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2019年10月31日
建国記念日にあたって(十月廿九日)
昨日、十月廿八日は、1918年にチェコスロバキアの独立が達成されて101回目の記念日だった。毎年、この日には、チェコ各地で記念の式典が行われ、プラハ城では、昼間は新しく軍に入隊した人たちの宣誓式が行われ、夜は、国会議員や一般の人たちの推薦に基づいて大統領が選んだ人たちに、勲章を与える叙勲式が行われる。
チェコの勲章は、いくつかのカテゴリーに分かれるが、一番上なのは、国章の獅子の紋章に基づいた白獅子勲章、次が建国の父マサリクにちなむ、T.G.マサリク勲章。その下に軍人向けの英雄的行為に対する勲章と、芸術家やスポーツ選手など一般の人向けの専門分野における偉大な業績に対して与えられる勲章となっている。
毎年、数百人の推薦があり、実際に叙勲されるのは、数十人ということが多いのだが、ゼマン大統領は、毎年のように、最終的な人選に関して批判にさらされている。批判されるのは、叙勲の人選だけではなく、叙勲式に招待する人の人選についてもで、今年も、市民民主党党首のフィアラ氏や、下院の副議長などを招待しなかったことで批判されている。
招待されなかった理由は、例の文化大臣罷免、任命の騒動の際に、市民民主党などの野党が中心となって、国会議員の手でゼマン大統領を最高裁判所に提訴しようとしたことに対する報復ではないかと言われている。招待されなかった人たちは、下院の副議長として積極的にこの件に関わったらしい。これに対して、ゼマン大統領は招待されなかった人たちの精神の安寧のために招待しなかったんだとか言っているようだ。
昨年、一昨年は、チェコでは大統領案件となっている大学教授の任命、正確には任命拒否に関して、国立大学の学長たちが反ゼマンに回ったために、学長も招待されなかったのだが、今年はもめ事がなかったおかげか、いつものように招待されていた。ただ出席したかどうかは話が別で、オロモウツのパラツキー大学の学長は、あれこれ口実を付けて欠席したようである。この人だけでなく、政治家の中にも招待されていても欠席を選んだという人もいる。
さて、今年叙勲されたのは、すべて合わせて42人。何人かは没後の叙勲で、イン・メモリアムという形で遺族が勲章を受け取りに来ていた。最初の叙勲者もイン・メモリアムで、ヤン・アントニーン・バテャ。兄トマーシュの急死後、後を継いでバテャ社の経営にあたった人物である。共産党政権によって、ナチス協力者の烙印を押されて、亡命を余儀なくされたが、実際にはベネシュの亡命政権や、反ナチスの運動にひそかに資金提供をしていたらしい。
一番上の白獅子勲章の受章者は、バテャ氏も入れて、8人だったのだが、その中で特筆すべきは、バーツラフ・クラウス大統領である。ハベル大統領も、退任後に叙勲されているからそれに倣ったものと考えていいのだろうか。とはいえ90年代のチェコの政界を牛耳ってきた二人の大物が、手を結べば不可能なことは何もないという事実の象徴のようにも見えなくはない。ゼマン大統領が次の大統領によって叙勲されるかどうかも注目される。
もう一人の注目は、ルドルフ・シュステル氏で、2000年代に入ってチェコに来た人間にはそれほどなじみのない名前なのだが、1999年から一期5年間、スロバキアの大統領を務めた人物である。つまりはゼマン大統領がチェコの首相を務めていた時代の大統領ということになる。次の大統領だったガシュパロビチ氏もすでに叙勲されているから、大統領経験者を互いに叙勲するという流れができつつあるのかもしれない。
この日の叙勲の中で、一番見る人の心を打ったのは、アフガニスタンで活動中にテロの犠牲となり英雄的行動に対する勲章を授与された軍人の遺族とともに列席した軍用犬だっただろう。この兵士は訓練した二頭の犬とともにアフガニスタンに派遣され、活動中にテロに遭い命を落としたのだが、犬たちは無事チェコに戻ってきた。そのうちの一頭が、出席していたのである。もう一頭は、再度のアフガン派遣から帰国したばかりということで呼ばれなかったようだ。
この人だけでなく、第一次世界大戦中にチェコスロバキアの独立のために軍団を組織して戦った人たちや、第二次世界大戦中にイギリス空軍に所属してナチスの空軍と戦った人たち、国内で反ナチスのゲリラ活動をした人たち、ビロード革命後に国外に派遣されて命を落とした人たちなど、毎年軍隊関係者への叙勲が行なわれている。チェコは国のために命を落とした人を大切にしているのである。こういうのを見ると、日本の自衛隊が不憫に見えてくる。
もう一人の目玉は、アイスホッケーのヤロミール・ヤーグルで、すでにクラウス大統領の時代に叙勲されているが、今回はちょっとランクの高いものを与えられた。ニュースなどには詳しく書かれていないが、それぞれの勲章に、一等から確か三等まであって、ヤーグルは今回偉大な業績に対する勲章の一等をもらったようだ。その業績というのは、ゼマン大統領と一緒に中国に出かけて中国のアイスホッケーに対する支援を約束したことらしい。
ゼマン大統領は、すでに来年の建国記念日には、イン・メモリアムで、カレル・ゴットを叙勲することを明らかにしている。今年はまだ遺族の悲しみが癒えていないからさけて、あえて来年にすると語っていた。根強いゴットの人気を考えると、反対できる政党、政治家はいないだろうなあ。個人的には、天に帰った神に、勲章なんて不遜じゃないかと思うのだけど。
ゼマン大統領が批判されるのは、国事行為であるはずの叙勲式を私物化していると言う点である。ただ、叙勲式だけでなく、大統領の地位、大統領の職権そのものを私物化する傾向があるというほうが正しいような気もする。これがビロード革命から30年を経たチェコの現実なのである。
2019年10月29日23時30分。
2019年10月30日
ハンベンゴロー(十月廿八日)
本来昨日の記事にするつもりだった話だが、18世紀の後半に突如日本に現れ、極東におけるロシアの領土的野望について警告を発して消えたハンベンゴローの話である。ハンベンゴローは、四国の阿波、奄美大島に立ち寄って長崎のオランダ人宛てに書簡を残し、それが翻訳されて幕府の手にも渡ったらしい。
