全11件 (11件中 1-11件目)
1
ま、正直、この1週間、異常に忙しかった。忙しさの質が、低い。楽しめない忙しさだった。心が鬱屈するタイプの、忙しさで、今日、小さな解放があったので、やっと、先週末に読むはずだった本を手に取った。それは、何年か前に芥川賞と文藝賞とを受賞した若竹千佐子さんと言う方の作品で、「おら おらで ひとり いぐも」という玄冬小説だって。1954年生まれの方で、63歳でデビューされて、芥川賞を取られた。多分、この小説を手に取ったのは、自分の中の父の言葉を聞きたかったからだな。父は、青森の訛りを出すことはほとんど無かったが、父につながる、今も青森に暮らす人たちは、主に十和田や三沢に住んでいて、すごく訛る。ああ、その、訛りを、パソコンの画面から聞いた時、私はこの本を買おうと思ったのだ。しかも主演は田中裕子さんの映画の紹介動画だった。あの、おしんの田中裕子さん・・・の訛りであるから、そりゃあ、聞きたい。しかし、本当に訛っていたら、聞き取れないのが、父の親戚の会話だ。だもんで、秋の公開前に、内容を知っておこうとおもったのだ。いきなり最初のページから、岩手県の遠野市に生まれ、岩手大学を卒業したという作者の、方言の力を駆使したモノローグで始まる。人によっては、もう、受け付けないかもって思えるくらい、激しく強い方言だ。初読から音読してみて、心地よかった。ああ、私は、この音が好きなんだと思った。タイトルからして、宮沢賢治の「永訣の朝」のとしの言葉だ。しかし、としは、一人であの世に行くと言っている。作品世界は違った。「おら、おらで、一人(で、生きて)いく(んだ)も!」と、叫ぶ心象なんで、それが、楽しい。老いの自我と、独居の機微と、女であることの強烈な拘りとこれ、やっぱり、田中裕子さんかあって、思った。樹木希林さんでは、少し老いてい過ぎて。。。いつか読書する日とかの中でも、見られた強さがある気がした。子があろうとなかろうと、夫があろうとなかろうと、老いて独居する日は来る。私は、リタイアして一人で暮らす日を楽しみにしているが、独居している母は、私が、リタイアして一緒に住む日を楽しみにしているだろうか。今、母は、自由だ。強烈に自由で、とことん自由だ。あらゆるねばならないは、彼女の手の中にある。私は、彼女の手の中では、彼女と一緒に住まねばならないのかもしれないが、それは、母の87歳という年齢から、私の61歳という年齢から考えて、ある意味当然で、ある意味そうでもない。私の人生の先にあるのは、母との暮らしかもしれないし、兵庫県での暮らしかもしれない。まあ、母は、作品の主人公くらいには、元気だから、まだまだ、私はニーズが無いことを祈ろう。私の心の中にある沢山を作品の中に読めて楽しかった。音を聞く日を楽しみにしている。高校国語の教科書レベルの基礎知識があると、より楽しいかもしれない。主人公は作品の都合上高校を出て就職しているが、作者は国立大学の教育学部を出ているのだし。忙しいと言いながら、読後感はすぐに書かないと忘れすので、取り敢えず、書きあげて、今日を終える。明日は、始業式。
2020年08月27日
コメント(0)
私は、最近、すごい巨大な荷物を、職場に近いクロネコヤマトの配送センターに受け取りに行った。母が、米寿の内祝いにくれたお金がちょっとあったので、ネットオークションで買い物をしている。普段なら、絶対買わないが、母の内祝いもあるし、百歳越えまでも、元気でいてほしいと、百人一首の掛け軸を買ったのだが・・・その書、池末礼禧さんが、書かれていて、仮名文字が得意と紹介されているのを見かけた。なんせ私は、書に関しては、書けず、読めず、値打がわからずであって、ド素人。しかも、その作品というのは、紙ではなくて、有田焼のピースになっている。100枚の歌仙絵に作者名と百首歌が書かれていて、歌仙絵は見慣れた明治によくある絵を転じてあり、そこに、池末さんが、一枚ずつ歌を書いて、焼き物にしてあると、実は、まだ、開けて見ていない。大きすぎて、広げておけないから、木箱に入ったままの状態で置いている。