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2020年08月31日

安倍首相辞任(八月廿八日)



 安倍首相が病気が理由で辞任するというニュースはチェコにも届いた。昭和天皇の不予などで他人の病気を商売にすることに味をしめた下衆どもが、健康に不安があるという憶測の報道を繰り返し、政治家としてというよりは、人間として品にも知性にもかける連中が説明責任があるとか喚いていたので、体調がよくないのだろうとは予想できた。だから辞任の表明が意外だったとは言わないが、できれば避けてほしかったと思う。
 いろいろ問題があったのは確かだけど、安倍政権が久しぶりのまともに機能する政権で、東日本大震災の混乱の中にあった日本をある程度立ち直らせたというのも、また事実である。あれこれ批判していた人たちの中の誰にやらせても、ここまでの結果は出せなかったに違いない。ここはその功績を高く評価し、病をおして首相の重責を務めてくれたことに感謝の言葉を送るのが正しかろう。

 辞任が前回に続いて突然だとか、健康管理能力が欠けているとか批判する人もいるようだが、病気の進行なんて人間が管理できるものではない以上、病気による辞任が突然のものになりがちなのは当然である。任期中に病気で倒れて亡くなった場合にも同様の批判をする気だろうか。無理して首相を続けて病状が悪化して現職のまま亡くなった場合には、混乱は辞任の場合よりもはるかに大きくなるはずだ。それを避けるための辞任だと考えれば、無責任なのではなく、責任を全うしたと評価すべきである。
 マスコミとしては、現職のまま入院してくれた方が、長々と根拠もない憶説ばかりの報道を続けられるから美味しかったのにと考えているのだろう。その本性が図らずも現れたのが、辞任の仕方に対する批判だったに違いない。個人的にはスキャンダルで辞任する方が突然政権を投げ出す無責任さを感じるが、その場合はマスコミには自分たちが報道で追い詰めてやめさせたという達成感があるから、辞任したこと自体は批判しないのだ。

 安倍内閣の政治を評価するとなると、外国にいて日本の空気を感じられず、報道を通じてしか知れないので難しい。アベノミクスという経済政策も、賛否両論あって、いや与党支持者は称賛し、野党支持者は酷評していたから、実際のところは大成功でも大失敗でもなく、それなりの効果があった、もしくはそれなりの効果しかなかったということか。

 知人にあれこれ便宜を図ったとかで集中砲火にさらされていたのも、何の問題もないとは言えないけど、口を極めて批判しなければならないほど重大な問題でもなく、いわば陳情に毛が生えてしまったようなものである。批判していた側も含めて、同じようなことをやっている政治家は多いだろうし、報道するマスコミの側も陳情はしているだろうに、陳情して政治家を動かさなければどうにもならない、陳情すれば便宜を図ってもらえる制度の運営のほうを批判すべきじゃないのかね。
 安倍首相の悪かったところは、自分は何もしていないと断言してしまったところで、陳情を受けただけとか、皆さんもやってるでしょとか答えておいて、以後常にお題目だけに終わる行政改革に取り組めばよかったのに。それで首相をうそをついていると批判するマスコミが担ぎ上げていたのが、スキャンダルで詰め腹切らされたことを怨みに思っていそうな元官僚というので、批判の信憑性が薄れていたのには笑ったけどさ。

 外交だと、チェコスロバキアとの国交樹立百周年でスロバキアに来られたのは大きなプラス、ついでにチェコに寄ってくれなかったのはちょっと残念だった。全体的に言うと、日本の存在感は増したように思う。特にトランプ大統領の出現も利用して、中国や韓国、北朝鮮に対して、無意味な譲歩をせずに、きっちりと主張すべきことを主張していたのは、賞賛に値する。後任が誰になるにせよ、この路線だけは引き継いでもらいたいところだ。
 日本国内で井の中の蛙になっていると、対話路線とか相手のことを考えてとかいう一見正しそうな意見に賛成してしまいそうなるのもわかるが、一方的に譲歩させられるのは対話とは言わないし、相手がこちらのことを配慮しないのに配慮するのは相手を付けあがらせるだけである。チェコと中国の近年の関係を見ていれば一目瞭然で、EUに対してはチェコは主権国家なんだからとえらそうなことをいう連中が、中国の顔色を伺ってダライラマやら台湾やらに対応しているのは滑稽ですらある。

 内政干渉という言葉を、自国がする場合と、される場合とで、別の意味で使用するような国とはまともな外交関係なんて結べないし、結ぶべきでもない。経済優先とかで経済的な関係を深めていくと、そこからつけ込まれるから、慎重にした方がいいと思うんだけどねえ。手遅れになる前に手を切って外交上必要最低限の付き合いにとどめておくのが一番である。ドイツに真似するべきところがあるとすれば、第二次世界大戦中のことはすでに終わったこととして、追悼などの儀式は行なっても、それを現実の政治や国際関係の中には持ち込ませないようにしているところだけである。

 安倍首相は、首相は辞任しても国会議員は続ける意向のようだ。上にも書いたが、安倍首相のことはこれまでの首相たちとの比較では、かなり高く評価している。これで、国会議員を辞めるときに、地元の後援会の意向に反して後継者を立てなかったら、過去最高と評価してもいいところである。
2020年8月29日9時。











タグ: 安倍首相 日本
posted by olomou?an at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年08月30日

ひろしまタイムライン2(八月廿七日)



 昨日の記事を書くのに、確認のためにいくつか詳しめの批判をしている記事を読んでみたら、投稿されたのは、「大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」という文だけではなく、その後に列車の中で好き勝手に暴れまわるのを見ながら何もできないことを悔しがる様子も投稿されていたという。これなら、「朝鮮人」に対して怒りや、反感を感じてしまうというのはわからなくはない。
 ただ、こんな過去の出来事についての投稿を読んで、反感を現在の韓国人や北朝鮮人に向ける短絡的な人がいるとしたら、その人はこんな投稿を読まなくても反韓だっただろうし、こんな投稿ひとつで両国関係が悪化するというなら、それは最初から関係がよくなかったことの証明に他ならない。過去のことを取りざたするから関係が悪化するのではなく、現在の関係が悪いから過去のことにまでさかのぼっていちゃもんを付けるのである。
 注釈をつけたところでそれは変わらないし、むしろ、若い人たちに戦争について知ってもらいたい、考えてもらいたいというこの企画の趣旨に反するだろう。仮にもアクティブラーニングなんてものに意味があるとすれば、この投稿をきっかけにいろいろ自分で調べられることではないのか。注釈をつけてしまったのでは、知識を与えられるだけで自分で調べたり考えたりしないで終わってしまう。それではもったいなさすぎるというものである。

