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2016年10月31日
十月廿八日(十月廿八日)
十月廿八日は、と書き出して同じ言葉が三つ続いていることに気づいた。まあたまにはよかろう。今日はチェコには少ない祝日である。名目はチェコスロバキア独立記念日ということなので、第一次世界大戦後の混乱の中からチェコスロバキア第一共和国が成立した日だということになる。
普墺戦争の結果誕生したオーストリア=ハンガリー二重帝国は、完全に一つの国になっていたのではなく、オーストリア側がハンガリーに実質的な独立を許し、政治制度の違う二つの国が、ハプスブルク家によって統治されているという点で一つにつながっていたに過ぎず、二つの国の間には明確な境界があった。
現在のチェコはオーストリア側で先進工業地帯として重きをなしており、オーストリア、ハンガリーに次ぐ帝国内第三の勢力として、独立、あるいは第二のハンガリーとして自治権を獲得する運動が行われていた。一方スロバキアのほうはハンガリー北部の山岳地帯で、林業を中心とするときに上部ハンガリーなどと呼ばれてしまう地域で、スロバキア人という民族はルシン人などと同様にその他の少数民族でしかなかった。
そんなチェコとスロバキアが、共同で独立することになったのは、かつて東は現在のスロバキア、西はボヘミアのほうまで勢力を伸ばして、ゲルマン人のフランク王国に対抗していたスラブ人の国、大モラバの時代にさかのぼって、本来ひとつの民族だったのが歴史の荒波の中で二つに分かれ、千年の時を経て再び一つになるのだとか主張されたのだったか。現実にはチェコの領域だけだと、ドイツ人人口の割合が高くなりすぎ、スロバキア人だけではハンガリーからの独立を勝ち取るのは難しそうだという事情もあってチェコ人とスロバキア人で手を握って、ドイツ人、ハンガリー人に対抗して独立を獲得しようとしたらしい。
この計画を推進したのが初代大統領になったマサリクで、スロバキア側ではミラン・シュテファーニクが中心人物であった。しかし、シュテファーニクは、独立直後の1919年に自ら操縦する飛行機が墜落して独立チェコスロバキアで政治家としてスロバキア人を指導することなく亡くなってしまう。この事件が、スロバキア側にマサリクに対抗できるような指導者が生まれることを嫌ったチェコ人側の陰謀であるという説もあって第二次世界大戦中にはナチスドイツに利用されることになる。
チェコ人にとっては独立は、ドイツ人支配からの開放を意味したが、スロバキア人たちにとっては、それまでの支配者であったハンガリー人に、西からやってきたチェコ人が取って代わっただけに感じられる部分もあったという。チェコ人は支配ではなく指導という言葉をつかったようだが、マサリクが独立運動中にスロバキア人側に約束したといわれる連邦化がいつまでたっても実現しなかったこともあって、スロバキア人たちの反感は大きかったらしい。それは共産主義の時代を経て現在まで続いており、この十月廿八日は、スロバキアでは祝日になっていないのである。一応、特別な記念日としては指定されているようだけど、それも1999年の指定で、休日扱いにもなっていない。
チェコにとって、このチェコスロバキアの独立記念日というのは、祝日の中でも最も意味の大きいものの一つで、この日は国内各地でさまざまな記念式典が行われる。特に重要なのはプラハ上で行われる勲章の授与式典だろう。最終的には大統領の決定で選ばれた人々が叙勲される儀式は、チェコがチェコスロバキアとして独立を取り戻したこの日に行われ、毎年チェコテレビが中継するのである。首相をはじめとする閣僚や、国会議員たちなど政治家も式典に出席するのが常なのだが、今年はダライラマの訪チェコをめぐる問題でゼマン大統領が、批判にさらされているため、文化大臣の所属するキリスト教民主同盟をはじめ、式典を欠席することを決めた政党が多かった。バビシュ氏のANOは、個人に決定を任せたといい、バビシュ氏本人は国外滞在中で参加できないということだった。
この件で完全にゼマン大統領を支持しているのは共産党だけで、これは中国との関係を考えると当然か。大統領の出身政党である社会民主党は、ゼマン支持派と反対派に分かれているようで、式典に参加するグループと、参加しないグループがあったようである。たしか上院の議長は、式典には参加するけど、その後の主演は欠席すると言っていた。
それとは別に行われたプラハの旧市街広場のイベントには、大統領の行動に反対する政治家たちが集まり、勲章をもらい損ねた文化大臣のおじ、現在カナダ在住のイジー・ブラディ氏に、オロモウツのパラツキー大学が授与すると決めたパラツキーのメダルの授与式も行われていた。主催者が、次回の大統領選挙への出馬を表明している人物であるところが、微妙なのだけどね。救いは、ブラディ氏が、結果的に勲章をもらえなくてよかったと、もらえなかったおかげで、他のさまざまな賞をもらうことができて、自分を評価してくれる人々と出会うことができてよかったと言っていることぐらいか。
また、俳優のイジー・バルトシュカとボイテフ・ディクを中心とする芸術家たちが、現在の政府の中国よりの政策の変更を求め、民主主義と自由を守るために、現状に対して抗議の声を上げようという運動を始めた。ネット上での署名活動では、すでにかなりの数の署名を集めているようだが、これが何かをもたらしうるのかはわからない。
結局、ダライラマと中国にひっかき回されて醜態をさらしたということか。ダライラマなんか無視して、中国政府に何を言われても右から左に聞き流していればいいのに、どっちにも過剰反応してしまうからこんなことになるのだ。
10月29日18時。
2016年10月30日
如何なるやチェコの夢(十月廿七日)
アメリカンドリームといえば、直訳した「アメリカの夢」という言葉では掬いきれない含意を持つ。では、「チェコの夢」、チェコ語でチェスキー・センといえばどんな含意を持つことになるのだろうか。アメリカンドリームのチェコ版? まあ、同じようにジャパニーズドリームなんていうこともあるから、そういう使い方をすることもないわけではないのだろうけど、この言葉を聴くと、うたかたの夢、見てはならない夢などというイメージが浮かんでしまう。それには、信じられない話が絡んでいるのである。
まだ、チェコ語を勉強していたころだから、今世紀の初頭のことである。冬も終わりに近づき春ももうすぐというころ、当時毎日購入していた新聞「ムラダー・フロンタ」に繰り返し掲載される全面、あるいは半面広告があった。プラハの郊外に新しく開店する大型スーパーマーケットだというので、オロモウツには関係ないと、あまり注目していなかったのだが、一般の誰でも知っているメーカーの商品ではなく、スーパー独自のプライベートブランドの商品の写真が、値段が安いことで知られるスーパーよりも、安い値段をつけられて並んでいたようだ。今思い返せば、スーパーのロゴなんかも妙に気合の入っていない、いかにも金をかけていませんという感じのものだったのだ。当時はこんなところにお金をかけない分、安く売るのだろうと解釈していたのだけど。
広告に書かれていた開店日になっても、せいぜい開店時間前から安い商品を求めるチェコ人たちが行列を作り、開店と同時に入り口に殺到しておしあいへしあいする、大げさに言えば阿鼻叫喚の巷を作り出したというよくあるニュースが流れるぐらいだろうと、あまり気に留めていなかった。
それが、お昼のニュースだっただろうか。当時は部屋にテレビはなかったから、ラジオのニュースだったはずだ。一度聴いただけでは、内容が理解できなかった。そんなに難しい言葉は使われていなかったのだが、あまりに信じられない内容に、頭が理解するのを拒否したのだと思う。
ニュースを聞いてい笑っていたうちのに、今のニュースどういうこと? と聞いたら、チェスキー・センというスーパーが開店するという話だったけど、実はそんな店は存在しなかったというニュースだと言う。
へ? チェスキー・センってあの新聞に広告が出てたあの新規開店するってやつ?