それでも、一応、今日、梱包の厳重な段ボールとぐるぐる巻きのテープは外して、百人一首のカルタの蔵の玄関から、脇の4畳半の部屋に移すことには成功した。センターから持って帰った時は、本当に半泣きだった。軽四にのせたときはヤマトのお姉さんと二人がかりだった。でかすぎて、一人では持ちにくく、重すぎて持ち上がらず、車から降ろすのも、アパートの4段しかない階段を持ち上げるのも、一人だったので、玄関に入れるまでで、精魂尽きて、そのまま5日ほど、放置。やっと、夕方涼しくなったので、それでも、滝の汗を流しながら、梱包の段ボールは外せた。プチプチにくるまれた巨大な木箱が表れて、重量・体積ともに大差なく不自由なままだが、玄関から、独力で移せただけで、相当満足した。8月中に中身を見ることがあるかどうかは、気温次第。段ボールを解体して、ぐるぐる巻きのテープを外すのにも草臥れた。去年、エアコンが壊れて、仕方なくウインドエアコンを買って帰って、自力で自宅の2階の自室の窓に、設置した。あの時も、初日は、自分の部屋に入れるだけで青息吐息で、設置までに気力が必要だった。かつて自分が設置したウインドファンを外すのにも、一苦労だったし。20キロ近い重量を2階まで運んで1日。気力が整ってからベッド上で開梱して、ベッドの足元にある小窓に取り付けた。自分が、まだ、この重量を持ち上げられていることを、60歳としては奇跡と思ったが、今年の暑さを経て、奇跡に感謝する日々だ。ちなみに、カルタの蔵のアパートの部屋にも、以前に何年か前、同じウインドエアコンを自力で設置した実績。だから、やればできるとはわかっていたけど、老化による劣化が著しいのが、筋力と判断力なんで、次はもうないなと思っている。なのに、この池末さんのカルタの掛け軸である・・・・・・本当に、アホとしか、阿呆としか、思えない。aho!劣化の激しい判断力のなせる業だな。でも、欲しかったんだもん!それに、ネットオークションでは、サイズに実感が無かったんだよ!落札してから、出品者に聞いたの。そしたら、普通のカルタくらいのサイズが100枚貼ってあるって。てことは、前の持ち主の人は、買ったものの、持て余して、売ったのかも。池末さん、池末礼禧さん、ご存命の方ですか?どんなことをきっかけに、この字を書かれたのか、教えてください!いつごろのものなのかも、さっぱりわからない!ところで、そう、ウインドエアコンのメーカーは、かの有名な「コロナ」!
2020年08月23日
コメント(3)
yumiさんの手作りとかを見ていると、うすぼんやり時間を過ごしてる自分を反省するばかり。手作りマスクを、一枚も作ったことのないおばさんて、あんまり居なくない?日本中から、面白マスクを買い集めて、とっかえひっかえ使っている私は、サージカルマスクも、ほとんどしなくて、車のウインカーに吊るしてあるのは、短時間の買い物とか宅急便の受け取り用とか。今の第二波の感染が拡大する前に、第一波が収束後、マスクが投げ売り状態だった。その時、2年後まで続くことを想定して、100枚で1500円を切る値段のサージカルマスクを大量買いしてある。職場の同僚に無料で着用してもらえるように、入口入ってすぐのところに、50枚入りの箱で置いている。一週間で無くなる使われ方。先週、11日から14日まで休んで、17日も休み、18日から出たら、50枚入りが無くなって、箱ごと捨てられてしまっていた。(箱捨てるな!)40人ずつの若い子たちは、「私の前では、着けて」って言ってるんで、希望者には、これも無料配布中。今、感染者が出たら、色んな努力が水泡に帰す時期なんで、結構真剣に。9月からは、若い子たちには、黒いサージカルマスクも用意して、着用率を上げようと計画中。そもそも、台湾に職場のチームの解散旅行に行った3年前に、夜店でリアルな豚の鼻の写真が転写してある面白マスクを買って、面白マスクにはまっていたので、今も、私はふざけ切ったマスクを買い続けている。可愛いぬいぐるみのクマの口元みたいなのやら、お稲荷さんのお面見たいな口元のイラスト入りやら、透け透けのメッシュのマスクやら(これは中に使い捨てのフィルターを入れるタイプ)銀のメッシュのマスクインナーやらもある。