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こどものころよく寝るのは、昼間刺激的なことが多くあり、学んだ新しいことを編集し定着するために必要とされるらしい。老化すると脳が硬直化し、昼間の刺激的な出来事を避けるようになり、新しいことを学ぼうとしないからだという。定着させるための睡眠時間は要らなくなり、減少する。所謂離脱体験にしろ、超常体験にしろ、脳機能の変調や錯覚の所産だ。科学的に証明できる。宗教体験にしても、仏教やキリスト教で共通するのは、30日間くらい断食して、瞑想をした時に顕れると言う。体験者の脳の中の内部モデルが完成しており,栄養不足に陥り、脳への血流不足により脳内物質の状態が混乱し、脳機能が変調を来たしているのだ。外界への運動指令、感覚入力が遮断され、実体験は内部モデルをリアルな夢のシュミレーションに移行するという。脳がつくりだした現実は、あの「マトリックス」を思い出す。ひとは、自分の生活を守ろうとしている。それは、幻影だろうか。危機に直面して慄き恐れるのは生活が破壊するからだ。昆虫には、フィードバック制御しかない。危機を乗りこえる為に進むか、障害物を避けるだけだ。高度な意思決定や感情の生成はない。然し、果たして人間はそれに見合うような能力を発現しているだろうか。高度な振舞いが為されているだろうか。脳が作り出したシステムは、まだ彷徨い続けているように思えてならない。<終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月31日 10:31 件名 : 31日の日記
2005.05.31
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エピソード記憶をしない動物には「意識」は必要ではない。鳥類と哺乳類あたりが意識を持つと言われる。処で、教育とは何だろうかと例の教室で考えていた。まだ懲りずに受講している。今日午前は「禁煙」のビデオだった。以前阪大の公開講座を受講していた時、講義を始める前に、実は胆石で手術をする予定であるが、この講義の為に2月くらいかけて準備しており、是非講義をしたいと思い、控室に医師と看護婦を呼んでおります。途中で出来なくなるかも知れませんが、その時はご容赦下さいと話されて、講義をされた教授がおられた。私はその時、こういう講義を受講できることは何と幸運なことだろうと思ったし、阪大の学生を羨ましく思ったものだ。ややもすると一生優秀な頭脳と接することなく、何とつまらない世界だろうと誤解するかも知れないだろう。まだ感受性の豊かな頃、こういうすばらしい講師に巡り会えば気持ちも変わるかも知れないと思う。どうも話す側と聴く側とのすれ違いが多いようだ。震えがくるような講義を受けてみたいものだ。
2005.05.31
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然も、8日間でだ。昨夜は6回測定して夕方散歩中に予感があった。担当医は、「様子をみましょう。」だったが、インスリンの量だけで血糖値を下げようとしただけなので、入院による食事と運動療法の効果で抵抗性が緩和されて来ているのであろう。これは、もともとそうしようと思って来たことだ。もうからだは外からの薬をあてにしだしているだろう。それでも少しでもインスリンの量を減らすことは、今後の ageing に係わるだろうと考えた。最初は入院2日目、次は5日目だ。最初の時は、夜6単位下げている。然も食事は、20単位から2.5単位増やしてる。かくも簡単に改善されるものであろうか。我ながら愕いている。一週間もしないうちにこれだけやれるなら、多くの患者も入院させて治療をすれば、効果は顕著であろう。勿論誰でも改善できる訳ではないにしても可能性はあるはずだ。当初は、迷ったが今回の入院を申し出て良かったのではないか。という気がする。これも3回目の教育入院ということがあるから出来たのかも知れない。DMに対する偏見や無知が、この社会を蝕んでいるのではないだろうか。できることさえしないことが私たちのまわりには多く残されているだろう。患者を見殺しにすることは、いつか自分にも降りかかる運命にもなるかも知れない。ブドウ糖とクラッカー2単位を食べて、今回は事なきを得ました。若いナースにお世話になりました。有難う。
2005.05.31
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何故か。錯覚した方が都合が良いからだそうだ。脳は、空間を都合のいいようにひずませるらしい。「脳はなぜ「心」を作ったのか」前野隆司著で、「意識するこころの作用は、意識下の脳内活動よりもあとに生じる。」というリベットの実験結果を紹介している。オーグメンテッドリアリティーというらしい。私たちの五感は、それを感じる時、五感で感じているのではなく、脳の「知」の働きが、あたかも感覚器のある場所で感じたかのようにみせているに過ぎないという。ひとは錯覚でものを感じているのだ。そういえば、何故結婚したのかと言えば、それはお互いだろうが恐らく錯覚だったかも知れないと思うことがある。ここだけの話だが。
2005.05.30
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これまで同じ日常だった喩え入院していても、頭から仕事のことが離れなかったし、サラリーも貰っていた。厳密にはまだ同じだが、少し中味が違う。 何れ働くにしてもこれまでの3分の1のサラリーになるらしい。世知辛い世の中だ。それでも、見込みのない病気で苦しむよりはマシかも知れない。 それとこれとは別の話だが、自分を慰めるしかないだろう。仕事の重圧を離れて自分がどうかは未だ判らないが、最悪のケースを覚悟さえしておけば、 大抵のことでパニックになることはないだろう。神様ではないので、全てを受け入れるだけのこころの余裕などないが、まあ平常心を保って行きたい。 いつまでの入院になるか。それさえ未定だが、悲観はしない。目の前のことが喩え夜道になってもかまわない。中学生の頃肝試しに墓のある山道を 歩き回ったことがある。色んなものをみたが、暗いだけだと思ったものだ。明るいか暗いだけで悲観することはない。 <終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月30日 10:34 件名 : 30日の日記
2005.05.30
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患者の無知を嘲笑うかのような教室だ。まるで強迫するような内容ばかりで説明される。「何れこうなりますよ。」と言うだけだ。これが教育だろうか。大名行列してきた如何にも・・・らしい教授が「親が子供に教えるように・・・」とふと洩らした。病気とはそんなものなのか。ショックを覚えた。教室は、知識を学ぶところではないのか。日頃どういう姿勢で「DM」と医師や支援チームが闘っているのかを観て、勇気を貰いたいとの思いが失望に変わった。やはり、名目的な、かたちだけの教室でしかないらしい。元々このハイリスクな病気について、Life with diabetes のイデーがないらしい。病院の外に出れば,ひとりで闘わねばならない患者に「知識という最大の武器」を渡す気はないらしいと感じた。多くの患者を抱えた専門医が、苦闘しているのは事実だろうし、改善の努力もなされているだろうが、それが、患者まで届いていないのを感じる。DM はひとが文明を手に入れてからあると言われる。如何に厄介な病気であるかは知っているが克服できないものではないだろう。漸次見直しもされるだろうが、今の患者に対する取組みはなんだろうか。哀しくなる。サポートするものがあまりにも脆弱過ぎる。親や子や配偶者や恋人や友人や知人がDMのひとがまわりに必ずいるのに、彼らは、見捨てられたひとたちだろうか。必要のないひとたちだろうか。数少ない明日への切符を受取るチャンスを阻んでいる社会があるだろう。為すべき努力をしない環境がある。無理解と無知ゆえにひとは苦しまねばならない。
