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2020年10月31日

百二回目の建国記念日(十月廿八日)



 チェコスロバキアが独立したのは、第一次世界大戦直後の1918年のことだった。ただ、独立したといっても当時のチェコの人たちがどこまで実感を持って受け止められたのかは、いささか心もとない。戦争が発生した時点ではオーストリアの一部だったチェコスロバキアは、マサリク大統領たちの国外での活動によって、最終的には戦勝国側に立ったとはいえ、本来は敗戦国で、国土は荒廃し、食料などさまざまな物資の欠乏に悩まされていたという。1918年からの二年は、世界をスペイン風邪の流行が席巻した時代である。現在とは違って医療技術も保険制度も整っていなかったから、感染した場合にしにいたる危険度ははるかに高かったはずだ。

 そして、独立は決まったものの、ポーランド、ハンガリーとの国境が完全に確定しておらず、ポーランドとはチェシーン地方を巡る紛争、いわゆる七日間戦争をおこしているし、ハンガリーとも何度か軍事的な衝突が起こっていたはずである。建国されたチェコスロバキアの国境がほぼ確定するのは1920年になってからのことだったと記憶する。その一方で、チェコスロバキアに取り込まれることがほぼ確定していたドイツ系の住民が、不満を高めていた。国際的にも国内的にも情勢は不穏だったのである。
 さらに、独立の立役者のマサリク大統領も、スロバキアの英雄シュテファーニクも国外から帰国しておらず、主役を欠いた独立の祝典が、どれだけ盛り上がったのだろうか。マサリク大統領のお国入り、つまり独立を達成して初めて帰国し、鉄道でプラハに到着したときの様子は、一昨日紹介したマサリク大統領の伝記にも記されているが、ある意味で、このマサリク大統領のプラハと帰還が、建国時の最大のイベントだったのではないかとも思われる。

 何故こんなことを考えるかというと、今年の建国記念日が、例年とはまったく違って、チェコ各地で行われる式典のほとんどが中止に追い込まれた結果、非常にさびしいものになってしまったからである。大きなものでは、プラハ城前の広場で行なわれる軍の新人の入隊式典も、城内で行われる大統領による勲章授与の式典も、特に後者はゼマン大統領が最後まで実施しようと頑張っていたが、最終的には政府の勧告を受け入れて中止されることになった。この勧告が厚生大臣としてのプリムラ氏の最後の仕事だったのかもしれない。

 中止された授与式の代わりに、ゼマン大統領はテレビで演説をしたのだが、受勲予定者とその家族に対して、式典を中止せざるをえなかったことを謝っていた。ただ、勲章を授与されるような功績を挙げた人は、高齢者であることが多いから、式典が開催されていたとしても、出席できない人もかなりの数に上ったに違いない。その家族も感染させる危険性を考えて出席を回避する可能性も高いし、関係者の中にも開催を望まない人が多かったに違いない。
 今年の受勲対象者については、名前を発表するだけで、実際の授与式典は来年、来年の分の受勲者と同時に開催されることが決まった。その名簿の発表がまた、物議を醸した。ネット上で名簿を公開しただけで、報道機関の中にはその名簿を入手しようとして大統領府の広報部門に連絡したのに、拒否されたなんてところもあるらしい。個人的には、ゼマン大統領の演説の代わりに、テレビで名前と業績を紹介すればよかったのに。最近のゼマン大統領の話って、同じことの繰り返しばかりで聞いていても全く面白くないのである。

 毎年の建国記念日のイベント、勲章の授与式を楽しみにしているなどという気はないが、最近規制ばかりで息が詰まる。スポーツにしても式典にしても、何かのイベントがどこかで行なわれているという事実が、参加しなくてもニュースで目にすることで、精神的な安定をもたらし、安寧な生活を送らせてくれるということに改めて気づかされた。
 来年は、無事に建国記念日の式典が、授与式だけでなく、チェコ各地で行われる小さな式典も含めて問題なく開催されることを願っておく。スペイン風邪の流行が二年続いたことを考えると、来年はまだ難しいかなあ。ワクチンに期待とは言っても、そんなに短期間に作れるものでも、作っていいものでもないから、再来年ということになるかもしれない。
2020年10月29日23時。



どう決着をつければいいのかわからないレベルで大失敗。うーん。






posted by olomou?an at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2020年10月30日

戦前のマサリク大統領(十月廿七日)



 戦前に刊行された単行本としてのマサリク大統領の伝記は、国会図書館で確認できる限り昨日紹介した二冊だけだが、国会図書館のオンライン検索で、当時の一般的な表記である「マサリツク」で検索すると、意外なほど多くのマサリク大統領に関する雑誌の記事や、単行本に収められた文章などが出てくる。残念なのは、インターネット公開されているのは、そのうちの一部の単行本だけで、大半はデジタル化はされているものの、チェコからは中身を確認できないことである。

 最古の確認できる記事は、「マサリック?ヘ授ノ露國革命評——(一九一七年六月五日倫敦「タイムス」所載)」(人名に付された「」は省略)というもので、外務省政務局が編集発行していた「外事彙報」第9号に掲載されている。この号の発行日が目録に記載されていないため正確なことは不明だが、おそらく原典の発表された1917年中には出されたのではないかと思われる。
 共産主義やロシア革命に批判的な立場を取っていたことが、日本の外務省の注意を引いたのかもしれない。これが、日本のシベリア出兵につながったなんて考えると話はできすぎなのだが、どうだろう。シベリアで活動中だったチェコ軍団への援助と帰国の支援の交渉のために、マサリク大統領が日本を訪れたのは1918年のことである。