で、洗わないで、基本的に紫外線照射で消毒して保管できる機器も購入している。外食とかで、便利!マスクの中に入れて使うスペイサーも便利に使っている。「マスクの骨」と呼んでいるが、すごい効果があって、息苦しさは感じなくなる。ただ、「マスクの骨」は、結構華奢。でも、部分的に折れても、瞬間接着剤でOK!で、使い続けている。4つ買って、同僚がうらやましがるので、1つ分けてあげて、もう一つも別の同僚にもらわれて、私は2個を使いまわしている。夏用に凍らせた保冷剤を入れられる仕様になっているが、保冷材は中の仕事では要らない。どんなに暑くても、マスクをして、声を出すのが仕事なので、スペイサーやら、メッシュマスクやら、ベストの答えを模索して来年にも備えたい。基本、今持っているマスクのもとになっているのは、豚インフルの収束後に集めた高機能マスクだ。だからN95まで、その時の備蓄があったりする。各種アルコールも、豚インフル以降、日常的に職場で使っているので、困らない備蓄があって、今回も、要所要所で買い増しできていて、高掴みせずに済んでいる。お気に入りは、80度のアルコールで、ミニスプレーに入れて使っている。本物のウォッカなんで、勿論飲める。これで、62度の手指消毒用のアルコールジェルなどに足して、度数を上げて使っている。私の敵は、コロナではない。私の本当の想定は、豚インフルの時以来、新型の「鳥インフル」。その発生に備えているのだから、今は予行演習と言える。yumiさんの載せてくれてるマスクも、前に流行ったお魚マスクも、使わずに済むに越したことはないが、備えは大事なんだな。先憂後楽 備へ有れば憂ひ無し 人、遠き慮り無ければ、必ず近き憂ひあり。って言うよね。自分では何も生み出さない私だが、yumiさんを見習って、準備と気配りはしておこう。マスクの骨も、新バージョンを注文してある。密着させてサージカルマスクの機能を高める「マスピタ」というマスクのカバーも買った。でも、コロナも鳥インフルも、来ないが一番。来ませんように!
2020年08月22日
コメント(2)
16日にしたことで、重要なことは、六日ぶりに職場のトイレの掃除をしに行ったことと、月曜日に備えて冷茶を職場の冷蔵庫に作ったことと、何より、気になっていた職場の「初霜」の花がらを切ったこと。切らなきゃと思っているうちに、毎年、誰かに切りちゃんこにされて、悲惨な状態になってしまう職場の初霜。今年は、夏前に整枝して、緑枝を可能な限り切っておいたので、ほとんどの枝は落とす必要が無かったけど、花をほっておいたから、気が付いたら、ザクザク切られていた。それで、切り残しを落として、きれいな新芽が出るように、切ったわけだ。さすがに16日の午後にはあまり人も居なかったので、気持ちよく切れた。貴重な希少種だから、絶やさないようにしないと。家のは、元夫君に根こそぎ切られて枯れた。ものの価値って言うのは、伝わらないから仕方ないし、ほとんど嫌がらせだったあの頃の、木の切り方。紫の百日紅も、花の時期の前に切られて、切られた幹の力で最期の花を咲かせていた。でも、残った株が、また花を咲かせている。職場に3株ある初霜の大株を、絶やさないように、若い人にも頼んである。横に「おたふく」と「十二単衣」という2種類の在来品種も植わっているが、どちらも樹勢が旺盛なので、枯れることはないだろう。これらは、珍しくもないものなので、気にしないが、花がらは見苦しいので、同時に切った。残暑は厳しいが、夜は、それでも、少しは気温が下がってくれるようになってきた。夜道を帰ろう。
2020年08月19日
コメント(0)