 当時日本にいた朝鮮半島出身の人たちについて調べれば、労働力として強制的に連行されてきた人もいれば、非合法に滞在していた人、合法的に滞在していた人もいたということがわかるだろう。さらに調べを進めれば、合法的に滞在していた人たちには、他の日本人と同様に選挙権が与えられていて、中には日本人の支援を得て国会議員になった人もいることがわかる。同時に、選挙権が与えられていたということが、完全に日本人と平等であったということでも、日本人社会に完全に受け入れられていたということでもないことにも気づけるはずだ。
 逆になぜ、「朝鮮人」が暴れていられたのかというところに興味を持てば、終戦直後の日本の警察や憲兵隊が戦犯扱いされることを恐れて、外国人に対する取り締まりを放棄した結果、無法状態になってしまっていたこととか、証拠となる書類を焼き捨てたり、形だけの転勤の手続きをしたりと保身に忙殺されていた連中がいることなんかもわかる。無法状態の中で、特に闇市と呼ばれた場所で、一般の日本人を外国人の暴力から守るのに活躍したのがやくざだったなんてことを知ると、暴力団と政治家の癒着なんてところまで進んで戦後の歴史の見方が変わるかもしれない。

 また、この投稿は中高生が担当していて、実際の日記の記述をもとに自分たちで調べたり実体験したりしたことも反映させて投稿を作成しているということを考えると、終戦直後に治安維持が放棄される中、広島に向かう途中で遭遇した可能性のある困難の一つとして「朝鮮人」の暴力について知って、それを同世代の子供たちにも知ってもらおうと考えたと理解したくなる。その判断を、差別的の一言で断罪してしまうのが、いい大人のなすべきことなのか。
 差別的だとか問題があると批判している人の発言の中には、終戦直後の日本で起こった事実を隠蔽しなかったことにしようとするような意図が見え隠れして、ひろしまタイムラインの投稿よりも、むしろ批判のほうが、本来反でも親でもないニュートラルな日本人に、現在の韓国や北朝鮮に対する疑念や反感を感じさせているようにも思える。専門家だとかジャーナリストだとか自称するのであれば、投稿が取り上げたこの手の暴力行為をどう評価するのか触れた上で、批判するのがすじというものであろう。

 ここで提起されているのは、現代にもつながる普遍的な、同時に答を見つけにくい問題である。抑圧、弾圧されていた人たちが、その抑圧から解放された際に、復讐とばかりに暴力的行為に出るのは、終戦直後の日本に限らず、ままあることである。ドイツなら強制収容所から解放されたユダヤ人のグループがドイツ人に配給されるパンに毒を仕込んで大量殺人を計画していたことが知られるし、チェコでもH先生が調査したプシェロフ郊外で起こったドイツ人の無差別虐殺事件など各地で犠牲者が出ている。最悪なのは、この手の暴力の対象となるのが、多くの場合、実際に弾圧を加えていた軍隊や警察、政府関係者ではなく、民間人だという事実である。
 論理的にも、法的にも、仮に復讐の暴力が軍人や警察などに向かったとしても、否定されるべきで、犯人は処罰されるべきだということは重々理解しているが、それだけでいいのかという気持ちもまた否定できない。自分がやるかと言われたら答えられないが、復習したくなる気持ち、八つ当たりしたくなる気持ちは理解できなくもない。だからといって特に一般の人に対する攻撃を肯定したくもない。結局自分の親しい人がやるなら肯定し、それ以外は否定するという判断を自分がしてしまいそうなのが嫌になる。

 だから、戦後直後の日本で起きた「朝鮮人」による暴力について投稿すること自体を批判している人がいたときには、専門家を称する人たちが、「復讐としての暴力」をどう評価しているのかについても書かれているだろうと期待したのだが、全くの期待はずれだった。書かれているのは今更繰り返されても心に響きようのない「正論」ばかりで、投稿を担当した人たちも納得してはいないだろう。NHK広島は事態を収拾するために謝罪はしたけど、投稿の削除はしていないようだし。

 最近アメリカを中心に黒人差別反対の抗議運動や、抗議としてのボイコットが盛んである。その趣旨には全面的に賛同する。賛同するけれども共感しきれないのは、抗議運動に暴動がつき物だからで、破壊された店舗や自動車の列を見ると、抗議運動自体も支持したくなくなる。そしてその考えが正しいのかどうか確信が持てずに落ち着かない。これはこれ、それはそれと別物扱いするのが正しいとは思えないし。

 戦後直後の日本から現在にいたるまで繰り返され続けている復讐的な集団暴力をどう評価するのかというのは、感情的な面まで含めれば、すべての人にとって正しい答なんて存在しないだろう。だからこそ、自分たちがどのようにして折り合いをつけているのかを語ることが、専門家とかジャーナリストの役目であり責任なのではないか。少なくともそれを読んで考えることで自分なりの結論を見つけ出す助けにはなる。それなしには今回のツイッター投稿の問題提起を正面から受け止めたとは言えず、言を尽くして批判したとて、逃げでしかなく何の意味も持たない。
2020年8月28日10時。












タグ: 差別? 復讐
posted by olomou?an at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年08月29日

ひろしまタイムライン1(八月廿六日)



 このNHK広島放送局が提供しているというツイッターについては、ジャパンナレッジの スタッフブログ のようなもので触れられていたので存在は知っていた。恐らく、すでに身内にも戦争を実体験した人がいない人が増えているだろう若い人たちに、疑似的に戦争の悲惨さを伝えるための試みなのだろう。内容の説明を読むと、なかなか面白そうで、野心的な広島らしい試みだと思った。
 生来のSNS嫌いで、自分でツイッターを見ようなどとは思わないが、ジャパンナレッジのスタッフのように興味を持って追いかけている人は多いはずだ。子供のころから今江祥智の『ぼんぼん』など戦中戦後を描いた文学に親しみ、毎年八月になるとNHKで放送される戦争特集などを見てきた人間には今更目新しいこともそれほど多くはないのだろうが、そんな体験をしていない人たちにとっては、間接的にとはいえ、戦争を追体験できるいい機会で、戦争について学ぶきっかけになりそうである。