新聞の広告も、プラハの街中に貼られていたポスターも全部偽物で、開店セールをめがけてスーパーが開店することになっていた場所に集まった人々の中には、だまされたことを知って暴れだす人もいて、けが人も出たらしい。
でも近くまで行ったら、スーパーなんてないのがわかるんじゃないの?
その辺の細かい事情までは、そのときのニュースでは言っていなかったらしいので、夜のニュースで確認することにした。ただこれから書くことがその夜のニュースで理解できたことなのかどうかには確信はない。後日聞いた話や、ネット上で読んだ話も混ざって、チェスキー・センという事件は、こんなものだったと覚えているのだ。
開店日が近づいたころから、スーパーが開店することになっていたプラハ郊外のイベント会場と呼ばれる空き地には、最寄のバス停のあたりから見るとスーパーの建物に見えるようにビニールシートの幕が張ってあり、その上には、「何月何日何時新規開店」の文字が躍っていたのだという。散歩のついでなんかにその建物のようなものの近くまで行かない限り、一面しか存在しないことには気づかず、新聞にお金をかけて大々的に広告を出しているのだからと、疑いもせずにプラハの郊外まで出かけて、まったく整備されていないバス停からのおのずからなる小道を、多少の疑いとともにスーパーまで歩いていった人々がその場で見たものは、一面にだけ張られた幕で、その後ろには何もないというものだった。
狐につままれたような表情を見せる人々の前にこの詐欺の首謀者が現れて事情を説明した結果、だまされたことを知った人々は、具体的にどうだまされたのかもわからないまま、首謀者に詰め寄り、大型スーパーの新規開店のときよりもひどい状態を作り出していた。
後で知った話では、「チェスキー・セン」というのは、チェコ人の民族性についてのドキュメンタリー映画の企画で、その撮影のために、このような大掛かりなはかりごとが行われたのだという。つまりチェコ人が新規開店のスーパーに押し寄せる姿、特に開店セールの廉価な商品を求めて殺到する姿を、ドキュメンタリーとして撮影するために、かなりのお金をかけて新聞に広告を出し、イベント会場を借り切り、準備を積み重ねていたらしい。そして、そのドキュメンタリーの一番重要な部分が、だまされたことを知った人々がどのように反応するかだというから、たちが悪すぎる。
この日だまされて「スーパー」に足を伸ばした人たちには、ドキュメンタリーが公開されたら無料で視聴できる権利を与えると言っていたが、だまされた人たちの中でこの映画を見に行った人はいるのだろうか。だまされた人々大半が、日中ほかにすることがなくてこの手のスーパーの開店には必ず押し寄せる年金生活者で、「ただ」という言葉に弱い人たちだったとは言え、さすがに自分たちの醜態を納めた映画は見に行かなかったんじゃないかなあ。交通費も出していれば話は別なんだろうけどさ。
さらに驚かされたのは、このドキュメンタリー映画に対して文化省からかなりの額の助成金が出ていたことだ。つまり文化省では、このような国民をだましてその右往左往する姿を、いわば「これがチェコ人だ」と紹介するドキュメンタリーの撮影を支持していたということになる。とんでもないというべきなのか、懐が深いと評するべきなのか……。まあ、だまされた人の大半はプラハの人たちだろうからいいっちゃあいいんだけどね。自分の目で見てみたかったと思う気持ちもないわけではないし。でも、オロモウツでやられていたら、自分が被害を受けていなくても、知り合いが巻き込まれるだろうから、ふざけんなぐらいの感想は持ったかもしれない。
わかったかな。これが、「チェスキー・セン」なのだよ。アメリカンドリームのチェコ版ではなくて、信じてはいけない夢ってことになるのかね。それとも、失敗前提のアメリカンドリームが、チェスキー・センになるのかな。
10月28日12時。
2016年10月29日
つらつらとブログのことなど(十月廿六日)
暫定的に使っているノートパソコンのタッチパッドの機能を殺せず、カーソルがぴょんぴょんはねるので書きにくいったらありゃしない。誤植が増えていたら、半分ほど(完全にではない)ブラインドタッチで、画面を見ないで入力しているときに、親指の付け根辺りがタッチパッドにあるかなきかの接触をして、変な操作をしてしまったからに決まっている。気がついたらテキストのぜんぜん違う場所で入力していたなんてのは、心臓によくない。
それはともかく、八月のアクセス数が800に近づき、それまで一日平均で10ちょっとしかなかったのが、平均で25を超え、どうしたのだろうと思っていたら、九月はさらに数が増えて、四桁に突入してしまった。一日三桁の数字を見て我が目を疑ったこともあったなあ。これは九月だけのことだろうと、「九月は変」とかいう題名でブログについての記事を書こうと思っていたら、十月に入っても大きな変化はなく、これは「九月から変」に題名を変える必要があると思ってしまった。
そういえば、尊敬する知人の、写真を生かした、特に食べ物の写真のおいしそうなブログには、ダイエットねたを書いたら、アクセス数が二桁違ったなんてことが書かれていたけれども、チェコでダイエットねたなんて思いつかない。増やしたいわけじゃないけど。
せいぜいが、おそらく外国の番組のフォーマットを購入してプリマで制作されたダイエット番組だろうか。番組に応募した素人が栄養学と運動の専門家のサポートを受けて、食生活の改善と運動の習慣を身につけるためのプログラムを渡され、二ヶ月ぐらいかけて目標の数値まで体重を落とすために努力する番組だった。意志の強さを測るような番組で、最初は目新しさから見ていたのだけど、食事に関して、あれもだめこれもだめというのに嫌気が差して、見なくなった。何年か続いて、さすがに飽きられたのか、番組で恥をさらしてまでやせたいという人がいなくなったのか、ここしばらくは新しいシリーズは製作されていないようだ。
それでも、イギリスやアメリカの同じような、さらに過激な番組を放送していることがあるから、ダイエット番組への需要はあるのだろう。出演者に食生活の改善を指導することで一種の啓蒙番組にもなるから、いや、この手のダイエット番組を見て、塩分を減らそうとか、食品添加物はいけないとか気をつけるようになったチェコ人っているのだろうか。
それで、肥満の危険を訴えるダイエット番組があるなら、タバコの害が声高に訴えられるようになり、禁煙の場所が増え、タバコのパッケージにはグロテスクなタバコによる疾患の患部の写真を載せなければいけないなんてことになっていることを考えると、禁煙番組があってもよさそうな気がしてきた。禁煙による禁断症状で塗炭の苦しみを味わう喫煙者の姿を見せれば、タバコを吸い始める気にならないのではないか。ただ、結果が一目でわかるダイエットと比べて、禁煙は絵面的においしい素材ではなさそうだ。いや、真っ黒だった肺のレントゲンが、次第に普通の色に戻っていくなんてのがあったら劇的で感動的だけど、そんなに頻繁にレントゲンを撮るわけにもいかないか。劇的な変化があるとも限らないし。
