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スタバでお気に入りの珈琲と、序でに「ホーチミン市」のガイドブックを買って来た。同時進行には慣れている。もう8月も今日までと思うと、よく遊んだなあ・・・と思うが、失ったものもあるだろうが、そんなことはどうでも良い。問題は、明日のマイスペースだ。過去のことで悩むことはないが、お土産にもならないだろう。あっさりと過去と別離の決意ができるだろうか。どちらかと言えば、女よりも男は駄目だ。ひとは見かけではない。弱いのは男だろう。さっさと適応して明日への切符を手にするのは女性だろう。何が変わるだろうか。見るのは目ではない。脳で見るのだ。
2005.08.31
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ベトナム戦争は、私にとっても忘れられない時代の一コマだ。戦火に佇む少女の姿を映画で見たことがある。一度行きたいと思っていた。来月にでもサイゴンいまのホーチミン市に行こうと思う。というのもこのまえの旅行社からの案内があったのだ。まあ自由の身だし、旅行好きの妻がいる。旅行などしなくとも、ライブでみれる時代だ。それでも、自分で感じる思いは違うだろう。一寸覗いてくるだけだが・・・。ごたごた考えていても所詮狭い視野でしかない。本の虫になっても誰もほめては呉れないだろう。妻の目からみると私などぐうたら亭主でしかない。全然無視されている。勿論娘たちからもゴミ扱いだ。旅でもしていた方が良い・・・。
2005.08.31
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ドイツの民話らしい。ひとはなにもしなくていい、たべものが口の中に飛び込んでくる。ないのは労働だけだ。人間のかわりにロボットが嫌な仕事をするようになる時代がくるだろうか。人間の身体は少なくとも退化しつづけるだろう。思えば、車の運転の愉しみも長くは続かないだろうし、環境破壊もこのままでは、今まだみられる光景も変わるだろう。こどもも好きなように産めない世界になる。僅かなスペースと空気が割り当てられて管理されるかも知れない。そんな漠然とした未来を考えると、私たちの生きているこの僅かな美しい自然は、永くはないのではないか、そしてかけがえのない贅沢な時を生きている気がしてくる。まだ迫り来る終末を知らずにいるだろう。庭のいくつかの白い朝顔が、陽光でやたらいとおしい輝きをみせている。
2005.08.31
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「これからの科学、これからの人間」は、とひとは今も探し回っている。探し場所が解らない。死に瀕してる老人が知っているかも・・・。或いは、もう絶滅したかも知れない種にヒントがあったかも・・・。いずれにしてもみらいを担う「種子」は見つかっていない。ひとが愚かな行為をしている間にチャンスを失うのではないだろうか。人は「第二の脳」を現実のものとするかも知れないが、まだミミズの脳でしかない。どれだけ優れた教科書を作っても、ひとは「ごろつきの国際社会」で窒息しかけているではないか。「みらいの種子」を本気で探さない政治が罷り通り、それを黙過しているひとびとと社会がある。何とこの社会には、唾棄すべき論理が、蔓延り続けているだろうか。時代性のない世界観で何をしようというのだろう。「ひとりで死ぬ決意」さえない輩が何ができるだろう。哀しくなる。恵まれている奴ほどだらしがないのは情無いではないか。こんなことで、ヒトのみらいの種子は、" beauty" だろうか。
2005.08.30
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父娘の犬ハートとソウルは、荒れ野に捨てられ、何マイルも歩き、一夜の宿と食物を探す途中、飢えたコヨーテの群れに出くわしてしまった。ハートは娘の為に、死ぬまで闘う決意をしたのだ。ハートは泥にまみれ、スポンジのようにずぶ濡れのまま、水溜りに傷を冷やそうとして丸まった姿で発見された。どれだけの死闘があったのかは誰も見ていないが、腹部と後脚がズタズタで、胸部と首にも牙に噛まれた穴があった。激痛と大量出血のため、息も絶え絶えの、ショック状態であったと言う。ソウルからコヨーテの目を離させて、ハートは死にもの狂いで闘ったのだ。挫けるこころを奮い立たせて、コヨーテの執拗な欲望と闘った。ハートの必死の執念なしには、娘の生命は救えなかったに違いない。レスキュー隊に病院に運ばれたハートの側からソウルは一時も離れようとはしなかった。子犬のソウルは、ひとりで圧倒的な敵と闘う父親ハートをどんな思いで見ていただろうか。そして学んだはずだ。「自分たちは、いのちがけで助け合うのだ」と。動物の利他的行動なしには、「種」は生き残れないだろう。
2005.08.30
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過去最大級のハリケーンは、ニューオーリンズを直撃している。自然災害はどこにでも発生する。ひとはその度に無力を思い知るのだ。ひとは、自分たちが他人よりマシだと思い込もうとしているだろうか。実はそれは思い上がりに過ぎないだろう。世界中のひとたちは、多くの人が劣悪な環境に拘わらず自分の役務を果たしすこやかに生きているのだ。あらゆる不当なものと闘ってさえいているだろう。Katrina は、アメリカに警告しているのかも知れない。「平和を忘れるな」と・・・。権力に驕るものを歴史は幾度も叩きのめしてきた。それに気づかないものはあっという間もなく破壊されるだろう。ひとは、注意深く生きねば生き残れないのだ。例えば「地球温暖化は氷河期を招く」だろう。全ての自然現象は、そのことをあらゆる手段で警告しているが、驕れるひとたちは見ようとしないだろう。自分たちに都合の良い勝手な理屈で押し通ろうとさえしているだろう。人類は、他人を押し退けては生きて行けないのだ。唯一の真理など幻想に過ぎない、あるのはあらゆるものとの「共存の隘路」しかないのではないだろうか。未来に到る道は狭く険しいように思えてならない。ひとは、自然を学びながら進化してきたのだ。もう八月も終わろうとしている。
2005.08.30
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1881年明治14年2月ハワイ王国カラカウア王一行は横浜港に到着した。日本は、王が日本からの「ハワイ移住」を奨励しており、国賓として歓迎した。その温かい饗応ぶりに感激したらしい。然し小国に過ぎないこの王でさえ、両国間の条約である治外法権条項を破棄することを直ちに同意すると述べて、日本側を歓ばせている。驚くのは天皇に西欧諸国に対峙すべきことを進言して、アジア諸国の連盟を説う見識をみせていることだ。更に、王は王位継承者で姪のカイウラニ(当時5歳)と海軍兵学校に在学中の13歳の皇族との婚姻を申し出たという。もし、王の申し出が受諾されていたら・・・と思うと感慨深い。この前私が観光旅行で垣間見たオアフ島のイオラニ宮殿がえらく身近に思えてきた。カラカウア王は巨漢であったという。小国の悲哀を感じさせずにはおれないが、かなり優れた政治的洞察だろう。賢明でもなく、思慮深くもないといわれたカラカウア王も意外とそうではないかも知れない。ガイドブックをみるとイオラニ宮殿は1882年の建造という。1階に「舞踏会の間」があるという。王が日本で唯一失望したのは、大舞踏会の中止であったらしい。ロシア皇帝アレクサンドル2世3月1日に暗殺されて、皇族は喪に服したのだ。私が最も関心があるのは、ひとが狭い空間でどれだけの想像力を持つだろうかということだ。ひとは、限定された空間で何を根拠にするのだろうか。