 だから、そのジャパンナレッジの記事を読んで何日か後に、ヤフーのニュースのところで「ひろしまタイムライン」という言葉を見かけたときには、ジャパンナレッジのスタッフと同じような感想を抱いた人が、紹介する記事を書いたのだろうと思ったのだが、さにあらず、差別を助長するようなことが書かれていると批判されていた。中高生が担当しているところもあるという話だったから、暴走したのをNHKのスタッフがチェックしきれなかったのかと記事を読んでびっくり。どこに差別を助長するような要素があるのかさっぱりわからなかったのである。
 どうも、「大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」とあるのが批判されているようなのだが、これ読んで「朝鮮人」に批判的になったり反感を持ったりする人がいるのだろうか。この時点では、読んだ記事に引用されていた文しか投稿されていないと思っていたので、意識は文中に使われている言葉に向かった。

 他の記事も読んでみると、「朝鮮人」という言葉を差別だと認識している人が本当にいるようで愕然とした。こういう地名を基にした言葉を差別用語にしていたら、そのうち使える言葉がなくなってしまう。戦前に使われた言葉でいえば「半島人」、終戦直後なら、この企画には使えないけど「三国人」のほうがよっぽど差別的に響きはすまいか。実際にはさらに侮蔑的な表現があったに決まっているのだから、「朝鮮人」というのは極めて穏当な表現にしか思えない。この手の差別認定が好きな人たちの論理に従っていたら、そのうち「韓国人」「北朝鮮人」「中国人」なんてのも差別語になりそうである。
 昔知り合いが日本からお土産に買ってきてくれた『図書館戦争』を読んで、「床屋」「魚屋」が差別用語扱いされているというのを知って、日本語を仕事として使うマスコミの連中の認識のあまりのひどさに絶望的な気分になったのを思い出す。一部の文筆家たちが言葉狩りだと憤慨するのも納得してしまう。差別意識というのは言葉そのものよりも、その使い方にこもることの方が多く、その気になれば、どんな言葉でも差別的に響かせられるものだ。

 昔、誰だった忘れたけど、SF作家が、これも朝鮮半島の国の呼称について、朝鮮だった国が南北に分かれたんだから、北朝鮮と南朝鮮というのが普通じゃないかと言い、その略称として北鮮、南鮮を使うのを出版社だったか、新聞社だったかに、差別的だとして拒否されたと憤慨する文章を読んだことがある。それなりの説得力はあったけど、戦後生まれで北朝鮮、韓国という呼称に慣れていた自分は、この作家の使う言葉を使おうとは思わなかった。ただ日本が李氏朝鮮を併合した事件が、何で「日朝併合」ではなく「日韓併合」と呼ばれるのだろうと不思議に思った。高校生だったからそこで止まってしまったけどさ。
 それから、確か儒学者で封建主義者と自称している(と記憶する)評論家の呉智英が、中国という呼称を拒否して支那という、世界中の言葉で中国を意味する言葉と同根の言葉を使う方が歴史的にも正しいと主張していたのも、確か支那は中国最初の統一王朝である秦に起源を持つ由緒正しい言葉だという説明もあってなるほどとは思ったけど、中国という呼称に慣れきっていたから、敢えて自分にとって新しい名称である支那を使う気にはなれなかった。支那を差別語というのは無理がありすぎるというのはその通りなのだろう。

 こちらに来て思うのは、中国の中華人民共和国の「中華」にしろ、韓国の大韓民国の「大」にしろ、大日本帝国の「大」と同じレベルの夜郎自大な自称に過ぎないのだから、外国である日本がその自己顕示欲の発露に付き合ってやる必要はあるのかねということである。日本の「大」に付き合ってくれた国があるとも思えないし、チェコ語にしてしまえば韓国も北朝鮮も、北と南は付くけど同じ「Korea」である。中国だって歴史的に王朝が変わろうが「?ína」で済ませてしまう。中国とか韓国という名称は、地域国家の略称ではなく王朝名のような扱いをしたほうがよかったのかもしれない。台湾の中華民国のようにさ。今更変えようはないだろうけど。

 我々の世代なら、差別を助長するとして糾弾された事件というと筒井康隆の断筆事件が真っ先に思い浮かぶ。あれは作家本人ではなくて、差別的とされた作品を教科書に採用しようとした出版社が批判されたのだったかな。毒のあるユーモアを売り物にする筒井の作品を教科書に採用するというのに腰砕けだった出版社の対応には、言論の自由とか表現の自由とかを金科玉条のように主張しているのが実はポーズでしかないことが明らかになって幻滅しかなかったし。
 この断筆宣言のおかげと言えそうなのは、少なくとも書籍の出版に関しては、差別用語という規制が多少緩んだように思われることで、差別用語とされる言葉が使われていることで復刊は難しいだろうと言われていた過去の名作が、巻末に但し書きを付けることで刊行される機会が増えてきたことぐらいか。今でも意に染まない書き換えを強いられて泣き寝入りしている作家はいそうではあるけど、言葉にレッテルを張るのには慎重になってほしいものである。

 なんてことを、「朝鮮人」が問題にされていると思っていたときには考えていたのである。その後、別の批判する記事を読んだら、また別な方向に思考が向かったのだが、それについてはまた今度。
2020年8月27日18時。








posted by olomou?an at 07:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年08月28日

ツィムルマンの夏最終回(八月廿五日)



14. Dobytí severního pólu
 表題になっているのはツィムルマンの北極探検隊の活動を描いた戯曲である。「Dobytí」というと普通は戦争で街や城を陥落させることを言うのだが、困難を乗り越えて高山の山頂などに到達するのにも使われる。当然南極点や北極点への到達も同様で、チェコ人の一団が困難を乗り越えて北極点に到達するまでの様子が、日記を基にして書かれた戯曲として「再現」される。
 チェコ人と北極と言うとザーブジェフ生まれのヤン・エスキモー・ベルツルの名前が思い浮かぶのだけど、この人は登場しないと思う。その代わりにと言うことでもないのだろうけど、リトベルと関係の深いレスリングのヨーロッパ王者のグスタフ・フリシュテンスキーの兄か弟が登場する。実際にいたのかどうかは知らんけど。