2005.05.30
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・・・なるものを取り、帰宅して用事を済ませたあと、庭先の花の様子を見て来たが、案外元気なので安心した。数時間しか余裕のない慌しいものだったが、満足した。古い病院なので、風呂も毎日入れないし,設備も古い。快適とは言えない環境だ。そこで帰宅した時はシャワーをすることにしている。やはり、わが家でシャワーするのが一番落ち着くし、気持ちが良いとつくづく思うのは、年齢の所為だろう。今日もまた、昨日に続いて、快晴で、移動中は愉しかった。早く好きなようにあちこちに出かけて見たい。ここ数日で目鼻がつけば、家族と何処かにでかけたいと考えている。明日は、義母たちが、義伯父の1年忌でこちらに来るらしい。何かとあるので暗い話になるだろうと思う。私の入院は、未だ義母には話していないらしい。夕食を済ませて、夕日の射す窓際で、次第に暮れ行く町並みを眺めている。いつ、どこでも、美しい風景はあると思った。入院する前は、非日常の中で何か考えられるのではないかと想像していたが、無理のようだ。それほど大した時間ではない。悪い癖で、集中力に欠けるところがある。落ち着かない性格は生れついたものだろう。中途半端なところでウロウロするようだ。考えれば、安易な生き方だと思う。<終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月29日 10:29 件名 : 29日の日記
2005.05.29
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ビデオ教室があり、2本見た。明るい陽射しがベランダに溢れている。志賀島の島影が青空の下で霞み、初夏の玄界灘の碧の海が遠望される。日曜日は、ナースも少なくクランケたちも一時帰宅したりで少ないので静かだ。午後からは見舞客も増えるだろうが、午前中は、長閑だ。あっと言う間に1週間が過ぎようとしている。いまの状況は、それこそ想定内の推移であろう。できれば、少しでも血糖コントロールを正常に戻したい。仕事のできる範囲は広げて置きたいし、スペースは在った方が良い。背伸びをして生きようとは思わないが、できるだけ明日の見えるところにたどり着きたいと願っている。
2005.05.29
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患者はお客様か。教育入院は、どこかの健康旅行ではない。今回、治療計画が、「食事・運動療法とある。」「パス表通りにスムーズに検査がおこなえるように援助します。」という計画書を戴いた。医療チームによる支援は、検査をみてかららしい。ADAのガイドに比較して、ここは、患者のメディカル・ステージに応じて何を習得させるべきかが明確ではない。それは患者のレベルに対応した計画が余りに抽象的だ。一言で言えば、検査して、隠れた病気を探すものでしかない。何が教育入院だろうか。やはり、人間ドックでしかないのか。それは違うはずだ。ADAのガイドを読むと、かくセッションごとに目的と目標が明示されているし、内容、必要な資料、基本ガイドラインがある。薬剤師や栄養士などの面接はあったが、患者のステージを把握したものではなかったようだ。判らなければ訊けだ。教室も患者を集めて2年前と余り変わらない講義だ。脳萎縮のありそうな老人と一緒に遣っている。個人的な指導など、まだ無理だとすれば「教育入院」などという体裁の良い看板は下ろすべきだろう。これでは、患者は利用されているだけではないだろうか。自分で病気と闘うしかないのだろうか。熊本大学の研究にしろ未だ大した研究成果ではないのは、患者がこれだけいるのに、本気でデータを取ろうとしない研究者が多いからだろう。亦、健康診断の延長のような教育入院になりそうだ。明確な理念がないだろう。これでは、DMは増加するだけだろう。
2005.05.29
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一番気になっていた眼科の検査が終わった。どうにか2年前と不変との結果でホッとしている。もう半年に1度は検査をしなければならないことは判っていたが、つい行きそびれていた。レ-ザー手術とか色々聞いて怖気もあったと思う。ところが、入院して、DM発症40年の猛者がおり、レ-ザーも5回も受けたという老人の話を聞いて少しその怖気も消えた気がした。だが、腎臓病の人工透析は大変のようだ。週に3回は、病院にいかねばならない。しかも4時間近くかかるらしい。何とも進めば怖い病気だ。腎臓移植も2000万円かかると言う。安心だという訳ではなく、今後も検査をつづけねばならないし、いずれ増殖まで行くだろうが、取り敢えず海外旅行へは行けそうだ。それでもあとで、暗闇でばっさりも無きにしも非ずだが、B型人間としては次のことを考える条件が整いつつある。病院は、援けてもらうところではなく、利用するところだ。
2005.05.28
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病室では、有料のテレビは置いてあるが、ノート型を持込んでいるのはこの8病棟では私だけのようだ。以前にも同室のひとが遣っていたのを知っているので許可されるだろう思っていたし、どうにか、何も言われない。眠れない時は、DVDも観れるし持って来た書籍も余り観る暇がない。いつの間にか6日目になり、今は、3名退院されたので、部屋は2名になった。開放的な窓から、立花山が見えている。微かにだが志賀島も遠望されるようだ。此処は4階だが、このビルの3階には妻の従姉がいる。どんな思いで過ごしているだろうかと思うと胸が潰れる。昨年の夏、伯父の葬儀で彼女を見かけた時は、普段と変わらない様子だった。その直後に入院したらしい。今時珍しく色白で日本的な優しい人柄で周囲からも愛されていた女性だ。皆から呼びかけられる愛称でも、それが判るような従姉だった。まだ50歳半ばである。どうも50歳過ぎての病は、突然襲うものが多いようだ。妻は、怯えきっており私の見舞いに来るのをそのために逡巡している。どうして同じ病院なのかと何度も詰問されるが、私も入院を決めたあとだった。もう初夏の暑さも感じられる季節になったようだ。じっと動かない風景が見える。
2005.05.28
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入院して6日目。今回の入院は、幸運にも空き室があったからだろう。できれば、この際、遣れることを遣って今後に備えたいと思う。それにしても肉体は、自然の賜物だと感心する。まさしく大事にしなければ、磨り減るだろう。花が、太陽と水がなければすぐにも枯れるのと同じで、からだは悲鳴をあげているのに酷使すれば結局、すべてを失ってしまうだろう。「知識が病気に対する最大の武器」だと言われる。ADA のガイドブックがいま何をすべきかを教えてくれたようだ。入院しても、何が問題の所在か判らない患者が多いのは何故だろうか。勿論、入院の原因と治療については説明されるが、肝心の「これからどうすべきか。」を誰も知らないのではないか。そんな気さえして来る。、
