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亡き父親は、剣道家であった。 亡き父親(51歳で、ガンで死亡)が、この私が、高校生の時に言った言葉があります。 「いいか、としあき。剣道には、間(ま) というものがある。 この間(ま)が、わかるのには、10年以上かかるぞ。 間(ま)とは、バランスだ。 タイミングだ。 状況判断だ。 よ~く覚えておけ。」と言われたことが、あります。 会社経営にも、言えると思いました。 サッカーでも、野球でも、私は、ひとりひとりが、どう判断して、行動するか??? 興味を持っていました。 これは、女性の行動心理にも、いえます。間(ま)です。 偶然にも、先日、ある女性スタッフが、あるお客様を接客しておりました。 お客様の話から、明日、コロナ禍の中でも、3人だけですが、同窓会での食事会があるという情報をキャッチしました。 その時です。女性であるお客様の歩く速度と、その女性スタッフの速度が、違うのです。 わが社の女性スタッフは、少しでも、早く商品を探そうと、小走りします。 そのお客様は、ゆったりと、商品を見ています。 ゆっくり、歩いて、商品を探しています。 私が、フォローします。時折、笑いを入れながら、・・・・・。小物も、お買い上げ上げ頂き、合計3点お買い上げ頂き、2万2千円でした。 この女性スタッフは、はっきりいって、販売力は、弱い方です。でも、この3ヶ月ぐらい前から、少しづつ力をつけてきたのです。「今日の接客うまかったね~、素晴らしいね~。ちょっと、早口でしゃべったね。でも、うまかったよ~。」と褒めると、 「ありがとうございます。」と女性スタッフが言います。 それより、この女性スタッフが、お買い上げ頂いた女性客を見送るときの ことばが、良かった。 それは、こう言ったのです。「同窓会 お気をつけてお出かけくださいませ。楽しんできてくださいね~。」とお店の外まで、お見送りしたのです。 成長したなぁ~。・・・とわたしは、思いました。 間(ま)です。・・・おきゃくさまとの間(ま) 言い方や、表現方法や、声の大きさなどなど。バランスの良い、バランスですね。まとめ一呼吸を置くことですね。
2022.02.27
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気づく、気づく、気づかせて頂く。いつも、いつも、感謝して生きることを数多くの人たちから、学んでいます。まだ、まだ、勉強中です。 鈴木秀子著 「愛」は伝わっていますか~講談社より とても感動するお話です Y少年は、小学校2年の時 交通事故で両親を一度に失ったため 田舎の祖母の元に引き取られ おばあさんとの2人暮らしが始まりました。 すると、さっそく 新しく転校してきた都会風の子であるY少年へのいじめが始まりました。。。 いじめっ子のボスは、 この地の名士といわれる 工務店の社長の一人息子でした。 ものはなんでも買ってもらえました。 父親をまねて人に威張り散らすので、 友達は恐れながらも追従しがちだったのです。 ある日、学校の帰り道で、ボスと取り巻き6人に待ち伏せされ Y少年は殴られたり蹴られたりしました。 ちょうど畑仕事から帰っていたおばあさんは 孫の血みどろの顔を見ると、 一瞬、血相を変えましたが 何も言わずに手当をし、ひとこと言っただけでした。 「明日からも いつも通り学校へ行くんだよ」 翌日の帰り道、昨日と同じところに ボスたちが見えました。 逃げようとするY少年の前に立ちはだかったのは おばあさんでした。 がっしりとした背で孫をかばいながら、 堂々とボスたちに近づいていきます。 おばあさんの気迫に圧倒されたいじめっ子たちは、 立ちつくしたままです。 おばあさんは、ボスの肩をがっしりと押さえると、 有無を言わせず ボスの右頬をつねりあげました。 もがくボスを身動きさせず、 腹にしみ通るような力に満ちた大声で、 皆にも聞こえるように、こう言ったのです。 「おめえら、今日は許すから 今日限りまともな人間になれ! 甘えるな! 