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2017年03月31日

与謝野晶子の古典研究(三月廿八日)



 高校時代に国語の古文の受験対策として現代語訳の『源氏物語』を読むことを勧められたのを覚えている。登場人物が多く人間関係も複雑なため事前にある程度知識がないと、問題として切り出された部分だけを読んだのでは、完全に理解するのは難しいらしいのだ。勧められたほうの生徒たちは、活字で書かれた現代語訳ではなく少女マンガの『あさきゆめみし』に走っていたけれども、その気持ちはよくわかる。
 そのとき、古文の先生が一番に勧めていたのが、与謝野晶子訳の『源氏物語』だった。当時はまだ橋本治の『窯変源氏物語』は出ていなかったが、谷崎潤一郎、円地文子、田辺聖子あたりの現代語訳はすでに刊行されていたはずである。与謝野晶子訳を勧めた先生は、一番読みやすくて内容が理解しやすいからと言っていただろうか。国文学者の文法的な分析に沿った逐語訳は、古典文法を勉強するにはいいけれども、大体の内容を理解するのにはそぐわないとも言っていたかな。

 そんな助言を受けたからと言って素直に読むような人間ではなく、実際に『源氏物語』を古文の教材や、試験の問題分以外で読んだのは、大学に入って岩波の『古典文学大系』やら、小学館の『古典文学全集』からに触れるようになってからである。といっても、通読したわけではなく、「桐壺の巻」なんかの有名どころをつまみ読みしたに尽きるのだけど。もちろん、現代語訳は読んでいない。ちょっと話題になった『窯変源氏物語』は、手を出したけど、桐壺源氏に終わったのだった。あの文体は全く合わなかった。
 訳者の与謝野晶子については、明治大正期から新しい詩歌、特に短歌を追及していた人としてのイメージしかなかったので、『源氏物語』の翻訳をしていたことに驚いた。近代文学に興味を持たない人間には、新体詩を書き、新しい短歌を作った与謝野晶子と古典が全く結びつかなかったのだ。

 その印象を覆してくれたのが、大学時代に古本屋で発見して、意外と安かったので購入した『御堂関白記』の日本古典全集版だった。当時は岩波の大日本古記録版が古本屋にあっても価格が高すぎて手が出せなかった時期で、その何分の一かの値段だったので、文庫版サイズで活字も見づらそうだったのを気にもせず購入したのだった。
 それにしても恨めしきは岩波のあこぎな商売である。少部数の出版で市場に飢餓感を出して購入欲をあおった上で、予約限定復刻とか大学生には手の出せないことをしやがって、いや『小右記』は清水の舞台から飛び降りる気持ちで手を出したけどもさ。それが今や史料編纂所がネット上で公開しているのだから、時代は変わったものである。正直、岩波の経営が思わしくないとか言われてもざまみろとしか思えんもんな。

 とまれ、その『御堂』の奥付を見て、びっくりした。編者に與謝野寛、與謝野晶子、正宗敦夫の三人の名前が並んでいたのだ。與謝野晶子は言わずもがな、與謝野寛は鉄幹の本名だし、正宗敦夫は、このときは白鳥の本名だと思っていたけれども、実は弟の国文学者で歌人でもあった人物である。そんなことよりも、与謝野夫妻が、共にこのような日本の古典作品を出版する叢書に携わっていたという事実に驚かされた。
 この三人は、この叢書を刊行するために、日本古典全集刊行会という会社を設立している。奥付によると、住所は東京府豊島郡長崎村で、発行者、つまり刊行会の社長の名前が長島豊太郎。豊島郡の「豊」と長崎村の「長」が名前に入っているのは偶然だろうか。

 そして、解題の何かと儒教的な考えかたから批判されがちな道長を擁護する文章と、下巻の末尾に付された与謝野晶子がてづから編んだ「御堂関白歌集」とその解説を読んで、ああこの人は道長のファンだったんだと理解し、『源氏物語』の現代語訳をしたというのもすんなりと納得できる気がした。「御堂関白歌集の後に」と題されたあとがきを読むと、すでに存在する「御堂関白集」と題された歌集に、誤って他人の作品が含まれているのに飽き足らず、あれこれ考証して確実に道長の作品と認められる歌を五十六首、年代順に並べたらしい。解題でも兄道隆や、源頼朝と比較して、道長のすばらしさを讃えている。
 また、『小右記』に記録された「この世をば」の歌を激賞するついでに、公任について、このレベルの歌は一首も作っていないと言い、実資のことは有職故実については才があるけれども詩人ではないと切り捨てている。実資も道長の歌をけなしてはいないと思うのだけど、いいとばっちりである。与謝野晶子によれば、道長のこの歌を、その驕慢さを表していると批判し始めたのは、江戸時代の儒家であったという。水戸学の粋を集めた『大日本史』の記述でさえ、漢文で端正に書かれているがゆえに硬すぎて、歌が読まれた当日の打ち解けた情景を表せていないと批判の対象になっている。
 解題によれば与謝野晶子は明治四十年に東京大学の図書館に納められた『御堂関白記』を呼んだことがあるようだ。日本古典全集版の『御堂関白記』刊行が大正十五年だから、二十年近く前ということになる。与謝野晶子の古典研究というのは付け焼刃ではなく、かなり昔から続けられていたものなのである。

 その後、『御堂』以外の日本古典全集の本も財布と相談して購入するようになったのだった。そのうちの一冊に目を通しているときに、解題か何かに「我々の古典研究はまだ端緒についたばかりであり」とか、すでに出版した源氏物語の翻訳には不備な点が多いので、古典研究の成果を踏まえて改めて訳したいとかいうようなことが書いてあったと思うのだけど、どこにあったのか思い出せない。いや『御堂』の解題にあったと思っていたのだが、今読み返したらなかった。

 とまれ、この記憶から、与謝野晶子の『源氏』の翻訳は一回だけではなかったのかもしれないということに気づいて、ちょっと調べることにしたのである。その結果はまた明日。
3月28日22時。



 覆刻されているのはいいけれども、どの本なのかわからないのは如何なものか。適当に選んだので多分御堂ではないと思う。3月30日追記。

posted by olomou?an at 06:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2017年03月30日

サッカーの日曜日2、もしくはチェコ、ロシアに行けるかも(三月廿七日)



 下部リーグのサッカーの中継が終わったら、また別な試合の中継が始まった。この春からチェコテレビは二部リーグの試合の中継をしているから、これも二部の試合だろうと思った。会場がこの前オストラバのファンがスタジアムの外で、自チームのファンがスタジアム内で暴れたオパバだったし。しかし、対戦相手は一部リーグのブルノ。よく見たらモル・カップというカップ戦の試合だった。このチェコサッカー協会のカップ戦も、スポンサーがころころ変わるせいで、印象に残らなくなっている。最初に名前がついたときはミネラルウォーターのオンドラーショフカ・カップだったかな。それが翌年か翌々年かの途中で、突然チェコ郵便カップに変わって、そこから先の名前は全く覚えていない。

