全28件 (28件中 1-28件目)
1
昨日は、引っ越しの荷物を目いっぱいに詰め込んで、湯沢を発ち秋田に寄って小三治師匠を聴いた。よくぞ呼んでくれたものだ。師匠も言っていたが、秋田は10年以上ぶりだとか。演目は次のとおり。 柳家ろべえ 子ほめ柳家小三治 一眼国柳家小三治 野ざらし やっぱり、枕が最高だった。ご自分のご両親の出身県の宮城と秋田についてのうんちくは抜群で、やはり教養がにじみ出る。「帰りに、受付で香典受け付けてますんで、その気のある方はよろしく」だそうで、なんとなく談志師匠のことを師匠なりに語ってくれたのだと私は思った。そう、言ってながら、舞台での姿は矍鑠としていてうれしかった。穏やかだが、的を得た枕は、それだけで至高の芸だ。ありがとうございました。
2012.03.31
コメント(0)
さあ、今日は湯沢最後の日である。物理的には十分に積み込める予定だった荷物だったが、いざやってみると、なかなか大変。隣の部屋やそここらでも、やはり人数で引っ越し作業をしている。私の場合、後任の人に、冷蔵庫やら大きいものは残していくので、一人で運べないほどの重たい荷物は無いのだが、それでも一人で頑張るのは大変だった。それでも、なんとかクルマに詰め込み、部屋の掃除も一応済ませた。 住むところが二つあるというのは、楽しいこともあるが、それなりから大変だった。明日、朝起きて、あぁ、もう、あの170キロ以上を走らなくてもいいのだと思うと、きっとほっとすることだろう。これまで、家から職場に通えるということが当たり前だったが、今日からは、それに感謝して、ちょっと家の整理をやっていきたい。 それでも、現実はなかなか大変で、嵐模様の今、荷物はクルマに積みっぱなしだ。明日からの土日で、テレビやビデオのセットとか、荷物の整理とか、やたらいろいろやることがある。ゆっくり、やろうと思うが、ちょっと慣れると、今の真摯な気持ちも忘れてしまうのかも知れないのだが、今回ばかりは、ちゃんとしたい。 今度湯沢に行くのはいつになるのか。おちょこちょいの私のことだから、案外、すぐなのかもしれない。とにかく、サヨナラ、湯沢。
2012.03.30
コメント(0)
さて、いよいよ明日で湯沢での生活も終わりだ。昨日は最後の「としとランド」で入浴。今度はいつ来られるかわからないので、サウナ檀家の皆さんに挨拶でもしたかったのだが。昼も、一番よく通ったラーメン店へ。 そして、今日は押し迫りに迫った送別会だった。明日は寮を引き払うことになるので、帰ってから、あまり使わなかった風呂を掃除したが、他の引っ越し作業が間に合うかどうか心配だ。 考えてみれば、あと、4年の公務員生活なので、二度と湯沢や県南に暮らすことはないだろう。そう思うと、去りがたい気になってしまうが、いや、いい経験をさせてもらった。
2012.03.29
コメント(0)
思えば、湯沢市に住むことになったのは異動が内示された、昨年の3月9日だった。まぁ、1年ぐらいなら、我慢しよう、家に一人残ることになる母も、大丈夫だろうと、たかをくくっていた。ところが、3月11日の大震災があり、単身赴任することに対する不安が倍増することになった。母には、妹から緊急事態用の懐中電灯やら、ラジオなどが届き、孫からはワンセグテレビなども揃えられた。昨日も大きいな余震があったものの、被害や停電は起きていない。 で、4月からは家のすぐ近くの職場に異動がきまったので、本当に良かった。なにしろ母を含めた我が家族4人は、全員が独身、全員がカマド別という状態だったので、実家に帰省する子供たちを迎えるのもままならなかった。それで、今は一番忙しいワケで、3日間で湯沢と鷹巣の往復350キロを2回走って、引継ぎやら、少しずつの引っ越しを敢行。そして、昨日は送別会で、明日も最後の送別会がある。たまらなく忙しい湯沢生活最終週であり、明日の書き込みも、ちょっと無理かもしれない。
2012.03.28
コメント(0)
25日にあった、この寄席も今回の10回目で一応の終わりとなる。ちょうど私が県南に住み県北の実家に帰るという生活をしていた1年間だったので、すべて皆勤賞だった。秋田に住んでいて毎月落語が聴けるとは思いもよらなかった。もう、お礼の言葉しかない。今後は、不定期で続けていただけるとのことなので、皆勤賞を続けたいと思う。 今回は二度目の秋田住みます芸人桂三若。この直前に吉本住みます芸人グランプリに輝き、勢いがある。少なくとも、もう一年は秋田に残ってくれるとのこと。また、行きます。演目は次のとおり。桂 三若 生まれ変わり(創作)桂 三若 天災(古典)桂 三若 ゴルフ夜明け前(創作)師匠の三枝作のゴルフ夜明け前の熱演は、良かった。それにしても、異動による引っ越し準備の最中に、連日の落語である、大丈夫か?