 プラハの何かのグループで、北極探検隊を組織しようという話になって、家庭持ちがさまざまな理由で辞退したせいで、独身者だけで出かけることになった旅の発端から、これで北極まで行けるとは思えないシーンが続出するのだけど、ツィムルマンだから仕方がない。食料が足りなくなったときに、犬ぞりは使っていなのに犬の肉を食べようと言い出すのは、メンバーの一人にそりを引かせて犬ぞり扱いをしてからその犬を食べると言うことだと理解したのだが、間違っているかもしれない。
 氷の柱を見つけて溶かしたら、前年北極探検に出かけて行方不明になっていたチェコ系アメリカ人(名前はそれっぽくなかったような気がしたけど)が出てきて、冷凍睡眠とか言っていたかなあ。話が予想外のほうに転がっていくので、自分の理解が正しいのかどうか確信が持てないシーンが多いのが困りものである。

 前半の研究発表の部分で一番印象残るのは、「?ivý obraz」についての部分である。直訳すると「生きた絵」となるので、「活動する写真」と同じで映画のことかと思ったら、むしろ「動かない演劇」だった。生きた人間が何かの役を演じて静止した状態を「絵」に見立てているらしい。最後のプラハの保険会社のためのものだという集合写真のような「?ivý obraz」は、ツィムルマンの書いた演者への役柄の説明を読んでも演じようもないという役が多い。それを、観客席に座っている客を舞台に引っ張りあげてやらせるのである。いい思い出にはなるのだろうけどさ。


15. ?eské nebe
 全部で15の作品のなかで、今回最後に放送された作品。放送する順番に何らかの基準があったのかどうかは不明。劇場の舞台での初演の順番というわけでもなさそうだし。とまれ題名は「チェコの天国」とでも訳せるもの。
 前半の研究発表の部分では、どうしてと疑問に思うほどに、詳細にそしてまじめに、チェコ社会を揺るがした古文書偽造事件を扱うのだが、これが後半のツィムルマンの演劇の伏線になっていた。重要なのは、ゼレナー・ホラ手稿、ドゥブール・クラーロベー手稿と呼ばれる偽文書の作成者がハンカとリンダという名前であること、偽造であることを指摘した人たちが、民族の敵扱いされたことなどである。

 もちろん笑えるシーンもあるのだけど日本語にできるかと言うと……。本当かどうかは知らないが、手稿をハンカの偽造だと見抜いた師匠も、実はロシアの古いとされる手稿の偽造の疑いがあるらしいのだが、怪しいのは発見された時期に発見された場所にいたチェコの「スラブ学者」と言った直後に、「スラビアファン(選手でも可)」じゃないからね、スラブ学者とスラビアファンが違うのはわかるよねとかいうコメントをはさむ。
 日本語だと勘違いの使用もない二つの言葉だけど、チェコ語ではスラブ学者は「スラビスタ(slavista)」で、スラビアファンは「スラービスタ(slávista)」で、チャールカ一つ分の違いしかないので、混同したり言い間違えたりしても不思議はないのである。ツィムルマンの演劇や映画に出てくる冗談はこういう翻訳しようもないものが多い。

 後半の劇のほうは、誰をチェコ天国に受け入れるかを決める天国評議会の様子を描いたものである。最初は、プラオテツ・チェフ、聖バーツラフ、コメンスキーという三人しかいない評議会のメンバーを増やそうというところから始まる。ヤン・フス、カレル・ハブリーチェク・ボロフスキーを加えた後、女性が必要だというコメンスキーの意見で、ボジェナ・ニェムツォバーではなく、なぜかニェムツォバーが書いたバビチカ(おばあさん)が選ばれる。その選択の過程で、ツィムルマンがまだ生きているのが残念だなんて言葉が漏れる。

 その後、誰を天国に迎え入れるかという議論で、民族を騙した形になっているハンカとリンダをどうするかという話になって、バビチカが、その女の子たちは良かれと思ってやったんだからと弁護するのだが、ハンカとリンダというのは確かに女性の名前だけど、この二人の場合は男性の名字なのである。手稿だけでなくて名前でも騙すのかなんて話になるのかな。
 ボロフスキーがパラツキーは駄目だと批判したり、フスがヤン・ジシカを高く評価してみせたり、チェコ出身のラデツキーがオーストリアの天国の代表としてチェコの天国を傘下に収める交渉に来たり、チェコの歴史を知っている人には嬉しいくすぐりに満ちている。戯曲が書かれたことになっている当時の状況を反映して、チェコを独立させてマサリクを国王にしようとか、もともとの名字マサーリクがスロバキア語っぽいからマサジークに変えさせようなんてシーンには、思わず納得しそうになってしまった。「Masa?ík」ならスロバキア語ではありえないし父親がスロバキア人であってもチェコの国王にふさわしい。

 この作品、チェコの歴史的な知識があればあるほど理解が進みそうだから、ツィムルマン完全理解計画をはじめるには、一番よさそうではあるのだよなあ。
2020年8月26日11時。










2020年08月27日

日本左翼の終わり(八月廿四日)



 日本では、何年か前に、民主党が分裂してできた何とか民主党と、かんとか民主党が再び合併して民主党が復活するらしい。元左翼少年としては日本の左翼政治家の劣化ぶりに唖然とするしかない。いやもともと左翼の政治家なんてそんなもんだったのかもしれないけど、○○民主党の本家本元の自民党と同じ政治の論理で動き始めて馬脚が現れたというのが正しいのかもしれない。左翼を自認するのをやめた1990年代の半ばには、日本の左翼政党は、共産党を除けば、すでに自民党や、元自民党に取り込まれて壊滅状態だったし、共産党は左翼政党というよりはすでに宗教政党だったし。
 左翼と言いながら、社会党が自民党を追ん出た小沢一派と組んで、非自民党政権を成立させたのも、当時はヨーロッパ旅行中で帰って来てびっくりだったけど、ありえないと思ったし、自衛隊合憲を認めてまで自民党と組んで政権を取ったのには裏切りとしか思えなかった。社会党が凋落した後の左翼系の政治家たちが小沢に振り回されて右往左往しているのには、もう何をかいわんやである。

 80年代に思想形成を行った元左翼としては、二世議員、三世議員ばかりの自民党は支持のしようもないから、左翼のまともな政党が、少なくとも野党としてまともに活動のできる野党が必要だと、ひそかに、投票はできないけど応援していた。それで、主義主張に関係なく味噌くそ一緒だった民主党が分裂した際には、右と左に分かれて、左の何とか民主党が、まともな左翼の野党になるんじゃないかと期待したのだけど……。