 とまれ、二部のオパバが一部のチームを押しのけて準々決勝にまで進出して、ブルノをホームに迎えうったのが、この試合だった。以前、三部のクロムニェジーシュにあるハナーツカー・スラビアというチームが準決勝まで進出したこともあるし、一部リーグの上位チームが順当に勝ちあがるとは限らない。今年もスパルタとプルゼニュはすでに敗退している。そして、下部のチームが勝ちあがるとテレビで中継されることが多くなるような気がする。
 試合は、ブルノが先制したのだが、オパバが後半二点とって逆転勝ち、準決勝に進出した。これで多分準決勝のオパバの試合も中継されることだろう。ブルノもオパバも特に応援しているチームではないので、試合はちゃんと見ていなかったのだが、オパバのチームのファン連中がたち悪そうに見えたのは、こっちの偏見だろうか。

 その後は、先日行なわれたU21代表のスロバキアとの親善試合の再放送が流され、それが終わったら、2018年のロシアワールドカップ予選のサンマリノでの試合で、ほとんと一日中サッカーの中継だった。アイスホッケーのシーズンが終盤に入りプレーオフもたけなわなのだが、ちょうど準決勝が始まる前のポッカリと予定のあいた週末だからだろうか。
 放送するコンテンツが足りないのなら、ハンドボールをよろしくと言いたいのだけど、協会に金がねえからなあ。下部リーグの試合の中継なんて、協会か、協会に依頼されたスポンサーがお金出しているに違いないから、やっぱり金持ち中国企業と手を結んだサッカー協会には勝てそうもない。アラブ諸国のハンドボール大好き王子が、チェコのハンドボール協会のスポンサーになってくれたりはしないものだろうか。そうしたら中東の笛なんか許しちゃうんだけどなあ。

 さて、予選の試合である。苦戦するかなと心配しながら見ていたら、後半ちょっとだれた部分はあったけれども、問題なく圧勝した。このままなら、ドイツには負けるにしても、直接二位を争う北アイルランドとアゼルバイジャンとの試合に勝てれば、グループ二位の座は確保できそうである。二位がそのままワールドカップにつながるのか、プレーオフがあるのか覚えていないけど、去年の予選が始まったばかりのころには、二位すらも遠いと思ったからなあ。
 試合では、特にすでにイタリアのウディネで活躍している本来U21の選手であるヤンクトと、夏から同じチームに入ることが決まっているスラビアの、こちらも本来はU21世代のバラークの二人が大活躍だった。サンマリノってほとんどイタリアのようなものだし、地元で、もしくは将来の地元で大活躍というところである。怪我で欠場のシクも含めて生きのいい若手が出てきたことで、ここ何年か続いている停滞感が払拭されてきた。
 他にも秋の予選の試合は怪我で一試合しか出ていないダリダが完全復活の二ゴールを上げたし、カデジャーベクが怪我で欠場した代わりに先発したゲブレセラシエも大活躍した。一時期調子を落としていたドイツリーグのチェコ人選手が、カデジャーベクも含めて好調なのは今後に期待が持てる。ドイツでプレーする選手の調子がいいときは、チェコ代表も強いような印象がある。ロシツキー、コレル、ウイファルシ、ハインツ、ロクベンツ、2004年の代表だとこれぐらいかな。

 期待が持てるといえば、バツェクもフシュバウエルも戦力になれなかったイタリアリーグで、移籍したばかりのシクがチームの主力として活躍し、インテルだったかどこだったかの大きなクラブに大金で買い取られそうだといううわさが流れているのも、若くしてイタリアに渡ったヤンクトが、成長して活躍し始めたのも、一年前には考えられなかったことである。クレイチーもそこそこ頑張っているみたいだし、すぐに出戻りということにはならなそうである。
 あとは、アヤックスで育ててもらっているチェルニーが、U21を飛び越してA代表レベルに成長してくれれば、ロシアのワールドカップでも結構いいところまでいけそうな気がしてきた。後は、期待の若手たちが怪我でシーズンを棒に振るなんてことがないように祈るだけだ。ネツィットもコザークも、怪我さえなければ、今頃代表の主力になっていたはずなのだから。
3月27日22時。

 昨年の夏のスパルタ復帰以来、怪我でほとんど試合に出ていないロシツキーがアキレス腱の手術に踏み切り今シーズン中の復帰はないことが決定した。一試合でいいから躍動するロシツキーを見てみたいと思うのだけど、もう駄目かもしれない。3月29日追記。


2017年03月29日

サッカーの日曜日1(三月廿六日)



 深夜の二時が三時になり、夜の睡眠時間が一時間削られた日の朝、DVDレコーダーの時計の時間を調整するためにテレビの電源を入れたら、朝早くからサッカーの中継をやっていた。チェコテレビスポーツのロゴの下に「?iv?」と出ているので、生中継らしい。一部リーグからは日曜日の午前中の試合が姿を消して久しいが、二部ではまだときどき行なわれている。

 しかし、二部リーグのスタジアムとは思えないぐらいに、客席がない。両チームのベンチはかろうじて屋根が付いているけれども、その脇で見ている人たちはほとんど立ち見。グラウンドの向こう側には、一列だけ座っている観客がいて、その後には木々の間に停められた自動車。ドラマ「オクレスニー・プシェボル」に出てきた典型的な田舎の小さな村のサッカー場だった。
 慌てて対戦チーム名を確認してみると、ベリムというチームと、ボヘミア・ポデブラディの対戦のようだ。ポデブラディはプラハから少し東に行ったところにある有名な温泉地で、ポデブラディのイジーなんて歴史上の有名人物の出身地でもあるので、存在はもちろん知っているが、サッカーが盛んだなんて話は聞いたことがない。ホームチームのベリムにいたっては、名前を聞いたことさえないので、もちろんどこになるのかわからない。おまけにこの地名が男性名詞なのか女性名詞なのか悩んでしまう。
 アナウンサーの解説によると、この二チームは、中央ボヘミア地方のI.Aクラスと呼ばれるレベルのリーグのBグループに所属するらしい。この試合が放送されたのは、チェコのサッカー協会とチェコテレビが共同で進めている「ムーイ・フォドバル(俺のサッカー)」プロジェクトの一環らしい。このプロジェクトは、人々の生活の一部となっている下部リーグのアマチュアのサッカーを支援するもので、すでに昨年の秋には、チェコテレビの解説者のペトル・シュバンツァラとルデク・ゼレンカが、田舎の小さな村のサッカーチームに派遣され、両チームの対戦までの間練習に参加して試合ではベンチに入って声援を飛ばすということをやっている。仕事を持ちながら週に何回か練習をして週末に試合をするという生活をしているアマチュアのサッカー選手にとって、元とはいえプロの有名選手と一緒に練習してと試合で声援を飛ばしてもらえるというのは格別な体験だったはずである。