2005.05.28
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入院して検査漬けの毎日だが、それでも一部でしかない。病気はヤマほどある。自覚症状がなく、意図しない偶然で見つかる早期発見が多いと言う。医師の知識不足の為の必要でもない部分的な検査だけがされて、為すべき検査がされずに退院させられるとしたら何のための入院か分らない。また違う病気で再入院することにもなるだろう。複雑化した病気に対応するだけの個人の能力が不足しているとすれば、それを補うシステムが必要だ。それでも、担当医は堂々としてのたまう。「他の病気は、専門医でないと解かりません。」自分のテリトリーだけを守ればそれでも食えるとしたらどこかが間違っているだろう。それは医師ではない。もともと患者の生命に係わるが問題だとすれば、医師の職域は厳正であらねばならない。無知を誇示するようでは少なくとも資格はない。目先の木だけを援けても、全体の森を枯れさせては、何にもならない。これは、悲観して言っているのではない。変わるべきは変わるに違いないとも思うからだ。現在の医療は大いに欠陥があると思うしそれは、誰もそう思うだろう。無駄なことばかりしており、そのために「膨大な血が流れるのを止めることができないでいる。」患者は、どうすれば、あとどれだけ生きる可能性があるか知りたいと思うだろう、生きている間に遣りたいことがあり、時間との厳しい戦いがあるからだ。それに応えられる医師がいてもおかしくはない。然し、まだそんなことのできる医師は今まだ何処にもいない。 現在の医師は、単なるスペシャリストに過ぎない。<終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月27日 10:32 件名 : 27日の日記
2005.05.27
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明確な目的をもって生活できているか。病態整理と治療についての正しい情報が得られているかだろう。多くのセッションを理解して課題に取り組めばかなりのことができるだろう。病気に限らず、日常の生活でも同じだと思う。ADAが出版している"Life With Diabetes " は。実用的で示唆に富んでいる。こんな、ガイドラインが、色々な領域でもあっていいと思う。病気に取組むのが本人だけでは、すぐにも、窒息するだろう。健康管理チームの支援がどれだけ受けられるかだ。地域医療は、開発途上国並だし、専門医も近くにはいないだろう。其の中で、生きていかなければならない。せめて、現在措かれている状況把握と、「自分のセッションの目的」のひとつひとつを明確にしていかなければと思う。
2005.05.27
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医者を駄目にしているのは、患者かも知れない。患者も甘えている。それは無知だからだろう。ひとは生きる為に産まれてきたが、唯生きるためにだけではない。勿論この社会は、怠惰で生きれるほど豊かではないし、ヒトは理性的でもない。植物としての花は、謂わば性器だ。性器を飾ることで繁殖の戦略を取って生き残っている。ヒトは、性器を一番安全な場所で守ろうとしている。相反する戦略で生き残りを計ろうとしている。ヒトはまだその能力を尽くしてはいないと思う。一部の者が、社会を狂わせているように思える。それは、科学的な真理が通用しない為だろう。ヒトは、花のようには生きれない。花は、まるで頭を大地に隠して、動こうとはしないようにみえる。そこでしか生きれないと決めたような生き方だから・・・。甘えは病気を際限なく増やすだろう。医師を鍛えなければ彼らは何処までも堕落するばかりだ。理屈が通るような社会であれば、病気は半減するだろう。
2005.05.27
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カーテンに仕切られた狭い空間が今の私のスペースだ。深夜隣の患者が大鼾を掻くし昨夜は余り眠れなかった。久しぶりにコーヒーを飲んだ所為もあるのか目が冴えてもいた。時々起きてトイレに行くと暫く静かになるが、また始まる。朝方まで数回トイレに立つ羽目になった。そういえば、前回入院した時も同じことがあったのを思い出した。その時は、肺癌の人か何かで酷く咳をして苦しげで居た堪れない思いがしたが、私だけでなく同室のひとたちは皆同情して我慢していたが、見かねたナースが、数日してそのひとを別室に移した。もし自分がそうなったらどれだけ苦しいだろうと思う。自分が苦しいだけではなく、他人も巻き込んでしまうのだ。医学も進歩しているだろうが、まだ歩みは遅いのではないだろうか。折角蓄積した研究をドブに捨てたり、有能な人材を腐らせたりしていないだろうかとの危惧を抱くのは、理不尽なことが世の中に多くあるからだ。誰でも、明日死の宣告を受けないとも限らない。まだそんな社会だからだ。その不安を一刻も早く払拭するだけの医療を実現して欲しい。
2005.05.26
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病院周辺を歩き廻っている。運動療法の名目である。住宅地があり、最近ペチュニアなどを植えたりしているので、他所のお宅はどうだろうかと関心がある ためだ。夫々の趣味があるようだ。勿論季節もあるし、初夏がこうだからといつもの同じ花ではない。それにしても今はバラが綺麗だ。緑の多いお宅もそれな りに落ち着いていて良い。どんなに苦しい時も花を見ると和むのは遺伝子の所為だろうか。赤ん坊が愛らしく産まれるのも理由があるだろう。花が昆虫を 呼び寄せるのも遺伝子の戦略だ。ペチュニアはナス科だがアサガオと同じで花弁が多く、重なる場合があるが、すると片方は直ぐ枯れてしまう。 生命の強かさに驚きを禁じえない。ひともそうだろうか。庭先の花を観るとそのお宅の住人の人柄が見える気がする。太いバラの幹をみると羨ましい。 何年も丹精込めて花を育てるこころが偲ばれるのと、他人にもそれを分かち合う豊かな思いが感じられるからだ。赤いバラを観賞する散歩を愉しみたい。 <終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月26日 10:30 件名 : 26日の日記
2005.05.26
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「福岡県で多々良川以東遠賀川までの地域で専門医は10名いない。」「ここに4名の専門医がいて、一番充実している。」そうだ。この地域にどれだけの患者がいるだろうかと思った。「センターに、2000名の外来患者がいる。」とも言っていたのは少ないことを嘆いてのことだが、たった4名の専門医で多様なDM患者対応できているとは、到底考えられないと思う。更にこのセンター入院患者が、今40名近くいるのだ。それに、救急病院なので急患もある。当然だろうが、内科医でも専門でないと見逃しもあるという。「ここで、2000名の内、DMの直接的な原因で、亡くなったのは1名だけですよ。」と医長はいうが、どのような資料なのかよくわからない。ナースステーションにいる医師の様子をみたところ、医長を含めあと一人ベテランと言える医師がいるが、あと2名はまだ新米医師だろう。「専門医でないと、見逃すことも多くて・・・。」と認めている。手遅れになればいのちにかかわることは言うまでもない。どこが悪いのだろうか。考えさせられた。庶民は、大事にされていないなあ・・・と。「私立病院の専門医は、先輩だが、どうもね。信頼できないよ。」「あと女性の専門医もいるが・・・。。」「あそこは、まだ勉強中・・・。」医長から思いがけず地域の実態が訊けたのは、何というべきか。福岡県に60名の専門医がいる。どうやら、私の住む地域では、このセンターがメインのDM治療施設らしい。数年前横浜市立大学総合医療センターに入院したことがあるが、担当医の女性は、「ここで、何でも遣るので安心して治療にあたってください。一緒に頑張りましょう。」と言った。医療は、地域差があるのだろうか。
