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2017年04月30日

プラハ駅前観光2(四月廿七日)



 昨日の続きである。自動車連盟を越えて二つ目の交差点の角の看板に、ラッパのマーク、つまりこちらの郵便局のマークが見えたので、郵便局かと思ったら、レストランだった。看板の色が郵便局が使っている黄色でも青でもなかったのでおかしいとは思ったのだ。レストランの名前は「ウ・ポシュティ」、つまり郵便局のそばのレストランということである。ということは、この近くに郵便局があるということか。
 帰りに別な通りを通ったらこのレストランの裏と言えば言える場所に、プラハの中央郵便局を発見した。チェコに住んで長いのにそんなことも知らないのなんて言わないでほしい。住んでいるのはオロモウツであって、プラハの郵便局なんか使ったことがないのだ。それにプラハに来るのは何か目的があるときだけなので、目的地までわき目もふらずに直行することが多い。そうすると、郵便局なんてあって当然の建物は目に入ってこないのだよ。だから、プラハに観光できたという人よりもプラハを知らないということもあり得るのである。

 知らなかったと言えば、郵便局のレストランのところの交差点で、左に向かう通りを見たら、なんだか立派な建物が目に入ってきた。バーツラフ広場を上り詰めたところにある国立博物館の近くのはずだから、国立博物館の別館かなと思ったら、国立歌劇場だった。国立歌劇場の名前はよく聞くんだけどこんな駅の近くにあるとは知らなかった。国民劇場か旧市街広場の近くかと思っていたぜ。
 こんな具合なので、観光地でもある国立歌劇場には、近づいたこともないのはお分かりであろう。音楽を、クラシック音楽を聞くのは嫌いではないのだけど、一張羅着てかしこまった格好で緊張して聞かなければならないようなのはできればごめんこうむりたいところである。それに最近は、CDすら聞かなくなっているので、コンサートなんてとてもとても。
 音楽を聞かなくなったのは、多分チェコ語の勉強、いやチェコ語の勉強というよりは耳をチェコ語に慣らすために、四六時中テレビをつけておくようになったのが理由の一つだろう。他の事をしながらでもテレビから聞こえてきた言葉がある程度聞き取れるようになったのは、悪いことではないのだけど、家にいるとついテレビをつけてしまうという弊害も現れてしまったのである。

 郵便局のレストランから少し進むとRB劇場というのがあった。演劇の盛んなチェコでは、俳優たちが自分たちで運営している個人の劇場が結構ある。これもその一つだろうと思って、説明を見たら、RBはラデク・ブルゾボハティーのことだった。ラデク、正しくはラドスラフ・ブルゾボハティーは、第一共和国時代に、チェコスロバキア、現在のスロバキアに生まれ、数年前に亡くなった俳優である。
 共産主義の時代から映画やテレビドラマで俳優として活躍しており、大きな役から小さな役まであちこちで演じているので、チェコの映画が好きな人は必ずどこかで見たことがあるはずである。個人的に一番印象に残っているのは、「チェトニツケー・フモレスキ」で、自分勝手な農場の主人を演じていたのと、リブシェ・シャフランコバーが主演した童話映画「王子と金星」(仮訳)で演じた悪い魔法使いの役である。主役よりも悪役で存在感を発揮するタイプの俳優だったのかもしれない。
 そんな、ラデク・ブルゾボハティーが、2004年に設立したのが、この劇場で、本人が亡くなった後は、女優の奥さんと、多芸で有名な息子のオンドジェイ・ブルゾボハティーが中心となって劇場の運営に当たっているようだ。息子のほうが出ている映画や、テレビドラマはほとんど印象にないのだけど、何かのオーディション番組で司会を務めて、知名度を高めたんじゃなかったかな。

 とまれ、このブルゾボハティーで思い出すのは、以前チェコテレビで、「チェコとスロバキアの対決」的な視聴者参加番組をやっていたときに、父ラドスラフは、今のスロバキアの生まれということで、スロバキア側の応援を務め、普段テレビに出てくるときにはチェコ語でしゃべるのに、このときはスロバキア語を使っていた。息子のオンドジェイのほうはチェコ側の応援を務めていたことだ。番組の内容は全く覚えていないけれども、ラドスラフ・ブルゾボハティーがスロバキア人?だったという驚きと共に、そのことだけは覚えている。
 それから、姓のブルゾボハティーも、チェコ語を勉強している人には、面白く感じられるかもしれない。前半の「ブルゾ」は、「すぐ、もうすぐ」という意味で、後半のボハティーは、「お金持ち」という意味である。だから、すぐ金持ちになりたいという気持ちを込めてつけられた名字だったのだろうかとかなどと想像をたくましくしてしまう。日本でもそんな由来の名字があってもおかしくないような気がするし。

 せめてバーツラフ広場の手前にはたどり着きたいのでもう少し行くと、通りの左側が工事中の場所があって、工事現場の仮囲いの壁に、写真が何枚も貼ってあってパネル展のようなものが行われていた。ちょうど外国から来たと思しき集団が、写真の前にたむろしてガイドの説明を聞いていたので、ちゃんと見ていないのだけど、第二次世界大戦後のプラハの姿を映した写真が並んでいたように見受けられた。
 次にプラハに行くときには、この工事現場にはまた何か新しい建物が建っているのだろう。一応景観を保護すべき地域になっているので、以前建っていた物から大きく離れるものにはならないと思うが、プラハだからふたを開けてみないとわからない。

 続くかどうかはわからないけど、今回はここまで。
4月28日16時。





2017年04月29日

プラハ駅前観光(四月廿六日)



 前日と、前々日の記事を表示させて読み返してみたらひどかった。誤字脱字がいつも以上に多いし、昨日の奴なんか構成も何もあったもんじゃなくなっている。うーん、体調不良の状態で、殴り書きして推敲もせずに投稿するとこうなるという見本のようなものだな。あまりにひどいので、体調がよくなったら時間があるときにちょっと書き直しておこうと思う。
 体調がよくない原因は、イースター以来の悪天候に体が音を上げたというところだろうか。先週の土曜日にプラハなんぞに出かけたのがとどめをさしたというわけだ。幸い今日は一日仕事に出る必要がなかったので、睡眠を十分以上にとって、最悪の状態からは抜け出せた。だからと言って今書いているものが、昨日、一昨日のものよりもましになるとは限らないのだけど。

 さて、何について書こうかと考えて、せっかくプラハに出かけたのだから、プラハでのことを書いてみようという気になった。どうせ次に出かけるのはまた来年である。ここで書いておいても来年のネタを先取りすることにはならないだろうし。