 その後第一次世界大戦終戦直後のベルサイユ講和会議の期間中に、チェコ軍団や新独立国チェコスロバキアとのかかわりでマサリク大統領に関する記事もいくつか雑誌に登場する。写真を表紙に使った「新公論」の1918年の9月号や、独立宣言とマサリク大統領の書いた「チェック・スロヴァック民族」の翻訳を載せた「外交時報」の同年11月15日号などである。この二つの記事の存在についてはすでに紹介した。
 人物伝としては、これも紹介済みだが、橋口西彦 編『 ヴェルサイユ講和会議列国代表の各名士 』(一橋閣、1919)がある。イギリスのロイド・ジョージやアメリカのウィルソン、日本の西園寺公望など全部で20人の世界中の有力政治家に混じって、マサリク大統領についての章が立てられているのである。ポーランドやハンガリーなどのドイツとソ連の間の中東欧の新規、もしくは再独立国の多かった地域からは他には誰も取り上げられていないことを考えると、評価の高さが見えてくる。

 1920年代になると、戦後の世界情勢を解説する書物の中で、チェコスロバキアを取り上げるなかで、マサリク大統領にもふれるようなタイプのものと、現代の偉人伝、もしくは立志伝的な記事が増えるように見える。
 前者としては、1923年に実業之日本社から刊行された井上秀子『婦人の眼に映じたる世界の新潮流』(「チエツク・スロワキアの部」が立てられ「新建國チエツク・スロワキア」と「マサリツク大統領」という二本の文章が収録)や、1927年に政治教育協会から「政治ライブラリー」の第一巻として刊行された『欧米政界の新潮流』(「チエツコ・スロヴアキア國」という章に、「新興のチエツコ共和國」「マサリツク大統領とベネーシユ外相」「チエツコ・スロヴアキア國の國民的運動とソコル團」が収録)などがあげられる。
 後者としては、「日本及日本人」の1926年12月15日号に掲載された鷺城學人「マサリツク博士——人物評論」や、1928年に中西書房から刊行された早坂二郎『 歴史を創る人々 』に収められた「チエツクの建國者マサリツク」、大阪で刊行されていた雑誌「公民講座」第43号(1928年)に発表された新井誠夫「【偉人の面影】致國獨立の偉人 終身大統領マサリツク」などが挙げられる。最後の例はチェコスロバキアを「致國」と表記している点でも興味深い。

 他にも共産主義とのかかわりでマサリク大統領を取り上げたものなどもあるが、他のどれよりも読んでみたいと思うのが「チェツコ・スロバキヤ大統領マサリツク閣下より日本の少年へ」という「少年倶樂部」の1931年7月号に掲載された記事である。出版社は大日本雄辯會講談社。どういう伝手でマサリク大統領まで話を持っていったのかは知らないが、この会社、本当にたまにいい仕事するんだよなあ。国会図書館が雑誌も古いものはオンラインで公開してくれるようになると最高なのだけど。

 こうしてみると、マサリク大統領は日本では、現在よりも、1920年代から30年代にかけての方が、有名だったようである。考えてみれば大戦間期のチェコスロバキアは、世界有数の工業国だったわけだから、その国の建国の父とされる人物が注目を集めたのは当然だったのかもしれない。
 ところで、最近は見かけなくなった「マサリツク」、もしくは「マサリック」という表記は、1980年代ぐらいまでは使用されていたようである。
2020年10月28日20時。












posted by olomou?an at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2020年10月29日

マサリク大統領伝記(十月廿六日)



 職場でオンライン会議の合間のポッカリ開いた時間に、例の国会図書館のオンライン目録で遊んでいたら、マサリク大統領の伝記を発見してしまった。書名は『トーマス・マサリツク』、著者は岡田忠一、出版社は金星堂、刊行年は昭和5年、つまり1930年である。幸い国会図書館のインターネット公開の対象になっているので、全文PDF化して手に入れた。デジタルコレクションへのリンクは ここ
 このマサリクの伝記は、「世界巨人叢書」という一瞬目を疑うような叢書の第三編として刊行されているが、この叢書は三冊で終了している。ちなみに第一編は『蒋介石』、第二編は『ロイド・ヂヨージ』というラインナップになっている。出版社の金星堂は、1924年にチャペクの『ロボツト』(鈴木善太郎訳)を刊行した出版社で、ウィキペディアによればチェコスロバキアの独立と同じ1918年の創業。戦前は文芸出版に力を入れていたが、現在は語学教科書の刊行で知られているらしい。

 さて、この『トーマス・マサリツク』には、当時の駐日チェコスロバキア公使のK.ハラという人の英文の序文とその日本語訳が掲げられている。その後にある著者本人の序文によれば、金星堂の社主のマサリクの伝記を刊行しようという意図を公使に伝えたところ、大喜びで、さまざまな資料を提供してくれたらしい。中にはチェコ語のものを英訳してくれたものもあるという。著者自身はチェコ語は「うんともすんとも判らぬ」と書いている。
 序文には他にも日本通のポーランド人の仲介でチェコスロバキア関係者と友誼を結ぶようになったことが書かれ、特に建築家たちと親交が深かったようで、「レモンド」(レーモンド)、「ファーレンシユタイン」(フォイエルシュタイン)という日本で活躍したチェコ系の建築家の名前が挙がっている。それどころか、フォイエルシュタインの担当した「舞台装置」の写真をまとめて『ファーレンシユタインの舞台建築』という本まで自費出版してしまったという。残念ながら国会図書館の目録では発見できなかった。チェコの外務省が数十部買い上げたという記述もあるから、日本のチェコ大使館に今でも所蔵されている可能性もある。
 建築家二人は、誰だか同定できたのだが、もう一人序文に固有名詞で登場するシモンという画家が見つけられなかった。シモンというと普通は名前を思い浮かべるのだが、チェコ語の場合には、本来名前として使われるものが、名字としても使われることが多いので、どちらか確定はしにくい。建築家とは違って、チェコの画家には詳しくないのが一番の問題か。

 本の内容は、建国後10年ちょっとで日本ではまだそれほど知られていなかったであろうチェコスロバキアという国についての概説から始まる。チェコスロバキアについて知らなければ、マサリク大統領を知ったことにはならないという著者の判断は正しい。地理的な情報から、産業、文化などについて簡潔にまとめられているが、歴史的な記述が紙数の関係でなされていないのが残念である。
 序文でもそうだったが、気になるのは「チエツコスロバツキア」という想定よりも「ツ」が一つ多い表記と、しばしば、「チエツコ国」「チエツコ共和国」などと後半のスロバキアを省略した表記が登場することである。やはり「チエツコスロバツキア」というのは、繰り返し何度も使用するには長すぎるのだろう。