2005.05.26
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たった全国のDM専門医が3000人しかいないらしい。これだけの患者がいながら、適切な治療を受けていないらしい。知人にも予備軍と思われるひとがいるが、何故か、拒否反応があるようだ。行政も遅れている。全国で潜在者も含めて1200万人もいるのに、専門医が余りにも少な過ぎるだろう。病を恐れていては、まともな仕事などできるはずがないと思うが、義務だけを押付ける体質があるのは否めない。仕事から外されるのが怖いのかと嘲笑することはできないが、手当てが遅れれば命取りである。専門医にしろ、専門知識をもったナース、栄養士、運動療法の専門家のサポートが必要だが、お寒いとしか言えないだろう。一部の者だけを救済しても、大勢の人たちが病に倒れる現実をみつめる必要があると思う。ハイリスクで、厄介な病であり、古い歴史をもつにも拘わらず無視される傾向がある。贅沢病などと誰が言ったのだろうか。無理解が、この社会を蝕んでいる。専門医の質の向上と増員が急務と思う。
2005.05.25
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40代の担当医から呼ばれて「入院するとグルコースは下がるよ」と言われた。どうもクランケを軽く見ているようだ。入院して、ただそれだけで治るならば、苦労はない。治そうとする努力とその環境があるから改善できるのであり、病院は万能薬ではない。こういう口足らずの医師が、医療を駄目にしている。煙草の研究者らしいが、私は喫煙家ではない。どうも、クランケが求めている専門医ではない。もともと直ぐ治らないから入院するのだし、治らない病気もある。医師は手助けをするだけで、どれだけ適切な処置ができるかだろう。クランケの治癒力と薬と時間が、救うものを救うのではないか。そういう意味では、医師が治しているのではなく、その役割は小さいと言える。その自覚のない医師は、謂わば医師になる資格がないと言えるだろう。そんな奴ばかりが居そうな気がする。
2005.05.25
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ひとは偶然の成行きに支配されている。私たちは、誰も明日を予想できない。どんなに優れた専門医も、必然的なメディカル・ステージを指摘できない。あらゆる可能性が否定できないからだ。そして、突然変異もあるだろう。勿論それに立ち会うことは奇跡に近いだろうが。それにしても、「偶然の海」に溺れそうだ。誰も、自分がどうなるかが判らないままとしたら、死もまたそうなのだろうか。入院して、あれもこれもと検査をされているが、ひとつの検査ですべてが解かるほど、医学は進化していないのだ。そして今日の検査の結果も数ヶ月もしたら役に立たなくなるとしたら、果てしなく検査しなければ解からないということになる。そしてそれはひとつやふたつではない。おそらく無数にあり、増え続けるだろう。偶然は、ヒトを生み出したし、未来に夢をもてるのも偶然があるからだろう。いつも飢えと、病と、権力闘争等などにと、死の恐怖に怯えながら、歴史を刻んできたが、いま科学の前で「無知」という圧倒的な相手に立ち竦んでいる。今回の私の入院は、どのような偶然に回り逢うのであろうか。
2005.05.25
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報酬系でドーパミンが大量に分泌されると快感を惹起する。だが神経伝達物質が流れている間しか続かない。それは、強い恐怖や、怒り、悲しみが入らない時だ。これらが入ると、快感があっても忽ち減少する。躁病は活発になり過ぎだし、鬱病は停滞する。鬱病は、かっては、生きのこりに必要な価値があっただろう。エネルギーの節約と過剰な対立とリスクを回避させた。そして、現代では、不要であればいつか消滅するだろう。加齢などで、ドーパミンの分泌が少なくなれば幸福感も薄らいでくる。然し、感覚的、性的な興奮だけではない、愛するものをみつけても脳内ドーパミンは分泌するのだ。幸福感は、左脳の活動が深く関係していると言われる。感情も化学物質が関与しているとすれば、その条件をつくるのは、わたしたちであり、わたしたち自身の努力でコントロールされるだろう。
2005.05.24
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流石に、元結核療養所だけに敷地は広い。草木も多く、散歩は愉しい。運動療法でもあり口実があるので行き易い。それにしても、今日は、採血、検尿、レントゲン、心電図、心エコーと目白押しだ。蓄尿もある。段々憂鬱になってくる。月1度の検診の時は、「入院でもして1月くらいのんびりしたいなあ」とよく思ったものだが、入院してまだ2日目だが、自宅が恋しくなった。一度に済ませてくれば良いがどうも、バラバラで、一日掛かりそうな雲行きだ。他の人たちはもう退院の準備のようだ。栄養指導とかがあっている。部屋には私以外には誰もいないので一人部屋みたいだ。それにしても、いくつかの人の声がするが、不思議な空間だと思う。大勢の人たちがさまざまな思いを抱きながら過ごしただろう。いまはただ静寂だけが支配している。小鳥の囀る声が聞こえて来た。
2005.05.24
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入院したのは、自分の Medical stage を知りたいからであり、ヘイフリックの限界とテロメアの短縮の自分のこれからを見極めたいためだ。されど、医師は医師に如かずだ。恐らく徒労に終わるだろうが・・・遣ってみる事にしたのだ。現在の医療は何だろうか。あまり進化していない気がする。旧態依然としたシステム。意識も「姥捨て山」レベルではないか。病室もまるで牛舎のようだし昔とあまり変わらない。患者の一日を大切にして欲しいという配慮がない。殊に田舎の医療施設はこんなものかと思わざるを得ないようだ。これは、勿論庶民に対する国家の為すことだろう。もし、何かあればこんな病院でお世話になるだろうが、何となく寂しくなる。病室は、老人ばかりだ。遅れた医療が病人を増産しているだろうし、そこで人間扱いされないとすれば、立つ瀬のない社会ではないか。助かりたいひとだけを救うのが現代の医療の現実だ。
2005.05.24