そんな日本史的な話は、ここではどうでもよくて、気になるのはこの人の出自である。ハンベンゴロー、辞書によってはハンベンゴロとも書かれる人物の本名はベニョフスキ、もしくはベニョフスキーで、似ても似つかないのは、通詞が翻訳の際に読み誤った結果だという。最初の「ハン」がオランダ語で名字の前におく「ファン」だというのは想像できても、ベニョフスキが「ベンゴロ」になるのはよくわからない。最初に聞いたときには「ハンペンゴロー」だと思って、はんぺん好きの外国人につけられたあだ名だと思ってしまった。
それはともかく、この人の経歴だが、ここはまたジャパンナレッジから辞書を引こう。冒頭だけ引くが、最後まで読むと、ほら吹き男爵ばりの滅茶苦茶な人だったということがわかる。
ハンガリー生まれの冒険旅行家。一七四六年生まれる。年若くしてポーランド軍に投じロシア軍と戦って捕虜となり、カムチャツカに流罪となり服役中一七七一年(明和八)脱走、ロシア船を奪い千島列島から太平洋を日本列島に沿うて南下しさらに台湾を経て澳門(マカオ)に至り、フランスに渡る。
"ベニョフスキー【Moric August Aladar Benyovzky】", 国史大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2019-10-29)
気になるのはハンガリー生まれというところで、ベニョフスキーという名字がどうもハンガリーっぽくなく、スラブの臭いを感じてしまうのである。ポーランド軍に入ったというからその時に改姓したのかとも思ったが、「Benyovszky」という表記を見るとそれもどうも違いそうである。ポーランド語であれば、末尾は「ki」となるはずだと断言しかけて、昔のポーランド語では「ky」もありだったのかもしれないと思いついた。
ただ、慣例的に日本ではポーランド人であれば、名字の末尾は「スキ」と短音にするのに、ベニョフスキーの場合には、短音と長音の表記が混在している。チェコ語の名字も、かつては、今でもかもだけど、記号を取っ払った英語からの音写が行われた結果、短音で表記されることが多かったことを考えると、チェコ語の臭いも感じてしまう。この辺は自分の頭がチェコ語化している証拠で、同時に弊害でもある。
ジャパンナレッジには幸いなことに東洋文庫も収録されていて、そのうちの一冊として当人の作品である『ベニョフスキー航海記』も読めるようになっている。東洋文庫には解説もついているので、斜め読みしてみた。そうすると、ベニョフスキーの出身は、ハンガリーはハンガリーでも上部ハンガリーと呼ばれる現在のスロバキアだということがわかった。ニトラ州とか書いてあったかな。
ベニョフスキーのころはスロバキアなんて国は影も形もなく、ハンガリー王国の一部だったわけだから、ハンガリー人として扱われるのも当然である。ニトラの辺りであれば、ハンガリー系とスロバキア系の住民が混住していた可能性は高いし、ベニョフスキーはスロバキア系のハンガリー人だったのかもしれない。そうすると初めて日本を訪れた、上陸できたかどうかは微妙だけど、スロバキア人ということになる。
念のために、チェコ語のウィキペディアで確認すると、ベニョフスキーの出身地は、ニトラよりはかなり北にあるブルボベーという小さな町で、西スロバキアの中心都市の一つトルナバの近くにあるようだ。ハンガリー語名はベルボ。いや、それ以前に「スロバキアの冒険家」として、スロバキア人だと明記されている。証拠としては、ギムナジウムの卒業の際の書類にスロバキアの貴族であることが書かれているという事実が上げられている。
ハンガリーに支配されていた時代に、スロバキア系の貴族が存在したのかどうかはよくわからないが、高位ではなく在地領主レベルの存在であればスロバキア系の人がいないと国の運営が難しかったのではないかとも思う。
ベニョフスキーという貴族家については、14世紀以前にに成立したハンガリーの貴族家で、もともとは「z Benyó a Urbanó」と書かれていたらしい。そうすると「z Benyó」が、オランダ語風に「ファン・ベンヨー」と書かれて、それが「ハンベンゴロー」と誤読されたと考えるのがよさそうだ。ちなみにこの家名、初代のベンヤミンとウルバンという兄弟の名前から出ているようである。名前、地名、家名という経過をたどったと考えていいのかな。問題はベンヨーという地名の存在が確認できないことだけど。
とりあえずの結論として、ハンベンゴローは、ハンガリーの貴族の出身で、スロバキアに領地を得て在地化しつつあった家系出身の山師であったと結論付けておく。著書がかなり早い時期にスロバキア語でも出版されているのも裏づけになりそうである。
2019年10月29日10時30分。
2019年10月29日
ジャポンスコ(十月廿七日)
オーストリア・ハンガリー帝国時代のチェコ人で、日本まで出かけた人物というと、チェコスロバキア独立直前のマサリク大統領の名前が挙がるのだけど、それ以前にも、ヤン・レツルなどの建築関係者が日本で仕事をして原爆ドームなどの建設にかかわっている。さらにその前には、ヨゼフ・コジェンスキーという人物が明治時代半ばの日本を訪れ記録を残している。日本を訪れたのは1893年のことで、ヨーロッパからアメリカにわたり、太平洋を渡って日本に来たあと、インド、エジプトを経てヨーロッパに戻るという世界一周旅行の途中だった。
この人は世界一周旅行の記録のうち、日本にかかわる部分を『ジャポンスコ』と題して1895年に刊行している。その本、もしくはその前に刊行した世界一周旅行記の日本にかかわる部分が翻訳されて出版されている。最初に出版されたのは1985年のことで、サイマル出版会から『明治のジャポンスコ ボヘミア教育総監の日本観察記』と題して刊行されている。
二回目は、朝日新聞社がアサヒ文庫の一冊として、2001年に『ジャポンスコ ボヘミア人旅行家が見た1893年の日本』という題で刊行している。両者の訳者がともに鈴木文彦となっていることから、サイマルの本を文庫化する際に改題したと考えるのが自然であろう。二冊目は購入したことがあって、訳者はかつてチェコスロバキアで日本大使を務めた方ではなかったか。
問題は、副題の部分に含まれる著者の肩書きの「ボヘミア教育総監」と「ボヘミア人旅行家」なのだが、コジェンスキーについてチェコ語で調べても、「ボヘミア教育総監」という役職に就いたという記述は出てこない。ただし、教育者であったことは確かなようで、チェコ国内各地の学校で教鞭をとっている。そして、教育者は世界を知らなければならないという教育観を持っていたようで、実践のために世界各地を訪れ、その記録を出版したらしい。