それに加えて、スポンサーの問題もありそうだ。タバコ会社は落ちぶれたとはいえ、今でも広告のスポンサーとしては大きな力を持っているから、あからさまに禁煙を求める番組はテレビでは放送しづらいのだろう。アルコール依存症や、薬物依存症と戦う人たちの姿を、苦闘する姿を見せつけるような番組もあってよさそうなのだが、こっちはプライバシーの問題とか、人権の問題とかいろいろややこしいことがあるのだろうし、ダイエットほどには受けないのだろう。
もう一つダイエットで思い出した。まだ九十年代半ばの、ビロード革命や、チェコスロバキア分離の混乱の残っていた時代に、「確実に痩せられる方法を教えます」というダイエットしようと考えている人向けの広告があったらしい。お金を送ったらその方法を教えるというのだが、多分それほど大きな金額ではなかったのだろう。結構、ダメもとで送った人が多く、そんな人たちのもとには後日、小さな封筒が届けられ、その封筒の中に痩せる秘訣があるのかと、開けてみたら、書かれていたのは一言「Ne?er!」という言葉だけ。
日本語に訳すと、「食いすぎるな」とか、「ブタみたいに食うな」となるのかな。確かに食べ過ぎなければ痩せられるということで詐欺にはならないのかもしれない。警察が捜査をしたのかどうかもわからないけれども、そうだよなあ、その通りだよなあで放置されたのではないかという気もする。大して被害額も大きくはなかっただろうし。
チェコ人はこの手のシャレになるのか、ならないのか微妙なところが好きだよなあと考えていたら、あるスーパーマーケットをめぐるとんでもない事件を思い出してしまった。思い出したけど長くなったので、明日に回そう。
今日の分は、結構垂れ流しっぽい?
10月27日18時。
2016年10月28日
つらつらと震災後のことなど(十月廿五日)
たまに、いや最近は頻繁に何を書けばいいのか、思いつかなくなることがある。前日に書いたものから派生して、話が広がっていくこともあるのだが、間にここで書いておかなければと思いついたことを書いてしまうと、思いついていたアイデアが消えてしまうことも多いし、あれこれ考えているうちに膨らませきれないまま忘却のかなたに落ちていく。もしくは膨らませきらないままに書き始めて、苦労した挙句にぼろぼろの文章になる。
たまには、何も考えずに、思いついたことを思いついたままにつらつらと書いてみるのも面白いかもしれない。読み直しも構成を考えることもせず、普段からそんなにしているわけではないけれども、文章の向かう方向と着地点だけは多少意識しながら書いているから、それもやめて、よだれの垂れ流し的に文章を書いてみる。いつも以上に読みにくくてわけのわからない文章になってしまうだろうことを、事前に、いるかどうかもわからないいつも駄文を読んでくれている方にお詫びしておく。
最近、十年ほど前に、通訳の仕事でお世話になった方と久しぶりに、本当に久しぶりに一緒にお酒を飲む機会があった。いやあ懐かしかった。お互いに多少年をとり、白髪の数を増やしたり、体形が微妙に変わったりしていたが、ほかの人とはなかなかできない話のかみ合い方は、特に昔一緒に仕事をしていたころの話をしたわけではないにもかかわらず、気分を過去にさかのぼらせ、若返ったような勘違いをさせてくれた。おかげで、久しぶりに一晩に三杯飲むという偉業を達成してしまい、翌日酒の抜けない体の重さに苦しめられることになった。
あれからずっとチェコにいたと思っていたのが、一度日本に戻って仕事をしていたらしい。その時期に、2011年の震災と福島の原子力発電所の事故に遭遇し、本人は西日本で仕事をしていたから、直接の被害は受けていないが、ヨーロッパとの仕事の上では、ヨーロッパ人たちの無知蒙昧さに苦労させられたと言っていた。あいつら地図読めねえとは、本人の弁。
福島から何百キロも離れたところの工場で作っている製品に対して、放射能汚染された製品を輸出するとは何事かなどとクレームをつけてくる会社がありやがって、対応に苦慮したらしい。最終的には、ガイガーカウンターでの測定値をつけて出荷したり、その様子をビデオに収めて、ビデオは加工していないという記述をつけて取引先に見せたりしなければならなかったという。特にドイツのヒステリーじみた反応がひどかったらしい。
チェコでは原子力専門家が、テレビなどで非常に正確な説明をしていたので、いわゆる風評被害は起こっていないだろうと思っていたのだが、実はそうではなかったのかもしれない。2011年の震災後、オロモウツで太陽光発電用のパネルの組み立てをやっていた日系企業が工場をたたんだ。当時聴いた話では、反原子力で、太陽光発電に過剰な補助金を出す愚策が導入されてブームが起こった結果、質よりも量で、もともと廉価だった上に、大量の販売と引き換えにさらなる値下げをするようになった中国企業との争えなくなったという話だった。
考えてみれば、この工場では、日本から持ってきた太陽電池本体に、さまざまな部品をつけて太陽光発電用のパネルを組み立てる工場だった。日本から輸出された太陽電池は放射能汚染されていると短絡的に考える顧客がいてもおかしくない。インターネットで不確かな情報があたかも確実な情報であるかのように拡散して信じ込まれてしまう時代である。政府が発表する公式のデータは捏造されているから信用できないなんてことを言う人たちがいて、それを信じる人たちがいたら、否定して正しいことを理解させるのは大変だろう。
日本側がいくら否定しても、競争相手の中国企業にそんな話を流されたら、ただでさえ価格で負けているのだから、勝ち目はなかったと言ってしまえそうだ。日本でも、未だに福島やその周辺の産物に対する忌避感は残っているというから、福島だろうが、そこから遠く離れた関西地方だろうが、九州、沖縄だろうが、日本であるという一点で同一視してしまうのだろう。
チェコのオロモウツから遠く離れた町のレストランで拳銃による無差別発砲事件が起こって数人の人が亡くなったときも、プラハを中心とするボヘミア地方で洪水が起こったときにも、日本から心配するメールや、電話が次々にくるなんてぼやいている日本人はいたし、パリや、ブリュッセルでテロが起こっただけで、同じヨーロッパのチェコも危ないと思ってしまう人もいそうだ。
まあ、チェコがどこにあるか知らなければ、そんな心配もしないのだろうけど、中途半端に知っているから、杞憂というものに囚われてしまうのだろう。人種差別の原因を無知に求める人がいるが、そもそも完全な無知であれば、差別さえできまい。そう考えると中途半端に過ぎる知識というのは危険である。だから、もう年だし、いまさら新しいことを勉強し始めても中途半端にも届かないから、何も新しいことはしないと怠ける言い訳に使ってしまう。怠け者なのだよ、我が本質は。一日中コタツでごろごろしていたいのだけど、チェコにはコタツがないし、寒空のもと今日も今日とていやいや仕事に向かう。