 政権批判も含めて、やっていることが、批判のための批判でしかなく、ただでさえ少なかった国会での建設的な議論は、自民党にも責任はあるんだろうけど、皆無になった印象である。挙句の果てには、またまた小沢と組んで元民主党が味噌もくそも集めて大集合というのだから、自民党政権は続きそうである。
 そもそも、政界再編とか野党大合同とかで常に中心になる小沢という人物は、自民党の最も自民党的な部分を受け継いだ政治家である。金権政治と左翼に批判され続けた田中派の中心にいて、その政治手法を受け継いでいる小沢と組んで政権を取ることが、左翼的に正しいとは思えない。一度政権を取って、味わったうまみが忘れられないのかねえ。そんなん左翼じゃなくて、自民党の政治家どもと同じじゃねえかよ。

 最近はひよってリベラルとか言ってるみたいだけど、民主でリベラルと言えば自由民主党である。結局日本の政治家は、例外を除けば、右も左も合わせて自民党A、自民党Bみたいな形で集約されるということか。名前を変えても実質は同じである。日本の政治家なんてそんなものと言えばその通りなのだけど、これで政治に関心を持たせようなんて、不可能を通り越して笑い話でしかない。今後も日本の選挙は、政治家の後援団体、宗教団体、労働組合なんかの組織票によって支配されていくのだろう。
 左翼上がりの変節者のいる自民党Bよりは、本来の自民党のほうが多少はマシかなと評価せざるを得ないのが残念である。自民党Bなんて与党としてだけでなく、野党としても役に立ちそうにないから、共産党のほうがマシというか、合併前の何とか民主党とかんとか民主党のほうがまだしも役に立ったんじゃないかとも思える。

 ひるがえって我がチェコは、地方選挙前のばらまき合戦が始まった。武漢風邪で非常事態宣言が出されてたせいで経営や雇用の維持に苦しんでいる企業や、収入の減った自営業者、地方自治体に対する金銭的な支援は、ほぼすべての党が争うように主張しているが、今度は外出禁止で一番制限を受けた高齢者に対して、一律でお金を配ろうなんてことを言い出した。
 名目はマスク代ってことになるのかな。クリスマスをめどに、年金生活者にたいして数千コルナ支給するというのだけど、予算の赤字は、すでに膨大な額に昇っているから、多少増えても大差ないと考えているようだ。この案、与党側から出されていて、野党は選挙前の人気取りだと批判しているが、野党も似たような個人に対するお金の配布を主張していたはずである。地方政府が独自に実行する可能性もあるし、ばらまき合戦は、国でも地方でも与党側が有利になる。ただ選挙で第一党になったからといって、単独で過半数に達しない場合には、政権を取れない可能性もあるのが、チェコの政治のややこしいところである。
2020年8月25日22時。









posted by olomou?an at 06:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年08月26日

ハンドボールも無事再開(八月廿三日)



 サッカーとは違って、途中でリーグ戦を打ち切って終了にしてしまったチェコのハンドボール界だが、九月からのシーズンはどうなるのだろうと考えて、 協会のホームページ を覗いたら、見違えるほど変わっていた。ページの一番上には、にこにこと笑っている男の人の写真があって、どこかで見たことがあると思ったら、かつて代表でセンタープレーヤーとして活躍したアロイス・ムラースのインタビュー記事だった。
 それによると、これから始まる新シーズンで、世界最高のリーグであるドイツリーグで、三人ものチェコ人監督がチームの指揮を執ることになったというので、そのうちのムラースが登場したのである。他の二人は、現役時代に全盛期を過ごしたキールで、引退直後に就任したコーチから昨夏監督に昇格して途中で終わったけどチームを優勝に導いたフィリップ・イーハと、2014年のチェコ代表監督就任と同時にドイツの2部のチームで監督を始めて、この夏1部のチームに移ったダニエル・クベシュである。

 二人が最初から男子チームのコーチ、監督から始めたのに対して、ムラースは最初は女子チームの監督だったという。ドイツの5部リーグにいたチームを3部にまで引き上げたところで、別の男子チームのコーチ兼、ジュニアチームの監督に移り、その仕事が評価されて、2部から昇格したチームの監督に迎え入れられたらしい。本人は、監督としてのキャリアは対照的だけど、我々三人ともセンタープレイヤーで、試合全体を見通しながらプレーしていたのが監督業に役に立っているとか言っていた。
 チェコ代表では、どちらかというと目だたいない存在だったムラースが、少しずつキャリアを積み上げてドイツ1部のチームの監督にまでなったのは素晴らしいことである。ムラースの話では、ドイツ以外で、三人も1部の監督を出している国はないのだとか。チェコのハンドボールの指導者たちも捨てたものではないのである。

 それはともかく、すでに9月からのシーズンの試合のリストのようなものも掲示してあって、日付はわからないけれども、リーグが開催される方向で準備が進んでいることをうかがわせる。さらに下のほうまで目を通すと、SNSのハンドボールというコーナーがあって、その記事から女子のカップ戦の準決勝以上が、行われているらしいことがわかった。
 それで、該当する記事やページを探してみたら、この週末を使って、なぜかクトナー・ホラで、土曜日に準決勝、日曜日に決勝と三位決定戦が行われることになっていた。最近はやりの「ファイナル4」とかいう形式の開催だが、これが予定通りだったのか、武漢風邪で打ち切りになったシーズンの特例だったのかはわからない。準々決勝まで終わっていたから、こんな形で実施することができたのだろう。男子の方はそこまで進んでいなかったのか、試合が行われるという情報はどこにもない。

 準決勝に進出したのは、我らがオロモウツと南ボヘミアのピーセク、オストラバのポルバと北ボヘミアのモストだった。スラビア・プラハがいないのがちょっと不思議だったけど、カップ戦はリーグ戦と違ってメンバーを落として下位のチームに負けることもあるからなあ。土曜日の準決勝はオロモウツとモストが勝って決勝進出を決めた。モストは最近は毎年決勝に出ているけど、オロモウツの決勝進出は久しぶりのような気がする
 決勝ではオロモウツは終盤まで接戦を演じたようだけど、最後に突き放されて準優勝に終わった。残念ではあるけど、今のオロモウツがモストに勝てるとも思えない。三位決定戦はオストラバの予想通りポルバが勝って、地域的に見ると、上からボヘミア、モラビア、シレジア、ボヘミアとバランスのいい順番になった。

