の友人から、 料理を作ったから取りに来てと言われ、仕事の合間に行く。 最近生まれた彼女の2人目の孫に父はお祝いを送っていた。 3月10日 友人からジュリーのコンサートのことでメールが入る。 しばらく忘れていたので、慌ててお願いする。 いろんなことが同時進行で、私も一杯一杯。 3月11日 下痢止まらないのに、なんで下剤を出すのか不明。 3月12日 朝、最近妹は意識して父と話すようにしているらしい。 今朝、父の部屋であまりの弱弱しさに出てから泣けたと。 そんなメールをもらっていたので、夜9時の電話が無いことに胸騒ぎ。 滅多にしないが、こちらからかけた。出ない。あせる。 妹にメールで電話を依頼する。妹の電話にも出ず。 施設の人に確認に行ってもらう。存命のみ確認。 母を13日に病院から外出させて見舞わせることを決める。 3月13日 朝から母と妹が病室へ。医者や訪問看護師も。看取りを話し合う。 昼前にわずかに話をする。 叔母の80歳と、中国人の男の子の高校卒業の祝いとを 母に依頼後枕元のドリンクを欲しがって水分補給をした。 母は、一安心して病院に帰り、私にメールをくれた。 万一に備え、休暇を視野に入れて仕事を整理してから帰省。 姫路駅から、中国人の家族に容体を知らせるメールを送る。 さらに、姫路駅で妹に今から帰省するとメールを送った。 妹からの返事で、直前に父が亡くなったことを知らされた。 小倉駅で必死に走って在来線を乗り継いだ。2分はすごい。 父の枕経の最中で、お寺さんがまだ居てくれた。妹夫婦と葬儀社の人も。 その晩、みんな帰った後、一人で父の亡骸と居た。 その後の日程を考え、母には翌朝知らせると、妹と決めた。 3月14日 広島の中国人家族が来て帰る。母は、想定外の事態に様子がおかしかったが、その後改善。 3月15日 親戚4人泊まりに来る。 3月16日 通夜。広島の中国人家族来る。 3月17日 葬儀、母の親戚・父方の従弟夫妻来て帰る。私の職場からも代表が来てくれた。 3月18日 親戚4人をそれぞれ送る。片付け。夕方母も病院へ帰る。 3月19日 朝、家を出て、帰宅の途。香典返しやお礼状準備。夕方出勤して配る。 3月20日 朝、職場で会葬のお礼を述べて、日常に復帰する。会議とか一杯。 父はいつも傍に居る一人になった。12年続いた毎晩9時の電話が無いだけだ。
2015年03月21日
コメント(6)
全5件 (5件中 1-5件目)
1