高校生の頃、私は、結構(相当)悪い奴だった。遊び呆けていて、たくさんの人に迷惑をかけ、母に泣かれ、父に叩かれた。欠点を取り、父兄召喚とかの憂き目にもあった。あれは、高校2年の夏休み前、Wで数学と物理が欠点だった。で、そんな中で何をしていたかというと、ギターを弾いて、歌っていた。元より、もっともっと都合の悪いことは山ほどあるが、ここでは、ギターと歌の日々を振り返る。その頃の、井上陽水や、南こうせつ(かぐや姫)といった人たちと違って、もう一つ前の世代、フォーク・クルセイダーズ(フォークル)にたどり着いた。イムジン河は、私の人生でも本当に好きな歌のトップクラス。かつて、死にたいほど辛いことがあった時、感情が凍り付いて泣けなかったが、イムジン河を加藤さんが歌う映像を見て、号泣することができた。あの時、溜まっていた涙が全部流れたと思う。高校時代の歌の師匠は、私の捨てたone of my元カレの友達で、1歳年上の男子校の人だった。私は、女子高で、好き勝手なことをしていたが、師匠に憧れていた。師匠のことを書いた詩まで作るほど、憧れていた。あのころで言うと、ボブ・ディランみたいな風采の人だった。(全然カッコよくない)で、私が大学進学で故郷を離れるにあたって、師匠がカセットテープを1本作ってくれて、その中に、師匠の歌とギター演奏があって、ついでにフォークルの歌も3曲入っていた。「ユエの流れ」は師匠の歌で知った。同時に、イムジン河の、リムジンガンという元曲を知り、イムジン河もフォークルで聞いた。それまでは、師匠のイムジン河で聞いて知っていたけど。悲しくてやりきれないも、オリジナルで聞いた。私の大きな財産になってる曲たちなんだけど、当時はイムジン河の政治性も知らないし、なんで発禁になったのかとか、知らなかった。発禁になったおかげで、悲しくてやりきれないができたわけだけど。大人になっても、そしてもっと大人になっても、今、初老に差し掛かっても、好きな歌だ。赤い鳥の歌も好きだったので、竹田の子守歌とか赤い花白い花とか、言葉にならない言葉とか、今もよく歌う。youtubeでも、視聴する。しかし、ユエの流れのオリジナルを聞いたことはなかった。今日、探しに探して、とうとうフォークルのオリジナルにたどり着いた。youtube音源ではない。今まではyoutubeの甲斐バンドの甲斐さんの声でしか知らなかった。実はユエの流れは、フォークルの前に別の人の音源があることも今日知った。でも、ユエの流れのフォークル版を聞けて、(今は亡き加藤和彦氏の声)すごく嬉しかった。こんなに嬉しくても、すぐに忘れてしまえる自分が悲しくてやりきれないが、まあ、こうやって書き留めておけば、また、思い出すよすがとなるだろう。そう言えば、今日、久しぶりに小説を買ったことも、書いておこう。「おらおらでひとりいぐも」という小説だ。田中裕子さんが主演する映画の原作だ。公開になったら、DVD買おう。おそらく、田中裕子さんが出るから、関心を持ったのだが、もう一つ、主人公の心のつぶやきが青森から岩手にかけての南部弁で語られているところに、大きく心惹かれるのだ。父の故郷の言葉だからだ。昔、宮沢賢治の詩を朗読する長岡輝子さんのCDを聞いたことがあって、方言はやっぱり、方言としてこんな風に、ちゃんと聞きたいと思ったのだ。宮沢賢治自身が(ora orade shitori egumo)と書いていたように記憶する。音は、ローマ字でも本当には表現しきれないのだが、私は「永訣の朝」が好きなのだ。かつて、「おしん」でアジア世界に名を知られた田中裕子さん。少し訛った風に話す大人になってからのおしんも、私はちょうど育休で見ていた。徳川家康とおしんと風の谷のナウシカとが、産休と育休の豪華3点セットだった。生まれでくるだて、こんだぁこたにわりゃのごとばかりで、苦しまねえよに生まれでくる。おしんから、魔性の女、お母さん役からおばあちゃん役へ、いまだに、田中裕子さんは成長する。(大森南朋さんとのCMも大好き)はやく、ジュリーの映画も見たいな。。。
2020年08月18日
コメント(4)