2012.03.26
コメント(0)
24日(土曜日)は、待望の独演会。何度も言うが、立川志らく師匠を2000円で観られるというのは奇跡である。席亭のHさんには、感謝の言葉しかない。演目は次のとおり。立川らく次 黄金の大黒立川志らく 転失気立川志らく 死神立川志らく 紺屋高尾 志らく師匠の噺が聴けるのなら、もうそれだけで大満足なのだが、どの噺も志らく風に脚色されているのだからうれしい。それにしても、最初の枕が、もう、抜群だった。ここに内容を書いても伝わらないと思うが、師匠のシニカルな観察眼には恐れ入る。オセロ中島の話題については、そのとおりと拍手喝采だし、なにしろ談志師匠のモノマネが最高だ。また、来てください、師匠、また、呼んでくださいHさん。
2012.03.25
コメント(0)
中学の通学で、さらに辛かっただろうと思われるのが、持ち物だ。小学校の5、6年生の時には、給食があって、あのスキムミルクも存分に味わったが、中学では無かった。だから、持ち物に弁当が加わる。それと、体育のある日は、着替えのジャージを持っていかなくてはならないわけで、これが大荷物で大変なワケだ。例の学生カバンに教科書と弁当を詰め込み、パンパンにして持ち歩く。ジャージは、当時流行だったナップザックに詰めて肩に背負い込む。部活をしていれば、このナップザックは、もう毎日のこと。冬は、ナップザックはともかく、カバンを持つ手が凍える。左右に持ち帰るのだが、いや、辛かった。と、今は思い返すのだが、あまり前のことなので、本当に辛かったのかさえ、定かな記憶が無い。 当時は、ペチャンコにすることさえ無かった学生カバンだったし、リュックといえば遠足の小学生の定番で、おしゃれなリュックという発想さえなかった。高校の時には、一時マジソンスクェアバッグが流行ったことがあったような気もするが、やはり定番は学生カバンとナップザックだった。
2012.03.23
コメント(0)
入学するはずだった夕張市立東山中学校は、やたらに山の上にあった。ここに通っても苦労したのだろうが、父の転勤で幌南中学校へ入学することになった。ここが、また、遠かった。片道4キロはあったろうか。自転車通学は禁止だったので歩くしかなかった。バスも走ってはいたが、誰も利用する人はいなかった。だから、30分以上歩いて、雨の日も風の日も雪の日も通った。部活の後で暗くなった時も、テストで早上がりの時も、とにかく歩いた。暑かろうが寒かろうが、歩くしかなかった。途中に同級生のHくんの店が有り、そこで立ち読みをするのが、唯一の楽しみだった。 今だったら考えられない。クルマも無かった時代だから、それが当たり前だった。親になってみて、思うのだが、私を含めて、なんと堕落したものか。ほんの少しの距離でも、クルマで送り迎え。雨が降ったといえば送り迎え。なんだか、このへんに、日本人が軟弱になってしまった理由があるような気がしてならない。
2012.03.22
コメント(0)
中学の時の同級生のたくみさんからコメントをいただいた。まさか、読んでいただけてるとは。そう、「夜のイソギンチャク」とか、「なんとかクラゲ」とかだった。ああ、懐かしい。と言ってもポスターでしか見ていないのだが。ということで、あの頃の通学について思い出してみよう。 小学校の頃は、地区ごとにやたらに学校があったので、さほどの通学距離ではなかった。その頃は、まだ馬車が普通に走っていたし、クルマも少なかったので、集団登校という考えもなく、親もほとんどほったらかし状態だった。それで、何の事故も無く問題も無く平和だった、と思うのだが。学校が終われば、もう、暗くなって腹が減るまで徹底的に遊んでいた。私も、ランドセルを学校に置き忘れてしまったほど遊びに夢中だった。 やがて、中学校になると、これは校数が少ないので、ちょっと通学距離が長くなった。中学の中には、なぜこんな高いところに建てたのかと思うような(例えば東山、北陵)ところも有り、これは足腰が鍛えられざるえない通学だった。
2012.03.21
コメント(0)
