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2019年02月28日
モスト(二月廿六日)
チェコ語でモストというと二つの意味がある。一つはカレル橋を「Karl?v most」というように一般名詞としての橋で、もう一つは最初の文字を大文字で書くモスト、つまり固有名詞としての地名のモストである。モストという町は、プラハから北西、ドイツとの国境をなすクルシュネー・ホリと呼ばれる山脈の麓にある。隣接するリトビーノフとともに石炭の採掘で知られた工業の町である。
今、思い返すと、なつかしの『マスター・キートン』の珍しくチェコが舞台になった回で登場したモストフという町が、このモストをモデルにしたものだった。クルシュネー・ホリの山林が酸性雨によって壊滅状態だったとか、大気汚染で呼吸器の病気にかかる人が多いとか。共産主義時代に町を牛耳っていた人物が革命後も権力を握り続けているとか、90年代前半のこの辺りのことがしっかり調べられていた。サーキットがあるってのもあったなあ。
不思議なのはなんで実際の地名のモストを使わなかったのかということで、モストフのモデルがモストだと気づいたときには、誰か中途半端な知識を持つ人が、チェコの地名は「オフ」で終わるんだとか適当なことを言った結果かと思ったのだが、あまりよくない意味で登場していたから、実際の町の名前を使用するのははばかられたのかもしれない。有名な町であればともかく、モストなんかほとんど誰も知らなかっただろうし。
モストやリトビーノフの辺りで採掘されているのは、石炭とはいっても燃焼効率のあまり高くない褐炭と呼ばれるもので、採掘の方法は露天掘りである。露天掘りができるから褐炭の採掘が採算が取れているのだろう。ただ、露天掘りをするということは、石炭の鉱脈の上にあるものは採掘のために破壊されなければならないということである。
このモストという町は、1960年代に共産党政権によって石炭の採掘の拡大が決定された際に、完全に破壊され、少し離れた場所に移転させられたらしい。先日テレビで当時のモストのことを扱った番組をちらっと見たのだが、映画監督にとっては、天国だったと言っている人がいた。すべての建物が破壊されることが決まっていたから、爆破、破壊のし放題で、ソ連やアメリカなどから映画の撮影班が次々にモストを訪れて、建物を破壊していたらしい。具体的にどの映画がモストで撮影されたかについては言及されなかったのが残念である。
数年前にはモストの近くの小さな町が、石炭の採掘が継続された場合には、モストと同じ運命をたどりそうだということで大きな話題になっていたのだが、現時点では町を破壊してまで採掘することはないだろうという決定で、炭鉱会社の採掘予定地の拡大の求めは政府によって却下されていた。
モストとリトビーノフの周辺は、一時期は露天掘りで石炭を掘りつくした部分が放置されていたので、火星のようだといわれるような景観を作り出していたのだが、その後炭鉱跡地の緑化が進められ、露天掘りの後の大きな穴が人造湖として整備されたことで、景観が一変している。そういう場所を案内してくれる観光ツアーもあるらしい。
ではどうしてテレビでモストに関する番組を報道していたかというと、それは「モスト!」という多分いい意味でとんでもないテレビドラマが放送され、チェコ中で話題になっているからである。モストやリトビーノフの辺りに対しては、ロマ人の住み着いた崩壊寸前の団地があって、ロマ人とチェコ人の関係が悪化して、人種差別的な極右勢力が台頭しているなんて固定概念があるのだけど、それを逆手にとって作成されたコメディで、これモストの人嫌がるだろうなあという場面が多い。モストの人でも気に入っている人は多いらしいんだけどね。
うちのは毎週熱心に見ているのだけど、しばしば「ティ・ボレ」なんて普段は使わない言葉を漏らしているから、とんでもないシーンが多いんだろうなあ。見たいような見たくないような複雑な気分である。
2019年2月26日24時。
2019年02月27日
チェコで日本文学を考える(二月廿五日)