ヨーロッパの国々を初め、オーストラリアやニュージーランドにまで足を伸ばしたコジェンスキーの旅は、同時代のエミル・ホルプなどの冒険かとは違って、前人未到の地に出かけるのではなく、すでにヨーロッパにとっては既知となった土地に出かけるものだった。出かけた土地で自分の興味、観点に基づいて記録を残し、本にまとめて出版していたのである。その意味では二冊目の「旅行家」という肩書きは正しいということになる。
ただ、「ボヘミア人」というのはどうなのだろう。当時、ボヘミア人、モラビア人という民族意識の分離があったのかなあ。モラビアの人はこだわりそうだけど、ボヘミアの人は無神経にみんなまとめてチェコ人と呼んでいたのではないかと想像する。オーストリア・ハンガリー帝国内の行政区分ではボヘミアとモラビアは歴史的に別地域扱いされていただろうけど、民族としてはまとめてチェコ人扱いだったはずだ。
コジェンスキーは、教職の傍ら、プラハの国立博物館などさまざまな自然科学の研究機関でも活動するなどチェコを代表する博物学者の一人だった。1927年にはカレル大学から名誉博士の称号を得ている。この人は、アジアやオセアニア、アフリカなどの遠隔地についてだけでなく、ヨーロッパ内の国についても旅行の記録を残している。
もう一つ書いておくべきことがあるとすれば、チェコ最初の日本研究家とも言えるヨエ・フロウハが甥にあたるという事実だろうか。フロウハは子どものころからコジェンスキーの影響を受けて日本に興味をもつようになったに違いない。今はヤポンスコと呼ばれている日本が、昔はジャポンスコと呼ばれていたということも書いておくべきだったか。
本来、ココシュカについて書いているときに思い出したハンベンゴローについての話の枕のつもりで書き始めたのだけど、長くなったので独立させることにした。
2019年10月28日22時。
2019年10月28日
ココシュカ(十月廿六日)
テレビのニュースで懐かしい名前を聞いた。画家のココシュカの作品が、チェコ国内のオークションで7850万コルナで落札され、最高落札額の記録を更新したというのだ。これまでの記録は、チェコの誇るキュビズム、もしくはオルフィズムの画家クプカの作品で、今年の5月に7800万コルナで、新しい記録を樹立したばかりだった。
画家ココシュカの名前を知ったのはいつのことだっただろうか。森雅裕の『歩くと星がこわれる』の装丁に使われていた「ベートーベン・フリーズ」からクリムトを知り、クリムト周辺の画家としてエゴン・シーレなんかとともに名前が挙がっていたのを読んだのだろうか。SF漫画の『アフター・ゼロ』で名前が出ていたのも覚えている。
クリムトが、パトロンだったプリマベシ家を通じて、オロモウツとつながりがあり、シーレがチェスキー・クルムロフと結びついているように、ココシュカもチェコとつながりがあるのだろうか。プラハの国立美術館では、クリムトの絵とともにココシュカの絵も展示されていたような気もする。記憶を穿り返すと、ココシュカの家族にチェコ人がいたとか、プラハに滞在したとかいう話を聞いたことがある。
せっかくなので、ジャパンナレッジに入っている百科事典の類にココシュカとチェコの関係について書かれていないか調べてみた。ほとんどの事典がオーストリアの画家でウィーンで育ったということしか記していない中、『 デジタル版 集英社世界文学大事典』だけは「オーストリアの画家,劇作家。プラハ出身の芸術家を両親にもち」と、画家としてだけでなく劇作家として活動したことに加えて、その出自についても記している。『世界大百科事典』にも「父の原郷プラハ」とあるが、プラハ出身なのは、両親なのか父親だけなのか。
チェコ側の情報では、父親の家系がもともとプラハに住んでいて、オーストリア(当時はハプスブルク家の支配下で同じ国)に移住して、金細工師の仕事を営んでいたという。細工師なら「芸術家」と考えていいのかな。ただし、父、もしくは両親がプラハ出身という情報は出てこなかった。名字の表記も完全にドイツ語化しているし、移住して何世代かたっていたと考えるのが自然だろう。
ナチスの台頭で、ドイツ、オーストリアにいられなくなった事情については、『日本大百科全書』の記述が一番詳しかった。「37年ナチスによって作品を没収され、38年ロンドンに亡命。同地でギリシア神話をモチーフとする作品を描いて、戦争とナチスへの抗議を行った」とあって、恐らくヒトラーによって頽廃芸術家の一人として認定されたことを示しているのだろうが、チェコ、いや当時のチェコスロバキアとのかかわりが全く見えてこない。
ここでもう一度チェコ語の情報に戻ると、ココシュカは1934年にチェコスロバキアに亡命している。前年の1933年にプラハで絵の展覧会を開催したのがきっかけになっているとらしい。亡命を受け入れたチェコスロバキアでは、ココシュカに市民権、もしくは国籍を与えて、ナチスから守ろうとしたようで、ココシュカは感謝の印として、最晩年のマサリク大統領の肖像を残している。
残念ながら、チェコスロバキアは、マサリク大統領の没後、1938年のミュンヘン協定の結果解体され、ココシュカは迫るナチスの強意を避けて、再度、今度はイギリスに亡命を余儀なくされた。それまでのプラハ滞在の数年の間に、16枚のプラハの風景を描いた作品を残しており、今回オークションにかけられたのはそのうちの一枚である。他の15枚がどこにあるのかは知らないが、1枚ぐらいはプラハの国立美術館にあるのではないかと期待している。
ココシュカはプラハを第二の故郷として考えていたようで、あるチェコ人女性と知り合って後に結婚している。第二次世界大戦後に共産化したチェコスロバキアのプラハを訪れることはなかったが、1968年のプラハの春の事件のときには、コメントを発表したらしい。
ココシュカと言えば、マーラーの未亡人アルマとの恋愛でも知られている。マーラーはイフラバの近くの出身ということで、その夫人ももしかしたらチェコ人かなと期待したのだが、そんなことはなく、オーストリアの画家の娘だった。
ところで、ココシュカは、自分のことをどのぐらいチェコ人だと考えていたのだろうか。同じウィーン育ちのツィムルマンとビツァンは、自分のことをチェコ人だと認識していたようだけど。
2019年10月27日23時。
オークションに出されたのとは別物だけど、16枚のうちの一つかな。
2019年10月27日
待望の辞書(十月廿五日)