3月24日土曜日、大館市民文化会館中ホールで立川志らく独演会がある。これがなんと、たったの2000円で観られるのだ。志らく師匠は、談志亡き後、私のもっとも聴きたい噺家だ。たとえ、席料が3倍でも行く。その独演会が、地元大館でたったの2000円で観られるのだ。これが、いかに凄いことかというと、師匠の独演会は首都圏でも即日ソールドアウトで、なかなか観られない。ここは、東北の隣県からも来て欲しいものだ。 こんな奇跡的な落語会ができたのは、一重に席亭のHさんの力だろうが、なんとも、今でも信じられない。多くの方に来てほしいのだが、いかんせん、このブログなんかで呼びかけても、さしたる足しにはならないだろうが。 立川四天王の中でも、ひときわ異彩を放ち、師匠譲りの反骨というか、プライドの高さが、私は好きでたまらない。どうか、これを読んでいる方で、興味のある方、損はさせません、来てください!
2012.03.20
コメント(0)
昔は、電話が無かった。といっても携帯電話のはなしではなく、家の電話が無かった。私の家でも、昭和53年までは電話が無く、大学時代も近所の電話のある家にかけて呼び出してもらわないとだめだった。本当に信じられない時代だったが、それが当たり前だったので、ことさら不便とは感じなかった。親に聞かれたくない電話をするにも、相手にも電話が無い。そんな時代だった。だから、公衆電話は貴重な存在だった。10円玉をいっぱい持って、電話ボックスに入ったことが何度もあった。100円電話が出来た時には、なんて便利なものだろうと感動したものだった。テレホンカードにいたっては、もう、ノーベル賞ものの発明だと思ったが、ケータイによって、あっという間に無くなってしまった。というより、公衆電話も電話ボックスも今では見かけることもなくなった。もちろん、これは夕張だけのことではないが、とくに夕張では住宅地ごと無くなっているので、お世話になった懐かしい電話ボックスが、どこにあったのかさえわからないのだ。時代が変わったのだということだろうが、今の携帯電話全盛時代が異常なのかもしれないと思ったりもする。
2012.03.19
コメント(0)
夕張の炭鉱住宅に家風呂が無く、会社の銭湯が整備されていたことは、実は今もかなり行政上の問題になっている。さすがに、今建て替えられた住宅には家風呂があるが、旧炭鉱住宅にはそれが無いのだ。今残っていて人が住んでいる炭鉱住宅というのは、地理的に便利な場所にあるから残っていて人が住んでいるのだが、なにしろ家風呂が無い。だから、市営の銭湯が今でも残っており、この経営がなかなか大変だ。これについてはブログ「あの頃の夕張を求めて」http://tabigeinintomato.blog.fc2.com/に詳しい。夕張の大先輩のこのブログは力作で頭が下がる。今後リンクさせていただきたいと思っている。 私が入浴していた北炭経営の無料銭湯は4か所だけだ。旭台というところは、今は道も無くなり、行くこともできない。取り壊していなくとも崩壊しているはずだ。福住の上の風呂は、4年前、建物だけは放置されているのをターちゃんと二人で確認したが、今年の大雪でどうなっていることやら。福住の下の風呂と清水沢住ノ江町の風呂は、もう、まったく跡形もない。当たり前のことだが残念でならない。 今はサウナ好きの私だが、銭湯も大好きで、どうもこのルーツは夕張の銭湯にあるような気がしてしょうがない。
2012.03.18
コメント(0)
女房が逝ってから、丸10年がたったが、その間、我が家には大きな不幸もなく過ごせたのは女房のおかげだと、私は思うことにしている。居間や台所には10年前のままのところがほとんどで、これを機会にちょっと整理してみようと思う。単身赴任生活をしていて気付かされたのだが、やはり捨てることが整理整頓のキモだと思う。帰ってきた子供たちも、自分の部屋のモノの捨て方は半端ではなく、見習わなければならない。 今の赴任先湯沢から実家までは180キロ弱あるので、実家のことはほとんどできなかった。どうやら、来年度からは実家から通えそうなところに異動できそうなので、もう少し家のことを頑張ってみようと思う。
2012.03.17
