習慣化してしまったからと思いたいのだけど、書き始める時間も、書き終わる時間も一定していないので、習慣化とは言いにくいような気がする。当初の予定では午後十一時になったら書き始めて、十二時過ぎに書き上げるのを習慣化するはずだったのだ。それが、その時間になっても前日文を書いていることがあるのは、文章が長すぎる弊害だとしても、前日分が終わっていても、書き始めないことがある。
大抵は、何について書くか決めかねて、うじうじ悩んでいるうちに時間が過ぎてしまって、とりあえず題名と日付だけ書いて記事自体は翌日回しということさえある。これでは目標通りとは言えないので、ぱっとテーマを決めて、ささっと文章を書き上げたいのだけど、ままならないものである。それにテーマを決めて、書き始めても思ったように筆が進んでくれないこともある。幸いなことに、一度テーマを決めて書き始めた後に、変えなければならない事態になったことはないが、話が予想外の方向に流れていったり、無駄に長くなったりして、題名を変える破目になったことは何度もある。
そもそも、文章を書き始めるのと、ある程度話を膨らませていくのは何とかなっていたのだ。膨らませた話をどうやって畳んでいってけりをつけるという部分が苦手で、畳みにかかるところで、中断して放置してある書きかけの文章が非常に多い。そこを訓練するために、あまりうまく行っていないけど、毎日無理やりにでも終わらせて、翌々日、実際には書き上げた翌日に、ブログに乗せているのだけれど、ここ数日書き出しと、話を広げる部分でつまづいてしまって、余計な時間がかかってしまっている。
問題の一つは、書いた文章の数が100を越え、何を書いたか覚えていないことにもある。自業自得なのだが、題名とは直接関係ない話をぐだぐた書き込んでしまう癖があるので、題名を見ても、何を書いたのかすべてはわからない。ちょっと書きかけてどこかに書いた気がするけれども、読み返すのも面倒だよなあとか考えたり、あそこに書いたと思うんだけどと、確認をしたりしているうちに、何を書くつもりだったのか忘れてしまう。
そして、最近頻発しているのが、「以前も書いたけど」とかいう表現で、これは書いたと思うけど、どこにあるか思い出せないし確認もしたくないということを現している。それに同じことを書いてしまう言い訳にもなっているなあ。考えてみれば、こんな駄文の山を、全部読もうなんて人はいないだろうから、一つの一つの文章にまとまりをつけることを優先して、繰り返しを恐れる必要はないのかもしれない。
以前、読んだある作家のエッセイで、その作家は北杜夫氏のファンで、著作を全部読んだら、結構同じことが繰り返される部分があったので、北氏に文句を言うと、私なんかの本を全部読むのが悪いなんて答が返ってきたとか書いてあったし。それはともかく、こんな駄文読んでも、内容が頭に残るとは思えないから、同じことがちょっとぐらい繰り返されていても、気付かない可能性もあるよな、うん。
そうだった。筆の進まない日について書くつもりだったのだった。仕事で疲れて眠くてたまらない日、体調が悪くて頭が重い日なんかが進まないのだけど、それは当然と言われれば当然。でも、目標としては、眠くても熱があっても、とにかく書くという習慣と、能力を身に付けようと考えていたのだ。だから、いつも以上に文章がめちゃくちゃなときには、体調不良なんだと思ってもらえるとありがたい。ちょうど今、こうして書いている文章のように。
4月24日11時。
タグ: 愚痴
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