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2018年05月10日
2018年05月09日
Uni?ov(五月六日)
2018年05月07日
Litovel写真2(五月四日)
2018年05月06日
2018年05月05日
2018年05月04日
出仮文(五月一日)
五月
一日、依有所労、不能書日紀、出仮文、明日又不能書者、可尋前例、
一日、依有所労、不能書日紀、出仮文、明日又不能書者、可尋前例、
2018年05月03日
終わらなかった……(四月卅日)
道長の和歌3
それはともかく、では道長がどんな歌を日記に残したのかを紹介しておこう。
寛弘元年二月六日
若菜摘む春日の原に雪降れば心遣いを今日さへぞ遣る
寛弘元年二月六日
三笠山雪や積らんと思ふ間に空に心の通ひけるかな
長和四年十月廿五日
老いぬとも知る人無くばいたづらに谷の松とぞ年を積ままし
長和六年三月四日
木のもとに我は来にけり桜花春の心ぞいとど開ける
しばらくお休みするかも。いや多分する。
それはともかく、では道長がどんな歌を日記に残したのかを紹介しておこう。
寛弘元年二月六日
若菜摘む春日の原に雪降れば心遣いを今日さへぞ遣る
寛弘元年二月六日
三笠山雪や積らんと思ふ間に空に心の通ひけるかな
長和四年十月廿五日
老いぬとも知る人無くばいたづらに谷の松とぞ年を積ままし
長和六年三月四日
木のもとに我は来にけり桜花春の心ぞいとど開ける
しばらくお休みするかも。いや多分する。
2018年05月02日
道長の和歌2(四月廿九日)
承前
そして、晶子によれば、この歌を誤解して後世に大きな影響を与えたのは、江戸時代の儒学を学んだ歴史家たちらしい。それを今でも信じている人が道長を悪く言うのだとお冠である。その儒学的な解釈の出所としては『大日本史』が挙げられている。
『大日本史』については、史料大成版の『小右記』の改題で矢野太郎も触れている。それによれば、『大日本史』には実資はこの歌を憎んで、詭弁を弄して返歌をしなかったと書かれているようである。それが、時代とともに、歌を憎んで日記に記録したなんて解釈になっていったのだろう。『小右記』を読む限り、詭弁を弄したとしても、歌が詠めなかったからであって、道長の歌を憎んだからではないと思うけどなあ。
それはともかく、この歌を評価するのにこれだけの背景では中途半端なので、もう少し広く当時の道長に関する状況を見てみよう。政治的には、この年の二月には前年の十二月に就任した太政大臣を辞任しているから、当時の道長は、息子の摂政頼通を通して権力、もしくは政権に対する大きな影響力を持っていたが、官職には就いていなかった。太政大臣も孫に当たる後一条天皇の元服の儀式のために就任したというから、前年の三月に摂政の地位を頼通に譲って以来、政治的に責任のある立場にはなかったと言ってもいい。
それよりも大事なのは、道長の健康状態である。『小右記』や『御堂関白記』にはこちらが驚くほどの頻度で道長が病気になったという記事が現れるが、二年前の長和五年五月十一日の『小右記』の記事から、道長は糖尿病に苦しんでいたと推測されているから、慢性的に病気の状態でよくなったり悪くなったりを繰り返していたのだろう。「此の世をば」の歌が読まれた宴席の翌日の十月十七日の記事にも、道長が最近目が見えないと愚痴をこぼしたことが記されている。
病気に苦しむ日々の中で、十月十六日の出来事は、久しぶりに病気を忘れて喜べる出来事だったに違いない。そんな喜びが爆発したのが「この世をば」の歌だったのではないかと思えてくる。ここは道長が実資に事前に準備した歌じゃないと言っているのを信じてそんな解釈をしておきたい。
そうすると、人によっては傲慢の象徴と取りかねない「この世をば我が世とぞ思ふ」の部分も、一家三后のもたらすこれからのことではなく、今現在の酒宴の中で感じたものであって、病気がぶり返せばそんなものは吹き飛ばされるに決まっている。となれば、「望月の欠けたることもなしと思へば」も現状に対する認識ではなく、この喜びの瞬間が続いてくれればという願望が現れたものだと思えてくる。病気になる前の過去を振り返っての言葉と解釈してもいいけど、いつまで戻れば道長が本当に健康だった時代になるのかよくわからない。
つまり、「この世をば」の歌は、道長の栄華や権力の象徴としてだけではなく、病苦にさいなまれる引退した老政治家が、病苦をを忘れさせてくれるような嬉しい出来事に、喜びのあまり詠んだ歌だとしても解釈できるのである。どちらの解釈が正しいかなんてことはどうでもいいことで、むしろ問題は、政治家としての道長をあまり評価しない人が、この歌に道長の傲慢さを読み取ろうとする傾向のあることである。こんな酔狂の果ての和歌を通して歴史上の人物を評価するのは、いかがなものかと思われてしまう。
では、道長自身がこの歌をどのように扱っているかというと、『小右記』にしか記録されていないと言われることからもわかるように、道長の日記『御堂関白記』には、この日の立后、その後の酒宴の記事はあるけれども、歌を詠んだというだけで、歌自体は記録されていないのである。道長は実資と違ってこまごまとしたことは日記に書かないのだが、この日の記事は道長にしては長々と書かれており、道長が書こうと思えば書くことはできたはずである。
