ザーブジェフの街も、ウヘルスキー・ブロトほどではないが上り坂の町だった。モラフスカー・サーザバ川がモラビアとボヘミアの境界の山地を抜けてモラバ川沿いの平地に出てくるところにできた街は駅の側から入ると緩やかな上り坂だが、モラフスカー・サーザバ川沿いの谷間からは急斜面を登らなければならない。
ザーブジェフの領主として最初に知られているのは、トゥンクル家である。トゥンクル家では街の周囲にいくつもの池を作り、漁業を街の産業に育てたらしい。それでトゥンクル家の紋章には魚があしらわれている。その紋章は町の役所になっている城館の中庭への通りぬけになっているところと、博物館に石造りのものが飾られていた。博物館のものには説明として、ブルニーチコのトゥンクル家の紋章と書かれていたので、質問したら、トゥンクル家はザーブジェフ領とともに、近くのブルニーチコの城を手に入れ、ブルニーチコのトゥンクル家と名乗っていたのだという。ブルニーチコはザーブジェフから歩いてもいけなくはないようだけど、城跡しかないということなので炎天下に足を伸ばすのは諦めた。
トゥンクル家の後にザーブジェフを手に入れたのは、ボスコビツェ家で、このあたりのモラフスカー・サーザバ川沿いの自然を好み、ザーブジェフに滞在することの多かったボスコビツェ家の領主の手によって、城館が整備されたららしい。その後、ザーブジェフはジェロティーン家のベレンに譲られた。
この人物は、兄弟団を庇護し、コメンスキーを支援したことで知られる親戚の老カレルが、非カトリックでありながら、カトリックとの融和を模索していたのに対抗するように、急進的な反カトリックの立場を取り、モラビアのプロテスタント諸侯を糾合して、ボヘミアにおける貴族の反乱に加わらせた。つまり、ジェロティーン家の没落の原因を作った人物で、ビーラー・ホラの戦いの後、ザーブジェフはブジェツラフなどと同様にリヒテンシュテイン家の手に落ちてしまう。
国外のプロテスタント諸侯の援助を当てにして、激情に駆られるままに短絡的に勝ち目のない戦いに乗り出したボヘミアやモラビアの非カトリック諸侯の自業自得という面はあるにしても、宗教戦争を利用して濡れ手で粟のようにモラビア各地に所領を獲得したという印象を受けるリヒテンシュテイン家には、好感を持ちにくい。シュンペルクではオロモウツの司教と組んで、ボブリクの魔女裁判で儲けたみたいだし。
さて、ザーブジェフの小さな博物館では、エスキモー・ウェルツルの展示だけでなく、コメンスキーに関する展示もあるのに驚かされた。何でこんなところでと不思議だったのだが、コメンスキーの最初の奥さんがこの街の出身だというのである。それどころか、博物館の入っている建物で生まれ育ったとか書いてあったような気もする。
この人、名字がビーゾフスカーなので、ズリーンの奥のスリボビツェで有名なビーゾビツェの人だとばかり思っていた。家の発祥の地がビーゾビツェだったとしても(そんな情報はないけど)、子孫が住み続けているとは限らないのだった。何でも父親がザーブジェフで兄弟団関係の仕事をしていたらしい。ただし、コメンスキーとこのビーゾフスカーが出会ったのは、南モラビアの、これもジェロティーン家の所領だったトシェビーチだということなので、コメンスキーがザーブジェフ訪れたかどうかはわからない。博物館の人に聞いてみればよかった。
博物館には、二人の結婚に際しての契約の内容についての説明があって、それによると、妻は、夫の所有する本については一切の権利を持たないということになっていたらしい。触らせない読ませないなんてことではなかったのだろうけど、コメンスキーはチェコ語で言うところのクニホモルだったようだ。今の日本語でいうと活字中毒者というところかな。ちょっと親近感がわいてしまう。
夫の側からだけ条件をつけるというわけにはいかなかったようで、同様に夫は、妻の所有する、「ぺジー」と書かれていたから布団なんかの寝具だろうか、に関しては一切の権利を持たないとされていたらしい。寝心地のいい布団を持っていたということだろうから、裕福な家庭の出だったのだろうか、なんてことを考えてしまった。
思いがけない場所で、思いがけない人物の足跡に触れるというのも、このご時勢にわざわざ現地に足を運ぶ意味なのだろう。ちなみに昨日のエスキモー・ウェルツルに関しては、自分のことをチェコ人、もしくはモラビア人だとみなしていたという記事を見つけた。ドイツ語もチェコ語も両方とも使えたようである。
2019年8月9日22時。
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