 本編とも言うべきマサリク大統領の伝記は、「ホドニン」(ホドニーン)で生まれたところから、第一次世界大戦後に独立を達成して、1918年12月に大統領として帰国しプラハで民衆の歓声に迎えられるところまでが描かれている。著者は「結語」で大統領就任後の政策などについても書くべきだがこれも紙数の関係で出来なかったと記しているが、未だその任にあったマサリク大統領の伝記を、大統領就任の時点で終わらせるのは正しいと思う。刊行当時、79歳で大統領として三期目を務めているところであった。
 本の発行日は昭和5年1月20日、二ヶ月ほど刊行を遅らせればマサリク大統領の80歳の誕生日ということになったのだが、金星堂では、世界巨人叢書の続編を計画していたようで、巻末の目録に、第四編として、トルコの『ケマルパシャ』と、ドイツの『ヒンデンブルク』が近刊予定として掲げられている。この二冊は刊行されなかったようで、国会図書館のオンライン目録では存在を確認できない。

 マサリク大統領の伝記の単行本としては、昭和10年に日本社の刊行していた「偉人伝記文庫」の第45号として『マサリツク』が出ている。残念ながらインタネット公開には至っていないので読むことはできない。「偉人伝記文庫」の国会図書館の目録で確認できる最終巻は80巻で、すべて著者は中川重、刊行年は昭和10年というとんでもないシリーズである。
2020年10月27日20時。









posted by olomou?an at 07:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2020年10月28日

ボヘミアの研究2(十月廿五日)



 昨日の続きである。国会図書館のオンライン検索で発見した1910年代に入ってからのボヘミアの用例を紹介する。

 1912年に大阪で刊行された石河武稚訳『 世界国歌集 : 翻訳 』(七成館)に「ボヘミヤ國歌」なるものが掲載されている。当時はまだチェコスロバキア独立以前で、最初は国もないのに国歌とはこれ如何にと思ったのだが、今のチェコの国歌は、独立以前からチェコの人たちに歌い継がれていた民族の歌とでも言うべきもので、独立直後にマサリク大統領の意向で新たに国歌を制定しようとして失敗した結果、国歌として、国歌の前半として採用されたものだと聞いているから、「Kde domov m?j(いずくんぞ我が祖国)」かと思ったら違った。
 楽譜があって、英語の歌詞が記され、その下にカタカナで読み仮名が振られているのだが、余った部分に「意訳」とする翻訳がついている。「いざわれらに美しき望を起さしめよ、/荒れし野山もゆたかにみのらせて」と始まる歌詞はどう見ても今の国歌とは違う。途中に「聖きウェンツエスラレスよ我がボヘミヤの尊き君よ」なんて部分があるから、聖バーツラフ伝説に基づいた歌のようである。戦いに向かうときの歌に見えるから、ブラニークの騎士の伝説の歌かもしれない。チェコでは聞いたことはないけど、そんなに民俗音楽は聞かないからなあ。それに聞いても歌詞が聞き取れないことが多いし。

 日本語のウィキペディアには、「聖バーツラフ」と関連して、「ウェンセスラスはよき王様」という歌が立項されているので、もしかしたらと思って覗いてみたが、ぜんぜん違う歌詞だった。説明を読んでも、何でチェコの守護聖人がイギリスでクリスマス・キャロルの題材になっているのか、さっぱりわからなかったけれども、「ウェンセスラス」とか、「ウェンツエスラレス」とか書かれてもバーツラフだとは思えないのが辛いところである。

 1914年には再び「外交時報」の9月1日付けの第236号に「ボヘミヤの民族鬩爭」という記事が掲載されている。第一次世界大戦の始まったこの年、オーストリアの一部であったボヘミアにおけるチェコ人とドイツ人の民族対立について書くとは目の付け所がいい。この時期にはすでに戦後のチェコスロバキア独立の種は蒔かれていたのである。

 翌1915年には岡島狂花『現代の西洋絵画』(丙午出版社)が「ボヘミヤの絵画」という章を立てている。著者の岡島狂花は詳細不明だが、著作権の処理が済んでいないとかで、国会図書館ではオンラインでの公開を行っていないため中が読めないのが残念である。それにしても誰が取り上げられているのだろう。クプカとかムハかな。チェスキー・クルムロフ関連でシーレなんて可能性もあるのかな。

 また同年の農商務省鉱山局がまとめた『海外諸国炭礦瓦斯炭塵爆発ノ予防規則』の中に、「プラーグ鑛山監督署管内ベーメンニ於ケル石炭礦ノ瓦斯及炭塵爆發豫防ニ關スル鑛業警察規則」(地名の「」は省略)という、恐らく当時のオーストリアの規則の翻訳が収められている。オーストリアの公用語はドイツ語なので、「ベーメン」という名称が使われているのだろう。

 続いて二冊の音楽関係の本がボヘミアを取り上げている。一冊目は1915年に刊行された田辺尚雄『 通俗西洋音楽講話 』(岩波書店)で「ボヘミア」と「ボヘミア楽派」の二章が立てられている。前者は概説的で、後者ではスメタナとドボジャークが重点的に取り上げられている。ズクとフィビッヒという作曲家も現在の作曲家として名前だけは挙げられている。ドボジャークが「ヅボルシャク」と書かれているのは、時代を考えると仕方がないかな。通俗というがいわゆるクラシック音楽の概説書であるのは間違いない。著者の田辺尚雄は、ウィキペディアによれば、東大で物理学を学んで音楽研究に進んだという人物である。

 翌1916年には、富尾木知佳『 西洋音楽史綱 』が、「独乙及ボヘミアの音楽」という章を立て、その末尾にスメタナとドボジャークを紹介している。人名は原則としてドイツ語で表記されており、日本語で書かれる場合にはひらがなが使われている。著者について詳しいことはわからないが、国会図書館の出版社のところに著者名が書かれていることを考えると、私費出版だったのかもしれない。
 この二冊の内容で気づくことは、チェコ第三の作曲家であるヤナーチェクの名前がないことである。この時期にはすでに国内では作曲家としての名声は高めていたはずだが、国外まではそれほど知られていなかったということなのか、モラビアの作曲家なのでボヘミアには入れなかったのか、どちらであろうか。

 注目すべきは大戦も終わる1918年の雑誌「新公論」9月号であろう。「マサリツク博士」の写真を表紙に使った上で、「ボヘミヤ志士の首領」という文章を掲載しているのである。著者は長醒子とあるが、どうも編集者か誰かの変名のように思われる。それはともかく記事の題名が……、マサリク大統領山賊の親分扱いされているのか。オーストリアの官憲から見ると、不逞の志士だったというのは確かなのだろうけど、これでは幕末の京都ではないか。状況は似ているのか?