道長は和歌は日記に書かないのかというとそんなこともなく、四首の和歌が確認できる。そうすると、「誇りたる歌」とは言ったものの、道長にとってはそれほど重要な意味を持つ歌にはならなかったとも考えられる。酔っぱらっていて忘れてしまったとか、後で実資あたりに聞いて書き入れようと思っていたけど聞くのを忘れたとか、あれこれ想像もできるけれども、酔いがさめて改めて読んでみたら大した歌には思えなくなったから日記に書くのもやめたというのが一番ありそうである。だから、歌集にも取られることなく、ただ記録魔の実資の日記にだけ残されたと。
だったら、与謝野晶子の高評価やら、これまでグダグダ書いてきた歌の解釈はどうなるんだってことにもなるけれども、和歌などの文学作品は世に出た時点で、作者の手を離れ文学的な評価は読者の物になるのだと答えておく。あくまでも文学的な評価であって、歴史的な評価ではない。そんな和歌を一首を元に歴史像を作り出そうってのが無茶だといえば無茶なのである。
2018年30日24時。
2018年05月01日
道長の和歌1(四月廿八日)
道長の和歌というと、例の『小右記』の寛仁二年十月十六日条に記されることで後世に伝わった「此の世をば」の歌が有名である。中学校高校の歴史の教科書、資料集なんかでも、道長の栄華や権力の強さを物語る歌として紹介されているから、覚えている人も多いだろう。中には、この道長の歌を、道長の傲慢さの象徴として教えられた人もいるかもしれない。ひどい人になると、実資は道長を批判するためにこの歌を日記に記録したんだなんてことを言うのだけれども、根拠はどこにあるのだろうか。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
変体仮名を普通のかなにして読みやすいように表記を改めると、件の歌はこんな形になる。最初の疑問は、歌が詠まれた状況を何も知らずに、この歌を読んだとき、栄華とか権力、傲慢さなんてものが感じられるだろうか。「この世をば我が世とぞ思ふ」といったところに傲慢さを感じる人がいるのかもしれないが、自分が何か大きなことを成し遂げた歓びの中にいるときには、このぐらいのことは感じてもいいような気がするし、和歌の句としてはすんなり入ってきて、特に気にはならない。背景を抜きにしてこの歌を読めば、何かものすごくいいことがあって、その歓喜びの中で作った歌なのだろうと解釈してしまう。
問題は、この歌が、道長の三番目の娘が中宮になり、太皇太后、皇太后、中宮といういわゆる三后がみな道長の娘になるという立后の儀式が終わった後の酒宴で詠まれた歌だということである。それで、「一家三后」という未曾有の栄華に有頂天になった道長の傲慢さが現れたものだと理解する人が出るのである。そして、こんな傲慢極まりない歌を、道長を批判し続けた実資が日記に記したのは、批判のために違いないと短絡する。
『小右記』のこの日の記事の酒宴の部分を細かく読むと、道長がかなり出来上がっていることがわかる。突然酒盃を掲げて摂政の頼道の頭の上に持っていって、おそらく酒を頼道に頭にかけようとしたのだろうが、頼道に逃げられると今度は、左大臣、右大臣のほうに向かう。そのとき室内の宴席は膳などあれこれ置かれていて動きにくかったのか、一度庭に下りてから移動するということまでしている。実資は、「已に其の道無し」とか書いているけれども、これは批判というよりは、もうむちゃくちゃだよというあきらめの気持ちのように見える。実資も酔っ払ってあれこれやらかしているから、この程度のことで道長を批判したりはできないのである。
そしてまた、道長が冗談で実資に、「我が子に酒を与えよ」なんてことを言って杯がまた巡り始めたり、褒美のことを話したりした後に、道長が実資を呼び出して読んで聞かせたのがこの歌なのである。酔っ払ってぐだぐだの頭で思いついた歌が、すごく感じられたので、思わず自慢するように「誇りたる歌」だといったというのが真相のようにも見える。
実資は、歌に「和す(返歌をする)」と約束しておきながら、酔っ払った頭で即興では作れなかったこともあるのだろう、道長の歌を「御歌優美なり」と絶賛した上で、白居易と元?の故事まで持ち出して、出席していた公卿全員で道長の歌を唱和することを申し出ている。道長も実資の絶賛に満足したのか、あえて実資に和歌を作らせることもなかった。実資がどこまで本気で道長の歌を高く評価したのかはわからないが、実資も酔っ払っていただろうから、ものすごくいい歌に聞こえた可能性もある。
こう書くと道長の「此の世をば」の歌が大してよくない歌だと考えていると思われるかもしれないが、個人的には、この歌、喜びが満ち溢れてくるような気がして結構好きである。ちなみに道長ファンの与謝野晶子は、この歌を大絶賛している。日本古典全集版の『御堂関白記』(1926刊)末尾に寄せられた晶子の「御堂関白歌集のあとに」という文章によれば、問題になりそうな「この世をば我が世とぞ思ふ」の部分は、和歌の修辞上の誇張表現であって、これを道長の傲慢さの表れだと考えるのは、和歌を理解する能力がないからだということになる。「御堂関白歌集のあとに」というのは、世に流布する歌集『御堂関白集』には道長以外の歌がたくさん入っているので、あれこれ資料を当たって新たに編んだ『御堂関白歌集』の解説として書かれたものだからである。
晶子は、ついでに実資批判、実資のいとこの公任批判までしてしまう。実資については有職故実についてしか知らない詩人でもなんでもない奴にこの歌のすばらしさがわかるもんかと言いたげな書き振りである。公任は、当代一の歌人として認められていたわけだが、晶子によれば、「此の世をば」の歌と比べられるようなすばらしい歌は一首も作れていないのだという。実資が詩人ではないというのにはもろ手を挙げて賛成するけれども、公任にはいいとばっちりだと言うほかない。
再び自転車操業になりつつあるので以下次号。
2018年4月29日24時