この二冊のうち、最初に手にしたのが『羊皮紙に眠る文字たち』のほうだったのは確かに覚えている。ただ、どのようにしてこの本と出合ったのかが、思い出せない。当時はすでにチェコ語の勉強を始めていたはずだから、チェコ関係から広がって、スラブ関係の本にまで手を伸ばしていた我が蔵書癖の一環として勤務先で注文したのだったか、本屋めぐりの最中に題名に惹かれて新宿の紀伊国屋あたりで衝動買いしたのだったか思い出せない。
高校時代から大学時代にかけての学問的好奇心にかられていたころ、言語学はある意味であこがれの学問であった。高校時代は田舎のことでたいした情報が入ってくるわけでもなかったが、小説や漫画などに時々出してくる言語学的な、少なくとも田舎の高校生には言語学的だと思えた説明には、わけがわからないなりに胸を躍らせたものだ。たしか「ピジン」とか「クレオール」なんて言葉の存在を知って、ものすごく興奮したのもこのころのはずだ。実際には「ピジン」「クレオール」のことを誤解していただけで、大学に入ってからこちらが期待したようなものではないことを知って、がっかりすることになるわけだが。
遠く離れたインドとヨーロッパの言葉の間の関係性を証明したインド・ヨーロッパ語族という仮説、もしくは物語には、ロマンを感じたのだが、日本語とタミル語に関係があるいう説には、面白そうだとは思ったけど、違和感を感じた。そしてその違和感は、大学の授業で出てきたソシュールの学説に対して感じた違和感とどこか通底するような気がする。その後、「言語学的な」日本語に関する文章を読むにつけ、だから何なんだという不満を禁じえなかった。理論のための理論、仮説のための仮説、まず理論があってそれに基づいて日本語ができたと考えているかのような書きぶりが多いのも不満を増幅し、言語学系の本は、題名が面白そうでも読まなくなったのが大学時代の後半のことだった。
それから十年ぐらいたって、言語学者黒田龍之助氏の本を手に取ったのは、偶然という言葉では片付けたくない。『羊皮紙に眠る文字たち』に出てくる言語学的な事項は、期待外れの言語学ではなく、私が夢見ていた言語学だった。書かれた文字資料からロシア語の発音の変化を跡付ける部分を読んだ時の感動は、あれから廿年近く経た現在においても色あせていない。題名に「文字たち」とあるように、文字、つまり書かれたものを対象にした内容は、昨今流行の書き言葉よりも話し言葉を重視する風潮にうんざりしていた私にはぴったりと来るものだった。
読みやすい文体で難しい内容のことでもわかりやすく説明されているというのは、称賛されるべきではあろうが、考えてみると、売り物なのだから当然である。その当然のはずのことが当然でないのが当然になっているのが、学者でございと威張っている人たちの書く本なのだ。読者の側にも、本の難しさ、わかりにくさを歓迎する面がないわけではないから困ったものである。俺ってこんな難しい本読んでるんだよ、すごいでしょなんて言われても、困ってしまう。ただ、わが身を振り返るに、自分にもそんな時期がなかったとは言えない。困ったものである。時間の無駄だったとは言いたくないが、もっと有意義な読書が出来たのにとは思う。
話を『羊皮紙に眠る文字たち』に戻すと、何よりもかによりも、オロモウツでのサマースクール体験が書かれているのが素晴らしい。以前からチェコなら、オロモウツが一番いいという意識は持っていたけれども、チェコを知っている人でも、オロモウツなんて何にもないところじゃないかという人も多く、まさか、ここで出てくるとは思わなかった。後に、チェコ語のサマースクールに出かける際に、プラハ、ブルノ、オロモウツという三つの候補があったのだが、迷うことなくオロモウツを選んだのには、この本も一役かっているのである。
『外国語の水曜日』を発見したときには、すでに著者のファンになっていたので、迷わず購入した。何よりも心を打ったのは、工業系の大学で特に卒業に必要でもない外国語の学習に取り組んでいる学生達の姿だった。ロシア語だけでなく、さまざまな言葉を、さまざまな理由で、さまざまな方法で、苦労しながら勉強を進めて行く姿には、感動を通り越して賞賛の気持ちを抱いた。外国語アレルギーを乗り越えてチェコ語の勉強を進めていた自分の姿に重ねてしまったせいもあるのだろうが、恥ずかしながら、この面白い本を読んで、涙をこらえていたのである。
私は、この本を読んで、学問の本質、学ぶということの本質を、見出して、いや、思い出してしまったのだ。学問とは、自らの知りたいという欲求のためにするものであって、何かの目的のためにするものではない。単位のために、卒業のために勉強するなんてのは、不純だと感じて、国文学専攻でありながら、漢文や歴史の勉強に力を入れていた学生時代を思い出させると同時に、英語もできない自分のような人間がチェコ語を勉強し続けてもいいのだ、本格的に勉強してもいいのだと思わせてくれたのが、『外国語の水曜日』に登場する学生さんたちだった。
この本を読んだときには、チェコに来てチェコ語を勉強しようという気にはなっていたから、チェコに来たことをこの本のせいにするつもりはない。でも、チェコ語の勉強がつらくなったときには、この本を読み返して、この本のことを思い出して、心の支えにしていたのである。
『羊皮紙に眠る文字たち』も『外国語の水曜日』も、中学校から英語が得意で、大学では英文科や、外国語学科を選んだというような、言わば外国語エリートよりも、英語なんか見たくもないという外国語アレルギーの人に読んでもらいたい本である。一読すれば、外国語を勉強する気にはならなくても、必要に迫られて英会話教室なんぞに通うのの何倍もの得るものがあるはずである。著者のすごさは、自身が多くの外国語に堪能でありながら、外国語が苦手で苦しんでいる人々への敬意を、優しさを忘れないところにある。
この二冊を、私が日本で購入できるタイミングで出版してくれた版元の現代書館にも感謝を捧げておきたい。それもこれもあれも、すべて含めて、偶然なんかではない。こは運命なりけりとぞ思うべし。
3月20日15時30分。
投稿した後で、オロモウツについて言及されたのが、『羊皮紙に眠る文字たち』だったか、『外国語の水曜日』だったか判然としなくなってしまった。確認しようにも貸し出し中で手元にない。好きな本を貸し出して人に読ませる悪癖がいけないのである。返却されたら、確認の上修正を加える予定である。3月22日追記。
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