とりあえず、いきなりこんなテーマで文章を書くことにした理由について触れておこう。アメリカからチェコに流れてきたらしい日本人研究者(何の研究者かは知らない)が、チェコには日本文学研究がないとか何とかこいていたという話を、プラハの知人から漏れ聞いて、むかっ腹を立てたのが動機である。チェコという国が、人口の少ない小国であり、冷戦期には東側陣営に属して日本との交流も限られていたことを考えると、チェコの日本文学研究は盛んだといっていい。研究者の数自体は当然多くないから、どうしてもカバーできる範囲には限りができてしまうけど。
さて、本題に入る前に、文学作品の翻訳、特に作品の書かれた言語からの翻訳は、作品研究、作家研究の成果であることを確認しておこう。英語の娯楽作品などで、ほぼ機械的に翻訳されて出版されていくものや、英語版からの重訳などはともかく、チェコ語や日本語のような特殊な言葉で書かれた文学作品の翻訳は、研究者が自分の研究さ対象とする作家の作品を研究の一環として翻訳することが多い。
チェコ文学の日本語訳をその傍証としてもいいだろう。翻訳者の大半は、チェコ語、もしくはチェコ文学の研究者だし、翻訳につけられた訳注も多い。特に日本で最初のチェコ文学の翻訳者と言ってもよさそうな栗栖継氏の翻訳など、本文と変わらないほどの分量があるものもある。訳注に頼りすぎる翻訳も良し悪しだとは思うけれども、作品研究の結果を盛り込みたい訳者の気持ちもわからなくはない。
オロモウツに来てパラツキー大学の図書館の日本文学のコーナーで驚いたのは、意外なほど多くの作品がチェコ語に翻訳されていることで、漱石の作品があるのは当然としても、その中には、日本でもすでに忘れられたような作家の作品の翻訳もあった。知り合いに梅崎春生の小説がすばらしいと言われ、感想を求められたときには恥ずかしながらその作家自体を知らないと応えるしかなかった。
高校大学時代の一番純文学の作品を読んでいた時期に、なくなった作家の作品は読まないなんて縛りで読むべき作品を探していたから、戦後すぐに亡くなったらしい梅崎春生の作品を読んだことがないのは当然としても、情けなかったのはチェコ語にまで翻訳されるような作品を生み出した作家の名前すら知らなかったことである。古典が専門だったとはいえ、文学科にいたんだけどなあ。図書館には日本語の本も結構入っていたのだけど梅崎春生のものは残念ながらなかった。
それから、確か翻訳者が収録作品を決めたという戦前の作品のアンソロジーに、岩野泡鳴なんかの作品が入っているのにも驚いた。共産主義の国だったわけだから、プロレタリア文学ばかりが称揚されるものだと思っていたし、確かに小林多喜二や徳川直なんかの作品は重要視されていたけれども、戦前の日本文学がプロレタリア文学だけではなかったことがわかっていなければ、共産主義体制の中で岩野泡鳴なんかの作品をわざわざアンソロジーに入れたりはしないだろう。
泡鳴の作品だったかどうかは正確に覚えていないのだが、アンソロジーに収録された作家の作品が入った日本語の本が図書館にあったので、読んでみてびっくり。現代の小説同様に言文一致が徹底された文体だったのだ。明治期の文学革新運動の中で出てきた言文一致の考え方が、大正から昭和の初めにかけてここまで浸透していたとは思いもしなかった。
大学時代の畏友が、日本文学の言文一致は、最終的に赤川次郎によって成し遂げられたという説を唱えていて、それに同調していたのだけど、実は一度到達していた高みから戦争の影響で落ちて、言文一致のレベルを再度引き上げたのが赤川次郎だったといったほうがよさそうだ。1970年代だと漫画でも吹き出しの中のせりふが、「したんだ」というような場合でも「したのだ」になっていて、小説の会話文は推して知るべしだったのだが、これでも言文一致が進んだ結果だと思い込んでいた。それが、実は先祖がえりだったわけだ。
小説の言文一致という点では、赤川次郎が会話文の中で徹底し、一人称小説の字の文でもかなり話し口調に近づけるような工夫をしていたと思うが、それをさらに徹底して一人称の語りまで、完全に話し言葉にしてしまったのが、高千穂遙の「ダーティペア」シリーズと、久美沙織の「丘の家のミッキー」シリーズだった。その良し悪しはともかく、二人ともSF出身の作家であるのがなんとも象徴的である。