 その秋の成功を受けて、今回第二段として行なわれたのが、アマチュアサッカーのプロレベルでの中継である。チェコテレビが一部リーグの試合を中継するのと同じ機材と人材を投入して小さな村の設備の整わないサッカー場から全国中継を行なったのだ。グラウンドの片隅に中継用の臨時のスタジオを設け、アナウンサーと解説のゼレンカが試合前後とハーフタイムにあれこれしゃべっていたし、選手や監督のインタビューも、スポンサーのロゴが入ったパネルが用意されてその前で行われていた。
 両チームの選手関係者にとっては、それこそ盆と正月が一緒にやってきたようなもので、この試合に向けて、親戚や知人を動員して広報活動に努めたらしい。せっかくテレビ中継されるのに観客が少なすぎるのはさびしいし。ただ、声をかけられた人の中には、せっかくテレビで中継されるのなら、テレビで見たいという人もいたという。その気持ちはわかる気がする。サッカー場でならいつでも見られるし、テレビのスタッフが来ているのも珍しいで済む。しかし、我が村のサッカーチームの試合がテレビで中継されるのを見るのは、歴史的な出来事である。

 その歴史的な試合は、ホームのベリムがPKで先制したものの、ポデブラディが二本のプロレベルでもあまり見ないようなシュートを決めて逆転勝ちした。まあ、両チームにとっては結果よりも、試合前から試合後まで、プロの選手たちと同じような扱いを経験したということが一番大きいのだろう。試合会場となったベリムのサッカー場の芝の状態は、スパルタが対戦したロシアのロストフのものよりも遥によかったし、夕方のサンマリノのスタジアムの芝よりもきれいに手入れされているように見えた。
 チェコのサッカー協会とチェコテレビではこのプロジェクトを継続していくようで、すでに第二回目の中継の試合の選定に入っているらしい。

 最後にチェコのサッカーリーグの構造を簡単に説明しておくと、一部リーグがエーポイシュチェニー・リーガで16チーム、二部が最近改称されてナーロドニー・リーガ(国民リーグと訳しておこう)でこれも16チームからなっている。三部はボヘミア地方とモラビア地方で別々に行なわれている。このレベルには一部のチームのBチームが参加していることもある。
 四部リーグにあたるのが、デビゼと呼ばれるもので、これはボヘミアに三つ、モラビアに二つのリーグがある。五部リーグからは地方単位で行なわれているリーグで、五部が地方に一つずつあるクライスキー・プシェボルとプラハ市のプシェボル。その下の六部に当たるのが、今回中継が行なわれたI.Aクラス(チェコ語でトシーダ)で、地方によってはこのレベルのリーグをいくつかに分けているところもある。その場合にはグループA、B、Cなどと称する。七部がI.Bクラスでこれが地方レベルの一番下のリーグになる。かつては新聞の地方版にこの辺りまでの結果が出ていたかな。最近はちゃんと見ないのでわからないけど。
 八部リーグからは、今では廃止された行政区分のオクレスを単位にしたリーグ戦で、II.クラス、III.クラス、IV.クラスの三つに分かれている。ただし九部、十部リーグは登録チーム数の関係で実施されていないところもあるようだ。

 このプロジェクトが長期的に継続されるなら、将来知り合いの出身の村からの中継なんてことも起こりそうである。ビール片手に大声を張り上げている知り合いの姿がテレビで見られれば最高なのだけど、サッカーを、地元のサッカーを見に行くなんて知り合いがいないのが残念である。
3月27日9時。



2017年03月28日

摂関考4(三月廿五日)



承前
9永祚二年兼家の死
 頼忠の死からほぼ一年後永祚二年六月に、兼家は六十二歳で亡くなる。このとき、左大臣は源雅信、右大臣は藤原為光、内大臣は前年に就任したばかりの兼家の長男藤原道隆であった。このうち、雅信は、すでに七十一歳と高齢であり、摂関の候補にはふさわしくなかったのだろう。残った為光と道隆のうち、天皇の伯父であった道隆が摂政に就任した。このとき三十八歳というこれまでになく若い摂政の誕生であった。
 為光は花山天皇の女御となった娘に皇子が生まれて天皇になっていれば、祖父として摂関の地位につけたのかもしれないが、娘の死と花山天皇の出家で実現の可能性は失われたのであった。翌正暦二年に為光が太政大臣に就任しているのは、摂政道隆の年齢が太政大臣に就任するには若すぎたという事情もありそうである。さらに翌年の正暦三年に為光が四十八歳で亡くなった後、廿年以上にわたって太政大臣が欠けるのは、年齢、見識、地位などが太政大臣にふさわしい人物が藤原氏の中から現れてこなかったことを意味するのだろう。

10長徳元年道隆の死
 関白道隆が四十三歳で没した長徳元年は、公卿の死という意味では、前代未聞の年であった。道隆の後任の関白通兼、左大臣の源重信をはじめとして、大納言三人、中納言二人、合わせて八人の公卿が六月末までに没している。年初に二十三人いた大臣から参議までのうち、ほぼ三分の一が姿を消したことになる。
 まず、道隆が四月十日に没した際の状況を確認すると、左大臣は七十四歳と高齢の源重信、右大臣は道隆の弟通兼三十五歳、内大臣は道隆の息子の伊周で二十二歳の若さであった。通兼と伊周の一条天皇との血縁関係を見ると、通兼は伯父、伊周は従兄ということになる。一方で姻戚関係では、天皇の中宮の定子は伊周の妹であった。
 この状況で、道隆の後任として、通兼が選ばれたのは、年齢が大きかったとみる。道隆が亡くなった時点での公卿の平均年齢は、退官した者や非参議などを除いた大臣から参議までで四十五歳前後で、この時期の公卿への昇進年齢の平均でも四十歳を超えているのである。いくら藤原北家の嫡流だとはいえ、公卿の、ひいては貴族社会の頂点に公卿になって五年目でしかない二十二歳の若造を就けることには、大きな抵抗があったに違いない。

11長徳元年通兼の死
 兼通も、道隆の死後ほぼ一月、関白就任後七日で五月八日に没する。同日には左大臣の源重信も亡くなってしまい、大臣で生存しているのは内大臣の伊周だけという非常事態であった。『大鏡』などによれば、ここでも伊周と道長の熾烈な権力争いが起こったというのだが、ここでも若すぎる伊周を摂関の地位につけるのには、大半の貴族が反対したのではないだろうか。
 結局、藤原朝光(三月)、藤原斉時(四月)、藤原道頼(六月)の死後、唯一の経験のある大納言となっていた藤原道長が右大臣に就任し権力を握ることになる(藤原顕光は四月に権大納言になったばかりだった)。この道長の右大臣への昇進は、兼通の生前に決まっていたのではなかろうか。この年、道長は三十歳。これでも摂関の地位につくには若すぎたのであろう。翌年左大臣に移るものの、摂政にも関白にも、太政大臣にもなることなく、政権を運営していく。

 道長がこの時点で摂関の地位につかなかったことについて、摂関にならないほうが有利だったからだという説がある。それなりに説得力は持つが、この説の難点は、道長以前の父兼家、兄道隆などがみな摂関の地位についた理由、そして道長自身が息子の頼通に摂関の地位を譲っている理由が説明しきれないところにある。
 以後の例えば三条天皇即位時などの摂関につく可能性のあった機会はともかく、この時点では道長は摂関の地位につかなかったのではなく、つけなかったと考えたほうが自然である。天禄三年の兼通のときと同様に、大臣経験のない、しかも若い道長を摂関としていただくことに対して、貴族社会の中に大きな反発があったに違いない。その反発を抑えるために、摂関の地位につかないことを選べたのが道長で、何が何でも摂関になろうとしたのが、伊周だと考えると、このときの権力争いの経緯が理解しやすくなる。