 プラハの駅を出ると、ちょっと怪しい人たちのたむろしている公園のような空間がある。一説によると、プラハの麻薬密売の中心の一つらしいので、立ち止まるようなことはせずに、一気に通り抜けて、オプレタロバという名前の駅前を横に走る通りに出る。ふと見渡すと、「ズブロヨフカ」のお店が目に飛び込んできた。
 ズブロヨフカとは、チェコの武器製造企業の名前である。共産主義の時代にはいろいろなところの工場がまとめてズブロヨフカになっていて、武器ではなく自動車やトラクター、バイクなんかを作っている工場もあったようだが、ここにお店があるのは、銃を生産販売しているズブロヨフカで、工場はウヘルスキー・ブロトにある。ビロード革命のあとブルノやストラコニツェのズブロヨフカからは離れて独立した企業になったようである。

 では、どうしてズブロヨフカで大騒ぎするかというと、八十年代の後半から九十年代の初めにかけて、漫画を熱心に読んでいた方なら、「CZ 75」と言えばわかってもらえるだろう。『パイナップルARMY』で主人公のジェド・豪士が、西側の専門家の間でも最も高く評価されている銃だとか何とか言っていたあれである。『マスター・キートン』にも出てきたかもしれない。東側で生産された銃の象徴のようなものだったのだ。
 そんな銃の生産会社がプラハ駅の真ん前に店を出して、販売をしているというのに驚いてしまった。チェコではEUが強引に進めようとしている、民間人の銃の所有に関する厳重な規制に大統領をはじめとして反対の声を挙げている人が多い。その理由の一つが、町の中に当然のように鎮座しているズブロヨフカの銃の販売店なのかもしれない。

 ズブロヨフカの近くには、チェコ自動車連盟とでも訳せそうな組織の建物を発見してしまった。日本のものとは違って、四輪だけでなく二輪のレースも管轄している団体である。歯車の中にチェコの獅子の像の描かれたシンボルマークはなかなかのものである。もちろん、レースだけではなく、車を所有し運転する人たちの権利を保護するための活動もしているはずである。確か、誰かがこの団体に入っておくと駐車場が確保しやすくなるとか言っていたような気がする。
 チェコ語で「アウトクルプ」と発音するこの団体の存在を知ったのは、会員数の水増し疑惑を伝えるニュースによってだった。どういう事情で問題なったのかは覚えていないが、調査が入った翌年の会員数が激減したことが伝えられていた。この手の民間団体は会員数によって国からもらえる助成金が上下するので、すでに退会してしまった、もしくは会費を払っていない元会員も会員名簿に載せて、人数が減らないようにしていたのではないかということだった。もちろん協会側は否定していたわけだけれども、実際のところは、チェコだからね。

 そして、自動車連盟の手前、ズブロヨフカ側には、入り口が別の通りにあるために気づけなかったのだけど、コメンスキーを記念した教育学図書館が入っていた。建物全体が図書館になっているわけではないようなので、入り口で呼び鈴を鳴らす必要があるのか。コメンスキー関連の展示があるわけでもなさそうなのに、面倒だなあ。
 コメンスキー記念国立教育学博物館図書館(NMPK)という組織の一部として運営されている図書館のようである。それなら、ブルタバ川の反対側マラー・ストラナのワレンシュタイン通りにあるらしい博物館のほうに行くのが先である。こちらはコメンスキーを中心にチェコの教育に関する展示があるようだから、偏り過ぎたコメンスキーに関する知識を多少補うためにも、機会があれば行ってみようと思わなくはないのだが、プラハに出かける機会がなさそうなのが問題である。うーん、また誰かの尻尾にくっついていこうかな。

 プラハの駅前からほとんど進まずに、一日分が終わってしまった。どこに観光があったのかってのは愚問である。あからさまな観光名所よりも、こんな隠されたものを見つけるほうが楽しいって人間もいるのだから。とはいえ、赤瀬川源平がやっていたような「超芸術トマソン」発見なんてところまではいけないのだけど。
4月28日15時。






2017年04月28日

フランティシェク・ライトラルを悼む(四月廿五日)



 このニュースを読んだのが、週末だったか月曜日だったか、すでにあいまいになってしまっているのだが、見出しを見た瞬間、信じられなかった。あのライトラルが、病気や事故でならともかく自殺したというのだ。トルコからの最初の情報では、家庭の事情による自殺という話だったが、トルコでは一人で暮らしていたらしいのにと少し不思議だった。
 実は、この件については書くつもりはなかったのだけど、日本のインターネットでも、報道されていてあまり情報が出ていなかったので、多少の情報を提供しておこう。結構好きな選手で、慢性疲労症候群という大変な病気と戦いながら選手生活を続けていたというのもあって、密かに注目して応援していたのだけど……。

 ライトラルについては、プルゼニュに移籍する前のバニーク・オストラバでの活躍が記憶に強く残っているので、オストラバ育ちの選手だと思い込んでいたら、実は中央ボヘミアのプシーブラムの出身だった。2004/2005のシーズンに一部リーグデビューを果たし、最初のゴールを決めている。ディフェンスの選手が十代でデビューしてゴールまで決めるというのは、チェコでもあまりないことで、その活躍が評価されて、当時はまだ優勝直後でその余韻を引きずって強豪チームだったオストラバに引き抜かれたのだろう。
 オストラバでは四シーズン過ごすことになるのだが、すでにこの時期には慢性疲労症候群を発症していたという話もある。その後プルゼニュに移籍して、反対側のサイドバック、リンベルスキーとともに、ブルバの作り上げた攻撃重視のチームに不可欠な選手となっていくのだが、オストラバ時代の最後の方で目立った活躍ができていなかっただけに、復活したという印象を与えた。

 プルゼニュが二回のリーグ優勝に貢献した後、2014年の春には、ドイツのハノーファーにレンタル移籍している。結構活躍しているような印象だったのだけど、半年のレンタル期間が切れた後、またプルゼニュに戻ってきた。プルゼニュの初優勝から、イラーチェク、ペトルジェラ、ピラシュと何人かの選手がドイツに移籍して行ったが、ダリダ以外は、残念なことに真価を発揮することなく、一瞬しか活躍できないままにチェコに戻ってきている。ライトラルもその系譜に連なってしまったわけである。
 プルゼニュ復帰後は、ゼズニーチェク、マテユーなんて選手とポジションを争いながら、さらに二回の優勝に貢献している。慢性疲労症候群でほとんど試合に出られなかった時期もあったようだ。ライトラルが好調なら、絶対的なレギュラーだったのだろうけど、結構調子の波が激しかったような印象がある。