2005.08.29
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目が翳み、目が痛い。明治はもっと知らなければならない原点ではないか。1879年国賓として米国のグラント将軍は、当時の明治天皇に接見している。随行していたヤングの感想が残っている。「皇帝は、いわゆる優雅な人物ではない。その物腰は不安に満ちた人物のようで、とても気楽に振舞っているとは言いがたい。人の気に入るように、ひたすら間違いを冒さないように、とねがっているかのようだ。しかし最後の謁見で見た皇帝は、以前我々が見た時よりも、くつろいだ様子で、いかにも自然だった」という。都会に出てきたばかりの田舎者のような明治の日本人が、噎せ返る世界の海に空手で漕ぎ出したのだろう。数々の過ちはまだ、許されるだろうか。「温暖化は氷河期を招くだろう」と言われる。日本人が学ぶべき日本史は、誰の手の内にもあるテーマだ。ひとは誰でも自分の敵と闘わねば、明日に届かない。
2005.08.29
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日々は功利だけを考えるのではなく、それは思いっきりゆるりと時のながれを噛み締めるべきかも知れない。そんなときもあっていいと思う。わたしなどは、それこそここにきて、思えば無駄なことばかりをしている。キーン著「明治天皇」が面白い。今度「明治天皇紀」も読んでみたい。たとえそれが誰でも一言で、評価されてしまうだろう。江藤新平も首を晒された。大久保は「江藤醜体笑止ナリ」と書き、その写真を内務省の応接室に掲げ続けた。ひとは、慌てるべきではない。他人のことばを鵜呑みにするのは間違いのはじまりだろう。今更、明治天皇でもないが、いまだから感じることもあるに違いない。そういえば、横井小楠も歴史の中に埋もれているのではないだろうか。案外、ただのアダ花だろうか。どうも私の寄り道は長引きそうだ。キーンも余程暇とみえて寄り道ばかりしている本だ。それがまた面白い男もいるだろう。日本は何とやぶの中を歩いてきただろうか。
2005.08.29
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良い空気を吸っているのは寧ろ老人や子供たちだろう。凡人が寧ろセクトを超えて自由な発想ができるかもしれない。それは誰にも明日の扉を開けるチャンスがあるだろう。思えば、突然変異があり、これまでデットロックをヒトは何度も乗越えてきたのだ。ヒトは幼児化して未来に生き残ろうとしていることを意味するだろうか。この気紛れで、何にでも興味を持ち、動くものを追いかける習性はひとの赤子の特質でもある。種の成熟を棄てたのは人類の生き残りをかけた賭けだろう。ヒトは滅ぶかも知れないし生き残るかも知れない。種の多様性に見られるように、ヒトは全方位で生きようとしているだろう。どこに価値があるか分からないのだからなにものをも見過ごすべきではないのだ。「ヘイフリックの限界」さえ学ぶ価値がないとは言えないだろう。プロは、いつの時代も「酸欠」を怖がって、何もできないように思える。ただの凡人が、勇気を奮い立たせて英雄になるのではないだろうか。
2005.08.28
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1868年9月20日明治天皇は、内侍所を奉じて建礼門を出た。岩倉・木戸等を筆頭に3300余人が随行した。旅の途次の挿話は数々残されており、往時の日本人の心情が垣間見られて、興味深いものがある。私は、箱根周辺を歩いて一度調べたいと思っていた。天皇は、この時静岡沿岸の汐見坂からはじめて太平洋を見ており、その後富士山も眺めている。天皇職が実際に太平洋を見た最初の記録という。もし明治なかりせば・・・と思う。少なくとも、偏頗ではあるが、今日の日本もないだろう。キーンは、その著の中で、マリー・アントワネットが、人民がパンもなく飢えていた時「パンがなければ、菓子を与えれば良いではないか」と言ったことを引用している。天皇が農民にその労をねぎらって、菓子を下賜したことらしい。東京行幸は莫大な費用を要した。そして大半は三井を始めとする京大阪の豪商が賄ったという。天皇一行は10月13日東京に到着した。箱根に行く度に、それからはたして、どれだけ日本人が進化しただろうかと思ったものだ。少なくとも、いまそのことを調べることができるだろう。
2005.08.28
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余り完璧に遣ろうとしないで良いのではないだろうか。余程の天才でない限り、そこそこでしかないだろう。なにも自爆をすることはない。それをさせる人がいて、そいつらは憎いと思う。ひとを食いものにするのが一番悪いことだ。だが恐らくそれで成立っているのかも知れない世界があるだろう。公式タイムでしか、世間は評価をしないだろう。本当は誰が能力があるかなど分かりはしない。絶対評価ではない。語彙の多過ぎる日本語が何故あるのだろうか。正しく表現できもしない言葉やフレーズがある。複雑にしてしまって手がつけられない文化になってはいないか。これでは、日本文化はIT時代に生き残れない。もっとスローで良いから、何を残さねばならないかを考えねばならないのではないか・・・と思う。キーン著の「明治天皇」は、とても外人が書いたとは思えない。日本人の目は、やはり視野が狭いのだろうか。言えないのだろうか。今朝は、娘から頼まれているので、福岡市南区の免許センターに車で送ることになっているそろそろ起こしに行かねばならない。まだそとは暗い、いよいよ釣瓶落としのこの頃になってきたようだ。
2005.08.28
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NDL-OPACは、サイト利用可で面白そうだ。どこまでできるだろうか。昼から図書を返却して、CDも借りれた。それと7月から10冊借りれるようになったそうで、全部読めそうもないが、まあ勢いで借りて来た。全方位だが、・ドナルド・キーン著「明治天皇・上下巻」・ロバート・ウィンストン著「スーパーヒューマン」・ジョン・D・パーマー著「生物時計の謎をさぐる」再読・フランク・クロース著「自然界の非対称性」・アイリック・ニュート著「未来のたね」・リチャード・B・アレイ著「氷に刻まれた地球11万年の記憶」・千葉喜彦著「からだの中の夜と昼」・クリスティン・フォン・クライスラー著「火事を知らせる猫贈物をする犬」・内藤いづみ著「最高に幸せな生き方死の迎え方」キーン著「明治天皇」は、学生時代に読んだことがあり、いまならどう感じるだろうか。興味がある。早速読み始めたら時間を忘れていた。すこし低血糖モードになっていたようだ。それにしても、だんだんマイスペースは面白くなってきたが、どうだろうか。「ヘイフリックの限界」ばかりでは済むまいね。福岡でも、稲の穂が垂れてきて、秋の気配がするようになったようだ。