語学の学習において、辞書というものが果たす役割の大きさは言うまでもないだろう。初学のころは、教科書の後ろについている単語集みたいなものでごまかせても、学習が進むにつれて辞書の必要性は大きくなる。最初に買う辞書は単語数もそれほど多くない小さな辞書でいいだろうが、専門的に勉強したり、翻訳や通訳などを仕事にしようと思うと語彙数の多い大きな辞書がほしくなる。
日本では英語の辞書なら、小さなものから大きなものまで、どこに需要があるのかといいたくなるぐらいたくさんの種類の辞書が、出版されている。ドイツ語やフランス語も以前ほどではないかもしれないが、それなりに充実しているはずである。かつては学ぶ人の多かったロシア語は、今はどうなっているのだろう。どうなっているにしても、チェコ語よりはましだというのは確実だけど。
チェコ語の場合、これまで手に入る辞書はひとつしかなかった。それがこれ↓。
もともとは1990年代の初めに京産大が出版したものが、長らく絶版になっていたのを、語学の教科書、辞書の出版社である大学書林が版権を買い取って再刊したものである。大学書林では、90年代の後半に独自のチェコ語日本語辞典を編集する計画があったらしい。それが頓挫した結果、京産大の辞書を再刊することになったのだろう。
チェコに来てからは、カレル大学の日本語関係者から、チェコ側と日本側が共同でチェコ語日本語辞典、日本語チェコ語辞典を編集する計画があったという話を聞いた。それには、作業はかなり進んでいたのに、日本側でPC上においてあったデータが、何らかの事情で消えてしまったので、出版できなかったという落ちがつく。これが大学書林の計画と同じものを指しているのかどうかは不明だけど、これで新しくて大きなチェコ語日本語辞典は刊行されないだろうと諦めた。
チェコ語と英語の辞典なら大きいものもあるのだけど、英語の説明を読んでも理解できない人間には使いようがない。それで、仕方なく意味を調べる必要があるときには、チェコ語のチェコ語辞典を使うようになった。辞書で調べるよりも、人に訊くことの方が多かったけど、チェコ語で言葉の意味を説明されたという点では、チェコ語の辞書を使うのと大差ない。
それが、チェコスロバキア独立100周年の記念日をめどに大型のチェコ語日本語辞典を刊行する計画があると聞いたのは、いつのことだっただろうか。去年は刊行されたというニュースがなかったのでどうなったのかなと思っていたら、今年の10月になって、日本の知り合いから出たよという連絡があった。「honto」で確認したら、編者は、わがチェコ語の基礎を作った教科書の著者、石川達夫氏。詳しすぎるとまで言われた教科書と同様に辞書も詳しい記述がなされているに違いない。
全三冊+別巻二冊という大部の辞書で、編集に携わった石川氏以下の方々には感謝の言葉しかない。さあ、買うぞと言いたいのだけど、現時点では、取り扱いができないことになっている。残念。
念のためにアマゾンで確認すると、別巻の二冊だけは買えるようである。全冊セットじゃなくて、一冊ずつの販売ということのようだ。別巻だけあってもなあ。必要なのはチェコ語日本語の部分であって、逆じゃない。
実はこの辞書、電子版も存在するようで、辞書編集プロジェクトの HP が存在する。そして、 電子版チェコ語日本語辞書 はシェアウェアとして販売されていて、60日間の試用期間が設けられている。
個人的には紙の本の方がいいんだけどなあ。日本にいれば出版社に直接注文できるはずだから、電子辞書よりも紙の辞書のほうがいいという方は こちら から是非。送料と税関で引っかかって取られる税金の問題さえなければ、親に買わせて送らせるのだけど……。親不孝は今に始まったことじゃないしさ。
2019年10月26日22時。
タグ: 辞書
2019年10月26日
もったいない記事(十月廿四日)
かつてのチェコスロバキアを代表するサッカー選手についてのなかなかいい記事を発見した。「 酔っ払いながらゴール 」という記事で、以前このブログでもちょっと触れたことのあるチェコスロバキアの不世出のストライカー、ヨゼフ・ビツァンを取り上げたもの。ビツァンを選んだ目の付け所は素晴らしいし、内容も悪くない。
悪くないのだけど、ところどころにチェコを知っている人なら、思わず待ていと言ってしまうような不正確な記載があって、非常にもったいない記事になってしまっている。この記事の著者は、サッカー関係のライターの中では知性派だと思っていたのだけど……。この著者にしてこれということは、他のライターのチェコ、スロバキア関係の記事が読めないわけである。
チェコ語読みすればビツァンとなるべき名字を、ビカンと書いているのは、オーストリアではそう読む可能性があるので許そう。最初に「ティ・ボレ」と言いそうになったのは、2ページ目の「ボヘミア人の父、チェコ人の母」という記述である。チェコ語における日本語の「チェコ」に当たる言葉が意味するものは、二つあって、一つは日本語でボヘミアと呼ばれるチェコの西半分、もう一つはチェコ全体である。つまり「ボヘミア人の父、チェコ人の母」というのは、二人ともチェコ人だったということになる。ボヘミア人という言葉を使うのは、チェコ国内の他の地域の人をモラビア人、シレジア人と呼び分ける場合だけである。
ついでにその上の「愛称はペピ」にも説明がほしい。これは本名のヨゼフから作られる呼び名で、普通は「ペパ」となり呼びかけの時には「ペポ」という形になるのだが、話し言葉では「ペピ」という形が使われることもある。もしくは「ペパ」から作られる指小形の「ペピーク」「ペピーノ」の省略形だと考えてもよさそうだ。名前から作られたもので、見た目とか動作の癖なんかからつくられる愛称とは違うのである。
1937年にスラビアに移籍した事情は、3ページ目に「ナチスへの協力を拒否して」と書かれているが、この時点ではまだナチスによるオーストリア併合は行なわれていないから、「協力を拒否し」たのは、スラビアに移籍後、1938年のミュンヘン協定とその後のナチスによるボヘミア・モラビア保護領の設置の後のことのはずである。1937年にはすでに予想されていたナチスのオーストリア併合を避けてオーストリアを離れたというのなら正しいだろうけど。
実は、ビツァンには、ヒトラーから直々にドイツ代表になるように求められて、自分はチェコ人だと言って断ったという伝説がある。これも現在のチェコの大部分が保護領としてナチスの支配下に入った1939年以後のことだろう。オリンピックのマラソンで優勝した最初の日本選手が朝鮮半島の人だったというのを考えれば、保護領のビツァンがドイツ代表になってもおかしくはなかったはずだ。それ以前はドイツ代表に呼ばれる言われはない。