コメント(0)
女房が死んでから、丸10年になった。特別に呼んだわけでもなかったが、青森在住の息子と千葉在住の娘が帰ってきた。せっかくなので、今日は墓参りの後、母と義理の父母と6人で、地元の寿司屋で昼食を。ところが、これが大ヒンシュクで、どうにも申し訳なかった。回らない寿司屋との相性は最悪らしい。 夜は名誉挽回のために、息子と娘と3人で焼肉屋へ出向いたが、休みで、しかたなく初めての居酒屋に行ったところ、これが案外旨かった。ジンギスカンやホルモンなんかも、値段の割には合格点で、一同満足。そして、誘われるままにその2階にあるカラオケボックスへ。二人とも、ヘタではないし、気持ちよく歌っていたが、選曲にはちょっと驚いた。「岬めぐり」、「恋におちて」、「オリビアを聴きながら」など、奴らが昭和のナンバーを歌うのだ。なんだか、うれしくなって、私も吉田拓郎の「流星」なんかを歌ってしまった。 いや、これは家族の新しい楽しみを発見し楽しかった。
2012.03.16
コメント(0)
小学校の頃、福住1区にあった銭湯には映画のポスターが貼ってあった。近くの夕張会館は大映の封切り館で、「座頭市」、「忍びの者」なんかに混じって、「兵隊やくざ」、「眠狂四郎」なんかは、かなりエロチックなものもあった。だが、なんといっても刺激的だったのが「渥美マリ」主演の一連のお色気路線だった。小学生でも、あのポスターはうれしかったのを覚えている。銭湯には、基本的に炭鉱で働くお父さんたちは来ないので、いきおい子供たちの天下となる。中学校の時の住ノ江町の職員住宅銭湯では番台が無かった。だから、もう、脱衣場は私たちのプロレス会場と化し、時には本気の喧嘩になったりもした。 真冬の風呂帰りに、タオルの端を持って数回振り回すと、そのまま1本の棒に凍り固まるり、剣のようになるという楽しみは、あの頃子供だった私たちしか知らない遊びだろう。
2012.03.15
コメント(1)
夕張の炭鉱住宅には家風呂が無かった。私の場合、高校生になり役宅(役職職員住宅)に引っ越した時に初めて家風呂というものがあった。もっとも、この家風呂も、石炭の風呂釜で沸かすので、とくに冬は信じられないくらいの時間がかかり、最初だけで後には誰も入ろうとしなかった。だいたい、昭和40年代には家風呂は少なく銭湯が主流だった。だから、当時の夕張の炭鉱住宅のほとんどすべてが家風呂無しで銭湯に入浴していた。この銭湯というのも、会社が無料で炭住ごとに用意していた。燃料はもちろん石炭なので、ちょっと過剰なぐらいの無料銭湯が存在した。だから、その日の気分によって、今日は上の風呂に行こう、だとか、ちょっと気になる女の子が入っているはずの風呂まで何かを期待して遠征したりとか、それはそれで面白かった。炭鉱で働くお父さんたちは、職場に大きな風呂があり、この銭湯にはめったに入ることはない。だから、炭住にある銭湯は女子供専用ということで、入浴時間も15時から19時までと短かった。なぜか、18時過ぎの女風呂はやたらに混んでいて、子供心にも、もっと早く入れよ、とか思ったものだった。
2012.03.14
コメント(0)
今年の北海道は、久しぶりに寒かったらしい。私が行った時は、ちょうど寒さの中休みだったのだが、昔の夕張は本当に寒かった。深呼吸した時に、鼻毛が凍りつく感覚があった。家の玄関に置いてあった瓶入りのビールが凍って、何本かがパキッと割れたこともあった。母はあわてて、無事だったのを冷蔵庫に入れて保温したものだった。真冬の朝の起きるのがなんと辛かったことか。石炭ストーブの「おき」をデレキでかち割り、火を起こすまでは、もう、冬眠から覚めたての熊のように動きもにぶく、丹前を着たままである。そして暖かいストーブの周りで着替える。こんなに寒くても、当時の若者は「ももひき」をはかなかった。私も、今では考えれれないが高校までは我慢していた。マイナス10℃以下の朝、野ざらしのバス停で震えながらバスを待っていたのが信じられない。残念ながら、その当時の女生徒の事情はわからないが、スカートに毛糸のパンツなんかでは、かなり大変だったのではないだろうか。 雪が降ったら積もるだけで溶けたりしない、キッパリしたあのころの夕張の寒さが懐かしいのだが、秋田県での冬に慣れた今では、そこで一冬過ごせるかはちょっと不安な気もする。