12長和五、六年道長から頼通へ
 翌長徳二年に左大臣になった道長は、ほぼ二十年にわたって左大臣の地位にとどまり、摂関に進もうとしなかった。長和五年になって後一条天皇の即位とともに、初めて道長は摂政の地位につくが、翌長和六年には辞任してしまう。これは、息子の頼通に譲るために一度摂政の地位について見せたものと考えられる。このとき、頼通は二十六歳、大納言になって五年目、直前に内大臣に就任したばかりであった。長徳元年当時の伊周よりは年長であるが、道長よりは年下である。
 頼通との血縁関係で言えば、三条天皇は従兄にあたる。道長としては、頼通が伯父となる後一条天皇の即位を待って、摂政の地位を譲ることを選んだと考えられる。
 このとき若すぎる上に、大臣としての実績もない頼通が摂政につくことができたのは、一つは道長という後見役がいたからだろうが、もう一つ、道長が廿年にわたって摂関の地位を遠慮してきたことも考えていいのではないだろうか。それによって貴族社会に貸しを作ったと考えるのである。

 その結果、これまで摂政、関白が亡くなってから後継となる人物を選んでいたために、前任者の死後に少なからぬ混乱が起こっていたのを、生前に後継者に摂関の地位を譲ることで、後継者争いが起こらなかった。後継者頼通は実権を持つ前任者道長の庇護の下で摂関の地位につくことになったので、横からくちばしを挟めなかったのである。
 この道長、頼通の時代を通じて、摂関位をめぐる藤原氏内部の争いが起こりにくくなったというのも、一般の貴族たちにとってはありがたかったはずである。道長というと、強引な手法で政治運営をしていたというイメージがあるが、個々の場合の貴族や天皇に対する対応はともかく、貴族社会全体に対する配慮を忘れなかったからこそ、生前に息子に摂関を継がせるというこれまで誰も達成できなかったことが可能になったのであろう。

まとめ
 摂関政治と不可分のように語られる天皇との直接的な外戚関係は、摂関の地位につくために絶対に必要なものではない。摂関の地位に就くために必要だったのは、新しい摂関が任命されるときに、大臣の地位についていることである。その時に若すぎたり年寄り過ぎないことも大切である。
 天皇との外戚関係、娘や姉妹が皇后となり、孫や甥が皇太子、その後天皇となるのは、むしろ自らの、また子供たち、孫たちの出世を早め、大臣の地位に近づけるのに大いに役に立った。同時に、他氏や、同じ藤原氏でも他家、同じ藤原北家でも他流の人々、つまりは摂関位を争うことになるライバルの急速な出世を妨げることにもつながったのである。

 藤原実頼に始まる小野宮流は、長寿によって得た摂関の地位を、孫が生まれないことによって失ったと言ってもいい。逆に実頼の弟師輔に始まる九条流は、短命ゆえに失いかけた摂関の地位を、子供と孫の数の多さで取り戻した。ときに強引過ぎる手法で摂関の地位を確保しようとした九条流に対して、時期が巡ってくるのをじっくり待った小野宮流という区別もできる。
 そして、摂関政治の完成者となった道長は、九条流の出でありながら、小野宮的に待つことができた。それが、道長が摂政に就いたのは一年ほどでありながら、長期に亘って権力を握ることができた所以なのだろう。その意味でも道長は摂関政治の完成者なのである。

 道長が、息子の頼通に受け継がせることで、一つの完成形を見た藤原北家による摂関政治は、すでに頼通の代には衰退に向かい次なる混乱の院政へつながっていくのであるが、そこまでは本稿の対象とはしない。

3月26日20時。



2017年03月27日

摂関考3(三月廿四日)



承前
6貞元二年兼通の死
 貞元二年四月に兼明が左大臣の地位を去った後、頼忠が左大臣に移り、右大臣には宇田天皇の孫にあたる源雅信が就任する。その後、十月に関白兼通が発病し辞職、その後を左大臣の頼忠が継ぐことになる。兼通はそのまま十一月には亡くなってしまう。このとき兼通五十三歳、頼忠は五十四歳であった。頼忠は翌年太政大臣に就任する。
 『大鏡』には、病床にいた兼通を見舞わずに内裏に向かう弟兼家に対する怒りのあまり、参内して頼忠を関白につけるなどの除目をおこなう兼通の姿が描かれるが、右大臣、左大臣として実績を積んできた頼忠が関白の地位を襲うのは既定の路線だったのではないだろうか。

 兼家はこのとき大納言であり、兼通の中納言からよりはましだとはいえ、ここで一気に関白につけてしまえば、二代連続での異例の関白就任ということになり、貴族社会の反発は避けられなかっただろう。そもそも兼通と兼家の兄弟による確執は、さまざまな混乱を引きおこし貴族社会において評判が悪かったはずであり、九条流に摂関の地位を好き勝手にされたくないという貴族社会一般の風潮もあったはずである。兼通に摂関の地位を譲って藤原氏内部の対立を抑えた頼忠にたいする褒賞の意味もあったのかもしれない。
 頼忠はその後十年ほど関白の地位を保ち、摂関の争いをしばらく沈静化することに成功する。

7永観二年花山天皇即位
 永観二年に円融天皇が譲位し、冷泉天皇の皇子花山天皇が即位する。このとき頼忠と花山天皇の間の血縁関係はほとんどないと言ってもいいのだが、関白として再任されているのは、円融天皇即位時の実頼の場合と同様である。左大臣源雅信、右大臣藤原兼家という布陣も変わっていない。
 花山天皇の生母は、藤原伊尹の娘懐子である。伊尹の子供たちは早世するものが多く、伊尹や懐子の庇護も受けられなかったため、父花山天皇の即位の時点で公卿に昇っているものはいなかった。花山天皇の即位後に引き上げられたのが、藤原義懐である。永観二年に三位に上って公卿に列すると、翌寛和元年には、参議に昇った後、三ヶ月ほど二十九歳で権中納言に昇進する。この急激な昇進は明らかに花山天皇の即位によるものである。
 このまま、花山天皇の時代が続けば、義懐は順調に出世し、頼忠が亡くなるころには、大臣の地位を占めて関白の有力候補となっていたことは疑いを得ない。そんな状況に我慢できなかったのが、藤原兼家であった。