10月26日22時30分。
書き方を変えたつもりなのに、結果はいつもと変わらないという不思議。うーん。
2016年10月27日
ノーベル文学賞に思う2(十月廿四日)
ノーベル文学賞にボブ・ディランが選ばれたとき、日本のネット上には、村上春樹に関するニュースがいくつも流れた。長年候補と言われつつ受賞に至らない村上春樹について、どうして受賞できないのかなんて記事が多かったかな。ノーベル文学賞自体が、最近はあまり信用できるものではなくなっていることを自ら露呈しつつあるし、受賞できないことが作家の価値を変えるということもないのだろうけど、日本人てのは、オリンピックもそうだけど、この手のイベントが好きな民族である。
その受賞できなかった理由を考察する記事を読んでいて、あれっと思うところも少なくなかった。例えば、通俗的過ぎて文学性が低く評価されたのではないかとかいった意見を見かけたけれども、通俗性が問題になるのであれば、実際に受賞した川端康成だってNHKの連続テレビドラマの原作を書いているわけだし、自殺していなければ受賞していたとまで言われる三島由紀夫の『潮騒』とか、『豊饒の海』とか、通俗もいいところだと思うけどなあ。昔は、純文学と大衆文学の間に、中間文学なんてものがあって、純文学の作家が売り上げを求めて書くときの口実に使われていたから、この辺の作品もその中に入るのかもしれないけどね。
海外文学に関して、純文学だの大衆文学だの言うのは聞いたことがないから、日本で言う大衆文学的な通俗的な作品が、文学作品として高く評価されてもおかしくなかろう。通俗的な売り上げの多い作品の例として、『ハリー・ポッター』シリーズが挙げられていたけれども、あれは児童文学であって比較するのはちょっと違うような気がする。
むしろ、村上春樹の作品に、日本の土着的なものや、ノーベル賞が好む政治的なものが欠けているのではないかという指摘のほうが納得がいく。政治的な発言に関しては知らないが、日本的なものの希薄さは確かに感じた。現在形ではなく、過去形なのは、村上春樹を読んだのは、高校時代の一時期、いわゆる純文学に淫していた時代だけだからだ。当時、もどかしさというか、空虚さというか、何とも言い得ない不満を抱えて読んでいたのだが、それが日本的なものの欠如、日本の作家の本を読んでいるのに、翻訳小説の舞台だけを日本に移し変えたような印象だったのかもしれない。
考えてみれば、作品の文学性や、文学的価値というものについては評価する能はないので、純粋に日本人として、日本の読者として、日本を代表する作家を上げろといわれたときに、村上春樹の名前は出しにくい。何か違うのである。これも同じ理由だろうか。
当時は、村上春樹だけでなく、村上龍や、三田誠広、島田雅彦なんかの作品を読み漁ったけれども、一番感動というか、衝撃というかを受けたのは、土俗的な怨念の世界を描いた(少なくとも田舎の高校生にはそう思えた)中上健次の作品だった。戦後の日本のいわゆる純文学の作品で『千年の愉楽』を超えるものはないと、どんな話だったかは覚えていないにもかかわらず、根拠はまったくないが強く確信している。
村上春樹の作品では、80年代に大ベストセラーになった『ノルウェイの森』が、初めて出版と同時に読もうと思えば読めた作品だった。だったのだが、読まなかった。理由としては『羊をめぐる冒険』などのそれまでの作品を読んで、これで十分だと感じたというのもあるのだけど、ベストセラーになったというのも大きい。普段は本など読みもしない連中が、ベストセラーだからという理由で購入しているのを見たら、とても読む気にはなれなかった。友人の一人は、上記の理由で購入し、一応最後まで通読して、お前に似た変人が登場するから読んでみろよと、失礼なことをほざいていたが、同様の理由で購入した人たちのうち、どのぐらいの人が通読したのだろうか。教養というものがまだ、無意識にせよ重視されていた時代、百科事典や広辞苑を本棚の肥やしとして購入する家庭が多かったが、村上春樹の作品も同じような扱いを受けていたんじゃないかと考えてしまう。それは、本にとって、作者にとっては不幸なことなのだろう。
チェコに来て、村上春樹の作品が、次々に翻訳出版されていくのを見て、なぜこんなに需要があるのだろうかと考えてしまう。やはり、ダライラマ人気につながるところがあるのかな。日本人がヨーロッパ的な価値観で書いた作品、もしくはヨーロッパ人が期待する日本の作品の姿にかなっているから、文化的な軋轢もなく受け入れられるのだろうか。
そんなことを考えつつ、別に村上春樹を含めて日本の作家がノーベル賞を取れなくてもいいじゃないかと思う。ノーベル賞は、そのうちテレビや映画の脚本、果てはネット上のブログなんかまで文学賞の対象にしかねないしね。ノーベル賞が、日本文学が世界で認められた証だというなら、答えは、無理して世界で認められる必要などないである。世界的であるために日本的なものが消えていくのならば、文学に限らず世界的になどなる必要はない。
近年は世界基準から外れた日本独自のものを、ガラパゴスなどと批判したり揶揄したりする傾向にあるけれども、日本独自でいいじゃないか。日本独自というのが嫌なのなら、日本独自を世界に広めて世界基準にしてしまえばいいだけだ。ってな気概を日本に住んで日本的な生活をしている人たちにはもってほしいのだけど。外国にいるとそんなことは難しいから。せいぜいが、お酒を飲みに行ったときに、みんなで頼んでみんなで食べて飲んで、みんなでお金を払う(誰かが出してくれることもあるけど)日本の居酒屋割り勘方式を広めるぐらいである。
10月25日23時30分。
どうしてこうなったと言いたくなるぐらいぐちゃぐちゃになってしまった。村上春樹の作品はあまり好みに合わないのだけど、ノーベル賞受賞できなかったぐらいで、何であんなに大騒ぎするのか理解できない。10月26日追記。
2016年10月26日
ノーベル文学賞に思う1(十月廿三日)
同時代の音楽に背を向けて、七十年代のフォークだのロックだのを九十年代に聴いていた人間にとって、ボブ・ディランの名前は親しい。ただ、九十年代は、我が英語アレルギーの最盛期だったので、さまざまな日本の音楽関係者に影響を与えているという話は聴いていたが、あえてオリジナルを聴こうとは思わなかった。洋楽なんて忌野清志郎のCOVERSで十分だったし。うん。
だから、ボブ・ディラン本人に特に思い入れはないし、ノーベル文学賞に選ばれたという話を聴いたときも、特に反対する気にも、両手を挙げて賛同する気にもなれなかった。ただ、素直に受賞を受け入れるのかねとは思った。ビートルズは女王陛下から勲章をもらったらしいけど、少なくともそんな歌を吉田拓郎が歌っていたけれども、ディランはどうだったのだろう。反戦を旗印にしたプロテストソングの旗手には勲章なんて似合わないような気もするけれども、年をとってそういうものを受け入れるようになっていてもおかしくないかもしれない。