2005.08.27
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アメリカ科学アカデミーの会員でもあった元スローン・ケタリング・ガン研究所会長のルイス・トーマスは、患者の治療成功率についての講演で「あらゆる病気の90%は医師の手助けなしで、自然に治癒できるという。医者は残り10%のうち7%はレスキューすることができる。しかし残り3%に関しては、何もできない。」と述べている。医者の実力は、そんなものだと思う。何と患者たちは、博愛主義者なのだろうか。それこそ97%を医者のおかげだと思い込まされているのだ。ことさら否定はしないが、治療費の高さで患者が受けるショックを和らげる方法だとしたら、何ともお寒い医者たちではないだろうか。
2005.08.27
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[一天天風」空の溜息の意という。優しい風だ。上海では、夏の涼しい風「Fen(フェン)」が吹く。まるで水墨画を想像させる世界だ。ひとは、脳という途轍もないものをもってしまったのだろうか。まだ見ることも知ることもできない未知の世界さえ想像できるのだろうか。思えば、すべての地球上の生物は、化学物質で生成されている。ひとのすべての喜怒哀楽さえそれは化学反応だ。ゆえに生物は、この空間に跡形もなく解けてしまうだろう。それは、植物も、動物もみな同じ起源だということでもある。ここに到る生物の歴史や形質を、まだ誰も、すべてを理解できていない。ヒトは、いま地上に46億人もの生命を送り込んで、そのことを知ろうとしているだろうか。このやさしい風は、何であろうか。空の溜息だろう。せめて、こころの旅に出ようではないか。自分の脳と身体が、この空間に消えてしまわないうちに・・・。
2005.08.27
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アイルランドのすこやかな風・・・時には、ひとらしくしていたい。美味い珈琲でものんで、心を透明にする音楽でも聴いて、やがて、夜のとばりの中で冷たいビールでも飲もうよ。それから、ケセラセラ・・・と,犬と夜の散歩でも行きましょう。世界は平和ではないが、まだ原爆が空から降って来ることもないだろう。それでも何があるかわからない。夜空ばかりみて口を開けて歩いたら、他人から阿呆と思われるだろうね。それとも、憤死だろうか。油断なく、忙しく生きてる人たちに、Creithleag を・・・。
2005.08.26
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どこに行っても単に形式的なだけの発想の転換は、辟易して聞いていたものだ。何をどう換えなければならないか。それがどうして必要なのか明確でない変革などできはしない。郵政の民営化にしても根拠が不純だろう。私たちは、良きにつけ悪しきに付け過去を引き摺って生きており、偶然の積み重ねで今の社会を創り上げている。一つを変えれば次々に変えなければならないだろう。明日のことさえ正確に予想をするさえできない。誰も其れを知っているからもう考えようとさしない「手に負えない未来」があるだろう。「ことば」にしろ科学的事実のデータで構成されてはいないのだ。ご都合主義の概念で出来あがってさえいるだろう。元気なひとが空元気で、どうでもよい人間が大手を振っている。多くの真面目な一般のひとが、社会の隅で苦しんでいる。何が意識の、発想の転換だろうか。それは、本当は社会を換えたくはないのだろう。ぬくぬくと生きていけると世の中を変えたくはないだろう。愛国心だとか遵法だという企業は、本音と建前が違う「嘘つき」法人だ。真実を知ろうとしないことは、卑怯な振舞いだろう。残念だが、これには、現役でないものはいない。発想の転換などしないで、この社会を知ることが先だろう。
2005.08.26
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「ブログは、何だろうか」と日経が一面に「ネットと文明」のテーマで特集を組んでおり。「今、そこにある未来」のなかで今朝は「ブログ」だ。ネットは、現代の「アゴラ」だろうか、とも。自分の日記が部屋の隅に置き去りにされ、何れは誰の目にも触れられぬまま焼却される運命だったに違いない。それが、たとえ誰であろうと見るだろうというスリルは刺激になるだろう。これまで、偶々同じ所に住んでいると言うだけの人たちとだけの付合いが、少しは違う付き合いになるかも知れない。日本人しか知らないが、多くの人種がいるだろう。その中で生きてゆかねばならない。段々と閉じこもりがちな私たちの意識は、変化するであろうか。どんなに知識を積んだとしても使わなければ「知者」ではない。寧ろ情報が厖大なレベルで配信されているだけで、それを知識にするには能力がいるだろうが、或いは、「モンスター」が持つかも知れないという恐怖が付き纏う。「今、そこにある未来」は、「今、そこにある危機」にもなるであろう。たとえば、日本列島と中国大陸を「橋かトンネルか」或いは何かで繋ぐようなことを考えているひとが、日本にはいないのだろうか。そんなひとの「ブログ」を誰もが待っているのではないか。
2005.08.26
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Judy Collins のアルバムを買いに行って来た。Amazing Grace を聞きたい心境があり、どうしても聞きたくなった。実は、昨日買えば良かったCDだ。どうせ気分の問題だが、されどモードだろう。死線を超えて来た訳でもない戦後生まれには幼児性が付き纏うだろう。直ぐに挫けてしまうところがある。未だ、蒙昧が消えることなく社会を覆っており、いつまた逆行の嵐が吹くかも知れない危うさが日本にはあるだろう。全能なんかではないひとは何度でも懲りずに過ちを冒すだろう。数百万人の犠牲も歯止めにはならない。ひとは、最良の未来を必ず選ぶとは限らないだろう。それは、寧ろ歴史が証明している。ヒトは、ホモ・サピエンスなのではない。なろうと努力しなければ、永遠にその時は来ないのではないか。日本にしても、アメリカにしても、本当によい方向に歩いているだろうか。世界は、黙って眺めている。誰が、明日のヘゲモニーを持つだろうか。
2005.08.25