 代表にも呼ばれて試合にも出場しているけれども、同じポジションにドイツで活躍し続けているカデジャーベクとゲブレセラシエがいるので、どうして三番手の扱いになってしまうところがある。トルコで調子を取り戻して、この二人の代役として代表に呼ばれるぐらいまで復活することを期待していたのだけど、トルコはやはり鬼門なのかなあ。

 昨年の夏、チャンピオンズリーグの予選でいいところなく敗退したときに、チームの沈滞した雰囲気を変えるためにプルゼニュが選んだのが、選手の入れ替えだった。ベテランで在籍年数も長く、調子の上がらなかったコラーシュとライトラルの移籍を許可し、トルコの同じチームに送り出したのだった。
 不調に陥った選手が、環境を変えることで調子を取り戻すというのは、よくあることなので、二人の選手にとってもいい結果をもたらすことを期待したのだけど、コラーシュは調子が上がらなかったのか、半年で契約解除されチェコに戻ってきた。そして、ライトラルは最悪の結果になってしまったわけである。

 トルコの警察では、当初遺書が残されていたと言っていたのだが、翻訳させてみたら遺書ではなく、お金を借りている相手と、貸している相手のリストだったそうだ。トルコではチームの経済状態が悪かったのか、移籍して半年以上たつと言うのにたったの二ヶ月分の給料しかもらっていなかったというし、経済的に追い詰められていた面があったのかもしれない。
 ライトラルの自殺の原因に関してはあれこれ言われているけれども、最大の原因は慢性疲労症候群とも関係する鬱状態のようだ。チェコにいたときからしばしば強烈な鬱状態に陥って練習にも出られないことがあったようだ。その欝から逃れるために賭け事にのめりこんでいたという話もある。病院に通って治療も受けたことがあるようだが、この手の病気はなかなか完治は難しいのだろう。
 この件に関して、チェコのサッカー選手の協会のようなものの代表が、選手にこの手の精神的な問題を解決するための教育を受けさせたいと考えているのだけど、チームの中にはわれわれが選手と接触するのを好まないチームがあり、プルゼニュもその一つだという声明を発表した。それに対して、プルゼニュのコザーチクが、ライトラルの死を自分たちの組織のために利用しているという怒りのコメントと協会からの脱退を発表した。

 最近は、バロシュをはじめ、トルコからチェコに戻ってきてプレーする選手も多いので、ライトラルも二、三年後には戻ってくるのではないかと期待していたのだが……。
4月27日20時。


2017年04月27日

森雅裕『モーツァルトは子守唄を歌わない』(四月廿四日)



 言わずと知れた乱歩賞受賞作にして、商業的にももっとも成功したであろう森雅裕の作品である。デビュー作の『画狂人ラプソディ』は、横溝正史賞の佳作であり、乱歩賞の受賞がなかったら刊行されなかった可能性もあることを考えると、作家としての森雅裕を誕生させた作品と言ってもよさそうである。

 内容は、モーツァルトの死の謎を、ベートーベンが弟子のチェルニーとともに解明するというもの。サリエリやフリーメーソンによるモーツァルトの暗殺説に、楽譜や歌詞を使った暗号を加え、時代背景としてはナポレオン軍に占領されたウィーンが設定されている。正直音楽的素養のない人間には、楽譜の読み方もよくわからず、ドイツ語の暗号もちんぷんかんぷんだったけれども、そんなことは、この作品の面白さの前には些細なことだった。
 推理と枕がつくにしても、小説は小説である。トリックだの暗号だのよりも、物語として読めるかどうかの方が重要である。根っからの推理小説ファンには異論があるかもしれないが、こちらは推理小説であっても、小説として読んでいるので、多少推理やトリックなんかに無理があったとしても、面白い物語が繰り広げられていれば、それで十分以上に満足してしまえる。ときどき、書評などでその辺の不備をあげつらう人がいるけれども、余計なお世話というものである。
 森雅裕の推理小説は、よくわからない部分があってなお読ませる。一度読み始めると引き込まれてやめられなくなるような魅力がある。『モーツァルトは子守唄を歌わない』も、主人公で探偵役のベートーベンとチェルニー(初出の親本ではツェルニー)を中心とする辛辣な言葉の投げあいを楽しんでいるうちに、最後まで読み通してしまうのである。とはいえ、この本を初めて読んだ当時は、高校一年生、その真価を完全に理解していたわけではないし、森雅裕のファンだと言い切れるところまでは来ていなかった。

 この本に関するコメントとして、「楽聖ベートーベンを俗物扱いして」云々というのがよくあるのだが、俗物扱いされているのはむしろモーツァルトじゃないかと思う。モーツァルト自身は、死後二十年近く経ってからの話だから、直接登場することはない。しかし、当時の関係者の証言として、友人の妻に子供を生ませて、その友人を騙して水銀中毒にして自殺に追い込んだとか、そのおかげで知った皇帝暗殺の秘密をネタにサリエリを脅したとか、モーツァルトが好きな人にとっては、たまったもんじゃなかろう。正直、サリエリがモーツァルトを殺したとかいう話よりも、こちらの方が衝撃的で、物語の中心となる謎だったのではないかと思ったくらいだ。
 チェコ出身のミロシュ・フォルマン監督の映画「アマデウス」に描かれるモーツァルト像も、なかなか奇矯な人物ではあったけれども、森雅裕の直接登場はしないモーツァルト象に比べれば可愛いものである。死を前にしながら作曲を続ける姿は鬼気迫り、スイッチの入ったときの作曲家のすごさと言うものを感じさせたし。あれ、「アマデウス」でサリエリがモーツァルトを殺した理由って何だったっけ? チェコ語吹き替え版しか見ていないからか、暗殺の方法も含めてあまり印象に残っていないのである。

 乱歩賞の講評で、モーツァルト毒殺説に関して、オリジナリティの欠如を指摘されていたのは、やはりこの「アマデウス」の存在があったからだろう。モーツァルト暗殺説というものを扱う以上は、謎の部分にオリジナリティは出せないのだから、ベートーベンが探偵役というところがオリジナリティだろうに。「アマデウス」と『モーツァルトは子守唄を歌わない』を比べて似ていると思った人はいるのだろうか。個人的には、サリエリの存在も、モーツァルトの暗殺説も、フリーメーソンという存在も、すべてこの『モーツァルトは子守唄を歌わない』で知ったのである。オリジナリティを云々されても賛成の仕様はない。
 日本人というのは、舶来物をありがたがるところがあるので、こういう頓珍漢な批判がなされることは多い。確か半村良の『戦国自衛隊』が、何とか言うアメリカ映画のアイデアと同じだと批判を受けたことがあったはずだ。『戦国自衛隊』の方が先に発表された作品だというのにである。まあ、日本の文芸批評なんてそんなもんなんだから、読書の参考にするにはあたらないという証拠である。