ドイツ代表を断ったビツァンは、当時のボヘミア・モラビア保護領代表チームで活動することになるのだが、保護領代表では対外試合の数は増えず、選手としての全盛期をこの時代に過ごしたことが、外国チームとの対戦が少なく、実力に比して、国外ではあまり知られていない理由の一つになっているようである。
一番問題なのは、3ページ目の「クラローヴァ」というチーム名である。チームのあった町の名前だったとしても、チーム名だったとしても、チェコスロバキアに存在したチームの名前ではありえない。恐らく「フラデツ・クラーロベー」を間違えて「クラローヴァ」としてしまったのだろうけど、せっかくいい記事を書いているのだから、もうちょっと正確な調査をするなり、まともなアドバイザーを雇えよと思ってしまった。編集部の責任と言ってもいいけど、サッカー雑誌の編集にチェコのサッカーチームの名前を知っている人なんていないだろうし。日本でも広島で活躍したチェルニーのいたチームで、今もその息子のチェルニーが頑張っているんだけどね。
とまれ、このくだり、共産党政権がビツァンを目の敵にしていじめていたように読めてしまうが、これも正確には違う。迫害の対象になっていたのは、スラビア・プラハというチームであって、ビツァンがチェコの東の果て、オストラバのビートコビツェのチームに移籍させられたのも、ビツァンをプラハから追放するよりは、スラビアの弱体化を図ったというのが正しそうだ。ビートコビツェで2シーズンプレーした後、フラデツ・クラーロベーに移籍したのである。
共産党政権は、敵を作ることで国民の一体感を作り出そうとしていたらしいが、サッカーチームの中では、スラビアが「階級の敵」として選ばれ、特にチェコスロバキアでスターリニズムによる支配が行われていた1960年代の初めぐらいまでは、いろいろな形での嫌がらせを受け、この間何度か2部降格の憂き目を見ている。スラビアがディナモに改称されていたのもそんな嫌がらせの一環であり、スターリニズムから解放された60年代には再びスラビアに改称することが認められている。ちなみに旧共産圏でディナモと名のつくチームは、秘密警察とつながりがあったものが多いらしいから、なかなか皮肉な名づけである。
それに、ビツァンがサッカーだけでなく別の仕事を持っていたというのも、資産を没収されたというのも、当時の共産党体制の下ではごく普通のことであって、ことさらにビツァンが迫害されていたと言う理由にはならない。本当に迫害されていたら、おそらく昨日書いたハンケやダウチークのように亡命を余儀なくされていたはずだ。共産主義では、原則として、もしくは建前上は、すべての資産を国有化して、国民全体で共有していたのだし、スポーツ選手はステートアマと呼ばれる存在で、実質的にはプロとしてスポーツで給料をもらっていながら、書類上は国営企業の社員として登録され仕事をして給料をもらっていることになっていたのである。でなきゃオリンピックに出られなかった時代なのである。
誰かが同時のことを回想して、毎日サッカーの練習をして、給料日にだけ会社に行けばよかったなんて言っていたような気もする。ただ、実際にどのぐらい仕事をさせされるかは、名目上の雇用主である国営企業と、実質上の雇用主であるクラブの話し合いで決まったらしいから、スラビアの選手たちは他のチームの選手たちより働かされていたかもしれない。
知る人ぞ知る存在でしかないビツァンを取り上げて、知られざるエピソードを紹介するすごくいい記事なのに、時代背景とか社会情勢、地理的な情報についての部分がぼろぼろで、酔っぱらったままプレーしたという話も、どこまで本当なのかと疑問を持ってしまう。繰り返すが、非常にもったいない話である。まあ、チェコは審判が試合前に酒飲んで出てくるような国だから、ビツァンが酔っぱらってプレーしたというのもあり得る話だとは思う。同時に、絶対にビツァンだけではないという確信も持ってしまうけどね。
2019年10月25日17時。
2019年10月25日
スラビアとバルセロナの意外な関係(十月廿三日)
チャンピオンズリーグのグループステージの試合のために、あのバルセロナがプラハにやってきた。この前、バルセロナがチェコのチームと試合をしたのは、プルゼニュだっただろうか、それともその前のまだ強かったころのスパルタだろうか。プルゼニュだとしたら大敗しているはずだし、スラビアが前回チャンピオンズリーグに出たときも、はるかに格上のチームには惨敗ばかりだったのは覚えているから、今回は負けてもいいけどせめて接戦になることを期待していた。前節では負けたとはいえ、ドルトムント相手に結構いい試合をしたというし、勝つのは無理でもそれぐらいは期待してもよかろう。
試合は、例によって、チェコテレビで放送されず見ることができなかったのだが、スラビア大健闘で、負けたとはいえ、1−2の1点差で決勝点も不運な自殺点だったらしい。ダイジェストで見ても全く手も足も出なかったというわけではないようだから、チェコのサッカー、イングランドに勝った代表だけでなくクラブチームレベルでもいい方向に向かいつつある。とはいえ最悪のグループなのでスラビアが3位でヨーロッパリーグに進むためには、最低でもホームでインテルに勝たなければいけないという状況なのだけどさ。
見ることのできなかった試合よりも、こちらの興味を引いたのは、両チームが試合前の記者会見などで触れたらしいチェコとスペインの遠く離れた2つのチームを結びつけた選手と監督の話だった。チェコはこれまで多くの優秀な選手を西ヨーロッパの国々のクラブに提供してきたが、これまでバルセロナでプレーした経験のあるチェコ人は一人しかいないらしい。その唯一のチェコ人選手が国内でプレーしたのがスラビアだったらしい。
その選手の名前はイジー・ハンケ(Ji?í Hanke)。名字はドイツ系ッぽいけど、名前は完全にチェコ人である。出身は中央ボヘミアの世界遺産にもなっているクトナー・ホラの近くのドルニー・ブチツェという小さな村で、第二次世界大戦中の1944年にスラビア移籍を果たした。1924年生まれだというから二十歳前後のことだったようだ。それから数年の間はスラビアの中心選手だったのである。