母が以前、父方の親戚が脳血管障害型痴呆で、入院していると、メールをくれたことがあって、今日は、夕食の時間帯にその話を聞いたら、あまりに要領を得ない返答で、母の機能の方が心配になった。父の叔父や叔母の中には、なんと父よりも年下のオジオバが居て、一番下の叔母さんのご主人が、要介護5なんだそうだ。しかも、身体の機能は大丈夫で、認知のゆがみだけが来ているので、厄介らしい。ナースステーションの正面の部屋に入れられているらしい。そのことを父の妹から聞いて、慌てて、おばさんちに母が電話をしたらしいのだが、母曰く、「ショックで、色々聞いた内容を覚えてへんのや。。。」そっちの方が、私にはショック。80代後半の青森の遠い親戚より、目の前のお母さんが心配!家の周りも隣のご主人が最近入院先で亡くなり、斜め向かいの家のご主人も、入院先から自宅に戻って亡くなり、左隣の家のおばあさんは、母のデイケアセンターに無理やり入所させられていて、もう何年かになるのに、全然納得していないらしい。せんだって、お嫁さんが、あいさつに来はって、母と長く情報交換していた。要するに、住宅地全体が、高齢者集団だから、話題は、入所と入院と通夜と告別式と。。。まして、青森の親戚のこととなると、もう、母の心配は尽きない。母の妹はレビー小体型痴呆で、何年も寝たきりだ。胃瘻もしている。コロナで、家族も会えない状態だが、要介護5だと。入居施設の人も大変だ。。。近所でも、発見されなかったり、保護されたり、遺体で発見されたりと、高齢者の一人暮らしは怖いことが多いらしい。去年の暮れの行方不明の女性は、とうとう発見されていないらしい。12月28日だったっけなぁ気が滅入りつつ、夜は更けていく。
2020年08月14日
コメント(2)
母は、屏東の軍人官舎に暮らしていた。この度のお盆の帰省で、終戦の4日前に亡くなった祖父(母の父親)のことを詳しく知りたいと思い、母に幼い頃の記憶を呼び覚ましてもらっていた。母の国民学校の通知表に小学校の1年生の3学期の3月だけ、屏東の国民学校の担任の記述と印鑑があり、屏東国民学校のゴム印が押されていた。わずか7歳の記憶であるが、それから更に2年間、戦局の悪化がそれほどでもない頃、母と母の妹とが、内地に引き上げるまでのあいだ、母は、この宿舎群の一角に暮らしたのだろうか。写真でしか見たことのない、私の母方の祖父は、在職中に勲六等に叙せられていて、専門性の高い土木施工技術を評価される軍属だったようだ。最期は、大阪で、陸軍病院で亡くなっている。それは、75年前の昨日、8月11日のことで、母は、通夜も葬儀も済ませて、養母や異母弟たちと別れて、亡母の実家に戻る途中、敗戦の玉音放送を聞いたと話していた。 普段、お盆休みの直前でもあり、見たこともない母方の祖父の祥月命日を思うことはこれまでなかった。50回忌も済ませてからは、母が、お供えを父親の実家に送るくらいだったはずだ。昨日たまたま妹も来ていて、今日は祥月命日だよと言ったら、一瞬だけ、手を合わせた。「南無阿弥陀仏」浄土真宗なので。 父が亡くなる少し前から、父は生まれ故郷の樺太の街をひどく恋しがっていた。私や妹は、父が暮らしたあたりの地図や写真をネットで入手しては、父に渡していた。生まれ故郷兵庫県竜野市がそこにある母と違って、二度と戻ることのできない生まれ故郷樺太での日々は、父にとってどれほど恋しかったことだろう。無くなる直前、父の従妹と、年下の叔母さんとが、わざわざ青森と栃木から一緒になって、山口県の西端の僻村まで父を訪ねてきてくれた。 母の入院中とあって、父は施設に入っていたが、その施設で、懐かしい昔の樺太の思い出話に花を咲かせたらしい。父の母方の一族が挙げて樺太に入植して、そこで製紙工場の職工をしていたという父方の祖父が、私のかつて同居していた唯一の実祖父母で、同居していた祖母は、亡くなった祖母の後添えとして、祖父に嫁いできた人だった。私と妹は、それを長く知らなくて、実のおばあちゃんと思って接してきていた。中学2年生で同居するにあたって、初めて正式に、祖父の後添えで、血縁でないことを知った。 父と祖母が養子縁組をしたのも、祖母が96歳で亡くなるほんの数年前だった。縁組しておかないと、赤の他人のままでは、色々な介護や入院の手続きができないややこしさがあるので、私が話して、縁組してもらったのだった。実の祖父母は青森生まれの樺太入植者。義理の祖母は、熊本の製紙工場に引き上げてきた祖父が赴任後にもらった後添えで、九州の人だった。言葉に訛りがあった。 不思議なもので、私には、血縁の無い祖母がもう一人居た。