 さて、チェコでチェコ語ができるようになった目で読み返すと、気になる部分がいくつかある。一つは人名。ベートーベンの弟子のチェルニー(ツェルニーと書かれることもあるが)は、チェコ系だったのではあるまいか。いや、スラブ系だったらどこにでもある名字なのかもしれないけれども、チェコには多い名字の一つである。ドイツ語だったらシュバルツになるわけだし。
 それからベートーベンの支援者として名前の挙がる貴族が、キンスキー、ロプコビツって、ボヘミアに領地のあった貴族じゃないか。キンスキーといえば、ナチスに協力して、戦後は南米に逃亡しておきながら、ビロード革命後に没収資産の返却を求めるという恥知らずな男を輩出した家だし、ロプコビツは、中国資本に買収されたビール会社の名前になっている家である。

 以上の二つは、すでに気づいていたのだけど、今回もう一度読み返した際に、気になったのがモーツァルトの弟子でベートーベンのライバルとしても名前の挙がるフンメルのフルネームが、ヨハネス・ネポムク・フンメルだということだ。ヨハネス・ネポムクといえば、カトリックがフス派に対抗するために必要とした聖人ヤン・ネポムツキーを思い起こさせる。ネポムツキーは、出身地のネポムクにちなんでの呼び方らしいし。と言うことは、フンメルもチェコ系の音楽家だったということだろうか。
 そして、モーツァルトの息子が亡くなったところはカルルスバートと書かれている。よく考えたらこれ、カルロビ・バリのことである。これも今回読み返すまでは気づいていなかった。

 いやはや、こんなにチェコに関係しそうなことが出ているとは、初めて読んだときには思いもしなかった。こんな無理やりチェコにこじつける読み方が邪道なのは重々承知の上で、ついつい関係しそうなものを探してしまうのである。
4月26日20時。






posted by olomou?an at 06:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 森雅裕

2017年04月26日

プラハ行き2(四月廿三日)



 電車がオロモウツを出てしばらくいくと、モラバ川沿いに広がる森の中に入る。この辺りは、自然公園になっていて、サイクリングコースが設定されているので、オロモウツからリトベルなどの北のほうにある町まで何度か自転車で走りぬけたことがある。とはいっても最近自転車に乗っていないので、もう何年も前の話になるのだけど。

 森を抜けるとハナー地方北部の肥沃な農耕地帯が広がる。小麦畑だろうとは思うが、リトベルのビール工場が近いことを考えると大麦かもしれない。冬が終わったばかりでまだ大きくなっているわけではないから、いや大きくなっていたとしても素人の目には、小麦だか大麦だかなんてのはわかりゃすまい。
 リトベルに近づくと、左手前方に工場が見えてくる。スパゲッティなどのパスタを生産している工場で、アドリアナというブランド名で販売しているのかな。リトベルの近くには、チーズのグランモラビアの工場もあるはずなのだけど、パスタの工場と一緒にあるのか、別の車窓からは見えない場所にあるのかよくわからない。住所からいうとそんなに離れていないと思うのだけど。とまれ、こんな農耕地帯の真ん中に工場を建てたということは、地元の農産物を原料として使っていると思いたいところである。

 最初の停車駅は、モラビアとボヘミアの間に横たわる山地の入り口にあたるザーブジェフ・ナ・モラビェである。確か、クロアチアのザグレブがチェコ語ではザーブジェフと呼ばれるはずなので、区別するために「ナ・モラビェ」がついているのだろう。あまり特徴があるわけでも、人口が多いわけでもないこの町に停車する理由はよくわからない。オロモウツとチェスカー・トシェボバーの間でどこに止まるかと考えたら、ザーブジェフかモヘルニツェになるのだろうけど。
 ふと窓から見ると駅のホームがぬれていた。窓に雨が降りかかっていなかったので、降りそうで降らない状態が続いているのかと思ったら、いつの間にか降り出していたようだ。よく見ると白いものがちらついているようにも見えて、憂鬱な気分になる。プラハの人ごみのなで、雪に降られたくはない。

 ザーブジェフを出ると、ペンドリーノ導入の際の路線改修の一環で増えたトンネルをいくつも抜けることになる。早起きして体調が悪いせいなのか、トンネルに入ると耳がツンとなって不快である。電車の機密性の問題なのかもしれない。一回なら特に文句もないのだけど、トンネルに入るたびに繰り返されるのには閉口した。前回プラハに行ったときには、ここまでひどくはなかったと思うのだけど。
 トンネルとトンネルの間で出会う谷川を見ると、いつもより水量が豊かに見えた。せせらぎが電車の中にまで聞こえてきそうな勢いで水が流れていく。山地といってもこの辺りはそれほど標高が高いわけではないので、雪は残っていないが、
 チェスカー・トシェボバーは、町自体はそれほど大きくないのだけど、プラハからモラビアに向かう電車が、ブルノ方面と、オロモウツ方面に分岐する要衝の駅である。だから、地方の中心都市にしか停まらないペンドリーノを除くと、すべての特急が停車する。ここから南に向かうとブルノである。

 時々、ウィーンからオロモウツに来る人が、運が悪いとブジェツラフで、北に向かうオロモウツに直行する電車に乗り換えるのではなく、ウィーンからブルノを通ってチェスカー・トシェボバーまで直通する電車に乗せられて、チェスカー・トシェボバーでオロモウツ行きの電車に乗り換えるというルートで来ることがある。
 時間帯によっては、電車の接続を探すページで、そういうルートが出てくるのだけど、電車に乗っている時間も長くなるし、追加料金を取られることにもなるので、一度ブジェツラフで下車して、オロモウツ行きの電車を待ったほうがはるかにましである。待ち時間が長くなるようだったら、あんまり大したものはないけれども、町を散歩してもいいわけだし、荷物が多くて散歩できないのなら、駅の近くの飲み屋でチェコに入って最初の一杯を飲むのも悪くない。ただ最近行っていないので、飲み屋があるかどうかは何ともいえないのだけど。
 ブジェツラフの駅は、チェスカー・トシェボバーもそうだけど、交通の要衝になっているわりには、駅舎の改修が進んでおらず、売店などの施設もあまり整っておらず、駅で時間をつぶすのはなかなか大変である。国境の町だけあって両替所はちゃんとしてたか。