 最後に1919年のものになるが、「官報」にも触れておく。この時期、チェコスロバキアがオーストリアから分離したため、郵便物などの扱いをどうするかという告示が、逓信省の名で何度か、「官報」に発表されている。面白いのは内容が郵便物にかかわる場合には「ボヘーム」「モラヴィー」という表記が使われ(第616号、5月9日付けなど)、電報にかかわるものは「ボヘミア」「モラビア」という表記になっていること(第628号、5月21日付け)である。国際条約の原文が何語かによる表記の違いだろうか。
2020年10月26日23時。










posted by olomou?an at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2020年10月27日

ボヘミアの研究(十月廿四日)



 武漢風邪の話ばかりだと気がめいるので、久しぶりに国会図書館のオンライン目録を使った調査の結果をまとめておこう。1918年にチェコスロバキアが独立する前は、現在のチェコ共和国全体を一語で表す言葉がなかったため、例外的に民族を表す言葉として「チェック」民族が出てくることはあっても、原則として現在までつながる地域名でしか登場しない。
 チェコの西側のプラハを中心とする地域は、チェコ語では「チェヒ」と呼ばれるが、日本語では英語起源の「ボヘミア」という言葉で呼ばれる。問題はその「チェヒ」が、「チェコ」の語源に当たることで、チェコ語でも本来「チェヒ」から出来た形容詞「チェスキー」が、地名を指す場合でも「チェヒの」、つまりは「ボヘミアの」という意味になることもあれば、現在の「チェコの」という意味になることもある。まあ、地名の「チェヒ」と民族名の「チェシ(単数はチェフ)」のどちらが先かという問題はあるのだけど。

 とまれ、今回はボヘミアを指す言葉が、いつごろから日本の印刷物に現れ始めたのかを調べてみることにしたのである。ただし、例によって、本文検索は出来ないので、雑誌の記事名か、単行本の章の名称に登場している場合しか発見できないのだけど。英語期限の「ボヘミア」「ボヘミヤ」に加えて、ドイツ語起源の「ベーメン」なども検索の対象とした。誤記もありうると考えて、あれこれバリエーションを交えて検索したが、落しがある可能性はある。

 最初の例は、19世紀後半、1986年にまでさかのぼる。東京教育社が刊行していた「教育報知」という雑誌のこの年の6月号(通巻第28号)に、「?ヘ育報知墺國ボヘミア小學?ヘ育博覽會に出づ」という報告記事が載っている。「墺國」はオーストリアを指すのだが、開催地はプラハだったのだろうか。現在ではこの手の博覧会、国際展示会の開催地というとブルノが真っ先に思い浮かぶのだが、ブルノはモラビアである。

 二つ目の例は、十年ちょっとたった1898年のもので、ドイツ語起源の「ベーメン」という表記が使われている。「大日本山林会報」という林学の雑誌の同年4月号(通巻第184号)に、「ベーメン國シエレバッハ市樂器製造用木材」(地名につけられた「」は省略)という中堀幾三?カの記事が掲載されている。問題は、ドイツ語をカタカナ表記したものと思しい「シエレバッハ」が指すチェコの地名がわからないことである。雑誌についても著者についてもよくわからないのだけど。「大日本山林会報」には後にモラビアとシレジアも登場するのだが、それは後のお楽しみである。

 三例目と四例目は、チェコスロバキアのときにも何度か登場した「外交時報」の記事である。まず1902年11月20日付けの第58号に、「歐羅巴とボヘミヤ」という記事が載り、翌年3月20日付けの第62号には「ボヘミヤの國語問題」という記事が載せられている。後者はドイツ語とチェコ語の使用者の混在を取り上げたものであろうか。注目すべきは、初例の「教育報知」が「ボヘミア」という今日と同じ表記を使っていたのが、「ボヘミヤ」という表記に変わっていることである。

 五例目は、1905年1月の「通商月報」第95号に掲載された「ボヘミヤの陶磁器及玻璃工業」になる。ボヘミアの陶器というとカルロビ・バリなどの温泉地で温泉水を飲むために使っている特殊な吸い口のついたものを思い浮かべてしまうのだが、どうなのだろう。この雑誌は大阪の「府立大阪商品陳列所」が刊行していたものである。実際に展示されたものをまとめた雑誌なのだろうか。

 続いて久津見蕨村『無政府主義』(平民書房、1906)という出版社名からしてあれな本に「ボヘミヤの無政府主義」という章が立てられている。単行本なのでオンライン公開されているのだが、抽象的な記述で章自体も短く、ボヘミアで起こったどの運動を指しているのかさっぱりわからない。フス派の運動は無政府主義とみなせるのかなあ? 共産党政権がプロパガンダに活用できたということは、共産主義的な部分がなくはなかったと言うことだから、無政府主義に近いともいえるか。

 以上が1910年以前に登場するボヘミアである。以後音楽や美術の概説書などの一章としてボヘミアが立てられることが増えていく。それについてはまた次回。
2020年10月25日22時。










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2020年10月26日

さすがチェコ(十月廿三日)