受賞が決まった日の翌日ぐらいからだっただろうか、ノーベル賞授与団体側が、ディラン氏と連絡が取れないとか言い始めたのは。ということは、前者でノーベル賞の受賞を拒否する意向だということなのだろう。ノーベル賞の中でも、文学賞と平和賞はいろいろ問題のある賞だから、受賞が必ずしもプラスになるとは限らないし、ボブ・ディランほどの金持ちであれば、賞金のために受賞を受け入れる必要もあるまい。
理解できないのは、ノーベル賞側がディラン氏の対応を失礼だとか言っていることで、賞を与えると言えば誰でも尻尾を振ってありがたがると思っている傲慢さが垣間見える。確かにディラン氏側の対応も褒められたものではないだろうけど、もともとが既存の権威などというものを認めず、そんなものに無視していた人物だったはずである。受賞拒否ぐらいは予想に入れてしかるべきであろう。それでも賞を与えたかったのなら、事前に受け取る気があるかどうかの確認ぐらいはするべきだったのだ。
いや、事前に候補者を発表してもいいくらいだ。そうすれば、受賞を受け入れる気のない候補者は辞退するだろうから、今回のような事態は防げる。どうせ事前に有力候補の名前は一部メディアをにぎわすのだ。公式の候補者リストと候補として挙げられて理由を発表しても罰は当たるまい。文学に関心を持つ人々の間の議論も活発になり、それが最近かつてほどの意味をもてなくなっている文学そのものの再発見、再生にもつながるだろう。
ただ、驚きを演出するために、事前の候補者の発表もせず、受賞を受け入れるかどうかも確認せずに勝手に賞を与えることを発表する。ディラン氏の態度よりもこのノーベル賞側の態度のほうがはるかに無礼である。あのノーベル賞なんだから受賞を拒否する奴なんかいないだろうという傲慢さに加えて、今回はさらにノーベル賞が歌詞を文学と認めてやるんだからありがたく賞を受け取れという権威を笠に着た態度も見え隠れして、ディラン氏ならずとも、不快に感じることはありそうだ。
仮に、ノーベル賞側が、事前にディラン氏に意向を尋ねて拒否はしないという答えを得ていたとしても、状況はそんなに変わらない。ノーベル賞という権威を最初からコケにしようとしていたということで、文学の世界から音楽の世界にまで手を広げようとするノーベル賞側に対する反撃だと考えてもよかろう。いずれにしても、これまで権威に胡坐をかいて、文学性よりも政治的な意味合いに重点を置いて恣意的に、文学と名のつく賞を出してきた流れが、今回限界を超えたということか。まあ自業自得の類である。
個人的には、戦争を始めてもおかしくない人間が戦争をしないからとか、自国民に繊細の苦しみを与えた責任者に勲章を与えたとか言う理由で、表向きの理由は違うかもしれないけれども、与えられる平和賞ともども、文学賞はなくしてしまってもいいのではないか。文学賞なんて、新人を支援するための登竜門的な賞、たとえば芥川賞、直木賞のようなものには存在価値もあるだろうけど、押しも押されぬ大作家に与える功労賞的な賞は無用である。日本にもその手の賞はいろいろあるけれども、関係者以外の注目を集めることはないわけだし。
今後の展開としては、ボブ・ディランが、ノーベル賞のアンチテーゼとも言おうと思えば言えなくもない、イグ・ノーベル賞を受賞してそれを受け入れることを期待しておこう。あれ、イグ・ノーベル文学賞なんかあったっけ? こっちのほうが見識高そうだなあ。
10月25日10時。
2016年10月25日
ゼマン大統領暴れる(十月廿二日)
先日、テレビのニュースを見ていたら昔懐かしいスロバキアのメチアル元首相の姿が登場した。何が起こったのかと思ってみていたら、スロバキアの初代大統領のコバーチ氏が亡くなったという。メチアル氏とコバーチ氏の関係もなかなか微妙なものがあったらしいけれども、最たるものはコバーチ氏の息子が、誘拐されオーストリアで発見されたという事件だろうか。当時から、メチアル氏の指示で秘密警察が実行したものだといわれており、実行犯もほぼ確定していたらしいのだが、コバーチ氏の任期切れに伴う大統領選挙で誰も選出されずに、臨時大統領選挙までの間、首相として臨時に大統領の権限を行使していたメチアル氏が、この事件の関係者全員を恩赦の対象にしてしまったため十分な捜査が行われないままになっているらしい。
それはともかく、コバーチ氏の葬儀に参列するために、我らがチェコのゼマン大統領もブラチスラバに向かったわけだ。それが、あろうことか大統領一行は葬儀の開始に間に合わず、恥をさらすことになってしまった(そう思っているのは本人たちだけかもしれないが)。それで、いけにえが必要とされたのだが、選ばれたのが飛行場の航空管制官だった。つまり、航空管制官が大統領専用機を優先せずに出発を遅らせたと言うのである。
ゼマン大統領は、自信満々に、遅れた理由としては、飛行場で出発に時間がかかったことしかありえないと言っていたが、管制官も飛行場側も、強く否定している。実際は、大統領専用機の離陸準備が整ったあとは、すでに離陸体制に入っていて途中で離陸を中止するのは危険だと判断された一機の貨物便だけに着陸が許され、他の飛行機はすべて離陸と着陸を遅らせ、大統領専用機が離陸するのを待っていたらしい。
ニュースを聞いていて不思議に思ったのが、当初の予定がものすごくぎりぎりで組んであったことだ。正確な数字は覚えていないが、確かブラチスラバの空港から葬儀の会場まで三十分で移動することになっていた。それで三十分前に会場に到着する予定だというのならわかるが、会場に到着するのは葬儀開始の時間ぎりぎりの予定だったようだ。飛行機での移動時間は風次第で長くも短くもなるものだし、飛行場からの移動だって、渋滞や事故で予想外の時間がかかることもあるのだから、スロバキアの元大統領の葬儀に遅れてはならないという意識があったのなら、一時間、二時間前に到着するように予定を組むのが当然で、慎重を期すなら前日にブラチスラバに入るものじゃないのか。
結局、自分の、いや自分の部下たる大統領府の役人たちの失敗の責任を他人になするつけているだけにしか見えない。大統領府に集まったゼマン氏の友人たちには、ユニークな人たちが多く、これで大丈夫なのかと言いたくなることもある。
自分でも信じていないだろうと言いたくなる強引過ぎる論理を駆使して、大統領を擁護し批判者を批判する広報官のオフチャーチェク氏は、奇抜な服飾センスと合わせて揶揄の対象でしかないし、地元の村の住民たちを集めて大統領官邸見学バスツアーを行って本来は許可なく入れないような場所にまで案内したミナーシュ氏が大統領府の長である。このミナーシュ氏は国家の機密に触れるために必要な証明(よくわからんけどそんなものがあるらしい)が取れなくて困っているというけれども、こんな奴に機密に触れさせたらいけないだろうと思う。