8寛和二年寛和の変、一条天皇即位
 寛和二年の花山天皇の突然の出家とその後の一条天皇の即位は二重の意味で異例の出来事だった。花山天皇が出家したのは、寵愛する女御藤原為光の娘を亡くしたからだと言われるが、その裏に右大臣藤原兼家とその息子たちの暗躍があったとは、『大鏡』などの伝えるところである。今、その詳細に立ち入る気はないが、重要なのは出家することによって天皇たる地位を失い、それが新天皇の即位につながったことである。公卿たちも出家して仏門に入ると、公卿たる資格を失って、公卿名簿である『公卿補任』から姿を消す。花山天皇の即位後に中納言まで昇進していた藤原義懐も、花山天皇の後を追って出家してしまったため、公卿の地位を失うことになる。
 このとき、即位した一条天皇は、円融天皇と藤原兼家の娘詮子との間に生まれており、兼家は天皇の祖父ということになる。だから、兼家が、七歳で即位した天皇の摂政の地位についたのは、一般的な摂関政治のイメージから言えば、当然のように見える。
 一方、関白だった頼忠と天皇との関係は非常に遠く、それが一つの理由となって、一条天皇が即位した際、頼忠は再任せず、太政大臣の地位を保つのみになった。これまで、忠平以来、三度続いてきた天皇の代替わりがあっても摂関の地位は変わらないという慣例、摂関は太政大臣を兼ねるという前例が破られたのである。これが、藤原北家九条流の一員が無理をして摂関の地位を得た二つ目の例になる。

 ここで、兼家がこれだけの無理をした理由は、二つあるだろう。一つは花山天皇の在位が続くと義懐が大臣の位につき、頼忠の後の関白に就任しかねないというもの。もう一つは、関白の頼忠のほうが兼家よりも長生きをしてしまうのではないかという恐れであろう。兼家の父師輔は五十三歳、兄伊尹は四十九歳、兼通は五十三歳で亡くなっている。このとき兼家は五十八歳、頼忠は六十三歳だったとはいえ、頼忠の父実頼が七十一歳まで生きたことを考えると、その死後に関白の地位につけるとは思えなかったのだろう。
 兼家は摂政就任直後に、右大臣の地位を去り摂政のみになっているが、これは右大臣として太政大臣の下につくのを嫌ったからであろう。これも前例を無視した行動であった。その後、頼忠の死後、太政大臣に就任し、前例を踏襲している。

 一方頼忠のほうは、関白の地位を失って四年、兼家に先立つこと一年、永祚元年に六十六歳で亡くなっているが、兼家が無理をしなかった場合には、せいぜい一年ほどしか関白の地位にいられなかったということになる。
 頼忠が、いや実頼から始まる藤原北家小野宮流が、ここで摂関の地位を失い、二度と取り戻すことができなかったのは、小野宮から入内して女御となった娘たちに子供が生まれなかったことに尽きる。実頼と同様に頼忠も、娘を円融天皇、花山天皇の後宮に入れるが、子供は一人も生まれていないのである。これは、新しい摂関が必要とされるときに、摂関の候補となる大臣の地位にまで出世しておくのが難しくなることを意味する。
3月25日21時。


2017年03月26日

摂関考2(三月廿三日)



承前
2康保四年冷泉天皇即位
 康保四年は、村上天皇が譲位し、冷泉天皇が即位した年である。冷泉天皇は村上天皇と藤原師輔の娘である安子の間に生まれている。だから、右大臣の地位で没した師輔がこの時点で生きていれば、天皇の祖父で大臣ということになり、摂関の地位は師輔のものになったことは、間違いないだろう。そうなっていれば、娘を天皇の後宮に入れ、生まれてきた皇子が天皇として即位した後、祖父として摂関の地位について実権を握るという、一般に考えられている摂関政治の典型となったはずだが、師輔は、天徳四年に五十三歳で没しているため実現しなかった。

 冷泉天皇の即位時点で左大臣は藤原北家の実頼、右大臣は醍醐源氏の源高明で、このとき藤原北家の嫡流で公卿の首座でもあった実頼が、関白の地位に就いたのは当然であった。藤原忠平死後の朝廷を二十年近くに亘って主導してきた左大臣を押しのけて、関白になるだけの力は前年に右大臣になったばかりの高明にはなかった。
 藤原北家の中で、実頼よりも冷泉天皇に血縁的に近かった師輔の子供たちは、大臣の地位には届かず、長男の伊尹が参議から権中納言になったばかりで、次男兼通、三男兼家に至っては、いまだ公卿にもなっておらず、摂関の候補者にはなれなかった。藤原氏の候補が実頼しかいなかった以上、源氏を含め他氏が関白を輩出するなど不可能であったはずである。
 関白太政大臣になった実頼のあと、左大臣には源高明が右大臣から移り、右大臣には、実頼、師輔兄弟の弟である藤原師尹が就任する。この人事が、すでに七十歳に近かった実頼の死後の権力を巡る争いである安和の変につながっていく。

3安和二年安和の変と円融天皇即位
 安和二年、左大臣源高明が謀反の疑いをかけられて大臣を解任され、太宰権帥として九州に流された。これは、藤原氏が他氏の摂関の候補となりかねない人物を排斥するために仕掛けた陰謀だと考えられているが、首謀者としては、高明と直接摂関の地位を争うことになりそうだった右大臣藤原師尹、冷泉天皇の伯父にあたる血縁関係を生かして摂関の地位を狙っていた権大納言の伊尹の二人が候補となりそうである。
 高明の失脚の結果、左大臣には藤原師尹、右大臣には藤原北家でも傍流の在衡が昇進している。その後冷泉天皇は、円融天皇に譲位する。円融天皇も藤原安子の子供なので、実頼、伊尹との血縁関係は冷泉天皇のときと変わらない。
 ところで、右大臣となった藤原在衡はこのときすでに七十八歳という高齢であり、藤原伊尹にとっては大臣の地位は目の前であった。さらに、同年左大臣藤原師尹が五十歳の若さで病死し、翌年正月には、在衡が左大臣、伊尹が右大臣へと昇進する。在衡の出自と高齢、伊尹と天皇の血縁関係を考えると、この時点で伊尹が実頼没後に摂関となることが決まったと考えてよさそうだ。

4天禄元年実頼の死
 安和の変の起こった翌天禄元年、摂政太政大臣藤原実頼が没する。実頼は安和二年の高明失脚の後冷泉天皇が退位し、円融天皇が十一歳で即位した際、摂政に就任している。天皇が代替わりしても摂関の地位は変わらなかったのである。
 実頼の死後、高齢の左大臣藤原在衡ではなく、右大臣に就任したばかりの伊尹が四十七歳で摂政の地位に就いたのは前記のように当然であった。そして翌天禄二年には太政大臣になっている。ちなみに左大臣の在衡は実頼に遅れること五ヶ月ほど天禄元年十月に、七十九歳で没してしまう。

 では、伊尹のライバルとなりかねない実頼の息子達はというと、長男敦敏は天暦元年に三十歳の若さで早世しており、次男頼忠はまだ中納言、三男斉敏は参議で、摂関の候補となれるような地位にはなかった。また、朱雀天皇と村上天皇の後宮に入内した実頼の娘二人が子供に恵まれることなくなくなったため、天皇との血縁関係は実頼のとき以上に薄くなっていた。
 一方、伊尹の弟達は、師輔の次男の兼通が参議、三男の兼家が中納言と、実頼の息子達と同じ地位にあったが、弟兼家の方が官位が高いという逆転が起こっていた。この関係が伊尹没後の摂関の地位を巡る争いをややこしいものにしたのである。