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かつて栄えたバーミヤンやシルクロードの古代都市を埋め尽くした風だ。「ヒトという種」の栄華も永遠ではない。宇宙すらも限界が来るだろう。ひとは自分が「何もの」であるかを解ろうとはしないのだろうか。自己の狭い視野で生きることを何度繰り返してもそれこそ「蟻の一歩」でもないだろう。宇宙から見れば、ひとつの小さな風ですら Afganetez になる。そして、ひとつの文明を消し去りもする。自己撞着して人生を無駄にはしたくない。少なくとも他人を惑わせてはならないだろう。スケールの小さな考えで、この世界を誤解していないだろうか。多寡だか、ひとつふたつのことでうまく凌いだとしてもそれだけのことではないか。謙虚な気持ちさえ持たない人が目に余るような気がしてならない。まだ死ぬまでに為すべき努力をすべきではないか。「個」とは、科学的事実として何かが、解明されようとしている。漸くここまで来ただろう。勿論これからという意味だ。自分の古い服を脱いでAfganetez に立ち向かう準備ができているだろうか。風はだれも待たないだろう。
2005.08.25
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中学の時から文学は好きだった。文学部に受験もしたが、当時も圧倒的な女性の受験生に言い知れぬものを感じた。やる気が失せる思いがした。其れは私の単なる偏見だろうと当時は思っていた。そして、いま、その想いが蘇えってきた。注目されるのは日本文学という何とも未来の見えない無邪気な幼児性であろうか。「失楽園」の著者の日経朝刊の新聞小説を読みながら、延々と続けられる男女の恋愛を読みながら底知れぬものを感じた。恐らく大勢の読者が毎朝読むのであろう。この強かな作家は、「明日」など見てはいない。刹那の営みがすべてであろう。綺麗であれば良いという思い上がりが文学を食いものにし、ひとの精魂を腐らせているだろうか。或いは元来日本の「精魂」などと言うものはないのかも知れないが・・・。「日本語」は、「日本文学」は、どうなるのだろうか。世界にその存在理由を認知されなければ、いずれ消えるだろう。世界はもう次代の「ことば」を探している。日本文学は、私小説のままで消滅する運命だろうか。無能な者たちに踏み躙られる、枯れ行く湿原に私たちは立っているだろうか。
2005.08.25
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2月に車を購入したので、デーラーから案内が来ており、電話して出掛けた。国道3号線沿いにあり、自宅から近いので利用している店だ。略1時間で点検は終わるというので、一緒に来た娘とショールームで待つことにした。薄い珈琲の接待があり、暫くデーラーの様子を見学できることになった。私は、ローンの焦付き債権を回収したことがあるので、デーラーがかなり無茶な売りつけをしているのではないかという印象を持っている。先日も日産のデーラーが、車庫証明を偽造したニュースが流れていたが、氷山の一角であろう。セールスは、ギリギリまで追い込まれている。どこでも同じと言えばそれまでだが、厳しさは本人たちでないと判らないだろう。ローン各社の償却債権にしても、多重債務者を増加させているだけで、放置したままだ。破産者製造機のようなシステムが罷り通っている。それにしても犯罪を野放しにして顧みないのは、この社会にやましさがあるからだろう。周囲のセールストークをそれとはなしに聞いていた。「もう自分とは関係ないのだ」と点検が終わり、セールスの人が深々と頭を下げ見送るのを見ながら・・・思った。懲りずに、英会話の勉強でもしようと思う。
2005.08.24
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人間の裸は適応的形質ではない。という本を読んでいた。考えるのは勝手だが目的が明確でない議論は疲れる。価値のある成果は先になるだろう。知識の独り占めは姑息だがこの社会も開かれた世界ではないだろう。学者がひ弱なのは肉体ばかりではないようだ。天狗になって何もしないのは自業自得だが・・・。それにしても、人間は、いつから毛のない薄い皮膚をもったのだろうか。それは、どんな意味があるだろうか。ダーウィン以後の研究も多くの疑問が残っているようだ。カネにならない生物学は、いつも後に回されるだけだろうか。人間の起源にしろ、二足歩行にしろ、まだ研究が足りないのではないだろうか。目先の利益だけ追いかけないで、スケールのでかい話が聞きたいと思う。
2005.08.24
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世界には、様々の風が吹き、色んな名前がある。その有名な風だけでも100を遙かに超えるだろう。日本では「おろし」「やませ」になる。「セガン」は、フロヴァンス地方の昼間の微風だ。「太陽を追いかける者」の意で、作物の惠みの風になる。フランスの南東部、ローヌ川の東、アルプス山麓から地中海のエリアに吹き、一度はその恩愛に満ちた「太陽を追う風」に触れたい誰しも思うであろう。何と隔絶された世界で、私たちはそれぞれが感じる風が違うことであろうか。そして、私たちは、世界でどんな風が吹き、ひとびとがどんなふうに生きているかを知っている。少なくとも知ろうとさえすれば、知ることができるだろう。目先のことのみに齷齪せず、生きようではないか。ケセラセラ・・・と。いつか、自分の心にも「セガン」を感じる時が来るだろう・・・と。
2005.08.24
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イー・チー・チー・ファンと読む。中国北部からモンゴルの大草原にかけて吹く北風。漸く、日暮れが早くなってきた。急ぎ足で季節は変わって行くだろう。狭い島国でぬくぬくと生活している私たちには、唯、他人事として、過酷な自然や日常は過ぎて行くだけだろうか。身に降りかかる自分のことしか関心のないことで良いだろうか。核戦争や環境破壊が齎す影響は、なってみなければ判らないだろうか。非力を憂うだけで良いだろうか。どうも何の為の教育を私たちは受けて来ただろうか、失望せざるを得ない。世の中は信頼できるシステムだろうか。私たちの努力は正しく報われるように進んでいるだろうか。どうも、そうではないのではないだろうか。大草原に吹く風は、太古の昔から少しも変わらないようにみえるが、いつか変わり、消えるだろう。私たちには、永遠の時はないのだ。できる時にできなければ、淘汰されるだろう。
2005.08.23
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古代字書「爾雅」の「釈天」では、東風は谷風、北風は涼風、西風は風泰という。すこやかな南風が「 Kai 」だ。言語は、因って起つ思想がある。日本語の「限界」があるだろう。もうその役割は終わろうとしているだろうか。勿論残すべきは残さねばならないが、この小さな島国に固執して生き延びることのみを考えている時ではないだろう。モンゴロイドは、多くの特質をもっている。或いは、その中に未来に繋がるものはないだろうか。現在国際社会は、白人社会が牛耳る偏頗な世界であり利益を独占しているために多くの国が苦しんでいる構図があるだろう。「大風」を起こさねばならない。
2005.08.23