 チェスカー・トシェボバーを越えると次第に山が減りボヘミアの台地へと入っていく。オロモウツ近辺は平地と言いたくなるのだけど、このあたりのプラハからパルドビツェを越えてモラビアとのきょうかいちあ広がる平らな土地は、平地と言うよりもなぜか台地と言いたくなる。その台地に入ると電車が頻繁にスピードを落とし、しばしば停車駅でないところで停まるようになった。今週線路の改修工事が何箇所かで行われていて、遅れる電車が続出しているようである。
 パルドビツェを越えてコリーンの駅を通ったときには、かつて週一で通訳の仕事をしに着ていたときのことを思い出して懐かしさを感じた。あのころは毎週一回、五時台の電車でオロモウツを出ていたのだった。通過する電車の中から見るコリーンの駅は、あのころから大きく換わったようには見えず、トヨタの進出が決まったときに、あれこれ約束されたことが、なかなか実行に移されないという話を当時耳にしたのを思い出した。チェコの役所のやることなんてそんなものである。

 結局プラハ到着は、二十分ほど遅れ、本日の集合時間には一時間近く遅れることになってしまった。ただ、行ったはいいけどあんまりやることもなくて、こんなことならもう一本後の電車に乗ればよかったぜと後悔してしまった。ブルノから来た人も、電車もバスも大幅に遅れて予定よりも遅れていたしさ。

 何のためにプラハくんだりまで出かけたかについては、また今度。紀行文を気取って見てもこうなるあたり、われながら救いがたい。この前の原稿を書いていたから、風景を見ている余裕なんてなかったし、帰りは真っ暗闇の中だったので、景色なんか見えず風景描写なんてできなかった。窓から見た風景をそのまま書くってのを今度は試してみようかね。
4月24日23時。


2017年04月25日

プラハ行き1(四月廿二日)



 さて、本日は、この前も書いた通り一年ぶりのプラハである。去年は確か一月の終わりだったから、一年以上前の話になるか。前回と同様に、レギオジェットのビジネスを使用することにする。あんまり直前だと席が取れない可能性もあるかと思って、四月の初めにネット上で席を予約して、お金も払ってしまった。
 このあたりクレジットカードがあるおかげなのだけど、この便利さは気をつけないと大変なことになってしまいそうな気もする。日本で学生時代によくわからないままに作った学生用のクレジットカードを、結局二回しか使わず、友人知人に何のために持っているのかと馬鹿にされたのも、この便利さに対する警戒感だったのかもしれない。今のほうがはるかに便利になっているわけだし、今後も気をつけることにしよう。

 とまれ、十時ごろまでにプラハに来いとのお達しだったので、八時少し前にオロモウツを出る便を選んだ。時間帯がいいせいか、値段は299コルナ、チェコ鉄道のペンドリーノの二等よりは少し高いが、座席の広さ、PCを開いて対面の人の邪魔にならないテーブルの大きさを考えると、十分に元は取れている。今もこうして電車の中で書いているわけだし。
 帰りは午後六時近くまで拘束されると言うので、七時台の便を選んだ。こっちは少し安くて269コルナ。以前オロモウツ−プラハで300コルナを越えるのも見たことがあるのだが、値段の設定の基準が今一つよくわからない。料金体系が一番わかりやすいのが、チェコ鉄道で、一番わかりにくいのがレオ・エクスプレスである。一回ぐらいはレオの一番高いのを試して見たいと思うのだけど。ペンドリーノの一等は、座席が二等と大差なさそうだし、試した知人がそんなにすごくはなかったと言っていたので、いいや。

 久しぶりに六時前という早い時間に目を覚まして、七時半ごろに駅に向かう。週末の早朝は、人影も少なく、車の量も少なく気持ちがいい。ただ、近所のスーパーのリードルがすでに営業を開始していて、少なからぬ人を集めていたのには驚いた。駅まで乗ったバスもすいていたし、道がすいていて時刻表よりも早くバス停についてしまうのか、バス停に停まるたびに時間調整のためにしばらく停車していた。
 駅にはさすがに人の数が多かったけれども、実家に帰る学生であふれる木曜、金曜の夕方ほどではない。電車に乗る前に念のためにトイレに行っておく。受付に人がいて、お金を払ってから使用するのは以前と変わらないのだが、数年前の改修以来、使用料が一律で十コルナになった。以前は大の場合には値段が高く、申し訳程度のトイレットペーパーがもらえたのだが、今では個室に備え付けになっているようだ。十コルナも出せば、それなりのものが買えるのだから、わざわざ盗みにトイレに入る人もいないということなのだろう。

 電車の入ってくるホームが表示されると、予想外に多くの人がぞろぞろとホームに向かい始めた。席の予約をしたときには、まだがらがらだったのだけど。ホームに入ってきた電車を見てまたびっくり。八両編成だったのが、十両に増えていた。予約の状況を見て、増やしたのだろうが、このあたりの融通の利かせ方が全席予約制のレギオジェットの強みなのかもしれない。チェコ鉄道も、車両を増やすことはあるけれども、それは予約の状況によってではなく、あらかじめ決められたものである。全席予約のペンドリーノは編成をいじれないので常に七両で走っている。
 今回は前回のように一人でコンパートメントを独占することはできず、四席とも埋まっていたが、コンパートメント自体が広く座席と座席の間も広く取られているおかげで、他の人の存在にあまり気を使う必要はない。

 電車が動き始めて、この文章を書き始めたところで、車掌、いや検札しないから違うか。とにかく担当の人が来て、オレンジジュースとミネラルウォーターを配っていった。新聞や雑誌は要らないかとも聞かれたが、今回は文章を書くのでパス。お土産用に帰りはもらうかもしれないけど、今もらっても荷物になるだけである。その後すぐに、今度は飲み物や軽食はいらないかと聞きに来た。頻繁にこられると考えがまとまらないので、もう少しゆっくりしてよと思わなくもなかったけれども、とりあえずコーヒーを頼む。
 正直な話、このコーヒーのためにペンドリーノを捨てたのである。毎朝コーヒーを飲まないと頭がすっきりせず使い物になるようにならない。早起きして電車に乗る場合には、時間がないので自宅では小さめのコーヒーしか飲めない。その分を電車の中で補う必要があるのだけど、ペンドリーノでは、車内販売で買えるコーヒーでも、普通のよりはましなのだろうが、インスタントで飲めないとは言わないが、金を出してまで飲みたいものではないし、サービスでと言われても、たぶん飲まないであろう代物である。その点、レギオのは、紙コップに入っているのがあれだし最高においしいとは言わないけど、ちゃんとドリップされた、電車の中でこれだけのものが飲めるのならお金を払ってでも飲みたいと思うような一品である。
 さて、そうなると、問題は追加でお茶をお願いするかどうかなんだけど、どうしようか。トイレ近くなるしなあ。結局飲んでしまった。