親が忙しくて心をくれなくても ひとりの人間ととしてちゃんと 自分の足で立つんだ。 おめえらの年なら、そう生きようと決めれば、できる! 甘えるな!! ちゃんと覚悟ができるまで、 この手を放さねえからな」 ボスはだんだんうなだれ、周りの取り巻きの子どもたちは 金縛りにあったように硬直しています。 しばらくの後、やっとおばあさんのつねりあげから解放されたボスは、 小さな声で、Y少年に向かって 「ごめん」と言いました。 すると、周りの子どもたちも口々に 「ごめんね」と頭を下げました。 「それでよし。おめえらが立派な大人になるまで、 ばあちゃんは、死んでも目を離さねえからな」 そして、Y少年を引き寄せると 抱きかかえるようにして 再び気迫にあふれた声で 遠く野山まで届きそうに言ったのです。 「この子は、うちの大事な子だ。 ばあちゃんはこの子のために、 いつでも命を投げ出す。 そんな大切な子だ。 この子には、真面目に生き抜いてきた 先祖代々の命が受け継がれている。 この子は、この世の宝だ。 この子は、生きているだけで尊い子だ。 この子の両親は、 目に見えなくてもこの子といつも 一緒にいて守ってくれるんだ。 この子はこの世の宝だ」 そう言い終わると大きく息を吐き 子ども達の前に一歩進み 活を入れるように 一人ひとりの子どもの胸に奥深くに ずしりと収まる声で宣言したのでした。 「おめえら、 一人ひとりも『宝』だ」 このとき以来、学校からいじめは消えました。 Y少年は、祖母亡き後、施設で成長しました。 明るい親切な人となりで、今は誠実な会社員として 人々の信望を集めています そして、彼はあのときの祖母の姿と言葉が、 いつも自分を導いていると感じているのです。 「祖母は、自分がどんな子であっても、 宝のように大事にしてくれました。 あの祖母の気持ちに背くことはできません」 と・・・ すばらしいおばあちゃんです。 こんな方って結構身近にいたりしませんか? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上引用です。 街の子供たちは、私たちの宝。 街の良さをいつもまでも、いつまでも、 引き継いで、もらいたい。 参考になりますか???
2022.02.25
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「このままじゃいけない! まずい。絶対まずい。 ゆでガエルになってしまう。」という危機感から、 昨年3月に、中小企業庁「事業再構築補助金第一次」に採択される行動をとりました。レディースアパレルブティックがレディースアパレルブティックに、こだわっていていると、売上は、ドンドン減ってくる。こらからの3年で、今売り上げの70%ダウンが予想されます。熱いお湯に、カエルを入れると、すぐに飛び出す。でも、少しづつ、すこしづつ、温度を上げていくと、眠くなってカエルは、焼けてしまう。新でしまう。このことを経営セミナーで、15年以上前に、学びました。 同業の社長様や、異業種の社長様から、ご相談を受けることがあります。何の改善も改革も進まず、現状のまま成果も上がってこない、むしろ、ジリ貧になっていくという会社やお店があります。これが、怖いのです。 「いやっ、わが社は、これでやってきたんだ。」「今のコロナ禍で、新しいやり方でやるにはリスクが大きい。」「創業して20年間、これで上手く行っていたんだ。」 、過去のやり方、成功法に執着し改善や改革に一歩、踏み込むことができないというものです。 あるコンサルタントの先鋭が言います。「アドバイスや提言に耳は傾けるものの新しいやり方に抵抗し、結局何の改善もないまま、現状維持若しくは右肩下がりで終わる。」と力説しても、行動しません。 一番の問題は、 「そのやり方では通用しなくなっている、ということを認められない。」 成功の反対は、失敗ではない。成功の反対は、無視すること。行動しないことである。コロナ禍になぅて、これまでのやり方ではダメだ。シュッピングセンター入居のやり方では、ダメだ。2011の3.11で、それを学んだ。