ゼマン大統領は、就任当初は初の直接選挙で選出された大統領ということもあって高い支持率を誇っていたのだが、それに胡坐をかきすぎたのか、傲慢で奇矯な振る舞いが増えて支持率を落としている。2018年に予定されている次の大統領選挙にも出馬する意向だというから、もう少し言動に気をつけたほうがいいと思うのだけど、いや、今のままでも再選の可能性は高いのか。他にこれという候補者がいないからなあ。
そんな騒ぎも納まらない中、フォーラム2000という団体の招待でまたまたダライラマがチェコにやってきた。ダライラマ信者はチェコに多いのである。来ただけなら問題はないのだけど、キリスト教民主同盟の文化大臣が、個人的にダライラマと会談をしてしまった。チェコの一部の政治家にとってダライラマと面会することが、一種のステータスになってしまっているのも大きな問題なのだが、さらに大きな問題は、政府が中国を怒らせまいと過剰な反応をしてしまったことだ。
首相、両院議長など四名の連盟で、チェコ政府の公式見解は中国はひとつであるとか何とか、チベットの独立運動を支持しないことを改めて表明したのである。中国からのチェコへの投資が引き上げられること、チェコ企業の中国進出が阻害されることを恐れた経済的な理由でのことだというけれども、中国大使の要請を受けての行動だとの報道もあって、なぜここまで中国に気を使うのかという批判も強かった。共産党は支持していたけど。
首相以上に批判にさらされているのが、ゼマン大統領で、文化大臣が、ダライラマと会う予定であることを知って、ダライラマと会うなら、十月廿八日に勲章を授与される人の名簿から、大臣のおじに当たる人を抹消すると言ってダライラマとの会合を中止するように求めたのだという。大臣のおじは、第二次世界大戦中、ナチスによってアウシュビッツに送られ何とか生き延びたという人で、勲章をもらえそうだという話を聞いて非常に喜んでいたらしい。
ある意味でおじを人質にとられた文化大臣は、ダライラマとの会合のあと、ゼマン大統領とのやり取りを公開した。その結果、廿八日に予定されている勲章の授与式への参加を辞退、あるいは拒否する動きが政治家、大学関係者の間に広がろうとしている。
もちろん、件のオフチャーチェク氏は、文化大臣の発言を断固拒否して、文化大臣がおじに勲章が与えられるようにゼマン氏のところに交渉に来たのだとかいう話をしている。文化大臣もオフチャーチェク氏も、その場にいた人が他にもいたけれども名前は挙げたくないと言っている。どちらの話が真実であれ、今回の件で味噌をつけたのがゼマン大統領である点では変わらない。
ダライラマ問題も、日本の靖国問題と同じで、中国は騒ぐために騒いでいるのだから、我関せずで放置しておくのが一番いいだろうに、どうして過剰反応するのだろうか。その辺は、ヨーロッパ人の期待するアジア人を見事に演じ上げているダライラマのほうが一枚上だったということなのかな。
まあ、個人的には、チベットの国旗を掲げて喜んでいる連中には、本気で支援する気があるなら、物理的な支援をしろよと言いたいけどね。金、物、人、中国と戦うにはどれも足りていないだろうしね。
10月22日23時。
2016年10月24日
秋葉原で思い出したこと(十月廿一日)
秋葉原についてあれこれ書いていたら、大学時代に購入して聞いていたとあるCDで、「秋葉原まで」というのを、明確に「あきばはらまで」と歌っていたのを思い出した。強烈に響いたので今でも思い出せるのだが、歌っていた人は秋葉原近辺の出身で、「あきはばら」と言われるのに抵抗があったのだろうか。その曲の名前は覚えていないけれども、どうしてそのCDを買うことになったのかは、多少のあやふやさはあるけれども、よく覚えている。
大学時代を通して、川崎市の南武線沿いのある街に住んでいた。最寄の駅近くの商店街のはずれにチェーン店ではない小さな本屋が存在した。ただの本屋だったら、家とは駅の反対側だったから、頻繁に通うなんてことはしなかったのだろうが、品揃えが非常にユニークでついつい手にとって、ついつい購入したくなるような本が多く、毎週の書店めぐりは地元のこの本屋から始めていた。
もちろん売れ筋の漫画や雑誌、文庫なども置かれていたが、それは経営のためで、店主の趣味で普通なら紀伊国屋や書泉、三省堂なんかの大規模書店に行かなければ手に入らないような本も、かなり偏りはあったけれども置いてあったので、その手の本を探すときにも、まずその本屋に寄って、ないことを確認してから大規模書店めぐりを始めたものだ。
それから、売れ残りは返品できる再販制度で保護された出版業界の中で、返品を許さない、いわゆる買いきりで書店に本を卸している岩波書店の岩波文庫が大量に置かれていたのも、小規模書店では珍しいことだった。岩波文庫は一度一定数を印刷して出荷した後は、市場に飢餓感を演出するために、なかなか増刷をしないので、大規模書店に在庫がない場合には、出版社に連絡をしても手に入らないことが多い。ただ書店から返品されないので、絶版の本でも、品切れ重版未定の本でも、あるところにはあるのである。
そんな岩波文庫の宝の山が眠っていたのもこの書店で、古典文学の黄帯を中心にかなりの数、購入したし、この書店の存在を知る前に、定価よりも高額で古書店で購入したものを発見して地団太踏むこともあった。うちに遊びに来るたびに、この本屋に寄って岩波文庫のコレクションを充実させている友人もいた。
ある日、この店で、店主が書いた自伝的な本を発見して、こういうユニークな書店を開業した人の人生はどんなものなのだろうと購入して読んでみた。読んでびっくり、60年代末から70年代初めにかけての日本のロック、フォークの黎明期に活躍した知る人ぞ知る伝説のミュージシャンであったのだ。それが、音楽業界に嫌気が差して足を洗って、川崎のひなびたところに引っ込んで書店を始めたらしい。
そんな人物の本屋だと知った以上は、聞いてみたくなるのが人情ってもんだろ。時代がよかったのだと思う。90年代の初めぐらいから、レコード会社が過去の音源のCD化を積極的に進めており、すぐにだったか、しばらくたってだったか覚えていないが、復刻版CDで無事に店主の歌を聞くことができた。何とも言えない暗いそして粘るような、歌詞に曲に歌い方、心が弾むようなものでも、感動するようなものでもなかったが、奇妙に魅力的だった。歌の暗さが、心の中の闇を照らし出したとでも言えばいいのだろうか。当時はあれこれ抱えて鬱屈していたからなあ。
ご当人のデビューと同時に解散したようなグループのアルバムだけでなく、解散後にかかわったらしいURC(アングラ・レコード・クラブ)という会員制のフォーク、ロックのレコード制作販売グループから出されたアルバムにまで手を出すようになり、もともとほとんど聞いていなかったけれども、同時代の音楽に完全に背を向けて、70年代以前のものばかり聞くようになってしまった。
