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2024年02月29日

河竹黙阿弥を読んでしまった




 とりあえずは、最初の作品からだろうということで、第1巻「明治開花期文学(一)」を開く。この「明治文学全集」は、「東洋文庫」や「日本古典文学全集」とは違って、巻号一覧で表示されるのが、巻の題名と表紙か箱の表面の写真だけなので、開いてみないとどんな作品が収録されているのかわからないのである。特に作家単位で独立していないこの第一巻のような巻では収録されている作家さえわからない。「開花期文学」なら多少の想像もできるけど、第九三巻の「明治家庭小説集」となるともうお手上げである。

 話を戻そう。第1巻の巻頭に収録されていたのは、仮名垣根魯文の作品『万国航海西洋道中膝栗毛』だった。二番目に収められた『安愚楽鍋』のほうが歴史的には有名なので、どちらを先に読むか悩んだのだが、昔部分的に読んで面白かったような記憶もある『東海道中膝栗毛』のパロディー『西洋道中膝栗毛』を読み始めたのだけど、ちょっとお手上げだった。日本語の面ではそれほど問題はなく、特に読みにくいともわかりにくいとも思わなかったのだが、話がダラダラしていて全然進んでいかないのである。
 ストーリーとは直接関係のない登場人物同士の気の利いた掛け合いというのは、文学的な評価はともかく、個人的には大好きで、物語の筋立てはそれほど面白いと思えないのに、掛け合いの面白さにひかれて読んでしまった作品はかなりの数に上る。しかし、それにも限度があることをこの作品に思い知らされた。掛け合いばかりが長すぎて話が進んでいかないのと、さすがに時代の開きがありすぎて掛け合い自体もあまり面白いと思えなかったのは、読んでいて辛かった。明治時代に生まれていたら、大喜びで読んでいたかもしれないけど。

 それで、「ヤジ」さんと「キタ」さんが横浜から一歩も出ないうちに読むのを諦めてしまった。本家の『東海道中膝栗毛』も同じような理由ですぐ読むのをやめてしまったのかもしれない。ただ、あちらは面白いと思った部分もあったのに対して、こちらは全くそんなことを思うことはなかった。あらすじを確認した上で、途中から読めばよかったのかなあ。気が向いたら西洋に到着してからの部分を読んでみようか。
 考えてみれば、明治期の小説なんて、読んだと胸を張れるほど読んではいないのである。鴎外にして漱石にしても、いくつかの作品は読んだけれども、それが明治期の作品かどうかは心もとない。とはいえ、この機会に鴎外や漱石なんかを読んでお茶を濁すのはもったいないなあとか、福沢諭吉やら坪内逍遥やらをいまさら読むのもなあなんてことを考えていたら、第9巻が『河竹黙阿弥集』になっているではないか。

 黙阿弥と言えば、歌舞伎の作家で、以前読んだ高橋克彦の小説に、新七の名前で登場していたし、半村良の『講談碑夜十郎』でネタ本的に扱われて引用もされていた作品を書いた人だというので、名前だけは知っていた。例によって戯曲は読むのが苦手だというのと、歌舞伎に対する苦手意識もあって、作品を読んだことはなく、読もうと思ったこともなかったのだけど、これを機に読んでみるのもよかろうと思って開いてみたら、最初の作品が『天衣紛上野初花』。読み方は「くもにまごううえののはつはな」だったかな。副題に「河内山と直侍」とあって、まさに『講談碑夜十郎』に出てきた作品である。
 読み進めていくと、話が面白くてすらすら読めてしまう。芝居がかった七五調の台詞が多いのも、『講談碑夜十郎』のストーリーと比較しながら読めたのも、楽しかった。不満を挙げるとすれば、脇役の人たちの人間関係の複雑さだろうか。誰が誰とどこでどうつながっているのかわからなくなってきて、混乱させられた。これについては、半村良が作品中で役者の格に合わせて役に重みを出すための苦肉の策だったなんて解説していたと思う。この辺から「役不足」なんて言葉が生まれたわけだし。

 もう一つの不満というか、あれっと思ったのは、「天保六花撰」のうちの森田屋清蔵が出てこなかったことである。これはもうこちらが半村良の作品をもとに黙阿弥の作品を想定していたのが悪いのだけど、「天保六花撰」全員が活躍する話が読みたくなってくる。いや、その前に「天保六花撰」ってなんでこの六人だったんだろうという疑問がわく。河内山や金子市あたりと比べると、暗闇の丑松なんて小物も小物である。花魁の三千歳が入っているのも時代がらなのか、小町にならって女性を入れるためなのかよくわからない。まあ本家の『古今集』の六歌仙にも履歴のよくわからん人物が入っているわけだからこれでいいのかな。
 とまれ、『天衣紛上野初花』は最後まで面白く読めた。『西洋道中膝栗毛』を読んだときには、明治期の文学革新運動は必然だったのだとまで思ったのだが、黙阿弥の作品は、配役上のしがらみから来る複雑すぎる人間関係を除けば、近代文学の新しい文学でございと威張っている作品と並べても見劣りしなさそうな印象さえ持った。如何に「新しい」と主張しようと、それまでの文学的蓄積がなければ、存在のしようはないということだろうか。





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