2012.03.13
コメント(0)
あれから1年。メディアは、様々な復興イベントを報じている。これらが、被災者にちゃんと届いてくれれば、こんなうれしいことはない。無力な私は、個人的に被災したことを知った知人に、せめてもの郷土料理「きりたんぽ鍋セット」を送ることしかできなかった。わずかではあるが、直接届けられればとの思いだけだった・ 双葉町で開業していて町会議員でもある後輩のIくんは、家に帰れぬまま、埼玉で暮らしており、避難民のリーダー的存在で奮闘している。 肉親を津波で失った後輩で岩手県職員のTくんは、それでも頑張って、昔ながらの豪快な生き方を続けているようだ。 仙台で家を流され、命からがら生き延びた高校時代の友人Kくんは、家と歯科技工士としての職場を新築して着々と再起している。 相馬市で開業していた同級生のTくんは、ほぼ全壊の認定を受けた自宅の動物病院で、もくもくと診療を続けている。 震源地直下の登米市で被災し、直後は被災者救援に没頭していたため安否がわからなかった同級生のSくんは、元気に頑張っているようだ。やはり、彼は昔からタフだ。 何をすることもできない私だが、心から復興を願っている。
2012.03.12
コメント(0)
3月10日、湯沢から鷹巣に帰り、大舘の行きつけの本屋に行った帰り、ついに20万キロを突破した。気を付けて、その瞬間をみようとしていたのだが、気付いた時には200001になっていた。イマドキの若者は、その瞬間をケータイで撮ったりするそうだ。それにしても、購入から5年半で20万キロだから、毎年3万5千キロ以上を走ったわけだ。首都高や夕張を走ってくれたこのモビリオには、本当に愛着がある。ところが、先日、後ろのドアの下に見事なさびを見つけてしまった。冬の間は、凍りついて見えなく、水が貯まりやすい場所だ。それに高速の融雪剤が拍車をかけたのだろう。まぁ、車庫が無いので、年中野ざらしだからしょうがないのだが、そんなに大事な愛車なら、もっとまめに洗ってやれよというはなしだ。エンジンとかは、まだまだ大丈夫なので、もう少し頑張ってもらうしかない。
2012.03.11
コメント(0)
昨日、愛車が20万キロを達成したので、そのことについて書き込みを終えて「公開する」ボタンを押したところ、「ただいまメンテナンス中」の表示が出て、もう、それっきり。まったく、何の説明もない。もう一度書き込めばいいだけのことなのだが、これが、とてもその気にならないほど落ち込むというのをサイトはわかっているのだろうか。 このところ、愛読しているブログがいくつも中止になったり、引っ越ししたりしている。とくに、一部機能が取りやめになったこの楽天ブログの評判はすこぶる悪く、引っ越しする人が多い。これ以上、書く気がそがれるようなことがないように、しっかりとしたサイト運営をおねがいしたい。
2012.03.11
コメント(0)
何でも燃やせば、灰になる。当然石炭もそうで、燃え残りを「炭殻(タンガラ)」と呼んでいた。これをどうするのかというと、ゴミ捨て場に捨てるのだ。当時はゴミ収集という概念さえもなく、炭住街の外れの沢には、かならずゴミ捨て場があった。燃やす前の石炭に比べるとタンガラは110分の1ほどにもなるのだが、これが何百世帯分、毎日捨てられるのだから、見事なガケになる。もちろん、紙や生ゴミなんかもいっしょに捨てるのだが、ほとんどは石炭ストーブで灰にされてしまっているので、不潔感はなかった。まぁ、各家庭に強力なボイラーがあるようなものなのだから、それも当然だろう。 ちょっと、話ははずれるのだが、昭和30年代に、「アルコ」という台所用食器洗い洗剤があった。この緑色のキャップを持っていくと、アルコが5円引きになるとかの制度があり、これをゴミ捨て場で探し集めて母に持って行って小遣い稼ぎをしていた思い出がある。プラスチックのキャップは燃やすと臭いので捨てられていたのだ。だが、あまりにも多く集めてくるので、当然洗剤の購入ペースを超えてしまい、「もう、拾ってくるな」とダメを出された。あの経験が、今の私のポイント好きの原点になっているような気がしてならない。