それが、台湾で母たちを育てていた岐阜出身の人だ。敗戦後も大阪で母の異母弟二人を女手一つで育て上げ、苦労して、ボケて死んだ。母の異母弟たちは、もう存命ではない。 これも魔訶不思議なことに、二人とも独身で、同居していた家から出て死んだ。亡母の介護を一手にしていた弟の方は仕事に行っていた病院で倒れてそのまま入院して日を置かずに亡くなり、母親の死後に実家に舞い戻った風来坊の兄の方は、なぜか自転車で外出して、路上で意識を失って倒れて、見知らぬ人に救急車を手配されて救急搬送先で亡くなった。住居は、更地にして、借地権毎、隣の家の人に買いとってもらえた。これで、兄の方の葬儀費用と、永代供養費用が捻出できた次第だ。母方の祖父は優秀な技師だったので、弟二人も、おそらくは優秀だったのだろうが、軍人恩給が受給できず、文官としての恩給と、祖母の働きだけで、極貧であったため、中学を出てからそれぞれ働いている。兄はボイラーマンとして、弟は電気工事の技師として。 屏東の軍人官舎に居た頃、この兄の方は、もう生まれていて、母と10歳違いの弟の方は、どうだったのか、私は知らない。母の実母は、若い頃から結核で蒲柳の質だったが、美しい人で、いわゆる家付き娘のお嬢さん、家の裏手にある本家の次男坊を婿養子として迎えて二女を設けたが、産後の肥立ちも悪いまま、岐阜で亡くなっている。 親戚のおばちゃんから聞いた話では、私の祖父という人は、最初に結婚した幼馴染の美しいお嬢さんのことは殊に愛していたようだが、幼い娘二人、特に二人目はまだ本当に幼くて、当時らしく、仕方なくすぐに後添えを得て、子育てを託していたようだ。大切にされていなくて、気の毒やったと、その豊中に住んでいたおばちゃんは語ってくれた。母は、自分の母親の没後日を置かずに、父親が後添えを迎えていることに今も違和感を感じているようだが、結核で寝たきりの妻と、幼い二人の娘を抱えて、苦労していただろうし、人の勧めるままに再婚したのは、致し方ないと言えよう。母はあくまでも恨みがましい・・・ 屏東の国民学校の最初の1か月、1年生の3月だけの担任の先生の姓は、奇しくも、母の実家の父母の姓と同じであった。今日、母の通知表を見ながら、その奇遇を思った。 屏東の軍人宿舎に行く前に、一族が母の実家で記念写真を撮っている。同じ頃に母の亡父の一人の写真もあって、軍服姿である。軍人とは言え、技官であったと思うが、尉官クラスだったようで、帯刀を許されている。母の口元には、その亡父の面影がある。 残念ながら母は、鄙には稀な美人だったという自分の母親にはあまり似ていない。私と妹も、遺伝子の恩恵に与れていない。 ただ、父が樺太で生まれ育ち、祖父がソ連軍の敗戦後の侵攻による抑留経験をしていることや、母が、台湾で2年ほどの国民学校を経験していること、祖父が軍人であったことなどは、私と妹との、直接の体験ではないものの、大切な、貴重な事実なのだ。樺太も、台湾も、日本だったことを、私たちは、実感している。両親の子供時代の思い出が、そこにあるから。 父は、亡くなる直前に、ライフワークにしていたラテン語の翻訳書籍の刊行を終えていたし、親族とも樺太時代の思い出話を心から楽しむことができた。おそらく、老いと病の体には、遠の昔に寿命は尽きていたのだが、深い拘りがあって、魂魄が肉体を生かしていたのだろうと思う。亡くなる前の日の晩、父の毎晩9時にかかってくる電話が無かった。私は心配して妹に連絡して、施設にも確認してもらった。すやすやと眠っているとのことだった。魂魄は樺太の山野を駆け巡り、くたびれていたのかもしれない。翌日、家族に見守られて、安らかに息を引き取った。 今頃は、短い樺太の夏の野山を飛びめぐっているかもしれない。今日、母と、墓参りに行ってきたが、まだ、山口県には居ないだろうと思っている。父の亡母も同じ墓に居るが、多分、まだ樺太上空か・・・ 母は米寿を迎え、私も還暦を超えた。この世に残る命と既に光の中にいる命とでは、どんどん、後者の方が多くなるわけで、知り合いが待っているからと、父が言っていたことを思い出す日々だ。
2020年08月12日