 電車が込んでいたために、トイレが空いた時間を見つけられず、プラハの駅でトイレにいったんだけど、無駄に近代化されていた。入り口に自動券売機のようなものがあって、硬貨を入れるとトークンのようなものが出てくるようになっている。料金は廿コルナだったので、硬貨を入れたらトークンがなぜか二枚出てきた。それを入り口の自動改札みたいなのに入れると、ガラス張りのドアが開くようになっているのだけど、直接廿コルナの硬貨を入れるようにすればいいのに。
 こういう自動化は、早朝や夜遅く到着する旅行者にとっては、トイレの営業時間が長くなるからありがたいのだろうけど、もう少し親切な使い方の説明をつけないと、初めて使用する人間にはわかりにくいぞ。たまたまチェコ語のあやしい係の女の人がいたからすぐ入れたけど、いなかったらしばらく時間がかかったはずである。

 いや、本当は紀行文を気取って風景描写とかするつもりだったんだけど、どうしてこうなったんだろう。この話はここで切って、次回はプラハまでの沿線の様子だ。
4月23日18時。




2017年04月24日

オロモウツ観光案内3——大司教宮殿(四月廿一日)




 その細い通を抜けて大司教広場というにはささいな空間に出ると、右手にある薄い緑色の建物が、大司教宮殿の見た目を阻害しているのに気づくだろう。以前も書いたがこれがマリア・テレジアの立てた武器庫である。大司教広場の半分を占めることで、左右対称の建物の半分だけしか見えなくなっているのである。一説によるとそれだけでなく、正面の出入り口からの馬車の出入りも威風堂々とできないようにするのも目的だったのだという。
 たちが悪いのが、正面の入り口自体はふさがれていないので、出入り自体はできることである。ただ大司教が乗った馬車を、どちらに向けてもマリア・テレジアの武器庫の存在が邪魔になる。ましてや、お供をたくさん引き連れての行列で出発をしようと思ったら、武器庫沿いを進んでいくか、出てすぐに向きを変えるかしかない。
 マリア・テレジアには、オロモウツの司教座が大司教座に昇格するのに貢献したという話もあるのだけど、代替わりした後の大司教との関係がよくなかったということなのだろうか。興味がないわけではないけれども、何せこの辺のオロモウツの大司教とマリア・テレジアの仲が悪くて云々という話のネタ元は師匠なので、本科何かで読んだのではなくて口伝えで聞いた話の可能性もあるから、ついついためらってしまうのである。

 ところで、大司教宮殿の一般公開は、年に何回か決められた日だけだと思い込んでいたのだが、 大司教宮殿のホームページ で確認したら、いつの間にか、四月から十月の観光シーズンには、一般公開をするようになっていた。四月と十月は、月〜金は事前に連絡をして時間を予約する必要があって、土曜日と祝祭日は10時〜17時までが開館時間。五月から九月は、月曜日だけが予約が必要で、火曜から土曜は10時〜17時の開館となっている。入場料は80コルナで、50コルナ追加すれば写真撮影も許可されるようである。
 大司教宮殿の近くはよく通るのだけど、観光客と思しき人々が中に入っていくのを見かけることはほとんど見かけたことがなかったし、中に入っていくときにはたいてい入り口のところに、「ヨーロッパ文化財の日」とか、一般公開される理由だと理解したことが書かれていたから、特別の日だけの公開が続いているものだと思っていた。そういえば数年前に、十年内外かかった大改修工事が終わったというニュースを目にした記憶もあるから、その時期から公開されるようになったという可能性も考えられるのか。

 改修といえば、以前バーツラフ広場にある大司教博物館で働く知人から、相談を受けたことがある。改修工事の際に壁の中に塗りこめられていた象牙細工が大量に発見されたというのだ。それがどうも日本の根付と呼ばれるものらしいので見てほしいと博物館に呼ばれた。日本の昔話をモチーフにしたものが多かったので、その説明をして、作者名が読めるものは読み方を教えたけれども、芸術には疎いので、あまり役に立てなかった。
 そのとき聞いた話では、二十世紀前半の大司教がオリエント趣味の人で、共産党が政権をとったときに、没収されることを警戒して、厳重に封をして誰にも発見されないように壁の中に塗りこんでしまったらしい。それを誰にも告げていなかったために、改修工事の最中に発見されたときには大騒ぎになったと言う。
 現在大司教博物館になっている建物も、二千年代の初頭には、荒れ放題の幽霊屋敷と言われても仕方がないような惨状だったのだ。その前にモーツァルトの記念碑だけがあって荒涼とした印象を強めていた。それが、今では立派な博物館が出来上がっているのだから、隔世の感がある。そう考えると大司教宮殿の中の見学をしてから十五年以上になるわけだから、大司教宮殿のほうも大きく変わっているに違いない。どこかで時間を見つけてもう一度見学してみるべきか。問題は、いつにするかだけど、日本から歴史に興味のある知り合いが来たときにしようか。
4月22日23時。



2017年04月23日

森雅裕について、再び(四月廿日)



 四月に入ってからのブログのページ別のアクセス数を見ていたら、何でこんなページにと言いたくなるページに、たくさんのアクセスがあることに気づいた。一つは、去年の三月か四月にネタがなくなってきたので、備忘録的にあれこれ記入したメモ書きのような記事で、もう一つが、まだブログというものに慣れていなかった頃に書いて、何度か書き直そうと思ったこともある森雅裕についての記事だった。
 なんで今頃になってと不思議に思って検索をかけてみたら、「森雅裕」で検索した一ページ目にこの記事が出てくるのだ。一時期森雅裕情報を求めて覗いていた「 森雅裕を見ませんか 」より先に出てくるのは間違っているような気がする。ただ久しぶりに行ってみたら、2007年以来更新されていないという。そうか更新されないのにがっかりして、閲覧しなくなって存在すら忘れていたわけだ。最後に入手した『トスカのキス』と『雙』の刊行はこのサイトがきっかけだったはずなのだから、いわば恩人の存在を忘れるとは、ヤキが回ったものだ。

 それで、ついでなのでアマゾンの森雅裕の著者ページを見たら、新刊で手に入るものが、最新刊の『高砂コンビニ奮闘記』だけで、他は軒並み中古の本の出品になっていた。最後に出版社から商業出版した小説となると『化粧槍とんぼ切り』になるわけだから、すでに四半世紀以上たっていることになる。仕方がないと言えば言えるのか。復刊ドットコムで2015年に復刊された『モーツァルトは子守唄を歌わない』も『ベートーベンな憂鬱症』もすでに新刊本の取り扱いはないようだし。
 この手のページを見たときに、ついついやってしまうのが、読者が書いた書評を呼んでしまうことで、こんかいも時間がないとおもいつつやってしまった。本の内容について感想を書いている人だけではなく、出版社や編集者とぶつかって仕事が来なくなったとか、干されたとかいうことを書いている人が多いのは、やはり森雅裕の熱心な読者が書いているからだろう。