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病気との闘いは、因果律との闘いであり当方に勝目はない。少しの容赦も温情もない。まるでドンキ・ホーテの心境である。断酒も辛いが、食事も味気ない。されどまだ始まったばかりであり、治療かどうかわからないが、少なくとも「国立病院」ではない独立行政法人のカリキュラムに参加出来るだけでも感謝せねばなるまい。然し、それでも一時の気休めかも知れない。結局は自己責任ですよ。と言うのだから。貴方次第で、良くも悪くもなりますよという。サポートはしますが、あとは、お好きにという訳だ。ひとりひとりに付き合う暇はありませんということらしい。治療費は取るくせに何とも無責任なはなしだが、それが、今日的医療だろう。それこそ、オペで外科的に処理するにしても、あとは個人の体力次第である。どうも医療と言うのは、何も判らないのによくやるなあというのではないだろうか。患者がドンキ・ホーテではなく、寧ろ医師がそうではないかという気もしてくる。「かってにシンドバット」だろうか。少し、これから3週間ばかり現代医療という世界をみることになるが、余り期待はしていない。少しでも延命に役立つかどうか、これも遣ってみないと判らない。無駄なことをしているのだろうか。これまで、よく選択を間違うから・・・。明日から、検査が目白押しだが、役立つデータになるだろうか。今回は、PCが同伴している。少しは、暇つぶしをさせて貰うつもりだ。
2005.05.23
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10:00 センターの受付へ。3回目だ。1回目は10年位前。肺癌を疑われた。「あなたは、イイ方に転んだ珍しいケース」と言われた。どうにか難を逃れた。2回目は2年前で教育入院。心理的には、この時が一番大変だった。その頃仕事が横浜で単身赴任していた。会社も無理解だったし、M&A などで社内も荒れていた。そして、今回は、定年前の人間ドックみたいなものだ。いま入院の手続きも終わり、病室の説明を受けたところだ。説明は男性の看護士になっていた。6人部屋である。この前と同じ病室だ。PCも使えそうだし、どこまでできるか判らないが、2年前とどう変わっているだろうか。「暫く,おとなしく・・・するように」と男の看護士から言われたところだ。<終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月23日 10:36 件名 : 23日の日記
2005.05.23
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役に立たない情報ばかり・・・。有効なのは、努力をしないと手に入らない。成功した話を何度訊いても、自分の場合が上手く行くとは限らない。親だから、配偶者だから、親友だから、或いは担当医であろうと正しいことを助言するとは限らないと思う。タダの情報はタダでしかない。然し、どんな高価な情報もカスもあるし、間違いもあるだろう。では、自分は正しい情報を持っているだろうか。恐らく砂上の楼閣でしかない。もう、役に立たない「腐った情報」だけしか入らなくなっている。新鮮な空気、酸素を吸い込まないと脳はパニックを起こすだろう。時々リセットしなければならない。リカバリーができるかなど考えていたらチャンスを逃すだろう。地球でさえ、「全球凍結」でリセットしたのだ。今、正しいことが、正しいとは限らない。その時々で変わるだろう。価値観も変わる。正しい情報というものはないのかも知れない。それは観念的なものだ。ひとは、いつも、どんなときも、「移動」して、役に立つ情報を探さねば明日まで生き残ることなど到底できないのではないか。そんな気がします。
2005.05.23
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DMは、ハイリスクの病気だ。痛くも痒くもないが、寿命を10年短命にする。hyperglycemia になることにより代謝障害となる。古ィ病気だが、未だ克服 できないでいる。恐らく、そう遠くない将来に「過去の病」になるだろう。それまでは厄介な病気である。経済的、社会的損失も膨大だ。何せ、文明病でも あると同時に、わが国だけでも患者は740万人もいる。潜在患者は800万人とも言われている。運動や食事で HbA1c のコントロールができない為 に、自首するつもりで、「3度目の正直」の入院を決意した。まことに自制心の足りないことで恥ずかしいが、わが国の取組みも遅れている。ADAのような 組織も緻密なガイドラインもない。前回経験したお粗末なままのカリキュラムかどうかこの際実体験したいと考えている。じっくり見て遣ろうと思う。愉しみだ。 <終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月22日 10:38 件名 : 22日の日記
2005.05.22
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ダーズリー一家は、ハリーの唯一の親戚だ。しかもマグルである。その根性悪の伯母さんと同じ名前のペチュニアが、わが家の庭を彩っている。色とりどりの花が咲き乱れており、これからの成長が愉しみだ。花はどこから来たのだろうか。進化の歴史を調べたいと思っている。どうも余り対象が多過ぎて困るくらいある。何故ひとは、反対のことをするのだろうか。求めていることと違う道を歩こうとするのだろうか。利己的な遺伝子がそうさせるのか。それとも生い立ちと取り巻く環境から来るものだろうか。ペチュニアも色んな形があり、色があり、受取り方もあるに違いない。案外嫌いなひともいるだろう。自分でも気付かずに違うことを遣っていたりする。と言うより殆どそうなのではないだろうか。皮肉な話だが思いのほか厄介な社会だ。誰もみな自己責任がルールだ。わからなければ一生わからないままの人生になる。誰も教えないから。花のいのちは短い。ひとも同じだろう。いつも思う。自分は、本当にしたいことを知っているだろうか。と。
2005.05.22
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STANLEY KUBRICK 時々観たくなる。昨夜も寝る前に観ていた。明日から古賀市の医療センターだ。今日は次女の誕生日。そして明日は奇しくも父母の命日でもある。昨夜、妻の同じ年齢の従姉が大病だと聴いた。妻も絶句していた。昨年9月から入退院を繰返していると言う。「見舞いはしないで欲しい」とのこと。「髪が、すべて抜けているらしいよ。」妻がぽつりと言った。色白で丸顔のすらりとしたエレガントなひとだ。彼女が20歳の頃、妻の家を訪問した時に一度見掛けたことがある。母親と妹と一緒で挨拶されたのを覚えている。彼女が成人式の挨拶廻りの時だったのかも知れない。その頃田舎では、風習だから。それにしても若過る。今朝は薄ら寒い。未だ陽射しもなく、心のなしか小鳥の囀りの声が高いようだ。この作品を劇場で観たが、衝撃を覚えた。何時観ても感動する。ヒトは、宇宙に向けて旅たつ日が来るだろうか。苦しい時も哀しい時も、その時々で不思議と安らぎを感じさせてくれる。
2005.05.22
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ひとつは、大量絶滅のイベントによリ作り直しを命じるためのリセットと、もうひとつはプレートテク二クスによる大陸移動。進化の構築を促す 役割を主として果たす、作り直しのプロセスだという。恐竜絶滅はKT境界の大絶滅だ。6500万年前に起きた。これは、或る意味巨大化した恐竜絶滅 により、作り直しを命じたリセットと言える。大量絶滅は、これからもあるだろう。文明は一瞬にして破壊される。生物のリセットは、何度も起きているのだ。 種としてのヒトが余りにも新参もので知らないだけだ。そして、このままでは、人類は自然の報復を受けることにならないだろうか。恐竜絶滅のように、 ニッチを追われるのではないだろうか。<終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月21日 10:32 件名 : 21日の日記