コメント(0)
針 辛 土 協協力の協の字は、十と旁に分けられるんだけど、旁を独立してここに打ち出せないので、メモを。脇息の脇協力の協脅迫の脅なんで、キョウに決まっているのだが、普通に単独では使わない字だから力が三つだから、すごい力なんだろうなと勝手に想像する。磊 轟 森 姦 など、三つ使う字はそれなりにあるのだけど。調べていたら、東風の意味で使っていたらしいことが判明。漢字の世界は奥が深いyumiさんが書いてくれていたように、年という字の部首を 干 カンorイチジュウとすると。協力の協を出したくても出せなくて、代わりに博を出そうかと思ったが、専と違って、´ があるので、使えない。しかも旧字体では杜甫の 甫 の字の下に 寸 が来るのが正しい字だ。ううむ。使えねえ。。。
2020年08月11日
コメント(2)
これは、ちょっと苦し紛れのインチキを・・・ 土 口 也 土旬の俳優さんの名前でよく見かけるようになったので。歩 歴 雌 址 のようにパーツを上下左右に持ってくることはできるが、それぞれの部分が全部独立の漢字でなければならないので、成立しない・・・砂 歩 劣 までは、来ても、最後の一字が出てこずに、会議が終わることも。漢字を意符と音符とに分けるという行為は、意外と始めて見ると面白いものだ。問題は、「冠」、これに尽きる。忌 が思いついても、今度は、左に来ないし・・・ノブンの「改」は違反だからout!鳩 卆 究 釚 最後の一字は、ゴンベンかカネヘンでキュウと読む漢字を探して行きついた。インチキである。あ、二時やん!寝なあかん。
2020年08月08日
コメント(0)
新作ができた。ちょっとうれしい。メモしないとすぐ忘れる。 木 竹 禾 未 米 風 王 女ので、取り敢えず、メモ。
2020年08月06日
コメント(2)
孟 好 孫 李(季) を思いついて、メモ。 木 女 系 皿今日は、手仕事への感動をメモしておこうと思って。退職後の余暇に備えて買っていたものに、大島紬の古着やいろいろな端切れがある。毛糸もあるけど、編み棒もいっぱいある。(編み棒はオークションで)で、最近、雀の涙ほどのボーナスをつぎ込んで、久しぶりにカルタと古着とを買っている。その古着は、大島の中でも、もう、龍郷柄を買うことにしていて、結構気に入ったのが入ったまとめ売りのを買ったら、入っていた龍郷柄の着物が、本当に良い柄で、結構喜んで解いている。想定外の良さというのが、その手仕事と、布の命を慈しむ作り手の愛情を感じられるとき。大島は、自分でも普通に洗える生地なんだけど、解かないことには話にならないし、着物として着るために買っているのではないので、傷みがあっても苦にはならない。今回解いた龍郷は、まさかのちりめんが裏地のすそ周りや袖口に使われていて、使いまわし感がすごかったけど、ほどいてみたら、本当にいっぱい繕ってあって、布もギリギリ足して作ってあったので、表地の裾周りになんと龍郷生地の継ぎ足しが2か所もあった。ほんの15センチほどの間に二か所継いであって、しかも、表からは全くわからない。龍郷という柄のすごさだと感動した。残り布からギリギリに足すのだけど、連続模様だから、そこを上手に継いであって、表からは模様が完全に連続しているために気づかず、ほどいて初めて分かった。裏地も、色々な着物からの使いまわしなんだとわかる。ペラペラの人絹は、劣化しやすい生地だ。使いまわすときに、補強の継ぎが当ててあったり、ステッチが施してあったり。貴重な布というものを、雑には決して扱わない姿勢が、見える手仕事だった。縫い糸の絹は太いのも細いのも劣化していなかったから、仕立て直して、からはまだせいぜい数十年だろうなぁ。光沢のせいで青光りして見えるけど、染料はシャリンバイだけの茶泥。着られてすっかり褻れた龍郷の手触りは、それはうっとりする。。。さ、もう遅いから、家に帰って、寝よう。もう一つメモ。年という字は、 禾と干とが上下にくっついた字だったらしい。禾 どっちが部首か。 干
2020年08月05日
コメント(2)
全11件 (11件中 1-11件目)
1