細野晴臣のいたはっぴいえんどとか、放送禁止の多い岡林信康なんかの有名どころはもちろん、高田渡、友部正人(この二人も知っている人は知っているだろうけど)なんかにまで手を出すようになってしまった。アルバイトをしていたとはいえ資金的には潤沢ではなかったので、一度に大量に買うなんてことはできず、買うときは結構悩んだんだよなあ。
そんな中で一番衝撃的だったのは、「歌う哲学者」とか言われていたらしい斉藤哲夫だった。この人のアルバムの『君は英雄なんかじゃない』には、タイトルからして何も言えなかったし、収録されていた「悩み多きものよ」には、感動して震えるしかなかった。そうしたら、ソニーが70年代のアルバムを廉価版で復刻するなんてことを始めちゃったもんだから、ついつい『バイバイグッドバイサラバイ』『グッド・タイム・ミュージック』『僕の古い友達』まで手に入れてしまった。
この人に関しての最大の衝撃は、実は80年代に宮崎美子が出演して人気を呼んだTVコマーシャルに使われていた「いまのキミはピカピカに光って」を歌っていたという事実だった。あの歌も耳に残って忘れられない歌声だったが、「悩み多きものよ」も「バイバイグッドバイサラバイ」も、耳にこびりついているからなあ。そうだったかあと納得したのだった。
さて、秋葉原に戻ると、音楽業界を離れて久しかった行きつけの本屋のおやじさんが、こちらの印象からすると突然復帰してアルバムを発表したのだ。それが90年代の半ばのことで、当然のように応援する気持ちもあって購入した。そのアルバムに収録されていた曲の一節に、「あきばはらまで」というフレーズが出てきたのだった。
さて、この記事に出てきた本屋のおやじさんが誰かわかる人がいるだろうか。かつてジャックスというバンドを率いた早川義夫という人である。直接話したことはないけど、お店で見かけたことはあるので、つい親近感を抱いてしまう。現在も音楽活動は続けているようなので、遠くチェコから聞きに行くことはできないけど、応援はしている。
10月21日23時30分。
チェコに来て日本語を勉強しているチェコ人に、アメリカ映画を見ていたら日本語の曲が流れたんだけど、知らないかと聞かれたことがある。サウンドトラックで聴かされたら、何と懐かしいはぴいえんどの「風をあつめて」だった。こんなのぱっと聴いてわかった人がどのぐらいいたのだろうか。我が懐古趣味が珍しく役に立ったのだった。10月23日追記。
これは70年代初頭にURCから出したソロアルバム。
せっかくなのでこちらも。こんなジャケットデザインだったかなあ。90年代の復刻版がオリジナルじゃなかったのかな。
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2016年10月23日
師に逆らうわけではないけど2——「秋葉原」をめぐる問題(十月廿日)
「秋葉原」が「あきはばら」なのか、「あきばはら」なのかについては、大学時代の国語学の授業で話に出てきた記憶がある。日本語の新しい言葉の作り方の原則に、は行転呼音とも絡めてなかなか面白い話を聞いたのだが、具体的な内容が思い出せない。もしかしたら、これから書くことは、その授業で聞いたことが、ほとんどそのままになっているかもしれない。
さて、各種辞書にも、秋葉原は、かつては「あきばはら」と読まれていたということが書いてあり、本来誤読であった「あきはばら」がそれにとってかわったというのだけれども、誤読、誤記がどんなものでも定着して正しいものにとってかわるわけではないことを考えると、この「あきはばら」が定着した理由を知りたいと思ってしまう。正確な場所は記憶していないが、役人が勝手に読み間違えた地名を登録したことに反対して、住民が裁判を起こしたなんてことも聞いたことがあるから、地名の問題はデリケートであるはずである。
ただ、国語学を多少かじった人間の目から見ると、「あきはばら」でも「あきばはら」でも、どちらも落ち着かないというか、ケチをつけてしまいたくなる読み方なのだが、これについては後述する。まずは、日本語に於ける連濁という現象から話を始めよう。
連濁というのは、二つの言葉(漢字の場合もある)をつなげて一つの言葉を作るときに、後ろに来る言葉の語頭の清音が濁音化する現象で、日本語ではよく見られる。ただし、どんな言葉でも連濁を起こすというわけではなく、起こしやすいものと起こしにくいものがあるようである。例としては、会社を挙げておこう。自動車と会社を併せると自動車会社になるわけである。
今年の春にチェコに来られた方の名字が「井ノ口」で、「いのくち」「いのぐち」、どちらもありうる読み方なので、恥を忍んで聞いてみた。そうしたら、かつては「いのぐち」のほうを使っていたが、ある国語学者の話を聞いて「いのくち」に変えたのだと言う。それは日本語の原則として、「口」が前の言葉に直接するときには、「ぐち」と濁るが、「の」を入れるのは連濁を避けるためなのだから、井ノ口は「いのくち」と清音で読むほうが国語学的見地からは正しいという話である。固有名詞なのでどう読んでも間違いということはないのだが、国語学の原則から言えばその通りで、また「の」を書き加えずとも、井口で「いのくち」と読むことも可能なのである。
この「の」を入れた場合には連濁しないというのには、川の名前を思い出せばいい。日本中のほとんどの川は、「○○川」と書いて、「がわ」と読むが、紀ノ川、江の川は、「かわ」である。例外的に形容詞的な漢字を使った大川は、「おおかわ」と「の」は入っていなくても清音で読むか。
それから島も同様で、島の名称は原則として「○○じま」となる。ただし「の」ではなく、「が」を間に入れた場合には、佐渡島、鬼ヶ島のように、清音で読むことになる。
ここで秋葉原に戻ろう。この地名は本来三つの言葉からできている。「秋」「葉」「原」である。まず秋と葉を組み合わせて「秋葉」という言葉ができたとき、日本語の原則から考えれば、読み方は「の」を入れて「あきのは」、入れずに「あきば」である。ここまでは問題ない。次は「秋葉」に「原」を付けるわけだが、連濁を起こして「あきばばら」というのは、いかにも語呂が悪いし言いにくい。となれば、高天原、青木ヶ原の例に習って、秋葉原で「あきばがはら」と読むのが、日本語としては最も自然な読み方であろう。
それが青木ヶ原とは違い、高天原と同様に、「ヶ」などの「が」とよむ文字を間に入れずに「秋葉原」と書かれ続けたために、読む際に「あきばはら」と読むようになってしまったのだと考えることができる。
では、「あきはばら」という誤読が受け入れられて定着した理由と考えてみると、今度はは行転呼音に行きつく。語末に原の字が、助詞を介さずに付く人名や地名を考えると、「わら」若しくは「ばら」と読むものが多いことに気づく。松原、塩原は、濁って「ばら」と読むし、藤原、在原、佐土原などは、ハ行転呼を起こして「わら」と読むのである。