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中村文則著「土の中の子供」が受賞した。評論家に評論は任せるとして、自分なりに感じたことはある。ひとは生まれてすぐに立ち上がることはできない。親がいなければならない。少なくとも育てられねば生きて行けない。ひとは、赤子が可愛いと思うように遺伝子で仕組まれているのだ。横浜の「タマちゃん」を観たことがある。皆可愛いと騒いでいたが、丸い顔の赤子のような形をみると素直に殆どのひとがそう思うのだ。人間社会で共通認識があるから、私たちは生きていけるのだろう。そして、複雑な日本語で書かれた小説を理解できる日本人がいて成立つ世界があるのだ。私は、中学生の頃から「文春」を読んでいる。芥川賞は記念樹のように思える。そして、この極めて内向きの文化は、いつか消える運命ではないか、という強迫観念みたいなものがある。日本語の文章は、何度もPCで「変換」しなければ正しく文意が伝わらない。こんな面倒な文化が、世界に通用するはずがない。その複雑さのゆえにいつまでも世界では「マイナー」のままだろう。「ことばの海」に溺れて、目標を見失うのだ。「井の中の蛙」になるのだ。人間は、他人の真似をして生きていてはならないだろう。勿論そうしなければならないとしても、歩き出す方向を考えるべきだろう。今朝は、昨日の朝ではないのだから・・・。
2005.08.23
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黄土の砂を運んでくる。ドイツ語では Gelbe Winde という。偏西風に乗って日本に毎年遣ってくる「黄砂」だ。誰をも寄せ付けようしない自然の圧倒的な Yellow Wind にひとは平伏するしかない。日本は「風の国」だ。四季の移ろいの中でいつも風を感じながら生きてきただろう。誰もみな、時として生きるのが苦しいだけの時もあるだろう。余りにも、挫折の中を生きてきただろうか・・・汚濁の海で。午後、香椎宮の「不老水」を汲みに行き、近くのイオンで中古の CDを数枚購入してきた。今、昔懐かしい Carpenters の Yesterday once more We've only jist begun Top Of The World Only Yesterday Please Mister Postman Sing A song for you を聴いている。カレンの天使の声が、こころに沁みるようだ。
2005.08.22
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社会が裕福になればなるほど構成員はいつまでも幼稚でいられる。国家が国民の世話を焼くだろう。ノーム・チョムスキーは「麻薬や犯罪、生活保護を受けている母子家庭、移民や外国人などに対する恐怖を煽れば煽るほど、すべての人をコントロールできるようになる。」という。子供らしく従順であれば褒美を貰えるが、不寛容で反社会的な成熟した行動に対して、「地獄」が用意されている。私たちがここまで極端に「ネオナニー」でなかったら、人間社会はどのようになっていただろうか。言えることは、65億人の繁栄はありえないということだ。例えば、他の霊長類が檻に閉じ込められてみられる光景が、ひとに於いても、その攻撃性のゆえに殺し合いを演じただろうか。アルファタイプという遺伝子をもつ勝者が、まだ世界で戦争を続けて殺戮を続けている。然し、私たちの種がさらに「ネオナニー」を続けることは、繁殖ができなくなるという重大で致命的な局面をむかえる時がくるだろう。遂に、ヒトがつくりだした最大の戦略は、それゆえに最大の脅威になろうとしている。それにしても、まだ「遊び足りない人々」が地上に溢れている。
2005.08.22
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ニコラス・ボーノフは著書の「Pink Samurai」で、日本人が鋼のような外観の下で如何に母親に執着しているかを論じている。土居健郎の「甘えの構造」も、子供のような依存心が日本人の心理の重要な構成要素だと言う。モンゴロイドが極端に幼児化された種であることや、高い同性愛の発生率だという指摘がある。其れは、何を意味しているだろうか。その起源を辿れば進化した環境であろうか。自我を棄てなければ生き残れなかった形成期がさせた業であろうか。戦後60年を経過した現在の日本の政治や経済にしても、その幼児化の特徴がみられないだろうか。靖国問題や政治の手法も政府家にしろ、世論にしろ如何にも幼稚な所業ではないだろうか。まして郵政民営化で総選挙をし、1000億円近く費用をつかう日本は、経済危機はどこにいったのだろうか。こんなことが、易々と罷り通る危うさがあるとしたら、今後も大いに先行きの不安を感じざるを得ない。モンゴロイドの幼児化という問題は、或いは「ヒトという種」にこれからの運命を左右する大きな課題になる予感がする。インターネットが普及して10年。情報の革新はひとの心も変えてゆくだろう。「ネットの浸透は産業革命に匹敵する衝撃」と早大の野口悠紀雄教授のことばが今朝の日経にあった。知識の価値を人類に問う新文明の黎明期が静かに始まろうとしているだろう。
2005.08.22
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その社交的で、独創的で、柔軟性に富んだ行動をするが、繁殖衝動は発達させていない。何十万年もかけてつくりあげたヒトの幼児化は、メスの選択が生み出した形質だ。メスが求める最も優れた特質をもつ彼らには、然し、「何か」が欠如している。「安泰」と「安らぎ」さえもたらしているのに、常に僅かな不安が付き纏っている。それでも、もし、この1%の女と3%の男を圧殺しようものなら、人類は非常な危険な事態になるだろう。そして、破滅することにさえなりかねない。ひとの成熟への後戻りは、「戦争」と「破壊」を造成することだからだ。この貴重な存在は、からくも人類の安全弁であるが、彼らには、彼らの特質を明日に残すことができない。彼らには今しかないないだろう。
2005.08.21
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少し霧がかかって来ると Waimeo と呼ばれる。マイナス・イオンで人びとを癒す海風になる。「ハワイアン・ウィンド」だ。こころに風をもつひとは風を敏感に感じるだろう。地上には様々の風が吹いているがそれを感じない時があるかも知れない。それは、自分が移動を止めているのだろう。ひとは移動して、死ぬように仕組まれている動物なのだ。移動しないのは、死に逝くときだろう。移動しなければ腐敗もする。こころにいつも風をもたねばならない。この世界の色んな風を私たちは知らなければならないだろう。ニコラス・ボーノフは日本の小児性愛を「国の傾向と言っていもいいほど広く普及した奇行」と断言している。「乾いた風」になれなければならないだろう。虚栄と無知を剥ぎ取らねばならない。もっていくものはなにもないのだから・・・。
2005.08.21