5天禄三年伊尹の死
 藤原伊尹は摂政在任二年ほど、四十九歳の若さで天禄三年十一月に亡くなってしまう。『公卿補任』によれば、この年二月に中納言に昇進したばかりだった藤原兼通四十八歳が、それまで存在しなかった内大臣になると同時に関白に就任したことになっている。ただ、大臣を経ずして摂関に昇った例がないことを考えると(道長の息子頼通でさえ内大臣任官後、十日ほど時間をおいて摂政になっている)、実際に関白の位に付いたのは、もう少し後、具体的には太政大臣に就任する天延二年あたりかとも考えられる。
 兼通が中納言から大納言を経ずして内大臣の地位に就いた時点で、異例の昇進であり、前例を重視する貴族社会では強い非難の対象となったことは間違いない。その上で関白にも就任するというのは、無理がありすぎたのではないだろうか。

 『大鏡』の記述によれば、このとき兼通が関白になれたのは、円融天皇の生母である藤原安子の生前に、「関白をば次第のままにさせたまへ」というような天皇に宛てた書き付けをもらっていたからだという。その書付を見て亡き母の書いたものであることを認めた天皇が、兼通の関白就任を決めたというのだが、これが藤原氏、特に師輔の子孫である九条流による摂関の地位の私物化の最初の一歩である。
 このときの左右の大臣はどちらも前年の十一月に大納言から昇進したばかりで、大臣としての業績を残していなかったことがこの無理を可能にした事情の一つであろう。左大臣が、醍醐天皇の子である源兼明、円融天皇から見ると伯父に当たる人物である。右大臣は実頼の息子の頼忠、天皇との関係は実頼よりもさらに遠くなってしまう。
 中納言になったばかりの兼通と、大納言になったばかりの兼家の兄弟が、天皇の伯父である立場から摂関争いをしているところに、血縁関係の薄い頼忠までが参戦した場合に、左大臣の源兼明が候補となってくることを嫌った頼忠が、兼通を支持した結果、大納言を経験しない内大臣が、後に関白になること前提で誕生したのではないだろうか。

 貞元二年に左大臣だった源兼明が皇族に戻って親王になったのも、藤原氏によって摂関位をめぐってライバルとなる人物が排斥されたということになる。兼明を左大臣の地位から追うまでに、兼通の関白就任から四、五年という時間がかかっていることからも、兼通の関白は異例で、無理に無理を重ねた結果であることが想定される。また、大宰府に流された高明と、皇籍に復帰した兼明の処遇の違いから、親王摂政が想定されにくくなっていることを読み取ってもよさそうである。

3月24日22時。


2017年03月25日

摂関考1(三月廿二日)



 歴史の専門家から見たらあちこち省略しすぎていて噴飯物だろうが、『公卿補任』をつらつら眺めていて摂政、関白の選択について気づいたことを、まとめたので、載せておく。無駄に長い時間がかかったので、掲載しないと元が取れないのである。


はじめに
 平安時代のいわゆる摂関政治の時代、藤原氏が天皇との外戚関係を利用して摂政、関白の地位を歴任したと言われる。その一般的なイメージとしては、娘を天皇の後宮に入れ、生まれてきた皇子が天皇になったときに祖父として摂関の地位に着くというものであろう。しかし、現実には、祖父ではなく、天皇の生母の兄、伯父の立場で摂関の地位につくことが多いようだ。中には、天皇との伯父でも祖父でもない関係で摂関の地位についた人物もいる。今回、『公卿補任』の記述を元に、誰がどんな政治状況で、摂関として選ばれているかを、一般に摂関の常設が始まると言われる藤原実頼から、摂関政治の全盛期と言われる道長、頼通までを対象に検討した。

 ただし、話が煩雑になるのを避けるために、藤氏長者、内覧などの地位がどのように動いたかについては、あえてふれない。また『大鏡』などに見られる藤原北家内部の劇的な権力争いの様子もあまり重視しない。とにかく摂関の地位に就いた人物の天皇との血縁、縁戚関係、就任前の地位、年齢を中心に検討した。
 その結果いくつかの原則のようなものが見えてきた。まず、摂政、関白に就任する人物は、左大臣、右大臣、もしくは内大臣の地位についている。内大臣など、左大臣、右大臣が詰まっているときに、摂関候補を就任させるために作られた役職のようにさえ見える。また、摂政、関白に就任すると同時に、もしくは就任してしばらくしてから太政大臣に就任する例が多い。これは則闕の官とも言われる太政大臣にふさわしい人物こそが、摂関に就任すべきだという意識を反映しているのだろう。
 天皇が譲位して上皇になった場合には、原則として摂政、関白も地位を失うのだが、新天皇の即位後、改めて摂関にが任命されることが多い。例外を除いて自ら辞任するか、死ぬかしない限り摂関の地位を失うことはなかったのである。

1天暦三年藤原忠平の死
 摂政・関白の地位について考えるために、まず村上天皇の関白、太政大臣を務めた藤原忠平が没した時期の状況をまとめておく。天暦三年に齢七十歳で没した忠平は、先代の朱雀天皇の代にも摂政、次いで関白を務めており、天皇の代替わりがあっても、摂関が留任した最初の事例である。

 忠平没後、村上天皇は、摂関を任命しなかった。これは父醍醐天皇に倣って天皇親政を志向したためと言われるが、状況を見ると後任の関白を選べなかったというのが正しそうである。そもそも摂関を置かないことが天皇親政であって摂関政治と大きな違いがあるという考え方が正しいとは思えない。摂関政治の代表とされる道長は、ほんの一年摂政の地位に就いただけで、それ以前は左大臣として政治を主導し、その後は息子頼通に摂関の地位を譲り後見役として実質的な権力を握ったのである。
 このとき、忠平の後を次いで関白となる候補者は、長男実頼五十歳と次男師輔四十二歳の二人だった。実頼の方が八歳年長で、地位も左大臣と、右大臣の師輔よりも上にいた。だから年齢や地位から言うと、実頼が選ばれてしかるべきだったと言える。
 村上天皇との血縁関係では、天皇の生母藤原穏子は基経の娘、忠平の妹であるので、実頼、師輔ともに甥にあたる。つまり兄弟と天皇は従兄弟なのである。姻戚関係では、皇太子時代の村上天皇の最初の后となったのが師輔の娘安子であった。実頼も娘述子を入内させるが、安子が男子三人、女子四人と合わせて七人の子供に恵まれたのに対して、述子に子供が生まれることはなかった。この点では、師輔の方が天皇との関係が近かったと言うことができよう。