 昼ごろだっただろうか、衝撃的なニュースが飛び込んできた。衝撃的ではあったけれども、同時にチェコだからなあとか、きわめてチェコ的だという印象を持ったことは否定できない。鳴り物入りで任命され、武漢風邪の流行を押さえ込むことを期待されたプリムラ厚生大臣が、就任からわずか一ヶ月ほどで解任される可能性が高いというのである。
 原因は、「ブレスク」という夕刊紙が公表した写真にある。その写真は水曜日の深夜に撮影されたもので、プラハのビシェフラットにあるレストランから出てくるプリムラ氏と、ANOのナンバー2であるファルティーネク氏の姿を捉えていた。プリムラ氏に至ってはマスクも着用していなかったのである。

 プリムラ厚生大臣の主導する感染症対策で、レストランは通常の営業を禁止され、持ち帰りようの食事の販売しかできなくなって久しい。それも午後8時までしか許されていないのである。それなのに禁止したはずの厚生大臣が、規則を破って営業していたとしか思えないレストランから深夜に出てくるのはどういうことなのか。それに、屋外でのマスク着用も水曜日の朝から義務化されていたはずである。
 プリムラ氏は、繰り返し人々が武漢風邪を軽く考えるようになって、規制を守らないのが感染症の拡大に歯止めをかけられない最大の原因だと言うのだが、図らずも本人がその実例を示すことになってしまった。深刻な表情で対策を発表していながら、実はそんな対策は不要だと考えていたのか、自らを特別視して自分は規制を守らなくてもいいと考えたのか、いずれにしてもきわめてチェコ的な、チェコの政治家にありがちな振る舞いである。

 この写真の発表を受けて、さすがにバビシュ首相も庇うことはできず、プリムラ氏に辞任を求め、辞任しないなら解任すると最後通牒を突きつけた。朝の時点では辞任の可能性をほのめかしたプリムラ氏が辞任を拒否すると、バビシュ氏はゼマン大統領に解任を求める手続きを取った。しかし、プリムラ氏の任命は即日行ったゼマン大統領だが、今回は即刻の解任を認めず来週の火曜日まで時間を求めた。鍼灸などの中国の伝統的な医療のチェコへの導入の推進役だったプリムラ氏は、中華共産帝国に朝貢するゼマン大統領とは相性がよく、大統領が解任を拒否する可能性もありそうだ。
 バビシュ首相は、すでに後任の人選を進め、候補者とされるブルノの病院の小児病棟の長と交渉を済ませており、来週の木曜日には信任の厚生大臣を発表したいと考えているようである。もともとは即刻解任、即刻任命をもくろんでいたのが、ゼマン大統領の反対にあって計画変更を余儀なくされたのである。対策に遅れが出る可能性もあるけど、できる限り規制の強化をしたところで結果が出るのを待つ時期なのは不幸中の幸いである。

 もう一方の当事者であるファルティーネク氏は、自分の非を認めてANO党の役職、副党首だったかなを辞任した。同時にカルビナー地方で行われることが計画されている全住民の検査の計画について事情を聞いていたのだと説明をした。疑問なのは、どうして水曜日の深夜という時間に、プラハの閉鎖されているはずのレストランで会合を行ったのかということだが、納得のいく説明はなされていない。その後オストラバの病院の院長も同席していることが明らかにされたが、それが深夜の会合の理由になるとは思えない。

 ちなみにプリムラ氏が辞任を拒否している理由は、規制違反は一つもしていないというものである。言い訳を聞いてもレストランの営業については、どう考えているのかよくわからないのだが、マスクを着用していなかった理由については、他の人と2メートル以上はなれていたから問題ないのだという。
 確かに屋外でのマスクについては、人間距離が2メートル以上とれない場合という条件が付いているのだった。しかし、写真を見ると2メートル以内に誰かいるようにも見えるし、人とすれ違う機会の多い街中を歩くときには、瞬間的に周りに人がいなくてもマスクを着用することを勧めるという話もあったはずなんだけどなあ。

 バビシュ首相は、自分が選んだ部下達に足を引っ張られていると思っているのかもしれないが、チェコの武漢風邪流行を軽視する風潮を産んだのは、明らかに夏の政府の無対応だった。バビシュ首相自身、バカンスはチェコ国内でなどというキャンペーンを実施しながら、自分は国外に出かけていたのだから自業自得である。
 それにしても、久しぶりに流石チェコ、やってくれるぜと思わせてくれる事件が起こって、ちょっと嬉しい。
2020年10月24日17時30分









2020年10月25日

ヨーロッパリーグ意味不明(十月廿二日)



 プリムラ厚生大臣の主導する武漢風邪対策の強化によって、中断に追い込まれた国内リーグと違って、ヨーロッパリーグの試合に関しては例外が設けられたおかげで、国内での開催も可能になった。練習も、プロのスポーツチームに限って、屋外であればという条件付で6人以内という規定が撤廃されたので、チェコから出場する3チーム、スラビア、スパルタ、リベレツは、何とか普段と同じような練習を積んでヨーロッパリーグの初戦に臨んだ。
 このうち、スパルタとリベレツが、ホームで、つまりチェコ国内での試合で、それぞれフランスのリールと、ベルギーのゲントと対戦し、スラビアは、チェコと同様武漢風邪の流行が大変なことになっているイスラエルで、ハポエル・ベア・シェバと対戦した。結果は、リベレツだけが勝って、ほかの2チームは負けたのだけど、この負けた2試合に関して、冗談だろうといいたくなる事態が起こった。

 最初に試合に臨んだのはスラビアだった。対戦相手のイスラエルのチームは、ヨーロッパリーグの予選でプルゼニュを破ったチームである。プルゼニュの方が、試合全体を通して優勢だったらしいのだが、試合開始直後のミスから与えたPKを決められて、同点に追いつけないまま負けた。スラビアも、こちらは前半終了間際に、ディフェンスとキーパーが譲り合いをするという信じられないミスから失点した。一度は同点に追いついたものの、ミスから失点を重ねて、1−3で負けた。
 結果だけを見たときには、トルピショフスキー監督の神通力も切れてきたのかなと思ったのだが、その監督のインタビューを読んで目を疑った。ハポエル・ベア・シェバ側では、感染の検査で陽性だった選手が、2人先発で出場し、1人は控え選手としてベンチに座り、同じく陽性だった監督もベンチから支持を送っていたらしい。