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「偏形樹をつくる風」が吹く世界有数の難所だ。そこでは、濃霧と強風で木々は、見馴れたれた風景ではない。地上には風土に恵まれた土地だけではないだろう。然しひとは、風土でだけ生きているのではない。たとえば日本に於けるこの戦後60年は何だったのだろうか、と考えると見渡せば、「偏形したひとの姿」しかみえない気がする。必ずしも順風が吹くだけではない「進化」を遂げたヒトであれば、それは、ありきたりのプロセスでしかないだろう。寧ろ逆境がひとを育てるかも知れない。生きる知恵をもたないエリートは、地上高くあるかも知れないが、「偏形樹をつくる風」に倒壊するだろう。他人の評論は誰にでもできるだろう。然し、問われるのは、「理論」「存在理由」だ。リスクに耐えてこそ価値があるのだ。世界に通用する人材は、ながい孤独に耐えてきたものでしか得られないのかも知れない。線香花火でしかないエリートを束にしても明日を占うことは出来はしないのだ。他人の尻を追いかけるよりも、汝自身を知れだ。如何に往くべきか、を。
2005.08.21
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行動の柔軟性は若者の極めて大きな特質だろう。そして年をとることは成熟と伴に新しい行動パターンを受け入れ難くするだろう。即ち本質的にこうした柔軟性は若い動物が環境に適応する為のなくてはならないものだ。コピーはあらゆる複雑な行動を習得するために不可欠でもある。ロールプレイングも同じだろう。そして、現代は「遊びこころ」があらたな価値を生むかも知れない。ヒトの幼児化は、複雑系に生まれた現象であろう。未来を定めない戦略は、ヒトをぼろぼろにするかも知れない危険な選択だが、敢えて選択した賭けであろう。この道を辿らねば明日をみることはできないとしたら、この道を行くしかないだろう。どうしようもない形質を抱えているのだ。同性愛だろうと何であろうと先に辿り着くものが「ニッチ」を得るのだ。
2005.08.20
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精神科医F・ビダルは「最も情熱的な恋人は、母親が子供を見るような目で愛する人をみるのを決してやめない」と言う。幼児化とメス依存という感情的には未熟な特徴を多く残しているオスは、「セイレーンの網」に一溜りもなくかかるようなものだろう。そして、支配的で成熟した外見の男性よりも、慈しみの反応を誘発させる男性ほど女性は魅力を感じるのだ。攻撃的で支配的な行為は、この社会では破綻を招きかねないリスクを持っており、テストステロンを多く持つ男性は離婚の確率が高いのだ。概して質の低い結婚生活に陥る可能性が高いと言う。賢い女性は、どちらを選択するだろうか。最近離婚率が急増しているところをみると、他に何かがあるだろうか。一時の迷いの為に、人生を無駄にしているひとが多いのは、昔も今も、少しも変わらないように思えるのは、何故だろうか。それだけ、訳の分からない男女が多いだけだろうか。今何故「母性」を考えねばならないか、自分でも判らないがことは成行きだろうか。どうやら、私も「セイレーンの網」にかかり白骨にされたようだ。
2005.08.20
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自然界の中で、母と子は最も強く結合している。別れているかぎり、ふたつの半身は永遠に不幸なままだろう。そして赤ん坊の愛着は食料供給に基づくものばかりではない。母親の声や匂いや身体や、喜びや温かさ安らぎが必要なのだ。「絆の形成は恋に落ちるようなものであり、絆の維持は誰かを愛するようだ」と精神分析学者のジョン・ボウルビーはいう。母親に対する赤ん坊の欲求は、「甘え」だろうか。「誰かの愛に依存し、つけこむこと」を意味しているだろうか。子供の初期の愛着パターンは成人しても影響を与えるだろう。カップルがふける母子ごっこはまさにそれだろう。ヒトに最も近い種にもみられるという。それは、私たちの祖先を「幼児化」させた進化のメカニズムとどう係わるのだろうか。これから、「18切符」で四国旅行をしていた娘の迎えに近くの駅まで行かなければならないので・・・。珍しく雨が降っているようだ。
2005.08.20
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そう思いながらも別離を惜しむ気持ちはひとの形質だろうか。「個」を科学的事実として捉えようとしているサイエンスは、ひとにそのあるべき方向を問うているだろう。ステージは、一度しかない。然し「ヘイフリックの限界」がひとを捻じ伏せるのではない。誰にも無駄な時間はないだけだ。何も慌てることではないが、ある時期理解しようとしなければひとの「存在理由」は一生判らないままだ。判らないひとが無駄にエネルギーを消費するのは切ないが、周りの人たちを巻き込むのはそれ以上に悲惨でもあろう。もともと細胞は分裂して新しい生命を生み出しているのだから、別離しながら生きていると言えるかも知れない。庭のぺチュ二アが、漸く枯れだしているのは寂しいが、残りの花がまた一段と美しいさが際立つようにみえる。
2005.08.19
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世界では色んな風の名前がある。風土により吹く風は違う。そして、日本では四季により違うものにもなるし、個人のその時々の感情でも違う感じになるだろう。漸く朝の風が爽快になってきた。なんと他愛もないことだろうか。唯それだけで元気が出たりするのだから・・・。どうも、私たちは、同じことを繰り返しているだけだろうか。余り違いのない環境で暮らしており、暑いとか寒いとか、気持ちが良いとか、悪いとか、カネがあるとかないとか。それだけで一喜一憂している。小泉流に烏合しているのが安全だと信じてさえいるだろう。そして、いずれ1年先になれば、小泉流は、霧散しているのだ。また違う風が吹くだろう。サーフィンのように波乗りの上手いひとが先読みできるひとであるかは定かでない。他人の真似をしているだけかも知れないのだから・・・。地域や風土で民族性も違うかも知れない。とすれば、風もひとを変えるかも知れない。どうも「気紛れな風」に惑わされるのが凡人の由縁かも・・・などと思う。
2005.08.19