大型商業施設でのローカルチェーンの専門店展開は 終焉だ。危険だ。そのように感じて、4年半かかって、全店舗退店した。 「これまでのやり方ではもうダメだ。 申し訳ないが、これからはこれでいく。」ということをスタッフに明確に示す資料を作成中です。」 やり方に正解なんて、絶対ない。正解は、無い。日々の変化を感じるだけである。 過去の成功事例が、正解ではありません。現在昨年から実践しているというのも正解では無い。 世の中や市場の環境変化に対応することで会社やお店も変化、変態することだと確信している。 女優羽田美智子さんが、水害被害の時に、私の顔を観て「はとみさん、ピンチは、チャンスだよ。 変わるチャンスです。」と励ましてくださりました。
2022.02.24
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https://4th-signal.com/roco/futago/index.htmlまずは、この日経MJの生地をお読みくださいませ。どうも、売れない。どの店でも、売れない。問屋さんでも、売れていない。・・・・と言われた。「悔しかった」「どうしたら、この商品を活かすことは、出来ないか?」・・・・・と考えた。売れない西洋風の人形があった。よ~く、見るとよ~く、見るといや、「この観る」です。「この看る」です。「みる」をうわべだけをみるにではなく、じっくり、じっくりを観察をした。「よし、やってみよう」と考えた。人形の顔が、似ている「双子」とか、「いとこ」というキーワードで、POPを描いてみた。「私たちは、双子です。」とか「私たちは、いとこ同士。 いとこは、近くもなく、遠くも無い関係。 いとこ同士、仲良く、仲良く」と描いてみました。すると、どうでしょうか?売れ始めたのです。「私たちは、双子です。」とか、「孫が双子です。」とか、「私たちいとこ同士です。」というお客様がいて、ドンドン売れ始めたのです。追加、追加、追加していきました。問屋さんの担当者さんが、もうびっくりです。「セール販売しているのですか?」とか、「プレミアムプレゼントしているのですか?」とか言います。「いいえ、定価販売しています。 しかも、お客様は、2体買っていきます。」とこの私は、言いました。まとめ売れない、売れない。・・・と商品が悪いのではなく、商品の特長、特徴を探す。同じ「とくちょう」でも、文字によって意味合いも違ってきます。角度を変えて、商品を見ることで、新たな気づきが出てきます。#西洋風の人形#双子の人形#いとこ同士の人形#ロコレディ売れない人形#心の経営
2022.02.24
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アパレルメーカーの営業マンでした。昭和57年4月から、昭和62年8月まで東京スタイルさんで、お世話になりました。私は、地方担当部署にいました。専門店販売部は、1年間。4年半は、地方のデパート、量販店の大型店を担当していました。出張は、毎週土曜日、日曜日でした。仙台、山形、名古屋、静岡、甲府、長野、諏訪地区が、長かったです。担当は、セゾングループ、松坂屋グループが長かったです。仙台藤崎デパートも、担当していました。とにかく、私は、担当の仕入れ担当者(バイヤー)のつもりで、得意先様のことを考えていました。恋も、しました。失恋もしました。4回も失恋しました。懐かしい思い出です。仕入れ担当者で、とても条件は、厳しくても、勉強になる方がいました。条件は、いつも、厳しい条件。買取のデパートも担当していました。商品動向が不良であれば、商品が入っていきません。水が流れるように、商品を順番に売れるようにデパート婦人服担当者さんと話し(打ち合わせ)をしてきました。もちろん、デパートの女性スタッフさん、東京スタイルの女性スタッフさんとも、よくミーティングしていました。数多くの失敗、過ちを繰り返していました。悩みました、苦しみました。どうも、上手くいかない。また、悩みます。仕事が、上手くいきません。どうしたら、上手くいくか??????????いつも、いつも、考えていました。優秀営業マンを西友グループの専務さんから、頂きました。お昼ごはんを御馳走になったことも、あります。自分の会社の利益よりも、得意先のお店の売上、利益考えていました。51%・・・・・自分会社49%・・・・・徳先様のことを。このバランスが良いか?悪いか?わかりませんが、給与ももらっているのは、東京スタイル。東京スタイルのことを51%考えていました。自社だけのことを考えていると上手くいかないことを学びました。まとめバランス良く、バランス良く。
