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「私が初めてビリー・ルウに会ったのは夏至の三、四日前、夜より朝に近い時刻だった。 小説はこんなふうに始まる。むろん チャンドラー の 『長いお別れ』 の 「本歌取り」 である。ちなみにラストも同じような 「オマージュ」 が採用されている。
彼は革の襟がついた飛行機乗りのジャンパーを着て、路地の突きあたりに積み上げられた段ボール箱のてっぺんに埋もれていた、
酔ってはいたが浮浪者ではなかった。目をつむり、調子っぱずれの英語の歌をゴキブリに聞かせていた。」
「ずいぶんお安いのね」 引用はここまで。
パーク・アヴェニューから来た女は、すみれ色の目の端でこっそり笑った。
「一日、二百ドル?それで全部?」
もちろん、ベベ・クロコのハンドバッグから出された小切手帳に、二百ドルが高いわけはない。彼女は、それを、つまらない講義のノートをとる女学生みたいに開き、私の事務机に乗せ、銀色のボールペンの尻で折り目をしごいた。
「他に必要経費」と、私はつとめて平静に言った。
「アルコールとバァテンダーへのチップが、それに含まれることもある」
「それだけ?」
「拳銃のいらない仕事ならね」
彼女の眸(ひとみ)が、やっと真直ぐ私をとらえた。
「要る仕事なら五十ドルほど割増しをもらいます」
「判らないわ。でも、今夜一晩、三百ドルで話を決めていただけそうね」
彼女はペンを持ち直し、小切手帳にかがみこんだ。うなじと後れ毛が見えた。ジョイが匂った。
私は立ち上がり、窓へ歩いた。
その日、ニューヨークはすばらしい天気だった。恋を知ったばかりの少年のように、どこもかしこもぴかぴかに煌(ひか)っていた。空は青く、風はやさしかった。気持ちだけは、まったくの四月だった。
ユニオン・スクウェアでは、早合点した小鳥たちが春を歌っていたが、誰一人それをとやかく言う者はなかった。
三月はまだ少し残っている。しかし、冬はもう戻って来ない。今日、この町を往く者は誰も――人間も犬も、リスもドブネズミも、ジャンキーも切り裂き魔も、ニューヨークの冬をまた一つ、生きたまま乗り越えた自分にすっかり感動しているのだ。
そこへぶ厚い小切手帳、夏服を着たプラチナ・ブロンド、誰が小鳥を嘲(わら)えるだろう。
しかし、だからと言って、どんな仕事でも好きになれるというほどの陽気ではない。
追記
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