2012.03.09
コメント(0)
その頃の夕張は小学校から高校まで、もちろん石炭ストーブだった。学校で使う石炭は、これぞ世間一般が納得するような直径5センチほどのゴロゴロとした塊炭だった。もちろん、学校にも石炭小屋(庫)、石炭箱、「じゅうの」に「デレキ」はしっかりあった。さらに、給食当番と同じように「炭汲み当番」というのがあり、大きなバケツで運ぶ重要な役割だった。 燃料に制限のない石炭ストーブは、もう、溶けてしまうのではと心配になるくらい真っ赤になりガンガン燃えるのだが、悲しいかな、その周囲しか暖まらない。だから、前の方の席の生徒は、顔を火照らせていても、後ろはもう、寒くてどうにもならない。家でも学校でも、スカスカの木造で、二重サッシなどは見たことが無いし、床暖房など火事と勘違いされるような時代である。今から考えると、本当によくも、ちゃんと生活していたものだ。 あれだけ寒くて雪も湯沢並に降る(ただし雪は軽いが)夕張だったが、大雪で学校に行けなかったとか、休校になったのは、ほんの2~3回しか覚えていない。インフルエンザで学級閉鎖とかも記憶にない。いや、昔は子供もたくましかったと思うのは私だけだろうか。
2012.03.08
コメント(0)
さて、「じゅうの」とは何であるか。ネットで調べてみると、「十能」つまり「じゅうのう」が正しいらしい。火のついた炭をそのまま運ぶためのスコップを小さくしたようなもので、長さは50センチから80センチ。石炭ストーブの場合、石炭をくべるのにも、「おき(燃えている状態の塊)」を移すににも使えて、どこの家庭にも必需品だった。 「デレキ」も調べてみたが、「デレッキ」と書くのが正統らしく、語源は諸説あるがオランダ語とも言われている。いわゆる「火バサミ」をこう呼ぶこともあるが、北海道の夕張のデレキはそれとは別モノ。鉄製で先端がL字型に折れた石炭ストーブ専用の火掻き棒である。夕張の炭住に配給されていた石炭は、ごろごろとした塊炭ではなく、それから欠けた大きくても直径3センチぐらいのいわゆるクズ炭である。それらがくべられると塊になる。そこをデレキで砕いて火を興すのである。 子供の頃、悪いことをすると、「じゅうのでケツたたかれたいのかい!」とか「ゆーこときかないとデレキでぶんなぐるぞ」とか言われたものだが、今の夕張には石炭が無く、したがって石炭ストーブも無い。当然、「じゅうの」も「デレキ」も若い世代は知らないわけで、なんとも信じがたい時代になったものである。
2012.03.07
コメント(0)
夕張に行ってきて、除雪作業の今昔なんかを目の当たりにして、あの頃はよく、生活していたものだと思い知らされた。私が年齢をとり、昔を懐かしむようになったことが大きいのだが、それにしても夕張は特殊な街だった。今では同じ夕張に住んでいた同世代の友人としか話せないようなことを書いてみたいと思う。私が夕張に住んでいたのは昭和30年から48年までなので、その辺をおさえていただきたい。 最初は暖房についてだ。昭和30年代には、暖房の主流は石炭や薪ストーブだったと思う。石油ストーブが主流となったのは昭和50年代からではないかと思うのだが、これも私の感覚だけの話で、というのは、石炭の街夕張では、もう、職場、学校、家庭もすべてが石炭ストーブだった。各家庭(社宅の炭鉱住宅)には石炭小屋(一坪ぐらいの小さな物置)が備えられており、石炭は会社から無料で運ばれてくる。30年代始めには、馬車で運んでいた。その後は小型トラックになったが、売るほどある石炭なので、いくら燃やしても無尽蔵に配給される。各家庭には、ストーブの横に、石炭箱(大びんビール24本入りケースぐらいの大きさ)があり、ここに大き目のバケツで石炭小屋から運ぶのは一仕事だった。冬場は外の石炭小屋で石炭が凍りつき、スコップで砕かなければならなかった。そして、石炭箱には「じゅうの」と「デレキ」がささっていた。(当然続く)