 この状況で、実頼と師輔のどちらかを選ぶとなると、藤原氏の中での対立が起こり、当時中納言だった源高明の影響力が必要以上に強まることが懸念されたことが想定される。高明は醍醐天皇の子供で、臣籍に下って源氏となった人物だから、血縁関係から言えば、母は違うとはいえ、村上天皇の兄にあたるのである。
 平安初期に大量に出現した源氏に関しては、親王、皇子などの皇族が増えすぎた結果皇室財政が悪化したことに対する対策と、藤原氏に対抗できる勢力を作り出すことの二つが理由として挙げられるが、この天暦三年、忠平の死の時点の公卿の構成を見ると、関白太政大臣から参議まで合わせて十六人いる中の、七人が藤原北家、五人が源氏となっている。その五人の源氏の中でもっとも有能で期待を集めたのが、源高明だったのである。
 当時は、まだ良房、基経、忠平と三人の藤原氏の摂関が存在しただけなので、摂関の地位が藤原氏のものであるという認識は形成されていなかったであろう。そうなると、藤原氏が分裂し、高明に他氏の貴族の支持が向かった場合に、皇籍に復帰して親王摂政が復活する可能性もなかったとは言えまい。高明自身も、おそらく将来の摂関の地位を狙って娘を村上天皇の皇子為平親王の后としている。だから、実頼と師輔は、摂関をおかないことで、藤原氏内部の対立を避けようとしたのではなかろうか。

 以上が、忠平の死の時点で村上天皇が摂関を選べなかったと推測する事情である。その後、天徳四年に師輔が没したことで、藤原氏側の事情が変わり、唯一の候補者となった実頼が関白となっても問題のない状況となった後も、任命されなかったのは、良房の死後摂関を置かなかった清和天皇、基経の死後摂関を置かなかった宇多天皇の先例に倣ったものだろうか。

3月23日23時。



『国史大系』の『公卿補任』が出てこなかったので、電子書籍で「時雨亭文庫」というちょっと想像のできないものを載せておく。影印なのかなあ。『風土記』と『公卿補任』の組み合わせというのも、なかなか不思議である。3月24日追記。

2017年03月24日

アクセスランキングなど(三月廿一日)




 そもそもこのアクセスランキングが何を示すものなのかがわかっていないことに、設置してから気づいた。現時点では一番上にあるのが自分のブログである。inとoutもいまいちよくわからないけど、ヤフーの検索が三つに分かれて表示されているのは何故なんだ。
 ヤフー検索、グーグル、ビングが並んでいるということは、どのポータルサイトで検索してこのブログにたどり着いたかを示す指標ということだろうか。忍者ホームページ広告というのは、アクセスランキングに登録したから出てきたものだろうけど、具体的にどのページなのかがわからない。クリックすると忍者ツールズのホームページに行ってしまって、忍者ホームページ広告にはたどり着かないのだ。
 このブログに来る人の多くがグーグルで検索した結果来ていることがわかってしまった。グーグル嫌いとしてはなんかちょっと悔しい。このブログが一番上にきているのが何故なのかは、現時点ではわからない。inよりもoutの方が多いのも、?である。

 しかし、忍者のアクセスランキングはちゃんと表示されているからいいのである。ついでに使ってみたファンブログの記事ランキングは、閲覧数の多い記事を勝手にランキングしてくれるものだろうと思って放置しているのだが、未だに何も表示されない。ランキングの対象となる記事を設定する必要があるのだろうか。うーん、すでに記事数が四百を越えた今となっては、設定するが面倒くさい。
 そもそも話の種になるかと思って設置したものだから、いっそのこと削除してしまおうかとも考えているのだが、踏み切れない。そのうち、ファンブログの設定が変わるかもしれないし。この辺は、マニュアルもちゃんと読まずに適当にやってしまう弊害である。

 ランキングといえば、ブログの管理ページに表示されるブログランキングというのの順位が上がっている。最近アクセス数が増えてきて、毎日三桁を越えているせいで、順位も三桁で安定している。こっちは分母がわからないのだけど、ブログカテゴリーのほうは、分母がほとんど六桁の五桁で、順位は二桁。「日記・その他」というカテゴリーだけで十万近くのブログが少なくとも開設はされているという事実には、驚くほかない。
 そのうちのどれだけが定期的に更新されているかとなるとまた別問題なのだろうけど、ファンブログ全体だと百万のオーダーで開設されたブログが存在しそうである。他のブログサービスの事なんか考えてしまえば、日本語で書かれたブログは日本人の人口並みに存在するのではないかと思われてくる。
 これまでにも無数のブログ、その中には更新が止まってしまったものも多かったけれども、を読んできた。だけど、ここまで多くの数のブログが存在し、少なくとも一度は記事が投稿されたなんてことは想像もしなかった。学校教育の間は作文などの文章を書くのは嫌いだとか、苦手だとか言う人の多い印象があるのだけど、課題でもなんでもなく、好きなように文章をつづるのはまた別問題だということか。かく言うい自分も、学校の課題の作文は、型にはめてきれいな文章を書かなければいけないような気がしてあまり好きではなかった。

 好き勝手に文章を書き散らす楽しさを覚えたのは大学時代だっただろうか。受験英語の日本語訳の呪縛からも自由になっていたし、大枚はたいてワープロ買って具にもつかぬことをあれこれ書き散らしていたのだが、考えてみれば今と大差ない。書いたものをを、不特定少数の人に公表するかどうかの違いである。時代は変われど人は変わらずということか。一億総インターネット時代は、一億総白痴化時代の延長線上にあるわけだし。
3月22日10時。


posted by olomou?an at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ

2017年03月23日

モラビアシレジア出身の有名人(三月廿日)



 遺伝学の祖メンデルの出身地がモラビアのどこかの村で、同じ名前の村が二つあってどちらだかわからないという話を書いたことがあるが、コメンスキー研究者のH先生からいただいた博物館紹介の小さなパンフレットをめくっていたら、メンデルの記念館も載っていた。
 このパンフレットは、オストラバを中心とするモラフスコスレスキー・クライ、モラビアシレジア地方の博物館の中から特徴のあるものを選び出して紹介したパンフレットである。先生はコメンスキーの滞在したフルネク市のためにコメンスキー関係の本を書いたことがあるようなので、その縁からこの仕事をなさったのか、協力者として非売品のパンフレットをもらった
のか、昨年の秋にお目にかかったときにお土産の一つとしてくださったのだった。
 そのときには、もう一冊のコメンスキー本のコメンスキーが作ったモラビアの地図をつらつら眺めるだけで満足して博物館のほうは見ていなかったのだ。メンデルだけでなく、フロイト、パラツキーなんかの名前も出てきたので、記念館の紹介をしてみよう。

 まずは、コメンスキーから始めるべきであろう。コメンスキーが生まれたのは東モラビアのスロバキアとの国境の近く、ウヘルスキー・ブロトの近くのニブニツェという村のあたりだと言われているが、ヨーロッパじゅうを転々とした人なので、チェコ各地に滞在したという話が残っている。そのうちの一か所が、フルネクである。
 フルネクは、テニス選手のペトラ・クビトバーの出身地として有名な町だけれども、以前はコメンスキーが活動した町として知られていた。かつての兄弟団の活動していた建物の中にコメンスキーを記念した部屋があるらしい。建物全体が記念館にはなっていないようだが、兄弟団での活動や著作などを紹介する展示があるようだ。
 オロモウツからフルネクへは、電車もバスも直行はない。一番早いのはオストラバ方面に向かう電車で、スフドルまで行って乗り換える行き方で、一時間ちょっとで到着する。バスでフラニツェ、ノビー・イチーンまで行って乗り換える手もあるけど、そっちは30分以上長くかかる。自動車で行けば高速道路を使って、40分弱で着くようだから、そんなに遠いところではないのだけど、特に帰りに時間がかかって、行きにくいところである。