 そして、今月末からは女子のスロバキアと合同のインテルリガが始まり、9月の初めからは男子の一部、エクストラリガが始まるようである。開催の可否の基準は、おそらくサッカーに準じると思われるが、財政基盤の弱いハンドボールであれだけの検査が実施できるかどうかはちょっと心配。
2020年8月24日15時。










タグ: オロモウツ

2020年08月25日

感染者は監督?(八月廿二日)



 木曜日の時点で開催が危ぶまれていたプルゼニュとオパバの試合は、三回目の検査の結果が出て開催されることが最終的に決定したのは、試合開始の三時間前だったという。金曜日の午前中に陽性の選手が出たというニュースが流れたオロモウツの場合には、その日の夜遅くには二度目の検査の結果が出て開催が決まったから、混乱は小さかったはずだ。ただ試合を見るためにスタジアムに出向いた観客は混乱したに違いない。
 本来ならチームを指揮しているはずのラータル監督と、コーチの姿がなかったのである。GMを務めるミナーシュが数年ぶりの現場復帰で代理を務め、監督とコーチは病欠と発表された。オロモウツで感染が明らかになったのは選手一人と、チームスタッフ二人、大事開幕戦で監督とコーチの二人が不在だということは、恐らく陽性の判定が出たのはこの二人だったのだろう。

 チェコでは感染者の実名は、プライバシーを尊重して、本人が希望したり取材に応じたりしない限り報道されることはないから、現時点では憶測に過ぎないけれども、いずれは監督本人がインタビューであれこれ語ってくれるに違いない。こういう経験は、他のチームでも監督が感染するという可能性はあるわけだし、広く共有して次に生かしていく必要があるものだからさ。
 試合のほうは、前半の得点を守りきってシグマが勝った。後半PKを取られたけど、リベレツの選手が失敗してくれたおかげである。それに加えて、リベレツのフロマダはシグマ側に退場モノの行為があったのに審判が見逃したとかいっていた。今シーズンはほぼ全試合でビデオ審判が置かれることになっているはずなのだけど、この試合はどうだったのだろう。まあ、オロモウツが勝ったから問題はない。

 昨日の夜の時点で、プラハの保健所の指示でチーム全体が活動停止に入ることが決まったようなことが言われていた、4人もの陽性者を選手から出したボヘミアンズだが、チェコテレビも、放送予定だったカードを変更することを発表した後で、サッカー協会と保健所の話し合いがあったのか、再度検査を行って全員陰性だったら、試合が行われることになった。
 ボヘミアンズのほうはその二回目の検査で全員陰性という結果が出て、明日の試合が行なわれるのは確実化と思われたのだが、今度は対戦相手のムラダー・ボレスラフでも陽性の選手がいたことが明らかになった。こちらも再度全員の検査を行って、その結果で最終的に試合開催の是非を決めることになるようだが、チェコテレビでは、再度予定を変更して、当初の予定通りボヘミアンズとボレスラフの試合を放送することになっている。

 さらに日曜日に試合を行うことになっているチームの中で、バニーク・オストラバと、チェスケー・ブデヨビツェでも検査で陽性の選手が一人ずつ出た。この二チームも土曜日中に二回目の検査を受けて、陽性だった選手を除くと全員が院生であることが確認されたため、日曜日の試合は予定通り行なわれることになっている。
 今シーズンは、いつもより2チーム多くて、全部で18チームのうち、すでに7チームが感染者を出している。昨シーズン末のカルビナーとオパバを入れれば、半数の9チームになる。週に一回以上のペースで全員検査をしていれば、間違いも含めて陽性になる選手は今後も出続けるに違いない。十二月半ばの中断前までに、感染者ゼロというチームが残っているだろうか。2部のチームやアイスホッケーのチームでも感染者が出ているところがあるし、試合の内容や結果よりも、開催されるかどうかが気になってしまう。

 今日は午後からは自転車のロードレースのチェコ選手権(スロバキアと共催)を見ていたのだが、来週から始まるツール・ド・フランスでは、感染選手が二人出た時点でチーム全体が出場を禁止されることになっているなんてことを言っていた。ツールへの出場が決まっているクロイツィグルとサガンは、感染の危険を減らすためにチームから出場を禁止されたのだとか。全チーム最後まで走りとおせるといいのだけど、むずかしいだろうなあ。
2020年8月23日10時。











2020年08月24日

武漢風邪オロモウツでも(八月廿一日)



 スラビア・プラハの選手に陽性者が出て、リーグ戦の開幕がどうなるか心配されたチェコのサッカーリーグだが、スラビアに関しては、陽性者が出たときの対応のルールが変更され、他の選手やチームスタッフが二度目の検査で全員陰性だったことで、問題なく開幕戦に出場できることになった。

 それが、今週に入って試合のある週に義務付けられている選手、スタッフの全員検査で、プルゼニュの選手から一人、陽性が出てしまった。厚生省の感染地図でも最近プルゼニュとその近辺で、新規の感染者の数が増えているから、その中に巻き込まれたのかもしれない。それで、その選手をチームから隔離して、自宅監禁状態にしてお仕舞というわけにはいかず、再度全員の検査が行われた。
 その結果、選手は全員陰性だったけど、チームスタッフの中に陽性になった人が一人出てしまった。監督やコーチのような直接選手たちを指導する役割の人ではないようだが、これで問題なく出場できるとはいかなくなった。プルゼニュにとっては、リーグの開幕戦はともかく、来週半ばにチャンピオンズリーグの予選が控えていることもあって、チーム全体が隔離されて活動停止に追い込まれるというのは、何としても避けたかったはずである。
 それで、今日また、陽性者を除く全員の検査が行われた。どうも、全員陰性の結果が出るまで、陽性者を除いて検査を繰り返すというのが、チェコのスポーツ界の方針のようである。今週に入って三回目の検査で、ようやく全員陰性となり、今日のオパバとの開幕戦が実施されることが決まった。当然来週のオランダでのアルクマールとの試合も問題なく開催されるはずである。ただし、来週末の第2節の試合に向けては、来週また検査を受けることになる。これだけ繰り返し検査を受ける選手も大変である。環境保護主義者たちが、資源の無駄遣いとか言って批判しないものかね。