歴史的カナ遣いが使われていた時代、語中のハ行音は、ワ行で読まれていた。ならば、「あきばはら」というひらがな表記は、「あきばわら」と読まれる危険性をはらんでいる。それよりは、「まつばら」などの例に習って、「ばら」と読みたいという心理が働いたとしても、おかしくはなかろう。そしてその場合、「あきばばら」が、「ば」の連続で使いにくい以上、「あきはばら」と読んでしまうのはある意味必然であった。もちろんこちらも「あきわばら」と読まれる可能性がなかったわけではなかろうが、「原」が「わら」と読まれる例のほうが、「葉」が「わ」と読まれる例よりもはるかに多いので……。なんてことを、秋葉原に関しては考えてしまうのである。
ついでに言えば、ハ行転呼音は語頭には発生しないので、「あきばはら」と読んだ場合には、「あきば」+「はら」で二語のように認識していることになり、「あきはばら」と読んだ場合には、「あき」+「はばら」という分離を意識していることになる。だから、本来は「あきばはら」だったのだ。
というのが、国語学の先生の話だっただろうか。しかし、一度思いつくと、どうしても「あきばがはら」というのが存在したような気がしてならないのである。もちろんそんな呼称があった証拠はないし、実証しようという気もない。ただあれこれ言葉をいじくりまわして、さまざまな可能性を考えて楽しむのみである。
だから、いずれは、もうひとつの山茶花についても、何とかしたいと、あれこれ考えているのだが、現時点ではこっちも一筋縄ではいきそうにない。「さんざか」が「さざんか」になったというだけの、単純な変化ではなさそうな気がする。
10月21日18時30分。
2016年10月22日
師に逆らうわけではないけど1−−「新しい」をめぐって(十月十九日)
最初に取り上げるのは「あたらし」と「あらたし」の問題だと言えば、国語学(断じて日本語学ではない)を多少かじった人なら、何のことだかわかるだろう。新しいという意味の言葉は、本来「あらたし」であって、それが後に「あたらし」に変わったという例の話だ。これについて、言語学の用語で音位転換という小難しい言葉で説明されているのを読んで、首を傾げるしかなかった。
今では、この説明は現象を説明する言葉としては、それで十分なのかもしれないと思えるようになった。しかし、それが何になるのだろうか。いろいろ調べてみたら、音の入れ替わりが起こっていましたで満足なのだろうか。ここはやはり、どうしてそんな変化が起こったのかを知りたいと思うのが人情というものだろう。
かつてかじった国語学の世界では、以下のように説明されていた。新しいという意味で使われた形容詞は本来「あらたし」であるが、これとは別に「あたらし」という、残念だとかもったいないというような使い手の惜しむ気持ちを表す形容詞が存在した。その両者が混同されて、新しいという意味でも「あたらし」が使われるようになり、「あらたし」と惜しむ気持ちを表す「あたらし」は次第に忘れられていった結果現代日本語では、新しいという意味で「あたらしい」を使うのだと。
本来新しいが「あらたし」であった痕跡は現代日本語にも残っていて、形容動詞となっている「新たな」は、「あたら」ではなく、「あらた」と読むし、新しくすること、新しくなることを示す動詞も、「あらためる」「あらたまる」であって、「あたら」ではない。この辺の派生表現は、「あたらし」が新しいという意味で使われるようになる以前に派生していたために、混同に巻き込まれずにすんだと考えていいのだろうか。
一方、惜しむ気持ちを表す「あたらし」の痕跡としては、特に戦争などで若い命を散らすことを惜しんで使われる「あたら若い命を」の「あたら」を挙げることができよう。使われると言っても、日常的に使われるわけではないので、聞いたことがないという人や、後の「若い」からの連想で、「あたら」を新しいという意味で理解してしまう人もいそうな気もする。
それから、大半のと言うと実際よりも多くなってしまうかもしれないが、中学、高校の国語の教科書に載っているはずの折口信夫ではなくて、釈迢空の短歌「葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きしひとあり」(句読点は覚えていないので省略)の「あたらし」も現代語の新しいではなく、古語なので、踏み潰されて飛び散った花の色を惜しむ気持ちを表現している。でも、現代語の新しいで理解して、ついさっきこの道を通った人がいるというふうに解釈する人もいそうだなあ。この新しいの意味でも解釈できそうな「あたらし」の用例があることも、「あたらし」と「あらたし」の混同を起こりやすくしたのだろう。
以上が、かつて国語学の範囲で学んだ「あたらし」をめぐる説明である。初めてこの話を聞いたときには、「新」の訓読みである「あたらしい」と「あらたな」が、どうして形容詞と形容動詞で語幹が違うのかだけでなく、よくわかっていなかった「あたら」についても言及されていて、目を開かれる思いがしたものだ。
では、「あらたし」が「あたらし」になったのは、音位転換という現象なんだよと言われて、感動できるかとというと首をかしげざるを得ない。言語学的な説明だと、こういう場合には発音上の要請で変化が起こると説明されることが多いような気がするが、「あたらし」「あらたし」の場合に発音のしにくさが原因だというのなら、「あらたな」「あらためる」はなぜ変化しなかったのかという疑問が出てくる。
「あらたし」が「あたらし」に変わったという現象の表面的な部分を捉えて、音位転換という名称で呼ぶことまで否定する気はない。ただそれがどうしたのという感想を持つことを禁じえないのである。この現象に名前をつけることで満足しているような印象が言語学的な日本語の研究にはつき物で、いまだに亡霊のようにしばしばよみがえる主語論争にしても、日本語のあれが、主語であれなかれ、主語と呼ぼうが呼ぶまいが、学校文法で主語と呼んでいる現象は日本語に存在するのである。呼び方や定義が変わったからといって、日本語そのものが変わるわけではない。敬語の分類にしてもそうだけれども、無駄に命名することに意義を見出していているように見えてしまう。
この点に関しては、かつて形容動詞をどう扱うかということをあれこれ考え、形容動詞というものを廃して、名詞扱いにしたとしても、ほかの名詞とは違う特別な名詞として扱う必要が出てくることに気づいたとき、名称が形容動詞であっても、名詞の特別なグループであっても、日本語の本質は変わらないことを思い知らされた。若かったからね。学校文法に反発してみたかったのだよ。しかし、その結果理解させられたのは、いろいろな問題をはらみながらも、学校文法、いや橋本文法を超える日本語を体系的に記述した文法は存在しないということだった。
10月20日23時。