 二つめは、メンデルの記念館である。これはヒンチツェという村にある生家が記念館になっている。ヒンチツェはモラビアに何か所かあるのだが、メンデルの生地のヒンチツェは、フルネクから南に行ったモラビアシレジア地方のノビー・イチーンの近くにあるブラジュネ—という村の一部になっている。オロモウツ地方のフラニツェからも、距離的にはそれほど遠くはない。
 もともとこの村では1、965年からメンデル関係の展示が行われていたようだが、2007年に生家の農家の改修が完成し、そこでメンデルを記念する展示だけではなく、遺伝学についての展示も行われている。このときのニュースを見たのはよく覚えている。ただ地名を覚えていられなかっただけである。
 オロモウツからは、フルネクよりは距離的には近いのだが、鉄道の駅がないこともあって、時間がかかる。一番早くて一時間半ぐらいだけど、乗り換えが二回、三回必要で、正直メンデルの記念館のためだけに出かける気にはならない。

 次はオロモウツの大学の名前にもなっているパラツキーの記念館である。ここもメンデルの場合と同じで生家の農家が修復されて記念館となっている。こちらはノビー・イチーンから少し南に行ったところのホツラビツェという小さな町にある。ただ、開館時間が決まっているわけではなく、事前に連絡をして開けてもらう必要があるようだ。十一月から三月は完全に閉館しているので見学することはできない。小さな記念館なので常駐の職員がいないということなのだろうか。
 オロモウツからはノビー・イチーンでの乗り換えで、一時間半ぐらいで行けるようである。ただこの接続のない時間帯もあるので、こっちも鉄道が通っていないので行きにくいところである。

 最後は精神医学の祖 フロイトの記念館 である。ここに挙げた四人の中では最も日本で知られた人物だろうが、チェコのプシーボルという町の出身であることをどれだけの人が知っているだろうか。プシーボルも生家が記念館となっており、2006年に大きな改修が行われている。もともとは、他の三つの記念館と同じく、ノビー・イチーンの博物館の下にあって、ホームページも一緒になっていたようなのだが、現在は独立したページを運営している。
 オロモウツからは、直行のバスに乗れれば一時間で着くようなので、距離的には一番遠いけれども、一番行きやすいと言えそうだ。

 モラビアかどうかは微妙なのだけど、最近、映画「シンドラーのリスト」で有名になったシンドラーが、チェスカー・トシェボバーから少し南に入ったスビタビという町の出身であることを知った。スビタビは、チェコの内部に島のように浮かんだドイツ系の人口の多い町だったらしい。現在のチェコで生まれ育って、世界的にはドイツ人として知られている人は、たくさんいるのである。スビタビにシンドラーの記念館があるかどうかまでは知らない。
3月21日16時。


 カテゴリーはこれでいいよね。3月22日追記。


2017年03月22日

チェコ圧勝(三月十九日)



 久しぶりにハンドボールの話である。エクストラリーガのプレーオフを目前にした男子ではなく、女子ハンドボールの話である。今日の話ではなく昨日の話だが、ハンドボールである。

 世界選手権への出場をかけて六月に行なわれるトルコとのプレーオフに向けた準備の一環として、オーストリアとの親善試合が二試合、オーストリアとチェコで一試合ずつ行なわれた。木曜日にオーストリアで行なわれた試合には二点差で負けたというので、土曜日にインドジーフーフ・フラデツで行なわれた試合も、勝つにしても負けるにしても接戦になるものと思っていた。
 それがふたを開けたら試合開始直後こそ一進一退の展開だったが、徐々にチェコチームの攻撃が機能するようになり、キーパーのサトラポバーの活躍もあって、一時は十点差をつけ、最終的には九点差で圧勝した。

 チェコのハンドボールを応援するものにとって嬉しい驚きだったのは、代表に呼ばれているけれどもまだ経験不足で、本格的な戦力になるまでにはまだしばらくかかりそうだと思っていた若手の選手たちが躍動していたことだ。
 中でもルズモバー、フルプコバーぐらいしか名前の挙がらない、センターでコルドフスカー、イェジャープコバーの二人が計算できる戦力になりそうなのは、今後に期待が持てる。フルプコバーは、体格的にはサイドでプレーしてもおかしくないぐらいだし、ルズモバーも9メートルラインの外、ディフェンスの上からロングシュートを決めるというよりは、相手を交わしながら隙間からシュートを決めるタイプの選手である。コルドフスカーはルズモバーに近いタイプのようだが、イェジャープコバーは、調子がよかったのもあるのだろうが、9メートル、場合によっては10メートルぐらいから、どんどんシュートをうって、それがびっくりするぐらい決まっていた。
 少し前までは、マルティンコバーという背の高い選手がいて、調子のいいときには本当にお手本のような見事なシュートを決めていたのだが、線が細くて相手のディフェンスに当たり負けするところがあった。最近代表に呼ばれていないのだけど、引退したのかなあ。この選手がもう少し力強くなってくれると、チェコ代表も強かったんだろうけど。その代役以上になりそうなのが、イェジャープコバーなのである。

 サイドでも、主力のクネドリーコバーが怪我で参加を辞退した中、初代表のザホバーが、出場してすぐに二点決めるなど若い選手が出てきているようだ。オロモウツのハンドボール一族出身のサルチャーコバーは、前半に速攻を二本か三本はずしてしまったのは残念だったけど、そこまでのプレーには言うことはなかったし、このまま行けば、チェコ代表強くなるんじゃないかと大きな期待を持たせてくれた一戦だった。
 今の監督はもうけっこう長く続けていて、一時期ちょっとだれて成績が落ち気味だったのだけど、また持ち直してきたようだ。ベテランルズモバーが元気なうちに、若手を育て上げて、世界選手権、ヨーロッパ選手権で上位に入るところを見せてほしい。優勝とはさすがに言えないけれども、毎回予選を勝ち抜くぐらいのことは期待してもよさそうだ。

 オーストリア代表は、以前はヨーロッパでも有力なチームの一つだったらしいのだが、当時の戦力の中心はポーランドやユーゴスラビアなどから逃げてきた選手たちで、そういう選手の移動が少なくなった結果、最近はあまり結果を残せていないようだ。そんなチームの一勝一敗とはいえ、ホームでは圧勝できたのだからよしとしよう。かつては、上のチームに善戦はできても、同レベルや、ちょっと下の相手にきっちり勝ちきるのが苦手だったのだ。
 オーストリアのチームで気になった選手が二人。ゴールキーパーのチェコ語ではブラシュコバーと呼ばれていたけれども、ブラジェクと、コバーチョバーことコバーチ、うーん、チェコ代表にいてもおかしくない名前である。コバーチはチェコよりはハンガリーに典型的な名字らしいけれども、チェコ人にも結構入るし、ブラジェクは典型的なチェコの名字である。この辺りにもオーストリアという国の複雑さが現れている。ちなみにこの二人、名前だけで気になったのではなく、守備と攻撃で一番活躍しているから気になったのである。
3月21日9時。



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