2012.03.06
コメント(0)
もうすぐ震災から1年になろうとしている。いろいろな事実が公表され、日本が滅ぶ可能性さえあったことが判明した。なのに、原発事故の収束には程遠く、汚染除去はおろかがれき処理もままならない。この辺は揉めることなく、超党派で進めるしかないと思うのだが。 そこで、ちょっと気になるのが、東京都などの帰宅難民対策だ。対策を行うのはいいのだが、問題はその順番だ。確かに大都会で帰宅できない人たちがあふれるのは大きな問題だろう。そのために対策を立てるのはいい。携帯の不通を極力無くし、駅や公共施設などを避難所として開放するという、ここまで実施した方法で十分だと思う。命が守れて、家族の安否が分かればそれでいいと思うのだが。事故の収束と直下地震に対する対策を優先すべきではないのか。
2012.03.05
コメント(0)
昨日は秋田市で送別会があり、案の定酔ってしまい書き込めなかった。いや、送別会もここにくると、もはや他人ごとではない。 さて、ラーメンの話だが、湯沢で私が最もよく行っている「めん菜」が移転した。ここは、「ネギ味噌」が大盛りで野菜たっぷりなのと、醤油も好みだったので通っていたのだが、なにより職場から近かったのが一番の理由だった。ご近所で歩いて行けたのにと、移転を残念がる声があった。また、新店舗の場所がイオン湯沢店の向かいという郊外なので、はたして客が来るのか心配していたが、これがとんでもなかった。旧店舗の時の客はそのままだし、近くにある病院の帰りなのか、あきらかに新しい客も来ていて、行列ができている。昼時は確実に満員で、食べるのを断念したことも一度や二度じゃない。良かったような、残念なような。
2012.03.04
コメント(0)
人口が減り続けている夕張なのだから、震災直後に、「避難民大量受け入れ宣言でもやったら良かったのに」と、つんが言っていた。本当にそう思う。私の年齢になってくると、どうしても故郷に帰りたいという欲求が大きくなる。まぁ、同年輩の全員がそうだとは言わないが。現実に退職後、夕張に帰ってきている方々もいるという。だが、夕張の受け入れ態勢はできていない。かなりの空きがある市営住宅に入るのには、住民票を移さなければならないとか、いろいろ条件があるらしい。この際、そんなことを言っている場合ではないのではないか。避難民でも、元住民でも、どんどん来てくれるようにすべきではないか。なんなら、別荘として空き住宅を販売するのも一手だ。または、期限付き里帰りプランなどを企画して、これ以上の過疎化を防ぐ手立てをしなければならないのではないか。金をかけられないのはわかる。でも、住民税がどうのこうのではなく、今は、とにかく住人が必要なのではないか。当然若い家族などは望めないのだから、リタイアした元住民をターゲットにすればいいと考えるのだが。 札幌に住んでいる夕張の元住民はかなり多いのだが、なまじ近いがために、夕張を訪れようとはしない。でも、そんな皆さん、夕張に行くだけでも、夕張で食事をしたり、自販機で缶コーヒーやタバコを買うだけでもいいのではと私は思う。
2012.03.02
コメント(0)
私が一番心配しているのは、夕張が忘れ去られようとしていることだ。まもなく一年になる、あの大震災は、当然のことではあるが、夕張どころではないわけで、この私でさえ、昨年に貯めたポイントでふるさと納税するつもりが、やっていない。震災の復興が何よりも先なのはわかっているつもりだし、夕張の現状より優先されるのはもっともだ。むしろ、較べることも不謹慎だという考えもあるだろう。その上で、あえて言いたいのは、「夕張も忘れないで欲しい」ということだけだ。今の夕張には、まだ明るい兆しは見えず、むしろ再建に対しての疲弊が見られる。こんな時に、忘れ去られることが、怖いのだ。 だから、夕張も困っていて、助けが欲しいという声だけは絶やしてはいけないと思うのだ。だが、この時期に、そんな主張をしても、受け入れてはくれないだろう。しかし、方法はあると思うのだが。
2012.03.01
コメント(0)
全28件 (28件中 1-28件目)
1