なんてことを、チェコの日本文学研究の成果である翻訳のアンソロジーをきっかけにして考えたのだ。日本にいたら、特に熱心な近現代文学の読者ではなかったから、こんなところまで考えることはなかっただろう。これもまたチェコの日本文学研究の恩恵というべきであろう。
2019年2月27日24時。
2019年02月26日
名字の話女性形(二月廿四日)
ちょっと時間がおしているので、簡単に書けて短くまとめられそうな話を探していたら、昨日のバーバという名字が男性の名字で、その女性形はバーボバーになるという話を書いたので思い出した。まだ名字の女性形について、正確には男性形の名字から女性形の名字の作り方を書いていなかった。先に例外的なことから書いておくと、チェコの名字の中にも男性形と女性形が同じものもないわけではないのだ。
最初は、一番多い例だが、男性の名詞が子音、短母音「a」か「o」で終わる場合は、女性形の末尾は「-ová」になる。子音で終わる男性名詞にはそのままつけ、母音で終わるものには、末尾の母音を取り去ってからつける。だから、日本人の名字の場合でも「a」で終わるもには、このルールが適用されることがある。タナカさんの、奥さんと娘さんはタナコバーさんになってしまうのである。
日本人の名字を扱う上で気をつけなければならないのは、長母音「ó」で終わるものである。かなで書くと「オウ」だけど、発音は「オー」に等しく、ヘボン式のローマ字でも最近は長音記号をつけないことが多いから、ローマ字で書くと「o」になる。その結果、サトーさんがサトさんになり、その奥さんたちはサトバーさんになってしまうのである。
これで気づいた人がいるかもしれないけど、サトバーさん、「サト婆さん」に聞こえない? チェコ語の名字の中には、いくつか女性形にすると女性の名前に「婆さん」をつけたように聞こえるものがあるのである。耳で聞いて一番びっくりしたのが、つづりも男性形もよくわからないのだけど、「美穂子婆さん」で、チェコ語だと「Michoková」になるのかなあ。男性形は「Michok」か「Michoka」か。ただし、三つともワードの校正機能で赤線が引かれているから、本来はチェコ語の名字ではないのかも知れない。
そうなると、ちょっと母音の長短はあるけど、ハナークさんの奥さんが「花子婆さん」になるというのが一番いい例だろうか。本当は「Hanáková」だから、「ハナーコ婆さん」なんだけど、ちょっと短くするぐらいは許されるだろう。これは自分で気づいたのではなくて、ある日系企業のかたがたが使っていた冗談である。何でも本人にまで伝わってしまって使えなくなったのだとか。探せば他にも日本人の名前になりそうな「婆さん」がいるとは思うのだけど、誰か探してみない?
閑話休題
二つ目は、形容詞硬変化形の名詞で、男性形の語尾は「-ý」だが、女性形は「-á」となる。格変化も名詞でありながら形容詞と同じになる。オロモウツの大学に名前が冠されているパラツキーの奥さんはパラツカーさんだったわけだ。コメンスカーとか、ロシツカーとか聞きなれていないせいか、どれも違和感があるのだけど、去年のオリンピックで金メダルを取ったレデツカーはさすがに耳に馴染んできたなあ。
三つ目は形容詞軟変化型の名字で、これは男性形と女性形が同じになる。ただし、格変化は男性と女性で異なるので注意が必要である。よく聞くこの形の名字としてはクレイチーがある。ただこれは仕立て屋を意味する名詞になってしまっているから、女性の名字としては女性の仕立て屋を意味するクレイチョバーという形を使うことも多い。でも、男性の形が長母音「í」で終わっている場合には、女性も例外的に同じ形になると考えて問題ないはずである。
最後の一番特別なのが名詞の、特に人名の複数二格が名字になっている場合である。この場合は男性形と女性形が同じであるだけでなく、格変化も全く同じである。男性形も女性形も格変化させようがないからさ。一番有名なのは作曲家のマルティヌーだろうか。これはマルティンの複数二格が名字になったものである。他にもヤンからヤヌー、ヤネクからヤンクーなんて名字ができあがる。
チェコの女性の名詞というのは「オバー」で終わるのが原則だけど、例外もあるのだということで、今日はお仕舞い。
2019年2月25日23時30分。
2019年02月25日
baba nebo bába〈私的チェコ語辞典〉(二月廿三日)