 そもそも、チェコ以前に国全体の閉鎖に踏み切ったのがイスラエルである。規制はチェコよりも厳しいと思っていたのだが、そんなことはなかったようだ。イスラエルの保健所の判断で、これらの陽性の監督と選手は、すでに長期間陽性であり続けているので、他の人を感染させる可能性は低いということで、試合に出場、もしくは監督としてベンチに入ることが許されたのだとか。
 これって、UEFAの、検査を繰り返して陰性の選手だけで試合を行うという規定に違反していないのか? そんな規定はないと言われればそれまでだけど、感染者が相手チームで出場していることが期にならない選手はいないと思うんだけどなあ。スラビアが終始優勢に試合を進め、山のようなチャンスを作りながら1点しか取れなかったのが敗因であるのは間違いないけれども、釈然としないものがのこる。
 当該国の保健所の判断に従うという規定があったのは覚えているけれども、その国の規制が常軌を脱している場合には、UEFAの規定が優先されるべきではないのか。最近イスラエルでチェコ代表が試合を行った際に、検査を繰り返して陰性の選手だけでチームを作って出場したのが馬鹿らしくなってしまう。症状も出てないし、陽性になって一週間、二週間たったから試合に出られるというのでは、しっかり対策をとっているから、試合を行うこと自体は感染のリスクを上昇させないという、プロスポーツの開催を支える論理が崩壊してしまう。

 一般の人に関しては、仮に無症状であっても、検査で二回連続陰性にならないと完治したと認められないことになっていて、それまでは隔離状態におかれることになっている。いや、それだけでなく、陽性になった人だけではなく、陽性の人と接触があって感染の疑いがもたれる人にも、隔離の指示が出されることになっているのである。それなのにスポーツ選手だけは、陽性の判定が出ても例外的に隔離されないというのでは話にあわない。それともイスラエルでは陽性になっても一定期間たてば、隔離から開放されることになっているのだろうか。
 アメリカのトランプ大統領も感染した際に、同じように陰性になる前に退院してホワイトハウスにもどって、職務というか、選挙運動を再開させていたから、スポーツ選手だけというわけではないのだろうが、感染後何日目からは感染力がなくなるとかいう客観的な研究結果があるのかね。とまれ、今回の件に関しては、トルピショフスキーのこれでは何のために検査をするのかわからないという言葉がすべてを物語っている。スラビアの選手たちにも心理的な影響はあったはずだし……。

 もう一つの、スパルタの試合のほうは、一言で言えば、審判がひどすぎたというのに尽きる。判定基準が不安定で、試合を決めるような大事な判定がすべてスパルタに不利になるものだった。フランスリーグで首位を走るチーム相手にスパルタは奮闘したのだけど、審判がこれでは勝ちようはない。退場者を出しながら一度は同点に追いついただけでもよくやったと言いたくなる試合だった。
 スコットランドでの代表の試合の審判も、今回ほどではなかったけど決してほめられた出来ではなかったし、最近、国際試合の審判のレベルが落ちているような気もする。チェコのチームの不利にならなければ文句を言うつもりはないのだけど、最近チェコのチームは審判に恵まれていないんだよなあ。ビデオ審判に慣れてしまって、なしでは判定が安定しないなんていう問題もあるのかもしれない。

 まあ、リベレツが、キーパーのベトナム系チェコ人の選手のおかげで、何とか勝ったから最悪の木曜日にはならずにすんだ。スラビアか、リベレツのどちらか1チームだけでも、グループステージを勝ち抜けるといいのだけど。スパルタは、リールだけではなく、イタリアリーグで首位のACミランも同組だから勝ち抜けは無理だろうし。
2020年10月23日23時。













2020年10月24日

最悪の結果が……(十月廿一日)



 プリムラ厚生大臣が就任して以来、矢継ぎ早に規制が強化されてきてはいるものの、感染の拡大を止められないでいるチェコでは、更なる規制の強化がうわさされていた。最近は政治家達が、日本と同様ロックダウンなる外来語を使い始め、バビシュ首相はロックダウンだけはしないといい続けてきた。それで、毎回以上に長引いて記者会見が予定よりも何時間も遅れて始まることが多いのを揶揄して、実質ロックダウンだけと、ロックダウンといわなくても言いように、どんな別の表現を使うか話し合っているのだろうなんて冗談もとんでいる。
 ここ数週間の新規感染者数の傾向を見ると次のようになっている。週末は検査自体が少なめになるので、患者数も平日よりもはるかに少なくなり、週末でも金曜の残りのある土曜日と比べると日曜日の方がかなり少ない。月曜日は増えるけれども土曜日と近いレベルで火曜日以降ほど多くはなく、日曜と月曜日だけでなく、月曜日と火曜日の間にも大きな差がある。そして火曜日以降は少しずつ増えて金曜日に一週間で最高の数値を記録する。

 今週の月曜日の新規感染者の数は、8000人を越えており、先週の金曜日の数字に比べると少ないとはいえ、月曜日としては過去最高だった。それで急遽政府の話し合いが持たれ、水曜日からマスクの着用が屋外でも義務付けられることになった。そして、月曜日から大きく増えることが予想される火曜日の結果が出る水曜日の朝に、新たな対策、規制を発表することになっていた。
 当初の予定では午前9時半から発表が始まるはずだったのだが、当然その時間が守られることはなく、昼食時にテレビをつけたら12時15分からの予定に変更されていた。これもまた遅れて、実際に発表が始まったのは、12時半を回っていただろうか。バビシュ首相はしばしば長時間仕事をしているという理由で閣僚を称賛し、会議が長いことを自画自賛するけれども、なかなか結論が出ないままずるずる続く会議なんて時間の無駄でしかない。