 ただ、気になったのが、喧嘩した相手として名前が挙がるのがいつでも講談社であることだ。講談社の編集者との確執は有名なところだけど、その前に、この人、横溝正史賞の佳作か何かをもらって出版デビューした角川書店とももめているはずである。
 実は、乱歩賞を取って出版された『モーツァルトは子守唄を歌わない』が、デビュー作だとずっと思いこんでいたのだが、古本屋を巡りに巡ってやっとのことで発見した『画狂人ラプソディー』の「著者の言葉」を読んだら、「この作品でデビューするのが念願だった」とか何とか書いてあってびっくりしたのを覚えている。どうも、出版社側でこの作品を出版するかどうか決めかねていたところ、乱歩賞受賞という話が出てきて、乱歩賞の作品が刊行される前に出版することになったようだ。
 角川書店二冊目の『サーキット・メモリー』には、「本来ならもっと早く出版されるはずだったのだが、諸般の事情で遅れた」というようなことが書かれていた。だから、『歩くと星がこわれる』に出てきたデビュー当時の事情は、講談社だけではなく、角川で出版したときの経験も混ぜられているのではないかと推測する。

 業界暴露本なんて言われることもある『推理小説常習犯』にも、この辺りのことはあまりはっきり書かれていないので推測するしかないわけだけれども。講談社なんてデビューから六冊は毎年一冊以上出版したわけだから、二冊でやめてしまった角川に比べれば、まだましな扱いだったんじゃないだろうか。「期待の大型新人」とか書かかれた作家の本の出版を、作家をやめたわけでもないのに、二冊でやめるというのは、何か特別な事情があったに違いない。

 森雅裕の読者にとって一番ありがたい出版社である中央公論社の場合には、社長一族のやりたい放題で経営が悪化しなければ、もう少し出版し続けてくれたのではないかと思う。噂によれば父親の跡を継ぐことになっていた御曹司の出来が悪くて経営は悪化をたどる一方だったというし、そんな中で、読者を選ぶ森雅裕の小説の出版を続けることは難しくなったのだろう。『推理小説常習犯』では、いきなり手のひらを返されたと書いていたけれども、あの時期の森雅裕の本の刊行状況を見ると、大量に売れる本を出すように求められた編集者が頑張り切れなくなったというのが真相じゃなかろうか。

 出版社にとって、森雅裕の作品の扱いが難しくなる要因の一つは、露骨なまでに実際の事件や、実在の人物などをモデルにしてしまうところだろう。それはそれで一つの作品の作り方だとは思うけれども、そして読者にとっては面白ければいいわけだけれども、出版社の側が二の足を踏んでしまうのも理解できる。フィクションとは断ってあっても、モデルにされた側がそれで納得するとは限らない。
 初めて『サーキット・メモリー』を読んだときには、正直、いいのかこれと思ったしね。だから森雅裕のバイク小説としては、『マン島物語』のほうが安心して読めるのだ。これにも最後のほうに実在の人物をモデルにした人物が出てくるけど、せいぜい狂言回しの脇役だから、気になるというほどではない。

 そういう気になる部分があってなお、森雅裕の小説は、我が人生に欠かせないものになっている。最近ソニーのリーダーを持ち歩くばかりで、紙の本を読む機会が減ったとはいえ、折に触れては読み返してしまうのである。また『モーツァルトは子守唄を歌わない』から読み返しつつ、思い浮かぶことどもを、うまく書けるかどうかはともかく、いずれ書いてみようか。
4月21日18時。









posted by olomou?an at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 森雅裕

2017年04月22日

イースターのこと2(四月十九日)



 一昨日のイースターについての記事を読み返して、最初に書こうと思っていたことが書かれていないことに気づいてしまった。今書いておかないと忘れてしまうのは目に見えているので、前回のも落穂拾い的な内容だったけれども、今回もあれ以上に雑多な内容になりそうである。

 イースター、チェコ語のベリコノツェは、春を呼ぶ、もしくは春が来たことを祝う儀式なのだけど、ときどきとんでもなく寒くなることがある。確かチェコに来て一年目も、暖かくなってやっと春が来たと思って喜んでいたら、イースターの時期に突然冷え込んで雪が降ったのだった。そして雪が残る中、電車に乗って南モラビアの町に出かけたのだ。
 ただ、その年は確かイースターは三月のことでまだ納得できたのだが、今年は珍しく四月のイースターだというのに、イースター前から気温が下がり始めて、今日などオロモウツでも雪がぱらついていた。オロモウツ地方の山間部イェセニークの方では、道路に雪が積もって除雪車が出たり、通行止めになったりしたようだ。つい十日ほど前には、気温が二十五度を超えたと言って、ニュースになっていたのに。

 四月に入って、やっと本当の意味での春が来たと思っていたのだけど、チェコの四月の天気は、「アプリロベー(エイプリルフール)」と言われるだけあって、予想通りにはいかない。去年もなんか同じようなことを書いた記憶があるけれども、去年の四月はここまで上下動がひどくなかったと思う。今年は雨が多いのも去年と違っている。去年は水不足が大きなニュースになっていて、井戸の使用禁止令なんてものを出した地方公共団体もあった。
 それはともかく、できるだけ早く、春に戻ってきてほしいものだ。土曜日には朝早くからプラハに出かける用事もあることだし。

 さて、チェコのイースターは一般的に言って女性の、女の子の、女の子のいる家庭の負担が大きい。男の子たちが、女の子のいる家庭を回って、ポムラスカ(地域によって呼び方が変わる)という柳か何かの若枝を編んで作った棒で、女の子をたたいて、棒の先に色とりどりのリボンを巻いてもらったり、装飾も豊かなイースターの卵をもらったりする。男の子じゃなくて成人している連中の場合には、そこにスリボビツェやウォッカなどの強いお酒が加わることも多い。
 そのイースターの卵について、今年は、ハナー地方では、卵の殻に装飾を描くのはやめて、模様の刺繍されたハンカチと一緒に卵を渡すようになっているというニュースがあった。いつ頃からのことなのかは聞き逃してしまったが、チェコでも肥沃な農耕地帯であるハナー地方では、こういう贅沢が許されたということだろうかと考えてしまった。