2005.05.21
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10時過ぎ町立図書館の席を確保できた。昨日の続きだ。「酸素をめぐる歴史」から・・・。何故、酸素濃度は、20%をキープしているのか。自由酸素だけで酸素はできたのだろうか。その以前にも結合した形での酸素は豊富にあったと言う説が在る。35%以上だと山火事が起きる。10%以下だと動物の生存に係わるだろう。二酸化炭素に比べて酸素の研究はこれからだと言う。生命の進化をみてくると、試練なくして進化はないことを知る。単細胞生物のゾウリムシは、地球で最初に性を取り入れた生物であり、老化と必然的な死を示すという。100回程分裂を繰り返すと、老化の兆候を見せる。コピーに時間がかかるようになる。細胞口を接合させて、接合部位を通してDNAを交換する。小核は、老化のプロセスをリセットする。ゾウリムシは、脳も神経もない。然し、人間の脳のように、カルシウムイオンを使い、ナトリウムイオンとカリウムイオンの電位差を操り移動することができる。人間の脳や神経系の細胞は「神経インパルス」という伝達のための電気信号を生じさせるがプロセスは、ゾウリムシのイオンチャンネルと殆ど同じだ。さて「増え過ぎたネズミ」は、ある土地の許容限度を超えると、いっせいに海や湖に突進して集団自殺をするという伝説だ。事実はこうだ。そこで棲めなくなると新天地を求めて、グループで走り出すらしい。その先に何があろうと。それが、集団自殺と同じ運命が待つ訳だ。地球上の生物の生命は、全方位に向けて突き進むのだ。
2005.05.21
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朝4時起床。Blogをひとつ書いて、また眠り、今朝食してコーヒーブレイク。ペチュニアが色鮮やかだ。鉢植えにしたものが多いが、株が多過ぎて未だ10株くらい植木の周辺と生垣の近くに植えている。殖えると妻が言うがどの程度殖えるのかよく判らない。鉢に3株か4株かづつ植えている。肥料や手入れしているが意外と面白い。紫陽花もあるが花を咲かせることができるだろうか。土地は痩せているし、間に合うだろうか。今日は朝から図書館に行くつもりだ。昨日読みかけの本がある。図書館の周囲は、散歩コースがあり環境は良い。来週から、違う環境になるので暫くは、断酒もしなければならない。気も重くなるが、仕方がない。今のうちにできることを遣らねば後悔することになるだろう。厭なことは先に済ます。それが、この年齢になって覚えたことだ。おにぎりでももって野外で一日すごすのが、永年の夢であった。
2005.05.21
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奇跡かありふれたことなのか。ダーウィン以後も議論される。まだ結論は出ていない。1988年の「ランドマーク理論」は、ドイツのキャンター ヴァクターシャ ウザーにより黄鉄鉱でタンパク質がつくられるという。だが「人類は孤独だろうか。」について、解明されてはいない。人類にとって宗教とは何だろうか。 それはオゾン層なのだろうかという疑問が付き纏う。そして、ダーウィン以後もひとびとを支配している。科学は宗教を超えられないのだろうか。生命は どうして誕生したのか。「ランドマーク理論」が正しいとしても、ひとつのケースに過ぎないのかありふれたものか証明することは至難だろう。単に奇跡という だけで済ますには、まだ早いだろう。結論を急ぎ過ぎるのは間違いだろう。私たちはアンカーマンではない。あらゆることが放置されているような気がして ならない。所謂遣りっぱなしのままだ。結論を出さねば先に進めないものもある。それが能力の在る者の手に委ねるべきをそうしないからだろう。 生命とは何か。どうして誕生したか。何の為にあるか。どうしなければならないか。何処へ行こうとしているか。誰にも答えられない。 無恥なのだろうか。何故ヒトだけがあるのだろうか。疑問は尽きない。<終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月20日 10:32 件名 : 20日の日記
2005.05.20
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Rita Carter著。教科書だ。脳内の精神活動のプロセスと脳の生物学的メカ二ズムとの関係を解説している。右脳と左脳の結婚生活は、殆どの場合うまくいっているが、ときに二人の会話がとぎれることがある。「そのつもりはなかったのに、ついやってしまった」のは、脳梁が、1000分の1秒の単位で大量の情報を行き来させているが入ってきた情報がとどこおる瞬間があり、普段のコントロールが取れず本能のままに行動してしまうためだ。それは、二人のコミュ二ケーション不全が起きている。脳内ホルモンが喜怒哀楽を生み出すという。化学反応でひとは感情を引き出している。 時々、ここに還って来る。自分で判らないことが案外単純な原因だったりするのは、自分が如何に狭い視野で生きているかを実感するだろう。学ぶべきは多く、生きることは愉しいだろう。
2005.05.20
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肥後の熊本に母校がある。まだ五高の在った頃だが漱石が「森の都」と称した。熊本と言えば、熊本城と阿蘇からの地下水が湧く水前寺や江津湖があるところだ。さて、母校は熊本市立城西小学校だ。ヤマザクラの変種とされる「千早桜」の原木ある地で、桜は50本ほど千早台に在るらしい。花弁が黄緑色から純白になる。亡き母から手を引かれて、入学式に遅れそうになり校門横の桜を見ながら走った。何とも切なく懐かしい記憶が今も私の脳に鮮明に残っている。中学は、西山中学という。実は昨日サイトで知った。「アンネのバラ」だ。アンネ・フランクが愛したバラを交配してアンネの父に贈ったものの流れらしい。春秋の年二回アンネのバラとして「薔薇展」を開くそうだ。私は未だ勿論だが見ていない。一度見てみたい。何とも、単純だが嬉しくなった。個人的には、まだ整理の付いていない思い出が転がっているが・・・。
2005.05.20
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「歳月はヒトを待たず」というメールアドレスの友人がいる。殊に懐かしく想えるのは、中学時代の級友たちだろう。もうクラス会に出たのが遙か昔の ことでそれから殆ど級友と遭っていない。熊本市立西山中学校と言い、ホームページをサイトでみて感慨深かった。知らなかったが卒業後に、 アンネ・フランク縁の薔薇が移植されて、現在「アンネのバラ園」として受継がれているという。「アンネの日記」はナチスの弾圧に対する不屈の少女の 平和への祈りが込められている日記である。その祈りを伝えるために「アンネのバラ園」を創設したと言う。思いがけず、そのことを知ったが、級友は 知っているだろうか。殆ど県外に去り、どこかで息災に過ごしているだろうか。同窓会の参加者も年々減っているらしい。大手を振って出掛けるには 気の引ける者もいるだろう。斯く言う私も欠席ばかりしている。唯、忘れている訳ではない。無関係だとも思っていない。遭えば懐かしく手を握るで あろう。夫々の人生があり、遭いたくなれば遭えば良いと思う。いつでも遭いたければ遭える時代だ。況して、「アンネのバラ園」を知り、いつか母校を 訪れて、その薔薇を見てみたいと思う。 <終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月19日 10:32 件名 : 19日の日記