スポーツ新聞の記事によるとハンケは、第二次世界大戦中は、ナチスドイツににらまれていて、戦後は共産党ににらまれていたらしい。戦後共産党に警戒されたのはドイツ系だからというのだけど、スラビアを離れて、西ドイツに亡命した、もしくは西ドイツのチームに移籍したのが、1950年ごろのことで、ハンブルクのザンクト・パウリでプレーしたあと、1951年にコロンビアのミジョナリオスというチームに移籍して有名らしいアルフレッド・ディ・ステファノとともにプレーしてリーグ優勝を果たしている。
コロンビアは1シーズンで離れて、フランスのチームを経て、バルセロナに移籍したのが1952年のことだという。ただしウィキペディアには1953年と書かれている。それはともかく、最初の試合はまだ正式契約前だったので、フェルナンデスという偽名で出場したらしい。バルセロナには3シーズン在籍して、あわせて57試合に出場し、5ゴールを決めたという。ポジションはフォワードだったかな。在籍期間中にはスペインリーグ優勝にも貢献している。
その後、スイスに移籍して、選手兼監督を務めた後、引退し監督として活躍したようだ。ビロード革命後も故郷のチェコに戻ってくることはなく、2006年にスイスのローザンヌで亡くなっている。このチェコスロバキア代表としても活躍したハンケについては、試合前にバルセロナがHPで発表したらしい。
そして、ハンケをバルセロナに呼んだ人物が、当時バルセロナの監督を務めていたスロバキア人、フェルディナント・ダウチ
ただし、スラビアがこの時期の最大の成功としているのは、リーグ優勝ではなく、1938年の中央ヨーロッパカップの優勝である。ダウチ
中央ヨーロッパカップというのは当時の世界最大のクラブレベルでの国際大会で、現在のチャンピオンズリーグに当たる存在である。開始された1927年から1940年まで、多少の出入りはありながら、チェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア、イタリア、スイス、ユーゴスラビア、ルーマニアのチームが参加して行なわれたものである。すべての7つの国のチームが出場したのは、1937年だけで、すべての年に参加チームを送ったのはハンガリーだけらしいけど。
それはともかく、ダウチ
その後はスペインを中心に、アトレティコ・ビルバオ、アトレティコ・マドリードなど多くのチームで監督を務めた。世界をまたに駆けて活躍するチェコ人監督、スロバキア人監督の走りのような存在だったのだ。亡くなったのは、冷戦の終了も近い1986年だから、チェコスロバキアには帰りたくても帰れなかったのだろう。こちらの監督については試合前の記者会見で、スラビアのオーナーを務めるトブルディークが言及していた。
実はダウチーク監督時代のバルセロナには、もう一人、スラビアとは関係ないけど、チェコスロバキアと関係するラディスラフ・クバラ(Ladislav Kubala)という選手が所属していた。ハンガリーのブダペストで生まれたためハンガリー人とされることもあるようだが、両親はスロバキア人で第二次世界大戦後にスロバキアに逃げてきて、スロバン・ブラチスラバの選手になり、チェコスロバキア代表でもプレーした。
共産党のクーデター後の1949年には、オーストリアに亡命し、イタリアのクラブを経てバルセロナに移籍して、同じスロバキア人のダウチーク監督の元でプレーを始めたのである。バルセロナでは10年ほどプレーして、194ゴールあげている。その活躍もあって、スペイン代表にも選出され、後にはスペイン代表の監督も務めている。帰化はしていたのだろうけど、スロバキア人がスペイン代表の監督を務めていたなんて、思いもしなかった。それを言うと、戦後すぐにチェコ、スロバキアの選手、監督がバルセロナで活躍していたというのも驚きの歴史なのだけど。
2019年10月24日22時。
2019年10月24日
納得できないこと2(十月廿二日)
最近、ラグビー万歳の報道だけでなく、日本のよさを発見したというか、外国のメディアが日本を、日本人のいわゆる「おもてなし」精神を絶賛しているという報道もひんぱんに見かける。外国の目を通して日本を見つめなおすというのは、相対化という面から言っても悪いことではないだろうし、個人的にも嫌いではないからついつい読んでしまう。読み終わって、また釈然としない思いに囚われる。
それは、この手の記事のほとんどが、外国での日本の賞賛をそのまま紹介するだけで、そこにどんな意味があるのか、全く気にしていないからである。欧米の人たちが日本を誉める場合に、単に異国情緒に酔って、何度目かの日本の再発見をしたという可能性もある。そんなのはありがたがりたいとは思えない。
日本でのラグビーのワールドカップが特別だというニュースを流すのなら、過去の大会ではどうだったのかという検証が必要だろう。開催国のファンたちが他の国の国歌を歌うなんてことは日本以外ではなさそうだとは思うけれども、移民やその子孫の存在を考えると、開催国の人だということが区別できなかっただけという可能性もなくはない。
負けている格下のチームに対する声援も、他の国での大会でも起こっていると思うけどなあ。ラグビーというスポーツは、見るものを判官びいきにするところがある。心が折れて諦めたチームは別だが、格下とされるチームや、劣勢のチームが、必死に頑張っているのを見るとついつい応援してしまうものである。自国の代表の試合では別だろうけど。その辺、過去の日本代表が負けたけど検討した試合で、日本への声援が沸き起こらなかったかどうかぐらいのことは調べて書いてほしいものである。
それに日本的なおもてなしも、評判になっているようだが、どの国でもその国なりのおもてなしというのをしたのではないだろうか。遠路はるばるやってきた外国の代表チームを放置するとは思えない。今回は日本的なやり方が、外国の人たちの気に入ってもらえたようだけど、過去の大会での日本代表に対する対応とか振り返ってくれないかなあ。
今回日本の対応を誉めている国々は、ラグビー大国であることが多く、これまでのワールドカップに際しても、多くの情報が提供されていたことだろう。それに対して、日本のメディアがラグビーのワールドカップについてここまで詳しく取り上げるのは初めてのことである。当然一般のファンの元に届いた過去の情報も少ない。だから、過去の大会と日本の大会を比較して、特別なところがあるとすれば、それはどこなのかという記事を期待したのだけど。比較もなしに日本は特別だと言われても、説得力がない。