 もう一つ興味を引いたニュースが、南ボヘミアのプラハティツェ地方に残っているというイースターの卵を使ったニュースだった。卵合戦と言うと、石合戦のように卵を投げ合うイメージになるから、それではなくて、草相撲とか松葉相撲のように、二人で一対一で戦うものである。ただし引くのではなく、卵をぶつけ合う。攻撃側が上から、卵のちょっととがった先端部分で下の卵をつつく。下の卵が割れたら攻撃側の勝ちで、割れなかったら負けで、勝った方が負けたほうの卵をもらうことになるようだ。
 下で攻撃を受ける側には、を握るコツが、上から攻撃する側にはつつくときの力の入れ方にコツがあるようだけど、一番大切のは先端の部分の殻が厚くて硬くなっている卵を見つけることらしい。モラビアでは見たことも聞いたこともない風習である。ニュースに出てきた人の話では、かつてはボヘミア全体に広がっていた風習で、現在ではプラハティツェとその周辺にしか残っていないので、伝統が消えないように会場を確保して、人を集めて毎年イベントのようにして開催しているのだと言う。

 色鮮やかに装飾された卵が、一部とはいえ、割れてしまうのは、もったいないような気がしてならない。昔お土産にもらったイースターの卵を日本に持って帰ったときに、空港の荷物の扱いが手荒かったのか、開けてみたらひびが入っていて、ものすごくがっかりしたことがあるし。ただ、勝負に勝って相手の卵を手に入れた子供にとっては、そのきずもうれしいものなのかもしれない。
 ところで、対戦相手に勝って集めた卵、どうするんだろう?
4月20日23時。




posted by olomou?an at 06:01| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2017年04月21日

チェコサッカー界の薬物汚染(四月十八日)



 以前、チェコのサッカーリーグ、特に下部リーグを舞台に発覚した八百長事件について、ちょっと書いたことがあるが、今回は現役の代表経験もある選手が麻薬の密売人と密接な関係があったことが発覚した。それも昨シーズン優勝を遂げたプルゼニュの選手、元選手が関係しているというから、問題は大きい。

 もうかなり昔のことになるが、プルゼニュがチェコリーグで優勝して、チャンピオンスリーグの本戦に出場していたときのこと、チャンピオンズリーグの試合の後のドーピングの検査で陽性反応が出た選手がいたというニュースが流れた。陽性反応が出た薬物が、筋肉増強剤などの運動能力を高める薬やその痕跡を消すための薬ではなく、コカインだった覚醒剤だったかの麻薬が検出されたという話だった。
 その選手は、ディフェンスの中心選手だったビストロニュで、二年間の出場停止処分を受けて、チェコサッカーの一部リーグからは姿を消した。その後、出場停止処分が解けた後、オロモウツが二部に落ちたときに、契約して二部で復帰したところまでは知っているが、現在どこのチームでプレーしているのかは知らない。
 ヨーロッパの社会は、麻薬の密売は厳しく取り締まるが、末端の使用者には寛容なところがあって、このビストロニュも、サッカー選手として出場停止処分を受けただけで、特に麻薬の使用で警察の捜査を受けたとかいう話は聞こえてこなかった。

 それで、今回麻薬がらみでスキャンダルになっている選手たちも、本人が麻薬の使用で摘発されたのではなく、摘発された麻薬の密売人の裁判で証人として名前が挙がっているだけである。
 一人は、ヤブロネツで活躍して、トルコを経てプルゼニュで去年の夏までプレーしていたバニェクである。現在はロシアのウファに所属しているのだが、昨シーズンの終盤の時期に、友人である麻薬の売人からコカインなどの麻薬を購入していたと言うことのようだ。逮捕された売人は、麻薬は売ったのではなくてあげたのであって自分もバニェクからもらったことがあると証言しているらしい。警察が売人の携帯電話を盗聴した記録にも登場してくるようだし、バニェクが麻薬を手に入れていたことは確実だと言えそうだ。
 だかららと言って、バニェクが警察の捜査の対象になったり、チームから契約を解消されたりと言うことはなさそうだ。ドーピングの検査で引っかかったわけでもないので、ヨーロッパのカップ戦での出場停止処分もなさそうだし、ロシアリーグでもないだろう。あるとすれば、チェコのサッカー協会が、何らかの罰を科すことだけど、どうなるかな。

 もう一人の事件に巻き込まれた選手は、プルゼニュに移籍して以来伸び悩みの感も強いコピツである。こちらは麻薬を買ったとかもらったとかいう話ではなく、売人に50万コルナ、だから200万円ほどの金を貸したらしい。しかも、知り合ったばかりの相手にである。バニェクの紹介だったからなのか、高い利子をつけるといわれたのか、軽率な行動であることは否定できない。
 こちらも、知人にお金を貸すこと自体は犯罪でもなんでもないので、警察沙汰にもならないだろうし、チームからの処罰もなさそうだ。この辺りのあんまり考えていなさそうなところが、コピツの伸び悩みの原因かもしれない。イフラバで活躍し始めたときは、怪我で成功できなかったけれども彗星のように現れてドイツに買われていったピラシュの後に続くんじゃないかと期待したんだけどなあ。

 この事件を受けてプルゼニュは、昨年秋のヨーロッパのチャンピオンズリーグの予選、ヨーロッパリーグの試合の際のドーピング検査の結果を公表した。UEFAの公式の検査で陽性反応は出ていないのだから、麻薬の常用者はいないということなのだけど、筋肉増強剤などの本来のドーピング用の薬物と比べて、麻薬は体内から使用の痕跡が消えるのが早いので、ドーピング検査を逃れるのは簡単だという話もある。
 プルゼニュは近年毎年のチャンピオンズリーグ、ヨーロッパリーグの最低でも予選には出場しているため、チェコのチームの中では最も頻繁にドーピング検査を受けているチームではあるのだけど、バニェクが麻薬を手に入れたといわれる昨年の五月ごろは、すでにヨーロッパリーグで敗退していたから、ドーピングの検査もなかったはずである。

 この件で、プルゼニュで麻薬の使用が常態化しているとは思いたくないが、イングランドでコカインを購入しようとしてゴシップ誌をにぎわしたチェコ人選手もいたし、麻薬が予想以上にスポーツ選手たちの間に広まっているのかもしれない。ヨーロッパのカップ戦に出場しないチームはドーピングの検査を受けることはほぼないと言うから、よほどのことがない限り発覚することはなさそうだ。酒や賭け事もそうだけれども、薬でせっかくの才能を開花させきらないままに消えていく選手が出てこないことを祈るのみである。
4月19日23時。




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