2022.02.23
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仕事中に、考える???ではなく、頭の中を休み状態にして、考える。そうすると、新たなアイデアが、出てくる。仕事中は、中々浮かばなくても、布団に入って寝る瞬間に、「浮かんだ~」ということがあります。お風呂に、入っている時に、私は良く浮かびます。仕事として、考えるのではなく、リラックスして考える。経営者になって、そのONとOFFを自由に操ることが出来るようになった。コピー機でいうと、余熱状態。いつも、ON出来る状態にする。お風呂や、トイレ、布団中が、一番良い場所かもしれません。NHK大河ドラマ招致運動よろしくお願いします。歩いている時に浮かぶことも、多いです。
2022.02.22
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私は、就職先に、アパレル業界は全く考えていなかった。将来、新聞記者になろうと思った。だから、勤労奨学生として、新聞配達をした。毎朝、3時半起床。夕刊も、集金も、新規拡張も行っていた。昭和53年の10月末にばぁちゃん(母親方)から、新聞配達先の寮に夜7時ごろだったと記憶している。「トシ君、あなたのお父さんは、ガンなのよ。末期のガン。 手術が成功しても、3年か生きられない。 あなたのお母さんには、胃潰瘍の手術だと言ってるが、 もう手遅れのなのよ。」と言われた。11月上旬に手術。その日は、朝刊を配り終えて、休みをもらった。新聞配達の所長に嫌みを言われながらも、名古屋に帰省した。そんな労働条件の当時でした。「胃潰瘍位の手術で、名古屋に帰省。 甘い。」と言われながらも、懇願しました。次の日の15時ごろには、もう配達所にいました。(川崎市多摩区 JR稲田堤駅付近)そして、昭和58年からは、東海大学の無返済奨学金(勤労奨学金)に合格しました。3年間、頂きました。大学3年生の時です。父親を昭和55年10月に亡くしました。就職の件では、悩みました。担当ゼミの先生にも、相談しました。そして、東海大学の就職課の長岡さんという職員さんにも、相談しました。 「トシ坊、アパレル業界に行けよ。オマエみたいな営業向きな男は、 アパレルメーカーの営業マンだ。 アパレルに興味が無い? そんなことは無い。アパレルメーカーの営業マンは、今不足気味だ。 東京スタイルという東証一部上場会社に勤めて、 お母さん孝行をしろよ。」と言われましたが、 名古屋支店のある会社が、第一希望でした。 就職の件で、名古屋に帰省しました。長男である兄貴に、「トシ坊、名古屋に帰って来い。 兄弟3人で、お母さんを助けよう~」と言われました。 次男である私も、それが良いかと思って、名古屋支店がある会社を選ぼうとしました。 そして、戻って就職課に出向きました。 「長岡先生、私は、父親を大学3年生で亡くしています。名古屋支店のある会社 三陽商会が第一希望です。」と伝えました。 昭和56年8月に、三陽商会名古屋支店の支店長の面談を受けました。「良い感触を得た」と思い、内々定の返事を頂きました。 本面接の為に、就職解禁日の10月1日を迎えることになりました。 晴天でした。朝5時に起床。 小田急電車に乗って三陽商会の本社に向かいました。日経新聞をもって、並びました。 そして、昭和56年10月1日の朝7時に、到着。 東証一部上場の「三陽商会の東京本社(信濃町))に、スーツを着て並びました。 もちろん、東京スタイル(東京・四谷)にも、8月末には、会社訪問をしていました。 