それから、期待はずれだったのは、過去の日本で行なわれた、他のスポーツの世界大会との比較もないままに、今回のラグビーのワールドカップを称賛していることで、2002年のサッカーのワールドカップのときと比べて、日本社会の対応は変わったのか。変わったとすればどこが違うのかとか、代わった原因なんかを考察する記事もなかったなあ。
今回は各地でラグビー選手たちが地元の人たち、特にラグビーをしている子供たちとの交流イベントを行なっていたけど、2002年はどうだったんだろう。どこの話だったかは忘れたけど、大会前のキャンプ地となった自治体と、キャンプをした国との交流が、ワールドカップ後も続いているなんて報道を見かけたこともあるから、あの時もいろいろな形で交流が行なわれていたはずだ。今回ラグビーのワールドカップで来日した国のチームと縁のあった自治体も、その縁を大会後も結び続けられるのが理想なのだろうけど、どうなるだろうか。
昔、確か熊本でハンドボールの世界選手権が行われたときには、県内の市町村で、担当の国を決めて小中学校の子供たちが試合に招待されて、その国を応援したなんて話もあった気がする。単に応援するだけでなく、その国についても勉強したんじゃなかったかな。観客が少なすぎるのを避けるとともに、子供たちに勉強のきっかけを与えるという一石二鳥のやり口は非常に日本的である。こいう考え方もまた今回のワールドカップの成功につながっているような気がする。
ちなみに、今回、個人的に一番気に入った日本的なものは、全員ではなかったけど、試合中にボールが外に出たときに、ボールを渡す係りの子供たちが、軽くちょこんと頭を下げながらボールを渡していたシーンである。お辞儀とはいえない程度の軽い頭の下げ方に、日本だなあと思ってしまった。自分でもこっちでやってしまうし。
とまれ、全体的に今回の日本万歳の記事を読んで思うのは、日本のマスコミが、ダライ・ラマみたいにヨーロッパに踊らされているんじゃないかということだ。ダライ・ラマの場合には自分の意思で踊らされているからいいけど、日本のマスコミは気づいてないだろうなあ。日本に対する誇りよりも、イギリスやフランスに対するコンプレックスの現れのようにも見えてしまう。
2019年10月23日23時。
2019年10月23日
納得できないこと(十月廿一日)
日本でワールドカップが開催され、日本代表が多くの人にとっては予想外の活躍をしたことで、ラグビーに注目が集まり、ネット上には、だからラグビーは素晴らしい的な記事と、外国のメディアが日本の素晴らしさをたたえているという記事があふれている。こういう記事は嫌いじゃないからついつい目を通してしまうのだが、読み終わって消化不良というか、プロの報道の在り方としてこれでいいのかと言いたくなるものが多い。
ラグビーが素晴らしいスポーツであることを否定する気はまったくない。ただ、今の、ラグビーのノーサイド精神は素晴らしいとか、ラグビーは人間を育てるスポーツだとかいう報道は、すでに80年代終わりのラグビーブームのときにも、もてはやされた言説である。表面的な部分だけさらって大騒ぎをしたマスコミが、Jリーグの発足で沸くサッカーに目を移したとたんに、極端に言えば、全く報道されなくなり、ラグビーは忘れられたスポーツと化した。
あのときも、いまでいう「にわかファン」が大量にいたのを、協会が舵取りに失敗して、取り込むことができなかったのだ。その失敗に実力よりも見てくれと人気優先だったマスコミの報道も大きく寄与した。2015年のワールドカップの後も同じような失敗をしていることを考えると、今の報道の在り方、協会の舵取りのしかたが、これでいいのかと心配になる。
ラグビーの典型的なノーサイド精神の報道にしても、サッカーやハンドボールなど他のスポーツでもやっていることを、ラグビーにしかないというような形で大騒ぎしているのを読むと、今後が心配になる。今ラグビーを絶賛している連中が、そのうちラグビーに否定的なことを言いだす理由にもなりかねない。
試合が終わった後、両チームの選手が審判や監督も含めて握手をして回るのも、ユニフォームの交換をするのも、応援してくれたファンの前に行ってお礼のあいさつをするのも、サッカーでもハンドボールでも普通にやっていることだ。ラグビーのノーサイド精神が、他のスポーツと違う部分はどこなのか、相対的な視点からの説明がないのが不満でならない。こんな根拠のない持ち上げは、昔懐かしい誉め殺しにつながって、ラグビー人気の凋落を導きかねない。
ノーサイド精神の表れを、他のスポーツの比較で書いていた記事も少ないながら、見かけた。サッカーや野球では、原則として両チームのファンが別々の観客席に座るのに対して、ラグビーは区別しないでみんなまとめてごちゃ混ぜに座るというのは確かにその通りである。その理由は、サッカーのファンとは違ってフーリガンがいないので、観客動詞の乱闘が発生しないからだとか、イギリスではサッカーから締め出されたフーリガン、スポーツのファンというよりは暴れたいだけのアホどもが、ラグビーの会場に出没していて、問題になっているとか、今回のワールドカップで問題にならなかったのはフーリガン連中に日本までくるお金がなかったのだろうなんてことも書いてあった。こういう記事こそ読まれるべきだと思うのだけどね。
個人的には、試合終了後の退場のシーンで、互いに花道みたいなものを作って健闘をたたえあうのはラグビーだけだし、お互いの控え室を訪問し合って交流を深めたり、その際の写真をSNSで公表するというのもラグビーぐらいのものだろうと思う。ただ、確信がないので、その辺をジャーナリストに他のスポーツではどうなのか確認した上で書いてほしいのだけど、ないものねだりなのかなあ。
ノーサイド精神と言えば、高校時代にラグビー部の顧問の先生が、「ラグビーの試合は勝ち負けを決めるのが最終的な目標ではない。だから大会で引き分けに終わった場合も延長をしてまで決着をつけたりはしないで、抽選で先に進むチームを決めるんだ」と言っていたのを覚えている。1989年の高校選手権の決勝が開催されずに両校優勝になったときも、この説明で残念だけど、それがラグビーなら仕方がないと思ったのだ。
それなのに、今回のワールドカップで試合が中止になったり、中止になりそうになったりしたときに一部の国の代表関係者が中止は納得できないと駄々をこねたのを、ノーサイドの精神から批判する記事が見られなかったのも納得がいかない。ラグビーでは勝ち負けを決めること以上に大切なことがあるのではないのか。それが今回は台風による災害の被害を最小限にすることだったはずである。