 ようやく始まった記者会見も、最初にバビシュ首相が話し始めたのだが、正直時間の無駄でしかなかった。決定に至った状況の説明など、最初に結論を言ってからすればいいのに、延々現在の状況やらこれまでの状況やらの説明、昨日までに何度も繰り返したことをさらに繰り返し、唯一新しいことがあったとすれば、それは昨日までしないといっていて申し訳ないという謝罪があったことぐらいである。それも具体的に何をしないと言っていたかまでは言わなかったので、いわゆるロックダウンかなあと推測するほかなかった。
 笑えるのは、いや、ふざけるなと思うのは、このバビシュ首相が延々と言い訳を並べていた時点で、すでにプリムラ厚生大臣がツイッターで新たな規制の内容を発表していたことである。正直、政府の情報をツイッターで垂れ流すような政治家は信用に値しないと思っているのだが、これを規準にするとアメリカのトランプ大統領筆頭に世界は信用に値しない政治家だらけになってしまう。たかだか一企業の提供するプラットフォームを、政治家が情報を垂れ流すことによって優遇するというのは許されるのかね。個人的な感想なり何なりならかまわないと思うけどさ。

 とまれ、プリムラ厚生大臣の発表した明日木曜日の朝から適用される新たな規制は、予想された中でも最も厳しいもので、春の一番規制が厳しかった頃と同等のものとなった。違いは国境の封鎖が行われないことぐらいである。つまりスーパー、食料品店、薬屋、薬局など生きていくため必要なものを取り扱う店を除いてすべての小売店が閉鎖され、不要な外出も禁止される。散歩は可能だが、街をぶらつくのは禁止で公園などに出かける必要があるようだ。
 個人的には、春とは違って職場が出勤を禁じていないので、運動不足解消もかねて、ほぼ毎日行われるオンラインミーティングには職場のPCから参加するつもりである。自宅のインターネットは職場ほど安定しておらず、ズームの画面が固まったりこちらの声が聞こえなかったりすることが多くてストレスがたまるのである。

 バビシュ政権が来年の総選挙で政権を維持できるかどうかは、この規制をクリスマスの準備が始まる11月の終わりまでに解除できるかどうかにかかっているような気もする。チェコの人たちが1年で最も多く買い物をするクリスマス前の時期に、小売店の営業が再開できていなかったら、恐らく廃業が続出してANOの支持者も激減するに違いないと予想しておく。次は海賊党政権かなあ。ちょっと早すぎる気もするけど。
2020年10月22日24時30分。




プリムラ大臣は就任1ヶ月ほどで解任される見通しとなっている。詳細は金曜日の分で。流石チェコだぜと久しぶりに思ってしまった。






2020年10月23日

馬鹿者どもが(十月廿日)



 武漢風邪の流行拡大が洒落にならない領域に入り始めて、政府では次々に規制を導入しているのだが、感染者の数が多い上に、感染者一人当たり何人に感染させるかを示すR指数が、1を越えているため、一日辺りの新規感染者数の増加が止まらない。R指数自体は最悪だった時期に比べると多少はよくなっているのだけど、政府が目標とする0.8以下には程遠い。
 感染者の増加とともに、恐らく割合的には変わらないのだろうが、入院を必要とする患者、集中治療室に入る患者、亡くなる人の数も急増中で、当然医療関係者の感染も増えており、医療現場からは悲鳴が上がり始めている。そのため軍を使って臨時の野戦病院的な入院病棟の準備も始まっている。春もそうだったけれども、軍の人たち、便利屋的に人手が足りないところにまわされて大活躍である。

 そんな状況で、政府の規制強化に反対するデモがプラハで行われた。主催者によれば、現在の状況は危機的でもなんでもなく、政府が国民の管理を強化するためにでっち上げた大嘘で、規制など必要ないとかいうのだったかな。春は比較的政府の言うことを正しいと認めて、規制を守る人が多かったのだが、国民の間に政府不信が広まり、政府のいう規制は守らなくてもいいという考えが広まっているようだ。それが対策の効果を下げているめんもある。
 ただ、政府不信に関しては、完全に政府の自業自得で、夏のバカンスシーズンに、ほぼ完全に規制を撤廃してしまい、感染者が再度増加に転じても、何の問題もないとして全く対策を打たなかったのがいけないのである。チェコの感染症対策で最悪なのは、両極端に走りがちなところで、夏の間も一部の規制を残しておけば、人々の警戒心も残って、ここまでひどいことにはならなかったと思う。

 プラハで行われたデモには、サッカーやアイスホッケーのリーグ戦が中断に追い込まれたことを不満とする自称ファン達も押し寄せた。旧市街広場で行なわれた抗議集会の主催者達は、集団を20人ずつに分けるという政府の規制を守らせるために地面に線を引いてグループ分けをしようとしていたようだが、そんなのをファン達が守るわけがなく、開始早々すべての参加者が入り混じった状態になった。
 マスクを着用していない人たちもかなりいた上に、デモの参加人数の上限である500人をはるかに越える人が集まっているのは明白で、警察はデモの中止を主催者に命令した。何度か繰り返された後にデモ自体は終了が宣言されたのだが、集まった連中が素直に解散して自宅に戻るはずもなく、解散させようとする監視の警官ともめ始め、やがて暴動と化した。アメリカのデモと称する暴動ほどひどいことにはならなかったが、数人の警官が負傷して病院に運ばれ、暴動鎮圧のための部隊が出場して、結局150人ほどのデモ参加者、いや暴徒が警察に拘束されたという。

 その中には、当然のように、オストラバからわざわざプラハまで出かけて参加した、悪名高きバニーク・オストラバのファンたちもいた。サッカーリーグの試合を禁止するからこんなことになるのだ。この連中、社会のことに興味があって規制強化に反対しているわけじゃないのだ。サッカーさえあたえておけば、それが無観客だったとしても、ここまで騒動を起すことはなかったはずである。
 サッカーの1部リーグなんて、特にヨーロッパリーグに出るようなチームになると、選手たちをホテルにほぼ監禁した上で練習、試合に臨ませているし、全てのチームで、最低でも毎週一回選手たちに検査を受けさせて陽性者は即刻隔離し、陰性の選手も念のためすぐに再検査をするという、考えうるかぎり最上の対策を講じた上でリーグ戦を開催してきたのである。
 政府が国民に科した規制よりも厳しい対策をとっているのだから、サッカーの一部リーグだけでも継続させておけばよかったのに。例外はよくないといいつつ、オストラバで行われているテニス大会や、ブルノで行われた格闘技の大会には例外的に開催の許可を与えているのだから、正直理解不能である。