 とまれ、プルゼニュはこれで何とか落ち着いたのだが、今日になってオロモウツでも陽性者が出たことが明らかになった。選手一人とチームスタッフ二人の合計三人が陽性ということで、チームを離れて自宅監禁状態に置かれているという。そしてこちらも当然、二回目の全員検査が行われて、その結果次第では、オロモウツで予定されているリベレツとの開幕戦は延期ということになる。
 個人的には、開幕の試合よりも、選手の間に流行が広がっていることが明らかになった場合に、オロモウツのスタジアムで9月上旬に行われることになっている代表の試合がどうなるかが気になる。まだ時間もあるし、スタジアムを徹底的に消毒して開催ということになるのかな。一番いいのは二回目の検査で全員陰性となって、無事にリベレツとの試合が行われることではあるけど。
 最初に感染が発覚したスラビアの選手も含めて、リーグ開幕前に感染が明らかになった選手とチームスタッフは全員無症状だというから、そこまで念入りに検査しなくてもいいような気もする。感染症の専門家の中には、現状では全員検査なんて検査の精度の問題もあるから無駄で、発熱などの症状のある人だけ検査すれば十分だなんてことを言っている人もいるし。

 ここにあげたチェコのチーム以上に困ったことになっているのが、スロバキアのスロバン・ブラチスラバである。チャンピオンズリーグの予選一回戦でフェロー諸島のチームと対戦することになったのだが、フェロー諸島に送り出したチームの選手の中から陽性者が一人出たのである。この結果を受けてフェロー諸島側が、行政も巻き込んで試合の開催を拒否した。
 試合が開催できない場合には、原因となったチームが不戦敗になるという規則があって、今年のチャンピンズリーグの予選は、少なくとも一回戦は、一試合で勝ち抜けと敗退が決まるので、中止にするわけにはいかないスロバン側は、陰性の選手だけでUEFAの規定する最低の選手数は満たしているから、開催には何の問題もないと主張していた。それに対しては、検査受けてから結果が出るまでの間に、禁止されているのにホテルを出た選手がいるというのが問題にされていた。
 それで、結局はUEFAが仲裁に乗り出し、当初水曜日の予定だった試合を金曜日に延期することが決まった。それに加えてスロバン側には、フェロー諸島にいる選手の出場が認められず、スロバキアに残っている選手たちを呼び寄せて出場させることが求められた。この決定に至った理由についてはよくわからない。

 そして木曜日に、Bチームの選手も含めて新たな選手たちと代理監督がフェロー諸島に到着したのだが、出発前の検査では全員陰性の結果が出ていたにもかかわらず、到着後の検査で一人の選手が陽性になってしまった。これでまたチーム全体が滞在先のホテルに隔離されることになり、試合の開催はできなくなった。スロバン側は、UEFAの基準に基づけば問題なく試合ができるはずなのに、フェロー諸島側が、試合を開催させないために全力を上げていると批判している。フェロー諸島の感染対策にUEFAが口を挟むことはありえないから、このまま没収試合になって、スロバンの0−3での敗退が決まることになりそうだ。
 救いは、敗退してもヨーロッパリーグの予選にまわることか。国別のポイントランキングでも、今年は特例で1試合で勝ちぬけが決まった場合には、勝ったチームに1.5、負けたチームに0.5ポイントがあたえられることになっているようだ。もちろん、90分で引き分けの場合には1点ずつで延長で勝ちぬけが決まるわけだけど、チェコから出場するチームが0ポイントで敗退するというたまにある最悪の事態は避けられるということだ。

 なんてことを書いた後で、シグマオロモウツの二回目の検査は全員陰性におわって、明日の試合は予定通り開催することが決まったというニュースが入ってきた。同時にボヘミアンズプラハで4人の選手が陽性になるというこれまでで最大の感染が発生した結果、チーム全体が五日間の隔離状態に置かれることになり、ボヘミアンズとムラダー・ボレスラフの日曜日の試合は延期されることになりそうだという。開幕戦からこれ、先が思いやられる話である。
2020年8月21日21時。












2020年08月23日

ツィムルマンの夏5(八月廿日)



12. Cimrman v ?íši hudby
 いつものスビェラークとスモリャクに、音楽の担当のクルサークを加えて、復元されたツィムルマンのオペラを題材とした作品。最初の研究発表の部分でも、音楽活動とか音楽教育について語られていたと思う。ただ、音楽家としてのツィムルマンについては、既に過去の作品でも取り上げられているのだけど、整合性が取れているのかどうか不安になる。細かいことにはこだわらずに、それぞれの作品に登場する冗談を楽しむのが正しいのだろうけど、どこが可笑しいのかわからなくて笑えないところが多いのが悲しい。
 それはともかく、復元されたというオペラは外国人でも笑えるところが結構ある。そもそも「チェコの技術者のインドにおける成功」なんて題名からしてどこか可笑しい。この前はアフリカが舞台の戯曲だったけど、今度はインドでオペラである(実際の初演の順番は違うと思う)。ストーリーは、多分、スモリャク演じるチェコのエンジニアが、インドで正しいビールの製造法を教えるというか、事前に導入されたドイツ製の設備がうまく動かないのを、修理して使えるようにするというものだったと思う。

 そういうあるものをうまく使って、もしくは機械に独自の改善を加えて使えるようにするというのは、チェコの人たちの得意技で、時には想定されていないような使い方で機械を動かして生産できてしまうのが、日系企業の悩みの種だったりもする。チェコの人たちは、それをチェコの「黄金の手」なんて言って誇っているのだが、それがそのまま歌詞になっている。「zlaté ru?i?ky」なんて歌いながらスモリャクが金色の手袋をはめた手をちらちらと見せるのには、笑ってしまった。
 いや、オペラの歌詞に、「チェコの技術者」とか「チェコのボルト、ナット、釘」なんてのが並んでいるのはどうなんだろう。インドの荘園領主?もドイツから来ている(という設定の)技術者もチェコ語で歌うのはいいけど、ドイツ語で叫ぶまではドイツ人だとはわからなかった。インドの領主にチェコのビールを飲ませて感動させるというシーンもあったけど、スビェラークもいっしょになって感動していたけど、何の役だったんだろう。やっぱり、わかるようでわからないのである。

 普通のオペラや演劇の舞台は、チェコ語で歌ったりしゃべったりしているのを聞いても、何を言っているのか聞き取れないことが多いのだけど、ツィムルマンの舞台は、オペラの歌詞も含めて、何を言っているのかは大体聞き取れる。問題は聞き取れても、意味が、特に隠された意味がわからないところにある。見るたびにわかるところは増えているとは思うのだけどねえ。あまりしていないけど、修行はまだまだ続く。