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ひとりの人間が、The 21st century に生きている。初老の凡人だが、65億人の同種が地上に存在する。彼は、自分のことも自分以外のことも殆ど知らないし、狭い世界で生きているだけだ。然し、少なくともあらゆるメディアを活用さえすれば、知ることがかなりできるかも知れないと思っている。例えば、1990年のボイジャー1号が太陽系を飛び出す時に振り返った太陽系の写真とか、月面とか、ショモ・ランマとか、南極とかの極地のこととかを TV や本で見てきたし、どこに行けば知りたい情報があるかを知っているし、分からなければ調べることもできるだろう。それこそ一時代前のように、時間と労力を費やすこともない。彼が凡人だとしても多くの情報を得られるだろう。彼の娘が、四国旅行して昨夜松山に宿泊したが、ネットで娘がどんなホテルにいるかを知っているし知ることができるだろう。自分が行ったこともない世界を知ることができる時代だ。そして、それが何だろうかと考えている。The 21st century に生きている人間とは、そも何を問うべきなのか。それは、どのような意味があるだろうか。それとも意味がないだろうか。ヒトが知り得たことは、まだ宇宙の一端でしかない。ひとりでは何もできはしない。にも拘わらず、宇宙の歴史とヒトの進化が知りたいと思うのは、何故だろうか。それは、勿論明日が知りたいからだが・・・。遺伝子だろうか。ため息がでる。それにしても、クローンのような博士では駄目だろう。然し、いずれ逸材が為し遂げるだろう。点からラインの構築を・・・。そして、動き出すだろう。未来へのたびへ・・・。
2005.08.19
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「幼児化するヒト」を読んでいる。一夫多妻とか、ヒトの本質は何だろうか。言えることは、いつでも「ヒト」は消えるだろうということだ。危うさは「核」だけではないだろう。生命の多様性と引き換えにして犠牲になるものは莫大だ。これからも地上に生息する65億人の運命は、穏やかではない。Clive Bromhall は,惜しいことに研究者ではない。分析はできてもインテグレートができていない。この種の研究が欲しい。雑用を粉しながら読んでいたら変に混乱してしまった。もう少し整理しないとよく判らない本だ。朝顔や夕方の無残哉。だが、まだ明日の朝がある。いつか、種を残して枯れるだろう。そして、誰かがまた種を蒔くだろう。珍しい夕立があり、何かほっとした気分になったが、また暑くなっている。
2005.08.18
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体調が良くない方が脳が冴えるかも知れないなどと思ったりしている。多分違うだろうが・・・。「腐りかけた林檎」が旨いとよく母が言っていた。ひとも見かけではないかも知れない。汚い親父が素晴らしいなどと言っても誰も本当だと思いはしないだろう。花を育てていると、一番良い太陽に近いところで咲こうとしているのに感心する。こうであらねばならいと感動すら覚えてくる。向日葵は、典型だろう。日のあたる場所で仕事をしているひとは、能力を発揮して、人生を謳歌すれば良いだろう。然し、カスかも知れない。何故、ひとの最も大事な処は、淫靡なのだろうか。ひとの生命の神秘は、神秘のままにしておくべきだろうか。病気と健康と、若者と老人と、美醜と、生と死と対比すべきだろうか。「腐りかけた林檎」も価値があると思えば価値があるだろう。観る目のあるひとが観えるに違いない。知ろうとしなければいつまでも見えない明日があるだろう。病気も、苦役も明日に至る隘路かも知れないと思うと愉快に思えてくる。
2005.08.18
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何を考えるかは、本人次第だが加齢とともに確かに視野は狭くなる。身体も柔軟ではなくなってくる。勿論例外もある。時々そんな超人を見かけるが、見かけばかりが多いだろう。自由なひとは自由であるが、案外萎縮してしまうようだ。できれば、宇宙のことでも真剣に勉強していれば良いかも知れない。私たちの社会は、人間が増え過ぎているだろうか。昔は、定期的な戦争があり、その度に大勢の戦死者がいた。勿論戦争を軽く見ているのではないし、肯定するつもりはない。世界ではあちこちで戦争がおこっており現在も相変わらず殺し合いもあるが・・・。それでも、ひとは「平和」をどう生きるべきかを学んでいないようだ。国家も、個人にしても「捩れた歴史」をもっており、自分たちのよって立つ「宇宙」を理解してはいない。人類は、もともと成熟を求めない戦略で生き残りをはかって来た生物ではないだろうか。とすれば、この世に「理想社会」を求めることは見果ぬ夢なのだろう。それでも、よりよく生きる努力を・・・「考えること」が必要だろうと思う。
2005.08.18
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ひとは狭い世界にいながら、何と考える愉しみがあるのは素晴らしい。どこにいようと他人に拘束されない自由がある。然し、自分でそう思っているだけかも知れないが・・・。それでも、神に似せて創られたという人間が「ネオテニー」だとか、「誤ってできた」だとか。まるで出来損ないの動物のようだ。成る程、思い当たることも多いので寧ろ面白いと思うのは、私が「ネオテニー」だからであろう。指摘される特徴が私の性格のようでもあるからだ。家畜犬にしても、オオカミのまるで幼形成熟だという。愛犬家が多い訳だ。なぜ女性が「赤ちゃんのような男」が好きなのかもわかる気がする。いつか、真夏も過ぎて行くだろう。少し朝晩が涼しくなったようだ。私は、すべてをリセットできたかはわからないが、兎に角やり直しのつもりでいる。勿論解放されている訳ではない。この社会で生きていくのを止める積もりもない。秋がそこまで来ており、夜空の向こうには素敵な明日は待たないが紅葉くらいは見られるだろう。それこそ、「考える」には何とゆたかな世界だろうか。
2005.08.17
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奇妙な進化プロセス「ネオテニー」を続けているヒトは、オトナになり損ねたのだろうか。毛のない薄い皮膚の肉体はまるで無防備のままだ。捕食者がいれば他愛もなく食われたことだろう。ヒトは成人のゴリラになることをやめたのは、最良の選択だったのだろうか。五感も以後進化してはいない。それらの退化も進化であろうが、ヒトは誰と闘おうとしたのであろうか。姿のないライバルがいただろうか。裸のヒトは、驚くほど攻撃性に乏しい生物であろう。ヒトは、かって私たちの種に起こった大きな変化に付随して出現したに過ぎないという。それは、自然淘汰の由縁ではないのだ。私たちは、恐らく間違った視点で「ヒト」を捉えていたのではないだろうか。それが既成概念だすれば、原生林に足を踏み入れかけたかも・・・。悪い癖がでて嵌りかけている。運動不足で体重が増えそうだ。
2005.08.17
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Clive Rromhall著"The Eternal Child" 「幼児化するヒト」で、「ネオナニー」(幼形成熟)が出ている。ペドモルフォシス(幼形進化)の一部で、「動物が体の発達の遅滞によって幼形を保ったまま成体になって性的成熟に達する現象」とされる。ことにモンゴロイドは、その要素が強いと言う。霊長類の幼少期の特徴をとても多く備えており、オトナになっても保持しているという。ヒトは、毛のない皮膚と幼児的な性質の状態で生きる戦略を構築しているだろうか。それは成功だったのか。私たちのもつ遊び好きな資質は、ネオナニーに基づくものであろうか。進化の過程で幼児化するというミラクルを遣ってのけた生物なのであろうか。思えば、ダーウィン・モーツァルト・アインシュタインにしたところが如実のその特徴をもっているだろう。今日のヒトの体の特質は、あらゆる面で捕食者には狙われやすいであろう。にも拘らず何故生き残れたのか?人間の幼児化の歴史と進化との係わりは、興味深い。然しこの極端な幼児化のシナリオには、指摘のように子供をもとうとする衝動が消滅して行くであろうという最大の課題があるだろう。幼児タイプの典型は、何にでも興味をもつことだろう。そして、いつまでも遊んでいたいのだ。気紛れで新しい物好きで、しかも反抗的でもある。