結果は、三陽商会第一次面接合格。でも、携帯電話の無い時代です。 電報が、届かなかったのです。(当時の電電公社の配達人さんは、アパートが判らず、配達しなかったのです。) あとから、判明しました。(もう、頭にきました。) 合格の自信はあった。なぜなら、三陽商会の名古屋支店長から「内々定」の返事が、あったから。 就職課の長岡先生が、三陽商会人事部に電話すると「おたくの大学の学生さん、合格でしたが、今日、第二次面接に来ませんでしたので、不合格にしました。 営業マン希望300人から、100人に絞り込みました。残念ですが、諦めてください。 電報が、届かない。そんなことは、わが社には、関係の無いこと。電電公社に言ってください。」と。 涙を流しました。 薄電球のアパートに帰りました。 泣き崩れました。 亡き父親の遺影を観ると 「笑っている父親になっていたのです。」 そう見えたのです。(後からきづきました。東京スタイルに入社して、ロコレディに入社する運命だったのです。) 頭にきて、父親の遺影を投げ捨てました。「おれは、三陽商会名古屋支店に行くんだ。母親を助けるんだ。」とその写真に向かって言いました。 その後、形だけの第二次面接を三陽商会本社で、人事部役職無い人が、小さな部屋で、1人だけで、受けました。 気持ちの無い第二次面接でした。 「もう、形だけの面接ということを悟りました。もちろん、不合格でした。」ライバルは、三陽商会だ。今に、見ていろ~。・・・と心の中で、誓いました。東京スタイルに絶対受かってみせる。 三陽商会の第2次面接(電報で、指定されていた10月5日)の日程では、 東京スタイルの第2次面接を受けていました。 会社説明会は、約1,500人(営業・デザイナー、生産部門などの全ての希望者) 第2次面接を終えて、第3次面接では営業部門だけで、350人でした。 役員面接でした。高野社長から、質問をうけました。「どうして、東京スタイルという会社を希望したか?」「大学生時代で、嬉しかったことは? 悲しかったことは?」 この3つを聞かれました。「私は、営業マンになりたいのです。アパレルのことは、全くわかりません。 入社して、アパレルのことを学びます。営業マンになりたいのです。 嬉しかったことは全国の友人を持てたことです。悲しいことは、大学三年生時に、 父親をガンで、亡くしたことです。父親は、剣道家でしたので、私の心の中では、父親は、生きています。 勤労奨学生として、新聞配達をして、新聞拡張学生チャンピオンなったことが、嬉しかったです。だから、営業マンになりたいのです。」と答えました。 ファッションについては、一切言いませんでした。わかないわけですかね~(苦笑い) ファッションを語った学生(青山学院、慶応大学、早稲田大学)は、ほとんどの学生は、不合格でした。 見事に、採用が決まりました。(営業マン71人の採用です。) 昭和56年年末に名古屋に帰省すると 長男である兄貴に「トシ坊、おまえは、わざと三陽商会の面接落ちたな?????」といきなり、殴りかかってきました。 「兄貴、信用してくれ。おれは、三陽商会名古屋支店の支店長からは、内々定を。そして第一次面接合格していたんだよ。 合格の電報が配達されなかっただけだよ。信じてくれ。」と答えました。 母親は、「としあき、お前は、東京へ行け。亡くなったお父さんは、としあきには、好きな道を行かせろ・」と言っていたよ。 そして、昭和57年4月1日に 東京スタイル本社勤務になりました。寮は、東京杉並区高円寺北に遭った東京スタイル高円寺寮に入寮して、軍隊のような営業マン活動がはじまったのです。 月末の2日間は、会社で、寝泊りが当たり前。売上目標がいかないと、罵声を浴びさせられる。 月末の棚卸しは、フロアーにゴミ一つ落ちていない状態で。 「高野社長、巡回」という言葉から、在庫のチェックが始まります。 「ご苦労様です。」・・・この言葉は、先輩であっても「ご苦労様」という言葉で、統一されていました。 ラルフローレン事件は、 3階に集合でした。(私が所属する百貨店3部は、4階でした。5階は、量販店グループ) 3階は、百貨店第2部のフロアーでした。