13. Dlouhý, Široký a Krátkozraký
 チェコのことを知っている人なら、題名からチェコの有名な童話と関係があることがわかるだろう。本来は、「Dlouhý, Široký a Bystrozraký」で、確か背の高い男と、横に幅広い、つまり太った男と、目ざとい男の三人が登場してあれこれする話だったと思うけれども、あんまり覚えていない。内容は覚えてはいないけど、チェコでは最も有名な童話のひとつだということは覚えている。ツィムルマンバージョンは、目ざといのではなく近視の男が登場することになる。
 研究発表の部分は、ツィムルマンの子供向けの童話についての考え方だったかなあ。童話劇のほうは……。いくつかの童話をごちゃ混ぜにしたような印象で、子供たちには受け入れられなかったという(ことになっている)のも納得である。大人の聴衆にとっては、そのごちゃ混ぜぶりも笑うべきところなのだろう。

 一番の見所は、呪いかなんかで男性に変えられてしまった女性が、王子さまが魔法のリングを使うことで女性にもどるシーンで、袖に隠れたり幕を下ろしたりしないまま、舞台の上で、観客が見ている前で、男性から女性に変身するのは世界的に見ても稀有なことらしい。とはいっても、付け髭を上から釣り糸で引っ張って剥ぎ取ったり、上から鬘を頭の上に落としたりするだけだから、他の劇場でやらないのも当然というかなんというか。付け髭とっても髭生やしてたし。こういうのを世界初とか言って誇るのもツィムルマン的な笑いなんだろうなあ。

 このシリーズも次で終わりかな。
2020年8月21日9時。










2020年08月22日

関係代名詞4「který」前置詞付2(八月十九日)



 六月末に関係代名詞「který」について書き始めながら、長らく中断してしまったのは、前置詞を付けて使う例文を考えるのが面倒だったからである。面倒な理由は、以前も書いたが、日本語では語順の関係もあって連体修飾節を使わないような文でも、チェコ語では関係代名詞が使えるところにある。「使える」であって、「使わなければならない」ではないところが重要で、日本語の文をそのまま関係代名詞を使わずに訳しても、全く問題ない。だから、例文を考えようとすると、普段自分では関係代名詞を使わないような文しか思い浮かばず、にっちもさっちもいかなくなったのである。前回の時点ですでにダメダメだったんだけど。

 それで、今回は前回から一歩進んで、関係代名詞を使った文を自然な日本語に訳して、それをさらにチェコ語にしてそれでも問題はないんだということを示そうと思う。昨日、次のような文を見かけた。細部には違いがあると思うけれども気にしても仕方がない。

・Dnes jsme m?li dlouhé jednání, b?hem kterého jsme se na tom dohodli.

 関係代名詞について解説すれば、中性単数の「jednání」を受けて、2格を取る前置詞「b?hem」の後だから、中性単数2格で「kterého」になっているのは問題なかろう。強引に連体修飾節を使って訳すと「我々は今日、それについて合意に達した長い交渉を持った」とでもなるだろうか。意味は分からなくはないが個人的には、「我々は今日長い交渉の末、それについて合意に達した」としたいところである。これをチェコ語にすると、以下のようになるだろうか。

・Dnes jsme m?li dlouhé jednání a na tom jsme se dohodli.

 日本人というよりは、日本語人にはこちらの方が精神衛生上楽なのである。だから前回、自然な日本語で訳してみた文、「日本のお米がないと生きていけないのだが、両親が送ってくれた」「そのパーティーで美しい女性と出会い、すぐに恋に落ちた」も次のように訳してかまわない。

・Nedokázal bych ?ít bez japonské rý?e, ale rodi?e mi ji na št?stí poslali.

 「na št?stí」はなくてもいいけれども、嬉しい気持ちを強調するために入れてみた。

・Seznámil se v tomto ve?írku s krásnou ?enou a hned se do ní zamiloval.


 次は逆に日本語から始めてみよう。例えば「仕事を探すのを手伝ってくれた友達を夕食に招待した」という文は、日本人なら次のように訳すだろう。

・Pozval jsem ne ve?e?i kamaráda, který mi pomáhal p?i hledání práce.

 最後の部分がなんだか怪しいなあとか、これでは仕事が見つかったのかどうかわからないとか不安になった場合には、仕事を見つけたことがはっきりするようにちょっと変えてもいい。

・Pozval jsem ne ve?e?i kamaráda, který mi pomáhal, abych našel práci.

 短いのに無駄に複雑な文になったのが気に食わない。「私が仕事を見つけられるように手伝ってくれた」ということは、「友達のおかげで仕事が見つかった」ということなので、というところまで考えがたどり着くと、多分チェコの人がよく使うと思われる文が出来上がる。

・Pozval jsem ne ve?e?i kamaráda, díky kterému jsem našel práci.

 日本人としては、「見つけることができた」と可能を入れたくなるけれども、チェコ語では要らないはず。ちゃんとしたチェコ語の文を書かなければいけないときには、こんな手順であれこれ考えて、自然なチェコ語だと思われる文を作り上げるのである。もっとも、わかるけど変だと言われることの方が多いのだけど、同じことを、いろいろな方法で表現する練習をするというのも、やはり語学の勉強には重要で、関係代名詞は日本語に直訳すると、なんか変な文になるのでその練習にうってつけだといってもいい。

 ちなみに、あんまり難しく考えたくないときは次のような文にしてしまう。

・Kdy? jsem hledal práci, kamarád mi pomáhal, a proto jsem ho pozval na ve?e?i.

 直訳すると「仕事を探していたとき友達が手伝ってくれたから、夕食に招待した」となって微妙に違うけれども、言いたいことは十分に伝わるはず。そもそも、同じ文でも言い方によって微妙に違うニュアンスがこめられたり、文脈によって微妙に捕らえられれかたが変わったりするものだから、ごく単純な文ならともかく、チェコ語と日本語の文が常に一対一で対応するなんてことはありえない。
 だから、いろいろな表現の仕方を覚える意味があるのだけど、その分、文脈まで考えなければらない作文のときに、どの表現を使うのがいいのかで悩むことになる。それもまた外国語を勉強する醍醐味なのかもしれないけど、日本語で文章を書くときの何倍も、下手すれば何十倍も時間をかけた挙句に、お馬鹿な文章になってしまうから泣きたくなる。
 どうにもこうにも中途半端だけど、「který」の話はひとまずこれでお仕舞いにして、次に進むことにする。
2020年8月19日24時30分。













タグ: 関係代名詞
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