特にラグビー関係者から、大会前にサインしたとからという理由ではなく、他のスポーツではなく、ラグビーなのだから、ラグビーのノーサイド精神から行けば、どんなに残念で悔しくても、中止を受け入れなければならないのだという批判が聞こえてこなかったのが残念でならない。海外では、中止の試合が出たことを強く批判するメディアやラグビー関係者がいたという話だけど、その態度もまた批判されるべきであろう。
それから、アイルランドの監督が、日本との試合での判定におかしいところがあったと試合後に発言したのも、ノーサイド精神から逸脱していないか。次の試合に向けたけん制なんて解説もあったけど、ラグビー万歳で、ノーサイド精神をもてはやすのなら、やはり批判するべきだろう。ラグビー関係者にはしがらみもあって言えないのかもしれないが、雑誌や新聞の記者なら問題ないはずだ。
試合前の言葉の投げあいは、ノーサイドになる前だから問題ないにしても、試合が終わった後に、判定や相手のプレーに文句を付けるのはラグビーには似合わない。そんなのは、いちゃもんをつけるのが仕事の記者たちや、ラグビーを酒の肴にしているファン達に任せておけばいいのだ。
この話もうちょっと続く。
2019年10月22日22時。
2019年10月22日
日本代表残念(十月廿日)
ラグビーの日本代表の「ポハートカ」が終わった。南アフリカ(ついついチェコ語交じりの日本語で「イホアフリカ」と言ってしまいそうになる)が強かったと言えばそれまでなのだけど、日本代表の選手たち満身創痍で疲労困憊だったのだろう。途中から一方的に攻め続けているように見えた前半でさえ、アイルランド戦やスコットランド戦の前半のようなキレがなかった。チェコテレビの解説者は、これは守っている方が疲れると言っていたけど、4年前のスコットランドとの試合のように、攻めても攻めてもトライがとれないのは、見ていて焦燥感がつのった。
考えてみれば、プール戦を勝ち抜いた場合の相手が、ニュージーランドか南アフリカというのは、最悪の組み合わせだった。同じプールにこの二国が入っているという組み分けがそもそもとんでもないということになる。現状ではこの二国が決勝に進みそうだし、出場全チームの中で、頭一つも二つ抜けている感じである。イングランドもオーストラリアに勝っていたけど、今回のオーストラリアは、ニュージーランドに完敗したアイルランドと比べてもはるかに出来が悪そうだったからなあ。
それでも、日本代表が、まだ疲れのたまっていなかったプール戦の二試合目(一試合目は緊張しすぎて大変そうだから)に南アフリカと当たっていたら、南アフリカの状態も上がり切っていなかっただろうし、もう少し勝負になっていたのではないかとか、ニュージーランドと万全の状態であたるのを見たかったとか、あれこれ考えてしまう。前回のワールドカップでは南アフリカに勝って、全部で3勝もしただけで十分という感じだったけど、今回は組み合わせ次第ではもう少し上まで行けたんじゃないかなんて思うから、本当に強くなったなあ。
ここまで強くなった選手たちの努力には、特に要領よく世の中を渡っていくのが勝ち的な風潮の強くなっている現在においては、賞賛の言葉しかない。同時に、選手たちがここまで頑張れたのは、サッカーでも野球でもなく、ラグビーというスポーツだったからなのだろうとも思う。見るものを引きずり込むようなこのスポーツの持つ魔力は、実際にプレーする選手たちにも作用しているに違いない。何でもかんでもラグビーは素晴らしい的にまとめてしまう現在のマスコミの報道にはどうかとも思うけどさ。
多くの競技で、日本代表よりもチェコ代表を応援することが多くなった人間でありながら、ラグビーだけは日本代表(昔はジャパンと呼んでいたんだけどあちこちで連発されて言いたくなくなった)を応援し続けているのは個人的な思い入れがあるからだ。出身校が県内ではラグビーの強いところで、中学時代の先輩や同輩、後輩が花園を目指して頑張っていたのを目の前で見て応援してきた。
気に入らなかったのは、「スクール・ウォーズ」で火がついたラグビー人気が、80年代の終わりには、なぜか大学ラグビー、しかも関東のリーグ戦ではなく対抗戦グループに飛び火して、早稲田や明治のラグビーがマスコミによってちやほやされたことだった。これは、日本のラグビーにとってはマイナスで、その後ラグビー人気が冷え込み、なかなか上がってこなかった原因の一つになっている。
どう見てもリーグ戦側のチームや関西の同志社あたりのほうが強いのに、早稲田、明治がスポーツマスコミに大々的に取り上げられ、勝ち目なんてないのに日本選手権でも大学のほうに光が当たっていた。大学選手権あたりだと結構微妙な判定で早明が勝ち上がるなんてこともままあったし、それを批判するのはタブーになっていたしで、はたから見ていても最悪だったのだ。
90年代の初めに伝手があって、大学選手権の明治−法政の試合を見に行ったことがある。試合前の予想では圧倒的に明治だったけど、試合が始まったら明らかに法政のほうが上で、かなりの差をつけて勝ったんじゃなかったか。当時のラグビーの報道なんてそんなもんだったのだ。早稲田と明治にちょっと慶応とそれ以外というね。日本にスポーツ雑誌というものを定着させた「ナンバー」ですら大差なかったからなあ。
そんな早明中心のラグビーに関西の同志社、神戸製鋼で風穴を開けて、日本最強のチームを作り上げたのが平尾選手だったのだけど、ワールドカップでは、その平尾選手でも、後には平尾監督でも、協会の意向を受けてだろうけど、大会前に大言壮語していた平尾率いる日本代表でも、勝てなかったのだ。それが、80年代からラグビーを見続けて密かに応援していた人間が、日本代表の試合の結果さえ気にできなくなった理由である。だから、あの絶望を乗り越えて、ラグビーを応援し続けてきたファンの熱意にも頭が下がる。
この二大会の選手たちの頑張りを見てしまった以上は、これから日本代表の成績が低迷しても、チェコ代表が強くなってきても、ずっと日本代表を応援することになりそうだ。今回以上の成績を収めるために、まだまだ大変ないばらの道が続くのだろうけど、サッカーのワールドカップで、チェコ代表か日本代表が優勝するのよりは、ラグビーの日本代表が優勝するほうが想像できる気がする。いや、優勝を期待したくなるという方が正しいか。
次のワールドカップはヨーロッパのフランスだというから、今回以上にたくさんの試合が見られることを期待したい。今回日本の試合をテレビで見られたのは2試合しかなかったし。
2019年10月21日17時。