「ラルフローレン ブランドが、オンワードグループにとられた。」と高野社長から発言がありました。昭和60年の3月から、小売業の転職を考えていました。「おれは、小売店向きだ。名古屋に帰るぞ。」と。すると、セゾングループのバイヤーさんから「茨城県のロコレディという会社が、トシ坊に会いたがっている。」と言われました。「羽富 正三という社長さまが、オマエに会いたがっている。」と言われました。つくば万博の時です。約20回の面接・面談を繰り返しました。昭和62年10月に入社しました。そして、平成元年5月に結婚しました。養子縁組です。人生は、塞翁が馬ですね。
2022.02.21
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早朝の方が、仕事が進む。この2週間は、早朝より、資料をまとめている。「はとみさん、この資料まとめるのに相当時間がかかっていますね。」と言われた。どうも、気が散る。日中だと、どうしても電話がかかってきたり、お客様があったりして集中出来ない。もうひたすら、もうひたすら、まとめていく。眼が痛くなる。目が疲れてくる。どうも、アイデアが、浮かばない。浮かばない時は、人の話しを聴く。情報を集める。喫茶店に入った。会話が自然と聞こえてくる。その会話を他の情報とつなげる。すると、アイデアが浮かぶ。子供の頃から、私は早起きだった。大学時代は、新聞配達をしていたので、早寝、、早起きは得意だった。現在も、出来るだけはあく床に入るようにしている。21時半から22時半には、床に入るようにしている。夢も観る。観たら、忘れないようにメモをする。カンが働く。事業再構築補助金第一次に採択されたのが、昨年の5月。その時も、アイデアをまとめて紙に書いた。思いついたまま、紙に書いた。すると、書きながら、ドンドンアイデアが浮かぶようになった。今回も、ある補助金を狙っている。アパレル業界だけでは、会社経営は難しくなってきた。美と健康と食の文化を育む時代になってきた。松下幸之助先生の言葉より「悩んだら、他人の頭脳を使え」
2022.02.18
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いつも、ありがとうございます。感謝の気持ちで、仕事をしています。ご縁を頂き、茨城県で生活をしています。2月1日より、NHK大河ドラマ「千姫」様が決まるように署名活動をしています。2月12日土曜日に地元常総市水海道女優羽田美智子さんが、ロコレディ扇屋水海道本店にご来店されました。「あら、はとみさん。いつもありがとうございます。」と笑顔いっぱいで店内に入って来られました。約20分間のご来店。生餃子をお買上げ頂きました。また、私には、草餅のお土産を。「羽田さん、ありがとうございます。 NHK大河ドラマ誘致活動しています。 よろしければ、ご署名を」と声をかけたら、気持ちよく、書いて頂きました。ありがとうございます。素敵な笑顔で、応対してくださりました。#羽田美智子#千姫様#NHK大河ドラマ「千姫」様#ロコレディ#常総ごじゃっぺ短期大学校
2022.02.14
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3か月ごとに、見直ししています。金融関係にも、その都度、その都度見直しています。経営デザインシート、経営デザインキャンパスも見直しております。
2022.02.05
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2022年2月1日~2024年10月31日まで、行政とコラボして、署名活動を行います。日本全国、世界中の人たちから署名をお願いしたいと思います。子どもさんも、ぜひぜひ。学生さんも、ぜひぜひ。よろしくお願いします。女性活躍の時代に千姫を大河ドラマに。#ロコレディ#千姫様#常総市#署名活動
2022.02.01
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