2005.05.19
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Richard Carlson 著。どうも急ぎ過ぎて智慧も回らないのは、ライフサイクルもあるのではないか。来週から入院してどうなるかわからないが、これからは、ゆっくり遣りますよ。これからますます急激に社会は変化するでしょうが、自分のエリアを守るしかないでしょう。ただ、満足してはいけない。為すべきことは、自己満足の為ではない。ひとを卑下してはならない。他人を傷つけてはならない。そして、自然を破壊しては、ヒトの生存もできなくなる。先を急ぐべきではない。早く目的が達せられるのが全て良いのではない。急ぐことが美徳ではないことを現代の社会は、寧ろ学ぶべきではないだろうか。種としてのヒトは地上に溢れようとしている。このままでは、資源は枯渇するだろう。生態系を無視した報いは、必ず来るだろう。その時の為に今為すべきことがあるはずだ。エリアを守ることは、殻の中に閉じこもることではないはずだ。寧ろ、政治家が政治を、科学者が科学の分野で、それぞれがそれぞれの課題にまじめに取り組めば、必ずや為すべきことが見えてくるのではないだろうか。そう思う。
2005.05.19
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孤独でないこともない。家族もいるし少ないが友人もいる。社会と隔絶して生きている訳でもない。これまでも・・・一応仕事もしていた。どちらかと言えばゴーイング マイ ウエイだろう。それでも、充足感がないのは何故だろうか。不完全燃焼しているからだろうか。人並みにストレスに潰れてもいるし、不満も不安もあるそれでも、まあ見えるところは見えると思う。漠然とした明日への言い知れぬ恐怖が、そう思わせるのだろうか。寄る辺ない絶望感に襲われてもいる。ひとを信じられないことが当たり前で、私が欲張りなのだろうか。もう若い頃のエネルギーはない。徐々に身体が小さくなって行くようだ。それだけ世間が遠くなったような気がしている。シフトーダウンを時にはしなければならないだろう。それでも、めげずに遣るしかない。孤独だろうとなかろうと、昨日植えたペチュニアが色とりどりに咲いて綺麗だ。
2005.05.19
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苦しさを吐露するだけの人生だろうか。無知との闘いは際限がない。いつまでも「嘆きの壁」が在る訳ではない。それでも宗教を信じる者に取っては違うだろうが・・・。ブログがひとり歩きし出しただろうか。いつまでも好きなことができる世界ではないだろう。激増するブログの淘汰があるとすれば、いつだろうか。ブログは、社会に対するフリーラジカルになるだろうか。個人にとってエネルギーの消費量の過大なものはいつか消えるだろう。適者生存の原則だ。嵌るのではなく、マイペースを続けられるものが生き残るだろう。増殖・それは、卵を産み続ける海亀や、一度に多くの卵を産む昆虫も同じだ。そしてヒトも生き残る者は僅かだろう。全ての生物は、因果律に支配されるからだ。本音で語り合う友人が、周囲から段々少なくなる環境になりつつあるだろうか。<終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月18日 10:32 件名 : 18日の日記
2005.05.18
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日中正常化ができない。正常化とは何か。靖国問題とは果たして何なのか。外交問題になる由縁は、いつもどこにでも転がっており、口実を付けられ易く、また個人の性癖によるようなレベルのこともある。然し、強かな外交経験のない日本のような国家は得てして暴露するし、カバーが中々できない。小泉首相が、参拝を止めないのは硬直化の表われだ。拘束された脳では事態の収束はできないだろう。こんなことで躓くようでは、前途が思い遣られる。個人の心情で国交が左右されるでは困る。中国が靖国参拝を止めて欲しいと言うのであれば止めれば良い。戦争で蹂躙されたひとたちの心情はされたものでないと判らないものだ。小泉首相が、参拝しなければ困る人がどれだけいるだろうか。正常化とは、相手の立場を尊重することから始まる。それができなければいつまでもまともな交渉はできないと思う。最近、中年男が、少女に手錠をかけて3ケ月も監禁していた事件が発覚したが彼は、自分を好きにならなければ殺すと言っていたと言う。弱い者を相手に強迫して理不尽なことをするのは、ひとの本性に根差すのだろうか。潜在的にあるのかも知れない。勿論これは犯罪者の行為であり異常な行動だが、案外歴史には、これと変わらないことをやることがある。この秋、退陣する首相が、しでかすことの尻拭いだけしたくない。いずれにしても、アジアはひとつにならなければ国際社会から取り残される。EUのようにまとまる必要があるだろう。その必然性は、屈折はあるにしても、いかなる困難な問題も克服するだろう。その前提として、正常化がなければならないだろう。個人レベルでも、夫婦にしろ親子にしろ兄弟姉妹にしろまたは、友人、知人などにしろ関係は「正常」でありたい。
2005.05.18
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脳は筋肉と同じように鍛えることができる。脳のネットワークは鍛えられる。単に使うだけ良いというだけでもないらしい。小児慢性疲労シンドロームのように遣い方を誤れば脳萎縮の原因にもなる。脳の休息も必要なのだろう。それでも、少なくとも私のような怠け者には、使うだけ使え・・・が正解だろう。免疫異常が、脳細胞にかなりダメージを与えているだろう。のんびりしていたら、さっさとどこかへ連れて行かれそうだ。世間と戦うだけでなく、自分とも闘わねばならない。健康は与えられるものでは少なくとも私の場合は通用しない。筋肉を保つ必要がある。脳だけではなく、肉体も筋肉を鍛えないと先がないだろう。ネックは、睡眠だろう。不眠が続いている。土台怠け者だから、環境を好きなように解釈して生きてきたらしい。その報復を数年前から受けている。運動をしないと夜眠れない。その代わり仕事をすれば良かったが、職場も良くなかった。これは言訳だが・・・。それにしても、喧しい先輩たちがいなくなり、いたら言うだろうな、言われるだろうな。と思いながら仕事をしてきたが、その仕事もなくなった。伝えるべきものもないが、脳を鍛える為にブログをしている。
2005.05.18
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夫々に器がある。ステータスもあるだろう。自分のステージで遣るべきことを遣ろう。首を絞める奴が遣らなかったらできることもできない社会になる。進化もないだろう。綺麗事では生きれない。だが、善悪はあるだろう。報復されるだろう。為すことの責任は取らされる。逃げずに踏み止まることがせめて隘路であれば耐えるしかない。何と美しいものがあるだろう。それは、不幸だけを背負っていないヒトの証ではないだろうか。それは、隣を歩くひとの手を取ることではないだろうか。最近、庭に花を植えている。手を加えると花は枯れずにいることに感動する。
2005.05.17