2005.08.17
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110億円を支払い2日間の宇宙旅行をする企画があるという。自分の眼で地球を眺めたいひとがいる為だろう。自分でなければならないのだろうか。Pale blue dot.で、1990年ボイジャー1号が撮った太陽系の写真が照会されているが、「dot 地球」もある。それだけでも人間は自分の存在を知ることができただろう。何故斯くも人間は利己的なのだろうか。態々、無理して留学したりするのもマイナス思考だろう。最小の投資で最大の効果を生む知恵を持つべきだ。この社会が堕落しているのは、そこに棲むものの形質がそうさせているだろう。ヒトは「ヘイフリックの限界」に制約されているのだ。そこで何ができるだろうか。あるものを遣うことでヒトは進化したではないか。今ある私たちの社会は、未来を創る「原始のスープ」でもあるだろう。ここにあるすべての素材を活かさねばならない。日本人が日本を棄てなければならない時がくるだろうか・・・。
2005.08.16
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他人の踏んだ道を歩くひとは、遂に人生の道に迷うだろう。誰も知らない隘路を切り開かねば、新天地は得られないだろう。21世紀は未知の世界に満ちている。それさえ理解できないでどこに行こうというのか?何故ひとりで歩こうとしないのだろうか。自分はひとりしかいないのに。安易に慣れた意識や既成概念では、いつまでも進化はない。自然の摂理を学ぶべきだと思う。自分の課題を見つけて隘路を行くべきだろう。仕組まれた罠にひとびとは他愛もなく囚われてもいるだろう。安寧のためにと実しやかに法社会は言うだろう。戦後60年を経由して、私たち中高年には、過酷な暮らしが待っているだろう。豊かさを求めて来たのに、いま、若者たちのこころの荒廃と、老人の悲しい目だけがある。私たちに残された道は、平穏で快適な日常ではない。ただひとは、豊かさを求めるあまり、地球の自然を破壊して、生物の絶滅さえ招きかねない事態になろうとしている。このままでは、ひとは、いずれ破滅するだろう。こころあるひとは、この事実を理解をすべきだし、敷かれたレールを行くべきではない。ひとは、誰も知らない隘路を切り開き、新しい自分の人生を歩き始めなければならないだろう。
2005.08.16
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内弁慶の日本と首相が、戦後60年になってもいる。もう取り残された親たちは、わが子さえ忘れたかのように豊かさを求めてきた。愛のない生活に慣れた子どもたちは、他人を成人しても、正しく愛することができなくなっている。日本は、独り善がりでは生きては行けない。「悪いのは先方だ」というだけでは、どこの国家からも嫌われるだけだろう。狭い視野と観念に固執してはこの世界の Cool に生き残れない。国家として、個人として、何が、Cool なのかを問いつづけなければならない。真っ盛りの酷暑の中で、セミの声さえ、日本という島国の未来と個々人の在り様を警告しているようだ。私が、いま実感していることは、多くのひとの現実でもあるだろう。豊かさを追い求めてきたのは、このように老人の悲哀だけだったのだろうか。この社会に蔓延る利己的な価値観が、生甲斐なのだろうか。 Cool であろうとする社会が、多くの病人や、弱者を斬り棄てようとしているのだろうか。時はひとを待たないだろう。これから何があるだろうか。これからどこへ向かうだろうか。悪政の雨に濡れながら市井のひとりとして見極める人生もある。「ヘイフリックの限界」とともに・・・。
2005.08.16
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・・・作成方法のセミナーに参加した。改めて自分のサラリーマンとしての能力が問われそうだ。「商品として如何に売り込むかですよ。」と若い女性の再就職プランナーが、物知り顔でアドバイスしていた。セミナーが終わりアンケートを求められたので、「判り易い話でした。大変参考になりました。」と回答してきた。お盆の所為か不参加が過半数あったようだ。別にお盆を気にしてなどいないが・・・。成る程、駐車場も空空だった。職務経歴も思えば大したことをしてきた訳でもなく、誰でもできることだろうから特段に記すこともないのだが・・・。肉体労働に自信があれば、何でも遣る気持ちはあるのだが、まあそうもいかないのだから、謙虚に遣るしかない。納まるところにおさまるまで、暫くは走らなければならないだろう。「仕事がないのは首がないのと同じだ。」というのを聞いたことがある。ある意味でそれは言えるだろう。「働かざるもの・・・・。」まだまだ、酷暑は続くだろう。
2005.08.15
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テレビで遣っていた。鮎料理もあり、懐かしいので遂観てしまった。何か川の匂いが蘇える。人吉は何度も行ったことがあるが、一番の思い出は相良藩元家老の子孫を嫁にもらったいうひとの実家にお供したとき、鰻が好物だったその家の家老が食べていたと言う料理をご馳走になったことがあり、鰻料理を食べたことだ。私的には、空前絶後の鰻料理を戴いた。三の膳が出た。蒲焼も半端ではなく、鰻重も普通はご飯の上に鰻が乗っているだけだが、重箱のご飯の下にも鰻が見えたときは感動するより吐き気がした。二重重ねてあり、胸焼けしそうな鰻尽くめであった。到底今なら高カロリーで砂糖漬けのようなあれはひとの食べ物かと思わせるようなものであるが、当時は未だ若かかったので勢いでかなり食べたと思うが、完食できなかった。よくもこんなものを食べていたものだと「タマがった。」(驚いた。熊本弁)どんな家老だったのだろうか。昔は、大した食べ物もなかったであろうが、凄い贅沢もしたであろう。球磨川は、清流で水量も豊かで緑の中にあり、鮎釣りもできる川で何時までも残して欲しい河川だ。よく菊池川で川釣りをしたし、落ち鮎を追いかけたこともあるが、もう菊池川は昔の水量はない。一級河川が泣くだろう。五家荘から流れてくる支流の川辺川等の豊かな水量が球磨川を今も鮎たちを育んでいるだろう。お盆で帰省客も球磨川に癒されていることだろう。
2005.08.15
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