辞典で「ba」のあとに出てくる言葉が、この「baba」もしくは「bába」である。意味は「老婦人」「老婆」というのが上がっている。日本語の印象からすると、きれいな丁寧な言葉で普通に使ってもよさそうな感じだが、チェコでは、モラビアだけかもしれないけど、あまりいい意味では使われていないのだ。
よく聞くのが「Ta baba」という表現で、意味としては「あの女」なのだろうけど、もともとの言葉の意味から「あのばばあ」的に響く。日本語でも女性に対する悪口として、若い女性に対しても使われるように、チェコ語でも若い女性のことをこの言葉で指すことがある。いわゆる「nadávka」ほど汚い言葉ではないけれどもあまり気軽に使わないほうがいい言葉の一つである。
女性が、仲間の女性たちに「みんな」という意味で、「baby」なんて呼びかけるのはいいのだろうけど、これを男性がやると起こられそうな気もする。女性がいないところで、男性が「baby」といって女性たちのことを指すことはありそうだけど。男性が、仲間の男たち全員に呼びかけるときには、「kluci」「hoši」というどちらかというと若い男を意味する言葉を使うことが多いのに、女性は若い女の子を指す「d?v?ata」「holky」だけでなく、老婆を指す「baby」をも使う辺りチェコ語の特徴のひとつなのかなあ。
ところで、自分の祖母ではなくても、老婆をさして言うときには、「babi?ka」を使うことが多い。考えてみれば、この「babi?ka」は「baba」の指小形ではないのか。ただ、「d?d/d?da」と指小形の「d?de?ek」は、使う状況に違いがあるとはいえ、どちらも祖父、お祖父さんの意味で使えるのに対して、「baba/bába」を祖母の意味で使うのは聞いたことがない。これも言葉のイメージが悪いほうに偏っている傍証と言っていいか。
それに、「Je?ibaba」なんて派生した言葉もある。これは昔話に出てくる悪い魔女を指す言葉である。魔法使いを指す言葉なら、「?arod?j(男)」「?arod?jnice(女)」という言葉があって、男の場合には悪い魔法使いでも「je?id?da」なんて言葉はなく、「?arod?j」を使うと思うのだけど、女性の魔法使いで特に性格がゆがんでいて見てくれも醜い登場人物を「Je?ibaba」と呼ぶ。ちょっと日本語の「ヤマンバ」とイメージの重なる言葉である。「ヤマンジジ」なんて言葉がないのも重なるしって日本のヤマンバは魔法は使えないんだったか。
この「baba/bába」から造られる形容詞は「babí」で、使用例としては「babí léto」ぐらいしか知らない。これは一般には「小春日和」と訳される表現である。確か坂田靖子の漫画『バジル氏の優雅な生活』に、「貴婦人の夏」とかいうどこぞの言葉で小春日和を意味する表現を題名にした話があった。それは、貴族の夫人が、夫と愛人の間の息子を復讐のために誘惑した挙句に、それをばらして殺させるというなんとも救いのない話だったと記憶する。
それに対して、チェコの小春日和、「Babí léto」は映画である。「babí」と言いながら、最初のうち目立っているのは老夫婦の夫のほう。いい年して詐欺師まがいのいたずらをするのが唯一の人生の楽しみみたいなとんでもない爺さんで、長年連れ添った奥さんに散々迷惑をかけた結果、愛想をつかされて離婚を切り出されてしまう。もちろんこれですんなり離婚したらチェコの映画にはならないわけで、最後には夫のいたずらのない生活の退屈さに気づいた奥さんが戻ってきて、今度は二人で大きないたずらを仕掛けるというお話。二人でお金持ちのふりをして、お城を買いたいと言って仲介の不動産屋に案内させるのだが、これ冒頭で爺さんが一人でやって失敗したいたずらで、それを最後に二人でやろうとするのである。
なんだか、変な方向に話が向かってしまったので、最後にもう一度「bába」に戻ろう。実はこの言葉は名字になっていて、ヤロスラフ・バーバなんて人がいるわけだ。女性形は「Bábová」になるので、「bába」が名字になるのは男性だけ。チェコ語はやっぱりちょっと変な言葉である。
ここ二日更新が遅れているのは土曜日の酒のせい。そろそろ平常運転に戻りたいところである。