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Peter Little 著。遺伝子はまだこれからの分野だし、運命も環境に係わるものだ。未来に対する恐怖は、死や病気に対する恐怖と深く結びついている。然しDNA解析がどれだけ進んでも、決してそこから確実な人生は見えない。「なりそうなこと」と「なること」は違う。それが、遺伝子の基本的な性質とすれば、遺伝子と環境の関係なしに人生は決まらないと言うことだ。知ることが必ずしも必然ではない権利があるかも知れない。だが、遺伝子変異は起こるだろう。どこかで向き合うことになる。「遺伝子と環境」「貧困と無知」との闘いは避けられものであろう。生きることの意味とは、その中にあるだろう。
2005.05.17
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プロモデオキシウリジンを利用して、神経細胞の新生が確認された。これまで脳の神経細胞は死滅するだけと言われていた。ヒトの脳は1000億個の神経細胞があり、一日約10万個死滅する。つまり、新生は生涯を通じて行われる。私たちは、aging を否定的に捉えたがるが、まだ未知の分野があるに違いない。何故ヒトは、生殖年齢を遙かに超えて生きるのであろうか。誰もそのことに応えられない。一日でも多く朝日を浴びることが、そのひとの歓びでなければならないだろう。それが、たとえ幼稚なものであろうと、どこからでもそれを受け止めて個人の能力を向上させる器があっても良いと思う。そして、明日死すと言えども、日々の研鑽を積むことが、ヒトの脳が生涯を通じて新生するという恩恵に報えることではないだろうか。私は、山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」に底知れない慈愛に充ちたひとの姿を見る。
2005.05.17
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門司港の赤煉瓦ガラス館に妻が行きたいというので出掛けた。自宅から80キロ位の距離だ。レトロの街つくりがされている門司港は、私には、思い出の地でもある。小一の時、もう50数年前だが祖母と二人で熊本から母に逢いに行った。その時母と事情があって離れて暮らしていた。年老いた祖母は、田舎者で父から「門司港駅は終着駅だから、皆が下車した後で降りるように・・・。」と言った言葉を頑なに守ろうとした。早く母と遭いたい私は、祖母を急かせるが聴いてくれない。泣きたい気持ちになった。母が待ちかねてホームまで迎えにきた。どっと涙があふれて止まらなかった。母の優しさが身に沁みた。駅は、昔のままの駅舎だったが、周辺は記憶とは違う世界になり、整備された観光地になっていた。以前娘たちは関門橋を歩いて渡ったというので、わたしたちも近くまで歩いたが、橋を見て諦めた。評判の寿司屋をやっとみつけたが、妻の期待はずれだったようだ。それでも、次回は、関門橋を渡りたいとの弁だった。気温はもう夏ような陽射しで暑かったが、よく歩いた。帰りは妻が運転した。ビールを飲みたかったが遠慮した。たまには遠慮もする。<終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月16日 9:49 件名 : 16日の日記
2005.05.16
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生きていることを諦めない。生きるとは、カネを稼ぐことばかりではない。あらゆる情報が混乱しており、自主性を持つことには勇気もいる。智慧もいるかも知れない。そのためにこそ脳があると思う。日の当たる場所に棲家を持っているばかりではないのだ。前回「小川」の話をしたが、ドブ川しか知らないひとには、「小川」の素晴らしい風景は想像できないだろう。どうも見せかけの張ったりの嘘ばかりだから、所詮誰かに騙される人生だ。もう多くは大して反逆ができるステージはないだろう。まともに生きようとしてもできないかも知れない。生きてみないと判らないが。それでも、ひとには脳という厄介なものがあり、今日という時がある。諸氏よ。されば行かん。脳ある限り、窮屈な世の中だがよく生きたいものだ。
2005.05.16
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今朝の日経「春秋」に。都市化が河川をドブ川にしたこと。「スイスのチューリッヒでは、地下に潜った川を地上に復活したり,,新しい川を町中につくったりして、河川生態系と水辺の景色の復活を進めている。」の記事があった。都会は、巨大なドブ川の上に棲んでいるのだと誰しも思うだろう。光合成を行う生物がいて川の生態系も成立するのであれば、雨水を海に返すだけでは智慧がない。私たちが見たいのは、生命の溢れる河川の生態系と水辺の「小川」だろう。そして、国中の小川が消えようとしているが、それを当然とする固定観念があるのではないだろうか。都会に小川を復活させるだけの勇気がまだあるだろうか。憂鬱にさせる殺伐とした事件や事故が繰り返されるが、それは自然を見失った荒廃した社会やひとがつくり出している産物ではないか。都市で育ったドブ川しか知らない子供たちは、明日にどんな夢をもつだろうか。考えさせられる一文だ。
2005.05.16
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昼から外出した。JR竹下駅前から工場前まで賑わっていた。実は先日見学に来たばかりだ。この前のメンバーも参加の予定であったが、どうやらひとりになったようだが、それはそれでひとりも気楽で素敵だ。横浜でこういうイベントにはよく参加した。単身赴任で一人暮らしの所為もあるが、人混みの中にいるのもたまには良い。息抜きにはなると思う。出来立てのビールとジンギス焼肉と焼そばと・・・ビートの利いたパホーマンスにいささか酔って来た。昼間から酔った所為か、時間がゆっくりと流れる気がした。メールで妻子の要望により、焼き鳥と梅ヶ家餅を土産にした。妻に駅まで迎えに来て貰い帰宅した。数時間であるが、気晴らしになったと思う。急に眠気がしてきたので夕方まで昼寝をした。かくて、一日も過ぎようとしている。へえだ。
2005.05.15
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近所にナフコがあり、沃土を買いに行った。序でに赤のペチュニアの苗も。自宅の庭は切土で、土地は痩せている。土を入れて遣らないと花は育ちそうにな い。植栽は殆ど経験がないので自信はない。それでも土弄りには興味がないことはない。生物は、植物も昆虫も生態が面白いと思う。 それと野菜でも植えたら愉しいのではないかと思うが、ちと庭が狭過ぎる。10坪くらいしかない。そこに植木と犬がいる。やはり無理か。 朝顔の芽も土をかけたら、それらしくなったが、場所がどうだろうか。蔓が延びてきたらどうするか、まだ先が見えない。それが、花にしろ、何にしろ 今後の成長は、いずれにしても、遺伝的要因と環境的要因により決まる。さても愉しみだ。嵌るかも知れないなあ。時間があればだが・・・。 <終> ----- Original Message ----- 送信者 : 宛先 : ??????@msn.com 送信日時 : 2005年5月15日 9:53 件名 : 15日の日記
2005.05.15
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