 今後も政府の対応が、場当たり的なものに終始する限り、国民の政府不信はなくならないだろう。その結果規制を守らない人もあまり減らずに、最悪の結果になりかねない。ちょっと鬱になりそうである。
2020年10月21日22時。












posted by olomou?an at 06:52| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2020年10月22日

チェコサッカー界の浄化(十月十九日)



 チェコのサッカー界にとっていい意味で衝撃的なニュースが飛び込んできたのは、週末のことだった。去年だったか一昨年だったかのサッカー協会の現職の会長だったペルタ氏が、汚職の疑いで逮捕されたというニュースも衝撃だったが、今回の事件の方が衝撃の度合いは大きいかもしれない。副会長でチェコサッカー界の陰の権力者と言われているベルブル氏が逮捕されたというのだ。
 これまでもさまざまな疑惑で名前が挙がり、チェコサッカー界の汚点、この人物が協会の要職についている間は、サッカー界の改善はありえないとまで言われてきた人物が逮捕されたのである。これまで逮捕されないまでも、失脚しないのか不思議でならなかったのだが、遂に警察が動いたというか、逮捕に必要な証拠を固めることに成功したということだろう。内偵自体は以前から続けていたに違いないのだし。

 サッカー界でベルブル氏の評判が最悪なのは、一つには審判部を支配下において、どの審判にどの試合を担当させるか、ひいては試合結果に影響を及ぼしていると考えられているからである。プルゼニュ地方のサッカー協会の支配者でもあるので、当然プルゼニュのチームとの結びつきが強く、ベルブル氏が審判を支配するようになってからは、プルゼニュ有利の判定が増えたと言われている。プルゼニュがもらったPKととられたPKの差なんてことを調べている人もいたなあ。
 以前は、スパルタ有利の判定が問題にされることが多かったのだが、かつてのスパルタや、現在のプルゼニュ、スラビアのような毎年優勝を争うチームと、万年下位のチームの試合の場合には、どうしても上位チーム有利の判定をしがちだという面があるのは確かなので、怪しい判定のうちどの程度が意図的なものなのかはわからないけれども、それだけでは説明のつかないことが多いというのが、サッカーの専門家の話である。他にも残留争いで上位チーム有利の判定が続出するとか、入れ替え戦で2部のチームが勝てないような判定をするとか、怪しいといわれていたケースはいくつもある。

 今回、ベルブル氏とともに逮捕された20人のうちの半分以上が審判だったというのが、その審判支配の強さを見せ付けている。ただ一部リーグの主審として活躍している人よりは、下部リーグの審判が多く、今回の容疑の一つは、賭けで儲けるために、審判を使って下部リーグにおける試合結果を操作したというものである。スロバキアで大スキャンダルになった選手たちの八百長行為は、アジアのマフィアが賭けで儲けるために仕組んだものだったが、チェコではサッカー協会の人間が自分たちが儲けるために、審判を使ったらしいのである。
 サッカーというスポーツでは、選手を1人、2人買収しても、試合に出場しないことも考えられるし、変なプレーばかりしていると途中で交代させられる可能性も高くなるから、お金をはらった側が満足する結果をもたらすのは難しい。チーム全体を買収するなら話は別だけれども、かかるお金も大きくなるし、何より発覚の可能性が高くなる。そう考えると審判を使うというのは、いつでも完璧にうまくいくというわけではないだろうが、効率がよさそうである。

 もう一つの容疑の中心は、今シーズンから2部リーグに昇格したプラハのビシェフラットのチームである。これまで聞いたことがなかったようなチームが2部に上がってくるのは、ないことではないのだけど、その昇格のしかたには疑うべきところがあったようだ。逮捕されたのはクラブの会長で、すでに別件で摘発されそうになったのを逃れた過去があるという。
 いや、この人だけでなく逮捕された人たちのほとんどが、過去に問題を起こして処罰を受けたことがある。そういう連中を集めてサッカー界から追放されないように庇護していたのがベルブル氏ということになるのか。その見返りに不正に協力させられていたのか、自主的に協力していたのか。摘発された審判の中には、プルゼニュがチャンピオンズリーグに出たときに、イタリアでの試合に連れて行ってもらったなんて人もいるから、今回の件がプルゼニュにどう影響を与えるかも心配である。

 ところで、ベルブル氏について語るなら、2人の人物にも触れないわけにはいかない。1人は、チェコの1部リーグで女性として初めて主審を務め、女子ワールドカップなどでも活躍したダムコバー氏である。この人、一時は、ペルタ氏に対抗してサッカー協会の会長選挙に出馬すると言い出して、サッカー界の浄化を求める一部の人たちから、ジャンヌダルク扱いをされていたのだが、いつの間にか、ベルブル氏のパートナーに納まっていた。元審判で、UEFAだかFIFAだかの審判関係の部署で仕事をしたりもしていたのだけど、チェコでの評判は地に落ちている。
 もう1人は、元スパルタの選手で代表監督のホバネツ氏である。この人もいつの間にはベルブル氏の片腕となっていて、一時ポーランドの元審判が招聘されていた時期を除いて、審判部の部長を務めている。選手やサッカー記者などの中には、ルールを完全に把握できていないなどと批判されることもあったが、この人が上にいることで怪しい審判が守られていたという面もあるのだろう。今回のベルブル氏逮捕を受けて、多くの審判が摘発されたこともあって、審判部の部長から解任されたようである。

 今後は、サッカー協会からベルブル一派が消えることになるのだろう。以前から問題を指摘してきた人たちが改革を進めることになるのか、第二のベルブルが出てきてまた同じことの繰り返しになるのか注目である。まあサッカー協会を私物化したのはベルブル氏が初めてというわけではないので、繰り返しになりそうだけど、少しはましになると信じたい。
2020年10月20日23時30分。












タグ: サッカー 汚職
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